注意
※この作品には多大な百合表現が含まれています。
※この作品には設定の捏造、曲解、作者の妄想が含まれています。
※この作品にはオリキャラがでます。
※以上に嫌悪感を持たれている方は、お手数ですがブラウザの戻るボタンを押す事をおすすめいたします。
日は頂上よりやや傾き、心地よい春の陽気が辺りを包んでいる。町での喧騒も落ち着き始め、茶屋では旅人達が情報交換や雑談に興じていた。
その中に京紫の被衣を纏う、女がいた。掛布ははずしているようだ。見るもの全てが振り返るほどの美女。整った目鼻に、眼を縁取る長い睫毛、紅を塗らずともしっとりと濡れた桃色の唇、その全てが均整の取れた輪郭へ絶妙に配置されていた。被衣から覗く手は絹のようにきめ細かく、真珠のような白さが妖艶な印象を与えている。陽を受けて金色に輝く髪が彼女を異人だと一目で理解させてくれる。そのためか話しかける者はいなかった。いや、仮に彼女の髪の色が黒であってもその高貴かつ優雅な雰囲気に飲まれ、話しかける事が出来なかっただろう。
が、この美女は異人ではない。それどころか人間ですらない。妖怪なのだ。それも、大陸では知らぬ者のいない、大妖怪だ。
八雲紫と呼ばれるその妖怪は特に隠れる事も無く、平然と茶屋で団子をつまんでいる。
「なかなか美味しいわね。」
素直な感想を傍らにいる店員に告げる。店員の若い少女は満面の笑みで礼を言う。輝くような美女の評価に満足しているようだ。
八雲紫は生まれた時から退屈していた。生まれ出でてすぐに自身の能力を全て理解し、名のある妖怪達すら敵にならなかった。徒党を組んだ妖怪すら刹那の一瞬で肉塊になる。彼女の退屈は終わらない。いつしか紫は退屈しのぎに大妖怪を狩っていた。見所のある妖怪は生かして、再び退屈しのぎに使う。それでも自身の能力を全力で使う相手が見つからない。いつしか戦うことに飽きて、人間を助けたりもした。育てたことすらある。それすらも飽きて現在は世界をふらふら渡り歩いている。
名のある大妖怪を何匹も屠り、人智も及ばぬ知能を持つ、端から見れば退屈とは無縁なように思えるが、勝ちまでの過程が解りきっている将棋を指して、楽しい者がいるだろうか。
例えるなら過去の棋譜を見ながら将棋を指しているようなものだ。そして常に紫は勝ち側を担当する。そんな作業のような戦いを何千、いや何万回も行ってきたのだ。
想像を絶する退屈を味わいながらも紫は自ら死を選んだりはしなかった。理由は特に無い。強いて言えば、自分が死んだ後に退屈を吹き飛ばす何かが来たら勿体無い、その程度の理由だ。
「退屈ね・・・。」
紫は憂鬱な顔で晴れ渡った空を見上げる。自分の心中とはまるで逆な空が恨めしく思えた。
春の穏やかな風が通りを吹き抜けていく。桜も開花を初め、数日中には満開の桜がいたるところで見られるだろう。事実、花見場所の雑談もそこかしこで話題になっていた。
「花見ねぇ。」
一人呟く。満開の桜を肴に美酒をあおるのも悪くはない。山の中にひっそりと咲く、桜でも探してみようか、そんな事を考えていると、店員の少女が話しかけてきた。
「そうそう、お客様はご存知ですか?西行妖という妖怪桜のお話。」
有名な話だ。高名な歌人が、美麗な桜の下で生涯を終え、それを追うように多数の者が、その桜の下で息を引き取るようになった。いつしか桜は死んだ者達の魂すらも虜にし、力を付けて新たに桜を見た者を死に誘うようになってしまったという。
現在はその歌人の親族が管理していると言われている。
「その桜を見て来たという旅人さんがいらしたのです。桜を管理している、西行寺様にお願いしたらしいのですけど、本当に魂を持って行かれそうになり、命からがら逃げ帰ってきたと言っておりました。」
恐々と語る少女、おそらく彼女に話を聞かせた、旅人も同じような口調だったに違いない。
人の魂を死へと誘う妖怪桜。その姿は想像を絶するほどに美しいに違いない。
「西行妖・・・。」
退屈していた大妖怪は花見場所を決定した。
*
何件かの茶屋を回ると西行妖を管理しているという、西行寺家の場所はすぐに判明した。
話によると西行寺家の現当主は女性らしく、桜の話を聞くと必ずと言っていいほど、当主の女性の話も出てくる。
曰く、桜の精、西行妖の化身。共通しているのは一目見れば夢に出てくるほど美しい女性ということ。
人づての話など、半信半疑で聞いておくに限る。美人ではあろうが、狂喜乱舞する程では無いだろう。紫はそう考えている。
「まぁ、会えば解ることだけれど。噂どおりの美女なら、お酒の勺でもしてもらおうかしら。」
冗談とも本気とも付かない口調で独り言を呟くと、視線を件の西行寺家へと向けた。
大きな屋敷である。おそらく、屋敷の後ろにそびえる山まで西行寺家の敷地なのであろう。入り口の門には二人ほど門番がついている。紫の能力を使えば特に気にせず、桜のところまで行けるが、門へ一直線に歩いていく。
気付いた、門番が不審気に身構えている。貴族の服である被衣を着ているが、護衛の一人もつけずに出歩いている女に不信感を抱くのは当然であろう。
「止まれ。」
言われた通りに立ち止まる。紫の顔に焦りなどは一切無い。
「何者だ。」
質問には答えず、懐から一本の短刀を門番に見せる。
訝しげに短刀を見つめていた門番の表情が、一瞬にして凍りつく。
「し、失礼しました。ご用件をお聞かせ願えますか?」
先ほどの態度が嘘のようだ。紫が見せた短刀には、たった一つ、家紋が入っているだけである。ただ、その家紋はこの国で知らぬもののいない家紋であり、目の前の女性が気分を害したと言うだけで彼だけでなく、彼の家族までも罰を受けることになる。それ程の身分を保証するものだった。
「こちらの屋敷にはとても美麗な桜が咲いていると聞いて参りました。よければ拝見させていただきたいのですが。」
おっとりとした口調で門番に告げる。門番はかしこまった様子で、当主にお伺いを立ててくると言って、屋敷へと入っていった。
半刻と待たず門番が戻り、屋敷内へと通された。桜へは当主と会った後に見られるらしい。門から続く長い道を通り、本邸へ入る。またも長い廊下を通り、小さな座敷へ案内された。
「すぐに主が参られますので。」
そう告げると案内人は廊下を引き返していく。しばらくして、奥の襖が静かに開かれた。
「はじめまして。西行寺家当主、西行寺幽々子と申します。」
深々と頭を下げて当主の女性が現れた。簡素な和服だが上物特有の気品差が伝わってくる。凛とした声が座敷に響いた。紫も同じように名乗り、礼を返すと、女性も顔を上げる。
女性というにはかなり若い、まだ幼さの残る顔立ちだが、大きな瞳には強い意思を宿していた。柔らかに波打つ漆黒の髪に桜色の唇、透きとおるような肌は確かに、桜の精と例えるにたる美しさだった。
「随分とお若くていらっしゃるのね。ああ、お気を悪くなさらないで下さい。私の見たところあなたは確かに当主の器を持っております。このような美しい当主にならば家臣の方々はさぞ、鼻が高いことでしょう。」
紫の言葉に幽々子も当たり障りなく、返してくる。しばらく雑談を楽しむと幽々子自ら、桜へ案内してくれることになった。
屋敷を出て舗装された山道を歩いていく。途中、妖怪桜の噂について聞いてみると「自慢の桜ですが、魂を持っていくようなことはしませんよ。」そう言って、ころころと笑っていた。
雑談をしながらも紫は幽々子の観察をしている。当主としての器は確かにある、容姿も申し分ない、本人は気付いているかどうか解らないが、多大な霊力も持ち合わせている。その道の修業をすれば、凄腕の陰陽師にもなれるだろう。が、それだけだ。紫の退屈を消すどころか、暇つぶしにすらなりそうにない。
肝心の桜も妖怪桜ではないらしく、紫の関心はすでに失せていた。どうやら無駄足だったらしい。
「でも、もしも本当に八雲様が言うような、人の魂を死へと誘うような美麗な桜があったとしたら・・・。」
唐突に話を戻す幽々子を見ると、先ほどの純真で無垢な笑とは全く違う、暗い微笑を浮かべていた。紫の背筋が薄ら寒くなる。百戦錬磨の妖怪を警戒させるほどの何かが、この少女にはあった。
「私なら独り占めにします。他の誰にも見せず、私だけの桜として愛でるのです。桜が他人に穢されないように私が見張って、桜が満開になった時には、その全てを愛でてあげる。私ならそうします。」
紫を前に不敵に笑う幽々子には、ころころと笑っていた少女と同一人物とは思えない程、大人びた妖艶さがあった。
「ご安心ください。この先の桜は魂を奪ったりはいたしません。」
幽々子はすでに年相応な少女の顔に戻っている。何事も無かったかのように案内する幽々子を紫は、静かに見つめていた。
*
森が途切れた先にあったのは幻想のような風景だった。目の前にある満開の桜。樹齢はどれほどだろうか、眼前を覆う程に枝を伸ばしたそれは、桜吹雪を頭上より降り注がせている。視界は完全に桜色だった。
「・・・これは確かに見事な桜だわ。」
妖怪桜ではないと聞いて気落ちしていたが、そんなことが気にならないほど美しい。そして、幽々子には見えていまいが、この桜には相当数の地縛霊がいる。おそらく桜の下で生涯を終えた者達だろう。死して尚、この桜に心を奪われた者達が桜に取り憑いている。
あながち妖怪桜という例えは間違ってはいないかもしれない。桜に憑く霊達が生者を引き込んでいるのだ。
一年、二年では呪術でも使わなければ、本物の妖怪桜にはなりはしないが、長い年月、それこそ百年、二百年の歳月を経れば、霊達と一体化して本物の妖怪桜になるだろう。
「そうでしょう。西行寺家自慢の桜ですから。」
紫の言葉を単純な賞賛と思ったのだろう、幽々子は満足気な笑顔を浮かべている。
「本当に見事な桜だわ。良ければ、また来てもいいかしら、随分と先になるとは思うけれど。」
妖怪桜になる頃までこの桜が残っているかどうかは判らない。それどころか管理者の西行寺家事態が衰退してしまうかもしれない。それでもこの桜が残っていれば、紫の長い時間の暇つぶしを出来るだろう。
「ええ、いつでもお越しください。八雲様なら大歓迎ですよ。」
満面の笑みで幽々子が笑いかけてくる。
満開の花を咲かせた、なりそこないの妖怪桜の下、退屈を持て余した大妖怪は西行寺家当主の姫君と花見を楽しむことにした。
*
ひとしきり花見を楽しみ、西行寺家の屋敷へ戻った頃には、すでに陽は傾き始めていた。一泊していったらどうかという、幽々子の誘いをやんわりと断り、西行寺家を後にする。
今後に期待できる要素を見出し、紫はそれなりに満足していた。今夜はいい気分で眠れることだろう。
いっそ自分で西行桜に仕掛けを施してしまおうかとも考えたが、それではつまらない。紫自身が関わる事により進化の可能性が減ってしまう恐れもある。
「じっくりと待つ事にしましょう。時間はあまる程あるのだし。」
自然と笑顔が浮かぶ。
紫が上機嫌にこれからの事を考えようとしたその瞬間、よく知った臭いが鼻につく。それは、しばらくして消えた。しかし、それは逆にこの場所では場違いな臭いでもある。特に貴族の屋敷のような場所ではあまり嗅ぎ慣れない臭いだ。
(この臭いは・・・死臭?でも、なぜ―――。)
紫が疑問に思っているのは、死臭がしたことではない。その死臭が消えてしまったことだ。
死臭は簡単には消えない。時間が経とうとも微かな違和感として残る。ただ、ありえないことではない。
「近くに結界があるらしいわね。緩んでいた結界を、再度張りなおした。理由は・・・まぁ、行けば判るでしょう。」
結界の場所を特定する為に、数匹の式神を構築する。命令を織り込み空へと放った。
「今日は随分と退屈しない一日ね。」
幽雅に腕を組むと、大妖怪は楽しそうに笑うのだった。
*
それ程時間も掛からず、結界の場所は特定できた。式神の持ち帰った情報から判断できるのは、そこが小さな屋敷であることと、屋敷の状態を見る限り、人が住んでいるらしいということくらいだ。結界を張り直したらしい人間達は、早々にその場を去ったらしく、人影は無かった。結界内へは何を封じているか判らない為、進入させていない。こればかりは紫自身で確認しに行くつもりだった。
気に留めなければ気付かない程細い脇道には、人の目を誤魔化す呪術が施されていて、この先に何かがある事を確信付けている。脇道はしばらく歩くと、人が通るのに不自由しない程度に広がり、さらに奥へと続いている。
傾いていた太陽はさらに傾き、空を朱に染めていた。程無くして、太陽は沈んでしまうだろう。
「逢魔が刻に、私が逢うのはどんな人かしら、妖怪でもいいけれど。」
軽口を叩いていても周囲への警戒は怠ってはいない。目の前にある小さな屋敷の周りは大の大人でも中を覗けない程度に高い生垣がある。少なくとも屋敷の外に人や妖の気配はない。
林道から出て、屋敷を観察する。結界を張られていること意外、特に怪しいところは無い。屋敷の周りは多少開けた土地になっており、現在は薄暗いが、昼間は十分に光が入るだろう。屋敷は小さめの平屋、小さ目といっても貴族の屋敷と比較しての話で、庶民からしたら十分に広い。
「貴族の屋敷だとしたら門番の一人もいないのはおかしいわね。廃屋にしては綺麗過ぎるし。取り敢えず、中に入ってみましょうか。」
紫は再度周囲を確認すると屋敷へ近づいていく。誰もいない門の前に立つと静かに力を解放した。
大気が目に見えて歪み、突如空間に裂け目が現れる。同じように結界を挟んだ先の空間も裂けていく。
裂けた空間へ消えると同時に、結界内の空間から紫が現れた。結界を傷つけることなく、屋敷内へ進入した紫が最初に感じたのは強烈な妖気と死臭。次いで人間の気配だった。
「冗談でしょう?」
朱色に染まっていた空は藍色に変わっていた。屋敷内に灯りは無く、静かに闇に身を置いている。
人の気配のする裏庭へと進んでいく。そして、それが現れた。
死霊、数え切れない程の死霊、死霊、死霊。その一体一体がどれも冗談のように強い妖気を放っている。禍々しく淀んだ妖気が空気を満たしていく。
「これは・・・。」
動揺していたのは一瞬、後ろへと一気に跳ぶ。一瞬前にいた位置に死霊が殺到し、すぐに紫へと方向を変えて襲ってくる。
「随分と積極的な死霊さん達ね。」
前方へ大きく妖気を振るう。数匹の死霊が弾け飛ぶが、何事も無かったように再生し、怨嗟の絶叫をあげた。さらに大きな妖気を放つが、弾けた次の瞬間には再生し、襲ってくる、これでは埒が明かない。
吹き飛ばす度に力は失っているようだが、微々たるものだった。瞬時に対抗手段を考えていく。倒すだけなら方法はいくらでもある。ただ、この屋敷を探索する為に方法はある程度限定されてしまうが。
「境界の狭間に送るのが一番楽かしら。まぁ、すぐ、戻ってきちゃうだろうけど」
境界を開こうと構えた矢先、裏庭から人影が飛び出してきた。派手に力を振るっていたのだ、気付かないほうがどうかしている。
(屋敷の人間自体が死霊を操っているとしたら、そちらを取り押さえたほうが速いわね。違ったら、一旦人間ごと、外に出ましょう。)
考えると同時に、人影へ跳躍する。首根っこを引っつかみ地面へと押し倒す。
「死霊を止めなさい。三つ数える、わ?」
有無を言わさない声色で掴んだ首に力を入れようとして、やめる。いや、正確には見知った人物だったので驚いて力を入れられなかった。
紫が地面に押し倒していたのは、今日、共になりそこないの妖怪桜の下で花見をした人物、西行寺幽々子だった。
「幽々子?」
紫の動揺などお構いなく、紫の背へと死霊が襲い掛かる。
「少しは空気を読みなさい。」
呆れるような紫の声が響くと同時に、背後に巨大な空間の裂け目が現れる。屋敷に侵入したときは比べ物にならないほどに大きい。その裂け目は自我を持っているかのように死霊を丸呑みにし、元通りに閉じた。
再び、屋敷が静寂に包まれる。小さく息を吐いて押し倒している人物へ目を向けた。
「どういうことかしら幽々子?説明してくれると嬉しいのだけれど。」
出来る限り怖がらせないように優しい口調で話しかける。が、幽々子は、呆然と紫を見詰めているだけだった。
「えっと、聞こえているかしら。見ての通り私、実は妖怪なの。あまりいい妖怪ではないから早めに説明をした方がいいわよ。」
次は先程よりも強い口調で話しかけた。幽々子はまだ呆けている。取り敢えず、頬に一撃でも入れるかと紫が考え出した時、ようやく幽々子が口を開いた。
「何で・・・死なないの?」
さも、意外そうに言う幽々子。目の前に紫がいることが信じられないような口調だ。
「自分で言うのもなんだけれど、私強い妖怪さんなのよ。で、さっきの死霊は何?昼間に会った時には、霊力は持っていても、今のような妖気は出していなかったと思うけれど。」
軽めの口調だが、嘘を言えば容赦はしないという、確固たる意思が込められていた。
「え、あの、私・・・。」
震える声で言葉を捜しているようだった。彼女が紫を見る目には何の事を言っているか理解できないといった、困惑の色が見て取れる。
「言いたいことがあるのならはっきりと説明して頂戴、もう一度言うけれど、私はあまり―――。」
「わ、私はず、ず、ずっといました、ここに。あ、あなた様にお会いするのは、は、はじめてです。」
彼女の目は本気だった。
*
陽はとうの昔に沈み、屋敷には月の明かりが薄ぼんやりと射している。虫の鳴き声どころか、生き物の気配すらしない屋敷はひたすらに不気味だ。そんな屋敷には二人の人物がいた。一人は屋敷の主人であり、もう一人は侵入者である。小狭な客間に二人はいた。
「つまり、西行寺家の屋敷にいたのはあなたの双子の妹で、あなたが本物の幽々子だと?」
西行寺家にいた若い当主と全く同じ容姿をした目の前の少女。違いと言えば、多少雰囲気がこちらのほうが柔らかい事くらいか。
確認するように問いかけているのは侵入者、八雲紫である。
先程まで屋敷に溢れかえっていた死霊は、紫が自身の体に結界を施すことでやり過ごしていた。こちらの屋敷に住む幽々子は、死霊を操っているわけではなく、死霊が勝手に集まってくるだけらしい。死霊の目を欺いているだけなので、結界を解きさえすれば、すぐにでもまた襲い掛かってくるだろう。
「はい。妹の本当の名前は、西行寺夜々子と言います。表向きには病死したことになっていますけど。」
こちらの幽々子の話によると、幼い頃は西行寺本家で姉妹揃って生活していたらしい。しかし、当主を継ぎ、しばらくすると、死霊が幽々子に取り憑き始めた。最初の頃は死霊の力も弱く、陰陽師の呪術で祓えていたのだが、徐々に死霊の力が強くなり、死霊が家の者達を襲い始めた。多数の犠牲者が出て、とてもではないが、本家にはいられなくなった。当主は夜々子に変わることになったが、当主がすぐに変わるのも世間体が良くない。ならばと幽々子と夜々子を入れ替えた。幸い二人は双子で近しい者でも見分けがつかない。夜々子は病死扱いになり、本物の幽々子は結界の中でひっそりと生きる事になった。
「でも、今ではあちらが本物の幽々子ですよ。当主としての器も妹のほうがずっと上ですし。だから・・・私はただの、死人です。」
泣き出しそうな瞳で寂しく笑う少女。紫はその瞳を真っ直ぐ見つめている。
紫の視線に気付き、誤魔化すように明るく笑った。
「そう言えば妖怪さんのお名前はなんて言うんですか?」
どこか嬉しそうに紫を見つめる幽々子。先程まで怯えていたのが、嘘のようだ。
「名乗るのは構わないのだけれど、一つ聞いていいかしら?」
幽々子の心を見定めるかのように、瞳を覗き込む。小首を傾げ、小さく頷く幽々子。自身を死人と称した人物とは思えない。
「私は妖怪だと名乗ったわ。あなたの死霊達も無力化し、その気になればいつでもあなたを食べる事だって出来る。」
感情の無い、言い聞かせるような口調。聞く者の心を冷めさせるような声だった。
一つ気になった事があるだけだ。妖怪を前にして見せるはずのないものを幽々子は見せている。長い年月を生きてきた紫にもよく判らない事だった。
「なぜ、あなたはそんなに嬉しそうなの?」
妖怪を前にした人間が一番に見せる感情は恐怖だ。自分より上位の捕食者がいるのだ、当然の事だと言える。他の感情を見せる者もいるが、共通しているのは、全て負の感情という事だ。妖怪を前に喜ぶような人間はいない。いたとしても、妖怪を狩る事を楽しんでいるような者くらいだ。だとしても、自分の力を無力化された者なら浮かぶ感情は、絶望であるべきだ。
幽々子は紫の視線から逃れるように下を向き、黙り込む。それから意を決したように、口を開いた。
「死なないで、くれたから。」
消え入るような小さな声が静寂に満ちた部屋に溶けていく。
「私はたくさんの人間や妖怪を死なせました。私に近づく人はみんな死んでしまうんです。ここに来てから、私に会いに来てくれるのは妹だけで。その妹も結界越しにしか会えないし、ここ数ヶ月来てくれません。」
下を向いた幽々子の表情は見えない。何かを堪える様に着物の裾を握る手はひどく白かった。
数え切れない程の命を奪い、なお少女は生きている、たった独りで。
「だから、妖怪さんが死なずにいてくれたことが、凄く嬉しかったんです。」
顔を上げて紫を見つめる少女は、本心で言っているようだった。柔和に微笑む少女に、呆れるように溜息を吐いて、紫は口を開く。
「あなたの気持ちは、妖怪の私にはよく判らないけれど、約束だしね。八雲紫、それが私の名前。」
「八雲紫様ですね。」
嬉しそうに紫の名前を反芻する幽々子。とても死霊達の姫とは思えぬ笑顔を浮かべている。彼女の中で、すでにその名前は特別な響きをともなうものになっていた。
そんな幽々子を見ている内に、言いようの無い感覚が紫の胸のうちに溢れてくる。幽々子をずっと見ていたいような、逆にすぐにでも目を逸らしてしまいたいような、相反する感覚が紫を支配する。
紫は結局、幽々子から目を逸らした。居心地の悪さに、ここから立ち去る事を決める。
「八雲様?」
無垢に紫を見上げてくる幽々子。
「帰るわ。これ以上ここに用事も無いことだし。」
すぐさま幽々子の表情が変わる。不安と焦りが幽々子の心を満たしていた。
「せ、せっかく来たんですから食事だけでも、すぐに準備しますから。」
「それほど、お腹は空いてはいないわ。」
「それに、それに、世も更けています。危ないです!」
「外のほうが、死霊のいる屋敷よりはずっと安全だと思うけれど。」
その言葉に絶句した幽々子は、雷に打たれたように固まり、ゆっくりと膝を折る。遠く死霊の怨嗟の声が聞こえた気がした。
幽々子を見ているとなぜか苛々してくる。その理由が判らないからさらに苛々する。なぜと自問しても答えは返ってこない。
ただ、俯いて肩を震わせている幽々子を見ると胸を掻き毟りたくなるほど苦しい。どうしたらこの感覚は消えてくれる。今まで生きてきた中で、このような事は紫の経験に無い。
鍵があるとしたら、現在目の前にいる少女だ。死人にして、死霊の姫君、西行寺幽々子。
小さく息を吐き出すと、幽々子の肩にそっと手をのせる。震える肩が、痺れたように大きく動いた。
「貴女といる事に飽きるまでの間なら、貴女の側にいてあげてもいい。」
電光石火のように顔をあげる幽々子。頬には涙の跡があった。それを目にした紫の胸に、刺すような痛みが走る。
「・・・本当、ですか?」
上擦った声が、また胸に痛みを与える。目の前の少女を殺せという衝動を無理やり抑え、幽々子の頬を包み込むと、紫はゆっくりと口を開いた。
「ただし、条件があるわ。」
自分に出来る範囲なら何でもするという幽々子の視線を受け止め、紫は低い声で呟いた。
「貴女と居る事に飽きたら・・・私は貴女を喰らうわよ。」
この痛みの正体が判ったら、この少女を残さずたべてやろう。そう決意する紫。
「はい!」
紫の心中を知ってか知らずか、元気よく返事する幽々子。
幽々子を見つめる紫の目は冷たく、紫を見つめる幽々子は何かに安堵したように微笑んでいた。
※この作品には多大な百合表現が含まれています。
※この作品には設定の捏造、曲解、作者の妄想が含まれています。
※この作品にはオリキャラがでます。
※以上に嫌悪感を持たれている方は、お手数ですがブラウザの戻るボタンを押す事をおすすめいたします。
日は頂上よりやや傾き、心地よい春の陽気が辺りを包んでいる。町での喧騒も落ち着き始め、茶屋では旅人達が情報交換や雑談に興じていた。
その中に京紫の被衣を纏う、女がいた。掛布ははずしているようだ。見るもの全てが振り返るほどの美女。整った目鼻に、眼を縁取る長い睫毛、紅を塗らずともしっとりと濡れた桃色の唇、その全てが均整の取れた輪郭へ絶妙に配置されていた。被衣から覗く手は絹のようにきめ細かく、真珠のような白さが妖艶な印象を与えている。陽を受けて金色に輝く髪が彼女を異人だと一目で理解させてくれる。そのためか話しかける者はいなかった。いや、仮に彼女の髪の色が黒であってもその高貴かつ優雅な雰囲気に飲まれ、話しかける事が出来なかっただろう。
が、この美女は異人ではない。それどころか人間ですらない。妖怪なのだ。それも、大陸では知らぬ者のいない、大妖怪だ。
八雲紫と呼ばれるその妖怪は特に隠れる事も無く、平然と茶屋で団子をつまんでいる。
「なかなか美味しいわね。」
素直な感想を傍らにいる店員に告げる。店員の若い少女は満面の笑みで礼を言う。輝くような美女の評価に満足しているようだ。
八雲紫は生まれた時から退屈していた。生まれ出でてすぐに自身の能力を全て理解し、名のある妖怪達すら敵にならなかった。徒党を組んだ妖怪すら刹那の一瞬で肉塊になる。彼女の退屈は終わらない。いつしか紫は退屈しのぎに大妖怪を狩っていた。見所のある妖怪は生かして、再び退屈しのぎに使う。それでも自身の能力を全力で使う相手が見つからない。いつしか戦うことに飽きて、人間を助けたりもした。育てたことすらある。それすらも飽きて現在は世界をふらふら渡り歩いている。
名のある大妖怪を何匹も屠り、人智も及ばぬ知能を持つ、端から見れば退屈とは無縁なように思えるが、勝ちまでの過程が解りきっている将棋を指して、楽しい者がいるだろうか。
例えるなら過去の棋譜を見ながら将棋を指しているようなものだ。そして常に紫は勝ち側を担当する。そんな作業のような戦いを何千、いや何万回も行ってきたのだ。
想像を絶する退屈を味わいながらも紫は自ら死を選んだりはしなかった。理由は特に無い。強いて言えば、自分が死んだ後に退屈を吹き飛ばす何かが来たら勿体無い、その程度の理由だ。
「退屈ね・・・。」
紫は憂鬱な顔で晴れ渡った空を見上げる。自分の心中とはまるで逆な空が恨めしく思えた。
春の穏やかな風が通りを吹き抜けていく。桜も開花を初め、数日中には満開の桜がいたるところで見られるだろう。事実、花見場所の雑談もそこかしこで話題になっていた。
「花見ねぇ。」
一人呟く。満開の桜を肴に美酒をあおるのも悪くはない。山の中にひっそりと咲く、桜でも探してみようか、そんな事を考えていると、店員の少女が話しかけてきた。
「そうそう、お客様はご存知ですか?西行妖という妖怪桜のお話。」
有名な話だ。高名な歌人が、美麗な桜の下で生涯を終え、それを追うように多数の者が、その桜の下で息を引き取るようになった。いつしか桜は死んだ者達の魂すらも虜にし、力を付けて新たに桜を見た者を死に誘うようになってしまったという。
現在はその歌人の親族が管理していると言われている。
「その桜を見て来たという旅人さんがいらしたのです。桜を管理している、西行寺様にお願いしたらしいのですけど、本当に魂を持って行かれそうになり、命からがら逃げ帰ってきたと言っておりました。」
恐々と語る少女、おそらく彼女に話を聞かせた、旅人も同じような口調だったに違いない。
人の魂を死へと誘う妖怪桜。その姿は想像を絶するほどに美しいに違いない。
「西行妖・・・。」
退屈していた大妖怪は花見場所を決定した。
*
何件かの茶屋を回ると西行妖を管理しているという、西行寺家の場所はすぐに判明した。
話によると西行寺家の現当主は女性らしく、桜の話を聞くと必ずと言っていいほど、当主の女性の話も出てくる。
曰く、桜の精、西行妖の化身。共通しているのは一目見れば夢に出てくるほど美しい女性ということ。
人づての話など、半信半疑で聞いておくに限る。美人ではあろうが、狂喜乱舞する程では無いだろう。紫はそう考えている。
「まぁ、会えば解ることだけれど。噂どおりの美女なら、お酒の勺でもしてもらおうかしら。」
冗談とも本気とも付かない口調で独り言を呟くと、視線を件の西行寺家へと向けた。
大きな屋敷である。おそらく、屋敷の後ろにそびえる山まで西行寺家の敷地なのであろう。入り口の門には二人ほど門番がついている。紫の能力を使えば特に気にせず、桜のところまで行けるが、門へ一直線に歩いていく。
気付いた、門番が不審気に身構えている。貴族の服である被衣を着ているが、護衛の一人もつけずに出歩いている女に不信感を抱くのは当然であろう。
「止まれ。」
言われた通りに立ち止まる。紫の顔に焦りなどは一切無い。
「何者だ。」
質問には答えず、懐から一本の短刀を門番に見せる。
訝しげに短刀を見つめていた門番の表情が、一瞬にして凍りつく。
「し、失礼しました。ご用件をお聞かせ願えますか?」
先ほどの態度が嘘のようだ。紫が見せた短刀には、たった一つ、家紋が入っているだけである。ただ、その家紋はこの国で知らぬもののいない家紋であり、目の前の女性が気分を害したと言うだけで彼だけでなく、彼の家族までも罰を受けることになる。それ程の身分を保証するものだった。
「こちらの屋敷にはとても美麗な桜が咲いていると聞いて参りました。よければ拝見させていただきたいのですが。」
おっとりとした口調で門番に告げる。門番はかしこまった様子で、当主にお伺いを立ててくると言って、屋敷へと入っていった。
半刻と待たず門番が戻り、屋敷内へと通された。桜へは当主と会った後に見られるらしい。門から続く長い道を通り、本邸へ入る。またも長い廊下を通り、小さな座敷へ案内された。
「すぐに主が参られますので。」
そう告げると案内人は廊下を引き返していく。しばらくして、奥の襖が静かに開かれた。
「はじめまして。西行寺家当主、西行寺幽々子と申します。」
深々と頭を下げて当主の女性が現れた。簡素な和服だが上物特有の気品差が伝わってくる。凛とした声が座敷に響いた。紫も同じように名乗り、礼を返すと、女性も顔を上げる。
女性というにはかなり若い、まだ幼さの残る顔立ちだが、大きな瞳には強い意思を宿していた。柔らかに波打つ漆黒の髪に桜色の唇、透きとおるような肌は確かに、桜の精と例えるにたる美しさだった。
「随分とお若くていらっしゃるのね。ああ、お気を悪くなさらないで下さい。私の見たところあなたは確かに当主の器を持っております。このような美しい当主にならば家臣の方々はさぞ、鼻が高いことでしょう。」
紫の言葉に幽々子も当たり障りなく、返してくる。しばらく雑談を楽しむと幽々子自ら、桜へ案内してくれることになった。
屋敷を出て舗装された山道を歩いていく。途中、妖怪桜の噂について聞いてみると「自慢の桜ですが、魂を持っていくようなことはしませんよ。」そう言って、ころころと笑っていた。
雑談をしながらも紫は幽々子の観察をしている。当主としての器は確かにある、容姿も申し分ない、本人は気付いているかどうか解らないが、多大な霊力も持ち合わせている。その道の修業をすれば、凄腕の陰陽師にもなれるだろう。が、それだけだ。紫の退屈を消すどころか、暇つぶしにすらなりそうにない。
肝心の桜も妖怪桜ではないらしく、紫の関心はすでに失せていた。どうやら無駄足だったらしい。
「でも、もしも本当に八雲様が言うような、人の魂を死へと誘うような美麗な桜があったとしたら・・・。」
唐突に話を戻す幽々子を見ると、先ほどの純真で無垢な笑とは全く違う、暗い微笑を浮かべていた。紫の背筋が薄ら寒くなる。百戦錬磨の妖怪を警戒させるほどの何かが、この少女にはあった。
「私なら独り占めにします。他の誰にも見せず、私だけの桜として愛でるのです。桜が他人に穢されないように私が見張って、桜が満開になった時には、その全てを愛でてあげる。私ならそうします。」
紫を前に不敵に笑う幽々子には、ころころと笑っていた少女と同一人物とは思えない程、大人びた妖艶さがあった。
「ご安心ください。この先の桜は魂を奪ったりはいたしません。」
幽々子はすでに年相応な少女の顔に戻っている。何事も無かったかのように案内する幽々子を紫は、静かに見つめていた。
*
森が途切れた先にあったのは幻想のような風景だった。目の前にある満開の桜。樹齢はどれほどだろうか、眼前を覆う程に枝を伸ばしたそれは、桜吹雪を頭上より降り注がせている。視界は完全に桜色だった。
「・・・これは確かに見事な桜だわ。」
妖怪桜ではないと聞いて気落ちしていたが、そんなことが気にならないほど美しい。そして、幽々子には見えていまいが、この桜には相当数の地縛霊がいる。おそらく桜の下で生涯を終えた者達だろう。死して尚、この桜に心を奪われた者達が桜に取り憑いている。
あながち妖怪桜という例えは間違ってはいないかもしれない。桜に憑く霊達が生者を引き込んでいるのだ。
一年、二年では呪術でも使わなければ、本物の妖怪桜にはなりはしないが、長い年月、それこそ百年、二百年の歳月を経れば、霊達と一体化して本物の妖怪桜になるだろう。
「そうでしょう。西行寺家自慢の桜ですから。」
紫の言葉を単純な賞賛と思ったのだろう、幽々子は満足気な笑顔を浮かべている。
「本当に見事な桜だわ。良ければ、また来てもいいかしら、随分と先になるとは思うけれど。」
妖怪桜になる頃までこの桜が残っているかどうかは判らない。それどころか管理者の西行寺家事態が衰退してしまうかもしれない。それでもこの桜が残っていれば、紫の長い時間の暇つぶしを出来るだろう。
「ええ、いつでもお越しください。八雲様なら大歓迎ですよ。」
満面の笑みで幽々子が笑いかけてくる。
満開の花を咲かせた、なりそこないの妖怪桜の下、退屈を持て余した大妖怪は西行寺家当主の姫君と花見を楽しむことにした。
*
ひとしきり花見を楽しみ、西行寺家の屋敷へ戻った頃には、すでに陽は傾き始めていた。一泊していったらどうかという、幽々子の誘いをやんわりと断り、西行寺家を後にする。
今後に期待できる要素を見出し、紫はそれなりに満足していた。今夜はいい気分で眠れることだろう。
いっそ自分で西行桜に仕掛けを施してしまおうかとも考えたが、それではつまらない。紫自身が関わる事により進化の可能性が減ってしまう恐れもある。
「じっくりと待つ事にしましょう。時間はあまる程あるのだし。」
自然と笑顔が浮かぶ。
紫が上機嫌にこれからの事を考えようとしたその瞬間、よく知った臭いが鼻につく。それは、しばらくして消えた。しかし、それは逆にこの場所では場違いな臭いでもある。特に貴族の屋敷のような場所ではあまり嗅ぎ慣れない臭いだ。
(この臭いは・・・死臭?でも、なぜ―――。)
紫が疑問に思っているのは、死臭がしたことではない。その死臭が消えてしまったことだ。
死臭は簡単には消えない。時間が経とうとも微かな違和感として残る。ただ、ありえないことではない。
「近くに結界があるらしいわね。緩んでいた結界を、再度張りなおした。理由は・・・まぁ、行けば判るでしょう。」
結界の場所を特定する為に、数匹の式神を構築する。命令を織り込み空へと放った。
「今日は随分と退屈しない一日ね。」
幽雅に腕を組むと、大妖怪は楽しそうに笑うのだった。
*
それ程時間も掛からず、結界の場所は特定できた。式神の持ち帰った情報から判断できるのは、そこが小さな屋敷であることと、屋敷の状態を見る限り、人が住んでいるらしいということくらいだ。結界を張り直したらしい人間達は、早々にその場を去ったらしく、人影は無かった。結界内へは何を封じているか判らない為、進入させていない。こればかりは紫自身で確認しに行くつもりだった。
気に留めなければ気付かない程細い脇道には、人の目を誤魔化す呪術が施されていて、この先に何かがある事を確信付けている。脇道はしばらく歩くと、人が通るのに不自由しない程度に広がり、さらに奥へと続いている。
傾いていた太陽はさらに傾き、空を朱に染めていた。程無くして、太陽は沈んでしまうだろう。
「逢魔が刻に、私が逢うのはどんな人かしら、妖怪でもいいけれど。」
軽口を叩いていても周囲への警戒は怠ってはいない。目の前にある小さな屋敷の周りは大の大人でも中を覗けない程度に高い生垣がある。少なくとも屋敷の外に人や妖の気配はない。
林道から出て、屋敷を観察する。結界を張られていること意外、特に怪しいところは無い。屋敷の周りは多少開けた土地になっており、現在は薄暗いが、昼間は十分に光が入るだろう。屋敷は小さめの平屋、小さ目といっても貴族の屋敷と比較しての話で、庶民からしたら十分に広い。
「貴族の屋敷だとしたら門番の一人もいないのはおかしいわね。廃屋にしては綺麗過ぎるし。取り敢えず、中に入ってみましょうか。」
紫は再度周囲を確認すると屋敷へ近づいていく。誰もいない門の前に立つと静かに力を解放した。
大気が目に見えて歪み、突如空間に裂け目が現れる。同じように結界を挟んだ先の空間も裂けていく。
裂けた空間へ消えると同時に、結界内の空間から紫が現れた。結界を傷つけることなく、屋敷内へ進入した紫が最初に感じたのは強烈な妖気と死臭。次いで人間の気配だった。
「冗談でしょう?」
朱色に染まっていた空は藍色に変わっていた。屋敷内に灯りは無く、静かに闇に身を置いている。
人の気配のする裏庭へと進んでいく。そして、それが現れた。
死霊、数え切れない程の死霊、死霊、死霊。その一体一体がどれも冗談のように強い妖気を放っている。禍々しく淀んだ妖気が空気を満たしていく。
「これは・・・。」
動揺していたのは一瞬、後ろへと一気に跳ぶ。一瞬前にいた位置に死霊が殺到し、すぐに紫へと方向を変えて襲ってくる。
「随分と積極的な死霊さん達ね。」
前方へ大きく妖気を振るう。数匹の死霊が弾け飛ぶが、何事も無かったように再生し、怨嗟の絶叫をあげた。さらに大きな妖気を放つが、弾けた次の瞬間には再生し、襲ってくる、これでは埒が明かない。
吹き飛ばす度に力は失っているようだが、微々たるものだった。瞬時に対抗手段を考えていく。倒すだけなら方法はいくらでもある。ただ、この屋敷を探索する為に方法はある程度限定されてしまうが。
「境界の狭間に送るのが一番楽かしら。まぁ、すぐ、戻ってきちゃうだろうけど」
境界を開こうと構えた矢先、裏庭から人影が飛び出してきた。派手に力を振るっていたのだ、気付かないほうがどうかしている。
(屋敷の人間自体が死霊を操っているとしたら、そちらを取り押さえたほうが速いわね。違ったら、一旦人間ごと、外に出ましょう。)
考えると同時に、人影へ跳躍する。首根っこを引っつかみ地面へと押し倒す。
「死霊を止めなさい。三つ数える、わ?」
有無を言わさない声色で掴んだ首に力を入れようとして、やめる。いや、正確には見知った人物だったので驚いて力を入れられなかった。
紫が地面に押し倒していたのは、今日、共になりそこないの妖怪桜の下で花見をした人物、西行寺幽々子だった。
「幽々子?」
紫の動揺などお構いなく、紫の背へと死霊が襲い掛かる。
「少しは空気を読みなさい。」
呆れるような紫の声が響くと同時に、背後に巨大な空間の裂け目が現れる。屋敷に侵入したときは比べ物にならないほどに大きい。その裂け目は自我を持っているかのように死霊を丸呑みにし、元通りに閉じた。
再び、屋敷が静寂に包まれる。小さく息を吐いて押し倒している人物へ目を向けた。
「どういうことかしら幽々子?説明してくれると嬉しいのだけれど。」
出来る限り怖がらせないように優しい口調で話しかける。が、幽々子は、呆然と紫を見詰めているだけだった。
「えっと、聞こえているかしら。見ての通り私、実は妖怪なの。あまりいい妖怪ではないから早めに説明をした方がいいわよ。」
次は先程よりも強い口調で話しかけた。幽々子はまだ呆けている。取り敢えず、頬に一撃でも入れるかと紫が考え出した時、ようやく幽々子が口を開いた。
「何で・・・死なないの?」
さも、意外そうに言う幽々子。目の前に紫がいることが信じられないような口調だ。
「自分で言うのもなんだけれど、私強い妖怪さんなのよ。で、さっきの死霊は何?昼間に会った時には、霊力は持っていても、今のような妖気は出していなかったと思うけれど。」
軽めの口調だが、嘘を言えば容赦はしないという、確固たる意思が込められていた。
「え、あの、私・・・。」
震える声で言葉を捜しているようだった。彼女が紫を見る目には何の事を言っているか理解できないといった、困惑の色が見て取れる。
「言いたいことがあるのならはっきりと説明して頂戴、もう一度言うけれど、私はあまり―――。」
「わ、私はず、ず、ずっといました、ここに。あ、あなた様にお会いするのは、は、はじめてです。」
彼女の目は本気だった。
*
陽はとうの昔に沈み、屋敷には月の明かりが薄ぼんやりと射している。虫の鳴き声どころか、生き物の気配すらしない屋敷はひたすらに不気味だ。そんな屋敷には二人の人物がいた。一人は屋敷の主人であり、もう一人は侵入者である。小狭な客間に二人はいた。
「つまり、西行寺家の屋敷にいたのはあなたの双子の妹で、あなたが本物の幽々子だと?」
西行寺家にいた若い当主と全く同じ容姿をした目の前の少女。違いと言えば、多少雰囲気がこちらのほうが柔らかい事くらいか。
確認するように問いかけているのは侵入者、八雲紫である。
先程まで屋敷に溢れかえっていた死霊は、紫が自身の体に結界を施すことでやり過ごしていた。こちらの屋敷に住む幽々子は、死霊を操っているわけではなく、死霊が勝手に集まってくるだけらしい。死霊の目を欺いているだけなので、結界を解きさえすれば、すぐにでもまた襲い掛かってくるだろう。
「はい。妹の本当の名前は、西行寺夜々子と言います。表向きには病死したことになっていますけど。」
こちらの幽々子の話によると、幼い頃は西行寺本家で姉妹揃って生活していたらしい。しかし、当主を継ぎ、しばらくすると、死霊が幽々子に取り憑き始めた。最初の頃は死霊の力も弱く、陰陽師の呪術で祓えていたのだが、徐々に死霊の力が強くなり、死霊が家の者達を襲い始めた。多数の犠牲者が出て、とてもではないが、本家にはいられなくなった。当主は夜々子に変わることになったが、当主がすぐに変わるのも世間体が良くない。ならばと幽々子と夜々子を入れ替えた。幸い二人は双子で近しい者でも見分けがつかない。夜々子は病死扱いになり、本物の幽々子は結界の中でひっそりと生きる事になった。
「でも、今ではあちらが本物の幽々子ですよ。当主としての器も妹のほうがずっと上ですし。だから・・・私はただの、死人です。」
泣き出しそうな瞳で寂しく笑う少女。紫はその瞳を真っ直ぐ見つめている。
紫の視線に気付き、誤魔化すように明るく笑った。
「そう言えば妖怪さんのお名前はなんて言うんですか?」
どこか嬉しそうに紫を見つめる幽々子。先程まで怯えていたのが、嘘のようだ。
「名乗るのは構わないのだけれど、一つ聞いていいかしら?」
幽々子の心を見定めるかのように、瞳を覗き込む。小首を傾げ、小さく頷く幽々子。自身を死人と称した人物とは思えない。
「私は妖怪だと名乗ったわ。あなたの死霊達も無力化し、その気になればいつでもあなたを食べる事だって出来る。」
感情の無い、言い聞かせるような口調。聞く者の心を冷めさせるような声だった。
一つ気になった事があるだけだ。妖怪を前にして見せるはずのないものを幽々子は見せている。長い年月を生きてきた紫にもよく判らない事だった。
「なぜ、あなたはそんなに嬉しそうなの?」
妖怪を前にした人間が一番に見せる感情は恐怖だ。自分より上位の捕食者がいるのだ、当然の事だと言える。他の感情を見せる者もいるが、共通しているのは、全て負の感情という事だ。妖怪を前に喜ぶような人間はいない。いたとしても、妖怪を狩る事を楽しんでいるような者くらいだ。だとしても、自分の力を無力化された者なら浮かぶ感情は、絶望であるべきだ。
幽々子は紫の視線から逃れるように下を向き、黙り込む。それから意を決したように、口を開いた。
「死なないで、くれたから。」
消え入るような小さな声が静寂に満ちた部屋に溶けていく。
「私はたくさんの人間や妖怪を死なせました。私に近づく人はみんな死んでしまうんです。ここに来てから、私に会いに来てくれるのは妹だけで。その妹も結界越しにしか会えないし、ここ数ヶ月来てくれません。」
下を向いた幽々子の表情は見えない。何かを堪える様に着物の裾を握る手はひどく白かった。
数え切れない程の命を奪い、なお少女は生きている、たった独りで。
「だから、妖怪さんが死なずにいてくれたことが、凄く嬉しかったんです。」
顔を上げて紫を見つめる少女は、本心で言っているようだった。柔和に微笑む少女に、呆れるように溜息を吐いて、紫は口を開く。
「あなたの気持ちは、妖怪の私にはよく判らないけれど、約束だしね。八雲紫、それが私の名前。」
「八雲紫様ですね。」
嬉しそうに紫の名前を反芻する幽々子。とても死霊達の姫とは思えぬ笑顔を浮かべている。彼女の中で、すでにその名前は特別な響きをともなうものになっていた。
そんな幽々子を見ている内に、言いようの無い感覚が紫の胸のうちに溢れてくる。幽々子をずっと見ていたいような、逆にすぐにでも目を逸らしてしまいたいような、相反する感覚が紫を支配する。
紫は結局、幽々子から目を逸らした。居心地の悪さに、ここから立ち去る事を決める。
「八雲様?」
無垢に紫を見上げてくる幽々子。
「帰るわ。これ以上ここに用事も無いことだし。」
すぐさま幽々子の表情が変わる。不安と焦りが幽々子の心を満たしていた。
「せ、せっかく来たんですから食事だけでも、すぐに準備しますから。」
「それほど、お腹は空いてはいないわ。」
「それに、それに、世も更けています。危ないです!」
「外のほうが、死霊のいる屋敷よりはずっと安全だと思うけれど。」
その言葉に絶句した幽々子は、雷に打たれたように固まり、ゆっくりと膝を折る。遠く死霊の怨嗟の声が聞こえた気がした。
幽々子を見ているとなぜか苛々してくる。その理由が判らないからさらに苛々する。なぜと自問しても答えは返ってこない。
ただ、俯いて肩を震わせている幽々子を見ると胸を掻き毟りたくなるほど苦しい。どうしたらこの感覚は消えてくれる。今まで生きてきた中で、このような事は紫の経験に無い。
鍵があるとしたら、現在目の前にいる少女だ。死人にして、死霊の姫君、西行寺幽々子。
小さく息を吐き出すと、幽々子の肩にそっと手をのせる。震える肩が、痺れたように大きく動いた。
「貴女といる事に飽きるまでの間なら、貴女の側にいてあげてもいい。」
電光石火のように顔をあげる幽々子。頬には涙の跡があった。それを目にした紫の胸に、刺すような痛みが走る。
「・・・本当、ですか?」
上擦った声が、また胸に痛みを与える。目の前の少女を殺せという衝動を無理やり抑え、幽々子の頬を包み込むと、紫はゆっくりと口を開いた。
「ただし、条件があるわ。」
自分に出来る範囲なら何でもするという幽々子の視線を受け止め、紫は低い声で呟いた。
「貴女と居る事に飽きたら・・・私は貴女を喰らうわよ。」
この痛みの正体が判ったら、この少女を残さずたべてやろう。そう決意する紫。
「はい!」
紫の心中を知ってか知らずか、元気よく返事する幽々子。
幽々子を見つめる紫の目は冷たく、紫を見つめる幽々子は何かに安堵したように微笑んでいた。
ここに投稿してくれたことに感謝をして拝読いたします。
niceゆかゆゆ。
オリジナルも交えているのに鼻につかない設定でとても読みやすいし面白いです。
購入しても後悔しないレベルの作品を投稿してくれた織田様に感謝します!