「あ。こいし様ぁ」
私の帰宅に一番最初に気付いたのはおくうだった。そうは言っても、おくうの姿を見た私が自分の周囲に漂わせていた無意識を解いたからにすぎない。先程まで何匹かのペット達の横を擦れ違ってきたけれど、おくうには私の帰宅を伝えておきたかった。ただいま、と声をかけると、おくうは私に歩み寄ってきた。
「ひっさしぶりですねぇ。前に会ったのって一年前くらいじゃないですか?」
「鳥頭が過ぎるのも考えものだね。三週間前に会った」
「あれ、そうでしたっけ」
まあいつでもいいですけどとおくうはぱっと笑った。こんなふうにおくうが本当に屈託なのない笑い方をする度に、私はそこに地底には存在しないはずの太陽を見る。この笑顔は地霊殿一だと、物心が付いたときから、私はずっと思っていた。
燐のはにかむような笑い方も、お姉ちゃんの口元に淡く浮かべるだけの笑い方も好きだけれど、私はおくうのように本当に底抜けに明るい笑い方が出来る人を、まだ彼女以外には知らなかった。羨ましいな、と思う。私には決して出来ない笑い方だ。
「お姉ちゃんいる?ていうか、滅多に外に出ることなんてないけどね、あのひとは」
「はい、多分今はリビングの方にいると思いますよー。さとり様は毎日本読むか寝るか私達を可愛がるかしかしないんですから」
「おくうもお姉ちゃんも見習って少しは本読めば良いのに」
「字が読めませんからねえ、私」
「あーそっか。そうだっけ」
よくよく考えてみればただの地獄鴉やら火車やらが当然のように私達と同じ言葉を喋れるようになったこと自体が驚きなのだ。今度、お姉ちゃんにペット達に字を教えることを提案してみようか。地底じゃ文字が読めなくても特に困ることはないけれど、お姉ちゃんの暇つぶしくらいにはなるだろう。
もっとも、お燐はともかくおくうに何かを教えるだなんて、並大抵の根気じゃやっていられないか。
そんなくだらないことを考えていると、おくうがふと真顔に戻った。似つかわしくないその顔に「どうしたの」と訊こうとした瞬間、だいぶ上の位置にあったおくうの顔がいきなり鼻先すれすれまでやってきたので、私は驚いて一歩後ずさってしまった。
おくうは地霊殿では一番背が高い。そんな彼女にいきなり顔を寄せられたら小柄な私としては少し怖い。
「……いきなり何ですか」
「えっと、いや。……うーん」
よく分からないことを呟きながら、おくうはふんふんと鼻をひくひく動かしていた。やや目尻がつり上がっているにしては、いつもは気が抜けたようにぼうっとしているの真っ黒な双眸が私をじっと見ている。
どうしたら良いのか分からずに私もその目を見返していると、しばらくしてから「ああ、やっぱそうだー」と言いながら私から顔を遠ざけた。
「何よ、結局」ようやく少しどぎまぎしていた心臓が落ち着いてきたので、私はそう訊ねた。おくうは私の言葉にさっきのような笑顔に戻る。
けれども次にその口から出た言葉が、再び私の鼓動を一瞬飛び上がらせた。
「いや。こいし様、血の匂いがするなあって」
私は口をつぐみ、にこにこと邪気の無い顔をしているおくうを見上げた。
「……そんなに匂う?」やや私の声のトーンが下がったことに気付いているのかいないのか、おくうはひらひらと手を振る。
「あー大丈夫ですよ。そんなにぷんぷん匂ってるわけじゃないです。でもお燐なら私より鼻利くし気付くんだろうけど」
「……びびった。なんでかなあ、返り血は浴びてないのに」
「近くにいるだけで匂いって移りますからねぇ。お燐なんて年中死体の匂い漂わせてますから。まあ私は黒焦げ死体の匂いですが」
「お燐もおくうも、別に臭くないけどなあ」
「お風呂好きですもん。けど、動物の鼻を舐めちゃいけません」
えへん、と何故かおくうが胸を張る。自然に胸元に目をやって私は鬱になりそうになった。ちくしょう。なんでこいつ頭が弱い割にはやたらといい身体してるんだ。
まあいいや、と私は内心でひとつ息を吐いた。まさかおくうに見破られるなんて思っていなかったから、意表を突かれた気分だったけれど、よくよく考えれば匂いでばれることなんて予想していても良かったはずだ。別にばれたところで何か不都合があるわけでもないけれど。
ともかく、そろそろおくうとの世間話は良いだろう。「もう行くね」とそう言いかけて、私はふともう一度おくうに視線を向けた。突然自分に向けられた視線に、おくうは不思議そうな顔をして首を傾げる。心なんて読めなくても、おくうは考えていることがそのまま表情に出るから面白い。
「あのさ」
「はい?」
私は少し考えてから疑問を口にした。
「……おねえちゃんは、気付くのかなぁ?さっき、おくうが言ったことに」
「さとり様ですかー。どうなんでしょう。覚りって私達みたいに五感がすごいわけじゃないですよね?」
「うん。人間と対して変わらないレベルだと思うけど」
他の覚りがどうなのかは知らないが、私自身は多分それくらいだろうと勝手に思っている。大体覚りというのは心が読めるという部分くらいしかそれらしいところがなくて、他の妖怪のように身体能力が長けていたりするわけではない。お姉ちゃんを見れば分かる。おくうはふうむと唸り、考えごとをするかのように少し上の虚空を眺めた。
「じゃあ、大丈夫じゃないですかね。……あー、でも。気付くかもしれませんねぇ、もしかしたら」
「……なんで?」
私の言葉に、おくうは再び視線をこちらに向けた。そしていつものように綺麗に笑って答える。
「だって、心以外ならこいし様のこと何でも分かりますよ、さとり様は」
▽
ノックもなしにドアを開けた私に別段驚くこともなく、「おかえり」とソファーに座っていたお姉ちゃんが声をかけてきた。「ただいま」約束事のようにそう返してから目に入ってきた姉の姿は、当たり前だが三週間前と何も変わっていない。腰掛けた膝の上には背が黒く腹が赤い奇妙な色の猫がくつろいでいて、私の姿を見るなりお姉ちゃんの膝から飛び降りる。床に足を着ける寸前、猫はすらりとした細身の少女の姿にかたちを変えていた。
「こいし様。お久しぶりです」ひゅん、と二本の尻尾で空を切って、赤毛の少女がこちらに笑いかける。
「うん、お燐も久しぶり。邪魔しちゃってごめん」
「いえいえ滅相もない。さとり様ぁ、あたい紅茶淹れてきますねぇ」
「いいわお燐、私がやるから」
「いーえ。ああこいし様、紅茶で良いですか?コーヒーとか緑茶とかもありますけど」
「良いよ、紅茶で」
はいと威勢の良い返事をして、お燐はぱたぱたと部屋を出て廊下を駆けてゆく。暗緑色のワンピースの背中が遠ざかっていくのを見ながら、相変わらずいい子だなあと私はしみじみと思った。
お燐は私が帰ってくると、よくこうしてお姉ちゃんと私を二人だけにしたがる。中々妹に会えない姉という立場のお姉ちゃんを喜ばせてあげたいのだろうが、ばかだなあ、そんなことをしたって別にお姉ちゃんが喜ぶわけじゃないし、姉妹仲が深まるわけでもないのに。
私達姉妹の仲は、たぶんずっとこのまま良くも悪くもならない。
「外、そろそろ寒くなってきたでしょう」
とりあえず私が向かいのソファーに腰をかけると、お姉ちゃんがふいにそう言った。「外出ないのに地上の空気が分かるの?」という私の問いに、お姉ちゃんは肩をすくめてみせる。
「暦を見れば分かります。お燐や、おくうもこのごろ外に出る時は上着を着るようになりました。こいしもそろそろそのままの格好じゃ風邪をひきますよ」
「どうだろう。お姉ちゃんが風邪をひくことはあっても、私はないと思う」
「貴女が風邪をひかないなら、私もひくことはないでしょう。同じ種族なんですから」
「お姉ちゃん、前に熱出したことなかったっけ」
「ありますよ。だから貴女も上着をちゃんと着るように」
「変な理屈」
私の言葉にお姉ちゃんはもう一度肩をすくめると、目を閉じて黙り込んだ。この人はよくこうして目を閉じて、何もせずにずっとじっとしていることがあるけれど、そんなときのお姉ちゃんを私はあまり好きではない。ただでさえ白い顔色がもっと血の気を失ったように見えて、まるで姉が人形か何かに変わってしまったんじゃないかという錯覚をしてしまうからだ。寝ている時も同様に、この人はほとんど生の気配というものを漂わせない。まるで私の無意識みたいに、自らと世界を繋げるすべての通路をかたく塞いで、水底に沈んだ石ころのようにじっと動かない。
手持ぶさたになった私は、帽子をとると膝の上に置き、同じように黙りこんだ。お姉ちゃんは決して饒舌ではなく、むしろ誰の前であってもこんなふうにいきなり口を閉じることが多いから、今更気まずさなんて感じないけれど。それでもどこか、居心地が悪いのは否めない。しかしそう言ったところで、私にとって居心地の良い場所というのはどこなのかと考えてみても、答えは到底浮かんできそうになかった。この地霊殿にある自分の部屋でさえ、たまに帰ってきては何日かをそこで過ごす宿代わりくらいにしか思っていないのだ。帰ってくる度にいつの間にかベッドのシーツも枕のカバーもちゃんと洗われたものに替えられているから、自分の寝床の匂いというものも私はよく知らない。
「こいし」
ふいに、お姉ちゃんの瞼が押し上げられてそこから紫色の瞳がのぞいた。目や髪の色に関して言えば、私達姉妹はちっとも似ていない。
顔立ちは良く見れば似ていないこともないけれど、互いに浮かべる表情に差がありすぎた。第三の目の色は……どうなのだろう。自分の第三の目が何色の瞳をしていたのか、私はもう忘れてしまった。
「何」
「外は、楽しいですか」
「……まあ、そこそこには」
唐突な質問に私はやや訝しげに答えた。そうですか、と返事をして、お姉ちゃんはまた先程までのように口を閉じる。
「言わないんだ」
「何を?」
「なるべく帰ってこいとか、あんまりふらふら出歩くなとか」
「貴女がここにいるよりも地上の方が楽しいと思うなら、無理に引き止めようとは思いません。今は時代が違いますから、覚りが出歩いても危険なことはほとんどありませんしね。外の世界を知るのは、悪いことではないでしょう」
いつも通りの無表情でさらりと言われた言葉に、微かな苛立ちの念が胸の内に頭をもたげてきた。表情には出さない。そう、とだけ口に出して、私はいつものような曖昧な笑顔を口元に保ち続ける。
そういうことじゃ、ないんだよ。別に外が楽しいとか楽しくないとか、危険だとか危険じゃないとか。そういうことじゃない。
そんなこと、全然大事なことじゃあないだろう。大事なのは、お姉ちゃんが私に--------。
「お姉ちゃん、は」
「さとり様ぁ!」
部屋に響いた場違いに明るい声に、すぐ喉元まで出かかっていた言葉を押しとどめる。お燐はぱたぱたとせわしなく、しかし決してこぼすことなくカップとティーポットが並んだトレイを運んできた。どうぞ、と紅茶を笑顔で差し出されて、もやもやと不快に蠢いていた感情が急速に勢いを失ってゆく。
ひとつ頷いて、カップを受け取った。お姉ちゃんも「ありがとう、お燐」と自分に差し出されたカップを受け取る。それから、トレイの上の砂糖が入ったガラス容器をこちらへと押しやってきた。
「こいしは、砂糖入れるでしょう」
「……うん。ありがとう」
角砂糖を三つ、紅茶に落とした。なんだか、うんと甘い紅茶が飲みたい。そして飲み終わったらすぐに、自分の部屋に戻ってベッドで眠ろう。
今はそうするのが一番良いような気がした。一口、音を立てずにお茶を啜る。自身が猫舌猫手であるお燐が淹れたことに関係しているのか、熱すぎず、丁度良いくらいの温度だった。前に熱すぎるお茶で舌を火傷したことがあるから、これくらいのぬるさだとありがたい。もしかしたら、お燐が猫舌気味の私に気を遣ってくれているのかもしれない。
私と同じようにカップに口を付けた後、「お燐」とお姉ちゃんが呼び掛けた。尻尾をゆらゆら揺らしながら、はいなんでしょう、とお燐は答える。
「悪いけど、地獄跡の様子を見てきてくれないかしら。おくうが、そろそろ休憩から上がる時間でしょう。あの子のことだからまた忘れてるかもしれないわ」
「あー、それありそうですね。分かりました、見てきます」
お燐は返事ひとつで、今度は最初にこの部屋にいた時のような猫の姿に戻ると、たたたと小走りでドアの隙間を抜けていった。当たり前だが、あの方が速く走れるらしい。けれどもそれよりも、お姉ちゃんの明らかな嘘の方が今は気になった。心の読めないお燐だって、それくらいは気付いているはずだ。
お姉ちゃんが自分から私と二人きりになろうとするのは珍しい。紅茶のカップは半分ほど空になっていたけど、「もう部屋に戻るね」の一言を私は言いそびれてしまった。
どうしたものかと考えていると、ふいに、お姉ちゃんはテーブルの上に飾ってあるガラスの花瓶から、生けてある花を何本か抜き、それをこちらに差し出してきた。
やや全体的に繊細な印象を受ける、小さな、白い花だ。
「……何?」
「あげます」
「なんでさ」
「この間、おくうとお燐が外へ行った時に摘んできてくれたものなんです」
それがどうした、と言わんばかりの表情の私に、お姉ちゃんは目を細めて言う。
「部屋にでも飾っておいて下さい。貴女もたまに帰ってくるときくらい、花でも摘んできたらどうです」
「なぁによそれ。あの二人ならまだしも、私が花摘んで喜ぶような妹に見える?」
「女の子は、常に甘い花の香りを纏っているくらいが丁度良いんです」
「いつからお姉ちゃんはそんなこと言うようになったの」
どんな乙女の偶像だ。私は少し呆れたけれど、大人しく言われた通りに花を受け取る。とても細いように見えたその茎は案外しっかりとしていて、水滴に濡れて鮮やかな緑色をしていた。
何となく、自分には一番似合わないものを貰ってしまった気がして、私は立ち上がる。
「……じゃ、私、部屋に行くね」
ともかく、このまま花を握り締めていてもどうにもならないだろう。けれども部屋に戻る理由が出来たと私は少しほっとして、膝の上にあった帽子をまたかぶると、さっきお燐が出て行って中途半端に空いているドアに手をかけた。
ちらりと後ろを見れば、お姉ちゃんはまたいつの間にか目を閉じている。眠っているようにも見えるが、まさかこんな短時間で眠り込むことはいくらお姉ちゃんだってありえないだろう。
何はともあれ、この花をどうにかしなければならない。ドアをぱたんと閉めて廊下に出た途端先程、よりもほんの少し空気が冷えた気がした。地霊殿は全体的に暖かいのだから、多分気のせいだろうけど。
柔らかい花弁を傷付けないように指先で弄びながら、廊下を歩く。いつの間にかさっきはちらほら見かけていたペットの姿は一匹も見えなかった。
よくよく考えてみれば、私の部屋に花瓶なんてものはない。マグカップか何かで良いかなと思いながら、私はそっと鼻先に白い花弁を近付けてみた。控えめな外観に似合わない甘ったるい香りが、ふわりと鼻腔に漂う。
その香りに同調するように、ふっと、先程お姉ちゃんが口に出した言葉を思い出して、一瞬、思考が止まった。
(……あ)
女の子は、常に甘い花の香りを纏っているくらいが丁度良いんです--------
そうか、気付かれていたのか。
今更ながらに気が付いて、力の抜けた手のひらからこぼれた花が私の足下にぱさりと落ちてきた。
▽
「……お燐。お帰り」
猫の姿のまま部屋に戻ってきたお燐は「にゃあ」と一鳴きして、私の足に身体を擦り寄せてきた。腕を伸ばして背中を撫でると、私の周りを一回りしてから座り、じっと私を見上げる。
どうやらおくうは実際に仕事のことを忘れて部屋で寝ていたそうだ。お燐を行かせて正解だったらしい。
「そう。ありがとう」
自らの膝の上をぽんぽんと叩くと、お燐は嬉しそうに飛び乗ってきて、先程のようにそこで丸まった。ごろごろと、耳を寄せなくともはっきりと分かるくらいに喉を鳴らす彼女に私は少し笑い、ゆっくりと耳の後ろ辺りを指でまさぐってやる。
そのまま、ふうと小さく息を吐いた。なるべく聞こえないくらいに微かに息を漏らしただけのつもりだったのだが、お燐には聞こえていたらしく、耳をぴくりと動かしてから私を見上げる。さとりさま、どうかされたんですか。そんな声が聞こえた。
「ああ、別に何でもないのよ」
小さく手を振ってそう言う。お燐はまだ何か言いたそうにしていたけれど、しばし迷った後に再び顔を前足の間にうずめ、瞼を下ろした。あれこれ言及されなかったのはありがたい。こんな時、ここにいたのがおくうの方なら、あるいは悪意無しに訊ねられていたかもしれないが。
「……ええ。何でもないの」
今度は自分に言い聞かせるように。
小さく呟いた声にお燐は耳をぴくりと動かしただけだった。柔らかい毛並みを撫でる手だけは止めないようにしながら、私は背もたれに深く寄り掛かって目を閉じる。
視界が暗転する寸前に見えた、テーブルの上にある飲みかけの紅茶のカップと、花瓶に生けてある半分程減ってしまった花の白が、しばらくの間網膜に焼き付いて離れなかった。
fin.
続いたりするんだろうか
淡々と流れるような冷たいお話。大好物です。
最後の一文、すごくよかったです。
後味の悪さがほろ苦い。好き嫌い別れそうかなー。
続編とかあったら嬉しいですw
静かな物語を堪能しました。
いつか花の匂いを纏って帰ってくるようになればいいですね。
このような静かな終わり方は大好物です