■プロローグ
上下左右を見失ってしまいそうな、ただただ白いだけの空間に、もやが口の高さで漂っている。風も無く、音も無く、昼夜を決めるものも無く、この空間の広さを測る術も無い。そんな場所に一人、“れいむ”はいた。
どうしてこうなったか、分からない。
が、事の発端は分かっている。
髪飾りの筒に仕込んで携帯するくらい大好きな納豆巻を縁側で食べていたら、“ゆかり”にこう言われたのだ。
『知ってる? もう一人のれいむは、すごく入念に髪をとくのよ』
ゆかりの話によると、すきまの向こうにもう一つの幻想郷があって、そこにもう一人のれいむがいるという。その世界の私は、大きくて、手足があって、私より髪が少し長くて、いつも不機嫌そうに口を尖らせているとか。髪の手入れに余念が無いことも合わせて、何だか全然私に似てないなとれいむは思った。
いやいや、信じちゃいけない、いつもそうやってゆかりに騙されるんだ。
そう言い聞かせながらも、れいむはついついゆかりの言うことを真に受けてしまう。不思議だなあと思いながら、核心を突かないゆかりのじれったい話を聞いているうちに、いつの間にかもう一つの幻想郷にいるというもう一人の自分に会いたくなっていた。不思議だなあ。
『あちらさんは皆、忙しなくしてたっけ』
決め手は、ゆかりのその一言だった。
──何てこと。早く、早くもう一人の私をゆっくりさせてあげないと!
すぐさま、もう一つの幻想郷に連れて行って欲しいとゆかりに伝えると、ゆかりは待ってましたとばかりに快諾してくれた。
その時、ふすぅっ、という細い息とともに浮かべたゆかりの表情には、憎たらしいほど嘲りの色を含んでいたが、この時のれいむにはそれが見えていなかった。
焦る気持ちを抑えてゆかりの後をついて行くと、知らぬ間に遙か上空まで昇っていた。空の色は黒く、触れそうなほど星が近かった。
すきまの向こうに行くのなら、いつもみたいに空間に裂け目を作ればいいのに、何故かゆかりはそうはしなかったし、問い質しても「もうすぐよ」としか答えてくれなかった。れいむはれいむで、もう一人の自分で頭が一杯だったので、そんな小さな疑問はあっという間に消えてしまった。
もう一つの幻想郷も、こちらの世界と同様に結界で守られていた。
結界の手前で足を止めたゆかりは、これがあちらの世界のゆかりが作った結界だと説明した。
ただ、ゆかりが作ったものでも作りは違うようで、簡単に弄ることは出来ないらしい。
しかも、先ほどまで結界内に潜入していたせいもあり、心身ともに消耗していて、今日はもう結界に触れるようにするのが精一杯とゆかりは言った。それくらい、この結界を弄るのは難儀だとゆかりは自慢げに語り、それを聞いたれいむも、もう一人のゆかりの力に素直な嘆息を漏らした。
詰まるところ、もう一人の自分に会いたければ、ここから先は博麗の巫女の力で何とかしてくれということだ。
それで構わない、とれいむが同意すると、ゆかりは目の前にある強力な結界に何やら細工を施した。ゆかりは最後に、怪しげな笑みを寄越して何処かへ消えていった。
ここまでははっきりと覚えている。
だが、肝心のここからが全く覚えていない。
小さく気合を入れてから、結界に体当たりを繰り返した────気がする。
そんな気がするだけで、気がつけば、この白い無機質な空間に身を置いていた。
もしかして、ここは冥界ではないのか。
そうだとすると、れいむは死んだことになり、もう一人の自分に会うことも叶わぬまま、訳も分からぬまま、ここで成仏するのを待たなければならない。しかも、天界は満員で満足に成仏も出来ないと聞くので、いつまでここにいればいいのかも分からない。
しかし、れいむは三途の川を渡った覚えも無ければ、水先案内人や閻魔に会った覚えもないので、まだ死んでないと思った。
となると、またしてもゆかりに一杯喰わされたと考えたほうが妥当だ。
──全く、ゆかりにそそのかされた結果がこれだよ。
「呼んだかしら?」
「あっ、ゆかり! あんたよくもっ!」
「調子はどう? あの落ちっぷりからして、こっちは相当な重力なんじゃない?」
「こっちって……、ここはやっぱり冥界じゃないのね?」
「まさか。私はあなたの夢にお邪魔してるだけ。無事に結界の中に入れて良かったわ」
「夢? これ、夢なの?」
「そうよ。丸二日うなされっぱなしのあなたの夢。私は、そんなあなたを起こしに来たの」
「丸二日? ていうか、なんで夢に出てきたゆかりがそんなこと分かるの?」
「夢と現実の境界を弄れば簡単なことよ」
ゆかりは、れいむが無事結界の内側に入れたと言った。そのれいむの夢にゆかりが介入してきた事や、新しい情報を仕入れている事からも、もう一つの幻想郷への出入りは簡単に行えていると考えていいのではないか。
「なんか、初めから騙されていた気がするなあ」
「まあまあいいじゃないの。生きて結界の中に入れた訳だし。それよりも、いい加減目を覚ましたら? もう一人のれいむが心配してるわよ」
「もう一人の私?」
れいむはそう繰り返すと、もう一つの幻想郷を目指した理由を思い出した。
『もう一人の私をゆっくりさせるため』
──そうだ。こうしている場合ではなかった。
もう一人の私に会ったら、まず何て言おう。何をしよう。
お腹も空いたし、髪飾りに仕込んだ納豆巻きでも一緒に食べようか。それとも、神社の縁側で日向ぼっこでもしようか。ああ、同時に出来たら最高ね。
普通なら、断片化した記憶を揃えるためにもっとゆかりに突っかかてもいいはずだが、れいむはそんな妄想を次々に展開していった。
そんなれいむだからこそ、何度もゆかりに騙されるのかもしれない。
悦に入るれいむの隣で、ゆかりがふすぅ、と満足気な溜息を漏らしていた。
■1
細く開けた窓からそよ風が部屋に入ってくるが、その風でなびいてしまいそうなくらい細く美しい金髪の下に、これまた美しい顔がある。
肌の白さは暗がりの部屋によく映えていて、体の線は少女のそれにしては少々起伏が激しい。文字を追う目の運びや、ページを捲る仕草はいちいち艶っぽくも、理知的な色も宿っているのだから何とも悩ましい。
見目麗しいその少女の名は、“八雲紫”。
少女と呼び難い色香を放つ紫であるが、それもそのはず、彼女は実は齢数百年(本人以外に正確な年齢は分からない)の妖怪であり、また、幻想郷の創造に立ち会った賢者の一人ともされている。
そんな賢者が読む本はさぞ難解なものと思いきや、紫が読んでいるのは割と読みやすい文体をした外界の小説だった。
紫は、暇を持て余すと屋敷にある本を読み漁ることがある。外界の物で溢れる紫の屋敷では日々新しい本が増えてゆくので、ちょうど今夜のような霊夢に相手にしてもらえなかった夜は、未読の本を消化する良い機会だった。
今日、紫はそろそろ日付が変わろうかという時間に目覚めた。
彼女は元々夜行性らしいが、日中に活動していることも多々あって、今ひとつ信憑性の無い情報と言える。ただ単に、彼女が不規則な生活をしているだけとも考えられるが、何にせよ、こんな遅い時間に霊夢のもとへ遊びに行けば結果は明々白々である。
台所の作り置きを見て、いささか霊夢のことをからかい過ぎた感があるし、あまつさえあんな風に食い下っては、要らぬ弾幕バトルを強いられそうになるというものだ。
敢えなく神社から撤退した紫は、屋敷に戻ると、することが無いということで読書を始め、今に至る。
小説を三冊読み終えると流石に本の熱も冷めてきて、紫は机の真正面に設えられた窓に目をやった。
東の夜空に、千切れた灰色の雲が幾つも浮かんでいる。
時折部屋に入り込むそよ風には冷たさと湿り気があり、日中雨が降っていたことを思わせる。水無月が見せた貴重な晴れ間だが、面白い事が特に無い紫にとっては雨が降っていてもいなくても、今日一日の過ごし方に変わりは無かった。
「月も退屈そうね」
高々と懸かった月輪を見て、紫は呟く。
開いたページを片手で押さえながら、物憂げに頬杖を突く。
白い頬は月明かりに照らされて砂浜のように煌き、瞳には丸い月を映す。
吸い込まれそうな月の妖しい姿を見ていると、ふと、あの屈辱的な記憶が蘇ってきた。
次はどうやって月の牙城を攻め落としてみせよう──そんな穏やかでない考えが頭に広がってゆくのが分かるくらいに、紫の目つきが老獪な妖怪のそれに変わっていった。しかし紫の理性がそれを制したのか、それともそんな気分じゃないだけなのか、彼女は小さく息を吐くと、首を横に振りながら苦笑いをしてみせた。
やれやれと目線を手元の小説に戻すと、急に紫は動きを止め、目を見開いた。
顔からは苦い笑みが一瞬で消え、反射的に机から身を乗り出す格好で窓枠に両手をついた。
「何……?」
雲がその場所に留まっていられるくらい穏やかな闇の底で、紫の目は東の雲と月の間あたりを捉えた。
そこには何もない。あるのは夜のしじまだけで、強いて言えば、暗順応した目に小さな星が浮かびあがるくらいだ。
しかし、紫が見据えているのは夜空という実態のあるものではなく、博麗大結界という常識と非常識を分ける論理的な結界であった。
「──数は一つ。この調子じゃあ突破することはとても無理みたいね。それよりも、結界に触れることが出来ることのほうがよっぽど問題」
紫は、結界を外から突破しようとする存在を感知したのである。
紫は幻想郷の創造に関わっただけにこの世界を誰よりも愛している。
なので、神隠しなどの紫の自発的行為を除き、外部からこの世界に干渉する存在が現れれば、紫は何らかの対応をする必要が出てくる。自身の能力や、博麗大結界に落ち度は無いはずだが、幻想郷の脅威は速やかに排除しなければならない。胡散臭い妖怪のレッテルの裏で、この世界を守ってゆくためにだ。
紫の思ったとおり、結界を破ろうとする者は結界に触れることは出来るものの、破る力や能力は持ち合わせていないようだ。結界に突っ込んでは弾き返され、また突っ込んでは弾き返されを延々と繰り返しているらしい。
その能の無い手段と、単純な思考回路に、紫は結界の外にいる者に害は無いと思った。
判断するにはまだ情報不足だが、老猾な妖怪には知識以外にも勘が備わってくる。紫の勘が、害は無いと言っているのだ。
それに、紫は結界に触れることの出来る者に接触する必要があった。接触することで、結界の脆弱性が見えてくるかもしれないからだ。それは幻想郷を守ってゆく上で重要なことだが、紫には接触したいもっと大きな理由が他にあった。
『暇だから』
である。
「害意が無いんだから、何を連れ込もうが誰にも文句言わせないわ」
微笑を湛えながらそう言って、紫は東の夜空に右手をかざした。
人差し指と中指を揃えて、裁ちばさみで布を裂くように、さっ、と横一文字を描いた。すると、指の先にある千切れた雲の合間から、白く光る物体が現れた。
まるで太陽が出番を間違えたかのようで、それは月の姿を掻き消すほど激しく夜空を照らしながら、斜め一直線に軌道を描いている。翡翠色の長い尾ひれが空にくっきりと痕をつけ、空を切り裂くように、猛烈な速さで地上へ堕ちてゆく。
その様子を見た紫は最初、隕石が堕ちてきたのか思った。
だがすぐに、それはありえないと思った。隕石ならば結界に触れられないし、触れられても何度も突破を試みる訳がないからだ。
隕石のような物体は、地響きのような音を伴って落下を続け、ついに地面に衝突した。
衝突した刹那、星が爆発したような一際眩しい光を放ち、数瞬遅れて低い衝撃音が聞こえてきた。さらに遅れて突風が波のように押し寄せ、木々や窓ガラスを騒がせると、最後には地震が起こった。紫の屋敷から相当離れているのにも関わらず起こったそれらの現象は、衝撃の強さを物語っていた。
揺れと風が収まるのを待ちながら、紫はその物体が落下した地点を凝視していた。
辺りに静けさが戻ると、呟かずにはいられなかった。
「ふふっ、面白いことになりそうね」
紫は、藍が騒ぎ騒ぎ出す前に発つことにした。
墜落地点である、博麗神社へと。
■2
珍しく今日は来ないな、と“霊夢”は湯船に浸かりながら思った。
参拝客のことではない。参拝目的に誰かがこの神社を訪れてくることなら、とうの昔に諦めている。神社に向かう途中のけもの道に妖怪が棲んでいるお陰で、里の人間が神社に近づかないからだ(客が来ない原因を霊夢はそう思っている)。
神社の運営や、食っていくためには賽銭が必要不可欠だが、それに対する博麗神社の立地条件は最悪で、真面目に社務を行うだけ馬鹿を見る羽目になる。早い段階でそれを悟った霊夢は、境内の掃除すらろくにせず、出がらしを天日干しして何回も使い回すようなつましい生活をしながらも、それに甘んじた怠惰な生活を送っていた。
そんな霊夢が今日一日待っていたのは、神を崇めに来る客ではなく、霊夢への客(強調点)であった。
雨の中にも関わらず、魔理沙や萃香といった常連は相変わらず今日も来ていて、薄い茶に文句をつけながら下らない話をして、日没の雨上がりと同じ頃に帰っていった。
霊夢の待つ客が常連客とタイミングをずらしてくるのはよくあることだが、今日はそれも無く、そうこうするうちに夜が来た。
夕飯時を狙っているのだと思って夕飯を一人分多めに作ったのだが、いつまで経っても来ることは無く、結局霊夢一人で夕飯を済ませ(残った分は明日に回す)、腹も重たいまま風呂に入った。
その客は最近顔を見せるのが当たり前だったので、来ない理由をぼんやり考えていたらすっかり長風呂になってしまった。
風呂から上がり、髪の手入れをした後、霊夢は縁側で水を飲みながら涼んだ。
水無月と言えど雨上がりの風は冷たく、長時間涼んでいたら体は簡単に冷えてしまうだろう。霊夢は夜空を見るともなしに見上げていたが、肌寒さを覚え、腕を擦りながら部屋へ戻った。
──結局、今日は来なかったな。
溜息と共に障子を閉め、寝間に寝具を広げた。
寝る前に鏡の前でもう一度髪をとかしていると、突然、横から髪を撫でる指が鏡に映った。霊夢は驚いて身をすくませた。
「意外にお手入れ好きなのね」
いつの間にか紫が霊夢の左横にいて、霊夢の髪を指に捲きつけたりして遊んでいる。
紫の能力は境界を操る程度の能力であるから、『いつの間にか』という言葉は彼女のためにあるようなもの。紫は霊夢の目の高さに空間の裂け目を作り、そこから上体を出し、霊夢の髪の触り心地を興味深そうに確かめている。
「紫っ」
霊夢は紫の姿を見るなり、自分の髪に絡みつく紫の指を振り払った。
「おはよう、霊夢」
「何がおはようよ。こんな遅くにやって来ておいて。こっちはもう寝るんだけど」
再度伸びてくる紫の手を払いながら、霊夢はツンと不機嫌そうな顔をした。
「あら、今何時かしら」
「そろそろ子の刻。日付、変わるんだけど」
迷惑そうに言って、髪に櫛を通す作業を再開すると、紫は何も聞こえなかったかのように無反応だった。
というよりも、霊夢の髪に興味があるらしく、裂け目に両肘を乗せて髪をとかす様をしげしげと観察していた。
最初はそれを無視して自分の髪と格闘していた霊夢だったが、次第に耐え切れなくなった。
目の端に紫のにやついた顔があるのだから無理もない。
「……何?」
手を止めて紫のほうを向くと、「ううん」と柔らかい返事だけが返って来た。
微笑みながら小首を傾げる仕草がどうにも怪しい。
怪訝そうに髪をとかしていると、
「霊夢も女の子ねえ」
紫がぽそりと呟いた。
「でも、それだけ入念にとかしても、サラサラの髪とは呼び難いわねぇ」
「うるさい」
「霊夢もシャンプーを使うといいんじゃない? 香霖堂で売ってるわよきっと」
『霊夢も』と言ってシャンプーを勧めるあたり、紫は自分の髪に自信を持っているのだろう。
そして、この神社にそんなものを買う余裕が無いことも知ってのことだろう。
霊夢は櫛を鏡の前に乱暴に置くと、紫には目もくれず立ち上がった。
「なんだか今日は機嫌が悪いのねぇ」
紫の言う通り、霊夢は機嫌が悪かった。
原因は髪の事を馬鹿にされたからではない。本当の原因は、日付も変わろうかという時間になってひょっこり現れた紫に対してが半分と、そんな紫のことを今日一日待ち呆けていた自分に対してが半分である。
不機嫌な霊夢の背後で、紫がくつくつと笑いだした。
霊夢が肩越しに振り返ると、紫は口元を手で押さえて笑っていた。
目は不敵に霊夢のことを見つめている。
「私が来るの待ってたんでしょ?」
「なっ」
霊夢は弾かれたように体の向きを変えた。
「今日私が来るのが遅かったから、機嫌が悪いんでしょ?」
「なわけないじゃない。馬っ鹿でしょ、あんた」
寝巻きの長袖を指と手の平で掴みながら、霊夢は口調を強くした。今までのそっけない態度から一変した霊夢は、明らかに紫の言葉をいなせていなかった。
「図星?」
「だーかーら、違うって言ってるでしょ。あんたを待ってるほど私は暇でも物好きでもない!」
「酷いわね。私は嗜好家向けってことですか」
「ええそうよ」
「じゃあ霊夢は稀に見る嗜好家ね。嬉しいわ」
「根拠が無い」
「ありますとも」
「なら言ってみなさいよ」
紫は霊夢の口撃を冷静にいなしている。いなしながら、反撃に出ることも忘れない。紫は白々しい笑みを顔に貼り付けて、言った。
「台所」
途端、霊夢の体にぴくり、と電流が流れたのが分かった。
ついで、霊夢の大きめの瞳が四方八方に泳ぎだし、口が酸欠の金魚のように声もなく動き、頬が赤く染まりだした。
台所という脈絡の無い単語に、霊夢の口を封じ込む力があることを紫は知っていた。
何故なら、霊夢の髪を弄りに現れる前に、台所に置いてある夕飯の残りを見たからだ。
一人暮らしの霊夢が二人前以上の量を作るのはおかしいし、誰かと一緒に夕飯を食べた後であっても、綺麗に一人前の量を残すのは不自然。誰かに食べさせるために残しておいたと考えたほうが自然。紫はそう推理した。
「あれ、私の分でしょ?」
「あう……」
「ご飯を作って、私が来るのを待っててくれたんでしょう?」
「ちが……」
「それで、私が来なかったから仕方無しに一人で食べた」
霊夢は絶句して、紫に背を向けた。
分かりやすい霊夢の反応に、紫は目を細めながら霊夢に近づいて、横から顔を覗き込んだ。白い寝巻き姿に茹だったその顔はよく映える。
「私の可愛い可愛い巫女さん。たった今、貴女のもとに帰って来ましたよ」
霊夢は紫と目を合わせると、さっ、と目線を外した。
「か、勘違いしないでよ。あれはただ作り置きしただけよ。明日の朝ご飯よ。朝っぱらからご飯を作るのがかったるいのよ」
紫は、しどろもどろに語尾を『よ』で揃える霊夢の正面に回りこんだ。
「あれやってよあれ。ご飯にする? お風呂にする? それとも私? ってやつ」
霊夢はわなわなと体を震わせると、俯いた顔を上げて叫んだ。半泣きだった。
「死ねっ! このクソすきま!」
悪態をついた霊夢は、下唇を噛みながら寝間の中央に敷いた布団へ向かった。
「女の子が死ねとかクソとか言っちゃだめよ、霊夢」
「もう寝るっ!」
「あらあら、つれないのねぇ。じゃあさっき起きたばかりだけど、霊夢が今から寝るって言うなら私も一緒に寝てあげる」
その言葉に、ゆらり、と振り返った霊夢の顔は、先ほどのような抱き締めたくなる恥じらいの表情ではなく、完全に妖怪退治用のそれになっていた。
「調子に乗るなああああああ!」
霊夢がキレた。
霊夢は両手の指の間に無数の札を挟み、紫に向かって投げつけた。
札を投げた直後の霊夢の右手にスペルカードが握られていた。絵柄からして、かなり物騒なレベルのスペルだろう。
札をかわした後、紫は速やかに異空間へと身を投げた。
無意味な戦いなどまっぴらだし、色々な意味で、相手が霊夢であれば尚更なのだろう。
「今度は早起きするから、お夕飯食べさせてね」
紫は爽やかに手を振りながら空間の裂け目を閉じた。次の瞬間、牽制用の陰陽玉がそこを通過し、背後の障子を突き倒したのだった。
■3
明かりを落とした寝間は、先ほどの騒がしさが嘘のように静かだった。
今夜は風が無いらしく、物音一つしない。鎮守の森は衣擦れの音を立てず、社務所の中には霊夢以外誰もいない。もっとも、境内には幽霊が出るが、音を立てる輩は今夜は出ていないらしい。なので、静かな十畳間には霊夢自身の息遣いが大きいくらいだった。
障子越しに月明かりが畳に落ち、それが燭光となっているためある程度視界が利く。
その青白いおぼろげな月光を見ていると、濃密な静寂に身を浸しているのだと思えてくる。
『私も一緒に寝てあげる』
紫の言った台詞が寝間に響く。
霊夢がキレた台詞であったが、それだけ霊夢にとって威力のある台詞だった。
霊夢は、その台詞の前後のやり取りを何度も思い返していた。思い返す度に寝返りを打ち、寝返りを打てば打つほど悶々とした。
「紫のバカ」
布団の中に潜り込んだ霊夢は、唇を尖らせぽそりと呟いた。
紫本人が寝間に聞き耳を立てている可能性もゼロでは無いし、それに大きな声で言うと余計に意識してしまう気がしたのだ。
──そんなこと、冗談に任せて言わないでよ。
布団に潜ろうが小声で言おうが、どちらにせよ意識せずにはいられない。霊夢の目は冴える一方だった。
気がつけば寝間に差し込む月明かりの向きが変わっていた。時間の感覚はすっかり麻痺していたが、明日は確実に遅寝をするだろうと思いつつ、霊夢はまた寝返りを打った。
すると、右耳に違和感を覚えた。
「何……?」
野犬の唸り声のような低い音が微かに聞こえてくる。
床から布団、布団から枕を伝い、枕につけた右耳の鼓膜を震わせる。その音は、次第に獰猛な野獣のそれになり、ついには地底から巨大な悪魔でも出てきそうな地鳴りへと変わった。
障子ががたがたと揺れている。障子だけでなく、床も、柱も、天井も、全てが何かに怯えるように軋みをあげている。
掛け布団を捲り、霊夢は枕をそばだてた。
この間の異常気象の騒ぎが、霊夢の脳裏をよぎる。
退屈しのぎというふざけた名目で異変を起こした天人ならこってり懲らしめてやったので、三度目の神社倒壊は無いと思っていた。
もし、あの天人が懲りずにまた地震を起こしていたと分かったときには、灸を据えるだけでは済まさない。
地震の最中に後先のことを考えても仕方が無い。霊夢が苦虫を潰したような顔で、天人の仕業かと疑っている間にも揺れは強さを増し、やがて社務所全体が上下に突き上げられだした。
外に避難しないとまずい。
二度も倒壊していれば言うまでもないが、社務所は木造のため丈夫ではない。寝間から外に出るには縁側からが最短である。霊夢は身を起こしながら縁側に面した障子へ体を向けた。
締め切った障子は、青白い月明かりを透過させているはずだった。
しかし、今、障子の向こうから翡翠色のまばゆい光が放たれているではないか。
「な、なんなのよ、これ!」
この状況では驚かないほうがおかしい。
霊夢は突如現れた強い光を前にして、障子の向こうを見ることをためらった。
しかし、このまま寝間に留まっていては社務所の下敷きになってしまうかもしれない。
前に崖、後ろにライオンの心持ちの霊夢は、数瞬のためらいの後に前方を選んだ。二枚の障子に手をかけ、ばん、と勢いよく開けて縁側に飛び出した。
すぐに分かった。
東の空から隕石が落ちてきているのが。
それも、神社めがけて落ちてきているのが!
そう理解しつつも、霊夢は呼吸が止まるほど驚愕した。
そして、霊夢の呼吸が戻るよりも早く、翡翠色の隕石が目の前を矢のように横切り、鎮守の森の向こうへ消えた。
刹那、森の合間から一際眩しい光が放たれ、霊夢は咄嗟に腕で目を庇った。同時に、凄まじい衝撃により体が一瞬地を離れ、脳天を打つような強烈な衝撃音が轟いた。
数瞬遅れて巻き起こった突風に、鎮守の森が泡を食ったようにざわめき、もう崩れてたまるかとばかりに、社務所が懸命に揺れに耐えている。
五感のほとんどを奪われて縮こまった霊夢は、その家屋独特の不吉な軋みを微かに耳にしながら、辺りが鎮まるのを待った。
ほどなくして翡翠の光は弱まってゆき、やがて消えた。途端、入れ替わるように闇が辺りを包んだ。地震も治まった。木々のざわめきはまだ止みそうもないが、社務所は何とか無事だ。
そのことに安堵しつつも、心臓の早鐘が鎮まらない霊夢は、翡翠の光が焼きついた目で隕石が落ちた方角を見た。
隕石の軌道からして、落ちた場所は参道の階段付近とみられる。
「ウチに当たらなくて良かったけど……」
どれだけ神社を荒らされれば済むのかしら、という言葉を端折って、寝間まで手燭を取りに戻った。今度は縁側の履物をちゃんと履いて、落下地点へと急いだ。
境内の表へ回る。一寸を照らすばかりの手元の小さな明かりでも、表には何ら異常は無いのが分かる。石畳の参道を出口に向かって小走りし、階段へと差し掛かる。
石造りの階段を早足で下りてゆくと、揺れる明かりに照らされて次々と浮かび上がる白い石段が、突然真っ黒に切り変わった。
驚いた霊夢は、慌てて己の足に二の足を踏ませた。何とかその場に踏み留まると、階段の欠片がぱらぱらと落ちた。
階段が、途中から消えて無くなっている。
明かりを持っていなかったらそのまま転落していたかもしれない。背中に冷たいものが這うのを感じながら、霊夢は前屈みになり、恐る恐る明かりを下に向けた。
石階段は、等間隔にしつらえた灯篭ごと抉り取られていて、山の地肌が見えてしまっている。灯篭どころか周りの木々をも巻き込んで穿たれた大穴は、隕石落下の衝撃で出来たとしか考えられない。
落下地点は霊夢の予想通りだった。
だが、穴の大きさと暗闇も手伝ってか、ここからでは肝心の隕石が見えない。
霊夢は好奇心に任せて穴の中に足を降ろすと、中心に向かって斜面を滑り下りていった。
穴の一番深い部分までやって来るも、そこに隕石やそれに準ずるものは見当たらなかった。
その代わりに、妙なものがいた。
「何……、こいつ」
よく見えるようにと、霊夢は屈んで手燭の明かりをそれに向けた。
明らかに人ではない。
顔は明らかに人の顔だが、これは人ではない。
いくらなんでも、一頭身の人間などいるはずがない。
一頭身。つまり頭だけである。その表現だとまるで生首だが、それはそんな生臭いものではなく、饅頭のようにまん丸い。もしくは綿を目一杯詰め込んだぬいぐるみのようにも見える。
生き物かどうかも疑わしかったが、それは確かに息をしていた。だが、気を失っているらしく天を仰いだままぴくりとも動かない。
得体の知れない生き物が空から降ってきた──いや、全く得体の知れない生き物と霊夢には言い切れることが出来なかった。
「どうしてこんな……いや、まさか」
その饅頭のような生き物は、頭に赤いリボンをつけている。
リボンはノコギリ状の白線で縁取られていて、普段着の霊夢もそれとそっくりのリボンを頭につけている。それに、セミロングの霊夢より髪はやや短いものの、耳元の髪飾りの筒まで同じで、見れば見るほど霊夢にそっくりだった。
「こんにちは。霊夢」
霊夢は今、最も会いたくない人物に会ってしまった。
明かりを横に向けると、紫の艶っぽい微笑が暗闇に浮かび上がった。
またしても、いつの間にか現れた紫が、すきまから顔を出していた。
「なんであんたはこういう時ばっかり……」
早いのよ。
そう言いかけて、霊夢は口をつぐんだ。
「こういう時ってどういう時かしら」
「面倒臭い時よ」
即答するも、紫の目が細まるのを見ていられず、霊夢は饅頭に明かりを戻した。その折に饅頭がわずかに反応した。ゆ、ゆ、とうなされながら、苦しそうに眉根を寄せている。
「その子、どうしたの?」
「私が聞きたいわよ」
「さっき空から落ちてきたのはその子?」
「紫も見てたの?」
「ええ。誰かさんがつれないお陰で、窓辺で本を読んでましたから」
「寝る前にあんなちょっかいを出しに来れば当たり前でしょ。ていうか本を読んでる暇があったら、自分が張った結界くらいちゃんと管理しなさいよ」
「してるからここに来たんじゃない」
「じゃあまた訳の分からないものを連れ込んだってことか。あんたの神隠しもここまで来ると迷惑以外の何物でもないわね」
「そうね。迷惑をかけて悪かったわ」
意外にも、紫は素直に自分の非を認めた──ように見えた。
「でも、結界を破られるくらいなんだから、誰かに迷惑が及ぶのは仕方無いことだとは思うけど。その誰かが、たまたま霊夢だっただけ」
「結界が破られた?」
紫は「そ」と短く返事をしてすきまから這い出ると、饅頭の横で膝を曲げ、それの頭を撫で始めた。
紫に頭を撫でられて表情をわずかに和らげた饅頭を尻目に、霊夢は言った。
「破られることなんてありえるの?」
「だからこの子がいるんじゃない」
まるで、膝の上で眠る飼い猫に向ける眼差しのように、饅頭を見る紫のそれは優しい。
「流石に焦ったわ。今まで結界を突破されることなんて無かったから。大事になる前に事を沈めようと現場に駆けつけたってわけ。幻想郷に土足で上がりこむ輩なんて、絶対許さないもの」
「そう言っている割には、えらくそれがお気に入りのようね」
霊夢が饅頭を顎で指してやると、紫は饅頭のことを抱き上げた。
「だってほら。この子、霊夢にそっくりなんだもの」
言われた。
そもそもこの老獪なすきま妖怪が、それに気が付かないわけがなかった。
「どこがよ」
「すごく似てるわよ」
「リボンとか髪型とかだけでしょ」
「え? 髪型は全く似てないじゃない。似てるのは」
ぐったりした饅頭を霊夢に突き出して、紫は楽しげに言った。
「顔よ顔」
「私、こんな間抜けな顔してないから!」
「いいわね。ここへ来て妹誕生とか」
「勝手にその生き物を私の妹にするな」
「じゃあ霊夢の子供?」
「どうやれば私から一頭身の子供が生まれんのよ」
「試してみる?」
「試さない!」
きっぱり否定しても、紫に対してはぬかに釘、暖簾に腕押しである。
紫は「あらあら」と肩をすくめながら、その豊かな胸元に饅頭を戻すなり、殊更大事そうに饅頭のことを抱き直した。顔はともかく、身につけているものが自分にそっくりな饅頭のことを可愛がる紫を見ていたら、霊夢は妙な気恥ずかしさを覚えた。
「ちょっと。それ……、こっちに渡しなさいよ」
「あら、やっぱり心当たりが?」
いちいち反応するのも面倒臭く、霊夢は差し出された饅頭を乱暴にひったくった。「優しくしなきゃだめよ」という言葉も当然無視した。
紫が抱きかかているときにも思ったが、饅頭は意外に大きい。
霊夢が抱えると、顎の先からへそ辺りまですっぽりと隠れてしまう。
重さも思いのほかあって、三、四キロはあるだろうか。霊夢はその重さから、我が家の米びつの窮迫ぶりを思い出し、少し悲しくなったのだった。
一方の饅頭は、霊夢の腕の中でゆ、ゆ、と言いながら何度か身じろぎして、霊夢の胸へ土に汚れた顔を押し当てている。
それを見た紫が、
「霊夢の薄い胸じゃ物足りないんじゃないかしら」
と悪戯っぽく笑った。
確かに饅頭は紫の胸だと大人しかったので、どうにも反論しづらい。
「あんたがありすぎるの」
「いいじゃない。大は小を兼ねるんだし」
「今日び、大は邪魔になるだけよ」
紫は霊夢に一歩近寄って、失神している饅頭に手を伸ばした。霊夢は、その手が饅頭に触れないよう体を回した。
「あら、触らせてくれたっていいじゃない」
「駄目。あんたの触り方は何か気に入らない」
一瞬目を丸くした紫は、くつくつと怪しい笑い声を上げた。
「ヒナ鳥を拾った猫の親心ってところかしら。偉いわ霊夢。その子を拾って育てるつもりなのね」
「何でそうなるのよ。これは私が処理するから放っといて頂戴」
「処理するだなんて。可哀想」
「だってこんなの誰かに見られたら、変な噂が立っちゃうじゃない。どうせもう死にそうなんだし」
紫に背を向けて話していると、いつの間にか饅頭を撫でる手が目の前にあった。すきま越しに撫でる紫の手だ。
「そうね。それほどあなたにそっくりな子がいたとなると、周りは黙っていないでしょうねえ。誰それの隠し子! とか言って。特にあのマスコミがね」
聞きながら、霊夢は紫の手を払った。
払っても、懲りずに新しいすきまから手が出てくる。
「でももう遅いわ。だってあれほど眩しい光が夜空から落ちてくれば、目撃者は私と霊夢だけで済むはずがないもの。ここに落ちたことも見れば丸分かりだし。そうすると次は落下物に注目が集まって、貴女がこの子を処理しようものなら行方不明の落下物と博麗神社の関連性が疑われる。ロズウェル事件って言ってね、外の世界でも似たようなことがあったのよ」
「……だからその前にこれを」
話を遮ろうとする霊夢の声に、紫がさらにその上から被せる。
「そうすれば後は簡単。マスコミに嗅ぎ回られて霊夢のプライバシーは無くなり、有ること無いこと面白可笑しく記事にされるだけ。参拝客どころじゃなくなるわよ?」
紫の言うマスコミとは、射命丸文のことで間違いないだろう。
文は自らの発行する新聞に確証のあることしか書かないポリシーを持つと聞くので、紫が大袈裟な事を言っているにしか過ぎない。
「そ、そんなことある訳ないじゃない。文はデタラメは書かないはずよ」
「そうかしら。最近は冴えない記事ばっかりだし、スクープのためならどう出てくるか分からないわよ。ていうか貴女、妖怪の言うこと信用してたの?」
紫は脅しとも取れるデタラメを言っている。
そう思いたいのに、手元の自分そっくりの饅頭のせいで断固否定することが出来ない。
あまつさえ自分のことを棚に上げた紫に、「その口が言うか」と言ってやる余裕すら無かった。
ついに反論することが出来ずに黙り込む霊夢を、紫が畳み掛ける。
紫は霊夢の背後に近寄ると、耳元で囁いた。
「せめてその子が元気になるまで、匿ってあげなさい」
甘香漂う声音が、霊夢の耳をくすぐった。
紫は同じ調子で、二の句を継いだ。
「もちろん私も協力する。私の可愛い霊夢と、ちび霊夢のためだもの」
霊夢は、その悩ましい声に頷くしかなかった。
それを見た紫は「良い子ね」と言って、霊夢の頭を優しく撫でた。
霊夢そっくりの饅頭にそうしたように、優しく、優しく。
「この子は、私と霊夢、二人だけの秘密ね。ふふっ」
紫は嬉しそうに秘密の共有宣言をした。
秘密を共有することで、霊夢に仲間意識を芽生えさせる策略といったところか。端的に言うと、「もう逃がさない」だろうか。それとも、霊夢と秘密を共有出来ることを純粋に喜んでいるだけなのか。本当のところは、紫本人にしか分からない。
一方の霊夢は、頭を撫でる紫の手を払おうとせず、悔しそうに呟いた。
「もう。あんたはいつもそうやって、人のことを丸め込むんだから」
■4
大きさからしてベビー用の布団で十分だが、生憎、博麗の巫女に子供を出産する予定などある筈も無く、神社には大人用のそれ一組しか無い。
霊夢は社務所の寝間へと饅頭を運び込むと、仕方なく自分の布団を饅頭に譲ることにした。見張りなのか何なのか、紫がついてきたのもあり、霊夢は饅頭のことをいい加減に扱うことは出来なかった。
最大の問題である野次馬に警戒すべく、霊夢は、珍しく戸締りをして誰も中に入って来られないようにした。(蹴破られてしまえばそれまでだが)
更に用心して、就寝中を装うため寝間の明かりは点けず、月明かりだけを頼りにした。
それほど、こんな真夜中でも好奇心に任せてやってくる輩に心当たりがあった。
何かしら作業をするには暗い月明かりの中、霊夢と紫は饅頭を挟んで向き合って座った。
饅頭は気を失っているので、とにかく看病をしてやらなければならない。
とは言っても、相手は人間では無い(と思われる)ので、どう看病したらいいのか分からない。
とりあえず顔の汚れを拭いてやり、次に濡れ布巾を額に置いてやった。平熱も分からないのにそうしたのは、もはや看病の最中に行われる儀式であった。
落下現場でもそうだったが、饅頭は気を失いながらもゆ、ゆ、とうなされることがある。何を求めているのか全く分からないので、濡れ布巾を変えてやるくらいのことしか霊夢には出来ない。
初めはその光景を微笑ましく眺めていた紫であったが、おおかた飽きて家に帰ったのだろう。半刻も経たないうちに彼女は姿を消していた。
紫がいなくなってから一刻ほど経過すると、饅頭はうなされなくなった。
「これだけやれば、もういいでしょ」
すうすう、と寝息を立て始めたので、容態は落ち着いたと見ていいだろう。
看病の手を休めるにはこの上なく区切りが良い。気がつけば時刻も明け方近い。
縁側と寝間を隔てる障子に目をやれば、月夜は暁闇を迎えていた。
それを見た途端、霊夢の口から欠伸が漏れた。
霊夢は重たい瞼を擦りながら、押入れの奥から薄手の古布を引っ張り出すと、それを掛け布団にして畳の上に寝転がった。
水無月と言えども、ボロ布一枚だけでは風邪を引きかねない。
おまけに敷布団を敷いていないため、体のあちこちが痛む予感がしてならない。なので、少しでも体に負担のかからない体勢を探そうと試行錯誤していると、畳一枚分開けたところで饅頭が仰向けに寝ているのが目に入り、思わず動きを止めた。
──なんで私がこんな目に遭わなきゃいけないのよ。
よくよく思い返すと、あの時紫が言ったことはまるで矛盾している。
『饅頭に手を掛ければ、落下物の行方を散々嗅ぎ回られた挙句、干される。だから、せめてこの子が元気になるまで匿ってやれ』
という旨の話を、巧みな言い回しでされたものだから、霊夢は半ば丸め込まれてしまった。
しかし、どちらにせよ同じことではないか。
匿ったら匿ったで、落下物の行方は霊夢と紫の二人以外には謎となり、周りから疑いの目を向けられる。この饅頭が表沙汰になった日には、やれ霊夢の子供だ、隠し子だ、と騒がれるのは明らか。
霊夢は最初そのことに気付いていた。だからこそ、早いうちに饅頭を処理した方がいいと思ったのだ。だがあの時、紫に都合良く話を誘導されてしまった節がある。
紫のいない今、再度試みる絶好のチャンスである。
しかし、夜通し饅頭を看病した今となってはそんな気も起きない。むしろ、そうしなくて良かったと思うようになっていた。
紫はその変化を察知して、早々と切り上げたのかもしれない。
良くも悪くも、霊夢は紫に嵌められたのだ。
「本当いい加減にしなさいよ……、あのクソすきま」
本当は、屋根裏で寝ている鼠を飛び上がらせるくらいの声を上げたかった。
それくらい紫に嵌められたことは悔しかったが、霊夢はその感情を抑え、くぐもった声で悪口を吐くだけにした。目と鼻の先で、饅頭が寝ているからだ。
そんな饅頭に気を使っている自分が情けなく思い、霊夢は勢いをつけて寝返りを打った。
すると今度は、すうすう、という寝息だけ後ろから聞こえてくるようになった。
──この饅頭が空から降ってきた時点で、私は騒ぎに巻き込まれる運命だったのかしら。
霊夢の思索は延々と続いた。
雀のさえずりが聞こえる頃になっても、終わることはなかった。
■5
目が覚めると、饅頭の容態は悪化していた。
結局昨夜は、本来起きるような時間になってようやく眠れ、目覚めたのは昼前のことだった。正確には、饅頭のうなされる声に起こされた。もっと寝ていたいと思いつつも、饅頭をそのまま放って置くのは寝覚めが悪いと思い、霊夢はしぶしぶ体を起こした。
頭がぼうっとして、体が重たい。
ほんの一刻程度しか眠れていないため、これから休もうとした体が驚いているらしい。それに、風邪こそ引かなかったものの、畳の上で寝たせいで体のあちこちが痛くて仕方ない。
霊夢は起き上がろうともせず畳の上を這いずり、うなされる饅頭の額に手を当てた。
引いたはずの熱がまた上がっている。
見れば、布巾が半乾きの状態で枕に落ちていた。うなされる余り、饅頭が温くなった布巾を振り落としたのだろう。
布巾が乾くまで寝ていたせいで、饅頭の容態が悪化してしまった。
それはつまり、片時片時も饅頭から目を離してはならないことを意味している。
せいぜい意識を取り戻すまでの間と言えども、不眠不休で饅頭の面倒を見るのは霊夢一人ではとても無理な話だ。
『もちろん私も協力する。私の可愛い霊夢と、ちび霊夢のためだもの』
今となっては、その言質にどれくらいの価値があるか怪しいものだが、紫にも饅頭の面倒を見て貰いたかった。何なら藍でも構わないし、猫の手も借りたいくらいなので橙でも構わない。
しかし、それもまた無理な話だろう。
何せ饅頭のことは霊夢と紫だけの秘密になっている。
都合の良い約束だけ守るのはあのすきま妖怪の十八番なので、きっと式神にも喋らないつもりだろう。
もっとも、いざ面倒事が自分に向けられると決まって姿を現さなくなる紫だから、協力を仰ぐ以前の問題である。
寝起き早々から紫の性質の悪さにうんざりしつつ、桶の水と布巾を新しいものに交換し、固く絞った布巾を饅頭の額に置いてやった。
少し経つと饅頭が落ち着いてきたので、霊夢は台所まで朝食(昨日紫に出し損ねた夕飯)を取りに寝間を出ようとした。すると、縁側の戸を叩く音が障子の向こう側から聞こえてきた。
廊下を挟んで、障子に戸を叩く者の影が映っている。頭に角を二本有したその幼い影は常連客のものだった。
「おおい、れーむぅ」
障子の向こうから、霊夢を呼ぶ萃香の声。
博麗神社に参拝客は来ないので、社務所の戸締りをしなくても問題なく、霊夢はその悲しい現実に甘んじて普段は社務所を開けっ放しにしている。そのため、いつもなら萃香や魔理沙といった常連が勝手に上がりこんでくるのだが、今日は勝手が違う。
「れーむぅ? まだ寝てるのかぁ?」
──どうする。
このまま居留守を決め込んでいれば引き下がってくれるだろうか。
萃香の性格上それは考えにくく、むしろ薄い戸など簡単に突破してくるだろう。仮に萃香を居留守でやりすごせたとしても、まだ魔理沙がいる。魔理沙に至っては箒にまたがったまま戸を蹴破って来そうだ。
そして、昨夜のあれだけ派手な落下。二人がそれを知らないとは思えないので、饅頭が見つかればその事と関連付けられてしまうだろう。
居留守は得策ではない。
そう思った霊夢は、饅頭の元まで戻り、「ちょっと借りるわよ」と小声で言って掛け布団と濡れ頭巾を拝借した。
畳の上を這いずり、手を上に伸ばして障子を開けると、そこに萃香の顔が現れた。
「れーむ! 寝てる場合じゃないぞ! ……って、あれ?」
内側から戸が開けられると、寝惚けた霊夢を叩き起こしてやろうとばかりに、萃香は一瞬だけ元気一杯の笑顔を見せたが、霊夢の只ならぬ様子を見て目をしばたたかせた。
「具合でも悪いのか? れいむ」
萃香は声のトーンとテンポを数段落として、床を這う霊夢に話しかけた。
体に掛け布団、左手には濡れ布巾、訪問客を見やる虚ろな瞳──。
見るからに具合が悪そうにする霊夢は、口元に拳を当てて二三咳き込んだ後、力なく頷いた。
「風邪引いちゃったみたい」
「風邪かぁ。大丈夫か?」
「あんまり」
「昨日はぴんぴんしてたのに、一体どうしたんだ?」
「昨夜、ちょっと夜風に当たり過ぎちゃったみたいで」
何を思ったか、霊夢は自ら昨夜の話題を振ってしまった。これでは風邪を装った意味が無い。霊夢が心の中で己を罵っていると、案の定、小さな百鬼夜行は昨夜の出来事に触れてきた。
「昨夜のアレを見てて風邪を引いたのか? 人間は体が弱くて大変だねぇ」
「……アレ?」
「おう。昨夜のアレ、凄かったな!」
「私、昨夜から今までずっと寝てたから何も知らないんだけど」
「あんだけの騒ぎの中、ずっと寝てたのか?」
「う、うん」
霊夢の返答が微妙に矛盾していることに気がつかない萃香は、病人を前に目を爛々と輝かせて続けた。
「昨夜、空から隕石が落ちて来たんだ。でな、神社の階段にな、滑って遊べそうなくらいでっかい穴が開いたんだ。今度遊ぼうな。でもな変なんだ。来る時に見てみたんだけど、何も無いんだ。落ちてきたはずの隕石がなくなっていたんだ」
表情だけでなく、拙い言葉の中からも萃香の興奮ぶりが窺えて、霊夢は頭を抱えた。
確かに、眠たい頭で萃香と言葉を交わすのはやや難儀である。だが、やはりというべきか、行方知れずになった落下物は現場を目撃した者の好奇心を煽っている。なので、霊夢が頭を抱えたのは全くの芝居ではなかった。
「どうだい? これまた面白いことになりそうだろ?」
「……その話はまた今度聞くから」
霊夢は殊更大きく咳き込むと、布団の中に顔を埋めてしわぶきを繰り返した。
「そんなに具合悪いなら、あたしが看病してやろうか。風邪を引いた時は酒を呑むといいって聞くしな」
萃香はおどけて瓢箪を軽く掲げたが、霊夢のお引取りを願うか細い声が、丸まった布団の中から聞こえてきた。
「ごめん萃香。悪いけど、今日は一人にさせて」
萃香は、“饅頭”のように丸まった布団を見つめながら声無く唸っていたが、しばらくして、不承不承に口を開いた。
「分かったよ。じゃあ、早く治してくれよな」
顔を見なくとも唇を尖らせていると分かる声で、萃香は呟いた。
霊夢は布団から顔を出すと、心なしか寂しそうに立ち去る萃香に声を掛けた。
「萃香」
「んー?」
幼い応え(いらえ)と共に振り返る仕草に悲哀を感じつつ、霊夢は彼女に言伝を任せた。
「私が具合悪いってこと、魔理沙にも伝えてもらえる? 風邪うつしちゃうだけだから、見舞いにも来ないでいいよって。あいつ、何も知らずに乗り込んで来そうだから」
萃香は背中を見せて、軽く手を上げた。
「分かった。伝えとく」
「お願いね」
萃香の姿が見えなくなるまでの間、霊夢は縁側の戸から顔を覗かせていた。
完全に萃香の姿が見えなくなると、霊夢は布団を脱ぎ、肩を落として深い溜息を吐いた。
その折に、縁側用の履物の上に新聞が置いてあるのを見つけ、霊夢は戦慄した。
『謎の落下物 隕石? それとも? 霊夢氏は沈黙を守る』
これでもかと大書された見出しが、まず最初に飛び込んできた。
嫌な予感がするよりも早く、霊夢は本当に風邪でも引いたような寒気を覚えた。
これ見よがしに履物の上に置いてあったそれは、文々。新聞の号外だった。
手に取って広げてみると、号外の名の通り記事は一つだけしかなく、新聞紙もたったの一枚。
内容は見出しの通りで、昨夜の落下物のことが現場の写真付きで書かれている。
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文々。新聞
第百二十四季 水無月ノ十一 号外
【謎の落下物 隕石? それとも? 霊夢氏は沈黙を守る】
目撃した人も多いだろう。昨夜、幻想郷の夜空に光り輝く物体が突如現れ、幻想郷東端にある博麗神社に落下した。
地形の変化、閃光、衝撃風、地震など、この地に這って生きる者達にもたらしたそれは隕石が落ちた図と何ら変わりがないため、小紙では落下物を隕石と仮定し、当面はこれから巻き起こるであろう騒ぎを隕石騒動と仮称する。
仮説が大半を占める記事を載せるのには相応の抵抗があった。だが、裏付けが取れるまでこの事に何も触れずにいるなど、とても我慢が出来なかった。読者と共に真相を明らかにしていきたいという思いをどうか汲んで頂きたい。
さて、何故落下物を隕石と断定していないかと言うと、現場から落下物が消えていたからだ。
上の写真のように、何かが空から降って来たことは一目瞭然。クレーターそっくりの地形からして、隕石を連想する人も多いだろう。小紙記者もそのクチである。
隕石が現場に無いことから推察されることは、
壱.落下の衝撃により、跡形も残さず砕け散った
弐.誰かが隕石を処分した
参.誰かが隕石を持ち去った
四.落下物が隕石ではなく生物だった
伍.四が既に死んでいて、有象無象に食べられた
この中で一番平和なのは壱で、その次に伍だろう。
四が今も生きているとなると物騒な騒ぎに発展しかねないので、出来れば御免被りたいところだ。
最も興味深いのは、弐と参だろう。この二つを敢えて分けたのは、どちらとも根底は打算的な行動原理だが、表面化している目的は対照的だからだ。
隕石があると損をするから処分する。
隕石があれば得をするから持ち帰る。
誰よりも早く現場に駆けつけ、この行動原理を基に行動する人物は、そう多くはないはずだ。
小紙記者がいち早く現場に急行していれば、あるいはその人物を押さえられたかもしれない。この日に限って私用で出動が遅れたことは忸怩(じくじ)に値する。
何にせよ取材は続けていこうと思うが、沈黙を守る霊夢氏の目撃証言が騒動解決への第一歩になるだろう。
(射命丸文)
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昨夜のことを「隕石騒動」と呼称し、淡々と分析がなされていた。
文が現場に急行するのが遅れたことを悔やむ一文もあったが、それは鴉天狗の尺度での話であり、饅頭を社務所に運び込むのがあと少し遅ければ、きっと文に目撃されていたのだろう。明かりを点けなかったことも功を奏したのだと思う。
記事からは、隕石騒動を冷静かつ客観的に分析しようとする姿勢が窺えた。
やはり文はリテラシーの有る記者と見直したかったが、所々から彼女の主観的意見が見え隠れしていた。特に締めの一文と、見出しの「霊夢氏は沈黙を守る」というくだりにそれが顕著に現れている。
恐らく、霊夢が一刻という僅かな睡眠をとっている間に、文は社務所を訪ねていた。
が、中から応えは無かった。留守か居留守か、文がどう捉えたか定かでは無いが、「沈黙」という言葉でそれを表現した。これでは、あたかも霊夢が取材の申し入れを受けた上で、それに応じなかったような印象を受ける。
もっとも、仮に申し入れを受けていたとしても、取材に応じる気など微塵も無いのだが。
とにかく、今後の文の動向には十分気をつける必要があるが、ばら撒かれたであろう号外に興味を抱いた輩は少なくないはずなので、注意すべきは文一人ではなく、神社に寄ってくる全ての輩であった。
「このお陰で参拝客が増えたりしてね。クレーターにすのこでも架けておこうかしら」
折り目を無視して新聞を畳み、霊夢は一人ごちた。
自虐的な冗談は、不明瞭な失笑しか誘わなかった。
■6
萃香に言伝を頼んでおいたお陰か、常連客の足がぱたりと途絶えた。
闖入者が現れなくなっても、霊夢は社務所を閉め切って、最小限の行動と明かりだけで一日を過ごした。野次馬の目とカメラのファインダーに収まることを恐れ、社務所を出ることはおろか、縁側に面した廊下や窓際を歩くこともしなかった。
霊夢のその勘は当たっていて、寝間でじっとしていると、時折外から野次馬のものと思われる話し声が聞こえてきた。縁側の戸をガンガンと叩く者さえいた。それが明け方まで間欠的に続いた。そんな調子なので、翌日も社務所に閉居することは決定していた。
かと言って、いつまでも風邪を装っていられる訳ではない。
風邪をこじらせ過ぎるとかえって周りが騒ぎかねないし、閉じ篭った生活にストレスを感じてしまっている。限界が来る前に饅頭には帰って貰いたいが、いくら看病を続けても饅頭は意識を取り戻さない。
今日で饅頭がやってきてはや四日目。
霊夢のフラストレーションは溜まる一方であった。
協力者であるはずの紫が一向に姿を見せやしないのも、それに拍車をかけていた。
──紫の嘘つき。バカ。死ねばいいのよ。
もはや悪態を声にする余裕も無くなった霊夢は、疲れ切った顔で台所に立ち、簡単な朝食を作った。
献立は白飯、豆腐の味噌汁、玉子焼き、保存食の漬物である。
出来上がった朝食を盆に載せ、寝間に運んだ。
目を離している間に饅頭がうなされてはいけないので、寝間で食事をするのが定着しつつあった。
畳に直接盆を置き、黙々と朝食を摂っていると、背後から白い手袋をはめた手がそろそろと伸びてきた。つまみ食いに挑む子供のような手の動きだった。
「こらっ」
伸びる手を叩こうとするも空振りし、玉子焼きを一切れ持っていかれた。
貴重な食料を、と恨みを込めながら振り返ると、フラストレーションを溜める原因の一つが座っていた。
「んー、美味しい。お料理上手なのね、霊夢ったら」
玉子焼きを頬張りながら、紫が目を細めていた。
その笑みにいつものようなしたたかさはなく、むしろ可愛らしくて、霊夢は二段構えの不意打ちを喰らった気分だった。
「やっと出てきたと思ったら、つまみ食いとはいやしいわね」
「私の分は?」
「あるわけないじゃない」
「駄目じゃない。会いたいって思った時は、私の分もご飯を作っておかないと」
「は?」
「貴女が私に会いたいって思ってる時、いつも私から会いに来てるでしょう?」
確かに、夕飯まで作って待ち呆けていた日はそうかもしれない。
だが、饅頭が神社にやってきてから今に至るまで、紫にずっと協力をしてもらいたいと思っていたのに、紫は姿を現してはくれなかった。
「いつからあんたはさとりになったのかしら」
「私はただ、貴女の顔に書いてある文字を読んでるだけよ」
「良い趣味してるわね。隠れて私のことを観察してたと?」
「そうよ?」
小首を傾げ、さも当然のように紫は言ってのけた。
すきまからこちらの顔色をずっと観察していたのなら、さっさと手伝いに来てくれてもいいではないか。そうしなかったのは、看病が面倒臭いからに決まっている。
──こっちだって、会いたかったというか……、協力してもらいたかっただけよ。
そう言ったらどんな顔をされるか分からない、と引き結んだ霊夢の口に、紫の指が伸びる。
「おべんとう付けてどこ行くの?」
紫は霊夢の口元から取った米粒を自らの口に運ぶと、指を咥えたまま霊夢に視線を戻した。目元には相変わらず妖しげな笑みが浮かんでいた。
「なっ、なに……、気持ち悪い」
目を合わせているだけでも危険と思い、霊夢は赤らめた顔を背けた。
そもそも霊夢は、次に紫に会ったらきつく叱ってやろうと思っていたが、すっかり紫のペースに乗せられていた。
霊夢はどぎまぎした視線をあちこち走らせると、布団の中で眠っているはずの饅頭の姿が無いことに気がついた。
「えっ」と短く声を上げた次の瞬間、視界の底で蠢く黒い影を捉えた。
見ると、黒い影は饅頭だった。
布団から抜け出した饅頭は、霊夢の食べかけの玉子焼きを器用に口に運んでいた。
今まで、目を覚ます気配など全く無く、それで散々気を揉んでいたのに、饅頭はそんな心労など露知らず、朝食を横取りしているではないか!
霊夢は、驚きと呆れで言葉が出なかった。
代わりに、後ろにいた紫が赤子に話しかけるような気色悪い声を上げた。
「まあぁ、お目覚め? お腹空いてたのねえ」
素早く声色を切り替えて、
「霊夢、あなた、この三日間この子に何あげてたの?」
首を縦にも横にも振らず、霊夢は玉子焼きを頬張る饅頭を見下ろしていた。
自分そっくりの赤いリボンと髪飾りの筒をつけた、珍妙な生物のことを。
「可哀想に。お腹空かせてたのに、何も食べてなかったのね。大きい霊夢ったら酷いわねえ。今ご飯作らせるから、ちょっと待っててね」
紫の耳障りな撫で声も、ちゃんと耳に入ってこない。
饅頭の方も、紫の声を聞いている様子は無かった。
二切れ目の玉子焼きに狙いを定めているようである。
この三日間何も食べていなかったから、よほど空腹なのだろう。
「ちょっと……」
ようやく霊夢が声を上げると、饅頭はぴくり、と動きを止めた。
玉子焼きの端を咥えたまま饅頭の円らな瞳が上に動き、霊夢の姿を認めた。
二人が視線を結んでいると、饅頭が何かを思い出したかのように顔をはっとさせた。饅頭は視線を解き、玉子焼きを皿に戻し、いそいそと体を霊夢の方に向けた。
そして──
「ゆっくりしていってね!」
「……は?」
「ゆっくりしていってね!」
満面の笑みではない。
笑顔には違わないが、満面の笑みでは決してない。
「な、何なのよ、あんた」
「ゆっくりしていってね!」
妙に目に力が込められていて、口も変な方向に曲がっている。
ゆっくりすることを相手に強制するような憎たらしい表情が、まるで能面のようにべったり貼り付いている。
「ゆっくりしていってね!」
「ちょっ……、頭おかしいんじゃないの?」
「ゆっくりしていってね!」
「ゆっくりゆっくりって……、馬鹿にしてんの?」
「ゆっくりしていってね!」
畳の上で、狂ったように同じ言葉を繰り返しながら飛び跳ねる饅頭。
一方、面を食らって固まる霊夢の背後で、紫が畳を叩きながら笑い転げている。
「ちび霊夢、か、か、可愛すぎるっ」
「笑うな!」
寝間はたちまち混沌と化した。
前では饅頭がゆっくりしていってねと声を張り上げ、後ろでは、普段しゃなりしゃなりしているあの紫が腹を抱えて悶絶している。
その真ん中で、霊夢が口を半開きにして呆然としているのだ。
「ゆっくりしていってね!」
「ああもう、言われなくたってゆっくりしてるわよ! うるさいわね!」
そう答えると、饅頭が満足そうに曲がった口を閉じた。目や眉には力が込められたままだった。そして、一呼吸置く間もなく、朝食を載せた盆へとすり寄ってゆく。
「まったく、何なのよこれ……」
指の腹で涙を拭きながら、紫が霊夢の横に座り直した。
「この子、同じ言葉しか喋れないんじゃないかしら」
「同じ言葉?」
すっかり澄まし顔の紫は、饅頭を見ながら続ける。
「ゆっくりしていってね! しか喋れない。でも実は、それに色んな意味を込めていたりして」
「一体どうすれば、その言葉でそんなことが出来るのよ」
「アロハと一緒よ」
「何それ」
「外の世界の便利な言葉」
妙な例えを持ち出した紫は、霊夢の不満顔をよそに饅頭の頭を優しく撫で回したが、饅頭は気にする素振りも見せずに玉子焼きと格闘していた。
紫は何か気づいた様子で、
「霊夢、貴女も触ってごらんなさい」
と霊夢にも饅頭の頭を撫でるよう勧めた。
「何でよ」と怪訝そうに霊夢が尋ねても、紫は微笑むだけ。
仕方なく饅頭の頭を撫でてみると、饅頭の髪は霊夢のそれとは比べ物にならないほど滑らかで綺麗だった。毛先まで難なく指が通り、逆に指のほうが清められたような、心地良いこそばゆさが残った。
「私と同じくらいサラサラよ、この子」
紫の髪の毛を触ったことは無いが、手櫛の様子を見る限り、きっと饅頭と同じような手触りなのだろう。
「触ってみたい?」
霊夢の視線に気付いた紫は毛先を上に向けながらそう言ったが、霊夢はそれを無視し、手元に目線を戻すと、饅頭が霊夢の膝元へすり寄っているところだった。
「何で近寄って来るのよ!」
霊夢は驚いて、咄嗟に饅頭の頭から手を離した。
「あらあら、仲の良いこと」
「勘弁してよ。こんなヘンテコな生き物に好かれてどうしろって言うの」
「自分にそっくりなこの子をヘンテコと?」
「そっくりじゃないってば」
「ゆっ、ゆっ」
看病中に散々聞いたうなされる声と似た声がして、霊夢は思わず足元を見た。
すると、正座する霊夢の膝小僧に饅頭が頬をすり当てていた。
「ほら、ゆっくりが甘えてるじゃないの。優しくしてあげなさいよ」
「何よゆっくりって」
「その子の名前」
「相変わらず良いセンスしてるわね、紫は」
「見たまま感じたままで名前をつけることに、真の知性は現れるのよ」
紫の下らない屁理屈を「あっそ」と適当にあしらった後、いつまでも膝に頬をすり当てられていても気持ちが悪いので、饅頭のことを目の高さまで持ち上げた。
憎たらしい饅頭と目が合う。
いつの間にか口が開いているので、また例の台詞を言うのかもしれない。
「ゆっ!」
と思いきや、ゆっくりしていってねを省略した台詞に、霊夢は思わず噴き出してしまった。
「あはは。何が、ゆっ! よ」
「ゆっ!」
霊夢は、饅頭の頬を両側から挟むように力を込めた。饅頭の顔がさらに珍妙なものに変形する。
「あんたが目を覚ましたら私の役目は終わりなの。早く自分の星にでも帰って頂戴」
「……ゆ゛っ!」
「あら、元気になるまでって約束でしょ?」
「紫は黙ってて。あんただって何も協力してくれなかったじゃない」
「ゆ゛っ!」
「早く帰れって言われても、ゆっくりだって困るはずよ。その子、何か目的があって幻想郷に来たんじゃないかしら。でないと、わざわざ私の結界を破ったりしないわ。逆を言えば、目的が果たされるまでその子は帰らない」
そう言われて、霊夢は口篭った。
紫の言うことは一理あるからと思ったからだ。
事故であれば、ゆっくりは博麗大結界に弾かれて終わり。故意だからこそ、目的があったからこそ、繰り返し結界を破ろうと試みた。その考えで筋は通る。
そして紫が何を言いたいのかも、霊夢は気づいていた。
「いやよ。これ以上こんなのといたら絶対頭おかしくなる。周りの目は神社に向けられているんだし、これからは紫の家で匿ってあげたほうがいいわ。今まで散々雲隠れしてたんだし、それくらい協力してくれるよね?」
紫は肩が触れ合うくらい霊夢に近寄ると、酷い顔をしたゆっくりを触った。
しかし、ゆっくりは紫のほうを見向きもせず、霊夢のことを真っ直ぐに見つめている。
まるで、彼女(?)の世界には霊夢しか存在しないと思わせる、食い入るような視線だった。
「それは無理ね。私嫌われているみたいだし。霊夢のことが大好きなこの子を神社から連れ出すのはあんまりよ」
「無理矢理でも連れ出せば、すぐに懐くわよ」
「逃げられたらスクープ確定なのに、霊夢ったら勝負師ね。それくらい大胆に来て欲しいって思っちゃう」
余計な一言が付いてきたが、紫の言う通りだった。
今、ゆっくりを社務所から出すのはあまりにも危険すぎた。
「ここに置いておくしか、道はないと」
溜息混じりそう言って、霊夢はゆっくりから手を離した。
「そうかもね」紫の相槌とほぼ同時に、どす、と低音を鳴らしてゆっくりが畳の上に落ちた。それでも、その憎たらしい顔は崩れなかった。
霊夢は桶と布巾を手に立ち上がった。
水場に片付けに行くなら、縁側の廊下を通ればほんの数秒であるが、誰が外で張っているかも分からない所為で迂回を強いられた。
霊夢は、縁側とは反対側の部屋とを隔てるふすまの前で立ち止まった。
「本当に面倒臭い。あんたも、そのゆっくりってのも」
横に並ぶ二人を見て、霊夢は理不尽を飲まされたような顔をした。
すると、紫が笑い声を零した。
思わずというよりも、ふふっ、と、ふすまの前に立つ霊夢にもしっかりと聞こえるように発音して。
「何だかんだで、ちゃんとゆっくりの面倒を見ようとする霊夢が好きよ」
悪びれる様子も無く、そんなことをさらりと言う紫であった。
■7
「では、霊夢さんはあの晩、ずっとお休みになられていたと?」
「だからそうだってば。何度言えば分かるのよ」
「ふむ……そうですか」
ブン屋は、器用に吊り上げた片眉を腑に落ちない様子で降ろし、愛用の手帖にペンを走らせる。走らせながらも、口は休めない。
「落下現場はもう見られましたか?」
「一応、自分の家だしね……って、何でそんなことわざわざ聞くのよ。さっきそこで会ったんじゃない」
「一応です。それで、体調を崩されている時にわざわざ確かめに?」
「まさか。今朝の今朝まで外に出る元気は無かったわ」
「現場を見たとき、どうでした?」
これでは取材というよりも、聴取である。
これが延々と繰り返されていれば、頭が痛くなるのも無理も無い。
反対に、まるでその顔色までも描写していそうなほど文は忙しなくペンを走らせている。霊夢のパターン化された返答を看破すべく、機を窺っているのだ。
朝日の下、クレーターを見た霊夢はその大きさに改めて驚愕した。神社とけもの道を結ぶ、決して短くない石階段の三分の一以上は消えて無くなっていたのだ。そこにあった灯篭や木々は吹き飛ぶかなぎ倒されるかしていて、それは凄惨な光景だった。
「どうもしませんでした」
敢えてぶっきらぼうに答えると、文は「ほほう」と唸った。
「あれだけの大穴です。大事な参拝客が遠のいてしまう、とは思われなかったのですか?」
霊夢は奥歯を噛みながら、強張った笑みを浮かべ、
「えっと、文さ、喧嘩売ってる?」
「い、いやだなぁ。そんなつもりじゃないですよ」
ペンでこめかみを掻きつつ、文はおどおどしく笑みを返した。
霊夢はそれを見ながら鼻を鳴らし、茶をすする。
まだ外から雀の集いが聞こえてくる中、社務所の玄関から一番近く、寝間から一番遠い和室で、二人はテーブルを挟んで向かい合っている。
どうしてこうなったかと言えば、ゆっくりがやって来てから六日目の朝、霊夢が落下現場を見に行った事から始まる。
いくら参拝客が皆無であろうとも、石階段も神社の敷地であるから、いつまでもクレーターを放置しておく訳にもいかない。そう思って、霊夢は現場の様子を朝方に確かめに行った。
朝方であれば野次馬達もいないと思っての行動だったが、現場から帰る途中で文と鉢合わせてしまい(それ自体が文の演出かもしれない)、霊夢は渋々取材に応じることになってしまった。
あまつさえ、「立ち話も何ですから」と半ば強引に社務所を取材場所にされてしまったのである。
重要人物に隕石騒動の取材が出来た文からしてみれば願ったり叶ったりの事だろうが、霊夢からしてみれば堪忍して欲しい状況である。
離れた部屋に通したとはいえ、同じ屋根の下に文が探し求めている落下物が寝ているのだから。
「さて続いてですが」
「まだあるの」
「最後の質問です。霊夢さんは、空から落ちてきたものは何だと思います?」
文はこれまでの会話の中で、落下物が行方不明になっていることについて一切触れなかった。
落下現場で会っているから説明は不要だと思ったのか、あるいは、敢えてその話題を伏せることで、霊夢しか知り得ない事を口にさせるように仕向けていたのか。
突飛な返答は足元を覚束なくさせる。
しかしこの場合、沈黙は金にはなりそうもない。
無言で文を見つめる霊夢。
文も、ペンを構えたまま霊夢を見つめ返す。
突如張り詰めた空気に似合わない雀の鳴き声が窓から聞こえてくる。
「私も、あんたと同じクチ」
と、霊夢は遠まわしに答えた。
文は一瞬考えた顔をし、すぐにぱっ、と笑顔を咲かせた。
「ありがとうございます。号外、読んでくれたんですね」
あれほど目立つ場所に自分の名が大書された新聞が置いてあれば、霊夢でなくたって読まずにはいられないはず。それを見越した上で喜色満面を見せたであろう文には、更に白々しい皮肉で被せてやるしかない。
「あの現場を見ただけであれだけの推測が出来るなんて、流石は伝統のブン屋。鋭い目と鼻をお持ちで」
「えへへ。そんな大したことじゃあないですよ」
「今回は阿求に『アンニュイなアフタヌーンティーのお供に』とか言われないといいわね」
「霊夢さんにも取材協力してもらったからには勿論、隕石騒動の記事で幻想郷を沸かせて見せますよ。他の方々も隕石の行方が気になるでしょうし……ああ、じゃあ丁度良いですね。霊夢さん。霊夢さんは、壱から伍、どれだと思いました? これから隕石の行方を追う上で、霊夢さんの意見も参考にさせてもらえればと」
文の言う「壱から伍」という数字は、文が先の号外で推理した落下物の行方を指している。
出来るだけ話を逸らそうとしたが、文はしっかりと落下物の正体の話題に戻してきた。
しかもよく見ると、文は人懐っこい幼い笑みを霊夢に投げかけたまま、ペン先に加えた力を少しも緩めていない。最初からこの質問をする予定だったらしい。
沈黙が金にならなければ、雄弁もまた、銀メッキかもしれない。
「……平和が一番よ。異変なんて基本的にまっぴら」
「なるほど。よく、分かりました」
記事の一文をもじって答えてやると、文はその短い返答の何倍もの情報量を手帖にしたためていた。
「ほら、もう十分でしょう? 私、これから溜まった家事を片付けなくちゃならないんだけど」
早いところ帰ってもらわないと、ゆっくりが起きてくるかもしれない。
「病み上がりですもんね。すみませんすみません。では、最後に写真を一枚」
文は手早く手帖をしまい、カメラを構えた。
頬杖をついたまま霊夢がレンズを横目で見上げた途端、パシャ、とシャッターが閉じた。
ファインダーの上から顔をひょいと出した文は、小首を傾げて微笑んだ。
新聞記者がこれだけ可愛いと色々と得だろうな、と霊夢が思っていると、文が部屋の窓を開けて、足をかけた。
「ご協力ありがとうございました! 次号も楽しみにしててくださいね」
文は、敬礼するように額に手を当ててウインクをすると、颯爽と空へ飛び立った。
霊夢は文の影が完全に消えるのを見届けた後、溜まりに溜まった息を吐いた。
「はあ」
疲れがどっと出て、しばらくその場から動けずにいたが、どうにかして客間を後にした。
取材の流れから、霊夢の風邪は今日で治ったことになったため、これ以上社務所を締め切っていると不自然になる。
こうなった以上、いつも通りに振舞いながらゆっくりを隠せる方法を考えるしかない。
仕方なく霊夢は、四日ぶりの空気の入れ替えも兼ねて、社務所中全ての窓を開けて回った。
最後に縁側のガラス戸を開け終えると、背後の障子がすっ、と静かに開く音がした。
「ゆっ!」
振り返ると、ゆっくりが障子の間から顔を覗かせていた。
頬を器用に使って開けたのだろうが、障子に挟まれて顔が酷いことになっている。
「ちょっと、寝間でじっとしていなさいってば」
「ゆっくりしていってね!」
「ああもう、こっち出てきちゃ駄目! 誰かに見られたらどうすんのよ」
ゆっくりをつま先で押し戻し、続いて霊夢も寝間に入る。
昨日、紫が何処からか調達してきたベビー用布団が、部屋の端で敷きっ放しになっていた。
真ん中で寝ている霊夢の布団は、既に押入れに片してある。
「ほら、布団くらい自分で仕舞いなさい」
するとゆっくりは、口を巧みに使って布団を畳み始めた。
その慣れた動きを見れば、障子を開けるくらい造作も無いだろうと納得する。
が、畳んだ布団を押入れの前まで押し運んだゆっくりは、押入れの中を見上げて止まった。
「ゆっ!」
相変わらず顔色一つ変えていないが、物言いたげにぴょんぴょんと飛び跳ねている。
どうやら、押入れの上段に持ち上げることが出来ないらしい。
「ったく……」
見かねた霊夢はゆっくりの布団をひょいと持ち上げ、押入れに放り込んだ。
「布団を頭にでも載せて、空飛べば出来るじゃないの」
自分とそっくりの格好をしていて、しかも空からやってきたのだから、ゆっくりが空を飛べてもいいはず。
「空、飛べないの?」
ゆっくりは無反応で霊夢を見つめている。
相槌の「ゆっ!」もないので、ひょっとしたらそうなのだろう。
霊夢が後ろ手に押入れを閉めると、腹の虫が鳴いた。何も食わずに落下現場の様子を見に行き、そのまま取材を受けていたのだから無理もない。
「さて、何か作ろうかな」
「ゆっゆっ」
「食材、何残ってたっけ」
「ゆっゆっ」
「……」
寝間を出ようとしてふすまの前で振り返ると、ゆっくりがぴったり後ろをついて来ていた。
「あんたもご飯食べたいの?」
「ゆっ!」
「おいそれと一人分余分に作れるほど、我が家は裕福じゃないわよ」
いつか紫の分の夕飯を作って待っていた自分を棚に上げ、霊夢は言った。
現在の神社の収入では、切り詰めても霊夢一人分ですら足が出ることがあるので、確かにその通りであった。
だが、ゆっくりも生き物である以上食べないといけないし、紫が痩せこけたゆっくりを見たら何て言うか分かったものではない。
「まあ、ついでだし作ってやってもいいけど……」
「ゆっ!」
「あんた普段何食べてるの? 玉子焼きは食べられるみたいだけど」
「ゆっ!」
「どのくらい食べるの?」
「ゆっ!」
「あのねぇ、ゆっ! じゃ分かんないわよ。まあいいか玉子焼きで。じゃあ作ってくるから、そこで大人しくしてるのよ。分かった?」
「ゆっ!」
寝間から出ないよう念を押して、霊夢は台所へ向かった。
台所の調理器具と台所に保存してある食材は、お世辞でも充実しているとは言えなかった。
それとは裏腹に、料理好きの部類に入る霊夢なので、経済的にもっと余裕があれば献立を豪華にしたいと思っているのだが、日に日に品数は減り、内容も貧しくなる一方である。最近では具無し味噌汁も珍しくない。
「これでよし……と。ええと、白米も食べるのよね。あいつ」
ゆっくりの体の構造上、椀物は扱えないと思われるが、布団を畳めたりと意外に器用なので、霊夢はとりあえず客用の茶碗に白米をよそった。
「うう、まさかこの茶碗がゆっくりに使われるとは」
ぼやきながら、霊夢は二人分の朝食を手に寝間へと戻った。
「出来たわよ」
寝間に入るなり「ゆっ!」と迎えられると思ったが、何の応えも無かった。
その代わり部屋の中央で何やらごそごそやっているゆっくりを見て、霊夢は目を丸くした。
「納豆巻きなんて、一体何処に隠し持ってたのよ!」
ゆっくりが畳の上でせっせと納豆巻きを巻いている。
しかも二本も。
思わず声を張ったが、隠し場所の疑問はすぐに氷解した。
外された耳元の髪飾りが一枚布の状態で床に転がっている。
髪飾りに一緒に仕込んでいたと思われる竹製のす巻きも一つ転がっていて、もう一つはゆっくりが使っている最中だ。
状況から納豆巻きの隠し場所を把握出来ても、その発想には理解に苦しむ。
「どう考えても、納豆巻きを仕込む為の物じゃないでしょ……」
動揺で盆を落とさないようにするのが精一杯の霊夢をよそに、ゆっくりは二本目を巻き終えた。
顔を上げて、霊夢の姿を認めると、
「ゆっくりしていってね!」
満点のゆっくりしていってねが出た。
「あんたねぇ……、食べる物持ってるなら最初から言いなさいよね」
霊夢は言った後に、ゆっくりは一つの単語しか発せられないことを思い出し、苦笑いを浮かべた。
「って無理な話か。馬鹿みたい、私」
「ゆっゆっ」
最早どう怒っていいかも分からないので、霊夢は何も言わずにゆっくりの前に腰を下ろした。
納豆巻きの隣に玉子焼きの皿を置いてやると、ゆっくりはしばらくそれを見つめた後、声を上げながら嬉しそうに飛び跳ねた。
「ゆっ! ゆゆゆ!」
「いいから早く食べなさい」
霊夢が具無しの味噌汁を口元に運んでいると、今度はゆっくりが霊夢の玉子焼きの皿の横に何かを置いた。
「げほっ、そんなのいらないわよ」
霊夢は玉子焼きの横に置かれた納豆巻きを見て、むせながら納豆巻きを突き返した。
突き返したが、ゆっくりが尾っぽの方を咥えて戻してくる。
突き返す、戻される、の繰り返しの末、霊夢は根負けた。
「分かった、分かったから。鬱陶しいなあ」
「ゆっくりしていってね!」
「……ていうかこれ、やめておいたほうが良いんじゃない? 少なくとも五日は経ってるでしょ。ほら、白いご飯ならあるからあんたもこっちを」
「ゆっ!」
「あ」
ゆっくりは霊夢の警告を無視して、五日以上常温に置かれた納豆巻きを一口で食べた。
口いっぱいに頬張った納豆巻きを、やたら粘り気のある音を立てながら味わい、やがて嚥下した。
飲み下した納豆巻きは一体何処に行くのだろうか、といった疑問は他にもいくらでも出て来るので、霊夢は深く考えないことにした。
「あーあ、お腹壊しても知らないんだから」
「ゆっ! ゆっ!」
霊夢のことを見上げて、ゆっくりが飛び跳ねている。
「な、何よ……。私は食べないからね」
一瞬、霊夢の頭に、傷んでいるであろう納豆巻きを食べれば、食あたりで寝込めるという算段が浮かんだ。
また社務所を閉め切れる建前にはなるが、立て続けにそうしては不自然に映る可能性がある。
それに、霊夢には盆の上に置かれた、米の水気を吸ってふやけた納豆巻きを口にする勇気は無かった。
「これはもう傷んで駄目になってるから。捨てます」
「ゆっ!」
「あっ、こら!」
ゆっくりは霊夢にあげた納豆巻きに飛びついた。この時ばかりは、ゆっくりが「これを捨てるなんてとんでもない」と言っているように聞こえた。
「あんたは私が炊いた米よりも、傷んだ納豆巻きを選ぶと」
「ゆっゆっ」
返事はあったものの、玉子焼きを夢中で頬張るゆっくりの耳に届いているとは思えなかった。
霊夢は呆れながらゆっくりから目線を外し、床に転がった髪飾りを見た。
「それにしても、よくこれに納豆巻きなんて仕込んだわね……」
手に取ると、納豆の粘り気が指先に絡みついた。見ると、納豆の糸によって髪飾りの裏面中に米粒がはびこっていた。
「うへぇ」
霊夢はそれを見て思わず、情けない声を上げた。
同時に、その沢山の米粒を勿体無いとも思ってしまい、霊夢は例えようの無い敗北感に駆られたのだった。
■8
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文々。新聞
第百二十四季 水無月ノ十六 号外
【隕石の行方 霊夢氏と紫氏が知っている?】
まずは上の三枚の写真を見て欲しい。
左上の写真だが、これは一昨日、香霖堂で買い物をする八雲紫氏である。
カウンターの上で霖之助氏が梱包をしているのは、形状や大きさからして恐らく子供用の布団であろう。野暮な事ではあるが、何故紫氏が子供用布団など買う必要があったのか、直接本人に取材を試みるも、紫氏は香霖堂から出ること無く姿を消してしまった。
代わりに霖之助氏に話を伺ったところ、彼も彼女から事情を聞くことは出来なかったそうだが、紫氏はまるで成り立ての母親のように幸せそうだったと彼は言う。
次に中央の写真を見てもらいたい。
昨日、博麗神社の裏手に干してあった洗濯物の中から気になるものを見つけ、すかさずカメラに収めた。
これは、霊夢氏のトレードマークとも言える耳元の髪飾りであるのだが、見ても分かる通り、大きさの異なる髪飾りが二つ並べて干してある。
大きさからして、小さい方が普段我々が目にしているものだろうが、霊夢氏が大きい方の髪飾りをつけているところを見たことがない。傍から見ても、頭の大きさに合わないのである。
髪飾りを複数所有していること自体何ら不思議では無いが、何故身につけてもいない大きな髪飾りを持っていて、洗濯までしているのか。
この事と、紫氏の子供用布団の購入という不可解な行動は、連関しうるのではなかろうか。それを確かめるべく、小紙記者は霊夢氏へ取材を行ったのだが、残念ながら明瞭な回答は得られなかった。(写真右上)
二人だけの秘め事であればそれまでなのだが(それはそれで別途号外は出したい)、タイミング的にも隕石騒動と時期が重なっているのも興味深い。
先の号外を読んでくれた人には話が早いのだが、小紙記者が挙げた隕石の行方の中に、真実が含まれている可能性が俄かに現実味を帯びてきたのではなかろうか。
前号の数字を持ち出せば、四と参。
つまり、落下物が生物で、それを霊夢氏と紫氏が持ち去り、何らかの理由で隠していると言ったところか。
この二人であれば、幻想郷の平和が脅かされる事態には発展しないと思うが、何にせよこの先の二人の動向に注目が集まる。
(射命丸文)
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「ふふっ、この写真の霊夢、ぶすっとしちゃって」
次の日、文々。新聞を見て、紫は可笑しそうに言った。
まるで他人のスキャンダルを楽しんでいるかのようだったが、昨日の不毛な取材のことが載っているとばかり思っていた霊夢の内心は穏やかではなかった。
何故なら、今回の記事は明らかに時間軸が捏造されているからだ。
あたかも髪飾りが干してあるのを写真に収めた後に取材をしているかのような書き方だが、実際には逆である。
取材後に摂った朝食での納豆巻きの一件が無ければ、ゆっくりの髪飾りを洗おうなんて思わなかった。
話題作りのためなのか、それとも他意があってのことなのか。いずれにせよ、紫が前に言ったとおり、妖怪の言うことは当てにならないと再認識させられる結果になった。
「あんたの言うとおりになったわね」
「あの天狗も目ざといというか、暇よねえ」
「あんたと一緒でね」
「その私の相手をしてくれる霊夢もね」
「で、どうすんのよ。こんな風に書かれちゃって」
「今日も楽園は平和ねって言いながら、ゆっくりも入れてお茶しましょうよ。縁側で」
最近ではすっかり寝間が居間と化している。
紫もそれを強いられるのが嫌になってきたのだろうか。
「馬鹿言わないでよ。匿ってやれって言ったのは紫のくせに。こんな引き篭もり生活、こっちだって早くおさらばしたいわよ」
「大丈夫なんじゃない? 面白く記事にされちゃってるけど、周りの反応は予想以上にイマイチだと思うの。どうでもいいというか、誰も間に受けてないんじゃない? 所詮は天狗の新聞だし」
「そんなこと無いわよ。今日で一週間経つけど、今だにうちの様子を見に来る輩がいるし。今日だって、魔理沙がこの記事の話をしに押しかけて来て大変だったんだから」
「あら、そんなことが? どうやってやりすごしたの?」
「押入れに突っ込んだわ」
「まあ酷い」
「仕方なかったの。この子を隠し通すのは大変なんだから」
紫は薄っすらと笑みを浮かべ、口をしおらしく押さえた。
「この子ですって。霊夢もすっかり立派なお姉ちゃんね。いえ、お母さんかしら?」
「う、うるさいわね。と、とにかくいい加減疲れたし、ゆっくりには早く帰ってもらいたいわ」
「そればっかりは、ゆっくりに聞いてみないと分からないわね」
二人は、一人遊びをしているゆっくりに目をやった。二人の視線に気がついたゆっくりは、体の向きを直すと、じっと霊夢の方を凝視した。
その妙に力の込められた瞳は、やはり紫の方を見ようともしなかった。
どう出るのかしばらく観察していると、静かに口が開かれた。
「ゆっくりしていってね!」
「はいはい、大丈夫よ、ゆっくりしてるわよ」
紫は手を振りながら例の撫で声で返事をした。
「その声何なの」
不快感を露わに、霊夢は紫に尋ねた。
「私、可愛いものには目がないの。小動物とか」
「あれ、小動物?」
「ちょっと違うわね。ちび霊夢よ」
「顔だけだったらあっちのほうがでかい」
「ほら、霊夢も応えてあげなさい」
見れば、ゆっくりが曲がった口を開けたまま、霊夢のことを凝視したままだった。
どうやら霊夢からの返事を待っているようだ。
「ああもう」
霊夢があっちいけとばかりにゆっくりの視線を手で払うと、ゆっくりは満足そうに口を閉じ、一人遊びを再開した。
「本当に素直ね。霊夢には」
「もし本当にそうなら、とっくに帰ってくれてるわよ」
ゆっくりを面白そうに見ていた紫は、視線だけを霊夢に戻した。
右手では、虚空に切れ目を作っているところだった。
「貴女も少しはゆっくりを見習ったら?」
「……どういう意味?」
「そのままの意味よ」
そう言って、紫はすきまへと体を埋めた。
「じゃあ、今日はこれで」
話は逸れたが、結局触れず終いだったことからして、文に対して無策のままで行くのが紫の考えらしい。
つまり、明日も同じ閉居生活が続くことになる。
そう考えると、みるみる気が滅入ってくる。
そんな風に顔を曇らせる霊夢のことを、紫がすきまから観察していた。
「駄目よ霊夢。最近ゆっくりの分も作ってて備蓄も無いでしょう? 気持ちだけ有り難く頂いておくから」
「は?」
「またいつか、余裕があるときに」
紫がすきまの向こうへ消えた後も、霊夢には何のことか分からなかったが、しばらくして意味を理解した。浮かない顔をしていた理由を勘違いされたらしい。
「そりゃあ、うちの食卓事情はひっ迫してるけどさ……。何もそんな断り方しなくてもいいじゃない」
「ゆっゆっ」
何も言い返せなかったことに悔しがる霊夢のもとに、ゆっくりが這い寄る。
俯く霊夢と目を合わせたゆっくりは、正座する霊夢の膝に顔を押しつけた。
霊夢は苛々した顔でゆっくりを見下ろし、無言で立ち上がった。
立ち上がった際にゆっくりを軽く蹴飛ばし、隣の部屋を隔てるふすまの前まで、地団駄を踏むように音を立てながら進んだ。
そして、すぐ後ろをついてくるゆっくりに背を見せたまま、言った。
「いいわね、あんたはお気楽で。私もあんたみたいになりたいものだわ」
棘のある言葉は、束の間、ゆっくりの動きを止めた。
だが、
「ゆっくりしていってね!」
もはや蓄音機で繰り返し再生されているかと思う位、ゆっくりの声は揺ぎ無い。
それはたちまち、霊夢の苛立ちをさらに増幅させた。
「そうね。たくさんお賽銭が集まれば、少しは余裕も生まれてゆっくり出来るかもね。まあ本当は、あんたさえ──」
言いかけて、霊夢は口をつぐむ。
「……。何でもない」
霊夢は力なく首を振りながら、ふすまの向こうに消えた。
遠ざかる足音を聞いているのか、ゆっくりは妙な笑みを顔に貼り付けたまま、ふすまの前で固まっていたのだった。
■9
夕飯の支度を終えた霊夢を待っていたのは、まさに青天の霹靂であった。
夕飯を手に寝間に戻ると、ゆっくりの姿が消えていたのだ。
慌てた霊夢は、夕飯を載せた盆どころか、社務所をひっくり返す勢いで探したが、ゆっくりは何処にもいなかった。
屋内の、障子や、ふすまや、戸や、湯船の板までもがちゃんと閉まっていた。
戸の開け閉めくらい訳無く出来るゆっくりなので、それ自体は特筆する事では無いが、逆に、縁側の戸が半開きになっていた事が問題である。段差のせいで、外から戸を閉めることが出来なかったと考えられるのだ。
つまり、ゆっくりは外に出てしまったことになる。
ゆっくりの後を追いかけるように、霊夢は縁側から外に出た。
「あの馬鹿……。寝間から出るなってあれほど言ったのに。何が私には素直よ、全然じゃない」
ゆっくりが神社に来てから丁度一週間。今までゆっくりは、霊夢の一挙手一投足にだけ敏感に反応し、それでいて従順だった。
しかし、ここへ来てゆっくりの思いも寄らぬ行動に、霊夢は動揺を隠せずにいた。
何がゆっくりをそうさせたのか、霊夢には思い当たる節があった。
──何であれくらいでヘソ曲げるのよ、バカ。
心の中でぶつくさ言いながら、霊夢は神社の裏手へ回り込んだ。
物干し竿が二本、物寂しそうに突っ立っているだけで、誰もいない。
闇が降り始めた鎮守の森に注目するも、やはり誰もいない。
「ったく、何処に行ったのよ」
今のが喉を抜けた声なのか、内なる声なのか、その識別も出来ないほど今の霊夢は挙措を失っていた。
紫は一笑に付していたが、このままでは文々。新聞の特ダネになりかねない。
霊夢は駆け足で神社裏をぐるりと周り、境内の表へと出た。
西日が染みる空に霊夢は目を細めた。
細目で辺りを見渡すも、黒い影が横たわる境内にはやはり誰もいない。ここにもいないとなると、ゆっくりは階段を下ったのかもしれない。
立ち止まった足をすぐさま前に出して階段へと急ぐ折、視界の左端でそれを捉えた。
一瞬それが何か分からなかったが、目をしばたたかせてよく見ると、拝殿に設えた賽銭箱の上に、ゆっくりが鎮座していた。
誰もいないのにも関わらず、ゆっくりは例の憎たらしい笑みを浮かべ、賽銭箱の桟の上で西日を浴びていた。
「あ!」
ゆっくりは、声を上げた霊夢と視線を結ぶなり、
「ゆっ! ゆっ!」
と、賽銭箱の上で嬉しそうに飛び跳ねた。
「あ~ん~た~ね~」
歩調に合わせて、霊夢は恐ろしいほど震えた声を上げた。
「何勝手に外に出てんのよ! 誰かに見つかったらどうすんの!」
霊夢はゆっくりの前に仁王立ちし、鋭い眼差しをゆっくりに突きつけた。
「ゆっくりしていってね!」
「ウチに置いてやってんだから、言うことくらいちゃんと聞いて!」
「ゆっくりしていってね!」
「聞いてるの!?」
「ゆっくりしていってね!」
お互い、声を張り上げての主張だった。
もっとも、ゆっくりが何を主張しているのかは本人しか知る由もないのだが。
その成立しようのない混沌ともとれるやりとりに、霊夢は目を三角にしていたが、そのうちに脱力し、がっくりとうな垂れた。
「もういい……あんたに何言っても通じない」
「ゆっ!」
「ほら、さっさと中に戻るわよ」
「……」
霊夢に身を預けようとしているのか、ゆっくりは賽銭箱の縁まで這い出ると上目遣いの視線を寄越してきた。
「何よ。登ったんだから、降りられるでしょ」
「……ゆっ」
一瞬の『ため』が、ノーと言っていた。
ならば、ゆっくりはどうやって賽銭箱の上に登ったのか甚だ疑問であったが、霊夢はやはりこれも気にしないことにした。
「もう、どこまで世話を焼かせれば気が済むのよ」
仕方なくゆっくりを抱きかかえてやると、饅頭のような体に似合わない、ずしり、と来る重さが両腕を伝った。
ゆっくりが落ちてきたあの夜以来、霊夢がゆっくりを抱きかかえる事は無く、しかも今回はゆっくりに意識がある。そう思うと、何となく霊夢は気恥ずかしさを覚えた。
「こんなところ、紫に見られても終わりよ」
「ゆっ」
霊夢に抱きかかえられているからか、ゆっくりの応えは心なしか柔らかく、身動き一つせず大人しかった。
そんなゆっくりの呼吸を腕に感じつつ、霊夢は足早に社務所へと向かう。
ゆっくりが思いもよらない行動を取ったが、幸い、野次馬がこの場に居合わせる事にはならなかった。
後は、風神少女の耳目に触れていないことを祈るしかない。
──さっき……、ちょっと言い過ぎたのかな。
この時の霊夢は、ゆっくりが外に出て行った原因をその程度でしか考えていなかったのだった。
■10
──ああやっぱり。
霊夢の祈りも虚しく、翌日の文々。新聞でも霊夢の名が見出しを飾った。三号連続である。
考えが甘かった。
目ざとさでは幻想郷一の文が、あの千載一遇のシャッターチャンスを見逃すはずもなかった。
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文々。新聞
第百二十四季 水無月ノ十七 号外
【博麗神社に謎の生物! 霊夢氏そっくり 隕石騒動の元凶か】
異変や騒ぎが起きた直後は、周りの関心も高くそれなりに情報が集まるが、ある時を境にそれは減少の一途を辿り、やがて途絶える。隕石騒動も例外に漏れず、たったの一週間でその状態に陥りかけ、小紙記者は頭を抱えていた。
そこに現れたのは、なんとも珍妙な物体、いや、生物であった。
その姿を克明にカメラに収めるべく、小紙記者は夢中でシャッターを押した。その中から選りすぐったのが上の写真である。もっとお見せしたいのは山々だが、紙面の都合上、五枚が最良であると判断した。
この、饅頭のような、大福のような、生首のぬいぐるみのような、それでいて思わず触れてみたくなる丸いフォルムをした生物は、一体何なのだろうか。幻想郷の暮らしも長いが、こんな妖怪(?)は初めて見る。
えも言われぬ自信を宿した目に、憎たらしい笑み。
そして、この赤いリボンと髪飾り。
見れば見るほど、あの博麗霊夢氏にそっくりではないか。
霊夢氏は、一週間前から体調不良で社務所に閉じ篭り、その間一切姿を現さなかった。
その本当の理由がこの生物を隠すためだとすると、霊夢氏が妙に大きな髪飾りを洗濯していたことや、紫氏の子供用布団購入という不可解な行動も含め、色々と辻褄が合ってくる。
何より興味をそそるのは、霊夢氏が具合を悪くした一週間前は、隕石が落ちてきた日とぴたり一致することに尽きる。前述の考えに当てはめると、あの夜の霊夢氏は、博麗神社に落ちてきたこの生物を誰よりも早く見つけ、回収、隠蔽したことになる。
だが、賽銭箱の中を見る限り、処分もせず隠蔽している意図が見えない。前々号で書いた、打算的行動原理にそぐわないのだ。
もしくは、小紙で繰り広げている推論は全て幻想、かだ。
妖怪と人間の混血であれば、あるいは、一頭身の子供が産まれてくるかもしれないが、その確率は天文学的数字ではなかろうか。
真実を白日の下に。
霊夢氏と、協力者であろう紫氏への接触を急ぐ。
(射命丸文)
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書き手の得意顔が目に浮かぶ記事を読み、霊夢は眩暈を催した。
紙面のほぼ一面に、引き伸ばしたゆっくりの写真が五枚貼られていて、下に追いやられた記事はまるで文字広告のような扱いである。
うち三枚は前、横、後とアングルを変えた接写で、四枚目は賽銭箱まで写したやや引いたアングル、最後の一枚に至っては霊夢がゆっくりを抱きかかえて社務所に戻るところを激写されていた。
号外ばかりの文々。新聞。
報道の摂理を失った、記者の主観と独白が大半を占める偏向新聞。
いくら種族が違うとはいえ、同性同士で子供を作れる訳が無い。
前の文章を引き立てる為の演出と、安い皮肉であることは分かっているのに、それでも腹立たしい。
「ばっかばかしい。何が、天文学的数字ではなかろうか~、よ」
六十年後の眉間を借りてきたようなしかめ面で、霊夢は新聞紙を縦に破り裂いた。
するとすぐに、畳の上に落ちた新聞紙に興味を示したらしいゆっくりが這い寄って来た。
惨めさを感じつつ、ゆっくりが破れた新聞紙を咥えたり捲ったりして一人遊びする様を、霊夢は唇をわなわな震わせながら見ていた。
「私、こんなのとそっくりじゃないし」
霊夢の声に、ゆっくりが素早く顔を上げた。
「ゆっくりしていってね! ゆっくりしていってね!」
「違う、そっくりじゃないって言ったの!」
「ゆっ! ゆっ!」
自分の写真の上で、嬉しそうに右に左に揺れるゆっくり。
散らかった紙片の中から、ゆっくりを抱きかかえる自身の写真が目に入り、霊夢はふとある事に気がついた。
ここまで見事に撮れているのなら、何故文は直接取材をして来なかったのか。
より大きなスクープを得るためには、直接取材は必須ではないのか。
接触を急ぐと書くくらいなので、その気が無いのはまず有り得ない。
弾幕バトルに持ち込まれてネガを没収されるのを恐れたか(霊夢に負ける気は全く無い)、あるいは、騒動を加熱させてこちらが弱り切るのを待つつもりなのか。
はたまた、ブン屋の感覚は全く逆で、良質な隠し撮り写真を撮り、後で驚かすことにスクープ性や悦びを感じると言うのか。扇動的な文面からして、あながちそれは間違いではないと思える。
ただ一つ確かなのは、ゆっくりの存在が知れ渡るという最も恐れていた事態に、そんな分析は何の役にも立たないということだ。
霊夢は寝間の中を行ったり来たりしていた。
思案に暮れる辛気臭い顔を浮かべるも、ろくな策は思い浮かばず、同じ言葉を繰り返していた。
──どうしよう。ああ、どうしよう。
以前、彼女は言っていた。
『貴女が私に会いたいって思ってる時、いつも私から会いに来てるでしょう?』
ぜんまいが切れたかのように、霊夢の足が畳の上を擦り、止まる。
──…………紫、私どうしたらいい?
「頼もー!」
重なった二つの声と同時に、ばん、と乾いた音が耳を突き、霊夢は身をすくませた。
障子が思い切り開いた音だと分かったのは、背後に現れた魔理沙と萃香の姿を認めてからだった。
「おーっ、そいつが噂の」
萃香は開口一番そう言った。
隣の魔理沙がゆっくりの事を指差して、
「ははは、本当に霊夢そっくりだぜ」
とんがり帽子が落ちそうなほど高らかに笑った。
「あんたたち……」
当のゆっくりは霊夢の後ろに隠れて、闖入者の様子を窺っていた。
霊夢は、怯えた様子のゆっくりに思わず声を掛けようとしたが、二人の手前上、それは憚(はばか)られた。
「なんだよれーむ、水臭いなあ。そいつがいたならいたで、最初っから話してくれればいいじゃないかよ。ずっと寝込んでたから、心配したんだぞ」
萃香には風邪を引いたと直接嘘をついた。彼女が頬を膨らますのも無理もない。
「ご、ごめんなさい」
「どうして黙ってたんだ?」
「それは」
萎れた霊夢は言葉を詰まらせる。
「だってそれは、こんな格好したやつが空から降って来たら、どんな噂が立つか分かったものじゃないから……」
「こんな格好って?」
「いや、だから……、見れば分かるじゃない」
「分かる。分かるぞ霊夢。そいつ、霊夢にそっくりな顔してるもんな」
「顔じゃなくて格好よ。ったく、どいつもこいつも私にそっくりそっくりって……」
そっくりという言葉に、背後で身を隠すゆっくりが身じろぎした。
先ほどのように例の言葉を発して来ないのは、目の前に二人がいるためか。
「私みたいな格好してるじゃない」
霊夢が足元のゆっくりに目を落とすと、二人もその姿をよく確かめようと首を傾けた。
「リボンとか耳んとこの筒とかさ」
すると、二人が困惑した表情を見合わせた。
「……その格好、お前がさせてるんじゃないのか?」
「違うわよ。最初からこの格好だったの」
「れーむそっくりの格好で、そいつは空から降ってきたのか?」
「そうよ」
「ちょっと待てよ、おかしいだろ。やっぱりそいつが落下物の正体だったのか? 新聞にはお前と紫の子とも書いてあったじゃないか」
「あんなくだらないことを信じられる魔理沙の頭の方がおかしい」
「れーむの子じゃないのは分かるとして、そのちびれーむは一体何者なんだ?」
「それが分かったら苦労しないわよ」
交互に質問を投げかけてくる二人に、霊夢は苛立っていた。
その後も三人が不毛な問答を繰り広げていると、いつの間にか出てきたゆっくりが飛び跳ねながら三人の足元を通り過ぎていった。
「お、おお?」
「何だ何だ」
ゆっくりは、どよめく二人に目もくれずガラス戸の前に立つと、おもむろに頬をくっつけた。
頬とガラス戸の吸着によって、徐々に戸が開いてゆく。
きっと昨日も同じ方法で外に出たのだろう。
「ちょ、ちょっとあんた」
霊夢の戸惑いの声にはしっかりと反応し、振り返った。
「ゆっ!」
まるでついて来いとばかりに声を上げ、ゆっくりは外に出ていった。
「おい、行ってみようぜ」
「おうっ」
興味津々と顔に大書した魔理沙と萃香が、ゆっくりに続いて外に出る。
「ちょ、あんたたちまで。待ちなさいってば」
ばれてしまったとは言え、外に出ていったゆっくりを放っておく訳にもいかず、霊夢も二人の後に続く。
意外にも、飛び跳ねて移動するゆっくりは足が速く、外に出てみると、魔理沙と萃香が表に出る角を折れたところだった。
駆け足で後を追いかけると、二人が拝殿の前で立ち止まっていた。
何やら拝殿の方を見て、ぽかん、としている。
「どうしたの?」
二人の視線の先を追いかけると、賽銭箱の奥、観音開きの格子状の戸板の手前に、ゆっくりはいた。
二人の前では警戒して見せていなかった、例の憎たらしい笑みを顔に浮かべながら。
「ゆっくりしていってね!」
やはり出た。
霊夢からすれば、もはやその笑顔が出たときのお決まりと化していた。
「ゆっくりしていってね! ゆっくりしていってね!」
横で呆気に取られる二人の衝撃と言ったら無いだろう。
霊夢自身経験していることだから、二人が固まるのもよく分かる。
が、頭が痛い状況には違わない。
ぐちゃぐちゃの黒線を頭の上に浮かべながら、ゆっくりを黙らせようと一歩出たところで、「待て」と魔理沙の手が伸びた。
「何よ」
「分かったんだ。私、分かったんだ」
「何がよ」
「あいつの正体」
「あいつって……ゆっくりのこと?」
「ああ」
つい、二人の前でゆっくりの名を口にしてしまったが、そんなこともお構いなしに魔理沙は息巻いていた。
「あいつの格好といい、霊夢そっくりの顔といい、そしてこの行動といい……。なあ、お前達分からないのか?」
「分からないぞ」
「だからそっくりじゃないってば」
「ふふふ、馬鹿だなぁ」
「是非ともご教示頂きたいものね」
「仕方ない。いいだろう」
魔理沙の言う事なので、話半分、そのまた半分で聞いておくべきである。
「いいか。あいつは、ゆっくりはな、ここの神様なんだよ」
「……はあ?」
「博麗の巫女そっくりの格好と、そっくりの顔。神社でゆっくりしていけと言い、おまけに参拝客である私達に賽銭をねだっている。博麗の神様以外にそんなことする奴がいると思うか? どうだ、完璧な推理だろう?」
「おおおー」
歓声を上げた萃香は、誇らしげに胸を張る魔理沙に、感心や尊敬といった類の眼差しを向けている。
「アっホくさ」
何処に、空から降ってきて三日三晩寝込む神様がいるのだと、霊夢は魔理沙の推理を鼻であしらった。
すると、誰もいないはずの右隣から声がした。
「なるほどなるほど。博麗の神様ってのは有り得ますね」
「あ、文っ」
考えてみれば、咲夜だってそうだし、この鴉天狗だってそうだ。
いつの間にという言葉は、何も紫のためだけの言葉では無いらしい。
「こんにちは。霊夢さん」
散々好き勝手記事にしてくれた文には、言いたいことが山ほどあった。
「そうね。私の隠し子よりは、博麗の神様のほうがよっぽど現実的だと思うわ」
「いつも読んでくれてありがとうございますっ」
この期に及んで、屈託の無い笑顔で清々しく礼を言われると、もはや悪意を感じずにはいられない。
霊夢はあからさまに猜疑の色を浮かべ、
「どうせ最初から聞いてたんでしょ? そういう訳だから、もうあんたには何も話すことはないから。はい残念でした」
「まあまあ霊夢さん。そんな怖い顔しないで下さいよ。新聞特有の表現で霊夢さんを不快にさせてしまったのでしたら、謝ります。ですが、私も報道に身を置く者でして、この騒動を最後まで見届けたいのですよ」
「騒いでるのはあんただけよ」
「そう言わずに。……とは言っても、確かに霊夢さんでも、ゆっくりがやってきた目的とかは知らなそうですね。その代わりといったら何ですけど、普段の生活風景を取材したいのですが、如何でしょう?」
「生活風景?」
「そうです。おはようからおやすみまでの日常を、カメラに収めさせてくれませんか? 霊夢さんだけが知り得るゆっくりの素顔ってテーマで」
「絶対、嫌」
ただでさえゆっくりに一日中べったりされて滅入っているのに、もう一人増えたらいよいよ気が触れてしまう。相手が文なら尚更だ。
本当は今だって、特大の陰陽球で文を山の彼方まで吹っ飛ばしてやりたいくらいなのだから。
「じゃあせめて、紫さんが買った布団だけでも……」
「いーやーだ!」
「おいおい霊夢、何もそこまで」
「魔理沙は黙ってて」
首を可動範囲いっぱいに回し、左にいる魔理沙を睨みつける。
「は、はい……」
「れーむ、こええ」
さらに魔理沙の左隣にいた萃香がそう言うと、文は「ふむ」と声を漏らした。
「分かりました。今日のところは何も伺えないと思いますので、霊夢さんが落ち着いた頃にまた来ることにします」
誰の所為で不機嫌なのか分かっていないのか、文はぬけぬけとそう言ってのけた。
「あ、そうだ。折角ですし、博麗の神様にお祈りしていきますね」
文は賽銭箱の前まで歩み出ると、おもむろに胸ポケットから硬貨を取り出し、賽銭箱に投げ入れた。
拍手(かしわで)を二つして、最後にゆっくりに向って拝礼をした。
「ゆっくりしていってね!」
ゆっくりは、二三小さく飛び跳ねながら、文の白々しい拝礼に嬉しそうに応えた。
それを見ていた萃香は、
「おいまりさ、あたし達も賽銭入れよう」
「確かに。こんな面白い神様になら金やってもいいよな」
「てことでまりさ、金!」
「まあちょっと待てって。私から先に入れさせてくれよ」
「何でだよ。あたしが先だぞ」
「いやいや私が先だぜ」
二人ははしゃぎながら、賽銭を入れる順番で揉めている。
文はそんな二人の横を通り過ぎ、後ろで突っ立っている霊夢に微笑みかけた。
「では霊夢さん。今日もありがとうございました」
取材用の笑顔には騙されないとばかりに、腕組みした霊夢の表情は渋かった。
「今度適当な事書いたら、山、襲撃しに行くから」
「あはは。霊夢軍団、文々。新聞襲撃事件って訳ですか」
「そういうことになるわね。一人対一山だけど」
「怖い怖い。それでは、原稿執筆を控えてますので私はこれで。次号もどうぞお楽しみにっ」
またも敬礼ウインクを可愛らしく飛ばして、文は山の方角へと飛び去った。
「ったく……」
新聞で溜まった怒りを文本人にぶつけてみても、巧くあしらわれたというか、不完全燃焼というか、どうも毒気を抜かれた気がした。
似たようなことをいつも紫にやられているので、得てして古株妖怪は同じ趣味を持っているのではないか。
夢中で拍手をする二つの背中をぼんやり眺めつつ、霊夢は引き合いに出した紫のことを考える。
『もちろん私も協力する。私の可愛い霊夢と、ちび霊夢のためだもの』
『貴女が私に会いたいって思ってる時、いつも私から会いに来てるでしょう?』
やはり、妖怪の言うことは信用ならない。
紫の台詞を頭で繰り返すうちに、霊夢はそう痛感したのだった。
■11
魔理沙と萃香と文が久しぶりの賽銭をしていった翌日、何とも馬鹿げた現象が起きた。
この日、朝寝をしていた霊夢は外の騒がしさに目を覚ました。
何事かと外に出てみると、何と、神社が参拝客で賑わっていたのだ。
霊夢はそれを見て、目を擦ったり、頬をつねったりして、これが現(うつつ)であることを確かめた。
夢でないと分かっても、一体何がどうなっているのか分からず、呆然と立ち尽くしていた。
「こ、こここここれは……?」
修繕もままならない拝殿と社務所があるだけの、うらぶれた神社が人妖で埋め尽くされる光景は、夢ですら見たことがない。ゆっくりが降ってきた翌日ですら、これほどの野次馬は集まっていなかっただろう。
その混雑ぶりは尋常ではなく、紅魔館の連中をはじめとする、白玉楼、永遠亭、山の連中の姿もあった。おまけに八目鰻の屋台が無断で出ていて、繁盛しているようだった。
「い、一体どうなってんのよ、これ」
社務所の陰から、恐る恐る賑わいの中へと足を踏み入れる。
途端にどよめきが上がり、参拝客の視線が一斉に霊夢に向けられた。
「う……」
よく分からないが、針の筵だった。
大勢の参拝客から注目されるという、未だ経験したことの無い事態を前に霊夢が縮こまっていると、近くにいた紅魔館の面々が近寄って来た。
「霊夢、調子はもう良いの?」
咲夜に日傘を持たせたレミリアが、幼い八重歯を覗かせ話しかけてきた。
「ま、まあね。おかげさまで」
「色々大変そうだったものね」
含みのある言葉と共に、レミリアは目を細める。
「そっちこそ何しに来たのよ。わざわざ日傘差してまで」
「晴れても雨が降っても傘が必要なのは人間だって同じでしょう? 私の場合、しっかり曇った日以外は全部必要だけど」
「で、何の用?」
「何ってもちろん、噂の神様を見物しに来たのよ」
「噂の神様?」
心当たりが無い訳なかった。
博麗神社に祀られた噂の神様と言えば、昨日の魔理沙のこじつけ推理しかない。
それを聞いていたのは、霊夢を入れてたった三人。
たった一日足らずでこれほどの人妖の耳に触れさせる芸当が出来るのは、一人しかいない。
「咲夜」
「はい」
レミリアが伸ばした手に、咲夜はさっ、と紙の筒を持たせた。
蝋の封が解かれ、丸まった紙が開かれる。
「ほら、これ」
レミリアは広げた紙を霊夢に手渡した。
やたら西洋風に包装されていたものの、パルプ紙で出来たそれは、予想通り文々。新聞であった。
「落ちてきたのが霊夢の隠し子じゃなくてご利益のある神様ってなら、誰だって見たくなるでしょう」
吸血鬼が言うと若干違和感のある言葉を片耳に、霊夢は夢中で目線を走らせる。
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文々。新聞
第百二十四季 水無月ノ十八 号外
【博麗の神様『ゆっくり』 降臨】
およそ一週間前の水無月ノ十に、夜空から光輝く物体が降って来たのは記憶に新しいだろう。ご存知の通り、隕石騒動の発端となった出来事である。
前号では、隕石騒動との関連性を交えながら博麗神社に現れた謎の生物(写真上)についてお伝えしたが、小紙はついにその正体を突き止めた。
この生物は博麗神社が祀る対象──つまり、博麗の神なのだ。
写真を見て分かるように、この生物は明らかに霊夢氏との繋がりを感じさせる。
昨日、そのことについて改めて霊夢氏に取材を申し入れに行ったところ、「神」は拝殿に鎮座して、霧雨魔理沙氏と伊吹萃香氏の参拝を見守っている所に偶然居合わせた。(写真下)
落下物の正体が博麗の神ということであれば、霊夢氏が回収したのも頷ける。
しかし、神自身は隠蔽までは望んでいなかったようで、神は参拝客の二人に「ゆっくりしていってね」と神社に逗留するようしきりに話しかけていた。
霊夢氏によれば、神は「ゆっくり」という名らしい。
その振舞いから名付けたであろう何とも安直なネーミングであるが、本来神というものは、そんな風に親しみの持てる存在なのかもしれない。
そして、神であれば当然か、ゆっくりには不思議な力があると思わせる。
小紙記者がゆっくりを見た時、まるで締め切りを忘れてしまいそうになるほど、神社でゆっくりしていきたくなるほど、何とも和やかで“ゆっくり”とした気分にさせられた。神に対して不適切な言葉だが、少なくともゆっくりを見ているだけで笑みが零れてしまう。
ゆっくりの種類にも色々あり、人それぞれだと思う。
その“ご利益”が万人共通かは分かりかねるが、博麗神社に降り立った神様を一度確かめてみてはどうだろうか。
後日、霊夢氏が落下現場にすのこを渡してくれるそうなので、空を飛べない人はそれを待ったほうがいいだろう。
なお、小紙記者は二度ゆっくりに会っているが、どちらも昼以降だった。
博麗の神は朝が苦手かもしれないので、参拝の際には参考にして欲しい。
(射命丸文)
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前号の接写の写真に加え、魔理沙と萃香が拝礼している写真が大きく掲載されていた。
いつの間にこんな写真を撮られたか分からないが、文があの二人の前で賽銭を入れてみせたのは、これを撮る為だったのだ。あの可愛らしい笑顔の裏に潜むしたたかさは、やはり油断ならない。
霊夢が参拝客の為にクレーターにすのこを架ける話にされているし、ところどころ事実が歪曲されている。そんな記事を読んだ霊夢の頭に“妖怪の山襲撃”の文字が過ぎる。
どうにか平静を保とうと辺りを見回していると、大半の参拝客の手にも文々。新聞が握られているのが目に入った。
「そういうこと」
霊夢が呆れながら新聞を突き返すと、レミリアは楽しそうに頷いた。
「そういうこと」
レミリアをはじめとする、ここにいる参拝客は皆ゆっくりを見に来たのだ。
拝殿の方に目をやると、賽銭箱に金を投げ入れる客で騒然としていた。
前の客の頭越しに賽銭を投げ込む輩がいるほど人だかりが出来ていて、見れば、群がっている客の多くは里の人間達だった。
けもの道で有象無象に出くわすのを恐れる彼らが何故ここにいるのか。
それに、階段が吹き飛ばされて昇って来られないはずなのに、どうやって来たのだろうか。
拝殿の庇の両端で、参拝客の列整理をする魔理沙と萃香の姿を見て、その疑問は案外簡単に解決出来そうだと思った。
鈴の音、拍手の音、賽銭箱に賽銭が落ちる音、客のざわめき、魔理沙と萃香の要領を得ない指示。
そしてもう一つ、ゆっくりの声が合間々々に聞こえてくる。
「ゆっくりしていってね! ゆっくりしていってね!」
背伸びをしてみると、昨日と同じ場所で嬉しそうに飛び跳ねるゆっくりが見えた。
その姿が、参拝客の賽銭を煽っているように見えなくもない。
「あんの馬鹿……、そんながめつい神様がいるわけないっての」
霊夢は苦々しく呟いて、人だかりの外側を周り、魔理沙のもとへ歩み寄る。
「おう、起きたか霊夢。見ろよこの繁盛ぶりを!」
魔理沙は誇らしげに広げた左手を参拝客の方へ向け、嬉々と声を上げた。
「何であんた達が仕切ってんのよ。あんた達もグルだったってわけ?」
「何のことだ?」
「とぼけないでよ。わざと新聞に載るようなことをしたんでしょ?」
「文とグル? 妙なこと言うなよ。霊夢が吹っ飛んだ階段にすのこを渡すって言うから、気を利かせて私が先にやっておいたんじゃないか。失礼なヤツだな」
「あのねぇ……、私があんなこと言うとでも思った? だいたい、里の人達をここに来させるなんて危なくて仕方ないじゃない」
「ああ、それなら心配ないぜ。萃香がその辺の妖怪達に参拝客には手を出すなって言ってあるみたいだから」
「萃香が?」
思わず反対側にいる萃香の方へ目をやったが、人垣の前に通常時の萃香が見える訳もなかった。
確かに鬼ともなれば、有象無象の行動を制限することくらい造作も無いだろう。
だが、何故萃香がそのようなことをするのだろうか。
「いやはや、これで豪勢なメシが食えるってわけだ」
「は?」
「何だよ鈍いな。最近は神社のお財布がすっからかんって理由で中止続きだったじゃないかよ」
「……まさかあんたたち、宴会がしたくてこんな事してるの?」
魔理沙は気障ったらしく首を振った。
「ちょっと違うぜ。ほら霊夢、よく見てみろよ。ゆっくりは自らあそこに立ってて、客も自分から参拝しに来ている。私達は霊夢が寝ている間から、参拝客が気持ち良く賽銭出来るようにこうして社務をしてたんだ。その見返りだと思えば、宴会の二回や三回くらいどうってことないだろ? それにこの調子なら、当面は収入に困らないだろうし」
魔理沙の台詞にしては筋の通っている方だったが、多くの参拝客は文々。新聞を手に持っている。
彼らがここにいるのは、明らかに魔理沙と萃香の拝礼する写真が原因なので、自己啓発とも少し違う。
しかも、宴会は一回では気が済まないと来ている。
「二回も三回も豪華な宴会をやったら、あっという間にすっからかんよ」
「大丈夫だって。ゆっくりがまた稼いでくれるさ」
「金回りがそんな都合良く行くわけ無いじゃない」
「霊夢は貧乏生活が長いからそう思うんだよ」
「そんな考えじゃ、あんたは今に破産するわよ」
「ははっ。ジリ貧生活をしてる霊夢よりマシだろ。金儲けするって考えが元々無いんだから、いずれ霊夢は破産するところだったさ。ゆっくりがいなければな」
霊夢は後ろを振り返り、会話中もずっと飛び跳ね続けているゆっくりに目をやった。
「あいつ、気でも違っちゃったのかしら」
ゆっくりは参拝客らを煽り続けている。
飛び交う賽銭の中には、ゆっくり目掛けて飛んでゆくものもあった。
賽銭をぶつけられても、ゆっくりは動じず参拝客らを煽り続ける。
「ゆっくりしていってね! ゆっくりしていってね!」
じゃらじゃらと音を立てて、金が賽銭箱の中に吸い込まれてゆく。
先ほどよりも賽銭箱の中で立つ音が高くなっている。金が金の上に落ちているのだ。
「一体いくら集まったのかな……」
下手をすれば、この短時間で半年分は集まっていそうな気がする。
それくらいの勢いで賽銭は投げ込まれていた。
爪に火を灯す生活が長い霊夢にとっては、賽銭箱の中で金が堆く積みあがる光景はまさに垂涎(すいぜん)ものだった。
「おい霊夢、聞いてんのか?」
賽銭箱の音に気を取られていて、魔理沙の言ったことは全く聞いていなかった。
「え、あ、うん」
「決まりだな。じゃあ客が帰ったら宴会の準備だぜ」
「……もう、仕方ないわね」
もしかすると、参拝が終わったのにも関わらずまだ境内に残っている知った顔ぶれも、それが目当てなのかもしれない。
もともと霊夢も宴会好きなので、予算が確保できた今では宴会をすること自体に異論は無かった。
ただ、この流れからして、ゆっくりが自動的に参加になるどころか宴会の主役になることは目に見えている。
──大丈夫かしら、あの子。
果たして、自分以外に懐かない節があるゆっくりを、大勢の酒の席に出して問題無いのだろうか。
どうしても不安は拭えない。
霊夢は、疲れた素振りも見せず飛び跳ねるゆっくりを、ただただ見つめていたのだった。
■12
夕方、最後の参拝客が帰った後、境内に残っていたメンバーに宴会の知らせを伝えると、案の定全員から参加の返事が返ってきた。
これもゆっくり効果なのか、宴会に出席する人数は普段の宴会よりも多く、ざっと数えても三十人弱。詰め込めば何とか広間に収まるだろう。
費用は全額神社の出費となり(賽銭が会費だと言う者もいた)、もてなしも神社で全て用意しなければならないが、それは問題無い。費用なら今日得た賽銭で賄えるし、豪華な食材を使って料理がたくさん作れるのだから、料理好きな霊夢にとっては嬉しい限りであった。
不安はゆっくりだった。
料理中は台所に引っ込まなければならないため、その間霊夢はゆっくりと離れることになる。
ゆっくりが主役扱いされるのは明らかなので、まさか料理中そばに置いておく訳にもいかない。
だが、ゆっくりがその扱いに一人で耐えられるとはとても思えず、かといって台所を離れる訳にもいかない。
宴を前に浮かれる面々の中、準備を進める霊夢だけがそんなジレンマに苛まれていた。
宴会を始められる程度に品数を揃えた後、広間に横長のテーブルを四つくっつけて並べ、外で雑談していた三十人弱の人妖を座らせた。
すると、何とも面白い座席になった。
テーブル中央にいるゆっくりの近くに座りたいからと、三十人弱が一斉に席を取り合ったのだ。
ゆっくりの隣の席を取ったのは魔理沙と萃香で、その向かいの席はレミリアと咲夜が取った。
ついで、萃香の隣ににとり、魔理沙の隣にてゐ、その向かいは幽々子と幽香といった具合で、座席は内側から早い者順で次々に埋められた。
出遅れた連中は、連れが既に席を取っていても離れて座ることになった。
主に置いて行かれた妖夢が良い例で、テーブルの端に固まる八雲一家の輪に混ざっていた。
宴会が始まると、連中はくじで決めたような座席を気にすることなく、近い者同士で盛り上がった。
だが、広間を出入りする霊夢は文の位置が少し気になった。自慢の足で悠々とゆっくりの隣を確保すると思いきや、意外にもテーブルの端にいた。紫の隣だった。
文は紫に取材をしたいと前から記事にしていたので、きっとこの機会を利用しているのだろうと霊夢は自己解決した。
──今までほとんど役に立ってなかったんだし、せいぜい引き付けておいて。
あれほどゆっくりのことを可愛がる紫が、隅っこでちびちびやっているのには不自然さを覚えるが、文にゆっくりの隣に座られるのが嫌だったので、尚更そう思った。
肝心のゆっくりはと言うと、積み上げた座布団の上で、ご機嫌の魔理沙と萃香に挟まれて良い様に弄られていた。
しかし本人に嫌がる素振りは無く、むしろ人懐っこく接している感じがする。
例の如く、ふてぶてしい笑みを顔に貼り付けているが、周りの声にちゃんと反応するし、彼女用に作った納豆巻きを頬張るのはもちろん、レミリアにだし巻き卵を食べさせてもらってすらいた。
今のゆっくりには、紫に見せていたような警戒心は無い。
どうやら紫だけ嫌われているに違いなく、霊夢が宴会前に抱いたジレンマは杞憂に終わったらしい。
途中から妖夢が手伝ってくれたのもあって、良いペースで料理を出すことが出来た。
テーブルが皿で埋まった頃、霊夢は杯を手に広間へ向かった。
最初に見た配置から若干変わっていたが、席に空きは無く、誰も席を立つ様子が無い。
おまけに宴会の光と音に誘われたのか、リグルやチルノといった顔もいつの間にか増えている。
連中は良い具合に酒が回り始めたらしく、誰も霊夢が杯を持って立っていることに気付いていない。何処に座ろうかと霊夢が遠巻きに眺めていると、萃香と目が合った。
萃香は手を大きく振って、
「おおいれーむ、こっちこっち」
萃香のテンションがいつもと同じなのは、普段から酔っ払っているので当然と言えば当然である。
萃香に呼ばれるままテーブルの中央に来たはいいが、やはり座るスペースは無かった。
仕方無く、窮屈ではあるが萃香の後ろでふすまを背に体育座りすると、それを見た萃香がすかさず腕を掴んできた。
「そんなとこ座ってないで、ほら」
「ちょっと萃香、あいたっ」
萃香の怪力によって、霊夢の体が前に引っ張り出される。
「よしきた」
魔理沙がゆっくりを座布団ごと浮かすと、そこに霊夢が綺麗に収まった。
ついで霊夢の膝上にゆっくりが置かれ、萃香が酒を注いできた。流れるような連携であった。
「ちょっとあんた達!」
「れーむさんご案内~」
「あっはっは、ピタゴラスイッチだぜ」
「何よそれ」
「ゆっゆっ」
膝の上では、ゆっくりが嬉しそうな上目遣いを寄越している。
「もう、重たいったらないわ。ほら、早く降りなさいよ」
「ゆっゆっ」
「膝に乗せといてやればいいじゃんかよう」
「そうだそうだ。後ろに追いやったら可哀想だぜ」
「ならあんた達どっちか代わりなさいよ」
「霊夢の膝の上がいいんだよ。な、ゆっくり?」
「ゆっ!」
「はは、そうかそうか」
霊夢の膝上で飛び跳ねた後、ゆっくりは魔理沙に乱暴に頭を撫でられて、されるがままだった。
「どうでもいいけど、人の膝の上で飛び跳ねないでよ。重たい」
「ゆっ!」
「二人は本当に姉妹みたいですね、お嬢様」
「そうね。私とフランより仲良さそうだし。羨ましいわ」
前に座るレミリアと咲夜もそんなことを言う始末であった。
もはや霊夢にはその言葉を否定する気も起きない。
「ほら、ちゃんと前向きなさい」
霊夢はゆっくりを持ち上げて、前を向くよう直した。
「ゆっくりしていってね!」
「はいはい」
前の二人が微笑ましくこちらを見ているのに気づかないふりをするために、霊夢は酒を呷った。
杯を置いた折、テーブルの隅に座る紫と目が合った。
酒の熱さが胸に広がってゆく中、その瞬間は一際胸が熱くなった。
ゆっくりを膝に置いていることを遠くからからかわれるのか、それとも、ゆっくりが表沙汰になったことを責められるのか、それともいつも通り微笑みかけてくれるのか。
そのどれでもなく、紫はじっと霊夢のことを見つめていた。
霊夢もまた、杯を手にしたまま紫のことを見つめ返した。
宴会の馬鹿騒ぎが止み、二人以外の全ての色が褪せたような感覚。
それらは、紫が目を逸らしたことであっけなく解けてしまった。
その後、紫は文と談笑を再開した。
ゆっくりが降ってきた当初、最も注意すべき相手として文の存在を挙げたのにも関わらず、色々と面白可笑しく書かれているのにも関わらず、紫はその張本人と酒を交わしているのだから、霊夢には不愉快で仕方が無かった。
──何よ。いつもいつも、勝手なことばっかりして。
昨日、ゆっくりの存在をスッパ抜かれた時も紫が姿を現さなかったのもあり、紫に対する不満は最高潮に達していた。
しかし、ここで紫にどんな態度をされようとも、霊夢にはもうゆっくりを隠し立てるつもりはなかった。
何故なら、ゆっくりを囲んで騒ぐ連中は、ゆっくりや、ゆっくりを隠した霊夢に対して責め立てる真似は一切しなかったからだ。むしろ、ゆっくりは歓迎されていると言ってもいい。
幻想郷は全てを受け入れる。
それがこの世界の本質ということを、霊夢は今まで忘れていた。
──初めから、こうしておけばよかったのよ。
霊夢は自分にそう言い聞かせながら二杯目の酒を呷ったのだった。
それ以降は、紫と目が合うことも無かった。
料理を追加するためにしばしば席を立ったが、戻るところはゆっくりの座る場所で、席を移って紫と会話をすることも無かった。その代わり、いつも以上に酒が進んだ。
宴会は散々盛り上がって、夜更け頃にお開きとなった。
理由は、単純に用意した酒が尽きたからだった。
解散間際の流れで、明日もまた同じ時間に宴会をすることになった。
神の降臨を祝うには一日では足りないというのが建前だ。
完全に神社の財布の潤い具合を当てにされているが、酔っているせいもあって霊夢はそれを了承した。
宴会参加者達がそれぞれの棲家や縄張りへと帰っていった後、霊夢は一人後片付けをし始めた。
散らかった食器類を纏めていると、テーブル上に出来たスペースにゆっくりが飛び乗ってきた。
「こら。テーブルに乗っちゃ駄目でしょ」
「ゆっゆっ」
「手伝ってくれるの?」
「ゆっくりしていってね!」
ゆっくりは近くにあった箸を咥え、霊夢が持つ盆の上に落とした。
「じゃああんたは箸を集めてね。私は皿担当」
「ゆっ!」
二人は分担して、食器集めをすることにした。
片付けの音だけが広間に響く。開け放した縁側は静かで、風も無く、少し早い虫の音が聞こえるだけであった。
「宴会が終わると、静かなもんね」
「ゆっ」
「どうだった? 大人数の前で平気だった?」
「ゆっ」
「だよね。あんた人見知り激しいと思ってたけど、違ったんだね。それにしても、紫が嫌いってのは正しいわよ。うん、正しい。だって紫のヤツ、最初はあれだけあんたのことを匿ってやれだとか大袈裟なこと言ってたくせに、あんなに文と楽しそうにしちゃってさ。言ってる事とやってる事、てんで違っちゃってるじゃないの」
今まで溜めてきた鬱憤を吐き出さんとばかりに、霊夢は酒気と共に一気にまくし立てた。
「ふん、何よ。あんな天狗と仲良くしちゃってさ。こっちを見て見ぬフリまでしちゃってさ」
霊夢は、箸を纏めて咥えてやって来たゆっくりに尋ねた。
「あんたもそう思うでしょ?」
ゆっくりは盆に箸を落とした後、お決まりの笑みを浮かべ、
「ゆっくりしていってね!」
と答えた。
霊夢はゆっくりの頭を優しく撫でた。
気持ち良さそうに、ゆっくりの目が細まる。
「ゆっくりか……。明日も宴会があるし、もしかしたらまた参拝客がたくさん来るかもしれないの。社務も宴会の準備もしなくちゃいけないから、きっと明日も忙しくなるわ。ゆっくり出来るのは当分先になるかもね」
霊夢がそう言うと、細まっていたゆっくりの目がはっ、と丸くなった。
「でも、あんたが賽銭箱の前にいる必要は全く無いんだからね。全く、もうあんな無茶しないでよね」
「……」
「さてと。一旦台所に下げてくるから、続きをお願いね」
霊夢は鼻歌交じりに広間を後にし、台所へと向かった。
ゆっくりは霊夢の言われた通り箸集めを再開したが、その動きは鈍く、皿を体にぶつけては何枚も床に落としてしまっていた。
「……ゆっくりしていってね」
消え入りそうな、ゆっくりの声だった。
■13
翌日、ここ数日続いていた天気が崩れ、再びの梅雨空となった。
ゆっくりが来てから初めての雨でもあり、梅雨の時分にしては久しぶりの事である。
昨夜の宴会で思いのほか酔っ払った事や、後片付けが遅くまでかかった事もあり、霊夢は泥のように眠っていた。だが、寝間中に充満した気だるい雨音に起こされてしまった。
二日酔いの頭を抱えながら障子を開けると、空はのしかかるような低い雲に覆われていた。
昨夜酔っていたせいだろうか、開けっ放しにしたままのガラス戸から滑り込む風は、生温く心地の良いものではなかった。
霊夢はガラス戸に手をかけたまま、ぐずついた空に物憂げな顔を向けた。
──こんな天気じゃあ仕方ないか。
昨日とは打って変わって、境内はしんと静まり返っている。
人の気配はせず、しとしととそぼ降る雨音がうるさいくらいだ。
所詮ゆっくりは、ゴシップ記事が仕立て上げた際物の神であり、そこに真の信仰などあるはずが無い。
そんな神を食い扶持の当てにするつもりは無くても、昨日の繁盛ぶりとの落差に、霊夢は少なからず寂しさを覚えた。
霊夢はガラス戸を開けっ放しにしたまま寝間に戻ると、ゆっくりの姿が無いことに気がついた。
確かに昨夜は隣で寝ていたはずだが、ベビー用の小さな布団は空っぽだった。
「あれ? ゆっくり?」
欠伸を飲み込んで、頭の上に伸ばしていた腕を下げる。
これから朝食なので、ゆっくりが一緒でないと準備や後片付けに余計な手間がかかり、面倒である。
宴会で騒いだ次の日ともなれば、ゆっくりがいなくなっても心配事はその程度で、以前のように大騒ぎする気は全く起きなかった。
社務所内を軽く探してみたが、見つからない。
思えば、縁側の戸が開いたままだったので、ゆっくりはまたそこから外に出たのだろう。
外に出たのであれば、行き先はおおかた予想がつく。
縁側から外へ出て、境内の表へと向った。
からころ、と朱色の履物ののんびりした音を雨音に混ぜつつ、傘を持つ手とは逆の手で口を押さえ、先ほど飲み込んだ欠伸を思い切りしながら、拝殿の前にやって来た。
「あれ?」
賽銭箱のところにいると思いきや、そこにゆっくりはいなかった。
「あいつ、一体何処に行ったのかしら」
誰もいない境内で、霊夢は一人ごちた。
「……ま、いいか。そのうちお腹空かせて帰ってくるでしょ」
探し回っているより、玉子焼きの匂いで誘き寄せるほうが得策かもしれない。
そう思った霊夢は社務所へと戻り、朝食の支度に取り掛かったのだった。
■14
雨の中、熱心な参拝客もいたものだ。
昼過ぎからちらほらとやって来た彼らは、噂とは違い神が拝殿に鎮座していないと見るや、社務所にいる霊夢にゆっくりの所在を尋ねて来た。
スペルカードを持ち歩く連中は、日没からゆっくりも参加する宴会があると知っている為、日中の参拝客は全員が里の人間だった。
縁側から逃げました、では示しがつかないというか締まりが悪いので、彼らには神はやたらめったら人前に姿を現さないと言って、適当に取り繕っておいた。
すると彼らは、お目当ての際物の神が不在だと知るや否や、つまらなそうな顔をして去っていった。
もちろん賽銭はしていない。熱心な現金主義である。
それはそうと、彼らのお目当てのゆっくりが夕方前になっても帰って来ない。
朝食の玉子焼きの匂いで戻って来る事はなく、昼食には納豆巻きを縁側に置いてみたが、それに釣られる事も無く、今では米の水気を吸ってすっかりふやけてしまっていた。
以前、ゆっくりは状態の良くない納豆巻きでも平気で口にしていたので、霊夢はそれを下げずに、横に腰掛けて雨空をぼんやり眺めていた。
──もし、このままゆっくりが帰って来なかったら?
経過した時間に比例して、その可能性が霊夢の頭を過ぎるようになってきた。
「ふん……。いなくなったならなったで、賽銭がっぽがぽだし、これで本当にゆっくり出来るってものよ」
ゆっくりが空から降って来た当初、この状況を望んでいたのだ。
今まさにそれが叶って、おまけに神社の財源はすこぶる潤ったのだ。
この状況が良くないはずがない。
しかし、霊夢の心は頭上の天気のように晴れやかではなかった。
霊夢は足をぱたぱたと前後に泳がせて、舌打ちをした。
「……さっさと帰って来なさいよ」
一つ前に言った台詞とは真逆のことを、霊夢は苛立ちと心配が混ざり合った顔で呟いたのだった。
縁側でゆっくりの帰りを待っていたが、いつの間にか日没が迫っているらしい。前方の木々が闇に溶け入ろうとしていた。
肌寒さを覚えた霊夢が、ゆっくりが入って来れるくらいに戸を細くしておこうとした折、箒に跨った魔理沙が空から降りてきた。後ろには萃香も乗っていた。
「よう、霊夢。今夜も来たぜ」
「来たぜえ」
相変わらず仲の良い二人である。
雨に濡れながらも、二人はにこやかに挨拶をしてきた。
「何よ。二人ともずぶ濡れじゃない。そんなんじゃ風邪引くわよ」
「なあに、これくらいへっちゃらさ」
「そうさ。美味い酒を飲んで騒げば、体はぽっかぽか」
「あ」
霊夢は、思わず間の抜けた声を上げた。
縁側でゆっくりのことを待ち惚けるだけ待ち惚けて、宴会の支度を全くしていなかったからである。
「うん?」
「いや、その……」
「どうした?」
「……」
「変な霊夢だな」
「……って」
「まあとにかく、上がらせてくれよ。タオル借してくれ」
「待って」
「タオルタオルー」
素早く靴を脱ぎ終えた萃香が、霊夢の脇を通って社務所に上がり込み、一方の魔理沙も片方の靴紐を解き終えていた。
「待って!」
霊夢が声を張り上げると、魔理沙は驚いた面持ちで顔を上げた。
目で確かめた訳では無いが、廊下を駆けてゆく足音も鳴り止んだので、萃香も驚いて振り返っているのだろう。
霊夢の大声の後、急に静まった場を埋めるように雨音が流れ込んでくる。
「ど、どうしたんだよ霊夢。大声なんか出して」
恐る恐るこちらを伺う、魔理沙の声。
俯いた霊夢の唇から滑り出たのは、打って変わって小さな声だった。
「中止よ」
「え? な、何が?」
「宴会は中止って言ったの」
萃香はそれを聞いて、霊夢の元へ駆け寄った。
「ええ! 何でだよう?」
「何でもよ」
淡々と答える霊夢の腕を掴んで、萃香は懇願する。
「そんな、あんまりだ! あたしは宴会が楽しみで今日を生きて来たんだ。そんなあたしから宴会を奪うなんて、鬼のやることだ!」
「おいおい、霊夢だって昨日やるって言ってたじゃんかよ。約束は守ってくれよな」
「そうだそうだ。魔理沙の言うとおりだ!」
「どうせ今まで寝てて、支度してなかったんだろ? そんなんで宴会を中止にされてたまるかって」
「支度が出来るまで、いくらでも待つよ! あたしは!」
「私も待つぜ。手伝う気は全く無いがな」
好き放題言う二人に挟まれて、霊夢はゆったりと顔を上げた。
「ゆっくりが、一人で出かけたまま帰って来ないの」
途端に、魔理沙と萃香は黙り込んだ。
再び沈黙が流れたと同時に、雨が強まってゆく。
屋根を打ちつける激しい雨音が、頭上から降り注ぐ。
その音と霊夢の只ならぬ様子に、魔理沙の顔色も変わってゆく。
「この雨の中、か……?」
魔理沙の言葉に頷きながら、霊夢は外に目をやった。
すると、いつからそこにいたのか、鴉天狗が縁側の庇の下に立っていた。
文は本当にタイミングの悪い時ばかり顔を出してくる。
「宴会二日目、参加させてもらおうとやって来たのですが、中止なんですね」
「……ええそうよ。だからさっさと帰って」
「ゆっくり、いないんですか?」
こんな時にでも、文は手帖とペンを忘れない。
日付でも書いたのか、胸の前に構えた手帖に短く何かを書き込むと、文は例の如く小首を傾げながら可愛らしく微笑んだ。
霊夢は冷たい何かが背中を這い上がるのを感じながら、口を開く。
「ちょっと外出してるだけよ」
「ほう。この雨の中? こんな遅くまで? 外出先はどちらですか?」
返答次第では、また面白おかしく記事にされるに違いない。
「今朝から具合が悪そうだったから、永琳のところに連れて行ったわ。今日は大事をとって向こうに泊まることになったの」
文は、ペンを目にも止まらぬ速さで走らせながら、質問を返してきた。
「あやややや、そうでしたか。私が見た限り、今日霊夢さんは神社を出られていないようですが、いつの間に?」
ちらりと、それでいてわざとらしく、縁側に置かれっぱなしの納豆巻きを一瞥して、文はペンを止めた。
返答次第ではない。
このブン屋は、どう答えようと面白おかしい記事にする。
文の一瞬の仕草を見て、霊夢はそう思った。
「それは……、紫が連れて行ったのよ」
しどろもどろに霊夢は答えた。
急ごしらえした嘘は、早くも瓦解寸前だった。
「ふふっ」
すると何処からともなく、聞き覚えのある笑い声がした。
「貴女以外に懐いたためしが無いのに、医者のところへ連れて行けるわけが無いじゃない」
そこに助け舟を渡したのは、神出鬼没のすきま妖怪だった。
霊夢と文の間の空間がただれるようにずるり、と裂けると、そこから上半身を覗かせた紫がブン屋からペンを取り上げた。
「ああっ、ちょっと」
紫がひょい、と水溜りに向ってペンを投げると、水面に触れる瞬間にそれはすきまへと消えていった。
ついで、紫は霊夢の顔を見るや、じわじわと顔をほころばせた。
ゆっくりが表沙汰になってから初めて紫の声を聞いた。昨夜の宴会の時には会話も無く、遠目で彼女の顔を見ただけだった。そのせいもあって、随分と久しぶりに紫に会った感じがした。
そんな紫は、こちらに話を合わせてはくれなかった。
呆気に取られる霊夢を前に、紫は悪びれる様子もない。
もしやこのすきま妖怪は、助け舟ではなく引導を渡しているのではないか。
「ゆっくりの看病の仕方は、あんな医者よりも貴女が一番よく知ってる。ね? 霊夢」
「つまり、ゆっくりは医者にかかっている訳ではないと。興味深いです。それで、ゆっくりは今どこに?」
先ほどペンを失った文だったが、既にスペアのペンを手にしていた。
紫は僅かに眉をひそめて、文の質問に答える。
「まあ、誰かの家にいるってことはまず無いわね」
「というと?」
「この有象無象で溢れた幻想郷の何処かを、一人さまよっていると思うわ。いいえ、きっと今頃怖くて怖くて泣いてるでしょう。だって、ゆっくりは人見知りでとても臆病な子なんだもの」
文の質問が入る前に、霊夢は口を挟んだ。
「何デタラメ言ってんのよ。ゆっくりは今、永琳のところよ。人見知りで臆病っていうのも嘘よ。ゆっくりは参拝客の前に立ったり、宴会で皆に人懐っこくしてたじゃない。紫だけが嫌われてるって、そろそろ気づいたらどう?」
今までのフラストレーションもぶつけるつもりで、霊夢は捲くし立てた。
紫はすきまから降り立つと、霊夢の顔を直視した。その目はいつになく真面目で、理知的で、冷ややかでもあった。
「ねえ霊夢」
「何よ」
「霊夢は、あの子の言葉に耳を傾けたことはあるのかしら」
「は……?」
「ゆっくりの言葉をちゃんと聞いていたかって言ったの」
ゆっくりの言葉など、一通りしかないではないか。
ゆっくりしていってね。
その言葉に耳を傾けたところで、何になるというのだ。
「傾けて無かったの?」
「当たり前じゃない。一つの言葉しか言えないんだから、聞くだけ無駄じゃない」
紫は首を横に振りながら、深々と溜息を吐く。
「全くこの子は……。言ったでしょう? あれはアロハと同じだって」
「だから何なのよそれは!」
当初、紫はゆっくりを匿う協力をすると言ったのに、実際はほとんど協力してくれなかった。顔を見せたと思えば間近で傍観者を決め込み、しばらく音沙汰無いと思えば今頃ひょっこり現れて、説教を垂れようとしている。文の見ている前でだ。
こんな理不尽な状況に、我慢出来るはずもない。
怒り心頭の霊夢は、紫の後ろですっかり大人しくなった魔理沙と萃香も巻き添えにするつもりで、渾身のスペルをお見舞いしてやろうとカードを一枚取り出した、その時。
「あのね霊夢。ゆっくりはね、ゆっくりなんかしていないのよ」
紫が発した言葉は、スペル宣言をしようとする霊夢の口を止めた。
「だって、ゆっくりは、いつも貴女のことを思って行動してたじゃない」
二の句を継ぎながら、紫が歩み寄ってくる。
霊夢の目の前に立つと、紫は両頬に手を当ててきた。
紫のほうがやや背が高く、霊夢は彼女の顔を見上げた。その鋭い瞳に己の姿が映り込むほどの距離に、吐息を顎の辺りで感じられそうなほどの距離に、紫がいる。
「よく思い出してごらんなさい」
普段は老獪に濁る怪しげな瞳が、真っ直ぐに霊夢のことを射抜く。
紫の瞳に映し出された少女の顔は、反転し、酷く屈折していた。
ゆっくりは、本当はゆっくりしていない。
ゆっくりは、いつも自分のことを思って行動していた。
その言葉を軸に、ゆっくりと過ごした日々を思い返す──。
ゆっくりは、髪飾りの筒に仕込んだ納豆巻きを分け与えてくれた。
神社に参拝客を呼び寄せて、多額の賽銭を集めてくれた。
宴会では自ら真ん中の席に座り、それが演技かどうかは分からないが、出席者相手に人懐っこい態度で接した。
宴会の片付けの時は、出来る範囲で手伝いをしてくれた。
それ以外にも、ゆっくりはいつでも言うことを聞いてくれた。
ゆっくりは素直で従順だった。
一度だけ霊夢からの言いつけを破り、外に出たことがある。
だがそれは、その直前の霊夢の言うことを忠実に守っていただけだったのだ。
賽銭が集まればゆっくり出来る、という言葉を。
思えば、ゆっくりは目覚めた直後から、狂ったように訴えていたではないか。
ゆっくりしていってね!
ゆっくりは、その言葉の通りに行動していたではないか。
それなのに霊夢は、ゆっくりに冷たい言葉を投げかけてばかりだった。
『いいわね、あんたはお気楽で。私もあんたみたいになりたいものだわ』
『まあ本当は、あんたさえ……』
己の愚かさに気がつき、霊夢は目頭の熱くなる感覚を覚えた。
「気づいたかしら」
こちらの心の動きを見透かしているような、紫の視線。
霊夢は、その視線から目を逸らさずにはいられなかった。
目を逸らした途端、紫は追い討ちをかけてきた。
「どうして、貴女はあの子のことを邪魔者扱いしか出来ないの? あの子がいたら窮地? どうしてそうなるの?」
「だって……。だって、あんたが最初にそう言ったんじゃない」
怒っているのか、泣きそうなのか、もはや霊夢自身も分からなかった。
霊夢は唇を噛み締めて握り拳を作った。
自分のことを棚に上げて説教を垂れる紫に怒っているのではなく、出来るだけ周りに悟られることなく己を罵りたかったのだ。
霊夢の打ち震える両手や表情を見て、それに気がつかない紫ではない。
紫は霊夢の肩を二三回優しく叩き、微笑んだ。
「お説教は後でするから。早く行ってらっしゃい」
霊夢は小さくも力強く頷くと、廊下を突っ切って玄関へと駆けて行った。
一部始終を呆気に取られながら見守っていた連中は、玄関の引き戸が慌しく開閉する音と同時に硬直から解けた。やはり、最も早く行動に移ったのは文だった。
「おおっ。これは素晴らしい展開ですね! こうしちゃいられま……」
すかさず霊夢の後を追いかけようとする文の腕を、すきまから伸びた手が捕らえる。
「何処に行くつもり?」
文のもとへゆっくり歩み寄る紫は、数秒前に霊夢に見せた優しい微笑ではなかった。
確かに笑顔なのだが、古株妖怪の文ですら震え上がるような恐ろしい形相をしていた。
「いえ……、その、取材を」
「取材なら必要ないわ。霊夢は大切な子を連れ戻しに行っただけだもの。貴女は私のその一言について一面を好きに埋めればでいい。何なら、昨夜みたいに私がつきっきりで取材に応じましょう」
「わ、私だってあれは望んだ形では……」
「ただし」
紫は余っている手で文の胸倉を掴み、そのままガラス戸へと叩きつけた。
ガラス戸がわななき、背中を打ちつけて呻きを漏らした文に、紫が畳み掛かる。
「霊夢と違って私は優しくないから、記事にする際にはどうぞ慎重に」
■15
手燭も傘も持たず、月明かりの届かない夜雨の中を走る。
幽かに闇に浮かぶ物影だけを頼りに、階段に架かったすのこを渡り、けもの道を抜ける。その途中に、ゆっくりはいなかった。
社務所を飛び出してほんの数分なのに、霊夢はまるで何時間も探し回ったかのように息を切らしていた。
一寸先は真っ暗闇な視界と、体を打ちつける冷たい雨。
加えて刻一刻と強まる雨音のせいで、平衡感覚まで馬鹿になりそうだ。
こんな悪条件の中では、地を這って移動するゆっくりを空から探すことは出来ない。
己の足で、見つけ出すしかなかった。
「ゆっくり! 何処にいるの!」
ゆっくりを呼ぶ霊夢の声は、口を出たニ尺三尺のところで雨音に掻き消される。
「いるなら返事して!」
それでも霊夢は声を切らさない。
ぬかるみに足を取られながらも、その足を止めない。
気がつくと、人里の近くまでやって来ていた。
雨の向こうで、乱反射した数多の明かりが縦横に伸びているのが見える。
霊夢は走りっぱなしの足を止め、その様子を見つめた。
飛び跳ねながら移動するゆっくりは、徒歩よりも早い。姿が見えなくなったのは今朝からなので、一日あれば相当な距離を移動できるだろう。
それは有象無象に出くわさなければの話だ。
もちろん、誰かの元で世話になっていなければの話でもある。
霊夢は後者を願った。しかし、
──ゆっくりは、人見知りで臆病な子。
先の紫の言葉が否定してくる。
それでも、ゆっくりは誰かに拾われて安全な場所にいることを願いつつ、霊夢は人里に入った。
この雨の中では当然か、通りには人の気配が全く無い。夕餉の香りが微かに雨に混じっているので、里の人々は屋根の下で夕食を楽しんでいる頃だろう。
そんな憩いのひと時でもお構いなしに、霊夢は一軒一軒戸を叩いて、ゆっくりが来なかったか尋ねて回った。全件隈なく尋ねてみたが、ゆっくりは見つからなかった。
人里を後にすると、次は紅魔館に向かった。
レミリアや咲夜に懐いていたように見えたので、彼女達のもとにいるかも知れないと思ったのだが、珍しく仕事をする門番に追い払われてしまった。
いくら食い下がっても、門番はゆっくりは来ていないの一点張り。
この時の霊夢は、門番を倒して突破する気力も無ければ、門番が嘘をついているという考えも浮かばなかった。
押し問答をしても仕方無いと思い、次に魔法の森を目指した。
一刻も経っていないが、霊夢の体力はかなり消耗していた。
体のあちこちが悲鳴を上げ、息苦しさの余り顎が上がり、一方で雨に打たれた体が冷え切っている。
紅白の巫女装束は泥で汚れ、見るも無残な様相を呈している。上まつげに乗った雨滴が、僅かな視界さえも奪う。
そんな自分のことよりも、同じ空の下のどこかにゆっくりがいることが霊夢を追い詰めてゆく。
「ゆっくり! ゆっくり!」
慣れない大声を繰り返し上げているせいで、声が枯れ始めている。
たとえ喉の潰そうとも、霊夢は狂ったようにその単語を口にした。
さながら、ゆっくり本人のように。
紅魔館から南西へ下る。
人里を越えて、さらに西を目指す。
魔法の森の入口にある香霖堂は、既に店仕舞いを終え明かりが落ちていた。
店主を叩き起こしてゆっくり失踪の件を伝えたが、いたずらに好奇心だけ煽ってしまい、有益な情報は得られなかった。
霊夢は香霖堂を後にすると、思うように上がらなくなってきた足に鞭を打って、森の中へと入った。
魔理沙はまだ神社にいると思われるので、目指したのはアリスの家だった。
宴会に顔を出さなかったアリスのもとを、ゆっくりが訪ねるとは考えにくい。魔法の森という恐ろしい場所を、ゆっくりが自ら足を踏み入れるとは考えにくい。
どちらも分かっていたことだったが、もはや思いつくところを当たってみるしか霊夢には出来なかった。
案の定、ゆっくりはアリスの所にも来ていなかった。
アリスが肩を落として立ち去る霊夢を心配したのか、身を案ずるような事を二三言ってきたが、霊夢の耳にそれは届かなかった。
そのまま霊夢は森を出た。
頭から一本の太い鉄杭を打ち込まれたかのようで、体が言うことを聞いてくれない。
他にも周りたい場所はあっても、そちらに足が向こうとしない。
何かの抜け殻のような表情をした霊夢は、亡霊のようにふらふらしながら、東の方角を一点に見据えたまま、博麗神社を目指した。
──きっと、ゆっくりは私に嫌気が差したのよ。
頭を埋め尽くすのは、ゆっくりが姿を消した理由だった。
思い返せば、ゆっくりに愛想をつかされる理由なんて山ほどある。
一つ一つ挙げてゆくのも馬鹿らしいほど沢山ある。
その中から決め手になったものを探すことなど、愚行を極めている。
確かなのは、この事態は当然の報いと呼べることだけだった。
散々ゆっくりのことを邪魔者扱いしていたのに、いざいなくなるとこの様である。
茫然とする頭で、何度も何度も己を罵った。
レミリアではあるまいし、今更己を罵ったところで運命が変わるわけでも無いのに。
雨足が幾分弱まってきた頃、霊夢は博麗神社の麓のけもの道まで戻って来ていた。
憔悴しきった表情を貼り付けたまま、霊夢はけもの道へと足を踏み入れる。
この道を抜けて階段を上り切ると、神社に着く。
紫に場を任して飛び出して来たはいいが、魔理沙や萃香、文がまだいるのかもしれない。
それどころか、宴会中止の報せを出した訳でもないので、頭数はもっと増えているかもしれない。
何より、神社で紫が待っている。自分がゆっくりを連れて帰って来るのを、待っている。
──こんなんじゃ……、紫に会わせる顔がないよ。
あれほどゆっくりのことを可愛がっていた紫である。
霊夢が手ぶらで帰ってきたところを見たら、説教だけでまず済まされないだろう。
「ああっ」
情けない声を出して、霊夢は見事なまでに尻餅をついた。
何かを踏んづけたらしく、その拍子に滑ってしまった。
「いっ……たあい」
尻と咄嗟に突いた両手もそうだが、頭上に生い茂る樹木から落ちてくる大きな雨粒が、どうしようもなく痛かった。
いっそのこと、このままここで倒れて果てて、誰かに見つけてもらうのを待っていようか。
そんな卑怯な考えが過ぎった時、霊夢はある物を目にした。
「こ、これ……」
どうやらそれに足を滑らせて転んでしまったらしい。
暗い地面に横たわるそれを拾い上げてみると、一枚の細長い布だった。
泥で汚れてはいるものの、基調は赤で、端が白く縁取られているのが暗がりでも分かる。
まさしくそれは、ゆっくりの髪飾りだった。
分かったと同時に、霊夢は戦慄した。
ゆっくりはこの道を通った。通っていたその途中、髪飾りの筒がはだけるような事が起こった。霊夢自身も同じ物をしているので分かるが、そう簡単にはだける物ではない。物理的な力、それこそ鋭い刃などで力を加えない限り取れることはない。
つまり、ゆっくりはここで何者かに襲われたのだ。
有象無象の牙、あるいは爪。
霊夢にとっては取るに足らない物でも、ゆっくりにとっては凶刃に違いなかった。
「ゆっくりぃ!」
霊夢の悲鳴が、けもの道にこだまする。
鉛のような体を起こし、脇の雑木林へと飛び込んだ。
黒々とした葉や、尖った枝や、足元でアーチを作る木の根や、果ては木が全身で霊夢の行方を阻む。
ゆっくりの手がかりを掴んだ今、鈍っていた博麗の巫女の勘がようやく冴え始め、それらを避けつつ、迷い無く雑木林の奥へと進みゆく。
するとすぐに、そこだけ生えている木々が少ない開けた場所に出た。
円状に開けた空間の中央に、黒い物体が横たわっているのが目に入った。
あそこに横たわっているものは何だ、と勘ぐっている時間すら惜しい。
「ゆっくり!」
霊夢は黒い物体へと駆け寄った。
ゆっくりは、顔を下にしてうつ伏せの格好で倒れていた。絹のようにさらさらな黒髪は雨を吸って、ゆっくりの頭を一回り小さく見せていた。
すぐさまゆっくりを抱き起こした。
霊夢は、夜空から降って来た時や、看病の時や、賽銭箱から降ろしてやった時にゆっくりの体温を知っていた。
普段なら人間と大差ない暖かさがあるのに、今のゆっくりは濡れた石でも持ち上げたかのようで、まるで体温を感じなかった。
「ゆっ……くり」
ゆっくりの顔を見て、霊夢は息を飲んだ。
泥にまみれた顔は、苦痛で歪んだまま動かない。
恐らく、有象無象の凶刃から逃れようと必死にここまで逃げて来たのだ。
顔の随所に切傷や擦傷があり、出血もしている。
血は雨で流されていたが、黒い液体が顔の上を流れた痕が残っている。
あまりにも痛々しいゆっくりの姿に、霊夢は声を失い立ち尽くした。
冷たくなったゆっくりは、ぴくりとも動かなかった。
■16
けもの道には有象無象の妖怪達がうろついている。
先日から、萃香が参拝客には手を出さないよう彼らの行動に制限をかけていたらしいが、その反動なのだろうか。
いずれにせよ、彼らの胃袋に納まることなく、原型を損なわずにゆっくりを神社に持ち帰ることが出来たのだから、まだ幸運な方なのかもしれなかった。
冷たくなったゆっくりを抱いて社務所へ戻ると、紫が一人で待っていた。
霊夢がゆっくりを探しに出た後、紫は文にしこたま灸をすえ、あの場に残っていた連中を追い帰し、式神達を使って幻想郷全土に宴会中止の連絡を速やかに行った。
そのため、紫が一人で社務所で霊夢の帰りを待っていた訳だが、霊夢はそのことに気を回す余裕すら無かった。玄関でゆっくりを紫に渡した後、その場に崩れ落ちてしまった位なのだから無理もないかもしれない。
霊夢は泥まみれのまま、紫に事情を話そうとしたが、とにかく風呂に入って来いと強く言われた。
今日はいつになく真面目な紫であるが、それに対する詮索はおろか、風呂よりもゆっくりの事が先だと主張する気力も湧かず、霊夢は紫の言うことを素直に従った。
風呂から上がると、紫に事情を説明する必要は無いと思った。
ベビー用の布団にゆっくりを寝かせた紫が、険しい面持ちで座っていたからだ。
泥や雨や血で汚れたゆっくりの顔は綺麗に拭き取られていたが、苦悶に満ちた表情は残ったままだった。
紫の隣に座ったが、紫は険しい表情のまま無反応。
霊夢はゆっくりの頬に手を伸ばすと、雑木林で触わった時と同じくらいにゆっくりは冷たかった。
「せっかく」
唐突に、紫が前置きを置いた。
霊夢の視線が自分に向けられた後、紫は続けた。
「可愛らしい顔がこんなに苦しそうに……。よっぽど怖い目に遭ったのね」
「……ごめん」
霊夢の消え入りそうな声に、紫は小さく笑い声を漏らし、
「何も霊夢が謝ることじゃ無いわ」
「だって、私のせいで、ゆっくりは出て行ったんだもの」
「ゆっくりは、自らの足で進んで出て行ったのよ」
「でも、でも……、こんなに冷たいし、ほら、息だって、もう……」
急に込み上げて来た涙を必死に堪えながら、霊夢は絶え絶えに言った。
ゆっくりは息をしていない。
風船のように膨れて萎むような呼吸が、全く見られない。
「もう……?」
霊夢の言葉をオウム返しし、紫は霊夢と目を合わせた。
重苦しい沈黙が降りかかる。
それとほぼ同時に、障子の向こうでは軒庇から落ちる雨音がぱたぱたと鳴り響く。
涙目の霊夢が言い淀む一方で、紫は饒舌だった。
「特殊な環境下であれば、息もせずとも眠りにつくことが出来るそうよ。仮死状態って言ってね、低体温の状態を保ちながら機械が必要な臓器の代わりをするの」
得意のうんちくを垂れて気を紛らわそうとしている、とは思えなかった。
「ここにはそんな大層な機械は無いわ」
「そうね」
よもや、河童にそれを造ってもらおうという訳ではあるまい。
「何よ回りくどい言い方して。言いたいことがあるならはっきり言ってよ。ゆっくりはもう死んでるって、あんたはそう言いたいんでしょう? なら最初からそう言えばいいじゃない。あんたのその人を小馬鹿にした話し方、本当に癪に障るわ」
「落ち着いて霊夢。そうは言ってないわ。それはあくまで人間の場合だから、ゆっくりが仮死状態になる条件は違うかもしれないってことを私は……」
「うるさい!」
紫の戯言を遮って、霊夢は枯れた声を張り上げた。
今にも目頭から零れそうな涙を懸命に押し戻しながら、紫を睨みつける。
「それ以上、気休めを言わないで」
唇が小刻みに震えて、思うように言葉が出なかった。
二人は、しばらくの間、視線を結んでいた。
十秒近く経った頃、紫は膝に置いた手に目を落とした。
それから何気無く立ち上がった紫は、霊夢の背後を通りながら、
「何か飲む? お水、ずっと口にしていないでしょう?」
「いらない」
「いいから。飲みなさい」
命令の口調で言い直した紫は、さっさと台所に水を汲みに行くのかと思いきや、ふすまの前で立ち止まっていた。ふすまに手にかけたまま、物言いたげな背中を霊夢に向けて突っ立っている。
「……貴女の気が済むまで、私は待つわ。でもね」
そこで区切ると、紫は耳元の金髪をそっと揺らして振り返った。
「早いほうがいいわ。それが、ゆっくりの為でもあるもの」
霊夢が言い返すより早く、紫はふすまの向こうに消えた。
もっとも、仮に面と向かって話していたとしても、霊夢は返答を詰まらせただろう。
台所から聞こえる水の音を聞きながら、霊夢はゆっゆっ、とうなされすらしないゆっくりに視線を戻したのだった。
紫が水を持って戻って来てからは、どちらから言うわけでもなく二人は一切会話をしなかった。
待った。
ただひたすら、ゆっくりの目が開くのを待った。
だが、一向にゆっくりが目覚める気配は無かった。
ゆっくりは青ざめた表情を浮かべたまま、まるで蝋人形のように硬直していた。
その悲しい姿を見るだけで胸が張り裂けそうになる。
それでも、霊夢は目を逸らさない。
ゆっくりはこれよりも遙かに痛くて恐ろしい目に遭ったのだから。
時間だけが虚しく経過し、夜は刻々と更けてゆく。
ずぶ濡れになり、泥まみれになり、あれだけ幻想郷中を探し回ったのにも関わらず、霊夢は全く眠くなかった。
代わりに思考回路はほとんど機能しておらず、そのお陰で、思わず泣いてしまう心配は無かった。
涙腺を刺激する情報は、脳が処理する前に喪失してしまうのだから。
それからさらに、拷問のようにじわじわと時が流れた。
いつの間にか雨音は止んでいた。
瞬きの音さえ聞こえそうなほど、寝間は水を打ったように静まり返っていた。
そんな中、紫はおもむろに腰を上げ、障子を開けた。
「もうじき、夜が明ける」
紫は静かに呟いて、空を見上げた。
その後ろには、外の様子に目もくれず、放心した面持ちでゆっくりのことを見つめる霊夢。
その暗い光を宿した虚ろな瞳は、ゆっくりを見つめているようで焦点がまるで合っていなかった。
その時、霊夢は鳥達のさえずりを聞いた。
すると突然、つい一週間ほど前の事が、夜空から降って来たばかりのゆっくりを夜通し看病したことが、瞼の裏に鮮明に蘇った。
目の前の光景とは、似て非なる光景────それが、霊夢の乾いてくっついた唇を開かせた。
「紫」
消え入りそうな声で、すきま妖怪の名を呼ぶ。
紫は振り返ろうとせず、背を向けたまま返した。
「なあに?」
紫の声は、わざとらしいほどおどけていた。
と同時に、障子の一枚向こう側でガラス戸ががたがたと騒ぎだした。
まるで、吹きすさぶ風を受けたガラス戸が、霊夢に続きを言わせまいとしているかのように。
「もう……、気が済んだから」
風が止む前に放たれたその言葉は、外のざわめきに掻き消されたように思えた。
だが、それはしっかりと紫の耳に届いていた。
「……そう」
打って変わって、障子に手を掛けたままの紫も同じくらい弱々しい声を発した。
静けさを取り戻したガラス戸の向こうで、割れた雨雲から朝焼けが顔を覗かせていた。
■17
昨夜泥まみれになった履物の替えを下ろして、玄関を出た。
外は雨上がりの清々しい空気で満たされていた。
日の出を終えた太陽が黄金色に輝いて、薄くなった雨雲を透かしているかと思うと、先ほどの突風が嘘のような優しい風が髪をすり抜ける。
こんな空の下だと、ゆっくりの苦しそうな表情も心なし穏やかに見える。
胸の前で抱きかかえたゆっくりに目を落としながら、霊夢は紫と共に神社の裏へと向かった。
神社の裏手から鎮守の森へ入り、雨露で濡れる緑の中を進んでゆくと、前方に一際大きな木が見えてきた。
幹が太く、鬱蒼と葉が生い茂ったその根元は、昼間でも陽射しがほとんど届いていない。それでいて、大木の周りだけに幾本もの光の筋が降り注いでいた。
ここがいい──。
二人は目で言葉を交わした。
大木の前に立つと、紫はすきまを開いて中から鍬(くわ)を取り出した。霊夢は紫にゆっくりを預け、代わりに鍬を受け取った。
ざくざく、と大木の根元を掘る。
雨に濡れた地面は簡単に刃が入る。
掘り起こされた土の香りに溢れる中、霊夢は無心で穴を掘り続けた。
丁度、穴の直径をベビー用布団ぐらいに、深さを膝の高さぐらいにしたところで霊夢は手を止めた。
ベビー用布団。ここ毎日見ていたものなので、穴の大きさがそれとほぼ同じということが分かった。
鍬を返そうと紫の方を見ると、紫は愛おしそうにゆっくりの頭を撫でている最中だった。
目が合うと、紫は口だけでぎこちなく笑って、ゆっくりを差し出してきた。
名残惜しそうに、いつまでも抱いていたそうに、そんな人間臭い感情が「胡散臭い」を代名詞にする大妖怪から漂っていた。
霊夢はゆっくりを受け取ると、今しがた作った穴の方へ向き直った。
思えば、ゆっくりが来てからは散々気苦労を重ねてきた。
周りの目を恐れる余り、自分の行動を極端に制限される日々がつい一昨日くらいまで続いていた。文の監視と、文々。新聞のゴシップ記事に過敏になり、魔理沙や萃香が遊びに来ることさえ怯え、何かしら理由をつけて紫に不満の矛先を向けたこともある。
そんなこともお構いなしに、ゆっくりは四六時中付きまとって来た。
ゆっくりしていってね!
能天気な台詞と共に近寄って来るゆっくりが、疎ましかった。
自分を理不尽な目に遭わせたゆっくりが厭わしく、憎くもあった。
あの時に処分しておけば良かった、と思ったことすらある。
「ごめんね」
振り返れば、与えられてばかりだった。
ゆっくりの気持ちを分かろうとせず、その重みを量ろうともせず、足に括られた枷と思ってばかりいた。
「ごめんね……、ごめんね」
せめて、苦しそうな表情くらい解いてあげたかった。
墓に入る時くらい、安らかな顔でいてほしかった。
今更そう思っても、全ては手遅れ。
手遅れ──その答えに辿りついた途端、堰を切ったように涙が溢れた。
昨夜、雨の幻想郷を奔走した時からずっと我慢していた熱い涙が、次々と頬を滑り落ちてゆく。
「ごめんね、ゆっくり。ごめんね……、ごめん、ごめんね……」
雨上がりの森の中、ゆっくりだけがにわか雨に見舞われていた。
一滴また一滴と、涙の粒がゆっくりの顔を打ちつける。
「うう……」
霊夢が紫に肩をそっと抱かれると、余計にその雨は強まった。
むせび泣く霊夢は、紫の腕の中でゆっくりのことを抱きしめた。
きつく、きつく、抱きしめた。
ここへきて、「ゆ゛っ」と苦しそうな身じろぎなど期待してはいけないのに、心のどこかで期待してしまっている愚かな自分がいて、霊夢はまたもや泣けてきたのだった。
そうやって泣いている間、紫は黙って頭を撫でてくれていた。
それもあってか、霊夢の呼吸と思考は、ようように落ち着きを取り戻した。
肩に置かれた紫の手を丁寧に解き、霊夢は大きく深呼吸した。
そして、おもむろに地面に膝をついて、手に持ったゆっくりを掘った穴の中へ入れた。
後は紫から鍬(くわ)を受け取って、横に積み上げた土を被せるだけ。
それだけなのに、紫の方を見られなければ、手を横に伸ばすことも出来ない。
泣き止んだものの、絶えず口をつくしゃっくりに息を詰まらせてばかりだった。
それでも何とか、喉奥に溜まった言葉を紡ぐことが出来た。
「さよなら」
右の手の平を紫に見えるように差し出すと、そこに鍬の柄が置かれた。
積み上げた山を均すように、ゆっくりが眠る穴に土を流し込んでゆく。
ゆっくりの周りが土で埋まってゆく様を見ながら、霊夢は声を震わせた。
「ゆっくりした結果が……、これよ」
ゆっくりの顔に土を被せるのに、まだ躊躇いが残っていた。
震える手を叱咤しながら、残りの土の山をゆっくりの上に被せようとした、その時──。
僅かに、ゆっくりの眉が動いた。
「……ゆっ」
口に入った土を苦そうに吐き出しながら、何か言おうとしている。
「ゆっ……く……り」
幻かと思った。
だが、幻でも、見間違いでも、聞き間違いでも無かった。
息を引き取ったはずのゆっくりが、声を発している。
「ゆっ、く……りし……ていって、ね」
ゆっくりしていってね。
微かに開かれた瞳が、泣き腫らした霊夢の顔を見つけると、ゆっくりはその言葉を切れ切れに言った。
霊夢は、目の前のあまりの光景に、声の出し方はおろか呼吸の仕方まで忘れてしまった。
しかし、気がつけば鍬を放り投げ、ほとんど地面に埋まったゆっくりを手で掘り起こしていた。
「ゆっくり!」
墓になるはずだった穴からゆっくりを持ち上げて、抱き締める。
別れの時よりもきつく、腕が痛むほどに強く。
止まったはずの涙が、再び霊夢の目から溢れ出す。
「ごめんね……、本当にごめんね」
口をつくのは、もう手遅れだと悟ったときと同じ言葉だった。
だが、涙の意味が一つではないように、「ごめんね」にも種類がある。
先がある「ごめんね」と、先がない「ごめんね」。
今、霊夢がしきりに口にしているのは、前者の方だった。
「ゆっ……、ゆっ……」
酷く弱りながらも、ゆっくりも夢中で霊夢の胸に顔を押し当てている。
突如起こった奇跡的な一幕を見守っていた紫は、やれやれと首を振りながら、細い溜息を吐いた。
「本当、不器用な子達なんだから」
その両の瞳には、薄っすらと光るものが浮かんでいた。
■18
その日、ゆっくりは深い眠りについた。
長時間夜雨に打たれた後、一晩中生死の境をさまよったのだから無理もない。一方の霊夢も、不眠でその行方を見守っていたのが祟ったようで、高熱を出した。そのため、紫は藍と橙を呼び出して二人の看病をさせた。
霊夢の熱に浮かされる中の記憶は、藍の顔を見たところで途絶えている。次に目を覚ました時には、熱と一緒に八雲一家の姿も消えていた。
天井の木目を見上げながら、霊夢は額を手で押さえた。
あれから、一体どれくらい眠っていたのか分からない。
時刻は昼前といったところか。障子の向こうから柔らかい陽の光が差し込んで、締め切った寝間の中は蒸し暑いくらいだ。
首を横に傾けると、やたら目立つところに文々。新聞が置いてあった。
手に取って日付を確かめると、丸二日も眠っていたことが分かった。
それだけでも十分驚きだが、文々。新聞の中身にはもっと驚かされた。
連日過熱していた隕石騒動の記事は無く、河童達が運営する核開発施設のことについて取り上げられていた。文があれほどこだわっていたネタなのに、新聞にはゆっくりのゆの字も無かった。
まるで、慧音にゆっくりを無かったことにされたかのような、身代わりの速さと潔さであった。
これでは、熱に浮かされる間に悪い夢でも見ていたかのような錯覚に陥ってしまう。
ゆっくりの存在も、悪夢の中で創り上げた幻想だったと思えてしまう。
文々。新聞に霊夢の名が踊ることもなく、外が参拝客で賑わうこともなく、暢気な台詞を連発してくるのもいない。
ゆっくりが空から降って来る前の、いつもの世界がちゃんと存在していた。
──ああそっか。全部、夢だったのね。
そう思って寝返りを打った瞬間──、霊夢はその考えが間違いだと知った。
すやすや、と寝息を立てるゆっくりの寝顔が、霊夢の胸の前にあったのだ。
「ゆ……っくり」
思わず霊夢が声をあげると、それに反応したゆっくりが重たそうに目を開いた。
「……ゆっ」
ゆっくりは霊夢の薄い胸に顔を埋めると、収まりの良い位置を探しているらしく何度も身じろぎをした。
やがてそれが見つかると、ゆっくりは気持ち良さそうな表情を見せたまま動かなくなった。
霊夢は、そんなゆっくりの頭を撫でてやった。艶やかな黒髪の上を、霊夢の手がさらりと滑り抜けてゆく。
全てが現実で起こっていた。
枕元に置いてあった文々。新聞は、紫達が二人の看病の為にそこにいた証拠であり、ゆっくりは夢の中のゴシップ記事が作り上げた幻想ではないという証拠でもあった。
そして、ゆっくりが現実にいながらにしてゴシップ記事にされていない事が、隕石騒動の収束を意味しているのだ。
きっと紫はそんな様々な意味を持たせて、文々。新聞を枕元に置いてくれたのだ。
「おはよう、ゆっくり」
呼びかけると、胸に顔を埋めるゆっくりと目が合った。
「よく眠れた?」
「ゆっ」
「もう具合は平気?」
「ゆっ」
「本当、生きてて良かった」
「ゆっ」
「今まで、ごめんね」
「ゆっ、ゆっ」
「うん……。きっとあんたは、大丈夫って言ってくれてるんだよね」
「ゆっ!」
元気良く返事を返したゆっくりに、霊夢は声無く笑いかける。
ゆっくりの「そうだよ」という声を聞いた気がしたからだ。
「さ、そろそろ起きよう。お腹空いたでしょ?」
「ゆっ! ゆっ!」
「宴会の後で食材はあまり残ってないけど……。玉子焼きなら作れるから」
「ゆ、ゆゆゆっ!」
霊夢は布団を畳みながら、嬉しそうに飛び跳ねるゆっくりに話しかける。
「あ、そうだ。あんたの好きな納豆巻きだけど、夕ご飯まで待てる? 今、納豆切らしちゃっててね。後で夕ご飯の食材を里まで買いに行くから、その時に買ってあげる。……って、あれ」
押入れを開けて、ベビー用布団の上に自分の布団を押し込んだ後、枕を仕舞い忘れていることに霊夢は気がついた。
畳の上に転がったままだろうと思って後ろを振り返ると、ゆっくりが枕を口に咥えていた。
「くすっ、ありがと」
ゆっくりから枕を受け取って、押入れに投げ込んだ。
「さてと、それじゃあまずは朝ご飯から」
霊夢は押入れを閉めると、ゆっくりを連れて縁側沿いの廊下に出た。
台所へ向かうのに、わざと遠回りをした。
「あのさ、ゆっくり」
這いずって歩くゆっくりに合わせ、霊夢の歩調はかなり緩やかだった。
「夕ご飯の時さ、その……、紫が一緒でも平気? ほら、こないだ私達の看病もしてくれたし、色々と借りが出来ちゃったのよ。だから、あんなやつだけど少しはお礼をしておかないと気持ち悪いし。もし、ゆっくりが嫌ならやめておくけど、どうかな」
単に紫を夕飯に誘いたいと言うつもりが、余計な言葉が懸命に本心を隠そうとする。
そんな卑怯な性格が嫌になる。
──ああ。私もちょっとくらい、ゆっくりみたいになれたらな。
そんなことを思いながら隣に目をやると、さっきまでいたはずのゆっくりがいなくなっていた。
「あれ? ゆっくり?」
振り返ると、陽の光に包まれた廊下の真ん中で、笑みを浮かべたゆっくりが霊夢のことを見つめていた。
まるで、霊夢が後ろを振り返るのを待っていたかのように。
「ゆっくりしていってね!」
文句のつけようの無い、とびきりのゆっくりしていってね。
つい三日くらい前までは、散々聞かされて嫌気が差していた台詞なのに、何故か懐かしくもあり、有り難くもあった。
「今度はあんたも……、ゆっくりしていってね」
霊夢は面映そうに言って、ゆっくりと一緒に廊下の角を折れた。
その先にある、慣れ親しんだ台所の窓の白さが目を射した。
『貴女が私に会いたいって思ってる時、いつも私から会いに来てるでしょう?』
前に紫が言ったその言葉を、完全に信じた訳ではない。
ゆっくりのように言われたことを真っ直ぐに信じるなど、なかなか出来ることではない。
それは霊夢の性格上というよりも、「では信じよう」と言って信じられるほど、人間の心は単純に作られてもいないためだ。
「とにかく、三人に合った献立を考えないと駄目ね」
それでも霊夢は、今日の夕飯は三人分作ると決めた。
会いたいと思うくらいなら、今の霊夢にでも簡単に出来るのだから。
おわり
上下左右を見失ってしまいそうな、ただただ白いだけの空間に、もやが口の高さで漂っている。風も無く、音も無く、昼夜を決めるものも無く、この空間の広さを測る術も無い。そんな場所に一人、“れいむ”はいた。
どうしてこうなったか、分からない。
が、事の発端は分かっている。
髪飾りの筒に仕込んで携帯するくらい大好きな納豆巻を縁側で食べていたら、“ゆかり”にこう言われたのだ。
『知ってる? もう一人のれいむは、すごく入念に髪をとくのよ』
ゆかりの話によると、すきまの向こうにもう一つの幻想郷があって、そこにもう一人のれいむがいるという。その世界の私は、大きくて、手足があって、私より髪が少し長くて、いつも不機嫌そうに口を尖らせているとか。髪の手入れに余念が無いことも合わせて、何だか全然私に似てないなとれいむは思った。
いやいや、信じちゃいけない、いつもそうやってゆかりに騙されるんだ。
そう言い聞かせながらも、れいむはついついゆかりの言うことを真に受けてしまう。不思議だなあと思いながら、核心を突かないゆかりのじれったい話を聞いているうちに、いつの間にかもう一つの幻想郷にいるというもう一人の自分に会いたくなっていた。不思議だなあ。
『あちらさんは皆、忙しなくしてたっけ』
決め手は、ゆかりのその一言だった。
──何てこと。早く、早くもう一人の私をゆっくりさせてあげないと!
すぐさま、もう一つの幻想郷に連れて行って欲しいとゆかりに伝えると、ゆかりは待ってましたとばかりに快諾してくれた。
その時、ふすぅっ、という細い息とともに浮かべたゆかりの表情には、憎たらしいほど嘲りの色を含んでいたが、この時のれいむにはそれが見えていなかった。
焦る気持ちを抑えてゆかりの後をついて行くと、知らぬ間に遙か上空まで昇っていた。空の色は黒く、触れそうなほど星が近かった。
すきまの向こうに行くのなら、いつもみたいに空間に裂け目を作ればいいのに、何故かゆかりはそうはしなかったし、問い質しても「もうすぐよ」としか答えてくれなかった。れいむはれいむで、もう一人の自分で頭が一杯だったので、そんな小さな疑問はあっという間に消えてしまった。
もう一つの幻想郷も、こちらの世界と同様に結界で守られていた。
結界の手前で足を止めたゆかりは、これがあちらの世界のゆかりが作った結界だと説明した。
ただ、ゆかりが作ったものでも作りは違うようで、簡単に弄ることは出来ないらしい。
しかも、先ほどまで結界内に潜入していたせいもあり、心身ともに消耗していて、今日はもう結界に触れるようにするのが精一杯とゆかりは言った。それくらい、この結界を弄るのは難儀だとゆかりは自慢げに語り、それを聞いたれいむも、もう一人のゆかりの力に素直な嘆息を漏らした。
詰まるところ、もう一人の自分に会いたければ、ここから先は博麗の巫女の力で何とかしてくれということだ。
それで構わない、とれいむが同意すると、ゆかりは目の前にある強力な結界に何やら細工を施した。ゆかりは最後に、怪しげな笑みを寄越して何処かへ消えていった。
ここまでははっきりと覚えている。
だが、肝心のここからが全く覚えていない。
小さく気合を入れてから、結界に体当たりを繰り返した────気がする。
そんな気がするだけで、気がつけば、この白い無機質な空間に身を置いていた。
もしかして、ここは冥界ではないのか。
そうだとすると、れいむは死んだことになり、もう一人の自分に会うことも叶わぬまま、訳も分からぬまま、ここで成仏するのを待たなければならない。しかも、天界は満員で満足に成仏も出来ないと聞くので、いつまでここにいればいいのかも分からない。
しかし、れいむは三途の川を渡った覚えも無ければ、水先案内人や閻魔に会った覚えもないので、まだ死んでないと思った。
となると、またしてもゆかりに一杯喰わされたと考えたほうが妥当だ。
──全く、ゆかりにそそのかされた結果がこれだよ。
「呼んだかしら?」
「あっ、ゆかり! あんたよくもっ!」
「調子はどう? あの落ちっぷりからして、こっちは相当な重力なんじゃない?」
「こっちって……、ここはやっぱり冥界じゃないのね?」
「まさか。私はあなたの夢にお邪魔してるだけ。無事に結界の中に入れて良かったわ」
「夢? これ、夢なの?」
「そうよ。丸二日うなされっぱなしのあなたの夢。私は、そんなあなたを起こしに来たの」
「丸二日? ていうか、なんで夢に出てきたゆかりがそんなこと分かるの?」
「夢と現実の境界を弄れば簡単なことよ」
ゆかりは、れいむが無事結界の内側に入れたと言った。そのれいむの夢にゆかりが介入してきた事や、新しい情報を仕入れている事からも、もう一つの幻想郷への出入りは簡単に行えていると考えていいのではないか。
「なんか、初めから騙されていた気がするなあ」
「まあまあいいじゃないの。生きて結界の中に入れた訳だし。それよりも、いい加減目を覚ましたら? もう一人のれいむが心配してるわよ」
「もう一人の私?」
れいむはそう繰り返すと、もう一つの幻想郷を目指した理由を思い出した。
『もう一人の私をゆっくりさせるため』
──そうだ。こうしている場合ではなかった。
もう一人の私に会ったら、まず何て言おう。何をしよう。
お腹も空いたし、髪飾りに仕込んだ納豆巻きでも一緒に食べようか。それとも、神社の縁側で日向ぼっこでもしようか。ああ、同時に出来たら最高ね。
普通なら、断片化した記憶を揃えるためにもっとゆかりに突っかかてもいいはずだが、れいむはそんな妄想を次々に展開していった。
そんなれいむだからこそ、何度もゆかりに騙されるのかもしれない。
悦に入るれいむの隣で、ゆかりがふすぅ、と満足気な溜息を漏らしていた。
■1
細く開けた窓からそよ風が部屋に入ってくるが、その風でなびいてしまいそうなくらい細く美しい金髪の下に、これまた美しい顔がある。
肌の白さは暗がりの部屋によく映えていて、体の線は少女のそれにしては少々起伏が激しい。文字を追う目の運びや、ページを捲る仕草はいちいち艶っぽくも、理知的な色も宿っているのだから何とも悩ましい。
見目麗しいその少女の名は、“八雲紫”。
少女と呼び難い色香を放つ紫であるが、それもそのはず、彼女は実は齢数百年(本人以外に正確な年齢は分からない)の妖怪であり、また、幻想郷の創造に立ち会った賢者の一人ともされている。
そんな賢者が読む本はさぞ難解なものと思いきや、紫が読んでいるのは割と読みやすい文体をした外界の小説だった。
紫は、暇を持て余すと屋敷にある本を読み漁ることがある。外界の物で溢れる紫の屋敷では日々新しい本が増えてゆくので、ちょうど今夜のような霊夢に相手にしてもらえなかった夜は、未読の本を消化する良い機会だった。
今日、紫はそろそろ日付が変わろうかという時間に目覚めた。
彼女は元々夜行性らしいが、日中に活動していることも多々あって、今ひとつ信憑性の無い情報と言える。ただ単に、彼女が不規則な生活をしているだけとも考えられるが、何にせよ、こんな遅い時間に霊夢のもとへ遊びに行けば結果は明々白々である。
台所の作り置きを見て、いささか霊夢のことをからかい過ぎた感があるし、あまつさえあんな風に食い下っては、要らぬ弾幕バトルを強いられそうになるというものだ。
敢えなく神社から撤退した紫は、屋敷に戻ると、することが無いということで読書を始め、今に至る。
小説を三冊読み終えると流石に本の熱も冷めてきて、紫は机の真正面に設えられた窓に目をやった。
東の夜空に、千切れた灰色の雲が幾つも浮かんでいる。
時折部屋に入り込むそよ風には冷たさと湿り気があり、日中雨が降っていたことを思わせる。水無月が見せた貴重な晴れ間だが、面白い事が特に無い紫にとっては雨が降っていてもいなくても、今日一日の過ごし方に変わりは無かった。
「月も退屈そうね」
高々と懸かった月輪を見て、紫は呟く。
開いたページを片手で押さえながら、物憂げに頬杖を突く。
白い頬は月明かりに照らされて砂浜のように煌き、瞳には丸い月を映す。
吸い込まれそうな月の妖しい姿を見ていると、ふと、あの屈辱的な記憶が蘇ってきた。
次はどうやって月の牙城を攻め落としてみせよう──そんな穏やかでない考えが頭に広がってゆくのが分かるくらいに、紫の目つきが老獪な妖怪のそれに変わっていった。しかし紫の理性がそれを制したのか、それともそんな気分じゃないだけなのか、彼女は小さく息を吐くと、首を横に振りながら苦笑いをしてみせた。
やれやれと目線を手元の小説に戻すと、急に紫は動きを止め、目を見開いた。
顔からは苦い笑みが一瞬で消え、反射的に机から身を乗り出す格好で窓枠に両手をついた。
「何……?」
雲がその場所に留まっていられるくらい穏やかな闇の底で、紫の目は東の雲と月の間あたりを捉えた。
そこには何もない。あるのは夜のしじまだけで、強いて言えば、暗順応した目に小さな星が浮かびあがるくらいだ。
しかし、紫が見据えているのは夜空という実態のあるものではなく、博麗大結界という常識と非常識を分ける論理的な結界であった。
「──数は一つ。この調子じゃあ突破することはとても無理みたいね。それよりも、結界に触れることが出来ることのほうがよっぽど問題」
紫は、結界を外から突破しようとする存在を感知したのである。
紫は幻想郷の創造に関わっただけにこの世界を誰よりも愛している。
なので、神隠しなどの紫の自発的行為を除き、外部からこの世界に干渉する存在が現れれば、紫は何らかの対応をする必要が出てくる。自身の能力や、博麗大結界に落ち度は無いはずだが、幻想郷の脅威は速やかに排除しなければならない。胡散臭い妖怪のレッテルの裏で、この世界を守ってゆくためにだ。
紫の思ったとおり、結界を破ろうとする者は結界に触れることは出来るものの、破る力や能力は持ち合わせていないようだ。結界に突っ込んでは弾き返され、また突っ込んでは弾き返されを延々と繰り返しているらしい。
その能の無い手段と、単純な思考回路に、紫は結界の外にいる者に害は無いと思った。
判断するにはまだ情報不足だが、老猾な妖怪には知識以外にも勘が備わってくる。紫の勘が、害は無いと言っているのだ。
それに、紫は結界に触れることの出来る者に接触する必要があった。接触することで、結界の脆弱性が見えてくるかもしれないからだ。それは幻想郷を守ってゆく上で重要なことだが、紫には接触したいもっと大きな理由が他にあった。
『暇だから』
である。
「害意が無いんだから、何を連れ込もうが誰にも文句言わせないわ」
微笑を湛えながらそう言って、紫は東の夜空に右手をかざした。
人差し指と中指を揃えて、裁ちばさみで布を裂くように、さっ、と横一文字を描いた。すると、指の先にある千切れた雲の合間から、白く光る物体が現れた。
まるで太陽が出番を間違えたかのようで、それは月の姿を掻き消すほど激しく夜空を照らしながら、斜め一直線に軌道を描いている。翡翠色の長い尾ひれが空にくっきりと痕をつけ、空を切り裂くように、猛烈な速さで地上へ堕ちてゆく。
その様子を見た紫は最初、隕石が堕ちてきたのか思った。
だがすぐに、それはありえないと思った。隕石ならば結界に触れられないし、触れられても何度も突破を試みる訳がないからだ。
隕石のような物体は、地響きのような音を伴って落下を続け、ついに地面に衝突した。
衝突した刹那、星が爆発したような一際眩しい光を放ち、数瞬遅れて低い衝撃音が聞こえてきた。さらに遅れて突風が波のように押し寄せ、木々や窓ガラスを騒がせると、最後には地震が起こった。紫の屋敷から相当離れているのにも関わらず起こったそれらの現象は、衝撃の強さを物語っていた。
揺れと風が収まるのを待ちながら、紫はその物体が落下した地点を凝視していた。
辺りに静けさが戻ると、呟かずにはいられなかった。
「ふふっ、面白いことになりそうね」
紫は、藍が騒ぎ騒ぎ出す前に発つことにした。
墜落地点である、博麗神社へと。
■2
珍しく今日は来ないな、と“霊夢”は湯船に浸かりながら思った。
参拝客のことではない。参拝目的に誰かがこの神社を訪れてくることなら、とうの昔に諦めている。神社に向かう途中のけもの道に妖怪が棲んでいるお陰で、里の人間が神社に近づかないからだ(客が来ない原因を霊夢はそう思っている)。
神社の運営や、食っていくためには賽銭が必要不可欠だが、それに対する博麗神社の立地条件は最悪で、真面目に社務を行うだけ馬鹿を見る羽目になる。早い段階でそれを悟った霊夢は、境内の掃除すらろくにせず、出がらしを天日干しして何回も使い回すようなつましい生活をしながらも、それに甘んじた怠惰な生活を送っていた。
そんな霊夢が今日一日待っていたのは、神を崇めに来る客ではなく、霊夢への客(強調点)であった。
雨の中にも関わらず、魔理沙や萃香といった常連は相変わらず今日も来ていて、薄い茶に文句をつけながら下らない話をして、日没の雨上がりと同じ頃に帰っていった。
霊夢の待つ客が常連客とタイミングをずらしてくるのはよくあることだが、今日はそれも無く、そうこうするうちに夜が来た。
夕飯時を狙っているのだと思って夕飯を一人分多めに作ったのだが、いつまで経っても来ることは無く、結局霊夢一人で夕飯を済ませ(残った分は明日に回す)、腹も重たいまま風呂に入った。
その客は最近顔を見せるのが当たり前だったので、来ない理由をぼんやり考えていたらすっかり長風呂になってしまった。
風呂から上がり、髪の手入れをした後、霊夢は縁側で水を飲みながら涼んだ。
水無月と言えど雨上がりの風は冷たく、長時間涼んでいたら体は簡単に冷えてしまうだろう。霊夢は夜空を見るともなしに見上げていたが、肌寒さを覚え、腕を擦りながら部屋へ戻った。
──結局、今日は来なかったな。
溜息と共に障子を閉め、寝間に寝具を広げた。
寝る前に鏡の前でもう一度髪をとかしていると、突然、横から髪を撫でる指が鏡に映った。霊夢は驚いて身をすくませた。
「意外にお手入れ好きなのね」
いつの間にか紫が霊夢の左横にいて、霊夢の髪を指に捲きつけたりして遊んでいる。
紫の能力は境界を操る程度の能力であるから、『いつの間にか』という言葉は彼女のためにあるようなもの。紫は霊夢の目の高さに空間の裂け目を作り、そこから上体を出し、霊夢の髪の触り心地を興味深そうに確かめている。
「紫っ」
霊夢は紫の姿を見るなり、自分の髪に絡みつく紫の指を振り払った。
「おはよう、霊夢」
「何がおはようよ。こんな遅くにやって来ておいて。こっちはもう寝るんだけど」
再度伸びてくる紫の手を払いながら、霊夢はツンと不機嫌そうな顔をした。
「あら、今何時かしら」
「そろそろ子の刻。日付、変わるんだけど」
迷惑そうに言って、髪に櫛を通す作業を再開すると、紫は何も聞こえなかったかのように無反応だった。
というよりも、霊夢の髪に興味があるらしく、裂け目に両肘を乗せて髪をとかす様をしげしげと観察していた。
最初はそれを無視して自分の髪と格闘していた霊夢だったが、次第に耐え切れなくなった。
目の端に紫のにやついた顔があるのだから無理もない。
「……何?」
手を止めて紫のほうを向くと、「ううん」と柔らかい返事だけが返って来た。
微笑みながら小首を傾げる仕草がどうにも怪しい。
怪訝そうに髪をとかしていると、
「霊夢も女の子ねえ」
紫がぽそりと呟いた。
「でも、それだけ入念にとかしても、サラサラの髪とは呼び難いわねぇ」
「うるさい」
「霊夢もシャンプーを使うといいんじゃない? 香霖堂で売ってるわよきっと」
『霊夢も』と言ってシャンプーを勧めるあたり、紫は自分の髪に自信を持っているのだろう。
そして、この神社にそんなものを買う余裕が無いことも知ってのことだろう。
霊夢は櫛を鏡の前に乱暴に置くと、紫には目もくれず立ち上がった。
「なんだか今日は機嫌が悪いのねぇ」
紫の言う通り、霊夢は機嫌が悪かった。
原因は髪の事を馬鹿にされたからではない。本当の原因は、日付も変わろうかという時間になってひょっこり現れた紫に対してが半分と、そんな紫のことを今日一日待ち呆けていた自分に対してが半分である。
不機嫌な霊夢の背後で、紫がくつくつと笑いだした。
霊夢が肩越しに振り返ると、紫は口元を手で押さえて笑っていた。
目は不敵に霊夢のことを見つめている。
「私が来るの待ってたんでしょ?」
「なっ」
霊夢は弾かれたように体の向きを変えた。
「今日私が来るのが遅かったから、機嫌が悪いんでしょ?」
「なわけないじゃない。馬っ鹿でしょ、あんた」
寝巻きの長袖を指と手の平で掴みながら、霊夢は口調を強くした。今までのそっけない態度から一変した霊夢は、明らかに紫の言葉をいなせていなかった。
「図星?」
「だーかーら、違うって言ってるでしょ。あんたを待ってるほど私は暇でも物好きでもない!」
「酷いわね。私は嗜好家向けってことですか」
「ええそうよ」
「じゃあ霊夢は稀に見る嗜好家ね。嬉しいわ」
「根拠が無い」
「ありますとも」
「なら言ってみなさいよ」
紫は霊夢の口撃を冷静にいなしている。いなしながら、反撃に出ることも忘れない。紫は白々しい笑みを顔に貼り付けて、言った。
「台所」
途端、霊夢の体にぴくり、と電流が流れたのが分かった。
ついで、霊夢の大きめの瞳が四方八方に泳ぎだし、口が酸欠の金魚のように声もなく動き、頬が赤く染まりだした。
台所という脈絡の無い単語に、霊夢の口を封じ込む力があることを紫は知っていた。
何故なら、霊夢の髪を弄りに現れる前に、台所に置いてある夕飯の残りを見たからだ。
一人暮らしの霊夢が二人前以上の量を作るのはおかしいし、誰かと一緒に夕飯を食べた後であっても、綺麗に一人前の量を残すのは不自然。誰かに食べさせるために残しておいたと考えたほうが自然。紫はそう推理した。
「あれ、私の分でしょ?」
「あう……」
「ご飯を作って、私が来るのを待っててくれたんでしょう?」
「ちが……」
「それで、私が来なかったから仕方無しに一人で食べた」
霊夢は絶句して、紫に背を向けた。
分かりやすい霊夢の反応に、紫は目を細めながら霊夢に近づいて、横から顔を覗き込んだ。白い寝巻き姿に茹だったその顔はよく映える。
「私の可愛い可愛い巫女さん。たった今、貴女のもとに帰って来ましたよ」
霊夢は紫と目を合わせると、さっ、と目線を外した。
「か、勘違いしないでよ。あれはただ作り置きしただけよ。明日の朝ご飯よ。朝っぱらからご飯を作るのがかったるいのよ」
紫は、しどろもどろに語尾を『よ』で揃える霊夢の正面に回りこんだ。
「あれやってよあれ。ご飯にする? お風呂にする? それとも私? ってやつ」
霊夢はわなわなと体を震わせると、俯いた顔を上げて叫んだ。半泣きだった。
「死ねっ! このクソすきま!」
悪態をついた霊夢は、下唇を噛みながら寝間の中央に敷いた布団へ向かった。
「女の子が死ねとかクソとか言っちゃだめよ、霊夢」
「もう寝るっ!」
「あらあら、つれないのねぇ。じゃあさっき起きたばかりだけど、霊夢が今から寝るって言うなら私も一緒に寝てあげる」
その言葉に、ゆらり、と振り返った霊夢の顔は、先ほどのような抱き締めたくなる恥じらいの表情ではなく、完全に妖怪退治用のそれになっていた。
「調子に乗るなああああああ!」
霊夢がキレた。
霊夢は両手の指の間に無数の札を挟み、紫に向かって投げつけた。
札を投げた直後の霊夢の右手にスペルカードが握られていた。絵柄からして、かなり物騒なレベルのスペルだろう。
札をかわした後、紫は速やかに異空間へと身を投げた。
無意味な戦いなどまっぴらだし、色々な意味で、相手が霊夢であれば尚更なのだろう。
「今度は早起きするから、お夕飯食べさせてね」
紫は爽やかに手を振りながら空間の裂け目を閉じた。次の瞬間、牽制用の陰陽玉がそこを通過し、背後の障子を突き倒したのだった。
■3
明かりを落とした寝間は、先ほどの騒がしさが嘘のように静かだった。
今夜は風が無いらしく、物音一つしない。鎮守の森は衣擦れの音を立てず、社務所の中には霊夢以外誰もいない。もっとも、境内には幽霊が出るが、音を立てる輩は今夜は出ていないらしい。なので、静かな十畳間には霊夢自身の息遣いが大きいくらいだった。
障子越しに月明かりが畳に落ち、それが燭光となっているためある程度視界が利く。
その青白いおぼろげな月光を見ていると、濃密な静寂に身を浸しているのだと思えてくる。
『私も一緒に寝てあげる』
紫の言った台詞が寝間に響く。
霊夢がキレた台詞であったが、それだけ霊夢にとって威力のある台詞だった。
霊夢は、その台詞の前後のやり取りを何度も思い返していた。思い返す度に寝返りを打ち、寝返りを打てば打つほど悶々とした。
「紫のバカ」
布団の中に潜り込んだ霊夢は、唇を尖らせぽそりと呟いた。
紫本人が寝間に聞き耳を立てている可能性もゼロでは無いし、それに大きな声で言うと余計に意識してしまう気がしたのだ。
──そんなこと、冗談に任せて言わないでよ。
布団に潜ろうが小声で言おうが、どちらにせよ意識せずにはいられない。霊夢の目は冴える一方だった。
気がつけば寝間に差し込む月明かりの向きが変わっていた。時間の感覚はすっかり麻痺していたが、明日は確実に遅寝をするだろうと思いつつ、霊夢はまた寝返りを打った。
すると、右耳に違和感を覚えた。
「何……?」
野犬の唸り声のような低い音が微かに聞こえてくる。
床から布団、布団から枕を伝い、枕につけた右耳の鼓膜を震わせる。その音は、次第に獰猛な野獣のそれになり、ついには地底から巨大な悪魔でも出てきそうな地鳴りへと変わった。
障子ががたがたと揺れている。障子だけでなく、床も、柱も、天井も、全てが何かに怯えるように軋みをあげている。
掛け布団を捲り、霊夢は枕をそばだてた。
この間の異常気象の騒ぎが、霊夢の脳裏をよぎる。
退屈しのぎというふざけた名目で異変を起こした天人ならこってり懲らしめてやったので、三度目の神社倒壊は無いと思っていた。
もし、あの天人が懲りずにまた地震を起こしていたと分かったときには、灸を据えるだけでは済まさない。
地震の最中に後先のことを考えても仕方が無い。霊夢が苦虫を潰したような顔で、天人の仕業かと疑っている間にも揺れは強さを増し、やがて社務所全体が上下に突き上げられだした。
外に避難しないとまずい。
二度も倒壊していれば言うまでもないが、社務所は木造のため丈夫ではない。寝間から外に出るには縁側からが最短である。霊夢は身を起こしながら縁側に面した障子へ体を向けた。
締め切った障子は、青白い月明かりを透過させているはずだった。
しかし、今、障子の向こうから翡翠色のまばゆい光が放たれているではないか。
「な、なんなのよ、これ!」
この状況では驚かないほうがおかしい。
霊夢は突如現れた強い光を前にして、障子の向こうを見ることをためらった。
しかし、このまま寝間に留まっていては社務所の下敷きになってしまうかもしれない。
前に崖、後ろにライオンの心持ちの霊夢は、数瞬のためらいの後に前方を選んだ。二枚の障子に手をかけ、ばん、と勢いよく開けて縁側に飛び出した。
すぐに分かった。
東の空から隕石が落ちてきているのが。
それも、神社めがけて落ちてきているのが!
そう理解しつつも、霊夢は呼吸が止まるほど驚愕した。
そして、霊夢の呼吸が戻るよりも早く、翡翠色の隕石が目の前を矢のように横切り、鎮守の森の向こうへ消えた。
刹那、森の合間から一際眩しい光が放たれ、霊夢は咄嗟に腕で目を庇った。同時に、凄まじい衝撃により体が一瞬地を離れ、脳天を打つような強烈な衝撃音が轟いた。
数瞬遅れて巻き起こった突風に、鎮守の森が泡を食ったようにざわめき、もう崩れてたまるかとばかりに、社務所が懸命に揺れに耐えている。
五感のほとんどを奪われて縮こまった霊夢は、その家屋独特の不吉な軋みを微かに耳にしながら、辺りが鎮まるのを待った。
ほどなくして翡翠の光は弱まってゆき、やがて消えた。途端、入れ替わるように闇が辺りを包んだ。地震も治まった。木々のざわめきはまだ止みそうもないが、社務所は何とか無事だ。
そのことに安堵しつつも、心臓の早鐘が鎮まらない霊夢は、翡翠の光が焼きついた目で隕石が落ちた方角を見た。
隕石の軌道からして、落ちた場所は参道の階段付近とみられる。
「ウチに当たらなくて良かったけど……」
どれだけ神社を荒らされれば済むのかしら、という言葉を端折って、寝間まで手燭を取りに戻った。今度は縁側の履物をちゃんと履いて、落下地点へと急いだ。
境内の表へ回る。一寸を照らすばかりの手元の小さな明かりでも、表には何ら異常は無いのが分かる。石畳の参道を出口に向かって小走りし、階段へと差し掛かる。
石造りの階段を早足で下りてゆくと、揺れる明かりに照らされて次々と浮かび上がる白い石段が、突然真っ黒に切り変わった。
驚いた霊夢は、慌てて己の足に二の足を踏ませた。何とかその場に踏み留まると、階段の欠片がぱらぱらと落ちた。
階段が、途中から消えて無くなっている。
明かりを持っていなかったらそのまま転落していたかもしれない。背中に冷たいものが這うのを感じながら、霊夢は前屈みになり、恐る恐る明かりを下に向けた。
石階段は、等間隔にしつらえた灯篭ごと抉り取られていて、山の地肌が見えてしまっている。灯篭どころか周りの木々をも巻き込んで穿たれた大穴は、隕石落下の衝撃で出来たとしか考えられない。
落下地点は霊夢の予想通りだった。
だが、穴の大きさと暗闇も手伝ってか、ここからでは肝心の隕石が見えない。
霊夢は好奇心に任せて穴の中に足を降ろすと、中心に向かって斜面を滑り下りていった。
穴の一番深い部分までやって来るも、そこに隕石やそれに準ずるものは見当たらなかった。
その代わりに、妙なものがいた。
「何……、こいつ」
よく見えるようにと、霊夢は屈んで手燭の明かりをそれに向けた。
明らかに人ではない。
顔は明らかに人の顔だが、これは人ではない。
いくらなんでも、一頭身の人間などいるはずがない。
一頭身。つまり頭だけである。その表現だとまるで生首だが、それはそんな生臭いものではなく、饅頭のようにまん丸い。もしくは綿を目一杯詰め込んだぬいぐるみのようにも見える。
生き物かどうかも疑わしかったが、それは確かに息をしていた。だが、気を失っているらしく天を仰いだままぴくりとも動かない。
得体の知れない生き物が空から降ってきた──いや、全く得体の知れない生き物と霊夢には言い切れることが出来なかった。
「どうしてこんな……いや、まさか」
その饅頭のような生き物は、頭に赤いリボンをつけている。
リボンはノコギリ状の白線で縁取られていて、普段着の霊夢もそれとそっくりのリボンを頭につけている。それに、セミロングの霊夢より髪はやや短いものの、耳元の髪飾りの筒まで同じで、見れば見るほど霊夢にそっくりだった。
「こんにちは。霊夢」
霊夢は今、最も会いたくない人物に会ってしまった。
明かりを横に向けると、紫の艶っぽい微笑が暗闇に浮かび上がった。
またしても、いつの間にか現れた紫が、すきまから顔を出していた。
「なんであんたはこういう時ばっかり……」
早いのよ。
そう言いかけて、霊夢は口をつぐんだ。
「こういう時ってどういう時かしら」
「面倒臭い時よ」
即答するも、紫の目が細まるのを見ていられず、霊夢は饅頭に明かりを戻した。その折に饅頭がわずかに反応した。ゆ、ゆ、とうなされながら、苦しそうに眉根を寄せている。
「その子、どうしたの?」
「私が聞きたいわよ」
「さっき空から落ちてきたのはその子?」
「紫も見てたの?」
「ええ。誰かさんがつれないお陰で、窓辺で本を読んでましたから」
「寝る前にあんなちょっかいを出しに来れば当たり前でしょ。ていうか本を読んでる暇があったら、自分が張った結界くらいちゃんと管理しなさいよ」
「してるからここに来たんじゃない」
「じゃあまた訳の分からないものを連れ込んだってことか。あんたの神隠しもここまで来ると迷惑以外の何物でもないわね」
「そうね。迷惑をかけて悪かったわ」
意外にも、紫は素直に自分の非を認めた──ように見えた。
「でも、結界を破られるくらいなんだから、誰かに迷惑が及ぶのは仕方無いことだとは思うけど。その誰かが、たまたま霊夢だっただけ」
「結界が破られた?」
紫は「そ」と短く返事をしてすきまから這い出ると、饅頭の横で膝を曲げ、それの頭を撫で始めた。
紫に頭を撫でられて表情をわずかに和らげた饅頭を尻目に、霊夢は言った。
「破られることなんてありえるの?」
「だからこの子がいるんじゃない」
まるで、膝の上で眠る飼い猫に向ける眼差しのように、饅頭を見る紫のそれは優しい。
「流石に焦ったわ。今まで結界を突破されることなんて無かったから。大事になる前に事を沈めようと現場に駆けつけたってわけ。幻想郷に土足で上がりこむ輩なんて、絶対許さないもの」
「そう言っている割には、えらくそれがお気に入りのようね」
霊夢が饅頭を顎で指してやると、紫は饅頭のことを抱き上げた。
「だってほら。この子、霊夢にそっくりなんだもの」
言われた。
そもそもこの老獪なすきま妖怪が、それに気が付かないわけがなかった。
「どこがよ」
「すごく似てるわよ」
「リボンとか髪型とかだけでしょ」
「え? 髪型は全く似てないじゃない。似てるのは」
ぐったりした饅頭を霊夢に突き出して、紫は楽しげに言った。
「顔よ顔」
「私、こんな間抜けな顔してないから!」
「いいわね。ここへ来て妹誕生とか」
「勝手にその生き物を私の妹にするな」
「じゃあ霊夢の子供?」
「どうやれば私から一頭身の子供が生まれんのよ」
「試してみる?」
「試さない!」
きっぱり否定しても、紫に対してはぬかに釘、暖簾に腕押しである。
紫は「あらあら」と肩をすくめながら、その豊かな胸元に饅頭を戻すなり、殊更大事そうに饅頭のことを抱き直した。顔はともかく、身につけているものが自分にそっくりな饅頭のことを可愛がる紫を見ていたら、霊夢は妙な気恥ずかしさを覚えた。
「ちょっと。それ……、こっちに渡しなさいよ」
「あら、やっぱり心当たりが?」
いちいち反応するのも面倒臭く、霊夢は差し出された饅頭を乱暴にひったくった。「優しくしなきゃだめよ」という言葉も当然無視した。
紫が抱きかかているときにも思ったが、饅頭は意外に大きい。
霊夢が抱えると、顎の先からへそ辺りまですっぽりと隠れてしまう。
重さも思いのほかあって、三、四キロはあるだろうか。霊夢はその重さから、我が家の米びつの窮迫ぶりを思い出し、少し悲しくなったのだった。
一方の饅頭は、霊夢の腕の中でゆ、ゆ、と言いながら何度か身じろぎして、霊夢の胸へ土に汚れた顔を押し当てている。
それを見た紫が、
「霊夢の薄い胸じゃ物足りないんじゃないかしら」
と悪戯っぽく笑った。
確かに饅頭は紫の胸だと大人しかったので、どうにも反論しづらい。
「あんたがありすぎるの」
「いいじゃない。大は小を兼ねるんだし」
「今日び、大は邪魔になるだけよ」
紫は霊夢に一歩近寄って、失神している饅頭に手を伸ばした。霊夢は、その手が饅頭に触れないよう体を回した。
「あら、触らせてくれたっていいじゃない」
「駄目。あんたの触り方は何か気に入らない」
一瞬目を丸くした紫は、くつくつと怪しい笑い声を上げた。
「ヒナ鳥を拾った猫の親心ってところかしら。偉いわ霊夢。その子を拾って育てるつもりなのね」
「何でそうなるのよ。これは私が処理するから放っといて頂戴」
「処理するだなんて。可哀想」
「だってこんなの誰かに見られたら、変な噂が立っちゃうじゃない。どうせもう死にそうなんだし」
紫に背を向けて話していると、いつの間にか饅頭を撫でる手が目の前にあった。すきま越しに撫でる紫の手だ。
「そうね。それほどあなたにそっくりな子がいたとなると、周りは黙っていないでしょうねえ。誰それの隠し子! とか言って。特にあのマスコミがね」
聞きながら、霊夢は紫の手を払った。
払っても、懲りずに新しいすきまから手が出てくる。
「でももう遅いわ。だってあれほど眩しい光が夜空から落ちてくれば、目撃者は私と霊夢だけで済むはずがないもの。ここに落ちたことも見れば丸分かりだし。そうすると次は落下物に注目が集まって、貴女がこの子を処理しようものなら行方不明の落下物と博麗神社の関連性が疑われる。ロズウェル事件って言ってね、外の世界でも似たようなことがあったのよ」
「……だからその前にこれを」
話を遮ろうとする霊夢の声に、紫がさらにその上から被せる。
「そうすれば後は簡単。マスコミに嗅ぎ回られて霊夢のプライバシーは無くなり、有ること無いこと面白可笑しく記事にされるだけ。参拝客どころじゃなくなるわよ?」
紫の言うマスコミとは、射命丸文のことで間違いないだろう。
文は自らの発行する新聞に確証のあることしか書かないポリシーを持つと聞くので、紫が大袈裟な事を言っているにしか過ぎない。
「そ、そんなことある訳ないじゃない。文はデタラメは書かないはずよ」
「そうかしら。最近は冴えない記事ばっかりだし、スクープのためならどう出てくるか分からないわよ。ていうか貴女、妖怪の言うこと信用してたの?」
紫は脅しとも取れるデタラメを言っている。
そう思いたいのに、手元の自分そっくりの饅頭のせいで断固否定することが出来ない。
あまつさえ自分のことを棚に上げた紫に、「その口が言うか」と言ってやる余裕すら無かった。
ついに反論することが出来ずに黙り込む霊夢を、紫が畳み掛ける。
紫は霊夢の背後に近寄ると、耳元で囁いた。
「せめてその子が元気になるまで、匿ってあげなさい」
甘香漂う声音が、霊夢の耳をくすぐった。
紫は同じ調子で、二の句を継いだ。
「もちろん私も協力する。私の可愛い霊夢と、ちび霊夢のためだもの」
霊夢は、その悩ましい声に頷くしかなかった。
それを見た紫は「良い子ね」と言って、霊夢の頭を優しく撫でた。
霊夢そっくりの饅頭にそうしたように、優しく、優しく。
「この子は、私と霊夢、二人だけの秘密ね。ふふっ」
紫は嬉しそうに秘密の共有宣言をした。
秘密を共有することで、霊夢に仲間意識を芽生えさせる策略といったところか。端的に言うと、「もう逃がさない」だろうか。それとも、霊夢と秘密を共有出来ることを純粋に喜んでいるだけなのか。本当のところは、紫本人にしか分からない。
一方の霊夢は、頭を撫でる紫の手を払おうとせず、悔しそうに呟いた。
「もう。あんたはいつもそうやって、人のことを丸め込むんだから」
■4
大きさからしてベビー用の布団で十分だが、生憎、博麗の巫女に子供を出産する予定などある筈も無く、神社には大人用のそれ一組しか無い。
霊夢は社務所の寝間へと饅頭を運び込むと、仕方なく自分の布団を饅頭に譲ることにした。見張りなのか何なのか、紫がついてきたのもあり、霊夢は饅頭のことをいい加減に扱うことは出来なかった。
最大の問題である野次馬に警戒すべく、霊夢は、珍しく戸締りをして誰も中に入って来られないようにした。(蹴破られてしまえばそれまでだが)
更に用心して、就寝中を装うため寝間の明かりは点けず、月明かりだけを頼りにした。
それほど、こんな真夜中でも好奇心に任せてやってくる輩に心当たりがあった。
何かしら作業をするには暗い月明かりの中、霊夢と紫は饅頭を挟んで向き合って座った。
饅頭は気を失っているので、とにかく看病をしてやらなければならない。
とは言っても、相手は人間では無い(と思われる)ので、どう看病したらいいのか分からない。
とりあえず顔の汚れを拭いてやり、次に濡れ布巾を額に置いてやった。平熱も分からないのにそうしたのは、もはや看病の最中に行われる儀式であった。
落下現場でもそうだったが、饅頭は気を失いながらもゆ、ゆ、とうなされることがある。何を求めているのか全く分からないので、濡れ布巾を変えてやるくらいのことしか霊夢には出来ない。
初めはその光景を微笑ましく眺めていた紫であったが、おおかた飽きて家に帰ったのだろう。半刻も経たないうちに彼女は姿を消していた。
紫がいなくなってから一刻ほど経過すると、饅頭はうなされなくなった。
「これだけやれば、もういいでしょ」
すうすう、と寝息を立て始めたので、容態は落ち着いたと見ていいだろう。
看病の手を休めるにはこの上なく区切りが良い。気がつけば時刻も明け方近い。
縁側と寝間を隔てる障子に目をやれば、月夜は暁闇を迎えていた。
それを見た途端、霊夢の口から欠伸が漏れた。
霊夢は重たい瞼を擦りながら、押入れの奥から薄手の古布を引っ張り出すと、それを掛け布団にして畳の上に寝転がった。
水無月と言えども、ボロ布一枚だけでは風邪を引きかねない。
おまけに敷布団を敷いていないため、体のあちこちが痛む予感がしてならない。なので、少しでも体に負担のかからない体勢を探そうと試行錯誤していると、畳一枚分開けたところで饅頭が仰向けに寝ているのが目に入り、思わず動きを止めた。
──なんで私がこんな目に遭わなきゃいけないのよ。
よくよく思い返すと、あの時紫が言ったことはまるで矛盾している。
『饅頭に手を掛ければ、落下物の行方を散々嗅ぎ回られた挙句、干される。だから、せめてこの子が元気になるまで匿ってやれ』
という旨の話を、巧みな言い回しでされたものだから、霊夢は半ば丸め込まれてしまった。
しかし、どちらにせよ同じことではないか。
匿ったら匿ったで、落下物の行方は霊夢と紫の二人以外には謎となり、周りから疑いの目を向けられる。この饅頭が表沙汰になった日には、やれ霊夢の子供だ、隠し子だ、と騒がれるのは明らか。
霊夢は最初そのことに気付いていた。だからこそ、早いうちに饅頭を処理した方がいいと思ったのだ。だがあの時、紫に都合良く話を誘導されてしまった節がある。
紫のいない今、再度試みる絶好のチャンスである。
しかし、夜通し饅頭を看病した今となってはそんな気も起きない。むしろ、そうしなくて良かったと思うようになっていた。
紫はその変化を察知して、早々と切り上げたのかもしれない。
良くも悪くも、霊夢は紫に嵌められたのだ。
「本当いい加減にしなさいよ……、あのクソすきま」
本当は、屋根裏で寝ている鼠を飛び上がらせるくらいの声を上げたかった。
それくらい紫に嵌められたことは悔しかったが、霊夢はその感情を抑え、くぐもった声で悪口を吐くだけにした。目と鼻の先で、饅頭が寝ているからだ。
そんな饅頭に気を使っている自分が情けなく思い、霊夢は勢いをつけて寝返りを打った。
すると今度は、すうすう、という寝息だけ後ろから聞こえてくるようになった。
──この饅頭が空から降ってきた時点で、私は騒ぎに巻き込まれる運命だったのかしら。
霊夢の思索は延々と続いた。
雀のさえずりが聞こえる頃になっても、終わることはなかった。
■5
目が覚めると、饅頭の容態は悪化していた。
結局昨夜は、本来起きるような時間になってようやく眠れ、目覚めたのは昼前のことだった。正確には、饅頭のうなされる声に起こされた。もっと寝ていたいと思いつつも、饅頭をそのまま放って置くのは寝覚めが悪いと思い、霊夢はしぶしぶ体を起こした。
頭がぼうっとして、体が重たい。
ほんの一刻程度しか眠れていないため、これから休もうとした体が驚いているらしい。それに、風邪こそ引かなかったものの、畳の上で寝たせいで体のあちこちが痛くて仕方ない。
霊夢は起き上がろうともせず畳の上を這いずり、うなされる饅頭の額に手を当てた。
引いたはずの熱がまた上がっている。
見れば、布巾が半乾きの状態で枕に落ちていた。うなされる余り、饅頭が温くなった布巾を振り落としたのだろう。
布巾が乾くまで寝ていたせいで、饅頭の容態が悪化してしまった。
それはつまり、片時片時も饅頭から目を離してはならないことを意味している。
せいぜい意識を取り戻すまでの間と言えども、不眠不休で饅頭の面倒を見るのは霊夢一人ではとても無理な話だ。
『もちろん私も協力する。私の可愛い霊夢と、ちび霊夢のためだもの』
今となっては、その言質にどれくらいの価値があるか怪しいものだが、紫にも饅頭の面倒を見て貰いたかった。何なら藍でも構わないし、猫の手も借りたいくらいなので橙でも構わない。
しかし、それもまた無理な話だろう。
何せ饅頭のことは霊夢と紫だけの秘密になっている。
都合の良い約束だけ守るのはあのすきま妖怪の十八番なので、きっと式神にも喋らないつもりだろう。
もっとも、いざ面倒事が自分に向けられると決まって姿を現さなくなる紫だから、協力を仰ぐ以前の問題である。
寝起き早々から紫の性質の悪さにうんざりしつつ、桶の水と布巾を新しいものに交換し、固く絞った布巾を饅頭の額に置いてやった。
少し経つと饅頭が落ち着いてきたので、霊夢は台所まで朝食(昨日紫に出し損ねた夕飯)を取りに寝間を出ようとした。すると、縁側の戸を叩く音が障子の向こう側から聞こえてきた。
廊下を挟んで、障子に戸を叩く者の影が映っている。頭に角を二本有したその幼い影は常連客のものだった。
「おおい、れーむぅ」
障子の向こうから、霊夢を呼ぶ萃香の声。
博麗神社に参拝客は来ないので、社務所の戸締りをしなくても問題なく、霊夢はその悲しい現実に甘んじて普段は社務所を開けっ放しにしている。そのため、いつもなら萃香や魔理沙といった常連が勝手に上がりこんでくるのだが、今日は勝手が違う。
「れーむぅ? まだ寝てるのかぁ?」
──どうする。
このまま居留守を決め込んでいれば引き下がってくれるだろうか。
萃香の性格上それは考えにくく、むしろ薄い戸など簡単に突破してくるだろう。仮に萃香を居留守でやりすごせたとしても、まだ魔理沙がいる。魔理沙に至っては箒にまたがったまま戸を蹴破って来そうだ。
そして、昨夜のあれだけ派手な落下。二人がそれを知らないとは思えないので、饅頭が見つかればその事と関連付けられてしまうだろう。
居留守は得策ではない。
そう思った霊夢は、饅頭の元まで戻り、「ちょっと借りるわよ」と小声で言って掛け布団と濡れ頭巾を拝借した。
畳の上を這いずり、手を上に伸ばして障子を開けると、そこに萃香の顔が現れた。
「れーむ! 寝てる場合じゃないぞ! ……って、あれ?」
内側から戸が開けられると、寝惚けた霊夢を叩き起こしてやろうとばかりに、萃香は一瞬だけ元気一杯の笑顔を見せたが、霊夢の只ならぬ様子を見て目をしばたたかせた。
「具合でも悪いのか? れいむ」
萃香は声のトーンとテンポを数段落として、床を這う霊夢に話しかけた。
体に掛け布団、左手には濡れ布巾、訪問客を見やる虚ろな瞳──。
見るからに具合が悪そうにする霊夢は、口元に拳を当てて二三咳き込んだ後、力なく頷いた。
「風邪引いちゃったみたい」
「風邪かぁ。大丈夫か?」
「あんまり」
「昨日はぴんぴんしてたのに、一体どうしたんだ?」
「昨夜、ちょっと夜風に当たり過ぎちゃったみたいで」
何を思ったか、霊夢は自ら昨夜の話題を振ってしまった。これでは風邪を装った意味が無い。霊夢が心の中で己を罵っていると、案の定、小さな百鬼夜行は昨夜の出来事に触れてきた。
「昨夜のアレを見てて風邪を引いたのか? 人間は体が弱くて大変だねぇ」
「……アレ?」
「おう。昨夜のアレ、凄かったな!」
「私、昨夜から今までずっと寝てたから何も知らないんだけど」
「あんだけの騒ぎの中、ずっと寝てたのか?」
「う、うん」
霊夢の返答が微妙に矛盾していることに気がつかない萃香は、病人を前に目を爛々と輝かせて続けた。
「昨夜、空から隕石が落ちて来たんだ。でな、神社の階段にな、滑って遊べそうなくらいでっかい穴が開いたんだ。今度遊ぼうな。でもな変なんだ。来る時に見てみたんだけど、何も無いんだ。落ちてきたはずの隕石がなくなっていたんだ」
表情だけでなく、拙い言葉の中からも萃香の興奮ぶりが窺えて、霊夢は頭を抱えた。
確かに、眠たい頭で萃香と言葉を交わすのはやや難儀である。だが、やはりというべきか、行方知れずになった落下物は現場を目撃した者の好奇心を煽っている。なので、霊夢が頭を抱えたのは全くの芝居ではなかった。
「どうだい? これまた面白いことになりそうだろ?」
「……その話はまた今度聞くから」
霊夢は殊更大きく咳き込むと、布団の中に顔を埋めてしわぶきを繰り返した。
「そんなに具合悪いなら、あたしが看病してやろうか。風邪を引いた時は酒を呑むといいって聞くしな」
萃香はおどけて瓢箪を軽く掲げたが、霊夢のお引取りを願うか細い声が、丸まった布団の中から聞こえてきた。
「ごめん萃香。悪いけど、今日は一人にさせて」
萃香は、“饅頭”のように丸まった布団を見つめながら声無く唸っていたが、しばらくして、不承不承に口を開いた。
「分かったよ。じゃあ、早く治してくれよな」
顔を見なくとも唇を尖らせていると分かる声で、萃香は呟いた。
霊夢は布団から顔を出すと、心なしか寂しそうに立ち去る萃香に声を掛けた。
「萃香」
「んー?」
幼い応え(いらえ)と共に振り返る仕草に悲哀を感じつつ、霊夢は彼女に言伝を任せた。
「私が具合悪いってこと、魔理沙にも伝えてもらえる? 風邪うつしちゃうだけだから、見舞いにも来ないでいいよって。あいつ、何も知らずに乗り込んで来そうだから」
萃香は背中を見せて、軽く手を上げた。
「分かった。伝えとく」
「お願いね」
萃香の姿が見えなくなるまでの間、霊夢は縁側の戸から顔を覗かせていた。
完全に萃香の姿が見えなくなると、霊夢は布団を脱ぎ、肩を落として深い溜息を吐いた。
その折に、縁側用の履物の上に新聞が置いてあるのを見つけ、霊夢は戦慄した。
『謎の落下物 隕石? それとも? 霊夢氏は沈黙を守る』
これでもかと大書された見出しが、まず最初に飛び込んできた。
嫌な予感がするよりも早く、霊夢は本当に風邪でも引いたような寒気を覚えた。
これ見よがしに履物の上に置いてあったそれは、文々。新聞の号外だった。
手に取って広げてみると、号外の名の通り記事は一つだけしかなく、新聞紙もたったの一枚。
内容は見出しの通りで、昨夜の落下物のことが現場の写真付きで書かれている。
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文々。新聞
第百二十四季 水無月ノ十一 号外
【謎の落下物 隕石? それとも? 霊夢氏は沈黙を守る】
目撃した人も多いだろう。昨夜、幻想郷の夜空に光り輝く物体が突如現れ、幻想郷東端にある博麗神社に落下した。
地形の変化、閃光、衝撃風、地震など、この地に這って生きる者達にもたらしたそれは隕石が落ちた図と何ら変わりがないため、小紙では落下物を隕石と仮定し、当面はこれから巻き起こるであろう騒ぎを隕石騒動と仮称する。
仮説が大半を占める記事を載せるのには相応の抵抗があった。だが、裏付けが取れるまでこの事に何も触れずにいるなど、とても我慢が出来なかった。読者と共に真相を明らかにしていきたいという思いをどうか汲んで頂きたい。
さて、何故落下物を隕石と断定していないかと言うと、現場から落下物が消えていたからだ。
上の写真のように、何かが空から降って来たことは一目瞭然。クレーターそっくりの地形からして、隕石を連想する人も多いだろう。小紙記者もそのクチである。
隕石が現場に無いことから推察されることは、
壱.落下の衝撃により、跡形も残さず砕け散った
弐.誰かが隕石を処分した
参.誰かが隕石を持ち去った
四.落下物が隕石ではなく生物だった
伍.四が既に死んでいて、有象無象に食べられた
この中で一番平和なのは壱で、その次に伍だろう。
四が今も生きているとなると物騒な騒ぎに発展しかねないので、出来れば御免被りたいところだ。
最も興味深いのは、弐と参だろう。この二つを敢えて分けたのは、どちらとも根底は打算的な行動原理だが、表面化している目的は対照的だからだ。
隕石があると損をするから処分する。
隕石があれば得をするから持ち帰る。
誰よりも早く現場に駆けつけ、この行動原理を基に行動する人物は、そう多くはないはずだ。
小紙記者がいち早く現場に急行していれば、あるいはその人物を押さえられたかもしれない。この日に限って私用で出動が遅れたことは忸怩(じくじ)に値する。
何にせよ取材は続けていこうと思うが、沈黙を守る霊夢氏の目撃証言が騒動解決への第一歩になるだろう。
(射命丸文)
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昨夜のことを「隕石騒動」と呼称し、淡々と分析がなされていた。
文が現場に急行するのが遅れたことを悔やむ一文もあったが、それは鴉天狗の尺度での話であり、饅頭を社務所に運び込むのがあと少し遅ければ、きっと文に目撃されていたのだろう。明かりを点けなかったことも功を奏したのだと思う。
記事からは、隕石騒動を冷静かつ客観的に分析しようとする姿勢が窺えた。
やはり文はリテラシーの有る記者と見直したかったが、所々から彼女の主観的意見が見え隠れしていた。特に締めの一文と、見出しの「霊夢氏は沈黙を守る」というくだりにそれが顕著に現れている。
恐らく、霊夢が一刻という僅かな睡眠をとっている間に、文は社務所を訪ねていた。
が、中から応えは無かった。留守か居留守か、文がどう捉えたか定かでは無いが、「沈黙」という言葉でそれを表現した。これでは、あたかも霊夢が取材の申し入れを受けた上で、それに応じなかったような印象を受ける。
もっとも、仮に申し入れを受けていたとしても、取材に応じる気など微塵も無いのだが。
とにかく、今後の文の動向には十分気をつける必要があるが、ばら撒かれたであろう号外に興味を抱いた輩は少なくないはずなので、注意すべきは文一人ではなく、神社に寄ってくる全ての輩であった。
「このお陰で参拝客が増えたりしてね。クレーターにすのこでも架けておこうかしら」
折り目を無視して新聞を畳み、霊夢は一人ごちた。
自虐的な冗談は、不明瞭な失笑しか誘わなかった。
■6
萃香に言伝を頼んでおいたお陰か、常連客の足がぱたりと途絶えた。
闖入者が現れなくなっても、霊夢は社務所を閉め切って、最小限の行動と明かりだけで一日を過ごした。野次馬の目とカメラのファインダーに収まることを恐れ、社務所を出ることはおろか、縁側に面した廊下や窓際を歩くこともしなかった。
霊夢のその勘は当たっていて、寝間でじっとしていると、時折外から野次馬のものと思われる話し声が聞こえてきた。縁側の戸をガンガンと叩く者さえいた。それが明け方まで間欠的に続いた。そんな調子なので、翌日も社務所に閉居することは決定していた。
かと言って、いつまでも風邪を装っていられる訳ではない。
風邪をこじらせ過ぎるとかえって周りが騒ぎかねないし、閉じ篭った生活にストレスを感じてしまっている。限界が来る前に饅頭には帰って貰いたいが、いくら看病を続けても饅頭は意識を取り戻さない。
今日で饅頭がやってきてはや四日目。
霊夢のフラストレーションは溜まる一方であった。
協力者であるはずの紫が一向に姿を見せやしないのも、それに拍車をかけていた。
──紫の嘘つき。バカ。死ねばいいのよ。
もはや悪態を声にする余裕も無くなった霊夢は、疲れ切った顔で台所に立ち、簡単な朝食を作った。
献立は白飯、豆腐の味噌汁、玉子焼き、保存食の漬物である。
出来上がった朝食を盆に載せ、寝間に運んだ。
目を離している間に饅頭がうなされてはいけないので、寝間で食事をするのが定着しつつあった。
畳に直接盆を置き、黙々と朝食を摂っていると、背後から白い手袋をはめた手がそろそろと伸びてきた。つまみ食いに挑む子供のような手の動きだった。
「こらっ」
伸びる手を叩こうとするも空振りし、玉子焼きを一切れ持っていかれた。
貴重な食料を、と恨みを込めながら振り返ると、フラストレーションを溜める原因の一つが座っていた。
「んー、美味しい。お料理上手なのね、霊夢ったら」
玉子焼きを頬張りながら、紫が目を細めていた。
その笑みにいつものようなしたたかさはなく、むしろ可愛らしくて、霊夢は二段構えの不意打ちを喰らった気分だった。
「やっと出てきたと思ったら、つまみ食いとはいやしいわね」
「私の分は?」
「あるわけないじゃない」
「駄目じゃない。会いたいって思った時は、私の分もご飯を作っておかないと」
「は?」
「貴女が私に会いたいって思ってる時、いつも私から会いに来てるでしょう?」
確かに、夕飯まで作って待ち呆けていた日はそうかもしれない。
だが、饅頭が神社にやってきてから今に至るまで、紫にずっと協力をしてもらいたいと思っていたのに、紫は姿を現してはくれなかった。
「いつからあんたはさとりになったのかしら」
「私はただ、貴女の顔に書いてある文字を読んでるだけよ」
「良い趣味してるわね。隠れて私のことを観察してたと?」
「そうよ?」
小首を傾げ、さも当然のように紫は言ってのけた。
すきまからこちらの顔色をずっと観察していたのなら、さっさと手伝いに来てくれてもいいではないか。そうしなかったのは、看病が面倒臭いからに決まっている。
──こっちだって、会いたかったというか……、協力してもらいたかっただけよ。
そう言ったらどんな顔をされるか分からない、と引き結んだ霊夢の口に、紫の指が伸びる。
「おべんとう付けてどこ行くの?」
紫は霊夢の口元から取った米粒を自らの口に運ぶと、指を咥えたまま霊夢に視線を戻した。目元には相変わらず妖しげな笑みが浮かんでいた。
「なっ、なに……、気持ち悪い」
目を合わせているだけでも危険と思い、霊夢は赤らめた顔を背けた。
そもそも霊夢は、次に紫に会ったらきつく叱ってやろうと思っていたが、すっかり紫のペースに乗せられていた。
霊夢はどぎまぎした視線をあちこち走らせると、布団の中で眠っているはずの饅頭の姿が無いことに気がついた。
「えっ」と短く声を上げた次の瞬間、視界の底で蠢く黒い影を捉えた。
見ると、黒い影は饅頭だった。
布団から抜け出した饅頭は、霊夢の食べかけの玉子焼きを器用に口に運んでいた。
今まで、目を覚ます気配など全く無く、それで散々気を揉んでいたのに、饅頭はそんな心労など露知らず、朝食を横取りしているではないか!
霊夢は、驚きと呆れで言葉が出なかった。
代わりに、後ろにいた紫が赤子に話しかけるような気色悪い声を上げた。
「まあぁ、お目覚め? お腹空いてたのねえ」
素早く声色を切り替えて、
「霊夢、あなた、この三日間この子に何あげてたの?」
首を縦にも横にも振らず、霊夢は玉子焼きを頬張る饅頭を見下ろしていた。
自分そっくりの赤いリボンと髪飾りの筒をつけた、珍妙な生物のことを。
「可哀想に。お腹空かせてたのに、何も食べてなかったのね。大きい霊夢ったら酷いわねえ。今ご飯作らせるから、ちょっと待っててね」
紫の耳障りな撫で声も、ちゃんと耳に入ってこない。
饅頭の方も、紫の声を聞いている様子は無かった。
二切れ目の玉子焼きに狙いを定めているようである。
この三日間何も食べていなかったから、よほど空腹なのだろう。
「ちょっと……」
ようやく霊夢が声を上げると、饅頭はぴくり、と動きを止めた。
玉子焼きの端を咥えたまま饅頭の円らな瞳が上に動き、霊夢の姿を認めた。
二人が視線を結んでいると、饅頭が何かを思い出したかのように顔をはっとさせた。饅頭は視線を解き、玉子焼きを皿に戻し、いそいそと体を霊夢の方に向けた。
そして──
「ゆっくりしていってね!」
「……は?」
「ゆっくりしていってね!」
満面の笑みではない。
笑顔には違わないが、満面の笑みでは決してない。
「な、何なのよ、あんた」
「ゆっくりしていってね!」
妙に目に力が込められていて、口も変な方向に曲がっている。
ゆっくりすることを相手に強制するような憎たらしい表情が、まるで能面のようにべったり貼り付いている。
「ゆっくりしていってね!」
「ちょっ……、頭おかしいんじゃないの?」
「ゆっくりしていってね!」
「ゆっくりゆっくりって……、馬鹿にしてんの?」
「ゆっくりしていってね!」
畳の上で、狂ったように同じ言葉を繰り返しながら飛び跳ねる饅頭。
一方、面を食らって固まる霊夢の背後で、紫が畳を叩きながら笑い転げている。
「ちび霊夢、か、か、可愛すぎるっ」
「笑うな!」
寝間はたちまち混沌と化した。
前では饅頭がゆっくりしていってねと声を張り上げ、後ろでは、普段しゃなりしゃなりしているあの紫が腹を抱えて悶絶している。
その真ん中で、霊夢が口を半開きにして呆然としているのだ。
「ゆっくりしていってね!」
「ああもう、言われなくたってゆっくりしてるわよ! うるさいわね!」
そう答えると、饅頭が満足そうに曲がった口を閉じた。目や眉には力が込められたままだった。そして、一呼吸置く間もなく、朝食を載せた盆へとすり寄ってゆく。
「まったく、何なのよこれ……」
指の腹で涙を拭きながら、紫が霊夢の横に座り直した。
「この子、同じ言葉しか喋れないんじゃないかしら」
「同じ言葉?」
すっかり澄まし顔の紫は、饅頭を見ながら続ける。
「ゆっくりしていってね! しか喋れない。でも実は、それに色んな意味を込めていたりして」
「一体どうすれば、その言葉でそんなことが出来るのよ」
「アロハと一緒よ」
「何それ」
「外の世界の便利な言葉」
妙な例えを持ち出した紫は、霊夢の不満顔をよそに饅頭の頭を優しく撫で回したが、饅頭は気にする素振りも見せずに玉子焼きと格闘していた。
紫は何か気づいた様子で、
「霊夢、貴女も触ってごらんなさい」
と霊夢にも饅頭の頭を撫でるよう勧めた。
「何でよ」と怪訝そうに霊夢が尋ねても、紫は微笑むだけ。
仕方なく饅頭の頭を撫でてみると、饅頭の髪は霊夢のそれとは比べ物にならないほど滑らかで綺麗だった。毛先まで難なく指が通り、逆に指のほうが清められたような、心地良いこそばゆさが残った。
「私と同じくらいサラサラよ、この子」
紫の髪の毛を触ったことは無いが、手櫛の様子を見る限り、きっと饅頭と同じような手触りなのだろう。
「触ってみたい?」
霊夢の視線に気付いた紫は毛先を上に向けながらそう言ったが、霊夢はそれを無視し、手元に目線を戻すと、饅頭が霊夢の膝元へすり寄っているところだった。
「何で近寄って来るのよ!」
霊夢は驚いて、咄嗟に饅頭の頭から手を離した。
「あらあら、仲の良いこと」
「勘弁してよ。こんなヘンテコな生き物に好かれてどうしろって言うの」
「自分にそっくりなこの子をヘンテコと?」
「そっくりじゃないってば」
「ゆっ、ゆっ」
看病中に散々聞いたうなされる声と似た声がして、霊夢は思わず足元を見た。
すると、正座する霊夢の膝小僧に饅頭が頬をすり当てていた。
「ほら、ゆっくりが甘えてるじゃないの。優しくしてあげなさいよ」
「何よゆっくりって」
「その子の名前」
「相変わらず良いセンスしてるわね、紫は」
「見たまま感じたままで名前をつけることに、真の知性は現れるのよ」
紫の下らない屁理屈を「あっそ」と適当にあしらった後、いつまでも膝に頬をすり当てられていても気持ちが悪いので、饅頭のことを目の高さまで持ち上げた。
憎たらしい饅頭と目が合う。
いつの間にか口が開いているので、また例の台詞を言うのかもしれない。
「ゆっ!」
と思いきや、ゆっくりしていってねを省略した台詞に、霊夢は思わず噴き出してしまった。
「あはは。何が、ゆっ! よ」
「ゆっ!」
霊夢は、饅頭の頬を両側から挟むように力を込めた。饅頭の顔がさらに珍妙なものに変形する。
「あんたが目を覚ましたら私の役目は終わりなの。早く自分の星にでも帰って頂戴」
「……ゆ゛っ!」
「あら、元気になるまでって約束でしょ?」
「紫は黙ってて。あんただって何も協力してくれなかったじゃない」
「ゆ゛っ!」
「早く帰れって言われても、ゆっくりだって困るはずよ。その子、何か目的があって幻想郷に来たんじゃないかしら。でないと、わざわざ私の結界を破ったりしないわ。逆を言えば、目的が果たされるまでその子は帰らない」
そう言われて、霊夢は口篭った。
紫の言うことは一理あるからと思ったからだ。
事故であれば、ゆっくりは博麗大結界に弾かれて終わり。故意だからこそ、目的があったからこそ、繰り返し結界を破ろうと試みた。その考えで筋は通る。
そして紫が何を言いたいのかも、霊夢は気づいていた。
「いやよ。これ以上こんなのといたら絶対頭おかしくなる。周りの目は神社に向けられているんだし、これからは紫の家で匿ってあげたほうがいいわ。今まで散々雲隠れしてたんだし、それくらい協力してくれるよね?」
紫は肩が触れ合うくらい霊夢に近寄ると、酷い顔をしたゆっくりを触った。
しかし、ゆっくりは紫のほうを見向きもせず、霊夢のことを真っ直ぐに見つめている。
まるで、彼女(?)の世界には霊夢しか存在しないと思わせる、食い入るような視線だった。
「それは無理ね。私嫌われているみたいだし。霊夢のことが大好きなこの子を神社から連れ出すのはあんまりよ」
「無理矢理でも連れ出せば、すぐに懐くわよ」
「逃げられたらスクープ確定なのに、霊夢ったら勝負師ね。それくらい大胆に来て欲しいって思っちゃう」
余計な一言が付いてきたが、紫の言う通りだった。
今、ゆっくりを社務所から出すのはあまりにも危険すぎた。
「ここに置いておくしか、道はないと」
溜息混じりそう言って、霊夢はゆっくりから手を離した。
「そうかもね」紫の相槌とほぼ同時に、どす、と低音を鳴らしてゆっくりが畳の上に落ちた。それでも、その憎たらしい顔は崩れなかった。
霊夢は桶と布巾を手に立ち上がった。
水場に片付けに行くなら、縁側の廊下を通ればほんの数秒であるが、誰が外で張っているかも分からない所為で迂回を強いられた。
霊夢は、縁側とは反対側の部屋とを隔てるふすまの前で立ち止まった。
「本当に面倒臭い。あんたも、そのゆっくりってのも」
横に並ぶ二人を見て、霊夢は理不尽を飲まされたような顔をした。
すると、紫が笑い声を零した。
思わずというよりも、ふふっ、と、ふすまの前に立つ霊夢にもしっかりと聞こえるように発音して。
「何だかんだで、ちゃんとゆっくりの面倒を見ようとする霊夢が好きよ」
悪びれる様子も無く、そんなことをさらりと言う紫であった。
■7
「では、霊夢さんはあの晩、ずっとお休みになられていたと?」
「だからそうだってば。何度言えば分かるのよ」
「ふむ……そうですか」
ブン屋は、器用に吊り上げた片眉を腑に落ちない様子で降ろし、愛用の手帖にペンを走らせる。走らせながらも、口は休めない。
「落下現場はもう見られましたか?」
「一応、自分の家だしね……って、何でそんなことわざわざ聞くのよ。さっきそこで会ったんじゃない」
「一応です。それで、体調を崩されている時にわざわざ確かめに?」
「まさか。今朝の今朝まで外に出る元気は無かったわ」
「現場を見たとき、どうでした?」
これでは取材というよりも、聴取である。
これが延々と繰り返されていれば、頭が痛くなるのも無理も無い。
反対に、まるでその顔色までも描写していそうなほど文は忙しなくペンを走らせている。霊夢のパターン化された返答を看破すべく、機を窺っているのだ。
朝日の下、クレーターを見た霊夢はその大きさに改めて驚愕した。神社とけもの道を結ぶ、決して短くない石階段の三分の一以上は消えて無くなっていたのだ。そこにあった灯篭や木々は吹き飛ぶかなぎ倒されるかしていて、それは凄惨な光景だった。
「どうもしませんでした」
敢えてぶっきらぼうに答えると、文は「ほほう」と唸った。
「あれだけの大穴です。大事な参拝客が遠のいてしまう、とは思われなかったのですか?」
霊夢は奥歯を噛みながら、強張った笑みを浮かべ、
「えっと、文さ、喧嘩売ってる?」
「い、いやだなぁ。そんなつもりじゃないですよ」
ペンでこめかみを掻きつつ、文はおどおどしく笑みを返した。
霊夢はそれを見ながら鼻を鳴らし、茶をすする。
まだ外から雀の集いが聞こえてくる中、社務所の玄関から一番近く、寝間から一番遠い和室で、二人はテーブルを挟んで向かい合っている。
どうしてこうなったかと言えば、ゆっくりがやって来てから六日目の朝、霊夢が落下現場を見に行った事から始まる。
いくら参拝客が皆無であろうとも、石階段も神社の敷地であるから、いつまでもクレーターを放置しておく訳にもいかない。そう思って、霊夢は現場の様子を朝方に確かめに行った。
朝方であれば野次馬達もいないと思っての行動だったが、現場から帰る途中で文と鉢合わせてしまい(それ自体が文の演出かもしれない)、霊夢は渋々取材に応じることになってしまった。
あまつさえ、「立ち話も何ですから」と半ば強引に社務所を取材場所にされてしまったのである。
重要人物に隕石騒動の取材が出来た文からしてみれば願ったり叶ったりの事だろうが、霊夢からしてみれば堪忍して欲しい状況である。
離れた部屋に通したとはいえ、同じ屋根の下に文が探し求めている落下物が寝ているのだから。
「さて続いてですが」
「まだあるの」
「最後の質問です。霊夢さんは、空から落ちてきたものは何だと思います?」
文はこれまでの会話の中で、落下物が行方不明になっていることについて一切触れなかった。
落下現場で会っているから説明は不要だと思ったのか、あるいは、敢えてその話題を伏せることで、霊夢しか知り得ない事を口にさせるように仕向けていたのか。
突飛な返答は足元を覚束なくさせる。
しかしこの場合、沈黙は金にはなりそうもない。
無言で文を見つめる霊夢。
文も、ペンを構えたまま霊夢を見つめ返す。
突如張り詰めた空気に似合わない雀の鳴き声が窓から聞こえてくる。
「私も、あんたと同じクチ」
と、霊夢は遠まわしに答えた。
文は一瞬考えた顔をし、すぐにぱっ、と笑顔を咲かせた。
「ありがとうございます。号外、読んでくれたんですね」
あれほど目立つ場所に自分の名が大書された新聞が置いてあれば、霊夢でなくたって読まずにはいられないはず。それを見越した上で喜色満面を見せたであろう文には、更に白々しい皮肉で被せてやるしかない。
「あの現場を見ただけであれだけの推測が出来るなんて、流石は伝統のブン屋。鋭い目と鼻をお持ちで」
「えへへ。そんな大したことじゃあないですよ」
「今回は阿求に『アンニュイなアフタヌーンティーのお供に』とか言われないといいわね」
「霊夢さんにも取材協力してもらったからには勿論、隕石騒動の記事で幻想郷を沸かせて見せますよ。他の方々も隕石の行方が気になるでしょうし……ああ、じゃあ丁度良いですね。霊夢さん。霊夢さんは、壱から伍、どれだと思いました? これから隕石の行方を追う上で、霊夢さんの意見も参考にさせてもらえればと」
文の言う「壱から伍」という数字は、文が先の号外で推理した落下物の行方を指している。
出来るだけ話を逸らそうとしたが、文はしっかりと落下物の正体の話題に戻してきた。
しかもよく見ると、文は人懐っこい幼い笑みを霊夢に投げかけたまま、ペン先に加えた力を少しも緩めていない。最初からこの質問をする予定だったらしい。
沈黙が金にならなければ、雄弁もまた、銀メッキかもしれない。
「……平和が一番よ。異変なんて基本的にまっぴら」
「なるほど。よく、分かりました」
記事の一文をもじって答えてやると、文はその短い返答の何倍もの情報量を手帖にしたためていた。
「ほら、もう十分でしょう? 私、これから溜まった家事を片付けなくちゃならないんだけど」
早いところ帰ってもらわないと、ゆっくりが起きてくるかもしれない。
「病み上がりですもんね。すみませんすみません。では、最後に写真を一枚」
文は手早く手帖をしまい、カメラを構えた。
頬杖をついたまま霊夢がレンズを横目で見上げた途端、パシャ、とシャッターが閉じた。
ファインダーの上から顔をひょいと出した文は、小首を傾げて微笑んだ。
新聞記者がこれだけ可愛いと色々と得だろうな、と霊夢が思っていると、文が部屋の窓を開けて、足をかけた。
「ご協力ありがとうございました! 次号も楽しみにしててくださいね」
文は、敬礼するように額に手を当ててウインクをすると、颯爽と空へ飛び立った。
霊夢は文の影が完全に消えるのを見届けた後、溜まりに溜まった息を吐いた。
「はあ」
疲れがどっと出て、しばらくその場から動けずにいたが、どうにかして客間を後にした。
取材の流れから、霊夢の風邪は今日で治ったことになったため、これ以上社務所を締め切っていると不自然になる。
こうなった以上、いつも通りに振舞いながらゆっくりを隠せる方法を考えるしかない。
仕方なく霊夢は、四日ぶりの空気の入れ替えも兼ねて、社務所中全ての窓を開けて回った。
最後に縁側のガラス戸を開け終えると、背後の障子がすっ、と静かに開く音がした。
「ゆっ!」
振り返ると、ゆっくりが障子の間から顔を覗かせていた。
頬を器用に使って開けたのだろうが、障子に挟まれて顔が酷いことになっている。
「ちょっと、寝間でじっとしていなさいってば」
「ゆっくりしていってね!」
「ああもう、こっち出てきちゃ駄目! 誰かに見られたらどうすんのよ」
ゆっくりをつま先で押し戻し、続いて霊夢も寝間に入る。
昨日、紫が何処からか調達してきたベビー用布団が、部屋の端で敷きっ放しになっていた。
真ん中で寝ている霊夢の布団は、既に押入れに片してある。
「ほら、布団くらい自分で仕舞いなさい」
するとゆっくりは、口を巧みに使って布団を畳み始めた。
その慣れた動きを見れば、障子を開けるくらい造作も無いだろうと納得する。
が、畳んだ布団を押入れの前まで押し運んだゆっくりは、押入れの中を見上げて止まった。
「ゆっ!」
相変わらず顔色一つ変えていないが、物言いたげにぴょんぴょんと飛び跳ねている。
どうやら、押入れの上段に持ち上げることが出来ないらしい。
「ったく……」
見かねた霊夢はゆっくりの布団をひょいと持ち上げ、押入れに放り込んだ。
「布団を頭にでも載せて、空飛べば出来るじゃないの」
自分とそっくりの格好をしていて、しかも空からやってきたのだから、ゆっくりが空を飛べてもいいはず。
「空、飛べないの?」
ゆっくりは無反応で霊夢を見つめている。
相槌の「ゆっ!」もないので、ひょっとしたらそうなのだろう。
霊夢が後ろ手に押入れを閉めると、腹の虫が鳴いた。何も食わずに落下現場の様子を見に行き、そのまま取材を受けていたのだから無理もない。
「さて、何か作ろうかな」
「ゆっゆっ」
「食材、何残ってたっけ」
「ゆっゆっ」
「……」
寝間を出ようとしてふすまの前で振り返ると、ゆっくりがぴったり後ろをついて来ていた。
「あんたもご飯食べたいの?」
「ゆっ!」
「おいそれと一人分余分に作れるほど、我が家は裕福じゃないわよ」
いつか紫の分の夕飯を作って待っていた自分を棚に上げ、霊夢は言った。
現在の神社の収入では、切り詰めても霊夢一人分ですら足が出ることがあるので、確かにその通りであった。
だが、ゆっくりも生き物である以上食べないといけないし、紫が痩せこけたゆっくりを見たら何て言うか分かったものではない。
「まあ、ついでだし作ってやってもいいけど……」
「ゆっ!」
「あんた普段何食べてるの? 玉子焼きは食べられるみたいだけど」
「ゆっ!」
「どのくらい食べるの?」
「ゆっ!」
「あのねぇ、ゆっ! じゃ分かんないわよ。まあいいか玉子焼きで。じゃあ作ってくるから、そこで大人しくしてるのよ。分かった?」
「ゆっ!」
寝間から出ないよう念を押して、霊夢は台所へ向かった。
台所の調理器具と台所に保存してある食材は、お世辞でも充実しているとは言えなかった。
それとは裏腹に、料理好きの部類に入る霊夢なので、経済的にもっと余裕があれば献立を豪華にしたいと思っているのだが、日に日に品数は減り、内容も貧しくなる一方である。最近では具無し味噌汁も珍しくない。
「これでよし……と。ええと、白米も食べるのよね。あいつ」
ゆっくりの体の構造上、椀物は扱えないと思われるが、布団を畳めたりと意外に器用なので、霊夢はとりあえず客用の茶碗に白米をよそった。
「うう、まさかこの茶碗がゆっくりに使われるとは」
ぼやきながら、霊夢は二人分の朝食を手に寝間へと戻った。
「出来たわよ」
寝間に入るなり「ゆっ!」と迎えられると思ったが、何の応えも無かった。
その代わり部屋の中央で何やらごそごそやっているゆっくりを見て、霊夢は目を丸くした。
「納豆巻きなんて、一体何処に隠し持ってたのよ!」
ゆっくりが畳の上でせっせと納豆巻きを巻いている。
しかも二本も。
思わず声を張ったが、隠し場所の疑問はすぐに氷解した。
外された耳元の髪飾りが一枚布の状態で床に転がっている。
髪飾りに一緒に仕込んでいたと思われる竹製のす巻きも一つ転がっていて、もう一つはゆっくりが使っている最中だ。
状況から納豆巻きの隠し場所を把握出来ても、その発想には理解に苦しむ。
「どう考えても、納豆巻きを仕込む為の物じゃないでしょ……」
動揺で盆を落とさないようにするのが精一杯の霊夢をよそに、ゆっくりは二本目を巻き終えた。
顔を上げて、霊夢の姿を認めると、
「ゆっくりしていってね!」
満点のゆっくりしていってねが出た。
「あんたねぇ……、食べる物持ってるなら最初から言いなさいよね」
霊夢は言った後に、ゆっくりは一つの単語しか発せられないことを思い出し、苦笑いを浮かべた。
「って無理な話か。馬鹿みたい、私」
「ゆっゆっ」
最早どう怒っていいかも分からないので、霊夢は何も言わずにゆっくりの前に腰を下ろした。
納豆巻きの隣に玉子焼きの皿を置いてやると、ゆっくりはしばらくそれを見つめた後、声を上げながら嬉しそうに飛び跳ねた。
「ゆっ! ゆゆゆ!」
「いいから早く食べなさい」
霊夢が具無しの味噌汁を口元に運んでいると、今度はゆっくりが霊夢の玉子焼きの皿の横に何かを置いた。
「げほっ、そんなのいらないわよ」
霊夢は玉子焼きの横に置かれた納豆巻きを見て、むせながら納豆巻きを突き返した。
突き返したが、ゆっくりが尾っぽの方を咥えて戻してくる。
突き返す、戻される、の繰り返しの末、霊夢は根負けた。
「分かった、分かったから。鬱陶しいなあ」
「ゆっくりしていってね!」
「……ていうかこれ、やめておいたほうが良いんじゃない? 少なくとも五日は経ってるでしょ。ほら、白いご飯ならあるからあんたもこっちを」
「ゆっ!」
「あ」
ゆっくりは霊夢の警告を無視して、五日以上常温に置かれた納豆巻きを一口で食べた。
口いっぱいに頬張った納豆巻きを、やたら粘り気のある音を立てながら味わい、やがて嚥下した。
飲み下した納豆巻きは一体何処に行くのだろうか、といった疑問は他にもいくらでも出て来るので、霊夢は深く考えないことにした。
「あーあ、お腹壊しても知らないんだから」
「ゆっ! ゆっ!」
霊夢のことを見上げて、ゆっくりが飛び跳ねている。
「な、何よ……。私は食べないからね」
一瞬、霊夢の頭に、傷んでいるであろう納豆巻きを食べれば、食あたりで寝込めるという算段が浮かんだ。
また社務所を閉め切れる建前にはなるが、立て続けにそうしては不自然に映る可能性がある。
それに、霊夢には盆の上に置かれた、米の水気を吸ってふやけた納豆巻きを口にする勇気は無かった。
「これはもう傷んで駄目になってるから。捨てます」
「ゆっ!」
「あっ、こら!」
ゆっくりは霊夢にあげた納豆巻きに飛びついた。この時ばかりは、ゆっくりが「これを捨てるなんてとんでもない」と言っているように聞こえた。
「あんたは私が炊いた米よりも、傷んだ納豆巻きを選ぶと」
「ゆっゆっ」
返事はあったものの、玉子焼きを夢中で頬張るゆっくりの耳に届いているとは思えなかった。
霊夢は呆れながらゆっくりから目線を外し、床に転がった髪飾りを見た。
「それにしても、よくこれに納豆巻きなんて仕込んだわね……」
手に取ると、納豆の粘り気が指先に絡みついた。見ると、納豆の糸によって髪飾りの裏面中に米粒がはびこっていた。
「うへぇ」
霊夢はそれを見て思わず、情けない声を上げた。
同時に、その沢山の米粒を勿体無いとも思ってしまい、霊夢は例えようの無い敗北感に駆られたのだった。
■8
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文々。新聞
第百二十四季 水無月ノ十六 号外
【隕石の行方 霊夢氏と紫氏が知っている?】
まずは上の三枚の写真を見て欲しい。
左上の写真だが、これは一昨日、香霖堂で買い物をする八雲紫氏である。
カウンターの上で霖之助氏が梱包をしているのは、形状や大きさからして恐らく子供用の布団であろう。野暮な事ではあるが、何故紫氏が子供用布団など買う必要があったのか、直接本人に取材を試みるも、紫氏は香霖堂から出ること無く姿を消してしまった。
代わりに霖之助氏に話を伺ったところ、彼も彼女から事情を聞くことは出来なかったそうだが、紫氏はまるで成り立ての母親のように幸せそうだったと彼は言う。
次に中央の写真を見てもらいたい。
昨日、博麗神社の裏手に干してあった洗濯物の中から気になるものを見つけ、すかさずカメラに収めた。
これは、霊夢氏のトレードマークとも言える耳元の髪飾りであるのだが、見ても分かる通り、大きさの異なる髪飾りが二つ並べて干してある。
大きさからして、小さい方が普段我々が目にしているものだろうが、霊夢氏が大きい方の髪飾りをつけているところを見たことがない。傍から見ても、頭の大きさに合わないのである。
髪飾りを複数所有していること自体何ら不思議では無いが、何故身につけてもいない大きな髪飾りを持っていて、洗濯までしているのか。
この事と、紫氏の子供用布団の購入という不可解な行動は、連関しうるのではなかろうか。それを確かめるべく、小紙記者は霊夢氏へ取材を行ったのだが、残念ながら明瞭な回答は得られなかった。(写真右上)
二人だけの秘め事であればそれまでなのだが(それはそれで別途号外は出したい)、タイミング的にも隕石騒動と時期が重なっているのも興味深い。
先の号外を読んでくれた人には話が早いのだが、小紙記者が挙げた隕石の行方の中に、真実が含まれている可能性が俄かに現実味を帯びてきたのではなかろうか。
前号の数字を持ち出せば、四と参。
つまり、落下物が生物で、それを霊夢氏と紫氏が持ち去り、何らかの理由で隠していると言ったところか。
この二人であれば、幻想郷の平和が脅かされる事態には発展しないと思うが、何にせよこの先の二人の動向に注目が集まる。
(射命丸文)
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「ふふっ、この写真の霊夢、ぶすっとしちゃって」
次の日、文々。新聞を見て、紫は可笑しそうに言った。
まるで他人のスキャンダルを楽しんでいるかのようだったが、昨日の不毛な取材のことが載っているとばかり思っていた霊夢の内心は穏やかではなかった。
何故なら、今回の記事は明らかに時間軸が捏造されているからだ。
あたかも髪飾りが干してあるのを写真に収めた後に取材をしているかのような書き方だが、実際には逆である。
取材後に摂った朝食での納豆巻きの一件が無ければ、ゆっくりの髪飾りを洗おうなんて思わなかった。
話題作りのためなのか、それとも他意があってのことなのか。いずれにせよ、紫が前に言ったとおり、妖怪の言うことは当てにならないと再認識させられる結果になった。
「あんたの言うとおりになったわね」
「あの天狗も目ざといというか、暇よねえ」
「あんたと一緒でね」
「その私の相手をしてくれる霊夢もね」
「で、どうすんのよ。こんな風に書かれちゃって」
「今日も楽園は平和ねって言いながら、ゆっくりも入れてお茶しましょうよ。縁側で」
最近ではすっかり寝間が居間と化している。
紫もそれを強いられるのが嫌になってきたのだろうか。
「馬鹿言わないでよ。匿ってやれって言ったのは紫のくせに。こんな引き篭もり生活、こっちだって早くおさらばしたいわよ」
「大丈夫なんじゃない? 面白く記事にされちゃってるけど、周りの反応は予想以上にイマイチだと思うの。どうでもいいというか、誰も間に受けてないんじゃない? 所詮は天狗の新聞だし」
「そんなこと無いわよ。今日で一週間経つけど、今だにうちの様子を見に来る輩がいるし。今日だって、魔理沙がこの記事の話をしに押しかけて来て大変だったんだから」
「あら、そんなことが? どうやってやりすごしたの?」
「押入れに突っ込んだわ」
「まあ酷い」
「仕方なかったの。この子を隠し通すのは大変なんだから」
紫は薄っすらと笑みを浮かべ、口をしおらしく押さえた。
「この子ですって。霊夢もすっかり立派なお姉ちゃんね。いえ、お母さんかしら?」
「う、うるさいわね。と、とにかくいい加減疲れたし、ゆっくりには早く帰ってもらいたいわ」
「そればっかりは、ゆっくりに聞いてみないと分からないわね」
二人は、一人遊びをしているゆっくりに目をやった。二人の視線に気がついたゆっくりは、体の向きを直すと、じっと霊夢の方を凝視した。
その妙に力の込められた瞳は、やはり紫の方を見ようともしなかった。
どう出るのかしばらく観察していると、静かに口が開かれた。
「ゆっくりしていってね!」
「はいはい、大丈夫よ、ゆっくりしてるわよ」
紫は手を振りながら例の撫で声で返事をした。
「その声何なの」
不快感を露わに、霊夢は紫に尋ねた。
「私、可愛いものには目がないの。小動物とか」
「あれ、小動物?」
「ちょっと違うわね。ちび霊夢よ」
「顔だけだったらあっちのほうがでかい」
「ほら、霊夢も応えてあげなさい」
見れば、ゆっくりが曲がった口を開けたまま、霊夢のことを凝視したままだった。
どうやら霊夢からの返事を待っているようだ。
「ああもう」
霊夢があっちいけとばかりにゆっくりの視線を手で払うと、ゆっくりは満足そうに口を閉じ、一人遊びを再開した。
「本当に素直ね。霊夢には」
「もし本当にそうなら、とっくに帰ってくれてるわよ」
ゆっくりを面白そうに見ていた紫は、視線だけを霊夢に戻した。
右手では、虚空に切れ目を作っているところだった。
「貴女も少しはゆっくりを見習ったら?」
「……どういう意味?」
「そのままの意味よ」
そう言って、紫はすきまへと体を埋めた。
「じゃあ、今日はこれで」
話は逸れたが、結局触れず終いだったことからして、文に対して無策のままで行くのが紫の考えらしい。
つまり、明日も同じ閉居生活が続くことになる。
そう考えると、みるみる気が滅入ってくる。
そんな風に顔を曇らせる霊夢のことを、紫がすきまから観察していた。
「駄目よ霊夢。最近ゆっくりの分も作ってて備蓄も無いでしょう? 気持ちだけ有り難く頂いておくから」
「は?」
「またいつか、余裕があるときに」
紫がすきまの向こうへ消えた後も、霊夢には何のことか分からなかったが、しばらくして意味を理解した。浮かない顔をしていた理由を勘違いされたらしい。
「そりゃあ、うちの食卓事情はひっ迫してるけどさ……。何もそんな断り方しなくてもいいじゃない」
「ゆっゆっ」
何も言い返せなかったことに悔しがる霊夢のもとに、ゆっくりが這い寄る。
俯く霊夢と目を合わせたゆっくりは、正座する霊夢の膝に顔を押しつけた。
霊夢は苛々した顔でゆっくりを見下ろし、無言で立ち上がった。
立ち上がった際にゆっくりを軽く蹴飛ばし、隣の部屋を隔てるふすまの前まで、地団駄を踏むように音を立てながら進んだ。
そして、すぐ後ろをついてくるゆっくりに背を見せたまま、言った。
「いいわね、あんたはお気楽で。私もあんたみたいになりたいものだわ」
棘のある言葉は、束の間、ゆっくりの動きを止めた。
だが、
「ゆっくりしていってね!」
もはや蓄音機で繰り返し再生されているかと思う位、ゆっくりの声は揺ぎ無い。
それはたちまち、霊夢の苛立ちをさらに増幅させた。
「そうね。たくさんお賽銭が集まれば、少しは余裕も生まれてゆっくり出来るかもね。まあ本当は、あんたさえ──」
言いかけて、霊夢は口をつぐむ。
「……。何でもない」
霊夢は力なく首を振りながら、ふすまの向こうに消えた。
遠ざかる足音を聞いているのか、ゆっくりは妙な笑みを顔に貼り付けたまま、ふすまの前で固まっていたのだった。
■9
夕飯の支度を終えた霊夢を待っていたのは、まさに青天の霹靂であった。
夕飯を手に寝間に戻ると、ゆっくりの姿が消えていたのだ。
慌てた霊夢は、夕飯を載せた盆どころか、社務所をひっくり返す勢いで探したが、ゆっくりは何処にもいなかった。
屋内の、障子や、ふすまや、戸や、湯船の板までもがちゃんと閉まっていた。
戸の開け閉めくらい訳無く出来るゆっくりなので、それ自体は特筆する事では無いが、逆に、縁側の戸が半開きになっていた事が問題である。段差のせいで、外から戸を閉めることが出来なかったと考えられるのだ。
つまり、ゆっくりは外に出てしまったことになる。
ゆっくりの後を追いかけるように、霊夢は縁側から外に出た。
「あの馬鹿……。寝間から出るなってあれほど言ったのに。何が私には素直よ、全然じゃない」
ゆっくりが神社に来てから丁度一週間。今までゆっくりは、霊夢の一挙手一投足にだけ敏感に反応し、それでいて従順だった。
しかし、ここへ来てゆっくりの思いも寄らぬ行動に、霊夢は動揺を隠せずにいた。
何がゆっくりをそうさせたのか、霊夢には思い当たる節があった。
──何であれくらいでヘソ曲げるのよ、バカ。
心の中でぶつくさ言いながら、霊夢は神社の裏手へ回り込んだ。
物干し竿が二本、物寂しそうに突っ立っているだけで、誰もいない。
闇が降り始めた鎮守の森に注目するも、やはり誰もいない。
「ったく、何処に行ったのよ」
今のが喉を抜けた声なのか、内なる声なのか、その識別も出来ないほど今の霊夢は挙措を失っていた。
紫は一笑に付していたが、このままでは文々。新聞の特ダネになりかねない。
霊夢は駆け足で神社裏をぐるりと周り、境内の表へと出た。
西日が染みる空に霊夢は目を細めた。
細目で辺りを見渡すも、黒い影が横たわる境内にはやはり誰もいない。ここにもいないとなると、ゆっくりは階段を下ったのかもしれない。
立ち止まった足をすぐさま前に出して階段へと急ぐ折、視界の左端でそれを捉えた。
一瞬それが何か分からなかったが、目をしばたたかせてよく見ると、拝殿に設えた賽銭箱の上に、ゆっくりが鎮座していた。
誰もいないのにも関わらず、ゆっくりは例の憎たらしい笑みを浮かべ、賽銭箱の桟の上で西日を浴びていた。
「あ!」
ゆっくりは、声を上げた霊夢と視線を結ぶなり、
「ゆっ! ゆっ!」
と、賽銭箱の上で嬉しそうに飛び跳ねた。
「あ~ん~た~ね~」
歩調に合わせて、霊夢は恐ろしいほど震えた声を上げた。
「何勝手に外に出てんのよ! 誰かに見つかったらどうすんの!」
霊夢はゆっくりの前に仁王立ちし、鋭い眼差しをゆっくりに突きつけた。
「ゆっくりしていってね!」
「ウチに置いてやってんだから、言うことくらいちゃんと聞いて!」
「ゆっくりしていってね!」
「聞いてるの!?」
「ゆっくりしていってね!」
お互い、声を張り上げての主張だった。
もっとも、ゆっくりが何を主張しているのかは本人しか知る由もないのだが。
その成立しようのない混沌ともとれるやりとりに、霊夢は目を三角にしていたが、そのうちに脱力し、がっくりとうな垂れた。
「もういい……あんたに何言っても通じない」
「ゆっ!」
「ほら、さっさと中に戻るわよ」
「……」
霊夢に身を預けようとしているのか、ゆっくりは賽銭箱の縁まで這い出ると上目遣いの視線を寄越してきた。
「何よ。登ったんだから、降りられるでしょ」
「……ゆっ」
一瞬の『ため』が、ノーと言っていた。
ならば、ゆっくりはどうやって賽銭箱の上に登ったのか甚だ疑問であったが、霊夢はやはりこれも気にしないことにした。
「もう、どこまで世話を焼かせれば気が済むのよ」
仕方なくゆっくりを抱きかかえてやると、饅頭のような体に似合わない、ずしり、と来る重さが両腕を伝った。
ゆっくりが落ちてきたあの夜以来、霊夢がゆっくりを抱きかかえる事は無く、しかも今回はゆっくりに意識がある。そう思うと、何となく霊夢は気恥ずかしさを覚えた。
「こんなところ、紫に見られても終わりよ」
「ゆっ」
霊夢に抱きかかえられているからか、ゆっくりの応えは心なしか柔らかく、身動き一つせず大人しかった。
そんなゆっくりの呼吸を腕に感じつつ、霊夢は足早に社務所へと向かう。
ゆっくりが思いもよらない行動を取ったが、幸い、野次馬がこの場に居合わせる事にはならなかった。
後は、風神少女の耳目に触れていないことを祈るしかない。
──さっき……、ちょっと言い過ぎたのかな。
この時の霊夢は、ゆっくりが外に出て行った原因をその程度でしか考えていなかったのだった。
■10
──ああやっぱり。
霊夢の祈りも虚しく、翌日の文々。新聞でも霊夢の名が見出しを飾った。三号連続である。
考えが甘かった。
目ざとさでは幻想郷一の文が、あの千載一遇のシャッターチャンスを見逃すはずもなかった。
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文々。新聞
第百二十四季 水無月ノ十七 号外
【博麗神社に謎の生物! 霊夢氏そっくり 隕石騒動の元凶か】
異変や騒ぎが起きた直後は、周りの関心も高くそれなりに情報が集まるが、ある時を境にそれは減少の一途を辿り、やがて途絶える。隕石騒動も例外に漏れず、たったの一週間でその状態に陥りかけ、小紙記者は頭を抱えていた。
そこに現れたのは、なんとも珍妙な物体、いや、生物であった。
その姿を克明にカメラに収めるべく、小紙記者は夢中でシャッターを押した。その中から選りすぐったのが上の写真である。もっとお見せしたいのは山々だが、紙面の都合上、五枚が最良であると判断した。
この、饅頭のような、大福のような、生首のぬいぐるみのような、それでいて思わず触れてみたくなる丸いフォルムをした生物は、一体何なのだろうか。幻想郷の暮らしも長いが、こんな妖怪(?)は初めて見る。
えも言われぬ自信を宿した目に、憎たらしい笑み。
そして、この赤いリボンと髪飾り。
見れば見るほど、あの博麗霊夢氏にそっくりではないか。
霊夢氏は、一週間前から体調不良で社務所に閉じ篭り、その間一切姿を現さなかった。
その本当の理由がこの生物を隠すためだとすると、霊夢氏が妙に大きな髪飾りを洗濯していたことや、紫氏の子供用布団購入という不可解な行動も含め、色々と辻褄が合ってくる。
何より興味をそそるのは、霊夢氏が具合を悪くした一週間前は、隕石が落ちてきた日とぴたり一致することに尽きる。前述の考えに当てはめると、あの夜の霊夢氏は、博麗神社に落ちてきたこの生物を誰よりも早く見つけ、回収、隠蔽したことになる。
だが、賽銭箱の中を見る限り、処分もせず隠蔽している意図が見えない。前々号で書いた、打算的行動原理にそぐわないのだ。
もしくは、小紙で繰り広げている推論は全て幻想、かだ。
妖怪と人間の混血であれば、あるいは、一頭身の子供が産まれてくるかもしれないが、その確率は天文学的数字ではなかろうか。
真実を白日の下に。
霊夢氏と、協力者であろう紫氏への接触を急ぐ。
(射命丸文)
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書き手の得意顔が目に浮かぶ記事を読み、霊夢は眩暈を催した。
紙面のほぼ一面に、引き伸ばしたゆっくりの写真が五枚貼られていて、下に追いやられた記事はまるで文字広告のような扱いである。
うち三枚は前、横、後とアングルを変えた接写で、四枚目は賽銭箱まで写したやや引いたアングル、最後の一枚に至っては霊夢がゆっくりを抱きかかえて社務所に戻るところを激写されていた。
号外ばかりの文々。新聞。
報道の摂理を失った、記者の主観と独白が大半を占める偏向新聞。
いくら種族が違うとはいえ、同性同士で子供を作れる訳が無い。
前の文章を引き立てる為の演出と、安い皮肉であることは分かっているのに、それでも腹立たしい。
「ばっかばかしい。何が、天文学的数字ではなかろうか~、よ」
六十年後の眉間を借りてきたようなしかめ面で、霊夢は新聞紙を縦に破り裂いた。
するとすぐに、畳の上に落ちた新聞紙に興味を示したらしいゆっくりが這い寄って来た。
惨めさを感じつつ、ゆっくりが破れた新聞紙を咥えたり捲ったりして一人遊びする様を、霊夢は唇をわなわな震わせながら見ていた。
「私、こんなのとそっくりじゃないし」
霊夢の声に、ゆっくりが素早く顔を上げた。
「ゆっくりしていってね! ゆっくりしていってね!」
「違う、そっくりじゃないって言ったの!」
「ゆっ! ゆっ!」
自分の写真の上で、嬉しそうに右に左に揺れるゆっくり。
散らかった紙片の中から、ゆっくりを抱きかかえる自身の写真が目に入り、霊夢はふとある事に気がついた。
ここまで見事に撮れているのなら、何故文は直接取材をして来なかったのか。
より大きなスクープを得るためには、直接取材は必須ではないのか。
接触を急ぐと書くくらいなので、その気が無いのはまず有り得ない。
弾幕バトルに持ち込まれてネガを没収されるのを恐れたか(霊夢に負ける気は全く無い)、あるいは、騒動を加熱させてこちらが弱り切るのを待つつもりなのか。
はたまた、ブン屋の感覚は全く逆で、良質な隠し撮り写真を撮り、後で驚かすことにスクープ性や悦びを感じると言うのか。扇動的な文面からして、あながちそれは間違いではないと思える。
ただ一つ確かなのは、ゆっくりの存在が知れ渡るという最も恐れていた事態に、そんな分析は何の役にも立たないということだ。
霊夢は寝間の中を行ったり来たりしていた。
思案に暮れる辛気臭い顔を浮かべるも、ろくな策は思い浮かばず、同じ言葉を繰り返していた。
──どうしよう。ああ、どうしよう。
以前、彼女は言っていた。
『貴女が私に会いたいって思ってる時、いつも私から会いに来てるでしょう?』
ぜんまいが切れたかのように、霊夢の足が畳の上を擦り、止まる。
──…………紫、私どうしたらいい?
「頼もー!」
重なった二つの声と同時に、ばん、と乾いた音が耳を突き、霊夢は身をすくませた。
障子が思い切り開いた音だと分かったのは、背後に現れた魔理沙と萃香の姿を認めてからだった。
「おーっ、そいつが噂の」
萃香は開口一番そう言った。
隣の魔理沙がゆっくりの事を指差して、
「ははは、本当に霊夢そっくりだぜ」
とんがり帽子が落ちそうなほど高らかに笑った。
「あんたたち……」
当のゆっくりは霊夢の後ろに隠れて、闖入者の様子を窺っていた。
霊夢は、怯えた様子のゆっくりに思わず声を掛けようとしたが、二人の手前上、それは憚(はばか)られた。
「なんだよれーむ、水臭いなあ。そいつがいたならいたで、最初っから話してくれればいいじゃないかよ。ずっと寝込んでたから、心配したんだぞ」
萃香には風邪を引いたと直接嘘をついた。彼女が頬を膨らますのも無理もない。
「ご、ごめんなさい」
「どうして黙ってたんだ?」
「それは」
萎れた霊夢は言葉を詰まらせる。
「だってそれは、こんな格好したやつが空から降って来たら、どんな噂が立つか分かったものじゃないから……」
「こんな格好って?」
「いや、だから……、見れば分かるじゃない」
「分かる。分かるぞ霊夢。そいつ、霊夢にそっくりな顔してるもんな」
「顔じゃなくて格好よ。ったく、どいつもこいつも私にそっくりそっくりって……」
そっくりという言葉に、背後で身を隠すゆっくりが身じろぎした。
先ほどのように例の言葉を発して来ないのは、目の前に二人がいるためか。
「私みたいな格好してるじゃない」
霊夢が足元のゆっくりに目を落とすと、二人もその姿をよく確かめようと首を傾けた。
「リボンとか耳んとこの筒とかさ」
すると、二人が困惑した表情を見合わせた。
「……その格好、お前がさせてるんじゃないのか?」
「違うわよ。最初からこの格好だったの」
「れーむそっくりの格好で、そいつは空から降ってきたのか?」
「そうよ」
「ちょっと待てよ、おかしいだろ。やっぱりそいつが落下物の正体だったのか? 新聞にはお前と紫の子とも書いてあったじゃないか」
「あんなくだらないことを信じられる魔理沙の頭の方がおかしい」
「れーむの子じゃないのは分かるとして、そのちびれーむは一体何者なんだ?」
「それが分かったら苦労しないわよ」
交互に質問を投げかけてくる二人に、霊夢は苛立っていた。
その後も三人が不毛な問答を繰り広げていると、いつの間にか出てきたゆっくりが飛び跳ねながら三人の足元を通り過ぎていった。
「お、おお?」
「何だ何だ」
ゆっくりは、どよめく二人に目もくれずガラス戸の前に立つと、おもむろに頬をくっつけた。
頬とガラス戸の吸着によって、徐々に戸が開いてゆく。
きっと昨日も同じ方法で外に出たのだろう。
「ちょ、ちょっとあんた」
霊夢の戸惑いの声にはしっかりと反応し、振り返った。
「ゆっ!」
まるでついて来いとばかりに声を上げ、ゆっくりは外に出ていった。
「おい、行ってみようぜ」
「おうっ」
興味津々と顔に大書した魔理沙と萃香が、ゆっくりに続いて外に出る。
「ちょ、あんたたちまで。待ちなさいってば」
ばれてしまったとは言え、外に出ていったゆっくりを放っておく訳にもいかず、霊夢も二人の後に続く。
意外にも、飛び跳ねて移動するゆっくりは足が速く、外に出てみると、魔理沙と萃香が表に出る角を折れたところだった。
駆け足で後を追いかけると、二人が拝殿の前で立ち止まっていた。
何やら拝殿の方を見て、ぽかん、としている。
「どうしたの?」
二人の視線の先を追いかけると、賽銭箱の奥、観音開きの格子状の戸板の手前に、ゆっくりはいた。
二人の前では警戒して見せていなかった、例の憎たらしい笑みを顔に浮かべながら。
「ゆっくりしていってね!」
やはり出た。
霊夢からすれば、もはやその笑顔が出たときのお決まりと化していた。
「ゆっくりしていってね! ゆっくりしていってね!」
横で呆気に取られる二人の衝撃と言ったら無いだろう。
霊夢自身経験していることだから、二人が固まるのもよく分かる。
が、頭が痛い状況には違わない。
ぐちゃぐちゃの黒線を頭の上に浮かべながら、ゆっくりを黙らせようと一歩出たところで、「待て」と魔理沙の手が伸びた。
「何よ」
「分かったんだ。私、分かったんだ」
「何がよ」
「あいつの正体」
「あいつって……ゆっくりのこと?」
「ああ」
つい、二人の前でゆっくりの名を口にしてしまったが、そんなこともお構いなしに魔理沙は息巻いていた。
「あいつの格好といい、霊夢そっくりの顔といい、そしてこの行動といい……。なあ、お前達分からないのか?」
「分からないぞ」
「だからそっくりじゃないってば」
「ふふふ、馬鹿だなぁ」
「是非ともご教示頂きたいものね」
「仕方ない。いいだろう」
魔理沙の言う事なので、話半分、そのまた半分で聞いておくべきである。
「いいか。あいつは、ゆっくりはな、ここの神様なんだよ」
「……はあ?」
「博麗の巫女そっくりの格好と、そっくりの顔。神社でゆっくりしていけと言い、おまけに参拝客である私達に賽銭をねだっている。博麗の神様以外にそんなことする奴がいると思うか? どうだ、完璧な推理だろう?」
「おおおー」
歓声を上げた萃香は、誇らしげに胸を張る魔理沙に、感心や尊敬といった類の眼差しを向けている。
「アっホくさ」
何処に、空から降ってきて三日三晩寝込む神様がいるのだと、霊夢は魔理沙の推理を鼻であしらった。
すると、誰もいないはずの右隣から声がした。
「なるほどなるほど。博麗の神様ってのは有り得ますね」
「あ、文っ」
考えてみれば、咲夜だってそうだし、この鴉天狗だってそうだ。
いつの間にという言葉は、何も紫のためだけの言葉では無いらしい。
「こんにちは。霊夢さん」
散々好き勝手記事にしてくれた文には、言いたいことが山ほどあった。
「そうね。私の隠し子よりは、博麗の神様のほうがよっぽど現実的だと思うわ」
「いつも読んでくれてありがとうございますっ」
この期に及んで、屈託の無い笑顔で清々しく礼を言われると、もはや悪意を感じずにはいられない。
霊夢はあからさまに猜疑の色を浮かべ、
「どうせ最初から聞いてたんでしょ? そういう訳だから、もうあんたには何も話すことはないから。はい残念でした」
「まあまあ霊夢さん。そんな怖い顔しないで下さいよ。新聞特有の表現で霊夢さんを不快にさせてしまったのでしたら、謝ります。ですが、私も報道に身を置く者でして、この騒動を最後まで見届けたいのですよ」
「騒いでるのはあんただけよ」
「そう言わずに。……とは言っても、確かに霊夢さんでも、ゆっくりがやってきた目的とかは知らなそうですね。その代わりといったら何ですけど、普段の生活風景を取材したいのですが、如何でしょう?」
「生活風景?」
「そうです。おはようからおやすみまでの日常を、カメラに収めさせてくれませんか? 霊夢さんだけが知り得るゆっくりの素顔ってテーマで」
「絶対、嫌」
ただでさえゆっくりに一日中べったりされて滅入っているのに、もう一人増えたらいよいよ気が触れてしまう。相手が文なら尚更だ。
本当は今だって、特大の陰陽球で文を山の彼方まで吹っ飛ばしてやりたいくらいなのだから。
「じゃあせめて、紫さんが買った布団だけでも……」
「いーやーだ!」
「おいおい霊夢、何もそこまで」
「魔理沙は黙ってて」
首を可動範囲いっぱいに回し、左にいる魔理沙を睨みつける。
「は、はい……」
「れーむ、こええ」
さらに魔理沙の左隣にいた萃香がそう言うと、文は「ふむ」と声を漏らした。
「分かりました。今日のところは何も伺えないと思いますので、霊夢さんが落ち着いた頃にまた来ることにします」
誰の所為で不機嫌なのか分かっていないのか、文はぬけぬけとそう言ってのけた。
「あ、そうだ。折角ですし、博麗の神様にお祈りしていきますね」
文は賽銭箱の前まで歩み出ると、おもむろに胸ポケットから硬貨を取り出し、賽銭箱に投げ入れた。
拍手(かしわで)を二つして、最後にゆっくりに向って拝礼をした。
「ゆっくりしていってね!」
ゆっくりは、二三小さく飛び跳ねながら、文の白々しい拝礼に嬉しそうに応えた。
それを見ていた萃香は、
「おいまりさ、あたし達も賽銭入れよう」
「確かに。こんな面白い神様になら金やってもいいよな」
「てことでまりさ、金!」
「まあちょっと待てって。私から先に入れさせてくれよ」
「何でだよ。あたしが先だぞ」
「いやいや私が先だぜ」
二人ははしゃぎながら、賽銭を入れる順番で揉めている。
文はそんな二人の横を通り過ぎ、後ろで突っ立っている霊夢に微笑みかけた。
「では霊夢さん。今日もありがとうございました」
取材用の笑顔には騙されないとばかりに、腕組みした霊夢の表情は渋かった。
「今度適当な事書いたら、山、襲撃しに行くから」
「あはは。霊夢軍団、文々。新聞襲撃事件って訳ですか」
「そういうことになるわね。一人対一山だけど」
「怖い怖い。それでは、原稿執筆を控えてますので私はこれで。次号もどうぞお楽しみにっ」
またも敬礼ウインクを可愛らしく飛ばして、文は山の方角へと飛び去った。
「ったく……」
新聞で溜まった怒りを文本人にぶつけてみても、巧くあしらわれたというか、不完全燃焼というか、どうも毒気を抜かれた気がした。
似たようなことをいつも紫にやられているので、得てして古株妖怪は同じ趣味を持っているのではないか。
夢中で拍手をする二つの背中をぼんやり眺めつつ、霊夢は引き合いに出した紫のことを考える。
『もちろん私も協力する。私の可愛い霊夢と、ちび霊夢のためだもの』
『貴女が私に会いたいって思ってる時、いつも私から会いに来てるでしょう?』
やはり、妖怪の言うことは信用ならない。
紫の台詞を頭で繰り返すうちに、霊夢はそう痛感したのだった。
■11
魔理沙と萃香と文が久しぶりの賽銭をしていった翌日、何とも馬鹿げた現象が起きた。
この日、朝寝をしていた霊夢は外の騒がしさに目を覚ました。
何事かと外に出てみると、何と、神社が参拝客で賑わっていたのだ。
霊夢はそれを見て、目を擦ったり、頬をつねったりして、これが現(うつつ)であることを確かめた。
夢でないと分かっても、一体何がどうなっているのか分からず、呆然と立ち尽くしていた。
「こ、こここここれは……?」
修繕もままならない拝殿と社務所があるだけの、うらぶれた神社が人妖で埋め尽くされる光景は、夢ですら見たことがない。ゆっくりが降ってきた翌日ですら、これほどの野次馬は集まっていなかっただろう。
その混雑ぶりは尋常ではなく、紅魔館の連中をはじめとする、白玉楼、永遠亭、山の連中の姿もあった。おまけに八目鰻の屋台が無断で出ていて、繁盛しているようだった。
「い、一体どうなってんのよ、これ」
社務所の陰から、恐る恐る賑わいの中へと足を踏み入れる。
途端にどよめきが上がり、参拝客の視線が一斉に霊夢に向けられた。
「う……」
よく分からないが、針の筵だった。
大勢の参拝客から注目されるという、未だ経験したことの無い事態を前に霊夢が縮こまっていると、近くにいた紅魔館の面々が近寄って来た。
「霊夢、調子はもう良いの?」
咲夜に日傘を持たせたレミリアが、幼い八重歯を覗かせ話しかけてきた。
「ま、まあね。おかげさまで」
「色々大変そうだったものね」
含みのある言葉と共に、レミリアは目を細める。
「そっちこそ何しに来たのよ。わざわざ日傘差してまで」
「晴れても雨が降っても傘が必要なのは人間だって同じでしょう? 私の場合、しっかり曇った日以外は全部必要だけど」
「で、何の用?」
「何ってもちろん、噂の神様を見物しに来たのよ」
「噂の神様?」
心当たりが無い訳なかった。
博麗神社に祀られた噂の神様と言えば、昨日の魔理沙のこじつけ推理しかない。
それを聞いていたのは、霊夢を入れてたった三人。
たった一日足らずでこれほどの人妖の耳に触れさせる芸当が出来るのは、一人しかいない。
「咲夜」
「はい」
レミリアが伸ばした手に、咲夜はさっ、と紙の筒を持たせた。
蝋の封が解かれ、丸まった紙が開かれる。
「ほら、これ」
レミリアは広げた紙を霊夢に手渡した。
やたら西洋風に包装されていたものの、パルプ紙で出来たそれは、予想通り文々。新聞であった。
「落ちてきたのが霊夢の隠し子じゃなくてご利益のある神様ってなら、誰だって見たくなるでしょう」
吸血鬼が言うと若干違和感のある言葉を片耳に、霊夢は夢中で目線を走らせる。
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文々。新聞
第百二十四季 水無月ノ十八 号外
【博麗の神様『ゆっくり』 降臨】
およそ一週間前の水無月ノ十に、夜空から光輝く物体が降って来たのは記憶に新しいだろう。ご存知の通り、隕石騒動の発端となった出来事である。
前号では、隕石騒動との関連性を交えながら博麗神社に現れた謎の生物(写真上)についてお伝えしたが、小紙はついにその正体を突き止めた。
この生物は博麗神社が祀る対象──つまり、博麗の神なのだ。
写真を見て分かるように、この生物は明らかに霊夢氏との繋がりを感じさせる。
昨日、そのことについて改めて霊夢氏に取材を申し入れに行ったところ、「神」は拝殿に鎮座して、霧雨魔理沙氏と伊吹萃香氏の参拝を見守っている所に偶然居合わせた。(写真下)
落下物の正体が博麗の神ということであれば、霊夢氏が回収したのも頷ける。
しかし、神自身は隠蔽までは望んでいなかったようで、神は参拝客の二人に「ゆっくりしていってね」と神社に逗留するようしきりに話しかけていた。
霊夢氏によれば、神は「ゆっくり」という名らしい。
その振舞いから名付けたであろう何とも安直なネーミングであるが、本来神というものは、そんな風に親しみの持てる存在なのかもしれない。
そして、神であれば当然か、ゆっくりには不思議な力があると思わせる。
小紙記者がゆっくりを見た時、まるで締め切りを忘れてしまいそうになるほど、神社でゆっくりしていきたくなるほど、何とも和やかで“ゆっくり”とした気分にさせられた。神に対して不適切な言葉だが、少なくともゆっくりを見ているだけで笑みが零れてしまう。
ゆっくりの種類にも色々あり、人それぞれだと思う。
その“ご利益”が万人共通かは分かりかねるが、博麗神社に降り立った神様を一度確かめてみてはどうだろうか。
後日、霊夢氏が落下現場にすのこを渡してくれるそうなので、空を飛べない人はそれを待ったほうがいいだろう。
なお、小紙記者は二度ゆっくりに会っているが、どちらも昼以降だった。
博麗の神は朝が苦手かもしれないので、参拝の際には参考にして欲しい。
(射命丸文)
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前号の接写の写真に加え、魔理沙と萃香が拝礼している写真が大きく掲載されていた。
いつの間にこんな写真を撮られたか分からないが、文があの二人の前で賽銭を入れてみせたのは、これを撮る為だったのだ。あの可愛らしい笑顔の裏に潜むしたたかさは、やはり油断ならない。
霊夢が参拝客の為にクレーターにすのこを架ける話にされているし、ところどころ事実が歪曲されている。そんな記事を読んだ霊夢の頭に“妖怪の山襲撃”の文字が過ぎる。
どうにか平静を保とうと辺りを見回していると、大半の参拝客の手にも文々。新聞が握られているのが目に入った。
「そういうこと」
霊夢が呆れながら新聞を突き返すと、レミリアは楽しそうに頷いた。
「そういうこと」
レミリアをはじめとする、ここにいる参拝客は皆ゆっくりを見に来たのだ。
拝殿の方に目をやると、賽銭箱に金を投げ入れる客で騒然としていた。
前の客の頭越しに賽銭を投げ込む輩がいるほど人だかりが出来ていて、見れば、群がっている客の多くは里の人間達だった。
けもの道で有象無象に出くわすのを恐れる彼らが何故ここにいるのか。
それに、階段が吹き飛ばされて昇って来られないはずなのに、どうやって来たのだろうか。
拝殿の庇の両端で、参拝客の列整理をする魔理沙と萃香の姿を見て、その疑問は案外簡単に解決出来そうだと思った。
鈴の音、拍手の音、賽銭箱に賽銭が落ちる音、客のざわめき、魔理沙と萃香の要領を得ない指示。
そしてもう一つ、ゆっくりの声が合間々々に聞こえてくる。
「ゆっくりしていってね! ゆっくりしていってね!」
背伸びをしてみると、昨日と同じ場所で嬉しそうに飛び跳ねるゆっくりが見えた。
その姿が、参拝客の賽銭を煽っているように見えなくもない。
「あんの馬鹿……、そんながめつい神様がいるわけないっての」
霊夢は苦々しく呟いて、人だかりの外側を周り、魔理沙のもとへ歩み寄る。
「おう、起きたか霊夢。見ろよこの繁盛ぶりを!」
魔理沙は誇らしげに広げた左手を参拝客の方へ向け、嬉々と声を上げた。
「何であんた達が仕切ってんのよ。あんた達もグルだったってわけ?」
「何のことだ?」
「とぼけないでよ。わざと新聞に載るようなことをしたんでしょ?」
「文とグル? 妙なこと言うなよ。霊夢が吹っ飛んだ階段にすのこを渡すって言うから、気を利かせて私が先にやっておいたんじゃないか。失礼なヤツだな」
「あのねぇ……、私があんなこと言うとでも思った? だいたい、里の人達をここに来させるなんて危なくて仕方ないじゃない」
「ああ、それなら心配ないぜ。萃香がその辺の妖怪達に参拝客には手を出すなって言ってあるみたいだから」
「萃香が?」
思わず反対側にいる萃香の方へ目をやったが、人垣の前に通常時の萃香が見える訳もなかった。
確かに鬼ともなれば、有象無象の行動を制限することくらい造作も無いだろう。
だが、何故萃香がそのようなことをするのだろうか。
「いやはや、これで豪勢なメシが食えるってわけだ」
「は?」
「何だよ鈍いな。最近は神社のお財布がすっからかんって理由で中止続きだったじゃないかよ」
「……まさかあんたたち、宴会がしたくてこんな事してるの?」
魔理沙は気障ったらしく首を振った。
「ちょっと違うぜ。ほら霊夢、よく見てみろよ。ゆっくりは自らあそこに立ってて、客も自分から参拝しに来ている。私達は霊夢が寝ている間から、参拝客が気持ち良く賽銭出来るようにこうして社務をしてたんだ。その見返りだと思えば、宴会の二回や三回くらいどうってことないだろ? それにこの調子なら、当面は収入に困らないだろうし」
魔理沙の台詞にしては筋の通っている方だったが、多くの参拝客は文々。新聞を手に持っている。
彼らがここにいるのは、明らかに魔理沙と萃香の拝礼する写真が原因なので、自己啓発とも少し違う。
しかも、宴会は一回では気が済まないと来ている。
「二回も三回も豪華な宴会をやったら、あっという間にすっからかんよ」
「大丈夫だって。ゆっくりがまた稼いでくれるさ」
「金回りがそんな都合良く行くわけ無いじゃない」
「霊夢は貧乏生活が長いからそう思うんだよ」
「そんな考えじゃ、あんたは今に破産するわよ」
「ははっ。ジリ貧生活をしてる霊夢よりマシだろ。金儲けするって考えが元々無いんだから、いずれ霊夢は破産するところだったさ。ゆっくりがいなければな」
霊夢は後ろを振り返り、会話中もずっと飛び跳ね続けているゆっくりに目をやった。
「あいつ、気でも違っちゃったのかしら」
ゆっくりは参拝客らを煽り続けている。
飛び交う賽銭の中には、ゆっくり目掛けて飛んでゆくものもあった。
賽銭をぶつけられても、ゆっくりは動じず参拝客らを煽り続ける。
「ゆっくりしていってね! ゆっくりしていってね!」
じゃらじゃらと音を立てて、金が賽銭箱の中に吸い込まれてゆく。
先ほどよりも賽銭箱の中で立つ音が高くなっている。金が金の上に落ちているのだ。
「一体いくら集まったのかな……」
下手をすれば、この短時間で半年分は集まっていそうな気がする。
それくらいの勢いで賽銭は投げ込まれていた。
爪に火を灯す生活が長い霊夢にとっては、賽銭箱の中で金が堆く積みあがる光景はまさに垂涎(すいぜん)ものだった。
「おい霊夢、聞いてんのか?」
賽銭箱の音に気を取られていて、魔理沙の言ったことは全く聞いていなかった。
「え、あ、うん」
「決まりだな。じゃあ客が帰ったら宴会の準備だぜ」
「……もう、仕方ないわね」
もしかすると、参拝が終わったのにも関わらずまだ境内に残っている知った顔ぶれも、それが目当てなのかもしれない。
もともと霊夢も宴会好きなので、予算が確保できた今では宴会をすること自体に異論は無かった。
ただ、この流れからして、ゆっくりが自動的に参加になるどころか宴会の主役になることは目に見えている。
──大丈夫かしら、あの子。
果たして、自分以外に懐かない節があるゆっくりを、大勢の酒の席に出して問題無いのだろうか。
どうしても不安は拭えない。
霊夢は、疲れた素振りも見せず飛び跳ねるゆっくりを、ただただ見つめていたのだった。
■12
夕方、最後の参拝客が帰った後、境内に残っていたメンバーに宴会の知らせを伝えると、案の定全員から参加の返事が返ってきた。
これもゆっくり効果なのか、宴会に出席する人数は普段の宴会よりも多く、ざっと数えても三十人弱。詰め込めば何とか広間に収まるだろう。
費用は全額神社の出費となり(賽銭が会費だと言う者もいた)、もてなしも神社で全て用意しなければならないが、それは問題無い。費用なら今日得た賽銭で賄えるし、豪華な食材を使って料理がたくさん作れるのだから、料理好きな霊夢にとっては嬉しい限りであった。
不安はゆっくりだった。
料理中は台所に引っ込まなければならないため、その間霊夢はゆっくりと離れることになる。
ゆっくりが主役扱いされるのは明らかなので、まさか料理中そばに置いておく訳にもいかない。
だが、ゆっくりがその扱いに一人で耐えられるとはとても思えず、かといって台所を離れる訳にもいかない。
宴を前に浮かれる面々の中、準備を進める霊夢だけがそんなジレンマに苛まれていた。
宴会を始められる程度に品数を揃えた後、広間に横長のテーブルを四つくっつけて並べ、外で雑談していた三十人弱の人妖を座らせた。
すると、何とも面白い座席になった。
テーブル中央にいるゆっくりの近くに座りたいからと、三十人弱が一斉に席を取り合ったのだ。
ゆっくりの隣の席を取ったのは魔理沙と萃香で、その向かいの席はレミリアと咲夜が取った。
ついで、萃香の隣ににとり、魔理沙の隣にてゐ、その向かいは幽々子と幽香といった具合で、座席は内側から早い者順で次々に埋められた。
出遅れた連中は、連れが既に席を取っていても離れて座ることになった。
主に置いて行かれた妖夢が良い例で、テーブルの端に固まる八雲一家の輪に混ざっていた。
宴会が始まると、連中はくじで決めたような座席を気にすることなく、近い者同士で盛り上がった。
だが、広間を出入りする霊夢は文の位置が少し気になった。自慢の足で悠々とゆっくりの隣を確保すると思いきや、意外にもテーブルの端にいた。紫の隣だった。
文は紫に取材をしたいと前から記事にしていたので、きっとこの機会を利用しているのだろうと霊夢は自己解決した。
──今までほとんど役に立ってなかったんだし、せいぜい引き付けておいて。
あれほどゆっくりのことを可愛がる紫が、隅っこでちびちびやっているのには不自然さを覚えるが、文にゆっくりの隣に座られるのが嫌だったので、尚更そう思った。
肝心のゆっくりはと言うと、積み上げた座布団の上で、ご機嫌の魔理沙と萃香に挟まれて良い様に弄られていた。
しかし本人に嫌がる素振りは無く、むしろ人懐っこく接している感じがする。
例の如く、ふてぶてしい笑みを顔に貼り付けているが、周りの声にちゃんと反応するし、彼女用に作った納豆巻きを頬張るのはもちろん、レミリアにだし巻き卵を食べさせてもらってすらいた。
今のゆっくりには、紫に見せていたような警戒心は無い。
どうやら紫だけ嫌われているに違いなく、霊夢が宴会前に抱いたジレンマは杞憂に終わったらしい。
途中から妖夢が手伝ってくれたのもあって、良いペースで料理を出すことが出来た。
テーブルが皿で埋まった頃、霊夢は杯を手に広間へ向かった。
最初に見た配置から若干変わっていたが、席に空きは無く、誰も席を立つ様子が無い。
おまけに宴会の光と音に誘われたのか、リグルやチルノといった顔もいつの間にか増えている。
連中は良い具合に酒が回り始めたらしく、誰も霊夢が杯を持って立っていることに気付いていない。何処に座ろうかと霊夢が遠巻きに眺めていると、萃香と目が合った。
萃香は手を大きく振って、
「おおいれーむ、こっちこっち」
萃香のテンションがいつもと同じなのは、普段から酔っ払っているので当然と言えば当然である。
萃香に呼ばれるままテーブルの中央に来たはいいが、やはり座るスペースは無かった。
仕方無く、窮屈ではあるが萃香の後ろでふすまを背に体育座りすると、それを見た萃香がすかさず腕を掴んできた。
「そんなとこ座ってないで、ほら」
「ちょっと萃香、あいたっ」
萃香の怪力によって、霊夢の体が前に引っ張り出される。
「よしきた」
魔理沙がゆっくりを座布団ごと浮かすと、そこに霊夢が綺麗に収まった。
ついで霊夢の膝上にゆっくりが置かれ、萃香が酒を注いできた。流れるような連携であった。
「ちょっとあんた達!」
「れーむさんご案内~」
「あっはっは、ピタゴラスイッチだぜ」
「何よそれ」
「ゆっゆっ」
膝の上では、ゆっくりが嬉しそうな上目遣いを寄越している。
「もう、重たいったらないわ。ほら、早く降りなさいよ」
「ゆっゆっ」
「膝に乗せといてやればいいじゃんかよう」
「そうだそうだ。後ろに追いやったら可哀想だぜ」
「ならあんた達どっちか代わりなさいよ」
「霊夢の膝の上がいいんだよ。な、ゆっくり?」
「ゆっ!」
「はは、そうかそうか」
霊夢の膝上で飛び跳ねた後、ゆっくりは魔理沙に乱暴に頭を撫でられて、されるがままだった。
「どうでもいいけど、人の膝の上で飛び跳ねないでよ。重たい」
「ゆっ!」
「二人は本当に姉妹みたいですね、お嬢様」
「そうね。私とフランより仲良さそうだし。羨ましいわ」
前に座るレミリアと咲夜もそんなことを言う始末であった。
もはや霊夢にはその言葉を否定する気も起きない。
「ほら、ちゃんと前向きなさい」
霊夢はゆっくりを持ち上げて、前を向くよう直した。
「ゆっくりしていってね!」
「はいはい」
前の二人が微笑ましくこちらを見ているのに気づかないふりをするために、霊夢は酒を呷った。
杯を置いた折、テーブルの隅に座る紫と目が合った。
酒の熱さが胸に広がってゆく中、その瞬間は一際胸が熱くなった。
ゆっくりを膝に置いていることを遠くからからかわれるのか、それとも、ゆっくりが表沙汰になったことを責められるのか、それともいつも通り微笑みかけてくれるのか。
そのどれでもなく、紫はじっと霊夢のことを見つめていた。
霊夢もまた、杯を手にしたまま紫のことを見つめ返した。
宴会の馬鹿騒ぎが止み、二人以外の全ての色が褪せたような感覚。
それらは、紫が目を逸らしたことであっけなく解けてしまった。
その後、紫は文と談笑を再開した。
ゆっくりが降ってきた当初、最も注意すべき相手として文の存在を挙げたのにも関わらず、色々と面白可笑しく書かれているのにも関わらず、紫はその張本人と酒を交わしているのだから、霊夢には不愉快で仕方が無かった。
──何よ。いつもいつも、勝手なことばっかりして。
昨日、ゆっくりの存在をスッパ抜かれた時も紫が姿を現さなかったのもあり、紫に対する不満は最高潮に達していた。
しかし、ここで紫にどんな態度をされようとも、霊夢にはもうゆっくりを隠し立てるつもりはなかった。
何故なら、ゆっくりを囲んで騒ぐ連中は、ゆっくりや、ゆっくりを隠した霊夢に対して責め立てる真似は一切しなかったからだ。むしろ、ゆっくりは歓迎されていると言ってもいい。
幻想郷は全てを受け入れる。
それがこの世界の本質ということを、霊夢は今まで忘れていた。
──初めから、こうしておけばよかったのよ。
霊夢は自分にそう言い聞かせながら二杯目の酒を呷ったのだった。
それ以降は、紫と目が合うことも無かった。
料理を追加するためにしばしば席を立ったが、戻るところはゆっくりの座る場所で、席を移って紫と会話をすることも無かった。その代わり、いつも以上に酒が進んだ。
宴会は散々盛り上がって、夜更け頃にお開きとなった。
理由は、単純に用意した酒が尽きたからだった。
解散間際の流れで、明日もまた同じ時間に宴会をすることになった。
神の降臨を祝うには一日では足りないというのが建前だ。
完全に神社の財布の潤い具合を当てにされているが、酔っているせいもあって霊夢はそれを了承した。
宴会参加者達がそれぞれの棲家や縄張りへと帰っていった後、霊夢は一人後片付けをし始めた。
散らかった食器類を纏めていると、テーブル上に出来たスペースにゆっくりが飛び乗ってきた。
「こら。テーブルに乗っちゃ駄目でしょ」
「ゆっゆっ」
「手伝ってくれるの?」
「ゆっくりしていってね!」
ゆっくりは近くにあった箸を咥え、霊夢が持つ盆の上に落とした。
「じゃああんたは箸を集めてね。私は皿担当」
「ゆっ!」
二人は分担して、食器集めをすることにした。
片付けの音だけが広間に響く。開け放した縁側は静かで、風も無く、少し早い虫の音が聞こえるだけであった。
「宴会が終わると、静かなもんね」
「ゆっ」
「どうだった? 大人数の前で平気だった?」
「ゆっ」
「だよね。あんた人見知り激しいと思ってたけど、違ったんだね。それにしても、紫が嫌いってのは正しいわよ。うん、正しい。だって紫のヤツ、最初はあれだけあんたのことを匿ってやれだとか大袈裟なこと言ってたくせに、あんなに文と楽しそうにしちゃってさ。言ってる事とやってる事、てんで違っちゃってるじゃないの」
今まで溜めてきた鬱憤を吐き出さんとばかりに、霊夢は酒気と共に一気にまくし立てた。
「ふん、何よ。あんな天狗と仲良くしちゃってさ。こっちを見て見ぬフリまでしちゃってさ」
霊夢は、箸を纏めて咥えてやって来たゆっくりに尋ねた。
「あんたもそう思うでしょ?」
ゆっくりは盆に箸を落とした後、お決まりの笑みを浮かべ、
「ゆっくりしていってね!」
と答えた。
霊夢はゆっくりの頭を優しく撫でた。
気持ち良さそうに、ゆっくりの目が細まる。
「ゆっくりか……。明日も宴会があるし、もしかしたらまた参拝客がたくさん来るかもしれないの。社務も宴会の準備もしなくちゃいけないから、きっと明日も忙しくなるわ。ゆっくり出来るのは当分先になるかもね」
霊夢がそう言うと、細まっていたゆっくりの目がはっ、と丸くなった。
「でも、あんたが賽銭箱の前にいる必要は全く無いんだからね。全く、もうあんな無茶しないでよね」
「……」
「さてと。一旦台所に下げてくるから、続きをお願いね」
霊夢は鼻歌交じりに広間を後にし、台所へと向かった。
ゆっくりは霊夢の言われた通り箸集めを再開したが、その動きは鈍く、皿を体にぶつけては何枚も床に落としてしまっていた。
「……ゆっくりしていってね」
消え入りそうな、ゆっくりの声だった。
■13
翌日、ここ数日続いていた天気が崩れ、再びの梅雨空となった。
ゆっくりが来てから初めての雨でもあり、梅雨の時分にしては久しぶりの事である。
昨夜の宴会で思いのほか酔っ払った事や、後片付けが遅くまでかかった事もあり、霊夢は泥のように眠っていた。だが、寝間中に充満した気だるい雨音に起こされてしまった。
二日酔いの頭を抱えながら障子を開けると、空はのしかかるような低い雲に覆われていた。
昨夜酔っていたせいだろうか、開けっ放しにしたままのガラス戸から滑り込む風は、生温く心地の良いものではなかった。
霊夢はガラス戸に手をかけたまま、ぐずついた空に物憂げな顔を向けた。
──こんな天気じゃあ仕方ないか。
昨日とは打って変わって、境内はしんと静まり返っている。
人の気配はせず、しとしととそぼ降る雨音がうるさいくらいだ。
所詮ゆっくりは、ゴシップ記事が仕立て上げた際物の神であり、そこに真の信仰などあるはずが無い。
そんな神を食い扶持の当てにするつもりは無くても、昨日の繁盛ぶりとの落差に、霊夢は少なからず寂しさを覚えた。
霊夢はガラス戸を開けっ放しにしたまま寝間に戻ると、ゆっくりの姿が無いことに気がついた。
確かに昨夜は隣で寝ていたはずだが、ベビー用の小さな布団は空っぽだった。
「あれ? ゆっくり?」
欠伸を飲み込んで、頭の上に伸ばしていた腕を下げる。
これから朝食なので、ゆっくりが一緒でないと準備や後片付けに余計な手間がかかり、面倒である。
宴会で騒いだ次の日ともなれば、ゆっくりがいなくなっても心配事はその程度で、以前のように大騒ぎする気は全く起きなかった。
社務所内を軽く探してみたが、見つからない。
思えば、縁側の戸が開いたままだったので、ゆっくりはまたそこから外に出たのだろう。
外に出たのであれば、行き先はおおかた予想がつく。
縁側から外へ出て、境内の表へと向った。
からころ、と朱色の履物ののんびりした音を雨音に混ぜつつ、傘を持つ手とは逆の手で口を押さえ、先ほど飲み込んだ欠伸を思い切りしながら、拝殿の前にやって来た。
「あれ?」
賽銭箱のところにいると思いきや、そこにゆっくりはいなかった。
「あいつ、一体何処に行ったのかしら」
誰もいない境内で、霊夢は一人ごちた。
「……ま、いいか。そのうちお腹空かせて帰ってくるでしょ」
探し回っているより、玉子焼きの匂いで誘き寄せるほうが得策かもしれない。
そう思った霊夢は社務所へと戻り、朝食の支度に取り掛かったのだった。
■14
雨の中、熱心な参拝客もいたものだ。
昼過ぎからちらほらとやって来た彼らは、噂とは違い神が拝殿に鎮座していないと見るや、社務所にいる霊夢にゆっくりの所在を尋ねて来た。
スペルカードを持ち歩く連中は、日没からゆっくりも参加する宴会があると知っている為、日中の参拝客は全員が里の人間だった。
縁側から逃げました、では示しがつかないというか締まりが悪いので、彼らには神はやたらめったら人前に姿を現さないと言って、適当に取り繕っておいた。
すると彼らは、お目当ての際物の神が不在だと知るや否や、つまらなそうな顔をして去っていった。
もちろん賽銭はしていない。熱心な現金主義である。
それはそうと、彼らのお目当てのゆっくりが夕方前になっても帰って来ない。
朝食の玉子焼きの匂いで戻って来る事はなく、昼食には納豆巻きを縁側に置いてみたが、それに釣られる事も無く、今では米の水気を吸ってすっかりふやけてしまっていた。
以前、ゆっくりは状態の良くない納豆巻きでも平気で口にしていたので、霊夢はそれを下げずに、横に腰掛けて雨空をぼんやり眺めていた。
──もし、このままゆっくりが帰って来なかったら?
経過した時間に比例して、その可能性が霊夢の頭を過ぎるようになってきた。
「ふん……。いなくなったならなったで、賽銭がっぽがぽだし、これで本当にゆっくり出来るってものよ」
ゆっくりが空から降って来た当初、この状況を望んでいたのだ。
今まさにそれが叶って、おまけに神社の財源はすこぶる潤ったのだ。
この状況が良くないはずがない。
しかし、霊夢の心は頭上の天気のように晴れやかではなかった。
霊夢は足をぱたぱたと前後に泳がせて、舌打ちをした。
「……さっさと帰って来なさいよ」
一つ前に言った台詞とは真逆のことを、霊夢は苛立ちと心配が混ざり合った顔で呟いたのだった。
縁側でゆっくりの帰りを待っていたが、いつの間にか日没が迫っているらしい。前方の木々が闇に溶け入ろうとしていた。
肌寒さを覚えた霊夢が、ゆっくりが入って来れるくらいに戸を細くしておこうとした折、箒に跨った魔理沙が空から降りてきた。後ろには萃香も乗っていた。
「よう、霊夢。今夜も来たぜ」
「来たぜえ」
相変わらず仲の良い二人である。
雨に濡れながらも、二人はにこやかに挨拶をしてきた。
「何よ。二人ともずぶ濡れじゃない。そんなんじゃ風邪引くわよ」
「なあに、これくらいへっちゃらさ」
「そうさ。美味い酒を飲んで騒げば、体はぽっかぽか」
「あ」
霊夢は、思わず間の抜けた声を上げた。
縁側でゆっくりのことを待ち惚けるだけ待ち惚けて、宴会の支度を全くしていなかったからである。
「うん?」
「いや、その……」
「どうした?」
「……」
「変な霊夢だな」
「……って」
「まあとにかく、上がらせてくれよ。タオル借してくれ」
「待って」
「タオルタオルー」
素早く靴を脱ぎ終えた萃香が、霊夢の脇を通って社務所に上がり込み、一方の魔理沙も片方の靴紐を解き終えていた。
「待って!」
霊夢が声を張り上げると、魔理沙は驚いた面持ちで顔を上げた。
目で確かめた訳では無いが、廊下を駆けてゆく足音も鳴り止んだので、萃香も驚いて振り返っているのだろう。
霊夢の大声の後、急に静まった場を埋めるように雨音が流れ込んでくる。
「ど、どうしたんだよ霊夢。大声なんか出して」
恐る恐るこちらを伺う、魔理沙の声。
俯いた霊夢の唇から滑り出たのは、打って変わって小さな声だった。
「中止よ」
「え? な、何が?」
「宴会は中止って言ったの」
萃香はそれを聞いて、霊夢の元へ駆け寄った。
「ええ! 何でだよう?」
「何でもよ」
淡々と答える霊夢の腕を掴んで、萃香は懇願する。
「そんな、あんまりだ! あたしは宴会が楽しみで今日を生きて来たんだ。そんなあたしから宴会を奪うなんて、鬼のやることだ!」
「おいおい、霊夢だって昨日やるって言ってたじゃんかよ。約束は守ってくれよな」
「そうだそうだ。魔理沙の言うとおりだ!」
「どうせ今まで寝てて、支度してなかったんだろ? そんなんで宴会を中止にされてたまるかって」
「支度が出来るまで、いくらでも待つよ! あたしは!」
「私も待つぜ。手伝う気は全く無いがな」
好き放題言う二人に挟まれて、霊夢はゆったりと顔を上げた。
「ゆっくりが、一人で出かけたまま帰って来ないの」
途端に、魔理沙と萃香は黙り込んだ。
再び沈黙が流れたと同時に、雨が強まってゆく。
屋根を打ちつける激しい雨音が、頭上から降り注ぐ。
その音と霊夢の只ならぬ様子に、魔理沙の顔色も変わってゆく。
「この雨の中、か……?」
魔理沙の言葉に頷きながら、霊夢は外に目をやった。
すると、いつからそこにいたのか、鴉天狗が縁側の庇の下に立っていた。
文は本当にタイミングの悪い時ばかり顔を出してくる。
「宴会二日目、参加させてもらおうとやって来たのですが、中止なんですね」
「……ええそうよ。だからさっさと帰って」
「ゆっくり、いないんですか?」
こんな時にでも、文は手帖とペンを忘れない。
日付でも書いたのか、胸の前に構えた手帖に短く何かを書き込むと、文は例の如く小首を傾げながら可愛らしく微笑んだ。
霊夢は冷たい何かが背中を這い上がるのを感じながら、口を開く。
「ちょっと外出してるだけよ」
「ほう。この雨の中? こんな遅くまで? 外出先はどちらですか?」
返答次第では、また面白おかしく記事にされるに違いない。
「今朝から具合が悪そうだったから、永琳のところに連れて行ったわ。今日は大事をとって向こうに泊まることになったの」
文は、ペンを目にも止まらぬ速さで走らせながら、質問を返してきた。
「あやややや、そうでしたか。私が見た限り、今日霊夢さんは神社を出られていないようですが、いつの間に?」
ちらりと、それでいてわざとらしく、縁側に置かれっぱなしの納豆巻きを一瞥して、文はペンを止めた。
返答次第ではない。
このブン屋は、どう答えようと面白おかしい記事にする。
文の一瞬の仕草を見て、霊夢はそう思った。
「それは……、紫が連れて行ったのよ」
しどろもどろに霊夢は答えた。
急ごしらえした嘘は、早くも瓦解寸前だった。
「ふふっ」
すると何処からともなく、聞き覚えのある笑い声がした。
「貴女以外に懐いたためしが無いのに、医者のところへ連れて行けるわけが無いじゃない」
そこに助け舟を渡したのは、神出鬼没のすきま妖怪だった。
霊夢と文の間の空間がただれるようにずるり、と裂けると、そこから上半身を覗かせた紫がブン屋からペンを取り上げた。
「ああっ、ちょっと」
紫がひょい、と水溜りに向ってペンを投げると、水面に触れる瞬間にそれはすきまへと消えていった。
ついで、紫は霊夢の顔を見るや、じわじわと顔をほころばせた。
ゆっくりが表沙汰になってから初めて紫の声を聞いた。昨夜の宴会の時には会話も無く、遠目で彼女の顔を見ただけだった。そのせいもあって、随分と久しぶりに紫に会った感じがした。
そんな紫は、こちらに話を合わせてはくれなかった。
呆気に取られる霊夢を前に、紫は悪びれる様子もない。
もしやこのすきま妖怪は、助け舟ではなく引導を渡しているのではないか。
「ゆっくりの看病の仕方は、あんな医者よりも貴女が一番よく知ってる。ね? 霊夢」
「つまり、ゆっくりは医者にかかっている訳ではないと。興味深いです。それで、ゆっくりは今どこに?」
先ほどペンを失った文だったが、既にスペアのペンを手にしていた。
紫は僅かに眉をひそめて、文の質問に答える。
「まあ、誰かの家にいるってことはまず無いわね」
「というと?」
「この有象無象で溢れた幻想郷の何処かを、一人さまよっていると思うわ。いいえ、きっと今頃怖くて怖くて泣いてるでしょう。だって、ゆっくりは人見知りでとても臆病な子なんだもの」
文の質問が入る前に、霊夢は口を挟んだ。
「何デタラメ言ってんのよ。ゆっくりは今、永琳のところよ。人見知りで臆病っていうのも嘘よ。ゆっくりは参拝客の前に立ったり、宴会で皆に人懐っこくしてたじゃない。紫だけが嫌われてるって、そろそろ気づいたらどう?」
今までのフラストレーションもぶつけるつもりで、霊夢は捲くし立てた。
紫はすきまから降り立つと、霊夢の顔を直視した。その目はいつになく真面目で、理知的で、冷ややかでもあった。
「ねえ霊夢」
「何よ」
「霊夢は、あの子の言葉に耳を傾けたことはあるのかしら」
「は……?」
「ゆっくりの言葉をちゃんと聞いていたかって言ったの」
ゆっくりの言葉など、一通りしかないではないか。
ゆっくりしていってね。
その言葉に耳を傾けたところで、何になるというのだ。
「傾けて無かったの?」
「当たり前じゃない。一つの言葉しか言えないんだから、聞くだけ無駄じゃない」
紫は首を横に振りながら、深々と溜息を吐く。
「全くこの子は……。言ったでしょう? あれはアロハと同じだって」
「だから何なのよそれは!」
当初、紫はゆっくりを匿う協力をすると言ったのに、実際はほとんど協力してくれなかった。顔を見せたと思えば間近で傍観者を決め込み、しばらく音沙汰無いと思えば今頃ひょっこり現れて、説教を垂れようとしている。文の見ている前でだ。
こんな理不尽な状況に、我慢出来るはずもない。
怒り心頭の霊夢は、紫の後ろですっかり大人しくなった魔理沙と萃香も巻き添えにするつもりで、渾身のスペルをお見舞いしてやろうとカードを一枚取り出した、その時。
「あのね霊夢。ゆっくりはね、ゆっくりなんかしていないのよ」
紫が発した言葉は、スペル宣言をしようとする霊夢の口を止めた。
「だって、ゆっくりは、いつも貴女のことを思って行動してたじゃない」
二の句を継ぎながら、紫が歩み寄ってくる。
霊夢の目の前に立つと、紫は両頬に手を当ててきた。
紫のほうがやや背が高く、霊夢は彼女の顔を見上げた。その鋭い瞳に己の姿が映り込むほどの距離に、吐息を顎の辺りで感じられそうなほどの距離に、紫がいる。
「よく思い出してごらんなさい」
普段は老獪に濁る怪しげな瞳が、真っ直ぐに霊夢のことを射抜く。
紫の瞳に映し出された少女の顔は、反転し、酷く屈折していた。
ゆっくりは、本当はゆっくりしていない。
ゆっくりは、いつも自分のことを思って行動していた。
その言葉を軸に、ゆっくりと過ごした日々を思い返す──。
ゆっくりは、髪飾りの筒に仕込んだ納豆巻きを分け与えてくれた。
神社に参拝客を呼び寄せて、多額の賽銭を集めてくれた。
宴会では自ら真ん中の席に座り、それが演技かどうかは分からないが、出席者相手に人懐っこい態度で接した。
宴会の片付けの時は、出来る範囲で手伝いをしてくれた。
それ以外にも、ゆっくりはいつでも言うことを聞いてくれた。
ゆっくりは素直で従順だった。
一度だけ霊夢からの言いつけを破り、外に出たことがある。
だがそれは、その直前の霊夢の言うことを忠実に守っていただけだったのだ。
賽銭が集まればゆっくり出来る、という言葉を。
思えば、ゆっくりは目覚めた直後から、狂ったように訴えていたではないか。
ゆっくりしていってね!
ゆっくりは、その言葉の通りに行動していたではないか。
それなのに霊夢は、ゆっくりに冷たい言葉を投げかけてばかりだった。
『いいわね、あんたはお気楽で。私もあんたみたいになりたいものだわ』
『まあ本当は、あんたさえ……』
己の愚かさに気がつき、霊夢は目頭の熱くなる感覚を覚えた。
「気づいたかしら」
こちらの心の動きを見透かしているような、紫の視線。
霊夢は、その視線から目を逸らさずにはいられなかった。
目を逸らした途端、紫は追い討ちをかけてきた。
「どうして、貴女はあの子のことを邪魔者扱いしか出来ないの? あの子がいたら窮地? どうしてそうなるの?」
「だって……。だって、あんたが最初にそう言ったんじゃない」
怒っているのか、泣きそうなのか、もはや霊夢自身も分からなかった。
霊夢は唇を噛み締めて握り拳を作った。
自分のことを棚に上げて説教を垂れる紫に怒っているのではなく、出来るだけ周りに悟られることなく己を罵りたかったのだ。
霊夢の打ち震える両手や表情を見て、それに気がつかない紫ではない。
紫は霊夢の肩を二三回優しく叩き、微笑んだ。
「お説教は後でするから。早く行ってらっしゃい」
霊夢は小さくも力強く頷くと、廊下を突っ切って玄関へと駆けて行った。
一部始終を呆気に取られながら見守っていた連中は、玄関の引き戸が慌しく開閉する音と同時に硬直から解けた。やはり、最も早く行動に移ったのは文だった。
「おおっ。これは素晴らしい展開ですね! こうしちゃいられま……」
すかさず霊夢の後を追いかけようとする文の腕を、すきまから伸びた手が捕らえる。
「何処に行くつもり?」
文のもとへゆっくり歩み寄る紫は、数秒前に霊夢に見せた優しい微笑ではなかった。
確かに笑顔なのだが、古株妖怪の文ですら震え上がるような恐ろしい形相をしていた。
「いえ……、その、取材を」
「取材なら必要ないわ。霊夢は大切な子を連れ戻しに行っただけだもの。貴女は私のその一言について一面を好きに埋めればでいい。何なら、昨夜みたいに私がつきっきりで取材に応じましょう」
「わ、私だってあれは望んだ形では……」
「ただし」
紫は余っている手で文の胸倉を掴み、そのままガラス戸へと叩きつけた。
ガラス戸がわななき、背中を打ちつけて呻きを漏らした文に、紫が畳み掛かる。
「霊夢と違って私は優しくないから、記事にする際にはどうぞ慎重に」
■15
手燭も傘も持たず、月明かりの届かない夜雨の中を走る。
幽かに闇に浮かぶ物影だけを頼りに、階段に架かったすのこを渡り、けもの道を抜ける。その途中に、ゆっくりはいなかった。
社務所を飛び出してほんの数分なのに、霊夢はまるで何時間も探し回ったかのように息を切らしていた。
一寸先は真っ暗闇な視界と、体を打ちつける冷たい雨。
加えて刻一刻と強まる雨音のせいで、平衡感覚まで馬鹿になりそうだ。
こんな悪条件の中では、地を這って移動するゆっくりを空から探すことは出来ない。
己の足で、見つけ出すしかなかった。
「ゆっくり! 何処にいるの!」
ゆっくりを呼ぶ霊夢の声は、口を出たニ尺三尺のところで雨音に掻き消される。
「いるなら返事して!」
それでも霊夢は声を切らさない。
ぬかるみに足を取られながらも、その足を止めない。
気がつくと、人里の近くまでやって来ていた。
雨の向こうで、乱反射した数多の明かりが縦横に伸びているのが見える。
霊夢は走りっぱなしの足を止め、その様子を見つめた。
飛び跳ねながら移動するゆっくりは、徒歩よりも早い。姿が見えなくなったのは今朝からなので、一日あれば相当な距離を移動できるだろう。
それは有象無象に出くわさなければの話だ。
もちろん、誰かの元で世話になっていなければの話でもある。
霊夢は後者を願った。しかし、
──ゆっくりは、人見知りで臆病な子。
先の紫の言葉が否定してくる。
それでも、ゆっくりは誰かに拾われて安全な場所にいることを願いつつ、霊夢は人里に入った。
この雨の中では当然か、通りには人の気配が全く無い。夕餉の香りが微かに雨に混じっているので、里の人々は屋根の下で夕食を楽しんでいる頃だろう。
そんな憩いのひと時でもお構いなしに、霊夢は一軒一軒戸を叩いて、ゆっくりが来なかったか尋ねて回った。全件隈なく尋ねてみたが、ゆっくりは見つからなかった。
人里を後にすると、次は紅魔館に向かった。
レミリアや咲夜に懐いていたように見えたので、彼女達のもとにいるかも知れないと思ったのだが、珍しく仕事をする門番に追い払われてしまった。
いくら食い下がっても、門番はゆっくりは来ていないの一点張り。
この時の霊夢は、門番を倒して突破する気力も無ければ、門番が嘘をついているという考えも浮かばなかった。
押し問答をしても仕方無いと思い、次に魔法の森を目指した。
一刻も経っていないが、霊夢の体力はかなり消耗していた。
体のあちこちが悲鳴を上げ、息苦しさの余り顎が上がり、一方で雨に打たれた体が冷え切っている。
紅白の巫女装束は泥で汚れ、見るも無残な様相を呈している。上まつげに乗った雨滴が、僅かな視界さえも奪う。
そんな自分のことよりも、同じ空の下のどこかにゆっくりがいることが霊夢を追い詰めてゆく。
「ゆっくり! ゆっくり!」
慣れない大声を繰り返し上げているせいで、声が枯れ始めている。
たとえ喉の潰そうとも、霊夢は狂ったようにその単語を口にした。
さながら、ゆっくり本人のように。
紅魔館から南西へ下る。
人里を越えて、さらに西を目指す。
魔法の森の入口にある香霖堂は、既に店仕舞いを終え明かりが落ちていた。
店主を叩き起こしてゆっくり失踪の件を伝えたが、いたずらに好奇心だけ煽ってしまい、有益な情報は得られなかった。
霊夢は香霖堂を後にすると、思うように上がらなくなってきた足に鞭を打って、森の中へと入った。
魔理沙はまだ神社にいると思われるので、目指したのはアリスの家だった。
宴会に顔を出さなかったアリスのもとを、ゆっくりが訪ねるとは考えにくい。魔法の森という恐ろしい場所を、ゆっくりが自ら足を踏み入れるとは考えにくい。
どちらも分かっていたことだったが、もはや思いつくところを当たってみるしか霊夢には出来なかった。
案の定、ゆっくりはアリスの所にも来ていなかった。
アリスが肩を落として立ち去る霊夢を心配したのか、身を案ずるような事を二三言ってきたが、霊夢の耳にそれは届かなかった。
そのまま霊夢は森を出た。
頭から一本の太い鉄杭を打ち込まれたかのようで、体が言うことを聞いてくれない。
他にも周りたい場所はあっても、そちらに足が向こうとしない。
何かの抜け殻のような表情をした霊夢は、亡霊のようにふらふらしながら、東の方角を一点に見据えたまま、博麗神社を目指した。
──きっと、ゆっくりは私に嫌気が差したのよ。
頭を埋め尽くすのは、ゆっくりが姿を消した理由だった。
思い返せば、ゆっくりに愛想をつかされる理由なんて山ほどある。
一つ一つ挙げてゆくのも馬鹿らしいほど沢山ある。
その中から決め手になったものを探すことなど、愚行を極めている。
確かなのは、この事態は当然の報いと呼べることだけだった。
散々ゆっくりのことを邪魔者扱いしていたのに、いざいなくなるとこの様である。
茫然とする頭で、何度も何度も己を罵った。
レミリアではあるまいし、今更己を罵ったところで運命が変わるわけでも無いのに。
雨足が幾分弱まってきた頃、霊夢は博麗神社の麓のけもの道まで戻って来ていた。
憔悴しきった表情を貼り付けたまま、霊夢はけもの道へと足を踏み入れる。
この道を抜けて階段を上り切ると、神社に着く。
紫に場を任して飛び出して来たはいいが、魔理沙や萃香、文がまだいるのかもしれない。
それどころか、宴会中止の報せを出した訳でもないので、頭数はもっと増えているかもしれない。
何より、神社で紫が待っている。自分がゆっくりを連れて帰って来るのを、待っている。
──こんなんじゃ……、紫に会わせる顔がないよ。
あれほどゆっくりのことを可愛がっていた紫である。
霊夢が手ぶらで帰ってきたところを見たら、説教だけでまず済まされないだろう。
「ああっ」
情けない声を出して、霊夢は見事なまでに尻餅をついた。
何かを踏んづけたらしく、その拍子に滑ってしまった。
「いっ……たあい」
尻と咄嗟に突いた両手もそうだが、頭上に生い茂る樹木から落ちてくる大きな雨粒が、どうしようもなく痛かった。
いっそのこと、このままここで倒れて果てて、誰かに見つけてもらうのを待っていようか。
そんな卑怯な考えが過ぎった時、霊夢はある物を目にした。
「こ、これ……」
どうやらそれに足を滑らせて転んでしまったらしい。
暗い地面に横たわるそれを拾い上げてみると、一枚の細長い布だった。
泥で汚れてはいるものの、基調は赤で、端が白く縁取られているのが暗がりでも分かる。
まさしくそれは、ゆっくりの髪飾りだった。
分かったと同時に、霊夢は戦慄した。
ゆっくりはこの道を通った。通っていたその途中、髪飾りの筒がはだけるような事が起こった。霊夢自身も同じ物をしているので分かるが、そう簡単にはだける物ではない。物理的な力、それこそ鋭い刃などで力を加えない限り取れることはない。
つまり、ゆっくりはここで何者かに襲われたのだ。
有象無象の牙、あるいは爪。
霊夢にとっては取るに足らない物でも、ゆっくりにとっては凶刃に違いなかった。
「ゆっくりぃ!」
霊夢の悲鳴が、けもの道にこだまする。
鉛のような体を起こし、脇の雑木林へと飛び込んだ。
黒々とした葉や、尖った枝や、足元でアーチを作る木の根や、果ては木が全身で霊夢の行方を阻む。
ゆっくりの手がかりを掴んだ今、鈍っていた博麗の巫女の勘がようやく冴え始め、それらを避けつつ、迷い無く雑木林の奥へと進みゆく。
するとすぐに、そこだけ生えている木々が少ない開けた場所に出た。
円状に開けた空間の中央に、黒い物体が横たわっているのが目に入った。
あそこに横たわっているものは何だ、と勘ぐっている時間すら惜しい。
「ゆっくり!」
霊夢は黒い物体へと駆け寄った。
ゆっくりは、顔を下にしてうつ伏せの格好で倒れていた。絹のようにさらさらな黒髪は雨を吸って、ゆっくりの頭を一回り小さく見せていた。
すぐさまゆっくりを抱き起こした。
霊夢は、夜空から降って来た時や、看病の時や、賽銭箱から降ろしてやった時にゆっくりの体温を知っていた。
普段なら人間と大差ない暖かさがあるのに、今のゆっくりは濡れた石でも持ち上げたかのようで、まるで体温を感じなかった。
「ゆっ……くり」
ゆっくりの顔を見て、霊夢は息を飲んだ。
泥にまみれた顔は、苦痛で歪んだまま動かない。
恐らく、有象無象の凶刃から逃れようと必死にここまで逃げて来たのだ。
顔の随所に切傷や擦傷があり、出血もしている。
血は雨で流されていたが、黒い液体が顔の上を流れた痕が残っている。
あまりにも痛々しいゆっくりの姿に、霊夢は声を失い立ち尽くした。
冷たくなったゆっくりは、ぴくりとも動かなかった。
■16
けもの道には有象無象の妖怪達がうろついている。
先日から、萃香が参拝客には手を出さないよう彼らの行動に制限をかけていたらしいが、その反動なのだろうか。
いずれにせよ、彼らの胃袋に納まることなく、原型を損なわずにゆっくりを神社に持ち帰ることが出来たのだから、まだ幸運な方なのかもしれなかった。
冷たくなったゆっくりを抱いて社務所へ戻ると、紫が一人で待っていた。
霊夢がゆっくりを探しに出た後、紫は文にしこたま灸をすえ、あの場に残っていた連中を追い帰し、式神達を使って幻想郷全土に宴会中止の連絡を速やかに行った。
そのため、紫が一人で社務所で霊夢の帰りを待っていた訳だが、霊夢はそのことに気を回す余裕すら無かった。玄関でゆっくりを紫に渡した後、その場に崩れ落ちてしまった位なのだから無理もないかもしれない。
霊夢は泥まみれのまま、紫に事情を話そうとしたが、とにかく風呂に入って来いと強く言われた。
今日はいつになく真面目な紫であるが、それに対する詮索はおろか、風呂よりもゆっくりの事が先だと主張する気力も湧かず、霊夢は紫の言うことを素直に従った。
風呂から上がると、紫に事情を説明する必要は無いと思った。
ベビー用の布団にゆっくりを寝かせた紫が、険しい面持ちで座っていたからだ。
泥や雨や血で汚れたゆっくりの顔は綺麗に拭き取られていたが、苦悶に満ちた表情は残ったままだった。
紫の隣に座ったが、紫は険しい表情のまま無反応。
霊夢はゆっくりの頬に手を伸ばすと、雑木林で触わった時と同じくらいにゆっくりは冷たかった。
「せっかく」
唐突に、紫が前置きを置いた。
霊夢の視線が自分に向けられた後、紫は続けた。
「可愛らしい顔がこんなに苦しそうに……。よっぽど怖い目に遭ったのね」
「……ごめん」
霊夢の消え入りそうな声に、紫は小さく笑い声を漏らし、
「何も霊夢が謝ることじゃ無いわ」
「だって、私のせいで、ゆっくりは出て行ったんだもの」
「ゆっくりは、自らの足で進んで出て行ったのよ」
「でも、でも……、こんなに冷たいし、ほら、息だって、もう……」
急に込み上げて来た涙を必死に堪えながら、霊夢は絶え絶えに言った。
ゆっくりは息をしていない。
風船のように膨れて萎むような呼吸が、全く見られない。
「もう……?」
霊夢の言葉をオウム返しし、紫は霊夢と目を合わせた。
重苦しい沈黙が降りかかる。
それとほぼ同時に、障子の向こうでは軒庇から落ちる雨音がぱたぱたと鳴り響く。
涙目の霊夢が言い淀む一方で、紫は饒舌だった。
「特殊な環境下であれば、息もせずとも眠りにつくことが出来るそうよ。仮死状態って言ってね、低体温の状態を保ちながら機械が必要な臓器の代わりをするの」
得意のうんちくを垂れて気を紛らわそうとしている、とは思えなかった。
「ここにはそんな大層な機械は無いわ」
「そうね」
よもや、河童にそれを造ってもらおうという訳ではあるまい。
「何よ回りくどい言い方して。言いたいことがあるならはっきり言ってよ。ゆっくりはもう死んでるって、あんたはそう言いたいんでしょう? なら最初からそう言えばいいじゃない。あんたのその人を小馬鹿にした話し方、本当に癪に障るわ」
「落ち着いて霊夢。そうは言ってないわ。それはあくまで人間の場合だから、ゆっくりが仮死状態になる条件は違うかもしれないってことを私は……」
「うるさい!」
紫の戯言を遮って、霊夢は枯れた声を張り上げた。
今にも目頭から零れそうな涙を懸命に押し戻しながら、紫を睨みつける。
「それ以上、気休めを言わないで」
唇が小刻みに震えて、思うように言葉が出なかった。
二人は、しばらくの間、視線を結んでいた。
十秒近く経った頃、紫は膝に置いた手に目を落とした。
それから何気無く立ち上がった紫は、霊夢の背後を通りながら、
「何か飲む? お水、ずっと口にしていないでしょう?」
「いらない」
「いいから。飲みなさい」
命令の口調で言い直した紫は、さっさと台所に水を汲みに行くのかと思いきや、ふすまの前で立ち止まっていた。ふすまに手にかけたまま、物言いたげな背中を霊夢に向けて突っ立っている。
「……貴女の気が済むまで、私は待つわ。でもね」
そこで区切ると、紫は耳元の金髪をそっと揺らして振り返った。
「早いほうがいいわ。それが、ゆっくりの為でもあるもの」
霊夢が言い返すより早く、紫はふすまの向こうに消えた。
もっとも、仮に面と向かって話していたとしても、霊夢は返答を詰まらせただろう。
台所から聞こえる水の音を聞きながら、霊夢はゆっゆっ、とうなされすらしないゆっくりに視線を戻したのだった。
紫が水を持って戻って来てからは、どちらから言うわけでもなく二人は一切会話をしなかった。
待った。
ただひたすら、ゆっくりの目が開くのを待った。
だが、一向にゆっくりが目覚める気配は無かった。
ゆっくりは青ざめた表情を浮かべたまま、まるで蝋人形のように硬直していた。
その悲しい姿を見るだけで胸が張り裂けそうになる。
それでも、霊夢は目を逸らさない。
ゆっくりはこれよりも遙かに痛くて恐ろしい目に遭ったのだから。
時間だけが虚しく経過し、夜は刻々と更けてゆく。
ずぶ濡れになり、泥まみれになり、あれだけ幻想郷中を探し回ったのにも関わらず、霊夢は全く眠くなかった。
代わりに思考回路はほとんど機能しておらず、そのお陰で、思わず泣いてしまう心配は無かった。
涙腺を刺激する情報は、脳が処理する前に喪失してしまうのだから。
それからさらに、拷問のようにじわじわと時が流れた。
いつの間にか雨音は止んでいた。
瞬きの音さえ聞こえそうなほど、寝間は水を打ったように静まり返っていた。
そんな中、紫はおもむろに腰を上げ、障子を開けた。
「もうじき、夜が明ける」
紫は静かに呟いて、空を見上げた。
その後ろには、外の様子に目もくれず、放心した面持ちでゆっくりのことを見つめる霊夢。
その暗い光を宿した虚ろな瞳は、ゆっくりを見つめているようで焦点がまるで合っていなかった。
その時、霊夢は鳥達のさえずりを聞いた。
すると突然、つい一週間ほど前の事が、夜空から降って来たばかりのゆっくりを夜通し看病したことが、瞼の裏に鮮明に蘇った。
目の前の光景とは、似て非なる光景────それが、霊夢の乾いてくっついた唇を開かせた。
「紫」
消え入りそうな声で、すきま妖怪の名を呼ぶ。
紫は振り返ろうとせず、背を向けたまま返した。
「なあに?」
紫の声は、わざとらしいほどおどけていた。
と同時に、障子の一枚向こう側でガラス戸ががたがたと騒ぎだした。
まるで、吹きすさぶ風を受けたガラス戸が、霊夢に続きを言わせまいとしているかのように。
「もう……、気が済んだから」
風が止む前に放たれたその言葉は、外のざわめきに掻き消されたように思えた。
だが、それはしっかりと紫の耳に届いていた。
「……そう」
打って変わって、障子に手を掛けたままの紫も同じくらい弱々しい声を発した。
静けさを取り戻したガラス戸の向こうで、割れた雨雲から朝焼けが顔を覗かせていた。
■17
昨夜泥まみれになった履物の替えを下ろして、玄関を出た。
外は雨上がりの清々しい空気で満たされていた。
日の出を終えた太陽が黄金色に輝いて、薄くなった雨雲を透かしているかと思うと、先ほどの突風が嘘のような優しい風が髪をすり抜ける。
こんな空の下だと、ゆっくりの苦しそうな表情も心なし穏やかに見える。
胸の前で抱きかかえたゆっくりに目を落としながら、霊夢は紫と共に神社の裏へと向かった。
神社の裏手から鎮守の森へ入り、雨露で濡れる緑の中を進んでゆくと、前方に一際大きな木が見えてきた。
幹が太く、鬱蒼と葉が生い茂ったその根元は、昼間でも陽射しがほとんど届いていない。それでいて、大木の周りだけに幾本もの光の筋が降り注いでいた。
ここがいい──。
二人は目で言葉を交わした。
大木の前に立つと、紫はすきまを開いて中から鍬(くわ)を取り出した。霊夢は紫にゆっくりを預け、代わりに鍬を受け取った。
ざくざく、と大木の根元を掘る。
雨に濡れた地面は簡単に刃が入る。
掘り起こされた土の香りに溢れる中、霊夢は無心で穴を掘り続けた。
丁度、穴の直径をベビー用布団ぐらいに、深さを膝の高さぐらいにしたところで霊夢は手を止めた。
ベビー用布団。ここ毎日見ていたものなので、穴の大きさがそれとほぼ同じということが分かった。
鍬を返そうと紫の方を見ると、紫は愛おしそうにゆっくりの頭を撫でている最中だった。
目が合うと、紫は口だけでぎこちなく笑って、ゆっくりを差し出してきた。
名残惜しそうに、いつまでも抱いていたそうに、そんな人間臭い感情が「胡散臭い」を代名詞にする大妖怪から漂っていた。
霊夢はゆっくりを受け取ると、今しがた作った穴の方へ向き直った。
思えば、ゆっくりが来てからは散々気苦労を重ねてきた。
周りの目を恐れる余り、自分の行動を極端に制限される日々がつい一昨日くらいまで続いていた。文の監視と、文々。新聞のゴシップ記事に過敏になり、魔理沙や萃香が遊びに来ることさえ怯え、何かしら理由をつけて紫に不満の矛先を向けたこともある。
そんなこともお構いなしに、ゆっくりは四六時中付きまとって来た。
ゆっくりしていってね!
能天気な台詞と共に近寄って来るゆっくりが、疎ましかった。
自分を理不尽な目に遭わせたゆっくりが厭わしく、憎くもあった。
あの時に処分しておけば良かった、と思ったことすらある。
「ごめんね」
振り返れば、与えられてばかりだった。
ゆっくりの気持ちを分かろうとせず、その重みを量ろうともせず、足に括られた枷と思ってばかりいた。
「ごめんね……、ごめんね」
せめて、苦しそうな表情くらい解いてあげたかった。
墓に入る時くらい、安らかな顔でいてほしかった。
今更そう思っても、全ては手遅れ。
手遅れ──その答えに辿りついた途端、堰を切ったように涙が溢れた。
昨夜、雨の幻想郷を奔走した時からずっと我慢していた熱い涙が、次々と頬を滑り落ちてゆく。
「ごめんね、ゆっくり。ごめんね……、ごめん、ごめんね……」
雨上がりの森の中、ゆっくりだけがにわか雨に見舞われていた。
一滴また一滴と、涙の粒がゆっくりの顔を打ちつける。
「うう……」
霊夢が紫に肩をそっと抱かれると、余計にその雨は強まった。
むせび泣く霊夢は、紫の腕の中でゆっくりのことを抱きしめた。
きつく、きつく、抱きしめた。
ここへきて、「ゆ゛っ」と苦しそうな身じろぎなど期待してはいけないのに、心のどこかで期待してしまっている愚かな自分がいて、霊夢はまたもや泣けてきたのだった。
そうやって泣いている間、紫は黙って頭を撫でてくれていた。
それもあってか、霊夢の呼吸と思考は、ようように落ち着きを取り戻した。
肩に置かれた紫の手を丁寧に解き、霊夢は大きく深呼吸した。
そして、おもむろに地面に膝をついて、手に持ったゆっくりを掘った穴の中へ入れた。
後は紫から鍬(くわ)を受け取って、横に積み上げた土を被せるだけ。
それだけなのに、紫の方を見られなければ、手を横に伸ばすことも出来ない。
泣き止んだものの、絶えず口をつくしゃっくりに息を詰まらせてばかりだった。
それでも何とか、喉奥に溜まった言葉を紡ぐことが出来た。
「さよなら」
右の手の平を紫に見えるように差し出すと、そこに鍬の柄が置かれた。
積み上げた山を均すように、ゆっくりが眠る穴に土を流し込んでゆく。
ゆっくりの周りが土で埋まってゆく様を見ながら、霊夢は声を震わせた。
「ゆっくりした結果が……、これよ」
ゆっくりの顔に土を被せるのに、まだ躊躇いが残っていた。
震える手を叱咤しながら、残りの土の山をゆっくりの上に被せようとした、その時──。
僅かに、ゆっくりの眉が動いた。
「……ゆっ」
口に入った土を苦そうに吐き出しながら、何か言おうとしている。
「ゆっ……く……り」
幻かと思った。
だが、幻でも、見間違いでも、聞き間違いでも無かった。
息を引き取ったはずのゆっくりが、声を発している。
「ゆっ、く……りし……ていって、ね」
ゆっくりしていってね。
微かに開かれた瞳が、泣き腫らした霊夢の顔を見つけると、ゆっくりはその言葉を切れ切れに言った。
霊夢は、目の前のあまりの光景に、声の出し方はおろか呼吸の仕方まで忘れてしまった。
しかし、気がつけば鍬を放り投げ、ほとんど地面に埋まったゆっくりを手で掘り起こしていた。
「ゆっくり!」
墓になるはずだった穴からゆっくりを持ち上げて、抱き締める。
別れの時よりもきつく、腕が痛むほどに強く。
止まったはずの涙が、再び霊夢の目から溢れ出す。
「ごめんね……、本当にごめんね」
口をつくのは、もう手遅れだと悟ったときと同じ言葉だった。
だが、涙の意味が一つではないように、「ごめんね」にも種類がある。
先がある「ごめんね」と、先がない「ごめんね」。
今、霊夢がしきりに口にしているのは、前者の方だった。
「ゆっ……、ゆっ……」
酷く弱りながらも、ゆっくりも夢中で霊夢の胸に顔を押し当てている。
突如起こった奇跡的な一幕を見守っていた紫は、やれやれと首を振りながら、細い溜息を吐いた。
「本当、不器用な子達なんだから」
その両の瞳には、薄っすらと光るものが浮かんでいた。
■18
その日、ゆっくりは深い眠りについた。
長時間夜雨に打たれた後、一晩中生死の境をさまよったのだから無理もない。一方の霊夢も、不眠でその行方を見守っていたのが祟ったようで、高熱を出した。そのため、紫は藍と橙を呼び出して二人の看病をさせた。
霊夢の熱に浮かされる中の記憶は、藍の顔を見たところで途絶えている。次に目を覚ました時には、熱と一緒に八雲一家の姿も消えていた。
天井の木目を見上げながら、霊夢は額を手で押さえた。
あれから、一体どれくらい眠っていたのか分からない。
時刻は昼前といったところか。障子の向こうから柔らかい陽の光が差し込んで、締め切った寝間の中は蒸し暑いくらいだ。
首を横に傾けると、やたら目立つところに文々。新聞が置いてあった。
手に取って日付を確かめると、丸二日も眠っていたことが分かった。
それだけでも十分驚きだが、文々。新聞の中身にはもっと驚かされた。
連日過熱していた隕石騒動の記事は無く、河童達が運営する核開発施設のことについて取り上げられていた。文があれほどこだわっていたネタなのに、新聞にはゆっくりのゆの字も無かった。
まるで、慧音にゆっくりを無かったことにされたかのような、身代わりの速さと潔さであった。
これでは、熱に浮かされる間に悪い夢でも見ていたかのような錯覚に陥ってしまう。
ゆっくりの存在も、悪夢の中で創り上げた幻想だったと思えてしまう。
文々。新聞に霊夢の名が踊ることもなく、外が参拝客で賑わうこともなく、暢気な台詞を連発してくるのもいない。
ゆっくりが空から降って来る前の、いつもの世界がちゃんと存在していた。
──ああそっか。全部、夢だったのね。
そう思って寝返りを打った瞬間──、霊夢はその考えが間違いだと知った。
すやすや、と寝息を立てるゆっくりの寝顔が、霊夢の胸の前にあったのだ。
「ゆ……っくり」
思わず霊夢が声をあげると、それに反応したゆっくりが重たそうに目を開いた。
「……ゆっ」
ゆっくりは霊夢の薄い胸に顔を埋めると、収まりの良い位置を探しているらしく何度も身じろぎをした。
やがてそれが見つかると、ゆっくりは気持ち良さそうな表情を見せたまま動かなくなった。
霊夢は、そんなゆっくりの頭を撫でてやった。艶やかな黒髪の上を、霊夢の手がさらりと滑り抜けてゆく。
全てが現実で起こっていた。
枕元に置いてあった文々。新聞は、紫達が二人の看病の為にそこにいた証拠であり、ゆっくりは夢の中のゴシップ記事が作り上げた幻想ではないという証拠でもあった。
そして、ゆっくりが現実にいながらにしてゴシップ記事にされていない事が、隕石騒動の収束を意味しているのだ。
きっと紫はそんな様々な意味を持たせて、文々。新聞を枕元に置いてくれたのだ。
「おはよう、ゆっくり」
呼びかけると、胸に顔を埋めるゆっくりと目が合った。
「よく眠れた?」
「ゆっ」
「もう具合は平気?」
「ゆっ」
「本当、生きてて良かった」
「ゆっ」
「今まで、ごめんね」
「ゆっ、ゆっ」
「うん……。きっとあんたは、大丈夫って言ってくれてるんだよね」
「ゆっ!」
元気良く返事を返したゆっくりに、霊夢は声無く笑いかける。
ゆっくりの「そうだよ」という声を聞いた気がしたからだ。
「さ、そろそろ起きよう。お腹空いたでしょ?」
「ゆっ! ゆっ!」
「宴会の後で食材はあまり残ってないけど……。玉子焼きなら作れるから」
「ゆ、ゆゆゆっ!」
霊夢は布団を畳みながら、嬉しそうに飛び跳ねるゆっくりに話しかける。
「あ、そうだ。あんたの好きな納豆巻きだけど、夕ご飯まで待てる? 今、納豆切らしちゃっててね。後で夕ご飯の食材を里まで買いに行くから、その時に買ってあげる。……って、あれ」
押入れを開けて、ベビー用布団の上に自分の布団を押し込んだ後、枕を仕舞い忘れていることに霊夢は気がついた。
畳の上に転がったままだろうと思って後ろを振り返ると、ゆっくりが枕を口に咥えていた。
「くすっ、ありがと」
ゆっくりから枕を受け取って、押入れに投げ込んだ。
「さてと、それじゃあまずは朝ご飯から」
霊夢は押入れを閉めると、ゆっくりを連れて縁側沿いの廊下に出た。
台所へ向かうのに、わざと遠回りをした。
「あのさ、ゆっくり」
這いずって歩くゆっくりに合わせ、霊夢の歩調はかなり緩やかだった。
「夕ご飯の時さ、その……、紫が一緒でも平気? ほら、こないだ私達の看病もしてくれたし、色々と借りが出来ちゃったのよ。だから、あんなやつだけど少しはお礼をしておかないと気持ち悪いし。もし、ゆっくりが嫌ならやめておくけど、どうかな」
単に紫を夕飯に誘いたいと言うつもりが、余計な言葉が懸命に本心を隠そうとする。
そんな卑怯な性格が嫌になる。
──ああ。私もちょっとくらい、ゆっくりみたいになれたらな。
そんなことを思いながら隣に目をやると、さっきまでいたはずのゆっくりがいなくなっていた。
「あれ? ゆっくり?」
振り返ると、陽の光に包まれた廊下の真ん中で、笑みを浮かべたゆっくりが霊夢のことを見つめていた。
まるで、霊夢が後ろを振り返るのを待っていたかのように。
「ゆっくりしていってね!」
文句のつけようの無い、とびきりのゆっくりしていってね。
つい三日くらい前までは、散々聞かされて嫌気が差していた台詞なのに、何故か懐かしくもあり、有り難くもあった。
「今度はあんたも……、ゆっくりしていってね」
霊夢は面映そうに言って、ゆっくりと一緒に廊下の角を折れた。
その先にある、慣れ親しんだ台所の窓の白さが目を射した。
『貴女が私に会いたいって思ってる時、いつも私から会いに来てるでしょう?』
前に紫が言ったその言葉を、完全に信じた訳ではない。
ゆっくりのように言われたことを真っ直ぐに信じるなど、なかなか出来ることではない。
それは霊夢の性格上というよりも、「では信じよう」と言って信じられるほど、人間の心は単純に作られてもいないためだ。
「とにかく、三人に合った献立を考えないと駄目ね」
それでも霊夢は、今日の夕飯は三人分作ると決めた。
会いたいと思うくらいなら、今の霊夢にでも簡単に出来るのだから。
おわり
ゆっくり生態学、ゆっくり解剖学について膨大な設定を抱えるうちの分野でもそそわ侵出を考えたくなってしまうものでありますが如何でしょうか?
無いです。
最後まで読んでもここまで長いのに全く平坦な内容に珍しく読んだこと事態を無駄だと思うほどでした。
ただ、ちょっと紫が何を考えてるのかわからな過ぎたような……まあ、紫ならあんな感じなのかも知れませんが。うーん。違和感みたいなものを感じるのは俺だけか?
そういう人達もゆっくりするべきなのかもしれませんね。
ただ、紫の行動に違和感を覚えた。霊夢が成長するように仕向けてたのかもしれないけど、射命丸がかわいそうだ。
力ずくよりも、もっと早く脅すなりして止めたほうが射命丸にとっても霊夢にとっても良かったのではないか。ゆっくりも酷い目にあわなくてすんだろうし。
文好き紫好きの私としては、不満が残る。
ところどころに「ゆっくりしていってね!」のネタが使われているのが細かい。
イイハナシダナーで終わってくれたのも良かったです。
総合して文句無しでした。良いお話をありがとう!
でも各キャラの行動の動機の描写がもう少しあったらよかったと思う
文々。新聞の中身はよくできてるなあと思った
あと一番気になったのが、この話の中の胡散臭い紫はあそこ(ガラス戸のシーン)で直情的に文を説教しないんじゃないかなあ、と。もっと非感情的で余裕ある手段で文を止めたはず
あのシーンの紫をもっとゆっくりさせれば、もっとゆっくりした気持ちで読めたかなあ、と思います
とても丁寧で、登場キャラに対する愛が溢れています
この話を書いていただいて本当にありがとうございました
これは二次創作として力作です。
点数をつける側の無能さを考えると虚しいかもしれませんが。
ただ点数はそれなりに機能していることを考えるとコメント機能がいらないんでしょうね。
それくらいこの作品は優れた力作であり、同時にコメントに流される無能者が浮き彫りになっています。
とてもよかったです