1
ここ数百年間、紅茶の淹れ方というのはほとんど変わっていない。
私のようなストロベリーティー中毒がティーバッグが入ったカップに熱湯を注ぎ、蓋をして二分待つ。 その間に芳醇な香りが漂ってくる。
二分経過。
ティーバッグを取り出し、カップを口に近づける。
雀の涙ほどの時間で紅茶の香りと湯気を楽しんだ後、一気に口に流し込む。
口内に広がる独特の味。
この瞬間、いつも猫舌でないことに感謝し、紅茶の素敵さを実感する。
「それにしても、遅いわね」
私、岡崎夢美は、目の前にある目覚まし時計を見てため息をついた。午前七時四二分。いつもなら彼女が来ている時間である。
目覚まし時計が置かれている机から見えるのは、テーブルとソファ、さらにその奥には本棚が二つ。大体が物理学の本。左に目をやる。二つの本棚と平行に、扉。白くて窓はない。その扉と直角に、また本棚。こちらは娯楽小説。主に米澤穂信、加納朋子、倉知淳といった、ちょっと古めかしい日常の謎ミステリが大半を占めている。
やることもないので、紅茶を口に含む。
「ふぅ」
なんとなくため息が漏れた。後ろの窓からファイト、ファイトと掛け声が聞こえてくる。どこかのスポーツサークルがランニングでもしているのだろう。
気がつくともうティーカップの中身が空だ。作業用のデスクを立ち、真後ろのキッチンへ。シンクにティーカップを置いて、席へ戻る。そういえば、いつもはこの作業も彼女が来る前に終えている。今日はお互いに時間が狂っているのだろう。
だとすれば、ティーカップを置いた後に、扉がノックされるのは必然的という訳で。
コン、コンと扉がノックされた。予想的中。時計を見ると、七時四五分。
「どうぞ」
扉が開く。今日のところは、いつもの台詞を聞くことはできないだろう。
北白河ちゆりが、申し訳なさそうな顔で入ってくる。
「いやーすみませんご主人様。目覚まし時計が故障しちゃったんだぜ」
「私の目覚ましもそろそろ壊れるってことかしらね。メンテナンスは任せるわ」
ええ-という声がちゆりから漏れた。
2
「ご主人様、私にも一杯頼むぜ」
「駄目よ、今日は遅刻したでしょ。いつも通りに来たら淹れてあげないこともないわ」
「ちえー」
私の目の前に座っているこの少女、北白河ちゆりは私の助手だ。天才の私の助手であるからして彼女もまた天才である。年齢は十七。本来なら高校に通っている年齢だ。かくいう私も十七歳の時は高校にいなかったが。
今ちゆりは、その金色の瞳で目覚まし時計をの中を覗いて、その手はよく分からない機械を操っている。物理学を教えているのにやけに機械が好きで、私が使っている目覚まし時計を作ったのも彼女だ。
「さ、とっととそれ終わらせちゃって。それとこれ、今日の授業の資料。印刷と配布お願い」
「へいへーい」
正直なところ、私は紙媒体が好きではない。むしろ嫌いだ。しかし「キンドルの大混乱」があってから大学の爺さん達は未だに紙にこだわっていて、方針として資料やレポート、論文の提出は二十一世紀終盤の今でも紙媒体でなければならない。
なぜ電子媒体にしないのか。一度ちゆりにそのことを愚痴ったことがある。
「なぜ人類は紙媒体に執着するのかしら。電子媒体の方が圧倒的に便利なのに」
するとちゆりは一瞬目を丸くして、その後無邪気に微笑んでこう言った。
「私は紙の方がいいと思うけどな。目にやさしいし」
と返された。たったそれだけの理由なのか。それを跳ね返せるほどの利便性が電子媒体に備わっていると思うのだが。
そんな問答を思い返していると、ちゆりが顔をのぞき込んできた。一瞬どきりと心臓が跳ねる。
「どうしたんだご主人様? 変な顔してるけど」
いきなり顔を近づけるな。びっくりしたじゃないか。
心の中でそう思っても、表情は堅くして答える。
「・・・・・・変な顔、というのは失礼ね。素敵な顔と言いなさい」
「はいはい。それとこれ、特に異常なし。んじゃコピー行ってくるぜ」
「ありがと。いってらっしゃい」
そう言って、ちゆりは資料片手に研究室を出て行った。
本当は自分で行ってもいいのだが、コピーは全てちゆりにまかせることにしている。
先ほど言ったとおり、どうも私は紙媒体に触れる気が起こらないのだ。
生徒が提出するレポートですら、受け取ってから一週間ほどしないと読み終わらない。
そのことを知ってか知らずか、毎回コピーをしてくれるちゆりには感謝している。
時計を机の端に戻す。教授としてこんな生活を始めてから、時々机に突っ伏して寝ないと体が落ち着かない。最初の頃はちゆりが毛布をかけてくれたっけ。
そんな思い出に耽っているとと扉が開いた。コピーが終わったのだろう。いつの間にか微笑んでいた自分の顔を元に戻す。
「終わったぜー」
「じゃあちょっと早いけど教室に行くわよ。なんだかそんな気分だわ」
私はそんなちゆりを信頼している。二年前、幻想郷に彼女しか連れて行かなかったのも、この信頼があってこそだった。そしておそらくちゆりも、私のことを信頼しているだろう。
何故かって、この提案にもちゆりは黙ってついてきてくれるのだ。
3
初めて講義した時は、緊張して手に持っている資料を見るので忙しかった。
しかし講義に慣れた今は居眠りしている生徒を見つけるので忙しい。
最近はそんな生徒を指名して質問をする。たいていの生徒は答えられず周りの生徒から助言をもらって答える。私が助言を禁ずる。生徒どもる。私叱る。この流れが楽しくて仕方がない。
しかし、困ったことに、最近入ってきたある生徒は、その流れを生み出さない。
宇佐見蓮子。学生の間では変人として通っている。夜空を見上げて現在時刻を呟いていれば、変人に見られても仕方がない。そのせいか講義中も周りに人があまり座らない。
それはイコール居眠りしたら絶体絶命ということなのだが、彼女にはその理屈が通用しないのだ。
いつも居眠りしているくせに、どんな質問でもすらすらと返してくる。一度どうして質問に答えられるのか聞いてみたら、
「ああ、黒板に書かれていることから予測します」
と返された。
変人であるだけでなく、変な特殊能力まであるようだ。厄介極まりない。
そして私が扉を開けた直後、その宇佐見蓮子がすでに教室内で熟睡していた。
他の生徒は教授だ、今日は早いですね、と声を出すが、あいにくそちらには意識が回らない。
「・・・・・・」
「ぷっ」
ちゆりが吹き出した。
「宇佐見さん、起きなさい」
「あと五分・・・・・・」
どうやら寝ぼけているようだ。せめて講義を受けられる状態にしないと教授のメンツが立たないというものである。つまり夢と現実が交錯する状態から、現実だけが見える状態にすればなんでも良い。なんでも。という訳で袖をまくる。
周りからあーあ、とか、本日最初の被害者か、とか聞こえてくるが、それらに返事をする気はない。
拳を作り、ゆっくりと自分の頭の上に移動させる。後は簡単。宇佐見の頭を釘に見立て、拳を金槌と思って振り下ろすだけだ。
「朝ですよ」
鈍い音。除夜の鐘も驚くであろうその音と衝撃に、宇佐見の体と周りの空気がビクンと跳ねる。
「うわああああ!」
悶え、転げ回る宇佐見。そんなに痛がらなくても。周りの生徒はクスクスと、ちゆりは腹を抱えて笑っている。ちなみに私の握力は四十五kgしかないので命に支障はないはず。
「さ、時間になったことだし、講義を始めるわよ」
約二名を覗いて返事があった。
4
「はい、今日はここまでよ。レポートの提出は今日中だから忘れないように。以上」
生徒達から嘆きの声が聞こえてくる。残念ながら感情移入は苦手なので、提出期限を先送りにするようなことはできない。ごめんなさいね。
「そもそもレポートなんて提出日が告げられた日に書き始めるものじゃないの?」
「いやいや、そんなことしてるのはご主人様だけだぜ」
「そう? 他の提出物と重複しないように、消化できるものから手をつけていただけよ」
「この歳の少年少女は遊びたがるもんだぜ、勉強を忘れちまうほどに」
「なら、あなたは遊びたがらないの? 勉強を忘れてしまうほど遊びたがる年齢なんでしょう?」
「ご主人様もな。私はご主人様と一緒に、幻想郷で思う存分遊んだからもういいんだ」
幻想郷。懐かしい響きだ。もうあれから一年経つのか。確かにあんな経験をしたら一生遊ばなくてもいいかもしれない。
「そう。私も、遊ぶのには飽きたわ。」
「それじゃ遊ぶのに飽きた者同士、優雅にストロベリーティーでも楽しもうぜ」
「・・・・・・私は淹れないわよ?」
ええーという声がちゆりから漏れる。いつの間にええー、が口癖になったのやら。私はため息を抑えつつ、電子黒板の電源を落とした。卯酉東海道のカレイドスクリーンを作れるくらいだから、液晶の単価は相当下がってきてはいるのだが、これは卯酉東海道建設前のものだから少々電気代を喰う。
「教授、ちょっといいですか」
振り返ると帽子を被っている生徒がこちらを見ている。麦わら帽子のつばを短くして、素材をシルクハットにした感じの帽子だ。ちなみにこんな帽子を屋内で被っている生徒は私が知っている限り一人しかいない。
「何かしら、宇佐見さん。寝ていたことに対する反省の弁を述べにきたのかしら?」
「違います」
何だ、つまらない。
「そう。じゃあ何かしら」
「いやー、提出期限を一日延ばしてもらえないかなーって」
「却下」
「・・・・・・即答ですか」
「岡崎教授は提出期限が告げられた日にレポートを作り出すからな。たぶん反論は無駄だぜ」
「付け加えなくてよろしい」
ちゆりの頭を叩く。ゴッと鈍い音がした後、大袈裟に頭を抱え込んでいる。ちょっと強くしすぎたかしら。
「まあ、仕方ありません。なんとか間に合わせてみます」
「それにしてもこんな提案してくるなんて、ずいぶん珍しいわね。何かあったの?」
そうなのだ。宇佐見は変人とはいえ、レポートの提出が遅れたりすることは全くなかった。しかもなかなかどうして内容は良いもので、成績は他の生徒より上だったりする。その宇佐見がこうして直談判してくるなんて、何かあったとしか思えない。
「実は、つい先日レポートの存在を知りまして」
「あら、あなた自慢の紙の手帳にはしっかり書かれているものと思ったけど」
「・・・・・・授業があった日、寝てました」
「自業自得ね、それじゃ」
私は、どうしたものかと肩を竦ませている宇佐見を尻目に、頭を抱えるちゆりを引きずって教室を後にした。
5
ぷしゅー。
風船に空気が入る音と、腹部に感じる違和感に目を覚ます。
ちゆりの発明品であるこの目覚まし時計は、音ではなく人の胸部に添えられた風船が膨らませることによって覚醒を促すのだ。
これならどんなに寝起きが悪い人でも大丈夫、と豪語していた。
「うぅ・・・・・・」
風船に空気を送り続けている目覚ましのスイッチを切る。これ以上膨らんでも電力の無駄だ。起きたはいいがなぜ私は作業用のデスクに突っ伏して寝ているのだろう・・・・・・ああ、思い出した。
昨日論文に目を通すのが面倒になったから、動画サイトでツーリング動画を見ていたのだ。疑問は解けた。
「んっ」
立ち上がっ・・・・・・ては駄目だ。すぐに目の前が暗転してしまう。もう手遅れだが。
「ああ・・・・・・しまった」
低血圧とは嫌なものだ。朝はほとんど動けない。仕方なくふらふらと立ち歩き応接用のソファーにくたぁと倒れ込むなる。
あーもう。早くなおって。
一分ほど経った。そろそろ大丈夫だろう。上半身を起こす。
よし。後はストロベリーティーを淹れ・・・・・・ん?
ふと、視線を落とす。
目の前にあるのは応接用のテーブル。なかなか高級感あふれる木でできており、この部屋に入ってきてからそんなに年数も経っていないため、傷などはほとんどない。
その上にはティーカップがある。可愛らしい苺の模様に一目惚れしてついつい買ってしまったお気に入りの一品。そしてそのティーカップの中にあるのは、私の愛するストロベリーティー。湯気は出ていない。
しばらくじっとそれを見つめていた。目の前にあるのはストロベリーティー。それ以外の何物でもない。
「ちゆりが早めに来て、淹れてくれたのかしらね」
きっとそうだろう。ちゆりも気が利くではないか。
もう。こういうことは私の起きている間にやりなさいよ。誉められないでしょうが。
おそるおそるティーカップを持つ。温かい。淹れられてから少しだけ時間が経っているようだ。
顔に近づける。
いい香り。
さあ、飲もう。ぐいっと口の中に注ぐ。
・・・・・・おいしい。多少抽出時間が長いように感じられるが、まあ合格点といったところか。
ちゆりが紅茶を淹れているところは見たことはないが、ああ見えてなかなか多才のようだ。
突然コンコン、とドアを叩く音がした。一瞬驚いたが、どう考えてもちゆりである。
「どうぞ」
「ういーす」
やはりちゆりだった。いつもの掛け合いができてほっとする。
まずは感謝の意を表さなければ、上司としての態度がなっていないというものだ。
「ちゆり、素敵なストロベリーティーをどうもありがとう」
「え?」
ちゆりは目を丸くした。こんな素直に誉めるべきじゃなかったかしら。
まあいい、一度乗りかかった船だ。ここは一気に攻めてしまおう。
「ちゆりも紅茶を嗜むのね、でなければここまで素敵な味にできないわ。それも私が起きる直後に暖かいようにしておくなんて、まるでいつかのクリスマスみたいな気配りね」
「ちょ、ちょっと待ってくれ!それは言わない約束だぜ!?」
いけない、思ったより早くちゆりが動揺している。それにしてもそこまで顔を赤らめなくてもいいじゃない。ま、確かにクリスマスの時はやり過ぎた感じはする。とにかくここはいったん引かないと。
「ふふふ、ごめんなさいね」
「全く・・・それに」
ちゆりは私に一瞥し、ストロベリーティーを見やり、もう一度私を確認し、言った。
「ストロベリーティーを淹れたの、私じゃないぜ?」
二人の間を沈黙が流れる。
今二人の耳に入ってくる音は、窓からのいちに、いちにという掛け声だ。どうやら昨日とは別のスポーツサークルがランニングをしているのが分かる。
ちゆりは「こいつは何を言っているんだ」という心の声が聞こえてきそうな表情で突っ立っている。
・・・・・・え? 今、なんて言った?
八秒ほどして、私はようやく口を開くことができた。
「・・・・・・は?」
「だから、私はストロベリーティーなんて淹れてないぜ」
何を言っているんだ、この娘は。冗談にしては全く面白くない。
そもそも、自分はこのストロベリーティーを淹れていません、なんて嘘を付く理由が全く思い浮かばないのだけれど。
しかし、ちゆりが淹れていないのだとしたら。
「じゃあ、誰が淹れたっていうのよ」
「ご主人様が淹れてないっていうなら、私たち以外の誰か、だぜ」
私たち以外の誰か。その語感にぞっとする。
私はそんな不気味なストロベリーティーを飲んでいたというのか。
今入ってきた情報が頭の中を駆け回る。
落ち着け。よく考えろ。目の前の問題を整理すれば、自然と疑問が生まれてくるはずだ。
しばらく無言の時間が経った。浮かんできた疑問は三つ。
「何のためにストロベリーティーをここに置いたの? 誰が? 何故?」
「さあな。それより今日は会議の日だぜ、急いだ方がいいんじゃないのか?」
そうだった。間の悪いことに、今日は校内の教授が集まって現状を報告するという無駄な会議があるのだ。それも朝に。
「・・・・・・そうね、この問題は後で考えましょう。会議に出てる間、これのコピーを頼むわ」
犯人と動機が気になるが、ここは仕方ない。私に対する挑戦状として受け取っておこう。
どこの誰かは知らないが、私の口から、ちゆりに対する誉め言葉を無駄に連発させたことを後悔させてやる。
そう心に誓い、部屋を後にした。
そういえば、ティーカップをシンクに置くのを忘れた、とも思った。
6
会議、という名目の現状報告はすぐに終わった。
まあ、すぐに終わらせなければ講義を始める時間になってしまうから、全員できるだけ短く済ませるのだ。
私の推測では、大学が無駄な時間を削減するためにこういう会議を朝に入れている、と踏んでいる。
朝なら、時間的余裕があまりないことから「長い意見は言うべきではない」という無意識が生まれる、というわけだ。
そんなわけで、今教室に向かっているわけだが、さっきのストロベリーティーのことばかり頭に浮かんでくる。
それも疑問を自分に投げかけているだけで、明確な答えは一切浮かんでこないのだから困りものだ。
殺人事件のように、動機や凶器が絞り込めるものだったらもっと楽なのに。
最も、人の死体なんてものを目の当たりにしたくはないが。
会議室と教室は割と離れているので、いつもの感覚だと長く感じるのだが、今日は短いように思えた。もう教室はすぐそこだ。そういえば、いつもちゆりとしている会話も今日は無かった。ただ、ちゆりが終始ストロベリーティーのことを考えてくれていたようなので、私としては少し嬉しい。
教室の扉を開ける。生徒達の雑談がだんだん小さくなっていき、ペンケースを開ける音がする。教室を見渡したところ、昨日のように朝っぱらから寝ている変人はいないようだ。嬉しいやら悔しいやら、複雑な気分になる。
「それじゃ、講義を始めるわよ」
教壇に備え付けられたモニターに目をやる。欠席者なし。今日はサボっている生徒はいないようだ。珍しいこともあるものだ。
ちょっと悔しくなってきた。こういう時にけなす相手がいないと調子が出ない。
教室を見回す。幸運なことに宇佐見と目が合った。
「宇佐見さん、レポートは無事提出できたかしら?」
「え? あ、はい、出しました」
くそう。何故今日はこんなに変なことばかり起こるのだ。
「そう、間に合ったのね」
「ええ、まあ、なんとか」
そう言って苦笑する宇佐見。とりあえず昨日一日を丸々潰したらしい、ということが分かった。
それにしても調子が出ない。起きてすぐおかしなことが起き、今も変なことが起きている。
サボりの生徒がいないなんて、今までの状態からは考えられない。
まあ、仕方ない。このまま講義を始める他ない教授がこんな状態では、生徒がついてこないというものだ。やる気出せ夢美。
7
さて。どう解決したものか。
本当はこうしている時間を生徒達のレポートに目を通すという作業に当てなければならないのだが、多少それが遅れたところでバレはしないだろう。それにストロベリーティーの件が解決しないとレポートに目を通しても集中できる気がしない。
椅子に背を任せ、腕を組んで考える。ちゆりは応接用の机に座って設計図のようなものを書いている。何故ここでそれをする。全く、困った相棒だ。
はあ、とため息が出そうなのをなんとか抑えてキッチンに向かう。ポットのカートリッジの中に水を注ぎ、加熱ボタンを押す。一分待てば熱湯になる。そのうちにティーカップを洗い、ティーバッグをそれに入れて待機しておく。
そういえば、なぜ私のティーカップで淹れてあったのだろう。棚には二つティーカップがある。私がいちご好きということは周知の事実だから、私を知っている人物であればこのティーカップは私のものだとすぐに分かるだろう。
では、ちゆりのティーカップに淹れられていたら? おそらくちゆりが自分のために淹れたものと思って、私は口をつけなかっただろう。
ということは、私があれを飲むことに意味があったのか? それともちゆりに飲ませようとして間違えて私のティーカップで淹れてしまった?
だんだん頭の潤滑がよくなったきたところでヤカンが音を立てた。ティーカップをポットに近づけ、湯を注ぐ。ああ、良い香り。この香りに蓋をして、二分間の別れを告げなければならないと思うと胸が苦しくなる。
さて、考えを戻そう。
よく考えると、ちゆりに飲ませようとしたが間違えて私のティーカップで淹れてしまった、というのは成立しない。
ちゆりに淹れようとしたなら、もちろんちゆりと何らかの関係がある人だ。
そういう人物ならちゆりのティーカップ―具体的にどんなものか言うと、迷彩柄のように碇がたくさん描き込まれている―も彼女のものだと一目で分かるので、ストロベリーティーはちゆりに向けられたものではない。私に向けられたものなのだ。
ここまで整理すると、何者かが私にストロベリーティーを飲んで欲しかった、というところまでが分かる。
時計を見ると、もう二分が経っている。蓋を外し、甘酸っぱい香りと再開する。ティーバッグに別れを告げると、紅の液体が私を誘う。音もなく口の中に液体が広がり、私の味覚を満足させる。
「ああ、おいしい」
「っておい、そんな呑気なことより、事件の方が気になるんじゃなかったのか?」
「だから両方やってるのよ」
ちゆりはやれやれといったように肩を竦めた。そんなに私の答えが気に入らなかったか。
しかし、ちゆりが思っているように何も考えなかったわけではないのだ。
私の考えでは、あと少しで犯人の動きが全て分かる。せめて物的証拠か何かが出れば一瞬でカタがつくだろうが・・・・・・。
「物的証拠ねぇ・・・・・・」
ティーカップをシンクに置いて、机に戻る。
実際は、その物的証拠が何かすら分かっていないから前に進まない。
「ま、そんな簡単に見つかるもんじゃないわよね」
言って、机の上を整理する。そう。普通は見つかるものではないのだ。作品中の名探偵ならともかく、現実の被害者の目の前になんてそうそう姿を現してくれるものではない。
ふと左側のレポートに目をやる。右側にあるレポートはまだ目を通していないものだから、こっちはもう目を通してある方だ。一番上にあるレポートに書かれている名前は、宇佐見蓮子。
ああ、なるほど。探偵というものには、運があれば簡単になれるものかもしれない。
全て分かった。
「・・・ちゆり、犯人が分かったわ」
「ええぇぇぇえ!?」
ちゆりは私が何も考えていなかったと思っていたらしい。
だから研究室から声が盛大に漏れた。窓の外のざわめきが一瞬おさまったから分かる。
「い、一体誰なんだ?」
思いっきり顔を近づけてちゆりが聞いてくる。何もそこまで近くに寄らなくてもいい気がするのだが。
「宇佐見蓮子よ。この研究室に連れてきて」
了解! という威勢の良い声と共に、ちゆりはばたばたと研究室を飛び出していった。
8
「どうぞ」
「あ、どうも」
「ありがとうございます」
ちゆりが差し出す私自慢のストロベリーティーに、応接用のソファーに座る二人はおずおずと会釈する。
一人は宇佐見蓮子で、もう一人は文学部のマエリベリー・ハーンという名前らしい。二人一緒だったのでちゆりが一緒に連れてきた。話で聞く限りでは、いつも二人で何かしているようだ。
「で、用事ってなんでしょう」
紅茶をすすってから声を発する宇佐見は、まだ態度に余裕がある。というかいつもこんな感じだ。
何かと会話がし辛い空気を充満させるくせに一人で語る内容は長いのだ。まあ友人はいるにはいるようだが、少ないのはそのせいだろう。このマエリベリー・ハーンという子も、よく付き合っていられるものだ。
「レポートの提出期限を破っておきながら、よくそんな態度でいられるわね」
宇佐見の表情が固まる。しかし空気は固まらない。ちゆりはまじで!? とでも言いたげな顔で私と宇佐見を交互に見ているし、マエリベリーさんは蓮子、期限破ったの? と何も知らない人ならではの質問をしている。
「や、やだなあ提出期限くらい守ってますよ」
「あら否定するの?」
宇佐見の顔に嫌な汗がにじみ出てくるのが分かる。やばい、楽しい。
「じゃあちょっと長くなるけど聞いてもらえるかしら? ちゆりも、マエリベリーさんも」
「メリーでいいですよ」
「ちょっと蓮子、勝手に人の渾名を・・・・・・まあいいけど」
意外と宇佐見にはまだ余裕があるらしい。
というか、こういう受け答えをして気を紛らわせたいんだろう。
「じゃあ改めてメリーさん、聞いてもらえるかしら?あなたの相棒の単純明快かつシンプルイズベストな提出期限破りを」
「はあ・・・・・・?」
メリーさんはまだ状況がつかめていないようだ。まあいい、事件の最初から説明すれば納得するだろう。ちゆりもウインクでGOサインを出していることだし、説明に入らなければならない。
「まず今朝、私が起きたとき、この応接用のテーブルの上にストロベリーティーが置かれていたわ。それもまだ淹れたての温かいものが。でもそれって変なのよね、私もちゆりも淹れていない、だとしたら誰が淹れたの? 何のために? 簡単なこと。宇佐見さん、あなたが、レポートを提出するためよ」
まだ宇佐見の表情は固い。これから入る説明が怖いのだろう。
「でも、レポートを提出するためになんでストロベリーティーを淹れる必要があったんだ?」
ちゆりがいい質問をしてくる。そういう質問があってこそ私は探偵役が務まるというものだ。
「それはこれから説明するわ。面倒だから宇佐見さんの視点に立って説明しましょうか。今朝、徹夜でレポートを完成させたあなたは、朝早く私の研究室に来た。起きてたらどうするかはわからなかったけど、まあレポートを出すために来たのよ。しかし私は間抜けにもグースカ眠っていた。目覚まし時計を見ると七時半にアラームが鳴る。
そこで宇佐見さんに魔が差したわけよ。この状況を利用すれば、昨日レポートを提出したことにできるかも、ってね」
宇佐見から否定の言葉は返ってこない。ここまでの推理に間違いはないようだ。
「そこで宇佐見さんは一生懸命考えた。ただ提出しようにも、私がレポートに覆い被さって出すことはできない。一体どうすれば昨日提出したように見せかけられるか・・・・・・
そこで、ある考えが浮かぶ。私が起きて、席を立った一瞬の隙にレポートを提出してしまえば、なんとかごまかせるんじゃないかってね」
メリーさんは私と宇佐見を交互に見ている。私の推理への賞賛と宇佐見への無言の糾弾として受け取っておく。
「しかし、本当に一瞬というのはリスクが高すぎる。そこで目に入ってきたのがこれ。今私たちが飲んでいるストロベリーティー。これを上手く使えば大きな隙を作れるってことに気がついたわけ。ついでに自分自身の目隠しもできるしね」
全員の視線がストロベリーティーに集中する。そして、たっぷり十秒は見た後、ちゆりが口を開く。
「自分自身の目隠しって?」
「そのまんまの意味よ。あのストロベリーティーがあることによって、私は朝ストロベリーティーを作るためにキッチンに立つこともなく、さらに幸いなことにティーカップをシンクに置き忘れた。そう、
宇佐見さんは、キッチンに隠れていたのよ。あの人一人入るスキマに。私が起きる前からね」
今度こそ、静寂が空気を支配した。窓の外からはどこかのダンスサークルが踊るのだろう、音楽が結構な音量で聞こえてくる。
二十秒ほどの沈黙だったと思う。ティーカップを空にしてもまだ静かだったから長さはそれくらいだ。
そこで口を開いたのは、意外にもメリーさんだった。
「でも、それだとちゆりさんが入ってきた時に蓮子が丸見えになるんじゃないですか?」
「いい観点ね、メリーさん。でも宇佐見はそれも考えて行動していたのよ。ほんと、抜け目のない生徒だわ。教授にしちゃいたいくらい。それを含めてこれから説明するわね」
宇佐見はさっきから口を開かない。後で大きく反論してくるのだろうか。
まあどのみちこちらには切り札がある。
「宇佐見はストロベリーティーを淹れて応接用テーブルに置き、キッチンに身を隠す。私が目を覚まして応接用のソファーに横になると、すぐさまレポートを提出。ここが面白いんだけど、今度は机の下に身を隠すの。そうすれば、誰か来たときに宇佐見さんの存在をわかりっこないでしょ?」
ちゆりとメリーさんからあっと声が漏れる。二人が向いているのは無論キッチンと机だ。確かに、机の下に誰か隠れているなんてちっとも分からない。
「あとはまんまと宇佐見の策略にはまって、私たちは宇佐見を一度も見ることなくこの部屋を後にしたってわけ。さ、どうかしら? 犯人さん」
「・・・・・・全部、正解、です」
ちゆりとメリーさんがおお~と声を上げる。ここまで見事な推理を成し遂げたんだからもう少し大きい賛辞を送ってくれても一向に構わないのだが。
「なんで分かったんですか・・・?」
これはまあ犯人が言ってもらわないと困る台詞だ、と益体も無いことを考えてしまった。
「簡単よ、あなたのレポートは右側じゃなくて左側にあったの。私は未読のレポートを右、既読のレポートを左に置いているから、宇佐見さんのレポートが左側に置いてある時に閃いたわ。にしても残念ね、これじゃあどんなに昨日提出しましたって努力してもこれ一つで水の泡だわ」
宇佐見本人の致命的なミスが祟ってしまった。猿も木から落ちるとは、こういうことを言うのだろう。
「ああ、ってことは点がつかないのかあ・・・・・・」
宇佐見ははあー、と大きなため息をついた。
「大丈夫、今回はこの単純明快なトリックを考えたあなたには、ちゃんと成績をつけてあげる。こんなことやった理由が理解できないけど」
「本当ですか!?やったー!」
どうやら単純明快なトリックを考える者は、頭も単純明快らしい。
「さあメリー、成績の心配もなくなったことだし、結界の裂け目を暴きに旅立つわよ!」
「え?ちょっと蓮子、待っ・・・」
宇佐見はお邪魔しました、という言葉を一瞬で述べた後、メリーさんのてぇ~という悲鳴にならない悲鳴と共に去っていった。ちゆりが二人に手を振って、そのまま訊ねる。
「結界の裂け目ねぇ・・・あの二人、幻想郷を目指してるのか?」
「さあね。目指していようがいまいが、どちらでも同じことよ。それに関しては私たちは何も関与しない。関わったところで、あの二人のプライドを傷つけるだけだわ」
「ま、それもそうか。ところでご主人様、私もストロベリーティーが飲みたくなってきたぜ」
「そういえばあなたの分を用意してなかったわね。いいわ、私のと一緒に淹れてあげる」
ちゆりはやった、と小躍りしている。そんなちゆりに脇目を振りながら棚へ向かう。そう、いつもここにストロベリーティーが・・・あった。しかし。
私は目を疑った。そんな。ありえない。私がこんなことをするはずがない。いつも残量を確認して、三人分になったところで補充するのだ。だからこんなことなどあり得ない。しかし眼前に広がる光景は、私の心をせき立てる要因としては充分だった。
ストロベリーティーが、一人分しかない。
後ろからはちゆりがまだかまだかとわくわくした視線を送っているのがわかる。同時に、ちゆりに放った一言が頭の中で反芻される。
――私のと一緒に淹れてあげる
別に私のを我慢することだってできる。しかし、それでは私が言ったことが嘘になる。私はそんなことを許しはしない。
さあ、ちゆりにどう言い訳しようか。今なら少しだけ、窮地に立たされた宇佐見の気持ちが分かる気がした。
ただ、お話の要になるだろう推理の部分が少々もったいない感じがしました。お話の流れ的に犯人は分かるものの、読者が推理しようとする分には判断材料が足りないかな、と。
落ちに至るまでの流れはしっかりしていて、ところどころくすりと笑うこともできた面白い話だったと思います。次回も頑張ってください。
・・・ところで。トロピカルパフェとか栗金団な続きを書くんですよね?
クリスマスも期待していますー
教授と蓮子の掛け合いがいいですね~。
文章でちょっと気になるところがあったので、それを差し引いてこの点数でっ。
クリスマスの話も楽しみにしています。
旧作キャラは神綺様以外あんまり見ないですからねぇ…
教授と蓮子の絡みが現実的wwwいるいるこんな教授www
惚れたぜ。
誤字がちょっと気になったので、投稿前のチェックもしたらいいと思います
うん、面白かったですよ。
所で教授、魅魔様の行方を知らんかね?
うちの大学にもこんな教授いないかなぁ