白蓮の内に千年ぶりの火照りがうずいた。
春であった。地上の桜は千年時を経ても変わらず美しい。命蓮寺に集う妖怪乙女たちはやや強い春風に煽られながら、昼食後の軽い休みを縁側でのんびりと味わっていた。
口走ったのは村紗だった。応じたのはぬえだった。
「それにしても地底と地上が繋がったのは良かったけれど、飛び出す時は熱くてかなわかったわ」
「そりゃそうよ。核融合で熱した温水だもの。まあ船幽霊に熱湯なんて宣伝する時にしても合わないわ」
「宣伝ねぇ。定期的に船を飛ばして遊覧船まがいなことやってみてるけど、結構早めに飽きられつつあるわね」
「私たちが封印されている間に地上も様変わりしたということでしょ。最近の人間たちは度胸がついてごはんのタネが無くてたまらないわ」
「それでタダメシをたかりにきてるのね――って、聖? 変に真面目な顔をなさってどうされたんですか?」
少女の話題と秋の空は移ろいやすい。白蓮が村紗たちの会話に入ろうとした時には既に手遅れ気味であったが、そこはさすがの船幽霊。水を向けるのは大得意である。
白蓮はかしこまったようにたずねた。
「先ほどの話、地底から温水が噴き出しているように聞こえましたが……」
「ええ。空を飛んでいる時に気づきませんでしたか? 今や地上はあっちこっちに間欠泉が湧き出て結構危険なのですよ」
「間欠泉……」
「聖?」
「お風呂を作りましょう」
村紗とぬえは目を点にした。白蓮はぐっ、と拳を握り締めて力説した。
「温泉は御仏のお恵みです。人も妖怪も丸裸になってひとところに集えば浮世のしがらみなど捨て、わかりあえることでしょう」
「……ああ、それは……はい……」
村紗の返答はなんともあやふやなものだった。
魔界に封印されていた白蓮が知る由もない。現在の幻想郷が温泉パラダイスと化しているのは地底のカラスがハッスルしているだけの結果に過ぎないのだ。地底に封印されていた村紗とぬえはその事件を目の当たりにしている。
白蓮的にこのアイデアは限りなくグッドなものだったのだろう。村紗とぬえのリアクションの小ささにちょっぴり寂しそうにして、人差し指をくわえている姿が哀れみを感じさせたのか、距離を置いて会話を見守っていた星が乗ってきた。
「聖の案は素晴らしいものです。しかし、この辺りに間欠泉など湧いていませんよ?」
「そこはナズーリンに探させましょう。温泉脈を探し当てることくらい、あの娘ならおやつの前にやってくれます」
「でもあのネズミ、ぬえがばら撒いた飛宝探しにまるで役立ってなかったような……」
「あ、ああいや、あの時はナズーリンもですね。さすがにあまりに範囲が広く、探すものが多かったので手が回らなかったのですよ、きっと。ええ」
「そ、そうよ。きっとそうね! そんなことより温泉よ!」
水を差すのも大得意なのが船幽霊である。いっぺんに都合の悪いことを突かれた星とぬえは、協力して話を温泉に戻した。かくて浮世に業は積もる。
「それではさっそく、ナズーリンを呼んで行動に移しましょう」
「ええ、善は急げですね。じゃあ私はナズーリンを……」
「私も一緒に行くわ!」
「え? でも、ちょっと……」
星とぬえはナズーリンを呼びに行ってしまった。白蓮はうきうきわくわくにこにこして二人について行ってしまった。
取り残された村紗は、どうなることやらと天を仰いだ。
日本は温泉大国である。そもそも日本列島自体が四十五億年の地球の歴史から見れば一瞬浮き出た地表にしか過ぎない場所なのだ。大陸プレートは絶賛移動中であり、火山活動は極めて活発。年に数え切れないほどの地震が起き、死火山とされているはずの富士山ですらいつ目覚めの時を迎えるかわかったものではない。
妖怪の生きる時間、大陸移動を見守る時間から言えば千年の時など瑣末な時間だ。故に千年前からやっぱり日本は温泉大国であり、平安時代の貴族たちはその薬効を尊び、湯治を何よりの健康法とした。
定命を恐れた人間の白蓮もまた、温泉を好んでいた。温泉があちこちから湧き出て、魔法を学ぶことが容易くなり、妖怪の地位が強く、人間と共存できる幻想郷は既に白蓮が目指した理想の一端を実現しているのかもしれない。
最近の外の世界でも都心のど真ん中に穴を掘り、いつでもどこでも気軽に温泉を楽しめるようになった。幻想郷もまた、幻想の力で外の世界と同レベルの文化を取り入れようとしているのだ。
「そりゃあ、温泉脈は探し当てられますがね」
命蓮寺で修行する少女たちは、広間に集っていた。優雅に昼寝と決め込んでいたところを叩き起こされたナズーリンは目を細めて遠慮ない現実を言った。
「土木工事は誰がするんです」
「人を集めましょう。皆で協力するのです」
「間欠泉は熱湯です。人間には危険な工事です」
「危険な作業は我々妖怪が行いましょう。人妖が互いの長所と短所を補い合うことでより強い関係を築き上げることができるでしょう」
「そもそも、温泉を造るとなると水流に精通した特殊な土木技術が必要となります。そのような技術を持っている、もしくは心当たりがある方は、挙手してください」
皆無であった。
白蓮たちが知るよしもないが、数ヶ月前の博麗神社でも似たようなやりとりが行われた。以下、火車騒ぎに注意を呼びかけにきた人里の寺子屋で働く先生が、騒ぎの調査のため歴史を喰った時に垣間見た巫女と魔法使いの会話を一部反芻しよう。
『温泉で参拝客が集められるかと思いきや、現実はそうはいかないのであった』
『いいのよ別に。山の方に河童が造った温泉があるから。帰りが湯冷めしてつらいけど』
『かくして山の神社にますます信仰は搾り取られるという寸法だな』
『ま、今度萃香の奴にでも造らせるわよ。土木作業に欠かせない猫車はあるしね』
『猫の手も借りたいとはこのことだな』
『にゃん?』
『ん、なんだお前。そこに転がしているの妖精か? 全く猫は生殺しにするからタチ悪いな。地獄に落とされても知らないぜ』
『お姉さんも嘘ばっかついていると地獄に落とされるよー。ふみふみ』
『ま、まりささぁ~ん……たすけ……』
『ていっ』
『ぎゃあっ』
『おー、そろそろ一回休みだな。なぁに、まだ朝だ。今から天日干しにすればすぐ回復するさ』
『ほほう、この妖精は干物にするとおいしいのか。それじゃあ今から瓦の下に置いてくるよ!』
『あんまり神社で殺生しないでよ。妖精なんてものの数に入らないけど』
以下、こんな感じで博麗の巫女はマイ温泉をあっさりと諦めた。
白蓮は諦めなかった。
「鬼は人間よりはるかに優れた土木技術や鍛鉄技術を持つと聞きます。その鬼も今は村紗たちと同じ、地底に封印されたとか……」
「聖、彼奴らは当てにできません」
村紗、即答。横でぬえも頷いている。
首を傾げる白蓮に、星がフォローした。
「鬼は自ら望んで地下にいるのです。ちょっとやそっとで地上に自分たちの技術を披露することはないでしょう。加えて、鬼は力で認めさせなければ動くことはありません。まあ聖なら鬼相手にも勝算はありますが……」
「それではさっそく、地下に……」
「そこが問題なのです。地上の妖怪が地下に行くことは禁じられています」
「しかし、地下に封印されていた村紗やぬえはこの通り……」
「我々の仲間は皆、殺生を拒み御仏に信心するものばかり。地上で悪さをするとしても、程度が知れています。ですが、聖は今から地下の最大戦力である鬼がねぐらとしている、地下の都市に殴りこみを仕掛けにいこうとしていることになるのです」
鬼は大喜びするでしょうが、と星はややげんなりしながら締めくくった。
魔界生活が長かった白蓮は、幻想郷の中でもかなりの力を持つ妖怪として復活を遂げたが幻想郷のパワーバランスに関しての知識は目下詰め込み中である。白蓮の性格上、無闇に力を振るうことはないが大きな力はそれだけで影響力を持つ。そんな白蓮が幻想郷と袂を分かった地下との接触を無思慮に行えば妖怪大戦争が起きかねない。
「あいかわらず地上も地下もつまらない勢力関係に悩まされているのね。魔界で過ごしている間に私の仕事は無くなったのかもと一時は思ったものですが」
「河童の協力を仰ぐというのはどうでしょう。彼らは鬼秘伝の技術を受け継ぎ、外の技術を研究し、日々研鑽し続けていると聞きます。また、人間に対して協力的でもあります」
「ご主人様。河童こそ政治と社会にがんじ絡めに縛られて動けないに決まっている。ましてや我々の言うことなど聞くものか」
星の提案を白蓮が鵜呑みにする前に、従者のナズーリンが一蹴した。現在の幻想郷のパワーバランスに疎いのは何も白蓮に限ったことではない。地下に封印されていた村紗たちもまた、例外ではないのだ。話が動く前に水を差す役回りが必要だった。
「連中は山の神を信仰している。新参で仏様を信仰する我々に力を貸すことは無いだろう」
「ナズーリンの言う通りかもしれませんねぇ……。今でこそおんぼろ神社になっていますが、幻想郷は博麗神社の影響力が強かったですから。現世利益の少ない御仏より、神様を信仰するのが一般的になってしまったのは避けられなかったのかもしれません」
毘沙門天の弟子も形無しである。星はこの一千年、白蓮の強い求心力を失った寺を管理し続けることで妖怪の仏への信心が薄れてゆく様をこの目にし続けてきた。何せ、このご時世天狗ですら仏教から神道に鞍替えである。
しかし高度な妖怪の技術の恩恵が受けられないとなると、人間の技術に頼らざるを得なくなる。人間の職人の質が悪いというわけではないのだが、やはり寿命の差から浮き出る技術力の差はいかんともしがたい。どうせ造るのなら質の良いものを、と求めるのは自然の道理であろう。
だが、結局方針を固めるのは白蓮である。このリーダーシップこそが星には無く千年前の封印事件の後、白蓮の志を受け継いで独自に動くことを諦めざるを得なかった理由の一つだ。
「まぁ、とりあえず人里にチラシをばら撒いて人を集めましょう。人の技術も悪くないものです。長い時を経て生きる鬼や河童に比べれば耐久性に問題があるかもしれませんが、定期的に人を雇ってメンテナンスすることもまた交流に繋がり、信頼を生むものです」
「では作業員を二手に分けましょう。人を集めてもまず間欠泉を先に掘り当てなければ作業に移れません。まず、ナズーリンは掘削員から外せません。聖もまた、人当たりが良いので人員集めの要員から外せないでしょう。各メンバー、この二人をリーダーとして行動してください」
「質問があるんだけどー」
「はい」
ぬえが羽根と一緒に挙手した。星は朗らかな笑顔で受け答える。
「あんたは働かないの?」
「私はお寺でお留守番です。お張子ですから」
ナズーリンが掘削員として必要としたのは一輪と雲山、そして村紗だった。
彼女はまず寺周辺の地図を引っ張り出し、ざっと水脈を探索して上書きした。そうしてから人里と寺の周辺、互いにとって行き来がしやすい場所に当たりをつけることにしたのである。
「問題は深度だね。あんまり深いと掘るのが大変だし、近すぎても地熱の効果が薄いせいで湧き出るのはただの水だ。そのうえで交通の便が良い場所となると……」
一輪と村紗が見守る中、ナズーリンのペンデュラムは地図の上をふらふらと揺れた。中々静止せず、振り子のように揺れるペンデュラムを見つめるのに一同が飽きてきたあたりでナズーリンは難しい顔をしながら地図の一点を丸で囲む。
「このあたりを掘ると良いのね?」
「いや、現場に行ってみてちゃんと探索しないとどの程度の深度かまでは詳しくわからない」
「本当に大丈夫かしら」
「平安京じゃあるまいし、あちこちに穴掘ってぬえを落っことすわけにもいかないだろう。何、私の特技だ。少なくとも現場周辺を掘れば何かは出てくるさ」
「死体とか埋まっていたら供養しなくちゃいけないのにー」
一輪は面倒臭そうにシャベルを担いで立ち上がった。村紗も同じようにシャベルを手にしようとしたが、ナズーリンはいやいやと止めに入る。
「キャプテンには、錨を持ってきてもらいたい」
「停泊するの?」
「掘削するんだ。何せ、おむすびが転がり落ちた程度の深さまでは最低限掘らなければいけないからね。一気に済ませたい」
そういうわけで、ナズーリンは愛用のロッドを、一輪はシャベルを、村紗は錨を担いで出かけることとなった。物々しい妖怪少女たちの姿に参拝客として訪れた一般人はぎょっとする。
辿り着いた現場はまばらに木が生えた林であったが、ナズーリンは気にせずロッドを構えてダウジングモードに入った。うろうろと林を歩き回るナズーリンの姿に五分ほどで見飽きた一輪と村紗は水筒のお茶を飲みながら、延々待った。
半刻ほどもしただろうか。退屈で睡魔に襲われていた一輪と村紗の視界に、ようやくナズーリンが満足そうな表情で帰ってきた。
「当たりだ。掘削作業に入ろう」
「もう待ちくたびれたわー。さっ、とっとと始めましょう」
「ああ。じゃ、ちょっと親父さんに頼んであの木を引っこ抜いてもらえないかな」
ナズーリンがロッドで差した木を一輪が指差す。程無くして雲上からでっかい手のひらが降りてきて、むんずと木の幹を引っつかむや、ぺんぺん草でも始末するかのように大量の腐葉土を払い落としながら一息に引き抜いた。
続いてナズーリンは引っこ抜かれた穴に入り、村紗を呼んだ。そうして一点を指差す。
「ここに錨を突き刺してくれ」
「んっしょー」
「で、親父さんにさっき引っこ抜いた木を錨の頭に載せてくれるよう頼んで。いや、横向きじゃなくて縦向きに。そう」
錨に突き立てられた木を見て、村紗も一輪もナズーリンの意図を理解した。何も言わずとも既に雲山も理解しているのか、天には積層雲かと見紛わんばかりの超巨大な拳が作り上げられている。
「それじゃ、パイルバンカー一発目ー」
一輪がナズーリンの合図に呼応して、拳を一気に振り下ろした。連動して、天が落ちてくる。
余談であるが、その日たまたま博麗神社に遊びにきていた天子は微弱に感じる地震の疑いを霊夢に訴えかけられ、無罪を主張したが受理されず夢想天生によって想像を絶する悲しみを背負ったという。
人里と寺を繋げる道は夕日に照らされ赤く燃え上がっていた。二人分の影法師が長く伸び、郷愁を思わせる幻想郷にふさわしい光景を作り上げていた。
だがその影法師のうち仏法を特に重んじていない方の頬はげっそり痩せこけていた。特徴的な形状をした羽根も萎れきって尻尾なんだか羽根なんだか正体不明になり、歩く姿はゾンビフェアリーである。
妖怪は精神的打撃によって死に至ることすらある。封獣ぬえも例外ではないのだ。
白蓮は彼女の精神力をすり鉢でずいずいずっ転ばしせん限りの勢いで削りきった。具体的にはぬえを連れたまま人里中を練り歩いた。数々の人里の有力者と挨拶して回った。大人も子供も老人も分け隔てなく挨拶して回った。
ぬえの力の源は、彼女に対して人間が抱く正体不明への恐怖感である。そんなぬえが正体である少女の姿をお天道様の下に晒して多くの人間に見られたのだからたまったものではなかった。
もちろん白蓮も涙目になってびくびくするぬえが見たいという嗜虐心を満たしたくてやったわけではない。白蓮は連れ歩いているぬえのことを聞かれても「弟子です」の一言で片付けた。ぬえの本性が伝承で語られる合成魔獣な鵺のイメージと繋がらない限り、実際のところ彼女の力が削がれることはないからだ。
要するに胆力訓練である。
「……村紗たち、穴、掘り終えているかしら……」
「地底が恋しいですか?」
否、ぬえだって地上でもっと遊びたい。確かに地底暮らしが長かったおかげであちらにはあちらで愛着はあるが、しばらくは地上生活を満喫したい。しかし、しかし地上には今隣で笑っている物騒な仏僧がいるのだ。
えてして生まれた時から強い力を持つ妖怪は修行とか鍛錬とか努力とかいう行為が嫌いである。人間とは全く違う価値観で動く妖怪たちは人間とは全く違う価値によってパワーアップするものだ。わかりやすい筋力トレーニングのような訓練など全く意味が無い。
白蓮は元々人間であるという。ぬえはそのへん勘違いしているんではなかろーかと目線で訴えた。白蓮は頷いた。
「妖怪の多くが人間をあらゆる意味で糧にして営んでいます。妖怪と人間は持ちつ持たれつ。どちらか片方を捨ててしまえば必ずどこか歪みが生じます。人間にとって妖怪がいない毎日も、妖怪にとって人間がいない毎日も今の生活より色褪せてつまらないものでしょう」
こくり。実際、人間のいない地底がつまらないからこそぬえは地上に飛び出してきた。
「私は妖怪と人間がより手を取り合える世界を目指しています。しかし、馴れ合ってしまえば妖怪が妖怪たりえなくなります。妖怪は人間に恐れられなければならない。人間は妖怪を克服しなくてはならない。その仕組みをある程度保ったままにしなければ、結局お互い滅びるだけです」
ぬえもそのあたりは気になっていた。ただ村紗たちが何も言わずに強く白蓮を信頼している様子なので、何か秘策があるのだろうと考えていた。
「悟りましょう」
ぬえの脳裏にニクイピンク頭のあんちくしょうがよぎった。天敵だった。
「悟りを開くのです」
――説法が始まった。
ぬえの精神力はこの日、千年前の討たれた夜以来の磨耗っぷりを体験したかもしれない。ロイヤルフレアをグレイズ抜けするようなものだった。
白蓮の理論を簡単にまとめると、みんな悟れば問題ない、であった。ぬえは人間で言う断食修行的なものを強要されたに近かった。なお、断食修行は計画的に、段階的に身体を慣らして行わなければ生死に関わる荒修行なので白蓮教に目覚めブディストを目指す読者の方はお近くの住職さんに相談してから行いましょう。
本格的に逃げ出す算段をぬえは考え始めた。人間的に逃げるタイミングというのは皆寝静まった夜が最適なのだが妖怪は睡眠を特に必要としないので、機会があるのならすぐさま行動に移さねばならなかった。
機会は空から降りてきた。黒白い格好をしたその魔法使いは白蓮の顔を見るや好奇心丸出しに目を輝かせてこっちにやってきたのだった。
「おい、なんか向こうでお前んとこの妖怪が穴掘ってたがついに葬式寺を始めたのか?」
魔理沙の言葉に白蓮は首を振った。ぬえ、この瞬間に一歩下がる。
「現世利益です。温泉を掘っているのですよ」
「ほう、作業員の頭数があるところはいいな」
「しかし技術者に難があるのです。今しがた人里に降り、作業員を募集したのですが温泉を造ったことのある人など誰もいないので……」
「河童はどうした。河童に温泉は外せないだろう」
「何やらしがらみがあるようでしてとりあえず様子を見ようかと」
「ふむ」
魔理沙は何やら考え込んだ様子だった。白蓮はすっかり話に呑まれているようだった。二歩目。
「当てがあるぜ」
「なんと。御仏のお導きですね」
「ただし、私もただで紹介してやるわけにはいかんからな。っと、おい、そこの正体不明がなんか逃げ出そうとしてるぜ」
「いえ、この娘は今から自分でばら撒いた種を回収する日課に行くだけです」
完全に逃げ出す腹積もりだったぬえの思考が切り替わった。
妖怪という生き物は人間が思うよりずっと精神的なものに縛られる。白蓮たちに迷惑をかけ、さらにそれを咎められることもなかったぬえは自分が撒いた騒動の種について強い負い目を背負っていた。仏法に心から帰依していないぬえは修行からは逃げても良かったが、ぬえがぬえである限り種の一件だけは逃げられなかった。
白蓮はしかし、と言葉を続けた。
「今日はぬえも疲れたでしょう。般若湯でも飲んでゆっくり休みましょう」
「いいねぇ。私もご相伴に預からせていただこうか」
魔理沙はちゃっかりタダ酒にありつくつもりのようであった。ぬえにはそんな魔理沙の気楽な娑婆暮らしがとても懐かしく感じられた。
「神さんも仏さんも温泉温泉。いつからこの世はこんなに熱くなったのか」
「で、どうだ。受けるのか」
「ま、こっちの作業も一通り終わったからね。真っ先に核を見つけた私が真っ先に研究できないのは残念だが、まあ盟友のためだ。受けてやろう」
春先の妖怪の山は遠目からでも見事な桜色に染まり、美しい。しかし今年の妖怪の山では、例年通りの河童と天狗のどんちゃん騒ぎは鳴りを潜め、河童たちは何やら怪しげな実験や作業をこっそり行っているように魔理沙の目には映った。
にとりも例に漏れず、服の裾を泥まみれにして巨大なドリルっぽい機械を背負ってねぐらに帰ろうとしていた所だった。そこを発見した魔理沙が事情を説明し、協力を仰いだというわけである。
「それにしてもなんだ。お前らも穴掘りか? エイリアンが出たからってどこもかしこも穴掘りすぎだぜ」
「エイリアンなんているわけないでしょ。ファンタジーやメルヘンじゃあないんだから」
「外の世界にゃお前ら河童をエイリアン扱いしているって話もあるらしいが」
「ああ、やっぱり千年たっても地球の酸素はおいしくないわね」
「やはり香霖の話は本当だったのか。早く火星に帰れ」
「核融合の扱いがもっと上手くなれば火星にだって行けるかもね。で、何? 穴は掘れているの?」
にとりはこの場で工事の進行状況を聞いておきたいようだった。現場に持ってゆく工具類の取捨選択のためだろう。
「ああ、木の幹何本も引っこ抜いて穴掘っていたな。あれ引っこ抜けばそのままパイプラインになるとかかんとか」
「ふむふむ。で、単純で人手のいる作業は人間が担当してくれると。うーん、連携ちゃんと取れるかなぁ」
「お前が人間に合わせればいいんだよ」
「やだよ、面倒臭い」
河童は人間に対して友好的だが自分から接触してくることは少ない。魔理沙の目から見れば臆病者にしか見えない。
さらに山の神に信仰する河童は抹香の匂いも嫌うだろうから、完全に工事はにとりのワンマンで進みそうだった。白蓮が目指す人妖の融和はまだ遠い。
と、魔理沙は思っていたのだが長い目で見る白蓮たちはそうは思わなかった。
「何この設計図!? mって何? メートル法って何!? 日本語で書いてよ!」
「ナズーリン、河童を呼んできて。どうやら彼女と私たちは違う世界に住んでいるようです……」
「いや、船長。それが彼女、人間と手を組む気はあっても我々と手を組む気はないようだ。何を言っても聞く耳持たないぞ」
「それでは人里代表の方に向かっていただきましょう。慧音さん、お願いします」
「うむ」
にとりを加えた工事は混乱の只中にあった。お互いの使う技術レベルに差がありすぎてしっちゃかめっちゃかだった。
外の世界では、自衛隊が派遣先の住民と連携して土木工事を行うことは珍しくないが、彼らはそれ専用のしっかりとしたマニュアルに従って行動する。人見知りの河童にそんな気の利いたものはなく、工事はコミュニケーション段階でひたすら手探りだった。
「聖、この工事は手間取りますよ」
「良いことですよ」
様子を見守っていた星は苦笑する。
人間と妖怪が最初から手を取り合うことなどできないだろう。まず衝突から生まれるお互いへの理解しようとする心が必要だった。
白蓮はまず現世利益として温泉を人間の前にぶら下げた。山の神が妖怪たちにしか与えなかった恩恵を、白蓮が人間に施す形である。しかしそれを実現するための道は人と妖怪が協力することを必要とした。
本来、その妖怪役は村紗や一輪たちが担うはずであった。だが彼女らは白蓮の教えに忠実で人間に対して友好的である。河童くらいのコミュニケーション不全さの方が、後々のためになると白蓮は考えた。
幻想郷の生きとし生けるものが仏の下に帰依する必要は無いし、無理である。ならば今の内から異教とのなぁなぁな関係を作っておいた方が良いのだ。
しかし……
「嬢ちゃん、その工具箱ぁ大の男でも腰ぃ抜ける重さだぜ。おいちゃんたちが持ってってやるからぁっておいぃっ!?」
「あ、私錨を上げ下ろしたり海水詰め込んだ樽汲み上げたりするの得意ですから、お気になさらず」
「それよりおじ様方、こちらに加勢してくださいませんか? こんくりぃとっていうのを造るのに必要な材料らしいのですが、我々の知識では今ひとつ河童が何を言いたいのかさっぱりわからなくて……」
人間と妖怪は白蓮たちの予想をはるかに上回る仲の良さで作業を進めていた。
千年の時間は妖怪にとっても長かった。外の世界は徹底的に妖怪を排斥したと聞くが、その正反対を行く幻想郷は白蓮にとってとても素晴らしい理想郷に思えた。
人も妖怪もいくらでも変わることができる。白蓮は強く確信した。
そうして桜が散り、日差しもやや厳しくなった頃、ついに人間と妖怪が手を取り合い来る日も来る日も泥まみれに明け暮れた記念すべき土木作業は終わった。
白く靄立つ温泉の絶景に男も女も老いも若きも妖怪も人間もなく手を叩き合って喜んだ。自然の恵みはいついかなる時代、場所においても尊い。
人里の人間たちに河童まで出払ったこの一大プロジェクトは工事中の段階で既に幻想郷中の注目を浴びていた。故に完成した当日、命蓮寺の湯は正に芋洗いの様相を見せたのは仕方あるまい。
今プロジェクトの発案者にして責任者である白蓮の意向により、たとえ工事に一切関わっていない妖怪や人間であっても分け隔てなく受け入れたことが原因だろう。オープン早々拡張工事も考えなければいけない有様だった。
「いやぁ、すごい盛況っぷりだな。金を取らないのが残念なくらいだ」
「取りますよ、運営費は。今日はオープン日なので特別サービスです」
「なぬっ、それは本当か」
魔理沙が訪れたのは夜も更けてからだったが、それはそれで妖怪の顧客が増える時間帯なのである。脱衣場の向こうは妖怪たちの騒ぎ声で耳も痛いくらいだった。
番台に立つ村紗は胸を張って柄杓を振り振り説明する。
「今回の工事費用は星の秘蔵のお宝でなんとかまかなえましたが、これからもそうはいかないでしょう。それでも黒字となった場合、公共事業に還元しようという考えを聖はなされております」
「そりゃ胡散臭いこったな。もちろんここの工事に欠かせなかった河童を紹介した私は永久無料だよな?」
「はい、もちろんお代はいただきます。工事の関係者皆さん、利用なさる方は必ず代金は支払っていただきますので」
「資本主義が平等とか言って本当にそうだった試しはないな」
「まあ今日は無料なので身体がふやけるまで浸かって行くと良いでしょう」
「いや、そうしたいのは山々なんだがな。今日の用事はそれじゃないんだ。お前ん所のネズミを貸してくれ」
「ナズーリンを?」
魔理沙はうむと頷いた。村紗は怪訝な表情をするが、色々と魔理沙には恩義を感じているので素直にナズーリンを呼んだ。
ナズーリンは脱衣場に散らかった籠を片付け、水滴を拭くなどの雑用をこなしていたところだったらしい。元からネズミ色な衣装が濡れてドブネズミ色になっていた。
「いやぁ下っ端はつらいな。君は自由人なようでうらやましい限りだよ」
「自由だぜ。で、頼みというのは他でもない。私の八卦炉を探してほしいんだ」
「八卦炉?」
「ああ、お前をペンデュラムごとどかーんとやった時に使った道具だ」
「アレか。結構貴重そうなものだったが、無くしたのかい? そういう間抜けはウチのごしゅ……こほんっ」
妙なところでナズーリンは会話を途切れさせたので魔理沙は気になったが、それ以上に八卦炉の行方の方が今は大事である。事情を説明した。
「アレは私の知り合いが作った自慢のマジックアイテムでな。そいつにちょいとメンテナンス兼カスタマイズを頼んでいて、その間代わりの予備を借りていたんだ。どっこい予備がいつの間にか消えてしまっていてな。あれがないと愛用している本物の方が取り返せない」
「ふーん。まぁ待て。アレはかなり希少な金属を使われているからすぐにわかる。ほら、もう反応が出たぞ」
ナズーリンのペンデュラムは敏感に八卦炉の反応を示していた。魔理沙はてけてけ歩き出したナズーリンの後ろをついて行く。
風呂を迂回し『関係者以外立ち入り禁止』の札がかかった小屋のようなものの中にナズーリンは入っていった。魔理沙にはよくわからない計器のたくさん付いた機械が置かれており、さらにその奥には厳重に鍵がかけられた地下へと続くらしい扉があった。
八卦炉のことは置いておくとしても中々蒐集家魂が揺さぶられる場所である。魔理沙のそんな邪念が伝わったのか、ナズーリンが振り返る。
「君は関係者以外だ。火の元危険だしな。あっち行け」
「まあ仕方ないな。ものはしっかり頼むぜ」
「任せてくれ。君は心配せずにゆっくり温泉にでも浸かっているといい」
「おう」
もちろん、魔理沙がそんなことを素直に聞くはずがない。
ナズーリンの気配が地下室の中に消えて行くのを確認してから、こっそり中へと侵入し始める。だが入るや否や魔理沙は後頭部にスパナを投げつけられ、転倒した。
「なっ、だ、誰だこんなひどいことする奴は!」
「私だよ盟友。魔理沙こそこんな時間にこんな所に何しに来たのさ」
河童のにとりがぷんすか怒っていた。魔理沙は進退極まったかと開き直った。
「ふふふっ、何を隠そうこの魔理沙様はシャーロック・ホームズも愛読する怪盗様だ。予告なく現れてがらくたでもなんでもかっぱらって行くぜ」
「ここはボイラー室だ。ただでさえ初仕事で正常運転しているかどうか一日張り付いて調べているっていうのに、魔理沙にあるものないもの部品を外されたらたまったもんじゃない。わかったらさっさと帰るんだな」
「ちっ、仕方ないなぁ。けど私だって本来の用事が終わるまでは待つぜ。ネズミが来ただろう、あいつに――」
ぼすんっ
すごい音がした。
何かが爆発したような音だった。
魔理沙とにとりは音のした方向を振り向いた。
パイプ管が煙を吹いて爆発した音だった。
「うわああああああ!? なんでええええええええっ」
「え? ちょっと待て。なんだこれ。もしかしてまずかったのか?」
にとりの悲鳴に気づいたのか慌てた様子でナズーリンが物陰から飛び出してきた。その手には魔理沙が探していたミニ八卦炉がある。
――なんか妙な機械部品と一緒に取り付けられて
「まずいよ! まずいに決まっているじゃんか! どーして絶賛稼動中の機械から部品外すかなぁこのネズミは!」
「おい待て河童。それ、私の八卦炉だが」
「――――――――――」
半狂乱だったにとりが魔理沙の一言で理性を取り戻した。ゆっくりした動作で振り向き、満面の笑顔を浮かべて、舌を出して頭を小突く。
「てへっ、だって魔理沙がすごく高性能な火力制御装置持ってたもんだから」
「このこそ泥がっ!」
「魔理沙だってしょっちゅう私の工房から色々パクってるじゃあないか!」
「おいそこの泥棒コンビ。それで、結局このボイラーはどうなるのか」
ナズーリンがダウジングロッドで指差すボイラーの惨状は旧灼熱地獄をちょっとだけ魔理沙に想起させた。
赤熱したパイプ。蒸気を吹き上げる機器。異様な金臭さ。徐々に高まる気温。感覚の全てが危険を訴えていた。
「ふっふっふ。今日こそはあの人間を驚かしてやるわ!」
多々良小傘は手ぬぐいを頭に載せ、秘密兵器のこんにゃくを片手に小屋の屋根に登って、魔理沙を待ち伏せていた。
本当はこの温泉を作ったとかなんとかいう、寺でいつもエラそうにしているヤツを驚かそうと思っていたのだがどこを探しても見つけられなかった。
悔しくて歯軋りする小傘を親切な船幽霊のおねーさんが慰めてくれた。温泉に入ることを勧められてゆっくり湯に浸かっていたら気分も良くなり、頭の回転まで良くなった。何、別に驚かすことができるのは今日だけではない。明日だって明々後日だって驚かすことはできる!
そう思って意気揚々と風呂から上がった小傘は、思いがけない宿敵を見つけた。
例の黒白魔法使いである。学習した小傘はいきなり驚かさず、こっそり後を追けることから始めた。チャンスを待つのだ。人間、必ず油断や気の緩む一瞬ができる。そこを突くのだ!
素早く追跡するため、服を着る余裕のなかった小傘はバスタオル一枚身体に巻きつけただけの姿だったが、気にしなかった。黒白魔法使いはどう見ても出入り口が一つしかないこの小屋に入っていった。これで出てきた所を屋根から飛び降りながらこんにゃくでもぶつければ、さしもの黒白魔法使いでも驚くことうけあいだろう。
「積日の無念、必ずやここで……ふぇ……っふぇっ、ふぇっくしゅんっ」
初夏の夜気は素肌に寒い。勝利の美酒は二度風呂で味わうべきかもしれなかった。
「早く出てきてくんないかしらー……。これじゃ私が風邪引いちゃう……ん?」
ぺったんと屋根に座る太ももから、足音の振動が伝わってきた。黒白魔法使いが小屋から出ようとしているのだ。
「来たわね! よーし……いち、にの、さ――がふっ!」
小屋のドアが吹っ飛んだ。
飛び降りようとしていた小傘は木製のドアに顔面を強打され、屋根の上で伸びた。偶然と呼ぶにはあまりにも的確な一撃だったが、残念なことにただの偶然だった。
「逃げろーーーー! 爆発するぞーーー!」
「いやああああっ、私の一ヶ月かけた自信作がああああああっ」
風のように人妖が駆け抜けていった。小傘が彼女らの言葉の意味を察したのは、何秒後だったか。
小傘の背中を、妙な熱気が撫でた。
五月十三日 文々。新聞号外
昨晩、本誌でも伝えていた命蓮寺をスポンサーとする温泉『命蓮の湯』が開業して半日後、爆発炎上した。
『命蓮の湯』は人間と妖怪の融和を唱える聖白蓮さん(魔法使い・僧侶)が企画発案し、プロジェクトを仕切って河童の協力も加えた一大工事によって造られた。
爆発事故が起こった時間は深夜で、幸い巻き込まれたのは丈夫な妖怪のみで皆軽傷である。
今回の爆発事故の原因は現在調査中であるが、顧問技師の川城にとりさん(河童・エンジニア)と霧雨魔理沙さん(人間・魔法使い)との間にトラブルがあったことが原因ではないかと関係者は推測している。記者の取材に、本人たちはこの容疑を否認。不幸な事故だと主張した。
本誌はこの件をより深く追及する方針である。
ぬえはこいしと同じでさとりの天敵な気がします。
寺のために働きたいよおおお。
温泉掘るとこの連携プレイの描写がなんか好きでした。
親交の結晶が爆発オチなんて素敵すぎるだろ、幻想郷的に考えて。