ミスティア・ローレライの屋台に歌声が鳴り響いているのはいつもの事である。
それ自体は、いつもの事だ。
「お、やってるやってる」
森を突っ切る夜の道、その傍らに優しげな橙色の灯りを認めると藤原妹紅はいくらか頬を弛めた。
「先客、かな」
視界に入ったカウンター席には、座る影が一つだけ見える。
誰だろう。妹紅は腰を少し屈めた。
のれんの下から、薄紫色の髪が見えた。
「輝夜んとこの兎か」
鈴仙・優曇華院・イナバ。その不景気な顔を思い出す。
そいつは何時でも何処でも──だかどうだかは知らないが少なくとも妹紅の前に出て来る時は常に、そんな顔をしていた。
「ちょっと後ろ暗い過去があるのよ、ね」
あるとき輝夜はそう言って鈴仙の頭を撫でた。鈴仙は黙って撫でられていた。
ちょっと待て、「後ろ」は余計だろ。ツッコミ所だそれは。「暗い過去」なら恰好も付くが、「後ろ」を付けると台無しだ。それとも本当に後ろ暗い過去があるのか?
とにもかくにも、そんな不幸体質で苛められオーラ全開の兎である。
今日のように屋台に出没する事も少なくないようで、話を聞かない事で有名な女将に愚痴を漏らしている所を妹紅は何度か目撃している。
それ自体は悪くない。
第三者として他人の愚痴を聞くと、自分が愚痴ったような気分になって少しだけすっきりするのだ。
いつも通りだ。
全てが。
「あ、も、もっもももこもっ」
「やあ女将さん、座るよ」
カウンターの脇に立つと、出迎えた店主は目を皿のように丸くして、口をぱくぱくさせながら妹紅を見上げた。
「別にお前を焼き鳥にしたりはしないってば」
妹紅が焼き鳥屋を名乗っているのはあくまで、世を忍ぶ仮の姿としてである。毎回誤解を解いているはずなのに、さすが鳥頭。
「あと、人の名前をいつまでもスクラッチしない」
ぴん、と妹紅はミスティアの額を弾く。
するとミスティアはくらりと怯み、そしてしばらく悩んだ後、口の形を少し変えた。
「ちっちちんちちち」
「黙れ」
大事に至る前に、妹紅はチョップでミスティアを地面に沈めた。
やれやれ。
本当に、いつも通りだ。
そして、聞こえる歌は何処までも能天気で……
「え?」
そこで妹紅はふと気付いた。
屋台の中からは歌が聞こえる。
そして、歌好きで有名な女将はそこの地面で伸びている。
妹紅は慌ててのれんに首を突っ込んだ。
どう見ても、不景気妖怪・鈴仙の後ろ姿しかない。
その後ろ姿はゆらゆらと、曲のテンポを取るように左右に揺れている。
「たっ、たた、大変なの」
女将が顔だけを起こし、青ざめた顔で言った。
「見れば分かる」
妹紅は応えた。
笑みは消えていた。
とにかく、基本的には全てが正常なのだ。
鈴仙の顔ただ一点だけを除いて。
へにょへにょとした耳が風に揺れる様は、まるで野に咲く花のよう。
表情は煮すぎたおでんのように弛緩している。
特に輪郭は酒のせいで色付いているのと相まって、桃色のはんぺんを彷彿とさせる。
これをスケッチしてゆるキャラとして売り出せば、ちょっとした儲けになるかもしれない。
鼻から漏れるリラックス感と眠気を誘うメロディ。自身の音波操作によって、ミスティアと比べても全く遜色ないレベルになっていた。だがミスティア本人はというと、それに対抗意識を燃やしているような余裕はない。
鈴仙とは一つ間を空けて座った妹紅に、店主はカウンター越しに顔を寄せて内緒話の態勢である。
二人ともが完全に真顔で、時折ちらちらと鈴仙の方に目をやりながら。
「頭打ったとか、悪いもの食べたとか」
「それ、よく言うけど。そんな事で人格が変わった奴なんて見た事ないよ」
「じゃあ、やっぱり地球が滅ぶ前触れ?」
「かも知れない。けど諦めちゃ駄目だ。考えろ、ここは幻想郷、あり得ない事を起こす輩がごまんといるんだ……」
「うーん、変な食べ物でもショックでもなくて、妖怪がおかしくなっちゃうような……」
そして二人は同時に、茶壺のポーズで掌を叩いた。
「狂気の瞳!」
「へいお待ち、串揚げでーす」
「あ、どうもー。あれ、どうしてスプーンなんか付いてるの?」
これまた普段からは考えられないような愛想を返す鈴仙は、それを見て少しだけ首を傾げた。
四角い陶器に見た目よく盛り付けられた串揚げには、何故かスプーンが添えられている。
鈴仙はそれを手に取り顔の前にかざした。
何故か、執拗なほどに丁寧に磨かれていた。
鈴仙の顔、瞳が、はっきり映る程に。
「えっと、その、永遠亭はこの前まで交流なかったから、何か食事に関して異文化かなあと思って」
「ああ、インド人はカレー食べるのにスプーン使わないんだよね。って、それ永遠亭を何だと思ってるのよー」
ノリツッコミだ。ありえない。
「あ、あはは。ところで、何ともない?」
「? 別になんとも。どうかしたの?」
「…‥えと、その、そうだな……あ、お客さん、顔にお弁当付いてるよ」
「え、嘘……付いてないよ?」
鈴仙は傍らの荷物の中から、普通に鏡を取り出し覗き込んで応えた。
友禅のストラップが付いていて、いかにも日常的に使い込んでいるといった風情だ。
「あわ、ごめん気のせい、えっと」
「変な女将さん……わあ、サクサクだぁ」
取り乱すミスティアを後目に、鈴仙は串揚げの食感に舌鼓を打ち、さらに顔をとろかせた。
「やっぱりおかしい。あいつはあんなおおらかな性格じゃないはずだ」
「でも鏡は全然平気だったよ」
「だね。よく考えると、鏡見る度に狂ってたら日常生活なんて送れない。となるとやっぱり地球滅亡かしら」
ぞわっ、とミスティアが総毛立つ。
鈴仙以外なら冗談でしかない話だが、彼女を知る者の間ではこのリアリティだ。
鈴仙・優曇華院・イナバ。
世界の憂鬱さと、苦悩と、上手く行かない部分を一身に背負ったような存在。
それがこんなに穏かだと、あたかも世界が色々と諦め滅びを受け入れたように感じる。
ああ、もう疲れたよ。ココロがとっても穏やかなんだ。ボクはセカイを滅ぼすね。まあボクが世界なんだけどな。世界がセカイ系の主人公だったら、一体何を滅ぼすんだろう。普通の自殺だ。
あながち間違いじゃないかもしれない、と妹紅は椅子から腰を浮かせた。
どかっ、と妹紅は席を一つずらし、鈴仙の隣に腰掛けた。
そしてミスティアが、厨房を一時辞して反対側に座る。
「なあ、優曇華院さ」
「ふぁーい……って、妹紅!?」
「今気付いたのかよ。まあいいや、とりあえずさ、今は休戦でいいじゃん。輝夜もいなんだし」
「……そうね。でもその優曇華院っていうのは止めてよ」
「分かったよ、優曇華院」
「ぶー」
やめろ、可愛げにほっぺた膨らますな、世界滅ぶ。
妹紅は一瞬だけ無言の時間を作り、それからゆっくりと口を開いた。
「優曇華院さ、よく頑張ったと思うよ」
鈴仙は、え、という顔になって。
それから、少し恥ずかしそうに下を向いた。
「飲んで、いいお酒があるから」
そう言って、ミスティアは一升瓶から檜の升一杯に酒を注いだ。
「八意の奴が言ってた。お前の能力って、本当は凄いんだってね」
能力。波を操る程度の能力。
光は波動、物質も波動である。のみならず、時間も空間も波なのだ。世界の全ては波で出来ている。その波を操るという事は、この世界自体を操れるに等しい。
しかし、普段その能力は耳栓代わりだとか、よく分からない所との交信だとか、自分の撃った弾を当たりづらくする為だとかにしか使っていない。
不可解である。
何故か。それはひとえに、今我々が見ている鈴仙の能力が、氷山の一角にすぎない事の証左に他ならない。
そう、実は見えない所で、彼女は常に能力を発揮し、世界を維持しているのだ。
幻想郷を管理する八雲紫に比肩するか、あるいはそれ以上。聞けば我々の世界は、何の関係もない数同士が32桁もの精度でぴたりと一致するという、途方もないバランスの上に成り立っているらしい。それが崩れれば、世界の全ての粒子が重すぎて存在できなくなり、世界は光以外何もない場所になる。そのバランスを取っているのが鈴仙であると、そんな仮説はどうだろう。
究極理論と精神の世界で。
いつでも一人孤独に。
「私の能力……そっか、師匠、私の事そんなふうに……」
酒のせいとは違う感じで、鈴仙の頬が赤らんだ。
「一人で、がんばってたんだな。言ってくれればよかったのに」
「やだぁ、二人とも、そんな私は……」
あれ、何か話噛み合ってなくない?
脇のミスティアだけが、少し疑問を感じた。
そこへ。
「お、揃ってるようだな」
「あ、けーね先生だ」
現れたのは人里の守護者・上白沢慧音。
「おお、鈴仙を囲んでるのか。まあ、今日は特別な日だからな」
「そっか、慧音も、知ってるんだね」
「ああ、知ってるも何も……って、妹紅、どうした」
妹紅は肩を落とし、清々しい顔をしていた。
「慧音、どう特別な日なのか聞かせてよ」
「お前たち知ってたんじゃなかったのか?」
「これから聞くんだ。私たちの世界がどうなっちゃうのかさ」
「一体何を言って……」
そこで慧音はふと傍らを見た。
座る三人の中で、鈴仙の顔を後ろからでなく、初めて直接見る形になり。
吹いた。
「ぶっ、鈴仙お前、凄く珍しい顔してるぞ」
「え? え?」
「これでもかって位ニヤけてる」
鈴仙は両頬に手をあてた。
これまた、今初めて気付いた様子だった。
「珍しいな、珍しすぎる。これは天変地異の前触れと言われても……ん?」
そして、妹紅に視線を戻す。
一度、頷く。
「話が読めた、な」
「うん、私も読めた」
ミスティアも続けて頷いた。
「ど、どういう事?」
鈴仙が明らかな戸惑いを見せる。
「お前の顔が、元凶だ。妹紅、お前が思ってた事を言ってみろ」
妹紅はつらつらと今までの事を語って聞かせた。
鈴仙の頬が、既にかなり赤かったのだが、さらにみるみる紅潮した。
「ひ、酷っ!!」
「ちなみに私から説明するが、鈴仙は初めて、一人で患者を持ったんだ」
何という事もない話だった。
薬師として、これから幾度となく体験するであろう事の、ただ今回が最初の一回だったというだけの話だ。
「お婆ちゃんでね、リウマチだったんだけど、師匠に話したら『あなたが持ってみなさい』だって。で、具合を聞いて薬を変えたり頑張って、今日ついに立っても大丈夫になって」
「八意殿は基本的に永遠亭から出て来られないからな。薬売りの鈴仙が薬の処方まで出来るようになれば、人里も変わるというものだ。にしても」
そこで鈴仙は再び顔を覆った。
「ふ、二人とも趣味悪いよ。私の顔をそんな面白がってたなんて」
「いや、それは謝るけどさ」
顔上げてよ、と妹紅が言い、鈴仙は少し渋ったが言う通りにした。
「その顔、いいよ」
妹紅は言った。
「うん、すごくいい」
ミスティアも続いた。
「うー」
再び顔を伏せようとする鈴仙の肩を、慧音が持った。
「二人の言う事は一理あるぞ」
どうせなら、笑っていた方がいい。
いつもの不景気な顔よりはずっと。
慧音が、妹紅が、ミスティアがそう言って、鈴仙を囲んだ。
鈴仙は戸惑ったが。
ゆっくりと、目線を上げた。
「ど、どうかな……」
笑顔を作る。
その笑顔は少しはにかんでいて、そしてトマトのように真っ赤だった。
やや暴走気味のもこたんがいい
あ、うどんもかわいいよ、うどん
まあ俺は成功したことないけどね
なに一人で笑ってんの? なんて問われたことがどれだけあったことか。おかげで鈴仙の胸の内が手に取るように判ります。
鈴仙の様子をおでんの具で表現する辺り、屋台での出来事なんだなって情景が思い浮かびました。
惜しむらくは、もう少し地の文での表現が欲しかった。いえ、完全に自分の好みの押し付けです。だって折角鈴仙が可愛いんだからさぁ。なんて。