姉さんはある日いなくなった。
書き置きもなく、伝言もなく。どこかへ出かけたのかと思うぐらい、あっさりと私の前から姿を消した。
双子なんてのは産まれた時から一緒で、死ぬのもきっと同じ時間、同じ場所で息を引き取るものだと思っていた。だから姉さんが姿を消しただなんて現実を、私は信じることができない。
目を背けて耳を塞いで、そうして流れた月日は百年を超えた。
幻想郷には多少の様変わりがあったものの、大きな変化は訪れていない。ここは外の世界から隔離されたお伽の世界。あちらがどれだけ進化しようと、まるで拒むように百年も前から変わらずを通していた。
だからきっと姉さんが戻ってこないのは、幻想郷が変わらないせいだと愚痴を零した日もある。本当はそうじゃないこと、ちゃんと知っているくせに。
「穣子様はほんに素晴らしき御方じゃ。あん方がおられるおかげで、今年も我が里は豊作の年となったわ」
ある里の長は、皺だらけの顔を更に皺だらけにしてそう語った。
私の能力だって万能ではない。どうしても不作にしないといけない年もあり、そういう時は挙って私の無能さや冷酷さを呪うというのに。こうして豊作にした途端、手のひらを返したように人間達は私を褒め称える。
それを滑稽などと嘲笑うつもりはない。神様とはそういうものだ。
でもひょっとしたら、姉さんはそういう仕組みが嫌で姿を消したのかもしれない。
そう思った日もあるけれど、やっぱり違うように思える。姉さんは、あの時言ったことを実行しているだけなのだ。
秋深く、紅葉が山を彩った日のこと。
遠くに滝が見える小高い丘の上で、姉さんは優しげな微笑みを携えて言った。
「穣子。私はね、誰からも信仰されなくて良いのよ」
今年の収穫祭もつつがなく開催された。
里長の家には有力者達が招かれ、いかに自分の家が儲かったか、おかげで価値ある芸術品が買えたなどと雅の欠片もない話で盛り上がっていた。
私はそんな空気が嫌で、体調が悪いからと早々に立ち去らせて貰った。里長達は心配してくれたけれど、あれだけ下世話な会話を聞かされた後では、心配しているのは私ではなく来年の豊作ではないかと邪推してしまう。
まぁ、きっとそうなのだろうけど。
でもそんなものは、収穫祭の遙か前に決定している。
里長達は知らないだろう。秋を迎えた頃には、豊穣を祈る儀式が密かに執り行われていることを。
そんな事情を知っているからだろうか。儀式の首謀者である上白沢慧音も、苦々しい顔で里長の家を出た。
「まったく、せっかくの収穫祭だというのに彼らには垂れるほどの頭がないのかと不安になる」
「里の守護者がそんな愚痴を零していいの?」
慧音は煙草を取り出して、慣れた手つきで火をつけた。
「私だって半分は人間だ。溜まった不満を吐き出すことだってある」
そう言って吐き出すのは、何も愚痴に限ったことではない。紫煙をくゆらせた唇が、皮肉げな形に吊り上がった。
お堅い教師は煙草など論外だと思っていたのだけれど、どういう風の吹き回しだろう。
「妹紅に禁煙しろと言ったんだがね。代わりに慧音が吸ってくれだと。そうすれば止めると言い出したので、こうして私が吸っている」
「それは、まあ……」
何とも不思議な関係だと、心の中で呟いた。
「問題は妹紅が禁煙に失敗した時だな。さあて、私の方は禁煙できるかね」
姉さんも煙草は絶対にやるなと口を酸っぱくして言っていた。豊穣の神様が煙草なんか吸うわけもないのに、何を言っているんだろうかと、その時は呆れたものだ。
だけど今なら、吸いたくなる気持ちが少しだけ分かる。
「……今日で何年目になる?」
「えっ?」
いつのまにか俯いていた顔をあげて、慧音の方を見た。
トマトのように赤い瞳が、まっすぐに私を射抜く。
「秋静葉がいなくなって、今日で何年目になるんだ?」
素直に驚いた。まさか姉さんがいなくなったことを、覚えてくれている人がいるだなんて思ってもみなかったからだ。
私は一瞬言葉を失い、躊躇いがちに百年ぐらい、と答えた。
「もう、そんなになるか」
携帯灰皿に灰を落とし、目を細める。
「覚えていたの?」
「ん?」
「姉さんのこと。てっきりもう誰も覚えていないもんだと思ってたわ」
ああ、と慧音は苦笑した。
「あなたが何も言わなかったからな。何か特別な事情があるんだと思って、何も言わなかった。だから気にしているのも私だけじゃない。山の神も、あなた達の事を気に掛けていたぞ」
「八坂神奈子達が……?」
滅多に顔を合わせることはないが、妖怪の山の麓にあっても、その名前はしっかりと届いてくる。
神格という意味でも遙か上に鎮座する彼女が、私達の事を気にしていてくれただなんて。
「ある時から姿が見えなくなって、理由を訊いた方がいいのか悩んだものだ」
「理由なんて……私だって何も分からないし」
「あなたの顔を見ていて、そう確信した。だから何も訊かないことに決めたのだ」
正直、それはかなり有り難い話だ。今の自分ならともかくとして、あの時の自分なら理由を訊かれて冷静でいられただろうか。
死ぬときまで一緒にいられると思っていた姉が、突然姿を消したのだ。
現実から必死に逃れようとしていた私はきっと、姉さんがいなくなったなんて嘘を吐くなと怒鳴りつけただろう。
「私も独自に色々と探ってはみたが、すまない。何も分からなかった」
「気にしなくていいわよ。私だって、結局何の手がかりも掴めないまま百年もの時間が経ってしまったわけだし」
それに、と私は呟く。
「姉さんは姿を消したんじゃなくて、自ら望んで消えたのかもしれないって思うのよ」
「自分から? 信仰が薄くなり神が姿を保てなくなるというのは聞いたことがあるが……」
最初は私もその線を疑った。
神隠しに遭うわけもない神様が、唯一消えてしまうとしたら信仰を無くしてしまうこと。
私だって誰からも信仰されなければ、明日を待たずにその瞬間から消えてしまう。
だから姉さんへの信仰が無くなったせいで、跡形も無く消えたのだと思っていた。
でも、その考えは間違いだった。
少なくともその時の人々はまだ、静葉に対して信仰心を抱いていたのだ。
「今でこそ姉さんのことを覚えている人間はおらず、仮に何かの理由で失踪していたとしても、もう姿を保つことはできないでしょうね」
「…………………」
「でもね、私は思ったの。ひょっとしたら姉さんがいなくなったからこそ、信仰は減ってしまったんじゃないかって」
信仰すべき神様がいないのなら、自ずと誰もが信仰心を捨てる。至極当然の話だ。
「すまない。どういう意味なのか、私にはまったく理解できないんだが」
「信仰が無くなって姉さんが消えたんじゃない。姉さんがいなくなって信仰が無くなったんだとしたら、要するに姉さんは信仰を無くする為に姿を消したってことになる」
あるいは別の理由があるのかもしれない。
だけど答えてくれる本人は、きっともういないのだ。
残された私に出来ることなんて、答え合わせのない問題に勝手な推測を当て嵌めるだけ。
「しかし、どうしてわざわざ自分への信仰を零にする必要がある? 信仰がなければ神様は存在を保てないのだろう?」
姉さんは愚かじゃない。自殺志願者でもないし、この世に絶望していたわけでもない。
「姉さんはね、誰よりも紅葉を愛していたの」
かつて姉さんは、微笑みながらそう言った。
「だからきっと、消えたのよ」
姉さんの突然の言葉に、私は返す言葉を失った。
人間にとっての命とも言えるべき信仰が、いらない?
私は姉さんが狂ってしまったのではないかと、密かに心配してしまった。そんな動揺を見越していたらしく、姉さんは悪戯っ子のようにクスリと笑った。
「直接的すぎたかしら。もっとちゃんと説明していれば、驚きも少なかっただろうけど」
「何言ってるのよ、姉さん! どんな説明したって、そんな事を最後に言われたら誰だって驚くわよ!」
「ごめんなさい、でも訂正しないわ。私は自分が間違ってるなんて思ってないもの」
いつものように優しい笑顔で、姉さんは信仰がいらないのだと言う。
「どうしてって、訊いても良いよね?」
「そりゃあ訊きたいわよね。だからその質問に対する答えは、あらかじめ考えておいたわ」
空を見ながら、木々の匂いに囲まれて、滝の音を背景に姉さんは言った。
「私が紅葉を好きだから」
一瞬だけ戸惑って、すぐに理解しようとして、意味がわからなくて眉をひそめた。
紅葉と信仰。どんな繋がりあると言うんだろう。
「私達は秋の神様だけど、どちらかといえば穣子が豊穣。そして私が紅葉を司ってるじゃない?」
「うん」
それで何度も姉妹喧嘩をしたものだ。
やれ、私の葡萄の方が良い匂いがするのだの、私の紅葉の方が美しいだのと。
「それは里の人間達も知っている。だから人間は豊かに実った作物を見て、穣子に感謝して信仰する。美しく咲いた紅葉を見て、私に感謝して信仰する」
私は頷いた。
それは昔から変わらない、神様と人と在り方だ。
「でもね、私はそれが嫌になったの」
「どうして?」
「だってそうじゃない。確かに私の力で紅葉はより一層その美しさを増していった。でもね、だったら紅葉自身は美しくなろうとしなかったのかしら?」
姉さんの言葉に息を呑んだ。
「人間達は綺麗な紅葉を見て、私の力のおかげだと信仰してくれる。だけど結局、誰も紅葉に感謝なんかしていない。美しく咲いてくれてありがとうって」
お米だって、それならば同じことだ。
八百万の神様が宿っているから、お米を残さず食べなさいと人は言う。だったら、お米自身はどうなのだと。
神様が宿っていなかったら、お米は残して良いのかという話になる。
姉さんが言っているのは、きっとそういう事なのだ。
「皮肉な話ね。紅葉を美しくしようと頑張る私こそが、誰よりも紅葉の美しさを妨げているなんて」
「だから……信仰されなくてもいい?」
頭の紅葉を揺らして、静葉は頷いた。
「それで紅葉の美しさがはっきりとするなら、ね」
その時はまだ、姉さんが消えるだなんて思っていなかった。信仰なんてのは、神様が拒んだところで勝手に集まってしまうもの。
姉さんの信仰が無くなって消えてしまうだなんて、夢物語だと思っていたのだ。
「まさか、自らで姿を消してしまうなんて。さすがは姉さんだわ」
慧音は黙って何も答えない。
何も言うことがないのだろう。私だって、こんな話を聞かされたら何と答えていいのか反応に困る。
だから普段なら迷惑に思う行為も、今はちょっとだけ助かった。
「おお、穣子様に慧音様も! ちょうど良かったです」
走り寄ってきたのは、先程里長の家にいたうちの一人。
よっぽど急いできたのか、息を整えるまでに多少の時間がかかった。
「実は里長様が、どうしてもお二方に振る舞いたいものがあると言われまして。急いでお迎えにあがった始末です、はい」
今代の里長はなかなかに自分勝手な人物だと分かっていたが、帰宅した者を呼び戻すほどだったとは。気まずい空気が払拭された一方で、どこか呆れた溜息を漏らしたくなる。
隣を見れば、慧音も似たような顔をしていた。
「どうする、慧音?」
「行くしかあるまい。別段、火急を要する用事があるわけでもなし」
「そうね、じゃあ行くとしましょうか」
男が先導を勤め、私達は里長の家へと戻った。
広間では大勢の客達が待っていたらしく、姿を現した途端に歓声があがった。
「いやあ、呼び戻すのは心苦しかったのですが、どうしてもお見せしたいものがありましてな。おい、あれを持ってこい!」
割烹着姿の女中が、屋敷の奥へと引っ込んでいく。
一体、何を持ってくるのか。
想像もつかない。
「失礼します」
やがて黒塗りのお椀を持って、女中が戻ってきた。
懐かしい香りがして、眉が跳ね上がる。
「どうぞ」
目の前に置かれたもの。
それは白く輝くご飯。
そしてご飯の上にちょこんと乗せられた、赤く、子供の手のひらのような紅葉。
「いやあ先日、紅葉狩りに行った際のことです。私のむすびの上に紅葉が落ちてきましてな。それが何とも風流だったので、こうして彩りとして添えてみたのです。どうですか、なかなかに美しいと思いませんか?」
自慢げに語る里長の言葉など、私の耳には届いていなかった。
隣に座った慧音の心配そうな視線にも気付かない。
百年にも渡って溜まった涙が、不意に紅葉の上へとこぼれ落ちた。
「おお、穣子様が感激なされているぞ!」
「やりましたな、里長」
雑音を取り除いて、ただ紅葉を真っ直ぐに見つめる。
とても美しかった。
でも、その美しさの中に、もう姉さんはいないのだ。
「ささっ、どうぞ味の方もお試しください」
促されたわけではないが、私は黙って箸をとる。
紅葉を端に避けて、真っ白なご飯をかきこんだ。
泣きながら、私はご飯を食べる。
噛みしめたお米は、神様の味がした。
仮想存在のジレンマとでもいうべきか。
なまじっか顕在すると本来の意義が失われるのはどこでも同じだが。
まったく、あなたには困ったものだ。
いつも通りのシュールなギャグを期待してクリックしてみたら…
……畜生今日はモニタの調子が悪いぜ字が霞んでやがる
タイトルでギャグだと思ったのに涙が止まりません。
ああ、でも、何だろう、この季節だからこそもっと秋姉妹の切ない話が読みたくなりました。
こうして紅葉の美しさが理解される→紅葉信仰復活→静葉姉さんが帰ってくる!!
こう願わずにはいられません。素晴らしい作品をありがとうございました。
シンプルに感動させますね。
凄く良い話でした。
切ない話でつね
ごく個人的な感想を言えば、この物語を長編で楽しめたらという気持ちもあったのですが。
あまり焦点の当たらない秋姉妹の、まして姉妹としてのお話ということで、大変嬉しく貴重なもの(ぁ を、読ませて頂きました。
人との意識の違いもあって穣子の悲哀がいっそう際立ってるのがまた切ない。
このままだとそのうち妹のほうもいなくなってしまうかも知れないなぁ。
秋に感じる、何かの終わってゆく感覚を思い出しました。
"本当に好きだから"では、純粋で空虚で寂しすぎます……でもそれが良い……
これから穣子はどう生きていくんだろう。静葉と同じ考えに、いつか至るんだろうか。
八百万の神の消えた私たちの世界での振る舞い方をも考えさせられますね。
その美しさをいまいち思い浮かべられなくて申し訳ない。。きっととっても美しいんでしょうね。自分もそんな光景に出くわしたいです。
ただ慧音が長命なのに違和感が