その日、朝早くから誰かの動く気配で目が覚めた。
ぼんやりとした視界はまだ自分がはっきりと目覚めていないのだと知らせてくれるが、それとは別に嗅覚を刺激する良い匂いが僕をそれとなく覚醒させていく。
意識がはっきりして眼鏡をかけた辺りで、心地よく響いてくる包丁の音にふと外の世界の書物を思い出す。そう、これは幸せな家庭を表現するとき、もしくは普遍的な朝の光景をあらわすときに用いられる表現だったかと。
だが、生憎と僕には家族が居るわけではないので、このように包丁の音と朝食らしき匂いが漂ってくるということは普遍的なことではなく異常なことだ。まぁ、あるとすれば魔理沙辺りが勝手に何かしているのだろうとしか思えないが。
とはいえ、流石に見ず知らずの誰かがこの香霖堂で食事を作っているというのも気味が悪い。そう考えた僕はゆっくりと台所へと続く戸をあけた。
「………あぁ、おはよう、森近殿。勝手に使うのは悪いと思ったが、流石に居候の身で何もしないというのも悪い。せめて家事ぐらいはやろうと思ったんだが………もしかして迷惑だったかな?」
挨拶までは笑顔だったが、その後の言葉は怒られた子供のようにばつが悪そうだった。それほどまでに僕は苦々しい顔をしていたのだろうか。まぁ、苦々しい顔をしていたのだろう。
正直な所、こんな気持ちになるぐらいなら見ず知らずの誰かが台所に立ってくれていたほうが幾分かましだった。しかし、それは僕の気分の問題であり、彼女に罪は無い。しかも、どちらかといえば僕は感謝こそすれ文句を垂れるような状況ではないのだ。
だが、解り切ってはいても僕の顔は苦々しく歪んでしまう。
「………勝手をして申し訳ない」
誰もが羨むようなその美貌は整った絵画か彫刻のように完成され、揺らめく髪は陽光を受けて太陽の輝きに溶けるような金色を晒している。そんな美しい女が目の前に居るというのに、僕の男の部分は見惚れるわけでもなく、喜ぶわけでもない。
答えは言うまでも無く明白。なんせ、あの八雲 紫が森近 霖之助の家で、しかも笑顔で朝食を作っていたのだから。
『初々しき藍紫色』
その日の天気は朝から良好。と、いうのは世間一般の意見であって、僕の意見ではなかった。
近頃は朝晩と冷え込み始め、夏も過ぎ去ったものだろうと気を良くしていたが、まるで忘れものをとりに慌てて戻ってきたように暑い日が帰ってきていた。叶うことなら、ここに君の探しているものは無いと説明してお帰り願いたいものだが、生憎と天候にそんなものは通じない。
知り合いに言わせて見れば僕の店、香霖堂はごちゃごちゃと粗雑にして乱雑に様々なものが置いてあり、薄暗く風通しが悪そうだが、案外夏は涼しく居心地がいいらしい。風通しに関しては同意するが、その前後は失礼な話だ。僕の店は粗雑でも乱雑でもない。僕も商人の端くれ、陳列している商品は意図があってそこに陳列しているのであって適当に放置しているのではない。
と、話が逸れたが、僕の店、香霖堂はようは風通しが良い。そこまではいい。だが、このぶり返した昼の暑さには風が無かった。よって、風通しの良し悪しには意味が無く、当然僕こと森近 霖之助も暑さにやられていた。
いつもなら心頭滅却すれば火もまた涼しというように受け流すことも出来るし、夏が暑いのは当然のことだと諦めもつくが、一度涼しくなった上で暑くなると、流石に緩急のせいで普段以上にその暑さを意識してしまう。
本を読み始めれば気も紛れるのだろうが、生憎と今ある本は全て読み終わってしまっているし、新しい本を探しに行くにしても外に出る気力が無い。
「せめて、客でも来てくれれば商売が出来るんだが」
うちわ片手にそんな愚痴を零していると、カウベルが鳴り響いて来客を教えてくれた。
渡りに船だとはだけていた上着を羽織りなおし、涼しげな顔で挨拶しようとして、僕のやる気は見事に消え失せた。
「………入り口から入ってくれたことは素直に嬉しいが、一体何の用だい。八雲 紫」
扉の閉まる音と共に差し込んでいた陽光が消え、神隠しの主犯にして妖怪の賢者こと八雲 紫の姿がはっきりと浮かび上がる。
「あ、いや。何というか。その、困っているんだ、店主殿」
悲しげにも見える困り顔で八雲 紫はうろたえる。その姿に異様なまでの違和感を感じると共になんとも気味が悪くなった。
「………紫」
「な、なにか?」
「その口調は正直やめたほうがいい。正直似合わない。いや、君のためを思って言わせてもらえばそれは他人に違和感しか与えない。率直に言うなら気持ち悪い」
他人の口調にそこまで口出しをするつもりは無かった。無かったのだが、凛とした口ぶりとその通る声。普段の曖昧にして艶やかな声とは正反対のそれに実の所僕は拒否反応を起こしていた。
「………そ、そんな」
人生において何度立つか解らない瀬戸際。その瀬戸際で更に追い討ちをかけられた。そんな表現が似合いそうな表情で紫は目に涙を溜めだした。
「………いや、悪かった。謝ろう。ただ、君の様子がいつもと違いすぎて僕も驚いているだけなんだ」
ここで泣きたいのは僕のほうだと言いたい所だが、まずは泥沼にはまる前に体制を立て直し、とりあえず現状の把握に努めようと考える。
「で、何がどう困っているんだい。まずはそれを教えてもらわないと僕も何をすればいいのかわからない」
弱気で落ち込んでいた紫は思い出したように慌てて喋りだす。
「そもそも、店主殿には私が紫様ではないということからお伝えしなければなりませんでしたね」
「? 紫じゃない?」
いや、何処からどう見ても紫にしか見えないが………いや、待てよ。今、目の前の紫は自分で紫様と言ったのか。
「まさか、君は紫ではなく八雲 藍か?」
僕の質問に紫―――いや、おそらく藍であろう彼女は喜びに顔を綻ばせて頷いた。
「流石は店主殿。話が早くて助かる」
本来であれば何故八雲 紫の姿の八雲 藍が居るのかと驚く所ではあるが、魔理沙や霊夢、果ては紫にまでちょっかいをかけられている以上、幻想郷で生きていくうえではこの程度で慌てるわけには行かない。
「まぁ、君が紫ではなく藍だと言うことは解ったが、一体何があったんだい?」
「それが、紫様が修行だとおっしゃって私と紫様の体を入れ替えたのです。しかも、修行の内容すら一切知らせぬままに」
何をどうすればいいのか。そんな愚痴が聞こえてきそうなほどに肩を落とす藍に僕は多少の同情を抱きながらも面倒で仕方が無いと思い、ため息を一つ零す。
「なるほど。主の奇想天外な行動に式である君が悩まされた。そこまでは解るが、どうして君は僕の所に来たんだい?」
そう、そもそも僕にとって最も不可解なのは困ったからといって何故八雲 藍が香霖堂を訪れるということなのか。ましてや、何故僕に助けを求めるというのか、そこが理解できない。
「奇想天外というかまぁ、私の修行なのでその辺りは………。それに、紫様は私から妖怪としての力の一切を奪った後、香霖堂が店主、森近 霖之助に頼りなさいと」
「………僕に?」
「はい。なんでも、この修行をするに当たって自らの力ではなく他人の力を使えと。それが店主―――森近殿だと」
なんていう厄介を押し付けるんだ紫は。そもそも、僕は紫の酔狂………かどうかまでは知らないが、こんなことに付き合っているほど暇ではない。そう、僕は商売人なのだから。
「君が僕を頼ってきたという所までは理解できたよ。だが、僕も商売人の端くれ。自らの店を持つものとして他所事に本気で付き合えるほど暇じゃない」
「………森近殿の言っていることも十分に解ります。しかし、そうなると私は」
顔を伏せて不安そうに服を掴む姿はまさにか弱い女性といっても差し支えない。だが、普段の藍であれば僕も多少なりとは手を貸したかもしれないが、今目の前で八雲 藍を主張する存在は八雲 紫の容姿を取っているのだ。そう簡単に信用は出来ない。
元々何かを含むような曖昧な言い草と強者らしい態度を伴った大妖である紫は度々僕から道具を奪い取るような行為をしている。その紫のことだ。藍を装って暇つぶしがてら何かを狙っているということも言い切れない。
「君が困るのも解る。だが、僕よりも霊夢や魔理沙を頼ったほうがいいんじゃないかい。彼女達は僕よりも力があるし、何より異変解決のエキスパートだ。そうしたほうがいいよ」
「しかし、紫様は」
「これは修行なんだろう。なら、紫の言葉だけを当てにするのも良くないな。さ、出口はあちらだよ」
お帰りください。そう態度で示し、出口を指し示したが藍は動く気配が無い。全く困ったものだ。
「君は客じゃないんだろう。なら、出口はあちらだ。それとも、君は客として何か買って行ってくれるのかな?」
こうでも言えば帰るか、とも思ったが僕は言ってから商品を売ろうという商売人としての欲が湧き上がってくるのを感じていた。そう、この状況を利用すれば在庫整―――もとい、大きな利益が得られるのではないかと。
何かを口にしようとした藍を遮るように手をかざし、僕は早口にまくし立てる。
「交渉しよう。僕が君を手伝った時間分だけ、本来営業で得られたかもしれない利益分の商品を八雲 紫に買い取ってもらうというのはどうだろうか。それなら、僕も店を持つものとして納得できるし、君も僕に疎ましがられることなく堂々と手助けを頼める。もちろん、この条件が満たされるというのであれば僕は協力を惜しまない。どうだい?」
僕の言葉にぽかんとしていた藍だが、その意味を理解したのか、嬉しいようでいて困ったような表情を浮かべた。
「私の一存でそれを決めることは出来ませんが、もし協力してもらえるというのなら紫様に掛け合ってみるとします。もし、掛け合いがうまくいかなかったとしても私の手持ちから出せるだけなら出させてもらうという方向で」
藍がどれほど持っているかは別としてそれなりに良い答えを聞かせてもらった。これなら、僕が協力するに当たって損は無い。
「では、交渉成立、ということでいいのかな?」
「は、はい。よろしくお願いします。森近殿」
礼儀正しく頭を下げる藍に、僕は思いのほか都合よく商売が出来たという満足感に満たされていた。
というのが前日の話。結局は何をどうすればいいのかが解らないという藍の言葉に僕も何をどうすればいいのかが解らないまま夜が来て就寝したのだが、そういえば藍も泊めていたという事実を今更ながらに思い出す。
「どうでしたか?」
「ん? あぁ、おいしかったよ」
僕が考え込んでいたからか、それとも単に感想を求めてかは知らないが藍はなにやら不安そうに聞いてきた。実際朝食のほうは僕が作るよりも遥かにまともだったため、まずいなどとは間違っても言えはしないのだが。
僕の言葉にどういたしましてと藍は答えて台所へと引っ込んでいく。しかし、なんというか。
「あれほど女性らしい紫を見るのは初めてだよ」
紫が女性らしくないというのは大いに間違いなのだが、どうにも紫自身が料理やその他諸々の家事をやっているというのが信じられない。ましてやエプロンを付けている光景など見るとは思わなかった。
中身が藍だというのであれば納得も出来るのだが、その容姿のせいかどうも僕には違和感しかない。失礼とは解っていても家庭的な紫というものが似合わないとしか思えない。
「そんなに似合いませんか」
風に乗って流れてきた声は聞き覚えのあるようでないような曖昧なものだが、この唐突に現れる不可思議さと不可解さには覚えがある。
「紫、でいいのかな?」
振り向いた先には自ら開いた隙間に上半身を預ける八雲 藍の姿があった。
「その通りですわ、霖之助さん。今は藍の姿ですが、いつもの姿のほうが貴方は喜んだかしら?」
「喜ぶ、ね。何か買って行ってくれるなら君がどんな姿であろうと僕は素直に喜ぶつもりだよ」
僕の言葉にくすくすと笑う紫は藍の姿でありながらいつも通りの怪しさを醸し出し、少なからず僕に不安を与えてくる。
「そう緊張なさらずに。今回訪れたのは藍を預かってもらうに当たっての挨拶。別に何かを盗っていこうなどとは露ほども思っていませんわ」
「それについてだが」
「解っていますわ」
僕の言葉を遮るように紫は何を考えているかわからない笑みで僕を見た。
「貴方が提示した条件は飲みますわ。そのかわり、私からも条件を提示させてもらいます」
「条件?」
僕の条件の対価は藍に協力すること。故にこれ以上僕が何らかの条件を突きつけられることはないはずだ。そう反論しようとした所で紫から人差し指を突きつけられる。
「一週間………………三日………いえ、二日だけで構いませんわ。その期間の間だけ藍をここで生活させて欲しいのです。もちろん、先に言ったようにこの二日分の貴方の損失は条件通り商品を買い取ることで埋め合わさせてもらいますわ」
「藍の修行だと聞いているが、それは二日のうちに何か起こるということかい?」
「それには答えることが出来ませんわ。ただ、二日で私がやろうとしている藍の修行が終わる。それだけで十分でしょう?」
確かにその通りだ。僕にとってこの出来事は積極的に関わるようなことじゃない。言ってしまえば二日間だけ他人を泊めるということでしかない。
「宿屋に転職した気は無いんだが」
「二日間だけ、ですわ」
「ちなみにその二日間は既に一日終わっている。そう考えてもいいのかい?」
「………………そうですわね、構いませんわ」
時折見せる紫の何かを伺うような視線に何かしらの思惑を感じずには居られないが、一度引き受けた上にここまで来ると流石に僕に拒否権はないようだ。
「解ったよ。なら、明日まで藍をここに泊めればいいんだね」
「………えぇ、特別なことはなさらず、いつも通り過ごしていただければ」
くすり、と。思わず苦笑してしまったようなその笑みを隠すように紫は扇子を広げて口元を隠す。
「では、私はこれで。藍にもまた伝えておいてください」
言い終えると同時に広がった隙間が紫を飲み込むようにして虚空に消えた。それと同時に背後から人の気配がして振り返る。
「森近殿? 今話し声が聞こえたようだが、来客ですか?」
やれやれ、どうやら僕は紫の代わりに説明をしないといけないらしい。面倒だがこれもある意味仕事だと割り切るとしよう。代わりに商品の値段は割り増しにさせてもらうとするが。
「すまないが、これをくれないかい」
久方ぶりに訪れた人里はいつも通り何も変わっていないようで何もかもが変わっていた。季節のせいというものもあるが、やはり人が住む場所は常に変化しているのだと思い知らされる。
私用の買い物を済ませた僕は店先で楽しそうに食材を選んでいる藍に目を向ける。
紫からの言葉を伝えると藍は困ったような顔をしていたが、主からということもありすぐに納得してくれた。
世話になるからなのか元からの性分なのかは知らないが、その分家事手伝いをやらせてもらうと意気込んだ藍は買い物に行くと言い出した。
まぁ、人数も増えたし多少の出費は必要経費と考え、買い物に行く藍に金を渡した所で気づいてしまったのだ。香霖堂から人里まではそれなりの距離があり、かつ藍は今ただの人間と変わりがないということに。
流石に一人で行かせて何かあったら保護者が五月蝿いかもしれないので、僕も買い物に付き合うことにしたのだが、藍は何故かそれが嬉しいらしく始終機嫌が良い。
本人が言うには買い物を人里で行うことが少ないし、ほとんどは一人で業務的な買い物しかしないので新鮮なんだそうだが、もしかしたらこれは紫なりの休暇の与え方なのかもしれないと僕は考える。
「森近殿。こちらは終わりました」
両手で荷物を抱えて駆け寄ってくる藍の姿が微笑ましく。つい口元が緩んでしまう。
「重いだろうから僕が持つよ」
僕が片手を差し出すと藍は困ったように荷物と僕の手を見比べる。
「今の君は普通の人間。それも女性なんだ。なら、荷物ぐらいは男の僕が持つべきだろう」
そう言って少し強引に藍から荷物を奪い取る。
「あ、ありがとうございます」
「気にすることは無いよ。僕だってこのぐらいはするさ。でなければわざわざ人里までついてきたりはしないよ」
「なら、せめて小さい荷物ぐらいは」
そう言って今度は藍が僕の持っていた荷物を取り上げた。どうやら骨の髄まで仕える者としての精神が染み込んでいるらしい。
「じゃあ、そろそろ帰ろうか」
「そうですね」
荷物に関しては納得してくれたのか藍はそれなりに上機嫌のまま僕と並んで歩き出す。
しかし、こうして隣を歩いているのが藍だとしてもやはり姿が紫というのは気になる。
そもそも、元々僕は紫のことが嫌いではないがどうにも苦手なのだ。その大半が性格に依存するものだとしても自分の苦手な姿のものがすぐ傍にあるというのも落ち着かない。
出来ることならば藍の姿のままここに来て欲しかったものだが、これも利益の為と考えるなら多少は目を瞑る必要があるだろう。
そんなことを考えながらしばらく歩いた頃、隣を歩く藍が不意に口を開いた。
「それにしても不思議な感覚です。いつもならこのような道のりを歩くようなことなど無いというのに。それも、まさか森近殿と歩くとは思っても見なかった」
「そうだね。僕もこの道を藍と歩くなんて考えてもみなかったよ。しかも、今の君は紫の姿だ。尚のこと考えたことが無かったね」
「やはり容姿と中身が違うというのは気になりますか?」
「気にならないと言えば嘘になるかな。それに、そもそも僕は君の主人のことが苦手なんだ」
「苦手、なんですか?」
「まぁね。紫は常に何を考えているのかが解らない。故にその言動や笑みが不吉に写るのさ。店のものも持っていかれるしね。まぁ、嫌いというわけではないよ」
僕の嫌いではないという言葉に藍はどこと無く安心したような気配を見せる。なるほど、藍は主人思いの良い式だ。出来るものなら僕も店にあるコンピュータを良き式として操ってみたいものだ。
「紫様も森近殿のことは………嫌いではない、と思いますよ。道具を持っていくのも森近殿……や幻想郷にとって危険なものを回収しているだけでしょうから」
「………それでも、僕の店の商品なのだから代金ぐらいはいただきたいんだけどね」
僕の反論に藍は乾いた笑いを漏らしながら僕から顔を逸らした。出来ることならそれを紫に伝えて欲しい所だが、期待は出来そうに無い。
そうして、とりとめも無いことを話しながら僕達は香霖堂への道を歩いていった。
人里からの帰り道に藍とはずいぶんと打ち解けられたのか、霊夢や魔理沙のようにとはいかないがそれなりに自然に会話が出来た。
今も就寝前に少し話し込んでいるが、まさかこんなにも話題があるとは僕自身驚いているところだ。
「しかし、一日が終わるのも早くなったものだ」
「そうですね。もう夏も終わりだと思い知らされます」
確かに、日が沈むのが早くなったらもう夏も終わりだろう。その割にはまだ日中は暑いが、それでも日中の長さは何よりも季節を感じさせる。
「今日が終われば明日にも私の修行は終わりですね。しかし、紫様は何故私を森近殿に預けられたのか」
「それは僕が聞きたいよ。まぁ、紫には紫なりの考えがあるんだろうし、僕らがそれを無理に考える必要は無いさ」
「そういうものですか?」
「そういうものさ」
と、そこで会話が途切れたのか、妙な沈黙が場を支配する。
「………………静かですね」
「そうだね」
気まずいな。そう思って落ち着き無く視線を漂わせていると藍と目が合った。途端、二人とも視線を外すが気まずさは先ほどの比ではない。
そんな気恥ずかしさを隠すために僕は何かないかと考え、結局何もないので無難な言葉を選んで口にする。
「そろそろ寝るかい」
「そうですね」
どこと無く気恥ずかしいまま僕と藍は各々の部屋に向かい、布団を敷き、灯りを消す。すると、室内は暗闇に包まれ、心地よい静寂が身を包んだ。
暗がりの中徐々になれていく目で天井をぼんやりと見つめていると、ふと隣の部屋で寝ている藍が声をかけてきた。
「まだ、起きてますか?」
「まだ起きてるよ」
「………………聞いてもいいですか?」
「まぁ、僕に答えられることならね」
僕の返事の後、迷うような気配と共に言葉が途切れる。だが、襖越しに感じ取れるその逡巡を察して僕は藍の言葉を待つ。
「………………森近殿は………」
ようやくそこまでを口にした後、再び藍は口をつぐいでしまった。どうやらよほど聞きにくいことらしい。
仕方が無い。僕から他愛の無い話題でもふってみるか。そう思って口を開こうとしたとき、おかしなことに気がついた。
先ほどまで確かに感じていた気配がなくなっているのだ。しかし、襖の向こうには誰かが居る。それだけは解ってしまう。
「………藍?」
その奇妙な気配を不安に感じつつも、僕はそんなことはないと思い込みたくて藍に声をかける。しかし、僕の期待とは裏腹に藍の返事は無い。
消えてしまった藍の気配。そして、襖の向こうにある藍ではない誰かの気配。夏も終わろうかというこの時期に怪談話なんて笑えない。
緩やかに流れてくる風が急に冷たくなったかのような感覚に僕の体が身震いしたとき、それは聞こえた。
「………霖之助」
聞いたことが無いような、しかしどこかで聞こえたような声が襖の向こうから聞こえてきた。
藍ではない。そもそも、藍は僕のことを店主殿や森近殿と呼んでいたのだ。まぁ、僕を名で呼ぶことがありえないというわけではないが、今日一日でそれなりに聞き慣れたはずの声とこの声は似ても似つかない。
気がつけば体は床に縫い付けられたかのようにぴくりともせず、喉もまた張り付いてしまったかのように言葉一つ発することが出来ない。
そんな中、気がつくと僕の上に女が乗っていた。
しかし、重みどころか気配すらはっきりと感じさせないその女は、まるでそうすることが自然であるかのようにするりと伸ばした腕で僕の頬を優しく撫でる。
突然のことに内心慌ててしまったが、徐々に冷静さを取り戻してくると女の顔がはっきりと見え出した。
その誰もが羨むような美貌は整った絵画か彫刻のように完成され、揺らめく髪は淡い月光を受けて灯火のような金色で輝いている。それは、見間違うこと無き八雲 紫の姿だった。
だが、今目の前の女が紫の姿だからといってそれが紫本人であるとは限らない。なにせ、紫の考えで先ほどまでその中身は藍になっていたのだ。なら、これが紫であると考えるのは早計だ。
だが、そんな僕の考えとは関係なく紫の姿をした誰かは、僕を覗き込むようにしてゆっくりと上体を傾かせ、揺れる金の髪が僕の顔にふわりとかかる。
どこと無く呆けたような、熱病に浮かされたようなぼんやりとしたその瞳からは明確な意思が読み取れない。だからといって語り掛けようにも喋ることが出来ない。
「………霖之助」
まるで部屋全体が閉じた箱のように声が幾重にも反響し、甘い蜜のような声が耳ではなく脳に直接響いてくる。その反響する声に全身が溶けてしまうような感覚に、僕の視界がぐらりと揺れた。
やがて、声が溶けて消える頃。倒れ掛かるように徐々に紫らしき者がその顔を近づけだした。
薄暗い室内を仄かに射す月光に照らされて、白い肌とは違うその紅い唇が………。
「………………夢か」
気がつけば僕は目覚めていた。
いやな焦燥感で目覚めたせいか寝起きの気だるさは無く、むしろ意識は平時よりもはっきりとしていた。
外を見れば日は高く、もう既に朝と呼べるような時間ではないことを教えてくれる。
「寝過ごしたのか」
あんな夢を見ていたから寝過ごしたのか、寝すぎたせいであんな夢を見たのかは解らないが、とりあえず僕は寝巻きから着替えて部屋を出る。
夢のせいか、藍の姿を探してしまう僕は店に出てようやくその後姿を捉え、何故か安心する。
「すまない。寝過ごしてしまった」
「そのようですわね。実に可愛らしい寝顔でしたわ」
ふわり、と舞うように振り返ったその姿は昨夜と何も変わらない。だが、それは形ばかりで、その顔に浮かんだ笑みは昨夜までのものとは似ても似つかない。
どこかわざとらしい口調と、不安を煽る怪しい微笑みに僕の中のとある人物が一致する。
「ややこしいな」
「その割には物分りがいいですこと」
くすくすと怪しくもどこか惹き込まれてしまいそうな笑みをこぼすその姿に、僕の予想が的中しているのだと確信する。
「案外元に戻るのが早かったようだね」
「あら? もう少し藍に居て欲しかったのかしら」
「姿は君だっただろう」
「あら、それはつまり私に居て欲しいということかしら?」
「紫が客として居るというなら僕は歓迎するよ」
僕の言葉に紫が意味深に笑っているとカウベルが鳴り響いて店に藍が入ってきた。
「おや、起きられたんですか?」
「君の主とは違うんでね。いつまでも寝ているわけには行かないさ」
「まるで私がいつも寝ているような言い方ですのね」
心外だと言うように紫が泣きまねをして、藍がそれに苦笑する。
「さて、では思うところもあるかもしれませんが、そろそろ私と藍はお暇させてもらいますわ」
紫の言葉と共にその背後の空間が裂け、隙間が広がっていく。何度見ても不気味な隙間だが、それを踏まえても便利そうで羨ましい。
「まったく。君は来る時も帰る時も突然だな」
「妖怪とはそういうものですわ。それに、寝過ごしたのは貴方の責任でしょう」
「生憎と僕は半分は人間でね。少しはあわせてほしいものなんだが」
「私も出来ればもう少し別れを惜しみたい所ですが、それはまた今度来たときにでも語り合いましょう。では、森近殿。この二日お世話になりました」
「代金はまた後日に。では」
紫の言葉が聞こえ終わる頃には既に二人の姿はなくなっていた。一人取り残された僕は溜息をついて苦笑する。
「また次来る時を楽しみにしているよ。代金についてもね」
「で、どうでしたか?」
にやにやと笑う藍がそう言って自らの主である紫に向かって問いかける。それを聞いた紫は香霖堂で見せた怪しさと威厳はどこへやらと思うほどに少女然とした反応で頬を染める。
「ど、どうって何よ」
「私のふりをしてまで二日間泊まった感想ですよ」
そう、実は紫と藍の中身など初めから入れ替わってなど居なかったのだ。だというのに、何故そのような嘘をついたのかというと、理由は単純。
「店主殿のことが気になるというからこんな小芝居までしたんじゃないですか」
そう、紫は単に森近 霖之助という男性に惹かれていた。それだけのことである。
尚もにやつきながら問いただしてくる藍に恥ずかしそうに顔を背ける紫。もしこんなところを他の誰かに見られたりしたら幻想郷きっての大妖の威厳など微塵も残らないだろう。
「せ、成果はあったのよ。一緒にご飯を食べたり、買い物をしたり、話をしたり」
照れくさそうに語る紫の顔は当に真っ赤だが、それを聞く藍の顔からは先ほどの楽しそうな表情が消え、代わりに信じられないものを見るような目をしていた。
「それだけですか?」
「そ、それだけ……だけど………」
何故か教師に怒られて萎縮する生徒のように身を縮める紫に藍は溜息をつく。
「紫様。折角一つ屋根の下にいたというのに結果が一緒にご飯を食べたり、買い物したり、話をしたり程度では勿体無さ過ぎますよ」
「で、でも………」
おずおずと発言しようとする紫にずいと乗り出した藍は力強く進言する。
「手を繋いでみたり、寄り添ってみたり、アクシデントを装って抱きついてみたりとか色々出来たでしょう」
藍の言葉に紫はその光景を思い浮かべたのか顔を伏せたまま真っ赤になる。
「………はぁ。なんというか、むしろ今のような姿を見せたほうが殿方には効果があるのではないですか?」
「そ、そうなの?」
「そうですよ。それに折角意中の相手の家に泊まれるところにまで漕ぎ着けたのにたった二日だけというのも勿体無い。一週間という期限が取り付けれそうだったのに」
「藍が急にそうやって言うから慌てて短くしたんじゃない。一週間なんて長い時間はまだ無理よ」
そう、実は当初の予定ではもっと長い期間泊まる予定だったのだが、藍が霖之助に追加の条件を言っていると紫が霖之助の背後から短くしてくれと藍に伝えていのだ。
主を思う藍であればこそ、主とその思い人を一緒に居させてやりたいと思うが、主の命とあらばそれを優先することは仕方が無かったのである。
「しかし紫様がここまで奥手だとは。もう式になって随分経ちますが、初めて知りましたよ」
「仕方ないじゃない。こういうことは、その、ほら、ね?」
「ね? じゃないですよ、まったく。帰る時も逃げるように帰ってしまって。あれでは逆に印象が悪くなりますよ」
「だって、恥ずかしかったのよ、あんな夢を見て」
顔を真っ赤にしたまま必死で訴える紫に藍ははてと首をかしげた後、にやりと不敵に笑う。
「なら、せめてその夢ぐらいは聞かせて欲しいですね、紫様」
「え、いや、それはほら」
「ほらほら、聞かせてくださいよ」
「………えっと………あ、あのね。私霖之助さんに嫌いじゃないって言われちゃったのよ。えへへ」
「可愛らしく報告しても無駄ですよ、紫様。さぁ、早く白状して楽になりましょう」
こうして、迫る藍に根負けした紫が霖之助を襲う夢を見たと語るのはまた別の話。
「そういえば、藍色を帯びた紫色というのに藍紫色というのがあるが、結局は紫色だということなんだが。さて、あれは藍紫色だったのかな」
ひとりごちて苦笑する霖之助は昨日買ってきていた袋を開けて中身を取り出す。
「一応最高級のものだったんだが、この油揚げに反応しなかったとなると………」
再び苦笑する霖之助の笑い声が風に消えるように、霖之助の出した答えもまた風に溶けて消えていった。
今後のやつらが気になるゼ
霖之助の用心深さに感服
後、ゆかりん可愛いよゆかりん
それにしても初々しい藍っぽい紫かぁ。香霖めぇ妬ましい妬ましいww
少
女
臭
\
内容もオチも楽しく読んでいけました
正直後半の部分で、ああやっぱりこういう話か、好きなカップリングだから嫌いじゃないけど、
と思ってたんですが、最後の霖之助の独白は見事でした。
策士だな、霖之助さんはww
そして胡散臭い雰囲気を演じる藍様というのもまた。
そしてゆかりんに萌えた
やっぱゆかりんかわいいよゆかりん
ニヤニヤにさせられちまったぜ。
異論は認める
俺の心のバットをへし折ってストライク
2828させていただきました。
きっと妖怪的な本能で何かを実行しちゃってます
・・・
・・・・・・
やべぇwwwもう無理wwww萌え死ぬwwwww
霖之助は霖之助らしくて紫は可愛い
後書きの年上のお姉さんな紫…たまらんぜ
霖之助自体が霊夢や魔理沙のお兄さん役みたいなもんですから
並んだときの相性が良いんでしょうね
紫ぶる藍を想像してみたら俺のツボだった
藍の真似した紫本人だと認めるのと果たしてどちらが受け入れ易いのか。
そう考えると、最後の文が素直に2828できるなぁ。
紫様の見方がかわりました