ひたり、ひたり。
ぽつり、ぽつり。
ぴちゃり、ぴちゃり。
灰色がかった空。湿った風はやがて雨と共にやってきた。
昼過ぎなのに、夜が近いくらい、辺りはひっそりとしている。
私はぞろぞろ連なる一団の先頭を歩かされていた。背後からは泥を蹴飛ばす靴の音が重苦しくある。
唐傘をさして行列は歩きまわる。目的などなかった。
里を、湖を、森を、竹林を。
誰かにこのことを知らせようと躍起になる気もないのに、そこらをうろうろ徘徊していく。
ようやく納得したのか、進路をある一点に絞った。
道を曲がり、ゆるい坂を上っていく。石畳の階段がずらり、天高くそびえていた。
後ろのほうでは少しざわめいている。きっと辛いからだろう。
決して早いとは言えない、大行進はついにその足をとめた。
古い神社がぽつりとある。鳥居の朱色はところどころはげ落ちて、社殿の踏み板は腐っている。
もういいの?
そう、私は問うたのだ。
もういいのよ。
そう、誰かが応えてくれた。
おそらくは知り合いだっただろう、心配そうにのぞきこんだ瞳が印象的だった。
私は続々と上ってくる人を階段の上から見ていた。みんな似たり寄ったりで気持ちが悪い。
それは蟲にもとらえられてきたから余計に気持ちが悪かった。
さあ、こちらへ来なさい。
私の問いに応えてくれた人に導かれて、私は人だかりの中心まで歩み出た。
長方形で、木で作られた大きな箱。それは一生に一度、みんな入るって言っていた。
小さな蓋を取り外されて、私はそこをのぞこうとする。
でも、背が小さくて、つま先立ちでもダメだった。
そんな私を見ていた男の人が私を軽々と持ち上げて、穴のところまで運んでくれる。
あいさつしてあげてね。
うん。
頷いて、改めて見る。
真っ白な服、赤いお顔、お花がたくさん。
幸せそうな人が眠っていた。やせ細った顔で、幸せそうな顔をして。
とても人に好かれていたんだと思う。いつも誰かとお話していたのは覚えていた。
私は幸せだった人に言うんだ。
さようなら、お母さん。
私はいら立っている。
主に寝不足でいらいらしていた。
「霊夢、ほら早く支度しなさいな」
目の前でちょろちょろと世話しなく動きまわる当人は笑顔満面でいた。
何の前兆か、こいつが朝からうろちょろしている。
何日目の朝だ? 彼女に起こしてもらいはじめてから果たして幾日たった?
「支度も何もないわよ、今日も依頼はこないし。だらだらしても変わらない」
「急な用事で来るかもしれないわ。貴女は疲れているからとか言って無下にする気?」
「うるさいわね……」
八雲紫。私が物心つく前からこの神社に顔を見せていたという妖怪。
顔もロクに知らない私のお母さんを知っている、数少ない人。
でも、だからって。
「こう何日もぎゃあぎゃあされてちゃ、ストレス溜まりっぱなし」
この隙間ババアに聞こえない溜息を二つ、ちゃぶ台に滑らす。
気持ち悪い。胸がひどくむかむかしていて、胸やけしていないのに痛い。
ちりん、ちりん。
高く短い音が断続的に響いてきていた。
音の正体は、私が下の商店で買ってきた風鈴。デザインが気に入って衝動買いしたくらいに魅せられた。
「江戸?」
「違う、南部鉄器よ。というか、ガラスじゃないでしょ、これ」
指差す先に吊るされている風鈴は鉄でつくられている。
確かに江戸の風鈴も存在している。しかし、あれはガラス製。
鉄で作られる風鈴で有名なのは南部鉄器なのだが、彼女は知らないのだろうか。
そんな間の抜けた会話を二、三つ投げ返す間にも、紫はエプロンなんて着けて朝食を拵えている。
外の世界の音楽を鼻歌で再現しながら調理する様は、あのぐうたらした紫とは別人だ。
「霊夢、今日は和食で良かったわね?」
「別に何だっていいじゃない」
「いつも何を食べているの?」
紫が来る前の自分の食生活を思い返してみる。
もやしの味噌汁、もやしの炒め物、もやし……
「その顔じゃひどい食生活ね」
否定できないところが非常につらい。
もやしがいくら安価だからって、気付いたらもやしを買いあさる自分をはたから見る店員は何を思うだろう。
そういえばもやしを売ってくれる店長さん、最近オマケが多くなってきたけど……まさかね。
「ほらほら、朝ごはんが冷めちゃうから食べましょ」
動き回るのに適さないフリフリ服を着ておらず、白いワンピースに黄緑のエプロン。
妖怪ババアを除けば恐るべきプロポーション、思わず見物料を差し出したいくらいに整った姿はなるほど人間も妖怪も恐れるわけだ。
焼き魚を箸で軽くつついてみればぷちりと張りつめていた皮が破れて真白な身がその豊満さを見せつける。
わたは苦味が強く、人を選ぶ部位になっているけどある意味悪食な私にはちゃんと残っていた。
質素といえば聞こえが良い、はっきり言って惨めな私の食卓は今美しいほどに彩られている。
だが、それはあんまり重要ではない。
作ろうと思えば私にだって簡単に作れる。
何てことはない、これはただの朝食に過ぎないんだ。
「美味しいかしら?」
「ええ。文句のつけどころはあまりない」
そっけなく言う私におかまいなし、花が咲いたような笑顔を振りまく紫を直視できない。
だから味噌汁の水面に自らの捻た顔を映している。黙って啜るも茶碗の向こう側で笑顔の彼女が見ているに違いない。
笑顔の彼女を見れば見るほどにまともな反応がしづらい。
調子がくるってしかたがない。
「何であんたはここ数日私に優しいの?」
間が持たなくなって、私は話を振ってみる。余裕がないのにこれ以上余裕をなくす行動に出てどうするのか、それすら計算できない。
「何ででしょうねぇ」
開け放した障子の先に、庭が広がっている。私が手入れをかかさないおかげでそれなりに見ることが出来る。
何代もの「私」が住んでいたこの神社と、庭と、土地と、人脈が遺産で、それしかない。
私は知らない。
お母さんの写真も、お祖母ちゃんの写真も、ひいお祖母ちゃんの写真も。
写真は今でも買うことができない。そもそも写真機自体高すぎた。
あの文でさえ、昔は写真の魅力に取りつかれて働きづめだったらしい。
そんなのだから誰も写真機を持っていない。誰の写真も残らない。
あるのは、人相書きと人々の語る「お話」と記憶の中。
「私がそうしたかったから、じゃダメ?」
「ダメ。理由が訊きたい」
私はすでに料理をたいらげていた。邪魔する要素はない。
紫はそのことで撒こうとしていたのか、ちゃぶ台を見てからまた庭を見る。
横顔からは心情が読み取れなく、ただ待ち続けている時間が長い。
やがて顔をふるふる振って立ち上がった。
「条件があるわ」
「どんな条件?」
紫は料理皿を流しに持っていき、蛇口をひねった。それほど冷たくない流水をどばどば垂れ流しながらゆっくり洗う。
「写真機……あれを私にくれるなら、話してあげる」
「写真機!?」
紫が提示した条件は、相当なものだ。
古い写真機が幻想入りしたらしい(古物商の彼曰く)が、まだまだ高価で一般人がホイホイ手を出せる代物では決してない。
写真機はフィルムも必要だから、実質写真機といくらかのフィルムが必要である。
フィルムは河童に依頼すれば問題ない。写真機だってきっと文が安いものを知っているはず。
それ以前に、私にもっとも重要なファクターがない。
「金が極端にない私に、その条件は究極の難題だ」
「果たして蓬莱の輝夜ちゃんが出すのとではどちらが難しいかしらねえ?」
「明らかに後者でしょ!」
期限は無期なのがせいぜいの助かり。
洗いものをする紫をしり目に、私は必死に頭を回転させる。
金が最も多く、なおかつ手早く稼げるか。
多少の危険なんて慣れてるからその点はクリアしている。
商才も文才もない私が得意とする資金獲得方法など、すでに確定している。
「依頼解決……!」
退治しながら金を得て心証を上げることが容易な、私の生業のひとつ。
神社の巫女が大義を振りかざして人妖かわまず退治するのもどうかと思う。
「私は金を得なくてはならない。そのためにはあらゆる手段も合法とかすのだ!」
まさしく職権濫用。社会に属することが絶望的な私は、この幻想の地で生きていることに感謝したい。
思い立ったら行動開始が博麗の巫女の心情。
「ゆかりっ、ちょっと依頼解決してくるわ!」
「いってらっしゃ~い」
間延びした穏やかな声に背中を押されて、私は神社の階段を思い切り蹴り飛ばした。
紫が博麗神社を訪れなくなったのは、条件提示の翌日からだった。
まるきり二か月はたとうとしている。
霊夢はその二か月の記憶があまりなかった。
博麗神社に戻っては依頼の相談、即座に解決、そしてまた相談に乗る。
仕事人間、とでもいえば体裁は何とか保てたが、実際は廃人だと揶揄されていた。
二か月、仕事にすべてを捧げた。ここしばらくは平和で何の依頼もやってこない。
無理からぬ話だ。霊夢が通常では考えられないペースで退治するものだから妖怪たちはすっかりおびえている。
順調に見えていたのは表面だけであって、中身はボロボロ。まるで張りぼてである。
「過労よ」
魔理沙が連れてきた月の人にしておそらくは幻想郷最高の医師、永琳の診断結果をいましがた聞いた霊夢は、溜息をついた。
不安から安堵への移り変わりがありありと分かるくらいに。
「だーから言ったじゃねえか、霊夢。そんなに働いたら体壊すって」
「だってえ……」
診察と薬代を払う魔理沙の手には、大きな袋。とても片手じゃ支えきれない程の、重量感である。
その中には、金、銀、銅の貨幣がぎっしり詰まっている。
霊夢の二か月の集大成の一部を、自らのために払うのが悔しいが仕方がない。
「今日一日ゆっくり寝ていれば明日の朝には全快するから」
永琳が去ったのを確認して、魔理沙が霊夢を見る。瞳の中はたくさんの星が映ったままで。
「よくこんなに貯まったな。分けてほしいくらいだぜ」
「ダメよ。それは写真機代だから」
「へ? 写真?」
畳に胡坐をかいて、魔理沙は霊夢の話に耳を傾ける。
「二か月くらい前、紫がやけに優しかったのよ。えらく気になって問いただしたら……」
「なーる、交換条件ってやつ?」
理解が早い友人で非常に助かる。
コクリ、頷いて先を進めた。
「仕事に明け暮れてどうにか手に入った。写真機さえあればあいつから話が聞ける」
ほんの少し、プロセスを挟んでしまったが、ここまで来たのなら瑣末な問題として扱われる。
ちょっとした喜びをかみしめている霊夢に、魔理沙は水を指した。
「ちょっと待て。紫が写真機をほしがる理由も分からないが、写真機を手に入れて、話を聞いて、そしたらこの写真機はどうするつもりだ?」
「……あ」
霊夢は目を丸くした。
そこまで考えていなかったのだ。ただ話を聞くためだけに買ったのだから、当初の目的は果たしている。
だが、考えてみれば、これは写真機だ。写真機は写真を撮るために存在しているのであって、他人から話を聞きだす物ではない。
写真なんて撮ることがなかった霊夢はただ横になっている。
ふと魔理沙が手を打ち鳴らした。
「いいこと思いついたぜ。写真なら文が一番じゃないか」
聞きなれた天狗の名を引っ張り出してきた魔理沙に、眉をひそめながらたずねる。
「写真の撮りかたでも教わろうっての?」
「それがなんだ? 当然だろ、写真機なんだから」
物は使ってこそ物としての価値が生まれる。
このままほったからしにされてはこの写真機があまりに不憫と思った。
よって、その道のスペシャリストに頼む。
「よっしゃ、ちょっくら呼んでくるわ」
「ちょっと待ちな……行っちゃった」
高速移動が得意な魔法少女はすぐさま巫女の視界から颯爽と消えていった。
ちりん、ちりん。
風鈴は荒々しい風に流されながらも涼しげな音色を響かせていた。
「紫、ちょっと一緒に遊ばない?」
「……は?」
いきなり呼んでもいないのに現れて、言葉は唐突すぎて。
私にとって、それは意味不明の範疇にある。
「魔理沙に言われて気付いたんだけどさ、写真機は撮ってこそ写真機じゃない。だから有用に使うことにしたの」
「それはいいことね。それで、それと遊ぶのに何の関係があるのかしら?」
「こいつを欲しがっていたのはあんたでしょうが。つまり、写真を撮って欲しかったってことよ」
正論だ。まさに理にかなっている。
実際、私は彼女の言ったとおり、写真を撮って欲しくて写真機を所望した。
だけど普段から惰弱な精神の娘がたかだか二か月であれを手に入れてしまう。その点は想定外。
心の準備が出来ていないのに、相変わらずこの娘は性急すぎる。
「大当たり。でもやるわね、二か月で手に入れるなんて」
「仕事中毒にでもなればこんなものよ。何度も死にかけたけど」
死にかけた。恐ろしいことをケロっとした顔で言い放つ姿に、一抹の不安を感じずにはいられない。
さすがは博麗の巫女といったところか。親譲りとはこのことを言うのだろう。
「いいわよ、霊夢。行くところとかは決定済みなの?」
「う~ん……とりあえず幻想郷をぐるっと回ろうかって」
「大きく出たわね」
「どしょっぱつは景気良くいくの!」
霊夢の、からかったらすぐムキになる単純な性格を私は好きだったりする。
藍に伝えておこう、昼はいらないと。
私は寝室の壁に立てかけていた日傘を手に取ると、霊夢の前に隙間を出した。
「スタートは何処?」
「私の神社へ続く山道」
言うが早いか、軽快に隙間に飛び込んで行った霊夢の背中を見て、私も静かに飛び込んで行った。
後にも先にも、こんなことは最後だけどね。
山道に降り立った二人は出来る限り徒歩で、幻想郷の各所を訪れて行く。
青々とした森林浴を楽しみながら、それほど舗装されていない道を下っていく。
「暑いわね」
「うん、暑いけど、風が気持ちいい」
間をすり抜けて足元から吹きあがる風に汗の玉が飛び散る。
植物の葉や枝に阻害されて、日光は切れ切れにしか来ない。
蒸し風呂に近い環境を三十分も歩けば、汗がダラダラ流れて脱水症状になる。
「もっと多くの子たちが生きるとしても、自然は豊かであってほしい」
「多くの子たちって、アンタどれくらい増やす気?」
「今の数百倍……いやもっとたくさん!」
「日本沈没するって! 島国の日本、住むほどの領土が足りないよ!」
木々が消えたら人里へ到着。
「……あら~誰もいない」
「いないわね~」
カラカラと枯れ草の塊が転がりそうな図式だ。
寺子屋に授業風景もなく、商店は店を閉めている。
祈りをささげる敬虔な信者も腕白小僧もいない。
「詰まらない。のどが渇いた」
「すっかり子供ね」
「うるさい! それより紅魔館へ行って水をたかりに行きましょうよ」
ニコニコ笑う紫を引っ張りながらフラフラしていけば、紅魔館が見えてきた。
全貌が見えるようになるにつれて、何やら声が聞こえてくる。
祭囃子みたいな楽曲も耳に届いている。
そこで、門の前に立ち尽くす門番メイドに大声を張り上げてみた。
「何をしているのー!」
たっぷり七秒、返答が突き刺さった。
「お茶会ですー!」
門をくぐれば、ちょうど正面の庭でお茶会が行われていた。それもいつもより賑わっている。
「あら、霊夢。ようこそ紅魔館へ」
「レミリア、皆もお茶会に誘ったの?」
辺りにいるのは妖精メイドたち。至極楽しそうにお茶を飲み、談笑している。
くるくる踊っているのもいれば音楽を演奏しているものもいた。
それだけじゃない。妖精メイド以外に、人妖問わず多種多様なものがあちこちに。
お茶会よりパーティーのほうがしっくりきてしまう盛況ぶりだ。
「ええ。そうよ。今日は騒ぎたい気分だったから、まとめて招待したのよ」
里のほうが妙に静まり返っていたのは、住人がこちらでお茶を飲んでいたという訳になる。
少人数で楽しむのが英国人の上流階級と言っていたのは、果たして本当だったのだろうか。
ひどくどうでもよいことを考えながら、メイドから差し出された紅茶を飲む。シナモンティーの風味が舌に残った。
「八雲紫、来てくれて嬉しいね」
「恐悦至極でございますわ」
「ハッ、心にもない世辞を言う。ま、気分がいいから見逃してあげる」
「ふふ、相変わらずのワガママぶり、スカっとするくらい」
ぺったん、残念な胸を力いっぱい反り返って偉そうな態度をするレミリア。
『ほめた訳じゃあ無いのにねえ』
紫が扇子で口元を隠しながら霊夢に耳打ちして、二人だけでこっそり笑ってしまう。
「いらっしゃい二人とも! ゆっくりしていってね!」
忙しそうに回っている咲夜がこちらへ寄ってきた。レミリアのテーブルの上に置いてある空の皿とグラスをトレーにある物と取り換える。
給仕としてその存在ぶりを遺憾なく発揮できる、それがさも嬉しそうに咲夜の顔には笑顔しかない。
「掃除よりこっちのほうがあんたは似合ってる」
「そうでしょ、そうでしょ? お掃除もいいけど、給仕はもっと好きなのよ!」
霊夢の指摘に、咲夜は笑顔を振りまいた。
時々見せるこの無防備な笑顔、咲夜の地が現れるのは滅多にない。
貴重な場面を以前の霊夢なら見て終わるだけ。
だが、今の霊夢は以前の彼女が絶対に持っていない物を所持している。
写真機の使い時とばかりにシャッターを切った。
「咲夜の紅茶はいつも美味しいわ。私は幸せ者よ」
「そ、そんなあ!! 勿体ないですよお! そんなお言葉をこの私めに!」
普段しか見ていない人なら絶対違和感を感じるこの光景は、しっかりフィルムに焼きついた。
カリスマたっぷり、威厳を損なわないレミリアと、カリスマが崩壊してなぜか腰が低いハッピー状態の咲夜。
ある意味恐ろしい現象が平然とこの場にある。
「……一種の異変ね」
「流石の私も、少々うすら寒くなってきているわ」
境界を管理する人妖同士、腕を抱えて身震いした。
体が冷えてきた中で耳に突き刺さったのは情熱的な声色。
「霊夢、私の人形劇を見に来てくれたのね!」
「いや、フラフラしたら偶然出てきただけだし、なんだよその唐突な登場」
人形と共に走ってくるアリス。いつものミニから等身大まで幅広く、霊夢は恐怖のあまり後ずさった。
「ひどい! そんなに逃げなくなっていいじゃない!」
八体の人形と踊りながら優雅に一礼したアリスは、両手を器用に動かして人形を巧みに操っている。
人形たちは霊夢と紫を取り囲んで奇妙な踊りを始めだす。
「ねえアリス。あんたの人形術が幻想郷一番の腕だって認めてあげるから、止めて」
「ようやく劇も板についてきてさ。お客さんも増えたんだよ! アリスの人形劇はそこそこ有名なんだから」
アリスは全く話を聞いていなかった。自我が強い彼女は興奮すると人の話に耳を傾けることをしばしば忘れる。
「うどんげも時々手伝ってくれるんだ。あの子の幻視でよりダイナミックに演出が出来てさ!」
狂気の視線を幾度も観客に浴びせたら里の診療所か永遠亭行きになるのは間違いない。
この人形師は、どうやらそこまで練ってはいないと霊夢は感じた。
「……それで? ただ鈴仙の手伝いだけで成功したんじゃないでしょう?」
あきらめて、アリスの話に乗ってやることにした。
アリスが人形劇を始めるきっかけは、技術向上を目的にした実践だったらしい。
ところ構わずしていたために村人の目に留まり、アリスも嬉々として劇を開いた。
それを噂で聞いたのはずっと前である。
だが、アリスが人形劇をやっている現場を見たのは二か月前の依頼解決で奔走していた時に何度か目撃した。
当時はそれほど人気は無かったはずの劇が、どうしてこの紅魔館の庭の一角を占めるほどの盛況ぶりになったのか。
「一か月くらい前かな? 紫が指摘してくれたのよ。最初は頭にきたわ。『人の芸に口出しするな!』って」
アリスはうんうん頷くといつの間にかアリスに連れ添うように配置された人形も一斉にカクカク動き出す。
幼子なら逃げ出しそうな雰囲気を生み出していた。
「でも後々になってその重要性に気付いたのよ。そして改善したら何と大当たり!」
八体が一斉に飛び跳ねて踊りだした。アリスを祝うかのように。
祝賀気分の人形師へ、紫がやっと口を開いた。
「おめでとう。けどその喜びはアリスが努力したからよ」
ハッとして現実に一気に回帰したアリスは赤面して掌をひらひら振る。
「謙遜なんてしなくていいわよ」
二人の間を割って入る奴が出た。
「アリス姉ちゃ~ん! また劇を見せてよ~!」
「もっと見たい~!」
「きれいなお姉さんだ! 私もあんなになりたいなあ!」
ぎゃあぎゃあ大声で喚き散らす里の子供たちにアリスは赤面したまましゃがみこんだ。
「はいはい。せっつかないでよ、もう」
呆れた言葉でも、顔が綻んでいたら効果がない。
「じゃあ私はこれで行くわ。とにかくありがとうね」
アリスは子どもたちに引っ張られて輪の中に戻って行った。また人形劇をするつもりだろう。
一枚、フラッシュを焚かずにアリスと子供たちを撮った。劇をする人も、劇を見ている人も、とても楽しそうな顔をしていた。
「紫さん、お疲れ様です!」
「その節はお世話になったわ、紫」
続いてやってきたのは月人コンビ、永琳と鈴仙だ。
「夏祭りの時?」
「違いますよ、てゐのお仕置き作戦ですよ」
「ああ、そっち」
霊夢が二人いっぺんに会うのは数ヶ月前に開かれた宴会以来だった。
その後も宴会は開かれていたが、霊夢は写真機の代金を稼ぐためにことごとく断っている。
人に話せるほどの理由でもないことで、魔理沙を通じて断りをいれている。
話しかけづらい雰囲気にならないのは、紫が霊夢のそばにいるからだった。
「あの時は紫さんの協力なしではてゐをとっ捕まえられなかったですから、本当にありがとうございます!」
鈴仙はだらしなく長い耳も一緒に深々と立礼した。生来の生真面目さは半人前の剣士といい勝負になるだろう。
紫は特に動揺も見せず、余裕の微笑で面を上げさせた。
一歩鈴仙が引き下がれば、続いて軽い会釈と共に永琳が進み出る。
「いろいろ迷惑かけてしまったわね。いまさらだけど謝るわ」
「気にしないでいただけるかしら? 先に手を出したのは私ですから」
月に関して、二人の因縁は長い。
二度の戦い、そのどちらも紫の敗北で終結しているものの、当の本人から悔しさも僻みも感じられなかった。
長年の因縁は友情になりやすい、と霊夢は改めて実感した。
月の二人は無理やり連れてきたてゐに頭を下げさせて、自分たちの姫と旧友の元へ歩いて行った。
霊夢は写真機を構えて撮影した。出店の焼きうなぎを齧りながら珍しく語り合っている蓬莱人と傍らで酒を嗜む月人が静かに映っている。
「あら~? 紫じゃない~?」
「ハーイ、幽々子。変わらない大食嬢ぶりで安心するわ」
幽々子が中華まんを抱えて寄ってくる。
霊夢は幽々子に苦手意識が少しある。それは、幽々子の考えが読みづらいから対応に困ってしまう、というのが主な原因。
幸い幽々子は霊夢など眼中なしとばかりに紫しか見ていない。
「おや、霊夢さん。やはり訳ありだったのですか?」
そんな主をひたむきに想い続ける半人半霊の従者、妖夢が同じく紙袋を抱えて走ってきた。
やっとまともに話すことが出来そうだと確信して、霊夢も口を開く決心をする。
「写真機……? 文さんが持っている、あのカメラのことですか?」
「そう、でもこれは古いから写真機なのよ」
「へえ……おぉ……」
霊夢から手渡された写真機をあちこちから眺め回す妖夢が滑稽に思えて、必死に笑いをこらえる。
実は妖夢がしているのは、先日自分がしたことと寸分違いない行為なのだ。
見たこともない、手にしたこともない正体不明な物体をどうしようもなく眺めて、溜息をついて、やがてあきらめる。
再び霊夢の手中に写真機が収まった。
「とても古いですね」
「ええ、お店で売っていた、もっとも古くて安物」
「動くんですか?」
「うん。大丈夫。動作は保証する」
さしもの霊夢といえど、そうそう大金が手に入るはずもない。
射命丸文が記者になるずっと昔、延々と働いてようやく買うことが出来た品を、二か月で同じようにはいかない。
安物で古い写真機だったが、とても頑丈で、撮影可能な範囲が広かったのは救いとなった。
「どうして写真を撮ることにしたんですか?」
妖夢をファインダー越しに見つめて、そしてその辺りをややズームしながら無意味に写真機をいじくる。
「自分の昔話を聞くためだったんだけど……正直、どうでもよくなってきたなあ」
幽々子と紫。古い付き合い同士は話も積もる。
時折見せる子供っぽい笑顔を見ていれば、誰だって目的を失いそうになる。
霊夢はこの時、昔話に興味を向けておらず、ただ紫に向いていた。
紫の口から聞かせてほしかった。自分の先祖たちの色々な話をその口で、その顔で、その声でしてほしかった。
「実はね、自分の昔なんて慧音に訊けば簡単に教えてくれるんだよ? 自分の肉親関連ならなおさらね」
歴史を取り扱うあの知識人なら二つ返事でかなえてくれるに違いなかった。
「何て言うかさ、紫が優しかったことなんてそんなに無かったのよ」
いつも人に何かをけしかけては勝手に解決させる妖怪。
賢者らしい知謀で惑わしてそれすらも余興のひとつにしてしまう。
「そうですね~。確かに紫様が尽くすというのは驚きです」
「あんたは経験がないの?」
「はい。生まれてからは師匠に躾けられて、私が二代目になってからは幽々子様に引っ張り回されて」
苦笑いをしながら妖夢は当時を懐かしんでいた。三人で色々騒動を起こしていた日々が色あせて見えてしまうほど、今が楽しかった。
霊夢も妖夢の心情を多少なりとも理解できているつもりである。そこまで無粋でもない。
ひとしきりして、急に妖夢の顔から表情がそげ落ちた。
「ああ……でも、やはりそうなのでしょう」
霊夢に対して問いただしてはいない、それはただの独白。
「きっと幽々子様は気付いておられる。私は何も出来なかったか」
「何が?」
霊夢の瞳をのぞきこむ妖夢の顔に何もない。
白痴のごとく見つめてはすっと立ち上がった。
「分かる時がきます。そう遠くないうちに」
行儀よく頭を下げて妖夢は幽々子の元に戻り、そして二人は料理があるテーブルに歩いて行く。
釈然としないが、シャッターは切らずにはいられなかった。
フィルムに、困り果てた妖夢の顔と料理を片っぱしから喰っていく幽々子の姿が焼きついた。
「夕日がきれい。久しく見ていなかったなあ」
「風情を楽しまないと老けこむわよ?」
「うるさい、紫は年がら年中暇なだけでしょうが」
暮れなずむ幻想郷。斜陽が赤く山々を、里を、川を照らしていく。
霊夢たちは博麗神社まで続く石畳の階段の一番上に座っていた。
デートの最後に霊夢がここを選んだ理由が、紫にはとうに判っている。
「自然の流れを見るのは美しいわ。思わずため息をこぼしそうよ」
「あんたじゃないけど、私もそう思う」
あと一刻もたたぬうちに完全に端を過ぎて暗闇に包まれるだろう。
「霊夢、訊きたいことがあったでしょ?」
「ええ」
「話してあげるわ。優しかった理由」
紫は霊夢を見ていない。
霊夢は紫を見ていない。
触れ合っている手は握りあって、それだけで良かった。
「もうすぐ、私は自壊する」
ぎゅっ、と握る力が強くなった。
「この世界を生み出す前から私は生きていて、あなたたち博麗の巫女を幾代も見てきている。こうなることくらい簡単に察しがつくわね?」
「うん」
「私はどの娘も愛しい。あなたの母も、祖母も、みんな愛していた。もちろん、この世界の子を須らく愛している」
幻想郷の創造からこの日まで生き続けてきた紫も、寿命は存在する。
死神の使いを殺す、天人のまねをするつもりは毛頭ない。自然を愛してやまないのに、自分の自然を壊すことに躊躇いなどあるのか。
「後任は藍に任せてあるから心配しないでちょうだい。あの子ならきっと良くしていける」
「それであんたはどうなるの?」
「消滅するわ。ちょうどこの空が死にゆくように」
余裕もない。あの空が落ちた頃に、紫は死んでしまう。
気に入らない。ひどく気に入らない。
「あんたはどうして優しくしたの?」
「いままでの清算よ。私が行ったことに決着をつけるのは私しか出来ない。だから今までの分を払ったの」
「紫――」
「こちらを向いちゃダメ」
厳しく命令されて霊夢はびくっと硬直する。
その小さな頭を優しく抱く紫はつぶやくのだ。
「今私を見ないで。消滅が始まっていて、醜いから」
「関係ない。関係ないよ。私は紫の顔が見たい。見たいのよ!」
「お願い、見ないで」
紫が霊夢の頭を抱える力は強くない。引き離そうとすればいとも簡単に引き離せる。
霊夢が引き離せないのは、一度この手から離れてしまえば触れられない気がした。
「でも紫。わたし、まだ約束を果たせてない」
「いいえ、果たしてはずよ」
「ううん、まだ残っている」
写真機を高く抱え上げる。
「写真を撮ろうよ? 私たちの写真を」
紫は答えなかった。
しかし引き下がるわけにはいかない。
ここで引き下がったら、触れられない以上に後悔してしまうだろう。
霊夢は意を決して紫から離れて、改めて彼女を見た。
「ホラ、醜いでしょ」
紫の体は少し透明になりかかっていた。
体の端々から金色の粒子が風に舞いながら空へ昇っていく。
「きれいよ、紫」
霊夢と紫は石段から離れて境内に進み出る。
「最後に一枚だけ撮るから」
「分かったわ」
写真機のフィルムも残り一枚しかない。
買いに行く時間的猶予などない。
それに、一枚で十分だった。
「魔理沙、文、もうでてきたら?」
霊夢の後方、茂みからガサガサやってきたのは霧雨魔理沙と射命丸文の両名。
バツが悪そうに近寄ってきた。
「立ち聞きするつもりはなかったんだ。悪い、霊夢」
「あやや、いやあ、まことに済みません」
「そう思うなら最後にこれで撮ってくれる?」
霊夢が投げてよこした写真機を文が受け取る。
文は反論も茶化すのもしないで、黙って頷いた。
「それでは、賽銭箱の前に立ってください。はい、もう少し右で」
文の指示どおりに位置の微調整をする間、ずっと魔理沙は見ていた。
その視線は羨ましそうにもとれるくらいに、じっと見つめいていた。
やがて二人の距離が最良の位置になった。もう日が落ちかけている。
「スピードで撮ります。フラッシュは焚きません。一回きりのチャンスですけど、リラックスしてください」
「ええ、ありがとう」
紫のお礼に片手で応答した文がファインダーをのぞきこむ。
少しずつ狙いが定まる写真機を見ていた霊夢はそのままの状態で紫に訊いた。
「心残り、まだある?」
「もうないわ。だって、こんなに私は幸せだったもの」
握る手は強く、とても温かく。
悔いのない紫の声は透き通っていて、大きくないのに、皆の耳に不思議と届いた。
「霊夢、これだけは言わせて」
「もう黙ってよ。ピンボケするじゃない」
「霊夢、あなたを――」
空が落ちてゆく。斜陽が山の端に隠れる瞬間、大きく膨れ上がった光が一瞬だけ世界を明るくした。
刹那、文は待ち構えていたこの時に乗り遅れることなくシャッターを切った。
それから、十四度目の夏がやってきた。
霊夢は既婚者となって、博麗神社の巫女というよりは母という扱いを受けるようになった。
「懐かしいな、その風鈴」
魔理沙も婚約を控えている身で、ちょくちょくこの神社を訪れている。
霊夢の手によって吊るされた風鈴は、あの夏の頃に吊るされていた南部鉄器の風鈴。
空が落ちた翌日以降、風鈴をしまわれた。
「きっと、来る気がしたの」
「誰がだい?」
「誰だろうね」
二人で緑茶をすするのがいつの間にか様になってしまった。
幻想郷は藍の采配によって従来の平穏な様相を保ち続けている。
もう依頼解決を出来ない体になりつつある二人は、ある子に希望を託している。
毎日修行をさせて、かつての自分たち以上の使い手にならないと、近年多発する異変に対応できない。
「お母さん! ただいま!」
「噂をすればだな、霊夢母さんよ」
「茶化さないでよ、魔理沙。じきあんたも魔理沙母さんって言われるから」
とてとて走ってきた霊夢の子供を抱き上げて、優しく髪をなでる。
「今日はどこまで行ってきたの?」
「んとね、守矢神社の早苗おばちゃんに会いに行ってきた!」
「うわ、そりゃ結構な距離だぜ」
飛翔をせずにこの博麗神社から守矢神社まではかなりの距離と高低差がある。
朝日がのぼる前に出て行って、昼前に戻ってこれたのは驚異としかいいようがない。
「さすが霊夢の娘だ。親に似てスタミナは有り余ってるってか」
「うるさい、そっちだっていつまで魔法少女気取ってんのよ」
「心はいつでも十代後半だぜ」
火花が飛び交う視線と状況を全くの見込めない霊夢の娘は、霊夢の前髪を引っ張った。
「痛たたた……痛いよ、どうしたの?」
「お客さんが来てるの! すっごくきれいな人!」
「お客?」
霊夢たちが成人してから、ここの参拝客は比べ物にならないくらい増加した。
一日に何人かがお祈りを捧げるのは日常になっている。珍しいわけではない。
「なあなあ、どんな奴だった?」
魔理沙の質問に唸りながら、幼子らしいしぐさで考え出した。
「美人で、金髪で、おっきな麦わら帽子を被ってた!」
「美人で、金髪……?」
里の連中で金髪の麦わらの組み合わせは見たことが無い。
「あっ、あの人だ!」
「えっ? よく見えない」
「おーい! お姉ちゃーん!」
抱っこされたまま腕を激しく振るものだから、バランスが取りづらい。
フラフラしながら石段を見れば、確かに麦わららしき帽子をかぶった人が来た。
遠目だが、美人そうだ。
「どんな奴だろ? 見に行こうぜ、霊夢」
「ちょっと待ちなさいって! もう!」
足早の魔理沙に並んでその人に近づいていく。
「とりあえず、挨拶からかな?」
「まあ常道だな。そんで、気に入ったら今日の宴会へ連れていく!」
「気が早いわよ」
夏空があって、幻想郷はずっと平穏で、少女は大人になって。
この世界を創造してくれたあの人に感謝しなくてはいけないと、霊夢は思っている。
ちりん、ちりん。
風鈴が、懐かしいあの音が響いてきた。
ぽつり、ぽつり。
ぴちゃり、ぴちゃり。
灰色がかった空。湿った風はやがて雨と共にやってきた。
昼過ぎなのに、夜が近いくらい、辺りはひっそりとしている。
私はぞろぞろ連なる一団の先頭を歩かされていた。背後からは泥を蹴飛ばす靴の音が重苦しくある。
唐傘をさして行列は歩きまわる。目的などなかった。
里を、湖を、森を、竹林を。
誰かにこのことを知らせようと躍起になる気もないのに、そこらをうろうろ徘徊していく。
ようやく納得したのか、進路をある一点に絞った。
道を曲がり、ゆるい坂を上っていく。石畳の階段がずらり、天高くそびえていた。
後ろのほうでは少しざわめいている。きっと辛いからだろう。
決して早いとは言えない、大行進はついにその足をとめた。
古い神社がぽつりとある。鳥居の朱色はところどころはげ落ちて、社殿の踏み板は腐っている。
もういいの?
そう、私は問うたのだ。
もういいのよ。
そう、誰かが応えてくれた。
おそらくは知り合いだっただろう、心配そうにのぞきこんだ瞳が印象的だった。
私は続々と上ってくる人を階段の上から見ていた。みんな似たり寄ったりで気持ちが悪い。
それは蟲にもとらえられてきたから余計に気持ちが悪かった。
さあ、こちらへ来なさい。
私の問いに応えてくれた人に導かれて、私は人だかりの中心まで歩み出た。
長方形で、木で作られた大きな箱。それは一生に一度、みんな入るって言っていた。
小さな蓋を取り外されて、私はそこをのぞこうとする。
でも、背が小さくて、つま先立ちでもダメだった。
そんな私を見ていた男の人が私を軽々と持ち上げて、穴のところまで運んでくれる。
あいさつしてあげてね。
うん。
頷いて、改めて見る。
真っ白な服、赤いお顔、お花がたくさん。
幸せそうな人が眠っていた。やせ細った顔で、幸せそうな顔をして。
とても人に好かれていたんだと思う。いつも誰かとお話していたのは覚えていた。
私は幸せだった人に言うんだ。
さようなら、お母さん。
私はいら立っている。
主に寝不足でいらいらしていた。
「霊夢、ほら早く支度しなさいな」
目の前でちょろちょろと世話しなく動きまわる当人は笑顔満面でいた。
何の前兆か、こいつが朝からうろちょろしている。
何日目の朝だ? 彼女に起こしてもらいはじめてから果たして幾日たった?
「支度も何もないわよ、今日も依頼はこないし。だらだらしても変わらない」
「急な用事で来るかもしれないわ。貴女は疲れているからとか言って無下にする気?」
「うるさいわね……」
八雲紫。私が物心つく前からこの神社に顔を見せていたという妖怪。
顔もロクに知らない私のお母さんを知っている、数少ない人。
でも、だからって。
「こう何日もぎゃあぎゃあされてちゃ、ストレス溜まりっぱなし」
この隙間ババアに聞こえない溜息を二つ、ちゃぶ台に滑らす。
気持ち悪い。胸がひどくむかむかしていて、胸やけしていないのに痛い。
ちりん、ちりん。
高く短い音が断続的に響いてきていた。
音の正体は、私が下の商店で買ってきた風鈴。デザインが気に入って衝動買いしたくらいに魅せられた。
「江戸?」
「違う、南部鉄器よ。というか、ガラスじゃないでしょ、これ」
指差す先に吊るされている風鈴は鉄でつくられている。
確かに江戸の風鈴も存在している。しかし、あれはガラス製。
鉄で作られる風鈴で有名なのは南部鉄器なのだが、彼女は知らないのだろうか。
そんな間の抜けた会話を二、三つ投げ返す間にも、紫はエプロンなんて着けて朝食を拵えている。
外の世界の音楽を鼻歌で再現しながら調理する様は、あのぐうたらした紫とは別人だ。
「霊夢、今日は和食で良かったわね?」
「別に何だっていいじゃない」
「いつも何を食べているの?」
紫が来る前の自分の食生活を思い返してみる。
もやしの味噌汁、もやしの炒め物、もやし……
「その顔じゃひどい食生活ね」
否定できないところが非常につらい。
もやしがいくら安価だからって、気付いたらもやしを買いあさる自分をはたから見る店員は何を思うだろう。
そういえばもやしを売ってくれる店長さん、最近オマケが多くなってきたけど……まさかね。
「ほらほら、朝ごはんが冷めちゃうから食べましょ」
動き回るのに適さないフリフリ服を着ておらず、白いワンピースに黄緑のエプロン。
妖怪ババアを除けば恐るべきプロポーション、思わず見物料を差し出したいくらいに整った姿はなるほど人間も妖怪も恐れるわけだ。
焼き魚を箸で軽くつついてみればぷちりと張りつめていた皮が破れて真白な身がその豊満さを見せつける。
わたは苦味が強く、人を選ぶ部位になっているけどある意味悪食な私にはちゃんと残っていた。
質素といえば聞こえが良い、はっきり言って惨めな私の食卓は今美しいほどに彩られている。
だが、それはあんまり重要ではない。
作ろうと思えば私にだって簡単に作れる。
何てことはない、これはただの朝食に過ぎないんだ。
「美味しいかしら?」
「ええ。文句のつけどころはあまりない」
そっけなく言う私におかまいなし、花が咲いたような笑顔を振りまく紫を直視できない。
だから味噌汁の水面に自らの捻た顔を映している。黙って啜るも茶碗の向こう側で笑顔の彼女が見ているに違いない。
笑顔の彼女を見れば見るほどにまともな反応がしづらい。
調子がくるってしかたがない。
「何であんたはここ数日私に優しいの?」
間が持たなくなって、私は話を振ってみる。余裕がないのにこれ以上余裕をなくす行動に出てどうするのか、それすら計算できない。
「何ででしょうねぇ」
開け放した障子の先に、庭が広がっている。私が手入れをかかさないおかげでそれなりに見ることが出来る。
何代もの「私」が住んでいたこの神社と、庭と、土地と、人脈が遺産で、それしかない。
私は知らない。
お母さんの写真も、お祖母ちゃんの写真も、ひいお祖母ちゃんの写真も。
写真は今でも買うことができない。そもそも写真機自体高すぎた。
あの文でさえ、昔は写真の魅力に取りつかれて働きづめだったらしい。
そんなのだから誰も写真機を持っていない。誰の写真も残らない。
あるのは、人相書きと人々の語る「お話」と記憶の中。
「私がそうしたかったから、じゃダメ?」
「ダメ。理由が訊きたい」
私はすでに料理をたいらげていた。邪魔する要素はない。
紫はそのことで撒こうとしていたのか、ちゃぶ台を見てからまた庭を見る。
横顔からは心情が読み取れなく、ただ待ち続けている時間が長い。
やがて顔をふるふる振って立ち上がった。
「条件があるわ」
「どんな条件?」
紫は料理皿を流しに持っていき、蛇口をひねった。それほど冷たくない流水をどばどば垂れ流しながらゆっくり洗う。
「写真機……あれを私にくれるなら、話してあげる」
「写真機!?」
紫が提示した条件は、相当なものだ。
古い写真機が幻想入りしたらしい(古物商の彼曰く)が、まだまだ高価で一般人がホイホイ手を出せる代物では決してない。
写真機はフィルムも必要だから、実質写真機といくらかのフィルムが必要である。
フィルムは河童に依頼すれば問題ない。写真機だってきっと文が安いものを知っているはず。
それ以前に、私にもっとも重要なファクターがない。
「金が極端にない私に、その条件は究極の難題だ」
「果たして蓬莱の輝夜ちゃんが出すのとではどちらが難しいかしらねえ?」
「明らかに後者でしょ!」
期限は無期なのがせいぜいの助かり。
洗いものをする紫をしり目に、私は必死に頭を回転させる。
金が最も多く、なおかつ手早く稼げるか。
多少の危険なんて慣れてるからその点はクリアしている。
商才も文才もない私が得意とする資金獲得方法など、すでに確定している。
「依頼解決……!」
退治しながら金を得て心証を上げることが容易な、私の生業のひとつ。
神社の巫女が大義を振りかざして人妖かわまず退治するのもどうかと思う。
「私は金を得なくてはならない。そのためにはあらゆる手段も合法とかすのだ!」
まさしく職権濫用。社会に属することが絶望的な私は、この幻想の地で生きていることに感謝したい。
思い立ったら行動開始が博麗の巫女の心情。
「ゆかりっ、ちょっと依頼解決してくるわ!」
「いってらっしゃ~い」
間延びした穏やかな声に背中を押されて、私は神社の階段を思い切り蹴り飛ばした。
紫が博麗神社を訪れなくなったのは、条件提示の翌日からだった。
まるきり二か月はたとうとしている。
霊夢はその二か月の記憶があまりなかった。
博麗神社に戻っては依頼の相談、即座に解決、そしてまた相談に乗る。
仕事人間、とでもいえば体裁は何とか保てたが、実際は廃人だと揶揄されていた。
二か月、仕事にすべてを捧げた。ここしばらくは平和で何の依頼もやってこない。
無理からぬ話だ。霊夢が通常では考えられないペースで退治するものだから妖怪たちはすっかりおびえている。
順調に見えていたのは表面だけであって、中身はボロボロ。まるで張りぼてである。
「過労よ」
魔理沙が連れてきた月の人にしておそらくは幻想郷最高の医師、永琳の診断結果をいましがた聞いた霊夢は、溜息をついた。
不安から安堵への移り変わりがありありと分かるくらいに。
「だーから言ったじゃねえか、霊夢。そんなに働いたら体壊すって」
「だってえ……」
診察と薬代を払う魔理沙の手には、大きな袋。とても片手じゃ支えきれない程の、重量感である。
その中には、金、銀、銅の貨幣がぎっしり詰まっている。
霊夢の二か月の集大成の一部を、自らのために払うのが悔しいが仕方がない。
「今日一日ゆっくり寝ていれば明日の朝には全快するから」
永琳が去ったのを確認して、魔理沙が霊夢を見る。瞳の中はたくさんの星が映ったままで。
「よくこんなに貯まったな。分けてほしいくらいだぜ」
「ダメよ。それは写真機代だから」
「へ? 写真?」
畳に胡坐をかいて、魔理沙は霊夢の話に耳を傾ける。
「二か月くらい前、紫がやけに優しかったのよ。えらく気になって問いただしたら……」
「なーる、交換条件ってやつ?」
理解が早い友人で非常に助かる。
コクリ、頷いて先を進めた。
「仕事に明け暮れてどうにか手に入った。写真機さえあればあいつから話が聞ける」
ほんの少し、プロセスを挟んでしまったが、ここまで来たのなら瑣末な問題として扱われる。
ちょっとした喜びをかみしめている霊夢に、魔理沙は水を指した。
「ちょっと待て。紫が写真機をほしがる理由も分からないが、写真機を手に入れて、話を聞いて、そしたらこの写真機はどうするつもりだ?」
「……あ」
霊夢は目を丸くした。
そこまで考えていなかったのだ。ただ話を聞くためだけに買ったのだから、当初の目的は果たしている。
だが、考えてみれば、これは写真機だ。写真機は写真を撮るために存在しているのであって、他人から話を聞きだす物ではない。
写真なんて撮ることがなかった霊夢はただ横になっている。
ふと魔理沙が手を打ち鳴らした。
「いいこと思いついたぜ。写真なら文が一番じゃないか」
聞きなれた天狗の名を引っ張り出してきた魔理沙に、眉をひそめながらたずねる。
「写真の撮りかたでも教わろうっての?」
「それがなんだ? 当然だろ、写真機なんだから」
物は使ってこそ物としての価値が生まれる。
このままほったからしにされてはこの写真機があまりに不憫と思った。
よって、その道のスペシャリストに頼む。
「よっしゃ、ちょっくら呼んでくるわ」
「ちょっと待ちな……行っちゃった」
高速移動が得意な魔法少女はすぐさま巫女の視界から颯爽と消えていった。
ちりん、ちりん。
風鈴は荒々しい風に流されながらも涼しげな音色を響かせていた。
「紫、ちょっと一緒に遊ばない?」
「……は?」
いきなり呼んでもいないのに現れて、言葉は唐突すぎて。
私にとって、それは意味不明の範疇にある。
「魔理沙に言われて気付いたんだけどさ、写真機は撮ってこそ写真機じゃない。だから有用に使うことにしたの」
「それはいいことね。それで、それと遊ぶのに何の関係があるのかしら?」
「こいつを欲しがっていたのはあんたでしょうが。つまり、写真を撮って欲しかったってことよ」
正論だ。まさに理にかなっている。
実際、私は彼女の言ったとおり、写真を撮って欲しくて写真機を所望した。
だけど普段から惰弱な精神の娘がたかだか二か月であれを手に入れてしまう。その点は想定外。
心の準備が出来ていないのに、相変わらずこの娘は性急すぎる。
「大当たり。でもやるわね、二か月で手に入れるなんて」
「仕事中毒にでもなればこんなものよ。何度も死にかけたけど」
死にかけた。恐ろしいことをケロっとした顔で言い放つ姿に、一抹の不安を感じずにはいられない。
さすがは博麗の巫女といったところか。親譲りとはこのことを言うのだろう。
「いいわよ、霊夢。行くところとかは決定済みなの?」
「う~ん……とりあえず幻想郷をぐるっと回ろうかって」
「大きく出たわね」
「どしょっぱつは景気良くいくの!」
霊夢の、からかったらすぐムキになる単純な性格を私は好きだったりする。
藍に伝えておこう、昼はいらないと。
私は寝室の壁に立てかけていた日傘を手に取ると、霊夢の前に隙間を出した。
「スタートは何処?」
「私の神社へ続く山道」
言うが早いか、軽快に隙間に飛び込んで行った霊夢の背中を見て、私も静かに飛び込んで行った。
後にも先にも、こんなことは最後だけどね。
山道に降り立った二人は出来る限り徒歩で、幻想郷の各所を訪れて行く。
青々とした森林浴を楽しみながら、それほど舗装されていない道を下っていく。
「暑いわね」
「うん、暑いけど、風が気持ちいい」
間をすり抜けて足元から吹きあがる風に汗の玉が飛び散る。
植物の葉や枝に阻害されて、日光は切れ切れにしか来ない。
蒸し風呂に近い環境を三十分も歩けば、汗がダラダラ流れて脱水症状になる。
「もっと多くの子たちが生きるとしても、自然は豊かであってほしい」
「多くの子たちって、アンタどれくらい増やす気?」
「今の数百倍……いやもっとたくさん!」
「日本沈没するって! 島国の日本、住むほどの領土が足りないよ!」
木々が消えたら人里へ到着。
「……あら~誰もいない」
「いないわね~」
カラカラと枯れ草の塊が転がりそうな図式だ。
寺子屋に授業風景もなく、商店は店を閉めている。
祈りをささげる敬虔な信者も腕白小僧もいない。
「詰まらない。のどが渇いた」
「すっかり子供ね」
「うるさい! それより紅魔館へ行って水をたかりに行きましょうよ」
ニコニコ笑う紫を引っ張りながらフラフラしていけば、紅魔館が見えてきた。
全貌が見えるようになるにつれて、何やら声が聞こえてくる。
祭囃子みたいな楽曲も耳に届いている。
そこで、門の前に立ち尽くす門番メイドに大声を張り上げてみた。
「何をしているのー!」
たっぷり七秒、返答が突き刺さった。
「お茶会ですー!」
門をくぐれば、ちょうど正面の庭でお茶会が行われていた。それもいつもより賑わっている。
「あら、霊夢。ようこそ紅魔館へ」
「レミリア、皆もお茶会に誘ったの?」
辺りにいるのは妖精メイドたち。至極楽しそうにお茶を飲み、談笑している。
くるくる踊っているのもいれば音楽を演奏しているものもいた。
それだけじゃない。妖精メイド以外に、人妖問わず多種多様なものがあちこちに。
お茶会よりパーティーのほうがしっくりきてしまう盛況ぶりだ。
「ええ。そうよ。今日は騒ぎたい気分だったから、まとめて招待したのよ」
里のほうが妙に静まり返っていたのは、住人がこちらでお茶を飲んでいたという訳になる。
少人数で楽しむのが英国人の上流階級と言っていたのは、果たして本当だったのだろうか。
ひどくどうでもよいことを考えながら、メイドから差し出された紅茶を飲む。シナモンティーの風味が舌に残った。
「八雲紫、来てくれて嬉しいね」
「恐悦至極でございますわ」
「ハッ、心にもない世辞を言う。ま、気分がいいから見逃してあげる」
「ふふ、相変わらずのワガママぶり、スカっとするくらい」
ぺったん、残念な胸を力いっぱい反り返って偉そうな態度をするレミリア。
『ほめた訳じゃあ無いのにねえ』
紫が扇子で口元を隠しながら霊夢に耳打ちして、二人だけでこっそり笑ってしまう。
「いらっしゃい二人とも! ゆっくりしていってね!」
忙しそうに回っている咲夜がこちらへ寄ってきた。レミリアのテーブルの上に置いてある空の皿とグラスをトレーにある物と取り換える。
給仕としてその存在ぶりを遺憾なく発揮できる、それがさも嬉しそうに咲夜の顔には笑顔しかない。
「掃除よりこっちのほうがあんたは似合ってる」
「そうでしょ、そうでしょ? お掃除もいいけど、給仕はもっと好きなのよ!」
霊夢の指摘に、咲夜は笑顔を振りまいた。
時々見せるこの無防備な笑顔、咲夜の地が現れるのは滅多にない。
貴重な場面を以前の霊夢なら見て終わるだけ。
だが、今の霊夢は以前の彼女が絶対に持っていない物を所持している。
写真機の使い時とばかりにシャッターを切った。
「咲夜の紅茶はいつも美味しいわ。私は幸せ者よ」
「そ、そんなあ!! 勿体ないですよお! そんなお言葉をこの私めに!」
普段しか見ていない人なら絶対違和感を感じるこの光景は、しっかりフィルムに焼きついた。
カリスマたっぷり、威厳を損なわないレミリアと、カリスマが崩壊してなぜか腰が低いハッピー状態の咲夜。
ある意味恐ろしい現象が平然とこの場にある。
「……一種の異変ね」
「流石の私も、少々うすら寒くなってきているわ」
境界を管理する人妖同士、腕を抱えて身震いした。
体が冷えてきた中で耳に突き刺さったのは情熱的な声色。
「霊夢、私の人形劇を見に来てくれたのね!」
「いや、フラフラしたら偶然出てきただけだし、なんだよその唐突な登場」
人形と共に走ってくるアリス。いつものミニから等身大まで幅広く、霊夢は恐怖のあまり後ずさった。
「ひどい! そんなに逃げなくなっていいじゃない!」
八体の人形と踊りながら優雅に一礼したアリスは、両手を器用に動かして人形を巧みに操っている。
人形たちは霊夢と紫を取り囲んで奇妙な踊りを始めだす。
「ねえアリス。あんたの人形術が幻想郷一番の腕だって認めてあげるから、止めて」
「ようやく劇も板についてきてさ。お客さんも増えたんだよ! アリスの人形劇はそこそこ有名なんだから」
アリスは全く話を聞いていなかった。自我が強い彼女は興奮すると人の話に耳を傾けることをしばしば忘れる。
「うどんげも時々手伝ってくれるんだ。あの子の幻視でよりダイナミックに演出が出来てさ!」
狂気の視線を幾度も観客に浴びせたら里の診療所か永遠亭行きになるのは間違いない。
この人形師は、どうやらそこまで練ってはいないと霊夢は感じた。
「……それで? ただ鈴仙の手伝いだけで成功したんじゃないでしょう?」
あきらめて、アリスの話に乗ってやることにした。
アリスが人形劇を始めるきっかけは、技術向上を目的にした実践だったらしい。
ところ構わずしていたために村人の目に留まり、アリスも嬉々として劇を開いた。
それを噂で聞いたのはずっと前である。
だが、アリスが人形劇をやっている現場を見たのは二か月前の依頼解決で奔走していた時に何度か目撃した。
当時はそれほど人気は無かったはずの劇が、どうしてこの紅魔館の庭の一角を占めるほどの盛況ぶりになったのか。
「一か月くらい前かな? 紫が指摘してくれたのよ。最初は頭にきたわ。『人の芸に口出しするな!』って」
アリスはうんうん頷くといつの間にかアリスに連れ添うように配置された人形も一斉にカクカク動き出す。
幼子なら逃げ出しそうな雰囲気を生み出していた。
「でも後々になってその重要性に気付いたのよ。そして改善したら何と大当たり!」
八体が一斉に飛び跳ねて踊りだした。アリスを祝うかのように。
祝賀気分の人形師へ、紫がやっと口を開いた。
「おめでとう。けどその喜びはアリスが努力したからよ」
ハッとして現実に一気に回帰したアリスは赤面して掌をひらひら振る。
「謙遜なんてしなくていいわよ」
二人の間を割って入る奴が出た。
「アリス姉ちゃ~ん! また劇を見せてよ~!」
「もっと見たい~!」
「きれいなお姉さんだ! 私もあんなになりたいなあ!」
ぎゃあぎゃあ大声で喚き散らす里の子供たちにアリスは赤面したまましゃがみこんだ。
「はいはい。せっつかないでよ、もう」
呆れた言葉でも、顔が綻んでいたら効果がない。
「じゃあ私はこれで行くわ。とにかくありがとうね」
アリスは子どもたちに引っ張られて輪の中に戻って行った。また人形劇をするつもりだろう。
一枚、フラッシュを焚かずにアリスと子供たちを撮った。劇をする人も、劇を見ている人も、とても楽しそうな顔をしていた。
「紫さん、お疲れ様です!」
「その節はお世話になったわ、紫」
続いてやってきたのは月人コンビ、永琳と鈴仙だ。
「夏祭りの時?」
「違いますよ、てゐのお仕置き作戦ですよ」
「ああ、そっち」
霊夢が二人いっぺんに会うのは数ヶ月前に開かれた宴会以来だった。
その後も宴会は開かれていたが、霊夢は写真機の代金を稼ぐためにことごとく断っている。
人に話せるほどの理由でもないことで、魔理沙を通じて断りをいれている。
話しかけづらい雰囲気にならないのは、紫が霊夢のそばにいるからだった。
「あの時は紫さんの協力なしではてゐをとっ捕まえられなかったですから、本当にありがとうございます!」
鈴仙はだらしなく長い耳も一緒に深々と立礼した。生来の生真面目さは半人前の剣士といい勝負になるだろう。
紫は特に動揺も見せず、余裕の微笑で面を上げさせた。
一歩鈴仙が引き下がれば、続いて軽い会釈と共に永琳が進み出る。
「いろいろ迷惑かけてしまったわね。いまさらだけど謝るわ」
「気にしないでいただけるかしら? 先に手を出したのは私ですから」
月に関して、二人の因縁は長い。
二度の戦い、そのどちらも紫の敗北で終結しているものの、当の本人から悔しさも僻みも感じられなかった。
長年の因縁は友情になりやすい、と霊夢は改めて実感した。
月の二人は無理やり連れてきたてゐに頭を下げさせて、自分たちの姫と旧友の元へ歩いて行った。
霊夢は写真機を構えて撮影した。出店の焼きうなぎを齧りながら珍しく語り合っている蓬莱人と傍らで酒を嗜む月人が静かに映っている。
「あら~? 紫じゃない~?」
「ハーイ、幽々子。変わらない大食嬢ぶりで安心するわ」
幽々子が中華まんを抱えて寄ってくる。
霊夢は幽々子に苦手意識が少しある。それは、幽々子の考えが読みづらいから対応に困ってしまう、というのが主な原因。
幸い幽々子は霊夢など眼中なしとばかりに紫しか見ていない。
「おや、霊夢さん。やはり訳ありだったのですか?」
そんな主をひたむきに想い続ける半人半霊の従者、妖夢が同じく紙袋を抱えて走ってきた。
やっとまともに話すことが出来そうだと確信して、霊夢も口を開く決心をする。
「写真機……? 文さんが持っている、あのカメラのことですか?」
「そう、でもこれは古いから写真機なのよ」
「へえ……おぉ……」
霊夢から手渡された写真機をあちこちから眺め回す妖夢が滑稽に思えて、必死に笑いをこらえる。
実は妖夢がしているのは、先日自分がしたことと寸分違いない行為なのだ。
見たこともない、手にしたこともない正体不明な物体をどうしようもなく眺めて、溜息をついて、やがてあきらめる。
再び霊夢の手中に写真機が収まった。
「とても古いですね」
「ええ、お店で売っていた、もっとも古くて安物」
「動くんですか?」
「うん。大丈夫。動作は保証する」
さしもの霊夢といえど、そうそう大金が手に入るはずもない。
射命丸文が記者になるずっと昔、延々と働いてようやく買うことが出来た品を、二か月で同じようにはいかない。
安物で古い写真機だったが、とても頑丈で、撮影可能な範囲が広かったのは救いとなった。
「どうして写真を撮ることにしたんですか?」
妖夢をファインダー越しに見つめて、そしてその辺りをややズームしながら無意味に写真機をいじくる。
「自分の昔話を聞くためだったんだけど……正直、どうでもよくなってきたなあ」
幽々子と紫。古い付き合い同士は話も積もる。
時折見せる子供っぽい笑顔を見ていれば、誰だって目的を失いそうになる。
霊夢はこの時、昔話に興味を向けておらず、ただ紫に向いていた。
紫の口から聞かせてほしかった。自分の先祖たちの色々な話をその口で、その顔で、その声でしてほしかった。
「実はね、自分の昔なんて慧音に訊けば簡単に教えてくれるんだよ? 自分の肉親関連ならなおさらね」
歴史を取り扱うあの知識人なら二つ返事でかなえてくれるに違いなかった。
「何て言うかさ、紫が優しかったことなんてそんなに無かったのよ」
いつも人に何かをけしかけては勝手に解決させる妖怪。
賢者らしい知謀で惑わしてそれすらも余興のひとつにしてしまう。
「そうですね~。確かに紫様が尽くすというのは驚きです」
「あんたは経験がないの?」
「はい。生まれてからは師匠に躾けられて、私が二代目になってからは幽々子様に引っ張り回されて」
苦笑いをしながら妖夢は当時を懐かしんでいた。三人で色々騒動を起こしていた日々が色あせて見えてしまうほど、今が楽しかった。
霊夢も妖夢の心情を多少なりとも理解できているつもりである。そこまで無粋でもない。
ひとしきりして、急に妖夢の顔から表情がそげ落ちた。
「ああ……でも、やはりそうなのでしょう」
霊夢に対して問いただしてはいない、それはただの独白。
「きっと幽々子様は気付いておられる。私は何も出来なかったか」
「何が?」
霊夢の瞳をのぞきこむ妖夢の顔に何もない。
白痴のごとく見つめてはすっと立ち上がった。
「分かる時がきます。そう遠くないうちに」
行儀よく頭を下げて妖夢は幽々子の元に戻り、そして二人は料理があるテーブルに歩いて行く。
釈然としないが、シャッターは切らずにはいられなかった。
フィルムに、困り果てた妖夢の顔と料理を片っぱしから喰っていく幽々子の姿が焼きついた。
「夕日がきれい。久しく見ていなかったなあ」
「風情を楽しまないと老けこむわよ?」
「うるさい、紫は年がら年中暇なだけでしょうが」
暮れなずむ幻想郷。斜陽が赤く山々を、里を、川を照らしていく。
霊夢たちは博麗神社まで続く石畳の階段の一番上に座っていた。
デートの最後に霊夢がここを選んだ理由が、紫にはとうに判っている。
「自然の流れを見るのは美しいわ。思わずため息をこぼしそうよ」
「あんたじゃないけど、私もそう思う」
あと一刻もたたぬうちに完全に端を過ぎて暗闇に包まれるだろう。
「霊夢、訊きたいことがあったでしょ?」
「ええ」
「話してあげるわ。優しかった理由」
紫は霊夢を見ていない。
霊夢は紫を見ていない。
触れ合っている手は握りあって、それだけで良かった。
「もうすぐ、私は自壊する」
ぎゅっ、と握る力が強くなった。
「この世界を生み出す前から私は生きていて、あなたたち博麗の巫女を幾代も見てきている。こうなることくらい簡単に察しがつくわね?」
「うん」
「私はどの娘も愛しい。あなたの母も、祖母も、みんな愛していた。もちろん、この世界の子を須らく愛している」
幻想郷の創造からこの日まで生き続けてきた紫も、寿命は存在する。
死神の使いを殺す、天人のまねをするつもりは毛頭ない。自然を愛してやまないのに、自分の自然を壊すことに躊躇いなどあるのか。
「後任は藍に任せてあるから心配しないでちょうだい。あの子ならきっと良くしていける」
「それであんたはどうなるの?」
「消滅するわ。ちょうどこの空が死にゆくように」
余裕もない。あの空が落ちた頃に、紫は死んでしまう。
気に入らない。ひどく気に入らない。
「あんたはどうして優しくしたの?」
「いままでの清算よ。私が行ったことに決着をつけるのは私しか出来ない。だから今までの分を払ったの」
「紫――」
「こちらを向いちゃダメ」
厳しく命令されて霊夢はびくっと硬直する。
その小さな頭を優しく抱く紫はつぶやくのだ。
「今私を見ないで。消滅が始まっていて、醜いから」
「関係ない。関係ないよ。私は紫の顔が見たい。見たいのよ!」
「お願い、見ないで」
紫が霊夢の頭を抱える力は強くない。引き離そうとすればいとも簡単に引き離せる。
霊夢が引き離せないのは、一度この手から離れてしまえば触れられない気がした。
「でも紫。わたし、まだ約束を果たせてない」
「いいえ、果たしてはずよ」
「ううん、まだ残っている」
写真機を高く抱え上げる。
「写真を撮ろうよ? 私たちの写真を」
紫は答えなかった。
しかし引き下がるわけにはいかない。
ここで引き下がったら、触れられない以上に後悔してしまうだろう。
霊夢は意を決して紫から離れて、改めて彼女を見た。
「ホラ、醜いでしょ」
紫の体は少し透明になりかかっていた。
体の端々から金色の粒子が風に舞いながら空へ昇っていく。
「きれいよ、紫」
霊夢と紫は石段から離れて境内に進み出る。
「最後に一枚だけ撮るから」
「分かったわ」
写真機のフィルムも残り一枚しかない。
買いに行く時間的猶予などない。
それに、一枚で十分だった。
「魔理沙、文、もうでてきたら?」
霊夢の後方、茂みからガサガサやってきたのは霧雨魔理沙と射命丸文の両名。
バツが悪そうに近寄ってきた。
「立ち聞きするつもりはなかったんだ。悪い、霊夢」
「あやや、いやあ、まことに済みません」
「そう思うなら最後にこれで撮ってくれる?」
霊夢が投げてよこした写真機を文が受け取る。
文は反論も茶化すのもしないで、黙って頷いた。
「それでは、賽銭箱の前に立ってください。はい、もう少し右で」
文の指示どおりに位置の微調整をする間、ずっと魔理沙は見ていた。
その視線は羨ましそうにもとれるくらいに、じっと見つめいていた。
やがて二人の距離が最良の位置になった。もう日が落ちかけている。
「スピードで撮ります。フラッシュは焚きません。一回きりのチャンスですけど、リラックスしてください」
「ええ、ありがとう」
紫のお礼に片手で応答した文がファインダーをのぞきこむ。
少しずつ狙いが定まる写真機を見ていた霊夢はそのままの状態で紫に訊いた。
「心残り、まだある?」
「もうないわ。だって、こんなに私は幸せだったもの」
握る手は強く、とても温かく。
悔いのない紫の声は透き通っていて、大きくないのに、皆の耳に不思議と届いた。
「霊夢、これだけは言わせて」
「もう黙ってよ。ピンボケするじゃない」
「霊夢、あなたを――」
空が落ちてゆく。斜陽が山の端に隠れる瞬間、大きく膨れ上がった光が一瞬だけ世界を明るくした。
刹那、文は待ち構えていたこの時に乗り遅れることなくシャッターを切った。
それから、十四度目の夏がやってきた。
霊夢は既婚者となって、博麗神社の巫女というよりは母という扱いを受けるようになった。
「懐かしいな、その風鈴」
魔理沙も婚約を控えている身で、ちょくちょくこの神社を訪れている。
霊夢の手によって吊るされた風鈴は、あの夏の頃に吊るされていた南部鉄器の風鈴。
空が落ちた翌日以降、風鈴をしまわれた。
「きっと、来る気がしたの」
「誰がだい?」
「誰だろうね」
二人で緑茶をすするのがいつの間にか様になってしまった。
幻想郷は藍の采配によって従来の平穏な様相を保ち続けている。
もう依頼解決を出来ない体になりつつある二人は、ある子に希望を託している。
毎日修行をさせて、かつての自分たち以上の使い手にならないと、近年多発する異変に対応できない。
「お母さん! ただいま!」
「噂をすればだな、霊夢母さんよ」
「茶化さないでよ、魔理沙。じきあんたも魔理沙母さんって言われるから」
とてとて走ってきた霊夢の子供を抱き上げて、優しく髪をなでる。
「今日はどこまで行ってきたの?」
「んとね、守矢神社の早苗おばちゃんに会いに行ってきた!」
「うわ、そりゃ結構な距離だぜ」
飛翔をせずにこの博麗神社から守矢神社まではかなりの距離と高低差がある。
朝日がのぼる前に出て行って、昼前に戻ってこれたのは驚異としかいいようがない。
「さすが霊夢の娘だ。親に似てスタミナは有り余ってるってか」
「うるさい、そっちだっていつまで魔法少女気取ってんのよ」
「心はいつでも十代後半だぜ」
火花が飛び交う視線と状況を全くの見込めない霊夢の娘は、霊夢の前髪を引っ張った。
「痛たたた……痛いよ、どうしたの?」
「お客さんが来てるの! すっごくきれいな人!」
「お客?」
霊夢たちが成人してから、ここの参拝客は比べ物にならないくらい増加した。
一日に何人かがお祈りを捧げるのは日常になっている。珍しいわけではない。
「なあなあ、どんな奴だった?」
魔理沙の質問に唸りながら、幼子らしいしぐさで考え出した。
「美人で、金髪で、おっきな麦わら帽子を被ってた!」
「美人で、金髪……?」
里の連中で金髪の麦わらの組み合わせは見たことが無い。
「あっ、あの人だ!」
「えっ? よく見えない」
「おーい! お姉ちゃーん!」
抱っこされたまま腕を激しく振るものだから、バランスが取りづらい。
フラフラしながら石段を見れば、確かに麦わららしき帽子をかぶった人が来た。
遠目だが、美人そうだ。
「どんな奴だろ? 見に行こうぜ、霊夢」
「ちょっと待ちなさいって! もう!」
足早の魔理沙に並んでその人に近づいていく。
「とりあえず、挨拶からかな?」
「まあ常道だな。そんで、気に入ったら今日の宴会へ連れていく!」
「気が早いわよ」
夏空があって、幻想郷はずっと平穏で、少女は大人になって。
この世界を創造してくれたあの人に感謝しなくてはいけないと、霊夢は思っている。
ちりん、ちりん。
風鈴が、懐かしいあの音が響いてきた。
作者は東方キャラを愛してるなーってことは解りました。
でもいい話ですね