ある日。
「ご主人、カールを買ってきてくれないか、チーズ味の」
「え? なんで私が……」
「ああ、ついでにケーキも買ってきてくれ。そうだな、苺がいっぱいのってるやつを頼む。このわたしが食べさせてあげようじゃないか、あーんって」
「行ってきまーす」
またある日。
「ご主人、最近わたしの部屋が散らかって困ってるんだが」
「もう、普段から整理整頓しておかないからですよ! 私は知りません!」
「とあるツテで良い肉が手に入ったんだけど、ほら神戸牛」
「仕方ありませんね、私が片付けておきます」
ある朝。
「ご主人って、トラっていうよりハムスターだね」
「え、そうですか? そんなことはないと思いますけど……あ、いえ、なんでもないです。ごめんなさい、にらまないで。そうですよね、ハムスターですよね私、これでもかってぐらい、げっ歯目ですよね。ヒマワリの種とかスゲェ好きです、はい」
ある昼下がり。
「ご主人」
「はい?」
「……(コキ、コキ)」
「あ、肩がこったのですね(モミ、モミ)」
とまぁ、どうも近頃、自分の部下に馬鹿にされている気がする。いや、馬鹿にされている、というか、
手懐けられている。
といった方が近いような。
いつの間にやら、ベテラン執事さながらに、目線一つで何をお望みなのか分かるようになってしまった私こと、寅丸星です。こんにちは。
今日も今日とて、部下のご機嫌を伺いながら過ごす毎日です。
(あの目は)
ちょっと流し目でこっちを見るというのは、空腹の合図であり、その合図が出る前に食事を用意しておかないと、ご褒美の飴玉(今日は確かレモン味)がもらえなくなる。むろん私に抜かりはなく、すでに朝食の準備は整っている。
「あの……、おいしいですか?」
部下が食べ終えるまで、お側で控えて、常に粗相がないか神経を張り巡らせる。食べこぼしがあれば、自分の割烹着でサッとぬぐってあげる。それがご主人さまたる者の務めである。務めである……たぶん。
「うーん、このお味噌汁、ダシ変えた? ちょっとイマイチだね」
「ごめんなさい、次は気をつけます……だから飴ちゃんください」
「仕方ないなあ、はい、あーん」
「はむ」
最近、気がついたら謝っている気がするな。心象風景は、いつも土下座と枯れ野原。こんな世界に誰がしたのだろう。
「あれ、この目玉焼き。妙に甘くないかい」
「え、あ。ほんとだ。お砂糖とお塩を間違えたみたいです……」
「ご主人ってほんと、どこか抜けてるね」
「すみません、すみません」
と、いつものように「すみません」を七回ほど繰り返したところで、はっとした。なぜ、わたしは謝っているのだろう、と。
こちとらご主人様なんだぞ? エライんだぞ? エライ人がなぜ、調味料一つ間違えたぐらいで文句を言われねばならぬのだ。
風化しかけていた感情が怒りの色をともなって蘇る。
客観的に考えてみたら、色々と許せぬことばかりだった。
炊事洗濯お掃除に聖の子守唄まで、来る日も来る日も馬車馬のごとくこなす私のどこがご主人様なのだ。これでもかってぐらいお母さん、あるいは召使いじゃないか。
(これじゃ、ダメ)
ヒエラルキーの乱れすなわち社会の混乱であり、それを放置していては権威の失墜を招くことになるのだ(もう十分失墜してるだろとか思った方、甘噛みしますよ)。
ここはガツンと一発、互いの立場というものを分からせてやらねばなるまい。こう見えてお寺に仕える身。説教説法はお手の物である。
「ナズーリン、大事な話があります。そこへ座りなさい」
「なんだい? わたしは忙しいんだ。用件は手短に頼むよ。立ち話で十分だろう、どうせ大した用じゃないんだろうから」
「そ、そんな言い方ってないでしょう?」
「ふぅん、なにか文句があるんだ?」
「ありません」
アルェー。鏡を見なくても分かるぐらい爽やかな笑顔で即答してしまった……。文句あるのに。山ほどあるのに。
「いえ、あのですね。私はご主人さまで、あなたは部下、ですよね?」
「ああ、そうだが」
「ですよね、安心しました」
「ところでご主人。洗濯物が溜まっているから宜しく頼むよ。雲山のふんどしと一緒に洗ったら怒るからね」
「はぁい、かしこまりましたぁ――ってオイ! 違う、違うでしょう!?」
「オイ?」
眉をひそめられた。どうしよう。
「え、あの、いやそそそのですね。オイオイオイ、オイスターソースの主材料って牡蠣の油なのですよ、ごご存知でした?」
「だからなんだい?」
「いえ、その……ですから……。……。ぐす」
「あはは、冗談だよ。ご主人はかわいいなあ」
「え?」
「怒ってなんかいないさ」
「――っ! じゃあどうして!」
「傷心の女性って、美酒に添えるゴルゴンゾーラのようなものだからね」
と、ナズーリンは私の唇をひとさし指で優しく押し開き……カールを放り込んだ。
むしゃむしゃ。チーズの芳醇な香りと軽い食感に心がぐらつく。でも私は知っている。これは、『飴と鞭』の飴の方なんだって……。
「さて、君の主張を聞こうか」
何もありません、ご主人さま、と言いかけた口を全力で閉じた。何を言うつもりなんだ、ご主人さまは私じゃないか。
ダメだダメだ逃げちゃダメだ戦わないと。自分が変わらないで世界が変わることなんてあるものか。私は今日、ここから変わるんだ。
口のなかのものをごくりと飲み込み、咆哮する。
おんどりゃァ! ナメとったらアカンど!
胸倉を、つかむ。これは、まるでスローモーション。ナズーリンの瞬き一つまで、私には見て取れる。劇的な瞬間とは、えてしてこういうものだ。
今日という今日は言ってやるんだ。
ジブン、ワシを誰やと思っとるんじゃい! ワシは虎や、ナニワの虎や! 阪神や、阪神タイガースや! いやタイガースちゃうわ。せやけど星や、赤星や! いや赤星ちゃうわ。せやけど赤星もワシの前じゃあ鈍行列車や! ワシの剛速球にかかったら金本でもドン詰まりのキャッチャーフライや!
どや! ビビったやろ!?
ヒエエごめんなさい、ごめんなさい。何もかもわたしが悪かったんです、と泣いて謝るナズーリン。許して欲しい? ダメダメ絶対許してあげない。どっちが上で、どっちが下なのか、その華奢な身体にたっぷり刻み込んであげる。女の子を足げにするなんて外道な私……。毘沙門天さま、罪な私をお許しください。ああでも、ゾクゾクしちゃう。この快感はクセになりそう。
――なんて妄想を繰り広げながら、ひたすら洗濯物を洗った。秋の水は冷たくて、心に染みる。
色々と考えた。おかしなことは山ほどあった。
まず、ご主人様であるところの私が常日頃から敬語を使っているというのに、向こうは、まったくもってけしからん程に偉そうな喋りをすること。そこに違和感がある。あり過ぎる。
こういう小さなことからコツコツと正していく必要があるな、と思った。
ある意味、互いに口を開いた時点で私のほうが下になってしまっているのだ。まずは同じ地平に立たなければ、主従関係の是正など思いも及ばない。
そのためには――
(タメ口)
私に、できるのだろうか。まるでビジョンが見えない。
それに、ン百年も敬語で接してきた相手に対して、急にタメ口で話すっていうのは、正直なところ尻込みしてしまう。
(嫌な顔、されたりしたら)
おそらく私はまた涙目。下手したら声を出して泣く自信がある。
いやいや、「小ネズミ相手にビビってるの?」とか、そういうことではなくってですね……そう! ナズーリンもきっと、いきなり私の態度が豹変したら戸惑ってしまうと思うのです。だから、いきなりタメ口っていうのはよろしくない。
気づいたらタメ口になってましたっていう、例えば先輩と後輩が「あれ、私たちっていつからタメ口だっけ?」「えー、覚えてないなー」っていう。そういうナチュラルな変化が理想なのです。人間関係の円滑なステップアップって素敵じゃないですか。
なにより、私のこの迷いは、いわば思いやりの表れなのであって、海より深い仏心そのものなのです。誰に恥じることもありません。世界中の誰もが、私のような気づかいができるようになれば、この世はきっとシャングリラ。御仏の教えを世に広めるためにも、まずは私がお手本を示さねばならないのです。
「よしッ!」
長々と自己弁護を終えたところで、実行に移る。真綿に水を染み込ませるように、じわじわと、さりげなく、――タメ口を。
重ね重ねすまないが、決してビビってるわけじゃないよ。
「やあナズーリン、こんにちは。ご機嫌いかがです?」
「売れ残りの白菜みたいに萎びたご主人の顔よりは爽快だね」
人の心を折るには三秒で足りるらしい。ことが始まる前から先制パンチてコノヤロウ、泣くぞ。あらん限りの力を振り絞って泣くぞ。あげくの果てには土下座しちまうぞ。
「ハ、ハハ。今夜はその白菜でお鍋にしましょうか」
「――」
必死で考えたお茶目な返しを披露してみたら、ガンつけられた。なんという狂相、怖い、怖すぎる。
逃げたい、スリッパを捨てて裸足で逃げ出したい。聖に泣きつこうかと思ったけれど、歯を食いしばって我慢した。作戦はまだ始まってもいないのだ。がんばれ私。
「きょ、今日は良い天気ですね」
「そうかい? ところどころ雨雲が見えるようだけれど」
「いや、あはは。お昼からはきっと晴れますよ」
「まぁ、わたしはどっちでもいいが」
「晴れたら二人でピクニックにでも、行き、たい、ねー」
「え?」
「行きたいですね」
バカバカ、ナズのバカ! なんで聞き返すの! 私もなんで訂正してんの!
いや、私は決して臆したわけではない。だって、露骨に嫌な顔された気がしたんだもん。あんな顔されたら誰だって敬語になる。
嫌われてるのだろうか。
ひょっとして。
もしかしたら……。
……いやいやいや、それにしても、今のはちょっと唐突すぎた。もっとさりげなく、部屋に帰ったら上着を脱ぐのと同じぐらいに、そっと織り交ぜてみよう。タイミングって大事だ。
「ナズーリンの好きな食べ物って何でしたっけ?」
「なんだい? 唐突に」
「あ、いえ。今日のお夕飯のレシピで悩んでまして。参考までに聞かせてもらえたらな、と」
「……ハンバーグだけど。チーズ入りの」
「チーズハンバーグ! あれはおいしいよね! 肉汁の旨みとチーズの濃厚さが引き立てあって奏でるハーモニーはまさに、肉牛と乳牛、夢のアンサンブルやー! なんちゃって、アハハハ」
「――ごめん、最初の方、もう一回」
「え?」
なんでしょう。ここはオフィスで、彼女は上司で、私は世間知らずの新入社員。そんな風に、どこまでも具体的な光景を幻視した。おかしいよね、私が上司であるべきなのに。
「え、何かおかしなところでもありました?」
「いや、最初の方、よく聞き取れなかったから。もう一回言ってもらえるかな」
「ち、ちーずはんばーぐ」
「そのあと」
「あれは、おいしい……ょ、ね」
「?」
やめてくれないかな、笑顔で首をかしげるの、やめてくれないかな。お耳をぴくぴくさせるのも、遠慮して欲しいな。私の心臓って多分、ガラスよりも脆い素材で出来てるからさ、軽くつつかれただけで砕けちゃうんです。
「なんだって? おいしい、何?」
「……おい、し……。……」
「もっとハッキリ言ってくれないかなあ。まったく、ご主人のそういうところにはいッつもイライラさせられるよ」
「おいしい――ですよねー」
――ですよねー ですよねー ですよねー
脳裏に響く自分の声のリフレインを聞きながら、私は駆けた。
もう無理。耐えられない、これ以上は心が壊れてしまう。絶対あの子、分かってやってるんだ。いじめっ子だから、楽しんでるんだ。ひどいんだ。
ひとしきり膝を抱えて泣いたあとは、困ったときの神頼みならぬ、仏頼み。
私は、師匠である毘沙門天さまをお呼びして、教えを請うことにした。
――小憎たらしい部下を従順に、いや、せめて対等な関係になるにはどうすれば良いのですか。
仏さまに聞くことか、とは自分でも思うけど。
だって。聖とか村紗とか、友達に相談したら馬鹿にされそうなんだもん。管理能力ないやつだとか思われたら嫌。
お寺の本尊。
私の呼び声に答えて、神々しい(という表現は微妙だけれども)薄雲が現れ、すぐに晴れた。毘沙門天さまのお出ましだ。
ズンッチャ、ズンズンッチャ。
ミディアムテンポのエイトビートが登場ミュージック――相変わらずですね。死ねばいいのに。
赤のニットキャップ。サングラス。オレンジでダボダボのパーカー。肩に担いだラジカセはもう、ずいぶんガタがきているように見える。「イエァ~」と手に持ったマイクに向かって叫んだあと、お師匠さまはこう言った。
「やあ星ちゃん久しぶり、今日もカワイイね。ぱんつ見せて」
人選間違ったな、って一瞬で気づかされる。久々の師弟の再会でいきなりセクハラする仏さまってどうなの。あと、人の顔じゃなくて胸見て話すなんて、仏以前に人間失格だと思います。
「見せませんし、そもそもはいてません。実はですね、かくかくしかじか」
と、事情を説明した。説明している間、お師匠さまは「詳しく、詳しく」と妙に熱心だった。ちゃらんぽらんに見えて、これで弟子のことを心配してくれているらしい。
「ははぁ、なるほど。いや、アレはひどいツンだからねえ。しかもドSだからね。おれも何とかデレさせようとしてさ、天部の財政が傾くぐらい貢いでみたんだけどね、デレるどころか顔あわせたらダウジングロッドで向こう脛ぶっ叩いてくるとかもうね、マジ快感。ホントこの世は七難八苦でマジぱねえわ」
「仏さまが当たり前みたいにぱねえとか言わないで下さい」
「ツッコむとこそこだけ? ノリ悪くなったね星ちゃん、おれ悲しい」
「お師匠さまにツッコむことなんて出会ったときから諦めてます――だからどこ見て喋ってるんですか」
「マジで星ちゃんの身体って罪作りだよね。ぱねえぐらいギルティ、オアノットギルティ、アーハン?」
「うるさいです、くたばって下さい」
「ってかさ、星ちゃんってトラの妖怪じゃん? トラってネコ科じゃんよ?」
「は?」
このチャラ仏はいきなり何を言い出すのか。
「ネコっていったらトムとジェリーのトムの方じゃん? ネコって基本的にネズミよりツエーもんっしょ」
「あの、意味が」
「だからさー、ネコってネズミの捕食者じゃん? 生物学的に考えたら星ちゃんの方がアレより上にいるわけよ、わかる?」
「はぁ、それは、そうでしょうが」
「つまりよ、星ちゃんが野生の本能を解き放っちまえばよ、アレなんて一発でブルっちまうんじゃねえの、っておれは言いたいわけ。ゲットワイルド、Bボーイ、アゲアゲのバリバリで、みたいな、イエァ~」
慣れた感じがするメロイックサイン。こんなにもウザいお方だったろうか、天部にチクっておいた方が良い気がする。っと今はこんなヤツのことはどうでもいい。
野生の本能か……。
長年、人間の社会で生きてきた私に、そんなものが残っているのだろうか。野ウサギを見ても、「カワイイなあ、抱っこしたいなあ」以上の感情は生まれない私に野生の本能なんて……。
「まぁモノは試しっていうじゃん? ちょっとやってみなよ」
「ええ、そんなこと急に言われましても、何をどうすればいいのか……」
「なんつーの、獲物を見つけた時によ、思いっきり吠えてビビらせる感じ? あーいうのってスゲエ野生! って感じがするっしょ。ワイルドハートinサバンナっしょ。爪なんか立ててみたらベターじゃね、オシャレじゃね。ホラ、やってみなよ。おれを小鹿のバンビか何かだと思ってさ」
なるほど……。俗世に汚れきっているとはいえさすがはお師匠さま。一理あるのかもしれない。
ひとまず仰る通りにやってみることにした。
――両手の指をくいっと曲げて口を開き犬歯を見せ、荒ぶるトラのポーズ!
「がおー」
大地を揺るがす私の咆哮を受けて、あんぐりと口を開けるお師匠さま。これは、どういう反応なのだろう。そうだ、きっと怯えてしまって言葉もないんだ。
フフ、腐っても私はトラだった、ということか。自分がこんなにも凶暴になれるなんて知らなかった。
牧草を食んでいた小鹿が慌てて逃げて行く光景が、眼前にありありと浮かんできたほどだ。見たか、これが弱肉強食というものの体現である。
あ、でも、ごめんなさいね小鹿さん、驚かせてしまって。取って食おうとか、そういうつもりではなく――ってアレ? 小鹿さんが戻ってきたよ。口に何かくわえて……これは、タンポポ? 私に、くれるんだ、そうなんだ。ありがとう……。あなた、優しい目をしているのですね……。
――おっといけない。最近、妄想癖がひどい。
「イイよ、すごくイイ。色んな意味でアリだと思う」
しかし太鼓判をもらった。
がおーがおーと繰り返し練習して、身体に覚えさせる。お師匠さまが「いいぞもっとやれ」と手を打ってくれる。これはイケるな、と私は確信した。
と、何やら懐から取り出すお師匠さま。
「ちょっとゴメンね。はいモシモーシ、え、持国天? ヤベー超久しぶりじゃん、元気してた? え、なに? 大人気ロリカワアイドルれみぃちゃんがひまわり公園でゲリラライブ? 行く行く、行くに決まってんじゃーん! そういうわけだから星ちゃん、またねー」
つむじ風のようにお師匠さまは去っていった。……あなたは一度入滅して、リセットをかけた方が良いと思います。主に脳とかの。
とはいえ、彼は強烈な武器を残してくれた。怠惰に怠惰を重ねて餓鬼道に堕ちたド畜生とはいえ、そこはやはりお師匠さまだった。認めたくないけど。
これで、にっくき小ネズミに、いよいよぎゃふんと言わせられるのだ。心が弾む。
信じて良かった、毘沙門天。
私は、ベンガルトラもかくや、という勢いでお寺中を走り回った。ややあって、標的のしっぽを廊下で発見。
軽くフレンドリーに声をかけて、油断させる。
「ねえ、なずりん♪ こっち向いて?」
「なんだい?」
すぅと息を吸う。
「がおー」
「……」
っれぇ……。おかしいな、反応がひどく薄い。どころか、陸に打ち捨てられた雑魚を見るような冷たさが、彼女の両眼に宿っているような……。いやいや気のせいだ、気のせいに決まっている。ちょっと思い切りが足りなかっただけだ。いけないな、負けトラ根性が染みついてしまっているらしい。
今度はお口をほんの少しだけ大胆に、イチゴを丸かじり出来るぐらいに開いて、吠える!
「が、がおー!」
「……ハハッ」
あれれぇ? ナズったら笑ってるよ。しかも冷笑だよぉ。無邪気にアリの巣に水を注ぐ少年の笑みだよぉ。いっそ狂気すら感じるよぉ。なんで、どうして?
そうか、姿勢が悪いんだ。トラっていったら前傾姿勢、前へ前へ行かんとするアグレッシブな四つんばいが基本姿勢じゃないか。妖怪暮らしが長いせいか、すっかり忘れてしまっていた。
スムースに体勢をシフト。しかるのち――威嚇開始。
「がおーっ! 食べちゃいますよー!」
「あはは、ご主人は笑えない冗談が得意なんだね、知らなかったよ。――かわいいなあ君は、ホントに」
「いやいや冗談じゃなくってですね、私は本気で、がお、がっ、あっいたっ! ちょっ、やめ、踏まないで! しかもひねりを加えつつ万力のような力をかけないでッ! 『ヘイヘ~イ、ヘイヘヘ~イ』ってなんでそんなにイキイキしてんの!? ごごごごめんなさいっ、謝るから! ペンデュラムでほっぺたぐりぐりすんのだけは勘弁して下さいッ! ちょっとふざけてみただけなんです! すいませんでしたッ!」
どうしてこうなるのでしょう? と鏡の前で確認してみた。
「がおー……」
ちくしょう、騙された。
何が野生だ、何がワイルドハートだ。
自分見て気が抜けるってどんだけですか。
これはトラじゃねえ、ひいき目に見てもただの不思議ちゃんだ。ひいき目に見なかったらただのバカだ。従って、ナズーリンの目には『バカにされてるんだな、コレは』と映ったのだろう。
そりゃ踏まれるよって話です。
……ごく自然な思考の流れで、部下に踏まれるって惨事を肯定してしまった自分が嫌。
「しかし」
野生の力にモノを言わせる、というのは。悪くないアイデアだったと思うのだ。ただ、やり方がまずかった、まず過ぎたというだけであって。
「にゃーん」
胸に抱いたネコが喉を鳴らす。ちょっくらその辺で捕まえてきた野良ネコだ。まだら模様がキュートな、三毛猫さん。
そう。
ネコが平気なネズミっているだろうか? いないだろう。いないよね。
――用いるべきは、混じりっけなしの。本物の野生だったのだ。
いよいよ追い詰められた私が考えた筋書きは、こうだ。
部屋に帰ってきたら見知らぬネコがいてびっくりしちゃうナズーリン。フシャーッと全身の毛を逆立てるネコさん。ひょっとしたら泣いてしまうかもしれない、女の子だもの。ネコ怖い怖いよ誰か助けてーッ! そこへ颯爽と私参上。そしてイタズラなネコさんに「めっ!」する。ハッハッハ、おケガはないかいお嬢さん。さっすがご主人カッコいい! 見直す。尊敬。ふたりは幸せ。
「完璧……」
自分で自分の妙案にウットリしてしまった。
「くれぐれも、しっかり、お願いしますね、名演を期待します」
「にゃーん」
意図が伝わっているのか定かではないけれど、ネコ缶を与えて懐柔しておく。私もちょっと食べたくなってしまったのは秘密。
ネコをナズーリンの部屋に放ち、私は押入れに隠れた。
ふすまに耳を当てて様子を伺いつつ、あとは暗闇のなか、こそ泥のように待つだけ。
御仏の弟子たる者としての格がダダ下がりな気もするけど、師匠がアレだからまぁどうでもいいや。
待った。来た。
何やら鼻歌まじりで部屋に入ってきたらしいナズーリン。一人だとテンションが上がるタイプだったのか。
「ぼっくらのクッラブのリーダーは~♪」
待って下さい、その歌は危険すぎます。誰とは言わぬが誰かが消されます。
「――」
が、すぐに声はやむ。きっと、ネコと目が合ったのだ。ひゃあ! なんて可愛い悲鳴を期待したけれども、それはなかった。おそらく、ヘビに睨まれたカエルのように身動き一つ取れないでいるのだ。
そう時間はかかるまい。
3、2、1。
「なななななんでわたしの部屋にネコがいるんだっ!?」
それみろ、ほらきた。
ガタンドシンバタン。家具が倒れたり何がぶつかったりする音が楽団の演奏のようにふすま越しで飛び込んでくる。清々しいまでの取り乱しぶりに、恥ずかしながらニヘラと笑みがこぼれてしまった。
「にゃーん」
「や、やめろ! こっち来るなァ!」
普段の素振りからは考えられないほどの金切り声。ああ、彼女の痴態をこの目に収められないのが残念だ。お澄ましさんの化けの皮が剥がれる瞬間こそ、女の子のかわゆさがもっとも輝くときだというのに。
「にゃーん、にゃーん!」
「ヒッ、来るな! 来るなよぉ! わたしなんか食べたっておいしくないぞ! たたた食べる!? 食べるとこなんてこれっぽっちも無いんだから!」
ああ、ああ!
ちっちゃな三毛猫さん相手に何をそんなに怯えることがあるでしょう。だがそれが良い。例えば夜道で木の枝を踏んだとき、例えば一人の部屋で不意に何かが倒れたとき。そんなときに見せる臆病な仕草というものは有体にいってしまえば萌え! イエス、萌え!
「にゃーん?」
「や、やだ……。来ないで、来ないでよぉ、お願いだからあっち行ってよぉ……。わたしが何したっていうの……うぅ……」
――っあ! それがあなたの本性だったのですね! なんという乙女イズム!
三毛猫さんは想像以上に良い仕事をしてくれました。部下の意外な一面まで発掘してくれたのです。
……っといけない。本来の目的を忘れるところだった。そろそろお助けに入るタイミングではなかろうか。彼女はどうやら腰が砕けてしまっているようだけれども……、部屋から脱出して他の誰かに助けを求められてしまっては、お話にならないのだ。
「みゃあ、みゃあ」
「……っく、いや……。やだぁ……ひっく……」
「にゃーん!」
「いやァ! だれか、だれか助けてッ!」
ここだ、ここしかない。バンッ! 私はふすまを開け放って、かねてから練習していたキメ顔キメ角度キメポーズで、
「大丈夫ですかナズーリン! 助けに来ましたよ! 私が来たからにはもう安心です! さあ、私の部下をいじめる悪いやつはどこだァ!」
キメ台詞を放った。
泣きじゃくったナズーリンが私の胸に飛びこんでくる。優しく抱きしめ、頭を撫で、背中をぽんぽん叩いてあげる。怖がらなくても大丈夫ですよ、と某名文よろしく、囁いてあげる。
――という成り行きになると確信して飛び込んだのだけれど目の前の光景はいったい全体どうしたことだろう誰か教えてください。啓示が得られるというのなら、改宗するのもやぶさかではありません。
「ふぅ」
やれやれのポーズで息を吐くナズーリン。その片手には、首根っこを掴まれた三毛猫さんがいた……。
彼女の頬には取り乱した痕跡などまったく全然これっぽっちもなくって、あるのはただ、私の心臓を刺し貫くレイピアのような微笑だけ。
頭の中で明滅を繰り返すLEDが、これでもかこれでもかといわんばかりに警報を発する。
事態がよく飲み込めないのだけれど、これは。脱兎のごとく逃げた方が良いのだろうか――良いよね、間違いない。よし逃げよう。逃げて、そうだ、京都に行こう。京都に行ってどこぞの寺の尼さんになろう。清水寺は今頃紅葉が綺麗なころでしょうか、いやでも着いた勢いで清水の舞台から飛び降りてしまいそうだから龍安寺あたりにしておきましょうか。方丈石庭の砂利を数える作業に従事して余生を送ることにしよう。
とにもかくにもさようなら幻想郷、さようなら命蓮寺、みんな達者でね。
「まったく、誰のイタズラかと思えば、ご主人だったとはね。まぁ概ね見当はついていたが」
カチャンと部屋の鍵がかかる音が、撃鉄が引かれる音に聞こえた。
「説明が必要かい?」
「あ、はい。できれば」
「まったく嫌になるね。ネズミはネコが苦手、だなんて。誰が決めたんだろう。ステレオタイプな人物造詣は創造性の墓場だっていうのに」
ぽいと投げ捨てられた三毛猫さんが、キャット空中三回転、軽やかに着地。そのまま窓の隙間から逃げていった。できれば私も連れていって欲しいな。
「帰ってきたら自分の部屋に見知らぬネコがいる。それって偶然? それとも必然? どちらの方が蓋然性が高いと考えるべきなのだろうね」
「……」
「どちらかといえば、必然さ、必然だろうね。お寺の周りで野良猫を見ることなんて少ないもの。となると誰が、何のために? わたしはネズミだ、か弱いネズミだ。ネズミの部屋にネコを放つ、ある種、嗜虐的な、だがまるで意味のない行為だ。その酔狂さが示す答えは? そう、イタズラに決まっている」
「……」
「イタズラはわたしも嫌いじゃない。だからイタズラの種をまいただけでは片手落ちだということも知っている。まいた種が花を咲かせる光景を見届けてこそのイタズラだ。――どこかに潜んで、鑑賞してやろう。それがイタズラネズミの心理というものだ。シンプルなものさ、逆手に取ってやることぐらいわけない。少し大げさに演出してやれば、すぐにしっぽを出すだろう、と考えたわたしは知っての通り、一芝居打った。はは、こうして実際にしっぽを出したわけだ。もっとも、潜んでいたのはネズミではなくてトラ、いやハムスターだったようだけどね」
とうとうと流れる言葉の前に成すすべがなかった。
「さあ、言い訳を聞かせてもらおうか。あるのなら、の話だが」
「あの、その……。わ、私はですね! イタズラとかそういうつもりじゃなくって、ただ!」
「いや、いい。やっぱりよそう。意味のないことだよ」
「え?」
「わたしはね、ご主人のことなら何だってわかってるんだ。何年来の付き合いだと思っているんだい?」
ふっとナズーリンの顔から険が抜けて、その瞳に優しさが宿ったように見えた。でも何だろう。この拭い去れない悪寒は。
「ご主人がなにやらよからぬ動きをしているのは知っていた。それを見てね、確かに、このままではいけないなって、わたしも常々考えていたんだ。主人と部下のあるべき姿って、こうじゃない。もっと他にあるはず。ずっとそのカタチを探っていたんだよ」
「え、それって……」
「ご主人だけに気苦労をさせて済まなかったね、今日からはわたしも協力するよ。理想の主従関係のために、ね?」
「ナ、ナズーリン! 分かってくれたのですね!」
「ああ、もちろんさ。そのためにも、今日は一日中――」
ナズーリンは私の肩に手をかけ、耳元に口を近づける。吐息が首筋をかすめ、なぜか胸が高鳴った。体中を血が駆け巡って、体温は上昇するのに、指先一つ動かせない。
そして彼女は、どこまでも透き通った声で、
――たっぷり躾けてあげよう。
と囁いた……
「さあ、教えた通りに言うんだ」
「いやっ、言えません! そんな恥ずかしいことッ!」
「ふぅん。耳掃除、して欲しくないんだ? 嫌なら良いんだよ、村紗あたりにしてあげるだけだから」
「そ、そんな、関係ない人を人質に取るなんて、ひどい! ひどすぎます!」
「言うも言わないもご主人の勝手だよ。ただ、言わなかったらご褒美はあげられない。それだけのことさ」
「いっ、言います! 言えばいいんでしょう!? ……わ、私はちっちゃくてかわいい小トラの星ちゃんです……こんなラブリーチャーミングな私めをどうか、どうか! なずりん☆ のお膝で甘えさせてください……ッ!」
「えらい、よく言えたね、特別に左耳もやってあげよう」
「ふにゃー」
人も妖怪も。
他者と関わらずに生きていくことなどできない。だから常に自分を、誰かと比較しようとする。なぜか。人を侮るのは、気持ちが良いことだから。自分が人より優れていると知るのは、気持ちが良いことだから。誰もがそういうカタチに設計されているから、悲しいことだけれども、人は人の上に在ろうとする。
でも、それは。
『慢』と呼ぶところの煩悩であって、付随するのは、驕りという名の心。主人らしくあれかし。そう願うほど、私の心は煩悩の檻に囚われる。そのことに私は気づかなかった。
「寅丸星、君はわたしの何だい?」
「ご主人さまです……」
「違うだろう?」
「ご主人たまです!」
「もっと、もっとだ!」
「ご、ご主人ちゃまです! 私は、なずりんの! ご主人ちゃまですッ!」
どっちが上で、どっちが下なのかだとか。主人はこうで、部下はこうあるべきなのだとか。――節義、礼儀、仁義。そんなことを考えること自体、御仏の心に背く、愚かな行為だったのだ。
甘く爛れたナズーリンの『躾け』を受けながら、私はとある考えに辿りついていた。
私たちは、ただ、あるがままに在ればよかったのだ。きっとそれこそが、理想の主従の姿。そうあれば私たちはきっと、真理に近いところに在るはず。
「真のご主人ちゃまとは?」
「一人で眠れません」
「わたしのご主人ちゃまには何が必要なんだい?」
「腕まくらです」
「だれの?」
「なずりんの……」
「右手? 左手?」
「左手……」
「なぜ?」
「今、右手でナデナデしてもらってるからです……」
「ふふ、良い子だ」
……。
えっと。
御仏の弟子である建前上、色々と語っちゃったけれども。正直なところ、もはや何もかも、どうでもいいことだったりする。思春期に書きなぐったポエムより、どうでもいいことだ。鼻紙にもなりやしない、小ざかしい理屈。くしゃっと丸めて捨ててしまえばいい。
なぜかって。
道理だとか、煩悩だとか。――お互いの立場だとか。そんなもろもろを吹き飛ばしてしまうぐらい。なずりんって、もぎたての夏みかんみたいな、良い匂いがするし。ほっぺたはマシュマロみたいに、やぁらかいし。おねだりしたら撫で撫でしてくれるし、撫でられると私は幸せだし、なずりんも幸せそうだし、それに。
それに――
「がおー」
「え、いや、ちょ、ご主人ちゃま」
ベッドの中では紛れもなく、私がご主人さまだったし。
<完>
それ以上に毘沙門天がもう駄目だww
おもしろかった!
あ、これを言わなきゃ男が廃りますね
「もう十分失墜してるだろ」
星が紛れもなくご主人様だった時の描写を細やかに書けよ
書いてくださいお願いします
同意
って事がよくわかる素晴らしいSS
ベッドで逆転とかツボすぎる
いやもうヘタレ星からオチまで最高です。
権威なんかもう十分失墜してるだろ。さあ、甘噛プリーズ!
どうしようかこれ。
全力で賛同せざるをえない
ベッドシーンを書いてくださいお願いします
いろいろ言いたいことがあったのにオチにすべて持っていかれてしまった
あなたの作品を待ち焦がれていた!
最後のもっていきかた上手いですねー。
もう流石としか
どこぞの人達はアウトかセーフの境界を試すとかいうアホなことしてましたがこういうのがそそわでやっていいギリギリだと思います。いやー笑った
あと、毘沙門天自重しろww
もうだめだこの5ボスwww
そんな感じ
もっとやれwww
仏ってだめ神の集まりなのか?w
星さん…大概ヘタレ役だけど遂に墜ちる所まで墜ちたか…w
それよりもナズさんドS過ぎてパネェっす!
あとベッドの中のご主人様kwsk
と思ったら最後の最後でww
毘沙門天さまもひでぇwww
そしてベッドでは星が逆転……いいぞもっとやれ。
天然ヘタレ星像、S全開のナズ公像を、緻密にかつ万遍なく台詞と地の文に溶け込ませている辺りは職人芸ですね。
>――たっぷり躾けてあげよう。
脳みそにビリビリキました。
そして躾けられたくなりました。
しかしこの毘沙門天達は仏失k……
--ズンッチャ、ズンズンッチャ。
おや、こんな時間に(ジャスティス
そして9の言ってる事は正しいと思う
こんなことを口走る毘沙門天ならマジで尊敬出来るね
嗚呼、何処まで落ちるヘタレ星w
『部下のご機嫌を伺いなら~』→『伺いながら』
かと。
毘沙門天様の第一声に悟りの一端を感じた、気が致します。
取り敢えず主従逆転の様をあっち(yotogi)で詳しく。
そらもう事細かにお願いします。
どれだけSなんだw
むしろ救わんでいい、もっとやれ。
ていうか毘沙門天が滅多に寺にいられないくらい多忙な理由って……遊びまわっているからなのかww
確かにそんな格好で普段ライブ行ったりぶらついたりしてても、誰も仏とは気づかないだろうけどwww
これで人前や天部では曲がりなりにも威厳ある仏様として振舞っているとか想像すると……”マジぱねえわ”(褒め言葉)
あのロリロリアイドルれみぃちゃんのライブ!?毘沙門天早くひまわり公園の場所を俺に教えてくれ!
いやはや、息もつかせぬ展開はお見事でした。おもしろかったです。
まさにこの弟子にしてこの師匠あり。いやはっちゃけすぎだろがw
…で、おいしく頂かれたナズはどこに(ピチューン
お話に100点、星ちゃんのはいてないこととベッドの中のご主人様ぶりに100点。
Ninjaさんの作品でもイチオシですね。
ゴチでした!
ここが気になったのは私だけだろうか…?
そして9に激しく同意