幻想論理 上 からの続きになっています。
そちらを読まないとわけが分からない内容になっているようです。
以下続き
第四章 真空状態の空間的概念 ~Magical Astronomy.
「私たちは、どこへ行くと思います?」
「どこへ?」
「どこから来た? 私は誰? どこへ行く?」
「貴女は、貴女から生まれ、貴女は、貴女です。そして、どこへも行かない」
四季はまたくすっと笑った。
「よくご存じですこと。でも、その三つの疑問に答えられることに、価値があるわけではありません。ただ、その三つの価値を問うことに価値がある」
「そうでしょうね」犀川は頷いた。「価値がある、という言葉の本質が、それです」
(森博嗣著 「四季 冬 Black Winter」より)
***
どうやら、まだ私は無事らしい。
しかし―――
この身体の不調の原因も、これから起きることも、私にはようやくわかってきた。プランク並みの頭脳と自負している私にとって、これは致命的な遅さだ。
そう―――これは冗談などではなく、本当に、遅すぎたのかもしれない。何故なら、今の私はときに立っていることさえもが苦痛になるほどに壊れかけていて―――それでいて、まだ最後のパーツが見つかっていないのだから。
漠然としたものは見えた気がする。
しかし確固たる証拠が全く見えない。
これではさながら五里霧中といったところか、数学の公式をど忘れてしまってもどかしい気持ちになっていた中学の頃の私のようだ。いや、忘れたのなら五里霧中とはいえないか。これから公式を探そうとしている数学者、という方が適切かもしれない。
「また難しい顔してるわね。帰ってきてからずっとそうじゃない?」
「人は考え事をやめたらただの猿になるって誰かが言ってたわ」
「蓮子のは悩み事でしょ。この慈悲深いマエリベリー・ハーンさんが聞いてあげるわよ」
「結構よ。本当に考え事なんだから」
「まぁ、分かったら話してくれるんならいいんだけど。心配してるのよ? 私は。……ところで今何時?」
「んー、午後七時ね」
日も陰ってきて、普段なら周りには人が少なくなってくるこの時間。卯酉新幹線を降りた酉京都駅からの帰り、私たちは大学の前、つまりいつもの帰路を歩いていた。
しかし、今日はやけに人が多い。皆が手にしているのはどうやら新聞の号外らしく、遠目に見てもわかるほど大きな文字で、「月面旅行、一般人も可能に」という見出しが書いてあった。
―――歩くのに疲れ切っていた私は丁度いい口実を見つけた。
「メリー、月面旅行だって。少しそこで座らない? 興味深い記事だわ、たぶんだけど」
「あら、いいわね。せっかくだから構内のカフェにしない?」
さすがはメリー。月面旅行というフレーズに食いついてきてくれた。別の話題ならば、「それより早く帰ってお菓子でも食べましょうよ」といって相手にしてくれないかもしれなかった。
私はかすかに鉄の味がする口内を一舐めして、その中に紅茶を注ぎ込む準備をした。せっかく飲むのだから、鉄が混ざっているのはお断りしたい。
メリーが道で号外、と叫んでいる若い男性から新聞を受け取り、私たちは構内へと歩いて行った。
春の風が、身体を撫でる。
……そういえば、蓮台野へ行ってからもう一年になるのね……。
辺りにはきれいな桜が咲いている。空も澄んでいて、絶好の花見日和だ。昨日は雨が降っていたらしいから、花見スポットは例年よりも多くの花見客で賑わっていることだろう。
……メリーと月に行くのもいいけど、この桜が散る前にまず花見をしたいわね。
京都はすっかり、春色に染まっていた。
人の心も、風景も。
***
「今回も有人火星探査機は見送られたそうよ」
クッキーを頬張りながらメリーがぽつりと呟いた。
大学構内のカフェ。秘封倶楽部行きつけの店でもあるここは、外が変わっても変化を見せなかった。せいぜいサービスメニューが変化した程度だ。外と中では変化の具合に大きな差がある。
建物というのは、外界と区別するための、いわゆる境界だ。メリーのように境界を見ることのできない凡人でも、普段はその境界線の上を行き来していることに、一体何人の人が気づいているだろうか。そもそも、境界線というものに興味すら持っていない人がこの国の人口の大半を占めているのだから、それすら関係ないのかもしれない。
自分がどういう所で生きているのか。
あるいはどんな所で生きている人がいるのか。
そういうことに皆が疑問をもたないことが、私には昔から不思議でならなかった。
「火星……ね。メリー、火星人ってどう思う?」
「……その話、長くなるでしょ」
メリーがジト目で睨みつけてくる。
「そうでもないわよ。未だに火星人の存在が是か否か確定しない研究家の話と、もし火星人が見つかったら人類はどうしたいのか、っていう話をしようと思っただけだから」
「研究家は別にどうでもいいけど、後者の方には興味があるわね」
「あら本当? 珍しいわね。……まあもちろん外交なんていう滅多な話じゃないんだけれどね。いるにしてもせいぜい微生物程度が関の山だわ」
「蓮子。火星人を馬鹿にするのは良くないわ。人間に寄生でもしたらどうするのよ」
「火星には人間がいないんだから、そんなことはあり得ないんじゃない? 生物がその進化を遂げるより早く、人類は火星人撃退スプレーでも開発してるでしょうね」
「いやいや、蓮子。もしかしたら化学製品では対応できない能力を持っているかもしれないわ。世の中にはどんなに熱しても、どんなに冷やしても死なない生物だっているって聞いたことがあるわよ」
熱心に語るメリーを、今度は私が軽く睨んだ。
「……メリー、最近SFでも読んだ?」
「あら、ばれた?」
彼女はそんなことを言って微笑む。ころころと笑うメリーがなかなか可愛いので、私はしばらく眺めていることにした。
「ま、火星探査なんてどうでもいいわ」メリーが笑い終わるのを見計らって、私は本題に戻す。「せっかく号外があるんだから、月面旅行の話でもしましょう」
「どうでもいい話をしてたのね、蓮子は」
「行けないところには興味がわかないでしょう? もし秘封倶楽部を火星倶楽部にでも改めるのなら、火星の話もありね。行くために努力をするのでなければ、そこの話をしてもしかたがないわ」
それだけ言って、私は紅茶を啜る。血の味はしなかった。
「それもそうね。……じゃあ、いつ行くの? 月面旅行」
「気が早いことで。ま、行くのなら夏以外がいいわね。夏休みは混むでしょうし、何より夏には一つ大きな活動を予定しているから」
「あらそうなの? 話してくれてもよかったのに」
そういうメリーの顔は、何故だかとても嬉しそうだった。
「さっき決めたのよ。あの女の子が言ってた、守矢神社。そこに行ってみようと思ってね」
「現人神の……?」
「なかなか興味深いでしょ? それに、あの子にもう一度会ってみたい、というのもあるわね。面白い考えをしていたから」
「蓮子の能力の話ね。いつも貴女が言っている『客観的』にものを見るっていう考え方とぴったりじゃない」
「……そう。あの考え方は本当に正しいと思うわ。……って、また話題が逸れたじゃない」
「いつものことでしょう?」メリーはくすくすと笑う。「……月面旅行の話ね。私は秋がいいと思うわ」
……秋、か。
果たして、秋まで秘封倶楽部は存在しているだろうか……?
ふと、そんな疑問が頭をかすめた。
………何だって? 今、私は何を考えた?
「秋ねぇ。秋は月が綺麗な季節だからね、丁度いいかもしれないわ」
適当に相槌を打ちながら、私は今の思考を反芻する。
―――秘封倶楽部が消える理由?
そんなものはあり得ない。少なくとも、私はこの時間を後半年も待たずに終わらせる気は全くない。
しかし、もしあるとするならば……。
メリーが、いなくなってしまう? 私から、彼女が何らかの理由によって離れていってしまうのだろうか―――
「……違うわね」
「ん? 何が?」
私はまた逃げている。常に自分は自分で制御できていると思い込んでいるのだ。
……駄目よ。考えるのは後にしなさい、宇佐見蓮子!
大きく息を吸い込み、吐き出す。
少しだけ落ち着いてきたかもしれない。
そう―――私は今、焦っているのだろう。
「んー……なんでもないわ。ところで、月面旅行ってどれくらいかかるのかしら。私の貯蓄で行けるかな」
「あ、費用ね? えー……と、あった、これだわ」
「いくらだって?」
「…………うわぁ」
「何よ、変な声出して」
「蓮子も見てよ、すごく高いわ。とても行けないわね」
「どれよ…………あらぁ」
「ほら、蓮子も変な声出したじゃない」
そこに書いてあった値段は、まさに桁違いだった。数百万の単位ではない。宝くじがこれから例年以上に繁盛しそうな値段だ。「とてもじゃないけど」どころじゃない。「とても」無理だ。結局は世の中お金なのだと、貧乏な学生は残念な気持ちになってしまう。
「やれやれ……。何が『一般人も』なのかしらね」
「SFで読んだ、ワープ装置なんてものがあればいいのに」
「ワープねぇ……。宇宙規模ならできないことはない……って言われてるわよ。専門外だからよくは分からないけど」
「そうなの? 宇宙規模なんだから、丁度いいじゃない」
「いや、まだ理論の段階で長年話され続けてるものだから、実際には無理と考えた方が妥当ね。できる可能性の説明よりも、できない可能性の説明の方がよほど楽だわ」
「ふぅん。どんな方法なの?」
メリーはそう訊いてから一瞬、しまった、といった顔をしたが、私は特に気にせずに答えた。
「アインシュタイン‐ローゼンブリッジって呼ばれてる、時空間を移動できるトンネルみたいなものよ。あくまで数学的な可能性の一つに過ぎないのだけれど……。周囲の物質を
無限に取り込むブラックホールは知っているわね? ブラックホールができるには、シュヴァルツシルト半径を―――」
「本当に専門じゃないのかしら……。この苺、おいしいわね」
私は話しながら考えていた。
この理論を使えば、幻想郷には行けるだろうか?
同時空上にある必要はない。どこかに空間として存在さえしていればこの理論で辿り着くことができる可能性がある。
「―――通過可能なアインシュタイン‐ローゼンブリッジにするには、負のエネルギーを制御できるようにならないと無理ね。通過可能なこれの計算式は―――」
「あ、中にも苺が入っているわ」
しかし、それは同時に不可能であることも分かった。なぜなら、このトンネルの出口はどこなのかを知る術がないからだ。さらには解も不安定だし、負のエネルギー自体、制御どころか出現に相当な手間をかけている状況なのだ
そもそも、幻想郷は空間ではない、と考えている私にとって、この考えは不要だったかもしれない。
「―――まぁ、通過可能なこのトンネルを考えるのは、もはや研究者の遊びみたいなものらしいわ。もう誰も希望を持っていないのね」
「あーお腹いっぱい。幸せね……。あ、話終わった?」
「聞いてなかったの!?」
私は心底驚いて尋ねた。
「うん。蓮子にこういう話を振った私が馬鹿だったみたいね」
聞いていなかったのか……。これでは私の話したことが無駄じゃないか―――そう思ったが、メリーには無駄でも、私の考えを固めてくれる役割にはなった。
メリーの見る境界がトンネルである可能性は捨てきれない。しかし、だとしたら見える者と見えない者がいるというのが理解できないし、それを特別な、幻想的な何かで説明できたとしても、その先に毎回「世界」があるというのはおかしい。トンネルの先の世界は、無限の可能性があるのだから。
「卒業したらお金でも貯めようかなぁ。私の貯蓄なんて、倶楽部の活動で精一杯だもの」
「私は蓮子よりか貯蓄は多いけど……。蓮子に対する奢りと倶楽部活動で結局は無くなっちゃうから」
「私のせいか」
「そうね、蓮子のせいね。……ね、そろそろ出ない? 日が暮れちゃったわ」
そういえば、私がカフェにメリーを誘った本来の目的は、単に休むためだった。身体もだいぶ楽になったような気がするので、私は同意して席を立った。
構内へ出ると、先ほどの人混みは既になく、夜らしい閑散とした風景がただ広がっているだけだった。暗いので桜もよく見えないうえに、少しばかり肌寒い。
「……今日は満月じゃないのね」
隣でメリーが呟いた。つられて私も空を見上げると、そこにはわずかに欠けた月―――おそらく上弦の月だろう―――が浮かんでいた。
「そりゃ、満月はひと月に一度だけだからね。満月じゃない方が多いに決まってるわ」
「あぁ、毎日が満月だと皆狂っちゃうかもしれないわね」
……あれ?
―――おかしい。私は、月を見て狂ってしまったのだろうか?
たしか、カフェに入る前に確かめた時刻は、七時だったはず。
「………………ぁ」
それが今、月が教えてくれる時刻は―――
……午前、十時半?
……こんなに暗い朝があるものか。
大体、私たちがカフェにいた時間はものの数十分足らずだ。本当に数時間も経過したとは考えられない。これが異常ならばそばを通る人たちもそれに気づくはずだろう。
なら、これは何を意味するのだろうか。
簡単だ。二択しかない。
月が嘘を吐きはじめたのか―――
あるいは、私の眼に異常が起きたのか。
そして、そのどちらかを選ぶのも、容易いことだった。
「蓮子、またぼーっとしてるわよ?」
「へ? あ、うん、ごめん。大丈夫よ」
私は慌ててなにか私たちに関係のない話題を探した。メリーの眼が私を見透かすかのように感じられて、少し怖かった。
「月……月には不老不死の薬があるらしいわよ、メリー」
結局、秘封倶楽部らしい話題になってしまった。が、彼女もこの話題には興味があるようで、興味深げな目を私に向けてきた。そういえば、初めて会った時からメリーは好奇心が強かったような気がする。
「不老不死? 月にはそんなものもあるのね」
「メリーにはいつか話したじゃない。かぐや姫の話」
「急成長を遂げる少女の話ね?」
「正しく伝わらなかったようで残念だわ。……あとは、中国には嫦娥の話もあったわね。まあ似たような話だけれど」
別にそこまで似てるような話とは思わなかったが、月へ旅立つという意味では同じだろう。不死の薬を飲んだか否かが二人の違いだ。かぐや姫は薬を提供する側だったが、嫦娥の場合は盗んで飲み、月へと逃げて行った。
「不老不死の薬ねぇ……。蓮子はもしあったら欲しい? 飲みたい?」
「え―――?」
私はその疑問に、すぐに答えることはできなかった。
不老不死―――つまりは「生と死の境界」を無くす薬。
生きてもいない。
死んでもいない。
その状態を何と呼べばいいのか―――
(…………面白いことを考えるのね)
―――頭の片隅に、ノイズが響く。
その範囲はやがて広がり、そのノイズ以外、私の頭の中には入ってこなくなってしまった。耳障りな、音と声だ。けれど、まだ幼さの残る―――聞いたことのあるような、声。
(……誰!)
私は思わず心の中で叫び返してしまった。頭の中に響いて来たのだから頭の中だけで返すという、単純な考え。もしも幻聴なのだとしたら、道端で急に叫ぶ変な少女、というレッテルを貼られてしまう可能性を考えられる程度に、私は冷静だった。
しかし、
(…………ん? 私?)
再び声が聞こえたかと思うと、私は
***
まったく別の場所に立っていた。
隣にいたはずのメリーが、いない。
「メリー? ……メリー!」
だから、私の呼びかけに答えたのは、彼女ではなかった。
「私はメリーさんじゃないわ。―――博麗×××よ。大体巫女がメリー、なんて名前、おかしいでしょうが」
「へ?」
さっきの声に振り向くと、そこには紅白の衣装を着た巫女―――少し思っていた姿と違う気もするが―――が立っていて、あきれ顔で私を見ていた。
ここは、大学の構内でも私たちの住んでいる部屋の前でもなく、神社だった。
少し寂れた感じに見えるその神社は、私が見たことのある場所にとてもよく似ていた。というよりも、この神社を少し古くしたらそっくりになる。
「……博麗、神社……」
しかし、私が見たことのある神社とは別のものであることは確かだった。一番の違いは、今の私の目の前のように、人がいる、ということだ。私が行ったことのあるそこは、朽ち果てる寸前で時が止まったかのような神社だったのだから。
「あれ、知ってるの?」
巫女は驚いた表情を浮かべた。
「え? いや、知ってるっていうか……来たことあるっていうか……」
私が言葉を濁すと、巫女はどうやらそれだけで納得してしまったらしく、「二度目以降の迷い人ね。初めてだわ」などと言いながら手に持った箒を鳥居に立てかけた。
「どこから来たか知らないけど、まぁ来なさい」
巫女の手招きに吸い込まれるように私は社務所へとついて行った。
……あれ? なんで私がこんなところにいるんだろう……?
「前に来たのはいつかしら? 私が留守だった時だから、異変の時かもね……。私がいないのに良く帰れたわね」
目の前には、お茶菓子とお茶が丁寧にも並べられている。私はそのうちの一つに手を伸ばして、頬張った。とても甘い。
「いや、この神社じゃなくて……」
「違うの? 来たことあるっていったじゃない」
「えぇと……もっと、こう……寂れた感じの……」
「……あぁ、なるほど、外の世界の神社ね? そりゃ寂れてるわ。……ていうかそんなところに行くなんてあんたも物好きねぇ」
「はぁ……」
外の世界―――。
そういう単語が出てきたからには、ここは明らかに私の知る世界ではない。
そして、博麗神社。この二つから考えられる答えは、ここが幻想郷であるということだ。
けれど、いつか考えたように、本物ではない、ということも確かだろう。まだ、破片の段階の幻想たち。
「それで、あんたはどうしたいの?」
「はい?」
「ここでは、迷い込んできた人を外へ送り返すことが出来るのよ。あんたみたいのがたまに来るからそうしてるんだけど、最近じゃ帰りたくないっていう人が増えてきててね……。そういう人は、麓に人間の里があるから、そこに住まわせてるの。他の場所は軒並み危険だから、人間なんかが行ったら妖怪に食われちゃうし」
妖怪……。メリーの言っていた情報とも会っている。
ということは、ここは『メリーの見ていた幻想郷と同じ種類の欠片』ということになる可能性が高いことになる。
なるほど、今の私が置かれている状況は何となくわかった。
だが、いつもと同じだ。状況が分かっても、原因が分からない。
あと少し。あと一歩だ―――
「何ぼーっとしてんのよ? 目、覚ましなさい」
頬をぺちぺちと叩かれる。
「あ、うん。帰るか帰らないか、の話だよね?」
「さっきからぼーっとしてること多いわよね、あんたって。よく食われずにここまでこれたわ。……ま、帰る云々は後でも良いわよ。しばらく話し相手になってくれればね。参拝客は来ないわ妖怪は来るわで、まともな会話をしてなかったのよね」
それはすごい日常だ。妖怪とはどんな姿をしているのだろう……? メリーの話では少女の姿をしていたと聞いたが……。
「それよりも、あれよ。さっきの話の続きを聞かせて頂戴」
「さっきの話……?」
「そ。不老不死とか生と死の境界が云々とか……」
「私、そんなこと喋ったっけ……」
「喋ってたじゃない。鳥居の目の前で突っ立ってるから何してんの? って声かけたのに、ぶつぶつと独り言みたいに。まあ独り言だったけど」
「うわ、恥ずかしい……」
駄目だ。メリーと一緒にいたときとここに来た時の変化が分からなかった。幻想と現実の境界も曖昧になってきているのかもしれない。
しかし、この混乱した考えも、他人に話すことで少し整理できる可能性がある。実際、これはメリーに試しても効果が表れたから、試してみる価値はある。
「まあ、いいけど。ただ、私も整理できていないんで考えながら話すわ」
「本当? さっきの話聞いてたら、力のある妖怪に話してみたくなったのよね。あいつらの驚く顔が目に浮かぶわ。だって、『外の世界の人間』が考えたんだから」
巫女はにこにこしながら私に話すよう促した。余程暇だったのだろう。
しかし、彼女は急に何かを思い出したかのように私の方に身を乗り出した。
「その前に……。さっき、帰りたくないって人が増えたって言ったでしょ? ……外の世界は、そんなにつまらないところなの?」
その、唐突な質問に―――
私は少しだけ考えた。
そういえば、秘封倶楽部が幻想郷を探している理由は何だっただろうか?
メリーの眼が関係していることは確かだが、私の目的は?
自分の住む世界に飽きてしまったからではないのか―――
「いや」私はゆっくりと答えた。「外の世界は、楽しいよ。今は親しい友人もいるし、旅行も気軽にできるし、便利な世界だわ」
私は目を閉じた。
そして、『私たち』の姿を脳裏に浮かべる。
「秘封倶楽部は、幸せよ。なにものにも縛られず、境界線の外でさえ見ることが出来る。私たち二人から生まれ、それは私たち自身の証。そして、やがてここへ再び辿り着くかもしれない。秘封倶楽部はそれを望んで活動しているから」
目を開ける。そこには巫女はいなかった。
ただ、暗闇だけが残っている。
(……じゃ、ここにいるべきではないわね。早く帰りなさい)
そうして気づくと、私は
***
メリーの目の前に戻ってきていた。
結局、巫女に話すことが出来なかったのが心残りだ。答えはもう目の前にあるから、それを理解するだけでいいはずなのに。
状況を整理して、何も言ってこないメリーを見て、あれから全然時間がたっていないことに気づいた。
私たちが立っている場所は、構内の噴水のすぐ近く。水が綺麗で、若いカップルの憩いの場であると同時に、秘封倶楽部の待ち合わせ場所だ。
私は直前の会話を思い出す。
「えっと……ふろうふし。不老不死の薬ねぇ……。私は、使うかなぁ」
「え? どうして?」
まるで予想外というようにメリーが訊いてくる。やはり時間は経過していないようだ。
「だって、生も死も無くなるのよ? 精神の死も当然無くなるはずだわ」
「…………? 何で精神の話が出てくるのかしら……?」
「……。何でかしらね……」
冗談ではなく、私は自分の言葉に疑問をもっていた。
精神の死? 肉体ではなくて?
そういえば、いつだったか精神だの肉体だのという話をとある教授と話した覚えがある。あのとき彼女はなんて言っていただろうか?
―――肉体的なものはあくまで肉体的に考えるのよ。
―――けれど、精神と肉体については非常に互換性が高いの。
―――そう、精神は肉体そのもので、その逆も然り……。
脊髄反射のように私は顔をあげた。
―――あぁ。
そう、私はこの瞬間に理解した―――
精神と肉体。
つまりは境界と空間と、人間の本質。
そしてこの異常の原因。
私の頭の中でパズルのように繋ぎ合わされていた中に、ようやく大きすぎる最後のピースが当てはまった。
「あ、見て、蓮子。月が―――」
水面には今宵の月が妖しく映っていた。
平らな月。
水面という境界線で、私たちはたどり着けない空間。
「……ねぇ、蓮子。月面ツアーなんて高いから、何か別の方法で月に行けないか、考えてみない?」
―――嫌だ。
彼女はマエリベリー・ハーンではない。
何か別の、異形な何かだ。
そんなことはあるはずがないのに、私にはそう見えてしまう。
それは彼女が境界を見る目をもっているから。
その境界が、私を壊したのだから―――
心臓が早鐘を打つ。血管を流れる血の音が、聞こえる。
「何かいい案ないかしらね」
メリーは一歩、私の方へ歩いた。別に何ともない、いつもの行動。
しかし、私は。
―――来ないで―――
それ以上来たら、本当に壊れてしまうかもしれないから。
背中を、汗が伝う。
血液が、逆流するような感覚。
悪寒が、走る。
―――メリー……。
―――どうか、私をその手で抱きしめて―――
そうしないと、きっと壊れてしまうから。
拒む理性と、求める心。
私は、それでも手を伸ばして―――
この指がメリーに触れるまで、あと一〇センチメートル―――
―――そこで、意識を手放した。
第五章 幻想論理 ~Who broke reality?
僕は、彼女を見つめる。
抱き締めたい、と思った。
けれど、
僕の手は、
そういう手ではない、
それに相応しい手ではない、と思い出して、諦めた。
(森博嗣著 「四季 春 Green Spring」より)
***
蓮子が倒れてから、どれだけ経っただろうか。
私たちは病院の一室にいた。病院らしく、簡素で、無機質で、何もない部屋。窓の外は夜だからもちろん暗いし、今は明かりもついていない。蓮子が眠るベッドの横で、私も寝てしまったから、おそらく誰かが消してくれたのだろう。
「蓮子……」
最近、蓮子の様子がおかしいのは知っていた。ただ、私が感じていたのは単なる違和感だけで。それがどういう違和感なのかすらも気づくことができずにいたのだ。
蓮子がおかしい、というのが私の中で決定的になったのは東京に行った時だ。緑の髪の少女と話した後、ひきつった顔で私に背を向けた蓮子は、口を押さえたハンカチに血を吐いていた。私は何も見なかったふりをして話を続けたが、それは何故だろう? 新幹線の中で喧嘩してしまった理由がこれで、訊いたらまた同じようなことになると思ったからだろうか?
……そんなの、ただの言い訳にしかならないわ。
本当は、怖かっただけだ。
知ることが、話されることによって、知りたくない事実を知ってしまうかもしれなくて、それがただ、怖かっただけ。
嫌な考えが、頭を掠める。
もしかしたら、もう彼女は起き上がらないのではないか?
もう、目を覚まさないのでは?
考えれば考えるほどに私は怖くなって、それが本当のことのように思えてきて……。
……馬鹿! 何を考えているのよ!
目を覚ませ、とばかりに私は自分の頬をおもいっきり叩きつけ―――
「―――こら、叩いたら駄目でしょ」
ようとして、その手を、もう一つの手が優しく押さえつけた。
「れんこ……!」
「おはようメリー」
ベッドの上で、力なく笑みを浮かべる彼女が、ちゃんとそこにはいてくれた。
まだ、生きてる。
当たり前のことなのに、嬉しい。
そんな自分が、たまらなく許せなかった。
蓮子がここまでの状態になってしまう前に、無理やりにでも問いただしておくべきだったのだ。もちろん、それでどうにかなるかなんてわからないけれど。
「顔を叩くくらいで止めるなんて……」
「メリーの綺麗な顔が台無しじゃない。その顔をくしゃくしゃにしていいのは、私だけなのよ」
「何よそれ」
蓮子はベッドから上半身だけを起き上がらせて、私に訊いた。
「お医者さんは何だって言ってた?」
「ストレスによる病気とかなんたらって、言ってたけど……」
……違うんでしょ?
彼女は私の疑問に答えるように―――
「なるほど……。さて、それじゃあサークル活動に行きましょう?」
全然答えになっていない。そもそも声に出して訊いていないのだから答えてくれるわけもないのだけれど、その発言は確かに、その症状が病気などというものによるものではない、と私に告げていた。
「でも、ここは病院よ? 後で医者の先生がまた来るからって言ってたのに……」
「そんなもの無視よ、無視。秘封倶楽部の方が大事だわ。それに、ここにいても何も変わらないもの」
蓮子は立ち上がって掛けてあった服を着た。それから無造作にハットをかぶり、いつもの黒い革の本に手を伸ばす。
「さて、今日の行き先は再び蓮台野よ。理由は特になし。まだちょっとフラフラするから肩貸してね」
「ちょっと……本当に大丈夫なの?」
「大丈夫だって。それに大丈夫じゃなくても行くのよ」
「それは、大丈夫じゃないって言ってるようなものでしょう?」
「気にしないの。さ、医者が来る前に抜け出さなきゃ」
蓮子はふらつきながらも、どんどん私の前を歩いて行く。
……そう言えば、いつも前には蓮子がいたわね―――
年老いた者のようにしみじみと、そう感じて。
―――そうして、秘封倶楽部の最後の活動が、始まった。
***
列車は走る。死の園へと向かって。
列車は走る。終わりへと向かって。
列車は止まる。小さな駅で。
***
蓮台野には、前に来た時よりも重い空気が広がっていた。
春だというのに、強く、冷たい風が二人の身体に纏わりつく。いつか感じたような、気分の悪くなる空気。
死の匂いと、よくわからない悪寒。
それに背筋を震わせながら、私たちはただひたすらに歩き続けた。
一体、どこへ向かっているのか―――
「さて、種明かしとでもいきましょうか」
隣を歩く蓮子が、ふいに言った。
「種明かし……?」
繰り返すと、彼女はそうよ、と言って笑った。やはり力のない、何かが抜け落ちたような笑いだった。
「全部分かったら教えて、って言ったのはメリーでしょ?」
「そうだけど……」
……今更になって、聞きたくなくなったなんて、言えないじゃない。
こんな時間が―――蓮子と一緒に、秘封倶楽部として活動しているこの状態が―――ずっと続けばいいのに、なんて……。
きっと聞いてしまったら最後、もう私たちの秘封倶楽部が無くなってしまうんじゃないか、って思っている私がいる。
でも、話を聞かないでもどうせ結果は一つなのだから、私の選択肢は一つしかない。
「……そうね。教えて頂戴、蓮子。私には分からないから。貴女が分かった全ての異常とその原因と―――できれば、解決方法を」
「……長くなるから、このまま歩きながら話しましょう」
―――風が、凪いだ。
「さて、何から話し始めようかしら……」蓮子は額に手を当てて、少しだけ考えるそぶりをした。「ことの発端は、前に蓮台野に行った時、境界を潜り抜けたあの事件よ。まぁ、事件というよりは出来事だとあのときは認識していたけれど、あれは間違いなく事件と言えるものだわ。メリーならともかく、一般人の私が踏み越えてしまったんだもの。だから、あのときはきっと貴女が連れていってくれた。それはかねてからの望みで、しっかりと果たせたわけだけど、常に境界の近くにいた私は、そこからおかしくなり始めたのよ。
―――そう、貴女の思っている通り、境界に壊されたのは、私よ」
ひぅ、と自分の呼吸音が聞こえた。信じたくは、ない。それはつまり、私が壊した、ということだから。
「……どうして話してくれなかったのよ……?」
「…………」蓮子は答えない代わりに、咳払いを一つして先を続けた。「私は先日、貴女も見たでしょうけど、とある教授と話をしたわ。私たちよりも早く、幻想へ辿り着いていた人物。名前は忘れてしまったけれど、興味深い話を彼女から聞くことが出来た。境界について、幻想郷について、私の身体に起きた異常について……」
「答えてくれたの?」
「残念だけど、その時に分かっていたらこんな場所で貴女に話をしていないわ。教授が答えてくれたのはすべてにおいての一部分のみ。何故なら、彼女もまた分かっていなかったから。
……それでも私が考えをまとめるには十分な情報だったわ。それと、さっき話した不老不死の話。それで私の疑問はようやく消えたのよ」
憑かれたように話し続ける蓮子の眼は、私ではなくどこか遠くを見つめていた。けれども、もはやその眼には、正確な場所も、時間も、映ってはいないのだろう。
「……全て、解いたのね」
「そう、おそらく全ての内容。少なくとも、教授が私に解いて欲しかった内容ならば全部理解することが出来たわ。もちろん証明なんてできるわけがないけれど、辻褄は合う論理。東京であった子の話みたいなものね。
境界とは何か?
何の象徴として考えることが出来るか?
教授が訊いたのはそういうこと。私は精神的な何かだと思っているわ。多分正しいし、否定要素は見つからない。ならば、何故その精神的なものが私の肉体という物理的なものに影響を及ぼしたのか? これが私を悩ませ続けた内容だったわ。分からなかったから、貴女に言うことも何もできずに、ここまで来てしまった。……プランク並みだとか自称している私には、致命的な遅さね」
蓮子は、自嘲的な笑みで私を見つめた。
結界が、彼女の周りに次々と現れてはその身体に纏わりつき、消えていっている。蓮子を蝕み続けた、幻想たち。私にしか見えない、精神的な何か。
「境界線というのは、精神の『穴』だという結論に至ったわ。それも、物理的に例えるなら、真空状態の穴。ねぇ、メリー。今この場に真空状態の空間を一つ作ったらどうなると思う? 小学生でもわかる問題よね」
「そこは真空じゃなくなるわね」
そう、と蓮子は頷いて、大きく息を吸った。
「空気が流れ込むことで、世界を均等に保とうとする。境界はいわば精神の真空空間。虚無の領域。世界を均等に保とうとして『空気』を流し込む。その空気が、私、宇佐見 蓮子の精神よ。だから……最初に違和感を感じたとき、私は『空間が流れていく』感覚に襲われたの。
じゃあ精神と肉体はどういう関連性を持っているのか? 精神は肉体に隷属しているけれど、実は、同時に肉体は精神に隷属しているのよ。どちらかが欠けた瞬間、その関係は崩壊してしまい、それの持ち主という個体は存在できなくなる。
身体が死ねば、もちろん精神は死ぬわ。逆に、精神が死んだ人間の身体もすぐに死ぬ。これは分かるわね? だから、こう考えることが出来る……。
―――肉体の消滅は、精神の消滅。そして、精神の消滅が、そのまま肉体の消滅に直結するということよ」
「あぁ、ここがいいわ。墓石だけれど、少し腰かけましょ?」
蓮子に促されるままに、私たちは背中合わせに墓石の上に座った。
背中から、蓮子の体温が伝わってくる。温かいけれど、人としては少しだけ冷たいように感じた。
「……理解してくれたよね、メリー」
「……………………」
私は答えない。
もちろん、理解はしている。できるだけわかりやすく蓮子が話してくれたのだから、これが分からないほど私は馬鹿ではない。それに、当事者の一人でもあるのだ。
そして、この話が本当ならば、蓮子は―――
「それにしても、メリー? 貴女レポートは書いたの? 明日教授に見てもらうって言ってなかったっけ」
突然別の話題を振られ、ふ、と私の口元に笑みが浮かぶ。無理やり繕った笑みではない。いつもの私の笑い方だ。
「生憎だけど、完成してないわ。どっかの誰かさんが最近めっきり起こしてくれなくなったものだから、朝に書くことが出来なくなったのよ」
「まさかとは思うけど、私のことでしょうね?」
暖かさが、私の心の中にゆっくりと、流れ込んでくる。
こんなつまらない会話をしているときの方が、ずっと落ち着ける。冷静になって考えることが出来る。
それは、私が秘封倶楽部で、彼女もまた秘封倶楽部だから。
普段通りの会話が、異常なところにいる人間にどれだけ安心感を与えるのか、今の私にはしっかりと理解することが出来た。
蓮子が蓮子で、私が私であるように、この死の園にも、ようやく私たちのアイデンティティが生まれてくれた。
……大丈夫。
私の頭はこのちょっとした会話だけで冷静になれた。
「蓮子はどうなのよ。ひもについてはちゃんと纏めた? 貴女も明日出すとか何とか言ってたような気がするけど」
……でも、もう出せないのね。
暗くなりそうな気分を振り払い、私はできるだけ明るく話す。
蓮子の声も少しだけ前のトーンに戻り、そして小さく首を振った。
「いや、あれは纏めてる途中に気付いたんだけど、完全に論理が破綻してたのよ。あれじゃ出せそうもなかったから、一回切り捨てたわ」
「あらら……。じゃ、やり直しね」
「やり直すしか、ないわね……」
やれやれ、と呟いて蓮子が背中を押しつけてくる。かくん、と首を曲げて、そのまま全体重を押しつけられた。
……とても同年の少女とは思えないくらいに、軽い。
「……蓮子、重いわ」
「人間だもの。そりゃ支えるのが辛いくらいには重いはずよ」
「……蓮子」
「んー?」
「…………軽すぎるわ」
「………………」
冷静になったはずなのに……知らないうちに、私の瞳からは涙が溢れだしていた。彼女には見せまいと、必死で嗚咽をかみ殺す。
「メリー」
―――優しい声。
蓮子はきっと、私が泣いていることに気付いているだろう。けれども、気づかない振りをして話し続ける彼女の声も、少しだけ震えていた。
「貴女が苦しむ必要はないわ。私が決めたことだから―――少しだけ時期が早まっただけよ」
「でも―――」
「だから」蓮子はゆっくりと、子供を諭すように、「私が、決めたのよ。こんなこと言うのは恥ずかしいけど……、私は、たぶんメリーがいないと駄目なのよ」
必要とされている―――
そういえば、そんなことを言われたのは初めてではないだろうか?
私が彼女に出会って、私が彼女を必要として―――
「ねぇ、メリー? 初めて会った時のこと覚えてる?」
そして突然、蓮子はそんな事を訊いてきた。まるで私の心を見透かしたかのように。
「……忘れるわけないわ。衝撃的だったもの」
そう、確かに衝撃的だった。私が、専攻ではないけれど用事のできてしまった、とある教授に会うために研究室の扉を開いたら、中では一人の生徒がその教授を虐めていた、ように見えたのだから。
―――だーかーらー! 貴方のその論理は間違っているんですよ。さっきから何度も証明しているでしょう?
―――う、宇佐見君……もう止めないか? ほ、ほら、生徒が入って来たじゃないか……。
―――止めませんし、認めません。貴方の考え方は、どうしても納得のいくことが出来るものじゃないわ。
今でも、あの光景はすぐに思い出せる。衝撃的なのはもちろんだが、何より蓮子と初めて目を合わせたのがその時だったからだ。
第一印象は、変な人だなぁ、という程度。しかし、黙って彼女が教授に話すのを見ているうちに、考えは変わった。蓮子が時折窓の外の星や月を見上げる度に、空と蓮子の間に誰が見ても分かるほどの―――もちろんそんなことはないが―――境界線が引かれるのを見てしまったからだ。
―――あ……。
そう呟いた私にようやく気付いたらしい彼女は、
―――あら、こんばんは。こんな時間にようこそ、言葉の戦場へ。
振り向いて、確かそんな内容の言葉を言って……微笑んだのだった。
それが、最初の出会い。それから秘封倶楽部が誕生するまでどんなことが具体的にあったかはよく覚えていないけれど、大した時間をかけずに私たちは意気投合していたような気がする。
遠い、あの夜―――
きっと運命みたいなものに導かれて出逢ったんだろう私たち二人は、一体どんな活動をしてきただろうか? どんな思いで過ごしてきただろうか?
どれだけ、お互いを想って生きてきただろうか―――?
「私はね、メリー」蓮子は立ち上がり、私の方を振り向いた。「貴女がいなかったらこんなに楽しい人生を送れなかったわ。メリーがいたからこそ、生きてこれた」
別に貴女がいなかったら死ぬわけじゃないけどね、と付け加えて、蓮子は大きな溜息を吐いた。
「どうして、こうなっちゃったのかなぁ」
「え―――?」
「こんなはずじゃなかったのに……。運が悪かったのよね、きっと。メリーに出会えたっていうことで、運の全てを使いきっちゃったんだわ」
「………………」
「メリー、これから、私はどうなると思う?」
そして、蓮子がしたのは、最後で、最悪の質問だった。
「私に、それを答えろと言うの?」
「……私の話の意味を理解してくれてたようでよかったわ。私だって言いにくいんだから、メリーに言ってもらいたかっただけよ」
「なにも言わなくていい。……もう私は分かったから」
「私は―――」
「蓮子!」
「―――宇佐見蓮子は、この世界から、消えます」
そう高らかに宣言した彼女の声は、涙声などではなかった。
全てを理解して、受け入れるだけの意思を持った、声。震えていて、今にも泣き出しそうだけれど、伝えることは伝えなければならない、という意思が伝わってくる。
「貴女が見ているときにだけ、確実に存在する幻想の境界は、私の身体を蝕み続けたわ。悪寒、眩暈に始まり、果ては本当に身体の一部を壊して吐血するまでにもなった。
教授はシュレディンガーの猫に例えて幻想の事象を説明してくれた。箱に穴を開けるのはメリー、貴女よ。けれど、その穴は小さいから、猫、すなわち幻想郷が存在しているのか、存在していないのか分からない。例え見えたからといって、それが存在していることの証明にはならないから。存在するかは全体を見ないと確認できないのに、メリーは一部分しか歩き回れずにこっちへ戻ってきた。だから、現時点で少なくとも幻想郷は存在していないことが分かるわ」
涙で霞む視界で、蓮子を捉える。力を込めて、睨みつけた。
蓮子のその眼は、今は私をしっかりと見据えている。
「メリーと一緒にいることは危険だった。でも私には貴女から離れるなんていう考えは出来なかったわ。そういう気持ちは、なんて言うのかしら……。でも、とにかく私には貴女が必要で、もう何も考えられなかった。考えている振りはしていたけど、私の頭の中は空っぽで……。やはり境界は危険だという考えに戻ってしまう無限ループだった」
蓮子は、私から一歩、後ずさった。
これ以上近付くな、とでも言うかのように。
ここから先は、私の踏みこんでいい場所ではなくなるからという、呼びかけなのか。
「れん―――」
「でも!」それは今まで見たことないほどに優しい表情。その表情のままに、蓮子は涙を流していた。「私には貴女しかいない! どれだけ自分にリスクがあろうが、結果貴女を苦しめる可能性があろうが、私はメリーと一緒にいたかった! これは、エゴよ。それでも、これは私の意思。稚拙で、聞くに堪えない感情論。ただの自分勝手な満足。
一緒にいたい。
離れたくない。
そう考えたときに、心の中に残るもの―――
自らの存在を捨ててでも、繋ぎとめておきたいと考える心には、何一つ矛盾はないわ。
論理的ではない、ただの幻想でできた下らない理屈。
……貴女は、こんな幻想論理で生き続けてきた、私を許してくれますか……?」
***
幻想の声が、聞こえる。
境界を通して、
空間を通して、
精神を吸い込み続けるその穴から、声が聞こえる。
―――いるいる、悪寒が走るわ、この妖気。何で、強いやつほど隠れるんだ?
―――古風な魔女に、勝ち目は、ない。
―――能ある鷹は、しっぽ隠さず、よ……。
あぁ、聞こえる。
私には、まだ存在しないその空間からの声が、届いてくる。
それはすなわち、今にも現実になろうとしている証拠。
幻想の幻想が、現実の幻想に変わる。
夢から覚める。
私が、貴方が。
―――足手まといが居なくなったからね。
―――まぁ、×××ちゃんがそう言うなら……。
―――ゆるさないわ!
始まる幻想は、いつからか?
歴史は、偽装される。
嘘ではない偽の歴史と共に生まれ、そこから始まる物語。
―――もう三月以上も経ったっていうのに、何も起きていないのよ。
―――清く正しい×××です!
―――貴女たちにいくつ解けるかしら?
始まる未来は未知のもの。
夢は幻想、現実は夢?
さて、私は誰だろう―――?
マエリベリー・ハーン?
宇佐見蓮子?
あるいは、別の誰かか、何かか。
もしくは貴方か―――
今となっては、どうでもいいことなのだろうか?
***
―――気付けば、私は華奢な蓮子の身体を力いっぱい抱きしめていた。
二人の距離を、ゼロにまで縮める。
確かに蓮子の身体がそこにあるのに、今にも崩れてしまいそうな印象を私に与えるそれは、今は小刻みに震えていた。
「ひ……っく」
思わずこぼれた嗚咽は、私のものだった。
蓮子は私に抱きしめられ、ただ驚きの表情を浮かべているだけで。
「メリー……」
やがて、蓮子も私の身体に腕を回してきて、私たちはしばらく抱き合っていた。
人の温もり。
温かな感情が心に満ちて、私は受け入れる覚悟をした。
互いが互いを必要としていて―――
けれど、すでに時間が無い。
「もう、時刻なんて見えない」蓮子が耳元で囁く。「場所も、何も。今まで見えていたものが見えなくなる……。今、私にはもうメリーしか見えないわ」
蓮子の眼を見た。
そこに光はなかった。
世界も、夜も、私も何も映っていないのだろう。
そこまで、壊れてしまったのだろう。
「蓮子」私はなるべく、優しく話しかける。「もう、いいよ。私に言ってくれなかったのも分かるし、貴女がどういう考えでいたかが私にも少しだけ分かった。
でも……私だって蓮子がいないと駄目なのに、一人で行くなんてずるいわ」
ずるいわ、だなんて。子供のように言ってみたけれど、蓮子は口元に微笑を浮かべているだけだった。
「貴女はここにいなくちゃ駄目よ。幻想の研究は、もう貴女しかできない。私が消えたら、秘封倶楽部はどうなるのかしら? 新しいメンバーでも」
「却下よ。言ったでしょ? 貴女がいないと駄目だって。……わかってる。これは私のエゴイズムだって。しかも貴女のように実現しない、不可能なエゴよ。でも、だからこそ言っておかなくてはならないことがあるの」
「…………?」
別れの決意。
深呼吸を一つして。
心臓が波打ち、
心拍数が―――
「私―――マエリベリー・ハーンは、宇佐見蓮子のことが、世界で一番、大好きです」
最低最悪の、稚拙な告白。
この言葉は、間違いなく蓮子を苦しめる。
それでも言わずにはいられなかった。
蓮子の言葉を借りるなら、これが私の―――幻想論理なのだから。
蓮台野。
墓場で、死の園で、人生における最果ての地。
どこからか、桜の花びらが私たちの下へ現れた。
ひらひらと。
はらはらと。
枯れてしまうのか、枯らされてしまうのか。
「……ねえ、メリー」抱きしめたままに、蓮子が呟くように、「貴女は―――」
―――楽しかった?
と、突然そんなことを訊いてきて。
それがあまりにおかしかったから、私は微笑んで。
「楽しくなかった訳ないでしょう? 好きな人と一緒に活動出来たんだもの」
「……そう、よかったわ」
蓮子の唇がゆっくりと動いて、そんな言葉を紡ぎだした。
私は彼女の唇に私のそれを近づけた。
見えない彼女は気付かない。
あと一センチメートル―――
「私にも、境界が―――見えたわ」
愛しい貴女に、軽い口づけを。
それらは、優しく触れ合って―――
抱きしめていた熱が、気配が。
話し相手が、秘封倶楽部が、夢が現が存在が愛が―――
世界で一番大切な、友達が。
―――消えた。
さようなら?
さようなら。
どこへいくの?
どこかへ行くの。
どうして?
どうしても。
それが―――
―――幻想なのだから。
―――かしゃり、と。
ネックレスが落ちる音だけが、耳に届いた。
終章 貴女の消えたその先に ~If the logos permits.
最初から、そうだった。
生まれたときから、そうだった。
ずっと、それをお願いしていたのだ。
神様に……。
どうか、私を消して下さい。
どうか、すべてを消して下さい。
私の姿も、私の心も、すべてを、消して下さい。
お父様も、お母様も、私の愛するものすべてを。
神様。
お願いします。
どうか、消して下さい。
(森博嗣著 「四季 冬 Black Winter」より)
***
―――そうして、私はしばらく泣いていたような気がする。
結局、言うとおりに蓮子は消えてしまい、私は墓場に一人取り残され、この残酷すぎる現実を受け入れようと足掻いているだけだった。
宇佐見蓮子は消えた。私の周りの境界のせいで、消えたのだ。それは、原因が私にあるということを意味している。
……私が、消したのね?
頬を伝った塩水は、音を立てずに石の上に落ち、それを湿らせた。
涙で前が見えないはずなのに、私にはとある境界がはっきりと見えてしまっている。何故だろう……そんなことをいつものように考えられるほど、私は冷静ではなかった。考え事を打ち明ける相手ももう、いないのだから。
今まで見えていた小さなスキマたちは、もう見えない。その代わりにあったのは、あまりに巨大すぎて、あまりにわかりやす過ぎる境界だった。
―――幻想郷への入り口。
蓮子の話が本当ならば、幻想郷と私たちが呼んだものは、まだ存在していない。私がいつも覗いている世界は、ただのパーツに過ぎなかったのだ。組み合わさることで、世界が創られる。まだそれは郷ではなく、幻想―――
では、誰が創るのか―――?
目の前に広がる境界は、入り口にして、人妖の境界……。
失われたものが萃まる世界。
消え去ったものの安息の地。
忘れられた者たちの桃源郷。
ならば、蓮子もそこへと辿り着くだろう。
幻想になる準備を整えて―――そう、ずれた時間を過ぎた後に。
話は戻る。
では、誰が創るのか―――?
答えは自明。
―――そう、私だ。
そうして、マエリベリー・ハーンは人妖の境界を踏み越える。
視界の暗転、
意識の拡散、
そうして私は。
幻想に、溶けていく―――
***
―――今は、春。
「紫様、起きてください」
自分の式が声をかけてくる。私は首だけをその九尾の狐の方へと向けた。
……式、か。
どうやら、無事に幻想郷は〝始まった〟らしい。
「もうひと眠りしようかしら」
―――少し、疲れたもの。
しかし、式は許してくれなかった。
「私が、負けたんですよ。博麗の巫女たちが紫様を目的としてやってきています」
「あら……そうなの……」
まさかこの式が負けるとは。彼女は最強の妖獣だというのに……。
そこまで考えて、その考えがすでに『こっち』のものだと気づいて驚いた。記憶の存在もきちんと作られている。さすがは……、さすがは、蓮子。
一瞬彼女の名前を思い出せなくなった自分の頬を叩き、私はゆっくりと立ち上がった。
「紫様……?」
「大丈夫よ。それじゃ、行ってくるわね」
「あ、お供いたします」
「結構よ。使うときに呼ぶから」
何か言おうとする狐を無視して私は空間に境界線を引く。
これが、私の能力。
見るのではなく、操る。
万物の存在をことごとく覆すことのできる、忌々しき境界。
そのスキマの先には、白玉楼があった。
「―――そろそろ、本命が出てきてもいい頃だわ」
一瞬、どきりとした。
その声は、私の知る彼女に、良く似ていたから。
彼女らのスキマを覗けば、他にも彼女の面影が存在していることを確認できる。
巫女の声や、態度が。
魔女の、行動力と心が。
メイドの、その時間が。
「なるほど、今は我慢しろと、そういうことね……」
小さく自嘲気味に呟き、首を振る。
彼女はいない。あの三人は、彼女ではない。
でも私は、生きている。
生きていける。
すぅ、と大きく息を吸って、私は言葉を紡ぎだす。
「―――出てきましょうか?」
姿を現す。
境界を裂き、その中から、妖しげな妖怪として。
私は胡散臭い笑みを顔に張り付け、境界線に腰かけた。
三人がおもむろにそれぞれの武器を取り出し、構える。
私がすることは一つだけ―――
巫女が、話しかけてくる。
とりとめもない話題だ。
境界とか、幽々子とか、本当は、まだ会ったこともない人たちの話。
それでも、ねぇ、蓮子―――
貴女の消えたその先に、私はもう立っているのよ?
早く、追いついてきて頂戴。
私は、巫女に告げる。
高らかに、
誇らしげに、
―――自嘲気味に。
「一つや二つ……。結界は、そんなに少ないと思って?」
―――彼女を呑みこんだ、スキマたちは。
―――ねぇ、蓮子……楽しかった?
虚空に呟き、弾幕の雨の中に私はこの身を躍らせた。
せめて、この身が散るまで、踊り続けよう。
私の願いは、一つだけ。
貴女の消えたその先が、どうか、美しき桜の園でありますように―――
終
そちらを読まないとわけが分からない内容になっているようです。
以下続き
第四章 真空状態の空間的概念 ~Magical Astronomy.
「私たちは、どこへ行くと思います?」
「どこへ?」
「どこから来た? 私は誰? どこへ行く?」
「貴女は、貴女から生まれ、貴女は、貴女です。そして、どこへも行かない」
四季はまたくすっと笑った。
「よくご存じですこと。でも、その三つの疑問に答えられることに、価値があるわけではありません。ただ、その三つの価値を問うことに価値がある」
「そうでしょうね」犀川は頷いた。「価値がある、という言葉の本質が、それです」
(森博嗣著 「四季 冬 Black Winter」より)
***
どうやら、まだ私は無事らしい。
しかし―――
この身体の不調の原因も、これから起きることも、私にはようやくわかってきた。プランク並みの頭脳と自負している私にとって、これは致命的な遅さだ。
そう―――これは冗談などではなく、本当に、遅すぎたのかもしれない。何故なら、今の私はときに立っていることさえもが苦痛になるほどに壊れかけていて―――それでいて、まだ最後のパーツが見つかっていないのだから。
漠然としたものは見えた気がする。
しかし確固たる証拠が全く見えない。
これではさながら五里霧中といったところか、数学の公式をど忘れてしまってもどかしい気持ちになっていた中学の頃の私のようだ。いや、忘れたのなら五里霧中とはいえないか。これから公式を探そうとしている数学者、という方が適切かもしれない。
「また難しい顔してるわね。帰ってきてからずっとそうじゃない?」
「人は考え事をやめたらただの猿になるって誰かが言ってたわ」
「蓮子のは悩み事でしょ。この慈悲深いマエリベリー・ハーンさんが聞いてあげるわよ」
「結構よ。本当に考え事なんだから」
「まぁ、分かったら話してくれるんならいいんだけど。心配してるのよ? 私は。……ところで今何時?」
「んー、午後七時ね」
日も陰ってきて、普段なら周りには人が少なくなってくるこの時間。卯酉新幹線を降りた酉京都駅からの帰り、私たちは大学の前、つまりいつもの帰路を歩いていた。
しかし、今日はやけに人が多い。皆が手にしているのはどうやら新聞の号外らしく、遠目に見てもわかるほど大きな文字で、「月面旅行、一般人も可能に」という見出しが書いてあった。
―――歩くのに疲れ切っていた私は丁度いい口実を見つけた。
「メリー、月面旅行だって。少しそこで座らない? 興味深い記事だわ、たぶんだけど」
「あら、いいわね。せっかくだから構内のカフェにしない?」
さすがはメリー。月面旅行というフレーズに食いついてきてくれた。別の話題ならば、「それより早く帰ってお菓子でも食べましょうよ」といって相手にしてくれないかもしれなかった。
私はかすかに鉄の味がする口内を一舐めして、その中に紅茶を注ぎ込む準備をした。せっかく飲むのだから、鉄が混ざっているのはお断りしたい。
メリーが道で号外、と叫んでいる若い男性から新聞を受け取り、私たちは構内へと歩いて行った。
春の風が、身体を撫でる。
……そういえば、蓮台野へ行ってからもう一年になるのね……。
辺りにはきれいな桜が咲いている。空も澄んでいて、絶好の花見日和だ。昨日は雨が降っていたらしいから、花見スポットは例年よりも多くの花見客で賑わっていることだろう。
……メリーと月に行くのもいいけど、この桜が散る前にまず花見をしたいわね。
京都はすっかり、春色に染まっていた。
人の心も、風景も。
***
「今回も有人火星探査機は見送られたそうよ」
クッキーを頬張りながらメリーがぽつりと呟いた。
大学構内のカフェ。秘封倶楽部行きつけの店でもあるここは、外が変わっても変化を見せなかった。せいぜいサービスメニューが変化した程度だ。外と中では変化の具合に大きな差がある。
建物というのは、外界と区別するための、いわゆる境界だ。メリーのように境界を見ることのできない凡人でも、普段はその境界線の上を行き来していることに、一体何人の人が気づいているだろうか。そもそも、境界線というものに興味すら持っていない人がこの国の人口の大半を占めているのだから、それすら関係ないのかもしれない。
自分がどういう所で生きているのか。
あるいはどんな所で生きている人がいるのか。
そういうことに皆が疑問をもたないことが、私には昔から不思議でならなかった。
「火星……ね。メリー、火星人ってどう思う?」
「……その話、長くなるでしょ」
メリーがジト目で睨みつけてくる。
「そうでもないわよ。未だに火星人の存在が是か否か確定しない研究家の話と、もし火星人が見つかったら人類はどうしたいのか、っていう話をしようと思っただけだから」
「研究家は別にどうでもいいけど、後者の方には興味があるわね」
「あら本当? 珍しいわね。……まあもちろん外交なんていう滅多な話じゃないんだけれどね。いるにしてもせいぜい微生物程度が関の山だわ」
「蓮子。火星人を馬鹿にするのは良くないわ。人間に寄生でもしたらどうするのよ」
「火星には人間がいないんだから、そんなことはあり得ないんじゃない? 生物がその進化を遂げるより早く、人類は火星人撃退スプレーでも開発してるでしょうね」
「いやいや、蓮子。もしかしたら化学製品では対応できない能力を持っているかもしれないわ。世の中にはどんなに熱しても、どんなに冷やしても死なない生物だっているって聞いたことがあるわよ」
熱心に語るメリーを、今度は私が軽く睨んだ。
「……メリー、最近SFでも読んだ?」
「あら、ばれた?」
彼女はそんなことを言って微笑む。ころころと笑うメリーがなかなか可愛いので、私はしばらく眺めていることにした。
「ま、火星探査なんてどうでもいいわ」メリーが笑い終わるのを見計らって、私は本題に戻す。「せっかく号外があるんだから、月面旅行の話でもしましょう」
「どうでもいい話をしてたのね、蓮子は」
「行けないところには興味がわかないでしょう? もし秘封倶楽部を火星倶楽部にでも改めるのなら、火星の話もありね。行くために努力をするのでなければ、そこの話をしてもしかたがないわ」
それだけ言って、私は紅茶を啜る。血の味はしなかった。
「それもそうね。……じゃあ、いつ行くの? 月面旅行」
「気が早いことで。ま、行くのなら夏以外がいいわね。夏休みは混むでしょうし、何より夏には一つ大きな活動を予定しているから」
「あらそうなの? 話してくれてもよかったのに」
そういうメリーの顔は、何故だかとても嬉しそうだった。
「さっき決めたのよ。あの女の子が言ってた、守矢神社。そこに行ってみようと思ってね」
「現人神の……?」
「なかなか興味深いでしょ? それに、あの子にもう一度会ってみたい、というのもあるわね。面白い考えをしていたから」
「蓮子の能力の話ね。いつも貴女が言っている『客観的』にものを見るっていう考え方とぴったりじゃない」
「……そう。あの考え方は本当に正しいと思うわ。……って、また話題が逸れたじゃない」
「いつものことでしょう?」メリーはくすくすと笑う。「……月面旅行の話ね。私は秋がいいと思うわ」
……秋、か。
果たして、秋まで秘封倶楽部は存在しているだろうか……?
ふと、そんな疑問が頭をかすめた。
………何だって? 今、私は何を考えた?
「秋ねぇ。秋は月が綺麗な季節だからね、丁度いいかもしれないわ」
適当に相槌を打ちながら、私は今の思考を反芻する。
―――秘封倶楽部が消える理由?
そんなものはあり得ない。少なくとも、私はこの時間を後半年も待たずに終わらせる気は全くない。
しかし、もしあるとするならば……。
メリーが、いなくなってしまう? 私から、彼女が何らかの理由によって離れていってしまうのだろうか―――
「……違うわね」
「ん? 何が?」
私はまた逃げている。常に自分は自分で制御できていると思い込んでいるのだ。
……駄目よ。考えるのは後にしなさい、宇佐見蓮子!
大きく息を吸い込み、吐き出す。
少しだけ落ち着いてきたかもしれない。
そう―――私は今、焦っているのだろう。
「んー……なんでもないわ。ところで、月面旅行ってどれくらいかかるのかしら。私の貯蓄で行けるかな」
「あ、費用ね? えー……と、あった、これだわ」
「いくらだって?」
「…………うわぁ」
「何よ、変な声出して」
「蓮子も見てよ、すごく高いわ。とても行けないわね」
「どれよ…………あらぁ」
「ほら、蓮子も変な声出したじゃない」
そこに書いてあった値段は、まさに桁違いだった。数百万の単位ではない。宝くじがこれから例年以上に繁盛しそうな値段だ。「とてもじゃないけど」どころじゃない。「とても」無理だ。結局は世の中お金なのだと、貧乏な学生は残念な気持ちになってしまう。
「やれやれ……。何が『一般人も』なのかしらね」
「SFで読んだ、ワープ装置なんてものがあればいいのに」
「ワープねぇ……。宇宙規模ならできないことはない……って言われてるわよ。専門外だからよくは分からないけど」
「そうなの? 宇宙規模なんだから、丁度いいじゃない」
「いや、まだ理論の段階で長年話され続けてるものだから、実際には無理と考えた方が妥当ね。できる可能性の説明よりも、できない可能性の説明の方がよほど楽だわ」
「ふぅん。どんな方法なの?」
メリーはそう訊いてから一瞬、しまった、といった顔をしたが、私は特に気にせずに答えた。
「アインシュタイン‐ローゼンブリッジって呼ばれてる、時空間を移動できるトンネルみたいなものよ。あくまで数学的な可能性の一つに過ぎないのだけれど……。周囲の物質を
無限に取り込むブラックホールは知っているわね? ブラックホールができるには、シュヴァルツシルト半径を―――」
「本当に専門じゃないのかしら……。この苺、おいしいわね」
私は話しながら考えていた。
この理論を使えば、幻想郷には行けるだろうか?
同時空上にある必要はない。どこかに空間として存在さえしていればこの理論で辿り着くことができる可能性がある。
「―――通過可能なアインシュタイン‐ローゼンブリッジにするには、負のエネルギーを制御できるようにならないと無理ね。通過可能なこれの計算式は―――」
「あ、中にも苺が入っているわ」
しかし、それは同時に不可能であることも分かった。なぜなら、このトンネルの出口はどこなのかを知る術がないからだ。さらには解も不安定だし、負のエネルギー自体、制御どころか出現に相当な手間をかけている状況なのだ
そもそも、幻想郷は空間ではない、と考えている私にとって、この考えは不要だったかもしれない。
「―――まぁ、通過可能なこのトンネルを考えるのは、もはや研究者の遊びみたいなものらしいわ。もう誰も希望を持っていないのね」
「あーお腹いっぱい。幸せね……。あ、話終わった?」
「聞いてなかったの!?」
私は心底驚いて尋ねた。
「うん。蓮子にこういう話を振った私が馬鹿だったみたいね」
聞いていなかったのか……。これでは私の話したことが無駄じゃないか―――そう思ったが、メリーには無駄でも、私の考えを固めてくれる役割にはなった。
メリーの見る境界がトンネルである可能性は捨てきれない。しかし、だとしたら見える者と見えない者がいるというのが理解できないし、それを特別な、幻想的な何かで説明できたとしても、その先に毎回「世界」があるというのはおかしい。トンネルの先の世界は、無限の可能性があるのだから。
「卒業したらお金でも貯めようかなぁ。私の貯蓄なんて、倶楽部の活動で精一杯だもの」
「私は蓮子よりか貯蓄は多いけど……。蓮子に対する奢りと倶楽部活動で結局は無くなっちゃうから」
「私のせいか」
「そうね、蓮子のせいね。……ね、そろそろ出ない? 日が暮れちゃったわ」
そういえば、私がカフェにメリーを誘った本来の目的は、単に休むためだった。身体もだいぶ楽になったような気がするので、私は同意して席を立った。
構内へ出ると、先ほどの人混みは既になく、夜らしい閑散とした風景がただ広がっているだけだった。暗いので桜もよく見えないうえに、少しばかり肌寒い。
「……今日は満月じゃないのね」
隣でメリーが呟いた。つられて私も空を見上げると、そこにはわずかに欠けた月―――おそらく上弦の月だろう―――が浮かんでいた。
「そりゃ、満月はひと月に一度だけだからね。満月じゃない方が多いに決まってるわ」
「あぁ、毎日が満月だと皆狂っちゃうかもしれないわね」
……あれ?
―――おかしい。私は、月を見て狂ってしまったのだろうか?
たしか、カフェに入る前に確かめた時刻は、七時だったはず。
「………………ぁ」
それが今、月が教えてくれる時刻は―――
……午前、十時半?
……こんなに暗い朝があるものか。
大体、私たちがカフェにいた時間はものの数十分足らずだ。本当に数時間も経過したとは考えられない。これが異常ならばそばを通る人たちもそれに気づくはずだろう。
なら、これは何を意味するのだろうか。
簡単だ。二択しかない。
月が嘘を吐きはじめたのか―――
あるいは、私の眼に異常が起きたのか。
そして、そのどちらかを選ぶのも、容易いことだった。
「蓮子、またぼーっとしてるわよ?」
「へ? あ、うん、ごめん。大丈夫よ」
私は慌ててなにか私たちに関係のない話題を探した。メリーの眼が私を見透かすかのように感じられて、少し怖かった。
「月……月には不老不死の薬があるらしいわよ、メリー」
結局、秘封倶楽部らしい話題になってしまった。が、彼女もこの話題には興味があるようで、興味深げな目を私に向けてきた。そういえば、初めて会った時からメリーは好奇心が強かったような気がする。
「不老不死? 月にはそんなものもあるのね」
「メリーにはいつか話したじゃない。かぐや姫の話」
「急成長を遂げる少女の話ね?」
「正しく伝わらなかったようで残念だわ。……あとは、中国には嫦娥の話もあったわね。まあ似たような話だけれど」
別にそこまで似てるような話とは思わなかったが、月へ旅立つという意味では同じだろう。不死の薬を飲んだか否かが二人の違いだ。かぐや姫は薬を提供する側だったが、嫦娥の場合は盗んで飲み、月へと逃げて行った。
「不老不死の薬ねぇ……。蓮子はもしあったら欲しい? 飲みたい?」
「え―――?」
私はその疑問に、すぐに答えることはできなかった。
不老不死―――つまりは「生と死の境界」を無くす薬。
生きてもいない。
死んでもいない。
その状態を何と呼べばいいのか―――
(…………面白いことを考えるのね)
―――頭の片隅に、ノイズが響く。
その範囲はやがて広がり、そのノイズ以外、私の頭の中には入ってこなくなってしまった。耳障りな、音と声だ。けれど、まだ幼さの残る―――聞いたことのあるような、声。
(……誰!)
私は思わず心の中で叫び返してしまった。頭の中に響いて来たのだから頭の中だけで返すという、単純な考え。もしも幻聴なのだとしたら、道端で急に叫ぶ変な少女、というレッテルを貼られてしまう可能性を考えられる程度に、私は冷静だった。
しかし、
(…………ん? 私?)
再び声が聞こえたかと思うと、私は
***
まったく別の場所に立っていた。
隣にいたはずのメリーが、いない。
「メリー? ……メリー!」
だから、私の呼びかけに答えたのは、彼女ではなかった。
「私はメリーさんじゃないわ。―――博麗×××よ。大体巫女がメリー、なんて名前、おかしいでしょうが」
「へ?」
さっきの声に振り向くと、そこには紅白の衣装を着た巫女―――少し思っていた姿と違う気もするが―――が立っていて、あきれ顔で私を見ていた。
ここは、大学の構内でも私たちの住んでいる部屋の前でもなく、神社だった。
少し寂れた感じに見えるその神社は、私が見たことのある場所にとてもよく似ていた。というよりも、この神社を少し古くしたらそっくりになる。
「……博麗、神社……」
しかし、私が見たことのある神社とは別のものであることは確かだった。一番の違いは、今の私の目の前のように、人がいる、ということだ。私が行ったことのあるそこは、朽ち果てる寸前で時が止まったかのような神社だったのだから。
「あれ、知ってるの?」
巫女は驚いた表情を浮かべた。
「え? いや、知ってるっていうか……来たことあるっていうか……」
私が言葉を濁すと、巫女はどうやらそれだけで納得してしまったらしく、「二度目以降の迷い人ね。初めてだわ」などと言いながら手に持った箒を鳥居に立てかけた。
「どこから来たか知らないけど、まぁ来なさい」
巫女の手招きに吸い込まれるように私は社務所へとついて行った。
……あれ? なんで私がこんなところにいるんだろう……?
「前に来たのはいつかしら? 私が留守だった時だから、異変の時かもね……。私がいないのに良く帰れたわね」
目の前には、お茶菓子とお茶が丁寧にも並べられている。私はそのうちの一つに手を伸ばして、頬張った。とても甘い。
「いや、この神社じゃなくて……」
「違うの? 来たことあるっていったじゃない」
「えぇと……もっと、こう……寂れた感じの……」
「……あぁ、なるほど、外の世界の神社ね? そりゃ寂れてるわ。……ていうかそんなところに行くなんてあんたも物好きねぇ」
「はぁ……」
外の世界―――。
そういう単語が出てきたからには、ここは明らかに私の知る世界ではない。
そして、博麗神社。この二つから考えられる答えは、ここが幻想郷であるということだ。
けれど、いつか考えたように、本物ではない、ということも確かだろう。まだ、破片の段階の幻想たち。
「それで、あんたはどうしたいの?」
「はい?」
「ここでは、迷い込んできた人を外へ送り返すことが出来るのよ。あんたみたいのがたまに来るからそうしてるんだけど、最近じゃ帰りたくないっていう人が増えてきててね……。そういう人は、麓に人間の里があるから、そこに住まわせてるの。他の場所は軒並み危険だから、人間なんかが行ったら妖怪に食われちゃうし」
妖怪……。メリーの言っていた情報とも会っている。
ということは、ここは『メリーの見ていた幻想郷と同じ種類の欠片』ということになる可能性が高いことになる。
なるほど、今の私が置かれている状況は何となくわかった。
だが、いつもと同じだ。状況が分かっても、原因が分からない。
あと少し。あと一歩だ―――
「何ぼーっとしてんのよ? 目、覚ましなさい」
頬をぺちぺちと叩かれる。
「あ、うん。帰るか帰らないか、の話だよね?」
「さっきからぼーっとしてること多いわよね、あんたって。よく食われずにここまでこれたわ。……ま、帰る云々は後でも良いわよ。しばらく話し相手になってくれればね。参拝客は来ないわ妖怪は来るわで、まともな会話をしてなかったのよね」
それはすごい日常だ。妖怪とはどんな姿をしているのだろう……? メリーの話では少女の姿をしていたと聞いたが……。
「それよりも、あれよ。さっきの話の続きを聞かせて頂戴」
「さっきの話……?」
「そ。不老不死とか生と死の境界が云々とか……」
「私、そんなこと喋ったっけ……」
「喋ってたじゃない。鳥居の目の前で突っ立ってるから何してんの? って声かけたのに、ぶつぶつと独り言みたいに。まあ独り言だったけど」
「うわ、恥ずかしい……」
駄目だ。メリーと一緒にいたときとここに来た時の変化が分からなかった。幻想と現実の境界も曖昧になってきているのかもしれない。
しかし、この混乱した考えも、他人に話すことで少し整理できる可能性がある。実際、これはメリーに試しても効果が表れたから、試してみる価値はある。
「まあ、いいけど。ただ、私も整理できていないんで考えながら話すわ」
「本当? さっきの話聞いてたら、力のある妖怪に話してみたくなったのよね。あいつらの驚く顔が目に浮かぶわ。だって、『外の世界の人間』が考えたんだから」
巫女はにこにこしながら私に話すよう促した。余程暇だったのだろう。
しかし、彼女は急に何かを思い出したかのように私の方に身を乗り出した。
「その前に……。さっき、帰りたくないって人が増えたって言ったでしょ? ……外の世界は、そんなにつまらないところなの?」
その、唐突な質問に―――
私は少しだけ考えた。
そういえば、秘封倶楽部が幻想郷を探している理由は何だっただろうか?
メリーの眼が関係していることは確かだが、私の目的は?
自分の住む世界に飽きてしまったからではないのか―――
「いや」私はゆっくりと答えた。「外の世界は、楽しいよ。今は親しい友人もいるし、旅行も気軽にできるし、便利な世界だわ」
私は目を閉じた。
そして、『私たち』の姿を脳裏に浮かべる。
「秘封倶楽部は、幸せよ。なにものにも縛られず、境界線の外でさえ見ることが出来る。私たち二人から生まれ、それは私たち自身の証。そして、やがてここへ再び辿り着くかもしれない。秘封倶楽部はそれを望んで活動しているから」
目を開ける。そこには巫女はいなかった。
ただ、暗闇だけが残っている。
(……じゃ、ここにいるべきではないわね。早く帰りなさい)
そうして気づくと、私は
***
メリーの目の前に戻ってきていた。
結局、巫女に話すことが出来なかったのが心残りだ。答えはもう目の前にあるから、それを理解するだけでいいはずなのに。
状況を整理して、何も言ってこないメリーを見て、あれから全然時間がたっていないことに気づいた。
私たちが立っている場所は、構内の噴水のすぐ近く。水が綺麗で、若いカップルの憩いの場であると同時に、秘封倶楽部の待ち合わせ場所だ。
私は直前の会話を思い出す。
「えっと……ふろうふし。不老不死の薬ねぇ……。私は、使うかなぁ」
「え? どうして?」
まるで予想外というようにメリーが訊いてくる。やはり時間は経過していないようだ。
「だって、生も死も無くなるのよ? 精神の死も当然無くなるはずだわ」
「…………? 何で精神の話が出てくるのかしら……?」
「……。何でかしらね……」
冗談ではなく、私は自分の言葉に疑問をもっていた。
精神の死? 肉体ではなくて?
そういえば、いつだったか精神だの肉体だのという話をとある教授と話した覚えがある。あのとき彼女はなんて言っていただろうか?
―――肉体的なものはあくまで肉体的に考えるのよ。
―――けれど、精神と肉体については非常に互換性が高いの。
―――そう、精神は肉体そのもので、その逆も然り……。
脊髄反射のように私は顔をあげた。
―――あぁ。
そう、私はこの瞬間に理解した―――
精神と肉体。
つまりは境界と空間と、人間の本質。
そしてこの異常の原因。
私の頭の中でパズルのように繋ぎ合わされていた中に、ようやく大きすぎる最後のピースが当てはまった。
「あ、見て、蓮子。月が―――」
水面には今宵の月が妖しく映っていた。
平らな月。
水面という境界線で、私たちはたどり着けない空間。
「……ねぇ、蓮子。月面ツアーなんて高いから、何か別の方法で月に行けないか、考えてみない?」
―――嫌だ。
彼女はマエリベリー・ハーンではない。
何か別の、異形な何かだ。
そんなことはあるはずがないのに、私にはそう見えてしまう。
それは彼女が境界を見る目をもっているから。
その境界が、私を壊したのだから―――
心臓が早鐘を打つ。血管を流れる血の音が、聞こえる。
「何かいい案ないかしらね」
メリーは一歩、私の方へ歩いた。別に何ともない、いつもの行動。
しかし、私は。
―――来ないで―――
それ以上来たら、本当に壊れてしまうかもしれないから。
背中を、汗が伝う。
血液が、逆流するような感覚。
悪寒が、走る。
―――メリー……。
―――どうか、私をその手で抱きしめて―――
そうしないと、きっと壊れてしまうから。
拒む理性と、求める心。
私は、それでも手を伸ばして―――
この指がメリーに触れるまで、あと一〇センチメートル―――
―――そこで、意識を手放した。
第五章 幻想論理 ~Who broke reality?
僕は、彼女を見つめる。
抱き締めたい、と思った。
けれど、
僕の手は、
そういう手ではない、
それに相応しい手ではない、と思い出して、諦めた。
(森博嗣著 「四季 春 Green Spring」より)
***
蓮子が倒れてから、どれだけ経っただろうか。
私たちは病院の一室にいた。病院らしく、簡素で、無機質で、何もない部屋。窓の外は夜だからもちろん暗いし、今は明かりもついていない。蓮子が眠るベッドの横で、私も寝てしまったから、おそらく誰かが消してくれたのだろう。
「蓮子……」
最近、蓮子の様子がおかしいのは知っていた。ただ、私が感じていたのは単なる違和感だけで。それがどういう違和感なのかすらも気づくことができずにいたのだ。
蓮子がおかしい、というのが私の中で決定的になったのは東京に行った時だ。緑の髪の少女と話した後、ひきつった顔で私に背を向けた蓮子は、口を押さえたハンカチに血を吐いていた。私は何も見なかったふりをして話を続けたが、それは何故だろう? 新幹線の中で喧嘩してしまった理由がこれで、訊いたらまた同じようなことになると思ったからだろうか?
……そんなの、ただの言い訳にしかならないわ。
本当は、怖かっただけだ。
知ることが、話されることによって、知りたくない事実を知ってしまうかもしれなくて、それがただ、怖かっただけ。
嫌な考えが、頭を掠める。
もしかしたら、もう彼女は起き上がらないのではないか?
もう、目を覚まさないのでは?
考えれば考えるほどに私は怖くなって、それが本当のことのように思えてきて……。
……馬鹿! 何を考えているのよ!
目を覚ませ、とばかりに私は自分の頬をおもいっきり叩きつけ―――
「―――こら、叩いたら駄目でしょ」
ようとして、その手を、もう一つの手が優しく押さえつけた。
「れんこ……!」
「おはようメリー」
ベッドの上で、力なく笑みを浮かべる彼女が、ちゃんとそこにはいてくれた。
まだ、生きてる。
当たり前のことなのに、嬉しい。
そんな自分が、たまらなく許せなかった。
蓮子がここまでの状態になってしまう前に、無理やりにでも問いただしておくべきだったのだ。もちろん、それでどうにかなるかなんてわからないけれど。
「顔を叩くくらいで止めるなんて……」
「メリーの綺麗な顔が台無しじゃない。その顔をくしゃくしゃにしていいのは、私だけなのよ」
「何よそれ」
蓮子はベッドから上半身だけを起き上がらせて、私に訊いた。
「お医者さんは何だって言ってた?」
「ストレスによる病気とかなんたらって、言ってたけど……」
……違うんでしょ?
彼女は私の疑問に答えるように―――
「なるほど……。さて、それじゃあサークル活動に行きましょう?」
全然答えになっていない。そもそも声に出して訊いていないのだから答えてくれるわけもないのだけれど、その発言は確かに、その症状が病気などというものによるものではない、と私に告げていた。
「でも、ここは病院よ? 後で医者の先生がまた来るからって言ってたのに……」
「そんなもの無視よ、無視。秘封倶楽部の方が大事だわ。それに、ここにいても何も変わらないもの」
蓮子は立ち上がって掛けてあった服を着た。それから無造作にハットをかぶり、いつもの黒い革の本に手を伸ばす。
「さて、今日の行き先は再び蓮台野よ。理由は特になし。まだちょっとフラフラするから肩貸してね」
「ちょっと……本当に大丈夫なの?」
「大丈夫だって。それに大丈夫じゃなくても行くのよ」
「それは、大丈夫じゃないって言ってるようなものでしょう?」
「気にしないの。さ、医者が来る前に抜け出さなきゃ」
蓮子はふらつきながらも、どんどん私の前を歩いて行く。
……そう言えば、いつも前には蓮子がいたわね―――
年老いた者のようにしみじみと、そう感じて。
―――そうして、秘封倶楽部の最後の活動が、始まった。
***
列車は走る。死の園へと向かって。
列車は走る。終わりへと向かって。
列車は止まる。小さな駅で。
***
蓮台野には、前に来た時よりも重い空気が広がっていた。
春だというのに、強く、冷たい風が二人の身体に纏わりつく。いつか感じたような、気分の悪くなる空気。
死の匂いと、よくわからない悪寒。
それに背筋を震わせながら、私たちはただひたすらに歩き続けた。
一体、どこへ向かっているのか―――
「さて、種明かしとでもいきましょうか」
隣を歩く蓮子が、ふいに言った。
「種明かし……?」
繰り返すと、彼女はそうよ、と言って笑った。やはり力のない、何かが抜け落ちたような笑いだった。
「全部分かったら教えて、って言ったのはメリーでしょ?」
「そうだけど……」
……今更になって、聞きたくなくなったなんて、言えないじゃない。
こんな時間が―――蓮子と一緒に、秘封倶楽部として活動しているこの状態が―――ずっと続けばいいのに、なんて……。
きっと聞いてしまったら最後、もう私たちの秘封倶楽部が無くなってしまうんじゃないか、って思っている私がいる。
でも、話を聞かないでもどうせ結果は一つなのだから、私の選択肢は一つしかない。
「……そうね。教えて頂戴、蓮子。私には分からないから。貴女が分かった全ての異常とその原因と―――できれば、解決方法を」
「……長くなるから、このまま歩きながら話しましょう」
―――風が、凪いだ。
「さて、何から話し始めようかしら……」蓮子は額に手を当てて、少しだけ考えるそぶりをした。「ことの発端は、前に蓮台野に行った時、境界を潜り抜けたあの事件よ。まぁ、事件というよりは出来事だとあのときは認識していたけれど、あれは間違いなく事件と言えるものだわ。メリーならともかく、一般人の私が踏み越えてしまったんだもの。だから、あのときはきっと貴女が連れていってくれた。それはかねてからの望みで、しっかりと果たせたわけだけど、常に境界の近くにいた私は、そこからおかしくなり始めたのよ。
―――そう、貴女の思っている通り、境界に壊されたのは、私よ」
ひぅ、と自分の呼吸音が聞こえた。信じたくは、ない。それはつまり、私が壊した、ということだから。
「……どうして話してくれなかったのよ……?」
「…………」蓮子は答えない代わりに、咳払いを一つして先を続けた。「私は先日、貴女も見たでしょうけど、とある教授と話をしたわ。私たちよりも早く、幻想へ辿り着いていた人物。名前は忘れてしまったけれど、興味深い話を彼女から聞くことが出来た。境界について、幻想郷について、私の身体に起きた異常について……」
「答えてくれたの?」
「残念だけど、その時に分かっていたらこんな場所で貴女に話をしていないわ。教授が答えてくれたのはすべてにおいての一部分のみ。何故なら、彼女もまた分かっていなかったから。
……それでも私が考えをまとめるには十分な情報だったわ。それと、さっき話した不老不死の話。それで私の疑問はようやく消えたのよ」
憑かれたように話し続ける蓮子の眼は、私ではなくどこか遠くを見つめていた。けれども、もはやその眼には、正確な場所も、時間も、映ってはいないのだろう。
「……全て、解いたのね」
「そう、おそらく全ての内容。少なくとも、教授が私に解いて欲しかった内容ならば全部理解することが出来たわ。もちろん証明なんてできるわけがないけれど、辻褄は合う論理。東京であった子の話みたいなものね。
境界とは何か?
何の象徴として考えることが出来るか?
教授が訊いたのはそういうこと。私は精神的な何かだと思っているわ。多分正しいし、否定要素は見つからない。ならば、何故その精神的なものが私の肉体という物理的なものに影響を及ぼしたのか? これが私を悩ませ続けた内容だったわ。分からなかったから、貴女に言うことも何もできずに、ここまで来てしまった。……プランク並みだとか自称している私には、致命的な遅さね」
蓮子は、自嘲的な笑みで私を見つめた。
結界が、彼女の周りに次々と現れてはその身体に纏わりつき、消えていっている。蓮子を蝕み続けた、幻想たち。私にしか見えない、精神的な何か。
「境界線というのは、精神の『穴』だという結論に至ったわ。それも、物理的に例えるなら、真空状態の穴。ねぇ、メリー。今この場に真空状態の空間を一つ作ったらどうなると思う? 小学生でもわかる問題よね」
「そこは真空じゃなくなるわね」
そう、と蓮子は頷いて、大きく息を吸った。
「空気が流れ込むことで、世界を均等に保とうとする。境界はいわば精神の真空空間。虚無の領域。世界を均等に保とうとして『空気』を流し込む。その空気が、私、宇佐見 蓮子の精神よ。だから……最初に違和感を感じたとき、私は『空間が流れていく』感覚に襲われたの。
じゃあ精神と肉体はどういう関連性を持っているのか? 精神は肉体に隷属しているけれど、実は、同時に肉体は精神に隷属しているのよ。どちらかが欠けた瞬間、その関係は崩壊してしまい、それの持ち主という個体は存在できなくなる。
身体が死ねば、もちろん精神は死ぬわ。逆に、精神が死んだ人間の身体もすぐに死ぬ。これは分かるわね? だから、こう考えることが出来る……。
―――肉体の消滅は、精神の消滅。そして、精神の消滅が、そのまま肉体の消滅に直結するということよ」
「あぁ、ここがいいわ。墓石だけれど、少し腰かけましょ?」
蓮子に促されるままに、私たちは背中合わせに墓石の上に座った。
背中から、蓮子の体温が伝わってくる。温かいけれど、人としては少しだけ冷たいように感じた。
「……理解してくれたよね、メリー」
「……………………」
私は答えない。
もちろん、理解はしている。できるだけわかりやすく蓮子が話してくれたのだから、これが分からないほど私は馬鹿ではない。それに、当事者の一人でもあるのだ。
そして、この話が本当ならば、蓮子は―――
「それにしても、メリー? 貴女レポートは書いたの? 明日教授に見てもらうって言ってなかったっけ」
突然別の話題を振られ、ふ、と私の口元に笑みが浮かぶ。無理やり繕った笑みではない。いつもの私の笑い方だ。
「生憎だけど、完成してないわ。どっかの誰かさんが最近めっきり起こしてくれなくなったものだから、朝に書くことが出来なくなったのよ」
「まさかとは思うけど、私のことでしょうね?」
暖かさが、私の心の中にゆっくりと、流れ込んでくる。
こんなつまらない会話をしているときの方が、ずっと落ち着ける。冷静になって考えることが出来る。
それは、私が秘封倶楽部で、彼女もまた秘封倶楽部だから。
普段通りの会話が、異常なところにいる人間にどれだけ安心感を与えるのか、今の私にはしっかりと理解することが出来た。
蓮子が蓮子で、私が私であるように、この死の園にも、ようやく私たちのアイデンティティが生まれてくれた。
……大丈夫。
私の頭はこのちょっとした会話だけで冷静になれた。
「蓮子はどうなのよ。ひもについてはちゃんと纏めた? 貴女も明日出すとか何とか言ってたような気がするけど」
……でも、もう出せないのね。
暗くなりそうな気分を振り払い、私はできるだけ明るく話す。
蓮子の声も少しだけ前のトーンに戻り、そして小さく首を振った。
「いや、あれは纏めてる途中に気付いたんだけど、完全に論理が破綻してたのよ。あれじゃ出せそうもなかったから、一回切り捨てたわ」
「あらら……。じゃ、やり直しね」
「やり直すしか、ないわね……」
やれやれ、と呟いて蓮子が背中を押しつけてくる。かくん、と首を曲げて、そのまま全体重を押しつけられた。
……とても同年の少女とは思えないくらいに、軽い。
「……蓮子、重いわ」
「人間だもの。そりゃ支えるのが辛いくらいには重いはずよ」
「……蓮子」
「んー?」
「…………軽すぎるわ」
「………………」
冷静になったはずなのに……知らないうちに、私の瞳からは涙が溢れだしていた。彼女には見せまいと、必死で嗚咽をかみ殺す。
「メリー」
―――優しい声。
蓮子はきっと、私が泣いていることに気付いているだろう。けれども、気づかない振りをして話し続ける彼女の声も、少しだけ震えていた。
「貴女が苦しむ必要はないわ。私が決めたことだから―――少しだけ時期が早まっただけよ」
「でも―――」
「だから」蓮子はゆっくりと、子供を諭すように、「私が、決めたのよ。こんなこと言うのは恥ずかしいけど……、私は、たぶんメリーがいないと駄目なのよ」
必要とされている―――
そういえば、そんなことを言われたのは初めてではないだろうか?
私が彼女に出会って、私が彼女を必要として―――
「ねぇ、メリー? 初めて会った時のこと覚えてる?」
そして突然、蓮子はそんな事を訊いてきた。まるで私の心を見透かしたかのように。
「……忘れるわけないわ。衝撃的だったもの」
そう、確かに衝撃的だった。私が、専攻ではないけれど用事のできてしまった、とある教授に会うために研究室の扉を開いたら、中では一人の生徒がその教授を虐めていた、ように見えたのだから。
―――だーかーらー! 貴方のその論理は間違っているんですよ。さっきから何度も証明しているでしょう?
―――う、宇佐見君……もう止めないか? ほ、ほら、生徒が入って来たじゃないか……。
―――止めませんし、認めません。貴方の考え方は、どうしても納得のいくことが出来るものじゃないわ。
今でも、あの光景はすぐに思い出せる。衝撃的なのはもちろんだが、何より蓮子と初めて目を合わせたのがその時だったからだ。
第一印象は、変な人だなぁ、という程度。しかし、黙って彼女が教授に話すのを見ているうちに、考えは変わった。蓮子が時折窓の外の星や月を見上げる度に、空と蓮子の間に誰が見ても分かるほどの―――もちろんそんなことはないが―――境界線が引かれるのを見てしまったからだ。
―――あ……。
そう呟いた私にようやく気付いたらしい彼女は、
―――あら、こんばんは。こんな時間にようこそ、言葉の戦場へ。
振り向いて、確かそんな内容の言葉を言って……微笑んだのだった。
それが、最初の出会い。それから秘封倶楽部が誕生するまでどんなことが具体的にあったかはよく覚えていないけれど、大した時間をかけずに私たちは意気投合していたような気がする。
遠い、あの夜―――
きっと運命みたいなものに導かれて出逢ったんだろう私たち二人は、一体どんな活動をしてきただろうか? どんな思いで過ごしてきただろうか?
どれだけ、お互いを想って生きてきただろうか―――?
「私はね、メリー」蓮子は立ち上がり、私の方を振り向いた。「貴女がいなかったらこんなに楽しい人生を送れなかったわ。メリーがいたからこそ、生きてこれた」
別に貴女がいなかったら死ぬわけじゃないけどね、と付け加えて、蓮子は大きな溜息を吐いた。
「どうして、こうなっちゃったのかなぁ」
「え―――?」
「こんなはずじゃなかったのに……。運が悪かったのよね、きっと。メリーに出会えたっていうことで、運の全てを使いきっちゃったんだわ」
「………………」
「メリー、これから、私はどうなると思う?」
そして、蓮子がしたのは、最後で、最悪の質問だった。
「私に、それを答えろと言うの?」
「……私の話の意味を理解してくれてたようでよかったわ。私だって言いにくいんだから、メリーに言ってもらいたかっただけよ」
「なにも言わなくていい。……もう私は分かったから」
「私は―――」
「蓮子!」
「―――宇佐見蓮子は、この世界から、消えます」
そう高らかに宣言した彼女の声は、涙声などではなかった。
全てを理解して、受け入れるだけの意思を持った、声。震えていて、今にも泣き出しそうだけれど、伝えることは伝えなければならない、という意思が伝わってくる。
「貴女が見ているときにだけ、確実に存在する幻想の境界は、私の身体を蝕み続けたわ。悪寒、眩暈に始まり、果ては本当に身体の一部を壊して吐血するまでにもなった。
教授はシュレディンガーの猫に例えて幻想の事象を説明してくれた。箱に穴を開けるのはメリー、貴女よ。けれど、その穴は小さいから、猫、すなわち幻想郷が存在しているのか、存在していないのか分からない。例え見えたからといって、それが存在していることの証明にはならないから。存在するかは全体を見ないと確認できないのに、メリーは一部分しか歩き回れずにこっちへ戻ってきた。だから、現時点で少なくとも幻想郷は存在していないことが分かるわ」
涙で霞む視界で、蓮子を捉える。力を込めて、睨みつけた。
蓮子のその眼は、今は私をしっかりと見据えている。
「メリーと一緒にいることは危険だった。でも私には貴女から離れるなんていう考えは出来なかったわ。そういう気持ちは、なんて言うのかしら……。でも、とにかく私には貴女が必要で、もう何も考えられなかった。考えている振りはしていたけど、私の頭の中は空っぽで……。やはり境界は危険だという考えに戻ってしまう無限ループだった」
蓮子は、私から一歩、後ずさった。
これ以上近付くな、とでも言うかのように。
ここから先は、私の踏みこんでいい場所ではなくなるからという、呼びかけなのか。
「れん―――」
「でも!」それは今まで見たことないほどに優しい表情。その表情のままに、蓮子は涙を流していた。「私には貴女しかいない! どれだけ自分にリスクがあろうが、結果貴女を苦しめる可能性があろうが、私はメリーと一緒にいたかった! これは、エゴよ。それでも、これは私の意思。稚拙で、聞くに堪えない感情論。ただの自分勝手な満足。
一緒にいたい。
離れたくない。
そう考えたときに、心の中に残るもの―――
自らの存在を捨ててでも、繋ぎとめておきたいと考える心には、何一つ矛盾はないわ。
論理的ではない、ただの幻想でできた下らない理屈。
……貴女は、こんな幻想論理で生き続けてきた、私を許してくれますか……?」
***
幻想の声が、聞こえる。
境界を通して、
空間を通して、
精神を吸い込み続けるその穴から、声が聞こえる。
―――いるいる、悪寒が走るわ、この妖気。何で、強いやつほど隠れるんだ?
―――古風な魔女に、勝ち目は、ない。
―――能ある鷹は、しっぽ隠さず、よ……。
あぁ、聞こえる。
私には、まだ存在しないその空間からの声が、届いてくる。
それはすなわち、今にも現実になろうとしている証拠。
幻想の幻想が、現実の幻想に変わる。
夢から覚める。
私が、貴方が。
―――足手まといが居なくなったからね。
―――まぁ、×××ちゃんがそう言うなら……。
―――ゆるさないわ!
始まる幻想は、いつからか?
歴史は、偽装される。
嘘ではない偽の歴史と共に生まれ、そこから始まる物語。
―――もう三月以上も経ったっていうのに、何も起きていないのよ。
―――清く正しい×××です!
―――貴女たちにいくつ解けるかしら?
始まる未来は未知のもの。
夢は幻想、現実は夢?
さて、私は誰だろう―――?
マエリベリー・ハーン?
宇佐見蓮子?
あるいは、別の誰かか、何かか。
もしくは貴方か―――
今となっては、どうでもいいことなのだろうか?
***
―――気付けば、私は華奢な蓮子の身体を力いっぱい抱きしめていた。
二人の距離を、ゼロにまで縮める。
確かに蓮子の身体がそこにあるのに、今にも崩れてしまいそうな印象を私に与えるそれは、今は小刻みに震えていた。
「ひ……っく」
思わずこぼれた嗚咽は、私のものだった。
蓮子は私に抱きしめられ、ただ驚きの表情を浮かべているだけで。
「メリー……」
やがて、蓮子も私の身体に腕を回してきて、私たちはしばらく抱き合っていた。
人の温もり。
温かな感情が心に満ちて、私は受け入れる覚悟をした。
互いが互いを必要としていて―――
けれど、すでに時間が無い。
「もう、時刻なんて見えない」蓮子が耳元で囁く。「場所も、何も。今まで見えていたものが見えなくなる……。今、私にはもうメリーしか見えないわ」
蓮子の眼を見た。
そこに光はなかった。
世界も、夜も、私も何も映っていないのだろう。
そこまで、壊れてしまったのだろう。
「蓮子」私はなるべく、優しく話しかける。「もう、いいよ。私に言ってくれなかったのも分かるし、貴女がどういう考えでいたかが私にも少しだけ分かった。
でも……私だって蓮子がいないと駄目なのに、一人で行くなんてずるいわ」
ずるいわ、だなんて。子供のように言ってみたけれど、蓮子は口元に微笑を浮かべているだけだった。
「貴女はここにいなくちゃ駄目よ。幻想の研究は、もう貴女しかできない。私が消えたら、秘封倶楽部はどうなるのかしら? 新しいメンバーでも」
「却下よ。言ったでしょ? 貴女がいないと駄目だって。……わかってる。これは私のエゴイズムだって。しかも貴女のように実現しない、不可能なエゴよ。でも、だからこそ言っておかなくてはならないことがあるの」
「…………?」
別れの決意。
深呼吸を一つして。
心臓が波打ち、
心拍数が―――
「私―――マエリベリー・ハーンは、宇佐見蓮子のことが、世界で一番、大好きです」
最低最悪の、稚拙な告白。
この言葉は、間違いなく蓮子を苦しめる。
それでも言わずにはいられなかった。
蓮子の言葉を借りるなら、これが私の―――幻想論理なのだから。
蓮台野。
墓場で、死の園で、人生における最果ての地。
どこからか、桜の花びらが私たちの下へ現れた。
ひらひらと。
はらはらと。
枯れてしまうのか、枯らされてしまうのか。
「……ねえ、メリー」抱きしめたままに、蓮子が呟くように、「貴女は―――」
―――楽しかった?
と、突然そんなことを訊いてきて。
それがあまりにおかしかったから、私は微笑んで。
「楽しくなかった訳ないでしょう? 好きな人と一緒に活動出来たんだもの」
「……そう、よかったわ」
蓮子の唇がゆっくりと動いて、そんな言葉を紡ぎだした。
私は彼女の唇に私のそれを近づけた。
見えない彼女は気付かない。
あと一センチメートル―――
「私にも、境界が―――見えたわ」
愛しい貴女に、軽い口づけを。
それらは、優しく触れ合って―――
抱きしめていた熱が、気配が。
話し相手が、秘封倶楽部が、夢が現が存在が愛が―――
世界で一番大切な、友達が。
―――消えた。
さようなら?
さようなら。
どこへいくの?
どこかへ行くの。
どうして?
どうしても。
それが―――
―――幻想なのだから。
―――かしゃり、と。
ネックレスが落ちる音だけが、耳に届いた。
終章 貴女の消えたその先に ~If the logos permits.
最初から、そうだった。
生まれたときから、そうだった。
ずっと、それをお願いしていたのだ。
神様に……。
どうか、私を消して下さい。
どうか、すべてを消して下さい。
私の姿も、私の心も、すべてを、消して下さい。
お父様も、お母様も、私の愛するものすべてを。
神様。
お願いします。
どうか、消して下さい。
(森博嗣著 「四季 冬 Black Winter」より)
***
―――そうして、私はしばらく泣いていたような気がする。
結局、言うとおりに蓮子は消えてしまい、私は墓場に一人取り残され、この残酷すぎる現実を受け入れようと足掻いているだけだった。
宇佐見蓮子は消えた。私の周りの境界のせいで、消えたのだ。それは、原因が私にあるということを意味している。
……私が、消したのね?
頬を伝った塩水は、音を立てずに石の上に落ち、それを湿らせた。
涙で前が見えないはずなのに、私にはとある境界がはっきりと見えてしまっている。何故だろう……そんなことをいつものように考えられるほど、私は冷静ではなかった。考え事を打ち明ける相手ももう、いないのだから。
今まで見えていた小さなスキマたちは、もう見えない。その代わりにあったのは、あまりに巨大すぎて、あまりにわかりやす過ぎる境界だった。
―――幻想郷への入り口。
蓮子の話が本当ならば、幻想郷と私たちが呼んだものは、まだ存在していない。私がいつも覗いている世界は、ただのパーツに過ぎなかったのだ。組み合わさることで、世界が創られる。まだそれは郷ではなく、幻想―――
では、誰が創るのか―――?
目の前に広がる境界は、入り口にして、人妖の境界……。
失われたものが萃まる世界。
消え去ったものの安息の地。
忘れられた者たちの桃源郷。
ならば、蓮子もそこへと辿り着くだろう。
幻想になる準備を整えて―――そう、ずれた時間を過ぎた後に。
話は戻る。
では、誰が創るのか―――?
答えは自明。
―――そう、私だ。
そうして、マエリベリー・ハーンは人妖の境界を踏み越える。
視界の暗転、
意識の拡散、
そうして私は。
幻想に、溶けていく―――
***
―――今は、春。
「紫様、起きてください」
自分の式が声をかけてくる。私は首だけをその九尾の狐の方へと向けた。
……式、か。
どうやら、無事に幻想郷は〝始まった〟らしい。
「もうひと眠りしようかしら」
―――少し、疲れたもの。
しかし、式は許してくれなかった。
「私が、負けたんですよ。博麗の巫女たちが紫様を目的としてやってきています」
「あら……そうなの……」
まさかこの式が負けるとは。彼女は最強の妖獣だというのに……。
そこまで考えて、その考えがすでに『こっち』のものだと気づいて驚いた。記憶の存在もきちんと作られている。さすがは……、さすがは、蓮子。
一瞬彼女の名前を思い出せなくなった自分の頬を叩き、私はゆっくりと立ち上がった。
「紫様……?」
「大丈夫よ。それじゃ、行ってくるわね」
「あ、お供いたします」
「結構よ。使うときに呼ぶから」
何か言おうとする狐を無視して私は空間に境界線を引く。
これが、私の能力。
見るのではなく、操る。
万物の存在をことごとく覆すことのできる、忌々しき境界。
そのスキマの先には、白玉楼があった。
「―――そろそろ、本命が出てきてもいい頃だわ」
一瞬、どきりとした。
その声は、私の知る彼女に、良く似ていたから。
彼女らのスキマを覗けば、他にも彼女の面影が存在していることを確認できる。
巫女の声や、態度が。
魔女の、行動力と心が。
メイドの、その時間が。
「なるほど、今は我慢しろと、そういうことね……」
小さく自嘲気味に呟き、首を振る。
彼女はいない。あの三人は、彼女ではない。
でも私は、生きている。
生きていける。
すぅ、と大きく息を吸って、私は言葉を紡ぎだす。
「―――出てきましょうか?」
姿を現す。
境界を裂き、その中から、妖しげな妖怪として。
私は胡散臭い笑みを顔に張り付け、境界線に腰かけた。
三人がおもむろにそれぞれの武器を取り出し、構える。
私がすることは一つだけ―――
巫女が、話しかけてくる。
とりとめもない話題だ。
境界とか、幽々子とか、本当は、まだ会ったこともない人たちの話。
それでも、ねぇ、蓮子―――
貴女の消えたその先に、私はもう立っているのよ?
早く、追いついてきて頂戴。
私は、巫女に告げる。
高らかに、
誇らしげに、
―――自嘲気味に。
「一つや二つ……。結界は、そんなに少ないと思って?」
―――彼女を呑みこんだ、スキマたちは。
―――ねぇ、蓮子……楽しかった?
虚空に呟き、弾幕の雨の中に私はこの身を躍らせた。
せめて、この身が散るまで、踊り続けよう。
私の願いは、一つだけ。
貴女の消えたその先が、どうか、美しき桜の園でありますように―――
終
彼女が消えてからメリーが境界を越える場面などゾクゾクとする面白いお話でした。
幻想郷が滅亡するかと思ったけど、そんなことは全然なかった
なんかRateがすごいことに。
二桁になってらっしゃる……。
コメントありがとうございます。
>>煉獄さん
ひゃ、100点……!
なんかこっちがぞくぞくしてきましたw
ありがとうございます。
>>5さん
滅亡……ではなく。
創る話。解釈云々は私の大好きなことでして。
妄想が爆走した結果でございますw
>>7さん
再びの100点……だと……?
うまい、と言っていただけるだけで私は感激です。調子に乗りたいと思います(何
他の話では皆さんが痛い(けれどとてもありがたい)指摘をして下さるので、今見た限り褒められまくりで幸せですwww
どちらにせよやる気が出ます。
褒められれば、もっと楽しんでもらおう、指摘をいただければ、次は楽しんでもらおう、ていう感じで。
ではまたどこかで会えたらいいな。
若干、「幻想論理 上」の描写法や展開の早さが変わっていてバランスが悪く感じられました。これもまた一長一短があって悩ましいですが(w)、当作品では違和感しか感じられませんでした。
100点を付けたい気持ちに駆られましたが、まだまだ上が見られそうなので期待を込めてこの点数で。
「未来百鬼夜行」「幽冥境夜行」「ハネムーン・デイズ」に勝るとも劣らない大作です。
……胸が満たされるような空っぽになるような不思議な感覚だ。
二人のやりとり、台詞と周辺の描写がとてもていねいで、人物の違いも際立って、気持ちのいい印象でした。それが失われた日常であるという読後感が今は切なく、だから二人のために願ってしまうのであります。
いい物語を、ありがとうございました。
作中で語られる不老不死が暗示するものは、誕生と死の間にある有限な、でも豊かなこの現在の否定だろうと。
永遠な幻想の大地になった蓮子と幻想の管理人になったメリーという、ハッピーエンドとかデッドエンドとかそんな枠にはまらない終わり方も好きです。
それでも感謝と賛辞は言いたいので言わせてもらいましょう
このたびは大変すばらしい作品を産み落としていただきました事ここに厚く御礼申し上げます
転々と変わる場面にしても、不思議と違和感を感じない
次回作を楽しみにしております
>>ashjさん
こんなに長いの書いたのは初めてなので、これを書いている途中にも成長していったのかも知れないですね。してたらいいですね。
実は、章ごとに順を追って書いたわけではなく、バラバラに書いていったのでそういうことになったのかもですが。
それでも、評価して下さってありがとうございます。
>>19さん
ここに新たな伝説が刻まれた! のなら良いですねぇ。
その三作も読んできたいのですが……時間……!
不思議な感覚をこれからもお送りしたいです。頑張ります。
>>20さん
細やかな感想をありがとうございます。
べた褒め。テンションが上がる。やばいです。
胸にきました、とか言われるとこっちの胸にきます。喜びの涙を流してきます。
>>21さん
最強の感想文です。眩暈がしました。
なんだろう、コメント返しって上手く出来ないです……。
>>22さん
これ以上感想貰ったら死んじゃいますってばw
>>23さん
このたびは大変嬉し過ぎる感想をここに書いて頂きここに厚く御礼申し上げますってば。
やばい涙出てきた。
>>24さん
違和感……。感じなかったか! 助かったぁ!
次回作はいろいろ出ております。という宣伝をしてみるてすと
あぁ、やる気出た。コメントって嬉しいですね。
皆さん、ありがとうございました。
なんだろうな、2人の間に流れる空気が素敵でした。
まるで原作の補完設定を見ているかのようでした。
新鮮な解釈が非常に面白かった作品でした。
自分の中の漠然とした仮説が、こうも道筋立って完成していようとは・・・