星空を背後に抱いて、じゃあこれでお別れかな、と神綺は少し寂しげに笑った。
人目を忍んだ私達の邂逅は、いつも森の中だから、腰を下ろすところもほとんど無い。木々の密度が薄い、広場のような開けた場所で、私達は二人、ただ向かい合っていた。最後になるであろう今日も、それはいつもと変わりなく。
彼女の周囲に浮かぶ人形達も、どこか悲しげにしている。あまり見ない形の人形は、海の向こうの人形を基にしているらしい。「これはメイドで、これは二人組の魔法使いで、この二人は一般人かなあ」……などと説明してくれたけれど、半分くらいはよくわからなかった。
それは人間の子供をさらに小さくしたみたいで、どれもひらひらした服で、だけど少しずつどこか違っている。神綺の手製の服に身を通した人形達は、悲しそうだったり、寂しそうだったり、楽しそうだったり、退屈そうだったりと、それぞれ好きなようにしている。
成長を止める魔法、体を動かす力を魔力に置き換える魔法、そして若返りの魔法。求めた最低限を私は彼女から学んで、だから彼女は、ここから去ろうとしている。神綺には神綺のやることがあるようで、別の場所に行かなくちゃならないから。
「でもその前に」
聞かなくちゃならないことがあるよね、と彼女は楽しそうに笑う。
私達の契約。私は彼女から魔法を教えてもらう。そして彼女は私から、私が魔法を学ぶ理由を聞くというもの。彼女が凄腕の魔法使いと聞いて、不老不死の魔法を教えてほしいと頼み込みながらその理由を明かさずにいたら、こんな取引をふっかけられた。
近いうちに来るとわかっていた瞬間。恐れていたこの時の到来に、私は小さく息を呑む。
神綺の目はやさしげに細められて、そのまなざしに撫でられていると、どうしてか、もう遠く記憶の彼方にいってしまったはずの、母のことを思い出す。
こんなつまらない理由しか届けられないことからの申し訳なさだろうか。こんなことのために魔法を欲した自分を、恥じているからだろうか。私は、悪い行いを懺悔する子供みたいに、ぽつりぽつりと言葉を紡ぎ始めた。
『道行く先に』
「んー、まあ、別にいいんじゃない?」
死を恐れるがために、魔法を学び始めたこと。
話の流れで、その力が失われるという事態を防ぐため、妖怪を敬っていることまでも。
すべてを話して、ごめんなさいこんな理由で、とぼそぼそ呟いた私への、それが神綺の返答だった。
決死の告白だったのだけど、あんまり簡単に神綺は言うものだから、私はほとんど肩透かしをくらったみたいになって、彼女のことをまじまじと見つめてしまった。
「なに? そんな理由で魔法を学んで、あまつさえ妖怪の手助けをするなんてけしからーん、とでも言って欲しかった?」
「……いいえ、そうでは……ないのですけど……」
どうなのだろう。あるいは私は、そう言って欲しかったのかもしれない。
魔法と、彼女は言った。法術ではなく。それは、まったくもって正しい。
私が学び、手に入れた力は、明らかに魔の術だ。
若返りの力。死ぬことが怖くて、私はそれを求めた。動機はそれ以外のなにものでもない。
もっと信仰を説くためだとか、長く人を救うためだとか、言い訳なら幾らでも浮かぶ。けれど、つまるところ、私の心を占めていたのは、恐怖だけなのだ。
「あ、でも、なるほど。魔法を選んだのは、そういうことだったのね」
「……何の話、ですか?」
「いえね、あなたは十分な法力を持っていたみたいなのに、どうしてわざわざ魔法の領域に手を出したのかなって。魔法なんて今さら一から学ぶよりも、法力を伸ばしたほうが力が得られただろうにね。でもあなたの目的がそうであるなら、それも当然だったのね。──死を遠ざけるなら、魔法使いが一番手っ取り早くて、そして確実だから」
手っ取り早くて、確実。
彼女の一言は、これ以上無いくらいに的を射ている。私がこの魔の道を歩き始めた率直な理由は、まさにそれだ。
死への恐怖を自覚し始めた当初、私は仙人という存在になろうと考えた。真っ当な人間が真っ当に修行を積み、人を超えた形。僧侶としての道行きの、真っ当な結末。仙人になれば死なずにいられる。弟が飲み込まれたような、おぞましい、冷たい別れから遠ざかれる。そう思っていた。
でも、仙人の実態を知るに従って、私の気持ちは沈んでいった。
仙人という存在になったからといって、不老不死になるわけではない。修行を怠けると、死は瞬く間に体を蝕んでゆく。もちろん修行を怠る気などなかったけれど、でも、それ以外の死も多く身近に存在する。妖怪には好んで狙われ、地獄の死者にも付け狙われる。結局のところ、仙人なんて存在になったところで、死の恐怖から逃れることなどできはしないのだ。
その点、魔法という力は違った。捨虫と捨食の魔法を習得するだけで、魔法使いという存在になるだけで、死から大きく遠ざかることが約束される。若返りの秘術だって存在するし、仙人のように、妖怪などに付け狙われることも無い。それは、私の求めるものに合致していた。
──ただ一つ。私が今まで歩んできた道とは異なる、外法の力だということを除けば。
「……怖いのかしら?」
「え?」
「だって、そう見えるわ」
言われてみると、なんだかひどく、寒気がした。恐怖の温度。久しく忘れていた、忘れようとしていたはずなのに。
何が怖いんだろう。死は、もう、私の隣には無いのに。私はまだまだ、もっともっと、生きていられるはずなのに。
「足元が崩れるのって、怖いわよね」
神綺の声が聞こえて、次に、暖かさが私の身体を包んだ。
彼女は、私を抱き締めていた。両腕を背中に回して、背丈は同じくらいだから、頬がくっつきそうになっている。
「今まで疑いなく歩いていた道が、些細なことで崩れてしまって、それに巻き込まれて落ちてしまいそうになるのよ。そういうことって、たまにあるんだと思うわ。ましてあなたは、それまで歩いてきた道をうち捨てて、新たな道に飛び移ろうとしてるんだから。いえ、もう飛び移ってしまっているのかしらね。別の道もあったのかもしれないけれど、あなたはそれを選んだ。もしかしたら薄氷なのかもしれないけれど、まだわからないわよね。あなたはまだ、その道を歩き出してもいないから」
神綺はどんな表情で、それを私に伝えようとしていたんだろう。彼女は私を抱き締めていて、いつのまにか私も彼女を抱き締めていて、頬がぴたりとくっついていて、彼女の言葉の振動が伝わってくる。彼女の顔を見ようとしても、その白い髪の毛しか目に入らない。
「何の慰めにもならないかもしれないけれど、でも、みんなそうだってことくらいは知っておいてもらってもいいかなぁって。私だってそうよ。たまにね、この子達は本当に自立してるのかって、どうしようもなく疑わしくなる時があるの。現時点で、私との魔力的な繋がりは無いわ。でも、もっと原初、私がこの子達を創る元になった魔力や、私に創られたという事実そのものが、何らかの縛りを与えてるんじゃないかって。完全なる自立は、実は達成できていないんじゃないかって」
この子達、と呼ばれた人形の一体が、悲しそうな顔をするのが見えた。それが自分達の自立を疑われているがためなのかはわからない。ただ、神綺が悲しんでいるから悲しんでいるなんて可能性も否定できないし、別の人形は、仕方ない奴、なんて言いたげに彼女を見ていたりする。この人形たちが自立していないなんて私には思えない。神綺の苦しみは、私には理解できない。
「でもね、私達は結局この道を歩いてるんだから。自分の足元にあって、私たちを支えてくれているもののことくらい信じてあげないとね。だから私はまだまだ修行に精を出すし、あるいはこの子達が現時点で自立してないとわかっても、いつか実現させると決めたわ。私は、私が選んだ道を信じて、歩いていくことにしてる」
神綺が腕を解いたから、私も慌てて腕を解く。私達の身体が離れる。彼女は、真っ直ぐに私の目を見つめてきた。
「まあ、難しい話は苦手だから、率直に言っちゃうけどね。もうなっちゃったんだからしょうがないじゃん、魔法使い。今までに無かった生き方なんだから、何か新しいものも見つかるかもしれないし。ほんと、魔法使いっていいわよ? 仙人みたいに妖怪に狙われることも無いしさ。まあ、うじうじするのもたまには悪くないけど、もうちょっと歩いてみてからでもいいんじゃないかしら、ってね。これ、いちおう魔法の師としての、最後の教えってことにさせてよ」
「最後……そうか、これが最後でしたね」
「そうよ。せっかくだから、最後は弟子の笑顔に見送られたいじゃない?」
彼女の笑顔に、私は笑顔を返したつもりだった。ちゃんとできていたのかはわからない。でも、彼女が満足そうに頷いて踵を返したから、きっと気持ちは伝わったのだと思う。
この道の先で、何を得るのか。何かを得ることがあるのだろうか。今はまだわからないけれど。
「ありがとう、神綺。少し気が楽になりました」
「それはよかった。これで私も安心して魔界に行けるってもんよ」
ふわりと神綺は、宙に浮かぶ。魔界。妖力と魔力の渦巻く原初の地の一角に、神綺は街を創るつもりらしい。この世界は縄張りの取り合いが激しいからと、彼女は無限の地を目指した。瘴気を緩和するところから始まり、自立した人形達を少しずつ人間のような存在に近づけ、一緒に街を広げ、ゆくゆくは魔界という地を自らの世界に染めるのだと、夢を語った。
「そうですね、いつかあなたの創る世界を目にすることを、死を遠ざけた私の最初の楽しみにします。できたら呼んでくださいね」
「もちろん。……まあ、どれくらいかかるかわからないけど、魔界はここと少し時間の進みが違うから、いくらかは早く見せてあげられると思うわ。こっちの時間だと二千年か三千年か……」
「……気の長い話ですね。でも、待ってますよ」
最後にまた、くすと笑いあって。
そうして、私達は別れた。
◆ ◆ ◆
少し、眠りこけていたらしい。
星、ムラサ、一輪、雲山、それにぬえの五人と一緒に、酒など呑みながら昔話に花を咲かせてそのまま横になったせいか、ずいぶんと懐かしい日の夢を見た。
身体を起こそうとしたけれど、妙な重みを感じて、為せなかった。視線を下に、自分の身体へと向けると、すぐにその理由が判明する。
まったく、と呟いて、左隣に添い寝している星を、私と星の間に割り込もうとして腰に掴まる格好になっているムラサを、私の右手を抱きしめるようにしてすうすうと息を立てる一輪を、場所が無くなったのか私の身体を敷布団みたいにして抱きついて眠るぬえを、引き剥がそうとして、けれど思い留まった。私の身体にくっついている全員と、一輪に一番近い壁に背を預けて眠っている雲山へと視線を動かしているうちに、くす、と意識せずに笑いが零れる。身体を動かさないまま、私は宙へと目を向けた。
神綺。
あなたは、元気でやっているのでしょうか。
私が封じられていた魔界の一角には、まだあなたの手が及んでないようでしたけれど。魔界の別のどこかにはあなたの創った街があって、そこにはあなたが望んだ、あなたが作ったあなたとは別のものたちが、あなたという神様のもとで暮らしているのでしょうか。そこでは、たとえばこうやって、あなたはあなたの子供達に手足を抑えられて、暖かさの中で眠りについているのでしょうか。
かつて見た人形達を少し成長した姿にして、私のそばにいる妖怪達と同じ位置に置いてみる。私の場所にいるのは、神綺だ。
そうやって想像を働かせてみると、また私は、くすりと笑みを漏らしていた。
ねえ、神綺。
あの時は、あなたが私を魔界に呼ぶまで待つと言いましたけど。でも今は、私の方から、船に乗ってあなたに逢いに行こうかと思っているのです。
あなたと別れてから封印されるまでの間に、私も少し変わったんですよ。私の欲や都合のためじゃなく、妖怪達のことを心から思って動くようになりました。結果的には人間に封印されてしまって、もちろん悲くもあって、未練もあったのですけど、でも自らの行いに後悔は欠片も無かったんです。それに今では、すべてがよかったと、この道を歩いていてよかったと、思えるようにもなったんです。
仙人への道を選ばなかったことも。
魔法使いになったことも。
自らの欲で、妖怪達を敬っていたことも。
いつしか、心から妖怪のことを想うようになっていたことも。
私の身体にしがみつく妖怪たちに目をやると、知らずのうちに口元が緩んでいる。ああ、きっと私は、昔よりも上手に笑えるようになったんだろう。
人間達に封印された、それが私のたどった道の行き先だと思った。後悔は無かったけれど、間違いなく行き止まりで、ここで私は終わるのだと思った。
けれど、そうはならなかった。私のたどり着いた場所には、信じて進んだ道の先には思いもよらない暖かなものがあって、私はそれに助けられて、救い出されて、いま、こうしている。それはきっと私には十分すぎるもので、誇りにできるもので、私にこの道を信じさせてくれたあなたに、なんら恥じることなく見せることができる。
だから、近いうちにあなたに逢いに行こうと思います。
この世界は、幻想郷という場所は昔とはいくらか変わっていて、私の道もまだまだ続いているけれど、ほんの少し、一休みに。うじうじするんじゃなくて、そう、自慢しに行くんですよ。きっとあなたがそうするであろうように、私も、私が得たものを、あなたに見てもらおうと思うんです。
私を慕い、愛してくれる、仲間達のことを。
あの弾幕は旧作ファンにとっては関連付けるなというほうが酷ですよね。
あの道中の光球も旧作を思い出しますよね。