【彼女の黄昏とプラスチックダイアローグ/Fetele de casă(愛玩少女)】
――――――――魔法使いが夢の話をしたら注意するといい。それはただの与太話ではないかもしれない。魔女と魔術師であっても同じ事だ
【形影相弔う】
なんだか切ない夢を見た。
見ているときは幸福で、起きるとそれが嘘になる。
そんな切ない夢を見た。
【人体は自ら撥条を巻く機械であり、永久運動の生きた見本である】
――――――――思い出したの?私の可哀想な人
[少女アリス]
アリスはいい加減ウンザリしていた。
どうしてここにある本はどれもこれも重たいのだろう。おまけに文字ばっかりだ。もう少し図や絵があれば、理解はあと三倍は速くなるのに。こんな調子だからいつまで経っても姉たちに軽く見られたままなのだ。ぱたんと本を閉じて、焦げ茶色の背表紙を指で撫で上げる。古書の紙は一枚一枚が分厚くて、小さなアリスの膝はその重さに痺れを感じていた。休憩をしよう。効率の上昇にはそれが必要だ。投げ出していた両足から本を除けて床に置くと、横に置いてあった室内履きを引っかける。
――――――――チャイが飲みたいな。面倒だけど、夢子さんは淹れてくれるかな
駄目なら自分で淹れるしかない。
お茶の準備ぐらいはこの前教わったけれど、どうせなら美味しい物が飲みたいものだ。
受けの良さそうな言い方はどんなかなぁと悩みながら、アリスは書庫の螺旋階段を降りていく。
タルト、エクレア、バームクーヘン。カトルカールにブラウニー。
即興歌なんかを響かせながら、アリスは本の間を歩く。いつの間にか飲み物よりも、そのお茶請けの方に心が移っているのが微笑ましい。途中の廊下で蹲っていた猫に訊けば、夢子は今は謁見の間にいるという話だった。
「そう……お母様(ママ)に会っているの」
ならば邪魔をするわけにはいかない。
神綺の仕事中は近づかないよう言いつけられているし、とりわけ謁見の間は、アリスの出入りが許されていないのだ。
――――――――そうでなくても夢子さんは……
首を振る。考えても栓のないことだ。
あんまり笑ってくれないあの人は、それでもいつだって親切にしてくれているのだから。
「ママって言うのも気をつけなきゃね」
「神綺様とお呼びなさい」そんなしかめっ面の固い声が、今にも聞こえてきそうだ。敬意を払うべき神綺はまったく気にしていないが、夢子がいろいろと五月蠅いのだ。怒らせると厄介だから、アリスにとっては誰よりも気を遣う相手。それでもいい人だとは思う。少なくとも彼女はアリスに不当な仕打ちをしたことは一度もないのだから。
フトウナシウチ。頭を掠めた言葉を舌に落とし、転がしてみる。モノに出来ていないなぁとアリスは思った。知っているけれどわからない言葉がアリスにはたくさんあるのだ。
アールグレイとレディーグレイの缶を見比べて、結局レディーの方を選んだ。
全体的に淡いブルーの缶に、浮き彫りで書かれた兎が大きな懐中時計を覗き込んでいるのが可愛いというのが決め手である。
アリスは可愛いものが好きだった。
「いち、にー、3杯でいいかな。うん」
小鍋が見つからないのでチャイはあきらめた。一人だからポットではなくメリオールにしようかと思ったが、あれは美味しくないので止めよう。ミルクを入れても苦いし。今回はティーストレーナーを使うことにする。あと、砂糖はどこだろうか。
みんなの前ではミルクだけにしているアリスだが、一人の時と神綺と一緒の時は砂糖を欠かさない。アリス以外のみんなはストレートかミルクだけだから、それに合わせているのだ。別に大人に見られたいとかそういうわけではない。自分一人の為に砂糖を用意させるのは気が引けるし、何よりもそれを夢子に頼むのがたまらなく億劫なのだ。こういう微妙な心理を、姉達の誰もわかってくれない。アリスも面倒だから言わないけれど。その分神綺と一緒の時は問題なかった。神綺はそういったいかにも子供らしい様子を見るのが好きで、それがわかっているアリスは彼女の期待に応えるのだ。好きな物は甘いもの、嫌いな物は辛いものと苦いもの。マシュマロのような仕草と金平糖のような笑い声。可愛らしい服のポケットにキャンディをいっぱいに詰め込んで、アリスがヌイグルミ達と戯れていれば神綺はご機嫌なのだ。本当なら読む本も魔導書ではなく絵本の方がいいのだと思う。
熱盤にケトルを置いてコックを捻る。ムーブメントがカチカチと音を立てて、回路にしっかりと力が回ったのを確認する。ケトルはそれほど大きくないから、強火から中火に調節してから指を離した。
「夢子さんの言うとおり、ちょっと魔法で火が出せたって、そんなの道具の方が早いし疲れないわ」
魔法にしか出来ないことじゃなきゃ、魔法の意味がない。例えば、こう、なんというかきらきらとした感じの、とか。とりあえず派手な色の光をたくさん出せば魔法っぽいかなぁと思う。
――――――――空を飛ぶのだってまだぎこちないし
自分一人弱くて無知で、時々心底嫌になる。だからなんだろう。アリスにだけ、なんの役目も与えられていないのは。じっと手を見る。子供の手だ。魔導書を一冊握るのも、ままならない小さな掌。神綺は何故アリスをこんなにも弱く創ったのだろう。それとも、今はまだ自分が幼く未熟なだけで、いつかは認めてもらえるのだろうか。あるいは、あの人達にもこんな時代があったのだろか。
怖い夢をみて眠れなくなった夜、夢子の目を盗んで神綺の部屋まで行ったときの、彼女のの瞳の色を思い出す。膝に乗せてもらい、頭を撫でられた感触を。誰の目も憚ることない、二人きりの時の神綺は温かくて優しくて。そしてなにより、アリスの全てを許してくれそうな笑顔を絶やさなかった。彼女はその慈愛に満ちた声で、アリスを喜ばす言葉を惜しげもなく与えてくれた。とてもとても嬉しくて、こんなにも大切にされている自分は、ひょっとしてこの方にとって少しだけ特別なのではないかとすら思った。誇らしかった。
でも、それはつまるところ、アリスにはなんの期待もしていないからなのだろうか。
にゃあ。
何かやわらかいものが足にぶつかってきた。見ると、真っ黒い猫が額をすりつけて、しっぽをゆらゆらと揺らしている。餌を無心しているのだろうか。にゃあ。もう一度鳴いて、アリスをじっと見る。生まれてまだ半年も経っていない子猫の虹彩は、ぼんやりと青い色をしていた。この子の母親のはペリドットのようだったから、この青はそのうち緑に変わるのかもしれない。なかなか利発そうな眼だと思う。実際はなにも考えていないんだろけど。柔らかい毛先が肌にこそばゆい。
「そういうのは夢子さんにしなさいよ。そんな声出してもダメなんだから。わたしなんて、ひょっとするとアンタたちと変わんないかもしれないのよ?あの人たちにとっては」
みぃー。
子猫は高い声を出す。貴女が憂鬱なことぐらい、ちゃあんとわかっていますよとばかりに頷いて見せる。しゃがみ込んだアリスの頬をぺろりと細い舌で舐め上げて、そのあとにスンと鼻を鳴らした。紅茶一杯飲むのによくそこまでネガティブになれますねぇとでも言いたげだった。生意気だなぁ。廊下にいたのとは違い、これはアリスの言葉を理解できない猫なのに。
「外来種がモデルだっけ?」
オリジナルが神綺のものでない生き物。
それを真似たと言っていたような気がする。
よくは知らないけれど。
ここから出ることを許されないアリスには知らないことだらけだ。
「やわらかいなぁ……カンタンに壊れせちゃいそう」
カップを両手で持つと、指がじんわりと温まった。アリスから餌を貰えないことはとうに悟っただろうに、子猫は依然傍から離れずにごろごろと喉を鳴らしている。時折ちらりと様子を窺うのが意味ありげだ。生意気だけど可愛いので、膝に乗ることを許可してやる。
膝上で丸くなった真っ黒い物体に眼を細めて、アリスは紅茶をちびちびと舐めるように飲み込んだ。
「早く夜にならないかなぁ」
そうすれば、またあのやさしい手が頭を撫でてくれるだろうから。
【MIF or MIA】
ぎゅっと、十本の長い指が肩をつかんだ。
[Alice]
結局あれから子猫はアリスに懐いた。小さな頭をアリスの足に擦りつける黒描を見て、神綺は頬を弛ませて喜んだ。柔らかく淡い金色をした髪に指を絡め、この猫の世話は貴女がしなさいと宣った。猫にするのと同じような手つきだと思った。
そんな考えをおくびにも出さず、アリスは望まれるとおり「はい」と言う。そうすればこの人は喜んでくれるのだとわかっていた。「お任せ下さい」と花開くように微笑んだ。こんなことでも初めての役目だったから。だから、嬉しそうに神綺が笑んだのを見たとき、アリスも同じくらい満足だったはずなのだ。
「なまえはなんとしましょう」アリスが訊いて、
「ダイナがいいわ」神綺が答えた。
やわらかくアリスを抱きしめて、魔界の神はそう決めた。
ダイナは賢い猫だった。
上手く生きるということに関して言えば、ひょっとするとアリスよりもずっと賢明だったかもしれない。母親と同じペリドットの瞳を油断無く使うことに長けていたし、含むところの多い姉の機嫌もよく読み取った。必要以上に媚びを売ることもなければ、ワガママを言う相手を間違えたりもしない。砂糖一つ満足にねだれないアリスにしてみれば、ダイナのそれは脱帽ものだ。もしもアリスが餌を用意し忘れても、ダイナは一週間は苦労しないだろう。
でも、それなら何故世話役に自分を選んだのだろうとアリスは疑問に思う。そう、決定したのは神綺でも、最初にアリスを選んだのはダイナの方だ。アリスには自分が選ばれた理由がわからない。私がダイナなら、と考える。絶対私を頼ったりなんてしないのに。
「それは、貴女が一番不真面目だからでしょう」
床を拭く動きを止めることなく、魔界一モップの似合うその人は言った。
「不真面目?」
「そうです。貴女はとても不真面目ですよ」
声に悪意は無いようだった。それでも言葉の内容を歓迎していないことは明らかだった。
アリスは夢子に淹れて貰った紅茶を大儀そうに一口啜り、彼女の言葉を反芻する。
それから暫く経つと言った。
「わかりません」
可能な限り殊勝な表情を浮かべて見せて、カワイラシク小首を傾げる。
「夢子さんは、わたしのどこを不真面目と思っているんですか」
夢子の下した評価はまったくの心外であったが、アリスにも心情そのままを顔に出すといった愚行を避ける程度の経験と頭はあった。問われた夢子はようやっと手を止め、彼女にしては大変珍しいことにアリスと視線を合わした。
「貴女は馬鹿ではありませんね」
「そうですか」
「そうです。だから、そのように愚かしさを演じられるのは不快です」
「…………」
「否定しないのですね?」
「そう、ですね」
笑いが漏れた。何のごまかしにもならないことはわかっていたけど。まいったなぁと思う。今日の会話はもっと楽に済ませるはずだったのに。一日一回は姉妹達と交流を持つことが神綺の望みみたいだから、アリスはそれを叶えてきた。でも、いつもいつも、あんまり楽しくないのだ。とくに夢子相手だと、こんなふうにすぐに地雷を踏んでしまう。紅茶は美味しく飲みたいのに。
「往生際が良いのは美点でありますが」
カップが空になったことに気づいて、夢子は常備携帯している濡れタオルで手を拭い、アリスが何か言うより前に二杯目の紅茶を注いだ。急に放り出されたはずのモップはしかしぴたりと空中に固定されていて、主が自らの分の一杯を用意してる傍で静かにしている。アリスは心中で顔をしかめ、そしてそれ以上に驚いた。目の前の椅子が引かれ、その人はそこに腰を下ろした。夢子が珍しく、いや、初めてアリスと向き合おうとしていた。
「貴女は少し自由が過ぎる。そういうところが不真面目だと言うのです」
大人の女性の形をした手が立て続けにシュガースティックの封を二本切り、それを自分とアリスのカップに注ぎ込んだ。アリスは目の前で起きた信じがたい事態に目を見開いたが、夢子が続けて何もない空間からミルクポットを取り出して、紅茶を白茶にし出したときはぽかんとした表情で口も開けるはめとなった。
「なにか不満でも?」
彼女の声はいつもどおり静かであった。
「まさか自分はMIF派だから、こんな紅茶は飲まないなんてことはありませんね?」
「それは、もちろんそんなことはありませんけど」
いただきますとなんとかそれだけを口にする。
アリスが飲むのを確かめてから夢子もカップを傾けた。
「自由すぎるというのは、貴女がそうやって悩んでいる状況そのことです。貴女は現在自分の在り方に悩んでいる。それは可笑しな事です」
「私たちには神綺様がいるのに」
夢子の手が伸びて、仄白い甲で肌を撫でられる。一瞬前まで暖かな茶器に触れていたのに、彼女の手はひんやりとしていた。爪を少しも伸ばさず、短く切りそろえられた指はアリスを傷つけない。だからじっと彼女の次の言葉を待つ。
「アリス」
彼女の唇がそう形作るのを、アリスは不思議な気持ちで見つめていた。それぐらい、夢子が名前を呼ぶのは珍しいことだったから。ダイナの方がまだ呼ばれているかもしれない。この人にとって自分は猫以下なのだと思ったこともあるくらいだ。
私は甘く鳴けないから。
「水は器に順うものなのに、なぜ貴女は自分の在り方に疑問を持つのですか?あの方の意向に背くのですか?」
真面目な色を湛えたまま、彼女の黄金の眼は歪んだ。
[反転]
――――――――あなたは愛される為だけの存在なのに、それで満足しないから傷つくのですよ
[夢子]
「水は器に順うものなのに、なぜ貴女は自分の在り方に疑問を持つのですか?あの方の意向に背くのですか?」
意味のない指紋が刻まれた指の腹が、困惑したアリスの頬を軽くつまんで、夢子は子供特有の柔らかさにふと感心したように目を細めた。それからわざとらしく「ふむ」とも「ほう」ともつかない唸りを上げた。そうすることで目の前の存在の特異さを改めて確認したとでもいうかのように。そのまま指を口へとずらして差し入れ、内側からの感触を確かめてもよかったが、さすがにこれ以上はあの方が許すまい。名残惜しい気もしたがアリスの頬を解放する。本当はここで一緒にお茶をすることだって、今日の私の予定にないことなのだからと言い聞かせて。
咳払いの後、会話を再開させる。
「貴女は勘違いしているようですが私は、いえ、私たちは貴女を嫌ってなどいませんし、邪魔だとも思っていません。思うはずがないのです」
より正確に言えば、「思えるはずがない」のだが、そんなことまでこの幼い魂に知らしめなくても良いだろう。アリスが思案顔で眉を寄せたのを確認してからそっと紅茶を啜る。夢子は出来ればこの救いのない感情は口にしたくないのだ。そして口にすべきでもないと信じている。カップの影に隠れて唇を湿らせると、やや神経質なほど慎重に言葉を選んでいく。こういった手合いには慣れていない。簡潔な説明なら得意なのだが。
「つまり私はこういうことを言いたいわけですよ。アリス、貴女は何も悩まなくて良いのだと。何かわからないことがあれば、ただあの方―――神綺様に指示を仰げばいいのです」
それが幸福なのだと言ってやる。幼い少女は物言いたげに夢子を見ていた。夢子にはわからない。やはり彼女は「違う」のだろうか。だからこんなにも、自分は心穏やかに過ごせないのだろうか。夢子はアリスの言動が不安なのだ。あるいは不憫に思っているのかも知れない。拠のない心の揺らぎを、その言葉や行動の端々から見つけてしまえるから。その度に不思議に思う。あの方は何故この娘をそのように創ったのだろうと。あの方は完璧のはずなのに。なのに、何故アリスだけがこうも迷いに満ちた目をしているのか。自分たちは、その役目の内容以外の事は、至って気楽で自分勝手にあるべきなのに。
ふと、少し怖くなる。ひょっとするとそれこそがあの方の狙いなのだろうか。ならば今自分が行っているこれを、あの方は良くは思わないのではないだろうか。たちまちアリスに言った言葉に自信がなくなっていく。もしそうであれば、この紅茶一杯にどれだけの罪が融け込んでいるのだろう。
いいやと内心で強く首を振る。
そんなはずはない。自分はあの方の望み通り動いているはずだ。それが自分のはずだ。他の姉妹達がそうであるように。そう自分に言い聞かせはするが、夢子の気分はいっこうに晴れず、鼓動は落ち着かなくなる一方だった。
ポットもろとも紅茶は冷えていく。そろそろ時間だろうか。言いたいことは言ったのだ。いつまでもこうしていてもしようがない。夢子は手早く茶器やスティックの入った砂糖壺を片付け、唐突に目の前からテーブルが消えて驚いてる少女に視線を合わせる。威圧を与えないことだけは気をつけて。
「私はもう行きます。そして貴女は図書室に向かう。これを」
少女の手には余りそうな鍵を握らせる。
「第三図書の閲覧許可がおりました。新しい発見があるかもしれません。神綺様に感謝して励むように。いいですね?」
そうして、長く待たせていたモップを掴むと、逃げるようにその場から離れた。ただ、今度からはみんなとお茶をする時も、アリスのために砂糖を用意して置こうと心に決めながら。視界が変わる刹那、ありがとうという幼い声を聞いたかも知れないが、それを確かめることはできなかった。
あとには転移を覚えていないアリスが残された。
【Wee Willie Winkie】
――――――――ナイトガウンで行ったり来たり
[神と小鳥]
「そんなところでどうしたの?さあ、私の膝は空いてるわ」
忍び足でやってきたアリスに、神綺はいつものように笑いかける。その言葉にぱっと表情を明るくすると、柱の影から抜け出たアリスは小走りでその人の胸に飛び込んだ。揺り椅子に深く腰掛けた神綺にぎゅっと腕を回され、アリスは心底幸せな気分で目を細める。ほうっと深呼吸の要領で溜息を吐いた。その呼吸に合わせるように頭を撫でられる。優しい腕、優しい手。アリスにとってこの世界のどこより安心できる場所。嬉しくなって、アリスも短い腕をめいいっぱい広げ抱きしめ返した。ふふ、と耳を擽る笑い声が降ってくる。
「今日はずいぶんと甘えたさんね」
神綺の声にはからかいと喜びが合わさってひどく満足気だった。そこに込められているものが愛玩のそれであっても今この時だけはアリスも構わなかった。
「どうしたの?」
抱きついたきりアリスが何も言わないからだろうか。やや怪訝そうに神綺は訊いた。親しげに甘く、なにより懇ろに温かく。アリスが自分の名を知るより前から魂に刻んでいた声で。夢現にたゆたいながら、この声の人に会うのだと、それだけが自分の生まれてくる理由だと感じた声で。すぐには言葉を返さないアリスに、仕方なく神綺は我が子の腋窩に手を差し込んで、子猫を抱き上げる要領で顔を覗き込む。
「アリスちゃん?」
「………ぁ」
腕の長さの分だけ温もりから離され、やすやすと掲げられたアリスは少々不満げで、むっとした表情を隠さずに神綺を見下ろした。そんな様子すら愛おしいと見えて、面白く無さそうに細められた視線に自身の両目をぴたりと合わし、かえってその人はご機嫌そのものだった。あんまりにもご満悦なので、視線を合わされた少女は許さずにいられなくなる。しかたないなぁという気になってしまう。
「こわいゆめをみたの」
「そう。どんな夢?」
そんなことだろうと思ったという顔の後、アリスの心をその悪夢から解放すべく、すぐに神綺はいたわる表情を浮かべ直した。
「まっくらで、さむくて、いたくて、かなしいゆめ」
真っ暗?と神綺は聞き返した。夢を見たのに真っ暗なの?と。
「うん」
問いを肯定しながら、アリスはどうして夢は「見る」だなんて言うのだろうと思った。
音も、味も、手触りも、匂いも、全部が全部ちゃんとあるのに。
ちゃあんと在るのにね。
重く沈んだ声は深刻な青色をしていて、神綺は思っていた以上にアリスが精神を消耗しているらしいことを把握する。頭上より高く上げていた腕を下ろし、アリスを再び膝上に座らせてやると、穏やかな調子で話の続きを促した。
「真っ暗で、寒くて、痛いのが悲しかったから、怖かったのね?」
「ううん。それだけじゃないよ。それがこわかったんじゃないの。……ん、それもこわかったかもしれないけど」
あのね、とアリスは神綺を見つめた。
「なきごえが、きこえたの」
「泣き声?」
「うん。おとこの人の、すすり泣くこえ」
それがかなしかったの。
なにも見えないことよりも、いたいことよりも、さむいことよりも、それがいちばんかなしかったの。
「そんなゆめをみたの」
その時の気持ちを思い出したのか、アリスは神綺の首に腕を回して、小さな体を母へと甘えさせた。夢には全部あったけど、同じぐらい何にも無かったから。空っぽだったから。なのに悲しくて悲しくて、それが体中いっぱいに広がっていくのが怖かった。目が覚めたとき顔は濡れていて、しかもやっぱり暗かった。夢が終わっていないみたいでびっくして、アリスは思わずベットを飛び出してきたのだ。走っている間に自分の状況を思い出したから、神綺の部屋に来たときは涙もすっかり乾いてはいたけど。
「お母様(ママ)」
「はい?」
「ぎゅって、してください」
「はいはい」
お安いご用とアリスを抱きしめる。
「大丈夫。この腕の中にいる間は、なんにも怖い事なんて無いんだから」
両腕でアリスと世界を区切るように抱きしめる。神綺にしても決して大柄な方ではなかったけれど、苦もなくそれが出来るほど、この少女は小さく幼いのだ。華奢な躯を抱いたまま、その晩、神の腰掛ける揺り椅子は、長い時間名前の通りに揺れていた。震える少女のその為に。アリスが落ち着きを取り戻したその後も。時折何度か止まったりはしたけれど、アリスが不安そうな声を出す度に、神綺は再び椅子を揺らして歌を歌ってあげた。誰にも、そうして相擁する二人以外には聞こえないほど小さく、けれど丁寧に優しく。やがて呼吸が変わり、細い四肢から力が抜けて、意識を失った痩躯が僅かばかり重さを増すと、安心したように神綺は息を吐いた。これでもう大丈夫だ、と。今度の夢は、きっと少女を傷つけはしないから。
だが――――――――
「男の泣き声、か」
――――――――この発言だけは、ちょっといただけないなぁ
【Pygmalion Effect】
――――――――どうしてそんなことを知っているの?あの書斎の本には、外のことなんて何一つ書いていないのに。
[神とメイド]
アリスから幼さが消えていくのに、さほど時間は要らなかった。といっても大人っぽくなるというわけではない。単に学習し、成長しているという意味だ。前々から兆候はあったが、猫(それも外来種の)を飼わせた事で、アリスの成長速度に拍車がかかったのだろうか。相変わらずダイナと(こちらは完全に成猫になっていた)戯れる姿は愛らしく少女そのものだが、初めて神綺の名を呼んだ時ほど無邪気とは言い難い。もちろん良い子ではある。ただ、以前よりもずっと言動には知性があり、魔法の腕は日に日に上がってきている。しかも、その使い方に意義を求めているようだった。これは他の子には見られない事だった。アリスの姉妹達はほとんど変化を見せないからだ。真面目な子はいつまでも真面目であり、のん気な子はいつまでものん気のままだ。 まして、自分の力に意味を求めることなどしない。そもそも向上心というものが少ないのだ。ましてはこの短期間での成長とあっては、アリスに比べれば他の子達は停滞と言えた。
そのことは別に問題ない。神綺はそういう風に創ったのだから。この子はAのように、この子はBのように、といった具合に。誰もが与えた性格のまま、与えた存在理由を謳歌している。変化があったとしても、AがA’に成る程度だ。むしろアリスの方が異常なのだ。アリスだけはAからCになるような事を平気でする。CどころかZにだって、それどころか「2」や「あ」にだって変わってしまう。 何故ならアリスは「違う」のだ。だが、神綺はそのことは特に問題視していない。どのように変化するかは神綺の知るところではなかったが、変化すること自体は予想の内だったからだ。
「つまりは万華鏡なのです」
「はあ、万華鏡ですか」
唐突に始まった神綺の独り言にも、夢子は慌てずに絶妙なタイミングでリアクションを返した。誠に律儀で器用ある。神に仕える者はこうでなければならない。中でも魔界の神に仕える者は特に。
「万華鏡って言うのはね夢子ちゃん。次の模様の予測は出来ないし、全く同じは二度は現れないと言われているの。けれど、例えば無い筈の色が現れたりはしない。そう、万華鏡の中にある色だけが模様になるし、それは紙やビーズも同じこと。存在する形がどのように鏡に映るかでしかないの。あの筒の中はね、可能性が閉じこめられた世界なの。その世界には予定外はあっても、想定外というものはないわ」
そこで一端言葉を切り、神綺はカップに口を付けた。
「うん。美味しい」
「ありがとうございます」
「それはこっちの台詞。さ、夢子ちゃんもそこに座って座って」
お代わりを頼まれるかとポットも持って動きを止めていると、珍しく同席を求められた。
「え?いや、しかし」
「座る」
「……はい」
言葉に従い、夢子は椅子を引いた。最近こんなことが増えたなと思う。あの会話以降、アリスとも度々お茶をするようになっていた。メイドが役務である夢子にしてみても彼女は末妹であるから、さほど抵抗のあることではない。普段の会話だって以前と比べれば格段に増えているのだ。といっても話題は何故か効率の良い力の運用の仕方や、手際よく家事をこなす方法とかに始終してしまうのだが。唯一華のある会話といえば、家事の中でもアリスが飛び抜けて興味を示した菓子作りぐらいである。
「万華鏡の話に戻すけど」
「はい」
「なんて言うか、いろいろと自由はあるの。でも、上限とか下限とか、その他諸々在る程度までいくと、もうその先が無いの」
なぁんにもないの。
神綺はにこにこと笑っている。どこからどうみても上機嫌で楽しげで満足げだった。アリスの話をするときの神綺は、大抵いつもご機嫌なのだ。そうだ、と夢子は確信した。これはアリスの話なのだ。
「私はね、夢子ちゃん。あの子にはあの子でいて欲しいの。あの子があの子でいるなら、それはなんであろうと同じ事だから」
「アリスは良い子です、とても。その、たまに突拍子もないことをしますが、慣れていないだけなのです」
「うん、知ってる。よくわかってるつもりよ?あの子は私が創ったんだもの。『アリスちゃんは良い子。それから可愛い物が好き』そうだよね、夢子ちゃん?」
「甘い物も好きみたいです」
「そうね。そういう風にしたわ」
「食べるだけじゃなくて、作ることにも興味があるみたいで、最近よく教えてとせがまれます。あの、第三図書には料理の本は――」
「ないわ」
「そ、そうですか」
「でも、あってもいいかもしれない。今度置かせましょう。『あの子は器用』だもの。すぐに一冊分ぐらいなら覚えると思う。どうする?お料理の先生はこれでお役ご免かしら?」
「そうなりましたら、今度は一緒にレシピの工夫でもするとします。それに、方法はともかく腕はそう易々と追いつかせません」
「そうね。もう淹れられるようになってからそれなりに経つけど、まだ紅茶は勝てないものね」
「それこそ永遠に勝たせるつもりはないですよ」
一番得意とする役務なのだから。
「『夢子ちゃんは自信家』ね」
くすくすと、どこまでもご機嫌に神は笑った。
見ていると不思議に平静にいられなくなる笑いだった。何故か心臓がどきどきと高鳴って、夢子は少し狼狽する。この感覚は前にも体験したことがあった。やっぱりこんな風に誰かと小さなテーブルを囲んで、相手は正面でこちらを探るような目で見ているのだ。敵意とか嘲笑の感情は一切無い。ただ観察している。夢子がどう思い、何を感じているのか、それだけをただ知りたいというある意味純粋の塊のような目。教えて、と水銀のような虹彩を湛え、神綺は慈愛に滲ませて夢子を見つめている。この慈しみという一点だけが、前回との差異だった。前回―――――アリスにあったのは戸惑いと親愛だったから。
「自信家というなら、アリスも結構なものですよ。逆に駄目だと思っていることには異様に消極的ですが」
「ふふ。そうね。『アリスちゃんは良い子で、可愛い物が好きで、甘い物が好きで、作るのも好きで、器用で、自信家で、そして少し、臆病』」
おくびょう。神綺の言葉を舌で転がす。思い当たることはあった。
「ひょっとして、あの子はまだ神綺様の寝室に来るんですか?」
怒っていると言うよりは呆れたように、それ以上に本当は可愛いと思っている声で夢子は訊いた。ほんの少し申し訳ない気もしていた。夢子はアリスの躾け係のつもりだったのだ。そうは言っても、概ね悪い気持ちではなかった。神綺もそうやってアリスに全身全霊で甘えられることを望んでいると思っていたから。けれど――――――――
「ええ、来るわ。困ったことにね」
「神、綺様?」
返ってきた言葉はまるで予想外のものだった。
「私はね、夢子ちゃん。あの子にはあの子でいて欲しいの。あの子があの子でいるなら、それはなんであろうと同じ事だから」
始めの方で口にした言葉を、神綺は再度夢子に言い聞かせる。
「それでね」
本当に困っているの、と。
雨降りで洗濯物が乾かないことを嘆くような口調で、
――――――――私はね、あの子に悪夢を見せるようには創っていないの
――――――――だから、悪夢を見ているとしたら、それはアリスちゃんじゃないの
困ったことよね。
全然深刻そうじゃない調子で笑って、神綺はティーカップを空にした。
.
>五指の長い指が
意味が重複しているように思えます。
脱字報告
>淹れくれるかな
>言い方はどんなかぁと
この引き込まれる雰囲気がたまりません。
最初らへんにある。
>こんな調子だからいつまで経っても姉たちに軽く見らたままなのだ。
ここの『見られた』が『見らた』になってます。
誘い込まれるような文章、いつかこんなのを書いてみたい。
神綺様とアリス、そして魔界の歪みが伺えますね。
これって、一人芝居の究極の形とも言えなくもないなと思った。本質的には
神綺様ただ一人の世界でしかないのかもしれない。誰も気がつかないほど
高度だけれども。
続きが気になります。
というかこういう神綺様は新鮮で良いです!
なんとなく歪な夜様の想像は密かに私の持っているそれと近い気がします。
続きがとても楽しみです。
どうして歪な人の描くアリスは、こう違和感なく説得力があって魅力的なんだろう
大切に育てられて品のいい娘に成長したって設定
いいなあ
でも、創造神なのですからこういう表現もありなのかも。
発想が最高です。ぞくぞくしました。
間違いなく優しい世界なんだけど、それだけだと歪に感じちゃう。
おっかねーな。
今更ながらに誤字の報告をば
本当に好きな話です