□
蒼太が倒れたのは、春が過ぎ、そろそろ梅雨に入ろうかという時期の事だった。
いつものように『宴会を開くぞ!』とやって来た時には元気だったというのに、酒を一口飲んだところから段々とその顔色が悪くなり、そのまま倒れてしまったのだ。診れば蒼太は酷い高熱を出しており、一晩経った今もその熱は下がる気配が無かった。
いや、それどころか、今も熱が上がり続けているように感じる。まるで、内側から体を焼き尽くしていくかのように。
それは緋一も感じているのか、彼は不安と恐怖を混ぜ合わせたような表情を浮かべ続けている。そんな緋一に、蒼太は苦しげに息を吐きながらも、どうにか笑みを浮かべ、
「俺も、昔は色々と悪さをしたからな……。そん時のツケが、きたんだろうさ……」
「ツケ……? ――まさか、あの時の呪いか? そうなのか?!」
「莫迦、言え。この俺様が、あんなモンを今まで引き摺るか、ってんだ」
苦しげに言いながらも笑ってみせる。けれどその原因は、恐らく緋一の言う呪いのせいなのだろう。
私には詳しい事情は解らないが、しかしそれは緋一の表情を見れば明らかだった。何せ、あの温厚な彼の表情が強い怒りに染まっているのだ。……けれどそれは、その呪いを掛けた相手に対する怒りではなく、それを看破出来なかった自分自身に対するものであるように思えた。
そう思いながらも、私はおずおずと緋一に問い掛けた。
「あ、あの、お医者様を呼ぶ事は出来ないんですか?」
「この熱は呪術によるものだ。医者を呼んでも意味が無い」
「じゃ、じゃあ、呪術師は……」
「そんな力のある奴が居たら、真っ先に連れて来ているに決まっているだろう!」
今まで見せた事のない、緋一の激しい激昂に体が震え、困惑と共に涙が溢れてきてしまう。思わず口に出た「ごめんなさい」という言葉は、酷く震えていた。
同時に緋一がハッと表情を変え、「すまない、怒鳴ってしまって……」と苦しげに呟く。彼も辛いのだと、私は改めて思い知った。
と、そんな私達に掛けられた蒼太の声は、苦しげながらも笑みを忘れてはいなかった。
「おいおい、喧嘩すんじゃねぇよ。こんなもん、俺にゃあ屁でもねぇ……」
「蒼太……」
「でもまぁ、流石に辛れぇんでな。少し、眠るぜ……」
苦しげな呼吸はそのままに、蒼太が静かに目を伏せる。笑みの消えたその表情は酷く苦しげで、けれど彼は一度も「辛い」「苦しい」といった言葉は漏らさなかった。
そうして蒼太がどうにか眠りに就くと、少しだけその息も落ち着いていく。――と、思い詰めた表情をしていた緋一が不意に立ち上がり、
「キスメ、少し良いか」
「は、はい」
余裕の感じられないその声に不安が高まるのを感じながら、私は彼の後を追って外に出た。
雨雲に遮られた空は少し暗く、吹き抜けていく風は生ぬるい。それに不快感を感じながら歩いて行くと、緋一は蒼太の家から少し離れたところで立ち止まり、私と向き合った。
彼の顔には、とても真面目な、そして余裕の無い表情が浮かんでいた。
「キスメに頼みがある。……蒼太には、昔から迷惑ばかり掛けて来た。それなのに、蒼太は俺の事を第一に考え、いつも俺を支えてくれた。だから、そのせめてもの恩返しの為に、俺と一緒に一芝居打って欲しいんだ」
そうして語られていく『芝居』の内容はとても唐突で、考えてもみなかった事だった。けれどその内容は、いつか蒼太が望んでいた話と酷似していて……だから私は、それを問い掛けずにはいられなかった。
「……もう、蒼太さんは助からないのですか?」
「……」
問い掛けに、緋一は何も答えない。それを答えてしまえば現実になってしまうと言わんばかりに、唇をきつく結び、その拳を強く握り締めていた。
私はその手をそっと取ると、頭一つ分以上高い場所にある彼の眼を見つめ、
「解りました。私がその相手に務まるのなら、協力します」
「……ありがとう、キスメ」
そう言って、緋一が深く頭を下げる。
でも、今この時という状況でなければ、私は素直に喜べたのかもしれない。いや、蒼太が倒れた事で――と、そんな風に考えて、私は自分の浅ましさが嫌になる。
同時に、こんなにも人間臭くなった自分は、もう妖怪には戻れないのだろうと思えた。
■
緋一と一緒に蒼太の家に戻ってから、私は色々な事を考えた。
自分の事。緋一の事。蒼太の事。今までの暮らしの事。これからの暮らしの事。壊れないと思っていた幸せが壊れた恐怖と、それを取り戻せないのだろうという恐怖。
意味も無く叫び出したくなるのを抑えながら、私はそっと蒼太の額に浮かんだ汗を拭う。布団を挟んで反対側に座る緋一は押し黙ったまま悔しげに目を伏せていて、その姿はとても痛々しい。
と、不意に蒼太が呻き声を上げた。途端緋一がその顔を覗き込み、大丈夫かと声を掛ける。対する蒼太はゆっくりと目を開くと、苦笑にも似た笑みを浮かべ、
「なんだ、その面ぁ……。俺よりも、お前の方が、ぶっ倒れちまったみてぇじゃねぇか……」
「そんな事は良い。……それよりも、お前に言い忘れていた事があってな」
「あぁ?」
その言葉は予想していなかったのか、蒼太が意外そうな声を上げる。同時に緋一が真剣な目をこちらに向けてきて、私はそれに答えるように立ち上がると、彼のすぐすぐ隣に正座した。そうして緋一を見上げると、彼が私の左手をそっと掴んだ。
それは、私達が蒼太へ『自分達の仲を示す』という嘘を吐く為のもので――けれどその手は酷く冷たく、そして震えていた。
緋一は恐れているのだろう。自分の言葉で、蒼太が生きる気力を手放してしまうのではないかと。
実際、蒼太にはそういったところがあった。自分が満足出来たならばそれで良いと、笑って全てを終わらせてしまうような危うさが。
それを解っているからこそ、緋一はその一言を言い出せないのかもしれない。だから私は彼を勇気付けるように、その手をそっと握り締めた。と、そんな私達の様子に、蒼太が苦笑し、
「おいおい、一体何なんだ……? まさか、祝言でも挙げる気になった、ってか?」
その瞬間、緋一が何かを言い掛け――けれどそれを飲み込むと、酷く硬い、それでも精一杯の笑みを浮かべ、
「ああ、その通りだ」
途端、笑っていた蒼太の顔がぴたりと固まった。そしてまじまじと緋一を見つめ、そして私を見る。その、何かを問い掛けてくるような視線に頷き返すと、蒼太は熱があるのを忘れたかのように、嬉しげに、本当に嬉しそうに笑い、
「そうかそうか、ついにお嬢ちゃんもその気になったか! こいつは目出てぇや!」
「つ、ついにって言わないでください……」
「おいおい、緋一の眼は誤魔化せても俺の眼は誤魔化せねぇよ。じゃなけりゃあんな話をするもんか」
そうして心底楽しそうに笑い――しかしすぐに咳き込み始めてしまった。それはまるで体内にある異物を吐き出すかのような、酷く苦しげなもの。私達は突然のそれに狼狽しながら、体をくの字に丸める蒼太の背を擦る。そしてどうにかその咳が止まった時、彼の口元は吐血による血で汚れていた。
その状況に慌てふためく私達を前に、当事者である蒼太は手の甲で乱暴に口元を拭うと、蒼白な顔にそれでも笑みを浮かべ、
「ハ、こんなもん屁でもねぇ……。俺は今、嬉しくて堪らねぇんだからよ」
対する緋一も蒼太と同じくらい青くなりながら、諭すように、いやむしろ懇願するような口調で、
「馬鹿言ってないでちゃんと寝ててくれ。お前には、早く元気になってもらわなくちゃ困るんだ」
「言われなくても、元気にならなぁな。……ハ、しかしまぁ、こんなにも目出てぇのに、酒も呑めねぇってのは、難儀なもんだぜ。……だがよぉ、緋一」
「な、なんだ?」
「水を一杯、酌んで来てくれねぇか? 口の中が――」
気持ち悪くてな。そう蒼太が言い切るよりも早く緋一が立ち上がり、「解った、すぐに汲んでくるからな!」という言葉を残して家を出て行く。直後、裏にある井戸の滑車が勢い良く引っ張り上げられる音が聞こえてきて、蒼太はそれに苦笑しながら、苦しげに息を吐いた。
そして私を見上げると、静かな調子で、
「なぁ譲ちゃん……いや、キスメさんよ。お前さんは、本気なのか?」
「……はい」
緋一が告げた『祝言』という言葉は嘘だとしても、彼の事を想う気持ちに嘘は無い。あの日、緋一に抱き締められた時に明確な形を持った恋慕の想いは、私の中でそう断言出来るほどに大きく育ったのだ。
そんな私の言葉に、蒼太はまるで子供のような無邪気な喜びを浮かべ、
「そうか、そうか! なら、もう本当に思い残す事はねぇな。……俺は積年の願いを叶えられた。ああそうさ。お前さんが嫁さんだってなら、アイツは絶対に――いや、お前さん達は幸せになれる。それは、この俺が太鼓判を押すぜ」
だからよぉ、
「――俺は笑って、オサラバ出来る」
「蒼太さん!」
思わず叫んでいた。確かに私は緋一の事を想っている。けれどそこにある幸せには、蒼太の存在も必要不可欠なのだ。彼の言葉を聞いて、私はそれを痛感した。
彼が倒れた事で緋一の口から『祝言』という言葉が出た。それは少なからず彼も私の事を想ってくれているからこその――蒼太の見立て通りなら、私に惚れてくれているからこその言葉だったに違いない。けれどその言葉は、こうして蒼太が倒れなくても、いつかきっと緋一の口から出た筈だ。私達の媒酌人は、蒼太以外に有り得ないのだから。
対する蒼太は私の言葉に驚いたように目を見開き……そして、こちらへと優しい笑みを向け、
「良い嫁さんになってくれよ」
自分の言葉を、否定しなかった。
その事実に泣きそうになりながら、私は首を横に振った。
「それを判断するのは蒼太さんです。だから、早く元気になってください」
「……解ったよ。全く、お前さんには敵わねぇ」
観念したようにそう言って、再び蒼太が目を閉じる。それと同時に緋一が駆け戻ってきた。
彼はなみなみと水の注がれた桶を勢い良く畳の上に置くと、酒瓶の近くに転がっていたぐい飲みを手に取り、そのまま桶の中に突っ込んだ。対する蒼太はその水音に苦笑し、
「おう、緋一。出来れば、体を起こしてぇんだが」
「駄目だ。お前はそのまま――」
「無茶言うなって。寝っ転がったままじゃ、水は飲めねぇよ」
そう告げる蒼太に緋一は暫し逡巡し……そして私に目配せをすると、その背中を支え、ゆっくりと蒼太を起き上がらせた。
こうして見ると、蒼太はたった一晩で酷く痩せこけてしまったように見える。同時に最悪な結末が頭に浮かび、それを掻き消すように頭を振ると、私は桶に沈んでしまっているぐい飲みを手に取った。
暑さの増している中、けれど井戸の水は驚くほどに冷たい。その冷たい水を蒼太へ手渡すと、彼は一度口をすすいでから、それをまるで上質な酒であるかのように美味しそうに飲み干し、深く息を吐いた。そして、蒼太はそのまま横になり、
「こんなに美味い水は初めてだ。正に命の水って奴だな」
そう言いながら、心のつかえが取れたかのような、とても晴れやかな笑みを浮かべ、
「――なぁ緋一。俺ぁ人間なんざ糞喰らえだと思ってたが、中々どうして、悪くねぇもんだなぁ」
嬉しそうに楽しそうに、蒼太が笑う。
呵呵と笑う。
笑い切る。
対する緋一は、それに少し困惑したような、けれど嬉しげな微笑みと共に、
「蒼太が俺の言葉を信じてくれたからこそだ。だから、これからは――」
そう言葉を続ける緋一に、蒼太は笑ったまま答えない。
何の苦しみもないような、嬉しくて堪らないといった笑みを浮かべたまま、彼は何も答えない。
「――蒼太」
もう何も、答える事はなかった。
■
慟哭。
それ以外に、その状況を言い表せる言葉を私は知らない。
残された私は、緋一に何の言葉も掛けられぬまま、そっと蒼太の家を出る事しか出来なかった。
■
朝。
一睡も出来なかった重い体で、私は少しずつ明るくなってきた外へ出る。
あれから緋一は家に戻ってきていない。恐らく、今も蒼太の家に居るのだろう――と、そう思いながら戸を開けたところで、玄関前の広場に、酷く見慣れた、しかし真新しい物が鎮座している事に気付いた。
「桶……?」
それは、私が人間を襲う時に使っていたものよりも一回りほど大きな桶だった。過去に使っていた桶は、五尺程度しかない私が十分隠れる事が出来る大きさで……それよりも大きく見えるのだから、六尺を超えるだろう大男である緋一でもその中に入れそうで――と、そう考えたところで、私はそこから動けなくなった。
「――ッ」
一体、桶の中には何が入れられている?
解らない。こんなにも大きな桶を使うのは私のような妖怪ぐらいの筈だ。けれど、裏にある井戸には釣瓶落としは住んでおらず……いや、そもそも私以外の釣瓶落としが居るだなんて話は聞いた事が無い。むしろこの一帯で『釣瓶落としの怪』と言ったら私を指していた筈だ。今となっては嫌な話だが、私はそのくらい人間を襲い、そしてルーミアと共に喰らってきたのだから。
だから尚更に、この桶の使い道と、その中身が予想出来ない。
蒼太が亡くなった事のショックと、目の前に鎮座する良く解らない物への困惑に、私は無意識に緋一の姿を探し……桶よりももっと離れた場所で、彼が一心不乱に何かをしている事に気が付いた。
黙々と作業を行うその背中は、声を掛けるのが躊躇われるほど。遠目からでは良く解らないが、彼は大きな穴を掘っているようだった。
けれどこのまま固まっている訳にはいかない。私は桶を大きく迂回しながら緋一のところへ歩いて行き……そして彼の掘っている穴の深さを見て、それが何の為に掘られているものなのかに気付いた。
「……お墓」
私は、そこでようやく桶の中身に想像が至ったのだ。
無言のまま、涙を流しながら穴を掘る緋一の目に私は入っていない。だからこそ、私にはそれを手伝う事が出来なかった。
これは、緋一にとって、蒼太にしてあげられる最後の事なのだ。私は人間の風習について知らない事が多いから、これが一般的な葬儀の方法なのかも解らない。けれどこうして穴を掘り、そして親友の遺体を収める為の桶を作った緋一の悲しみは、私なんかが入っていけるほど軽いものではなかった。
段々と明るくなっていく中で、私達の周りだけが暗く沈んでいくように感じられる。けれど私は、何の言葉も発する事が出来ないまま、緋一の背中を眺め続けた。
緋一が私に気付いたのは、穴を掘り終えた後の事だった。彼は私の姿に気付くと、一度弱々しい表情を見せ、けれどもすぐにそれを戒めた。そして乱暴に涙を拭い、酷くゆっくりとした足取りで桶へと近付いていく。私はその後に続き、桶を運ぼうとしている彼の反対側に廻った。
今まで気付かなかったけれど、桶にはもう蓋が閉められていて、その中を覗き込む事は出来なかった。でも、それで良かったのかもしれない。こうして蒼太を埋めようという時に、あの幸せそうな笑顔を見てしまったら、私達は一歩も動けなくなってしまっただろうから。
「……キスメ」
「はい」
「すまないが、離れていてくれないか」
酷く辛そうなその声に、「手伝います」という言葉を紡ぐ事が出来なかった。けれどいくら緋一とはいえ、一人で桶を持ち上げるのは無理だろう。そう思う私の目の前で、彼は泥に汚れた上着を脱ぎ捨て――そこから現れた体は、私が想像していたものとは違っていた。
傷が無いのだ。樵として働いている時に負ったのだろう細かい傷は多々見えるものの、私や蒼太に隠し続けようとするような傷は無いように見える。対する緋一は桶に抱き付くように両手を伸ばすと、無理だ、と思う私の気持を裏切るようにそれを持ち上げてみせた。
「……嘘」
場違いな、けれどもどうにもならない言葉が口から漏れていた。そんな私を置いて、緋一がゆっくりと桶を運んでいく。
そしてその背中が見えた時、私は蒼太が言っていた言葉の意味を理解し、同時に一瞬前の認識を塗り替える事になる。
傷だった。
傷しかなかった。
人間の扱えるだろうありとあらゆる武器の傷が刻まれているように思えるほど、その背中は酷く痛々しい傷跡に埋め尽くされており……小さな擦傷しかないように見えていた腕も、その反対側には多数の傷が走っていた。
普通、武器を持った相手と戦ったのならば、その傷は体の全面に出来る。だから背中にある傷は相手に背を向けて逃げ出した時か、或いは誰かを庇った時にしか生まれない。緋一はその傷を負った時、決して戦わなかったのだろう。だからこそ、蒼太はあんなにも強く責任を感じていたのだ。
そうして、ゆっくりと桶が墓穴へと運ばれていく。手伝おうとはしていたものの、私にはきっと押し動かす事も出来なかっただろうその桶を持つ緋一の顔や腕、そして背中は、桶の重さに耐えるように赤く染まっている。
けれどその重さが、蒼太との最後の思い出になるのだ。
その事実が悲しくて、辛くて――けれど私は、その光景から眼を逸らさず、再び溢れ出した涙を何度も拭いながら、二人の別れを見守った。
そして、桶を墓穴へと入れた後、緋一は暫くの間その場を動かなかった。私もまた、その背中を見つめたまま動く事が出来ず、何の言葉も掛けられずにいた。
その後、穴が埋められ、墓標が立てられ……葬儀の全てが終わったのは、日が完全に暮れた頃の事だった。
■
それから、緋一は毎日のように酒を呷るようになった。
数日前までは朝早くから仕事を行っていたのに、今では斧よりも酒瓶を握っている時の方が長くなってしまっている。朝から晩まで浴びるように飲み続け、泣き続け、親友を救えなかった自分自身への呪詛を吐く。
私はそんな彼を止める手立てがなかった。というよりも、酒に溺れてしまった彼をどうやって落ち着かせれば良いのか解らなかった。
ただただ部屋の隅で小さくなり、時折人が変わったかのように床へ拳を叩き付け、大きな声を上げる緋一の姿に震え続けた。それでも彼の流す涙はとても悲しく、どうにか慰めようと考えを巡らせるのだけれど、私の貧相な頭では上手い方法が見付からない。
辛く悲しく、そして何よりも自分の無力さを痛感する日々。
それでも、私はそんな毎日を打破する為に勇気を出した。酒を呷る緋一の正面に腰掛けて、不安だった私に彼がそうしてくれたように、その荒れた気持ちを和らげられるような話をする事にしたのだ。
けれど彼はそれを聞いてくれないどころか、私の目を一切見ないまま、
「慰めなんていらない! 俺の事は放っておいてくれ!」
言い放ち、けれどすぐに罰の悪そうな顔をして、それを誤魔化すように酒を呷る。
まさか怒鳴られるとは思っていなかった私は酷く驚き――同時に、かちんと来た。
蒼太が死んでしまって悲しいのは私も一緒なのだ。辛いのも苦しいのも、緋一だけが感じている訳じゃない。
それに私は、一緒に居たいと思えた相手がこんな風に荒れてしまっているのを、もうこれ以上見ていたくなかった。『慰めなんていらない』なんて言われても、私は緋一に元気になって貰いたいのだから。
「……」
私は意を決すると、緋一の手から酒瓶を取り上げた。それに驚いた顔をしている彼の頬を掴み、無理矢理こちらへ向かせると、
「私にも、貴方を慰める事ぐらい出来ます」
知識の乏しい私には、この悲しみから彼を救い上げる方法が解らない。でもそれ以上に、私は緋一に目を逸らされ続けるのが嫌だった。
蒼太はもう居ない。
でも、私は今、ここに居るのだ。
それが我が儘だと気付いているし、蒼太に悪いとも思っているけれど――私は、緋一に私の事を見て欲しかった。
私の事を、考えて欲しかった。
「……だって私達は、夫婦(めおと)なのでしょう?」
「あ、あれは……」
困惑したように緋一が言う。色恋についての知識は殆ど無くとも、それでも、夫婦というのがどういうものなのかは知っているつもりだった。
だから、
「私は、今でもそう思っているんです」
それが私の、偽らざる本心だった。
□
暖かな日差しの中、遠く響いてくる優しい声に目を覚ます。
未だに眠気の残る目元を擦りながら顔を上げると、釣りに行っていた夫の姿が見えた。嬉しげな笑顔と共に桶を掲げているところを見るに、今日は沢山魚が釣れたのだろう。
「ん……」
と、すぐ隣で、小さく寝返りを打つ気配がした。それに視線を下げると、そこには四つになる娘の姿。そしてその下には干したばかりの布団があって、
「あー……」
やっちゃった、と思わず苦笑してしまう。
それは一時時間ほど前。縁側で干していた布団を引っ繰り返そうと部屋に戻ると、遊び疲れたのだろう娘が布団の上で寝息を立てていた。その安らいだ表情を見ていたら、娘を起こすのが可哀想になり、その寝顔を見つめるように私も横になって……気が付けば、娘と一緒に眠ってしまっていたらしい。
眠るつもりは無かったんだけどなぁ。そう思いつつ、私は気持ち良さそうに眠っている娘を起こしに掛かる。
そんな私の視界の端で、蒼太のお墓の前で手を合わせている緋一の姿が見えた。
「……」
あの日から――蒼太が死んでから、もう五年が経った。
結局私は、自分が妖怪であると隠し続けながら、それでも緋一の嫁として暮らしている。
無知だった昔とは違い、今では常識や読み書きなど、生活に必要な様々な知識を得た。緋一と比べたらまだまだだけれど、彼等と出逢った当初から考えたら、そこには天と地ほどの差があるだろう。
暖かで、騒がしく、夢のように平和な日々。
とはいえ、すぐにこの平穏が手に入った訳ではなかった。
蒼太を失った悲しみは深く、その喪失から生まれる辛さは大きく、私達は長い間それを引きずった。
けれど日々を繰り返して行く内に、過去は次第に思い出になり、いつの間にか蒼太の居ない生活が当たり前になっていく。
それはそれで辛い事だったけれど、それを乗り越えるかのように緋一は改めて私と夫婦になる事を望み、私はそれを受け入れた。
そうして私達はたった二人の生活に慣れ始め……けれど、すぐにそれは三人になった。私達の娘である萌黄(もえぎ)が生まれたのだ。
正直言って、萌黄を生むのには不安が多くあった。何せ私は、人間と妖怪の間に子を生せるのかどうか解らなかったのだから。
それでも、お腹に宿った子を見捨てる事など出来ず……不安の中で、けれども無事に産まれた我が子を抱いた時、私は悩んでいた自分を叱ってやりたくなった。神様が授けてくれた我が子に不安を感じるなどと、そんな事を考えてしまっていた自分が酷く愚かに感じられたのだ。
そして私達は、萌黄に沢山の愛情を注いで育ててきた。当然のように私も緋一も子育てなんて始めてで、戸惑う事も多いけれど、彼女はすくすくと育ってくれている。それが何よりも嬉しくて、けれど時折悲しくなる。
私達夫婦は、この幸せを誰よりも蒼太に共有して欲しかった。彼に萌黄を抱かせてあげたかったのだ。けれど、それはもう叶わないと解っているから、尚更に悲しい。それでも私達は前を向き、極楽へ渡った蒼太に笑われないように生きてきた。
だから今日までの五年間はあっという間で、同時に日々大きくなっていく萌黄の成長が楽しみな毎日でもあった。
これからもそんな毎日が続き、私達は幸せと共に歩んでいくのだろう。そんな事を思いながら、私は緋一の布団を寝室へと運んでいく。そして、うにうにと寝言を言いながらも起き上がりそうにない娘を抱きかかえ、取り込んだばかりの布団の上へそっと寝かし直した。
最後に自分の布団を取り込んでいると、ガタガタと音を上げて玄関の戸が開き、
「ただいま、キスメ」
「おかえりなさい、あなた」
呼び慣れなかったその言葉も、今では自然に口に出来る。そんな些細な事に幸せを感じながら、私は夕飯の準備を始める事にした。
■
「そういえば、川で居合わせた里人から聞いたんだが……最近、里で噂になっている妖怪が居るらしい」
緋一がそんな事を言い出したのは、夕飯が終わって、眠くないとはしゃぎ回っていた萌黄がようやく眠ってくれた後の事だった。
娘の隣に横になっていた私は、『妖怪』という単語に否応無しに体を固める事になった。そんな私の様子に気付かず、緋一は話を続けていく。
「何でも、暗い夜道を歩いていると、提灯の日がふっと消え失せてしまう。それでもどうにか歩いていると、闇の向こうから『どこだ、どこだ』と童女のような声が響いてくるらしい。それは不安そうな声らしく……だからといってその声に答えてしまうと、頭からぱくりと食われてしまうんだそうだ」
「……怖ろしい、ですね」
「ああ。だが、こちらが何も答えなければ、その妖怪は何もしてこないらしい」
そう言って、緋一が布団へと入って来た。
萌黄が生まれてから、私達は娘を挟んで川の字になるように眠っている。彼は布団に入り、手で頭を支えながらこちらをじっと見つめると、
「なぁキスメ、俺達が初めて逢った時の――その夜の事を覚えているか。闇の中で、お前を助けた時の事だ」
緋一の声に、こちらを疑うような色は無い。ただの世間話の延長なのだと、私には理解出来た。でも、それでも、真っ直ぐなその視線を見つめ返す事が出来ず、私は萌黄の布団をそっと直しながら、
「……良く、覚えておりません」
震えずに、言う事が出来た。
そんな私に、緋一は「そうか、なら良いんだ」と微笑むと、彼は枕に頭を預け、
「おやすみ、キスメ」
「……おやすみなさい、あなた」
そう答えて、目を閉じた。
でも、今夜は眠れそうに無い。
何故ならば私は、瞼を閉じた先に拡がる闇と同じほどに深い闇を、良く知っているからだ。
緋一の話した妖怪が、私の知る闇を操る妖怪であるかどうかは解らない。そもそも、もうあの日から六年近く経つのだ。
つい最近知った事だけれど、私が元々根城としていた一本杉からこの家までは、実は驚くほどに近かった。いくら彼女でもこの家を見逃してはいないだろうし……と、そう思ったところで、ある可能性を思い付く。
あの日、私は闇の中で意識を失い、結果的に緋一達と暮らす事になった。そして私は、彼女は無事なのだと思い込んでいた。
でも、もし彼女も私と同じように意識を失っていたらどうなるだろうか。私とは違い、彼女はあまりこの山の事に詳しくなかった。もしかしたら、一本杉からいつもの寝床まで、どうやって戻ったら良いのか解らなくなってしまっていた可能性もある。
そんな右も左も解らない山の中で、こちらを探し出す事が出来るだろうか?
解らない。
全ては憶測でしかなく、そもそも件の妖怪が彼女であるという確証も無いのだ。
それに……今の私には、緋一と萌黄との生活がある。
そう。私は妖怪ではなく、人間として生きる道を選んだのだ。彼女の事は今も友達だと思っているし、悪いという気持ちもあるけれど――でも私は、この幸せを手放したくなかった。
そんな風に思いながら、私は眠りに落ちる前に、愛しい家族の顔をもう一度見ておこうと目を開き――
「――え?」
何も、見えない。
二つの寝息は聞こえる。
けれど何も見えず、何も感じられず、全ては底なしの闇の中。
瞬きを繰り返す。
でも、闇は晴れない。
「……」
嗚呼、駄目だ。
落ち着くんだ私。
緋一が言っていたではないか。
何もしなければ、黙ってさえいればこの闇は消える筈だ。
だから、だから――
「……」
呼吸が乱れる。
鼓動が乱れる。
思考が乱れる。
未来が乱れる。
「……、……」
駄目だ、
駄目だ。
駄目、なのに。
私は、瞼を閉じた先に拡がる闇を見つめながら、本当に小さな、自分の耳にしか届かないようなごく小さな声で、
「………………ルーミア?」
けれど彼女の――友達の名前を呼んでしまって、
途端、闇が晴れた。
刹那、絶望が胸を支配する。
自分で自分の幸せを砕いたのだと自覚する。
けれど全てが錯覚であって欲しいとそう願い続け……しかし、背後にある土間の方から物音がした。
それは、何かが地面に降り立ったかのような音。
異変に気付いたのだろう緋一が驚いたように飛び起き、私と娘の前に出る。
突然の事に萌黄が目を覚まし、眠たそうな眼で私を見上げた。
でも、動けない。
この瞬間だけ、私はルーミアの存在を恨んだ。
願わくば彼女以外の、別の妖怪である事を強く望んだ。
けれどその願いは呆気無く打ち砕かれ、非情にも、完全に言い逃れの出来ない状況が生まれた。
「やっと見付けたよ、キスメ」
嗚呼、
嗚呼!
何も知らない宵闇の妖怪は、そうして私へ――釣瓶落としの妖怪へと、人懐こい笑みを浮かべたのだった。
◇
彼女は、元々日本の生まれではなかった。
とはいえ、自分がどこで生まれた何者であるのか、という事は覚えてない。彼女は各地を点々としながら人間を襲い、喰らってきて、それが彼女にとっての全てであったからだ。
だから彼女は、自分がいつ頃から日本に住み着いているのか、その正確なところも解っていなかった。ただ、ある時不可思議な術を使う巫女に大敗した、という事は強く覚えている。
その時、どんな効果なのかは解らないが、髪に札を付けられた。もしかすると、過去の記憶が曖昧になってしまっているのはその札が原因なのかもしれない。だが、彼女はそれすらも良く解らなかったし、興味も無かった。
ともあれ、そんな彼女は――宵闇の妖怪・ルーミアは、釣瓶落としの妖怪・キスメと出逢った。
そして二人は、まるで遊びの延長のように人を襲い、喰らい、恐怖を撒き散らしていく事になる。
約六年前、一人の男に襲い掛かるその日まで。
そして再び一人きりになったルーミアは、キスメの予想通り、右も左も解らなくなり……人間として暮らし始めたキスメが暮らしているのとは真逆の方向を、何の手掛かりも無いままに探し始めた。
彼女がこの地に戻ってきたのはただの気紛れで、だからこそ二人の再会は偶然以外の何者でもなかった。
それがキスメにとって最悪の状況である事など、ルーミアは全く知らなかったのだから。
■
布団の上で体を起こした萌黄は、驚愕に目を見開いている父親を不思議そうに見つめ、そしてその疑問を母へ――私へと向けようとしていた。
けれど私は――釣瓶落としの妖怪は、もうどうする事も出来なかった。ただ、自分に出来る一番優しい微笑みを娘に向けると、乱れてしまっているその前髪を軽く直し、そっと布団から抜け出した。
そして緋一の正面に座すと、そのまま深く深く頭を下げ、
「今日まで有り難う御座いました。……ごめんなさい、あなた」
その言葉に緋一の体がびくりと震える。けれどその口から言葉が紡がれる前に立ち上がると、きょとんとした顔をしているルーミアへ視線を向け、
「闇を」
「……良く解んないけど、解った」
その頷きと共に、小さな少女から闇が溢れる。途端、世界が再び塗り潰され、
「き、キスメ!」
愛する夫の声が響き渡り、しかしそれに答えは返さない。返せない。
私はルーミアの手を引き、目を瞑ってでもどこに何があるのか解る家の中を突っ切り、外へと飛び出した。そして五年ぶりに空へと浮かぶと、そのまま夜の闇に紛れるようにして森の中へと突っ込んでいく。
遠く背後から私を呼ぶ声が聞こえたけれど、もう振り返る事すら出来なかった。
ただただ必死で、私は夜の森を突き進み――
「ちょ、ちょっとキスメ、一体どこまで行くの?!」
「え、あ……」
困惑したルーミアの声にようやく我に変えると、私は当ても無く飛んでいた体を止め、ゆっくりと地面に下りた。けれど両脚はいつものように体を支えてはくれず、そのまま尻を付いてしまった。立ち上がろうにも体に力が入らず、今まで自分が飛んでいたのが嘘だったかのようにも感じられる。けれどここは何処とも知らぬ山中で、すぐ目の前には困った顔をしたルーミアが居る。
何もかもが、現実だった。
とはいえ、それを理解したところで、これからの事など何も考えられない。そんな私に対し、ルーミアはこちらの正面に腰を下ろし、そして叱られた子供のような顔で、
「その……ごめん。ごめんなさい。何だか良く解らないけど、私が大変な事をしちゃったのだけは、解るから」
「……良いの」
全ては私が悪いのだ。そんな思いと共に呟いた言葉は酷く暗く、そんな私にルーミアは少し怒ったように、
「良くないよ! ……その、キスメは人間と一緒に暮らしてたんでしょ? そりゃ、いきなり飛び込んだ私が言えた事じゃないかもしれないけど……でも、説明とかしなくて良かったの?」
ルーミアに言われて、初めてその選択に気が付いた。どうやら私は、そんな簡単な事が思い付かないほどに動転していたようだ。
緋一と萌黄に嫌われたくない、失望されたくない、そして何よりも恐れられたくないという一心でここまで逃げてきたけれど、でも、もう私達は五年も一緒に暮らしてきたのだ。そこには深い絆が生まれていた。
だからそう、過去の全ては説明出来ないにしても、私が妖怪である、という事実は受け入れて貰えたかもしれなかった。
けれど――怖い。自分が妖怪であると告白して、もし拒絶されたらと考えたら、私は立ち直る事が出来ない。その光景を想像するだけで涙が浮かび、どうしようもない恐怖に体が震える。
ならばいっそ、このまま逃げてしまった方が良い。家族と離れるのは身を裂かれるように苦しいけれど、愛する二人から拒絶されるよりはずっと良かった。
それでも、こんなにも唐突な別れが訪れるとは思ってもいなかったから、どうしようもない苦しみに動けなくなる。だから私は、それを少しでも紛らわせる為に、ルーミアへと話題を振った。
「……ねぇ、私とルーミアが離れ離れになったあの日、何があったの?」
「え? でも……」
「教えて」
私の言葉に、ルーミアはこちらの様子を窺いつつも思案顔になると、「あんまり良く覚えてないけど」という前置きと共に、
「えっと……あの時も、私は計画通りに闇を生み出したの。で、相手を混乱させたと思ったら、突然洋服を掴まれてね。人間の中には妖怪の気配に敏感なヤツが居るから、私の居場所がばれちゃったのかもしれない。それで、そこからすぐに攻撃に回れば良かったんだけど、洋服を掴まれたのなんて初めてだったから、動揺した私は慌てて逃げ出しちゃって。そしたら、相手が私を追い掛けて来たの。まぁ、その人間の逃げた方向が私と一緒だっただけなのかもしれないけど、慌てた私は空を飛び続けて……気付いたら、良く解んないとこにいたのよね。……ま、前が見えない中を飛んでたんだから当たり前なんだけど」
そんな中で落とした釣瓶に緋一が頭をぶつけ、その衝撃で私は桶から投げ出された。
「で、どうにか一本杉を見付けて戻ってみたら、そこには誰も居なくて、キスメの桶しか残ってなかったのよ。それで、私はキスメを探し始めて……」
「……あの家を見付けたのね」
「そう。実は昼間から気付いてはいたんだけど、まさか人間と一緒に暮らしてるとは思わなかったから様子を見てたの。……ねぇキスメ、どうしてあんな風に暮らしてたの?」
その純粋な問い掛けに、ふと、緋一と出逢った頃の私の姿が重なった。
とはいえ、私の得た暖かさを話して聞かせたところで、ルーミアが私のように人間を喰らう事を止めるとは限らない。それどころか、逆にルーミアから「そんなのは変だ」と批難される可能性もあるだろう。
けれど、もう独りになりたくなかった私は、曖昧に笑ってその場を誤魔化したのだった。
■
こうして幸せな日々は終わりを告げ、私は愛する家族から逃げ出した。
そんな私が再び『我が家』に戻ってくるのは、それから三十年近く経っての事だ。
■
一時的にも『人間』として生活をしていた私だけれど、それでも目まぐるしく変わっていく世の中に順応するのは難しかった。
どう繕ったところで私は妖怪で、その生きるべき場所は夜の闇の中なのだ。けれど、そうした闇は急速に人間達から失われていった。それはまるで、文明開化という名の魔物に襲われているようでもあった。
時代と共に、妖怪や幽霊が消えていく。放浪の途中で出逢った妖怪は、それを『幻想』だと呼んでいた。私達のような存在は全て幻想となり、この世界から消えてしまうのだと。
……その行き着く果てに『幻想郷』と呼ばれる場所があるのだと知ったのは、それから更に後の事だ。
幻想郷とは、とある山奥に存在する一角の事を指すらしい。そこには数百年前から結界が張られており、多くの妖怪が棲んでいて――故に、山の名前ではなく、幻想の郷、『幻想郷』という名で呼ばれるようになったという話だった。
そして、そこに棲む妖怪達の中には、外国の妖怪も多く含まれているらしく……もしかしたらルーミアは、それに引かれて日本にやってきたのかもしれない。そんな事を思った。
とはいえ、過去を引きずり続けている私はその幻想郷へとは向かう気になれず、ルーミアと共に放浪し続けていた。
時には山を下り、急激に変化していく世界を眺め、自分達は取り残されていくのだと痛感する毎日。
そんな中で『我が家の様子を見てみよう』と思ったのは、変化していく日常に耐える為の、心の拠り所を求めたからなのだろう。
それでも、その決心が行動に結び付くまでに長い時間を要した。家族を思うとどうしても恐怖が生まれてしまい、次の一歩を踏み出す勇気が出なかったのだ。
最終的な切っ掛けは、『幻想郷に博麗大結界という結界が張られる』という話を聞いたからだった。それにより幻想郷は完全に隔離され、妖怪達の楽園は絶対のものになるのだという。
変化し続ける世界の中、最早幻想郷にしか生きる場所がないのだろうと判断した私は、一旦ルーミアと別れ、強い恐怖に苛まれながらも我が家へと戻った。
遠くへ遠くへと逃げていた筈なのに、実際に戻ってみればそんなに遠く離れていた訳ではなかった。
戻ってきた一本杉のある山は、当然のように様変わりしていた。何せ三十年も経っているのだ。当然のように山には人間の手が入り、木々は数を減らし、代わりに家が増えていた。けれど、目印となる一本杉だけは昔と変わらぬ姿でそこにあった。
そして、逃げ出したくなる気持ちを抑えて、私は恐る恐る我が家へと向かい……
……けれどそこには、何も存在していなかった。
手入れもされず、老朽化が進んで崩れたのだろう緋一と蒼太の家は完全に崩れて土に戻りつつあり、蒼太の墓標も何処かへと消えていた。
人の気配など欠片も存在しない。
そこにあるのは、何もかもが終わってしまった静寂だけだ。
それを理解した瞬間、私はその場に崩れ落ちていた。
「……私は、馬鹿だ」
三十年という時間は、妖怪と人間ではその感じ方が違う。それは解っていた筈なのに、私は何を期待していたというのだろう。
あの日、緋一と萌黄の前から逃げ出した時と同じように、彼等が今もこの土地で暮らしているとでも思っていたのだろうか。
馬鹿げている。なんて甘い想像だろう。なんて甘えた期待だろう。
一家の幸せを壊したのは私だ。その修復の為に緋一が山を下りる可能性は高かった。けれどそれを受け入れたくなくて、私は都合の良い想像だけをしてきた……。
「……」
恐れられる事が何だったというのだろう。そもそも妖怪とは、人間に恐れられる生き物なのだ。だから初めから、そんな事を忌避する必要なんて無かった。どれだけ恐怖されようと、拒絶されようと、私は二人を心から愛していたのだから!
「それなのに、私は……」
何の想いも伝えずに、二人の前から逃げ出してしまった。逃げ続けてしまった。
後悔したところで何もかも遅く、けれど溢れ出す涙を止められない。
湧き上がる様々な感情に震えながら、私は一人嗚咽を漏らし続けた。
■
そして、明治十八年。
博麗大結界が張られると共に、私達は――妖怪は、この世界から消え失せた。
□
幻想郷は確かに楽園だった。
失われたと思っていた自然が、そして妖怪を恐れる人間が――夜の闇が、そこには当然のように存在していた。
それは懐かしく、しかし少しだけ違和感の感じる風景。どうやら私は、思っていた以上に外の世界に馴染んでいたようだ。
そう、外の世界。家族と一緒に暮らしていた場所。
「……」
ルーミアと放浪するようになってからも、私はどうしても『妖怪』に戻る事は出来ず、人間を喰らう事はなかった。だからといって、ルーミアが人間を襲うのを止める事も出来なかった。それが妖怪の生き方であるという事を、私自身が一番良く解っていたからだ。……でも、そこに嫌悪感は感じてしまっていた。
そんな私には、妖怪の跋扈するこの幻想郷の空気は少し受け入れ難いものがあった。けれどルーミアはそうではないようで、幻想郷の空気に自然と馴染み、湖の近くに寝床を作ったのだと嬉しげに教えてくれた。でも、私は何処かに定住する訳でも無く、この広くて狭い幻想郷の中を一人歩き回っている。
手には、妖術で大きさを変化させていない、ただの桶が一つ。人里に立ち寄った時に道具を借りて、自分で作ったものだ。緋一との暮らしの中で覚えた道具の使い方は、三十年経った今でもしっかりと体が覚えていた。
その後、出来上がった桶を井戸に落として釣瓶として使い、いつでもその大きさを変えられるようにはしておいた。
でも、
「……もう使う事は、無いだろうけど」
人間を襲うつもりが無いのだ。もし大きさを変える事があれば、それは寝床の変わりに使う時ぐらいだろう(というか、私はそのつもりでこの桶を作ったのだ)。
そんな新品の桶を持ちながら、私は当ても無く歩いていく。
一部の妖怪の間ではいざこざが起こっているようだけれど、そういった確執の外に居る私には、この場所が平和であるようにしか感じられない。
変化の無い幻想の楽園。幻想郷。
変化していく外の世界は、私達妖怪の居場所を奪ったけれど、それでもその変化は想像を超えるものばかりだった。
「……陸蒸気、見ておけば良かったかな」
違った、今では汽車と言うんだったか。そんな事を思いながら、街中でちらりと見掛けた絵の事を思い出す。東京の方で走っているのだというそれは、真っ黒な煙を吐き出しながら人を運ぶのだそうだ。……火事にならないのだろうか。
とはいえ、今となっては全て手の届かない場所にある。幻想郷に居る私には、それこそが『幻想』なのだろう。
そんな風に思いながら、見えてきた見晴らしの良い丘の上で立ち止まると、私はぼんやりと空を見上げた。
こうしてみると、外の世界とはその青さも違うように見える。
「……」
でも、私はこんな空を望んでいた訳ではなかった。
私の中には、今も家族と暮らしていた日々に対する渇望がある。もしあのまま一緒に暮らし続ける事が出来ていたらと、自分から手放したそれを求め続けてしまうのだ。
ルーミアを責める訳じゃない。これは、否定される事を恐れた私の愚かさが原因なのだから。
でも、それでも――
と、そう考え続けていたところへ、不意に大きな叫びが響き渡った。
「女の子の、悲鳴……?」
突然のそれは、しかし確実に誰かの悲鳴だった。
「……」
力の無い私には、何もする事が出来ない。でも、それでも響いてきた声の方に向かってみると……妖怪と思われる男女が数人、一人の少女を取り囲んでいた。
とはいえ、男達は直接手を出さずに眺めているだけのようで、女達だけが少女へと何かを――いや、攻撃、していた。
確かあれは、妖弾と呼ばれるものだっただろうか。妖術と同じように、体内の霊力を外に射出するその攻撃方法は、肉弾戦を主とする妖怪達から『卑怯だ』と批難されていた筈だ。
もしかすると、そうして虐げられた者達が、自分達を批難する妖怪に反旗を翻そうとしているのかもしれない。そんな事を一瞬思うものの、すぐにそれを否定する。
何故なら、私の目の前で繰り広げられているのは、ただの一方的な加虐だったからだ。
こうしている間にも、赤や黒といった、夜の闇に紛れそうな色の妖弾が、うずくまっている少女へと容赦無く放たれていく。
笑い声と、時折漏れる苦しげな声だけが聞こえる。
「……」
痛みの無い行為だと、そんな事を思う。笑っている女達は一歩離れた場所から少女を攻撃している。反撃される可能性の無い、怒りすら感じるほどに安全な場所で。或いは、少女が反撃しないのを解ってやっているのだろうか。
でも、私が加勢に入ったところでどうにもならない。私も少女と同じように傷付けられるだけだ。
だからそう、ここは見て見ぬ振りをしてこの場を去るのが一番無難な選択なのだろう。襲われている少女は恐らく妖怪だろうし、すぐに死に至る事もない筈だ。
弱い妖怪というのは、弱い人間と同じように、強い力を持つ妖怪には逆らえない。逆らったところで、結局勝てる訳が無い。そうしてただ傷を――傷が、
「――」
背中に受ける傷は、誰かから逃げる時の傷。
誰かを護る時の傷。
「……」
男の一人が私の存在に気付いた。すぐに逃げ出さなければ私も襲われる事になるだろう。
でも、私は忘れる事など出来ないのだ。
愛する夫の背中に刻まれていた、あの痛々しい傷跡を。
だから、
「おいお前! 何を見て――」
「――ッ!」
私は意を決すると、荒々しい声と共に一歩を踏み出して来た男の顔面へと鬼火を放った。私のそれは熱を持たないけれど、その代わりに相手の精気を奪う事が出来る。同時に右手に持っていた桶に妖術を掛け、それをうずくまっている少女の方へと放り投げた。
放物線を描いて飛ぶ桶は一気に巨大化し、私の体ならば軽く隠せるほどの大きさになる。それに驚く女達に邪魔されぬように、私は更に妖術を付加し――狙い通り、少女の体をすっぽりと被うように桶を落下させた。
結果、女達の放っていた弾幕は桶に阻まれ、その役目を果たさなくなり、同時に彼女達の眼が一斉に私へと向いた。
「ッ、」
蛇に睨まれた蛙、というのはこういう事を言うのだろうか。力のある相手と戦うなんて初めてで、極度の緊張と恐怖に今にも逃げ出してしまいたくなる。それでも私はどうにか足を踏ん張って、鬼火を生み出せるだけ生み出していく。
けれど、私の力では彼等を足留めする事すら出来ないのか、男達は精気を奪っている筈の鬼火を呆気なく振り払い、怒りの形相で私へと向かってくる。その背後に居る女達の足は止まっているものの、実際にその動きを止められている訳ではなかった。恐らく、目の前の枝葉を嫌う程度の威力しか与えられていないのだろう。
その圧倒的な力の差に、思わず泣き出しそうになる。同時に浮かぶのは、傷だらけの、けれど力強かった緋一の背中。弱い気持ちが出たら駄目だと解っているのに、愛する夫の姿が脳裏に浮かんだ瞬間、私の足は完全に動かなくなってしまっていた。
それを好機と見たのか、男の一人が地面を蹴った。そして一瞬で私の眼前に現れ――
「伏せて!」
その声が聞こえた瞬間、私は尻餅をつくような形で体を下げ、男の拳が一瞬前まで私の頭があったところを殴り付ける。その、風切り音と共に振り抜かれた拳に、私は短くも引き攣った悲鳴を上げた。
対する男は一撃で仕留められなかった事が不服だったのか、忌々しげに舌打ちをすると、尻餅を付いて動けなくなってしまった私へと視線を向け――刹那、その側頭部に何かが撃ち当たり、そのまま左手へと勢い良く吹き飛んだ。
突然のそれに、私も、そして周囲の男達も動きを止めていた。それでも、呆然と何かが飛んで来たのだろう方向へと視線を向けると、そこには桶から這い出してきている少女の姿があった。
短く切られたムラサキの髪に、青を基調とした洋服を着ている彼女は、胸に黒い仔猫を抱えていて――その隣には、奇妙な紅い塊があった。
その塊は、体の各所へと所々紅く染まった黄色い管を伸ばしている。それはまるで、体の外に出た心臓が、全身へと血を循環させているようでもあった。
途端、私へと向いていた敵意が少女の方へ移っていく。そして、それを一心に受けた少女の、その胸にある紅い塊が小さく蠢き――まるで瞼を上げるように口を開いたかと思うと、人間のそれに似た、だからこそ醜悪さを感じる瞳が現れた。それはぎょろりと動きながら、女達の様子を窺い始める。
それと同時に、少女の姿に――いや、その紅い塊に脅えるように女達が悲鳴を上げ、恐れるように後退っていく。それに入れ替わるように男達が前に出るものの、対する少女に動揺する素振りはない。それどころか、彼女はどこか楽しげな笑みを浮かべ、
「――覚えましたよ。これで私も自衛手段を得る事が出来ました」
言いながら、少女がゆらりと右腕を上げる。と、視界の端で、私を殴ろうとしていた男がどうにか起き上がり、
「き、気を付けろ! あの化け物は――」
その言葉が告げ終わるよりも早く、再び男が吹き飛んだ。
同時に、他の男達も見えない何かによって吹き飛ばされていく。それが前触れも無く放たれた妖弾なのだと気付いたのは、男達が完全に吹き飛んだ後、少女の指先が女達へ向けられた時の事だった。
「『怖ろしい』『化け物』『どうして妖弾を』、ですか? ご親切に貴女達が教えてくれたのではないですか。『これ』の生み出し方を」
途端、少女の体を飲み込まんほどの巨大な妖弾が連続で生み出されたと思うと、それが高速で放たれた。女達はそれを体に受けながら、這う這うの体で逃げ出していく。それに続くように、吹き飛ばされていた男達もどうにか逃げていった。
そして自分の勝利を確信したかのように、黒猫が小さく鳴き声を上げる。それがあまりにも場違いで、緊張の糸が切れた私は再び尻餅をついてしまっていた(高速で放たれていた妖弾から逃げようと、半ば立ち上がりかけていたのだ)。
「大丈夫ですよ。貴女には当たらないように調整しましたから」
「え……?」
「助けて頂いて有り難う御座います。私は古明地・さとり。お蔭でこの仔を守る事が出来ました」
そう言って、さとりは腕の中の仔猫を愛しげに撫でる。それにくすぐったそうに鳴き声を上げる黒猫を見上げ……私は、勇気を出して頑張った自分を褒めてあげたくなった。
同時に、さとりがうずくまっていた理由に気付く。彼女はその仔猫を、
「『その仔猫を助けようとしていたのか』。ええ、そうです。親猫とはぐれてしまったこの子の世話をしていたら、何が気に喰わないのか、あの男達に因縁つけられ……というか、突然攻撃されまして」
「そ、そうだったのですか……って、あれ? え?」
「『私は何も言っていないのに』、ですか。ええ、その『もしかして』ですよ。これは第三の眼。これで貴女の心を読んでいるのです、キスメさん」
名乗ってもいない名前を言い当てられて、流石に二の句が告げなくなる。何せ私と彼女は初対面で――いや、そもそも、この幻想郷で私の名前を知っているのはルーミアしかいないのだ。人里で道具を借りた時も、私は自分の名前を名乗っていないのだから。
となると、彼女は本当に私の心を読んでいるのだろうか。……例えば、
「『こんな風に考えた事も』、この通り、解ってしまいます。『やっぱり本当なんだ』『でも助かって良かった』ですか。いえ、それはキスメさんのお蔭です。『桶は無駄だったかな』。違います、あれのお蔭で意識を集中する事が出来ました。『なら良かった』。ええ、本当に」
「……凄いですね」
「そんな事はありませんよ」そう、さとりは微笑みを強め、「でも、本当に助かりました。妖弾などといった、体の内側にある力を使う場合は、相手の心を読んだだけではすぐに模倣出来ません。ですがキスメさんが助けて下さった事で、彼女達の心に動揺が生まれ、そのコツを知る事が出来ました。なのでこれからは、どんな妖弾でもすぐに模倣出来……あ、『怪我』ですか? 大丈夫です。こう見えても体は丈夫な方ですので」
本当に凄い。会話要らずというだけでも十分凄いのに、相手の術まで自分のものにしてしまうなんて。
と、そんな事もお見通しなのだろう彼女は、けれど不思議そうな表情で、
「貴女は、心を読まれる事が……いえ、この眼が恐ろしくないのですか? ああ、『失礼に聞こえたらどうしよう』なんて気にしなくて大丈夫ですよ」
「不思議だとは思いますが、恐ろしいとは思いません。……私は心を隠した結果、大切なものを失ってしまいましたから」
「だからもう隠すものは無いと?」
「はい。失うものもありませんから」
それが今の私の結論だ。そう思う私の前で、さとりが少し驚いたように目を見開いた。同じように見開かれる第三の眼は不気味だけれど、様々に変化するその動きには少し愛嬌があるように思えた。
「貴女は不思議な方ですね」
そう告げるさとりの表情にはまだ驚きがあって、けれどそれは微笑みに変わっていった。そうして儚げに笑う彼女が、化け物と蔑まれるほどの存在であるようには思えない……と、そう考えて、私はある事に思い至った。
この幻想郷で暮らすようになり、様々な種類の妖怪を見るようになって、私には解った事があった。それは、殆どの妖怪が自分の力に自信を持っている、という事。いや、自信というよりも誇りだろうか。
例えばそれが山をも砕く怪力であったり、一瞬で様々な事を理解する聡明な頭脳であったり、森羅万象を変化させる妖術や魔法であったりする。そしてそれを持つ妖怪の誰もが『自分が一番である』と思っているのだ。
それは言ってしまえば、
「『妖怪は我が強い』」
ということ。
とはいえ、妖怪は人間よりも精神的に成熟している。だから精神的な強さでも人間より遥かに強いのは確かだ。でも、だからこそ、その心を丸裸にするさとりに対して恐怖を抱くのだろう。
精神的な強さなど、彼女の持つ第三の眼の前では全く意味を成さないように思える。さとりが相手の心をどこまで深く探れるのかは解らないけれど……いや、解らないからこそ、相手の感じる恐怖は倍増する。故に彼女は『化け物』と、そう蔑まれるようになってしまったに違いない。
「恐らくはそうなのでしょうね。でも、だからこそ、私には人間の方が恐ろしい」
精神的にあまり強くないというのは、つまり精神的な余裕をすぐに無くしてしまうという事。つまりさとりは、
「『予期せぬ出来事に対処出来ないのではないか』。……ええ、その想像は当たっています。キスメさん、貴女は高い考察力をお持ちなのですね」
「それは、その……夫のお蔭です」
あの暖かな幸せに満ちた五年の間に、私は緋一から本当に沢山の事を教わった。こうして様々な事を考えられるのも、全て彼のお蔭なのだ。
例えば(これは最近の知識だけれど)、『明治』という単語が何を示すのか、過去のままの私ならば全く解らなかっただろう。でも、今はそれが元号なのだと知っている。いや、そもそも、『何かを知ろう』『解らない事は考えよう、調べよう』という気持ち自体を、緋一から教えて貰ったのだ。
彼は人間の事も妖怪の事も良く知っていた。初めて逢った時にしてくれた寝物語もそうだ。……あの話は緋一から私へ、そして私から萌黄へと引き継がれていく筈だった。けれど、それはもう叶わぬ夢だ。
「……キスメさんは、今も旦那様の事を愛しているのですね」
その言葉に、思わず下げてしまっていた顔を上げる。心を読める彼女には、私が感じてきた苦痛や悲しみも感じられるのかもしれない。何故なら、そう思えるほどにさとりの表情は辛く悲しく、そして淋しげだったからだ。
「私は、そんな聖人のような存在ではありませんよ。……ただの化け物です」
腕の中の仔猫を撫でながら、彼女は言葉を続けた。
「幻想郷という場所が隔離され、そこへ様々な妖怪が一堂に会した事で、至るところで確執が起こっています。それらは時間と共に落ち着いてくるでしょうが、しかし私のような存在は延々と排他され続ける筈です」
その言葉は、この状況がどうにもならないと諦観しているかのように、淡々と紡がれた。
「人間だろうと妖怪だろうと幽霊だろうと、忌み嫌う相手というは常に存在するものです。共通の敵は、団体の結束を強めますから」
「……そんな事って……」
だが、さとりの言う事も理解出来る自分もいて、余計に悲しくなる。そんな私を前に、彼女は優しく微笑み、
「大丈夫です。こうして排他される事には慣れていますし……だからこそ、そこから目を逸らす事は出来ません。それが『覚』という種族である私達の定めなのでしょうから。……『私達?』。あ、そういえば言い忘れていましたね。私には妹が居るのです」
「妹さんも心が読めるのですか?」
「ええ。でも、あの子は私よりも感受性が強くて……いえ、ごめんなさい。これ以上は愚痴になってしまいますね」
「構いません。私で良ければ話を聞きます」
心を見られる羞恥はある。けれど、困っている人を放っておく事は出来ない。
それもまた、緋一が教えてくれた事なのだから。
■
さとりと、その妹のこいしと出逢った事で、私の生活は以前よりも少し騒がしくなった。
そんな中で、こいしは私をとても慕ってくれた。どうやら彼女にとって、自分の事を恐れない相手というのはとても貴重なものであるらしい。直接それを本人から聞いた訳ではなかったけれど、さとりとの話からそれは感じる事が出来た。
「私達の持つ第三の眼は、その力の強弱が効かないの。つまり私達は、四六時中誰かの心を読み続ける事になる。だからこそ、私達はその『他人の心』から自分の心を護る強さを必要としているの」
けれどこいしは、彼女の心が耐えられぬほどに強く他人の心が読めてしまうらしい。故にさとりはこいしを護り続けてきて……その結果、彼女はどうにかその心を壊さずに生活出来ている。
全ては、妹の為。さとりの背負う苦しみは私のそれを越えていて、世界の不幸を一人で背負い込んでいたかのように思っていた自分が恥ずかしくなる。でも、だからといって、その苦しみが消える訳ではない。
明るく騒がしい、けれどどうしても消えない闇のある中、私は日々を過ごしていく。
■
そうして、幻想郷が隔離されてから一年ほど経った頃のこと。
その頃私は、打ち捨てられた井戸の中で暮らしていた。外に出るのはさとりに呼ばれた時ぐらいで、それ以外はぼぅっと空ばかり眺め続けている毎日。
さとりは『一緒に暮らそう』と提案してくれたけれど、私はそれを断っていた。
理由はただ一つ。私の『我が家』は、もう出る事の叶わない結界の向こう側にしか存在しないからだ。悔やみ続けても仕方が無いと解っていても、どうする事も出来なかった。
そんなある日、井戸にさとりがやって来た。けれどその表情は、何か思い詰めているかのような真剣なもので、
「……突然ごめんなさい。今日は、キスメに報告しておく事があって」
「報告?」
一体何なのだろう。そう疑問を感じつつ井戸から出ると、久々の日光に眼が痛んだ。そんな私の姿に、さとりは小さく微笑みを浮かべ……しかし、すぐに真剣な表情に戻ると、
「実は、少し前にうちへ閻魔様が尋ねてきて……。私に、怨霊の管理をして欲しいと仰られたの」
「閻魔様が?」
閻魔。それは死者を裁く十王の一人であり、地獄の主だ。けれどその姿は、冥王とは思えぬ、とても可憐な少女の姿をしていたらしい。
彼女は、地底に鬼を中心とした都市が築かれている事、その場所に住み始めた妖怪に地上の妖怪が危機感を持っている事などを説明した後、
『地上の妖怪は、地下都市の存在を認める代わりにある条件を提示しました。それが、地底の怨霊を封じる事。とはいえ、怨霊は人妖に害をなすものであり、ただの妖怪にその管理を任せる訳にはいきません』
そこで閻魔は一度言葉を切り……しかし、第三の眼が捉えた彼女の心は、さとりの想像を超えていたという。
そんなさとりに対し、閻魔は真剣な表情のまま、
『私の心が読めるのならば、話は早いですね。私は、「覚」である貴女にならば、怨霊の管理が出来ると考えています。いえ、言い方を変えましょう』
真っ直ぐに、ただ真っ直ぐに閻魔は言ったそうだ。
『――貴女に、灼熱地獄跡に建設された、地霊殿の館主になって頂きたいのです』
「……青天の霹靂だったわ。まさか閻魔様に頭を下げられるなんて思ってもいなかったから。でも、閻魔様が仰るには、それは以前から問題視されていた事でもあったらしいの」
地獄とは、罪人へと罰を与える場所だ。しかし、現在の地獄は鬼と罪人との癒着が進み、罰せられている筈の霊が地獄を出たがらないという状況が起こっていた。それを改善する為、閻魔は数百年前から地獄のスリム化を進め……現在では、地底界と呼ばれる場所が地獄から切り離されているらしい。
しかし問題なのは、そこに鬼が、人間に見切りをつけた者達が都市を築いていた事だった。いや、それだけならば問題にはなかったものの、最近になり――博麗大結界が張られ、各国の妖怪が一斉にこの場所に集まってから――そこに住み着く妖怪の数がどんどんと増加しているらしい。その結果、地下都市の存在を地上の妖怪達が警戒し始めてしまった。
この状況を放置すれば、地上と地下の妖怪達の間で戦争が起きてしまうかもしれない。閻魔はそれを危惧し、自らさとりの元へと現れたのだろう。
つまり、地上の妖怪に地下都市を認めさせる事は、誰でもない閻魔自身の望みでもあったのだ。
そもそも鬼は交戦的な種族だ。自分達の都を地上の妖怪に認めさせる為ならば、相手が誰であろうと進んで勝負を挑もうとするだろう。下手をすれば、スリム化を果たした地獄で働く獄卒達も、仲間の鬼達の為に立ち上がるかもしれないのだ。そうなってしまえば、地獄の運営は滅茶苦茶になってしまう。
「でも、そんな鬼の獄卒達も――戦いも何も起こっていない状況ならば――上司である閻魔様の言葉には素直に従うわ。それは、過去に地獄で働いていた、今は地下都市で暮らす鬼達も同じである筈。……地上の妖怪の思惑がどこまで絡んでいるのかは解らないけれど、これは結局、閻魔様と地獄の鬼達の問題でしかないのでしょうね」
それでも、地上の妖怪を納得させるには、地下の妖怪が『怨霊を封じる』という行動を示す必要があり――それを果たす事で、地上の妖怪は地下都市へ立ち入らない事を約束すると決めたらしい。つまりさとりは、その人柱に選ばれたようなものなのだ。
そう思う私に、しかしさとりは首を横に振り、
「鬼達は、地上で忌み嫌われた妖怪を率先して受け入れているらしいの。言わばそこは、地上に馴染めない妖怪達の楽園なのよ。
だから私は、閻魔様の提案を受け入れる事にしたわ。嫌われ続けてきた私にも出来る事があるのなら、それを全うしたいと思うから。……それに、他者から嫌われる苦しみを知っている妖怪達なら、こいしを傷付ける事も無いでしょうし」
「さとり……」
こうしてさとりと友達になって、一つだけ知りたくなかった事がある。それは、彼女が――覚が、この幻想郷で最も嫌われた妖怪である、という事。だからこそ、彼女の眼に宿る決意には、こいしに対する想いが強く現れていた。
他人の心が読めるからといって、自分の心が傷付かない訳ではない。恐怖や不安を感じない訳ではない。花のように広がる袖から覗くさとりの手は、強く握り締められて真っ白になっていた。
第三の眼は、じっと私を見つめている。でも、さとりは何も言わない。その決意は最早不動で、だから私は彼女を止める事も、浅ましく応援する事も出来なかった。
「……ねぇ、キスメ。私達と一緒に来ない?」
それは、心のどこかでは予想していた言葉だった。でも、私は何も答えられず……そんな私を前に、さとりは言葉を続けた。
「酷い言い方になるけれど……こうして地上に留まり続けていても、何も起こらないわ。過去を忘れろと言っている訳じゃないの。私には、ただこうして地上で日々を過ごし続けるのと、地下で暮らす事、そこに差異は無いように思えるのよ」
そう言って、さとりは私の手を取り、
「無理にとは言わないわ。でも、私とこいしは貴女に一緒に来て欲しいと思ってるの。それを忘れないで」
そうして儚げに微笑むと、彼女はこちらから一歩離れた。私はその姿を見つめながら、けれど自分の考えが全く纏まらないのを感じる。
「地下都市へ繋がる洞窟の入り口が閉ざされるのは、今日から約一ヵ月半後。私達はそれよりも早く地下へと降りて、地霊殿で暮らし始めるわ。……私はそこで、キスメと逢えるのを待っているから」
そっとこちらの手を放し、ふわりと空へ浮かび上がると、さとりはそのまま飛び去っていく。
私はその姿を見送りながら、ただ立ち尽くす事しか出来なかった。
夜。
ずっと立ち尽くしていた私が我に返ったのは、遠く聞こえて来た「キスメー?」という声が耳に届いてからだった。
私はふらふらとする体を休めるように腰掛けながら、声の方向へと視線を向ける。そこには、楽しげな笑みを浮かべた宵闇の妖怪が浮かんでいた。
「……ルーミア」
「久しぶりー。って、どしたの、そんなに暗い顔して」
軽い足取りで地面に降り立つと、彼女は私の顔を覗き込んでくる。その様子がどこか娘である萌黄の動作に似ていて、酷く心が痛むのを感じながら、
「……ルーミアは、地下都市の話を知ってる?」
「知ってるわ。私の友達でも、何人か地下に行くって子が居るから」
そう笑う彼女には邪気が無い。彼女のように誰とでも仲良くなれる妖怪が多くなければ、きっとさとりも嫌われる事がなかったのかもしれない。そんな風に思っていると、不意にルーミアが表情を変え、
「って、もしかしてキスメも地下へ降りるの?」
「解らない。……どうしたら良いか、解らないの」
私は背を押して貰いたいのだろうか、それとも引き止めて貰いたいのだろうか。自分の事なのに、それが良く解らなくなっていた。
対するルーミアは過去の事があるからか、私の目の前にぺたんと座り込むと、とても済まなそうな顔で、
「ごめんね。私には、キスメが悩む理由が良く解らない。だって、地下都市へは洞窟で繋がってて、逢おうと思えばすぐに逢える訳だし」
「駄目よ、それは。地上の妖怪は地下には入らないって、そういう約束なんだから」
「そーなのかー。……でも、そういうのを守らないのが妖怪じゃない?」
「ルーミア」
「はいはい。全く、キスメは厳しいんだから」
そう言って笑うルーミアは本当に子供のようだ。けれど次の言葉を告げた時、その表情は酷く大人びたものへと変わっていた。
「……後悔、したくないんでしょ? まぁ、切っ掛けを作った私が言うのもあれなんだけど」
「後悔……」
「そう。キスメはさ、多分幻想郷に来るべきじゃなかったんだよ。私と再会した後も前みたいに山で暮らしてたけど、私にはキスメの事が何度も『人間』に感じられた。だから多分、もうキスメは人間になっちゃってたんだよ」
「……そんなこと」
「人間は悪い事や酷い事をする相手を、『アイツは鬼のようだ』って言う事があるよね。あれって多分、本当の事なのよ。だから、人間と全く同じ生活をする妖怪は、もう『人間』としかいえない。私はそう思うわ」
それはとても単純な考え方。実際には寿命などが大きく違うのだから、人間が妖怪になれても、その逆は有り得ない筈だ。けれど、私はルーミアの言葉を否定出来なかった。何故ならばその考えは、誰でもない私自身が望んでいたものだったのだから。
「だから、『キスメは幻想郷に来るべきじゃなかった』って、私は今更になって思う。取り戻す事は出来なくても、希望は消えなかっただろうから」
それは、家族と再会出来たかもしれない、という可能性。でも、ルーミアは解っていない。三十年以上経ってしまった今、緋一はもう生きてすらいないかもしれないのだ。
でも、それでも、幻想郷に向かうという選択肢を選ばなければ、私は緋一達を探し始めたに違いない。そうと断言出来るほどに、私は今も家族の事を愛し続けていて――そしてそれこそが、ルーミアの言う後悔に繋がるのだ。
そう思う私に対し、ルーミアは済まなそうに、
「ごめんね、キスメ。酷い事言って。だけど私はそう考えてて……だからこそ、そう深く思い悩む必要は無いんじゃないかって思うわ。キスメにとっては、地上も地下も変わらないだろうから」
忌み嫌われた妖怪と共に鬼が地下都市を築き、そして残った妖怪が地上を発展させていく。けれど、それは結局『幻想郷』という場所の出来事なのだ。その楽園から抜け出す方法が無い私には、自身の居場所など意味の成さない事なのかもしれなかった。
だからそう、辛辣でもあるルーミアの言葉を聞きながら、けれどその指摘は間違っていないと感じる。私にしてみれば、『幻想郷』という場所に居続ける以上、この後悔は一生続いていくのだ。
ならば、私は――
「……決めたよ、ルーミア」
私は地下へと降りよう。『幻想』になってしまった私は、もう外の世界には出られない。けれど希望も捨てられない。ならばそれをゆっくりと過去へ変えていくしかない。
忘れるのではなく、乗り越えていく為に。
全てを失った私には、もうそうやって生きていく道しかないのだろうから。
■
それから一ヵ月後、さとり達が地下へと下り……更に一週間ほど経った頃、私は博麗神社近くにある洞窟の入り口へとやって来た。
地下都市への移住を希望していた者は既に地下へと下りており、恐らくは今日を最後に入り口へと結界が張られるとの事だった(それはこの洞窟の存在を秘匿するもので、新しく幻想郷にやって来た妖怪が地底に入り込まないようにする為の処置でもあるらしい)。
その準備をしているのか、洞窟の近くには博麗の巫女や、数人の妖怪、更には美しい金髪を持った女性の姿も見える。誰が妖怪の賢者なのかは解らないけれど、さとりの事を良く知る私にしてみれば、決して仲良くなれない相手だろうと思えた。
そうして、洞窟の入り口に立つ。
地下都市は遥か下にあるのか、ここから見えるのは果てしなく拡がる闇だけだ。
私はその深い闇を前に一瞬だけ逡巡し――意を決すると、思い切ってそこへ飛び込み、久しぶりに空を飛んだ。
そのまま私はゆっくりと洞窟を下りていき……ある程度降りたところで、ゴツゴツとした岩肌の一部に縄を取り付け、それを持参していた桶の取っ手に括り付けた。そして、普段のように桶を巨大化させると、その中へと入り込む。
位置は恐らく、地上と地下都市との中間辺りだろうか。話だとこの先に橋があり、それを越えると鬼達の都に辿り着くのだという。
だからここは、地上とも地下都市とも離れた、中途半端な位置。
自身を動かす滑車を――家族を失った私には、お似合いの場所だろう。
「……」
見上げる先の入り口は針の穴のようで、見下ろす地下は底なしの闇。
それはどこか、私の生まれた井戸の中に似ている気がした。
「……ここで、生まれ変わる」
忘れる事は出来ないけれど、せめてそれを過去に出来るように。
「さようなら……」
呟いた声は洞窟の壁に小さく反響し、そして消えて行った。