寅丸星は空を見上げていた。
神々しいまでの光に包まれた法界上空。その中心で舞うように弾幕を交わす巫女と僧侶を眺めていた。
白蓮の啖呵でもって幕を開けた弾幕ごっこは終幕を迎えようとしている。
――多分、聖は負けるんでしょうね――
心の中で呟く。
巫女の実力なら身をもって思い知らされた。千年ぶりに目覚めたばかりの白蓮では――否、例え彼女が本調子であっても勝てはしないだろう。寅丸はそれでも構わなかった。彼女の目的は白蓮が復活を遂げた時点で達成されている。あの巫女が無闇に殺生を行うような輩でないことも判っている。彼女が勝っても負けても、自分が――自分達がすべき事、出来る事は変わらないと、そう思っている。
「姐さーん! 頑張れー!」
「そこです聖! 左舷45度から抉るように!」
寅丸の傍らでは聖輦船から降りてきた一輪とムラサが声援を飛ばしている。二人とも白蓮を心配しつつも何処か楽しそうだ。
「やーれやれ、誰も彼も血の気の多いことで……」
「貴女も他人のことは言えないでしょう? 特に食生活とか。」
「寅の妖怪に言われちゃお仕舞いですよ。生臭坊主ならぬ生臭仏のくせにぃ……」
足元に座って憎まれ口を叩いてくるのはナズーリンだ。宝塔を捜して駆け回った上、二度に渡って巫女と弾幕を交わしたせいだろう――その声からは疲れの色が滲み出ている。
「飛鉢『フライングファンタスティカ』!」
上空から白蓮の声が響く。追い詰められた彼女が繰り出した奥義――今は亡き弟、命蓮が操ったという飛鉢を模した弾幕が巫女に襲い掛かる。巫女は一切怯む様子も無く、弾幕の隙間を縫っていく。
「お疲れ様、聖」
呟きと決着は同時だった。
――Final stage Clear――
「ま~け~ま~し~た~」
なんとも情け無い声を発しながら白蓮はよろよろと地に降り立った。大復活を遂げたばかりだというのに南無惨な目に遭い、黒白の法衣は所々破れて襤褸糞。躰には数え切れない程の擦り傷、生傷をこさえての帰還であった。
「姐さん! お疲れ様です! お躰は平気ですか!? 痛くないですか!? 絶好調ですか!?」
「おかえり聖、ひどい有様ですね? 聖輦船に船医はいませんよ?」
一輪とムラサが白蓮の元へと駆け寄り、そのまま抱きついた。白蓮は穏やかな顔で二人を強く抱き返す。永い永い孤独を埋めるように、誰かに触れている事を確かめるように――
「二人とも、永い間心配をかけてしまったようですね」
そう言って、抱きついた二人の頭を優しく撫でる。
寅丸はゆっくりと、酷く緩慢な動作で三人の元へと歩みゆく。
――変わってないなぁ――
白蓮の姿を見て、そう思った。
――ふわふわとした長い黒髪も、優しい口調と仕草も。人も妖も惹き込み、包み込む存在感も。それから――
「あ……」
寅丸の思考はそこで途切れた。白蓮から三間ほどの処まで来て歩みを止める。後ろについて来ていたナズーリンが背中にぶつかった。
二人に気付いた白蓮が視線を向ける。琥珀と金の目が合った。
――そう、その眼差しも――
そして寅丸はまた、歩き出す。足取りは先程までより尚、重たかった。理由は解っている。白蓮はあの日から何も変わっていない。
――きっと、聖にとって自分は今も――
何時の間にか白蓮の目の前まで来ていた。
そして二人は千年ぶりに言の葉を交わす。
先に口を開いたのは白蓮だった。
・ ・ ・
「お久しぶりですね、寅丸様」
――ああ、やっぱり、ね――
分かっていたことだ。そう自分に言い聞かせて尚、寅丸は独鈷杵で頭を打たれたような眩暈を覚えずにはいられなかった。
「ええ、お久しぶりです。聖」
何とか笑顔を作り、それだけ言った。それが精一杯だった。
「おーい、感動の再会のとこ悪いんだけどさぁ、さっさと帰んない?」
誰にでもなく、巫女がぼやいた。
空気を読むのは魚介類の仕事である。
――Just a little Later――
朝、幻想郷は雲ひとつ無い快晴であった。宵闇妖怪がついつい身の周りの暗闇を解いて日向ぼっこに興じ、その傍らで寝こける氷精は太陽熱で解け、朝更かしをした吸血鬼のお嬢様がハイテンションで外に飛び出し蒸発する。洗濯日和に散歩日和な小春日和。そんな朝であった。
そんな澄み渡った幻想の空をばかでかい船が遊弋している。言うまでも無く聖輦船だ。
いつの間にか我が物顔で空を行き交うようになったこの物体に対して、幻想郷の住民達は概ね寛大であった(常日頃から高速で空を飛ぶ天狗などは『人身事故が増えた』と言って不満たらたらであったが)。
耳を澄ませば聖輦船の中からは『なんまいだ~ なんまいだ~』と低音を効かせた合唱が聞こえてくる。皿屋敷のお菊ではない。朝の読経である。
だだっ広いが何も無い聖輦船内、数ある船室の一つに正座し、読経する一座が在った。
「「「なんまいだ~ なんまいだ~」」」
何も無いが故に、声は好く響く。声の主は三人の少女だ。
一人は僧というにはゴテゴテした身なりの少女(千歳以上)、白蓮。
一人は尼然とした格好の少女(同じく千歳以上)、一輪。
一人はげっ歯類の少女(同じく以下略)、ナズーリン。
ムラサは居ない。
それも至極当然、彼女は白蓮により改心したとはいえ船幽霊である。まかり間違って読経なんぞした日には即身(と言っても躰は無いが)成仏しかねないからだ。
そもそも彼女が敬愛するのは白蓮であって毘沙門天ではない。よって三人が読経している間は船長室に篭り、舵取りをしたり碇の手入れをしたりしている。とはいえ聖輦船は自動操縦な上に、碇など無くとも垂直離着陸が可能だったりする。無駄にハイスペックなのだ。
聖輦船が創られた時代を考えれば正にオーバーテクノロジーの産物と言って差し支えないのかも知れないが――元々が白蓮の法力で為された代物なのでオーパーツと言った方がしっくりくるのかも判らない。
それでも――例え不要と言われようともムラサは舵を握るし、碇の手入れをする。寅丸から『貴女が舵を取ると天狗を轢くか山にぶつかるので自重して下さい』だの、『貴女が碇を降ろすと勢い余って聖輦船が墜落するので勘弁して下さい』などと心無き物言いを受けようとも辞めるつもりは無かった。趣味なのだ。
磨き上げられ、黒光りする碇に映る自分の顔を見ながらムラサは思う。次に寅丸が自分の仕事にケチをつけた暁にはこの碇でもって尻尾の一本や二本は斬り落としてやろうか、と。尤も寅丸に尻尾があるかは知らない。あるだろう、寅だし。
「「「なんまいだ~ なんまいだ~」」」
ムラサが他人には明かせぬ想いを燻らせ、悶々としている事など露と知らない三人は坦々と読経する。
「「「なんまいだ~ なんま「へくちっ!!」…………」」」
何者かのくしゃみが響き渡り、読経は止む。船内に気まずい沈黙が横たわる。先程まで三人の中央に座し、眼を瞑っていた白蓮が左右の二人に咎めるような視線を向ける。一輪もナズーリンも一様に首を横に振り、己が無実を主張している。
白蓮はハァと一つ、ため息を吐いてから視線を正面に向け、言うのであった。
「寅丸様、本尊が読経中に動かないで下さい」
「……すみません、つい……」
寅丸は白蓮に正対するように鎮座している。白蓮達が床に正座しているのに対してこちらは質素ながらも堅牢な仏壇(木箱と言った方が正確)に腰を落ち着け、馬手に宝塔、弓手に宝棒を掲げた姿は基本に忠実な毘沙門天スタイル。己の不作法に恥じらい、頬を赤らめ、くしゃみに乗じてうっかり人化の解けた頭の寅耳がしゅんと萎えてさえ居なければ幾ばくかの威厳というものも在ったやも知れない。
――今のは不可抗力でしょう? 出物腫れ物ところ構わずと言うではないですか……というか誰か噂してるんじゃ――
心中で毒づく寅丸を余所に、白蓮以下三名、今度は黙想を始めたようだ。煩悩雑念を捨て去り、空気と一体化し、仏の境地へと至る修行である。
が、しかし――
――嗚呼、退屈です。胡坐かいて偉そうにしてるだけがこんなに退屈だとは……いやほんと、ブランクというものは怖いですね。昔はこのくらいの仕事は黙々とこなしてた筈なんですけどね? そもそも何だってこんな事になってるんでしょう……否、いやいや、駄目で星、仮にも毘沙門天の代理がそこに疑問を持っちゃいけないでしょう。或る時は雲の上から、或る時は偶像として、自らを崇める者達を慈悲の心でもって見守り続ける。それが仏たる者の務めというものじゃないですか! でもそれを言ったら何だって私は毘沙門天の代理なんてやってるんですかね? ええ、そうですね、聖のせいですね。彼女が自分を推挙してくれたおかげで唯の寅妖怪から一足飛びで即身成仏ですものね? いやはや、感謝してますよ? 畏れ多くも毘沙門天様から『財宝が集まる程度の能力』なんて大仰なものまで授かって……まぁ自分の失くし物にはてんで効果が無いんで正直いうと宝の持ち腐れなんですが――
崇められる仏自身が雑念まみれでは何をかいわんやである。
寅丸星――言わずと知れた毘沙門天の弟子にして代理。
諸々の事情によりここ数百年は誰からも手を合わされる事無き生活を送っていた、自他共に認める仏教界の窓際族である。
余りにも信仰不足な為、以前開かれた神仏親睦会では招待状が来ないどころか雑用として駆り出される始末であった。ちなみにその会場で知り合った博麗神社の神様とは道は違えど似たような現実を背負う仲間(とも)として盃を交わした間柄である。
そんな彼女だが、白蓮が解放されてからというもの毎日毎夜、この調子でハードワークが続いている。といっても白蓮が解放されてからまだ三日であるが……八百年間も仏格としての活動を放棄していた彼女の心を折るには十分であった。
何もそれが厭だなどと言うつもりは毛頭無い。むしろ善い事だ。誰からも信仰されていなかった仏が少ないながらも――例えそれが人間以外であっても――再び信徒を抱えるようになったのだから喜ばしい事だ。
それでも――今の寅丸にとっては自分がそう扱われる事が辛い。辛いと思ってしまう理由がある。
そんな苦悩の時こそ心頭滅却し、無我の境地から己の在るべき姿を見出すのが仏徒としては良策なのであろうが――生憎と寅丸は真面目で勤勉だが器用とは言い難い。その証拠に眼を瞑り、頭の中を空にしようとすればするほど余計なものが湧いて出る。
――それにしても、こうしていると昔を思い出しますね……聖が封印される前、思えばあの頃の私は若く、純粋で、へにょる事も知らず……愚直なまでに仕事に打ち込んでいましたっけね。鼻水垂らした小童に落書きされようとも黙して耐え、棺桶に片足突っ込んだ爺様には『やぁ、えらいべっぴんさんの毘沙門様だぁ』なんて口説かれたりして……愉しかったですねぇ――
過ぎ去りし日の甘美な思い出に浸り、独りにやにやと笑壷に入っていた寅丸。ふと只ならぬ気配を感じ瞼を持ち上げる。
果たしてそこには満面の笑みを湛えた白蓮がいた。それはもう不気味な程にニコニコとしているのだ。
「あ、あれ? 聖? 黙想は? もう宜しいのですか?」
近い。非常に近い。これがラブコメなら寅丸の後頭部に突如として謎の円盤(タライ)が飛来し衝撃混じりの接吻を交わすといった場面であるが――タライが飛来する気配は一向に無い。どうやら現実は非情なものらしい。
寅丸は頭に咲いた花は伊達では無いと主張するかの如き思考を巡らせつつ、白蓮の顔を見る。
――此れは此れは、聖ったら凄まじい笑顔ですね。笑中に刀ありとはよく言ったものです。おおこわいこw――
がしり。と――白蓮の諸手に顔を挟み込まれ、寅丸の思考は中断された。寅丸はその笑顔の奥に確かな殺意のようなものを見た気がして、背に冷や汗が流れるのを感じた。
「寅 丸 様 ?」
「あ、いや、聖、違うんです! 此れはですね……」
しどろもどろの寅丸の言葉を遮り、白蓮はまくし立てる。
「まさかとは思いますが……私達が心を滅し、黙想しているそのど真ん前で仏格であり本尊であり下々の模範足るべき貴女が事もあろうに物思いに耽ってにやにやにやにやにゃーにゃーにゃーにゃーと、だらしのない笑みを浮かべて悦に入っていた――なんて事はありませんよね?」
「うぅ……」
返す言葉も無い。大粒の汗を顔中に浮かべながら寅丸はぐちゃぐちゃと考える。
――嗚呼、どうしましょう!? 聖ってば怒ってます! こんなに怒った彼女を見るのは何時か酔った勢いでババアと呼んだ日以来です! 早いとこ何とかしないと穏やかな心を持ちながら静かな怒りに目覚めた聖の髪が金色に輝き始めてもおかしくない勢いです! そんな状態で折檻でも受けようものならか弱い私なんて聖輦船から飛び出してそのまま宇宙ですよね? 宇宙。星に為って寅丸星。なんて笑えない! 一輪! ナズーリン! こんな時こそ貴方達の溢るる友情でもって私の弁護を――ってちくしょう! なんで二人して合掌してるんですか! 飛べと!? 貴方達は私に飛べと仰るか!?――
切羽詰った寅丸は花の咲いた頭を全力回転させてこの場を凌ぎきる言い訳を考える。嘘など吐かずに素直に謝れば少なくとも天国行きの片道切符は手に入るのであろうが――例え閻魔に裁かれた結果が地獄行きであろうとも(それもまた妙な話ではある)、もう少し現世で生きていたいと寅丸は考える。
ものの数秒の間、悩みに悩み抜いた寅丸は目の前の死線を乗り越える妙案を思いついた――かに思えた。
「聖、愛してます。キスしていいですか?」
そう、愛である。
冥界の庭より広く、三途の川より深い。荼枳尼天も裸足で逃げ出すくらいの狂おしい迄の愛情を白蓮に伝えられれば或は――と。
言うまでも無い。自爆である。寅丸は自ら進んでその手に切符を掴んだ。
「南無三!!」
白蓮の右拳が空を切り裂き寅丸へと迫る。パァンと――弾けるような音が船内に響く。白蓮の拳が音速の壁を突破した事に因るものであった。
寅丸は眼前に迫った死の気配をひしひしと感じつつも、総身の感覚が研ぎ澄まされてゆくのを感じていた。
人は唐突に訪れた死に際し、刹那の中に己の人生を見るというが……現在の寅丸も其れと似た状況であった。
世界がスローモーションになり、宙に靡く白蓮の髪の一本一本まで正確に認識できた。しかしながら、その超感覚でもって寅丸が為す事と言えば『聖って意外と繊細な指してるんですね。編み物とか得意そうかも?』などと思う程度である。見えたところで躯の方は反応出来ないのだから仕方ないと言えば仕方ない。南無三。
「へぶん!!?」
潔く殴り飛ばされた寅丸は錐もみ回転をしながら船室を二、三ぶち抜き、廻りに廻って停止した頃には輪廻転生の扉を開けそうな心地であった。
焦点の合わない目で天井を眺めていると仁王立ちの白蓮が視界に現れたので寅丸はげんなりして言う。
「痛いじゃないですか聖……落語の登場人物じゃないんですから無茶させないで下さい……」
「お黙りなさい! 仏の顔も三度までです!」
「その仏の顔を凹っておいて何を言いますか……そもそもまだ二度目じゃないですか……」
「問答無用! 貴女には少々仏格としての自覚が足りなさ過ぎる! いいですか――」
何処ぞの閻魔様並にありがたい説法が始まった。僧が仏に説き聞かせると言うのだから寅丸としては苦笑せずにはいられない。未だ痛む頬を手でさすりながら――寅丸はぼんやりとその声を聞いていた。
「――であるからですね、仏の道の目的は四諦に至る事にこそあって――云々かんぬん――つまり八正道の実践こそが万人に出来る仏法の基本であり――斯く斯く然然――寅丸様? 聞いてますか?」
良く聞こえていた。『寅丸様』だ。
「ねぇ聖、止めませんか? その『寅丸様』って言うの……」
「何故です?」
間の抜けた――本当に何を言っているか解らないという眼で見つめてくる。その眼差しが寅丸を苛つかせた。
白蓮が寅丸を様付けで呼ぶのにはそれ相応の理由がある。寅丸が白蓮によって毘沙門天の代理に引き立てられたその日から、ずっと続いている一方的な約束。簡潔且つ乱暴な言い方をするならば――白蓮の我侭だ。
仏と僧。それが第三者から見た二人の間柄であり、その立場には正しく天と地ほどの差がある。例え二人の間に如何な事情があろうとも、人々の前で気安く名前で呼び合い、談笑する事など許されざる事だ。少なくとも白蓮は、否、寅丸を推挙した白蓮だからこそ、そう考えた。故に普段、白蓮は己を厳しく律し、寅丸に対して余所余所しいまでの態度と口調を取っている。
一方、寅丸はと言えばそれが煩わしくて仕方ない。他の――ムラサや一輪のように、家族のような態度で白蓮と接する事が出来れば彼女としては文句の出ようも無いのだが――白蓮の方には全くその気が無いのだから仕様が無い。
例えば普段の行い一つ取ってもそうだ。ナズーリンが朝食のつまみ食いをすると一時間に渡ってこってり絞られる。事を為したのが一輪であっても同じ事だ。ムラサならば塩をかけられるだろう。
対して、寅丸がつまみ食いをしようとも白蓮は無言である。無言で聖輦船から(文字通り)叩き出すのだ。不公平である。五十歩百歩である。
それだけではない。もう一つ、寅丸には堪え難いことがある。
白蓮から様付けで呼ばれる度に肚の底から湧き上がる疑問。答えなど解り切っている筈のその問いを寅丸はこの三日で何度も何度も自分に投げ掛け、その度、煩悶してきたのだ。
――今の自分に信仰され、敬われる程の価値などあるのだろうか?――
仏教界の窓際族たる寅丸自身に是か非かと言わせれば答えは非である。
それでも――寅丸が自身をどう思おうが、白蓮は彼女を信仰する事を止めはしないだろう。
人物の価値は時として相対的なものである。誰も、自分独りで己の価値を決めることなど出来はしない。
ムラサが何隻もの船を沈め、人々の命を奪った罪人だからといって、寅丸にとって彼女が友人である事が変わらぬのと同じ事だ(寅丸はその友人が自分の尻尾をちょん切ってやろうと企てているとは夢にも思わない)。
であるからして寅丸の悩みなどは考えるだけ時間の無駄と言うものなのだが……思い悩む者は往々にしてその事には気付かぬものである。何度も自問自答し、同じ場所をぐるぐると廻り続ける。寅丸などなまじ真面目な上に不器用なものだから始末に負えない。
そんな状況を打開するには兎にも角にも他人に打ち明けてみるのが手っ取り早い。寅丸は丸三日悩んだ挙句、ようやくそこに思い至り(白蓮の鉄拳によって脳味噌が程よくかき回された事が功を奏したのやも判らない)、白蓮に己が胸中に渦巻く想いをぶつけてみる事にした。
「聖、気を悪くしないで聞いてください。自身を顧みるに……今の私には様付けで呼ばれるような価値は無いように思われるのですが……」
「それはまた異な事を仰いますね? 寅丸様は毘沙門天様の門弟として誰もが認めるほど優秀だったではありませんか」
寅丸は白蓮が封印された後、自分が如何なる道を歩んで来たか正確には伝えていない。
白蓮はあの頃の寅丸を基準に考えているのだからそう言うのも当然だ。
首を左右に振り振り、寅丸は続ける。
「それはもう千年も昔の話です。私や貴女にとっては大したことの無い時間かも知れませんが……仏を信仰するのは儚い人間なのです。数ある仏達の一人が人々に忘れ去られ、力と徳を失うには十分過ぎる時間です。あの頃と違って今や私を仏と信じ仰ぐ人間も、貴女を慕う人間もいないのです。人間達は貴女を畏れ、疎み、封印した事すらとうの昔に忘れている。貴女だけではありません……私の方も毘沙門天様に愛想を尽かされて半ば破門に近い身の上です。情けない話ですがね……ご利益なんて期待すべくも無い。分かりませんか聖? もう人目を憚って私を『寅丸様』などと呼ぶ必要も意味もありはしないんです」
そこまで一息に吐き出した後、白蓮を見やる。その表情は泰然自若としており、琥珀色の瞳を見た寅丸は、自分のちっぽけな心の裡を全て見透かされているような錯覚を覚え、言いようの無い不安感に襲われる。
「神仏の善し悪しは必ずしも信仰の寡多で決まるわけではありません。まぁ……善い神様に信仰が集まるの事実だと思いますけどね。心から信ずる者が一人でもいるのなら――立派な神様だと思いますよ? それに――」
「それに?」
「貴女以外に毘沙門天様の代理を務められる者はいないと――私はそう信じています」
或いは――千年前の寅丸がその言葉を聞いたならば、小躍りをして歓んだに違いない。
しかしながら今、白蓮のその言葉は『寅丸様』などと呼ばれるよりも余程に深く、鋭く、寅丸の心の芯に突き刺さり、出血させた。
――眩暈のする話ですね――
ぐらぐらと揺れる視界で白蓮の輪郭だけを捉えながら、寅丸は何とか言葉を捻り出す。
「前から疑問だったんですけどね聖、何だって私なんかをこの役に選んだんです?」
「貴女があの山に住む妖怪達の中で一番の人格者だったからです」
――『人格者』……ですか――
「ハハハ……」
寅丸は渇いた声で笑った。その眼には嘲るような、何かを諦めたような虚ろな光が浮かぶ。
「何か可笑しかったですか?」
やや憮然とした様子で問いかける白蓮に、寅丸は酷く投げ遣りな……平時の彼女からは考えられぬ口調で言い捨てる。
「ねぇ聖、妖怪は――妖怪という者は須らく人の心の闇から生まれるのです。いつか貴女の言ったとおり、人間は穢い生き物です。その穢い人間の最も暗く、澱んだ部分から生まれた妖怪が『人格者』なんて……可笑しな話だと思いませんか?」
僅かの間、二人の間を沈黙が支配した。
「……仮に貴女がそうだと思えずとも、私はそう信じていますし、信じ続けます」
「……そうですか……」
それっきり。寅丸は床に眼を伏せ、何も言わなくなった。
それを見ていた白蓮はやがて踵を返し、寅丸が躯を張って空けた穴から部屋を後にした。
それと入れ替わるようにナズーリンが部屋に入ってきた。
「おーい、ご主人、大丈夫かい?」
「ナズーリンですか……いけませんね、聖と喧嘩しちゃいましたよ。一輪は?」
寅丸はアハハと掠れた笑い声を上げながら、ナズーリンに手を借り、やっとこさといった具合で起き上がる。
「あの尼なら聖について行ったよ。いやー、それにしてもさっきのアレは笑わせて貰った。やっぱ聖がいると退屈しないよねぇ」
「ナズーリン、余り主人をからかうものではありませんよ? 貴女ならその無駄に良く回る口でフォローの一つも出来たでしょうに……」
「嫌さ、そんなの詰まらない」
主を主とも思わぬ発言を平気でするナズーリンであるが、寅丸の方もそんな彼女を咎めるつもりなど毛頭無い。二人にとってこんなやり取りは日常茶飯事であり、いちいち気にしていたのでは会話などしていられない。
「それにしても……ほんと派手にやられたみたいだねぇ……死にそうな顔してるよ?」
寅丸の顔を下から覗き込み、僅かばかりの心配の念を含んだ声で言う。彼女にしては殊勝な態度である。
「ええ、拳も痛かったですけどね……」
そう言って寅丸は俯く。本当に効いたのは言葉の方だ。頭の中では未だに白蓮の言葉が反響してけたたましい音を立てている。
そんな主人の様子を見たナズーリンは一つ大きなため息を吐いたかと思うと――
「ほんと、勘弁して欲しいもんですよね? ご主人の頭なんか元からネジがゆるんゆるんでその辺歩いてるだけでも持ち物と一緒にポロッポロ落っことしちゃうってのに……あんな馬鹿力でぶん殴られた日にはそりゃあそうなりますよ。唯でさえお花畑な頭の中がこれ以上アッパラパーになったらどうするつもりなんでしょうね?」
「ちょ……ナズーリン?」
ナズーリンの憎まれ口には慣れている寅丸であってもこれには些か驚かされた。この鼠、遠慮というものが無い。
呆気にとられる寅丸の事などお構いなしにナズーリンは口撃を続行する。
「脳に後遺症とか残ったらどうしましょうね? 週三回の失くし物が週五回に増えるとか……ああ、失くし物と言えばこの間のなんかは酷いもんでしたよね? ご主人、何て言って私に泣きついて来たか覚えてますか? 『助けて下さいナズーリン! こしょーまるが! 私の大事なこしょーまるを失くしてしまいました!!』って。意味不明ですよね? 胡椒丸ってなんですか胡椒丸って、調味料ですかってなもんですよ。よくよく話を聞けば愛用の独鈷杵の名前が虎星丸(こしょうまる)だって言うじゃないですか。千年近く連れだった仲ですけどあれには吃驚仰天ですよ。どんなネーミングセンスですか。いやいや分かりますよ? 子供に自分の字を入れるとか基本ですもんね? でも全部入れる人は初めて見ましたよHAHAHA!」
「ナズーリン! 言わせておけばこの――!」
いい加減堪りかねた寅丸が声を上げ、ナズーリンに掴みかかる。その眼光は鋭く、先程までのしおらしい雰囲気は欠片も残っていない。
ナズーリンは激昂する主人に怯む様子も無く、不敵な笑みを浮かべている。
「なんだいご主人? 言いたい事があるなら言って御覧よ? ホラ?」
顔の前に立てた人差し指をチョイチョイとやり挑発する。歯を食いしばり口を閉ざしていた寅丸であったが最早勘弁ならぬとばかりに口を開き、悪態を撒き散らす。
「何ですか先程から人が大人しく聞いていれば頭がアッパラパーだのネーミングセンスがカタストロフィーだの好き勝手絶頂言ってくれるじゃないですか!? 聖お手製のマイ鈷杵にどんな名前を付けようがそれこそ私の勝手です!! それに――確かに頭のこれは直生えですけどね――中身までお花畑にした覚えはありませんよ! 何ですかその哀れむような顔は! 頭から蓮の生えた生物がそんなに珍しいですか!? そういう貴女だってしょっちゅう腹を空かせた子ネズミ達に尻尾を噛まれてチューチュー泣いてるくせに! それだけじゃありません、貴女が総身のカルシウムの許す限り無制限に伸び続けるその前歯を密かにコンプレックスに思っている事だってお見通しなんですからね! 毎朝毎朝早起きしては人目を忍んでガリガリとヤスリ掛けしてるのに私が気付かないとでも思いましたか!? それから――それから――」
「ほうほう、それから?」
寅丸の半ば自暴自棄とも思える暴言の数々にもナズーリンは動じない。むしろ愉しくて仕方が無いといった様子である。
一方、吐き出すだけ吐き出して幾分気が楽になったのか、寅丸の表情も先程より明るいものになっている。
そう、寅丸とて先程のナズーリンの無礼千万な暴言の数々が自分を想っての事であることくらい理解している。
だから寅丸は言うのだ。
「……ありがとうございます」
「こりゃ拙い。明日は槍が降るね、湖畔のお屋敷付近には要注意。あとご主人は竹林の薬師のとこへ。重症だよ」
「全く、貴女は本当に口が悪いですね――何なら一緒に来ますか? 悪い処は直さないといけませんよ?」
破顔一笑。ナズーリンの荒療治によって寅丸はすっかり――かどうかは兎も角、気を持ち直したようだった。
「さて、ようやくご主人が元に戻ったみたいだから訊くけどさ……どうすんのさ聖。あの調子だと何時まで経っても『寅丸様』だよ?」
「そうですねぇ……ふふふっ」
「なんだい急に笑い出して、気持ち悪いな」
「いやぁ、考えてみれば贅沢な悩みだと思いましてね? ついこの間まではこんな風に考える事すら出来なかったんですから」
「……そうだね。それもこれも聖が居てこそ――って、ご主人? 何してんのさ?」
寅丸はおもむろに居住まいを正したかと思うと、ナズーリンに向かって深々と頭を下げた。
「貴女には本当に感謝してます。貴女が宝塔を探し出して来てくれなければ聖の復活は為し得ませんでした」
「へぇ~、感謝ねぇ……どういう意味かな? 部下として? 仲間として? それとも――」
からかうような眼で自分を見るナズーリンに寅丸は屈託の無い笑顔で言ってのけた。
「勿論、共犯者としてです」
「あっ、そう」
さも詰まらないといった様子でナズーリンはそっぽを向く。
寅丸は苦笑し、船室の窓から外を見る。何時の間にか太陽は高く高く昇り、燦々とした光を幻想の地に降り注がせている。
「好し!」
両手でピシャリと顔を打ち、寅丸は元々真っ直ぐな背筋を更にピンと伸ばす。
「ナズーリン、少しの間留守にします。聖の事をお願いしますね? 行き先は――」
「言わなくたって分かるよ。ご主人がここ以外に行く所っていったら一つじゃないか。でも何で? 今更あそこに言ったって何にも無いだろう?」
「ええ、まぁそうなんですけどね、心辺整理とでも言いましょうか……思うところがありまして。ああ、聖達には行き先は内緒でお願いしますね?」
「ふーん、まぁいいや。いってらっしゃい、ご主人。気をつけて」
ナズーリンはつっけんどんな物言いで手を振り、寅丸を送り出す。
寅丸はニコリと微笑んで手を振り返す。
寅丸とナズーリン。弟子と部下、或いは代理と監吏。
二人が今のような関係を築くまでの道のりは決して真っ直ぐでも、平らなものでも無かった。
聖も――或いは地底に封印され、袂を分かっていたムラサや一輪さえも知らぬ紆余曲折の果てに今の二人がある。
互いに口は悪くとも、例え端から見ればそのまま猫鼠の仲であろうとも、長年連れ添った二人の間には確かな絆がある。
それは判り辛いものであり、解り辛いものだ。
愛情ではない。友情とも言い難い。その一端でも言葉にすれば888字程度になるだろう。その程度なら語ろうか――
――Day with at one time――
ある朝、ナズーリンはとてもいい気分で眠っていた。
「ナズーリン! ナズーリン! 起きて下さい! 大変です! 大変なんですよぅ!」
「なんだいご主人、まだ卯の三つってとこじゃないか……」
ごしごしと瞼を擦りあげるナズーリンの都合などお構いなしといった様子で寅丸は乱暴にナズーリンを叩き起こし、言い募る。
「蓮が……頭の花飾りを何処かに落としてしまったんです! 捜して下さい!」
「何かと思えば……放っておきなよ。そうすればまた生えるって」
「生えません! あれは聖に貰った大切な物なんです!」
寅丸は非難と悲哀のこもった目でナズーリンを見つめている。彼女に断られたら打つ手が無いといったところなのだろう。
「……やれやれ、鼠使いの荒いご主人だ」
「それじゃあ!?」
「行って来るよ。赤味の多い夕食を期待してるよ?」
「ありがとうございます! ナズーリン!」
寅丸は彼女の行動に報いるため、腕によりをかけ鼠の唐揚げを作って帰りを待つことにした。ネコ科の自分の好物であるし、鼠は共食いをするので問題無いと考えたのだ。
その日、ナズーリンは帰って来なかった。寅丸は一人寂しく彼女の同胞を平らげた。
「ナズーリン! 心配したんですよ!?」
「悪いねご主人。花飾り、見つからなかったよ……」
明くる日の昼頃になって帰って来たナズーリンは決まりが悪そうに言った。彼女のダウジングとて万能では無いのだ。
「そうですか……いえ、もういいんです。そんな事より貴方が無事で良かった。聖もきっと許してくれるでしょう」
寅丸は安堵していた。実のところ昨晩食べた唐揚げの中にナズーリンが混ざっていた可能性を思い、気が気では無かったのだ。
「代わりと言っちゃなんだけどね……ホラ、好く似合う」
「あ……」
ナズーリンがおもむろに取り出し、寅丸の頭に乗せたのは本物の蓮であった
「生ものだからすぐに枯れちゃうけどね……可愛いよ。駄目かな?」
「そんな事ありません! ありがとう……大切にします。絶対」
寅丸はナズーリンの優しさに涙し、疲れた彼女の躰を優しく抱きしめた。
それ以来、寅丸の頭の上ではその時の蓮が咲き誇っている。根付いたのだ。
――Returned――
……とまぁこんな具合である。
清と濁が入り混じり、好きも嫌いも噛み砕き、結果、お互い相手が自分をどう思っているのかすらよく分からないまま今に至る。
二人ともそれで良いと思っている。肩肘張らず、自然体でからかい合い、笑い合える。そんな距離が心地よかった。
――まぁ……腐れ縁っていうのが一番しっくりきますかね?――
心中で一人合点をし、寅丸は自分を見送ってくれる部下に元気良く、しばしの別れを告げた。
「それじゃあ行ってきます! ネズーミン!」
「寅丸君、君は本当にバカだな。」
肝心な処で人の名前を間違えないで貰いたいものだ。
ネズーミンはため息を吐きながら頼りない主人を見送った。
――To be Continued――
なん…だと…
続編に期待しておきます
………(°д°;)!?
すまん、たぶんこれは宗教用語じゃないと思うから教えてくれ。
ググってもわからんかった。
pixivで がおー で検索することをお薦めします。
ちょwwwあっさりと何凄い事をwww
来たか……