書斎から聞こえてくる物音で、ふと阿求は目を覚ました。
睡魔が滞在する脳みそは泥棒かという疑念をはじき出すが、覚醒と共に思い出す。この家には阿求だけでなく、もう一人いるということを。
蝋燭立てに手を伸ばしかけ、窓の外を見遣った。今日の空は雲もなく、月は煌々と屋敷のみならず幻想郷を照らしていた。これなら蝋燭の灯りに頼る必要もあるまいて。
布団の温もりから離れ、冷たく静かな廊下を歩く。踏みしめるたびに廊下は悲鳴をあげ、改装の必要性を訴えてくる。
廊下を進み、右に曲がったところで、部屋の蝋燭の灯りがこちら側まで漏れていることに気付いた。
阿求はなるべく邪魔をしないよう足音を忍ばせながら、微かに開いていたフスマの隙間を覗き込んだ。
どうやら、まだまだ彼女は頑張っていたらしい。さすがは妖怪というところか。その顔には微かな疲労があるだけで、体調を崩している様にも見えない。
しかし、だ。
阿求は来た道を引き返し、台所でお湯を沸かした。何事にも適度な休憩は必要だろう。そう思って、彼女の為に紅茶をいれに来たのだ。
本来ならコーヒーという飲み物が適していると誰かから聞いたことがあるのだけれど、その効果が疑わしいうえに阿求はコーヒーという飲み物があまり好きではなかった。見た目も香りも、どうにも食欲をそそられない。
お盆に紅茶を乗せ、書斎へと戻った。フスマを開いても、彼女はまったくこちらに気付かない。よほど集中しているのか、その姿勢は自分も見習いたいものだと感心した。
「あまり根を詰めすぎても良い結果は出ませんよ。少し休憩されてはどうですか?」
話しかけてようやく、彼女は阿求に気付いたらしい。書物から顔をあげて、驚いたような顔でこちらを見ている。
「うう……、人を驚かす為に勉強しているのにまた人に驚かされた……」
些細な行動が彼女を傷つけてしまったらしい。阿求は申し訳ありませんと謝りながら、机の端に紅茶を置いた。
落ち込んでいた多々良小傘だったけれど、紅茶の匂いですぐに機嫌を良くした。ありがとうと笑いながら、白いティーカップに口をつける。
「あちち」
可愛らしい舌を出して、目を閉じる。やはり猫舌だったらしい。
ふーふー、と息で冷ましながらも飲もうとしているのだから少なくとも味は問題なかったのだろう。今度は冷たくても飲める紅茶を持ってくるべきだと阿求は心の片隅に付け加えておいた。
小傘が阿求の家に訪れたのは、霧も深い早朝のことだった。いつものように玄関を開けると、見慣れない妖怪が妙な傘を持って立っていた。いつからそうしていたのだろう。服装は密かに濡れ、よく見れば身体も小刻みに震えている。
秋の朝は冷たく、阿求も冬用の布団を押し入れから引っ張りだしてきたばかりだ。彼女が何をしに訪れたのかはともかく、まず身体を温めて貰うことにしよう。現にその妖怪も寒さのあまり、上手く言葉が出せないでいた。
彼女が持っていた不思議な傘を畳み、阿求は彼女を迎え入れ、温めた牛乳を振る舞う。タオルを取りに行って飲むところは見られなかったが、カップが空になっていたのだから飲むことは飲んだのだろう。
一息ついて落ち着いたらしく、妖怪は愛嬌のある笑顔で舌を出した。
「人を待つってのは、案外大変なことなのね」
「もっと遅い時間に来てくれれば、待つことは無かったでしょうに」
「仕方ないじゃない。居ても立ってもいられなくなったんだから」
余程強い衝動が、彼女の背中を押したのか。そこまで懸命にされると、こちらとしても断り辛い。何を要求してくるのか分かったものではないが、多少の事なら受け入れても良さそうだ。
阿求は空のコップを仕舞い、妖怪に向き直った。
「それで、今日はどういったご用件で?」
妖怪は得意気な顔で胸を張り、手を畳に這わせる。何か探しているらしいのだが、生憎と目当てのものは見つからないらしい。段々と自信に溢れていた顔に、動揺と焦りが混じり始めた。
ひょっとすると、あれを探しているのかもしれない。阿求は玄関まで足を向け、畳んでいた不気味な傘を小傘の元へと運んでいく。
傘を見た彼女の反応は、阿求の推測を裏付けるような笑顔だった。
室内だという事も忘れて、それをさす。
「わちきの名前は多々良小傘でありんす」
どことなく無理をしているように思えたのは、阿求の気のせいなのだろうか。妙ちきりんな口調と無意味な行動に言葉を失う阿求。それを見て、小傘もまた動揺し始める。
すぐさま、口調を改めて自己紹介をやり直した。
「わ、私は多々良小傘。人を驚かすことが大好きな、からかさお化けよ」
「からかさお化けですか」
書物では有名な部類に物の怪だが、そういえば幻想郷ではお目にかかったことがない。だからだろうか。どこか違和感を覚えるのは。
どちらと言えば、小傘の持っている傘の方が阿求のイメージしていたからかさお化けに近い。
だが、彼女が自分をからかさお化けだと言っているのだ。そこに疑問を挟む必要もあるまいて。
「そう、からかさお化け。うらめしやー」
「はぁ。それで、私にどういった用が?」
何気なく先を促したのだが、どういうわけか小傘は悲しそうに眉をハの字に垂らした。
「やっぱり驚いてくれないのね」
「?」
どうも話が見えてこない。一体、彼女は自分に何を求めているのか。
首を傾げる阿求。
「ここへ来たのもそれがあるからなんだけど、要するに私は人を驚かせたいのよ。でも、最近は誰も驚いてくれない」
無理からぬ話だ。阿求とて、説明されなければ先程のが驚かす為のものだと理解できなかった。話のリズムを作るための相槌のようなものだと思ったぐらいだ。
「これじゃあ駄目だと思って、古き良き怪談話を勉強しに来たの。あなた、そういう本を沢山持ってるんでしょう?」
「ええ、確かに持っています。もっとも慧音さんやパチュリーさんには劣りますが」
「へえ、あなた以外にも沢山本を持っている人がいるのね」
「人、ではありませんけどそうですね。ただパチュリーさんは間違いなく本を見せてはくれないでしょう」
魔理沙対策もいよいよ厳重化しており、あまりの警備の厳しさに当主が閉め出されて帰れなくなったという話も聞く。小傘のような妖怪がのこのこと出て行けば、どういう目に遭うのかは容易に想像ができた。
「とにかく、私は勉強がしたのよ。だから、あなたの持ってる本を読ませてくれない?」
「別に構いませんよ。私は仕事をしていますから、お持てなしは出来ませんけど」
「そんなのいいよ。私は怪談が読めればそれで満足」
「そうですか」
ただ本を読ませるだけならば、さして労力にもならない。阿求は立ち上がり、小傘を自慢の書斎へと案内した。沢山の本を初めて見たのか、小傘は驚いたような声を漏らし、悔しげに阿求を睨んだ。
そんなに恨まれても、驚いた自分が悪いのでしょうとしか言いようがない。
とりあえず怪談のある棚を教え、阿求は部屋を後にする。
今日は幻想郷縁起の編纂はお休みすることにしましょう。そう決めながら。
ひたむきな人間が好きだ。努力する者には好感を覚える。
ゆえに小傘を気に入ることは、至って自然な流れであった。
かつては阿求も何冊もの本を読み、寝食を忘れて倒れかけた。机に齧り付く小傘の姿は、そんな在りし日の自分を思い起こさせる。何とか手助けしてやりたい気持ちが時と共に強くなっていくのだが、生憎と阿求に出来ることなど何もなかった。
彼女は人を驚かせたいのだという。ならば驚いてあげることが最大の手助けだと分かっているのだが、だからといってわざと驚くのも失礼な話だろう。それに阿求は演技が苦手だ。鋭い洞察力が無くても、自分の演技を見抜くことは難しい話ではない。
せめて彼女が見ただけで腰を抜かすほどの大妖怪であるか、人を驚かすだけの知略に長けた妖怪であれば話は簡単だったのだけれど。そもそも、それなら阿求のところへ勉強になど来ない。
ままならぬものである。
「よーし、頑張るぞ!」
紅茶を飲み干した小傘が、勢いも新たに本を手に取った。人を驚かす為に古典的な怪談を勉強しているらしいのだが、果たしてそれにどんな意味があるのだろう。
今時、皿が一枚足りないだけの話で驚いてくれる人もいないだろうに。そう思うと彼女が無駄な努力をしている気がして、胸が苦しくなる。
せめて、彼女が努力して驚いてくれる相手がいれば。そこでふと、ある半霊の姿が頭に浮かんだ。
「そういえば小傘さん。魂魄妖夢と会ったことはありますか?」
本に視線を向けたまま、素っ気なく小傘は答えた。
「あるよー。よく驚くって評判だったから行ってみたんだけど、全然驚かなかったし」
怖いモノが苦手だと豪語される妖夢ですら、彼女の前では驚けなかったのか。それを聞いた限りでは、もはやこの幻想郷に小傘の驚かせる人物はいないように思えた。
「いえ、待ってください」
「ん?」
首だけこちらを見る小傘。
「ひょっとしたら、驚いてくれるかもしれない方に心当たりがあります」
といっても、確実性は皆無に等しい。ただ単なる推測で、もしかしたら驚くんじゃないかなあ、程度の事だ。
「そんな人がいるの!?」
期待に目を輝かせ、小傘が詰め寄る。
「分かりません。ですが、誰からも驚かされる心配のない方ならばあるいはと思いまして」
聞けば、昔の人間は小傘を見ただけで驚いたらしい。無理もない。人と妖とは本来、そういう間柄なのだ。むしろ驚かれない現代、あるいは幻想郷が異常すぎる。
だけどもしも、そんな昔の人間。いやそれ異常に驚きに対しての免疫がない奴がいるとすれば。
多々良小傘の驚かし方でも充分に結果を得られるかもしれない。
淡い期待と恐怖を胸に、阿求は家へ来て欲しいという内容の手紙を綴った。
阿求からの呼び出しに、最初は首を捻った。一体、自分に何の用があるのかと。
手紙にはただ来て欲しいとだけ書かれ、肝心の目的についてはまった触れられていない。これが見知らぬ誰かからの手紙ならば無視を決めてこんでいたのだが、相手は稗田阿求だ。無視するわけにもいくまいて。
仕方なく夜も遅いというのに、人里まで足を運ぶ羽目になった。会ったら文句の一つでも言ってやらないと気が済まない。
静まりかえった阿求の家。鍵は掛かっていないらしく、玄関はあっさりと開いた。不用心にも程がある。
無遠慮にあがりこみ、阿求の名前を呼んだ。
人を呼び寄せておきながら、どれだけ名前を連呼しても阿求は姿を現さない。
まさか謀られたのか。阿求の名を騙り、自分を呼び寄せて馬鹿にしているのだとしたら。
ぐつぐつと煮えたぎるような怒りが、五臓六腑から染み出してくる。
そんな時のことだった。
「一枚足りなーい!」
廊下の曲がり角から、意味不明な事を叫びながら飛びだしてくる妖怪が一匹。
「ひうっ!」
それを見て、思わず後ずさり廊下に転けてしまう大妖怪が一匹。
彼女の持つあまりの強さに、並大抵の妖怪共は怖じ気づいて突っかかってこない。そして挑んでくるような大妖怪は揃って矜持が高く、大概の者が真正面から戦いを仕掛けてくる。そのせいか、彼女は不意打ちというものに弱かった。
廊下の冷たさが臀部に伝わり、ようやく自分が転けたのだと自覚する。しかも可愛らしい悲鳴をあげながら。
それを見て妖怪は、この世が春が来たとばかりにはしゃいでいた。
「やった! やった! とうとう驚かすことができた!」
人間も妖怪も、怒りが限界点を超すと冷静になれる。恥ずかしさで赤らんでいた頬はいつもの肌色に戻り、トレードマークの笑顔も自然と浮かびあがってきていた。
風もないのに窓が鳴り響き、廊下の気温が一気に氷点下を下回る。
その異常さに、ようやく妖怪も気が付いたのだろう。
万歳の姿勢を保ったままで、動きがピタリと止まった。
「あ、あれ……?」
凍り付いた妖怪の向こう側に、笑いを堪える阿求の姿があった。
ああ、そういうことね。
どういう理由があってのことかは知らないが、自分はただ驚かされる為に呼び寄せられたらしい。
静かに立ち上がり、妖怪に向き直る。
「初めまして、小さな妖怪さん」
阿求の処分は後で決めるとして、とりあえずは目の前の妖怪だ。
微妙に震え始めた彼女に向かって、残酷で容赦のない一言を告げる。
「私の名前は風見幽香よ」
「聞きましたか、幽香さん」
顔中を包帯で巻かれた阿求の言葉に、幽香は首を傾げた。
「何を?」
「何でも最近、壮絶な笑顔を浮かべる妖怪が出没して多くの人間を驚かして回っているそうですよ」
傘を持っている共通点から、あの子は風見幽香の弟子ではないかと囁かれているぐらいだ。恐るべきは、彼女の学習能力といったところか。
布団で眠る阿求の傍ら。林檎を剥いていた幽香は、面白そうにこう尋ねる。
「それはひょっとして、こんな笑顔?」
背後に咲いた向日葵が種をマシンガンのように撃ってきそうな笑顔を浮かべられた。
口の中に入ってきた包帯を吐き出し、阿求は苦い顔で頷いた。
こんな理由で転生しなくてよかったね。
それにしてもゆうかりんの笑顔を浮かべる小傘ちゃん
…(想像中)…
とりあえず下駄で踏んでください。
それはともかく
>>あまりの警備の厳しさに当主が閉め出されて帰れなくなったという話も聞く
たった一文でカリスマブレイクしているおぜうさまに全6ボスが泣いた
この台詞、シチュエーションによっては地獄への片道切符ですよねー(汗
ある意味無理心中じゃないかwwww
子傘ちゃんに驚かされたいよー
勉強シーンの描写がとてもほのぼので癒されました。
とりあえず踏んでください。
ゆ、幽香さん…あっきゅん体弱いんだから…!
驚かされたゆうかりんかわいいよゆうかりん
笑いと、わずかな恐怖を同時に感じた。
それとヘタレミリアwwwwww
阿求さん何やってんのwww
それはそうとあとがきがwww
>「それはひょっとして、こんな笑顔?」
笑うという行為は本来攻撃的なものであり、獣が牙をむく行為が原点であるのですね、分かります。