海の底は光が届かないから、いつもまっくらで。
だから、ずぅっと夜であるのと変わらない。
たまに、ちゃぽんと顔を出す。
そうすると、真っ紅の光が、わぁって広がって居る。
『ゆうぐれ』
ぽつり、呟く。
かつて、それをうつくしいと思ったのかもしれない。
あまりに儚い、その紅を。
でも。でも。
このまっくらでつめたい海は。
そんなお天道様の光だって、呑んで溶かして、消してしまう。
また。
また、まっくらに、なる。
ただのまっくら、まっくらやみ。
海の底とおんなじ、夜になるのね。
* * *
「船長!」
はいはい私は船長だけど。
「何?」
「いや、冷静になって考えてみようよ。とりあえず酒だと思うのよね。それが無ければこの世の全てが始まらないというか」
何を言い出すこの正体不明。
「いやいや、私も白蓮に暫くついてってみるかなぁ位思ってるけどさ。でもほら、折角封解かれたってのに、特にお祝いもなんもやってないじゃない?」
胡乱な笑みを浮かべながら彼女は捲くし立てる。
ふむ、と右手人差し指を顎にあてて、暫し黙考。
「それはごもっとも。別に聖が酒を呑まないとかそういうわけでも無いんだけどね、きっかけが無いというかなんというか」
そう返すと。彼女は胡坐の姿勢のまんま、だんっと床に拳を叩きつけながら口上。
「否、否々! きっかけなんてものはごろごろ転がってるものなの。だらだら過ごしてるうちにまた千もの年月が流れてしまう。実際私もそうしてたらなんか物凄い時間経ってたし」
「のんびり過ごせてたならそれで良いじゃないのよ」
「良くない! 船長も判るでしょ、あの封印されてる時間の詰まらなさ! こうしてる間にも、時間は流れ続けてるの。年を千数えるのは割かし億劫だけど。同じ千を数えるとして、日々の落陽はあっという間に過ぎてくわよ。さあ船長、これから自重しない時間を過ごそう」
「はあ。どうでもいいけど、下着見えるってばその格好。慎みを持ちなさい慎みを。自重してちょっと」
「船長だって胡坐じゃないの」
「私はそれよっか丈長いから平気なの。頑張らないと見えないわよ。角度的にも」
「頑張っていい?」
「ちょっ」
握る拳にあらん限りの力を込める。
狙いは、ぐんにゃり柔らかくかがめた身体の先っちょにあるその頭。
自重しろ。そぉれ大きく振りかぶってー。
*
「……」
眼の前にある正体不明、ものもいわぬ。
やりすぎたかしら。
「……白が基本なの?」
余裕あったかーよぉし力強く錨を握り締めてー。
* *
「何だその力は。何だその力は。かち割れるかと思った」
さて。私たちは今、聖輦船の中。聖輦船と言っても、もはやこれは遊覧船。定期便というと少し語弊があるけど、特に何もすることが無いのでこうして乗り込んでいる。今日は珍しく客が居ない。暇な私と暇な正体不明、ふたりきり。
床に大きな穴が開いてしまったので、少し場所を移してから。かち割れなかった頭をさすりさすり、涙眼で彼女は言う。まあ、この位で聖が造った船は沈まない。初めはなるたけ丁寧に扱おうって思ってたけど、
『やんちゃしても、勝手に直りますよ? もうこれは、貴女が操る舟となったのです。かつての、貴女の乗っていた舟と同じ姿をしてはいますが。そんじょそこらの力じゃあ、沈むことなど有り得ない』
なんて言葉を聞いてしまったから。「ほらほら、嘘じゃないですよ! うふふそぉれ南無さーん!」とか言いながらその超人的な力で手摺をばっきばきにしてた聖のあの無邪気な笑顔……もう私はあのお方についていく他無いと思ったものだ。実際船はすぐ直った。今も先ほどまで座っていた場所を見やれば、穴が塞がりつつある。
それでも、無闇やたらにこの船を傷つけるのは良しと思えないので。今のは不可抗力ということにして貰おう。
「謝らないけどね。あと力じゃ聖には敵わないし」
「ううう、船長が容赦無いよう。ああいたい頭いたい。そもそもここの連中は力強過ぎるわよう」
めそめそと正体不明は泣き始めた。仕草は判りやすいのねえ。
でも。
「嘘泣きしたって駄目」
「何故わかったの」
「何故そこで表情を引き締めて返すのよ」
「いや、こん位じゃあ死なないからさ。冗談で済む」
「打たれ強いってこと? 何回も退治されてるんだっけ」
「前半は正解だと思うわ。大分力は蓄えたもの。人間は、兎角私を恐れるから。その恐れは、存分に私の力となった。それで、後半はちょっと間違い。退治されてたのは、毎回が『私』であるとは限らなかった」
「んん?」
よく判らない。
「ああ、人間が退治した気になってた中に、私が巻いた不思議のタネも混ざってたってこと。なんかよくわからないものを相手にして、なんかよくわからないままその姿を伝え続けて、怯えながらもそれを打ち倒す。名前だけがはっきりあったのが良かったのかもね」
「名前?」
「そう。ぬえ、という名前が。有名でしょう? 私が妖怪であることは知れている。でも、その正体が杳として知れない。妖怪という名前、その器だけがある。たとい中身がからっぽでも、誰かしらが勝手に詰めてくれるようになる。ま、私はからっぽなんかじゃ無いけどね」
「そうねえ。こうして話してるし」
「そう。あの時はね、割かし見てる分には滑稽で面白かったけど、飽きちゃったからやめた。ばれたらばれたで、ちっとも怖がってくれないしさあ。封印されるのは、もっと詰まらないわよね」
「……そう」
この正体不明もまた。永い永い時を、生きてきたのだ。
それを思うと、特に返す言葉が見つからない。
「私が打たれ強いのは置いといてね。お祝いよ、お祝い。白蓮に内緒でさあ、宴会の企画しようよ。とりあえずお酒呑もうよ」
「呑みたいだけじゃなくて? それ」
「酒を呑むのに理由が必要?」
ああ、この娘こういう性質か。私も酒は嫌いじゃないけどね。
「宴会、そう宴会ね。良いんじゃない? ナズーリンも、一輪も雲山も、星も居るし。ああ、あの化け傘誘ってみてもいいか……弱そうだけど、色んな意味で」
「面子を集めるのにも理由は要らないんじゃないかしらねえ、本当は。でも一応のこと、体裁は整えておくとやりやすいって思うんだけど」
「それはおいおい……お膳立ては、そうねえ。私たちで企画しちゃって良いかもね」
「お、船長ノリがいい。じゃあ、そうしよっか。ああでも、その前に」
「うん?」
だんっ、と。今床を叩き付けたのは、彼女の拳では無い。
「前夜祭。さあ呑もうよ、杯もあるから」
「どっから出したのそれ」
「不明」
「その一升瓶、柄が無いようだけど」
「不明」
「……」
「船長」
「なに」
「名も無き酒を愉しむのも、また一興よ?」
「はいはい」
船長、と呼ばれることにはもう突っ込まないようにした。だって私はこの船の、紛れも無い船長なのだから。
互いに注がれた杯を付き合わせると、きぃんと響く。船はそれ以外の音も出さず、真っ直ぐに動き続ける。
そう。今私は、船の上に居る。
少し、思い出す。
ほんの少し、思い出す。
私がこうして、船に乗ることが出来るようになった。
その、幕間。
* * *
もう少しで、夜が来る。
光のかけらも残らない。
ただのまっくら、まっくらやみ。
ゆらゆら揺れる、船の上。それを私は想像する。
私は、海の底。
ああ、また獲物がやってきた。
大層な法力を持った僧侶が、私を退治しにやってくるのだとか。
どうやって沈めてやろう。
霊験灼からしきその船を。
ざぶん、ざぶん。
揺れている。
近付いてくる。
えらく貧相な。
ちょいと力を込めれば、簡単に沈む船。
ああ、これも私が望む船ではなかった。
ひっくり返してやろう。
それでいい。
いつものことだから。
船の上に乗るものが。
船がひっくり返る瞬間に、何を見るかを、私は知ってる。
あるのは、海。海。黒い、海。
しおっからい水。
大きなうねり。
いたい。いたい。
そのつめたさが。潮水が。力が。
ぶつかってくる。ぶつかってくるよ……
海が青いなんて、誰が言ったのか。
真っ黒。黒。黒しかない。
苦しい。息が、出来ない。
幾ら足掻いたところで、もうどうにもならないような。
それだけの。
そんな事実が。
眼の前に在った。
思考が交錯する。
私が思い出しているのは、一体いつのお話であるのか。
……判ってる。
そう、私はあの日思った。
これが「海」であると。
ああ。私は。
その日、「海」が何物であるか。その正体を知ったのだ。
* *
「何物って。そりゃあ、海は紛れも無く海であると思うけど」
「うん?」
「ほら、空いたよ」
「ああ、ありがと」
何杯目を乾かしたのかは、もう既に数えていない。彼女が持ってきた正体不明の酒は、幾ら呑んでも無くならないし、注げばただその口から酒を零し続けるだけ。不思議だな、とは思ったけど。元々何なのかも判って無い上に、普通に酔っ払うみたいだし、その辺りはどうでも良い感じになってきてた。
ととと、と。杯が溢れてしまわない内に、注がれる一升瓶の口をつんと突き上げる。もうこれ以上は満ちぬ、の意味を込める仕草。
「船長は、心の裡が駄々もれる性質なのねえ」
「そうかしら」
「そうそう」
くぃと一息に呑み干して。からっぽになった手持ちの杯を、彼女は手酌で満たす。
「私も海は詳しくない、やたら近付くものじゃあ無いって判ってるし。でも、見たことはあるのよね。あんなに大きく、そして広い。あんな恐ろしいものがあるのかと、私は震えたわ」
恐ろしい。そう、「海」とは。ただ「恐ろしい」、それそのもの。人が夜を恐れるように。海の底がいつだって夜ならば、それを恐れずしてなんとする。
「一度見た。あれは夕暮れ時だった」
「ゆうぐれ」
「そう。昼間はかんかん照りで眩しいお天道様が、なんだか弱っちく、寂しい紅色に変わる頃合。お天道様が弱る時分を待ちかねて、呑みこんでしまった。あれほど眩しく輝いてたお天道様を、海が一呑みにしたのを、私は見たの。そしたらもう、真っ暗になった。私は人間とは違うから、夜を恐れたりはしないけどね。でもあの時ばかりは、人間の気持ちが少し判ったような気がする」
「……」
「普通ね。山間に沈むお天道様は、気にならないさ。また次の日、なんでもない顔してまた昇るんだって、なんとなく判るから。でも、海のずぅっと向う側で、呑みこまれるあの有様は、駄目。ゆるゆるずぶずぶ、ああ、これに呑みこまれたら。なんにも、なんにも、帰ってこれない風になるんじゃないかって。あの、恐ろしい海に。もしあれに取り込まれたら、別物になっちゃうだろうって。一度見たっきり、もう近付かなかったけど」
「別物」
「そう、別物。船長、あなたのように。海に纏わるものは、おしなべてそうかもしれないけど。海にも妖怪はいっぱい居るって、そりゃ知ってはいるけどさ。陸(おか)に居るのとは、全然訳が違う。私なんかは、ふらふらしてばっかりだけど。妖怪には、必ず寄る辺があるものなの。己の姿を保つための、寄る辺がね。海はどう? 海のど真ん中に、岸なんて無いよ。何処にも辿り着かない。辿り着けない。其処で妖怪として生きるなら、寄る辺そのものが海になってしまう。あんなだだっ広い、ただひたすらに暗い海が」
そう。私はそうして生きる妖怪だった。
「あの海ってのは、途方もなく深いの? 船長、船長はさ。元は『ひと』であったね? その念が陸に残ったのなら、あるいはもう少し違う風になったのかも。後悔は無いの。ねえ、船長」
また、胡乱な笑みが見える。正体不明の。
聴こえる声が、随分遠くから響いているような気がする。
海。私は海にのまれた。それをしっかと覚えている。
私の念が、陸に留まっていたのなら。
普通の、普通の死に様で。
そうやって、死ねたのなら。
私は今、どうなっていただろう。
でも。
私は今、こうして此処に居る。
それを後悔したことは。……
「無いわ」
そう。無い。
私がこうして、此処に居られるのは。
全て、聖のお陰なのだ。
そして。
私があの日、海で死ななければ。出逢うことだって、無かった。
「矛盾してるのかもしれないけどね。でも、良いの。私は聖とそうして出逢った。そうしなければ、今の私はそもそも無い」
「うん」
「私が今、此処に居る。こうしてあなたと酒を呑みながら。そしてまた明日、聖とお話をするの。なんでもない話。積もり積もってる訳じゃあないの。ずっと封印されてたから。けれど、どんどん溢れてくる。再び顔をあわせることが出来たのだから。そんな溢れたことを、ぽつぽつ零せれば良いじゃない。私は、私たちは、あの幻想郷で封印されることなんか、きっと無い。なら、時間は幾らでもあるでしょう?」
もう既に、千の年を超えた。
ならば今更。それに満たぬ、この先にある千の落陽を想像するのすら面倒。だってそれは、まさに眼の前に現れる。今でも。明日でも。明後日でも。どんなに時が経とうとも。これからは、きっと!
「そういう繋がりは、ちょっと羨ましいかなあ」
赤ら顔で、艶やかな黒髪を掻き揚げながら、彼女は返す。
「私自身は、寄る辺を海に持ったわけじゃなくてさ。きちんと陸よ。でも、だぁれも判ってくれりゃしないのよね。ああ、それも愉しかったよ? それだけで恐れられるし、けらけら笑いながら過ごしてたと思う。船長とは違うところだ。あなたの寄る辺は、最早海でも陸でもない。だけどそれが、とてもはっきりしている。羨ましい、そういうところが」
正体不明の酒の中身は、一向になくならない。注いでも、注いでも。
とぽとぽと。からっぽの杯が、透明で満たされていく。
そうか、あなたは。
「泣き上戸?」
こういう時に、泣くのねえ。
「へ?」
「零れてるわよ」
「ああ、……ああ。なんだ、気付かなかった。あんまり酒が美味しいからね、こうして呑む酒が。独りよっかはふたりがいいのかしら」
「さあ? 独り酒も乙なもの。それにしたって、珍しいもの見た」
「うるっさい。たまにはそういうこともあるったら」
顔は全然泣いてない。くしゃくしゃになってない。でもその両の眼から零れているのは、紛れも無いただの涙だった。海の水よりは、しょっぱくないのかしら。
不思議。不思議だ。この涙に対して、そんな思いを寄せた。
私は、私がいのちを落としたあの日、泣いたのだろうか。
私は、私が聖にこの手を掴まれた日、泣いたのだろうか。
そしてそれから。聖ともども、私が封印されてしまってから。
私は、泣いたのだろうか。
その間。
私は、何か考えることなど、あったのか。
かなしいと。思うことなど、あったのか。
「羨ましいだなんて。あなたもこれから、永い時を過ごすのよ? 私たちと一緒に。あなたはちょっとした暇つぶし位に思ってるかもしれないけどね。聖、あのお方に一度ついていこうと思ったら、もう離れられないんだから」
ねぇ、ぬえ。こうして酒を呑むくらいなんだから。私はあなたの寄る辺を、知る由も無いけれど。酒を呑むのに理由は要らないんでしょ?
「あなたも、私も。これから何が起こるか判らないじゃないの。それを想像するのって、案外愉しいことだと思うの。気付いたのは最近だけど。ねぇ、ぬえ。きっとあなたも一緒に居るのよ? あなたはこれからも、昔っから相変わらず、訳わかんないこと言ってさ。訳わかんない風にしててさ。でも、見失わないから。どんなに正体不明でも。私も、ね。ずっと、こう、してね、居たいの」
ああ。ぬえのことは、笑えないなあ。
私も多分、泣き上戸なのかもしれない。
千年は、確かに永すぎた。私にとって、永遠と呼んでいい位、途方も無く永すぎた。
「ねぇ、ぬえ」
「なに、みっちゃん」
「何その呼び方」
「親しみを込めて。とりあえず鼻かもうよ」
えー? そんなずるずるしてる?
「はい、ちり紙」
「……どっから出したのそれ」
「不明」
「便利ねえ」
その便利さは甘んじて享受して微塵の問題も無い。ふたりして、鼻をかむ。ちーん。
「船長も泣き上戸だ。この酔っ払いめ」
「何言ってるの。船に乗るもの、酒はよく呑むってば。何しろ酔いに強くないとやってられないからね」
「船長は酒に強いのね。覚えたわ」
「私よっか、聖のが多分強いと思うけど?」
「え、うそ」
「嘘じゃない。そう思うなら、実際確かめてみると良いわ? こうして泣き出す私たちよかは、よっぽど理性を保ちながら呑んでると思うけど」
……多分。ちまちま杯を傾けることはあっても、べろんべろんに(私が)酔っ払う位の酒の席は、今まで設けたことが無い。そして私が理性を保っている間、聖は至極冷静だった。
「ぬぅ、それは手強いわね。鵺的びっくりショーを展開せざるを得ない」
「なにそれ」
「……みっちゃんに脱いで貰うとか……」
「ああ、そういう」
また錨喰らいたいー?
「やめてよ怖い顔しないでよ! 冗談通じないなぁほんとに」
ふるふると、羽根かどうかも判らない背中越しのそれを震わせながら、ぬえは抗議してくる。
「冗談に聴こえないもの。実力行使したくもなるわ」
「か弱き乙女が錨ぶんぶん振り回さないでよう。痛いからそれ」
「だったら痛くなくて済むような思考しなさいよ」
「無理。久々に人前出たからさあ、もう自分を抑えるのとかさ、ほら。面倒で。船長私自重できない」
さっきまでの涙の跡を残して、眼はまだまっかっか。
そんな顔で、彼女は言う。
「自重しなさいよ……」
全く以て下らない。
ああ、本当に下らないやりとりだ。そう考える私の眼も、鏡が此処に無いから確かめられないけど、多分あかい。
「で? 宴会がどうこうって言ってたわね。酒はあなたに任せるけど良い?」
「うん、任された。正体不明の酒で良いなら」
「柄が判らなくても結構いけるものね。呑んで美味いと思えるものなら。これならきっと聖も喜ぶかも」
「じゃあじゃあ、おつまみは?」
おつまみ。
今この場には全く用意されていないそれについて、ちょこっと思考を巡らせる。食べ物か……あったらあったで、彩りがあってよろしい。
そうして直ぐ思い当たる、あのねずみ妖怪の声。
『日本酒にはね。存外チーズが合うものだよ、ムラサ船長。私が言うんだから間違い無い。ご主人も満足されていたみたいだ。用意したのは無論私で、私はその相伴にあずかった次第だがね。酒に慣れていないのか生粋真面目なのか、その時のご主人のへろへろっぷりったらもう私はそれを手厚く介抱せざるを得ない状況でふふふふ』
「……日本酒にはチーズが存外合うとか言われてるみたいでね」
「ほう。じゃ、あのねずみに用意させとくと楽そうねえ」
「ええ、全く……」
* *
いつまで経ってもからっぽにならないと思われた一升瓶が、不意にその中身を無くしてしまった。
「幾らでも呑めると思ったのに」
「そういうこともあるわ。これはね、その場に居るものが満足したら乾くの」
「……ぬえ。ほんとはこの中身、なんなのか知ってたでしょう?」
「まさかまさか。でもまあ、あれねえ。普通の酒も、正体不明の私が手をかけたら、よく判んないものになっちゃのかも」
「はぁ。もう良いわ、それで」
くぃと私が呑み干せば。たった今注がれた筈の酒を、彼女もまた乾かしてしまうのだった。
「船長」
「うーん?」
だらだらと返事をする。
船は自動操縦だから。私が酒呑んでたって、動くし。問題ない。
「船長。白蓮の救出、おめでとう」
「なによう。それって、あの人間のお陰でしょうに」
私もかなり頑張ったつもりだけど。それでもまあ、結果を見ると。
「船長がそう思うなら、きっとそうなんでしょ。私に船長の思いは変えられないよ。でも、おめでとう」
「何よそれ……」
「白蓮には確認しないよ。きっとあいつは、のほほんってしながら何でも肯定しちゃうだろうから」
「ああ、そうかもねえ。聖は兎に角妖怪にはやさしい」
「だから船長、あなたに確認しておきたい」
「んー?」
「私は、此処に居てもいいかな」
胡乱な目つきは、変わらない。酒に酔ってるのか、その身体が左右に揺れてる。でも多分、私もそんな感じになってるし。
「それって私が決めることじゃ無いんだけど」
「それで良いから」
……ええ。だって、そんなの。
「先刻言ったでしょうに。私は。私たちは。きっと、あなたを見失ったりしないわ。適当に飽きたら離れていけば良い。妖怪なんて気まぐれだからね、特にぬえ、あなたはそんな感じ。でも、何時戻ってきたって良い。私たちはこれから、この幻想郷で。ずぅっと、居ることが出来るに違いないんだもの」
じぃっ、と。ぬえの眼を見据えて言う。
そうしてると、彼女はふいと視線を逸らす。
「さすが船長。みっちゃんロマンチストだね」
「なにそれ。泣く? また泣いちゃう?」
「泣かないよう。なにそれ、さでずむ? さでずむなの?」
「逆……じゃないわね。どこで覚えたのそんな言葉」
「ふめい」
「ああそう……まあ。泣くのも、酔ってるからいいんじゃない」
「そうかな」
「そうそう」
「じゃあそのやわっこそうな胸貸して」
足元どころか胸元みたかこの正体不明。
……仕方あるまい。私も今、なんとなく顔見られたく無い気分なのだ。
「はいはい」
眠ろう。酔った、実に酔った。でも頭は痛くなくて、何とも丁度いい塩梅で、こうして眠るのはなんとも気持ちが良いものだ。
ふたりして、ひっつきながらごろんと転がる。船の床は固いけれど、そこで横になるのなんか慣れっこな話だし。
「せんちょおー」
「なに」
「……酒くさい」
「あんたもでしょうが!」
こんっ、と頭を小突いてやる。これ位なら、かち割れることもあるまいに。
「見込んだ通り、みっちゃんのお胸はやわっこいのであった」
「かち割るわよ」
ああ。今が昼なのか夜なのかは判らない。
目覚めたら、どうなっているのか。自動操縦なこの船は、路は真っ直ぐでありながら、ふらふら行ったり来たりを繰り返してるから。
また、起きた頃に。丁度いい塩梅で。私たちの居るべき場所に居てくれたなら、いいのになあ。
……
* * *
夢、か。
夢だな。
ちゃぷんと海から顔を出しながら、私は思う。
もう何度、この夢を見たことだろう。
地底に封印されていた頃から。
多分、ずっと、見ていたのかもしれない。
起きているか眠っているかも判らないまま。
夢を見るなら、眠ってるんだ。
その位にしか、きっと考えてなかった。
多分、それは。
私が「海」に囚われたあの日から、ずぅっと変わってないことだった。
ほらほら。
海がお天道様を、呑み込んじゃうよ。
そんな時分。ゆらゆら揺れて来る船の、なんという愚かな有様。
力在る僧侶がやってくる。
こいつを沈めることが出来たなら。
私はもっと力をつけて。
この海から、離れられるかもしれない。
ほらほら。
力を込めれば、一息つく暇すら無いほど。
簡単に、おんぼろな船はひっくり返る。
まっくら、まっくらやみ、真っ黒な海に呑み込まれてしまえばいい。
投げ出される人影に向けて、私は叫ぶ。
『恐ろしいか、この海が。
そうかそうだとも、海は恐ろしいものだ。
近付くな。
近付けば沈めてしまうぞ。
ひっくり返して、呑みこんでしまうぞ。
なりたいか。
私のようになりたいか。
厭か。
厭だろう。
ならば恐れよ。
海を恐れよ。
その恐れが力となる。
襲うぞ、襲うぞ。
その力を以て、陸でのうのうと生きるものを襲うぞ』
訳も判らず、叫び続ける。
泣いていた。泣いていたのかもしれない。
判らない。でも。
『そのいのちが惜しいと言うなら。
寄る辺を陸に持つものならば。
海に、海などに、呆けながら乗り出してくるんじゃ無い、――』
夜、だった。
まっくらな。
私を呑み込んだときと、おんなじような夜。
その暗闇に、私は見たのだ。
まるで朝日のように眩い。
そんな光を放つ船を。
その船に乗るものと、私は言葉を交わす。
その船は、私が操るものであると。
たおやかな笑みで、彼女は言った。
夢、だ。
夢だと知っていたけど。
これはかつて私が見たものだってことも、判ってるから。
ざぶん、ざぶん。
うねる海に向けて差し伸べられたその手に。
私が手を伸ばすことだって、知ってるの。
この、恐ろしい海ではなく。
これから。私の寄る辺は、貴女となることも。
* * *
「せんちょー」
……なによう。
「……」
「船長、船長、お胸やわらかみっちゃん」
なんだと。
*
「むしろ褒めてると思うんだけど!」
「起こされ方としては微妙だったから……つい」
身を起こしてた正体不明は、やっぱり胡坐の姿勢で頭をさすりさすり。中々素晴らしい一撃が入った。また船に穴が開いた。
「つい、で錨握らないで欲しいんだけど! 今のは洒落になってなかった、危うくかち割れるかと」
「結果として割れてないんだからいいでしょ」
「この鬼め」
「鬼じゃない。船長よ」
涙眼の正体不明はほっといて、船内の窓に向う。
「え、ちょっと」
「ん?」
「何これ。目覚めたら朝ってのが定番でしょ。夕方じゃないのよもう」
窓から覗く景色は、どうしようもなく幻想郷のそれ。
森の樹々が夕暮れ時の光に照らされて、紅々と染まっている。
「私は朝に目覚めたけどね。ごめん二度寝したらこうなった」
「起こしてよ!」
「起こしたよ。でも船長、随分気持ちよさそうに寝てたから」
「む」
「封印されてるとこうはいかないよね、多分。それは私も判る。眠ってるような起きてるような、時々夢は見るか。でも、動けないから。縛られてるだけだから。ちっとも気持ちよくはなれない」
「……あなたなりの気遣いってことかしらね」
「ううん、どうかな。私も気持ちよかったから、それの方がおっきいかも」
「別にいいけど」
胡乱な声を聞き流しつつ、私は窓の外を見つめる。
「ゆうぐれ」
また、夜がやってくるのか。今日は日中活動出来なかったみたいだし、ちょっと損した気分になる。
「そう、夕暮れ。でも、船長」
「うん?」
「幻想郷には、海が無いんだって。お天道様は、ただ山間に沈んでくだけ。それだけの夜が来る。だから明日も、間違いなくお天道様は昇るわ」
「……」
「それでいて、夜はそこそこ長いもの。さあ、前夜祭はもう済ませた。今日はこれから、白蓮を囲んで呑もうよ」
「……」
「どしたの? 船長」
「ふ」
ふ。ふふ。
笑いそうになる。
ああそうだ、確かに夜はそこそこ長い。そして丁度良く今、船は幻想郷に辿り着いた。
「ん、なんでもない。酒は? 用意出来てるの?」
「抜かりなく。ほら」
ぬえが指差した先には、先日呑み干して床に転がってる一升瓶。
近付いて、手に取る。
「え」
確かに無くなった筈なのに。持った手ごたえはずっしり重く、ちゃぷんと中身が揺れる音が鳴る。
「今夜、改めて呑まれたいってさ」
「……これ、なんなの?」
「不明」
正体不明が、からから笑う。私もつられて、声を出して笑ってしまった。
聖は、どうかしら。酔うと案外、泣き上戸かも。
「おつまみは……いきなりでも大丈夫かしらね」
「ああ、平気じゃない? あのねずみ、探し物は得意らしいし」
「そっか。じゃあ、行きましょうか」
船室から出て。船長を失った船は、その自動操縦をぴたりとやめる。私が乗り込んだら、また動き出す。
私たちの行く先は、もう決まっていて。此処からは飛んで行くまでも無かった。一歩一歩踏みしめながら、ふたり並んで歩く。
見上げれば、樹々から零れる真っ紅な光。もう直ぐ、もう直ぐ、まっくらな夜が来る。
「ねえ、船長」
「ん?」
一升瓶を小脇に抱えながら、ぬえがぽつりと零す。
「この夕暮れは、ちょっと綺麗ね。怖くない」
「……そうねえ。また明日、お天道様は昇るのね。あなたが言った通り」
幾度でも。これからきっと、いつまでも。
「よし、とりあえずこの夕暮れを肴に呑むとしよう」
「呑めればそれでいいんじゃないの?」
「それはそれ。さあ、走るよ。競争。どっちが早く寺に辿り着くか!」
言うや否や、ぬえはもうたったか走り出している。
「なにおう」
負けじと私も駆け出す。
ああ、急がなきゃ。お天道様が沈む前に、辿り着かなきゃ。
真っ黒なその背中を追って。
ただ一言、我先に「ただいま」って言う為に。
ただ一言、我先に「おかえり」って言われる為に。
私たちは笑いながら、ひた走る。
あったかくて、さみしくて、心にくるお話でした。こんなことしか言えないけれど、ありがとうございました!
便利だなぁ正体不明
みっちゃんが白なら…ぬえは、ぬえぬえは何色ですか!?
>ああ、この娘こういう性質か。私も酒は嫌いじゃないけどね。
氏の心の言葉でしょうか?
なにはともあれ、この組み合わせはなんて素敵。相変わらず優しい言葉で癒されました。
しかし、そうか、船長は大きめなのか……
幻想郷では幸せに暮らしてほしいな
あなたの酒飲み大好きです。
船長、船長、お胸やわらかみっちゃんと言う科白で確信しました。
素敵でした。
御巫山戯してないむらぬえ、本当に親友みたいですね。
こんな良作に当るとは、検索してみて良かった。