「そうだわ、自分の物には名前を書きましょう」
ぽんっと手を叩くと、早速マジックペンを取り出し、キュキュキューと聖は「ひーじーり♪」と声に出しながら、プレゼントしたばかりの湯飲みに嬉々として名前を書き始めた。
ぐはっ、とその光景にキュンハートを直撃され、一人パーフェクトな笑顔のまま内心で悶える私。
あまりにも愛らしすぎる聖の萌え的な人畜無害っぷりに悩殺されつつ、私は込み上げるにやけをそれでも押し込め、微笑レベルに留めながら「そうですね」と力強く頷いていた。
「どう? 上手く書けたかしら?」
「ええ、相変わらずの達筆です。ほれぼれしますよ」
「うふふ、ありがとう♪」
やだ眩しい!
聖の後ろに、真面目に後光が見えた。
その光景に、根拠なく世界は優しく、皆が分かり合えると確信できた。
感動で涙し、頭上の帽子を敬意を示す様に胸の前に持っていく。「神よ、感謝します」とか、仏様に西洋風に拝んで、私はそのまま満足げな聖にくるりと向き直る。
「ねえ聖。どうせだから他の私物にも名前を書いたらどうです?」
「あら。それは良い考えね」
おやつの時間様の湯飲みを差し出して言うと、聖は「まあ!」と嬉しそうに頷いて、湯飲みを受け取る。
にこり、とマジックペンを構えて「ひーじーり♪」と名前を書いた。
やだまた声に出てる!
もう死ねるぐらい幸せだった。
「……駄目! 仏様に感謝してもしきれない!」
可愛いが正義って、つまり可愛いって究極の平和って事よね!
キュキュキュッとペンを振るう聖の横で、私、村紗水蜜は両拳を握り締め、「聖ってば、かーわーいーいー!」とさながら崖っぷちから荒れ狂う海に向けて叫ぶポーズで、勿論口には出さずに心の中で叫んでいた。
そして。それが。
後の私の不幸に繋がる。『私物に名前を書こう』が、私たちの間に普及した始まりだった。
◆ ◆ ◆
少し前。
聖が「私物に名前を書いているの♪」と、それは楽しそうに湯飲みを見せてきた。
その隣で、ムラサがにこにことお手伝いをして、「どうせだから皆もどうです?」と言い出した。
それに、単純で明快な愛らしき私の仲間たちは、聖が言うなら、とばかりに、各個に分かれていそいそと筆やペンを片手に、私物を漁り始めた。
そして、それは私のご主人様も例外ではなかった様で。
キュッキュキュー。
と、マジックを操る小気味良い音を立てながら、ご主人は夏用に買っておいた風鈴に「しょーう」と口に出しながら名前を書いていた。……平仮名で。
ぐはあっ、ときた。
「よし。完成です!」
「……そ、そう」
ふんっ、と自慢げに鼻息をたてたりして、無地だった風鈴に小さく描かれた自分の下手くそなイラストと名前。
がおーって文字も書いてあった。
「どうです? 上手く書けたと思いませんか?」
「……ああ、とても上手だと思うよ」
風鈴に描かれたイラストの隣には、当たり前の様に私もいた。下手くそな私のイラストの横には、「なずーりん」とか小さく書いてあって、ついでに小さくハートもあった。チューともあった。
瞬間。「……っ!」と、込み上げる奇声と震えを、私はご主人と目を合わせない様に気をつけ、気づかれない様にと押し殺した。
くそ。油断した!
「ふふ、私には絵心はないですが、意外に上手く書けて嬉しいです」
「そ、そうかい」
ご主人は、上ずった私の声に気づかないまま、にこにこしながら風鈴をチリンと鳴らし、虎の癖に「ガオー」ではなく「ニャガー」とか鳴きそうな、たまらなく無害そうな表情で喉をゴロゴロと鳴らしていた。
……く、くそっ。君は本当に恐ろしい奴だよ!
思わずふらふらと伸びかけた手を、ガシッ! と押さえて喰い込むぐらいに爪をたてる。
踏みしめかけた足の裏がじりっと熱を持ち、内側から破裂せんと今にも爆発寸前の、この衝動を押さえ込む。
……そうだ。私は何を考えているのか!?
私は、私のご主人。寅丸星の監視役でもあるのだ。だというのに、ここで私情に流され、毘沙門天の弟子としてアレなぐらい愛らしいご主人様に。「ふっふっふ。流石は私のご主人だ。素晴らしい! これこそが至高の芸術だ!」なんて本心を言ってしまうなんて言語道断!
注意こそすれ、その喉元を撫でて撫でられたいとか、間違っても思うべきではない! そう。これは罠だ。キャプテンムラサの恐るべき罠なんだ!
「あ、そうです」
ハッとした。
私の苦悩も知らず、ふとご主人が風鈴を置いて、よいしょっと私と向き直り、難しい顔で私を上から下まで見つめ始めた。
「な、何だい急に? どうかした」
「はい」
一つ頷いて「うーむ」と顎にマジックペンをあてて、そのまま唇をマジックペンでふにふにして、それからほっぺたまでもマジックペンでつつきながら、ご主人は思考している。
私の内側から凶悪ともいえる欲求が荒れ狂っているが、それを表に出すことを許していないので、ご主人は酷くのほほんとほのぼのオーラを漂わせた。
「あのですね」
「だから何だい?」
「ナズーリンのどこに、私は名前を書けばいいでしょうか?」
……は?
あ……
え?
目の前には、キリッとしている癖に、ほわんとしているアンバランスな雰囲気が魅力的なご主人で、マジックペンをついには無意識に咥えてガリガリしながら考えている。
「……ご、ごごごごめん。聞き取れなかった。何だって?」
「ああ、すいません。もっと大きく言います。―――ですから、私はナズーリンのどこに、自分の名前を書けばいいですか?」
ニャガー。
って猫科の鳴き声っぽいものが頭の中でエコーして聞こえてきた。
マジックペンを口から出し、歯形だらけのマジックペンにふたをして、ゴロゴロ喉をならすご主人の犯罪級のカリスマに、私の頭はどうやら重大な損害を受けているらしい。
どうしても、今の言葉の意味を噛み砕いて自分なりに解釈ができないのだ。
「……名前?」
「はい」
「……私に?」
「そうです」
きっぱりと頷いてくれるご主人様に、流石に意味がじわじわと理解できてきて、そして「そうです」と言った時に、八重歯が「ガオッ」と見えて、もう全てが虎色で何でも良い気がしてきた。
あれ? これはキャプテンムラサが授けてくれたチャンスなのか? とか関係ないことまで思考する始末だ。
「……駄目ですか?」
「い、いや。駄目も何も、わ、私は、ご主人様の部下であって、私物ではないし」
「そ、……そう、ですか」
思考が真っ白な内に、私の無意識が内の動揺を悟らせないぐらい私らしく答えていて、気づいたら、目の前には何だか傷ついた表情で、しょんぼりと肩を落とすご主人がいた。「……ニャガぁ」って、悲しげな鳴き声が、またも頭の中で聞こえてきて、私は焦る。
「い、いや。ご主人?」
「いえ、いいんです。……すみませんでしたナズーリン」
ぺこりと、ご主人は頭を下げる。
ああ、そんな……
何故か、酷く動揺して、喉がカラカラに干上がった。
「……そうでした。勘違いをしていました」
「ま、待ってくれご主人、話を聞いて!」
「そういえば、私はまだ、ナズーリンに告白もしていませんでしたね……」
「私は―――、……え?」
うっかりとしていました。とばかりの弱々しい表情をして、ご主人は「少し、立って頂けますか?」と私を促す。
私は、もう訳が分からないままに、言われるままに立ち上がって、ご主人と向かい合い、その瞳を見上げた。
「ナズーリン」
「……あ」
だ、めだ。
反射的に、ご主人の言葉を待つ前から、心が、すでに答えを見つけてしまう。
それは、駄目なんだよ、ご主人……っ!
「ナズーリン。私と」
「ご主人、それはッ」
「一緒に死んで下さい!」
「って重ッ?!」
死ッ!?
命の危機的身の危険を感じて突き飛ばした。
いや、いやいや! あれ? 私のご主人って病んではいなかったよね?
「いたっ? え? あれ?」
流石というか、ご主人は力の限り思い切り突き飛ばしたのに、少しよろけただけできょとんと不思議そうな顔で体勢を立て直す
「ど、どうかしましたか……?」
「どうしたもこうしたも、いきなり一緒に死ねとか、びっくりするよ!」
「えぇ? でも……」
オロオロして。
服の下から、いつもは隠している虎の尻尾まで出てきて、床をビタンビタンし始めた。
どうやら相当悩んでいるらしく、尻尾がクエスチョンマークみたいになって固定された。
「……あ!」
そして、ポンッと手をたたく。
「そうです! ナズーリン、一緒のお墓に入って下さい!」
「まさかそれが言いたかったのかい?!」
「はい!」
思い出せて嬉しそうなうっかりご主人に、さっきから緊張しっぱなしだった身体から、がくりと力が抜けていく。
「……それは、何とも古風な告白だね」
「はい。……最初は、毎日お味噌汁を、といった告白も考えていたのですけど、どちらかといえば、私は一輪の作るお味噌汁の方が好きだったので止めました」
…………。
あ、今ムカッとした。
このご主人め……
言わなくても良い所とか、聞きたくない所をあっさりと話す辺り苛立ちが募る。
「へえ、じゃあ、一輪に告白したらどうだい? 案外オーケーしてくれるかもよ」
「? どうしてですか、私はナズーリンと一緒にいたいのです」
「っ」
皮肉が純粋のカウンターで返ってきてのけぞる。
かあっ、と、一瞬で身体が沸騰する感覚。
驚いてご主人を見上げると、ご主人は真面目な顔で、縞模様のふさふさ尻尾をふりふりしていた。
「ほ、本気なのかい?」
「ええ、勿論です」
「だ、だって、どうして……、私なんかの、何処がいいって言うんだい?」
「……そうですね」
ご主人は、柔らかく微笑んで、頬を照れ臭そうにかいた。
ドキリと、すでに限界近く高鳴っていた鼓動が更に早く、うるさくなる。
「私は……。ナズーリンがいないと、落し物が見つからないのです。ですからナズーリン、私には貴方が一生必要なのでぶふッ?」
「ッ! 死ね! 君は一刻も早く地獄に落ちてしまえっ!」
尻尾で、遠心力を利用して強烈に頬をぶった。
この虎! 傍にって、一生って、まさかそっちの意味だったのか! くそっ! 期待なんかしてなかったぞ! 本当だ!
つまり、ずっと自分の部下でいてくれってのを、洒落た良い回ししただけって事か!
名前とか、それは、……そういう事なんだ!
「? 痛いです」
「当たり前だ!」
「……?」
赤らんだ頬をすりすりしてから、ご主人様は心底困惑混じりに目を細めた。
「え、えと。続けていいですか」
「勝手にすればいい……!」
ぷいっと横を向いて、これからの、自分の勘違いを間抜けだと笑うために、しっかりとご主人の口から聞こうと、私は仁王立ちでご主人を睨むように見上げる。
ちょっと泣き出しそうなのは、私がただ馬鹿だっただけで、ご主人のせいではない……!
歯を喰いしばる私を、ご主人様は悲しそうに見つめながらも、そうですねと頷く。
「私はですね」
「……ああ」
「そう、私はナズーリンの尻尾のふりふりも好きです、可愛いですから。それに耳も素敵だと思います。毎日撫でてみたいといつも見ていました。おすすめは、チーズを頬張って食べている姿です。普段のクールさが消えて、可愛らしくて、ドキドキします」
……ん?
「私が困っていると、少し冷たいながらも最後まで助けてくれる貴方に、いつも申し訳ないと思いながらも、どこか嬉しくて心が温かくなりました。私を『ご主人』と呼ぶのが、少し嫌だと思い始めてから、貴方に名前で呼んで欲しいと、願ってから。…………私は、私の気持ちをようやく知りました」
あ、……え?
「貴方が好きです、ナズーリン。これからも、私の傍で、私のモノであって欲しい」
「ちょ」
何?
「私を貴方に差し上げます。いえ、差し上げたいのです」
……う、そ。
え? だって、ええ?
「……ご、ごしゅ、じん?」
足が、一歩動く。
後ろにではなく、前に。
手を伸ばして、呆然としながらも、その手を取ってしまった。
「……貴方を、幸せにしたいです」
「ぁ」
そうして、
ご主人は、チラリとマジックペンを目にしてから、すぐに逸らして、「あーん」と口をあけた。
ガプリ、と。手首に、大きな歯型。
それは間違いなく。私がご主人の『モノ』だという証。
痛みと、熱と、膨大な喜び。
っ。……もう!
……駄目なんだって、知っているのに、なのに、君はずるいなぁ。
これから、どうしようという不安より、嬉しいという気持ちが大きすぎて、私はご主人に悪態を、たくさんたくさん吐いてから、
ご主人に、思い切り抱きついた。
「私もッ、好きだよ。君のこと……!」
「ええ、ありがとうございます」
幸せそうに笑う虎に、鼠の私は笑って、その首筋に、赤く赤く、私の証をつけた。
これで、君も私のだ。
◆ ◆ ◆
チリン、と涼しげな音が聞こえる。
「?」
蹴飛ばされたみたいな、その唐突な音に、私は「そこか?」と部屋を覗いて、見たら、星とナズーリンが抱き合って、静かに抱擁していた。
「…………」
チリン……と、彼女たちの足元で、また蹴られて、風鈴が悲しげな音をだした。
とりあえず、私は唖然として、更に、彼女たちの向こう側。窓の外に、傘の妖怪が『ぽかーん』として見ているのに気づいて、再度唖然として、目が合って、同時にそっと逸らした。
「……さて、二人は何処にいるのかしら」
見なかった事にした。
ついでに、彼女の事も見なかった事にして、すたすたと歩き出す。
私、雲居一輪は、姐さんこと聖白蓮と一緒に、私物に名前を書いていたのだけれど、そろそろ昼食だからと二人を呼びに来て、結局私は何も見なかったし見つけ出せなかった。
そうだ。二人は見つからなかったのだ。
「……さて、雲山は」
頭を真っ白にしたまま、相棒を探して窓の外、無限に広がる青空を見上げる。
雲山は、大きく空に『雲山』と達筆でもこもこ雲で書き、渋く太陽を見上げていた。
「……ふっ」
そうか。大空はお前のもの。
なかなかスケールがでかいじゃないか。
じゃあ、私もスケールでかく、姐さんにお願いして、名前を書いて貰おう。そうだそうしよう。
力強く決意し、歩くと、目の前にセーラー服の少女が現れた。
「あれ、一輪、星たちは?」
「知らない分からない私見てない」
「え? 何でそんなに動揺してるの?」
「してない。私元気」
「……え、っと。ならいいけど」
隠し切れない動揺が、不自然極まりなく外に出た。
ぶんぶん首を振り、聞いてくれるなと必死で目で訴えると、彼女、聖輦船の船長、村紗水蜜。通称ムラサは半笑いの表情ながら、これ以上の追及を止めてくれた。
ああ、ムラサ。貴方のそういう所が大好きだわ……
だから、そんな可哀想な人を見る目で、優しく労わる様に、理由も聞かずにそっと手を引いてくれないで。
別の意味で泣けるから。
「じゃ、行こうか」
「ええ、ありがとう。……でも優しくエスコートしなくてもいいから」
「大丈夫よ。さあ、聖が待っているからね」
「……泣きそう」
こういう時は、その優しさがただただ残酷だと、私は初めて知った。
そして、ムラサに手を引かれながら、そう私と変わらない手の感触に、ふと二人の事を思い出す。
そういえば。
ナズーリンの手首に、噛み跡がついていた。
「ッ!」
一瞬の光景を、しっかりと記憶してしまっている頭と、そんなものまで目ざとく発見する自分に、羞恥でボッ、と耳まで赤くなる。
慌てて首を振って、村紗の背中を押した。
「わわ?」
「い、いいから早く行きましょう。お腹がすいたわ」
「? ええ、そうね」
明らかに不自然すぎる私に、でもムラサはにこりと微笑み、昼食の献立を話題に上げ、私との会話を尽きさせる事なく、流石船長と唸るぐらい、真摯で紳士な会話術だった。
おかげで、私も随分と気が楽になる。
「……ありがとうムラサ」
「いいえ、お気遣いなく。お客様の心の安全も、私のお役目です。ではレディ、お手をどうぞ」
「……この」
「あはは。さあ、行きましょうか」
頬を膨らませると、ムラサはあっさりと船長を止めてくれた。そのまま普通のムラサになって私の肩を叩いてくれる。
だから、私は少しだけ、あの二人の事を頭から外せたのだった。
でも、私にはそれからが大変だった。
あれから、どうにも姐さんを意識してしまってしょうがなかった。
昼食の席でも、チラチラと姐さんを盗み見て、勝手にどぎまぎと動揺して、私が挙動不審だと不思議がるぬえと姐さんを、ムラサが当たり前の様にフォローしてくれた時は、さっきとは違う意味で涙がでそうになった。
……今度、お礼にお菓子を贈ろう。
ムラサを青空に笑顔で浮かべて拝みながら、私は「ありがとう」と再度呟いた。
それから、昼食に現れなかった二人の事を考えて、もしやあれから……なんてピンクの妄想を念仏で掻き消して、墨と筆を片手に、また自分の物に名前を書く作業に入る。
「……まったく。ふ、二人ともこんな時間から、破廉恥な」
にゃんにゃんちゅーちゅー、勝手にしていればいいのよ。
『ナズーリン、君は素敵です』
『あぁ、ご主人』
勝手な妄想が、ぽんぽぽんと、二人を無限のお花畑の中で追いかけっこをさせて、またぶんぶんと頭を振った。
……くっ。
小物入れにさらさらと筆を走らせながら、気にしない気にしないと思い続けて、どんどん気になって、頭の中がそれ一色に染め上げられんとした瞬間。私はがばりと立ち上がる。
「あー! もう! き、気になるなら、原因を特定すればいいのよ!」
鼻息荒く、小物入れを乱暴に机の中に閉まって、私は歩き出す。
いや、別に二人の部屋を覗きに行くとかそういうのではなくて、あの二人のやり取りが、どうにも胸をくすぐって、私を急かしてしょうがないのだ。
そして、原因が分からないままでも、ずっと姐さんのことが気になって意識して、お話したくて落ちつかなかった。
そうと決まれば、とばかりに、私は足音荒く廊下を踏みしめる。
そのまま、早歩きが駆け足に、そして疾走になるのに時間は掛からず、ムラサに見つかったら「もっと大事に歩いてよ! 廊下だって生きて、立派に呼吸をしているのよ!」とか、元、聖輦船である命蓮寺で、一番この寺に過保護になった彼女の怒声が飛ぶだろう。
ごめん、ムラサ! 今だけは見逃して!
って。そうこうしていたら、早速ムラサに発見された。
ムラサは、愛用の錨の山に名前を書いている途中で、私を見つけるとすぐに眉間に皺を寄せて、全力疾走している不埒を怒ろうと私と目を合わせて、一瞬で、私の意図を読んでむぐっと口を噤んだ。
それから、もうさっさと行きなさいとばかりに、ひらひらと手を振った。
ああもう! ムラサってば紳士だ! さっきから本当にありがとう!
私、姐さんと雲山がいなかったら貴方に恋に落ちていたわ!
愛をこめて(テンションがどうかしていた)投げキッスを不器用に贈ったら、ムラサはガコン! と錨を落として床に穴を開け、少しだけ頬を染めて「……くっ。ドキッとした自分がむかつく」と、私に嬉しい事を言って、早速開いた穴を修復しようとしていた。
途中、廊下の角に何故かいたぬえに、ギロリと敵意を込めて睨まれたけど、疑問を感じるより先に走っていた。
そして、辿りついた、姐さんの部屋。
「し、失礼します」
「あら、一輪ね。どうぞ」
姐さんの許可を貰い、ドキドキしながら部屋に入る。
部屋に入った途端、鼻腔を緩やかに刺激する姐さんの香り。視界を占領する、姐さんの微笑み。
トクン…と、また、うるさく胸が騒いだ。
「どうしたの?」
「あ、あの。……実は」
心臓付近の服を握り締めながら、私は姐さんの顔を見られずに、頬を赤くしている自分を知りながら、先程の葛藤の件を言い出せず、姐さんの手元を見た。
姐さんは、黒い下着にどうやって名前を書こうかしらと迷っている様だった。
「…………」
先日、里の守護者さんと呼ばれる方が、良かったら皆さんでと。大きいのは見つからないだろうし、利用してくれと、主に姐さんへと快く差し出してくれた。存在感に溢れるゴージャスなその布地が――――
「って失礼しましたぁ!!」
「え?! どうしたの?!」
「姐さんおっきすぎじゃなくて、あわわわっ!?」
床に頭突きして、煩悩を弾け飛ばす。
おかしいおかしい。どうしてこんな、動揺することなんてないのに! 女同士だし。いやでも姐さんで。
「一輪?」
「わきゃ?!」
頭突きしていた額を、ぺたりとおさえられて、心配で顔を曇らせた姐さんの顔が、酷く近かった。
「――――」
「もう、本当にどうしたの? そんな事をしたら、痛い痛いよ?」
にこっ、と笑う、大好きな彼女の微笑み。
じわりじわりと、優しく撫でられる額から、彼女の気持ちが伝わってくる。
「……っ」
あ、そうか。
ことりと、胸が静かに騒いだ。
理解はゆっくりと身体全体に沁み込んで、私は、姐さんと見つめあいながら、「あはは……」と乾いた笑いを出して、くしゃりと笑った。
「……私は、ただ、……怖かったんだ」
「え?」
「なんだ。……ただ、それだけの事だった」
姐さんの手を、強く握った。
その瞳が小さな疑問と、でも愛情で優しく細められるのに、胸がキュゥっと鳴って、この人が大切だと思う。
「……姐さん」
「ええ」
「私はさ、あの二人を見て、羨ましいと少し思いながらも、怖かったんだ」
「?」
きょとんと、首を傾げながら、ゆっくりと私を抱き寄せてくれる姐さんに、私はぽつりぽつりと、心の中で整理した言葉を、静かに紡いでいく。
「……ようやく、姐さんは私たちの傍に帰ってきたのに、そのまま、誰かの、もしかしたら仲間の誰かに、『名前』を書かれちゃうのかもしれないって」
「え? 名前?」
「そう。だから、その不安と焦りが、私を、姐さんに会わせたんだ」
握った手を、もっと縋るように掻き抱いて、その白い繊細な指先にちうっと口付けた。
「っえ?」
驚いて、頬をほんのりと染める彼女に、こちらも恥かしさで沸騰しかけながらも、その目を逸らす事無く、私は姐さんの目を強く見つめる。
「……あ、の」
喉がごくりと鳴って、痛くて、不自然に声が震える。
「わ、わたしに、姐さんの、名前を書いて欲しい」
「一輪……?」
「姐さんの『モノ』に、私はなりたい」
はっきりと、伝えた。
姐さんの顔がみるみると赤く、動揺していって、「はいぃ……?」と固まる姿に罪悪感と、愛しさを感じて。もう、自分ではどうしようも出来ない。
「い、一輪? な、名前って、あの、油性だから、消えなくなっちゃうわよ?」
「いいんです!」
私の気持ちに、気づいているのかどうなのか、分からないけど、姐さんは動揺のままに、下着とマジックペンから手を離した。
それを、私は目で請う様に、哀願する。
「お願いです。もう気づいたら、気づいてしまったら、その恐怖を胸に、日々を過ごす強さが、私には……ない」
姐さんが、大事だ。
本当は、貴方が封印される前から、ずっと、ずっと好きだったんです。
――でも。
「……姐さんを奪うかもしれない、誰かがいるのなら、その誰かを姐さんが選ぶのなら、私はもう、どうしていいかわからない。せめて、私は姐さんの『モノ』になりたい。『モノ』でいたいんです……!」
彼女たちの様な関係でなくても良い。
ナズーリンの、幸せそうな泣き笑いの顔を、私が浮かべる事が永遠にないとしても。構わない。
ただ、貴方のモノでありたい。
「……一輪」
姐さんが、切なげに、悲しく笑って、私の手をそうっと引いた。
ビクリと震える。
ここで、姐さんに説教をされて、それは違う、なんて言われたら、私はきっと。
もう此処にはいられないから。
でも、それすら受け入れる覚悟で、姐さんの顔を見る。
姐さんの顔は、曇って、歪んで、よく見えなかった。
「一輪」
ふわりと、急に身体に優しい重みが加わって、顔が覆われた。
「ぁ」と抱き寄せられた肌が暖かくて、自分が冷えている事に、凍えている事に、遅れて気づいた。
「あのね、一輪」
「…………」
「私は、貴方も皆も、家族だと思っている。私には勿体無い、最高の家族だと」
「…………っ」
痛みが、胸を抉った。
それは、遠まわしの拒絶だと、私は受け取った。
っ。分かっている。
分かっていたけど、でも。
私の願いが、貴方には、とても受け入れられないものと知って尚、私は……
姐さんにとって、私は家族で。決して、所有物になど、出来るわけなくて……
「でもね?」
ふわりと、溢れて零れていた涙が、拭われる。
「っ」と顔をあげると、姐さんが笑って、とろけそうな幸せそうな顔で、私を見ていた。
なんて、綺麗な人だろうと、背筋が痺れて見惚れてしまう。
「……私は、昔、『人間』たちに封印されて、そして、救ってくれたのも『人間』だった。―――でも、助けようと求めて慕ってくれたのは『妖怪』だった」
「……? 姐さん、何を……」
「……私は、長生きはしているけど、結局は『人間』で、そして、そんな私に、新しい居場所を与えてくれたのは『妖怪』で」
「―――――」
ドクンと、胸が予感にざわめく。
「私はね、一輪。……結局は『人間』で、でも『妖怪』を愛している。一緒に、皆が私たちと同じ様に共存できると信じている」
「………ぅ」
「だから、お願い一輪。……これからも、私を支えてくれる『妖怪』の貴方に、『人間』の私の傍に、ずっと、ずっと傍にいて欲しい」
「……っ、……ふ、ぅ!」
「お願いします。私の『モノ』になって頂けませんか?」
指先に、そうっと、大切そうに赤い跡をつけられた。
その痛みが、シンと身体を貫いて、心臓を突き抜け、全てを後光の様に支配する。………あぁ、姐さん。
私はその時に気づいた。
人間と妖怪は、似て非なるモノ。
姐さんが、心から愛する家族は、皆がすでに『人外』で、姐さんは、それを受け入れながらも、いつか、何かの災厄で、ガラリと『人間』と『妖怪』ははっきりと区切られ、一緒にいられなくなるかもしれない。
そんな、現実には可能性の薄い、でも否定も出来ない想像が、心に小さく棘を刺して、じわりと痛んでいる。
姐さんは、その気持ちを私に静かに打ち明けて、そして約束をしたのだ。
ずっと、一緒にいて欲しいと。
何があっても、私に傍にいて欲しいと。
「……こ、これで良いのかしら?」
指先の跡を、不安げに見つめる姐さんに、私はこくこくと頷く。ただ、膨大な感情が身体を震えさせて、頷くしかできなかった。
もう、……喉は使い物にならなかったから。
「ふっ、ぅう、あ、あねさ、あねしゃ、ん……あ、ありが、ありがとぉぉ」
「あ、あらあら、泣かないで」
抱きついて服を汚す私を、姐さんは慌てて、それでも優しく背中を撫でてくれた。
不安が、幸せに勝った安堵感の涙は、おさまらなかった。
「よしよし。あのね、ちゃんと跡が消えたら、また……つけるわね?」
照れを大幅に含んだ言葉に、私はうんうん! と、子供みたいに、姐さんに全体重をかけて甘えながら答えた。
「姐、さん」
「はい」
「……大好きです」
照れ。
姐さんは、私なんかの言葉で、顔を真っ赤にして俯いて、てれんっとしながら「……ありがとう」って、幸せそうに笑ってくれた。
これで、私は姐さんのだ。
いつか、姐さんが誰かを選ぶ日が来ても、そのいつかの恐怖を背に、私はまた歩いていけると、私は静かに、歓喜の涙を溢れさせ続けた。
いつまでも、いつまでも。
◆ ◆ ◆
それはとても綺麗で、何だか、切ない光景だった。
心と心が触れ合って、結ばれている筈なのに、その結びつきは脆弱で、あっさりと他人の介入でずたずたに引き裂かれそうな、でもだからこそ心惹かれる、彼女たちの色合い。
ただの口約束と、鬱血だけの契約。
どちらかが忘れれば、いらないと口に出せば、それだけでぶちりと切れる、見ていて儚すぎる二人の幸せ。
「………………」
私、封獣ぬえは、その光景をただ見つめていた。
「……わあ!」
隣で目を輝かせる彼女を無視して、私はそっぽを向く。……まあ、私には関係ないし。
聖がいい奴だってのは分かるし、好きになっているのは認めるけど、だからって二人の関係に口を出すほど、仲が深いわけでもない。
私は空中であぐらをかいて、頭の後ろで腕を組み。その横で小傘が顔を真っ赤にして「わあわあ」言っているのを無感動に見た。
「す、凄い。このお寺はすすんでいる!」
「……はあ?」
「あのね、さっき虎の人と鼠の人が、こう、噛み付き合ってたの!」
手首に噛み付く振りをして、小傘は興奮しながらきゃあきゃあって顔を輝かせている。能天気というか、あの二人の微妙な空気を読めない辺りが、馬鹿だなぁと思いつつ、保護欲を誘う。
「ねえ、ぬえは? ムラサさんと噛み付き合わないの?」
「―――バッ?!」
パコンと頭を殴った。
そして、「痛い…」と悲しげな小傘を無視して、ずりずりと引っ張る。
「な、何でそこでムラサが出てくるの!?」
「何でって……。だって、早苗が、ぬえはツンデレって奴だから、本当は意地悪して悪態ついているムラサさんに恋してるって……」
「……ほぉう? へぇ? くそっ、あの勘違い女」
頭の足りない小傘に、余計な知恵を与えているみたいで、今度悪戯してやろうと決める。
そして、目の前にいるこいつ。多々良小傘は、人間を驚かす程度の能力とかで、あの異変の時に苛めてきた人間全員に張り付き、必死にストーカーをして、最終的には全員を驚かせたという無駄な所で強者な奴。
……まあ、人間たちは多分、こいつが鬱陶しくなって、わざと驚いた可能性もあるけど。
とりあえずは、小傘はその三人を驚かせた後、どうにも早苗というあの頭が勘違いでお花畑な娘に気に入られたようで、よく山の神社に出入りし、その際に何があったのか、並々と自信を持って聖を驚かしにやってきて、あっさりと聖が驚いてくれたのに酷く感激して懐いてきたという、変り種の妖怪だった。
……いや、聖はあれで抜けてるし、驚いても不思議じゃないけどね。
「……にしても、特に、ムラサに懐いちゃってさ」
「え?」
きょとんとする小傘を、私はむうっと睨む。
元『人間』の船幽霊であるムラサは、小傘のアホな登場(天井裏から逆さまに落ちて、床でずるずると這いずってきた)に、本気で悲鳴をあげて(人間の感性が残っていたと後に言い訳)隣にいた私に抱き付いてきたのだ(そこはグッジョブッ!)
だから、それ以来。聖とムラサにでれでれとなついて、早苗をやきもきとさせていた。
ちなみに、まったく驚かずに冷めた他の面々に、小傘は「に、人間じゃないし」とか落ち込んで、いまだに名前すら覚えていない。
「ムラサさんは優しいものね」
「ま、まあそうだけど」
「この前驚かしたら、『もうやめてね?』って頭を撫でてくれるし、飴もくれたわ」
「……っ。へぇ」
ムラサめ。私の頭は撫でないし、飴もくれないくせに……って、違う。脱線した。
「……あぁ、うん分かった」
「?」
「いい、よく聞きなさい?」
私はとりあえず、この鬱陶しい傘お化けを他所にやる為に、とっとと追い出す事にした。
まったく。私はあの時、ムラサにいきなり抱きつかれて「キャー?!」って叫んでしまっただけで、あんたには驚いていないのに、べたべたと懐いてきて、いい加減鬱陶しかった。
「……まずはね。こう、服を乱すのよ。そう、そうそう。それから、スカートをちょっと破いて、あ、大丈夫。後でムラサに、……駄目勿体無い。聖にお願いすれば縫ってくれるから。それから、ちょっとお化粧をして。パタパタっと」
太股とか鎖骨とか胸元とか、そこらへんの色気をアピールさせて。不思議がる小傘ににこっと微笑む。
「このまま、早苗のところに飛んでいって、こう言うのよ? 『早苗、だ・い・す・き♪』って。そうしたら早苗はものすっごく驚くわ。そして、早苗が落ち着いて今のは一体どういう意味か、とか理由を尋ねてきたらこう言うのよ? 『ムラサが、こう言ったら早苗はきっと喜んでくれるって言ってた』って」
「へえ? ほうほうほう!」
「いい? 『ムラサ』を強調するのよ! それから『私を、た・べ・て』で決まり! これで早苗はもう、これ以上ないぐらい驚いて、あんたを骨の髄から怖がる!」
「そ、そうなんだ!」
あっさりと。
私の口からでまかせを信じる小傘。一瞬、この子はこれから先大丈夫なのかと心配になるが、あえて無視した。
ふふ。このままこの悪戯が成功すれば、小傘は早苗にぶん殴られて、ついでに怒りの余波がムラサに来て、船長として婦女子にいわれのないセクハラ容疑で殴られたと、がっくりときているところを、私が優しく慰めてあげる! 完璧!
私の偉大なる作戦に、小傘は目をきらきらさせて、驚かすという一点にのみ集中して、早速腕まくりをして出て行った。
その際。じゃあ、もうちょっと、とか言って。服をびりびりにしたのはやりすぎだと思うけど。まあいいやとぽいぽい投げた。
そして、ようやく静かになった。
私は小さく息を吐いて、吸って、吐いて、ようやくがっくりときて、「あーあ」と膨れた。
「……失敗した」
小さく呟いて、ひゅるるると、風が通り過ぎていった。
……それは、まあ今朝の事。
『私物に名前か。それじゃあ、星はナズーに名前を書かないとね』
『え?』
『だって。ムラサがさ、『そうするべきでしょうね』って言ってたし。何より、『いい加減、今は聖もいるんだから、奥手は卒業しなさい』ってさ』
『……ムラサが』
『どーするの?』
『……ん。そうですね、はい。……とりあえず、目先の作業が終わったら、考えます』
そうして、大きな湯飲みと小さな湯飲みに、『しょーう』『なずーりん』って書いていった。
さっきより、少しだけ作業スピードを遅らせて。
あれから暫くして、どうやら悪戯の結果は出たようだけど。
「……はあ。……ただ、二人の関係がぐっちゃぐちゃになって、それでムラサが孤立したら、私が慰めてあげようって腹積もりだったのに」
小傘の話を聞くと、どうやら上手くいってしまったらしい。
しかも、いまだに抱き合っている聖と一輪は、その二人に感化されて、こんな風に幸せそうというわけで……
なんか、図らずも恋のキューピッドの役割を果たしてしまったようだ。
私としては、一輪の奴、ムラサに投げキッスとか色っぽく贈りやがって! と、派手な悪戯をするつもりで追いかけたのに、思い切り出鼻をくじかれてしまった。
「……あーあ、あーあ。……これで、やっぱり二人っきりは無理か」
ぽつんと、泡みたいに言って、私はふわりふわりと何処にでもなく飛んで行く。
あれから。
ムラサが地底からいなくなり、追いかけて、邪魔をして、仲間になって。
まだ、二人きりでゆっくりと、お話もできていなかった。
……聖にばかり構いすぎだと、私は、この今まで感じた事のない正体不明の感情を、ただもてあます。
◆ ◆ ◆
あれです。
カレーのスパイシーな香りが、気のせいではない甘い雰囲気でスウィート臭へと化学反応を起こしています。
うん、私も何を言っているのか分からない。
「……」
夕食の時間。私ことムラサ船長。村紗水蜜は、今日の夕飯の当番だったので、野菜をくたくたになるまで煮込み、香辛料から手作りで創作した特製カレーを振舞っていた。
が。だんだんとその中辛だったカレーは、不可思議な力で甘く、例えるなら蜂蜜とリンゴがぐっちゃり入った激甘カレーになってしまった様だ。
口の中にいれたカレーが、どろりと甘く感じて、うぐっ、と少しだけ吐き出したくなった。
「……ご、ご主人。ほら、あーんしなよ」
「あーん」
「姐さん。はい、ソース」
「あ、ありがとう一輪。は、はい、一輪もマヨネーズ」
目の前で展開される、溢れ出るハートをぽかぽか投げられているみたいな光景に、私はスプーンを口に加えながら「うん?」と首を傾げるしかなかった。
昼食に来なかった星とナズは、手を繋ぎながらカレーの香りに惹かれてやって来たと思ったら、ずっとこんな感じだし。聖と一輪はお互いを意識しながら、調味料を渡す時に指と指とが触れ合って、火傷したみたいバッと離れて、お互いの顔が見られないぐらいにもじもじと動揺しているしで、私としても判断に困る。
……というか、もじもじしている聖の可愛さって、もう全てを超越して素敵すぎるわね。うん。
暫くその姿を堪能し、そういえばぬえがいないなぁと、ぱくぱくともう甘口にしか感じられないカレーを食べる。
うんまずい。
「と。福神漬け」
いけない。雰囲気にやられて、カレーにとって不可欠な彼の物を忘れてしまうとは。
私は、「よっ」と立ち上がろうとすると、すすっ、とまるで私の行動を予測してくれたように、目の前に福神漬けの容器が。
感謝して、私は差し出してくれたナズを見る。
「ありがとう」
「……ふっ、お礼を言うのはこちらの方さ」
うん?
意味が分からなかったけど、ナズが酷く信頼しきった目で見てくるので、まあいいかなと疑問を放置。
そのまま福神漬けをしっかりとトッピングし。おいしくカレーを食べる。
「水、っと」
「はい。ムラサ」
今度は、別方向から、一輪が氷とたっぷりの水の入ったコップを差し出してくれる
感謝を示してお礼を言うと、一輪は静かに首を振る。
「いいんだ。今日は助けてもらったしね」
「ああ、気にしなくてもいいのに」
あの挙動不審だった事かなと。私は納得して、ありがたく水を飲む。
……にしても、今日の皆はおかしいわねぇと、カレーを噛み締めながら再度不思議に思う。
いつもなら、ナズは「船長、またカレーなのかい?」と呆れるだろうし。一輪だって「流石に飽きるわよ」と唇を尖らせる。聖と星は何でもおいしく頂くので問題ないし。ぬえもカレーは大好物みたいで、いつもがつがつ食べている。
……というか、いつも思うけど、カレーが嫌なら、私を金曜日の食事当番にすんなといいたい。この日はよく分からないけど、カレーでないと駄目なのよ……
「ん。ごちそうさまでした」
とりあえず完食。
お皿を提げて、ついでに同じ頃に食べ終えた皆の分の食器を片付けようと立ち上がると、すっと何故か私以外の皆が立ち上がった。
「ムラサ。今日は私がするよ。君は休んでいてくれ」
「え?」
「いいわよナズーリン。私がするから。さ、ムラサは好きに過ごしていて」
「……ん?」
「いいえ、今日は私が。ムラサ、これからの当番は私が代わります。貴方はどうぞゆっくりと寛いでいて下さい」
「……は?」
「うふふ、私だって頑張るわよ。ムラサには色々と気を使わせていたのに、気づかなくてごめんなさいね……。さ! 張りきるわよ!」
…………えぇ?
ぽつんと、私は背中を押されて追い出され、その後方で、何故か気合を入れた皆が、後片付けを協力して行っていた。
「………うぅん?」
何これ?
いや、食事時からずっとおかしいとは思っていたけど、これはおかしすぎる。
……うーん。
試すように、私は、わざと独り言には少し大きめの音量で、背伸びをしながらぽつりと呟く。
「んー。それじゃあ、私はお風呂の準備をしましょうか」
今日は、皆が名前を書くという作業と、何故か部屋から出てこなかったという予想外が多かった為に、それはまだ未作業の筈だった。
そして。
ガタガタバタン! と室内から騒がしい音。そして「勝った!」と勝利の宣言と共に、ナズが顔を出してきた。
「わ、私がやろう船長!」
「え? いいわよ。私がしとくから」
「いいや! 是非に私にやらせて欲しいんだ! ……君のおかげで、私は少しでも自分の気持ちに素直になる事ができた」
最後は小声でぽつりと、それに、私は何の事? と聞き返す前に、ナズはふっ、と微笑む。
「ご主人から、聞いたよ。……ありがとう」
「……ナズ」
「さあ、休んでいてくれたまえ」
ぽんっと肩に手を置かれて、張りきって歩いていく背中を見て、私は笑顔を浮かべる。
……何の事やねん。
私は一人。ぽつねんと、その場に寂しく立ち尽くしたのだった。
それから。
「ムラサ、はいお菓子。おいしいってさ」
「……ありがとう一輪。でも、そんなに気にしなくていいのよ?」
「いいや。ムラサ。あの時、あんたの心遣いがなかったら、私はきっと、途中で心が折れていた。……感謝している」
「……まったく、大げさね」
「くすっ、そうかもね」
一輪にお菓子を貰い。私たちは笑いあい。
「ムラサ、これを受け取ってください」
「え?」
「……その。お礼のつもりです。……いえ、こんな物では、足しにもなりませんが、少しずつ、貴方への多大なる恩は返しますよ」
「……星、私は別にいらないわよ?」
「いいえ、受け取って下さい……!」
星から、袋一杯の貴金属を貰った。……理由は分からないし受け取るつもりもないのだけど、目が真剣で、この空気は壊すべきではないと判断。一時的に受け取った。
……どうしよう。お金とか、一応貯金もあるしこんなにいらない。……しょうがないので明日から、あの紅白の巫女の所に賽銭として、ちょっとずついれていこう。
「ムラサ船長。これを」
「……ありがとうナズ。でも、本当にいいのよ?」
「いいや、私の気持ちが、船長に恩を返せと治まってくれないんだ。だから、どうか受け取ってくれ」
「……そう。ありがとう。貴方の気持ちがとても嬉しいわ」
「……っ、キャプテン」
ナズから、リボンで巻かれた特大のチーズの塊を貰ってしまった。
どうしろっつーのよこれ。今度チーズカレーを作れって事? っていうか、だから受け取る理由がないんだってば一輪以外。
……ああ、しかし、そんな真剣な目で見られてしまうと、受け取らざるを得ないじゃないのよ……!
「ムラサ、あの、これを受け取って貰えるかしら?」
「え? どうしたんですか聖」
「……あのね、一輪から、聞かせてもらったの。それで、私もムラサにお礼がしたくて」
「……聖」
「うふふ、初めて作ったのだけど、一輪はおいしいって言ってくれたの。はい、プリン♪」
「ありがとうございます。頂きます」
プルルンと揺れるプリンを受け取り、聖の背中に笑顔で手を振ってから。私は「さて」とプリンをおいしく頂く。
うんおいしい。
―――――じゃないよ!!
「おかしい! おかしいってこれは!」
頭を抱えて、欠片も残さずに食べたプリンの容器を机に置いて、私は自室で一人頭を抱える。
え? 何これドッキリ?
というか、どうしたの皆! なんなの、このいきなり正体不明な好感度の上昇とプレゼントイベントは!? はっきりと、私は一輪以外は身に覚えがまったくない!
「……い、いえいえ。落ち着くのよ村紗水蜜。私は船長。ただ、今日一日、皆の様子がおかしかっただけ。そして、それも今日が終われば、いつもの皆に戻るのよ……!」
そう。きっと。
……うん。多分。
ええ、もしかしなくても。……って、うわ駄目だ。船長としての先見の意味での勘が、それはないって私に訴える。
無駄に律儀な皆が、今日一日だけ態度をころりと変えるなんて、ありえない。
むしろ、今日の変化は引き続き、もしかしたら永遠かもしれない可能性は充分にある。
……もしも、明日も明後日も、ずっと皆がこんな状態で、優しく接してくれるなら、私は……
私、は。
「…………」
ひんやりと、急に身体が冷水に浸かってしまったかの様な、酷い悪寒がした。
「……そう、ね」
すっと、帽子掛けに掛けていた愛用の船長帽を取り、頭に被る。
それはつまり。……私の。
ぐっと、恐ろしい想像に歯を喰いしばる。
「……それ、は」
駄目だ。
それだけは、絶対に駄目だ。
私は、カタリ、とと部屋の隅に置いていた錨を肩にかけて、くいっと帽子を傾けて、いつも通りに笑おうとする。
―――私は、幽霊だ。
そんな私には、今の皆は……
軽く首を振った。
「まあ、しょうがないんだけどね」
そう。優しい皆は、きっと私への気遣いが、愛情が、ただ私を追い詰めるという事に、決して気づかないだろう。そして、私もそれを言い出せないだろう。
皆が、私を年老いた老船長の様に扱うのであれば、皆にその気はなくとも、これからもそれが続くと私が確信できるのならば。
「ばいばい。皆」
私はこの船を下りようと思う。
◆ ◆ ◆
その日。
ムラサが、いなくなった。
私、聖白蓮が、私達が、それに気づいたのは、一輪がいつまでたっても起きて来ない彼女を心配して、部屋を訪ねた際、机の上にムラサの字で『いままでお世話になりました。皆が幸せに過ごせる様に、心から願います。どうか探さないで下さい。村紗水蜜』と書置きがあったから。
「……どう、して。ムラサ」
混乱して、頭が真っ白になる。私は、彼女が私を「聖」ともう呼んでくれないかもしれない現実が、彼女がいない、もう戻ってこない心積もりでいる事が、どうしても信じられなかった。
隣にいてくれる一輪が、私の手を優しく握っていてくれなかったら、泣きながら今にも飛び出していた筈だ。
「……船長、どうして」
「…………」
ナズーリンも星も、苦しげに、悔しげに、寄り添いながら悲しげな瞳で書置きの手紙を見つめている。
雲山も、静かにその場に漂い、普段はいかめしい顔を心配げに雲らせている。
そして、この場にはムラサだけでなく、ぬえの姿も無かった。
つい先程の事だ。
村紗水蜜がいなくなったと皆が騒いでいた時、丁度朝帰りだったぬえが話を聞き、烈火の如く怒ったのだ。
ムラサにではなく、私たちに。
その際に、その場にいなかったぬえに、事の詳細をかいつまんで説明する際、昨日の事を語った顛末部分から、その可愛らしい顔が徐々に歪み、最後には殺意すら見え隠れして私たちを睨んだ。
「なんで、なんでそんな事をしたのよ!?」
「そ、それは、私たちは船長に恩を返したくて……」
「馬鹿じゃないの! ムラサに恩なんて返さなくていいし、ムラサに優しくなんてするな! むしろ嫌って、きつく当たるぐらいがいいのよ!」
その発言には、普段は温厚の星も眉根に皺をよせて、どういう事かと問いただす。ぬえは反発いれずに強く言い返した。
「ムラサは幽霊なのよ!? あんたたちとは違うのよ! だって、聖は復活してるんだから、今まで通りじゃ駄目なのよ!」
私は、驚いてぬえに詰め寄ると、ぬえはギロリと睨んで、「まだ分からないわけ!?」と、全員を憎い相手を見るかのように睨む。
「未練が、無くなったら、優しくされたら、受け入れられて満されちゃったら、――――ムラサは、成仏しちゃうじゃないっ!!」
幽霊なんだから、と。
だから、私は聖の復活を邪魔したのに! と、最後に叫んで、ぬえは飛び出して行った。
その後の私たちは、その言葉の衝撃の激しさに、言葉も無かった。
特に私は、青ざめて、微塵も動けなかった。
あまりに近く、当たり前の様に、そこにいたからこそ。本質を見失い、私たちは自分たちの都合で、彼女を追い詰めてしまっていた事実に、そして、それを語ってくれなかった事実に、私たちは一歩も動けずに、ただ立ち尽くし、後悔をしている。
「……姐さん」
預けられる体温に、泣きそうになって。今更の様に、あの子の事が気の毒になる。
そういえばあの子は、私の隣で楽しそうに、幸せそうに微笑んでくれながら、一度だって、私に触れようとはしなかった。
あの子は、自身にそれすら許せない。
幸福で、天へと昇らない様にする為に。
胸が、痛い。
本来死んだ人間にとって、今生に生前の幸せは望めず、だからこそ成仏も出来ず、さりとて満たされず。悪霊とかし、あの子は船を沈めて、そして私と出会った。
あれから、あの子は、…………どれだけ、今を生きる私たちに羨望の目を向けてきたのだろう?
本来なら、すでに閻魔の裁きを受けなくてはいけない、彼女は。
「…………っ」
彼女が私たちの前を去って、初めて気づくなんて、私はあの子に甘えすぎた。
「……っ、皆」
だから、私は一輪の手を強く握り返し。打ちひしがれる彼女たちへと、これ以上の間違いを犯さないように、ちゃんと話し合おうと決めた。
「……ムラサの事は、ぬえちゃんに任せれば大丈夫よ。だから」
私たちは、ムラサにちゃんと、「おかえりなさい」を言える様にしましょうと、精一杯笑いかけた。
◆ ◆ ◆
信じられない……! 信じられない……!
ムラサに優しくするな! 皆は意地悪で、私だけが優しくしてればいいのに、皆がムラサを慕うから、私だけがムラサを傷つけなくちゃいけない……!
「ああもう! ――――どこよムラサ!」
天狗ほど早くは飛べなくても、それでも早くムラサを探す。
どこだ。どこだ!? いくらなんでも、いきなり成仏なんてしてない。するはずが、ないんだから。どこかにいる!
飛んで、泣きそうになって、誤魔化しながら狂った様に飛んで、思い出す。
最初の出会いは、地底で、大きな船の中。能面の様に無表情で立ち尽くす姿。
青白い顔。幽霊だと分かる生気の無い姿。そして、それでも尚、私の姿を見届けると悲しげに笑って、「ようこそ、聖輦船へ」と、まるで壊れた蓄音機みたいな声で、機械的に挨拶をした姿。
その何もない笑顔に、正体不明の、小さな輝きを見つけて、私は彼女に会うようになった。
「……ムラサ」
優しく笑ってくれる姿が。
錨を振り回して怒る姿が。
地を出して、船長じゃないただのムラサの姿が。
私を正体不明の感情で少しずつ犯して、侵食して、――――夢中にさせた。
「なのに、消えるなんて駄目……!」
どこよ、何処なのよムラサ!?
『ここには、海がないわね』
『え?』
『……むーん。海にはあんまりいい思い出ないし、実は泳げないしで、良い事は無いんだけど』
『は? というか、泳げないのに船幽霊?』
『いや、泳げないから船幽霊になったのよ。と、それはいいとして。……やっぱり、海がないと寂しいわね』
記憶の中の会話。
そして。
―――キラリと光る、水が生み出す輝き。
がばりと顔をあげると、輝きの先に、大きな湖があった。
予感でも勘でもなく、あそこだと――――分かった。
がむしゃらに飛んだ。
ドタンッ、と乱暴に降り立つと、身体に酷く負担がかかって、それを無視して、ざくざくと足音荒く走って、妖精がちらほらと逃げていくのを無視して、――見つけた。
パシャリと、水の中。
彼女は服を脱いで、私の存在に気づかずに、顔を青くして、湖に腰まで沈んでいた。
「む、ムラサ?!」
「――え?」
驚いて振り返る、きらきらと眩しく見えるほっそりとした彼女の裸体に、私は緊急停止。キュキュキューッ! とブレーキをかけて「うわぁ!?」と叫んだ。
濡れた髪と、少し青白い肌色。あえて目を逸らしていた裸が、こんなお日様の下で見えて、正直酷く扇情的で、混乱した。
慌てて顔を覆って、赤い顔を悟らせないように怒鳴った。
「あ、あんた何してんのよ!? 確か水が怖いんじゃなかったの!?」
「げっ、ぬえ、なんでいるのよ? っていうか知ってるのよ? もしかして、私がお風呂の湯船に入るのも、洗面器に顔をつけるのも苦手って知ってるの?」
「知ってるわよ!」
あんたの事だし! あんたの正体不明なんて、私は認めない。
ってそうじゃない! あんた何ナチュラルに私と会話してるのよ?!
出て行った癖に悲壮感のない、相変わらずのムラサに苛立つ。
「ムラサ、あんた、本当に何をしてるのよ!?」
「え? 何って、見て分かるように、死の再現」
「――――は?」
絶句した。
そして、分かった。
「む、ムラサ。あんた」
「……いやぁ、なんか、皆が私に優しくてさ。このままじゃあ、皆と一緒にいるのが嬉しいのに辛くて辛くて」
てへっ、と。
私が気づいていないと思い込んでいるムラサは、しょうがないとばかりに私に事情を説明している。嘘の。
……私の心情も知らずに。
「なので、幽霊レベルをあげてみようかなーと。ほら、皆も強くなってるし。私は幽霊だから成長とかないしさ。こうやって精神的に向上を」
「黙れッ!」
叫んだ。
びっくりしているムラサに、私は怒りと混乱で、悔しくて泣きそうだった。
――こんなに、ムラサは追い詰められていた。
そして、その原因の一端は、私の悪戯のせいで、そして、ムラサは私に何も言わなくて……
死の再現って、レベルアップって。
ただ、死に際の、あの絶え間ない恐怖を思い出して、自分を追い詰めて、むき出しの心を傷つけて、簡単に、単純な優しさだけじゃ癒されないように、自分をギリギリまで追い詰める行為じゃない!
リストカットよりずっとたちが悪い。どれだけ、心が柔らかくて弱いと思っている……! 身体を傷つけるのと訳が違う!
「ムラサの大馬鹿!」
「い、いや。馬鹿って」
「このエセ紳士!」
「ちょ、失礼ね! 私は立派な船長を目指して、色々と努力を」
「うるさいっ! 船長とか関係なく、ちゃんと弱音を吐け!」
「――――ッ」
元、人間。
なんて面倒臭い! こうやって、勝手に心の中で完結させて、見えない所で努力して、それを表に出さなくて。
人間は何て勝手でどうしようもなくて、何で、勝手に、笑いながら傷つくのよ!
「上がって来い!」
「いや、何でそんな上から目線」
「いいから!」
「……はいはい。分かりました」
露になる裸体に、こんな状況なのにドキドキしながら、私はそっぽを向く。
ムラサは、とりあえず水から出るのは嫌ではないらしく、いそいそと出てきて、はぁ~と、気の抜けた、酷く安堵した息を吐いた。
あと、それはともかく。
私は見ちゃ駄目! って心の中で何度も呟いて、見そうになる自分を自戒して。私は背後の衣擦れの音にぎゅっと目を閉じて耐えた。
それから服を着たムラサの手を握り、ぐいっと引っ張る。
「ちょ、ちょっと?」
「んじゃあ、帰るわよ」
「え? いや帰るって、私はほら、まだレベルアップもすんでいないし。できれば皆が怒る……いえ、もう少し様子を見て帰りたいというか」
「…………」
だんだん、私もキレてきた。
ムラサが、こうやって自分を傷つける理由は、私にも非があるから、必死に押さえ込んでもいたけど、こうやって私の気も知らずに、簡単に自分を傷つけるムラサは、間違っているとはっきり言える。
「ねえ、ぬえってば」
「…………」
でも、考えてみれば。
最初にムラサが、聖に「名前を書けばいい」とか、ふざけた事を始めたのが原因よね?
だから私はあんな紙一重な悪戯を思いついたんだし?
しかも、それが上手くいったのは偶然だとしても、ムラサが聖にばかりかまけて、私と遊んでくれないばかりか、私以外に親切で紳士なのが問題なのよね? だから皆疑いもせずにムラサに感謝しまくったんだし?
「ぬえ?」
しかも、さっきは私に嘘をついた。
じっ、と見上げると、困りきった顔のムラサが、大嫌いな湖に今にも飛び込みたいんだけどと、悲壮な覚悟を目に、私を見ていた。
……むかり、とした。
「そういえばさぁ」
「え?」
「自分の物には名前を書くのよね?」
「は?」
何を言っているんだという顔のムラサに、私はにこっ、と笑いかける。途端、ずざっと身構えるムラサ。
「つまりさ、私のおもちゃにも、つけとくべきよね。はっきりくっきり」
「え? いや、え?」
この馬鹿が、これ以上馬鹿をしないように。これ以上自分を傷つけないように。
幸せにしない為に。
不幸だと思わせる為に。
一杯、嫌な思いをさせる為に。
「じゃあ、そういう事だから」
「は? いやちょっと!? なんでいきなり正体不明な光の縄が私を拘束!?」
「うふふ、お仕置きね?」
「しかも何で嬉々とした顔で迫ってくるって、ちょっ!?」
あ~んと。
「ひぃ、いぃ、き、きゃぁぁあああぁぁあぁぁ!?」
響き渡るムラサの悲鳴は、幻想郷の空へとじんわり溶けていった。
◆ ◆ ◆
それは、綺麗な青空が眩しい、よく晴れた日の事だった。
私、東風谷早苗は、あまり人には言えない、個人的な感謝感激を贈るために命蓮寺を訪ね、現れたムラサさんの姿に、まず言葉を失った。
「ど、どうもー」
「こ、こんにちは」
どういう経緯があったのか、かなり気になる格好で、彼女、ムラサさんは苦笑いしていた。
「今日はどういう御用で?」
「いえ、お礼を、申し上げたくて」
「うん?」
にこりと首を傾げて、どうぞと私を促す動作に自然に従って、私は気づいたら彼女と向かい合ってお茶を飲んでいた。
……うーん。見事なエスコートです。
まあ、それはそれとして。
「あの……」
「はい」
「どうして、そんな、えっと」
「……はい」
ボロッとしているんですか、とは聞けず、酷く切なさを誘う彼女の姿に、私は言葉を濁す。
いえ、彼女の格好がボロイとかそういう意味ではなく、何だか、傷だらけなのです。
……噛み跡で。
「……一体、何に噛まれればそういう歯形に? それに、そんなにたくさん」
「いやぁ、あっはっは………はぁ」
正体不明な不思議な歯形を、むき出しの腕とか足とか、頬とかに、パクパクと付けられているムラサさんは、聞かないでくれとばかりに、お茶のお代わりを促してきた。
それから、どうぞ。とお菓子を。
「ありがとうございます。……って、え? 何ですかこれ?」
「え? ああ、失礼しました。取り忘れですね」
お菓子の箱の上には、奇怪な薔薇の花が置いてありました。
「……いえ、最近。まあ事情は伏せますけど、皆を心配させた罰として、私はずっと重労働な日々なんですよ」
「まあ」
でも、それと薔薇にどういう関係が?
「……それで、仕事が終わると、部屋の机の上に。……この『虎柄』の薔薇が、『頑張って下さい。貴方のファンより』って、このお菓子と一緒に置いてあって」
「…………………」
元ネタが分かった私は、あえて口を閉ざした。
心中は立ち上がって盛大に突っ込みたかったけど、我慢した。
「……他にも、『鼠』色の薔薇とか、何ともいえない『正体不明』な色彩の薔薇とか、『後光』がする眩しい薔薇とか、『雲色』と『紫』が半々の薔薇とか、どこで手に入れたと突っ込みの山すぎる、凄い色彩の薔薇と一緒に、お菓子とかチーズとか滋養に良い薬草とかが、手紙と一緒に置いてあるんです。……毎日」
「……毎日」
「ええ、おかげで机の上が凄い事になっていて。あはは、すいません。ちょっと誰かに聞いて欲しかったんです……」
「い、いえ。大変興味深いお話です」
何でしょうこのお寺?
面白いってレベルじゃ表現できないんですけど……
「それで、早苗さんのお話とは」
「あ、はい」
いけない。
すっかり忘れていたわ。
私は慌てて佇まいを直す。
「ムラサさん」
「はい」
「どうも、本当にありがとうございましたっ!」
「……はい?」
彼女の両手を握り締め、ひんやりとした感触に、目をうるうるさせて見上げると、彼女は笑顔のまま固まっていた。
「貴方のおかげで、早苗は女になれました!」
「まてい」
「これ以上の幸福はありません」
「うをい?」
「もう、本当に、本当に……!」
私は感極まって、彼女に抱きつく。
「ありがとうございましたぁ!」
「きゃあ?! い、いや、……ど、どいうたしまして。……えーっと。よ、喜んで頂けて何よりです。余計なお世話かもと思っていたのですが」
「いいえ、いいえ! とっても助かりました。ただでさえ、私ってばへたれだったみたいで、でも、あのおかげでぷっつんできました!」
「……くっ、えらい不吉な単語ばかり出てくるなぁ」
「そういうわけで、どうぞ、お礼の品です」
「……ありがとうございます」
天狗の山の新鮮な食材や、珍しい機械なんかを渡して、どこか引きつりながらも嬉しそうに笑ってくれるムラサさんに、私は本当にありがとうございますと、何度も何度もお礼を言いました。
そして、帰り際。
ぬえさんがいました。
ぬえさんは、ムラサさんの様子を伺って、歯形を見るとへにゃあっと笑って「くっふっふ」と嬉しさを抑えきれないのかじたばたして喜んで、「皆がムラサに意地悪だから、私が優しくしてあげないと♪」とうきうきしてムラサさんを見つめていました。
首を傾げて通り過ぎ。今度は寅丸さんとナズーリンさん、一輪さんに聖さん。そして雲山さんがこそりと隠れていました。
「いいですか? 二人の幸せの為に、私たちは心を鬼にして、ムラサに意地悪をするのですよ!」
「はい、姐さん! 雲山も、まかせろと張り切っています!」
「……ああ、頑張るよ!」
「私も、しっかりと頑張ります!」
顔を見合わせて、頷きあう彼女たちは、それからどうやって意地悪をしようかと、額に汗をして、真剣に話し合っていました。
……。
私は見ない振りをして、そっとその場を立ち去りました。
暫く歩いて、振り返ると、彼女たちはまだそうしていました。
「くす」
その光景に、思わず口元が緩んでしまって。可愛い方たちですねと、小さく呟く。
よく分からない也に、彼女たちは本当に仲が良いんだなぁと伝わって、見ているだけで、思わず「いいなぁ」なんて思ってしまう、お寺の方たち。
「これは、負けてはいられませんね」
私の神様たちにも、これぐらい思わずほっこりと笑わせる暖かな部分を取りいれて貰おうかしらと考えて、もう充分暖かいですねと訂正。
「早苗ー、迎えに来たよー」
「はい、小傘さん」
前から飛んでくる彼女に、ほわほわと微笑んで、
後ろで展開する珍劇にくすりと微笑んで。
両手を伸ばして、腕の中に飛び込んでくる彼女に。
彼女の傘に刻まれた、小さな私の『名前』に嬉しくて微笑んで、彼女をぎゅっと抱きしめる。
ああ、今日も幻想郷は平和で、なかなかに非日常なようです。
青い空の下。私は相合傘をしながら、ぽかぽかと暖かな幸せに、うっとりと目を閉じました。
名前を書くっていいですね
甘いね…相変わらずの甘さだね
命蓮寺組の甘い話が読みたいなぁ、と思っていたとこに………。
とんだ大物が!!!!
星ナズがたまらないですね!!あと聖が可愛すぎる!
命蓮寺組の理想的なカップリングでした!
村紗はなんとなく、水が苦手そうだと個人的に思っていたがまさか夏星さんもとは。ぬえと村紗はいいコンビ!
そして何よりカップリングが完璧すぎる。
ムラサは昔の記憶が無くなってればよかったのにね…。ゆゆ様みたいに
って思わず言いたくなる甘さですなw
星ナズもムラぬえも大好物!
ぬえ可愛い過ぎておやつ要らずです。
ムラサ大好きでしょうがないツンデレぬえぬえ。マックフルーリー吐けます。
つーか噛み跡とかエロい!
夏星さん大好きです!!!
海上自衛官の自分としては船長に嫁に来て欲しいですが、ぬえがいるので諦めます。
今年一番のニヤニヤだったな
早く海水もってこいッ!!!!
なに!幻想郷には海が無いだとッ!?南無三ッ!!!!!
その話の続きをお願いします!
皆さん幸せそうで本当に何よりです。
しかし早苗すゎんはあれ以上ぷっつんしちゃ駄目な気が。
>明日から、あの紅白の巫女の所に賽銭として、ちょっとずついれていこう。
さりげなく霊夢まで幸せにする船長が、実にお素敵紳士。
負と正を内包してこそ輝く恋と愛
oh…たまらん
構成もよくできてる。
星蓮船SS史に残る甘作品だと思います。
金曜日はカレーの日って、
ムラサ船長は帝国海軍出身ですかwwww
作品に散りばめられた独自設定も、こんな解釈もあるのかと、とても楽しませていただきました。
読ませていただいてありがとうございます!
でも船長がやつれていきそうで可哀相だから
「『貴方を残して成仏できるか』という未練をプレゼント」という解決策はどうかな、ぬえ。
それできっと完璧だと思うんだ。
この甘さはきっついわマジで。
嗚呼、やっぱりこがさなとぬえムラはいいなぁ・・・。
全員分のカップリングに文句の付けようがありませんね。
だけど、せめて、妙蓮寺一家で唯一客観的な立場にいる、
雲山の視点での描写も欲しかったっ!
さぁ、もっと糖分を下さい!!
とにかく視点切り替えが多過ぎて読みにくい。
ただ正直誰が喋ってるのかたまに分からなくなる。
まあ喋り方にみんな個性が少ないから、これは仕方が無い。
・・・さて、明日糖尿外来で診察してもらうか。
お話としては、村紗とぬえのところが中心だったのでしょうか?なんというか、他のカップリング要素に引きずられて中途半端な気がして、少し残念です。幽霊の村紗が成仏する危険性。それから、みんなの優しさとぬえの心情。これだけで充分一本のお話にできそうだったので、このテーマかカップリングか、どちらかに絞っても良かったように感じます。
うん、星蓮船の面々はみんな素敵だよね。素晴らしい話を、ごちそうさまでした。
小傘ストーリーを希望します
なんかもう理想のカップリング。しかも甘い!温かい!面白い!
幸せなひと時を頂きました!
……ところで、早苗さんが女になった時の描写が必要だとは思いませんか?
>早苗さんが女になった時の描写が必要だとは思いませんか?
思います。そこんとこを詳しく。じっくりと。
なるほど、こうすれば帳尻あってみんなが幸せなのか。
お腹一杯です。死因は満腹死です。南無三!
でもこの口の中いっぱいに広がったなんとも幸せな甘さ!歯磨き粉なんぞで洗い流してたまるものですかw
持ち物に名前を書く、という何気ない日常の一ページからここまでお話を広げられるとは思いませんでした。
独自設定も違和感なく、ほうほう、と納得しながら読むことができました。
カップリングでの甘々なシーンの上手さ、もとい美味さは言わずもがなですw
ひとつだけ不満な点を挙げるとすれば、誰が話しているのか分かりにくい場面があったことですね‥‥
しかし、お話自体はホントによくできていたと思います。
全員がハッピー!というたいへん自分好みな作品でした、ごちそうさまです。
最後に一つ。「ぬえムラ最高!」