雲が月を隠すほど厚くかかった夜だった。私はカバンを背負って、真っ暗な道を歩いていた。
「ずいぶん遅くなったなあ」
人里を離れて森につながる道。森はただの黒い固まりにしか見えなかった。地上はほんの数メートル先も見渡せないほどに暗い。
空を見上げる。雲は月の光をすべて奪っているようだった。私の他に歩いている者はいなかった。幻想郷の夜は妖怪の時間。どこから妖怪が飛び出してくるかもしれない夜道を歩きたいと思う人間は少ない。
日が沈んだ後、人間は家の中で夜が過ぎるのを待っている。人は闇を恐れる生き物だからである。
だけれど、私は暗闇を怖いと思ったことが一度もなかった。
私は、妖怪だ。夜を恐れたことはない。
カバンの中には薬と、今日の売り上げが入っていた。人間の里に薬を売りに行くのは、私が師匠から任せられた大切な仕事なのだ。永遠亭には、姫様と師匠、それに妖怪ウサギたちが住んでいて、かせいだお金はそこの運営費にあてられる。
売上金のことを考えると嬉しくなった。頬が自然にゆるむ。最近、薬がよく売れるようになってきた。人里に通い始めた頃には考えられなかったことだ。
それに今日は、とても珍しいことに、人家に招かれ長いこと世間話をしたりした。あまりにも長居したせいで、外が真っ暗になってしまったけれど。
人間は妖怪が里に下りてくることを喜ばない。やっと里の人間に受け入れてもらえるようになったのかな、と思う。少しずつだけど、人と関われるようになってよかった。私はそう感じている。
今は何時だろう。
空を見上げても月や星が全く見えない。虫やフクロウの声が聞こえるばかりだった。時計を持ってくればよかったかなあ、と思う。手巻きの小さな懐中時計は古いけど私のお気に入りなのだった。
私の仕事は薬を売り行くことだけではもちろんない。帳簿をつけたり、師匠の薬作りの手伝い(調合・器具の洗浄・材料の収集)や、食事の支度や、屋敷の掃除とか。ええと、あと何だったけ。まあ、とにかくやることが多い。
師匠は約束を守らないととても怒る。今もひとつ、仕事の打ち合わせの約束があった。だから早く帰らないといけないな、と感じていた。
ところで、忙しいときに暇そうにしている人を見ると、ちょっと腹が立ちますよね。
あ、いえ、姫様のこととかではないです。もちろん、あの子、てゐのことです。だれがどこで聞いているか分からないから一応言っておきますけど。
さて、なぜまっすぐ帰らずに、森へと歩いているのかと言えば、もう一件、寄る場所があるからだった。前方に建物が見えてきた。
魔法の森の入り口に香霖堂はある。この店は、幻想郷で唯一、外の世界のものを扱っている道具屋だ。外の世界の技術は高いので、時々師匠からお使いを頼まれることがある。ただ、店主の人格に少し問題があるので、あまり行きたくない場所だ、と常日頃から思っている。
「ごめんください」
店の中は、物がごちゃごちゃと溢れんばかりに積み重なりあっている。店、というよりも倉庫と言った方がいいかもしれない。ほとんど何に使う物なのかさえ分からない。これらは幻想郷のどこからか店主が拾ってくるらしい。いつ作られたか、どこからやってきたか分からない古くさい物ばかりだった。店に入ると、時間の進みが遅くなったような気がした。
「あれ、誰もいないんですか。夜分失礼しまーす。永遠亭の鈴仙です」
私が店の奥に向かって呼びかけていると、
「本当に失礼だね」
と店の奥から店主、森近霖之助が出てきた。
「君ら妖怪は他人の都合を考えないのかい?」
と彼は開口一番に言った。彼はお世辞にも客商売が向いているとは思えない。いつ来てもこんな調子なのだ。本当に失礼だね、とは店に来た者に対してなんて言いぐさだろう。なぜ営業を続けていられるのか分からない。
それに彼には気に入ったものを非売品にする、という癖があると聞いている。だから店は物がどんどん溢れていってしまう。この店で売り物が買えた記憶さえあまりなかった。どうやって生計を立てているのか疑問だ。
彼が話し始めると非常に長い。私はすぐに用件を切り出すことにした。
「今日は置き薬の代金の回収に来ました」
「なんだ。夜遅くに来て客ですらないのか。僕は今まで寝ていたんだ」
そう聞くと、店主は凶悪な顔になり、柱にかかった時計を指さした。時計の針は10時を示している。それを見て思わず私が、「よかった」と言うと、店主は不機嫌そうな目を向けてきた。
「あ、すみません。師匠からは明日までに帰るように言われているんですよ」
「そうだ。早く帰りたまえ」
これでも客商売をしているといえるのか。まあ、彼が寝ているのに起こしてしまったのは悪いと思うけど。
師匠との約束は0時。ちょうど日付が変わる時間だ。のんびり帰っても十分間に合う。
それにしても――
「案外早いんですね」
この偏屈な店主が眠る時間にしてはずいぶん早いな、と思う。
「人間は日が沈むと活動しないからね。客がかなり減るんだよ。こんな時間にくるのは君たちみたいな妖怪と妖怪じみた者だけだ」
「それより、置き薬ですけども……」
「今出すよ」
そう言って店主は店の隅にある壺の中から薬箱を取り出し、私に手渡した。私はそれを開ける。
「全く減っていませんね」
「悪いけど、生まれてから僕は体調を崩したことなんか数えるほどしかないよ」
それを聞いて私はとても残念に思った。彼は「人間と妖怪のハーフ」と聞いたから妖怪よりも薬を使うかと思ったんだけど。置き薬は減った分だけ、お金を頂戴するというシステムだから薬を使っていないと代金を請求できない。
「ほんとーに、少し風邪をひくというともないんですか?」
「これでも少しは健康に気を遣っているからね」
がっくりと肩が落ちた。
「だいたいさ。妖怪の薬なんて詐欺みたいなものだろう? 飲んでみたら毒薬だったとか、シカの糞だったとか。妖怪は人間をだますモノと相場が決まっているからね。てゐだったけ? あの子を見ると、とても飲む気がしないね」
「違います! 私たちはちゃんとした薬をつくっています!」
ああ、何てことだろう! てゐがいたずらをすると、永遠亭のウサギの評判が下がるのだ。あとでとっちめてやらないといけない、と思った。
「ふうん。妖怪らしくないことをしているね」
「どういう意味ですか?」
「いや。大したことじゃないさ」
とにかく薬は売れなくて、ほとんど嫌みを言われにきたようなものだった。少しむなしい。
でも、薬屋とすれば人が健康なのはいいことなのかもしれない。私は、店主に起こしてしまったことのわびを言って店を出ようと思った。
だが、その時初めて、店主が腕につけている物に気づいた。それがとても奇妙だったので、思わず尋ねてしまっていた。
「あの。それって何ですか」
「これかい?」
そう言って店主は少し嬉しそうに、腕を軽くあげた。その顔は宝物を自慢する子供のように見えた。彼が腕につけているのはブレスレットだった。
こう言っちゃ何だけどかなり趣味が悪かった。さんさんと輝く赤い太陽の絵の中心に、暑苦しく、かつ、むさ苦しい筋肉質な顔が描いてあった。そしてブレスレットは全体が嘘くさいほど金ピカに光っている。それまで気づかなかったのが不思議なくらいだった。
会話の流れの義務感から、その物体について聞こうとすると、彼はそれよりも先にこう言った。
「これは宇宙ブレスレットという!」
森近霖之助は他の人間には無い、ある特殊な力があるという。
「未知の物の名前と用途が分かる」という能力だ。その能力を生かすために、外の世界の物やら何かよく分からないものを扱う珍妙な道具屋を始めた、と聞いた。
彼は言った。
「これは外の世界の道具なんだが、もちろんただの腕輪じゃない。宇宙パワーを使って、これをはめた者の運気を上昇させるというシロモノだ。宇宙パワーというのが何かよく分からないが、おそらくこれは人の信仰心を利用した道具なのだろう」
宇宙パワーねえ。
なんかすげえうさんくさい。
「宇宙パワーを得るには、一つだけ守らなければならないルールがある。これをはめた者はまだ日が開けないうちに起き、太陽が昇る方角を向いて、日の出とともに大きな声でおはようございます、と太陽に挨拶をするんだ。そうすると大宇宙の守護を受けることができるらしい」
「はあ」
彼は熱弁をふるっていたが、私はとても冷めていた。
ブレスレットの太陽は暑苦しい笑みを浮かべている。毎朝、幻想郷中を走り回りそうな笑顔だった。私はぼんやりと彼の話を聞き流しながら、太陽に向かって元気に挨拶をする店主の姿を思い浮かべ、「宇宙」パワーというよりも「太陽」パワーとでも言った方がいいんじゃないか、と思っていた。
「宇宙パワーは、『超ポジトロゲンドラティノエネルギー』の1200倍の力を持っているらしいね」
「はあ」
どうしようか、と思った。何を言っているのか全く分からない。宇宙パワーだけでも理解できないのに、超~、なんだっけ。さらに意味不明な言葉が出てきた。
店主はよく拾ってきた物について、本当のことなのか、妄……想像したことなのかよく分からないことを語るが、ここまで訳の分からないのは初めてだった。
「さて、問題はこのブレスレットの効力だ。宇宙パワーは人の体の中から毒素をすっきり洗い流す。のどの調子がよくなり、美白・ダイエットにも効果があって、頭髪に悩むこともなくなり、ついでに年金も払わずに済むらしい」
もう聞かなくていいですか。それにしても、彼の力ってそこまで分かるものだったろうか、と思った。名前と用途までしか分からないはずだった。
「それって、あなたの能力で分かったんですか」
「いや、これは説明書付きで幻想郷にやってきた物でね。それに全部書いてあったんだ」
って、説明書ですか。
「そんな訳でこれは名前も用途も、加えて使用法まで分かっているんだが。宇宙パワーという物が分からなくてね。1200倍と言うからにはそうとうなエネルギーを得ることができるんだろう。だが、それだけの力があるのに、なぜダイエットとかちっぽけな効果しか持たせないんだろう。外の人間の考えることはよく分からないね」
なんというか、嘘くさい。このブレスレットを見たときの感覚は何かに似ている気がする。例えば……てゐと話したときのような。
まあ、気のせいかもしれないけど。
彼の話が長くなってきたので(興味もわかないし)彼が話している間に何度か、私は時計を見た。
すると店主は眉をハの字にして、こう言ってきた。
「まるでネズミのようだね。実にせわしない。そんなのだと君、早死にするよ」
「え?」
ネズミ? 私はウサギの妖怪だけど。それよりも早死にするってどういうことだろう。
「いや、外の人間のようだ、といった方がいいかな。外の世界の技術力は幻想郷のそれよりも数段高い。たとえばあれのようにね」
そう言って彼は柱の時計を指さした。
「あれですか? 別に何の変哲もない時計のように見えますけど」
「そう見えるだろう。だけど、あの中にはこちらでは考えられないような複雑な機構がついているんだよ。外の生活はこちらとは全く異なっているんだろう。機械を使った、日常の無駄を極限まで省いた快適で便利な生活。あの時計を見るだけでそれが分かる」
ただね。彼は続けた。
「外の世界の人間は、みんな疲れているんじゃないのかな……」
「どうして分かるんですか?」
私が知る限りでは、彼は外の世界に行ったことはないはずだ。彼がどうしてそう考えるのか不思議だった。
例えば、時計のことだけど、と彼は言った。
「外の時間感覚はこちらとは全く異なっているはずだ。たぶん、もっと速い。君は、外の人間に会ったことはあるかい?」
「何回かは」
幻想郷は外の世界とは隔たった世界だが、時折、迷い込んでくる人間がいる。「神隠し」というらしい。
「なら分かると思うけど、彼らを見ていて不思議に思ったことはない? 外の人間で『時計を持っていない』人間に会ったことは?」
そう言われて気づいた。私が会った人たちは、みんな時計を持っていたと思う。
まるで時計がお守りであるかのように。中にはごく短い間に、何度も何度も時計を確認する者さえいた。あまりに時間を気にするので、「約束でもあったの?」と聞いてみても、「ない」と答えたりするのに。
「幻想郷では、今が何時なのか、といったことはあまり重要ではない。一日は、太陽が昇るとともに始まり、日が沈んだときに終わる。だから、大抵の人間は日が昇る頃に起きて、日が沈めば眠る。それが幻想郷の一日だ。
また、妖怪の一日も外の者の時間とは異なる。妖怪は大体が人間よりも長く生きている。そう言う者は何時間たったとか、何日、または何年時間がたったのかさえ、無関心になることが多い」
たしかに姫様を見ているとそう思うときがある。いや、あの方は人間だけど、時間の経過に対して意識を払われているとは感じない。何年たっても同じ生活を送っている。多分ずっとそうだったのだろう。私が月から来るより、私が生まれるよりもずっと前から。もしかしたらてゐもずっと同じなのかもしれない。
それなら私は? 今日、私はどんな一日を送ってきたのだろうか。
「時計とは、共同体の人間の行動を合わせるためのシステムだ。各人はそれを参照することによって他人との歩調を合わせながら生きている。
外の世界の人間はそれを常に携帯・確認しなければ生活していけない。だから、彼らはいつも時間に追われているんじゃないだろうか。他人に自らの時間を合わせなくてはならない。それは共同体の構成員として必要なことかもしれないけど、いつもそれを考えている、というのはどうなんだろうね。――そういうのはきっと疲れてしまうんじゃないのかな。
多分、君の生活は外の人間に近いはずだ。毎日、上司の顔色をうかがい、他人に調子を合わせ、せかせかと生きている。疲れたりはしないかい?」
そう……かもしれない。私は妖怪らしく生きているのだろうか、と思った。
「もっと自分勝手に生きてもいいと思うよ。君は妖怪なのだから」
「そう言われてみると最近体の調子が悪いような気がします。今度休みでも取ることにしようかなあ」
と私が言うと、彼は、
「それじゃあ、こんな物はどうだろうか。安くしておくよ」
と言って、先ほどのブレスレットを示してきた。
それ嘘っぽいし……と言おうとすると店主は意外にもこう言ってきた。
「何、効果なんてありはしないよこんな物。さっきはいろいろ言ったけどね。あの説明書なんてほとんどがデタラメだろう」
分かっていたのか。でも、そうなら持っている必要なんて無いんじゃ?
「いや、健康に重要なのは、普段の生活をどう過ごすかということだよ。いつも体調管理に気を遣うことが必要だ。だけど、常にそれを考えていくことは難しい。忙しいと、そういったことを考えている余裕はなくなってしまう。
これはお守りみたいなものだよ。だからふとしたときにこれを見て、意識するんだ。健康でいよう、とね。確かにこれはインチキだが、そんな使い方もできるんじゃないだろうか」
「はい、それじゃあ是非」
私は店主にお金を払い、ブレスレットを受け取った。
でも……見れば見るほどうさんくさいかった。ピカピカ光ってるけど、これメッキだよね。絶対。
と、そこで気づいた。香霖堂は商品を客に売らないことで有名だ。そんな店主が自分から買い物を勧めたことが未だかつてあっただろうか。店主は気に入った物を非売品にしてしまう。ならば、これは?
ひょっとして押しつけられたんじゃないか?
――いや、止めておこう。あまり人を疑うのはよくない。私のことを心配してくれた、そう思うことにした。
私は時計を見た。針は11時を指している。まずい、早く帰らないと。いつの間にか、帰らないといけない時間になっていた。
「今日はありがとうございました。急がないといけないので失礼します」
それを聞いた霖之助は、少し妙な顔をした。
「あれ、やけに急ぐね。『明日までに帰らないといけない』んじゃなかったっけ」
「ええ、0時までに」
「そうか。悪いことをしたね、それは」
え?
「僕は君の言う『明日』を違う意味にとっていたよ」
時計は11時。とくに問題はないはず……
「僕は時計の針を意識したことはない。一日の基準は太陽だ。日が昇れば明日。0時は大抵寝ているから、その時間が昨日か今日か、なんて考える必要がない。
さっき言ったけどね。あの時計は幻想郷の物じゃない。電波時計といってね。時間を常に調整してズレのないように動くらしいんだ。ただ、電波がここまで届かないからね。少しずつずれてきているんだ」
……ということは。いったい今は何時なのか。いやな予感がする。
「まあ、僕は太陽に合わせて生活しているから、特に不都合もないしそのままにしているんだけど――」
「ど、どれくらいずれているんですか!」
「約2時間。だから今は……君の感覚で言えば、『次の日』の1時だね」
1時! ここから永遠亭まで帰るにも少しかかる。師匠から厳しいお仕置きを受けるかもしれない。
私は逃げるように香霖堂を後にした。
外はさらに暗くなっていた。ブレスレットの金色も、くすんだ黒色でしかなかった。それが何となくいやだった。怖いとさえ感じた。
闇が濃い。
妖怪とは何だろうか。または人間とは?
私はいったいどちらに近いのだろう。もしかしたら、あの道具屋の方が妖怪らしいのかもしれない。
そんなことを思った。
「ずいぶん遅くなったなあ」
人里を離れて森につながる道。森はただの黒い固まりにしか見えなかった。地上はほんの数メートル先も見渡せないほどに暗い。
空を見上げる。雲は月の光をすべて奪っているようだった。私の他に歩いている者はいなかった。幻想郷の夜は妖怪の時間。どこから妖怪が飛び出してくるかもしれない夜道を歩きたいと思う人間は少ない。
日が沈んだ後、人間は家の中で夜が過ぎるのを待っている。人は闇を恐れる生き物だからである。
だけれど、私は暗闇を怖いと思ったことが一度もなかった。
私は、妖怪だ。夜を恐れたことはない。
カバンの中には薬と、今日の売り上げが入っていた。人間の里に薬を売りに行くのは、私が師匠から任せられた大切な仕事なのだ。永遠亭には、姫様と師匠、それに妖怪ウサギたちが住んでいて、かせいだお金はそこの運営費にあてられる。
売上金のことを考えると嬉しくなった。頬が自然にゆるむ。最近、薬がよく売れるようになってきた。人里に通い始めた頃には考えられなかったことだ。
それに今日は、とても珍しいことに、人家に招かれ長いこと世間話をしたりした。あまりにも長居したせいで、外が真っ暗になってしまったけれど。
人間は妖怪が里に下りてくることを喜ばない。やっと里の人間に受け入れてもらえるようになったのかな、と思う。少しずつだけど、人と関われるようになってよかった。私はそう感じている。
今は何時だろう。
空を見上げても月や星が全く見えない。虫やフクロウの声が聞こえるばかりだった。時計を持ってくればよかったかなあ、と思う。手巻きの小さな懐中時計は古いけど私のお気に入りなのだった。
私の仕事は薬を売り行くことだけではもちろんない。帳簿をつけたり、師匠の薬作りの手伝い(調合・器具の洗浄・材料の収集)や、食事の支度や、屋敷の掃除とか。ええと、あと何だったけ。まあ、とにかくやることが多い。
師匠は約束を守らないととても怒る。今もひとつ、仕事の打ち合わせの約束があった。だから早く帰らないといけないな、と感じていた。
ところで、忙しいときに暇そうにしている人を見ると、ちょっと腹が立ちますよね。
あ、いえ、姫様のこととかではないです。もちろん、あの子、てゐのことです。だれがどこで聞いているか分からないから一応言っておきますけど。
さて、なぜまっすぐ帰らずに、森へと歩いているのかと言えば、もう一件、寄る場所があるからだった。前方に建物が見えてきた。
魔法の森の入り口に香霖堂はある。この店は、幻想郷で唯一、外の世界のものを扱っている道具屋だ。外の世界の技術は高いので、時々師匠からお使いを頼まれることがある。ただ、店主の人格に少し問題があるので、あまり行きたくない場所だ、と常日頃から思っている。
「ごめんください」
店の中は、物がごちゃごちゃと溢れんばかりに積み重なりあっている。店、というよりも倉庫と言った方がいいかもしれない。ほとんど何に使う物なのかさえ分からない。これらは幻想郷のどこからか店主が拾ってくるらしい。いつ作られたか、どこからやってきたか分からない古くさい物ばかりだった。店に入ると、時間の進みが遅くなったような気がした。
「あれ、誰もいないんですか。夜分失礼しまーす。永遠亭の鈴仙です」
私が店の奥に向かって呼びかけていると、
「本当に失礼だね」
と店の奥から店主、森近霖之助が出てきた。
「君ら妖怪は他人の都合を考えないのかい?」
と彼は開口一番に言った。彼はお世辞にも客商売が向いているとは思えない。いつ来てもこんな調子なのだ。本当に失礼だね、とは店に来た者に対してなんて言いぐさだろう。なぜ営業を続けていられるのか分からない。
それに彼には気に入ったものを非売品にする、という癖があると聞いている。だから店は物がどんどん溢れていってしまう。この店で売り物が買えた記憶さえあまりなかった。どうやって生計を立てているのか疑問だ。
彼が話し始めると非常に長い。私はすぐに用件を切り出すことにした。
「今日は置き薬の代金の回収に来ました」
「なんだ。夜遅くに来て客ですらないのか。僕は今まで寝ていたんだ」
そう聞くと、店主は凶悪な顔になり、柱にかかった時計を指さした。時計の針は10時を示している。それを見て思わず私が、「よかった」と言うと、店主は不機嫌そうな目を向けてきた。
「あ、すみません。師匠からは明日までに帰るように言われているんですよ」
「そうだ。早く帰りたまえ」
これでも客商売をしているといえるのか。まあ、彼が寝ているのに起こしてしまったのは悪いと思うけど。
師匠との約束は0時。ちょうど日付が変わる時間だ。のんびり帰っても十分間に合う。
それにしても――
「案外早いんですね」
この偏屈な店主が眠る時間にしてはずいぶん早いな、と思う。
「人間は日が沈むと活動しないからね。客がかなり減るんだよ。こんな時間にくるのは君たちみたいな妖怪と妖怪じみた者だけだ」
「それより、置き薬ですけども……」
「今出すよ」
そう言って店主は店の隅にある壺の中から薬箱を取り出し、私に手渡した。私はそれを開ける。
「全く減っていませんね」
「悪いけど、生まれてから僕は体調を崩したことなんか数えるほどしかないよ」
それを聞いて私はとても残念に思った。彼は「人間と妖怪のハーフ」と聞いたから妖怪よりも薬を使うかと思ったんだけど。置き薬は減った分だけ、お金を頂戴するというシステムだから薬を使っていないと代金を請求できない。
「ほんとーに、少し風邪をひくというともないんですか?」
「これでも少しは健康に気を遣っているからね」
がっくりと肩が落ちた。
「だいたいさ。妖怪の薬なんて詐欺みたいなものだろう? 飲んでみたら毒薬だったとか、シカの糞だったとか。妖怪は人間をだますモノと相場が決まっているからね。てゐだったけ? あの子を見ると、とても飲む気がしないね」
「違います! 私たちはちゃんとした薬をつくっています!」
ああ、何てことだろう! てゐがいたずらをすると、永遠亭のウサギの評判が下がるのだ。あとでとっちめてやらないといけない、と思った。
「ふうん。妖怪らしくないことをしているね」
「どういう意味ですか?」
「いや。大したことじゃないさ」
とにかく薬は売れなくて、ほとんど嫌みを言われにきたようなものだった。少しむなしい。
でも、薬屋とすれば人が健康なのはいいことなのかもしれない。私は、店主に起こしてしまったことのわびを言って店を出ようと思った。
だが、その時初めて、店主が腕につけている物に気づいた。それがとても奇妙だったので、思わず尋ねてしまっていた。
「あの。それって何ですか」
「これかい?」
そう言って店主は少し嬉しそうに、腕を軽くあげた。その顔は宝物を自慢する子供のように見えた。彼が腕につけているのはブレスレットだった。
こう言っちゃ何だけどかなり趣味が悪かった。さんさんと輝く赤い太陽の絵の中心に、暑苦しく、かつ、むさ苦しい筋肉質な顔が描いてあった。そしてブレスレットは全体が嘘くさいほど金ピカに光っている。それまで気づかなかったのが不思議なくらいだった。
会話の流れの義務感から、その物体について聞こうとすると、彼はそれよりも先にこう言った。
「これは宇宙ブレスレットという!」
森近霖之助は他の人間には無い、ある特殊な力があるという。
「未知の物の名前と用途が分かる」という能力だ。その能力を生かすために、外の世界の物やら何かよく分からないものを扱う珍妙な道具屋を始めた、と聞いた。
彼は言った。
「これは外の世界の道具なんだが、もちろんただの腕輪じゃない。宇宙パワーを使って、これをはめた者の運気を上昇させるというシロモノだ。宇宙パワーというのが何かよく分からないが、おそらくこれは人の信仰心を利用した道具なのだろう」
宇宙パワーねえ。
なんかすげえうさんくさい。
「宇宙パワーを得るには、一つだけ守らなければならないルールがある。これをはめた者はまだ日が開けないうちに起き、太陽が昇る方角を向いて、日の出とともに大きな声でおはようございます、と太陽に挨拶をするんだ。そうすると大宇宙の守護を受けることができるらしい」
「はあ」
彼は熱弁をふるっていたが、私はとても冷めていた。
ブレスレットの太陽は暑苦しい笑みを浮かべている。毎朝、幻想郷中を走り回りそうな笑顔だった。私はぼんやりと彼の話を聞き流しながら、太陽に向かって元気に挨拶をする店主の姿を思い浮かべ、「宇宙」パワーというよりも「太陽」パワーとでも言った方がいいんじゃないか、と思っていた。
「宇宙パワーは、『超ポジトロゲンドラティノエネルギー』の1200倍の力を持っているらしいね」
「はあ」
どうしようか、と思った。何を言っているのか全く分からない。宇宙パワーだけでも理解できないのに、超~、なんだっけ。さらに意味不明な言葉が出てきた。
店主はよく拾ってきた物について、本当のことなのか、妄……想像したことなのかよく分からないことを語るが、ここまで訳の分からないのは初めてだった。
「さて、問題はこのブレスレットの効力だ。宇宙パワーは人の体の中から毒素をすっきり洗い流す。のどの調子がよくなり、美白・ダイエットにも効果があって、頭髪に悩むこともなくなり、ついでに年金も払わずに済むらしい」
もう聞かなくていいですか。それにしても、彼の力ってそこまで分かるものだったろうか、と思った。名前と用途までしか分からないはずだった。
「それって、あなたの能力で分かったんですか」
「いや、これは説明書付きで幻想郷にやってきた物でね。それに全部書いてあったんだ」
って、説明書ですか。
「そんな訳でこれは名前も用途も、加えて使用法まで分かっているんだが。宇宙パワーという物が分からなくてね。1200倍と言うからにはそうとうなエネルギーを得ることができるんだろう。だが、それだけの力があるのに、なぜダイエットとかちっぽけな効果しか持たせないんだろう。外の人間の考えることはよく分からないね」
なんというか、嘘くさい。このブレスレットを見たときの感覚は何かに似ている気がする。例えば……てゐと話したときのような。
まあ、気のせいかもしれないけど。
彼の話が長くなってきたので(興味もわかないし)彼が話している間に何度か、私は時計を見た。
すると店主は眉をハの字にして、こう言ってきた。
「まるでネズミのようだね。実にせわしない。そんなのだと君、早死にするよ」
「え?」
ネズミ? 私はウサギの妖怪だけど。それよりも早死にするってどういうことだろう。
「いや、外の人間のようだ、といった方がいいかな。外の世界の技術力は幻想郷のそれよりも数段高い。たとえばあれのようにね」
そう言って彼は柱の時計を指さした。
「あれですか? 別に何の変哲もない時計のように見えますけど」
「そう見えるだろう。だけど、あの中にはこちらでは考えられないような複雑な機構がついているんだよ。外の生活はこちらとは全く異なっているんだろう。機械を使った、日常の無駄を極限まで省いた快適で便利な生活。あの時計を見るだけでそれが分かる」
ただね。彼は続けた。
「外の世界の人間は、みんな疲れているんじゃないのかな……」
「どうして分かるんですか?」
私が知る限りでは、彼は外の世界に行ったことはないはずだ。彼がどうしてそう考えるのか不思議だった。
例えば、時計のことだけど、と彼は言った。
「外の時間感覚はこちらとは全く異なっているはずだ。たぶん、もっと速い。君は、外の人間に会ったことはあるかい?」
「何回かは」
幻想郷は外の世界とは隔たった世界だが、時折、迷い込んでくる人間がいる。「神隠し」というらしい。
「なら分かると思うけど、彼らを見ていて不思議に思ったことはない? 外の人間で『時計を持っていない』人間に会ったことは?」
そう言われて気づいた。私が会った人たちは、みんな時計を持っていたと思う。
まるで時計がお守りであるかのように。中にはごく短い間に、何度も何度も時計を確認する者さえいた。あまりに時間を気にするので、「約束でもあったの?」と聞いてみても、「ない」と答えたりするのに。
「幻想郷では、今が何時なのか、といったことはあまり重要ではない。一日は、太陽が昇るとともに始まり、日が沈んだときに終わる。だから、大抵の人間は日が昇る頃に起きて、日が沈めば眠る。それが幻想郷の一日だ。
また、妖怪の一日も外の者の時間とは異なる。妖怪は大体が人間よりも長く生きている。そう言う者は何時間たったとか、何日、または何年時間がたったのかさえ、無関心になることが多い」
たしかに姫様を見ているとそう思うときがある。いや、あの方は人間だけど、時間の経過に対して意識を払われているとは感じない。何年たっても同じ生活を送っている。多分ずっとそうだったのだろう。私が月から来るより、私が生まれるよりもずっと前から。もしかしたらてゐもずっと同じなのかもしれない。
それなら私は? 今日、私はどんな一日を送ってきたのだろうか。
「時計とは、共同体の人間の行動を合わせるためのシステムだ。各人はそれを参照することによって他人との歩調を合わせながら生きている。
外の世界の人間はそれを常に携帯・確認しなければ生活していけない。だから、彼らはいつも時間に追われているんじゃないだろうか。他人に自らの時間を合わせなくてはならない。それは共同体の構成員として必要なことかもしれないけど、いつもそれを考えている、というのはどうなんだろうね。――そういうのはきっと疲れてしまうんじゃないのかな。
多分、君の生活は外の人間に近いはずだ。毎日、上司の顔色をうかがい、他人に調子を合わせ、せかせかと生きている。疲れたりはしないかい?」
そう……かもしれない。私は妖怪らしく生きているのだろうか、と思った。
「もっと自分勝手に生きてもいいと思うよ。君は妖怪なのだから」
「そう言われてみると最近体の調子が悪いような気がします。今度休みでも取ることにしようかなあ」
と私が言うと、彼は、
「それじゃあ、こんな物はどうだろうか。安くしておくよ」
と言って、先ほどのブレスレットを示してきた。
それ嘘っぽいし……と言おうとすると店主は意外にもこう言ってきた。
「何、効果なんてありはしないよこんな物。さっきはいろいろ言ったけどね。あの説明書なんてほとんどがデタラメだろう」
分かっていたのか。でも、そうなら持っている必要なんて無いんじゃ?
「いや、健康に重要なのは、普段の生活をどう過ごすかということだよ。いつも体調管理に気を遣うことが必要だ。だけど、常にそれを考えていくことは難しい。忙しいと、そういったことを考えている余裕はなくなってしまう。
これはお守りみたいなものだよ。だからふとしたときにこれを見て、意識するんだ。健康でいよう、とね。確かにこれはインチキだが、そんな使い方もできるんじゃないだろうか」
「はい、それじゃあ是非」
私は店主にお金を払い、ブレスレットを受け取った。
でも……見れば見るほどうさんくさいかった。ピカピカ光ってるけど、これメッキだよね。絶対。
と、そこで気づいた。香霖堂は商品を客に売らないことで有名だ。そんな店主が自分から買い物を勧めたことが未だかつてあっただろうか。店主は気に入った物を非売品にしてしまう。ならば、これは?
ひょっとして押しつけられたんじゃないか?
――いや、止めておこう。あまり人を疑うのはよくない。私のことを心配してくれた、そう思うことにした。
私は時計を見た。針は11時を指している。まずい、早く帰らないと。いつの間にか、帰らないといけない時間になっていた。
「今日はありがとうございました。急がないといけないので失礼します」
それを聞いた霖之助は、少し妙な顔をした。
「あれ、やけに急ぐね。『明日までに帰らないといけない』んじゃなかったっけ」
「ええ、0時までに」
「そうか。悪いことをしたね、それは」
え?
「僕は君の言う『明日』を違う意味にとっていたよ」
時計は11時。とくに問題はないはず……
「僕は時計の針を意識したことはない。一日の基準は太陽だ。日が昇れば明日。0時は大抵寝ているから、その時間が昨日か今日か、なんて考える必要がない。
さっき言ったけどね。あの時計は幻想郷の物じゃない。電波時計といってね。時間を常に調整してズレのないように動くらしいんだ。ただ、電波がここまで届かないからね。少しずつずれてきているんだ」
……ということは。いったい今は何時なのか。いやな予感がする。
「まあ、僕は太陽に合わせて生活しているから、特に不都合もないしそのままにしているんだけど――」
「ど、どれくらいずれているんですか!」
「約2時間。だから今は……君の感覚で言えば、『次の日』の1時だね」
1時! ここから永遠亭まで帰るにも少しかかる。師匠から厳しいお仕置きを受けるかもしれない。
私は逃げるように香霖堂を後にした。
外はさらに暗くなっていた。ブレスレットの金色も、くすんだ黒色でしかなかった。それが何となくいやだった。怖いとさえ感じた。
闇が濃い。
妖怪とは何だろうか。または人間とは?
私はいったいどちらに近いのだろう。もしかしたら、あの道具屋の方が妖怪らしいのかもしれない。
そんなことを思った。
今後に期待
確かに時計持ってない人はそうはいないよなぁ
社会人になってからは特に意識するようになったなぁ…。意識しない生活を送ってみたいものだ
現代は時間単位どころか分単位で縛られてるからなぁ。
まあ情報化社会になった現代では時計を意識しない機会は少ないだろうなあ
個人的にはそこまで悲観することもないかと思ってますけどね
結構面白かったですb
やることがたくさんありますから。
霖之助の珍しく商売人らしいです。
良いお話でした。
面白かったです
幻想郷では時計要らないだろうな。
羨ましい……
考えさせられる良いお話でした!
てか、この出来で初ssとは…