「へくちょん」
寝てる間に掛け布団がずれたのか。寒くてくしゃみが出てしまった。
店仕舞いをした瞼をこじあけると、そこは見慣れた屋敷の天井ではなく、葉っぱが空を塞いでいる。
はて、なぜこんな場所で寝ているのか。確かに疲れきってはいたけれど、きちんとベッドで寝たはずだったと思うのだけど。
どうしたものかと頭を揺さぶっても、それ以上はいくら振っても出てきやしない。
「捨てられちゃった、とか」
そんなことあるわけないかと独り笑い飛ばしはするものの。現状がいまだによく把握できてはいない。
主であるレミリア・スカーレットの気紛れで、近くの森に放り投げられたのであれば話も早いのだけど。
いつものメイド服のまま、ナイフも一式揃っている。ここでサバイバルでもすればいいのかしら?
と言いたいところなのだけど、周りを見るうちに気づくことがあった。
どうやらここは、霧の湖近辺の森や、魔法の森とは様子が違う。
幻想郷にこのような森があったかと、思考の糸を張り巡らせてみても、重なる風景はいくら記憶の底を漁っても出てきやしない。
「あーもう、夢だったら、いいんだけどなぁ」
ほっぺをつねってみると、じんじんと痛みが頬から伝わってきた。
どうやら寝ぼけているわけではないようで。
さてまぁ、こういった訳の分からない状況に投げ出されたのであれば、まずは、足下を踏み固めていくことが必要ということで。
手のひらを何度か握りつつ、頬を軽く張って自分の体に異常がないことを確認した。
きちんと痛みも伝える。疲労はそれなりに溜まってはいるけれども、動けないというほどでもない。
(美鈴のマッサージが恋しいわ)
ため息を吐いたら自動的にマッサージしにきてくれる、そうであれば便利なのに。
こちらが忙しいときほど船をこぎやがる門番だもの、へそで茶を沸かす程度にしか役に立たない。
「さーてまぁ、とりあえず」
風でさざめく森たちが、ピタリとその音を止める。
硬直しきった世界で動けるのは、十六夜咲夜自身のみ。
(よかった、時間を止めれないとなると厄介ですもの)
ここが何処なのかすらも掴めていない状況で、頼れるのは銀のナイフと、変わらず時を刻む懐中時計のみ。
再び動き始めた時間の中で、思うこと。
「……眠い」
まったくわけのわからない状況に放り出されているわけだけど、別になんとでもなるでしょう、と。
楽観的すぎるとは自分でも思うけれど、悲観的に考えて何か得をすることでも?
体を跳ね起こし、その場で大きく伸びと大あくび。
完全で瀟洒という二つ名を全力で台無しにしてるなーと苦笑しつつも、そんなの他人が勝手に言っていること。
人間である限りはだらけたってしょうがないでしょう? 誰に対しての言い訳かはわからないけれども、ここで立ち止まっていても埒が明かないのもまた事実。
とりあえずは、森を出ないことには始まらない、めんどうなことだけど。
「ま、たまにはピクニックなんかもいいかしら」
早く帰らないとお嬢様は怒ってしまうかしら? なんて思いつつも、足は速める気にはならない。
あくまでマイペース。悪魔の従者だけに。
案外短い時間で森から出られたのだけど、そこには立派な街道が在った。
幻想郷に住んで長いわけではないにせよ、このようなものが整備されていたという記憶もない。
それでも、確信に至るにはまだ不十分な材料。
湧き上がった疑念が確信へと至ったのは、街道の先に見えた、幻想郷のそれとは違う街。
陽はまだ昇ったばかり。
洋風の建物が並ぶ街並みには人が溢れており、そこかしこからは、色とりどりの野菜や果実を売る賑やかな声が挙がり。
歩いていく人々も、幻想郷に住む人たちの服装や顔付きとは大きく違い、妖怪の姿も見受けることができない。
街の規模も幻想郷の人里とは比べられないほどに大きく、けれどもどこか暢気な雰囲気の漂う田舎町のよう。
(懐かしいわ、あんまり心地の良い懐かしさではないけれど)
自分が幼少を過ごした街と、雰囲気が似ている気がする。
十六夜咲夜、という名を授かってからは思い出すことも減ったのだけど、苦々しい記憶は心の奥に棘のように突き刺さっているもので。
それがフラッシュバックするたび、暗闇で一人、じっとナイフを見つめる、それが心を不思議に鎮めていく。
我ながら暗いとは思うけど、これでも随分と前向きになったほうなのだ。
醜い傷跡を覆い隠すのは、主人であるレミリア・スカーレットと出会ってからの日々。
決して楽しいことばかりではなかった。むしろ無茶な要求に辟易することばかり。
けれども、悪魔の従者としての生活はどこか艶やかで可笑しくて、乾ききっていた心に沁みこむものがあった。
初めは戸惑い、人に失望した自分にはそれがお似合いと自嘲していたけども、それも幻想郷に来ることで変わった。
一癖も二癖もある人間や妖怪たちとの出会い、それに誰よりも全力で楽しもうとする、永遠に幼き赤い月。
それを見ていると、諦めて立ち止まることがいかに愚かしいことかと思えてくる。
ただでさえ命短し人間の身に、停滞している暇などない、おもしろおかしく生きるチャンスをむざむざ手放すなんて。
だから、この状況に置かれても、心には一点の曇りもない。
恐れ、悪いほうに考えていくぐらいなら、観光気分で楽しんだほうがよっぽど得だろう。
さて、小腹も空いたし、リンゴの一つでも買おう。
そうポケットをまさぐっても、残念ながらコインの一個も見つからずじまい。
これでは妹様の相手もできないと甲斐性なしを呪ってもしょうがない。
ああもういっそのこと、幼い頃の自分がしていたように盗んでしまおうか。
時を自在に操れる今ならそれは造作もない、けれど十分に分別がついた今するのは憚られること。
では、どうするか。
感嘆の声が上がっていく。その中心で、生き物のように舞うナイフたち、その一つ一つの軌道はすべて、自分の手の内。
舞い踊る銀のナイフたちは、自らの血肉と何ら変わるものではなく、大道芸として使うことにも躊躇いはない。
腹を満たすために対価を差し出すことは当然の理屈で、自らが信用をもっと置く技術で糧を得ることができるのならば、それは誇ることであり恥じることはない。
放り投げられていくおひねりは、すでに十分食事をとることができるであろう量にまでなっていた。
「あそこの柵の上に林檎を置いてくださいな。私がナイフで射抜いてみせますわ。
見事に射抜けたときには、賞賛を。もしも失敗すれば……。そうですねぇ、このおひねりを、全てお返ししますわ」
自信たっぷりな態度で呼びかけると、意地悪な観客たちは、我こそがと果物屋から林檎を掴みあげ、放り投げる。
到底一人では捕ることのできない量が宙を舞う。
美しく瀟洒な彼女が、無惨に失敗するところが見たい、困った顔が見たいと願うのも人の性。
それを嘲笑うように時を止め、静止した時間の中で林檎を空のバスケットに入れていく。
「嫌ですわ。食べ物を粗末にしちゃ」
薄く笑いつつ、一つ手に取った熟した実へとキスしてみせる。
何が起きたのか理解しかねている観客たちは呆然としたままで、それが少し滑稽だ。
そして、林檎をバスケットごと宙へと放り投げる。
当然空中でバラけていく林檎たち、人々の呆けた目はその軌道に釘付け。それを見届けつつ、落ちてゆく林檎たちを宙に留める。
さっき自分で言ったことに少し罪悪感は覚えるけれど、その一個一個に向かってナイフを放り投げる。
軽く指を弾いて動き出した時間、そしてナイフが突き立っていき、地面へと落下していく林檎たち。
「あらあら。こんなに食べ切れませんわ。どうしましょう」
素っ頓狂な声を出して煽ってみせると、現実にようやく戻った観客たちは、それこそ狂ったように賛辞を送りました。
彼女はサーカスの団員で、仲間たちに先駆けてパフォーマンスをしているのだ。
やれ彼女はきっと、妖精がからかいにきているのだと、観客たちはまことしやかに。
飛び交う噂は否定せず、おひねりと林檎を拾い集めていく。
これだけのお金があれば、数日間は食べることなら事欠かないか。
「それではこれで終わりですわ。また次の機会をご贔屓に」
質問攻めにされるのも厄介と、小刻みに時を止めて人混みに紛れこむ。
観客たちの手の中へ、林檎を一つずつ残して。
さて、いつまでもメイド服で居ればこの街では変に目立ってしまう。
そう考え、並んでいた質素な服と、メイド服を入れる麻袋を購入。
アッシュブロンドの髪も、これだけで人の目を集めてしまう、隠すための帽子も気に入るものもないし。
(ま、別にいいわよね)
いまは別に、悪いことはしてないのだし。
幼い頃は他人の目が怖くて怖くて、仕方がなかったけれど、それが今も完全には抜けきっていないのか。
つばの広い、貴婦人の被るような帽子を被って見て、自分のイメージにそぐわないと思わず笑ってしまった。
店主は美人に見える、どこかの令嬢にしか見えないと褒めてくれはしたが、丁寧に断っておいた。
自分はお嬢様なんていう柄じゃない。むしろその場所からもっとも遠い場所にあるのだと思っているのだから。
◆
「ん」
「如何なさいましたか紫さま」
「このみかん、酸っぱい」
「そんなことを神妙な顔で言わないでください、ひねりつぶしますよ」
◆
「どういうことなの……」
ただ単にどこか違う場所に飛ばされているだけならば――それは例えば八雲紫の逆鱗に触れただとかで解決できる。
このうら若き肌に嫉妬したのか、と舌打ちしても、彼女は現れなかった。
それもそのはず、『まだ、私たちは会っていない』のだ。
手に取った新聞に書かれていた日付は、幻想郷のそれよりも約十年は過去へズレている。
紫ババア出てこい、かかってこい! と叫んでも……。叫ぶ恨みもないのだけど。
目の前の空間が断裂を作ることもないだろう。今のうちに恨み言を吐いておくべきか。
自分は、過去に遡っていると仮定して、と咲夜は腕を組み考える。
まだ断定に至る材料は何一つとして手に入ってはいないが、少なくともここが幻想郷ではないことはハッキリしている。
そして、年号は誰に聞いてもズレている。自分の記憶が混濁していることがなければ、であるが。
(過去、どこかに私が居るのかしら)
入れ替わって、子供の自分が今幻想郷に居たとするならば、それはそれで面白い。
そうだとしたら、確実にお嬢様とケンカをしていることだろう。できれば、そうでない可能性に賭けたい。
もしもそうだとしたら、帰ったときに、非常に面倒なことになる。
林檎を齧りつつ、広場の噴水へと腰をかける。
一体、自分はここで何をすべきなのか、なぜ十年の月日を遡ってしまったのだろうか。
この時期というのは、自分の力一つで生きていくのが難しい時期で、死んでしまいたいとまで願った時期だったような。
できるならば、一番振り返りたくない時期だというのに、なんでまた。
ため息をつきつつ。
目の前を駆け回っていく子供たちの中に、過去の自分の姿を探してしまう。
幸せそうな子供たちの中に、自分の姿など在るわけがないというのに。
(ま、あの頃の私に、今の力があれば違う運命を切り開けたのかもしれない)
それか霧雨魔理沙のように、初めから幻想郷で生まれていれば。
東風谷早苗のように、外の世界でも恵まれ、愛されて育っていたならば。
自分は一体、どのような娘になっていたのだろうか。
少なくともこの手を血に染めることは、なかったのではないだろうか。
(こんなこと、なんで今更考えなきゃいけないのかしら。運命の神様は居るなら、とんでもないアバズレだわ)
今は幸せなはずなのに、友人だと思っていた彼女らを、まさか妬む気持ちが自分の中に湧くだなんて、思ってもいなかった。
自己嫌悪に、今日幾度目かのため息を吐いていると、いつのまにか目の前には子供が集まっていた。
くりくりとした目を輝かせて、一様に不思議そうな表情を浮かべていた。
「お姉ちゃん怖い顔してるー」
「どこか痛いの?」
自分もこうやって、笑えていたのならば。
ありえるはずがなかったIfの気持ちで揺り動かされなきゃいけないなんて、この筋書きはどうかしてる。
子供たちは皆、幼い頃の自分が着ていた者よりもはるかに良い仕立ての服を着ていて、赤みがかった顔はふっくら愛らしい。
愛情をたっぷりと注がれている彼らにとっては、物憂げにしている自分が新鮮にすら映ったのだろう。
「私が手を握って開いたら、その中に林檎が現れるわ。よくごらんなさい」
「うそだぁ」
「林檎なんておっきくて、どこにも隠す場所がないじゃない!」
「3、2、1、はいっ」
この瞬間に時間を止め、麻袋から先ほどの林檎を取り出して手のひらへと載せる。
種も仕掛けもあるこの手品に、この子らは一体どんな表情をしてくれるだろうか?
「そして時間は……」
動き出す、そう呟こうとした目線の先には、止まっているはずの時間を歩く少女が。
ぼろ布を纏い、手入れもされていない銀髪を無造作に結んだだけの少女。
止まっている人々の財布を抜いては、気づかれない程度のお金だけを抜いて返す。
そんな小賢い手を使っていたのは紛れもなく――目線に気づいた少女は、驚愕の表情を浮かべ、踵を返して逃げてしまった。
「待って! いかないで!」
そう言ってから、はっと口を押さえる。あれが過去の自分であったとして、一体自分は何を言えばいいのだろうか。
まさか、十年もすればお前は吸血鬼の従者としてそれなりに幸せな日々が過ごせるから、それまで我慢しろとでも。
そんな荒唐無稽な話をいきなりされて、それを生きる支えにしろというのも無茶な話である。
自分がそのような話をされたのであれば、目の前に居る者をまずは狂人かと訝しむことからはじめるに違いないのだから。
伸ばしかけた右手が力を失い落ちたとき、時はまた時間を刻み始めた。
落胆している自分、左手に握られていた林檎へ驚きの表情を浮かべる子供たち。
「お姉ちゃん今のどうやったの!?」
「私にも教えて!」
きらきらと邪気のない笑顔。
それに対して、力無い笑みを浮かべるのが精一杯だった。
◆
幼い子供が母親の乳房に吸いつくように、生まれたての草食動物がその場で立ち上がるように。
どうやれば、だなんて考える必要もなく、時間を止めることができた。
父や母の記憶はもはやおぼろげで、頼れるのは時間を止める能力と、たった一つ持たされていた懐中時計だけ。
孤児同士で肩を寄せ合うこともなく、大人へ媚びを売ることもなく。
一人きりの世界に閉じこもりながら生きてきた。
時間を止めればふかふかのベッドで眠ることだってできるし、美味しいものだって食べられる。
それらが自分のためにあるものではないとは知っていたけれど。
この能力だけは自分だけの物であって、そこに他人が介入してくるだなんて夢にも思わなかった。
けども先ほど噴水のところに座っていた女は、止まっているはずの時間の中で林檎を袋から取り出し。
こっちを、みた。
その瞬間、弾かれたように私は駆けだしていた。
時間は動き出していて、その中を逃げるのは骨が折れたけれど、また止めるのは叶いそうになかった。
止めるには、結構な時間がかかってしまうから。
走って走って走り続けて、喉がからからになったころになって後ろを振り返る。あの女は、ついてきてなかった。
「……」
追いかけてくるかもしれない。理由はわからないけれど、自分がもしも同じ立場ならば追いかける、そんな気がした。
そう思うと、今すぐにこの町から離れたいところ、これもはっきりとした理由はわからないけれど、会いたくないのだ。
けれど、もう一稼ぎしてからでないとそれも難しい。
(また、会うのかな)
自分のくすんだ髪と違って、彼女の髪は太陽の光を受けて、透き通るように輝いていた。
同じ色のはずなのに、ぜんぜん、違う。胸の奥が、燻るような感じがして、痛い。
綺麗な身なりの、同年代の子供を見ているときと似ているようで、違う。
彼らは私とは初めから住む世界から違っていて、同じ人間だと思ったことなんて一度もない。
そう思うだけで、何もかもを諦めることができるのに、あの女だけはどうしてか、いつまで経ってもざわめきが消えない。
同じ力を、多分彼女は持っているのだろう。髪の色も似ていた、いや同じ。同じ色なのだ、きっと。
なのに、どうして。
「どうして、私はあの人みたいに、なれないんだろう」
艶気のない髪をくしゃっと握りしめても、虚しい気持ちが増していくだけだった。
押し殺して見ないことにしていた部分。それを改めて見せ付けられると部分が苦しくて、歩くのも億劫になった。
今日はどこで休もうか。日はまだ高いけれど、これから一稼ぎするという気力もない。
橋の下か、街から少し離れた大木の下か。
いずれにせよ、今日はあまり良い夢を見ることはできない。
◆
幻想郷へと帰る方法が皆目見当つかない今、どうすればいいのだろうと考えているうちに夜になった。
必要分はあっても、決して潤沢とは言い難い財布と相談しつつ、それなりに見える宿に部屋を取り、気を紛らわせようと酒場へと出た。
血気盛んな男たちから向けられる好奇の視線を適当にあしらいつつ、見覚えのある酒を頼む。
ほどなくしてきたグラスをちびちびと舐めていると、いかにも頭の出来と気性の荒そうな若者が隣へとどっかり座った。
こういう手合いをあしらうのは面倒だけども、一人部屋でひっかける気分にはどうにもなれなかったのだ。
まずこういう場合の男の話とは、自慢話に始まり自慢話に終わる。自分の力を誇示することで女をなびかせることができると本気で思っている辺り、浅ましい。
興味がないという意味合いを込め、相槌を打たずにお代わりをバーテンダーへと要求すると、それを男は遮って「本当に美味い酒はこれだ」と勝手に注文をする。
はて、私はこの男に奢られるような筋合いはあっただろうか。当てつけのため、出された酒を一気に飲み干す。
喉の奥からカーッと熱くなり、心なしか頬が熱い気がした。大方の予想はついていた。強い酒を飲ませて前後不覚にさせようという腹なのだろう。
しかしこちらは幻想郷の酒豪連中に慣らされた身。この程度で落とそうと思われるのは心外だ。
追加の一杯を飲みながら、こういった単純な男たちが少し羨ましく思えた。
彼らは自分が渡り歩いてきた世界の一端も知らずに、力自慢腕自慢を競っているのだろう。腕相撲に歓声が上がっている。
例えばしつこく話しかけてくるこの男。一夜を過ごす女が世の中にはいるから、こういう手合いは減らない。
自分は一切お断りではあるけれど、一夜の契りや一夏のアバンチュールに興じるのも、ごく一般的な人生の楽しみ方ではあるのだろう。
酒が回ってきたのか、机をひっくり返す大喧嘩が始まった。やんややんやと囃したてる男たち。
隣で延々と壊れたテープレコーダーをしていた男も、腕捲りをしてその中へと加わっていった。
ニカッと笑った白い歯が少しうっとうしかったけども、これ以後会うこともあるまい。
いい所を見せたいであろう彼には悪いけれども、人の殴り合いだとかを見て酒を飲む趣味はないのだ。
弾幕ごっこであればいい酒の肴になるのだけどもと嘯きつつ、勘定を置いて酒場を後にした。
今夜は涼しい風が吹く。酒で火照った頬には、それが心地よく感じられた。残念ながらお月様は欠けていたけれど。
「少し歩いてみますかねっと」
女の一人歩きは危ない、なんていう常識ほど、自分に縁遠い言葉もない。
幻想郷ならば妖怪が闊歩している分危ないのかもしれないけれど、ここは幻想郷ですらない。
安酒で気が大きくなったチンピラや「ぐへっ」素面の癖にまともな判断を持たない脳筋など「むきゅう」道端でのびてもらったほうが世のためで。
自分に害をなす存在になりえるわけもなかった。
しかしまぁ、ないとは思うけども、凍死させてしまえば夢見が悪い。
新聞紙でも被せておけば、最低限の暖は取れるだろう。一応こちらは正当防衛の身、これだけしたらお釣りを貰いたくてしょうがないぐらいだ。
「ま、これでいいか」
男の口に新聞紙を詰め込む作業も飽きた。ぱんぱん、と手を払ってから、この場は後にする。
酒の火照りは冷めてきたけれど、宿場へ帰るにはまだ早い、早すぎる気がする。なんとなく。
やけに涼しく抜けていく風に任せて、当てもなく――けれど確実にどこかを目指して、歩を進めていく。
予感が何の結果を生まなくとも、それはそれでいいのだ。
宿のベッドで悶々と考えていて道が切り開かれるのであればそうするけれど、大抵こういうときは自分の足を使って歩いたもん勝ち。
博麗の巫女だって、異変のときには勘に任せて飛んで行ったら、いつのまにか元凶をぶち倒しているじゃないか。
こんなことを考えるなんて、以前までの自分であれば決してなかっただろう。
無駄なことは一切切り捨てて、最小限の労力で最大の効果を求めるべく行動する。
それがレミリア・スカーレットに仕える前から、そして十六夜咲夜となってからも理念になっていたはずだけども。
いつのまにか融解していた自分は、これまでの自分を厭世的だと笑えるようにもなっていた。
私は今までのように無駄を排除した生き方もできるし、こうしてぶらぶらと、夜風に吹かれながら口笛を吹くことだってできる。行儀は悪いけれど。
この変化というのは、いつのまにか自分の中に溶け込んでいて、気が付いたときにはしっかりと根を張っている類のものだ。
ならば私のいますべきことは一つ。生き方を知らぬ少女に会いに行こう、そうしよう。
それで何が変わるか、帰れる保証があるのかなんて心配は一つもいらない。
なんとなく、どこに居るのかも知れぬ少女へと会いにいこうと思い立ち、そこへ遊びに行くことを決めただけである。
今、私には、十六夜咲夜には、そういった遊び心を持って行動することが許されているのだ。
すごいでしょ?
「そう」
だから紅魔館に私は帰ろう。自分が帰る場所、居るべき場所は紅魔館の、ワガママな悪魔の傍なのだ。
例えばここが本当に過去だとして、ここからの運命を変えられるチャンスが転がってきているとして。
でも私は、チーズケーキを口いっぱいに頬張ってふがふが喋るご主人様。口元に破片をつけていたら何を言っても締まらない。
小難しい本ばかり読んでる、いつか頭からキノコでも生やすんじゃないかっていう魔法使い。
まぁ、キノコが生えていたほうが、魔理沙にはウケがいいんじゃないんでしょうか? とからかったら頬を膨らませて歩いていった。
何を考えているかわからないけれど、近頃は機嫌良さそうにしている悪魔の妹に、お日様みたいにぽっかぽかな笑顔を振りまいている門番や。
彼女らと出会い、私は今、幸せであると何の躊躇いもなく言える。胸を張って。
手櫛をしてみて、自分の髪が今、いかに手入れされているものかを知る。
先ほど見た同じ髪の色の少女は、手櫛も満足に通らない生活をしているのだろう。
けれど、それが今の自分に直結していたとしても、私は施しをしようとは思わなかった。
私にとってはもう過ぎた過去であり、彼女にはこれから、立ち向かっていく未来。
何の運命の悪戯か、それが奇妙に重なったとしても私は。
「一足先に、幸せになってるってことを自慢するぐらいしか、することってないんじゃないかしらね?」
薄い月光を、銀色が跳ね返している夜に、大木の根元で目を薄く閉じかけている少女とついに出会った。
「こんばんは、いい夜ね」
「……」
私の言葉に、たぶん幼い頃の私は、怯えの混じった目を返してきた。
私にも会える予感があったように、彼女にも会ってしまう予感があったのだろう。
どこか観念したような、そんな表情が伺える。
「あなたは、誰?」
「さあ、誰でしょうね。私が聞きたいぐらいだわ。自分が誰なのかってこと」
「よく、わからない」
「でしょうね」
この世界が、私の知る十年も前だとするならば、ここの世界に私の居場所なんてものは存在するわけもない。
十年前の世界での私とは、きっと目の前に居る幼い日の私が立っている朧げな足場ぐらいのものだろう。
そこに二人分は、乗っかることはできない。
「あなたは今、幸せかしら? ちなみに私はすっごく幸せよ。なんでこんなところで散歩をしているんだろう。
だなんて考えて憂鬱にならない程度には幸せ。お酒を飲んで、火照った体を夜風で冷やしてるうちに、知らない子供に話しかけてしまう。
それぐらいに今の私には余裕があるわ、幸せをおすそわけしたいぐらい」
私が歌うように言うと、私はとても嫌そうな顔をした、今にも泣き出しそうだった。
「どうしてそんなに悲しそうな顔をしているのかしら。お姉さんにはわからないわ。
こんな素敵な月や星々が照らしている下で呼吸しているのよ、それだけで幸せじゃないの」
「幸せって、そんな簡単なことで語れないもん」
「いいえ違うわ。幸せというのはそういった些細なものの積み重ね。
大金を得るだとか、誰かを傅かせるだとか、おいしいものをおなか一杯食べるだとか……。
そういったものも幸せかもしれないけれど、もっと小さなことで満たされるのよ」
瞼の裏には、水切りに夢中になっている主人と門番が浮かんでいた。
あんな単純な遊びに二人して夢中になって、それでも二人はこれ以上もなく、幸せそうだった。
「難しくて、よくわからない」
「きっとあなたには、まだわからない」
そう、最近になってようやく、私は幸せを掴むことができたのだ。
この子だって、それ相応に苦労をしてもらわないと、割りに合わないでしょう?
誰ともなく悪戯っぽく微笑むと、なんだか胸が気持ちよくこそばゆくなった。
目の前の私は、今にも糸が切れて、泣き出しそうにしているというのに。
「そろそろ帰るわ。私は私の場所に。じゃあね」
「……」
語ることはもう、何もないと、私は私に別れを告げ、踵を返した。
あまりにもあっけない邂逅で拍子抜けしたけれど、これ以上、何を語れというのか。
がんばれば幸せを掴めるとでも? 突然現れて、突拍子もない話をして説教をして、信じろとでも言うのか。
そうではない、私は私なりに必死に、一生懸命に生きてきたのだ。
そんな私の居場所は、紅魔館の悪魔の隣であり、これ以上なく満たされている。
過去の自分に、そのことを少しぐらい自慢したって、罰は当たらないでしょう?
◆
「……つまらないわね、何もせずに帰ってきたわ」
「何がですか?」
「銀色で丸いもの」
「またUFOだとかなんとかいって騒ぎ立てるんですね、もうそれは飽きましたから別の話してくださいよ」
「こ、今度はUFOじゃないもん……」
「だったら抽象的に言うのやめてください」
「……ああいう連中が二人寄ると、一人じゃ起きないことも起こるの」
「はぁ、溶き卵に醤油を入れてご飯にかけると美味しいとかそういうことですか」
「もういいもん。藍のばか」
「はいはい」
◆
パチリ、とスイッチが入ったように目が覚めた。
いつも通りの天井、普段通りの体調。
掛け布団をどかして体を伸ばしてみると、いつもよりも身体のキレが良さそうだった。
「あぁー、変な夢を見たわ」
首を回してから、自分の服装がメイド服のままだということに気づく。
そんなに疲れていたのだろうか、着替えもせずに寝入っていた昨晩の自分には呆れた。
時計を見てみると、仕事をはじめなければいけない時間にはまだまだ余裕がある。
窓の外ではまもなく、日が昇ろうとしていた。幻想郷の、新しい一日が始まろうとしている。
「私は幸せなのよ、今日も、明日も、たぶん明後日もその先もずっと」
誰にでもなく呟く言葉。ほのかに香ってくる林檎の香りが、どこか懐かしい。
あの時違う選択をして、今と違う道を辿っていたら――変わった先は、幸せな人生だったんだろうか。
運命というものが存在するのならば、それは口に含んでみるまで、甘いか酸いか、苦いかもわからないものだ。
私のした選択は、非常に保守的だったのかもしれないが、私は私で、この人生を必死になって掴んだのだ。
誰にも譲ってたまるものか、それがたとえ、過去の自分であったとしても。
「さーて、今日はお嬢様に何を振舞おうかしら。たまにはパチュリー様にも差し入れをもっていこうかしらね。
あまりに放っておくと、あの人干からびていそうだもの」
十六夜咲夜は、素晴らしき人生を歩んでいける、そう胸を張れる。
これまでも、そして、これからも。
◆
自信に満ち溢れていた女が去ってから、私はしばらくうずくまったままでいた。
あの女は私に似ていると思ったけれど、そんなことは全然、なかった。
私のことを鼻で笑って、自分はいかに幸せなのかを一方的に語っていって。そんな話し聞きたくなかったのに。
例えばあの人が私にとっての、物語に出てくる魔法使いで、そのままお城の舞踏会へ連れて行ってくれるだとか。
せめて、今晩ぐらい暖かいスープを飲ませてくれるだとか、そんな施しもなくって。
彼女が残していったものといえば、装飾もない、そっけないナイフが一本。
忘れていったのか、意図的に置いていったものなのかはわからないけれど。
「いいよ、こんなものでも、何も持っていないよりもずっとマシだもの」
ぼろ切れみたいな私には、こんなそっけないナイフですら、眩しく映って見える。
冷たく、鈍色に月の光を反射しているだけのはずのそれが、なぜか暖かく思えたのはどうしてだろう。
今夜は、これを抱いて寝よう。
放り出されていた鞘へとナイフを収め、私はそれを胸元に抱いた。
もう、顔も思い出せなくなった母や父の温もりを、どうしてか、そこに感じたような気がしたのだった。
寝てる間に掛け布団がずれたのか。寒くてくしゃみが出てしまった。
店仕舞いをした瞼をこじあけると、そこは見慣れた屋敷の天井ではなく、葉っぱが空を塞いでいる。
はて、なぜこんな場所で寝ているのか。確かに疲れきってはいたけれど、きちんとベッドで寝たはずだったと思うのだけど。
どうしたものかと頭を揺さぶっても、それ以上はいくら振っても出てきやしない。
「捨てられちゃった、とか」
そんなことあるわけないかと独り笑い飛ばしはするものの。現状がいまだによく把握できてはいない。
主であるレミリア・スカーレットの気紛れで、近くの森に放り投げられたのであれば話も早いのだけど。
いつものメイド服のまま、ナイフも一式揃っている。ここでサバイバルでもすればいいのかしら?
と言いたいところなのだけど、周りを見るうちに気づくことがあった。
どうやらここは、霧の湖近辺の森や、魔法の森とは様子が違う。
幻想郷にこのような森があったかと、思考の糸を張り巡らせてみても、重なる風景はいくら記憶の底を漁っても出てきやしない。
「あーもう、夢だったら、いいんだけどなぁ」
ほっぺをつねってみると、じんじんと痛みが頬から伝わってきた。
どうやら寝ぼけているわけではないようで。
さてまぁ、こういった訳の分からない状況に投げ出されたのであれば、まずは、足下を踏み固めていくことが必要ということで。
手のひらを何度か握りつつ、頬を軽く張って自分の体に異常がないことを確認した。
きちんと痛みも伝える。疲労はそれなりに溜まってはいるけれども、動けないというほどでもない。
(美鈴のマッサージが恋しいわ)
ため息を吐いたら自動的にマッサージしにきてくれる、そうであれば便利なのに。
こちらが忙しいときほど船をこぎやがる門番だもの、へそで茶を沸かす程度にしか役に立たない。
「さーてまぁ、とりあえず」
風でさざめく森たちが、ピタリとその音を止める。
硬直しきった世界で動けるのは、十六夜咲夜自身のみ。
(よかった、時間を止めれないとなると厄介ですもの)
ここが何処なのかすらも掴めていない状況で、頼れるのは銀のナイフと、変わらず時を刻む懐中時計のみ。
再び動き始めた時間の中で、思うこと。
「……眠い」
まったくわけのわからない状況に放り出されているわけだけど、別になんとでもなるでしょう、と。
楽観的すぎるとは自分でも思うけれど、悲観的に考えて何か得をすることでも?
体を跳ね起こし、その場で大きく伸びと大あくび。
完全で瀟洒という二つ名を全力で台無しにしてるなーと苦笑しつつも、そんなの他人が勝手に言っていること。
人間である限りはだらけたってしょうがないでしょう? 誰に対しての言い訳かはわからないけれども、ここで立ち止まっていても埒が明かないのもまた事実。
とりあえずは、森を出ないことには始まらない、めんどうなことだけど。
「ま、たまにはピクニックなんかもいいかしら」
早く帰らないとお嬢様は怒ってしまうかしら? なんて思いつつも、足は速める気にはならない。
あくまでマイペース。悪魔の従者だけに。
案外短い時間で森から出られたのだけど、そこには立派な街道が在った。
幻想郷に住んで長いわけではないにせよ、このようなものが整備されていたという記憶もない。
それでも、確信に至るにはまだ不十分な材料。
湧き上がった疑念が確信へと至ったのは、街道の先に見えた、幻想郷のそれとは違う街。
陽はまだ昇ったばかり。
洋風の建物が並ぶ街並みには人が溢れており、そこかしこからは、色とりどりの野菜や果実を売る賑やかな声が挙がり。
歩いていく人々も、幻想郷に住む人たちの服装や顔付きとは大きく違い、妖怪の姿も見受けることができない。
街の規模も幻想郷の人里とは比べられないほどに大きく、けれどもどこか暢気な雰囲気の漂う田舎町のよう。
(懐かしいわ、あんまり心地の良い懐かしさではないけれど)
自分が幼少を過ごした街と、雰囲気が似ている気がする。
十六夜咲夜、という名を授かってからは思い出すことも減ったのだけど、苦々しい記憶は心の奥に棘のように突き刺さっているもので。
それがフラッシュバックするたび、暗闇で一人、じっとナイフを見つめる、それが心を不思議に鎮めていく。
我ながら暗いとは思うけど、これでも随分と前向きになったほうなのだ。
醜い傷跡を覆い隠すのは、主人であるレミリア・スカーレットと出会ってからの日々。
決して楽しいことばかりではなかった。むしろ無茶な要求に辟易することばかり。
けれども、悪魔の従者としての生活はどこか艶やかで可笑しくて、乾ききっていた心に沁みこむものがあった。
初めは戸惑い、人に失望した自分にはそれがお似合いと自嘲していたけども、それも幻想郷に来ることで変わった。
一癖も二癖もある人間や妖怪たちとの出会い、それに誰よりも全力で楽しもうとする、永遠に幼き赤い月。
それを見ていると、諦めて立ち止まることがいかに愚かしいことかと思えてくる。
ただでさえ命短し人間の身に、停滞している暇などない、おもしろおかしく生きるチャンスをむざむざ手放すなんて。
だから、この状況に置かれても、心には一点の曇りもない。
恐れ、悪いほうに考えていくぐらいなら、観光気分で楽しんだほうがよっぽど得だろう。
さて、小腹も空いたし、リンゴの一つでも買おう。
そうポケットをまさぐっても、残念ながらコインの一個も見つからずじまい。
これでは妹様の相手もできないと甲斐性なしを呪ってもしょうがない。
ああもういっそのこと、幼い頃の自分がしていたように盗んでしまおうか。
時を自在に操れる今ならそれは造作もない、けれど十分に分別がついた今するのは憚られること。
では、どうするか。
感嘆の声が上がっていく。その中心で、生き物のように舞うナイフたち、その一つ一つの軌道はすべて、自分の手の内。
舞い踊る銀のナイフたちは、自らの血肉と何ら変わるものではなく、大道芸として使うことにも躊躇いはない。
腹を満たすために対価を差し出すことは当然の理屈で、自らが信用をもっと置く技術で糧を得ることができるのならば、それは誇ることであり恥じることはない。
放り投げられていくおひねりは、すでに十分食事をとることができるであろう量にまでなっていた。
「あそこの柵の上に林檎を置いてくださいな。私がナイフで射抜いてみせますわ。
見事に射抜けたときには、賞賛を。もしも失敗すれば……。そうですねぇ、このおひねりを、全てお返ししますわ」
自信たっぷりな態度で呼びかけると、意地悪な観客たちは、我こそがと果物屋から林檎を掴みあげ、放り投げる。
到底一人では捕ることのできない量が宙を舞う。
美しく瀟洒な彼女が、無惨に失敗するところが見たい、困った顔が見たいと願うのも人の性。
それを嘲笑うように時を止め、静止した時間の中で林檎を空のバスケットに入れていく。
「嫌ですわ。食べ物を粗末にしちゃ」
薄く笑いつつ、一つ手に取った熟した実へとキスしてみせる。
何が起きたのか理解しかねている観客たちは呆然としたままで、それが少し滑稽だ。
そして、林檎をバスケットごと宙へと放り投げる。
当然空中でバラけていく林檎たち、人々の呆けた目はその軌道に釘付け。それを見届けつつ、落ちてゆく林檎たちを宙に留める。
さっき自分で言ったことに少し罪悪感は覚えるけれど、その一個一個に向かってナイフを放り投げる。
軽く指を弾いて動き出した時間、そしてナイフが突き立っていき、地面へと落下していく林檎たち。
「あらあら。こんなに食べ切れませんわ。どうしましょう」
素っ頓狂な声を出して煽ってみせると、現実にようやく戻った観客たちは、それこそ狂ったように賛辞を送りました。
彼女はサーカスの団員で、仲間たちに先駆けてパフォーマンスをしているのだ。
やれ彼女はきっと、妖精がからかいにきているのだと、観客たちはまことしやかに。
飛び交う噂は否定せず、おひねりと林檎を拾い集めていく。
これだけのお金があれば、数日間は食べることなら事欠かないか。
「それではこれで終わりですわ。また次の機会をご贔屓に」
質問攻めにされるのも厄介と、小刻みに時を止めて人混みに紛れこむ。
観客たちの手の中へ、林檎を一つずつ残して。
さて、いつまでもメイド服で居ればこの街では変に目立ってしまう。
そう考え、並んでいた質素な服と、メイド服を入れる麻袋を購入。
アッシュブロンドの髪も、これだけで人の目を集めてしまう、隠すための帽子も気に入るものもないし。
(ま、別にいいわよね)
いまは別に、悪いことはしてないのだし。
幼い頃は他人の目が怖くて怖くて、仕方がなかったけれど、それが今も完全には抜けきっていないのか。
つばの広い、貴婦人の被るような帽子を被って見て、自分のイメージにそぐわないと思わず笑ってしまった。
店主は美人に見える、どこかの令嬢にしか見えないと褒めてくれはしたが、丁寧に断っておいた。
自分はお嬢様なんていう柄じゃない。むしろその場所からもっとも遠い場所にあるのだと思っているのだから。
◆
「ん」
「如何なさいましたか紫さま」
「このみかん、酸っぱい」
「そんなことを神妙な顔で言わないでください、ひねりつぶしますよ」
◆
「どういうことなの……」
ただ単にどこか違う場所に飛ばされているだけならば――それは例えば八雲紫の逆鱗に触れただとかで解決できる。
このうら若き肌に嫉妬したのか、と舌打ちしても、彼女は現れなかった。
それもそのはず、『まだ、私たちは会っていない』のだ。
手に取った新聞に書かれていた日付は、幻想郷のそれよりも約十年は過去へズレている。
紫ババア出てこい、かかってこい! と叫んでも……。叫ぶ恨みもないのだけど。
目の前の空間が断裂を作ることもないだろう。今のうちに恨み言を吐いておくべきか。
自分は、過去に遡っていると仮定して、と咲夜は腕を組み考える。
まだ断定に至る材料は何一つとして手に入ってはいないが、少なくともここが幻想郷ではないことはハッキリしている。
そして、年号は誰に聞いてもズレている。自分の記憶が混濁していることがなければ、であるが。
(過去、どこかに私が居るのかしら)
入れ替わって、子供の自分が今幻想郷に居たとするならば、それはそれで面白い。
そうだとしたら、確実にお嬢様とケンカをしていることだろう。できれば、そうでない可能性に賭けたい。
もしもそうだとしたら、帰ったときに、非常に面倒なことになる。
林檎を齧りつつ、広場の噴水へと腰をかける。
一体、自分はここで何をすべきなのか、なぜ十年の月日を遡ってしまったのだろうか。
この時期というのは、自分の力一つで生きていくのが難しい時期で、死んでしまいたいとまで願った時期だったような。
できるならば、一番振り返りたくない時期だというのに、なんでまた。
ため息をつきつつ。
目の前を駆け回っていく子供たちの中に、過去の自分の姿を探してしまう。
幸せそうな子供たちの中に、自分の姿など在るわけがないというのに。
(ま、あの頃の私に、今の力があれば違う運命を切り開けたのかもしれない)
それか霧雨魔理沙のように、初めから幻想郷で生まれていれば。
東風谷早苗のように、外の世界でも恵まれ、愛されて育っていたならば。
自分は一体、どのような娘になっていたのだろうか。
少なくともこの手を血に染めることは、なかったのではないだろうか。
(こんなこと、なんで今更考えなきゃいけないのかしら。運命の神様は居るなら、とんでもないアバズレだわ)
今は幸せなはずなのに、友人だと思っていた彼女らを、まさか妬む気持ちが自分の中に湧くだなんて、思ってもいなかった。
自己嫌悪に、今日幾度目かのため息を吐いていると、いつのまにか目の前には子供が集まっていた。
くりくりとした目を輝かせて、一様に不思議そうな表情を浮かべていた。
「お姉ちゃん怖い顔してるー」
「どこか痛いの?」
自分もこうやって、笑えていたのならば。
ありえるはずがなかったIfの気持ちで揺り動かされなきゃいけないなんて、この筋書きはどうかしてる。
子供たちは皆、幼い頃の自分が着ていた者よりもはるかに良い仕立ての服を着ていて、赤みがかった顔はふっくら愛らしい。
愛情をたっぷりと注がれている彼らにとっては、物憂げにしている自分が新鮮にすら映ったのだろう。
「私が手を握って開いたら、その中に林檎が現れるわ。よくごらんなさい」
「うそだぁ」
「林檎なんておっきくて、どこにも隠す場所がないじゃない!」
「3、2、1、はいっ」
この瞬間に時間を止め、麻袋から先ほどの林檎を取り出して手のひらへと載せる。
種も仕掛けもあるこの手品に、この子らは一体どんな表情をしてくれるだろうか?
「そして時間は……」
動き出す、そう呟こうとした目線の先には、止まっているはずの時間を歩く少女が。
ぼろ布を纏い、手入れもされていない銀髪を無造作に結んだだけの少女。
止まっている人々の財布を抜いては、気づかれない程度のお金だけを抜いて返す。
そんな小賢い手を使っていたのは紛れもなく――目線に気づいた少女は、驚愕の表情を浮かべ、踵を返して逃げてしまった。
「待って! いかないで!」
そう言ってから、はっと口を押さえる。あれが過去の自分であったとして、一体自分は何を言えばいいのだろうか。
まさか、十年もすればお前は吸血鬼の従者としてそれなりに幸せな日々が過ごせるから、それまで我慢しろとでも。
そんな荒唐無稽な話をいきなりされて、それを生きる支えにしろというのも無茶な話である。
自分がそのような話をされたのであれば、目の前に居る者をまずは狂人かと訝しむことからはじめるに違いないのだから。
伸ばしかけた右手が力を失い落ちたとき、時はまた時間を刻み始めた。
落胆している自分、左手に握られていた林檎へ驚きの表情を浮かべる子供たち。
「お姉ちゃん今のどうやったの!?」
「私にも教えて!」
きらきらと邪気のない笑顔。
それに対して、力無い笑みを浮かべるのが精一杯だった。
◆
幼い子供が母親の乳房に吸いつくように、生まれたての草食動物がその場で立ち上がるように。
どうやれば、だなんて考える必要もなく、時間を止めることができた。
父や母の記憶はもはやおぼろげで、頼れるのは時間を止める能力と、たった一つ持たされていた懐中時計だけ。
孤児同士で肩を寄せ合うこともなく、大人へ媚びを売ることもなく。
一人きりの世界に閉じこもりながら生きてきた。
時間を止めればふかふかのベッドで眠ることだってできるし、美味しいものだって食べられる。
それらが自分のためにあるものではないとは知っていたけれど。
この能力だけは自分だけの物であって、そこに他人が介入してくるだなんて夢にも思わなかった。
けども先ほど噴水のところに座っていた女は、止まっているはずの時間の中で林檎を袋から取り出し。
こっちを、みた。
その瞬間、弾かれたように私は駆けだしていた。
時間は動き出していて、その中を逃げるのは骨が折れたけれど、また止めるのは叶いそうになかった。
止めるには、結構な時間がかかってしまうから。
走って走って走り続けて、喉がからからになったころになって後ろを振り返る。あの女は、ついてきてなかった。
「……」
追いかけてくるかもしれない。理由はわからないけれど、自分がもしも同じ立場ならば追いかける、そんな気がした。
そう思うと、今すぐにこの町から離れたいところ、これもはっきりとした理由はわからないけれど、会いたくないのだ。
けれど、もう一稼ぎしてからでないとそれも難しい。
(また、会うのかな)
自分のくすんだ髪と違って、彼女の髪は太陽の光を受けて、透き通るように輝いていた。
同じ色のはずなのに、ぜんぜん、違う。胸の奥が、燻るような感じがして、痛い。
綺麗な身なりの、同年代の子供を見ているときと似ているようで、違う。
彼らは私とは初めから住む世界から違っていて、同じ人間だと思ったことなんて一度もない。
そう思うだけで、何もかもを諦めることができるのに、あの女だけはどうしてか、いつまで経ってもざわめきが消えない。
同じ力を、多分彼女は持っているのだろう。髪の色も似ていた、いや同じ。同じ色なのだ、きっと。
なのに、どうして。
「どうして、私はあの人みたいに、なれないんだろう」
艶気のない髪をくしゃっと握りしめても、虚しい気持ちが増していくだけだった。
押し殺して見ないことにしていた部分。それを改めて見せ付けられると部分が苦しくて、歩くのも億劫になった。
今日はどこで休もうか。日はまだ高いけれど、これから一稼ぎするという気力もない。
橋の下か、街から少し離れた大木の下か。
いずれにせよ、今日はあまり良い夢を見ることはできない。
◆
幻想郷へと帰る方法が皆目見当つかない今、どうすればいいのだろうと考えているうちに夜になった。
必要分はあっても、決して潤沢とは言い難い財布と相談しつつ、それなりに見える宿に部屋を取り、気を紛らわせようと酒場へと出た。
血気盛んな男たちから向けられる好奇の視線を適当にあしらいつつ、見覚えのある酒を頼む。
ほどなくしてきたグラスをちびちびと舐めていると、いかにも頭の出来と気性の荒そうな若者が隣へとどっかり座った。
こういう手合いをあしらうのは面倒だけども、一人部屋でひっかける気分にはどうにもなれなかったのだ。
まずこういう場合の男の話とは、自慢話に始まり自慢話に終わる。自分の力を誇示することで女をなびかせることができると本気で思っている辺り、浅ましい。
興味がないという意味合いを込め、相槌を打たずにお代わりをバーテンダーへと要求すると、それを男は遮って「本当に美味い酒はこれだ」と勝手に注文をする。
はて、私はこの男に奢られるような筋合いはあっただろうか。当てつけのため、出された酒を一気に飲み干す。
喉の奥からカーッと熱くなり、心なしか頬が熱い気がした。大方の予想はついていた。強い酒を飲ませて前後不覚にさせようという腹なのだろう。
しかしこちらは幻想郷の酒豪連中に慣らされた身。この程度で落とそうと思われるのは心外だ。
追加の一杯を飲みながら、こういった単純な男たちが少し羨ましく思えた。
彼らは自分が渡り歩いてきた世界の一端も知らずに、力自慢腕自慢を競っているのだろう。腕相撲に歓声が上がっている。
例えばしつこく話しかけてくるこの男。一夜を過ごす女が世の中にはいるから、こういう手合いは減らない。
自分は一切お断りではあるけれど、一夜の契りや一夏のアバンチュールに興じるのも、ごく一般的な人生の楽しみ方ではあるのだろう。
酒が回ってきたのか、机をひっくり返す大喧嘩が始まった。やんややんやと囃したてる男たち。
隣で延々と壊れたテープレコーダーをしていた男も、腕捲りをしてその中へと加わっていった。
ニカッと笑った白い歯が少しうっとうしかったけども、これ以後会うこともあるまい。
いい所を見せたいであろう彼には悪いけれども、人の殴り合いだとかを見て酒を飲む趣味はないのだ。
弾幕ごっこであればいい酒の肴になるのだけどもと嘯きつつ、勘定を置いて酒場を後にした。
今夜は涼しい風が吹く。酒で火照った頬には、それが心地よく感じられた。残念ながらお月様は欠けていたけれど。
「少し歩いてみますかねっと」
女の一人歩きは危ない、なんていう常識ほど、自分に縁遠い言葉もない。
幻想郷ならば妖怪が闊歩している分危ないのかもしれないけれど、ここは幻想郷ですらない。
安酒で気が大きくなったチンピラや「ぐへっ」素面の癖にまともな判断を持たない脳筋など「むきゅう」道端でのびてもらったほうが世のためで。
自分に害をなす存在になりえるわけもなかった。
しかしまぁ、ないとは思うけども、凍死させてしまえば夢見が悪い。
新聞紙でも被せておけば、最低限の暖は取れるだろう。一応こちらは正当防衛の身、これだけしたらお釣りを貰いたくてしょうがないぐらいだ。
「ま、これでいいか」
男の口に新聞紙を詰め込む作業も飽きた。ぱんぱん、と手を払ってから、この場は後にする。
酒の火照りは冷めてきたけれど、宿場へ帰るにはまだ早い、早すぎる気がする。なんとなく。
やけに涼しく抜けていく風に任せて、当てもなく――けれど確実にどこかを目指して、歩を進めていく。
予感が何の結果を生まなくとも、それはそれでいいのだ。
宿のベッドで悶々と考えていて道が切り開かれるのであればそうするけれど、大抵こういうときは自分の足を使って歩いたもん勝ち。
博麗の巫女だって、異変のときには勘に任せて飛んで行ったら、いつのまにか元凶をぶち倒しているじゃないか。
こんなことを考えるなんて、以前までの自分であれば決してなかっただろう。
無駄なことは一切切り捨てて、最小限の労力で最大の効果を求めるべく行動する。
それがレミリア・スカーレットに仕える前から、そして十六夜咲夜となってからも理念になっていたはずだけども。
いつのまにか融解していた自分は、これまでの自分を厭世的だと笑えるようにもなっていた。
私は今までのように無駄を排除した生き方もできるし、こうしてぶらぶらと、夜風に吹かれながら口笛を吹くことだってできる。行儀は悪いけれど。
この変化というのは、いつのまにか自分の中に溶け込んでいて、気が付いたときにはしっかりと根を張っている類のものだ。
ならば私のいますべきことは一つ。生き方を知らぬ少女に会いに行こう、そうしよう。
それで何が変わるか、帰れる保証があるのかなんて心配は一つもいらない。
なんとなく、どこに居るのかも知れぬ少女へと会いにいこうと思い立ち、そこへ遊びに行くことを決めただけである。
今、私には、十六夜咲夜には、そういった遊び心を持って行動することが許されているのだ。
すごいでしょ?
「そう」
だから紅魔館に私は帰ろう。自分が帰る場所、居るべき場所は紅魔館の、ワガママな悪魔の傍なのだ。
例えばここが本当に過去だとして、ここからの運命を変えられるチャンスが転がってきているとして。
でも私は、チーズケーキを口いっぱいに頬張ってふがふが喋るご主人様。口元に破片をつけていたら何を言っても締まらない。
小難しい本ばかり読んでる、いつか頭からキノコでも生やすんじゃないかっていう魔法使い。
まぁ、キノコが生えていたほうが、魔理沙にはウケがいいんじゃないんでしょうか? とからかったら頬を膨らませて歩いていった。
何を考えているかわからないけれど、近頃は機嫌良さそうにしている悪魔の妹に、お日様みたいにぽっかぽかな笑顔を振りまいている門番や。
彼女らと出会い、私は今、幸せであると何の躊躇いもなく言える。胸を張って。
手櫛をしてみて、自分の髪が今、いかに手入れされているものかを知る。
先ほど見た同じ髪の色の少女は、手櫛も満足に通らない生活をしているのだろう。
けれど、それが今の自分に直結していたとしても、私は施しをしようとは思わなかった。
私にとってはもう過ぎた過去であり、彼女にはこれから、立ち向かっていく未来。
何の運命の悪戯か、それが奇妙に重なったとしても私は。
「一足先に、幸せになってるってことを自慢するぐらいしか、することってないんじゃないかしらね?」
薄い月光を、銀色が跳ね返している夜に、大木の根元で目を薄く閉じかけている少女とついに出会った。
「こんばんは、いい夜ね」
「……」
私の言葉に、たぶん幼い頃の私は、怯えの混じった目を返してきた。
私にも会える予感があったように、彼女にも会ってしまう予感があったのだろう。
どこか観念したような、そんな表情が伺える。
「あなたは、誰?」
「さあ、誰でしょうね。私が聞きたいぐらいだわ。自分が誰なのかってこと」
「よく、わからない」
「でしょうね」
この世界が、私の知る十年も前だとするならば、ここの世界に私の居場所なんてものは存在するわけもない。
十年前の世界での私とは、きっと目の前に居る幼い日の私が立っている朧げな足場ぐらいのものだろう。
そこに二人分は、乗っかることはできない。
「あなたは今、幸せかしら? ちなみに私はすっごく幸せよ。なんでこんなところで散歩をしているんだろう。
だなんて考えて憂鬱にならない程度には幸せ。お酒を飲んで、火照った体を夜風で冷やしてるうちに、知らない子供に話しかけてしまう。
それぐらいに今の私には余裕があるわ、幸せをおすそわけしたいぐらい」
私が歌うように言うと、私はとても嫌そうな顔をした、今にも泣き出しそうだった。
「どうしてそんなに悲しそうな顔をしているのかしら。お姉さんにはわからないわ。
こんな素敵な月や星々が照らしている下で呼吸しているのよ、それだけで幸せじゃないの」
「幸せって、そんな簡単なことで語れないもん」
「いいえ違うわ。幸せというのはそういった些細なものの積み重ね。
大金を得るだとか、誰かを傅かせるだとか、おいしいものをおなか一杯食べるだとか……。
そういったものも幸せかもしれないけれど、もっと小さなことで満たされるのよ」
瞼の裏には、水切りに夢中になっている主人と門番が浮かんでいた。
あんな単純な遊びに二人して夢中になって、それでも二人はこれ以上もなく、幸せそうだった。
「難しくて、よくわからない」
「きっとあなたには、まだわからない」
そう、最近になってようやく、私は幸せを掴むことができたのだ。
この子だって、それ相応に苦労をしてもらわないと、割りに合わないでしょう?
誰ともなく悪戯っぽく微笑むと、なんだか胸が気持ちよくこそばゆくなった。
目の前の私は、今にも糸が切れて、泣き出しそうにしているというのに。
「そろそろ帰るわ。私は私の場所に。じゃあね」
「……」
語ることはもう、何もないと、私は私に別れを告げ、踵を返した。
あまりにもあっけない邂逅で拍子抜けしたけれど、これ以上、何を語れというのか。
がんばれば幸せを掴めるとでも? 突然現れて、突拍子もない話をして説教をして、信じろとでも言うのか。
そうではない、私は私なりに必死に、一生懸命に生きてきたのだ。
そんな私の居場所は、紅魔館の悪魔の隣であり、これ以上なく満たされている。
過去の自分に、そのことを少しぐらい自慢したって、罰は当たらないでしょう?
◆
「……つまらないわね、何もせずに帰ってきたわ」
「何がですか?」
「銀色で丸いもの」
「またUFOだとかなんとかいって騒ぎ立てるんですね、もうそれは飽きましたから別の話してくださいよ」
「こ、今度はUFOじゃないもん……」
「だったら抽象的に言うのやめてください」
「……ああいう連中が二人寄ると、一人じゃ起きないことも起こるの」
「はぁ、溶き卵に醤油を入れてご飯にかけると美味しいとかそういうことですか」
「もういいもん。藍のばか」
「はいはい」
◆
パチリ、とスイッチが入ったように目が覚めた。
いつも通りの天井、普段通りの体調。
掛け布団をどかして体を伸ばしてみると、いつもよりも身体のキレが良さそうだった。
「あぁー、変な夢を見たわ」
首を回してから、自分の服装がメイド服のままだということに気づく。
そんなに疲れていたのだろうか、着替えもせずに寝入っていた昨晩の自分には呆れた。
時計を見てみると、仕事をはじめなければいけない時間にはまだまだ余裕がある。
窓の外ではまもなく、日が昇ろうとしていた。幻想郷の、新しい一日が始まろうとしている。
「私は幸せなのよ、今日も、明日も、たぶん明後日もその先もずっと」
誰にでもなく呟く言葉。ほのかに香ってくる林檎の香りが、どこか懐かしい。
あの時違う選択をして、今と違う道を辿っていたら――変わった先は、幸せな人生だったんだろうか。
運命というものが存在するのならば、それは口に含んでみるまで、甘いか酸いか、苦いかもわからないものだ。
私のした選択は、非常に保守的だったのかもしれないが、私は私で、この人生を必死になって掴んだのだ。
誰にも譲ってたまるものか、それがたとえ、過去の自分であったとしても。
「さーて、今日はお嬢様に何を振舞おうかしら。たまにはパチュリー様にも差し入れをもっていこうかしらね。
あまりに放っておくと、あの人干からびていそうだもの」
十六夜咲夜は、素晴らしき人生を歩んでいける、そう胸を張れる。
これまでも、そして、これからも。
◆
自信に満ち溢れていた女が去ってから、私はしばらくうずくまったままでいた。
あの女は私に似ていると思ったけれど、そんなことは全然、なかった。
私のことを鼻で笑って、自分はいかに幸せなのかを一方的に語っていって。そんな話し聞きたくなかったのに。
例えばあの人が私にとっての、物語に出てくる魔法使いで、そのままお城の舞踏会へ連れて行ってくれるだとか。
せめて、今晩ぐらい暖かいスープを飲ませてくれるだとか、そんな施しもなくって。
彼女が残していったものといえば、装飾もない、そっけないナイフが一本。
忘れていったのか、意図的に置いていったものなのかはわからないけれど。
「いいよ、こんなものでも、何も持っていないよりもずっとマシだもの」
ぼろ切れみたいな私には、こんなそっけないナイフですら、眩しく映って見える。
冷たく、鈍色に月の光を反射しているだけのはずのそれが、なぜか暖かく思えたのはどうしてだろう。
今夜は、これを抱いて寝よう。
放り出されていた鞘へとナイフを収め、私はそれを胸元に抱いた。
もう、顔も思い出せなくなった母や父の温もりを、どうしてか、そこに感じたような気がしたのだった。
そんなことを考えてしまいました。
小さい時の咲夜さんは、何を幸せだと考えながら過ごしていたのでしょうね。
瀟洒な語り口だこと
このSSならば、ご飯が口に入れれること。時折布団で眠れること、程度じゃないでしょうかね。
ううむ。
咲夜さん一人称で、かつ軽快な語りにぐんぐんとひきつけられました。やっぱり氏は読みやすい。ところどころ遊びすぎかな、と思わないでもない書き方もあったのですが、むしろそれがこのお話を引き立たせているようにも思えました。
今の私が、時間を戻せたら……あぁー、それなりに今に満足しているから、きっと咲夜さんと同じように何もすることはないんじゃないかなぁ。
そして羊さんも
これはきっと語り手が涼やかに、ただ日常の些細な一時を楽しんで過ごしていたからだと思います。
そしてそう過ごせた理由、彼女が今を素晴らしいと言えたことが、何より幸いだと感じました。
とても面白かったです。
俺はあなたが生まれてきてくれて良かったと思いますよw
そしてお帰りなさい、羊さん。
咲夜さんが少女に贈る、ナイフと自分の現在についての自慢。
咲夜さんはきっとまだ暖炉で暖まっている段階で、自分に似た誰かのために暖炉を作ることは出来ない。
そんな咲夜さんの一見冷たいプレゼントに、でも暖かさの残り火が残っていて。
すごく、らしいな、と感じました。
そして……俺も女の子に生まれて少女臭を撒き散らしたかったです……。
すげーおもしれーんですけど!?
流石です
電気羊さんもまた調子が出てきたようで何よりです
ゆかりんかわいいよゆかりん
しかし、紫は何を思ってこんなことを……暇だからかな^^;
本編も良かったですけど後書きで感動しました。
もう咲夜さんとお嬢様の絆が素敵ですね。
それと紫様はいたずらも程ほどにして下さいw
>>66
今回紫、実はなんもしてません……^p
ひょっとして美鈴の日記に出てきた、咲夜が見た不可思議な夢ってこの話の事かな?
お、正解ですよー
咲夜さんみたいにゃ、いかんねえ。
良い作品でした