一
「メリー、週末に野球を見に行かない?」
木曜日。二枚のチケットを取り出して、宇佐見蓮子はそんなことを言い出した。
大学のカフェテラスで昼食をとっていたときのことだ。私は耳慣れない単語に、食べていたオムライスを思わず噛まずに飲みこんでしまった。
「野球って、あの野球?」
「そりゃ野球よ。プロ野球。チケットが獲れたのよ、日曜の試合の」
そのチケットをひらひらとさせて、蓮子はどこか興奮気味に口にした。
季節は春の終わり。ニュースでたまにプロ野球の結果が流れているのは目にしていた。私はあまり詳しくないが、京都でもファンの多い阪神タイガースが今年は首位を快走していることぐらいは自然と聞こえてくる。
――そういえば、蓮子は阪神ファンだっけ。東京生まれのくせに。
「私、野球はあんまり詳しくないわよ?」
ファンというわけでもない私なんかと一緒に行くより、知り合いのファンでも誘った方がいいのではないだろうか。
「大丈夫、蓮子さんがレクチャーしてあげるから。阪神タイガース苦難と栄光の150年を、そりゃもうみっちりたっぷりと」
「……ほどほどでいいわ」
物理学にしろ本にしろ、あるいは映画や音楽でも、好きなものの話をさせれば蓮子は勝手にいつまででも喋り続ける。今まで散々それに付き合わされてきたが、未だにその話を上手いこと途切れさせる手段を私は見つけられないでいた。
興味なさげに聞き流していると自分の世界に入り出すし、こっちが理解に努めると調子に乗るのだから、全く手が付けられない。
――ともかく。
「阪神の試合、なのよね?」
「もちろん。場所はもちろん甲子園、相手は名鉄ドラゴンズね」
甲子園といえば、お隣の県とはいえ、それなりに遠出だ。
「でも本当に、他のファンの知り合いとか誘った方がいいんじゃないかしら」
「もう、メリーってば」
ずい、と蓮子はこちらに身を乗り出して、私の鼻先にチケットを突きつけた。
「私は、メリーと一緒に、野球を見に行きたいって言ってるのよ」
蓮子は言い聞かせるようにそう言う。ご丁寧にも、メリーと一緒に、を強調して。
何か急に照れくさくなったのを誤魔化すように、私はオムライスの最後の一口を頬張る。
ケチャップの脳天気な甘さが、やけに舌に残った。
「……目的は?」
「そりゃあ、メリーに阪神ファンになってもらえれば十全よね」
阪神のあの縦縞のレプリカユニフォームを着る自分の姿を想像してみた。
たぶん、とても似合わないと思うのだけど。
「たまには野球場でうららかな日曜の午後を過ごすのもいいでしょ」
アイスティーの氷をストローでかき混ぜながら、蓮子は微笑んだ。
「というわけで、メリー。私と野球を見に行かない?」
いつも通りの、蓮子からの誘いの言葉。
彼女に振り回される日常は、いつもそうして幕を開けるのだ。
二
日曜日。私たちはJR東海道本線に乗って、甲子園を目指していた。電車の中は明らかに、これから野球を見に行きます、というスタイルの人たちでごった返している。「T」と「H」が合体したロゴの入った帽子に、縦縞のレプリカユニフォーム。鞄から覗いているのはバット型のメガホンだ。
そして私と蓮子も、そんな阪神ファンの一団に同じ格好で埋もれている。
ちなみに私の着ている阪神のレプリカユニは、蓮子からの借り物だ。
「なんだか似たような人たちでいっぱいね」
「そりゃ、この時間に京都から姫路行の東海道本線に乗ってるのは甲子園組でしょ」
「それにしたって、京都からわざわざ行く人がこんなに多いのね」
混雑した車内を見渡して私は呟く。京都を本拠地とするチームは阪急バファローズのはずだが、車内の阪神ファンの多さを見ると、京都が阪神の本拠地なのではないかという気がする。
「それに、今年は阪神ファンは燃えてるのよ」
「首位だから?」
昨日、蓮子は我が家にやってきて、頼んでもいないのに色々と野球について私にレクチャーしていった。おかげで現在のペナントの詳しい順位とか、一昨日まで知らなかった阪神の主力選手の名前などを覚えてしまった。
開幕から二ヶ月、現在のセントラル・リーグは阪神タイガースが開幕から首位を快走しており、それを名鉄ドラゴンズと阪急バファローズが追いかけているという展開らしかった。盤石の投手陣を誇る阪神と、強力打線の名鉄、機動力と堅守の阪急、というチームカラーで三つ巴の混戦模様だとか何とか。
「もちろん、首位だからってのもあるけれど」
「けど?」
「今年はね、メモリアルイヤーなのよ」
と、蓮子は被っていた帽子――いつものあの帽子ではない、阪神の野球帽を脱いで、そこにつけたピンバッジを示した。
金と銀が入り交じるそのピンバッジは、《100》の数字を象っている。
「100周年なのよ」
「150年じゃなかったの?」
「それはチームの創設から。100周年なのは――前回の日本一からよ」
そう、伝説の1985年。蓮子は前世紀の年号を口にして感慨深げに頷く。
「……前回の、って」
私は目をしばたたかせる。前回の日本一、って。
「100年も、日本一になってなかったの?」
思わずそう呟いた言葉が、電車の中にやけに大きく響いて。
次の瞬間、周りの阪神ファンにじろりと睨まれた。
身を竦めた私に、蓮子は周囲に誤魔化すような笑いを向けて、それから耳打ちした。
『駄目よメリー、そういう言い方をすると気にするファンも多いんだから』
『そういうことは昨日のうちに教えておいてよ――』
私が小声でそう抗議しているうちに、車内にアナウンスの音声が響く。
《間もなく、大阪、大阪》
「おっと、下りるわよメリー」
蓮子が声をあげた。「え?」と私は目をしばたたかせる。
「まだじゃないの? 甲子園口で下りるんでしょう?」
「違うわよ。甲子園球場の最寄り駅は阪神電鉄の甲子園駅だから、大阪で乗り替え。梅田まで歩くから」
路線図に『甲子園口』という駅名があったから、てっきりそこまで乗っていくのだと思っていたら違うらしい。ややこしい話である。
ホームに列車が滑り込み、開いたドアから人波が流れ出す。私たちもその流れに乗って歩き出した。エスカレーターに集まる人波は押し合いへし合い、輸送力が人数に追いついていない。
「メリー」
蓮子が人ごみの中、私に手を伸ばす。その手を私は咄嗟に掴んだ。
人で溢れる大阪駅ではぐれたら合流は困難だろう。私は離してしまわないように、蓮子の手をぎゅっと強く握りしめた。
三
プロ野球の生観戦なんて、そういえば生まれて初めてかもしれない。
ゲートに並んで、チケットを通す。どこからか響いてくる太鼓とトランペットの音。思い思いに人が行き交う通路を、蓮子に手を引かれて歩く。通路に立ち並ぶ店で売られているのは、ドリンクやポップコーン、たこ焼きにカレー、ホットドッグやらフライドポテトやら。夏祭りの屋台のようだ。
それらの間を抜けて、ある通路の入口で蓮子が足を止める。
「ここよ」
内野指定席入口、と書かれていた。立っていた係員にチケットを見せて(席種の確認らしい)、私たちは通路を抜ける。――瞬間、すっと広がった視界に、私は思わず息を飲んだ。
整然と並ぶ座席と、そこに腰を下ろす無数の人。その先、緑の芝生と焦茶色の土で彩られたグラウンドが広がる。反対側のスタンドにも、人、人、人。三万人以上は入っているのだろうか。これほど大勢の人が同じ場所に同じ目的で集っている、という光景は、何やらひどく非現実的なものに思えた。
トンネルを抜けると、そこは野球場だった――いや、これはさすがに安易か。
「こっちこっち。前列のいい席取ったのよ」
そんな私の感慨に気付いているのかいないのか、蓮子は相変わらず私の手を引いたまま、座席の間の階段をすたすたと下りていく。途中、ビール会社のロゴの入った大きなリュックを背負った女性とすれ違う。何かと思ったら、あの背中のリュックにビールがなみなみと入っていて、コップにこの場で注いでくれるらしい。重くないのだろうか。
蓮子が「ここね」と示した座席に腰を下ろす。ふと座席番号を見ると《7-19》と書かれていた。隣の蓮子の席は《7-20》。列の端っこだ。
周りは私たちと同じく、阪神のレプリカユニと帽子を纏った人たちばかりだった。対戦相手の名鉄ドラゴンズのユニフォームはほとんど見当たらない。視線を巡らすと、外野スタンドの方に紺色のユニフォームの一団が小さく寄り添うように固まっていた。旗を振っているし、応援団なのだろう。
「メリー、何か買ってくるけど、希望ある?」
「え? ……じゃあ、ジンジャエールで」
「了解。ちょっと待っててね」
蓮子はそう言い残すと、立ち上がって階段を上っていった。取り残されてしまった私は、小さく息をついてグラウンドの方を見やる。バットを振っている選手や、キャッチボールをしている選手がいた。紺色のユニフォームだから名鉄の選手たちだろう。
スクリーンを見やると、ちょうど今日のスターティングメンバーが発表されるところのようだった。球場内のアナウンスに合わせ、スクリーンに派手な演出とともに阪神の選手たちが映し出されている。1番センター中森、2番セカンド谷本、3番ショート烏丸――。
「ああ、夏莉! もう試合が始まってしまいますよ!」
「こらこら、まだ時間はあるから落ち着きなよ。で、君の座席はどこだい?」
ふと傍らで声。視線を向けると、また同じように阪神のレプリカユニを着た女性の二人組が階段の上から歩いてくるところのようだった。
「ええと、チケットが――あ、あれ? ええと、どこに……」
「またかい! さっき入口で係員に見せただろう!?」
「そ、そのはずなんですが……ど、どうしましょう、夏莉」
チケットを無くしたのか、おろおろと涙目になるショートカットの小柄な女性。その傍らで、長い三つ編みの女性が呆れたように首を何度か振った。
「財布の中」
「そ、そこは今調べましたけど」
「お札の間は?」
「え? ええと――あ、ああ、ありました、ありましたよ夏莉!」
「解った、解ったから。――全く、どうして君はいつもそうなんだ」
チケットを掲げて小躍りする小柄な女性に、夏莉と呼ばれた三つ編みの女性が頭痛を堪えるようにため息をつく。「す、すみません」としおれる小柄な女性。夏莉さんはどこか中性的な微笑を浮かべて、それから自分のチケットを取り出し眺める。
「私は《7-17》だね。……ということは、ここか」
「《7-18》ですから、私は夏莉の隣ですね」
ちょうど蓮子の座っていた端っこの席に手をかけて、夏莉さんが呟いた。
どうやらふたりは私たちの隣、内側の席に座るらしい。私は立ち上がると、通路の方に一度出てふたりを促した。座ったままふたりを通すには座席と座席の間は狭い。
「ありがとうございます」
小柄な女性の方が深々と頭を下げて、かえって私の方が恐縮してしまった。
姉妹にしては似ていないし、友人同士か先輩後輩か、そのあたりだろう。三つ編みの女性、夏莉さんが年上なんだろうなあ、と座席に座り直しつつ私は思った。
「お待たせメリー。はい、ポップコーン」
そこで、蓮子がふたりぶんのジンジャエールとポップコーンを手に戻ってくる。「ポップコーンは頼んでないわよ」と私は首を傾げるが、「いいから、はい」と蓮子は構わず差し出した。
「野球見てると、お腹空くからね」
「……そういうものなの?」
「そういうものなのよ。不思議なことにね」
そんなことを言いながら、蓮子は早速ポップコーンを頬張っていた。
空は適度に雲が陽光を遮っているが、暗いわけでも雲行きが怪しいわけでもない。薄曇りの穏やかな昼下がりという天候は、屋外で野球観戦と洒落こむには絶好の日和だった。日焼けを気にする必要がそんなに無いのはお肌にも優しくていい。
「夏莉、貴方もポップコーン、食べませんか?」
「え? いや、別にそんな」
「買ってきますね」
と、小柄な女性の方が立ち上がる。が、夏莉さんの方が、ユニフォームの裾を思い切り引っぱって、歩き出そうとした相方の動きを封じた。
「君は動かなくていいから」
「な、夏莉、私をあんまり馬鹿にしないでください!」
「――賭けてもいいけれど。君はここから通路の屋台に行ってポップコーンを買って帰ってくるまでの間に、必ず何か無くすよ。たぶん財布を。あるいは買ったばかりのポップコーンかな。どう転んでも君の財布が傷むだけだよ」
「そんなことはありません!」
「過去の実績と経験に基づいての忠告なんだけどなあ」
肩を竦めた夏莉さんに、小柄な女性はぐっと押し黙った。
「な、無くさないように気を付けますから!」
「……私も着いていくよ」
「子供じゃないんですから――」
「そうでしたね、星先輩」
先輩、を強調した夏莉さんに、星先輩と呼ばれた女性は悔しそうに唸った。
ふたりに道を譲ってから座席に座り直し、私は傍らの蓮子の方を振り返る。
「ねえ蓮子、敬語の先輩とため口の後輩ってどうなのかしら?」
「ん?」
蓮子の好きそうな、小さな謎になりそうかとも思ったが、蓮子はグラウンドに目を落としたまま特に興味も無さそうに答える。
「先輩後輩と呼びあってたって、年齢もその通りとは限らないでしょ?」
「――ああ、そういえばそうね」
たとえば大学では浪人でもすれば、同期の友人の多くが年下などいくらでもあることだ。社会人だとしても、就職した年齢次第では年下の先輩なども有り得るのだろう。
「ん? 今日の先発、佐伯なの? 吉富じゃなくて?」
スクリーンに映し出された両チームのスタメンを見て、蓮子が声をあげる。私は小さく肩を竦めるだけにした。
そこへまた、夏莉さんと星さんの二人組が戻ってくる。席を空けた私たちに、「何度もすみません」と恐縮して星さんは頭を下げた。本当に腰の低い人である。
「あら、今日の先発は佐伯ですか? 吉富だと思ったんですが」
スクリーンを見上げて、私の隣に座った星さんが同じように声をあげた。「なんだ、さっきの時点で気付いてなかったのかい?」と夏莉さんが肩を竦める。
「吉富に何かあったんでしょうかね?」
「そうですね……。怪我でなければいいのですけど」
蓮子が振り返って声をあげ、星さんは心配げに首を傾げた。
「松永もまた欠場ですし」
「ええ、早く元気になって欲しいですね」
というか、これは座る位置を間違えたかもしれない。蓮子が星さんと野球談義モードに入ろうとしている。間に挟まれた私はどうすればいいのだろう。
そうこうしているうちに、グラウンドではチアガールとマスコットによる試合開始前のパフォーマンスが始まる。チアガールと一緒に器用に踊る虎のマスコットはトラッキーというらしい。華麗なバク宙を決めると、スタンドからやんやと歓声があがった。よくあんな大きなかぶり物をして、あんな身軽に動けるものである。
グラウンドに阪神の選手たちが姿を現した。ポジションに走っていく選手の名前をウグイス嬢が読み上げるたびに、大きな歓声がスタンドから沸き上がる。蓮子や星さんも楽しそうにメガホンを叩いていて、私もつられて蓮子から借りたメガホンを見よう見まねで振ってみた。ちょっと恥ずかしい。
「おふたりは烏丸と河野のファンですか?」
と、不意に星さんがこちらを振り向いて訊ねてくる。
「え? ええと――私は」
私は慌てて首を振った。何しろ阪神のレギュラーもろくに知らなかった身の上である。今着ているレプリカユニと帽子、それにメガホンだって蓮子からの借り物だ。烏丸という選手も、名前は聞いたことがある、というレベルである。
「そりゃもう、デビューした頃から河野ファンですよ。烏丸も好きですけどね」
蓮子は得意げにそう答える。「河野ユニの人なんて初めて見たよ」と夏莉さんが肩を竦めた。
そういえば、私のレプリカユニの背中には『KARASUMA』の文字が入っている。背番号7は、ショートのポジションに立ってキャッチボールをしていた。どうして急にと思ったら、私たちのレプリカユニの名前を見ての問いかけだったらしい。
河野、という名前はスタメンには無かった。今日は投げていない投手なのだろうか。
「打てればレギュラーなのにねえ、河野は」
「毎年そう言われてますけど。私は終盤に守備固めで出てくる河野が好きなんですよね。監督に信頼されてるんだなぁって嬉しくなりません?」
「居てくれると安心ですからね、河野は」
夏莉さんと蓮子と星さん、また阪神談義が始まってしまう。やっぱり私が口を挟む隙はどこにも無かった。何か悔しくなってくる。
「……河野ってどんな選手?」
話が途切れたところで、私は蓮子に小声で訊ねた。
「ああ、河野は内野の守備要員。本職は三塁ね。今日もベンチに居るはずよ」
私たちの座っている一塁側はホームの阪神ベンチの上なので、阪神ベンチの様子はここからは見えない。
「控えなのね」
「スーパーサブと言って欲しいわね、そこは」
蓮子はどこか愛おしげに背中の背番号54を撫でた。あんまりレギュラーらしからぬ背番号だとは思ったけれど、そういう選手のファンだというのは確かに蓮子らしいかもしれない。
「私のユニフォームのは?」
「昨日教えたじゃない。うちの不動の3番ショートよ。生え抜きのスターだし、ほら、他にもいるいる。烏丸ユニ」
蓮子に言われて見渡してみれば、確かに背番号7のレプリカユニを着ている人は多かった。
「人気なのね」
「そりゃあ、去年の首位打者で盗塁王だしね」
なるほど、私でも聞いた覚えがあるはずだ。
「夏莉とお揃いですね」
星さんが笑って言う。言われてみると、夏莉さんも背番号7だった。星さんの方は背番号22である。
「うちは投高打低ってよく言われるけど、烏丸が居ないと本当に打線が機能しないのよね。ただでさえ今5番の松永が怪我してて居ないんだし、烏丸には頑張ってもらわないと、援護がもらえない先発陣が可哀想よ。今日先発の佐伯なんか特に」
「佐伯のときは、野手が協定でも結んでるんじゃないかってぐらい点が取れないよねえ」
蓮子の説明が聞こえていたのか、夏莉さんがまた肩を竦めた。
「向こうの先発も西川だし、今日は投手戦になるでしょうね」
マウンドで投球練習をする投手を見つめて、星さんは呟く。
「球場で見てる分には、馬鹿試合の方が楽しいんだけど」
「いやいや、投手戦の緊張感もいいものじゃないか」
「どちらにしても、阪神が勝つのが一番です」
蓮子と夏莉さんの言葉を、星さんが上手くまとめた。なるほど、それはここに萃まっている阪神ファンの総意に違いない。応援しているチームが負けるのを見たい人は居ないだろう。
始球式は、この試合のスポンサーの社長だった。肥満気味の男性があらぬ方向へボールを放り、拍手が球場に響く。その拍手が消えると、ふっと独特の緊張感が球場を包んだ気がした。時刻は14時。試合が始まる。
審判が動き、マウンドの投手が振りかぶった。レフトスタンドの名鉄の応援団がトランペットを吹き鳴らす。放たれる白球。名鉄の1番打者がバットを振る。快音。打球はセンター方向へ高く舞い上がった。「うあ」と蓮子が悲鳴のように呻き、星さんが身を乗り出して打球の行方を視線で追う。
センターの選手が懸命に背走し、頭上の打球にグラブを伸ばした。フェンスに激突する寸前、白球がグラブに吸い込まれた――ように見える。そのままセンターはフェンスにぶつかり転がった。球場全体が息を飲む。
が、すぐにセンターは起きあがり、グラブを高々と掲げた。一気に球場が沸き、二塁に向かっていた打者が天を仰ぐ。蓮子と星さんが同時に立ち上がってメガホンを叩いた。いきなりのセンターのファインプレー。私も思わず、詰めていた息を吐き出す。
「さっすが韋駄天中森!」
「抜けたかと思いましたよ。フェンスにぶつかりましたけど、大丈夫ですかね?」
「元気そうだよ。しかし、初っぱなからいいものが見れたね」
蓮子はまだ喜んでいて、星さんは心配そうに選手を見つめ、夏莉さんは満足げに頷いていた。ひとつのプレーをとっても楽しみ方は三者三様という感じで、なんだか面白い。
スコアボードにアウトの赤ランプがひとつ灯った。1イニング3アウトで9回まで、表裏があるからこれを54回も繰り返すわけだ。応援する方も大変である。
「メリー、運がいいわよ。今日はいい試合になりそう」
心の底から楽しそうに蓮子がそう言うので、きっとそうなるのだろう、と私も思った。
四
思い返してみれば、野球をこうしてちゃんと見たこと自体ほとんど無かった。ルールだってうろ覚えである。新鮮ではあるが、解らないことも多い。
「ピッチャーが投げるときの動作、ときどき変わるけど――」
「クイックのこと? あれはランナーに盗塁されないように、早く投げられるフォームに切り替えてるのよ。大きく振りかぶってたら楽々盗まれちゃうからね」
「へえ、ちゃんと合理的な理由があるのね」
「野球は確率と合理性のスポーツだもの。そこに確率だけじゃ計れない流れや勢いが加わるから面白いんだけどね。谷本、きっちり送ってよー!」
私の初歩的な質問にも、蓮子は声援を送りながらちゃんと答えてくれる。こういうときは、相方が喋りたがりなのは有り難い話だ。
「ときどきボールを交換してるのは、どうして?」
「あれは、反則投球の防止ね」
ベースの手前でワンバウンドしたボールを、キャッチャーがベンチの方へ放っている。審判が新しいボールを取り出して、ピッチャーへ投げ渡した。
「反則投球って?」
「ボールに汗とか土とかつけたり、キズをつけたりすると、変化球の曲がり方が大きく変わるのよ。変化球って微妙な空気抵抗で曲がってるからね。そういうのはルール違反なわけ。で、それを防ぐために、ピッチャーには汚れてないボールを渡すの」
「ふうん。もしやってるのが見つかったらどうなるの? 退場?」
「確か、ボール球扱いになって警告じゃなかったかしら」
「あら、退場にならないのね」
「グラウンドの土がついた、とか、バッターが打ったときについたキズだ、って言い張られちゃうと否定するのが難しいからね。繰り返したり証拠が出てきたりしたらもちろん退場よ」
「ああ、だからボールを交換してるのね」
「そういうこと。まあ、そもそも反則投球が実際に試合中に確認されたことなんてほとんど無いはずだけどね」
細かいルールまでよく把握しているものである。私の隣で聞いていた夏莉さんも、「ボークじゃなくてボール判定になるのか。誤解してたよ」と感心していた。そうこう言っている間に名鉄の打者がヒットを打って、「あー」と蓮子が唸る。お手洗いに立っていた星さんが戻ってきて、走者が出ているのを見て小さく眉を寄せた。
「佐伯、しっかりー!」
マウンド上の投手に向けて、蓮子が声をあげる。球場を包む歓声の中、ひとりの声援がグラウンドの選手まで届くことはないのだろうけれど、声をあげることがきっと大事なのだろう。
ともかく、試合は蓮子の言った通り緊迫した展開になった。
3回、阪神が二死から連打でチャンスを作り、3番烏丸が2点タイムリーを放って先制する。けれど名鉄も、5回と6回に続けてソロホームランを浴びせて同点。2-2となって、試合は7回の裏へと進んでいく。
この回の先頭打者は初回にファインプレーを見せた1番の中森からだった。私たちの前方に座っている、中森のユニフォームを着たおじさんが大きな声で『中森いいいい!』と叫ぶ。その歓声に応えるように、鋭い打球がレフト方向へ抜けていった。ノーアウト一塁。
2番がきっちり送りバントを決めると、球場のボルテージが一気に高まった。先制のタイムリーを放っている3番烏丸が打席に入る。
「からすまー!」
隣の蓮子も完全に阪神ファンモードになって声援を送っていた。私も、レプリカユニフォームの縁もあってか、ついつい一緒になって声をあげてしまう。人前で大声を出すなんて恥ずかしいという感覚はどこかへ消えていた。球場の熱気に私もあてられているのかもしれない。
「烏丸ならやってくれます、きっと」
星さんが祈るように言い、夏莉さんは腕組みして戦況を見つめている。
名鉄の投手は3球ボールを続けた。球場にブーイングが響く。勝負を避けているという風に私にも見えた。しかし同点のこのピンチでは仕方ないのかもしれない。
結局4球目もボールで、烏丸はバットを振らずに一塁へ歩いた。球場全体が微妙に落胆の入り交じった歓声に包まれる。フォアボールでランナーが出るのはいいことなのだが、勝負を避けられての結果ではあまり喜べないということらしい。
とはいえまだチャンスは続く。ワンアウト一、二塁でバッターは4番。名鉄の捕手がマウンドに駆け寄って投手と何事か言葉を交わしていた。
捕手が定位置に戻り、試合が再開する。名鉄の投手がセットポジションで構える。初球。
狙い澄ましたように、4番のバットが鋭い快音を響かせた。
痛烈なライナー性の打球が右中間へ抜ける。大歓声。センターが追いかける中、二塁ランナーは悠々とホームに帰ってきた。勝ち越し。蓮子と星さんが飛び上がって喜ぶ。
さらに、一塁ランナーの烏丸も一気に三塁を蹴った。センターからのバックホーム。鋭い返球が捕手の元へ飛んでくるのと、烏丸が本塁へ滑り込むのがほとんど同時で――。
球場を包んだ刹那の静寂。そして、審判の両手が横に大きく広がった。セーフ。
一際大きく歓声が上がった。スコアボードに2の数字が刻まれる。4-2。
「藤崎ナイスバッティング! 烏丸ナイスラン!」
踊りだしそうな勢いで飛び跳ねる蓮子につられて、私も蓮子や星さんと手にしたメガホンをぶつけ合った。気が付けば、私も気分はすっかり阪神ファンである。
「よし、これは勝ったな。私は風呂に行ってくる」
「な、夏莉! フラグを立てないでください!」
夏莉さんが立ち上がって、星さんが悲鳴を上げた。というか風呂って何?
「どう、メリー。楽しいでしょ?」
興奮冷めやらぬという様子のまま、蓮子がそんなことを口にする。
私はグラウンドを見やりながら、「そうね」と頷いた。
――なるほど、スポーツ観戦というものが今も昔も変わらず人々の娯楽として存在し続けている理由が、なんとなく解った気がした。
試合はその後、蓮子曰く『今度こそ本物の藤川二世』らしい背番号22の抑え投手がきっちりと9回を締めて、4-2で阪神が逃げ切った。
最後の打者が三振に倒れた瞬間、わっと歓声が爆発する。まるで優勝したようなお祭り騒ぎに見えたが、これが毎試合だとすれば阪神ファンというのは元気なものだと思った。
「勝った勝った! メリー、いぇい!」
「いぇい」
思わず私もつられて、メガホンを蓮子とたたき合わせる。隣では星さんが飛び跳ねていて、夏莉さんはほっと息をついていた。態度は三者三様だけれども、それぞれ阪神の勝利を喜んでいることに変わりはないはずだ。
「でも、せっかく河野って選手が出てきたのに、打球が飛んでいかなかったわね」
蓮子のお気に入りだというその選手は、9回から三塁の守備に入っていたが、抑えの投手が三振、キャッチャーフライ、三振に仕留めたので、名手だというその守備は見られなかった。少々残念と言えば残念である。
「いいのよ、私は河野に出番があるだけで満足、満足」
けれど、蓮子はお目当ての選手の姿が見られただけでご満悦の様子だった。ファンというのはそういうものかもしれない。
「まあ、河野が出てくるのは勝ちゲームだから、そういう意味じゃ確かにいつも見たい選手ではあるね」
夏莉さんがそう言って、「さてと」と立ち上がった。
「ゴミを捨てに行ってくるよ。君はヒーローインタビューを見てていいから」
「すみません、夏莉」
せっかくだから君たちの分も持っていくよ。夏莉さんがそう言うので、恐縮しつつ私は自分たちの出したゴミを手渡した。なんだかんだで、気が付くと結構色々と飲み食いしてしまった。野球を見ているとお腹が空く、という蓮子の言葉を今頃になって実感する。単に応援でエネルギーを使っただけかもしれないが。
グラウンドではヒーローインタビューが行われていた。お立ち台に上がっているのは決勝打の藤崎という選手と、先制打と好走塁の烏丸だった。背番号7のレプリカユニの多くが最前列のネットにかじりつくようにして歓声をあげている。
『今年の自分たちの目標は、あくまで日本一です』
球場内に響くマイクの音声。そう言い切ったのは烏丸だ。
『まだまだ先は長いですが、100年ぶりの日本一までこのまま走り続けますので、皆さんも一緒について来てください、よろしくお願いします!』
帽子を取って手を振った烏丸と藤崎に、まだまだ大勢のファンが残ったスタンドから大歓声が降り注ぐ。
100年ぶりの日本一。それはやはり、今年の阪神の合言葉らしい。
100年前といえば、1985年。そんな遥か昔のことなど、もはや知っている人も居ないだろうに。いや、だからこそか。積もり積もった100年分の悲願は、他のどんな球団よりも強い祈りになっているに違いない。
「ただいま。それじゃあ、そろそろ行こうか」
「そうですね。今日はどうも、ありがとうございました」
戻ってきた夏莉さんに促され、星さんは立ち上がるとまた深々と頭を下げる。
「いやいやこちらこそ。楽しかったです」
「はい。ありがとうございました」
軽く手を振り合って、ふたりと別れる。ファン同士、こういう出会いがあるのも球場観戦の楽しみなのかもしれない。そうでなくても、見知らぬ誰かと同じ応援という目的で一緒になって騒ぐのは楽しいのだろうけれど。
「メリー、私たちもそろそろ帰ろうか」
「そうね。――ねえ、蓮子」
「うん?」
選手の姿の消えたグラウンド。人波の引いていくスタンド。祭は終わるが、また次もある。こんな大騒ぎが毎日のように行われているのだから、野球好きは元気なものだ。
荷物を手に立ち上がった蓮子に、私はグラウンドの方を見やりつつ言った。
「楽しかったわ。良ければ、また誘ってね。野球」
その言葉を聞いたときの蓮子は、今までになく嬉しそうだった。
「そりゃもちろん! これはメリーにも本格的に阪神ファンになってもらわなきゃ」
「それもまあ、考えておくわ」
スポーツなんて今まで特に興味も無かったけれど、応援するチームのひとつぐらいあってもいいだろう。そんなことを思いつつ、私も荷物を拾って、
――隣の座席の下に残されたそれに気付いた。
「あ、これ――」
小さなウェストポーチである。恐らく星さんの忘れ物だろう。
拾って眺めると、律儀に底に小さく名前が書いてあった。
《虎尾星》。小柄で可愛らしい彼女の姿には今ひとつ不釣り合いな名前である。
「忘れ物ね」
蓮子が通路の方を振り仰いだが、既にふたりの姿は見えない。数万人が詰めかけているこの球場内で、彼女たちを探すのは至難の業だろう。かといって取りに来るのをここで待っていても、彼女たちがいつ気付いて戻ってくるかは解らない。
「……どうしようかしら?」
「少し待って、戻ってこないなら落とし物として届けるのが賢明じゃない?」
このまま置いて帰るわけにもいかないし、星さんたちの連絡先が解るわけでもない以上、そうするしかないだろう。
夏莉さんと星さんのやり取りを思い出し、なるほど夏莉さんが心配するのもよく解るなあ、と私は小さく肩を竦めた。
結局、ふたりは戻ってこなかった。
「気付かずに球場の外に出ちゃったのかしらね。基本、再入場は禁止だし」
「忘れ物の回収って言えば入れて貰えるんじゃないの?」
「どっちにしたって、私たちもいい加減帰らないと。球場の係員の人に預けましょ」
既にスタンドにはほとんど人影も無い。このまま残っていても不毛なのは確かだった。
ポーチを手に、私は蓮子と階段を上って内野通路に出る。通路に立っていた係員に、忘れ物があったんですけど、と訊ねると、1階の事務室へと言われた。
既に人も少なくなった通路を歩く。飲食店もほとんどが営業を終了していた。あれだけ賑わっていた球場内も、人波が引けてしまえばどこかがらんとして物寂しく感じる。
で、事務室ってどっちかしら、と視線を彷徨わせていると、ふと目に留まる影があった。
出入口のところで、係員に何事か話しかけている2人組がいる。
――見間違えるべくもない。夏莉さんと星さんだ。
「あら、これはまたナイスタイミング」
蓮子が帽子のつばを弾く。そこに駆け寄ると、私たちに気付いた星さんが振り向いて、それからその顔を安堵にほころばせた。私の手のポーチに気付いたらしい。
「これ、そちらのですよね?」
「ああ、そうです、私のです! すみません、本当にすみません――」
私が差し出したポーチを受け取って、星さんは何度も頭を下げた。
「全く、気付かなかった私も悪いけど、本当に君ってやつは」
その後ろで夏莉さんはやれやれと肩を竦める。けれどその顔にはやっぱり安堵が浮かんでいて、何だかんだ言っても心配していたのだろうなあ、と思った。
「ありがとうございます、本当に」
恐縮しきりという様子でぺこぺことする星さん。そこまで腰を低くされると、なんだかこちらが悪いことをしてしまったような気分になってくる。
「ああ、ええと――そうだ。良ければ、これからお食事でもどうですか」
ポーチを大事そうに胸元に抱えて、星さんはそんなことを言い出した。
「お礼に、ご馳走しますので」
私と蓮子は、思わず顔を見合わせた。
五
「虎尾星です。《せい》の字はお星さまの星」
「こんなちみっこいのに、名前だけ随分と仰々しいよね、君は」
「夏莉! し、身長のことは言わないでくださいっ」
球場近くのファミリーレストランは、帰りがけに晩ご飯を食べていこうという客で賑わっていた。その一角に、私と蓮子は星さん、夏莉さんと向かい合って座っている。
「野原夏莉。このちみっこい先輩の、忠実な後輩だよ」
夏莉さんはそう名乗った。やっぱりよく解らない関係である。案外やっぱり星さんの方が年上で、喋り方は単にふたりの癖や親しさの証明なのかもしれない。
私たちが名乗ると、星さんはやっぱり私の名前を言いにくそうに聞き返した。「メリー、でいいです」といういつものやり取り。
「留学生? にしちゃ日本語が達者すぎるか。隔世遺伝のクオーターあたりかな?」
「……そんなところです」
大正解である。私の金髪や色素の薄い瞳の色は、父方の祖父の隔世遺伝だ。ハーフの父はどちらかといえば日本人の祖母に似ていて、母も純粋な日本人だから、私は両親には似ていない。小さい頃は自分が本当に両親の子供なのか疑って悩んだりもしたものだ。
「なるほど。うちも先祖を辿れば東欧の血が少し入ってるらしいんだけどね」
長い三つ編みを弄りつつ、夏莉さんはそう呟いた。
――なんだかこの人、蓮子と似たような気配がする。
「ともかく、まずは乾杯しましょう。アルコールじゃないですけど」
星さんが言って、先に運ばれてきたドリンクのグラスを手に取る。
「音頭は任せるよ」
「はい、じゃあ――今日の出会いと、阪神の勝利に、乾杯」
かちん、とグラスが固い音をたてた。ジンジャエールに口をつけると、球場で応援しているうちに渇いた喉に、心地よく染み渡っていくのを感じた。
「ともかく、今日も烏丸がやってくれましたね」
「私は、初回の中森の好守がターニングポイントだったと思うな。立ち上がりの苦手な佐伯だ、あれが抜けてたら危なかったと思うよ」
「ソロ2本で踏ん張った佐伯もよくやったと思いますよ。今日はいい試合でした」
女3人寄れば姦しいとは言うが、阪神ファン3人はさっそく今日の試合について熱心に語り出す。よくそんな細かいプレイまでいちいち覚えているものだ、という部分まで、まるでこの場にハイライトが流されているかのような調子で喋っている。
「メリーはどう? 誰か印象に残った?」
と、私がひとり会話についていきかねていることに気付いたか、蓮子が私にそう振ってくる。そうね、と私は試合を思い出してみた。先制点や決勝点といった場面はもちろん、隣で蓮子や星さんが大騒ぎしていたから印象に残っているが――。
「誰が、っていうよりは、野球ってのんびりしてるように見えて、戦略的なスポーツなんだなぁって思ったわ」
中継の映像で見る野球はいちいち間合いが長くて、1試合に3時間以上もかけるなんてのんきだなあ、なんて思っていたけれど、球場で実際に選手の動きを見てみると、それだけ時間をかけるだけのことはあるのだ、というのが何となく解った。
確かにサッカーとかバスケットボールに比べれば随分動きの少ないスポーツだとは思う。だけど、例えば状況に応じて微妙に変わる守備の形は何パターンもあり、その微妙な差がヒットと凡打を分けているのを見た。二塁手が二塁寄りに守っていたせいで一塁側の打球を捕れなかったこともあれば、逆に強烈なピッチャー返しが正面のセカンドゴロにもなる。つまりそれが確率と合理性を突き詰めた戦略と、それに対抗する技術の凌ぎ合いなのだろう。
野球のルールは複雑で、とても素人の私が覚えきれるものではない。そんな細々と定められた枠組みの中で、最善、最良の一手を突き詰めていくという感覚はなるほど日本人的だ。この国で野球が永く愛されているのは、そういうことなのかもしれない。
「ニュースとかだと派手なホームランとかしか流れないから解らなかったけど、緻密で知的なゲームなのね。蓮子の言ってたことが解った気がするわ」
「いやまあ、派手で豪快なホームラン攻勢も野球の醍醐味だけどね」
目をしばたたかせて、蓮子はそれから小さく苦笑する。
「そういうのは東京の球団に任せておけばいいのさ。チャンスを逃さず、投手力で守り勝つのが阪神野球だ。メリーさん、阪神ファンの素質あるね」
夏莉さんは愉しげに笑いながら言う。
「いえ、単に素人の勝手な考えなので……実際にやったことも無いですし」
「それを言ったらみんなそうですよ」
素人が偉そうなことを言ってしまったかと実を縮こまらせた私に、星さんが笑いかける。
「野球に限らず、よく知らないものに対して、想像力を働かせることが出来るというのはいいことです。知らないから、で思考停止してしまってはそれ以上知りようもないですからね」
そう言った星さんは、無くしものをしておろおろしているときの様子とは違って、大人びて見える。そういえばこのふたりは何歳ぐらいなのだろう、とふと思った。
ほどなく料理が運ばれてきて、食べている間も阪神ファン3人の野球談義は続いた。今までの阪神の戦いぶりと、今年のライバルである阪急や名鉄のチーム事情。怪我をしている選手の現況や二軍の話題。そして今後の展望まで、話題が尽きる様子もない。
蓮子の知識の幅は広いが、それが広く浅くではなくある程度の深さを伴っているのは、この相棒に対して素直に感心する数少ない部分のひとつだ。人脈が広いから為し得ることなのか、それともこの知識で広い人脈を得ているのかは解らないが、少なくともミステリばかり読んで偏った知識に浸りきっている私には真似のできることではない。
博識、変人、神出鬼没。そして何より、変わったことが大好き。
つくづく、相棒はいかにも名探偵的な人物だなあと思うのだ。
六
それ以降というもの、蓮子はしばしば野球に私を誘うようになった。
といっても、チケット代や電車代も馬鹿にならないから、しょっちゅう球場に行くわけではない。主に私や蓮子の部屋で、一緒に中継を観戦するのだ。
蓮子はきっちりレプリカユニを着込んで、球場スタイルで応援していた。律儀なものだが、私までそれに付き合わせようとしないでほしいと思う。部屋の中で阪神のユニフォームを着てメガホンを叩いている様は、傍から見れば相当に間抜けだと思うのだが。
そしてときどき、球場に足を運ぶ。甲子園のチケットはなかなか獲れないらしく、出掛ける先は主に、近場ということもあって、阪急バファローズの本拠地の西京極ドームだった。阪急の本拠地だというのに、ビジターのはずの阪神ファンの方が多かったりするのはどうなのだろう、と球場を染めるファンの色を見ながら思う。
そして、あの2人組――星さんと夏莉さんに出会うこともあった。
ふたりは奈良からわざわざ来ているらしい。相変わらず星さんはどこかおろおろとしていて、そんな彼女に夏莉さんは親しげに苦笑していた。
「あれで、普段は真面目で優秀なんだけどね」
内野自由席で一緒になったときのこと。「ちゃんとひとりで買ってこれますから」と言い張って、フランクフルトとポップコーンを買いに行った星さんを見送って、それから夏莉さんは肩を竦めて笑う。
「自分が何をどこに持っていってどこに置いたのか、ということについての記憶力だけが極端に悪いんだよねえ」
手間のかかる先輩だよ、と言う夏莉さんの顔は、だけど少し嬉しそうだった。彼女も、星さんに頼られているということが嬉しいのかもしれない。
「しかし、遅いな」
通路の方を振り返って、夏莉さんは目を細めた。それを見計らったように、夏莉さんの携帯電話が鳴る。
「はいはい――ああもう、解ったよ。そこで動かないで待ってて」
通話を切って、そして夏莉さんは盛大にため息をついて立ち上がる。
「案の定だ。チケットが見当たらないって泣きそうな声で」
思わず私たちも苦笑した。行ってくるよ、と夏莉さんは階段を駆け上がっていく。
それを見送っていると、不意に打球音。グラウンドに視線を戻すと、白球がこちらへ向かって舞い上がっていた。
飛んでくるファールボールに、グラブを構える観客たちが手を伸ばす。私たちの頭上を超えた白球は、上の方の座席に弾んでこちらに飛んできた。
ガコン、とボールはちょうど夏莉さんの座っていた席の足元に飛び込んで止まる。
私の隣の席だ。あと30センチずれていたら私にぶつかっていたことになる。
「っとっと、メリー、大丈夫?」
「え、ええ」
思わず詰めた息を吐き出して、それから私はボールを拾った。硬球は思った以上に固い。こんなボールが飛んできてぶつかったら怪我をしてもおかしくないだろう。野球観戦って意外と危険なのね、と今さらのように思った。
というか、星さんが夏莉さんを呼んでいなければ、夏莉さんの後頭部をこのボールが直撃する可能性もあったのか?
――まさか、星さんがそれを知って呼び出したわけでもないだろうけど。
「大丈夫ですか?」
球場の係員が駆け寄ってくる。私たちが頷くと、係員は「ボールはどうぞ、記念に持ち帰ってくださって結構ですよ」と笑った。
「いいのかしら」
「そういうものよ。せっかくだし貰っていきましょ」
「じゃあ、蓮子にあげるわ。ほら、阪神の選手の打球だし」
意外と邪魔そう、という本音は隠して、蓮子にボールを手渡す。
蓮子はそんな私の真意を知ってか知らずか、「あら、ありがとメリー」と笑った。
「全く、どうやったら通路から店までのあの僅かの距離の間にチケットを落とせるのさ」
「……うう」
そこへ、やれやれと肩を竦める夏莉さんと、その隣でますます小さくなる星さんが戻ってきた。どうやら無事チケットは見つかったらしい。
「ただいま」
「危なかったですね」
席についた夏莉さんに、蓮子が声をかける。「うん?」と夏莉さんは首を傾げた。
「今ここにファールボールが飛んできたんですよ。ちょうどそこの席に」
ボールを取り出して言った蓮子に、夏莉さんは目をしばたたかせた。
「つまり、先輩のうっかりが無ければ私にぶつかっていたかもしれない、って?」
「う、うっかり言わないでくださいっ」
「いやいや、君のうっかりも何かの役に立つことがあるんだねえ」
「……ひどいです、夏莉」
フランクフルトを頬張ってむくれる星さんに、夏莉さんは愉しげに苦笑した。
七
大学の永い夏休みが終わりに近付く頃になると、ペナントレースもいよいよ煮詰まっていた。
夏場に名鉄が失速して脱落し、セントラル・リーグの優勝争いは阪神と阪急の一騎打ちになった。そうなると西京極ドームの阪神阪急戦も連日満員、なかなか直接見に行くことも難しくなる。チケットが獲れないのよ、と嘆く蓮子と一緒に部屋で中継を観戦するのもいつものことになっていた。
星さん夏莉さんとは蓮子は連絡を取り合っているらしい。こうしてまた蓮子の妙な人脈は広がっていくのだなぁ、と思いながら、私はそんな蓮子に付き合っているのだった。
結局、もつれにもつれたセ・リーグの優勝争いが決着したのは、シーズンも残り2試合となった10月半ばのことだった。
「私、ひとつだけ安心していることがあるのよ」
「なに? メリー」
「蓮子が新潟まで私を連れ回そうとしなかったことよ」
優勝マジックを1とした阪神はその日、新潟に乗り込んで新潟スワローズと戦っていた。試合はエースの佐伯が先発し、烏丸の本塁打での虎の子の1点を守る展開になっている。
「チケットが獲れてたら行ったんだけどね」
「新潟まで?」
「当たり前じゃない。優勝の決まる一戦なんだから!」
まだ解らないじゃない、とは言わないことにする。残り2試合で両チームは1ゲーム差、引き分け数の関係でゲーム差無しなら阪神が勝率で上回るため、この試合で勝てば優勝は決まりなのであるが――。
7回を終わって、試合は1-0のまま膠着している。相手の新潟は既に最下位が決まっているらしいのだが、今期初先発だという新人投手に阪神打線は苦戦を続けていた。
今年15勝を挙げ防御率2点台前半と獅子奮迅の活躍をしている佐伯も、これまでの疲労からか、今日は明らかに本調子ではなかった。既に何度もピンチを招いては、相手の拙攻にも助けられて凌いでいる。――なんて、こんな知ったようなことを言えるようになったのも、すっかり蓮子に毒されてしまった結果なのだが、ともかく。
8回の表、阪神はこの回先頭打者が出塁するが、後続が倒れて無得点に終わった。そしてその裏、マウンドにはエース佐伯の姿は無かった。
『ああ、結城です! 守護神結城が、8回からマウンドに上がります!』
ベンチを出てきた背番号22に、実況が声をあげる。蓮子の言うところの『藤川二世』、80年ほど前の阪神で不動の抑えとして君臨していたらしい投手の背番号を受け継いだ、その投手がマウンドに立つ。球場の阪神ファンの大歓声が響き、隣の蓮子も叫んだ。
「結城ー! ……って、河野も出てきてるじゃない!」
守護神の登板がクローズアップされる傍らで、蓮子のお気に入りの河野という選手が三塁の守備に入ったことがおまけのように取り上げられた。まあ、守備要員の扱いなんてそんなものなのだろうが、蓮子はそれだけでもう幸せという表情で画面を見つめている。
ともかく、新潟の攻撃は9番からだった。代打を三振にとり、打順が1番に戻る。烏丸と盗塁王を争っている新潟の1番打者は、セーフティバントを仕掛けてきた。
三塁線へ弱く転がる打球。投手は捕れない。打者は俊足を飛ばして一塁へ走る。
――しかしその打球へ、猛然とダッシュする三塁手がいた。
「河野!」
蓮子が悲鳴のように叫んだ。河野がボールを素手で掴んだ。そのまま、一塁へランニングスロー。弾丸のような送球が、一塁手のミットに収まる。打者が一塁を駆け抜けるのが、それとほぼ同時。
塁審が一拍の間を置いて、その右拳を振った。――アウト。
「河野おおおっ! 最高ーっ!」
隣の私に抱きついて、蓮子は喝采を挙げた。振りほどくわけにもいかず、私はされるがままに耳元ではしゃぐ蓮子の声を聴いている。
私自身、今のアウトには拳を握っていたのだが、蓮子の尋常でないはしゃぎようには苦笑するしかなかった。全く、ファンという生き物は大変である。
結城は2番打者も内野ゴロに打ち取り、試合は9回に進んだ。新潟の投手はここまで1失点のルーキーのまま変わらない。阪神の攻撃はあっさり二死になるが、1番の中森が内野安打で出塁し、2番の谷本がライト前へ。中森が俊足を飛ばして三塁に滑り込み、二死一、三塁。
打席に入るのは、3番烏丸。3年連続首位打者を確実にしている、阪神タイガース最強のアベレージヒッター。
気付けば、蓮子はいつの間にか静かになっていた。祈るような顔で画面を見つめている。
ツーストライクワンボールから、4球目。弾き返した打球は三遊間の深くへ転がった。
新潟の遊撃手が回り込んで捕球する。烏丸が一塁へ走る。二塁は間に合わない、遊撃手は一塁へ送球。烏丸が一塁を駆け抜ける。塁審は――両手を広げた。蓮子が天井を仰いで、ばったりその場に仰向けに倒れた。
三塁ランナーはホームに帰っている。タイムリー内野安打、2-0だ。
「れ、蓮子、大丈夫?」
「……ごめん、もう最高。私、阪神ファンで良かった」
「まだ試合終わってないわよ」
感極まった様子で呟く蓮子に、私は苦笑混じりに肩を竦めた。
まあ、現実として。
蓮子を絶望の淵に叩き落とす9回裏の大逆転劇――なんてことは起こらず、阪神の守護神結城はきっちり3人で試合を終わらせた。最後の打者が空振り三振に倒れた瞬間、球場には紙吹雪が舞い、マウンドの結城に阪神の選手たちが駆け寄っていく。
で、蓮子はというと。
「ああ――決まったわね」
それまでの狂乱はどこへやら、静かに画面を見つめていたわけで。
「おめでとう、蓮子」
「……いや、まだよ、まだ。これから日本シリーズがあるんだから。そこで勝って、100年ぶりの日本一、それまではまだゴールじゃないのよ」
そう冷静に呟きつつも、その顔はやっぱり緩むのを抑えきれないでいる。
私はその横顔に苦笑しつつ、監督の胴上げされる画面を見ながら立ち上がった。
冷蔵庫からビールを取り出し、蓮子に差し出す。
「ここまで付き合ったんだし、祝杯も付き合うわよ」
「あら、メリーってば気が利くじゃない」
受け取った缶ビールを開けて、そして私たちはささやかな祝杯をあげた。
画面の中では阪神の選手たちの歓喜の輪が、ずっと流れ続けている。
八
さて、日本シリーズである。
プロ野球は、関東以北のチームが集まるパ・リーグ、首都圏を中心としたセ・リーグ、それから兵庫以西のチームが集まるウ・リーグの3リーグ制だ。その3リーグの優勝チームと、最も勝率の高かった2位チームがワイルドカードとして日本シリーズに進出する。今年のパを制したのは西武ライオンズ、ウは広島カープだった。そしてワイルドカードは、阪神と最後まで優勝を争ったセの阪急バファローズである。
全5戦3勝先取の準決勝、相手は西武。阪神は3勝1敗で西武を下し、決勝へ進んだ。
そして、広島対阪急は、3勝2敗で阪急が勝ったのである。
「まさか最後まで阪急とやり合うことになるとはね……」
「大丈夫なの? ペナントでは負け越したんでしょう?」
「大丈夫よ。今年こそ勝てるわ、絶対に」
蓮子はそう断言するが、何となく私は嫌な予感を覚えていた。
思いがけない連絡が蓮子の元に飛び込んできたのは、明日から決勝が始まるという金曜日だった。ちなみに決勝は全7戦、4勝先取で日本一である。
「ちょっとちょっと、大変よメリー!」
「何、蓮子。阪急が決勝を辞退でもしたの?」
「違うわよ。さっき、あのふたりから連絡があったのよ」
「ふたりって――」
「星さんと夏莉さん」
久々に聞いた名前だった。ここのところ球場に行けていなくて、そういえばあのふたりともしばらく会っていなかったことを思い出す。
「あのふたりがどうかしたの?」
「それがね――チケットが余ったっていうのよ。しかも、2枚」
「チケットって」
「日本シリーズ決勝の第7戦だって!」
意気込んで身を乗り出した蓮子に、私は目をしばたたかせた。
「それで、2枚要りませんかって」
「ちょ、ちょっと待って蓮子。――残り2枚で、第7戦?」
「そうよ。確保してた知人がどうしてもその日都合が合わなくなったっていうんで、私たちに譲ってくれるっていうのよ! ああメリー、持つべきものは友だわ! そう思わない!?」
今にも踊り出しそうなテンションの蓮子だが、私は小さく肩を竦める。
「……ねえ蓮子、そのチケットって無駄になる可能性がすごく高くない?」
冷静に考えてみよう。日本シリーズ決勝は4勝先取で、どちらからが先に4勝してしまえばそれ以降の試合は行われない。例えばどちらかが4連勝してしまえば4試合で終わってしまうのだ。
その第7戦となれば、引き分けを考えないとすると、パターンは一通り。
すなわち、3勝3敗の場合のみしか開催されない試合ということになる。
「そんなのは些細な問題だわ、メリー。ねえ、私たちが歴史の生き証人になれるかもしれないのよ! これ以上のことって無いじゃない!」
まあ確かに、最終戦になるのだからどちらが勝っても日本一の決まる一戦であるが。
――阪神が4連勝したら、蓮子はどんな顔するのかしら。
なんとなく、そんな意地の悪いことを考えてしまった。
ところがどっこい、野球の神様は何の因果か蓮子に対して慈悲深かった。
本拠地の甲子園で連勝した阪神だが、阪急の本拠地の西京極ドームで3連敗。王手をかけられて甲子園に戻る羽目になる。そして第6戦を壮絶な打ち合いの末に制し、本当に3勝3敗で甲子園での第7戦を迎えることになったのである。
「82年前にも、こんなことがあったのよ」
「こんなことって?」
「全部ホームのチームが勝つ、いわゆる内弁慶シリーズよ」
さすがにその日訪れた甲子園球場は、一種異様な雰囲気に満ちていた。いつもは阪神ファン一色の甲子園も、今日ばかりは阪急ファンの姿を多く見かける。
「そのときも阪神だったの?」
「ええ、相手はダイエー……今の福岡ホークスだったんだけど」
「80年前ってことは、負けたのよね」
「あの年は甲子園が3試合だったからね。だけど今年は、こっちが4試合」
「つまり今年は阪神が日本一、ってことね」
人でごった返す球場の通路を、手を繋いで歩く。私たちの座席は内野席だ。
チケットを譲ってくれた星さんと夏莉さんも、今この甲子園に来ている。入場前、会ってお礼を言った。ふたりは今日は外野席に陣取っているらしい。
『毘沙門天にお参りもしてきました。必勝祈願です』
星さんはそう言って笑っていた。そういえば毘沙門天の使いは確か虎である。
「……なんだか緊張してきたわ」
「メリーが緊張してどうするの」
「蓮子だって、震えてない?」
繋いだ手をきつく握り直して、私たちは通路を抜けてスタンドに出る。
秋の夜空の下、皎々と照らされたグラウンドに、まだ選手の影は無い。
そこを見下ろす無数の野球ファンたちは、どこか殺気だったような気配すら滲ませて、座席を隙間なく埋め尽くしていた。
――阪急が勝ったりしたら、暴動でも起きるんじゃないかしら。
ろくでもないことを思わず考えてしまうが、私は首を振って思考を払った。
ここまで来たのだ。やはり、阪神に勝って欲しいと思う。
何より、阪神が日本一を決めて、喜ぶ蓮子の顔が見たかった。
九
試合は雌雄を決する最終戦に相応しい、緊迫した展開になった。
両チームの先発が、ともに3回まで1安打に抑える立ち上がり。派手な打ち合いになった前日とは打って変わっての投手戦の気配を漂わせる。
その試合が、思わぬ形で動いたのは4回表だった。
阪急の先頭打者が出塁し、バントで進塁して一死二塁。迎えた4番打者は、阪神先発の吉富が投じた5球目を高々と打ち上げてレフトフライに倒れた――はずだった。
グラブに打球が収まり、ツーアウト。球場の誰もがそう思っていたが、何か様子がおかしい。球審が両手を挙げていて、スコアボードのアウトカウントは増えていない。そして二塁走者が、何故か三塁に向かって歩いている。
どよめくスタンドに向けて、球審がマイクを取り声を上げる。
『只今のプレーについてご説明します。吉富投手のセットポジションが静止していなかったため、ボークと判定し、ランナーが進塁してワンアウト三塁、ツーストライクツーボールからの再開といたします』
阪神ファンから悲鳴が上がり、阪急ファンから歓声が上がった。
「ちょっ、何よそれ! ボークって――」
「……どういうこと?」
「要するに、投球前の決められた動作に違反があったってこと。ボークを取られるとランナーは自動的に進塁になるのよ。おかげで今のフライアウトも無かったことになったわけ」
相変わらず、野球のルールはややこしいと思う。今まで蓮子に付き合って何試合も見てきたけれど、見たことのないルールがこの期に及んで飛び出してくるのだから大変だ。
阪神の監督が抗議に出てくるが、判定は覆らなかった。一死三塁から試合が再開され、そして阪急の4番は改めて投じられた5球目を再び高々と打ち上げた。
同じようなレフトフライ。だが、ランナーが二塁と三塁では意味が全く違う。
ランナーがタッチアップ。バックホームが返ってくるが、送球は逸れた。ランナーがホームに滑り込む。再び阪神ファンの悲鳴と阪急ファンの歓声が交錯し、スコアボードに1の数字が刻まれた。阪急、先制点。
夜空を仰いで、呆然と蓮子は「19時5分21秒」と呟いた。
月と星は静かに、地上の人間の狂態を冴え冴えと見下ろしている。
たかが1点、されど1点。
思わぬ形で阪急に転がり込んだ先制点が、その試合にはあまりに重く響いた。
6回裏には、一死一、三塁のチャンスを阪神が作る。だが、4番藤崎のセカンドゴロで本塁に突っ込んだ中森が憤死し、阪神は同点の絶好のチャンスを逃してしまう。100年ぶりの悲願がここで潰えるのか――悲壮感が阪神ファンの間に満ち始めていた。
8回表、吉富が降板してセットアッパーの上田がマウンドに上がり、阪急打線を抑えた。試合は1-0のまま8回裏に入る。阪神の攻撃は、あと2回。
球場は次第に奇妙に静まりかえっていった。ひりつくような緊張感の中、一死からセンター前ヒットで出塁した中森が果敢に盗塁を決め、阪神ファンがどっと沸き上がる。
谷本はひたすらファールで粘って、11球目を選んでフォアボール。一死一、二塁。
――そしてなるほど、スター選手というものは相応しい場面が巡ってくるものらしい。
「烏丸ぁーっ!」
隣で蓮子が声を枯らして叫んだ。その声も阪神ファンの歓声にかき消される。
地鳴りのような声援の中、悠然と打席に入った背番号7。
こんな場面、誰だって逃げ出したくなるような状況だろうに、烏丸はどこまでも冷静に2球見送って――3球目を、狙い澄ましたように振り抜いた。
白球は、今度は阪神ファンの歓声と、阪急ファンの悲鳴を切り裂いて飛んでいく。
センターとレフトが追いかける、その間へ飛んだ打球は、センターが全力で跳んで伸ばしたグラブの先を掠めて――芝生の上に落ちた。
一瞬、音が消えたかのように錯覚するほどの歓声が響いた。
二塁の中森が悠々とホームに帰り、一塁の谷本が捕手のタッチをかいくぐって滑り込む。スコアボードに刻まれる2の数字。2-1。8回裏の土壇場で、阪神が逆転した。
隣を見れば、蓮子が感極まって泣いていた。
「まだ終わってないわよ、蓮子」
「解ってる、解ってるわよ――」
ハンカチを差し出すと、ご丁寧に蓮子はそれで盛大に鼻をかんでくれた。
そして9回表。マウンドに立つのはもちろん絶対的守護神、結城だった。
蓮子お気に入りの河野も、三塁の守備に入っている。100年ぶりの悲願へ、完全に必勝態勢に入った阪神。対する阪急も、3番からという好打順で最終回を迎える。
1球ごとにスタンドがどよめき、ボルテージは高まっていく。その雰囲気に飲まれるかのように、3番打者は三振に倒れた。あとふたり。
4番は、その雰囲気を振り払おうとするかのように初球を思い切り振った。が、打球は芯を外し、ボテボテの三塁ゴロになる。名手河野が打球をグラブに収め、握って一塁へ送球しようと振りかぶった。あとひとり。――誰もがそう思った。
信じられないことが起こったのは、その次の瞬間だった。
名手河野の手から、白球がこぼれた。背後に転がったボールを、慌てて拾うが既に遅い。投げるまでもなく、打者は一塁に駆け込んでいた。阪神ファンが息を詰まらせ、河野は三塁の手前で呆然と立ちすくんだ。電光掲示板に、エラーを示すEのランプが灯る。
「河野――」
100年ぶりの悲願、その重圧が名手に取り憑いたのか。
おそらくこの球場の誰よりも、その守備要員を応援していた蓮子もまた、呆然とその場に立ちすくんでいて。
――嫌な予感がした。
そして、こういう予感というのは、往々にして的中するのだ。
阪急の5番打者が打席に入った。
結城が、初球をセットポジションから――投げた。
快音が、夜空に高く響き渡った。
阪神の野手は、もうその場から一歩も動けなかった。
天高く舞い上がった白球は、いったい何の因果だというのか――阪神ファンが埋め尽くしたライトスタンドへぐんぐんと伸びて。
静まりかえったそのスタンドに跳ねて、高々と弾んだ。
三塁側の阪急ファンの歓声が爆発した。
一塁側の阪神ファンは、誰もがその場に立ちすくんで動けなかった。
マウンドの結城が、野手たちが、揃って打球の消えたライトスタンドを見上げて。
そして――蓮子は。
信じたくない、という顔で、頭を抱えて顔を伏せていた。
私はその横顔に、どんな言葉もかけられなかった。
9回裏、奇跡は起こらなかった。
試合結果、3-2。
4勝3敗で、阪急バファローズがワイルドカードから22年ぶりの日本一を決めた。
阪神タイガース100年目の悲願はその夜、儚い幻と消えた。
十
まあ、阪神が日本一を逃したからといって、それで世界が滅ぶわけでもない。
甲子園からの帰り道は声もかけられないほどしょげ返っていた蓮子も、数日後にはすっかり立ち直っていた。何しろペナントレースは来年もあるわけで、来年に向けた戦力補強の話なんかを、別に自分が口を出せるはずもないのに熱心に語っていた。
つくづく、野球好きというのは業の深い生き物だなあと思うのである。
そんな中、ひとつのニュースが私の眼に留まったのは、蓮子が立ち直ってすぐの頃だった。
『阪急、日本一決定のホームランボールを「指名手配」』
そんな見出しが伝えるのは、阪急バファローズがあの日本シリーズ決勝第七戦でスタンドに消えた決勝点のホームランボールを探している、というニュースだった。
スタンドに居た誰かが持ち帰ってしまったらしく、ホームランボールは見つかっていないらしい。記念のボールだということで、持ち帰った人は球団に連絡を、という内容だった。
「ねえ、蓮子」
「うん?」
場所は大学のカフェテラス。私はモバイルの画面を、蓮子の方に向ける。
蓮子はニュースを覗きこんで、訝しげに目を細めた。
「これ、全然別のボールを『これです』って言って持ってくる人がいたら、どうやって判別するのかしら?」
そう、例えば内野スタンドで拾ったファールボールをそう言い張ることだって出来るはずである。私が首を傾げてみせると、蓮子はひとつ唸った。
「あの試合の外野チケットの半券とかが証拠になるんじゃないの。――それより」
私の問いにはひどく投げやりにそう答えて、それから蓮子は眉を寄せる。
「……これ、どういうことかしらね?」
「え?」
蓮子の言葉の意味が解らず、私は目をしばたたかせた。
「ボールが見つからない、っていうことよ。――どうしてそんなことが起こるの?」
「どうしてって――」
記事に書いてある通り、誰かが持ち帰ったのだろう。そう、拾ったファンが。
「よく考えてよメリー。あの試合の展開と、ホームランの飛び込んだ場所を」
言われて、あっ、と私は声をあげる。
あの試合、決勝点となったホームランが飛び込んだのはライトスタンドだ。阪神ファンで埋め尽くされていた、そのど真ん中にホームランボールは弾んだのである。
そのホームランボールは、ただのホームランボールではない。
阪神タイガース100年の悲願を打ち砕いた、阪神ファンにとっては悪夢に等しい打球なのだ。
「……あそこに阪急ファンが居たのかしら」
「あり得ないわ。あのときライトスタンドにいたのは100パーセント阪神ファンのはずよ」
それはそうだろう。あの大一番で、阪神ファン一色のライトスタンドに意味もなく潜り込む酔狂な阪急ファンが居るなんてことは考えにくい。ただでさえ入手し辛い日本シリーズ決勝のチケットなのだから、尚更である。
「阪神ファンの誰が、あのボールを持って帰るのよ。グラウンドに投げ返しこそすれ、あの悪夢のホームランボールを持ち帰る理由なんて無いじゃない」
首を振って、蓮子はため息をついた。あまり思い出したくはないのだろう。
「じゃあ――ボールはどこへ消えたのかしら」
「きっと、野球の神様が隠したのよ」
モバイルを閉じて、蓮子は帽子を目深に被り直して呟いた。
「せめてもの阪神ファンへの慈悲として。――ああもう、思い出させないでよ」
不機嫌そうにアイスコーヒーを口にしながら、蓮子は苛々とテーブルを指で叩いた。
触らぬ神に祟りなし。私はモバイルを引っ込めて小さく肩を竦める。
それからふと、同じ阪神ファンの知り合いのことを思い出した。
――あのとき外野席、ライトスタンドにいたはずの、星さんと夏莉さん。
彼女たちは、あのホームランを、どんな気持ちで見上げていたのだろう。
十一
日本シリーズの終了をもって、プロ野球はオフシーズンに突入する。
退団や移籍、新入団選手の獲得、契約更改などの話題が中心になり、試合は来年の春まで行われなくなる。長い冬休みに突入するわけだ。
だというのに。
「メリー、今度の日曜、一緒に甲子園に行かない?」
11月も半ばを過ぎた頃、蓮子はまたそんなことを言い出した。
「……もう野球は終わったんじゃないの?」
訝しんで私は問い返す。あるいはプロ野球以外の何かだろうか。
「シーズンは終わったけど、イベントはあるわけよ」
「イベント?」
「要するに、ファン感謝デーね」
チケットを取り出して、蓮子は笑った。当たり前のように2枚ある。
「ちゃんとしたファンじゃない私が行くイベントじゃない気がするわ」
「固いこと言わない。それに、ちゃんとしたもしてないも無いわよ。メリー、今まで私と一緒に阪神を応援してくれたでしょ?」
「蓮子の隣で名鉄ドラゴンズを応援するわけにもいかないじゃない」
「いつの間にか名鉄に鞍替え? メリーと敵同士は寂しいわね」
「遠い夜空にこだまする竜の叫びが聞こえましたわ」
「六甲おろしの方が近くに聞こえてくるじゃない、ここなら」
全く、いつも通りの益体もないやり取り。私は肩を竦めてため息をつく。
「蓮子ってば、私以外に阪神ファンの友達いないの? あんなに大勢知り合いがいるのに」
「もう、何度も言わせないでよメリー」
ずい、と私に顔を寄せて、蓮子はまた猫のように笑ってみせる。
「メリーと一緒に、私は行きたいの」
――たぶん自分は、蓮子にそう言って欲しかったのだと思う。
そんな内心は、もちろん絶対に表に出したりはしないけれど。
「ファン感謝デーって、何をやるのかしら」
「いろいろよ。選手のパフォーマンスとか、ファン参加型イベントとか、サイン会とか」
「河野のサインでも貰いに行くの?」
「そりゃもちろん。もう色紙は持ってるけどね」
あの日本シリーズでの痛恨のエラーがあっても、やはり蓮子の中では河野という選手は特別なままなのだろう。ファンというものはそういうものかもしれない。
「ほら、メリーがくれたファールボールがあったじゃない」
「……ああ、そういえば前にそんなこともあったわね」
自分たちの座席の近くに飛び込んできたファールボール。拾ったそれを、私は蓮子にあげた。
「せっかくだから、あれにサインしてもらおうかなー、とか」
「いいんじゃない? レギュラーになればプレミアがつくかも」
「――いつかそうなることを信じて何年過ぎたかなぁ」
守備要員としての河野が好き、なんて言いつつも、やっぱり本音はスタメンで活躍してほしいのだろう。全く、何年も蓮子に一途に応援されるなんて――少し、妬けてしまうではないか。
もちろんそんな思考も、断じて表に出したりしないけれど。
「コーヒーでも淹れるわね」
大学が終わって、一緒に晩ご飯を食べたあと喋りながら歩いていたら、何となくそのまま蓮子のマンションまでついてきてしまった。まあ、私が蓮子の部屋を訪れるのは、大抵の場合は蓮子の呼び出しか、もしくは成り行きなので、いつものことと言えばいつものことである。
几帳面に整頓された部屋に足を踏み入れると、自分の部屋もまた少し片付けないとなあ、とふと思う。このところ蓮子が部屋に来ていないこともあって少し散らかしていた。他人の目というものがないと、住環境はてきめん、自堕落になっていく。
「メリー、モカとキリマンジャロのどっちがいい?」
「任せるわ」
キッチンから声をかけてくる蓮子に応えて、私はクッションに腰を下ろす。
それから私は、テーブルの上に置かれたそれに目を留めた。
野球のボールである。はて、なんでこんなものが――と首を傾げて、それから蓮子の言葉を思いだした。いつぞや、球場で拾ったファールボールか。
ボールを手に取ってみる。やはり硬い。時速150キロで飛んでくるこの小さなボールを、あんな細いバットで打ち返すなんて、いったいどこの誰が考えついたのだろう。というか、こんな硬いボールがすごい速さで飛んできたら、普通に考えて怖い。内野席に飛んでくるファールボールだって危なっかしいのに、打席でそれを打ち返す選手は大変である。
「……あら?」
掌の上でボールを転がしていた私は、不意にボールの手触りに違和感を覚えて手を止めた。指で探ると、違和感の元はすぐに知れた。
ボールの表面に、小さなキズがついているのである。
あの蓮子が、記念に持ち帰ったボールに自分でキズをつけてしまうというのは考えにくい。あれで蓮子はものを大事にする方だ。それなら、バットで打ったときとか、あるいはスタンドに飛び込んで床にぶつかったときにできたキズかもしれない。
――ボールのキズ?
ふと何かが頭に引っかかる。いつか、蓮子からそんな話を聞いたような記憶がある。そう、投げるボールの表面にキズを――。
「蓮子」
「うん? コーヒーはまだよー」
「テーブルの上のこれ、あのときのファールボール?」
「そうよ。あー、今朝取り出してそのままにしちゃってたわね」
キッチンの方から顔を出した蓮子が、私の手にした白球に小さく苦笑した。
その視線を受け止めながら、私は曖昧模糊とした想像に目を伏せる。
何かが引っかかっていた。何が引っかかっているのかは自分でも解らない。
ファールボール。観客へのプレゼント。蓮子の語った言葉。――野球の細かいルール。
思考は上手くまとまらず、私は首を振ってモバイルを開いた。
ニュースと映像を探すと、それはすぐに見つかった。阪神タイガース対阪急バファローズ、日本シリーズ最終戦の9回表。甲子園の右翼席に消えた、阪急にとっては奇跡の、阪神にとっては悪夢の逆転ホームラン。
誰もが呆然と立ちすくんだ観客席の様が大きく写り、そこにボールが弾んで高く跳ねる。
カメラはその瞬間打者走者に切り替わったため、観客席の映像はそこだけだ。
――しかし。
「あ……」
その映像は蓮子が見たがらなかったので、はっきりと見たのは私も初めてだったが。
もう一度観ている最中に、それに気付いた。
ホームランが飛び込んだ右中間スタンド中段。――その数段下に。
どこかで見た記憶のある小柄な影と、隣に佇む長い三つ編みが確かにあった。
画面に映るのは一瞬だ。しかし、画質の高い映像を確認すれば明らかだった。
――ちょうどホームランの着弾点の少し下に、星さんと夏莉さんがいたのだ。
いや、あの日のふたりは試合前、外野席に座ると言っていたから、そういう偶然は起こりうるだろう、と思い直す。確率は低いだろうが、あり得ないことではない。
「メリー、どうかした?」
湯気をたてるカップを片手に、蓮子がこちらへ戻ってくる。私はモバイルのページを切り替えた。あの日、阪神の日本一の夢が砕け散ったときの話は、蓮子にはなるべく振らないに限る。
「ちょっと調べ物」
代わりに、検索ワードを打ちこんでみる。すぐにまとめられているページが見つかった。その文面を目で追うと、ほどなく私の知りたかったことが見つかる。
その文面を見、それからあの日の試合の経過を思い出して――こんがらがっていた想像の糸が、ようやくほどけた。
――満員の阪神ファンの中に落ちた、阪神の優勝をかき消したホームランボール。
それはいったい、あの場から何故、どのようにして消えたのか――。
証拠も何も無い想像だ。だが、あのライトスタンドからボールを持ち去ったのが阪神ファンだとすれば、その理由は。
「ねえ、蓮子」
「うん?」
はい、と差し出されたカップを受け取って、口をつける。コーヒーの苦みは、意識の輪郭を明瞭にして、不定形の思考も形を整える。
「――日曜のファン感謝デー、あのふたりも来るのかしら?」
「あのふたりって、星さんと夏莉さん? 来るわよ。チケット獲れたって言ってたし」
「なら、折角だから球場で落ち合いましょうよ。日本シリーズのお礼も改めて言いたいし」
「ん、そうね。じゃあ向こうにそう伝えておくわ」
頷いた蓮子に気付かれないように、私はこっそりとため息のように吐息する。
甲子園からホームランボールが消えた理由が、仮に私の想像通りだとしたら。
そんな不可解な現象を起こした直接の原因は、きっと。
――野球というスポーツの、複雑なルールに他ならないのだ。
十二
久しぶりにふたりで出掛けた甲子園は、相変わらずの盛況だった。
阪神のファン感謝デーということもあって、球場周辺は阪神ファン一色である。
――ちなみに蓮子が、わざわざファン感謝デーのために甲子園まで出向いてきたのは、もうひとつ理由があった。
同じ日に、阪急バファローズが優勝パレードを京都市内でやる予定だったのである。
バリバリの阪神ファンとしては、阪急のパレードを虚心坦懐に見てはいられないのだろう。
ともかく。
「あ、いたいた」
視線を彷徨わせていた蓮子が、ふたりの影を見つけて手を振った。星さんと夏莉さんだ。ふたりもこちらに気付いたか手を振り返す。私たちは小走りで駆け寄った。
「お久しぶりですね」
「ええ、お久しぶりです。お元気そうで何よりです」
「ショックで寝込んだ阪神ファンも多かったっていうからねえ、あの後」
いつも通り礼儀正しく頭を下げる星さんと、肩を竦める夏莉さん。
私も会釈を返して、それから星さんと夏莉さんの姿に目を細めた。
「そういえば、ニュースでやってましたけど」
さりげなく、私はそう切り出してみる。ふたりの反応を伺うために。
「あのときのホームランボール、行方不明になってるそうですね」
「ああ、私も見ました。誰が持っていってしまったんでしょうね?」
星さんはそう言って首を傾げた。そして、夏莉さんは。
「そうだ、夏莉」
「うん?」
「夏莉がダウジングで探してみたらどうですか?」
「――何を言ってるんだか」
夏莉さんは呆れたように肩を竦め、「冗談です」と星さんは屈託なく笑う。
「ん、夏莉さんってダウザーなんですか?」
「ええ、探し物にかけては天下一品なんです」
「――発揮する対象の大半は、君の無くしものだけどね」
「そ、それは言わないでくださいっ」
むくれる星さんと、やれやれと苦笑する夏莉さんの姿に、私はもう一度目を細めた。
そんなやり取りを交わしてから、混雑するゲートへ向かって歩き出す。その途中で、私はさりげなく夏莉さんの隣に立って、小声で呼びかけた。
「あの、夏莉さん」
「ん?」
「もし違ってたらすみません。――あのときのホームランボールを持ち帰ったのって、ひょっとして……夏莉さんですか?」
夏莉さんは軽く目を見開いて、それからふっと笑みを消して目を細めた。
「――なんでそんなことを?」
否定の言葉より先に、夏莉さんはそう問い返した。
それはたぶん、無言の肯定なんだろうと思う。
「あの打球が飛び込んだ瞬間の映像の、下の方におふたりが映っていたので――」
「……確かに、あのホームランボールは私たちのすぐ上の方に落ちたけど。根拠がそれだけ、ってわけでも無さそうだね」
試すような視線に、私はたじろぐ。夏莉さんはどこか愉快そうに微笑した。
「どうしてそんなことを考えたのか、聞かせてくれないかな」
私は一度唾を飲んで、それからゆっくり口を開いた。
「――問題は、どうしてあの場所からボールが消えたか、だと思うんです」
「普通に、ファンが記念に持ち帰ったというのじゃ駄目なのかい?」
「駄目です。――あの打球は、阪神ファンの悲願を打ち砕いた打球。そしてあの場所にいたのは、全員阪神ファンだったんですから、記念になんてなりっこない」
「なるほど、ごもっともだ」
夏莉さんは鼻を鳴らして頷いた。私は続ける。
「じゃあ、何故ボールは消えたのか。球場のスタッフが探して見つからないということは、誰かがこっそり持ち帰ったとしか思えない。けれどあのとき、右翼席にいた阪神ファンには、あのボールを持ち帰る理由が無い」
「パラドックスだね」
「消えるはずのないボールが消えた。だとすれば、前提のどちらかが間違いなんです。つまり、ボールは誰かが《持ち帰った》んじゃないんです。いえ、結果的にはそうなったのかもしれませんが、少なくともボールを拾ったその人は《持ち帰る》ために拾ったんじゃない」
「球場で飛んできたボールを拾う理由が、他に何があるんだい?」
「――《隠す》ためです」
夏莉さんが、その目を見開いた。
「阪神ファンの夢を砕いたボールを拾ってしまったその誰かは、隣にいる阪神を愛してやまない誰かに、その悪夢のボールを見せてしまわないように、隠したんです。自分の鞄の中に」
「……おかしいな。そのボールを拾った誰かも阪神ファンだろう? それならそんなことをせず、外野へ投げ返すなり、そのへんに投げ捨ててしまうなりすればいいじゃないか。そんなボール、見たくもないのは一緒だろう」
「それが出来ない理由があったんだと、思います」
「――どんな?」
「たぶん……拾ったボールに、キズがついていたから」
今度こそ、明らかに夏莉さんの表情が変わった。
「あの試合の前半、阪急が先制したときに、ボークがありましたよね。アウトになったはずの打球が、ボークになって取り消され、結果的にそれが先制点に繋がった」
「……ああ、あった」
「阪神の百年ぶりの悲願を打ち砕いたホームラン。――あのとき球場の阪神ファンは、きっとみんなこう思っていたと思います。無かったことにしてしまいたい、と」
「…………だろう、ね」
「ボールにキズがついていた。それはきっとスタンドに弾んだときのキズなのでしょうけど、もし投手のつけたものなら反則です。ホームランになった打球が、反則投球によるものだったら、ホームランは取り消しになるのではないか。――拾った人が、そんな風に考えたとしたら」
「――待った。確か、反則投球でもボークでも、ホームランは取り消されないはずだよ。それに、拾った人が阪神ファンなら、取り消しを望むんじゃないのかい」
「ええ、取り消されないことは拾った人もたぶん知っていたんでしょう。――だけど、細かいルールです。周りも知っているとは限らない。それに、もしそれが投手のつけたキズなら、反則をしたのは阪神の守護神ということになります」
「…………」
「その人は外野までボールを投げ返す自信が無かった。かといってそのへんに棄てて、他の誰かが拾ってそのキズに気付いたら――ひょっとしたら、余計な騒ぎになるかもしれない。守護神結城に反則投球の汚名を着せることになっても、あのホームランを取り消したいと願うファンがいるかもしれない。そんなことは出来ないのに。――そう、その人は心配したんです。そう、うっかりした人の相手をいつもしているから、ついつい心配し過ぎてしまうその人は」
列に並びながら、夏莉さんは天を仰いだ。秋の空は高く澄んで、晴れ渡っている。
球場に集う阪神ファンの雑踏。楽しそうな笑い声。その中で。
「――参ったね。こんなところに名探偵が居たか」
ぽりぽりと頭を掻いて、夏莉さんは小さく苦笑した。
「正解だよ。確かにあのボールを持ち帰ったのは私だ。――ついでに言えば、匿名で阪急の球団事務所に昨日送ったよ。証拠代わりのチケットの半券と一緒にね」
「星さんに、自分が拾ったとばれないために――ですか」
「まあ、そういうことだね。星はあのとき呆然としてて、私がそのボールを拾ったことにも気付いてなかったからね」
そう言って、夏莉さんは振り返る。星さんと蓮子は、他の阪神ファンの人と何か一緒に六甲おろしを歌い出していた。素面のはずなのに酔っぱらいのようである。
「でも、どうして拾ったのが星じゃなく私だと思ったんだい?」
「――星さんより、夏莉さんの方が観戦中に冷静に見えたから、です。というか……あの、もし違っていたらすみません」
「うん?」
「夏莉さんって――本命の球団は阪神じゃないですよね?」
その瞬間、夏莉さんは噴き出すように笑い出した。
目をしばたたかせた私に、夏莉さんは首を何度か振って、そして大仰に肩を竦める。
「いや、失礼。これは傑作だ。大した名探偵殿だよ。――なんで解ったんだい?」
「……初めて会った、甲子園の試合。名鉄相手に、阪神が勝ったじゃないですか」
「ああ、そうだった」
「あのとき、背番号7のレプリカユニフォームを着ている夏莉さんが、烏丸のヒーローインタビューを聞かずにゴミを棄てに行ったのが、思い返してみれば変だなと思ったんです。ゴミなんてそんなに急ぐこともないのに。試合中も、蓮子や星さんがヒットや得点のたびに小躍りしているのに、夏莉さんは冷静でしたし」
「元からあんまり、はしゃぐ質でもないんだけどね。――まあ、うん。私は元々名鉄ファンなんだ。こっちに来てから、お間抜けな先輩に影響されて阪神も応援するようになったけどね」
もう一度星さんを振り返って、夏莉さんは目を細めた。
「星さんは、知らないんですか? そのことは」
「言ってないから知らないんじゃないかな。まあ、今年の名鉄は途中で脱落したし、日本シリーズのときは本心から阪神を応援してたよ。それは本当だ」
手にしていた阪神のメガホンで肩を叩きながら言って、甲子園のツタに覆われた外観を振り仰いだ。私もその存在感のある佇まいを見上げる。
「夢破れても、プロ野球はそれで終わりじゃない。高校野球と違ってね」
阪神タイガースが生まれて150年。高校野球の聖地でもあるその球場では、無数の落胆と歓喜が生まれ、そのたびに歓声は響き続けてきたのだろう。そしてそれは、また来年も、その後も続いていく。
「ほら、その証拠に、今みんな楽しそうにしてるだろう?」
雑踏を見やれば、これから来るお祭りに胸をときめかせる阪神ファンたちの姿。
「過ぎたことを無かったことにするより、次を信じて、来年の歓喜を夢見て声援を送るのが、プロ野球の正しい楽しみ方だと、私は思うんだ」
そこで、一緒に六甲おろしを歌っていた別のファンに手を振って、蓮子と星さんがこちらに駆け寄ってきた。
「どしたの、メリー。何か夏莉さんと話し込んでたけど」
「いやなに、別に大した話じゃないよ」
夏莉さんは肩を竦めて、「ところで、今日はちゃんとチケットはあるかい?」と星さんに訊ねた。「ちゃんとありますっ」とチケットを取り出し、星さんはむくれる。
が、そのとき、通りがかった誰かの肩が星さんにぶつかった。
「あっ」
その表紙に、星さんの指がチケットから離れて。
――折良く吹き抜けた浜風に、小さなチケットが舞い上がる。
「ああああっ――」
星さんが悲鳴をあげ、夏莉さんはがくっと首を落とした。
「全く――君といると退屈しないよ、本当に!」
言って、夏莉さんは飛んだチケットを追いかけて走りだす。星さんはいつものようにおろおろとそんな夏莉さんの背中を見送っていて。
私はそんなふたりの様子に、蓮子と顔を見合わせて笑い合う。
「あ、そうだメリー」
と、蓮子がポケットから何かを取り出して、私に差し出した。
――新品のボールだった。
「せっかくだから、メリーも誰かからこれにサイン貰っていけばいいわ」
蓮子は自分のボールを手のひらで転がしながら、そう言って笑う。
私はそのボールを見下ろして、ひとつ息をついた。
「じゃあ、そうね――はい、蓮子」
そして、白球を蓮子へ差し出す。蓮子はきょとんと目を見開いた。
「え? なに?」
「蓮子の名前を、書いて欲しいわ」
「――いや、そうじゃなくて」
首を振る蓮子に「冗談よ」と笑って背を向け、馬鹿みたいに突き抜ける秋空を見上げた。
――私が好きなのは、阪神の応援をしているときの楽しそうな蓮子だから。
そんな本心は、もちろん口に出したりはしないのだ。今は、まだ。
ここで「え~!」と言った私は感情移入しすぎ。
そのくらいのめり込んでしまいました。面白かったです。
蓮子の性格もとても好感が持てました。
かわいいなあ
百年経って、ヤクルトや中日が幻想入り?して、阪急が復活するほど時間が流れても
リードしてる終盤に風呂入ってくる文化は廃れてなかったのか・・・
>阪急の5番打者が打席に入った。
>結城が、初球を振りかぶって――投げた。
一死一塁で、セットポジションじゃなくワインドアップ
結城、動揺しすぎ?
このシリーズ大好きです
それはさておき読んでて甲子園がしっかり浮かんできました
とても楽しかったです
臨場感がびしびしと伝わってきました。
それにしてもナズはかわいなぁ。
面白かったです。
>証拠代わりののチケットの半券と一緒にね。
の、が重複しています。
ナズは健気だなぁ…
あとがきの荒ぶる齧歯類のポーズに吹いた私は中日ファン。
でも、カーネルサンダースの呪いは百年たっても続いているのか……
それはともかく、楽しませていただきました。野球観戦、いいよね!
……心無い人は、大事な場面でエラーした選手をボロクソ言うんだよなぁ。それまでの貢献を知ってれば、それも含めて結果を受け入れてこそのファンですよね。
それにしても、うっかりタイガー星さんのかわいさときたら……おおっと、よく似てるだけのオリキャラでしたよね、危ない危ない。
しかしナズよ、風呂はやめれwwww
あらゆる場面の雰囲気がひしひしと伝わってきてすっかり虜になってしまいました。
頑張れ、今年の阪神超頑張れ。
自分もこんな作品を書きたいものです。
最近はご無沙汰ですけど以前は熱心に球場行って応援してた自分にとってはなんとも揺さぶられます…。
でもきっとこっちでは100年以内には日本一になれるよ!はず!
毎度ながら情景・心理描写が上手くて羨ましい。ぱるぱるぱるぱる
ところで、設定・名前的に三番の烏丸はまさか文互換…?
…いや、ないか。
まさかこの長さの文章で、しかも野球の話しかしてないのにここまでのめり込んで読ませてもらえるとは思いませんでした。最高ですw
細かい突っ込み何箇所かありますがとりあえず一箇所だけ
>スコアボードにアウトの赤ランプがひとつ灯った。1イニング3アウトで9回まで、これを27回も繰り返すわけだ。応援する方も大変である。
表裏あるので54、甲子園で阪神が勝つとしても51個必要じゃないかな
身売りされませんように
今日サヨナラ負けパリーグ新記録を打ち立てた西武ファンでした。
どちらも自分の大好物です本当にありがとうございました。
実を言うと野球はあまり好きではなかったのですが、
作中で楽しそうに応援する2人を見ているとそんな事も忘れて楽しめました。
今度、テレビで観戦してみようかなあ……。
ところでウリーグのウは何の略なんでしょうね?
わがイーグルスには初のリーグ制覇日本一目指してがんばってほしいです。
両方のネタが上手く融合したとても面白い話でした。
西武ファンとしてはライオンズが存続していて嬉しかったです。
いや、面白かったです。手に汗握る試合に、とても魅力的な半オリキャラの二人。
消えたホームランボールの謎解きも見事です。『星さんの置き忘れたポーチにホールインワン』とか考えてたんですが、正直予想の斜め上の結末でした。
……斜め上なのは私の思考回路の方ですね。ハイ。(汗)
ああ、あと、作中選手の中では中森が一番好きでした。
烏丸がいくら撃っても、彼がいなけりゃ得点能力は半減ですからねぇ……ホント、野球って面白いです。
「ホームラン攻勢の東京の球団」が巨人かな?
でもカープとかは恋人が元々ファンで自分も~みたいなノリもあるってどっかで
聞いたことがあるから、今回のメリーはまさにそれかw
好きな人の意外な一面が見れるっていいよね
オリキャラが本当に魅力的。実際に野球を観戦している気分になりました。
夏莉さんが元キャラよりも随分と大人びたお姉さんタイプな容姿が思い浮かびました。
毎回ゲストキャラが元はあれどオリキャラとは思えないほどの魅力ですね。
そしてメリーの蓮子好き好きっぷりが最高w
横浜はー?
ウ・リーグは「ウェスタン・リーグ」の略でしょうか、四国や沖縄も参戦してそうなリーグですね。
まさかのヤクルトが新潟に身売りで笑った。そんな私はBCリーグの新潟アルビレックスのファンです。
創設以来、悲願の日本一が合併やら何やらを超えて、巡り巡って2085年に達成されたと考えると非常に感慨深いものが・・・。
ともかく、手に汗握る試合展開と登場キャラクターの良さで、大変楽しませてもらいました。
もうカーネルの呪いは解けたんだから。
...解けたんだよね?
面白かったです!
しかし夏莉さんが名鉄ファンだとしってからは成る程と(ry
地味な抵抗に萌えますたw