Coolier - 新生・東方創想話

幻想論理 上

2009/09/22 22:42:46
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やたらと長いかもしれません。

それでも良いという方は是非読んでいってください。



作るときに章ごとに分けて作ったのでそれはそのままにしてあります。一部の英語部分を読むと(読まなくても内容を見れば)どういう書き方をしているかが分かるのではないでしょうか。



以下本編



























幻想論理 ~Logical Phantasm











序章 誰が為に列車は走る? ~Till death do us part.





 「どこにいるの?」

  誰も答えない。

  僕は、ずっと深いところで、最後の声を聞いていた。

 「基志雄? 出てきて」

  四季、さようなら。

  僕は、もう行くよ。

  もう、帰るよ。

 「私を置いていかないで!」



(森博嗣著 「四季 春 Green Spring」より)





     ***



 闇夜の中を、その列車は走っていた。今の時代には珍しく、前時代的で効率の悪い構造をした電車。そんな電車しか、私たち、秘封倶楽部の目的地に向かうものはこの現代に存在していなかった。



「今何時? 蓮子」



 尋ねると、彼女は緩慢な動きで窓の外を見た。雲一つない闇空。時間を見るのにふさわしい天気。そして―――



「二時五分よ、メリー。 不思議ね、この電車はこんな時間になんで走っているのかしら?」



 ―――終わりの時にふさわしい、天気。



 春の風が窓から吹き込み、二人の髪を揺らす。ただそれだけの出来事に嫌なものを感じてしまい、私はすぐに思考を中断した。感傷的になっているのか。



「さぁ? 私たちが蓮台野に行きたいって思ったからじゃないの?」



 思考の代わりに蓮子の意味のない質問に答え、彼女に笑顔を向けた。………今の私は本当に笑えているだろうか?

 しかし、蓮子は黙って窓の外を見続けている。

 私の方を、見ない。

 見ないままに、蓮子は小さく呟いた。



「蓮台野に行きたいって言ったのは私よ。私たちじゃないわ」



 それきり、沈黙が私たちの間に流れた。何を言っても無駄、否、何も言う必要がないだけだろうか。

 先ほどまでは時々見えていた民家も、すでに風景からは消え失せ、ただ閑散とした野原が広がっている。同時に境界の量も増えてきた。

 淡々と、ただ当たり前のように増えていくそれらを眺めながら私は考える。願いでもあるその思考は、前に座る蓮子に答えを求めていた。



 ……なぜ蓮台野に行きたいの?

 ……これからどうなるの?

 ……蓮子は、どうしたいの?



「ねえ、教えてよ、蓮子……」

 思わず声に出た言葉に、蓮子はただ優しく、

「全部教えるから。着いたらね」

 それだけ答えて、目を閉じた。



 ―――私だって。



 私だって、この先の結末が予想できないわけではない。少なくとも蓮子の次には分かっているつもりだ。何故なら彼女は秘封倶楽部で、私もまた秘封倶楽部だから。二人で一つの不良サークル。どちらも必要で、どちらも大切。最近狂ってしまっていたのが誰で、蓮子の行動がそれに起因していることも、わかっている。

 そう、わかっているだけ。肝心のところまでは「知らない」のだ。知っているとすればそれは一つ。蓮子がそれを知っているということだけ。

 私が「知らない」理由もただ一つ。蓮子が教えてくれなかったから、あるいは私に故意に隠したから。





 列車は走る。死の園へと向かって。





 ふいに、一枚の花弁が窓から入ってきた。ふわふわと当てもなく漂うそれを私は手で掴んだ。



「桜だ……。ねぇ蓮子、桜よ」

「ん……?」

 ゆっくりと目を開けて、彼女は私の手の中を見た。

「あぁ……、春ね」



 そういう蓮子の口元が小さく綻んだのを見て、私も自然と笑顔になる。たぶん今度はうまく笑えたはずだ。



「春といったら、あれよ、メリー」

「何?」

「花見よ、花見。日本の伝統行事ね」

「………………」

「春だから、花見、したいわね」

「……花見、ね」

「桜は綺麗よ、ほんとに。私くらい」

「じゃあ期待ができるわね」

「でしょ? じゃあ近々行きましょうか」

「……そうね」



 私は分かっていた。

 蓮子は知っていた。

 その約束が果たされることは、ないだろう。





 列車は走る。終わりへと向かって。





「もう着くわよ、メリー」



 列車のスピードは段々と落ちていって、やがて止まるだろう。止まったあと、私たちが背を向けたらこの列車は存在しているだろうか?

 ほかの車両に誰かが乗っていたなら、答えはイエスだ。

 乗っていなかったら、答えはノーとなる。この列車は幻想の錆になり、消える。



 私には見えていた。

 二人の周りを囲むように存在する、無数の『幻想』たちが。

 それは境界であり、スキマであって、やはり幻想に違いないものだった。

 それらは嬉しそうにその口を開き、

 『その時』を待つ。





 列車は止まる。小さな駅で。





「着いたわ。メリー、行くわよ」

「えぇ」



 立ち上がりながら私は携帯電話を取り出して、時刻を確認した。

 『十一時三十分』

 さっきの蓮子の発言を思い出して、そういうことね、と呟く。

 他の車両から降りていく人が見えた。この列車は終電だろうか。この近所にも家はあるらしい。もちろん降りたすぐそこに蓮台野があるわけでもなく、ただ暗い道が延びていた。



「ねぇ蓮子、今何時?」

「んー?」

 蓮子は空を見上げてから、「気づいた?」というような含み笑いをしながら私に告げた。



「五時二五分よ」





 ―――狂っていたのは、宇佐見 蓮子だった。





 そして二人は歩きだす。

 蓮台野へと、死の園へと、墓場へと。

 境界へと、終わりへと、幻想へと。









 ―――その約束が果たされることは、ない。







 少なくとも、二人が生きた、この世界では。

























































第一章 死の園における非日常 ~Ghostly Field Club.





  結局のところ、精神が躰を支配しているようで、実は、精神は躰に隷属しているのだ。瀬在丸紅子が行き着いた袋小路がこれなのだ。彼女は新しい生命のために、自分を折った。その歪みが、彼女をあそこまで鈍らせ、また、彼女をあそこまで生きさせたのだろう。

  自分は、そうはいかない。

  この程度のことは小事。

  身体の不調は、まったく取るに足らない。

  躰だけのことだ。

  死んでしまえばいいのだ。

  それだけのこと。

  電源が落ちた計算機のように、一瞬で揮発すれば良い。

  それが理想ではないか。



(森博嗣著 「四季 夏 Red Summer」より)





     ***



 ―――幻想の世界。



私の友人が視ることのできる境界線のその先。

 友人、マエリベリー・ハーンは境界を見る能力を持っている。

 私たち凡人がその夢の世界を見る、あるいはその世界に入り込むには夢の中に行くしかない。逆に考えれば、夢の中ならば私のような人間でも境界線の先、すなわち幻想郷に行くことができるのだ。もちろんそれはマエリベリー・ハーンの見ているその世界ではなく、私たちが夢の中で作り上げた妄想に過ぎないのだけれど。



 そして、今私は夢の中で幻想に立っている。



 どこまでも広がる野原に、清らな川の流れ、遠くの湖の上には真っ赤なお屋敷が存在している。山があり天狗が飛び交い、神社があり巫女がお茶を飲み、森があり魔女が研究をしている。



 ただの、夢。



 小さい頃には多くの人が、何度も見たであろうその世界が『幻想』と呼ばれてしまうというのは私にとって、否、世界中の人間にとっても悲しいことではないだろうか?



 いつだって子供は夢物語が大好きだ。母親の話す物語に真摯に耳を傾ける。

 何故か? その夢を現実に変えようというとてつもなく大きな希望が湧くからだ。そんな世界に行きたい、そんなことができたらいいなぁ、と思い、未来を描いて生きていける。

 しかし大きくなればなるほどその感情は薄れていく。

 何故か? 知識を身に付けるからだ。学校に通うなり、塾に通うなりして知識を得ることによって、その夢が現実にはあり得ないことを知ってしまう。進級し、卒業して会社に就職していくうちに、ついにはそんな夢は忘れてしまうだろう。



 では、今や大学生となった私がこんな夢を見ているのは何故だろうか。確かに昔に比べれば忙しくなったし、専攻している超統一物理学のレポートなんかを書いているような時期には夢など見ている暇がなくなる。



 それでも私が夢を見ていられる理由。それはやはり、彼女の存在だろう。メリーことマエリベリー・ハーン。私と違って直接幻想につながっていられる人物。それがあるからこそ精神に安らぎが与えられる。幻想に思考を預けられる。



「……あれは……?」



 ふいに視線の先に現れたそれを見て、私の口から声がこぼれた。

 空間に浮かんだ、線。



「何かしら?」



 いや、私にはわかる。見たことはないけれど、感じたことならばあるから。

 現に今も……。

 そう、これは境界線―――

 私はそれに飲み込まれて―――



「……こ」



 幻想の境界は一体何の象徴か?

 何の具現か?



「……れ…こ……?」



 夢の中なら、誰にだって見られる。

 夢ならば。



「起きなさい! 宇佐見 蓮子!」



 そして私は目を覚ました。





     ***



「起きなさい! 宇佐見 蓮子!」

「はいっ!?」



 意識が覚醒すると同時に、私――宇佐見 蓮子は布団を跳ね飛ばしながら起き上がった。同時に何か大きな違和感を覚える。

 目を開ければ、目の前には鬼のような顔をして笑うメリーの顔が。長く延びた金色の髪に、いつもの紫色のワンピース。右手には大学に行く時用の小さなバッグに、視線を下げればテーブルの上に食べ終わった朝食。私の分は無いようだ。



「……あれ?」

「あれ、じゃないわよもう! いつもみたいに蓮子が起こしてくれないから遅刻の時間! お天道様が空高く昇っているわ!」



 ああそうか。違和感――つまり私が寝坊するという事実。私は約束の時間には遅れるが、寝坊をしたことは一度もない。しっかり起きるし、約束の時間を忘れたことはないのに、本を読んでいるとなぜか知らないが遅れてしまうのだ。なぜ今日は寝坊してしまったのだろう……。



「お天道様が空高く昇ってしまったら講義は終了。明日のことを考えましょう」

 私は軽く流して布団から這い出た。ご飯を食べなければ体が動かない。

「そうね……ってこら」

 ゴツッと鈍い音がして彼女の拳骨が私の頭にクリーンヒットする。正直、とても痛い。

「何よ!?」

「何よじゃないってば! 相対性精神学ならまだ間に合うのよ! さっさと着替えて頂戴、私が手伝うから」

「ちょっと、それじゃ効率が悪いわ……ってこら!」



 メリーの手が私の寝巻に伸びたかと思うと、私の抵抗も空しく、数える間もなく私は半裸にさせられていた。どこでこんなテクニックを学んだのか。

「……メリーのえっち」

「可愛くないからやめなさい。さっさと着て。蓮子は朝食抜きで行くわよ!」

「私の講義の方は終わっちゃったのに。なんでメリーの講義のために……」

「ぶつくさ言わない! 私のためだと思ってやればどうってことないでしょ?」

「うう……、しょうがないなぁ」



 そして分かる二つ目の違和感。それはいつもと立場が逆であること。先頭に立って相方を引っ張るのはいつも私だったのに、何故だろう? まぁ、単に私が寝坊したことが原因なのははっきりしているのだが。

 メリーもこの変な違和感にはには気づいているだろう。



「……蓮子」

「……なに?」



 ハンガーに掛けてあった服を着て、私は振り返った。



「……大丈夫? ちょっとおかしいわよ」



 先ほどとは違う、真面目な表情。口には出さない異常が感じられるのだろう。

 こんな些細なことで彼女が私を心配するのにはもちろん理由があるだろう。確かに先月からずっと私はレポートに追われていたし、いつもは朝ごはんを早く起きて二人分作ったりして、忙しい毎日を送っていたのは事実だ。しかしこれらは私が好きでやっていることだし、そんなことでメリーに心配をかけたいとは思っていない。

私は小さくため息をついて、彼女に笑顔を向ける。



「大丈夫よ。私を誰だと思っているの? 秘封倶楽部の、宇佐見蓮子よ?」

 そうすれば、またメリーも笑顔になって、

「世界で一番能天気な人物ね、安心したわ」

 そう、それで私は十分だった。

 散乱した部屋を見回し、窓の外の紅葉を一瞥、そして最後にお気に入りのハットをかぶれば、秘封倶楽部の宇佐見蓮子は準備オーケー。



「仕方ないわね、行きましょうか」

「……仕方ないのはこっちよ、蓮子」



 ドアを開ける。すっかり秋めいた風が全身をくすぐる。

 すでに高く昇った太陽を見上げながら、私たちは歩きだした。





「メリー、蓮台野にある入り口を見に行かない?」



 とあるファミレスで夕食をとりながら、私はメリーにそう切り出した。

 どうにか講義の方に間に合ったメリーは、目の前にあるマルガリータを頬張りながら「うん?」と間抜けな返事をした。私は食欲がないので紅茶だけで済ませることにしたので、目の前にはカップ以外何もない。



 入り口、というのはもちろん境界の事だ。メリーにしか見えないが、その境界もとい結界を暴くのが私たちのサークル、秘封倶楽部の主な活動内容だ。

 境界を見ることのできる変な眼をもつメリーと、境界探しには役に立たないけれど特殊な眼をもつ私で結成されるたった二人だけのサークル。いわゆるオカルトサークルだが、実際の体験が伴うのだから霊能実験ばかりしているより他のオカルトサークルよりも毎日が充実している、と思う。結界を暴くことは禁止されてはいるので他人には話していないせいか、巷ではまともな活動をしたことがない不良サークルとか言われているそうだが、特に気にせず、そして遠慮なく私たちの活動は続いている。



「だから、入り口」

「……うん。蓮台野の入り口って、何よ?」

 メリーが不思議そうな顔をして尋ねてくる。唐突過ぎたのか、理解していないようだ。

「まぁ、まずはこれを見て頂戴」

 そういって私は一枚の写真をメリーに差し出した。古い寺院の写った写真である。果てしなく広い石庭に、これまた果てしなく長い階段。そして多くの木―――見る限りではおそらく桜だ―――が並んでいて、その先に寺院が、少し遠くにはひときわ大きな桜の木があった。



「これが冥界よ」

 そう、冥界。死者が行く世界のことだ。幽霊が行きかい、転生を待つ場所。その管理のための建物であるというらしいこの寺院の写真。

「ちょ、ちょっと待って、蓮子」

 私の言葉を遮り、メリーが怪訝な様子で訊いた。

「なんで冥界の写真なんか貴女が持ってるのよ」

 疑問に思うのはもちろんわかる。わかるし、信じられない、と言われても「そうだよね、信じられないよね」と言うしかないだろう。けれど、これについては私が彼女に説明することはおそらく、ない。私の小さな犯罪が露見することになるからだ。



 先日、私がいつものようにメリーを起こしたとき、寝相の悪い彼女の手から一つの手帳が滑り落ちた。そして、こっそりとその手帳の中身を見た私は驚愕した。そこには幻想郷という単語とともにその世界の様々な史跡についての情報が載っていた……ように見えたからだ。というのも、内容は活字ではなく筆で書かれたもので、それがとてつもなく下手なものだから、私にはほとんど読めなかったのだ。



 その中で辛うじて読めた情報の一つが、『冥界への取材』という文字と、この写真だ。新聞記事のような書き方で綴られたその情報は、冥界とこの寺院についてが、その下に詳細らしきことがたくさん書いてあったが、例によって読めはしなかった。



 その日の朝、メリーに夢の話を訊くと、天狗が取材に来たなどと訳の分からないことを言っていたので、この手帳は取材をする世にも珍しい天狗の持ち物なのだろうと推測できた。



 結局、タイミングを逸してしまったために、メリーにはこの話をしていない。



「ま、私には裏表ルートがあるのよ。メリー」

 私はそう適当に流してメリーの様子をうかがった。……いつもよりも変な顔をしているように見えるが。



「今何か失礼なこと考えなかった?」

「いや、どうせ死体相手の念写かなんかだろうなんて考えていないわよ」

「あらそう」

 メリーが失礼なことを考えていたということはよく分かった。

私は目の前でほわほわと湯気を立てている紅茶を一口啜り、先を続けた。

「で、問題はこっちの写真。山門の奥を見て?」

 私は写真の内の一枚、門が大きく写っている写真を指し示した。

「んー?」

「ほら、門の向こう側。明らかに現世でしょ?」

 夜の平野に、一つの墓石。蓮台野の風景が、幻想の写真に写っているのだ。つまり、ここに境界線が存在する。

「へぇ……」

 相変わらず怪訝そうな顔をしているメリー。事の次第は理解したはずだから、おおかた山門という字の間違いについて指摘でもしようとしているのだろう。



「で、蓮子」

「そうね、明後日くらいに行かない?」

「そうじゃなくて、何で、ここが蓮台野だって分かったの?」

「それは簡単な話よ。ここに月と星が写っているのが見えるじゃない」

 ―――私の眼は、月と星に時空を見る。星の光を見れば今の時間がわかるし、月を見れば今いる場所がわかる。メリーはいつも私の眼を気持ち悪いというけれど、私としては境界を見てしまうメリーの方がよっぽど気持ち悪い。何故なら私は『月と星』という誰でも見ることのできるものから情報を得ているけれど、メリーは『境界』という誰も見ることのできないものが見えてしまうから。そして、だからこそ私は彼女の眼が羨ましい。



 メリーは「なるほど」といって再びマルガリータを頬張った。そしてそのまま、



「へんほ、ひはんははほ」

「……ごめんメリー、私に教養がないばっかりに理解できないわ」

「…………コホン。それは言わない約束でしょ?」

「否定してよ、失礼な」



 私はそう言って再び紅茶を飲もうとしたが、残念なことにカップの中身はすでに空だった。仄かな香りだけが残っている。



「蓮子、彼岸花よ」

「なに、それ。さっきの言葉?」

「そう。蓮台野で彼岸花が一番多く生えているお墓が入口よ」

「……そういえばお彼岸ね」



 なぜ彼岸花なのか分からなかったけれど、まぁメリーが言うのであれば間違いはないだろう。冥界だから死にまつわる花の名前でも言ったのか。だが、今の時期は本当に多くの彼岸花が咲いているだろうから、どこがその墓か見当がつけられるかどうか……。

 そう思いながら彼女を見たけれど、メリーの思考はすでにマルガリータへ。

「…………」

 いいから早く食べ終わってほしい。

 今日は疲れたから早く帰りたいというのに。





 会計を済ませて外へ出ると、すでに月が昇り、秋の涼しい風が吹いていた。紅葉はまだのようだけれど、季節の狂いも少なく、昼はまだ暑いが、夜になればこの通りである。



「夏は夜、って言うけど、夜は秋にこそふさわしいわね」



 私は空を見上げて囁いた。現在時刻は八時二十九分。この川のほとりを歩く者は私たちくらいしかいない。皆が歩くのは川のほとりではなく、繁華街だ。もう長年整備をされていないこの道路は、もはや忘れられているのだろう。



「いや、それはないわ、蓮子。夏は夜がないと暑いままだから。夜が冷やしてくれるからどうにかやっていけるのよ」

「今年は夜も暑かったけどなぁ……」

「枕草子の時代は夜は涼しかったんだわ、きっと」

「そういうものかしら?」

「そういうものよ。夏が暑いのは夜が短いからってこと」

「それは違う……いや、それもあるのかな」



 私は帽子をかぶりなおし、右手に持ったバッグをメリーに差し出した。



「……何?」

「いつまでも私に持たせない」



 このバッグは、メリーの物だ。私がいつかプレゼントしたものだが、彼女はしょっちゅう私を荷物持ち代わりに利用している。故意なのか分からないが、いつまでも持たせるのは勘弁してもらいたい。



「いいじゃない、貴女は講義に出てないけど、私は講義に出た。つまり疲れているのは私だから、蓮子は荷物を持ってくれる。間違ってないでしょ?」



 私は盛大に、全身の二酸化炭素がすべて排出される程に溜息を吐いた。

「間違いも間違い、大間違いよ、メリー。講義に出ていなくても私が疲れている、というパターンを全く視野に入れていないじゃないの」

「そうなの?」                                 「全身疲労よ。叩き起こされて朝食抜きで大学まで引っ張られて、教授に『君、今日は遅刻しなかったけれど、透明人間にでもなったのかい』とか言われてその後延々と女房自慢を聞かされながらメリーと会う時間を待ってて気づいたら約束の時間を過ぎてて走って待ち合わせ場所に行ったりしてたら、そりゃ疲れるわよ」

「前半はともかく、後半は蓮子が悪いわ……」

「つまり、私は疲れてるの。バッグくらいいいでしょ?」

「いいけど……。そんなに疲れた疲れた言ってると、老けるわよ?」

 ……何故かものすごくメリーを突き飛ばしたい衝動に駆られてしまった。ここで突き飛ばすとメリーは重力に勝てずに川へ落ちるだろう。その際に私は高確率で道連れにされるだろうが、まぁそれもいいかと思う。



「メリー、突き落としていい?」

「普通『突き飛ばして』じゃないの!? 悪意があるわ!」

「どっちもどっちでしょ……」



 メリーの抗議のしかたに小さく突っ込みを入れながら、あたり一面に吸い込まれる声を感じ、私はふと思う。



 ―――この川はもう幻想になったのだろうか……?



 忘れ去られたものは、幻想となり、メリーにしか見ることのできない世界へと変わっていく。私たちの声しか聞こえないこの空間は、忘れ去られる直前なのではないか?



「……いや、違う、か」



 今では人が誰も立ち入らない場所なんて、いくらでもある。山の奥地にせよ、砂漠の果てにせよ、もう人が立ち入らなくなってから永い時間がたっている。記憶するものは、なにも人間だけではない。そこに生きるもの、否、生きていなくても歴史を覚えているものはとても多いだろう。おそらく、それが世界なのだ。

 しかし、そうだとしたら―――。



「なに独り言いってるの、蓮子? 気持ち悪いわよ」

「え、私喋ってた?」

「聞こえなかったけどね。……着いたわよ、ろくに掃除をしていない部屋に」

「あぁ、そう。じゃあ入りましょうか?」

「言われなくても、蓮子を置いて入ってるわよ」



 ―――そうだとしたら、幻想郷とはなんて悲しいところなのだろう。





     ***



「蓮台野なんて久しぶりだわ」

「蓮子は来たことがあるのかしら?」

「来たことがなかったら久しぶりなんて言わないわね」

「それもそうね」



 蓮台野結界捜索の当日。

 とりあえず、時計を持っていない私は、空を見上げて時刻と場所を確認した。



「午前二時十五分二十三秒。場所は蓮台野よ、メリー」

「時刻はともかく、場所は知ってるわよ。……それで、なんで来たことがあるの?」

「いや、先祖が埋まってるから」

「あぁ……そういえば、蓮台野って墓地だったわね」



 広がる闇に、ずらりと並ぶ墓石。ここは人間にも忘れられていないらしく、所々に手入れされた墓石があった。



私たちがこんなに夜遅くに出かけたのは、人気のない夜が最適、というメリーの案が採用されたからだ。均衡を崩す可能性があるため禁止されているから、秘封倶楽部は目だった活動をしないようにしている。さらにいうならば、私もメリーも夜が好き、という超個人的意見も作用しているのだが。



「で、蓮子。どれがそのお墓?」

 メリーが金髪を掻きあげながらのんきに訊いてきた。

「彼岸花でしょ。貴女が最初に言ったんじゃないの」

……とは、言っても。



「まぁ、わからないよね……」



 この暗さの上に、これだけの量の墓石だ。彼岸花は確かにあるが、量を比べるというのはいささか無理がある。

 見ればメリーも半ば諦めの表情に変わっていた。私もさすがにこの事態は予想していなかったが……。



「ねぇメリー、何か見えないの?」



 私はメリーに尋ねてみた。境界が歪んでいる所なら丁度よい目印になるからだ。境界ならば、暗さは関係なく見えるだろう。



 しかしメリーは首を横に振った。

「何にも。おかしいわね……」

「とりあえず、歩き回ってみましょ?」

「墓地を!? 蓮子、正気?」

「まさか境界視える人がお化け怖いとか言わないでしょうね」

「まさか!」



 メリーの叫びは無情にも蓮台野の闇に吸い込まれて、消えた。どうやらそのまさか、らしいが私は全然気にしないのでそのまま進むことにする。

 普段から境界なり幽霊なりが見える人間がお化けが怖いとはなかなか滑稽だ。メリーに限ってそんなことはないと思っていたが、これはある種の甘えなのだろうか?



 死者が眠る場所には少なからず境界が存在しているはずだ。冥界へとつながる必要があるからだ。しかも写真でも分かるほどはっきりとつながっている蓮台野ならばなおさらである。



 なのにメリーに見えないというのは……。メリーの眼に異常があるのだろうか?



「すごい苗字の死人たちだわ、蓮子」

「もうすっかり元気じゃない。……苗字?」

 メリーは一つの墓を指差した。

「ほら、宇佐見だって」

「だから先祖だってば」

 私は呆れてため息を吐く。

 ……まぁ、確かに変わった名前が多いわね……。

 メリーは興味津々らしく、次々と名前を読み上げていった。

 変わった名前が耳に入っては抜けていき、



「これは……こん……こんぱく、かしら。こっちは、西行寺……?」



 ―――ぞわり、と悪寒が全身を駆け巡る。



 彼岸花が咲き乱れているその墓は、他とは明らかに何かが違う。その先には、確実に〝死〟が待っているであろう境界が、見えないけれど、存在している―――



「蓮子、どうしたの?」



 空間が、歪んでいる。それが流れていく感覚―――すぐに私は立っていられなくなった。そのまま地に膝をつく。顔をあげてメリーを見ることができないほどに、身体に力が入らなかった。同時に襲い来るのは、一種の吐き気。けれど―――



「ちょっと、蓮子?」

「……これだ、メリー」



 私はそう直感で判断した。なぜメリーには分からないのか知らないけれど、この異常の感覚は、私でも分かってしまうほどに―――入り口だった。



「……本当にこれなの? 確かにそんな感じもするけど……。なんで蓮子がしゃがみ込んじゃったのかしら?」

「……力が入らないのよ。何かやってみてよ」

「何かって……」



 メリーは不満げな声を上げつつも、墓石を弄ってみたり、卒塔婆を抜いてみたりといろいろな悪行を繰り返してくれたが、効果はない。



「何も起きないわよ」

「……二時二十七分四十一秒」



 そんな光景を見ながら、私は時間を計り始めた。オカルトにおいて重要な位置を占めている、時刻。私は求めている時間までのカウントダウンを始める。



「気持ち悪いからやめて頂戴。……結局墓荒しの真似をしているのは私だけじゃない。蓮子も手伝ってよ。墓石は重いんだから」



 私はメリーの言葉を無視して、空の星を見上げ続けた。今夜の星は、月は……いつもより強い力を持っている。相変わらずそれらが私に伝える時刻はいたって正確で、一時の狂いもないと分かる。



 しかし、いつもなら感じない疑問がふと、頭の中に浮かんでしまうのだ。本当に正確な時刻なのだろうか、と。こう思わせるのは、星の魔力か、月の魔力か。あるいはまた別のものか―――



 メリーは墓石を回す。その行為が何かを意味するとは思えない。彼女もそれは理解している上でやっているのだろうから、私が手伝う理由はない。

 私はゆっくりと立ち上がる。



 ―――そして、時刻は『相応しい』時を迎えた。



「二時三十分ジャスト!」



 私は叫んだ。

 それはメリーが墓石を四分の一回転させた時。

 それは星と月が一層強い光を放った時。

 それは私の身体が再び悪寒に襲われた時。



 秋だと言うのに、目の前に一面桜の世界が広がった。





     ***



  さーくーらー……さーくーらー……



「桜、だわ」

「今は秋ね、メリー」



 あまりに見事な桜の木が、私たちの目の前には存在していた。

 たった一本の木なのに、これほどまでに大きく―――



「境界だらけだわ。ねぇ蓮子……、蝶が」

「―――蝶……?」



 私には、桜しか見えない。境界も、蝶も、みんな結界の先。

 半分だけ、凡人の私が踏み入れてしまったこの世界で、まだ先が存在している。まだ見えないものがある。私はここでも凡人のままであった。



「きれいな蝶だわ……」



 メリーが虚空に手を伸ばす。

私にはその眼が羨ましくてたまらない。

夢に触れること。

 それが出来たらどんなに幸せだろう?



「その蝶に触れてはいけないわ、お嬢さん方?」



 ―――背後から、声がした。



 メリーと私は振り返り、その声の主を見る。

 そこに居たのは蒼い着物を着た、女性。そしてその背後に初老の剣士が一人。女性は柔らかな笑みを浮かべながら私たちの方を見ていた。

 その、艶やかで、かつ妖しい姿は私に『死』という言葉を連想させた。どう見たってそんな姿ではないのにそう感じてしまうのは、ここが夢の中だからか。



「何故ですか? こんなに綺麗なのに」



 メリーは訊いたが、私には何となくわかる。メリーに視えて、私には見えない。それは即ち、幻想を表すから。幻想というものは基本的に危険なものだ。人を内側から変える力を持っているから。

 しかし、女性の答えはもっと直接的なものだった。



「その蝶は死蝶といってね、下手に接触すると簡単に死んでしまうわ。まぁ、ここは既に死の世界だけど、貴女たちはまだ死んでないようだから……」

「貴女は……?」



 私は一言、そう訊いて。

 女性は不敵に笑って、答えた。



「ただのしがない亡霊ですわ。本当はお屋敷にご招待しておもてなしをしたいところなのですけれど……、この世界はまだ存在していないから、私もどんな亡霊なのかはっきり決まっていないのよ」



 …………?

 いったい、彼女は何を言っているのだろうか―――?

 私に考える暇を与えることなく、話は続く。



「だから、ここから帰ってもらわなくちゃならないの」



 そう言う亡霊はただ笑うばかりで。



「博麗の者が到着したようです、幽々子様」

 初老の剣士が女性に囁く。彼女は小さく頷いて、

「そういうわけで、お二方? 今日のところは、お帰りなさい……」



 現れたのは、私にも見える紅白の蝶。

 視界は霞んで、後に残ったのは桜の花びらと、蓮台野の風景だった。

 一瞬の夢は、終わった。



 幽かな歌が、耳に届く。



  さーくーらー……さーくーらー……











     ***





「ストレスからくる症状でしょう。いくつかお薬を出しておきますので、用法に従って服用して下さい」



 目の前に座る医者は、多くの患者に言ってきたであろう言葉を私にも告げ、にこやかな笑みと共に診察室から私を追い出した。



 病院。

 白い壁。

 無機質。



 最近の身体の不調が余りにも不快だった私は、とりあえず病院へとやって来ていた。もちろんメリーには内緒だ。病院へ行くなどと言ったら無駄に心配してくれてしまうに違いない。日本語がおかしい気もするが、彼女はそういう人なのだ。



 手渡された処方箋を見て、私は大きく溜息をついた。眩暈に悪寒に吐き気に頭痛。とりあえずそれらを鎮める薬さえ与えておけばいいというのか、見たことのある錠剤の名前がそこにはずらりと並んでいた。



 ただ、症状が症状だから、医者に従っておくのが良いというのは間違いない。

 これは、確かにストレスなのだろう。

 医者の言うとおり、最近の私は秘封倶楽部に大学にと、張り切り過ぎていた感がある。その疲労が一気に現れて、数多くの症状を引き起こしたのだ。



 しかし、こんなことで挫けてはいけない。

 私は秘封倶楽部の宇佐見蓮子で、メリーの相棒。

 この前の蓮台野へ行ったとき、メリーの眼がうまく働かなかったというのは分かっている。彼女がそんな状況なのに、私がこんなことでどうのこうのと考えている暇はないのだ。



もしかしたらメリーに、何か異常が起きているのかもしれない。



 だとしたら、彼女を守ってやれるのは私しかいない。

 少なくとも、私が知っている範囲では、の話だけれど。



「病院……ね。嫌いだわ」



 無機質な外壁を睨みつける。

 こんな建物に構っている暇はなかった。





 貰った錠剤を一つだけ口に放り込んで、私は病院を後にした。





身体の不調は、何が原因か。

 そういう話ではない。

この感覚は何か、が主題だ。





 ――この、何かが空間を引きずっているような感覚は?





















































第二章 意識と虚空の関連性 ~Changeability of Strange Dream.





 「いいですか。この思考の飛躍、この想像の幅。私が言っていることがわかる? 貴女が縛られているものは、貴女自身の歴史。貴女自身の惨めさなのよ。捨てなさい、そんなものは。もっと自由になれる。貴女にはその能力がある。自由を勝ち取るのです」

 「お願い、出ていって……」

 「もう二度と、貴女の前には現れません」四季の口調は急に優しくなった。「可愛らしい人」彼女は片手を差し伸べ、萌絵の頬に触れようとした。



(森博嗣著 「四季 秋 White Autumn」より)





     ***



「はい、プレゼント」

「…………え?」



 いつものように二人でカフェに入って座ると、突然メリーが小さな箱を手渡してきた。

 彼女が渡す理由なら、心当たりはあるが、それにしても―――



「ど、どうしたのよ、急に」

「だって、秘封倶楽部の誕生日よ? 大切な日には贈り物をするのが常識だわ」

「それは、そうだけど……」



 顔が熱い。恥ずかしさと嬉しさと、再びの恥ずかしさ。箱を見る限り巷で人気のブランド物で、私はバッグの中に入れたクッキーをこの場で出す気になれなかった。価値だのどうのこうのは別に関係ないというのが私のセオリーでもあるのに、実際に現場に立ってみるとどうもそういうわけにはいかないらしい。



「ほら、開けて頂戴。秘封倶楽部の誕生祝いもあるけど、ちょっと貴女に相談事があるから、それの駄賃でもあるのよ」

「相談なんて、いくらでも良いのに……。―――じゃあ、開けるよ?」

「どうぞどうぞ」



 中身は、ネックレスだった。銀の鎖に、凝ったデザインの飾りがついている。メリーには悪いが、私に似合うとは思えないほど、何というか、可愛らしいものだと思う。でも、私はとても気に入った。普段から首にかけるかどうかは―――いや、確実にかけるだろうと確信。似合うとは思えないけれど、嬉し過ぎて頬が緩みそうだ。



「蓮子に似合うと思ったんだけど」

 私の考えとは相反して、メリーはそう言う。

 そうかな、と呟いて私は軽く首を振った。飛び上がって喜びたい気持ちを抑えて、あくまで冷静に。



「これ、どっちかっていうと、その……か、可愛い系ってやつじゃないかしら? 銀色はクールだけど、形はハートだし、ピンクの合成ジュエリーがついてるわ」

「だって、蓮子は可愛いじゃない」

「…………ぶっ!」



 私は紅茶を盛大に吹いた。とっさに下を向いたのでメリーにふりかかる事態は避けたが、机にはとても良い香りが染み付いてしまったようだ。店員には後で謝っておこう。



「…………ぅう、メリーってば、よくそんな恥ずかしいこと……」

 駄目だ。これではメリーの思うつぼ。そうは思うのだけれど、表情を想うように操れずに私は眼を白黒と、顔を真っ赤に染めて俯いてしまう。



「ほら、可愛い」

「――――――っ!」



 仕方がないので、私はバッグに手を突っ込み、中の手作りクッキーを包み事彼女に投げつけてみる。



「な、何? 蓮子」



 間もなくクッキーは二人で食べることになった。





「―――昨日はこんな夢を見たのよ」

「……で、また夢の話なの?」



 私はやれやれと首を振って、夢見る少女のクッキーを奪って頬張った。我ながらよく出来た味だと思う。メリーには内緒だが、三日間料理の本と睨めっこをした甲斐があったというものだ。



「だって、今日は夢の話をする為に貴女を呼んだのよ。夢の話をするのは当然だわ」



 もちろん彼女の能力を考えれば、夢や境界の話を普通に話されても違和感というものはないのだが、



「他人の夢の話ほど、話されて迷惑なものはないわよ……?」



 それが正直なところだ。夢の話は確かに楽しいけれど、私にはどういう状況なのかまったくわからない上に、内容が幻想郷の話ときた。何度私も連れて行け、と言ったことか。それが彼女の意志で出来ないのはもうわかっているけれど、蓮台野の時のようにはならないものだろうか。メリーだけが見える幻想郷ならば、それは本当に妄想にすぎないのだ。



……私がそれを現実に変えようとしているということを、彼女は理解しているのかしら?



 そんな私の気持ちを知ってか知らずか、メリーは手を合わせてさながら神に祈るようなポーズで私に頼んだ。



「お願いよ、蓮子。貴方に夢の話をしてカウンセリングして貰わないと、どれが現の私なのか判らなくなってしまいそうなのよ」



 ……少し飛躍している気がするけど……。



 私は不満そうなオーラを発散させながらも、渋々頷いた。大体、彼女の頼みを断ったことなど私には一度もない。甘い自分に少し反省をする。



 薄暗いランプがメリーの顔を照らす。汚れたように見せかけている壁はさながら一世紀も前のもののようであり、それでも幻想に消えていないモノたちだ。こんなカフェに私たちは居るけれども、幻想郷にはこのような場所があるのだろうか。つまり、幻想と化してはいないものでもそこには存在するのだろうか。



 そんな私の疑問をよそに、メリーは話し始めた。



「―――深い緑の向こうにあった物、それは―――」





     ***



 深い緑の向こうにあった物、それは真っ赤な館だった。他に見えるのは、白く輝く湖と、今通ってきた緑色だけ。そんな絵本の中のような風景が、ただ一言、



「素敵だわ」



 という台詞を私に喋らせた。

 不気味な紅は、何故かこの自然に溶け込んでいる。周辺が緑だとそういう作用があるのだろうか? 色について詳しくない私は今度調べてみようと思った。



 それにしても、この、館というよりは城に近い建物は、そう……どう見ても子供っぽい感じがしてしまう。原色を多用している色彩は子供の落書きのようだし、現在の建築家やそれのデザイナーなどは決して選びそうにないものだった。

 だから、それがあるこの場所はやはり夢の中なのだ。



「あの館に行ってみようかしら……?」



 さして行く当てのない私は小さく一人ごちて、三秒ほど迷うとすぐに足を動かした。





 大きな門。やはり館というよりは城と言うにふさわしい建物だと私は再認識した。

 門のすぐ横で壁に背をもたれて寝ている人がいる。緑の中華風の服を着た女性だ。何故こんなところで寝てしまうのかはわからなかったが、起こしてしまうのも可哀想なので、私は門の扉を開いて中へと歩いて行った。



「綺麗な庭ね……」



 そこは、たくさんの花が咲く庭。知らない花ばかりだが、どれも綺麗なものばかりで、その上きちんと手入れがされているので、これの世話をしているのはどんな人なのだろうと私はさらにこの館に興味を持った。



「誰かいるの?」



 不意に前の方から声がした。懐中時計をもった、銀髪のメイドだった。私はその人にこの館に入れないか聞いてみようと思った。



「はい、いますよ」



 私は律義に答えて、彼女の前へと進み出た。近くで見ると、驚くほどきれいな人だと感じた。二つの三つ編みが揺れ、少し鋭い眼をした彼女は気付く間もなく私の眼の前に立っていた。この世界では瞬間移動なるものが可能らしい。それともこのメイド特有の能力だろうか。



「何か御用ですか? 表の門番に話は……」メイドはちらりと門の方を見て、「……通していないようですが」

「いえ、あまりに綺麗なお屋敷だったものですから、少し寄って行こうと」



 そう正直に答えると、メイドはしばらく手を顎に当てて何か考えていたが、やがて一つ頷くと、「そうですか。それではこちらへどうぞ。大したおもてなしはできませんが」と言って私を館の中へと招き入れた。





 長い廊下だ。赤い絨毯がどこまでも伸びていて、窓の少なさがとても気になる。もしかしたら太陽か月かが嫌いな人が住んでいるのかもしれない。悪魔とか、狼男とか。



 メイドが案内した部屋は、おそらく大広間と呼ばれるくらい広い場所で、そのあまりの豪華さに私はしばらく言葉を失った。天井からは値段など想像もつかないようなシャンデリアがぶら下がっていて、壁の装飾はさながらヴェルサイユ宮殿のようだ。もちろん行ったことはないけれど。大したもてなしが出来ないというのは嘘だと確信した。



  ―――そんなに豪華だったの? 羨ましいわね。

  ―――蓮子を連れて行けなかったのが残念だわ。



 私は空いている席に座って、目の前に出されたクッキーを頬張りながらこの館の主を待っていた。しかし、いくら待ってもメイドも主らしき人物も現れない。



「これは……」



 ここまできて、そろそろ、ここの主が悪魔や狼男である線を疑わざるを得なくなった。きっと現れないのは今が昼だからに違いない。夜に活動するから、起きることが出来ないのだ。もしかしたら、現れたその人に私は食べられてしまうかも……。



  ―――起きてこないのは、まるで普段の貴女ね、メリー。

  ―――失礼な。私は夜遅くに活動したりしないわ。

  ―――それで起きないのは、悪魔よりたちが悪いじゃないの。



 しかしそれは杞憂だったのか、やがて奥の大きな扉が開くと、そこから先程のメイドと共に、薄桃色の服を着た少女が現れた。髪の毛は薄い蒼で、背中には―――



「悪魔、かしら……」



 ―――大きな大きな、蝙蝠の羽が。

 そして、私がそう認識した瞬間、



「そう、私は悪魔、吸血鬼よ。ようこそ人間」



 高らかに告げる幼い声を聞いたかと思うと、私は既にそこにはいなかった。



  ―――ん? 今のは日本語よね?

  ―――うん。吸血鬼がそう言ったら、私は違う場所、竹林に立っていたのよ。何かに落ちるような感覚はあったんだけど……。

  ―――竹林? 天然の筍は見つけられた?

  ―――そうそう、本当に見たわ。いい経験だったかも。

  ―――いいなぁ、メリーは。



 竹林は、どこまで歩いてもその景色を変えることはなかった。いつの間にか日も落ちてしまい、その暗さで足元も見えず、それがさらに私の不安を煽る。



 遠くで、何かの鳴き声が聞こえた。私が今まで聞いたことのない、声。ひどく不気味で、私はとても焦った。先程の吸血鬼のことを考えていた時とは比にならないくらいの恐怖。それはやはりこの暗さと、異常なまでに変化のない竹林のせいだ。



  ―――暗いのは苦手?

  ―――明るい方が好きよ。

  ―――私とは違うわね。

  ―――蓮子は根暗なだけ。

  ―――なるほど、幻想郷は暗いのね。



「どうしよう……」



ここで彷徨い続けても意味はないだろうし、もちろん携帯電話のGPSも通じないから場所も確認できない。ここにきて初めて蓮子の目が羨ましくなった。

 空は満天の星空。こんなに綺麗なのに、私にはそれをどうこうする術が無い。写真を撮ろうという考えが浮かばなかった自分を大声で非難してやりたいと、今なら思う。

 しかたなく私はその場に座って現在の状況をメモを取りながら考察していた。灯りは携帯電話の画面の光だけ。とても心もとない光だった。



  ―――その時のメモが見つからなかったのよ。

  ―――落としたんでしょう?

  ―――そうだと思うわ。だから考えた内容とかもよく覚えてなくて。



 その時、背後で不気味な笑い声がした。

 ぞわり、と背筋が凍る。今までに聞いたことのない、本気で恐怖を感じる『音』だった。もはや声とは言えない。



「――――――っ!?」



 声にならない叫びをあげる。それくらいしか、私には出来なかった。

 そして、私は振り向くことなく走り出した。おそらくメモはこの時に落としたのだろう。



「はぁ……っ、はぁっ……」



 普段から運動をしない私はすぐに息が上がった。こんなに本気で走ったのは何年振りだろうか? これほどまでに本能的な全力疾走……。

 夢の中だから、と高を括っていられないぐらいの恐怖と疲労感。感じる気配は明らかに人間のものではなかった。



 しかし、どれだけ走っても景色は変わらなかった。さらに、微妙に傾いているように感じる竹林が私の平衡感覚を狂わせ、無限に続いているように思ってしまう。ぐるぐる回っているのかもしれないけれど、要は―――



  ―――蓮子のいつも言っている、『客観の中に真実がある』なんていう考え方はいささか幼稚で、前時代的よね。

  ―――あら、それには納得しかねるわ。

  ―――いいえ、真実は主観の中にしか存在してないわ。だって、現実に同じ景色しか見えてこないのだから、つまりあの竹林はそういうところなのよ。



 私は必死で走り続けた。

 夢の中でも、人間が恐怖と感じたものからは逃げなければならない。なぜなら、夢と現は同意語で―――恐怖には明確な理由が存在するのだから。夢も現も、どちらも真実。現が真で、夢が偽であるということなどあり得ない。



 だから、真実は主観の中にあるということだ。見たままを信じるのが今の常識だから。



 大体、私には何故蓮子が夢と現について誤認しているのかがわからない。昔の人は夢に天啓を与えられ、それに従属して生きてきたから。もはや区別さえしていなかったかもしれない。

 それは、今では同じもの。蓮子の前時代的な脳味噌の生きている時代―――百年くらい前だろうか―――では、夢と現を同じものと感じた人間が起こした犯罪などがあったらしいけれど、そういう人たちは時代を先取りしていたのかもしれない。



  ―――それは明らかに飛躍しているわ。

  ―――まぁ、確かにそうね。



 やがて、私の脚は止まった。疲労はいつの間にか消えていたのに、何故止まったのか……。それは、私の眼に紅い光が映ったからだった。

 機械的でも災害的でもない、幻想的な光。あまりに禍々しいので、後ろなど気にせずに立ち止まってしまった。恐怖はまだあるのか、既にないのか……。あるいは好奇心がそれに勝ってしまって考えるのをやめているのかもしれない。



 私はその好奇心のようなものにしたがって、光の方を覗き見た。後ろを気にする余裕は出てきたが、振り返る気にはなれない。



  ―――それが、すごいのよ、蓮子。

  ―――具体的にはどのようにすごいの?

  ―――そこには見たことのない生き物が、何と二匹……いや、一人と一匹いたの!

  ―――ひとり……? メリーは人間をまだ見たことなかったっけ。

  ―――そうじゃなくて……。人間だけど、人間じゃないのよ。

  ―――日本語は正しく使ってね。



 一匹と言ったのは、眼が赤く光っている黒い生き物。眼だけしか見えなかったけれど、その顔はまるで人間のようだった。正面に眼がついていたからだ。私は最初、その生き物に巨大な鼠のような印象を持ったのだが、正面に眼のある鼠はいない。顔の大きさも人間と同じようなものだった。……こう考えると、眼の赤い、黒い服を着た人間だったということも考えられる。あるいは人間の顔をした黒い獣。



 もう一人、人間と考えられる方の生き物は、一見するとただの少女だった。しかし、先程から私の眼に映っていた紅い光は黒い生き物の眼ではなく、その少女の身体から発せられるものだった。

 それは、炎―――

 少女の身体から真紅の炎が噴きあがり、鳥の羽のように燃えているのが私の眼にはよく分かった。

 燃える鳥。

 不死鳥―――

 生の循環を示す炎を纏った少女は奇怪な生物とは比べ物にならないほど恐ろしいもので、実際黒い生き物はその炎に恐れをなしてか逃げ去っていった。

 奇怪な生物が逃げていくと、その少女も不敵な笑みを浮かべながら歩き去った。

 私は木の陰で見つからないように隠れながらその一部始終を見届けていた……。



  ―――その女の子も、真っ赤な眼をしていたわ。助けてもらったお礼を言いに行こうとは思ったのだけど、その時本能が叫んだのよ。それは人間じゃないって。

  ―――人間だけど、人間じゃない、ねぇ……。

  ―――そう。それでね、そこで夢が覚めたのよ。





     ***



「見事に何のオチもない夢ね」

「別にいいじゃない。夢だもの」



 はぁ、と私は溜息をついてメリーを軽く睨みつけた。カウンセリングをするにしても今の話では突っ込むところが多すぎるし、特に異常と見受けられる部分も少ない。



 しかし、この考えは次のメリーの発言で粉々に砕け散った。



「―――で、これが紅い館で貰ったクッキーと、竹林で拾った天然モノの筍よ」

「……え? 夢じゃなかったの?」

「夢の話って最初に言ったじゃない。……で、こっちが竹林でのひと騒動の後に落ちていた紙切れね」

「………………」



 確かに前にも天狗の手帳を持って帰ってきたことがあったが、よくよく考えればこれは絶対におかしいことだった。メモ帳の話をしていた時にも私は「落としたんじゃないの?」などと訊いたが、落とすも何も、持ち帰るということが出来るはずがない。……本当に夢ならば。

常識的に考えて、夢の中から物体を持ちこんでいいわけがないのだ。メリーは質量保存もエントロピーも完全に無視して話を進めている。



「何、また変なこと考えてるの?」

「そうよ。でも……」



 私の前々からの考えは、ここにきてようやく確信へと変わった。メリーは夢の世界に行っているのではなく、気付かないうちに境界線を越えているのだ。だから質量の問題は解消される。彼女は夢だと考えているけれど、それは違う。境界の先を見るだけでは飽き足らず、越えるようにもなってしまった。



 私から、メリーが離れていく―――



 これを放置しておいたら、夢と誤認した世界の中で吸血鬼や人面鼠に取って食われてしまう可能性もある。殺されてしまうかもしれない。



 彼女が今立っているのは、非常に細い境界線の上だ。そのすぐ横には様々な世界が口を開けて待っていて、今にもメリーを飲みこもうとしている……。彼女の考え方次第で、その運命は決まってしまうだろう。



 要は、どちらを夢だと思い込むか、だ。



 もちろん夢ではないのだけれど、メリーは夢だと思い込んでいるからそう考えるしかない。『あっち側』にいる時に夢じゃないと気が付いてしまえば、『こっち側』に戻って来られなくなるかもしれないし、逆に『こっち側』で夢でないことに気付いてしまえば、二度と『あっち側』行けなくなるかもしれない。秘封倶楽部として―――私としては、どちらも避けたい事態だ。



 メリーは、失いたくない。



 でも、秘封倶楽部として、メリーと過ごしたい。



 ―――メリーがこれを知ったら、果たしてどちらを望むだろうか?





***





 メリーは話すだけ話して無責任にも席を立った。急に教授から呼び出されたのだとか言っていたが、どうせ嘘に違いない。近くのデパートで洋服のセールが始まる時間に合わせて出て行ったのだろう。メリーがその広告を持っていたのを私は見ている。

「…………はぁっ」

 メリーが去ったのを確認すると、私は肺の中に詰まっていた二酸化炭素を一気に吐き出した。



 二酸化炭素と共に、例の疲労感が一気に吐き出される。会話中はずっと我慢していたが、さすがにもう良いだろう。私はバッグから錠剤を取り出すと、口に放り込んで噛み砕いた。

 即効性があるかは知らないけれど、とりあえず安心して息を吐く。これがかの有名なプラシーボ効果というやつに繋がるのかもしれないが、薬漬けの人間にだけはなりたくない。人間、健康に過ごせるならそれが何よりも大切なことだ。

 血の巡りが悪いのか、くらくらとする頭をテーブルに押し付けて、私は眼を閉じた。



「カウンセリングね……。どうしようかしら」



 メリーの考えと違い、私は夢と現は別のものだと主張し続けている。主観には真実など存在しない。信じられるのは客観のみ。主観に真実があるならば、知識が増えても夢を忘れることなんてあり得ないからだ。



知識は人から夢を奪う。夢を生理現象として処理して、科学的に証明なんてしてしまうから現在の人間は夢を忘れて空っぽの人生を送っている。



 夢と現実は違う。だから夢を現実に変えようと努力できる……。それを私に教えてくれたのは他でもないメリーなのに、その彼女が違う考えでいることが私には我慢できなかった。



「―――少し、良いかしら?」



 ふいに、背後から声をかけられた。メリーの声ではない。

 振り返れば、そこにいたのは赤い髪をした、どこかで見たことのある教授だった。確か可能性云々の研究をしていて、学会に追い出された歴史があるとかいう話をニュースか何かで聞いた覚えがある。まだ若いのに、相当暴れたんだろうなぁ、とその時は感想を持った。



「なんですか……?」



 話す気力もないので適当な返事を返すと、赤い髪の教授は軽く笑って、



「貴女たちの話す話題が面白くて、つい聞いちゃってね」

「話題……。はぁ、それで……?」



 そこまで言ったところで、私はこの教授のことについていろいろ思い出した。

 そう、確か魔法の実在を提唱していたはずだ。すべてのエネルギーが統一された今の時代に反旗を翻すように、可能性なんとか船というものを作りだして別世界に行って来たという話をしていた。もちろん認めらずに追い出されたという結末だが、確か彼女は行った先の世界の名前を―――



「幻想郷、と言う単語が聞こえたものだから、少し懐かしくなったの。貴女とは少し話してみたいわ」

「なるほど……。メリー―――もう一人のほうですけど―――彼女も呼びましょうか?」

「いいえ、結構です。話してみたい、というよりは、貴女に話したい、という方が強いかも知れないから」

「わかりました」



 私は椅子に座りなおして、紅茶のお代りを頼んだ。やはりプラシーボ効果なのか、さっきよりは幾分身体も楽なので、もう少しここで話すのも悪くない。しかも、相手がこの人ならば逆に有意義な時間になるだろう。

 教授も私と同じく紅茶を頼み、メリーの座っていた椅子に腰かけた。



「では、さっそく貴女に訊きたいことがあるのだけど……」彼女は小さく咳払いをして、「貴女は、境界って何だと思う?」

「境界―――」



 何だと思う、と訊かれても……。



「……今の私には、よくわかりません」

「私も分からないわ。むしろ、今の人類では理解なんてできないんじゃないかしら。一人を除いて。そう―――貴女以外は」

「私、ですか?」

「そうよ。境界を覗く友人と共に過ごしていて、なおかつ客観的な思考を心がけている。今のように積極的に境界線と関わるような会話をしている貴女なら、きっと理解できるような気がするわ」

「光栄ですが」これは私の本音だろうか?「果たして、私に理解する必要があるように思いますか?」

「思いません」教授は優しく微笑んだ。「ただし、精神と肉体の関連性を求めようとするのと同じくらい、人類の最終目的に近い何かが得られるはず」



 紅茶が二人分運ばれてきた。教授は何故かその中に持参したらしい苺ジャムを放り込み、美味しそうに飲み始めた。露西亜ティーのつもりなのだろうが、多少シュールに見える。



「貴女方二人は、考え方に縛られているわ。夢と現は同じものではないし、違うものと一概に言い切ることもできない。その二つの考え方に固執するだけでは、幻想郷は見えてこないでしょう。別の視点から切り口を見つけていかないと。貴女も、貴女の友人も」

「では、メリーの見ている幻想郷は……?」

「幻想郷は幻想郷だけど、まだ幻想のままの状態……。私の言っていることが分かるかしら?」

「分かりません」



 私は紅茶を啜り、教授の言葉を待った。この紅茶は少し渋い。甘い紅茶も苦手だが、渋すぎると店のセンスを疑ってしまう。淹れてから時間が経っているとしか思えない。やはり紅茶は自分で淹れたものに限ると再認識した。



「そうね……。例えば、シュレディンガーの猫の話を考えてみて。持っていく結論は別物だけど、良いサンプルだから」

「シュレディンガー、ですか。幻想郷を、猫と仮定するんですね?」

「そうそう。そして生を非存在、死を存在と置き換えて考えましょう」



 生が存在ではなく、死が存在……。

 死という状態が永遠に夢を見るということならば、幻想郷では死こそが存在していると言える。そういうことが言いたいのかもしれない。

 何より、都合が良いから、というのが一番だとは思うけれど。



「開けるまで、存在か否かは分からない……。この箱は何を意味しますか?」

「箱は、そのまま境界線です。貴女の友人のメリーさんはその箱に穴を開けて見ることが出来る。けれどそれはほんの一部。猫でいうなら、箱に穴を開けてもその毛しか見えないといったもの。メリーさんが見ているのは死んでいるか、生きているか……つまり、存在するかどうかすら分からない幻想の一部分のみ」

「………………」

「つまり」教授はマグカップをテーブルに置いて私を見つめた。「少なくとも、今現在において幻想郷は存在していない、ということよ。私の行った郷も同じ。この先幻想郷が存在した、という可能性に行きついただけの話ね」



 私はしばらくの間呼吸が出来なかった。

 幻想郷が、存在していない……?

 理にかなっていて、私には突き崩すことのできない論理。そういう話ならば確かに理解できる。夢と現という相対する二つの事象に縛られず、さらに外から―――客観的に見つめることが大切なのだ。いつも客観を心がけている私が気付かなかったというのは、ある意味で屈辱のようなものだった。



「教授……。一つ尋ねたいことが」

「どうぞ」

「最近、メリーがおかしいんです。明らかに境界が見えるはずの墓地に行った時も、彼女は何も見えないって言っていたし、夢の世界に行く回数が増えてきて、このままではこっち側に戻ってこれなくなるかもしれないんです……。これは、彼女に異常が起きている、と思いますか? それとも、ただ物事が進化していくように、当たり前の出来事だと思いますか?」

「…………ううん……」



 教授は小さく唸って、しばらく天井で回り続ける羽を見つめていたが、



「境界……」そう呟いて再び苺ジャムを紅茶に放り込んだ。「いつも見ているはずのモノが見えなくなる、というのには、境界という特別なものでなくても、心理的な何かが起因している場合があります。もちろん物理的な場合もありますが、これの場合は基本的に失明、というもっとも恐ろしい形で処理されるので、人間が隠し通せるようなものではないのです」

「つまり、メリーは何らかの心理的な原因によって、境界線が見えなくなっていると?」

「一概にそうとも言い切れません。私は医者ではないので良く分からないだけですが。……私に話せるのは、このくらいです。最後に一つだけ、聞いてもらいたいことがあるのですが……良いですか?」

「え、えぇ……。なんでしょう」



「境界は、さっきの話で『穴』であるという仮定をしました。ではそれは何の『穴』か? 肉体……つまり今ここにある空間の『穴』であるのか。または精神世界における『穴』であるのか。仮にどちらかであったとして、それは反対の空間にどう影響を与えていくのか……。でも忘れないで。普通は肉体的なものはあくまで肉体的に考えるのよ。境界線はおそらくは精神的なもの。けれど、精神と肉体については非常に互換性が高いの。……そう、精神は肉体そのもので、その逆も然り……。例えば、今この空間に真空状態を作ったらどうなるか? 真空を境界と考えてみれば、きっと、何かが分かるでしょう」



「ん…………」



 考えろ、とそう言っている。きっと、この教授もほとんどのところまでたどり着いているのだ。この会話はある意味、私への協力要請。長年の研究テーマの一つでもある、幻想郷についての話で一度けじめをつけたかったのだろう。



「……ありがとうございます。おかげでいろいろ分かりました」

「構わないわ。今のはただの独り言だから。……すべて理解したら、是非私に教えてほしいわね」

「ええ、もちろん」

「その境界は素敵ね。楽しみだわ」



 教授は立ち上がった。私もカップを置いて後に続く。出口まで見送ろうと思った。

 扉を開くと、外からは少し冷たい風が流れ込んできた。真っ赤な服を着こなしている教授はそんな風にも臆せずに歩く。



「お! そんなところにいたのか!」



ふいに、前の方から声がした。セーラー服の女性が教授を見ながら手を振っている。

「あら、迎えに来てくれたの?」

「何を話してたか知らないけど、遅かったら私は迎えにくらい来るぜ」

「……少ししか話してないのに」

 教授は私の方を振り向いて、

「それじゃ、論理の組み立て、頑張って下さい」

 そう言って連れの女性と共に去ろうとした。

 私はその赤い背中に声をかける。



 静かに、

 淡々と、

 挑むように。



「教授。シュレディンガーの猫の話ですが……」

「……はい?」



 振り向いたその笑顔に、私は知りたくない疑問を叩きつけた。



「―――中に放り込む毒薬は、この場合何だと思いますか?」



 笑顔が凍りつくのを、私は確かに見た気がした。

 私が分からないことを、この人はあと少しだけ知っている。



「……それは」教授は首を振って再び背を向けた。「私ではなく、貴女が考えることですよ―――宇佐見蓮子さん?」



「…………そうね」



 ―――そんなことは、もちろん分かっていた。

 それは言葉にするのなら、『秘封倶楽部』と呼ばれるものになるだろう。



 二人の去る姿を見つめながら、私は強烈な眩暈と共に―――





 ―――倒れた、ような気がした。





 それが勘違いだと気付くのに、そう時間はかからなかった。































































第三章 残留する客観的観測技術 ~Retrospective 53 minutes.







  私が私であるためには、

  どこからも、いつからも、私が遠ざかる必要があった。

  空間と時間からの決別こそ、自己存在の確定。

  浮いてみせよう。

  なにものにも触れず、

  なにものからも受けず、

  なにものへも与えず。

  すなわち、私がすべてになる。

 「矛盾している」犀川が言った。「貴女は、その矛盾に気づいているはずだ」

 「言いましたでしょう?」彼女は微笑んだ。「矛盾が綺麗だって」



(森博嗣著 「四季 冬 Black Winter」より)





     ***



「退屈な景色ね」



 隣に座るメリーが、ぽつりと呟いた。

 この台詞は、これで五回目。



 卯酉新幹線『ヒロシゲ』の車内。透明な筒のような姿をした新幹線は、東京へと向かって走っていた。



 音はない。揺れもしない。少し前の時代では考えられなかった技術が、今は既に当たり前のように存在していることを、この列車は象徴していた。さらには半パノラマビューといったものがあり、車両の上下以外はすべて透明でできている。おかげで外がとてもよく見えるのだが、この景色たちの正体を考えたら、どうもこの列車は試験管の姿である必要が無いように思える。



「ま、メリーが退屈に思うのもわかる気がするけどね」



 ここから見える景色はまさに絶景。近年、ようやく世界遺産に認定された富士山はもちろんのこと、美しい海岸、様々な自然が見る者をいちいち魅了する。高層ビルなどの人工物が一切見えないというのも、この美しさに拍車をかけている。



 しかし、この景色、実はすべて偽物だ。これに乗るサラリーマンたちや観光客も皆知っていて、それでもなお人気なのだから、余程つまらない生活をしているんじゃないかと私は勘繰ってしまう。普通に過ごしていれば、こんな紛い物より綺麗な景色はいくらでも見えると思うからだ。



 皆が知っているというのは、パンフレットやら何やら、すべてにきちんと書いてあるからだが、それだけではない。この列車は京都から東京を直線的に、かつ地下を通して造られているのだ。大前提として、なにも見えるはずがない。



 そういうわけで地下にあるこの景色たちは、映像で作られている。卯酉東海道の最大の売り、『カレイドスクリーン』と呼ばれる長距離液晶テレビのようなものだ。広重の見た東海道を美しく再現した映像を、仕事に疲れた現代人に見せる、予算の半分は使ったであろう装置。



「これ、車両の壁に画面付けた方がいいと思わない? 予算浮くわよね」



 ふと、さっきから思っていたことを私は口にする。



「いや……」ずっと景色について文句を言っていたメリーはしかし、反対した。「列車は私たちが乗ってるこれだけじゃないんだから。全部につけたらその方が予算はかかるでしょ」

「あ、なるほど」



 初めて乗ったメリーに指摘され、私は少し悔しい気分になる。

 確かに、この新幹線は旅行にも使われるが、当然出勤にも使われるこの電車が一つで良いわけがない。片道五十三分で着くから、普通の列車よりも多い可能性もある。朝の京都行きはものすごい混みようで、人の通る隙間もないところを人々は通っていくのだ。

 逆に、今の私たちのような東京行きは夕方でもない限り空いている。四人用のボックス席に相席を求める人は誰もいない。おかげで、一人で二人分の席を使えるからとても快適だ。荷物も置けるし、だらしない格好をしていても不快に思う人がいない。



「何で地下なのかしら」



 再びメリーが文句を言い始めた。富士が見られるといっていたから、よほど期待していたのだろう。残念ながら卯酉新幹線は地下を走っているので、当然ながら本物の富士は見ることができない。見ることができるといえば、メリーが散々文句を言っている『カレイドスクリーン』のみだ。そこに映る富士は本物よりも数倍絶景といえる。しかもこの新幹線、富士のほぼ真下を通っている。霊峰だからどうのこうのという話で富士直下を通ることは避け、樹海の下に変わったらしいが、私としてはどうも樹海の下のほうがオカルト的観点でやめておくべきだと思う。世の中には稀に『そういう類』に敏感な人がいるもので―――



「―――っ? ……何かしら? ここら辺、少し空気が重いわ」

「今は貴女の念願、富士の近くだからよ、メリー」



 ―――このように『そういう類』を感じ取ってしまう人がいるのだから、国はもう少し考えて工事を行うべきだ。



「富士の真下は通ってないんでしょ? 何かで聞いたわ」

「うん、樹海の下。メリーには少しきついんじゃない?」

「えー……そんなの聞いてないわ」

「言われてないからね。オカルト的視点からかな、一般には公開されてないのよ……といっても、地図を見れば疑う人は必ず現れるとは思うんだけどね」



 けれど、ほとんどいないというのが現実だ。例え気づいても富士や樹海を『そういう類』のものとして見ていないのだろう。



「じゃあなんで蓮子が知ってるのよ」

「裏表ルートよ。前にも言ったじゃない」

「そのルートっていうのがわからないのよ。犯罪に直結したりするから言えないの?」

「直結しないわよ……。大した事じゃないってば。今時そんな情報はネットワークでいくらでも知ることができるってこと」

「冥界の写真もネットワーク上にあるわけ?」

「…………無い、よねぇ」

「…………嘘だったんだ」

「まぁその」



 私は頬を掻きながら誤魔化した。メリーも「まぁいいか」といって引き下がる。今回のは単に自分で疑問に思って調べてみただけなのだが、さすがに今更になってあの手帳のことは言えない。おそらく私は最後まで隠し続けるだろう。



 ……最後って、いつかしら?



 ここまで考えたところで、私は唐突に不快感を覚えた。気持ち悪い、というのに少し似ているが、そうではないような感覚。メリーじゃないが、場所が場所だからかもしれない。



「……うぅん……」

「どうしたの、蓮子?」

「ちょっと身体がだるいわ。酔ったかな」

「ちっとも揺れてないじゃないの。酔うはずが無いわ」

「そうねぇ……」

「蓮子……」メリーがいつになく心配そうな目で私を見る。「最近、貴女本当におかしいわよ? 何か隠し事してない? 病気?」

「え……」



 ……あぁ、もう! なんで一緒にいる時間が長い人は、こう……鋭いのかしらね。

 心の中で小さく悪態をつき、私は首を振った。



「……別に、隠し事なんて」

「嘘」

「嘘じゃ……」



「―――赤い髪の教授には話せるのに、私には話せないんだ」



「……見てたの?」

 言ってから、しまったと思った。すぐにメリーの得意そうな不満顔を見て、やはり嵌められたのだと気付く。

「私は蓮子が何話してたかなんて聞こえなかったけど……。やっぱりそうなのね」



 窓から見ていたのかもしれない。

 段々と拗ねたような顔になるメリーを見て、私は焦り始めていた。このまま放っておけば、そろそろ気付き始めている彼女のことだ、答えるまで詮索してくるに違いない。



 ……私だってね、メリー……。貴女に話したらどんなに楽かって思ってるわ……。

 でも、話してしまえば彼女は私を心配して、彼女自身のことについて考えている余裕を無くしてしまうかもしれない。

 メリーに迷惑をかける、ということが、私には耐えられなかった。



「気にしないでよ。私の問題なんだから」

 泣いてしまいそうになる良く分からない感情を抑えつけ、私は目をそむけた。



「蓮子だけの問題じゃないわ。秘封倶楽部の―――」

「うるさいっ!」



 鋭く叫び、私は簡易式のテーブルを平手で叩きつける。思わず口から発せられた声に、私自身が顔をしかめた。少ない乗客から迷惑そうな視線が集まってくるのを感じる。



「れんこ……?」



 メリーが怯えた表情で私を見つめる。

 それでも、私は止まらなかった。

 メリーに相談したい。

 でもそうしたら私の望む結果にはならないに違いない。

 その矛盾に、感情が爆発する。



「私の問題だって、言ってるでしょ!」液体で霞んでくる視界でメリーを睨みつける。「……私だってね……! 好きで隠してるんじゃないわよこんなこと―――!」

「蓮子……」

「そりゃ、最近貴女に心配させるようなことが度々あったのは認めるわ。病気かもしれないし、私だけの問題じゃないっていうのも理解できる。でも……でもね、メリー」



 私の瞳から数滴、涙がこぼれ落ちる。プラスチックのテーブルは吸い込むことをせず、水滴をそのままの形で留めていた。



「……それでも、言えないことだってあるのよ……!」



 そのまま、私は逃げ出した。

 周囲の視線を気にせずに、まっすぐトイレの個室へと駆け込み、壁をおもいきり殴りつける。あまりの痛みに、少しだけ頭が冷える。



 ―――これはエゴだ。



 論理的に考えれば自分の望むとおりの行動なのに、それでは嫌だと叫ぶ矛盾が存在するエゴイズム。馬鹿馬鹿し過ぎて、笑えない。



 メリーと話したいけど、話したくない。感情と理性。エゴイズムと正義。かの芥川龍之介も突き当ったこの命題と、今私は全く違う形で対峙していた。芥川は恋愛だったか……。私の場合は、何と言うべきだろうか?



 恋……ではないだろう。対象はメリー、マエリベリー・ハーン。つまりは女性だ。一般論では恋は異性に対してするものだと聞いている。



「……なんて下らないことを考えているのかしら」



 そう吐き捨てた声がわずかに震えていることに気付く。頬を撫でると、確かに涙があった。そういえば流したような気がする。

 なんて情けない顔を見せてしまったんだろう。



「考えるだけ、疲れるわね……」



 最近の私は考えてばかりだ。それも有意義なことではなく、考えても決してわからない問題について延々と、当てもなく考えている。



 仕方なく錠剤を取り出して、悲鳴を上げ続ける身体に叩きこむ。一時しのぎにはなるだろうが、これもだんだん効果が薄れてきたような気がする。薬漬けは良くないという良い証拠だ。



 教授に言われたことが何を意味するのか、私は考え続けていた。決して有意義ではないけれど、今の私に出来ることはそれくらいしかない。

 一度、幻想に消えて、こっち側に再び戻ってきた彼女は、きっとほとんどの答えを知っていて、それでいて私に告げることをしない。私自身が気付くことが大切なのだ。



 まだ分からない。



 しかし、これに関する情報はすでにほとんど出ていると思う。何故なら、考えたときに分からない部分が無いからだ。答えだけが求められない。方程式は完成しても解けないという気持ちの悪い状況になっている。

だから、おそらく足りないのは私の知識。もしくは考え方そのものが間違っているという可能性。それは―――



「……やめた」



 私は考え続けて疲労警告を発し続ける頭を一発叩き、目を覚まさせた。とりあえず、メリーのところへ戻らなくてはならない。どうせ彼女のことだ、さっきの私の醜態など忘れたような顔をして待っていることだろう。

 ループする思考には、価値が無い。





「あらおかえり」



 案の定、メリーはいつも通りの笑顔で私を迎えた。



「どうも。すっきりしたわ」

「いろんな意味で?」

「頭的な意味で、よ。下らないからやめて頂戴」

「何よ、まだ怒ってるの?」



 どうやら『忘れたような』顔であって、実際に忘れたわけではないらしい。もっとも、本当に忘れていたら彼女の記憶能力を疑わざるを得ないのだが。



「もう怒ってないよ……。それにメリーは全く悪くないわ」

「そうなの? それはよかったわ。いつ教えてくれるかわかるともっと良いのだけど」



 ……いつ、か。

 そんなこと、分かるわけがない。

 やれやれ、と首を振り、できるだけの笑顔を作って彼女に視線を向ける。



「私の中で、この問題が解けたらね」



 解ける頃には、すでに取り返しのつかないことになっているかもしれない。メリーがどうにかなってしまうかもしれないし、私の症状が悪化している可能性もある。私は、何故だか分からないけれどそう感じた。



「解けるまで? どんな問題か知らないけど、蓮子ならきっとすぐだわ」



 ―――だから、この返事は私の心に重く、深く突き刺さったのだ。





     ***



「東京だぁ……」

「そうね、確かに東京だわ」



 私たち―――秘封倶楽部は、ようやく東京へと降り立った。実際にはようやくと言うほどのことではなく、ヒロシゲに乗っていた時間はたったの五十三分だったのだが。



 京都とは違い、明らかに『田舎』と言えるここは、田舎だけに殺風景だった。ひび割れたコンクリートでできた建物や、草原と化した環状線。人口の減少とともに自動車という乗り物が減ってきたため、道を整備する必要が無くなったのだ。人間の脚は、当然森の中でも歩けるように作られている。



「東京は、何が楽しいのかしら?」

「さぁ……?」



 根本を覆すメリーの発言に私は気のない返事をして、あちこちに蔓延る奇妙な植物を眺めていた。



「さぁ、って。蓮子の実家があるんでしょ? 見どころの百や二百は知っててよ」

「墓に行けばきっと結界の百や二百は見れるわよ。東京はそういうのほったらかしだから。京都と違ってね」

「またお墓に行くの……? 前みたいな真似はもう嫌よ」

「本来の目的は彼岸参りなんだから行くのは当たり前でしょう? ……親戚もいるだろうから変なことはしないわ」

「なら、いいんだけど」



 若干不満そうなメリーを無視して、私は下ろしていたバッグを肩にかけた。



「そろそろ行くわよ、メリー。前時代的な風景は気に入った?」

「気に入ったわ。主に前時代的なところが」

「それは良かった。……じゃ、離れないでついてきて。なんかチャラチャラした男の子たちがたくさんいるけど、私はああいうの苦手なのよね……」

「得意な人なんていないんじゃないかしら? 京都人は特に」

「暇な人は得意だと思うけど」



 東京は、派手な格好をして町を歩き回る彼らが、独自のルールを形成していることでも有名だ。そういうものが苦手な私はどんなルールがあるのかなんて知らないが、怒られたことが無いのでルールは守っているらしい。



「うわぁ……。本当に結界が多いわね」

「あれ、見えるの?」

「そりゃ、見えるわよ。私の特技なんだから」



 いつの間に……。あれは私の勘違いだったというのだろうか。それとも蓮台野には本当に境界線など存在していなかったか、あるいは……。



「そう、そうよね。……ほったらかしにしているだけ、ここも京都に負けないくらいの霊都と化しているのよ。ねぇメリー、どんなのが見える?」

 隣のメリーが、歩きながら首を傾げる。

「うぅん、よくわからないわね。はっきりしないわ…………あ!」

「どうしたの?」



 私の質問を無視して、メリーはどんどんと先へ進んだ。先ほどの私の言葉は既に忘却の彼方らしい。



「ちょっと、メリー?」



 仕方なく私は彼女の後を追った。メリーがおかしいのはいつものことだが、私の存在を忘れるというのだけはやめてほしい。いろいろな理由から寂しくなる。

 彼女が止まったのは、道を歩いていた一人の少女の前。

 緑色の髪の毛をした、高校生くらいのその少女にメリーは前触れもなく話しかけた。



「―――貴女、こんなところでどうしたの?」



 ……正直、私としてはその質問の意図が全く分からなかった。知り合いなら分かるが、どうもそういうわけではないらしい。意味が分からないのは少女も同じなようで、大きな目を見開いてメリーの顔を凝視している。



「あ、あの? 一体何ですか……?」



 ようやく少女が口にした、怯えたような高い声。急に知らないお姉さんが目の前に来て訳のわからないことを訊いてきたらこんな顔になるのだろう。

 私はそこでようやく二人の下へ追いついた。



「こら。貴女がおかしいのは今に始まったことじゃないけれど、他人を巻き込むのは良くないわ」

「失礼ね」ようやく私に気付いたらしい。「私は人助けをしようとしたのよ」

「意味分からないから。脈絡のある話をしないと日本人には通じないわ」

「あの……」



 私たち二人に無視された可哀想な少女は、可哀想という言葉がよく似合う程度に困った顔をしていた。

 私たちは彼女に向き直る。



「ほら、言いたいことがあるんならもう一度日本語に直して言ってあげなさい」

 メリーは、日本語であることに変わりはないわ、などと呟いてから、

「分かりやすく言うとね、貴女は何に迷っているの? って聞きたかったのよ」

「はぁ……」相変わらず少女は困惑の表情を浮かべていたが、「よくわかりましたね……。私、本当に迷っていたんです」



 メリーはいつの間に読心術を身につけたのだろうか?

 そんな冗談を考えながらやれやれと私は空を見上げた。昼間なので太陽しか見えないが、大抵の場合、太陽は星だ。

十一時五分。まさかメリーが立ち止まるとは思っていなかったが、余裕をもって出発して正解だった。



「実は道に迷っていたんです。卯東京駅の場所が分からなくて……。でも、もう見つけたので大丈夫です。あれですよね?」



 そう言って少女は駅を指さす。卯東京駅の場所が分からなかったとは、この子は結構な方向音痴なのかもしれない。



「あ、そうなの……?」



 メリーは何故か残念そうな返事をすると、少しの間空を見上げていた。別に時間と場所を見ようとしているのではなく、彼女が考え事をするときのポーズだ。



「メリー、十一時六分よ。そろそろ行きたいんだけど」

「それよ!」

 ふいにメリーが私を見て叫んだ。

「……?」



 首をかしげる私を再び無視してメリーは少女の困惑した顔に思い切り近付いた。少女が一層怯えた顔でたじろく。



「ねぇ貴女、星と月を見るだけで時間と今いる場所が分かる能力って、どう思う?」

「ちょ、ちょっとメリー!?」



 今度は私が混乱してメリーに叫んだ。その能力の話については極力他言無用だということになっていたはずだ。そんなことを他人に話すから友人が少ないのだと中学生の時に分かっていたのに。

 だから、誰に話しても無駄―――



「どうって言われても……。まだそんな能力が実在しているんですか?」



 しかし、少女は至極当たり前のようにそう言ってのけた。

 馬鹿にして相手にしない、ということではない。むしろ、その能力の存在自体は疑っていないようだ。



「まだ、って……そんな能力、信じれるの?」

「えぇ、まぁ」少女は私の方を向き、説明するのが恥ずかしそうな顔で、「物事は客観的に観測することで正確にわかります。時間と場所、つまり時空を理解するには、時空に対して客観的になればいいんです。大体……、百年くらいの誤差が必要になると思います」

「…………」

「もちろん、今の私たちはそんなことできませんが、昔の昔、まだ時間を計ろうとも、空間を利用しようともしなかった頃では、皆知ることが出来たから、計る必要もなかったそうですよ? けれど、彼らは自分たちの見ているものが時間と空間だとは気付きもしなかったようで……。元々、人間にはそういう力があったのだそうですが、時間の計測を必要と感じ、それを計る道具が作られているうちにその客観的観測技術は衰退していきました。はっきりと区切ったせいでずれていた時間が合ってしまったんです。だから、それが現在あるとするなら、過去の人類の力を継承している、と考えられると思うんですが……」

「なるほど」思わず口から洩れた言葉は、納得の意だった。「客観的観測技術、ね。面白い考えだし、最初の部分の論理は普通に理解できるわ。私が持った疑問は、後半。何でそんな過去の話を伝聞調にしても貴女が語れるのか」



 いつの間にか大学での口調に変わってしまった気がするが、気にしない。少女が難しい話をしてくるのがいけないのだ。



「……知り合いに、とても長生きな方が二人くらい居まして……」



 遠くを見て答えるこの少女が嘘をついているようには思えない。何にせよ、結界が蔓延るこの時代だ、長生きしている者が二人いたくらいで驚いていてはいけないだろう。



「過去の継承……。何代跳ばしたか知らないけど、素晴らしい考えだわ」



 まさか、私が長年考え続け、私を長年苦しめ続けた疑問がこのような形で解決されるとは思っていなかった。もちろんこんな話が真実か確認する術はないが、本当なような気がしてきた。むしろ、私の疑問なのだから、私が納得した時点で、それは真実と考えていいのだ。



「わかってくれてよかったぁ。全部その知り合いの受け売りの知識から考えて作った話ですけど、理解してくれてありがとうございます。……あの、ところで『守矢神社』ってご存知ですか?」



 少女の唐突な質問に、メリーが首をかしげる。



「私は知らないわね。神社はあまり……」



 メリーが答えると、少女は少し悲しそうな表情を見せ、「そうですか」とだけ呟いた。

 しかし、私はそれを知っている。メリーが知らないことの方が驚きだった。何故なら、『私たち向け』の神社だからだ。



「守矢神社なら知ってるわ。現人神がいるっていう噂のある神社よね」

「そ、そうです!」

「私たち二人は、サークルメンバーなんだけど、まぁオカルトとかそういうものを研究しているのよ。特に、結界―――境界を暴いて幻想郷っていう別世界を研究しているんだけど……。実は次回の活動の予定場所は守矢神社なのよ」

「え? 聞いてないわ、蓮子」

「実は、って言ったでしょう?」

 というのは冗談で、本当はたった今決めたのだが。

「幻想郷、ですか……」一瞬少女の表情は暗くなったが、それはすぐに笑顔に変わった。「……でも、まだすべてに忘れられた訳ではないんですね。今は桜が綺麗な時期だから、まだ行かないでいいかなぁ……」



 そう呟いて、少女は私たちに背を向ける。足元にあった大きな荷物を抱えて、





「それでは―――神社で待ってますね」



 ―――風が吹いた。



 咲き始めた桜が舞い、辺りをその色に染める。

 少女の動きに合わせ、少女に従属していくように、東風は流れた。



「東風吹かば―――」



 詠うのは、少女。



「―――匂ひおこせよ梅の花―――」



 足取りは軽く、駅へと向かって進み、



「―――主なしとて、春な忘れそ」



 その身体は、一瞬だけ浮いたように―――私には、見えた。





 少女の姿が見えなくなってすぐに、奇跡は止まった。





***



「現人神、ねぇ……。梅よりは桜のような気がするけれど」

「浮いたわね」

「やっぱメリーにも見えた?」

「物理現象は可視でしょう」

「そうねぇ」



 去った少女の居たところを眺めながら、私は先ほどの話について考えていた。確かに少女の話は信憑性ある、至極もっともな論理。これ以上私が考える必要などないほどに説明されてしまった。



「何、さっきの話考えてるの、 蓮子?」

「まぁね……。しっかりした論理だなぁ、って思って。物理に当てはめるとおかしい部分も出てくるんだけどね。物質を客観的に、正確に観測するということは不可能だから」

「んー、不確定性原理、ってやつだっけ? 前にも聞いたわ」

「そ。場所は場所で、速度を時間と置き換えたら不確定性原理に反することになるのだけど……、時間は物質じゃないし、場所は概念だから、これも違うわね。結局はあの論理を否定することはできない」

「じゃ、蓮子の能力については説明できたってわけね? 客観的云々は私の管轄外だから良く分からないけれど」

「説明……まぁ、そういうことよ、とりあえずね……」



 なるべく考えないようにしてきたけれど、結局私は特別な人間ではなかった。凡人に過ぎなかったのだ。本当に特別なのは、どうしても説明することのできない能力を持った、メリー。

 私は悩みを解決されたことに対する少しの失望と共に大きく伸びをして、



「現人神、ねぇ……。あの歌、もしかしてあの子……」



 もう一度駅の方を見つめ、少女に名前を聞いていなかったことを思い出した。





「ところでメリー。何であの子に話しかけたの?」

 私はかねてからの疑問をメリーにぶつけた。

「境界よ」メリーは地面にバッグを置く。「彼女の周りにあり得ないほどの境界があったの。だから『そういう類』の話をしてみたくて」



 ―――境界―――?



 その単語を、頭の中で何度も何度も、誰かが繰り返した気がして、



 前触れもなく―――



 ごぼり、と、喉の奥から嫌な音がした。



 ハンカチを口に当てる。



「あ……」



 赤い。

紅い。

 白い布を汚しているのは、確かに私の血だった。



「どうしたの?」

「えっ……?」



 顔を背けて、口元を拭う。ハンカチをポケットにねじ込み、すぐに彼女の方を振り向いた。



「いや、あの子の名前を訊いてなかったな、って思っただけよ」

「あ、確かにそうね。でも、近々行くんでしょう? 夏休みかな」

「そうね……」



 喉ではまだ鉄の味と、何かが引っかかる感覚が残っている。

 血。

 赤。

 酸素。

 道も分からない癖に前を歩くメリーについて行きながら、私は再び下らないことを考え始めた。



 これは、ただの病気などではない。

 今、ようやく分かった。

 私が知ることを拒み続けていただけなのかもしれない。

 答えは、すぐそこにまで近づいてきている。

 それでも、たどり着けない。

 何かが足りない。

そう、重要な単語が記憶の中にあったはずだ。

 聞いたのは、最近か、少し前か……。

 それさえ掴めれば、あと一歩……あるいはすべてが分かる可能性がある!

 でも―――



「ちょっと、飲み物買って来るわ、メリー」

「そう? じゃあここで待ってるわ」



ひとまず口直しのために、苦いお茶でも飲んでみよう。

 考えるのは、帰ってから。

 今は、メリーと一緒に東京巡り。それが最優先事項だ。

 でも。でも―――



 ―――考えているだけで、気が狂いそうになる。



 こうしている間にも、私の体の悪化は急速に進んでいるように思えた。これでは東京に帰れるか、いや、それ以前にこの東京巡りを無事に過ごすことが出来るかどうかさえ不安だった。



 ―――メリーにだけは気付いて欲しくない。



 今、はっきりとそう感じることが出来る。

 それは、私がほとんど理解している証拠かもしれない。

 彼女は、もう気付いているかもしれないけれど。



「……さて」



 道端に血の塊を吐き捨て、私は水分を求めて自動販売機へと歩いて行った。









































続くのではないだろうか。
お疲れ様です。

しかし、まだ続きます。



良ければご覧になっていって下さい。





引用文は書いてある通り、すべて森博嗣著の「四季」からのものです。敬称略。
ぜろしき
ergo.region000@gmail.com
http://ergoregion.web.fc2.com/
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コメント



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8.70名前が無い程度の能力削除
「四季」は僕のお気に入りの一つです。『君、今日は遅刻しなかったけれど、透明人間にでもなったのかい』の皮肉には笑いましたw
森博嗣作品の良い所を取り入れる努力がよく伝わってきて関心しました。

この作品の独特の空気は、良いなぁと思いました。ただ、そこを物語のスパイスに昇華できておらず、話の方向性まで霧散してしまった印象を受けました。
9.無評価ぜろしき削除
森博嗣好きな方がいらっしゃるとは!

コメントありがとうございます。

しかし、また……難しいですね。こういう指摘はどう考えれば良いのか、誰に言われても毎回悩むタイプのものです。
うぅむ……。
きっと私よりも相当沢山の本を読まれているんだろうなぁ。
このようなこと(指摘の話)を考え始めると泥沼にはまってしまうのですが、次回の為の参考にさせていただきたいと思います。