「痛い」
痛いのである。霊夢は頬を押さえていた。頬が痛いのではなく、頬の裏側にある歯が痛い。
水に染みる。冷たいものに染みる。そうでなくても痛みは時々波のように引いたり押し寄せたり。
特に何かを食べるとずきずき痛む。
「あー、これって」
「虫歯かしらね」
振り返ると、スキマから紫が顔をだしていた。
「勝手に部屋に入ってこない」
「あら、私はあなたのためを思って、ここにいるのですわ」
「へえ、じゃあ虫歯でも治してくれるわけ?」
「治療は私の専門ではないわ。治すなら永遠亭にでも行くのね」
「気合で治るわよ」
「無精者ねぇ。歯痛は通常、耐え難いものなのよ。その昔偉い人が歯痛に耐えながらまつりごとをおこなっていたのだけど、部下が戦争しましょうかと問いかけて、イライラのあまりに、ついそうすると答えちゃったこともあるらしいわ。敵味方あわせて三万人ぐらい死にました。それはそれはバカらしい話ですわ」
「これぐらいの痛み、グレイズをゾリゾリしてるときと同じようなものよ。むしろ気持ちいいぐらいだわ」
「でも、その様子では説得力がないですわ」
紫がツイと扇子で指し示したのは、食べ散らかされたおゆはんである。
まだほとんど手をつけていない。食べるたびにギリギリと痛むので、なかなか食べる気にならないのだ。まず手が動かない。痛みを我慢しながら食べるのはおいしくないし、おいしくない食事をしたくないというのが霊夢の心境である。
「お茶も満足に飲めないんじゃなくて?」
「そうね。でもしょうがないじゃない。歯が痛いんだもの」
「じゃあ、治療に行ってきなさい」
「いやよ。ドリルで削ったりするんでしょ」
「こわがりねぇ。なんでも治す薬を作ってくれるお医者様がいるじゃないの」
「いくらふんだくられるのか、わかったものじゃないわ」
「けれど、私はここにいるわけです」
「ん? なにが言いたいの」
「あなたのために薬を少しばかり分けていただいてきたのです」
「へぇ。気がきくじゃない。紫にしては。……ていうか、それだと治療に行ってこいと言った意味ないわね」
「形式的な会話です。人間には必要なことでしょう?」
霊夢は少し呆れ気味。
しかし、紫はあいかわらず不敵な笑みをこぼしているのみだ。
右手を少し伸ばして、小さな小瓶を見せた。陶磁器製で小さいおちょこのような感じだが、コルクで栓がしてある。手のひらサイズのそれを霊夢のほうへと放った。
ポスンと音もなく、小瓶は霊夢の手のひらに収まった。
「飲み薬?」
「珍しいでしょう。ただし――、こういうふうに飲み薬で治すのは虫歯の治し方としては邪道です」
「邪道も王道も関係ないわよ。治りゃいいのよ、治りゃ」
「邪道には、それなりのツケがあるということですわ」
「へぇ。どんな」
「一週間ほど絶食」
「無理」霊夢はぶんぶんと頭を横に振った。「人間が一週間も絶食するなんて絶対無理だから」
「偉いお坊さんとかはわりとしてるものですわ。たとえば、どこぞのお寺の人たちとかね」
「うら若き乙女に何をさせるのよ。そんなの骨と皮だらけの人がやるもんでしょ」
「ま、そう言うとは思いました。でも、その点に関しては、暫定的な対策を考えてきました」
「対策? またあんた、変なこと考えてるんじゃないでしょうね」
「変? そうですわね。妖怪は常道にして『変』であることは認めます」
「あー、もう、そういう持ってまわった言い方が嫌いなのよ。ちゃっちゃと説明する」
「説明しましょう。なんのことはないのです。私の胃とあなたの胃をつなげます」
「うえ。やめてよ。気持ち悪い」
「率直な物言いは、あなたの持ち味でもあるのだけど、少しは熟慮ということを覚えたほうがいいわね」
「そんなにゆったりした言い方だと、すぐおばあちゃんになっちゃうのよ」
「可塑性の問題ですわね。人間はすぐに変わります。妖怪はさほど変わりません。その差でしょう。人間と妖怪が、このように言葉を交わせることだけでも奇跡的なことなんですのよ」
「だからって、ベタベタしてくるのだけはやめて欲しいけどね」
「けれど――」紫の姿が掻き消える。「その様子では弾幕ごっこにも支障がでかねない」
霊夢が振り向くと、紫はすぐ背後に立っていた。
扇子の先で、頬のあたりをそっと触る。
痛みを感じるほどではなかったが、そのように触られる距離まで近づかれたのは、ひとえに霊夢の集中力が途切れていたからだ。
「弾幕ごっこは集中力が命。いまのあなたはチルノのアイシクルフォール(EASY)ですら避けられないでしょうよ」
「う……」
普段はほとんど動じない霊夢も、紫の言葉には少しばかりたじろいだ。
確かに最近、処々の動きに精細さを欠く。
空を飛んでるときも、洗濯ものをたたんでいるときも、落ち葉をかきわけているときですら、いまいちどこか非現実的な感覚がつきまとっているのだ。歯痛が過剰に現実的な感覚を与えてしまって、その痛みにすべての感覚が支配されてしまうような。
けっして耐え切れない痛みではないものの、つきまとってくるような鈍痛にはさすがの霊夢でも神経をすりきらしているのであった。
いま弾幕ごっこをしたら負けそうである。
「少し考えてみなさい。食べないで済むのならそれに越したことはないでしょう」
「つなげるってどうすんの」
「私が何かを食べます。そうするとあなたの胃に直接、その内容物の一部が送られるわけです」
「急におなかが膨れるって感じでいいの」
「そうですわね」
「味とかは?」
「味は舌で感じるものですわ。胃をつなげるだけだから、味わうことはできません」
「ふうん。そんな生活がずっと続くんじゃ気が狂うわね」
「とはいえ――たかが、一週間程度、博麗の巫女としての職責を十全に果たすためにはやってもらわないと困りますわ」
「わかったわよ。やりゃいいんでしょ」
「霊夢。政治とは胃に食べ物を詰め込むことなのですよ」
紫はゆったりと笑い、そして霊夢は意味がよくわからなかった。
それから二日ほど経った。
魔理沙が神社にやってきて言うには、いま紫のつながるストマックらしきものが話題の中心らしい。
「ストマックって何?」
「胃ってことらしい」
「ふうん。胃ねぇ」
「というかさ。霊夢もいま繋がってるわけだよな。どんな感じなんだ」
「どんな感じっていわれてもね。紫ってああ見えて結構律儀な性格なのか。毎日ほとんど同じ時間に食べているようね。胃が膨れる時間が同じだもの」
「へぇ。なんかおもしろいな」
「どこがよ。てか、なんで人里でも同じようなことしてるわけ。歯痛い人ってそんなにいるの?」
「さぁな。たぶんあれだよ。紫以外にも胃をつなげる人は多いほうがいいじゃんか。紫がいなくても他の人が食べてくれるんなら自分自身は食べなくていいわけだろ。毎日食べれる人間ばかりじゃないんだぜ?」
「毎日食べまくってる妖怪ばかりだから気づかなかったわ」
「霊夢は妖怪に好かれまくってるからな」
「あんただって似たようなもんじゃない」
「私は違うぜ。妖怪と仲良くするといろいろとお得なだけだぜ」
「魔理沙らしいわ。まったく――」
とはいえ。
気になるところではある。
異変というかこれは胃変にあたるのではないかと、わずかながら思わないでもない。紫は妖怪の賢者であるが、人間にとって有利であるからという理由で、妖怪退治をしないというわけにはいかない。そこには言葉にしがたいプロ意識のようなものがあって、もしも異変にあたるなら例外なく紫を退治する。
霊夢は頭の中で冷静に考える。
例外を設けること、平等に取り扱わないこと。
これらは霊夢の規範からすれば悪だ。
妖怪退治に例外はいらない。妖怪であれば退治する。そうすることが絶対的な博麗の巫女としてのあり方なのである。
ただ――人間側の総体的な同意があるのなら、それは問題とはならない。博麗の巫女は人間の名代というか、人里の人間の委託をうけて妖怪退治を請け負っているわけであるから、人間がまったく妖怪退治を望まないのなら、妖怪を退治することはできない。
あくまで、そこは契約的で機械的な関係である。
「まあ――、ちょっと調べる必要はあるかしら」
「どうでもいいと思うがな」
「食べなくてもいいから、けっこう暇なのよ」
人里に到着。
とりあえず人間と妖怪の両面を知っている者は限られている。慧音のもとに向かった。
「つながるストマックがいま話題みたいじゃない」
「そうだな」
慧音の顔には少しばかり暗い影が差していた。
「なに? どうかしたの」
「いや。紫殿の思想が少しばかり垣間見えたような気がしてな。不安な面もあるんだよ」
「紫のことだから、きっと何も考えてないわよ。わりと突発的な思いつきに違いないわ」
「もしかすると彼女は人間の数を増やすつもりなのかもしれないなぁ」
「どうやって?」
「そりゃ決まっているだろう。あまり死なないようにして、だ」
「人間なんてすぐ死ぬじゃない。紫基準だと」
「だからこそというのもあるんだろうな。妖怪基準だと基本的に長い目で見ることができる。人間というものを総体的に組織的に見れるんだろう。紫殿の思想は簡単だ。人間はインフラであるという思想だよ」
「インフラ?」
「社会の基盤という考え方だ」
慧音が黒板に三角形を書いた。
「ピラミッドという。まあこういうふうに図解すると誤解を生むかもしれないが、人間はあたりまえのように土台に来る。食物的に考えても人間の肉を食べる妖怪は多いし、人間の精神を糧にしている妖怪も多い。食べられる者は土台として支えるためにある程度多くなければならない」
「千人ぐらいしかいないんじゃなかったっけ」
「いまは試験運用のつもりなのかもしれないな。ただこのところ妖怪の数が増えているだろう」
「それは――そうね。結界が取捨選別しているみたい」
「浸透圧のようなものだな」
「……そうね」
浸透圧の意味がよくわからなかったが、説明が面倒くさそうなので霊夢は黙っていた。
「ともかく、妖怪の数が増えるということはピラミッドの頂点部分が増えるということだ。そうなると、人間の数はもっともっと増えなければならないということになる」
「図解してもらって悪いんだけど、人里では人間を食べてはいけないことになってなかったかしら」
「建前ではそうだが、人里以外で食人してはならないというわけではないし、そこに人間がいるというだけで、妖怪にとってはずいぶん心安い状況だ。なにしろ妖怪はなかなか死なないからな。飢えて死ぬためには長い年月がかかる。一週間ほど絶食しただけで死にそうになる人間とはわけが違う」
「要するに少ないチャンスを狙ってるってわけね」
「そういうことだよ」
「で、それが何の問題があるの? 人間が増えるなら別にいいじゃない」
「紫殿の思想にはどこか人間を組織としてしか考えてないところがある」
「いや、それは言いすぎじゃない? だって――」
「いやもちろん私の分析に過ぎないよ。そう考えてはないかもしれない。けれど、胃をつなげるのは人間を増やす思想であることは確かだ。無理に増やす必要があるからそうしようとしていると捉えても不合理とはいえないだろう」
「でも、よくわからないわね。胃をつなげて人間が増えるのかしら」
「というより、増やすために胃をつなげる必要があるということなのかもしれないな」
慧音の言葉には微妙な含みがあった。
「つまり――、こういうことだ。人間がこれから十倍、百倍と増えるとする。そうなると、どうしても不可避的な事象がいくつかでてくるだろう」
「どんなこと?」
「ひとつに政治。いろいろな取り決めを集約する機関が必要になってくる。もう一つは、貧富の差がでてくるな。今も職業の差によって貧富の差はあるがそこまで致命的とはいえない。しかし人間の数が増えれば、富めるところはますます富み、飢えるところはますます飢えることになる。偏りがでてくるんだよ」
「人数が増えるとカオスになるのは宴会を見ていればだいたいわかるわ」
「そういうことだな。人が増えるということはそれだけ大変なことなんだよ。だから今のうちに試験的な運用をしているということなんだろうな」
「胃をつなげるだけでうまくいくの?」
「さぁ。わからないな。ただ、政治というのは胃を満たすことだからな」
「紫も同じようなことを言ってたわね。どういうことかわからないんだけど」
「政治というのは胃を満たすこと。というのは、つまり個人の幸福度にはあまり頓着しないということだよ。もちろん幸福度が一定以上下がりすぎると政府を転覆しようという運動が起こるから、その点にも着目していないわけではないのだが、極限的なモデルにおいては、政治というのは結局のところご飯を配給するシステムに過ぎないということだ。人間は朝、昼、晩の三回に分けてご飯を消費する。それにあわせて誰も食いっぱぐれないようにする。これが政治の目的であり、必要にして十分な条件だということだよ」
「へぇ。じゃあ紫のやり方もそれほど悪くなさそうね」
「そうだな。一面においては必要なことだろうな。胃をつなげるということは、飢える人を無くそうという考え方だろう。悪くはないし、まちがってもいない。のだが――」
慧音は下を向いて、畳を見つめた。
「やっぱり何か問題が?」
「ん。いや、そういう考え方を推し進めると人間の自尊心を傷つけるような気がする」
「自尊心って?」
「自分の手で作り出してきたものを消費しているという誇りだよ」
「食べれば同じじゃない。胃の中に消えていくもんに偉いも偉くないもないわよ」
「それはまあそうだがな」
「それに、仲良くやっていくって方策なんでしょ」
「仲良くやっていくのはいい。食べ物を分かち合うのは人間の美徳ではあるのだが、あまりにも容易い。そこが危険だと言える」
「うーん。そうかしら。そういや――、魔理沙が言ってたんだけど、人里って毎日ご飯が食べられない人とかいるの?」
「いるな」
霊夢にとっては意外な事実だった。
それなりに豊かな土地柄であり、神の恩寵を受けている土地である。わずかな人口しかいない人里にそういった貧富の差が生まれているのが、驚きだった。
「どうして? それこそ飢えてる人には分け合えばいいじゃない」
「まあ、少し言いにくいが、人里にも当然、規律を乱すものはいるわけだ。それで、そういう輩はつまはじきにされやすい」
「慧音がなんとかできないの?」
「誰かを排斥するようなことは極力やめるように言い聞かせているよ。だが、因果応報という言葉があるように、博愛の精神ばかりではやっていけない側面もある。人里の暮らしは妖怪の暮らしよりも結構厳しいところがあるんだ」
「へえ。そうなんだ」
「だが、まあ霊夢が気にするところではない。君は博麗の巫女であり――特別なのだから」
「特別とか思ったことないけどなぁ」
「君は幸せ者だな。ま、ともかく、紫殿の思想がどうであれ、この企画がどう推移するかはわからない。私も見守っているが、なんらかの混乱が生じたら、やめるよう進言するつもりだ」
「どうせ思いつきよ。紫がそんなに深く物事を考えてるわけないじゃない。年柄年中寝てるやつに、人間の在り様を決められてたまるもんですか」
「たのもしい限りだよ。霊夢。いざとなったら紫殿を退治するつもりなのか?」
「当然。そうする」
霊夢の言葉には澱みがない。
人間を害する妖怪は例外なく平等に、公平に退治する。
それが霊夢のたったひとつの不文律である。
つながるストマックの人気はそれなりのようである。
富める者はさほどいない幻想郷であるが、食べる量を適度に調整してくれるのでダイエットの役に立つらしい。妖怪もつながるストマックに加入している者がいる。むしろ妖怪のほうが飢えている者が多いらしい。人間の食べ物でいいのなら、共有しあうのも悪くはないという考え方だとか。
加入の手続は非常に簡単で、人里に何人かに書類を持たせて、その書類に署名または押印をするという形である。
署名または押印された書類を一日に一回訪れる藍に渡すという方式が取られていた。
その藍を霊夢がつかまえた。
「ねぇ。あんた」
「ん。なんです。博麗の巫女」
「紫のやってることって、人間増やすためなの?」
「さぁ。わかりません。紫様のお考えは正直なところ私でも捉えきれないところがありますから」
「じゃあ、あんたの考えを聞かせなさいよ」
「私の考えですか?」
「そう。あんたがこのつながるストマックをどう考えてるのか」
「弱い者を助けるすばらしいお考えだと思いますがね」
「そういう建前はいいのよ」
「建前ですか。建前と本心の境界は非常に曖昧ですよ。建前とは要するに自分の外側にある情報に目を向けるということですよね。たとえば常識と呼ばれているものがそうです。しかし常識が外側にあるのでしたら、なぜそんな外側のものが私=内側に影響を及ぼせるのでしょうかね」
「いい加減にしないと、尻尾の毛をむしりつくして高級洋服に仕立て上げるわよ」
「おお、恐ろしい巫女だ」藍は余裕の笑みを浮かべている。「ともかく本心も建前もありません。私は紫様に付き従うのみです」
「あくまで、悪いところはないと言いたいわけね?」
「というより、私はなんら判断能力を有しないのですよ。式に過ぎませんから」
「自主的に配って、回収してるんでしょ」
「自主性はなんらありませんよ。紫様の手足となっているだけです」
「ああそう。じゃあ、紫を叩き起こして連れてきなさいよ」
紫の住んでいる場所は霊夢もよくわかっていないのである。
「しかたありませんね。ではそのように伝えておきますから、明日は博麗神社で待っていてください」
「今回はきっちり説明してもらうからね」
なぜ怒っているのか霊夢は自身でもよくわかっていない。
夕方。
宵闇が支配する闇の世界と、人間が支配する昼の世界が交差する時。
ようやく紫が博麗神社に訪れた。
「遅かったわね」
「なにか用かしら」
「用ってほどでもないのだけど、やっぱりこの胃をつなげる方式。私はあまり好きになれないわ」
「何がよろしくなくて?」
「慧音は人間を組織的にしか考えてないって言ってたけど私もそう思う」
「霊夢……、あなたに数学的な問題を出しましょう」
いきなりの問いである。
霊夢は縁側に座ったまま、隣にいる紫を見ている。
「人間が十人つらなって山に登りました。そして、二人は凍え死に、三人は飢え死にし、四人は妖怪に食べられました。残った人数は何人でしょう」
「一人でしょ。それがなんか関係あるの?」
「そう、一人です。霊夢。数学とはいつも酷薄なものですね。そこにいた十人の人生を考えません。けれど、新聞に載るのはいつだって数字なのですよ。たとえばどこかの都市で地震で死んだとき、ひとりひとりの人生を読み上げることはしません。ただ、何人が死んだ。それだけを数え上げます。そうすることが是非必要だからです」
「わからないわね。ここはそんなに人間の数は多くないでしょ。紫は人間の数を増やしたいの?」
「増やすというよりは、調整したいといったほうが正確です」
「調整って、妖怪とのバランスのことを言ってるわけ?」
「そのとおり。人間は多くなりすぎると妖怪を排斥するほどの力を得ます。なにしろ人間の増えるスピードは妖怪とは比較できませんからね。おそらく死に急ぎやすい性質であるがゆえに、そうあるのでしょう。逆に減りすぎると、これはもう話にならないほど脆弱です。それが人間の面白く、可愛らしく、妖怪の目を楽しませるような両義性と言えるでしょう」
「で?」
霊夢はジト目で聞いた。
「胃を支配できれば、ある程度ですが、数の調整をおこなえます。これは人間が外側の世界でもやってることですよ」
「ここは幻想郷でしょ。政治なんていらないわよ」
「しかしながら、妖怪が増えていくのは必然ですわ。ここ数年で霊夢が出会った妖怪の数はどれだけ増えましたか? 妖怪の数が増えるということは、それだけ人間の数も増えなければならないのです。増えるという言い方は正確ではないですけどね。場合によっては減らすかもしれない。でも、まあ妖怪の数が増える以上、幻想郷は拡張されねばならないし、人間の数もそれなりに増えなければならないのです。もしもこの幻想郷を存続させたいのなら、米粒に字を書くような微細な調整が必要になるのですわ」
「あんたがそれをやる必要はあるの?」
「必要?」紫は軽やかに笑った。「ああ、権利、あるいは権限という言葉が言いたいことですのね」
「そう」
よくわからないが、とりあえず紫の言葉からニュアンスは伝わったと判断して、霊夢は頷いた。
「確かに私がそうする権限も権利もありません。けれど、私はこの幻想郷を存続させたいと願っておりますし、そうすることができる能力もあります。とりあえず人間よりは長生きできますしね」
「人間のことは人間が決める。妖怪のことは妖怪が決める。ごっちゃにしてない?」
「幻想郷では、妖怪と人間は助け合って生きていかなければならないのです。互助の精神が必要なほど、この世界は脆いとも言えますわ」
「世界なんてどうでもいいのよ。人間にとってはね」
「そうですね。霊夢、あなたはとても頭がいい。大方の人間にとっては、世界というスケールで物事を考えることはできませんからね。たとえば明日、世界が滅びても自分は死なないと本気で信じているところがあります……。しかし、人間のその健康的といってもいい考え方は、世界の耐久度を試しがちです」
「私は試していないけど」
「あるがままそこにある。それが霊夢の空を飛ぶことの本質的要素ですわね。あなたは、言ってみれば特別なのですわ」
「私はそうは思ってないけど」
「自分のことはわかりにくいものですからね。ただ、私にとってわかりにくいのは、むしろ霊夢、あなたの考えですよ」
「私の考えは最初に言ったじゃない。なんか嫌なの」
「好悪の感情は強いものですから、理由としては一級品ですわね。言葉を並べ立てるよりもむしろ強壮な論理とも言えるでしょう。感情はいつだって論理よりも優先される。それが人間の在り方ですから」
「あんた、喧嘩売ってるの」
「いいえ。もう少し論理的な言葉でなければ、考えを共有できないということですわ」
「共有する必要があるの?」
「さぁ……、もしも私の考えを変えたいのなら、少なくとも伝える必要があるのではなくて? そもそもあなたは曲りなりにも、つながるストマックを享受しているのだから、あなたがそれを嫌だというのなら、その理由を述べる責任があると思います」
「あんたが無理やり誘ったんじゃない」
「けれど拒まなかった。選択したのはあなたですわ」
「まあそれはそうだけど」
「先ほど霊夢は慧音のことを言ってましたね。確かに胃をつなげることは人の個別的な感情に着目していないとも言えるでしょう。けれど、慧音が何人かの人間を教え、何人かの人間を救ったところで、それはやはり数人を救ったことにしかならないのです。ミクロ的な視点では決して到達しえない事柄として政治はあるわけです。そこでは人間は数でなければならないし、人間は食べ物を消費する機械と捉えなければならない」
「そこが、嫌なのかも?」
霊夢は少し語調を落とした。
自分で考えをまとめようとするのだが、勘で生きているところがある彼女はうまく言葉をつむぐことはできない。
「よくある考えに、たとえば数万人を救うために一人を犠牲にして良いかという思考実験がありますわね。そのとき慧音は悩むのでしょうか」
「わからないわ」
「では、あなたは?」
「わからない。あんたは?」
「私は悩みませんよ。数万人を救うことを選びます」
「たとえ、その犠牲になるのがあんたの大事な、橙や藍だったとしても?」
「橙や藍は式ですから、大事といわれればそうかもしれませんが、人間的な感情とはやや異なるところがありますわね。私が死なない限りなんとでもなるところではありますから。ただ、そう――橙や藍が大事だとしても、私は数万人を選びます」
「変な話」
「嫌な話なのではなくて?」
「そこまで言われると、どうかなって思うのよ。あんたの考えがまちがってるってわけでもないし……、ただ個人的に嫌ってだけ」
「では、博麗の巫女として、私を退治することはないということでいいのですわね」
「うーん」考えること十秒ほど。腕を組んで悩んだが答えはでない。「とりあえず、保留」
「歯の痛みが治まったらもう一度考えてみてくださいませ」
紫は扇子をとりだし、口のあたりを覆った。
それからスキマがぽっかりと開いて、紫の姿は掻き消えた。
ついに死人が出た。
慧音の顔は蒼く染まっていた。悲壮の顔である。
再び人里を訪れた霊夢は、慧音に呼び止められた。
「なにかあったの?」
「霊夢……、言いにくいことなので私の部屋に来てくれるか」
「わかったけど」
霊夢は部屋に通された。慧音らしい綺麗に整頓された部屋である。霊夢は落ち着かない様子で、部屋の中央に座った。
「死人がでた」
「死人? 穏やかじゃないわね。胃の中が膨らみすぎて爆発したとか?」
「つながるストマック自体に不具合が生じたわけではない。つまり、物理的な現象としては自殺だ」
「自殺、ね」
人里で自殺する者はあまりいない。
妖怪や幽霊が跳梁跋扈する世界である。自殺はご法度とされている以上、あっという間に地獄行きということも広く知れ渡っているから、自殺する者の数は少ないのである。
非常に珍しいと言えた。
ただ、珍しいことだけにその現象の意味はよく問われることになる。社会的な影響が大きい。
「なにか言いたいことでもあったの? その人」
「遺書が残されていた。嫁が妖怪に食い殺されたらしい。山に山菜を取りに行っているときにな。それで、彼は自分の不幸を呪った。そして、他人の幸せを呪った」
「パルスィあたりが好きそうな話」
「農薬を大量に摂取しての自殺だ。とても苦しかっただろう。彼と話をする機会があればよかったのだが」
「しょうがないわよ。で、遺書にはなんて書いてあったわけ?」
「怨みごとだな。紫殿が妖怪の賢者であることはよく知られているから、つながるストマックを利用して、全員に毒をもろうと考えたわけだ」
「ふぅん」
「まあ、毒は個別的に処理されるらしい。どういう原理かはわからないが、死んだのは彼だけだよ」
「自業自得ね」
「しかし、哀れではある。つながるストマックは、彼の怨みを増幅させたのではないかと思うんだよ」
「そうかしら。そういうやつはやりたいようにやるもんよ。誰かが何かをしたからそうするっていうわけではないと思うわ」
「そうかもしれないがな。ただ飢えを無くそうとするのがつながるストマックの考えの根本にある。そこには単に飢えを無くす以上の意味はないはずなのだが、人間は勘違いしやすい。生きることと食べることはとても近しい関係にあるから、飢えが等しく満たされることは、等しく幸福を満たされることだと思い違えることも多いわけだ」
「満腹になったあとは幸せな気分になるからね」
「そうだな。しかし、その勘違いが今回の悲劇に繋がったとも言えそうだ。幸福を平等にしようという思想があるなら、どうして自分は不幸なのだと呪う。そんな思想自体が憎らしく思えてくる。彼にとって、世界は敵だったわけだ。そうするように仕向けてしまったところがありはしないか」
「うーん。でも、その人はその人でやりたいようにやったわけだし、胃のせいにするのは考えすぎじゃないの?」
「確かにな。つながるストマックには何の不具合もないわけだし、危険を除去する安全性も証明されたと言えるだろう」
「他の人たちはどう考えてるの?」
「動揺しているな。安全性の問題という点をほとんど考えていなかったことに気づいたからだろう。他の人間が何を食べるかわからない恐怖に気づいたわけだ。私もその点については藍殿によくうかがったよ。もちろん紫殿はほとんど神業といってよい微細な調整をしているらしい。なにかよくわからないが、カロリー計算なるものもしているらしい。栄養の調整もしているんだとか。どこがしているのかというと、紫殿の頭の中らしい。百人単位の人間の情報を処理しているということになるが、さすが賢者といったところか」
「技術的なことはどうだっていいのよ。大事なのはどう感じてるか。それで、結局のところ動揺で済んでるわけね?」
「いつもよりご飯の量はむしろ増えているからな。完全には否定できない部分もある」
「だとすると、私が出る幕ではないわね」
「ただ……、私としてはもはやここが分水嶺のように感じている。行くにしろ戻るにしろ、そろそろ決めていく必要がある」
「それは人間が全員で決めることでしょ。私が決めることではないわよ。私はただ妖怪を退治するだけ」
「しかし、霊夢。人間の総体的な意思というものは幻影だ。みんなの意見を集会を開いて聞いてみてもなかなか意見はまとまらないし、仮にまとまったとしても胸のなかには違う考えを秘めていることもある。紫殿の思考は強力だ。人間の思考が集まる前にうまく誘導されてしまう可能性もある。すでにそうなっていると考えることもできる」
「紫は――そういうことはしないわよ」
「だといいんだが」
「けど、要するに、私が決めてもいいってことよね? 紫を退治するかしないか」
「そうだな。人間側の意思がいまだ固まっていないが、もう一度紫殿と話し合ってみてくれないか」
「やっぱり、あいつのせいで面倒くさいことになったわね」
霊夢はうんざりした顔だった。
今日の紫は縁側に座らなかった。スキマの端に座り、空中を浮揚しながら霊夢と対峙している。
霊夢もまた禊を済ませ、戦闘態勢である。
「それで、結論はでたのかしら?」
「わかってるんでしょ。紫」
「人間がひとり死んだそうね。それもまた数の問題。大方の人間が助かっているのなら、それは良いことなのではなくて?」
「あんたねぇ。そういう問題ではないでしょ」
「そういう問題なのですよ。霊夢。この世界では人間の数が基礎を成しているのです」
「それで、胃をつなげて、人間を脅迫しようとしているわけ?」
「脅迫? 違います。人間は脅迫の対象になるほど賢くはありません。総体としてみたときの人間は非常に動物的です。妖怪よりもずっと動物的で、機械的な反応を返します。私が理を諭したところで、人間には判断能力がない」
「ふうん。そう」
「いったいあなたは何が不満なのです?」
「わかってるでしょ?」
「わからないです。私は心が読める妖怪ではありませんからね」
「じゃあ、言うわ。歯が痛いのよ。私は」
「歯が痛い……? そんなのわかっていますよ。虫歯なのですからね」
「私は歯が痛いの。イライラするの。だから、こんな胃をつなげて仲良くするのが我慢ならないのよ」
「そう……、ずいぶんと本質的な理由を述べていますね。確かに、人間というものは、そういうものなのです。分配や共有といった概念はそもそもその内に爆弾を抱えています。なぜなら、分配や共有をしようとするなら、個人の不幸に目をつぶらないといけないからです。胃を共有することで、確かに飢えを防ぐことはできるが、個々人の幸福には頓着していないため、不幸な人間が必ず不満を漏らします。彼の不満の理由は明確です。すべてを共有しているはずなのに、なぜ自分は不幸であるのか。不幸の個別性を呪っているわけです。霊夢、あなたが主張する歯痛も同じことですよ。個人の呪いが優先されるべきだという考えなわけです。それでよいのですか」
「ええ」霊夢ははっきりと言った。「それでいいのよ」
「なら、私は退治されるのですね」
「そうよ。わかってるじゃない」
「いいでしょう。いつかのときのように手加減はしません。人間と妖怪の境界線を引いてあげましょう」
霊夢と紫は激突した。
それから後。
異変が解決したあとの常として、霊夢は宴会を開いた。
まだ歯が少し痛む。その痛みをこらえての宴会である。紫は縁側に座って、優雅に笑っている。
今回も霊夢の勝利だった。もちろんそうあるような予定調和もあったのだろうが、紫の服をぼろぼろにする程度には戦ったのも事実だ。
それでも、すぐに回復するのが妖怪の有利なところというべきか。
あるいは、紫の底知れぬ実力というところなのかもしれない。
負けた紫はあっさりとつながるストマックを廃棄した。人間の中には不満を漏らす者もいたが、安堵している者もいた。全体的にどのような評価が下されるかはもう少し時間が経たないとわからないだろう。
月が綺麗な夜である。
「霊夢?」
紫が話しかけてきた。
「なによ?」
ちょっと怒ったように霊夢が聞く。
「宴会というのも考えてみれば、おもしろいものですわね」
「なにがよ」
「食べる行為は個別的ですけれど――、皆が笑っているわけです。個別性と全体性のいずれもが満たされている。非常に特異な場と言えますね」
「そうね……」
何が言いたいのかいまいちわからなかったが、勘でたぶんいいことを言っているのだろうと思ったので、霊夢は頷いた。
そこに、酒に酔った萃香がやってきた。
「霊夢ぅ。お酒おいしいよぉ。霊夢も呑め呑めぇ」
「今日は一段と酔ってるわね。酒臭いわよ」
差し出された盃を受け取り、一気にあおる。
きぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃん!
と、歯が染みた。
「おいしい?」
一瞬、顔をしかめたのがわかったのか萃香は不安気な顔で尋ねた。
「ええ、おいしいわよ」
霊夢は涼しい顔で答える。そうすることが尊いことだと知っているからである。
個人でありながら、全体との調和をとるような、そういった矛盾にも似た感覚――
古い日本人は、それを『和』と呼んでいた。
デーマは『自業自得』かなぁ?自分の読解力ではコレが限界です、とほほ。
まるきゅーさんの思考実験、いつも本当に楽しく拝見しています。
幸福を普遍、不幸を固有性とする考えは興味深く読ませてもらいました。
食べる-食べないという個人の境界を、スキマによって繋げてぼやかしてしまうというアイデアがとても新鮮でした。
病気や事故でどうしようもなく固有性を引き受けなければならない時もあれば、楽しくコミュニケーションを取って他人と一体感を感じるときもあり。
さすが境界の妖怪、上手く人間と言う二重存在の本質に関する実験をなさる。
誰よりも幻想的な妖怪の紫が、誰よりも現実的な計量学的政治をするというのも幻想郷らしいと感じました。
ところで最近、NGワードが増えたのか私が汚れたのか分かりませんがよく文章がはじかれます……。
胃変にはニヤリとしました。
思考実験と分かる作品でした。
面白かった。と言うよりは興味深く読めたとでも言うべきか。
次回も期待しています。
結界が取捨選別~のくだりは単なる膜の浸透圧と捉えるよりも
各種の膜輸送タンパクがいっぱい埋め込まれて能動的に輸送を行う細胞膜モデルを用いたほうが
より近似させた展開が見込めるのではないか、と思った。
そこはあまり今回の本質では無いのだろうけど
その発想力とそれを形にできる文章力がうらやましい限り。
幻想郷は、閉じた箱庭でもあるからこの手の思考実験にはうってつけですね。
ゆかりんはそれ込みで幻想郷を形成しているのだろうか。
呪いなんて感じる暇もないし…
むしろ世界の標語は『笑う門には福来たる』(たぶん誤用です)
というか個々人の幸福すべてに考慮するシステムを考えるよりも、
自給自足を覚えさせ、そういったスタイルを社会全体が認知するよう仕向けたほうが手っ取り早い。
どこか酷薄な紫もまた、良い。
でも、他人がいなければ自分の価値を確立させられない。
深い話題だねぇ…。
ていうか赤の他人の鼻水が自分の胃に流れ込むかもしれないと思った時点で気持ち悪かった。
ここ1週間の食事はすべて人間でしたけど何か?と試すように笑う紫、その事実に愕然とする慧音と退魔針を無言で構える霊夢
こんな感じで後味の悪さを味わう作品なんですね分かります。
と身構えていたのだけどそんなことは全然なかった。
理屈はどうにか分かったけど作品が伝えたかったことが分からず・・・勉強不足でこの作品を十分に楽しめなかった自分が悔しいです・・・