一番最初にその事態に気が付いたのは、紅魔館だった。
朝と昼の、ちょうど中間ほどの時間。十六夜咲夜が二階のテラスにいるはずの主に対して紅茶を運んでいったときのことだ。テラスには主以外の人間がいたので、咲夜は少しだけ驚いた。
「あら、パチュリー様」
パチュリー・ノーレッジがテラスまで来ることは珍しい。大抵は敷地内にある図書館で一日の殆どを過ごす彼女だけに、咲夜はいつもそちらまで飲み物などを届けていたほどである。
ついでに、テラスにはそれ以外の先客もいた。咲夜は隠すこともなくうんざりとした溜め息を吐き出しつつ、そのもう一人の先客に対して訊ねた。
「今日は何を窃盗に来たの、魔理沙」
「随分と失敬な挨拶だな。そういつもいつも盗んでるわけじゃないぜ」
霧雨魔理沙は抗議してきたものの、至って呑気な口調である。咲夜は運んできたティーポットやカップをテーブルに置きつつ、遠慮無くくつろぐその来客に対して、こちらからも遠慮無く二度目の嘆息をしてみせた。
「いつも来てないっていうだけで、来たら何かしら盗って帰るでしょう、あなたの場合は」
「そんなことはないぞ。ちゃんと返しに来たことだってあるんだからな」
「……威張ることじゃないでしょ。普通は何も持って帰らないわよ。ていうかあなたが何か返却に来たことなんてあったかしら」
「使い終わった爪楊枝とかだな」
「ゴミを捨てに来ただけでしょそれは!」
声を荒げるが、これが無駄なことは身に染みて分かっていることでもある。分かってはいるのだが、それでも言わずにはいられなかった。
「そもそもここで何をしているのよ」
「何って、座っているだけだが」
「何で来たのかが疑問だ、って言ってるのよ私はっ」
この魔法使いと話していると疲れることこの上ない。だが魔理沙はそんなことを感じないらしく、あっさりと言ってきた。
「今日はパチュリーに呼ばれてきたんだ。不法侵入じゃないぜ」
「……そうなんですか?」
視線で問いかけると、パチュリーは何故か頬を少し赤らめつつ――気恥ずかしそうにも見えるが、もしかしたらまた喘息の症状が出ているのかもしれない――口を尖らせてきた。
「よ、呼んじゃまずいことなんてあったかしら?」
「いえ、無いですけど……。でも魔理沙に用事なんてあったんですか?」
「よ、よよよ、用事が無くても呼んだって良いじゃない別にっ」
「……私は何の用事も無く呼び出されたのか」
魔理沙が困ったように頭を掻いている。小言のつもりではないが、咲夜はそれでも言った。
「あまり頻繁に呼び出して、ここに出入りする癖でもついたら厄介ですよ」
「私は野良犬や野良猫かい」
「本やら食器やらを万引きしていかない分、犬や猫の方がマシよ」
続けて悪態をつこうとしたとき、咲夜はようやく気が付いた。魔理沙への文句も忘れて、浮かび上がってきた疑問の方を口にする。
「お嬢様はどちらです?」
テラスには、館の主であるレミリア・スカーレットの姿が無かった。朝食を食べた後のレミリアは、大抵はこのテラスでくつろいでいるはずなのだが。
パチュリーの方へ顔を向けるが、彼女も首を捻ってみせた。
「私たちがテラスへ来たのは少し前だけど、レミィのことは見てないわ」
「屋敷内でも見かけなかったな」
呟いたパチュリーの言葉を、彼女と同じように首を捻った魔理沙が引き継いだ。そのまま疑問を投げてくる。
「お前はレミリアに呼ばれたから来たんじゃないのか?」
「お嬢様がこの時間にここで紅茶を飲むのは日課のようなものなのよ。今日は朝食を運んで以来、お会いしてないわ」
何しろ広い屋敷である為、それも不可思議なことではないのだが。
(変ねぇ。まさか妹様と遊んでいるなんてこともないでしょうし)
姉妹仲良く遊ぶ、と言えば微笑ましいものだろうが、あの姉妹に限ってはまずありえないことだろう。屋敷半壊程度の被害ではすまなさそうだ。
(あ、でも日中ならそこまで派手なことも出来ないか)
どうでもいい思案をしていたところで、前庭から屋敷の方へと走り寄ってくる人影が見えた。凄まじい速度で駆け寄ってきたそれは、充分な助走の後で大きく地面を蹴る。
「とぅッ!」
走り幅跳びよろしく跳び上がった人影は空中で無駄に二回転捻りなどを決めつつ、テラスに突っ込んできた。
「着地成こ……きゃあああああああぁぁあぁあっ!?」
着地の瞬間足を挫いたらしく、そのまま転倒して床を転がっていく。空いていた椅子を派手に倒しつつ、突如として現れた紅美鈴はそこでようやく停止した。
「……おそろしく無駄な登場の仕方だったな」
魔理沙がどうでもいい正論を言っている。それはそれで珍しいことのようにも思えたが。
問題なのは咲夜が運んできた紅茶の方だった。今の騒ぎで巻き起こった砂埃で、最早とてもではないが主に出せるものではなくなってしまっている。どちらせにせよ、それを提供するべき主が見当たらないという問題もあった。
強めに頭部を打ったようだったのでしばらく起き上がれないかとも思ったが、美鈴は勢いよく立ち上がった。
「大変なんですよ咲夜様あああぁぁぁっ!」
「……あなたの登場の方がよっぽど大変なことだと思うけど」
「もっと大変なんですってば! 今、正門の横に設えた私専用休憩スペースでお昼寝をしていたところだったんですけど……」
「仕事しなさいあなたは」
「違うんですよ! そこで見張り番をしているフリをしながらお昼寝をしてたんです! そうしたら私の枕元にいつの間にかこんな物が……!」
色々と突っ込みたい箇所のある話だが、咲夜はもうどうにでもなれという気分で美鈴の差し出してきた物を受け取った。折り畳んだ紙片。一見すると、果たし状のようにも思える代物だ。
紙を開くより先に、美鈴の方をちらりと見やった。彼女は大仰な動作で、早く見てくれと懇願してきている。左手は紅茶の盆で塞がっているため、右手だけを使って紙を開いた。書かれている文章を見やる。
『レミリア スカーレツトは あづかつた』
取り敢えず真っ先に浮かび上がってきた感想を、そのまま述べる。
「……何よこれ」
こちらの背後から、魔理沙とパチュリーの二人もそれを見る。
「変な文章だな?」
「促音を文字で表現することを知らないのかしらね。あとついでに、預かるという漢字が分からなくて平仮名にしたみたいだけど、『ず』を『づ』と間違えているわ」
パチュリーがかなりどうでもいい分析をしていたが、咲夜はそちらをひとまず無視して魔理沙の言葉に反応した。
「誘拐、ですって?」
「いやだって、この文章ってそういう意味だろ?」
「確かに文脈からしたらそうでしょうけど……でもだからって、お嬢様を?」
レミリアは莫大な財産を持つスカーレット家の現当主である。しかしよりにもよってあのレミリアを身代金目当てに誘拐するというのはどうだろうか。
魔理沙にもこちらの意図は伝わったらしく、難しい顔で頷いてきた。
「そこが謎だよなぁ。いったいどんな酔狂があんなもんを持って行くっていうんだ? 頼まれたっていらないぜ」
「人の主人をあんなもん扱いしないで頂戴。……でも、犯人の考えが分からないという点に関しては概ね同意ね。酔狂というより命知らずよこれは」
ひとまず盆をテーブルの上に置いて、咲夜は腕組みした。
「そもそもどうやってお嬢様を連れ出したりなんてしたのか……」
「そりゃこんな真っ昼間なら、あいつも全力は出しづらいだろ」
「そうでしょうけど、屋敷の中は極力太陽光を取り込まない造りになっているのよ。お嬢様がそう簡単にやられるはずがないわ」
全力を発揮できなくとも、元々レミリアの身体能力は幻想郷でトップクラスを誇るものだ。並の妖怪が束になったところで、返り討ちに遭うことぐらいは容易に想像が付く。
魔理沙が唸った。
「うーむ。わけが分からないな。ていうかこれは幼児誘拐にあたるのか? レミリアって確か五百歳とかだよな? 五百歳児ってのは幼児なのかどうか……大きな謎だぜ」
魔理沙は既にどうでもいいことを考えている。彼女はアテにならないと思い、咲夜は額を抑えて溜め息をついた。
「はぁ……心配だわ」
「そんな過剰に心配なんかしなくても、レミリアがそう簡単にくたばったりはしないだろ」
「いいえ、私が心配なのはお嬢様より、むしろ誘拐犯の方よ。お嬢様の機嫌を損ねて八つ裂きにでもなってなきゃいいけど……ああ、でもお嬢様が犯人をズタズタにしたら、お召し物が返り血で汚れてしまうかも」
「……すげぇ心配の仕方だな。でも実際の話、犯人はどうやってレミリアを連れ出したんだろうな」
「レミィが自分からついていったんじゃないかしら」
ぽつりと呟いたパチュリーに、その場の全員が一斉に注目する。多少面食らいつつ、パチュリーが自分の言葉を補足した。
「あの子なら考えそうじゃない? 面白そうだから、って」
「あり得ちゃうところがちょっと困りものですけど……」
だが、それで納得がいくこともある。咲夜は疲労の篭もった溜め息を吐いた。
レミリアをどうにか出来るような力の持ち主にも心当たりはなく、現状で考えられる可能性としてはそれが一番高い。本当に自分から誘拐犯とやらについていったのだとすれば、少なくとも彼女の身に危険があるということはないのだろう。
(でも本当に、いったい何が目的でお嬢様を狙ったのかしら)
魔理沙の台詞ではないが、確かに彼女を欲しがる者などいるだろうか。素手で猛獣を撫で回すのより余程危険である。自分で命知らず、などという表現を用いたが、正確には命いらずだろう。
(それこそ魔理沙の台詞じゃないけど、頼まれたって引き受ける人はいないと思うけど……)
黙考していると、パチュリーが声を掛けてきた。
「ひとまず、犯人から次の要求や伝言があるまでは、屋敷で待機していた方がいいんじゃないかしら」
「届くのは要求じゃなくて犯人の死体かもしれないけどな」
魔理沙が発した言葉の方が余程あり得そうでもある。
「一応博麗神社に知らせておいた方がいいのかな……」
とりあえず自分に出来ることをするしかない。差し当たって、咲夜は美鈴の方に顔を向けた。
「何にせよ……」
ゆっくり息を吐き出しつつ、咲夜は手にしていた盆をオーバーモーションで振りかぶった。絶叫しつつ、渾身の力で盆を投げつける。
「あんたがちゃんと仕事してればこんなことにはならなかったでしょうがあああああぁぁぁっ!」
「きゃあああああああ!?」
盆の直撃を受けて、美鈴はテラスの外へと吹き飛んでいった。
その少しだけ後。白玉楼にある西行寺家の屋敷にて。
無人の居間を見渡して、八雲紫はつまらなく呟いた。
「……留守だったのかしら」
「それを確かめる為に勝手に入るのはまずい気がしますが……」
すぐ後ろに控えていた八雲藍が呆れたように言っているが、無視しておく。敷いてあった座布団に腰を下ろし、紫は頬杖をついた。
「幽々子がいないなんて珍しいわよねぇ」
屋敷の主である西行寺幽々子は、自分が訪れれば必ず気付く。それは今日のように、空間の境界を歪めて直接入ったときでも同様だ。だが、今日に限っては彼女が現れない。何処かへ出掛けることなど珍しいはずだが。
仕方なく、紫は精一杯くつろぐことにした。足を伸ばしつつ、扇子で首元などを弱く扇ぐ。
「その内帰ってくるでしょ」
「自分の家に帰ってきて、誰かがそんな格好でくつろいでたら結構驚くんじゃないですか」
「いいのよ。私と幽々子の仲だもの」
何故か藍が溜め息をついている。理由は分からなかったが。
自分の式神につられたわけではないが、紫も嘆息した。浮かび上がってきた不満を口にする。
「昼間に遊びに来るのは久々なのに、そういうときに限って留守なんてね。つまらないわ」
「それに関しては、紫様が昼に来るかもと待ち構えている人なんてそうそういないと思いますけど」
「……藍、あなた今日はやけに絡んでくるじゃない」
「だってこれ、明らかに不法侵入ですよ」
「藍」
控えめな態度で抗議してきた藍の名前を呼びつつ、紫は閉じた扇子を突き出した。先端が藍の鼻先に触れる。それがこそばゆいのか、藍は少しだけ身じろぎした――が、まさか主人の言いつけなく勝手に離れるようなことはしない。紫は藍の眼を見た。蒼く透き通った、イヌ科の瞳。それを見据えるこちらの態度を察して、彼女も表情を引き締める。藍は主人の躾を聞き流すようなことはしない。だからこそ、強く言い切って聞かせるのだ。主としての言葉を。
紫は口を開いた。
「いつものことじゃない」
藍が疲れた顔で、盛大に息を吐き出した。
と、ぱたぱたと廊下を走る音が聞こえてくる。そちらへ顔を向けるのとほぼ同時に、襖が開いた。
「藍様、紫様! お酒がいっぱいありましたよー!」
両手に酒瓶を持った少女が入ってくる。その姿を見た藍は、仰天して悲鳴のような声を上げた。
「橙! なんでここに来てるのっ!」
「私がつれてきたのよ。よくやったわね、橙。このテーブルの上に置いて頂戴」
言われたとおり酒瓶を置いた橙の頭を撫でてやる。自分はこの猫の直接の主人というわけではないが、橙は藍の式神である。その気になればこうして使役することも簡単だった。
「橙に窃盗なんてさせないで下さいよ!」
そう言ってくる藍が可愛らしく、紫は微笑した。扇子で口元を隠しつつ、彼女に言ってやる。
「そう気にしなくても、投げたボールを拾ってこさせるのと大差ないわ」
「橙は犬じゃなくて猫ですから!」
「猫だって落ちてる煮干しぐらい拾うでしょ」
「落ちてませんよ煮干しなんて……」
「そうね、落ちてないわね。でも、橙なら見つけ出してきてくれるかもしれないわ」
紫は橙の喉元をくすぐるようにして触っていた。撫でられることが気持ちいいのか、橙は完全に無抵抗な状態である。心地良さそうな顔で鳴いた。
「にゃあああ。煮干しを見つけてくれば良いんですかぁ?」
「いいえ、煮干しではなくグラスを持ってきなさい。あなたの分も含めて、三人分よ」
「かしこまりました~」
「ああ、またしても窃盗を!? ちょっと橙、待ちなさい! 人のものを勝手に取ったら駄目って教えたでしょっ!」
藍の制止しようとする声も聞かず、橙は現れたときと同様の足音を立てて走り去っていった。あの様子なら、グラスもすぐに見つけて戻ってくるだろう。
「というか、本来ならお酒を持ってくる時点で一緒にグラスも持ってくるべきなんだけど……そこまでの応用力はまだ無い、と。まだまだ修行が足りないみたいね、藍」
「うう……なんだか妙なところで叱られている気がするけど言い返せません……」
橙自身がまだ未熟というのもそうだが、藍が彼女の力を引き出し切れていないのだ。ついでに言えばそれは、藍の力を更に強くしなければならないということであり、紫自身の課題とも言えることだったが。
橙が出て行ってすぐ、足音が聞こえてきた。橙のように廊下を走り回る音ではない。ゆっくりと、踏みしめるようにして歩いている音だ。紫はそちらに顔を向けた。藍も気付いたらしく、同じ方向を向く。
足音の主は、橙が開け放ったままにしてあった襖を抜けて居間に入ってきた。ふらふらとした足取りをした銀髪の少女は、泥酔者のように揺れながら歩き、そのまま柱の角に頭を直撃させる。
「みょんっ!」
短い悲鳴――なのかどうかはよく分からなかったが――と共に、銀髪の少女が倒れる。打った箇所を抑えつつ、少女はゆらゆらと立ち上がった。
「痛ぃ~……」
「何してるの、妖夢」
呆れつつ、紫は聞いた。妖夢がその質問に答えてくる。藍の方を向きながら、
「紫様こそ、ここで何をなさってるんでしょうか?」
「私はこっちよ、妖夢。そっちにいるのは藍」
「あ、あれ? は、はいっ」
数回まばたきをした妖夢が、慌てた様子でこちらへ振り向こうとして、そのまま転倒した。俯せに倒れた妖夢を座ったままで見下ろしつつ、紫はあることに気付いた。あるべきものがない事実。
「妖夢あなた……半霊はどうしたの?」
魂魄妖夢には常に、肉体の傍に半霊がいるはずである。肉体と霊体はそのどちらもが彼女自身であり、分離しているようであっても二つで一つなのだ。
「異常事態だわ。半霊が無いあなたって、普通の人間が下半身だけで歩いてくるようなものよ」
「紫様、その例えはなんだかとても気持ち悪いですっ」
藍がどうでもいいことを突っ込んでくるが、ひとまず無視する。倒れたまま顔だけこちらに向かって起こした妖夢が、呻くように言ってきた。
「実は、無くしちゃいまして……」
「無くした? 半霊を?」
「朝起きたら、もう既にこの状態だったんですよ。幽々子様に相談しようとしたのですが、屋敷内のどこにも見当たらなく……しかも身体が思うように動かせないんです」
つらそうに言う。体力的にも精神的にも、かなり疲労しきっているのが見られた。実際そうなのだろう。先程の様子からすれば、視力もかなり低下していると思われる。
「半霊はあなたの半身ですものね。通常の意味での、肉体と霊体の関係とは違う。それが無くなったのだとすれば……普段通りに体を動かせなくなっても仕方がないわ。妖夢、布団はどこにあるかしら?」
「隣の部屋に……」
「まさか紫様、この状況でお昼寝を痛っ!」
莫迦な発言をした藍を扇子で叩いて窘める。紫は告げた。
「そんなわけないでしょ。藍、早く布団を敷いてあげなさい。今の妖夢はなるべく動かさない方が良いわ」
「は、はいっ」
九本もある尻尾をふさふさと揺らしつつ、藍が隣の部屋に駆けていく。そちらからは視線を外し、紫は妖夢に訊ねた。
「幽々子が朝から見当たらないと言ったわね?」
「はい……。私はこの有様なので探すのにかなり時間が掛かりましたけど、おそらく何処にもいないと思われます。屋敷の外へ出掛けられるのであれば、普段は何かしら仰ってくれるはずなんですけれど……」
その言葉を聞きつつ、紫は口元に扇子を当てて黙考した。消失した半霊。いなくなった幽々子。そもそも妖夢の身体から半霊を引き剥がすなど、尋常なことではない。余程強力な力か、特殊な能力などが無ければ為し得ないはずである。紫が知る限り、そんな力の持ち主は幻想郷にはいないはずだが。
(でも、それが出来る能力を犯人が持っているのだとすれば、幽々子がいないことも説明がつく……かしら?)
逆算的に、可能性を推察する。霊体に直接作用する何らかの能力。それが実在するのだとすれば、幽々子にとって非常に怖ろしい相手となるだろう。亡霊を統べる姫君としての彼女の力は非常に強力無比なものだが、この場合は相性が悪すぎる。
(しかしそんな力の持ち主に心当たりは無い)
無論、自分がまだ知らない妖怪も数多くいるだろう。その中に、今まで姿を隠していた者がいたとしてもおかしいことなどない。或いは外の世界から何らかの方法を使ってやってきたか。どちらにせよ、そうして新しく強力な妖怪が現れた可能性は充分にある。
(もしくは何者かが、それまでよりも強い力を得てしまったか)
それも同様にあることだ。妖怪の力は、些細な切っ掛けで大きく変動することがある。地獄で出会った鴉が良い例だ。核エネルギーを使用するあの力は地獄鴉のレベルを大きく逸脱していた。身近な例えとしても、藍の力を上乗せされた橙は一介の化け猫としては有り得ない強さに至っている。それらと同じように何らかの後天的な理由で、霊体に対して強く干渉する力を手に入れた者がいたとすれば。
(幽々子では手も足も出ないでしょうね……)
そう結論付けるしかない。生物に対する最悪の天敵と言える幽々子だが、その能力が通用しないのであればどうしようもないのだ。
(何にせよこれは、異変クラスの事態になる可能性が高いわね)
早い内に、博麗神社の霊夢に知らせておいた方がいいかもしれない。不在でなければいいが。
そこまでのことを一秒に満たない時間で思考したところで、橙が走り込んできた。
「藍様、紫様、大変です!」
「グラスが見つからなかったの?」
そちらを見やりつつ聞くが、正直なところ、もうグラスどころの騒ぎではない。
思った通り橙の手にはグラスが無かった。代わりに彼女は、折り畳まれた紙を持っている。一瞬スペルカードでも取り出したかと思ったが、違う。何の変哲もないただの紙だ。慌てた様子で、橙が言ってくる。
「台所のテーブルにこんなものがありましたぁ!」
紫が眉根を寄せていると、橙はその紙をこちらへ差し出してきた。扇子を置きつつ、紙を開く。
『ゆうれいと さいぎようじゆゆゆこは あづかつた』
「…………何これ」
字が汚く読みづらいことこの上ない。ついでに言えば幽々子の名前が微妙に間違っている。色々と突っ込みたいことはあったが、思い浮かんだ言葉を紫は発した。
「誘拐?」
それ以外の可能性は考えられそうになかった。
そろそろ正午に差し掛かろうかという守矢神社にて。
境内の清掃を終えた東風谷早苗が、昼食の支度前に短い休憩を満喫していたときだった。
拝殿の脇に腰掛けお茶など飲んでいると、突然どたどたと騒がしい足音が聞こえてきたのだ。近付いてきた足音は、すぐに大きな叫び声を伴った。
「大変よおおおおおぉぉぉぉぉぉっっ!」
走り込んできた八坂神奈子が、こちらの姿を見てから更に大音量で叫んだ。
「今気が付いたんだけど、幻想郷だとすれ違い通信が諏訪子以外とは出来ないのよっっっっ!」
ごすっ。
「……ふぅ。あら神奈子様、おはようございます」
一息ついて、早苗は赤く染まった湯飲みを横へ置いた。こんなこともあろうかと思い用意しておいた、凄まじく硬い特殊な湯飲みである。
頭部からどくどくと血を流しつつ、神奈子が改めてこちらを向く。
「早苗あなた、今私に対してなんて言うかもの凄く不敬っていうか不信心って言うかドメスティックバイオレンスなことしなかったかしら?」
「気のせいですよ、きっと。幻想郷では常識に囚われてはいけません」
「そう……気のせいならいいんだけど」
何処かから取り出したタオルで血を拭いながら、神奈子が困ったように頭を掻いている。早苗は少しだけ口を尖らせて、神奈子に言った。
「神奈子様、あまり頻繁に外の世界のものを持ち込んだら、また霊夢さんたちに怒られますよ」
「いいじゃないこれぐらい。それに深夜販売の列に並ぶときは、ちゃんと紫に断ってから行ったわよ」
神様が自信満々でゲームの発売日に列に並ばないで貰いたいものである。もっともそんなことは外の世界にいた頃からずっとだったので、今更と言えば今更なのだろうが。
神奈子の分のお茶を新しい湯飲みに注ぎつつ、早苗は訊ねた。
「そういえば、ゲーム機の充電はどうしてるんですか?」
「河童にやらせてるわ」
湯飲みを受け取った神奈子があっさりと答える。半眼になったこちらに構わず、神奈子は不満そうな呟きを漏らした。
「こっちまで電気を引いてくるわけにもいかないから、充電する時はわざわざ出向かなきゃいけないのよねぇ。私も諏訪子も、最近じゃ一日一回は河童の工場に電気貰いに行ってるわよ」
「一日何時間遊んでるんですかいったいッ!」
声を上げるが、これも充分に今更である。仕方なく早苗は別のことを口にした。
「まったくもー。あんまり外の世界の技術を河童に与えないようにしてくださいね」
「平気よ、充電させて貰ってるだけだから。ゲーム機本体は特に見せてないわ」
「だといいですけど……何故か霊夢さんが真っ先に殴り込みに来るのって、いつも私なんですからね。……そういえば先程から諏訪子様のお姿が見えませんけど、河童の工場に行っているのでしょうか?」
神奈子が部屋に閉じ籠もってゲームをやっていたので、朝食は諏訪子と二人きりだった。その諏訪子も早くゲームを再開したかったらしく、手早く食事を済ませるとすぐさま部屋に戻ってしまったのだ。今の話を聞いて、てっきり諏訪子もゲーム機の充電に行っていると思ったのだが、神奈子は意外そうにまばたきをした。
「あの子はまだ充電いらないんじゃないかしら? 夜中に河童たちを叩き起こして充電してたから」
「……徹夜でゲームやってたんですか」
「私はその後一度仮眠を取ったけどね。あの子はそのままずっと起きてたはずだから……今頃部屋で寝てるんじゃないかしら」
最早威厳の欠片も無い話だ。
「朝食の後で眠ってしまわれたのでしたら……昼食は諏訪子様の分は用意しなくても平気でしょうか」
「たぶんいらないと思うわよ。あ、私は食べるからね」
「はいはい……何にしましょうかね。こういうとき、宅配ピザって便利だったんだなぁってしみじみ思いますよね」
「早苗」
「は、はいっ?」
いきなり名前を呼ばれ、早苗は引き攣った声を上げた。
「お聞きなさい」
そう前置きしてから、神奈子が改めて口を開く。言われずとも、自分は神の言葉を聞き逃すようなことはしないが。
「人間というのはね、一度便利なものに頼ってしまったらそれからずっと元に戻ることが出来なくなるの。あなたも外の世界で、そういったものを沢山見てきたでしょう? ……都合の良いものだけを拾い集め、自然と神を捨てた彼らは機械と情報を信仰した。あなたも半分は人間だけど、残りの半分は神様なのだから、そうして文明に頼りすぎてしまうのは良くないわ」
「神奈子様……」
思わず拳を握り、早苗は言った。
「そういうことはゲームを置いてから仰ってくださいますか」
「駄目よ、今良い所なんだから」
話の途中でいきなりゲームを再開した神奈子は最早こちらを見てすらいない。早苗が嘆息すると、彼女が一度顔を上げてこちらに口を開いた。
「でも実際、宅配ピザはどうかと思うわよ。あれって値段設定ちょっと高すぎだったと思わない?」
ひたすらどうでもいいことだった。ついでに、神様にしては随分と俗っぽい悩みである。
早苗は人差し指を口元に添えて考えた。
「どちらにしろ幻想郷には原動機付自転車なんてありませんしねぇ。ご飯何にしましょ」
「私は特に希望は無いわよ」
ひゅっ。とすっ。
「早苗の作るものなら何でも良いわ。どれも美味しいからね」
「そうですか、そう言って頂けるとなんだかちょっと照れますね、えへへ……って神奈子様、今言葉の途中で変な音がしませんでしたか?」
神奈子の方を振り向いて、早苗は悲鳴を上げた。手元のゲーム機に熱中している神奈子の側頭部に、豪華な羽根飾りのついた矢が刺さっている。
「ちょ、ちょっと、神奈子様っ! や、矢がッ! それいったいどうされたんですかっ!?」
「何よ五月蠅いわね」
「五月蠅いわねじゃありませんっ! ととと取り敢えず……ぬ、抜きますよ?」
どういう処置をすればいいのか分からないが、このままというのもよくない気がする。神奈子自身はゲームに夢中で気が付かないらしいので、早苗が矢柄に手を掛けた。強く握り、そのまま力任せに引っこ抜く。
「えい」
「きゃあああああああああああぁぁぁぁああぁぁぁああっ!?」
ぷしゅーと盛大に血を吹き出しながら、神奈子が絶叫を上げた。ぎざぎざした鏃はかなり凶悪な形に作られており、もし自分に刺さっていたらと思うとぞっとする。
神奈子が抗議の言葉を投げてくる。
「痛いじゃないの早苗っ!」
「文句は私じゃなくて犯人にお願いします。……丁度、犯人から何かのメッセージがあるみたいですし」
引き抜くまで気が付かなかったが、矢柄には小さな紙が巻き付けてあった。目にするのは初めてだが、矢文というやつだろう。外の世界にいた頃は、矢文はおろか手紙すら絶滅寸前の稀少なものだったので、早苗としては少しだけ心が躍る。矢文など時代劇やアニメぐらいでしか見たことがない。何故か少し心が躍る。
神奈子は頭部の血を止めるのに忙しいらしいので、早苗が文を開いた。
『かえるは あづかつた』
「…………」
「何よこれ。誘拐犯からのメッセージ?」
「です、よねぇ。でも……かえるって」
かえるという文面から真っ先に連想したのは諏訪子のことだったが。
神奈子が素直に言ってくる。
「諏訪子のことじゃないの?」
「やっぱりそうですか? でもそうするとこれって、諏訪子様を誘拐した犯人が送ってきたということですよね?」
「そもそもあの子を誘拐できる奴なんているのかしら?」
「まぁ、見た目だけなら可愛くて非力そうな女の子……ですし?」
言葉の最後が疑問形になってしまったが、無理もない。
「随分昔にいた、幼女趣味の誘拐犯みたいなことになってなければいいですけど……」
「そういやいたわね、諏訪子を連れ去ろうとした連中。結局程良く半殺しにされて山に埋められてたっけ」
「夏のビーチにいる罰ゲームの人みたいに、頭だけ出した状態で三日間発見されず、ですからねぇ。またあんなことになってたらどうしましょう……」
そうは言っても、諏訪子の姿が見えないことは事実である。疑わしく思いつつも二人は一応、手分けして神社中を捜し回ったが、結局洩矢諏訪子の姿は何処にも無かった。
小一時間ほど掛けた捜索を終えて、早苗と神奈子は再び相談することにした。諏訪子が見つからない以上、この矢文に書かれたことが真実である可能性はかなり高くなってきている。二人としても、流石に認めざるを得ない状況であることは理解できてきた。それと同時に、心の中に微かな焦燥も生まれてくる。
「どんな手段を使ったのかは分からないですけど、犯人は諏訪子様を拉致しているんですね」
「まあ、諏訪子ならそう簡単に殺されたりはしないでしょうけど……少し心配ね。少しは。少しだけね」
一人でうんうん頷きながら、神奈子が同じような言葉を繰り返している。彼女が諏訪子の身を案じていることは良く伝わってきた。
「とにかく、諏訪子様が捕まってしまうような敵が現れた……これはもしかしたら、妖怪の仕業による新たな異変かもしれませんっ!」
「私は少ししか心配してないんだからねっ」
原因調査の為に神社を出た後も、神奈子はしばらく同じことを言い続けていた。
博麗霊夢は頭を悩ませていた。昼食を終えてのんびりとくつろいでいたところで、ぞくぞくと来客があったのだ。
最初に来たのは人間だった。紅魔館のメイド長である十六夜咲夜と、何故か一緒になって霧雨魔理沙が来た。
次に妖怪が現れた。幻想郷の賢者と呼ばれる――霊夢にしてみれば単に胡散臭い女の――八雲紫である。
その後で来たのは神様だった。山の上から、八坂神奈子とその巫女であり神様でもある東風谷早苗だ。
濃すぎる顔ぶれだが、その誰もが口を揃えて
「誘拐事件が発生した」
などと言うのである。これには霊夢も驚かされた。しかもその誘拐された面々というのが、誰も彼も幻想郷においてトップクラスの強さを誇る者達だったのだから当然だ。
レミリア・スカーレット、西行寺幽々子(ついでに、魂魄妖夢の半霊)、洩矢諏訪子。何れも強力すぎる力の持ち主たちである。
(そんなのの一人でも連れ去ろうと思ったら、まさしく決死の覚悟を決めて行くしかないと思うんだけど。ていうか一件目のレミリアの時点で普通は殺されてるわよね)
だが現実に、彼女らは何者かによって失踪させられている。誘拐は本当に発生していると考えるしかないだろう。
霊夢の頭を悩ませている二つ目の原因として、被害者の親族――と言っていいのか微妙な関係の者ばかりなのだが――たちの言い分が全く異なることだった。
咲夜と魔理沙は、至って気楽なものである。或いは物騒とも言えるか。
「お嬢様を誘拐だなんて、安否がとても気遣われるわ。犯人の」
「死体の供養ってこの神社でやって貰えるのか? 犯人の」
などといった具合である。とにかく犯人が殺される、もしくは既に殺されている可能性が高いので、早く犯人の身柄を保護してやれとせっついてくるのだ。
正直霊夢にしてみれば、
「知ったこっちゃないわよそんなのっ!」
と言い切りたいところなのだが、そうもいかないだろう。博麗の巫女の悲しい性である。
紫の意見は――ある意味これが一番厄介と言えるかもしれないが――、
「かつて無いほど強大な敵が幻想郷に現れた可能性があるから、速やかに調査を開始しろ」
というものだった。なんでもそれは、西行寺幽々子をねじ伏せる程の力を持った恐るべき敵であり、幻想郷にとって大きな脅威となるかもしれないと言うのだ。
(そりゃ幽々子の能力が通用しない敵って怖ろしい奴かもしれないけど……今までいなかったわけじゃないでしょ)
心の中でそんなことを考える。事実、不老不死の蓬莱人などには幽々子の力が効かないため、彼女は迷いの竹林を毛嫌いして近付こうとしなかったではないか。
だがこちらのそんな言い分がこの妖怪に通用しないことぐらいは、霊夢も分かっていた。それ程長い付き合いでもないが、紫が幻想郷に関する事件の全てを徹底的に解決しようとする所は何度も目にしている。これについて霊夢が思ったのは、咲夜や魔理沙と似たようなもので、
(ああ、誰だか知らないけど犯人も可哀相だなぁ、きっとボコボコにされちゃうんだろうなぁ)
といった感じのものだった。怒り狂った紫がこの博麗神社の境内で天人の娘を血祭りに上げたのは、それ程昔の話でもない。
守矢神社から来た神奈子と早苗の二人は、それはそれで厄介なことを言い出した。異変は既に発生している可能性があるので、自分たちが解決してやるというのだ。神様たちはその為の情報収集と、そして警告に来たらしい。
「いつもいつも霊夢さんばっかり妖怪をいじめ回して羨まし……じゃない、霊夢さんがお役所根性で重い腰を上げるのを待ってはいられません。諏訪子様のこともありますし、今回は私たちが動きます。異存はありませんね?」
「私は諏訪子のことを少ししか心配してないんだけど、とりあえず些細なことでも良いから何か知っていたら情報を渡しなさい。ほんの少しだけ諏訪子のことが心配だわ。ほんの少しだけね。少しっていうのはちょっとって意味よ。ホントにちょっとだけ」
なんて調子だ。やってくれるならもう好きにしてくれ、とも思った。
そもそも、二年程前に突然幻想郷にやってきたこの神様達は、色々と型破りで規格外で身勝手すぎるのではないかと思っていたのだ。ここいらで少しぐらい痛い目に遭っておいた方が良いとも思う。もっともそんなことを口にすれば、この場で神奈子達と大喧嘩になってしまうだろうが。
(別にいちいち私に断りを入れに来なくても、勝手に解決してくれて構わないんだけどね)
異変解決のために動くことをいちいち宣言しに来る程度には、彼女らもこの幻想郷に慣れてきたということだろうか。まぁ勝手に動かれた結果、余計に面倒な事態を引き起こされる可能性というのも無いわけではない。特にこの風変わりな神様達の場合は尚更だ。
そんなわけで、三者三様の意見を聞かされ、霊夢は非常に面倒臭いということを感じていた。しかし役目柄、そんな文句を口にするわけにもいかない。集まった連中はぎゃーぎゃーと騒ぐだけだが、これらを感情にまかせて夢想封印でぶっ飛ばしてしまうことは出来なかった。
「とにかくっ!」
咳払いを一つしてから、集まった面々に向かって言う。
「誘拐が起こったのは間違いないとしても、その犯人から何の要求も声明も無いわけでしょう? その状態で無闇に動くのは危険じゃないかと思うのよ」
分からないことが多すぎるのだ。犯人の目的も手段も正体も、その全てが謎のままなのである。仮にも人質が捕られている以上、一応その人質の身柄を案ずることも必要だろう。
「とにかくまずは現場での調査を……」
「必要ないよ、博麗の巫女」
唐突に割り込んできた声に、全員が振り向いた。階段を上って境内に現れた人影は、余裕げに後ろ手を組みつつ不敵な笑みを浮かべている。
「犯人や人質の居場所を教えてやろうかい?」
悪そうな笑みを浮かべたその相手は、見知った顔だった。永遠亭の因幡てゐだ。
霊夢は即答した。
「いらない。帰れ」
「な、何でさっ!?」
大きく身体を崩したてゐが聞いてくるが、霊夢はこれにもすぐさま答えた。
「だって貴方の言うことは信用できないもの」
「うーん……それを言われるとちょっと弱いかも」
てゐは一度納得しかけたが、すぐに言い直してきた。
「じゃなくてっ! ウチでも誘拐が発生したからあんたに解決して貰おうと思ってきたんだよっ!」
「永遠亭でも誘拐ですって?」
「やっぱりこれは事件だぜ。で、いなくなったのはやっぱり輝夜あたりか?」
紫と魔理沙が身を乗り出してくる。霊夢が邪魔な二人を押しのけると、てゐは苦々しく語り出した。
「姫様が珍しく散歩に行きたいなんて言い出してさ。私がその護衛役として一緒に家を出たんだが……竹林を出た辺りで姫様とはぐれちゃってね」
「その有様で、犯人の居場所なんて分かるの?」
「姫様の着物には、師匠が調合した特殊な香り水が撒いてあるからね。それを辿って場所自体は突き止めてある」
だから後はこちらで犯人を懲らしめて欲しい、ということか。腕組みしつつ、霊夢はぼやいた。
「全く、いつもいつも面倒事ってのは全部私に押しつけられてくるのよねぇ」
「そりゃ巫女の宿命って奴だと思うぜ」
隣で魔理沙が気楽に言ってくれる。溜め息を一つついてから、霊夢はてゐの方を見やった。告げる。
「じゃあその犯人と人質の場所を教えなさい」
「霊夢さんずるいです! たまには私にやらせてくれたっていいじゃないですかっ」
後ろで早苗が何かぼやいていたが、霊夢は取り敢えず無視することにした。
誘拐事件を起こした犯人の居場所についてを語ったてゐは、そのまま住処である竹林への道を歩いていた。被害者の会――と、てゐが勝手に名付けた集団――は野次馬根性丸出しで霊夢の後をついていったが、自分はそんなものに興味など無い。
「まぁこれで釘は刺せただろうしねぇ」
頭の後ろで手など組みつつ呟いたところで、右肩に冷ややかな違和感を覚えた。冷たく、それでいて怖ろしいほどに強い力。思わず歩みが止まるほどの。
「何に対して打った釘かしら」
「のわッ!?」
こちらの肩を掴んでいるのは、霊夢達と共に人質救出へ向かったはずの八雲紫だった。彼女はこちらの耳元で、囁くように問い掛けてくる。
「あなた、まだ喋り終えていないことがあるでしょう。いいえ、違うわね……。言葉が足りないのではなく、確信犯的に嘘をついた。それは何故?」
(こ、怖ぃぃぃ……)
彼女の浮かべる優しげな微笑が怖ろしい。つられるようにしてこちらも笑みを作るものの、とてもではないが笑う気分にはなれそうにもない。紫は続けた。一人で納得したように、
「そう、やはり嘘をついていたのね。輝夜を連れ戻して欲しいのではなく、事件を起こした犯人を懲らしめて欲しい? 一見するとそれ程矛盾は無いようにも思える。でも、違うわね。あなたは立場上、輝夜の身に危険があってはならない。それであるにも関わらずこれだけのんびりしている。まるで……そうね、霊夢をけしかけること自体が目的だったかのように」
「痛、いたたたたたた……」
肩を掴んだ紫の手に凄まじい力が込められる。だがこちらの悲鳴や抗議など全く気にすることもなく、彼女はひとりで喋っていた。
「あなたの目的は何? ここまでの様子やさっきの発言からすると……事件を起こした犯人を疎ましく思った? それでいて、大勢が誘拐されたこと自体には興味が無い、という風に見える。主の心配もしていない」
「そ、そ、その通りよっ! 話すからちょっとこの手をどけてって」
紫はやけにあっさりと手を離してくれた。跡がついてしまったかもしれない肩をさすりつつ、涙目になっててゐは語り始めた。
「一つだけ確かなのは、あんたが心配してるようなことは何も起きないってことだよ……」
「何も、起きない?」
疑わしげな視線を遠慮もせず送ってくる賢者に対し、てゐは答えた。
「そうだよ。実のところ、あんなに大人数で騒ぎ立てるようなことじゃないんだ……」
そうして話した。自分が知っていることの全てを。
チルノは満足していた。概ね成功と言えるだけの成果を上げている。湖の横に特設した氷製の砦の中には、氷の檻に閉じ込められた者達がいた。檻にはそれぞれ一人ずつを閉じ込めてある。全てが雪と氷で作られたこの冷気の城砦は、自分にとって最高の場所だ。誰も逆らえるはずはない。
そしてその場所で、最強を証明した者がいる。無論、自分だ。
「どーでもいいけど、ごはんまだ?」
無粋な横槍を入れてきたのは、一番端の檻に入れたレミリア・スカーレットだった。二重に敷いたタオルの上に腰を下ろし、不満そうに呟いている。
「あら、そういえば私もお腹が空いたわ」
レミリアの隣にある檻の中で蝶と戯れていた西行寺幽々子が呑気な声を出した。
それの反応するように、その隣の檻に入った洩矢諏訪子が言ってくる。
「それよりちょっと冷房効き過ぎだと思うんだけどねぇ。環境に悪いよ」
この神様が寒さに弱いという情報は本当だったらしい。一切逆らうことなく、座ったまま両膝を抱えておとなしくしている。
その隣にいる蓬莱山輝夜は、着物の裾が氷で濡れてしまうことを先程からずっと気にしているようだった。
「そもそもこんなことして一体何になるんだか……」
それはこちらに対して向けられた言葉ではなかったのだろうが、それでもチルノは言い返した。
「決まってるわ。あたいが幻想郷で最強になるためよ!」
「はぁ?」
あからさまに嫌な顔をしてきたレミリアの方を見やり、告げてやる。
「幻想郷中の、強いと言われる連中を全員ここに連れてきて閉じ込めるのよ。あたいの最強が証明された証としてねっ」
「最強……ねぇ」
「全員をこの氷の動物園に入れることができれば、その園長のあたいが一番偉いってことよ。あたいったら最強の上に天才ねっ」
「動物園って言うより、外の世界のペットショップを思い出すけど……ああ、なんだか自分で言ってて哀しくなっちゃった」
諏訪子が溜め息をついている。チルノは満足げに頷いた。最強の吸血鬼や神様を捕らえたこの動物園は、凄まじい優越感に浸れる場所である。こんな素晴らしい所は、幻想郷中を探してもここしかない。
檻の中の連中に対して鼻を鳴らしていると、輝夜が抗議の声を投げてくる。
「動物、って言い方が気に入らないわね。そもそもこの仕打ちが何より気に入らないけど」
追従するように、レミリアも不満げに言う。
「そーよねぇ。面白そうだからついてきたのは私自身だし、檻に入ったのも自分の意志だけど……動物扱いはちょっと癪に障るわ」
「檻の中からいくら吼えたってあたいの最強は覆らないよ! ……って、自分の意志で檻に入った?」
吸血鬼の言葉に引っかかりを憶え、チルノは思わず聞いた。目を向けた先で、レミリア・スカーレットが物騒な笑みを浮かべる。
「言葉が理解できなかった? あんな下手糞な書き置きしか残せない妖精には難しかったか」
「あらあら、まぁまぁ」
口元に手を当てた幽々子がのんびりと呟くが、そんなものは気にならない。膨張するように膨れ上がっていくレミリアの殺気が、自分にとって一番の問題だった。
「下賤な妖精風情が私を捕まえた気になって、少しは楽しめたでしょう? これ以降の催し物が何も無いなら、そろそろ帰らせて貰うよ」
ゆっくりと、赤い悪魔が立ち上がる。思わず後ずさったチルノだったが、すぐに冷静さを取り戻した。哄笑する。
「どう言ったところで、その檻は破れはしないよ! 氷の中にあたいの魔力をたっぷり込めてあるんだ! いくら吸血鬼でも――」
「あらそう」
つまらなさそうなレミリアの呟きと共に、彼女の手が氷製の格子をぼっきりとへし折った。落胆したような表情と共に、彼女が吐き捨てる。
「妖精程度じゃ、どれだけいきがったところでこんなものでしょうね」
「嘘ぉ……」
「あ、なんだ。もう出て良いの?」
「さっさと私だけ外に出ておくべきだったわね」
続くように、諏訪子と輝夜が立ち上がる。諏訪子の鉄の輪が檻をあっさりと切断し、輝夜の取り出した赤い獣皮のようなものが強烈な熱で氷を溶かした。
檻から出て来た三人が楽しげに語らっている。
「面白そうだと思ったけど、時間の無駄だったね」
「寒い思いまでしてさぁ。部屋で遊んでるべきだったかな」
「やっぱり散歩なんてするもんじゃないわね。健康に悪いわ」
三者三様に好き勝手なことを言っているが、一つだけ共通して言えることがあった。三通りの殺気が、猛烈な勢いでこちらに向けられている。ついでに言えば、凄まじく怖い。
(お、おかしい……あたいは最強の筈なのに……)
「あらあら、まぁまぁ」
幽々子の、場違いなぐらいのんびりとした声。
そして。
「……な~んだ、やっぱり騒ぐほどのことじゃないじゃない」
突然乱入してきた声の方を見やると、見知った顔が幾つも並んでいた。その中央で呆れたように腕組みしている博麗霊夢が、呟きの続きを発する。
「馬鹿妖精の馬鹿な企みだったわけだ」
大勢で押し入ってきた巫女たちによって逃げ道を完全に封鎖され、チルノは困り果てた。前を見ればレミリア達が。後ろを見れば霊夢達がいる。ついでに言えば、全員が全員、なんだか妙なぐらいに殺気立っている。
一歩前に出たレミリアが笑みを崩さないまま訊いてきた。
「言い残すことがあるなら聞いてあげましょうか」
「あ……」
「あ?」
「あたいは最きょ――」
言葉は最後まで発することが出来なかった。
その場にいた全員分の、渾身の力を込めたスペルカードが一斉に炸裂し――氷の砦は跡形もなく消滅した。
「幽々子様、紫様、どうぞ」
半霊を伴った妖夢の運んできた酒を猪口に注ぎ、紫は口を付けた。透明の液体を喉に流し込んだ後で、前に座る幽々子に訊ねる。
「どうしてこんなこと企んだりしたの?」
「妖精が退屈そうだったから、何か手伝いでもしてあげようかと思って。私も早起きして暇だったし」
「あっそ……」
笑顔で答えてきた彼女に、紫はげんなりしながら呟いた。幽々子が何を何処まで考えているのか分からないのはいつものことだが、今回の事件についても何も隠そうとしない。
こちらの猪口に酒を注ぎつつ、妖夢が控えめに言ってくる。
「あのー……結局何がどういうことだったんでしょう?」
「妖精をそそのかしたのは幽々子だった、ということよ」
「はぁ」
「おかしいと思ったのよね。失踪した連中が少しばかり強すぎたこともだけど、何より妖夢の半霊を無理矢理引き剥がすような真似、そうそう簡単に出来ることではないはずなのに。それを妖夢に知られることもなくやってのけた」
つまり犯人は、妖夢や幽々子に気取られることなくこの白玉楼に侵入したことになる。更に妖夢から半霊を取り出し、幽々子を無力化した上で拉致した――あまり現実的と言える話ではない。
「私の知らない強力な妖怪が現れたってことも考えたけど……全部あなたの仕組んだことだったなら納得だわ」
幽々子がどれだけこの屋敷を彷徨いたところで妖夢は気にも留めないし、また彼女であれば霊体の扱いも容易だったというわけだ。
「早い段階で妖夢に騒がれるとすぐ解決してしまいそうだったから」
幽々子があっさりと言う。紫は呻いた。
「はた迷惑な話だったわ」
「あら」
心底意外そうに、幽々子が目を丸くする。アルコールで僅かに紅潮した頬に手を添えつつ、彼女は言ってきた。
「でもみんな楽しそうだったわよ」
「……そうかしら」
「少なくとも私は楽しくなかったです……」
隣でか細く発している妖夢の声は、おそらく幽々子には聞こえていないだろう。或いは、聞こえているのに聞こえないふりをしているか。
(それが判断つかないのが、この子の凄いところというかなんというか)
口には出さず呟く。
新しく注がれた猪口の中身を一息で呑み干した幽々子が、笑顔で口を開く。
「さて……次は何をして遊びましょうか?」
「貴方は何もしないで頂戴」
「幽々子様は何もなさらないで下さい!」
紫と妖夢の、悲痛な叫び声が重なった。
オチが前回より微妙だったので20点マイナスで