Coolier - 新生・東方創想話

おけのなかにいる 前編

2009/09/19 02:47:07
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 今は昔。妖怪が妖怪らしく人間を喰らい、人間が人間らしく妖怪を退治していた頃のこと。
 月明かりさえ通さない闇を前に、私はある一点をじっと見つめていた。
 握り締めている手には汗が浮かび、少しずつ緊張が高まっていく。
 今回も上手く出来るだろうか。失敗しないだろうか。そういった不安に取り込まれそうになりながらも、それでもじっと闇を見つめ続ける。
 と、不意に遠くから大きな声が上がった。私はその声に合わせるように、少しだけ体を前に傾けた。
 機会は一度きり。早鐘を打つ心臓を五月蝿く感じながら、先走りそうになる体を必死に押さえ込む。何度繰り返しても、この瞬間の緊張と興奮は収まる事を知らない。でも、それが心地好いと感じている自分もいた。
 さぁ、準備は整った。
 闇を抜け、必死の形相をした男が走って来る。その無様な姿に笑みが浮かぶのを感じながら、私は更に体を傾け――

 ――釣瓶が、落ちた。


 
 気を失った男を前に、私は友達と一緒に腹を抱えて笑っていた。男の顔は驚きと衝撃の混じった酷く滑稽なものになっていて、案の定失禁している。それがおかしくておかしくて、もう笑い過ぎて頬の筋肉が痛いほどだった。
「本当、人間って無様だね」
「そーだよねー。しかも最初の悲鳴聞こえた? 声が裏返ってたよ」
「聞こえた聞こえた。昼間とは大違いで凄くおかしかった」
 その時の事を思い出しながら再び笑い始めた私に、男を襲う寸前まであった不安は無い。こうやって友達と――宵闇の妖怪であるルーミアと一緒に居ると何でも出来る気ようながして、普段の内気な私はどこかへと消えてしまうのだ。
 そうして私達は暫く笑い続け……その波がどうにか引いた頃、ルーミアが男の首根っこを掴み、その重たそうな体をひょいと持ち上げた。
「それで、この人間はどうする? 今日はキスメが決めて良いよ」
「んー……」桶の中で立ち上がり、改めて男の体を見ると、無駄な贅肉が無くて筋肉の多い逞しい体付きをしているのが解った。こういうお肉は筋張っていて焼くと硬くなるから、「久しぶりに生にしようか」
「決まりー!」
 そう楽しげに言うと、ルーミアが男を担ぎ上げる。でも、彼女は目の前のご飯に大切な事を忘れてしまっているのだろう。
「でも、まずは川で洗ってこようよ。汚いし」
「わ、忘れてた!」
 その言葉と共にルーミアが男を放り投げ、一張羅でもある黒い洋服が汚れていないか確認を始めた。その必死の様子が可愛らしくて、私は思わず笑ってしまう。
 放り投げられた男が木の幹に当たって嫌な音を上げたけれど、どうせ今から食べるのだし問題は無かった。



「む、思ってた以上に臭い」
「血も美味しくない。失敗だったかなぁ」
「そーなのかー。って、子供より大人の方が良いって言い出したのはキスメでしょ? このスキモノめー」
「ち、違うってば!」
 川のほとりできゃいきゃい騒ぎながら、私達は夕飯を食べていく。
 それは美味しくない部分は森へと投げ捨てて、美味しいと思えるところだけを食べる優雅な食事だ。少し前までは考えられなかったこんな食生活は、ルーミアと出逢ってからこそ得られたものだった。
 釣瓶落としの妖怪である私は、ある井戸の中で生まれた。その井戸はお堂の近くに掘られていた物で、生まれたばかりの頃はそこにやって来る小坊主を驚かして遊んでいた。けれどある日、和尚に見付かって井戸から追い出されてしまったのだ。
 そうして私はこの山に逃げ込み、その山頂に生えていた大きな大きな一本杉を住処にして、麓にある里からやって来る人間を相手に釣瓶を落とすようになった。こんな風に人間を食べるようになったのもその頃で、『一本杉の釣瓶落とし』と言ったら知らない人間は居ないほどに有名だったのだ。
 でも、そんな時代はすぐに終わってしまった。一本杉が目立ち過ぎるから、人間から対策を取られるようになってしまったのだ。
 その結果、一本杉の脇を通る道はみるみる内に廃れていって、人間が通るには不便な獣道へと変わってしまい……私は碌にご飯を食べられなくなり、ひもじい生活を送る羽目になった。
 そんなある日、一本杉に真っ暗な塊がぶつかった。突然のそれに慌てて地面を見ると、そこには倒れている金髪の女の子が一人。それがルーミアだったのだ。
 彼女は外国からやって来た妖怪だった(羅馬尼亜、とかなんとか。聞いた事の無い地名だから良く解らない)。日本に来た時はもっと強い力を持っていたらしいのだけれど、とある巫女にその力を封じられてしまったのだという。その結果、記憶が曖昧になって、自分がどうして日本に来たのかも思い出せなくなってしまったらしい。でも、彼女はとても明るくて、そういった過去の事なんて全く気にせずに今の人生を楽しんでいた。
 とはいえ、元々内気である私は、彼女を介抱するはしたものの、一体どうやって仲良くなれば良いのか解らなかった。自分以外の妖怪を見るのも初めてだったし、そもそも仲良くなれるのかどうかも解らなかったのだ。
 けれど、全く対照的な私達にはとても大きな共通点があった。
 それが、空腹。
 闇を操る妖怪であるルーミアは私以上に目立ち、だからこそ尚更に人間から避けられてしまっていた(もしかすると、彼女はご飯を求めて日本に来たのかもしれない)。
 そして私達は、お腹の蟲の音色と共に友情を育むようになり、一緒に人間を襲うようになった。
 とはいえ、私は一本杉という出現場所を覚えられていて、金髪のルーミアは闇を生み出していてもいなくても目立ってしまう。一体どうすれば良いだろうかと二人で考え続け……ある日、とある方法を思い付いた。
 まず、麓の近くに作られた新しい道へと向かい、そこで人間が来るのをじっと待つ。山に入ってくる人間は『一本杉を迂回すれば釣瓶落としは襲ってこない』と思っているみたいだから、妖怪に対する警戒が低い筈。そこにルーミアが現れ、呑気に歩いている人間を脅かすのだ。
 そして、その退路を塞ぐようにルーミアが闇を生み出し、人間を後ろから追い掛ける。人間は真っ暗を恐がるから、闇から逃げるように走り出す筈で……その人間が私の居る木の根元にやってきたところで、最後に私が桶ごとその頭の上に落ちるのだ。
 闇に視界を塞がれた後の事だから、どの木から私が落ちて来るのか人間には解らない。だから人間は警戒のしようがないし、もし桶が当たらなかったとしても、私を見て足を止めた人間にルーミアが直接襲い掛かる事が出来る。
 でも、これは二人の息が合わなければ失敗してしまう可能性が高く、正直私達は一度や二度の失敗は覚悟していた。
 けれどどうだろう。この作戦は一回で見事成功を収め、私達は久々のご飯に有り付けたのだ。
 これに味を占めた私達は、同じような手口で人間を襲い、けれど対策を取られないように襲い方に変化を付け始めた。今までは『工夫をするなんて面倒臭い』と思っていたけれど、成功してみると面白く、失敗すると悔しくて、私達は色々と考えるようになった。
 こうして、私達の食事事情は大きく改善した。この山道は人間達の生活の基盤になっているようだし、この辺りには力のある巫女や祈祷師も居ないから、今やこの山は私達の天下だった。
 と、ルーミアがもぐもぐと咀嚼していたお肉を飲み込み、
「でも……私も大人の方が好きかも」
「いやらしいなぁ、ルーミアは」
「ち、違うから!」
 慌てて否定するルーミアがおかしくて、私はまたくすくすと笑い出す。
 けれど実際、人間の味というのは結構違うものなのだ。性別は当然の事、年齢や体格によっても変化が出る。ルーミアも私も脂身よりは赤身の方が好きだから、自然と脂肪の少ない人間を選ぶようになり……その結果、老け過ぎず若過ぎないぐらいの男が一番好みに合うというのが解ってきたのだった。
 まぁこれも、こうしてルーミアと一緒に過ごすようになってから知った事なのだけれど。

 そんな私達の贅沢三昧は夏の終わり頃から始まり、秋を越え、冬になっても続いていた。
 お腹いっぱい食べられれば暫くの間は何も食べなくても平気だから、その間は人間を襲わなくなる。昔だったら必死に人間を襲って沢山食べないと冬を越せなかったけれど、今では人間を襲えば必ず食事にあり付けるのだ。だから私達には余裕があった。
 そしてその余裕は、人間達の警戒心を弱める作用を生んだ。今だから解る事だけれど、毎日のように人間を襲えば、途端に人間達はその場所に立ち入らなくなる。けれどその被害が止んで暫くすると、またぽつぽつとその道を使い始めるのだ。それは妖怪にはない胆の太さで、
「ああ、だから人間の肝は美味しいんだね」
「ルーミア、その肝じゃないから」
 ともあれ、私達は余裕を持って冬を越す事が出来た。越冬は妖怪にとっても大問題なのだけれど、まさか誰かと協力する事でここまで簡単に事が運ぶとは思わなかった。まぁ、私達は共に小柄で大食いじゃないから、人間一人でも十分にお腹一杯になれる。それも功を奏していたのかもしれない。
 そして冬が終わり、山に少しずつ春の気配が見え始めた頃になって、私達のお腹は空腹に鳴き始めた。だから当然のように『そろそろ人間を襲おうか』という話になり――

 ――その時ルーミアが何気なく告げた一言が、その後の私の人生を大きく変える事になる。

「ねぇキスメ、今夜は人間を襲う場所を変えてみない?」
「別に良いけど……でも、どうして?」
 場所が変わったところで人間は確実に襲えるだろうけれど、やっぱり見知った場所の方が失敗も少ない。そう思う私に、ルーミアは木の上からふわりと飛び上がりながら、
「一ヵ所に留まり続けたら、人間に退治される可能性が高くなるからね。少しぐらい場所を変えた方が良いかなぁって」
「あ、確かにそうだね」
 いつまでも私達の天下が続くと思っていたけれど、それは逆に私達が退治される可能性も考えなければならなくなった、という事でもあった。でも、私はそれをすっかり忘れて――いや、それを考えた事も無かった。ルーミアと違って私は退治されかけた事が無いから、危機感が少し足りないのだろう。
「でも、別の場所か……」
 大きく場所を移さないにしても、ある程度距離が離れていた方が良いだろう。とすると、麓に近いこの場所ではなく、もっと山頂の方だろうか。そう思いながら、何気なく視線を上げ……思い出す。
 ここからは見えないけれど、この山の山頂には私が住処にしていた一本杉があった。そしてその先には、私の生まれた場所でもある、山向こうの里からも参拝客がやって来るらしいお堂があるのだ(小坊主の言っていた事だから、本当かどうかは解らないけれど)。  
 それに、私達がこの辺りで人間を襲い始めた事で、一本杉の脇に伸びる道が再び使われ始めている可能性が高い。何より、あの辺りには土地勘がある。問題なく人間を襲う事が出来る筈だ。
 そう判断すると、私はルーミアへ視線を戻し、
「なら、良いところがあるよ。前に私が住処にしていた場所なんだけど……」
 そうして彼女へと詳しい説明をし……その日の夜、私達は早速人間を襲う事にした。



 夜。時間は多分、人間が言うところの酉の刻ぐらい。
 久しぶりに上がった一本杉の上で、私は人間がやって来るのをじっと待っていた。
 けれど、今日はまだ一人も人間が通らない。もう春も近いし、里と里との行き来を行っている人間が居てもおかしくない筈なのに。
 それに、眼下に伸びる道は以前のように踏み均されているから、『この道が使われていない』という事は無い筈で……と、そんな事を考えていた時、視線の先で闇が生まれた。
 ルーミアの作る闇は、例えるなら瞼を閉じた時に拡がるそれと同じくらいに深い。だから今日みたいに細い細い三日月の夜でもはっきりとその存在を把握出来る。そしていつものように驚愕の声が上がって、そのままルーミアの闇が私の方へと向かってきた。
 同時に、何か困惑したような男の声が聞こえて来る。まさか闇が追い掛けて来るとは思わなかったのだろう……と、そんな風に思っていると、慣れぬ場所で距離感を間違えてしまったのか、私の視界も真っ暗に染まってしまった。
 私は夜目が利く方だけれど、この闇の中ではそれが全く役に立たない。けれどこの闇がルーミアの作り出したものだと理解しているから、そこに混乱は無かった。
 高まり続ける鼓動を五月蝿く思いながら、私は聞こえて来る音だけに意識を向ける。
 男は胆が据わっているのか、悲鳴は上げていない。しかしその足音は確実にこの一本杉へと近付いてきている。このままいけば、すぐに私の真下へやって来るだろう。
「……」
 考える。
 眼下の道は幅が狭く、私の桶で完全に塞ぐ事が出来るほどだ。だから確実に男を仕留める事が出来る。でも、今は普段と違って相手の姿を確認出来ない状況だ。
 果たして、全てを勘任せで人間を襲えるだろうか?
「……」
 いや、何を迷う必要があるのだろう。この場所は私にとって一番馴染み深いところなのだ。それこそ、目を瞑っていても人間を襲えるほどに。
 そうだ。『一本杉の釣瓶落とし』の名前は伊達じゃない。例え視界が塞がれていようと、音を頼りに桶を落としてみせる――!
 そう意気込んで、私は体を前へと傾ける。……でも、心の中の冷静な私は、『止めた方が良い』と警鐘を鳴らしていた。
 普段の私だったならば、いくら自信があろうとも、こんな分の悪い賭けはしなかった筈だ。けれど、今日の私は勢いに乗ってしまった。それはルーミアと一緒だという事が、普段ならば強く現れる不安を消してしまっていたからなのかもしれないし、彼女の生み出した原初の闇に私の中の妖怪の血が騒いでしまったからなのかもしれなかった。
 ともあれ私は意を決すると、高まり続ける鼓動と共に一本杉から飛び降りた。
 走ってくる男の足音から予想するに、落下位置は完璧の筈。一瞬の浮遊感の後には、すぐに足元に衝撃が――来ない。それどころか、横からという、全く予測していない方向からの衝撃が来た。
「きゃあ!」
「うわぁ!」
 酷く情けない自分の声と、すぐ近くから聞こえて来た男の声。そして更なる浮遊感を感じた刹那、私は頭に強い衝撃を受け、そのまま意識を失った。




 目を覚ますと、まず視界に入ったのは障子張りの襖だった。でも、私にはそれが何なのか理解出来ず、横向きに寝ていた体を無意識に起き上がらせようとして、
「痛っ」
 動かした右腕に痛みが走った。見ればそこには着物の切れ端のような布が巻かれていて、肩から肘辺りを覆い隠している。それでもどうにか起き上がってみると、自分がどこかの民家に寝かされていたのだと気付いた。
 私の居る部屋の隣、襖を隔てた向こう側に囲炉裏を中心に構えた部屋があり、その先は土間になっているのが見える。けれど襖が完全に開かれている訳ではないから、隣の部屋が具体的にどんな造りになっているのかは解らない。
 と、混乱した頭でぼんやりとしていると、ガタガタとお世辞にも動きが良いとは言えない音を上げて戸が開かれ、やけに明るく感じられる日光を背に一人の男が家の中へと入って来た。
 一体誰だろう。そう思う私の姿に気付くと、男はとても優しい、ともすれば頼りないとも言える微笑みを浮かべ、
「良かった、どうやら目が覚めたようだ」
 ほっとしたように呟く彼も怪我をしているようで、額に大きな湿布のようなものを貼り付けている。それを何気なく眺め――ふと、私の桶に頭からぶつかったらあの辺りにこぶが出来そうだな、と思い、
「――ッ」
 血の気が引いた。
 一瞬で恐怖に包まれ、口から小さく悲鳴が漏れる。
 嗚呼、何て事だろう。私は人間に捕らえられてしまったのだ!
 こうしてはいられない。どうにかして逃げ出さないと、この男に何をされるか解らない。私は恐怖に背を押されるように布団から這い出し、けれど上手く立ち上がれず、必死に四つん這いになるも右腕と右足に走る痛みに涙が溢れ、あ、と思った時には無様に畳へと転がり――その瞬間、慌てて土間から駆け上がって来た男に抱きかかえられた。
 怖い。
 恐い。
 こわい。
 悲鳴が漏れ出し、一気に歪んでいく視界の中、男は酷く狼狽した様子で、それでも私をそっと布団へと寝かし直すと、
「そ、そう泣かないでくれ。俺は何もしない。ほら、この通りだ。な?」
 そう言って、無抵抗を示すかのように両手を上げると、男はそのまま囲炉裏の奥へと引っ込んでいく。それでも恐怖の止まらない私を落ち着かせるように、男は更に土間の方へと移動してから、
「ま、まず、どうしてお前さんがここに居るのかを説明する。それなら怖くないだろう?」
「……」
 正直逃げ出したいのだけれど、状況が解らない事には動きようも無い。私は怪我の無い左手で涙を拭うと、無言で頷いた。
 対する男はそれに安堵したようにほっと息を吐くと、酒瓶と思われるものや用心棒などを片付け、その下から出てきた小さな椅子に腰掛ける。そして少し思案顔をしてから、あの晩の出来事を説明し始めた。
「昨日の晩、俺は妖怪に襲われたんだ。突然だったんで慌てて逃げ出したんだが……その途中で、何か酷く硬いものに頭をぶつけてしまった」そう言って、男は額に軽く触れ、「そうしたら、すぐ側で誰かが倒れた音がした。一瞬迷ったんだが、妖怪の声も聞こえていたし、俺はその誰かを――つまりお前さんを抱きかかえて、一も二も無く逃げ帰ったんだ」
 そして、すぐに私の怪我の世話をしてくれて……一晩明けた今、私が眼を覚ました。
「……」
 という事はつまり、彼は私の事を妖怪だとは思っていないのだろうか?
 緊張という、恐怖とは違う鼓動の高鳴りを感じながら、私は恐る恐る問い掛ける。
「襲ってきた妖怪は、一人だけだった……んですか?」
 馴れ馴れしいのもおかしい気がして、思わず丁寧に言い直す。対する男は私の言葉に頷き、
「ああ。とはいっても、実際にどうなのかは解らなかったけれどね」
「そう、ですか」
 どうやら男は私が妖怪だとは気付いていないらしい。それが解ると『人間に退治されるかもしれない』という恐怖が消えて、私にも少しだけ余裕が戻ってきた。
 さて、どうしたものだろう。ここから逃げ出してルーミアと合流したいという気持ちは強いものの、しかしながら今は右腕に怪我を負っていて、右足にも痛みがある。妖怪であるとはいえ、私は肉体的には人間に近いから、傷の治りもそこまで早くない。強いて言えば痛みにちょっと強いくらいなのだ。だから暫くはまともに動けない。
 鬼火を生み出そうと思えば生み出せるけれど、相手は大人の男だ。恐らく年齢は二十代半ばほど。長い袖の服を着ている上からもそれと解るほどにその腕は太く、当然体も大きい(その優しげな表情が不釣合いに感じるほどだ)。とはいえ、その表情の裏には鬼が潜んでいるかもしれないのだ。私に勝ち目は無いだろう。
 となると、暫くは大人しく傷が癒えるのを待たなければならず……と、そう考え出したところで、男の方からおずおずと質問が来た。
「それで……お前さん、名は何て言うんだ?」
「わ、私は……」どうしよう。ここで名乗っても大丈夫なのだろうか。あ、でも、私は『一本杉のキスメ』みたいに自分の名前を名乗ってはいなかった。だから大丈夫だろうけれど……でも、自分の事は詳しく話せない。となるとこの方法しかないだろう。「……キスメ、と言います。でも、それ以外の事は何も思い出せなくて……」
「思い出せない?」
「は、はい……」
 小さく頷く。こうして過去を思い出せないと言っておけば、何か不都合があっても言い逃れる事が出来る筈だ。
 とはいえ、不審に思われたりしていないだろうか。そう思いながらそっと男の様子を窺うと、彼はまるで自分の事のように真剣な表情で悩みながら、
「それは参ったな……。こうなったら里の医者に……いや、でも……」
「あ、あの、」
「おっと、すまない。なにかこう、思い出せた事でも……」
「い、いえ、その……そう、お医者様は何か、駄目な、気が」
 出来るだけ躊躇いがちに言ってみる。というか、予想以上に男が真剣に悩むものだから、私の方が本当にどうにかなってしまいそうだ。
 そんな私の言葉に、男は真摯に頷き、
「そ、そうか……。でも、大丈夫なのか?」
「は、はい」
 少々声が上ずるのを感じながらも頷き返すと、彼は「……解った、なら暫くは様子をみよう」と頷き、そして私へと改めて視線を向け、
「俺は緋一(ひいち)という。親友と二人で、樵をして暮らしているんだ」
「親友」
「ああ。とはいっても、一緒に暮らしている訳じゃない。この家の隣にはもう一軒似たような家があるんだが、そいつはそこに暮らしている。男二人の淋しい生活だが、気ままで良いものさ」
「そう、なんですか」
 小さく答えながら、治まっていた恐怖が再びぶり返し始めるのを感じる。
 妖怪であるとはいえ、私だって一応は女だ。だから、こうして逃げる事の出来ない状況で周囲に男しか居ない、というのはどうしても恐怖を覚えてしまう。しかも彼は樵を生業にしていると言った。となれば、当然この家は山の中にあり、どれだけ叫ぼうと喚こうと動物ぐらいにしかその声が聞こえないという事だ。
 最悪の想像が脳裏に浮かび、再び涙が溢れそうになる。
 けれど、強い意志を持たなくてはいけない。私は妖怪――人間を喰らい、そして恐怖を与える存在――なのだ。だから、人間相手に怯えてなんていられない。
「……」
 ……実際には凄く怖くて泣きそうだけれど、そうしなければ私の人生は最悪のものになってしまう。
 土間にある椅子に腰掛けたままの男は心配げな表情を浮かべている。でも、あれが演技である可能性だってあるのだ。そうそう信用なんて出来ない――と、恐怖に耐えながら色々と考えていたところで、ぐぅ、と場違いなほど大きくお腹が鳴って、
「――ッ」
 強い恐怖と恥ずかしさとで滅茶苦茶になった私は、男の視線から逃げるように布団に突っ伏したのだった。


 
 用意された食事は初めて見るもので、正直反応に困ったけれど、思い切って食べてみるととても美味しかった。
 もし毒が混ぜてあったらどうしよう、という懸念はあったものの、一口、二口と食べていく内に難しい事を何も考えられなくなっていく。そのくらい、男の作った雑炊というものは美味しかった(箸の使い方が解らなくて、少し食べるのに時間が掛かってしまったけれど)。
 正直に言えば、私はお米というものを食べるのすら生まれて初めてで、けれどそれは思っていた以上に美味しかった。他の野菜にしたってそうだ。今までは生で齧った事しかなかった大根や人参も、こうして火を通すとこんなにも美味しくなるのだと知った。
 今まで火といえば襲った人間を焼く事ぐらいにしか使わなかった。でも、これからはその考えを改めないといけないだろう……って、なに暖かい物を食べてほっとしているんだろう自分。相手は何をするか解らない存在なのだ。警戒は続けないと――
「お代わりは?」
「あ、はい、お願いします……」
 とはいえ目の前の雑炊が美味しい現実には抗えない。……そう、腹が減っては戦は出来ぬとかそういう事だ。うん。
 そうして雑炊を食べていると、不意に男が立ち上がった。思わずそれに警戒すると、彼は困ったように微笑み、
「俺は仕事の続きに戻るとするよ。あとは好きに食べていると良い」
 そう言ってお茶を飲み干すと、履物を履き直し、軽い足取りで外へと出て行く。その姿に、私に対する警戒は全く無いように思えた。
 そのまま男を見送りつつ、私もお茶を一口。
 一息吐くと、ようやく安心出来たような気がした。
「……ルーミア、大丈夫かな」
 あの時彼女に何があったのかは解らない。けれど、ルーミアは私よりもずっと体が丈夫で、その上力も強い。だから元気にしているだろうし、きっと突然居なくなった私に困惑している筈だ。この家があの一本杉からどれだけ離れた場所に建っているのかは解らないけれど、ルーミアがこの家を見付けてくれる事を祈ろう。そしてその日が来るまで、私は傷を治す事に専念しなくては。
 そう思いながら再び雑炊を食べ始め――遠くから、聞き慣れない音が聞こえて来た。
 森の中へ響いては消えていくそれは、勢い良く振るわれた斧が木の幹へと突き刺さる音。反響するそれが何度も繰り返された後、幹が倒れていくのだろう歪んだ音が聞こえた。
 そして暫く静寂が続いたと思えば、再び斧が振るわれる音がする。
 疑っていた訳では無いけれど、樵というのは本当らしい。そんな風に思いながら雑炊を平らげ、何をするでもなくぼぅっと囲炉裏を眺める。というか、お腹が暖まったからか、少し眠たくなってきた。
「……って、寝ちゃ駄目だ」
 敷かれたままになっている布団に戻りたくなる気持ちを振り切って、意識を改める。男から害意を全く感じないから、警戒しようという心がすぐに小さくなってしまうようだ。戒めないと。
 取り合えずこうして囲炉裏に当たっていると、その暖かさで眠気が加速していくので、私は思い切って外へと出てみる事にした。
 見える範囲に誰も居ない事を確認してから空に浮かぶと、壁際へ。左手で棚を掴みつつ左足から着地し、恐る恐る右足をついてみると、呆気なく体重を支えてくれた。どうやら骨折などはしておらず、桶から転がり落ちた時に擦り傷を沢山作ってしまっただけのようだ。地味な痛みは続いているものの、十分歩く事が出来た。
 そして、そのままゆっくりと歩いて行き、土間の冷たさに少し驚きながら戸を開き(思ったより力が必要だった)、外に出てみると、私は冬の、けれど春の気配を感じさせる暖かな陽射しに出迎えられた。
 家の前は小さな広場になっていて、右手側に一軒小ぢんまりとした家がある。恐らくはあれが男の親友の家なのだろう。他には切り出した木材を保管するのだろう小屋と、作業用なのだろう机と椅子、そして無造作に置かれた斧などの道具が見えるだけで、他には何も無かった。
 いや、周囲には沢山の木々がある。けれどその山の様子は、私には全く見覚えが無かった。
 もしかするとここは、お堂の向こう側にある山なのかもしれない。その山が別の妖怪の住処である可能性があるから、不要な争いを起こさない為に一度も近付いた事が無かったのだけれど……こんな事になるならば、もっと足を伸ばしておけば良かった。
 だが、後悔したところでもう遅い。まずはこの山の事を知らないと。そう思いながら、私は取り合えず椅子に腰掛ける。そこから男の家を眺めてみると、思っていた以上に小さかった。
「……」
 そういえば、こうして暖かな陽射しを感じるのも久しぶりだった。
 妖怪は夜の世界に生きるものだ。だからこの時間帯は大概寝ていて、起き出すのは人間が言うところの申の刻あたり。そこから次の夜明けまで、私達妖魔は夜行する。
 とはいっても、私は日光を弱点としている訳では無いから、こうしている事に不快感はない。むしろ暖まったお腹との相乗効果で心地良い眠気が……
「……って、だから駄目、寝ちゃ駄目」
 ふらっと飛びそうになる意識を慌てて掴まえて、自分に言い聞かせるように呟く。眠ったら最後、戻ってきた男に何をされるか解らないのだ。だから駄目だ。眠ったら駄目だ――
 そう思うものの、しかし眠気が止まらなくなってくる。正直自分の危機感の無さに呆れるのだけれど、今まで欲求に正直に生きてきたせいか、こうした眠気に強く抗った事が無いのだ。なので私はどうやったら眠気が覚めるのか解らず、急速に襲ってきたそれに、次第に船をこぎ始め――

 ――目を覚ますと、目の前に障子張りの襖があった。
「……」
 どうやら私は外で眠りこけ、あまつさえ再び布団の中へと戻されたらしい。自分の事とはいえ、流石に呆れた。
 取り合えず体に異常が無いか確認すると、違和感があるのは右の腕と足だけだった。その事に安堵しつつ体を起こし、昼間と違って完全に閉じられている襖をそっと開けると、なにやら良い匂いがした。
 どうやら囲炉裏で何かを煮ているらしい。と、気配に気付いたのか、男が私へと視線を向け、
「今起こそうと思っていたところだったんだ。夕飯が出来たから一緒に食おう」
 そう言って優しく微笑む男の姿に、私に対する邪な感情は全く感じられない。それどころか、疑っているのが逆に悪く感じられるほどだ。
 それでも警戒を解く訳にはいかないから、私はその暖かな微笑みから目を逸らし、
「有り難う、御座います……」
 そうして囲炉裏を挟んで向かい合わせに腰掛けると、私は熱々の夕飯を頂いた。どうやらこれは茸鍋と言うらしく、その名の通り沢山の茸、それに野菜が入っていた。
 彼は食事中に色々と話す方ではないのか、寡黙に、それでいて美味しそうに椀の中身を食べていく。そして時折私の姿を見ると、実に嬉しそうな笑みを浮かべるのだ。
 その理由は解らないけれど、不思議と嫌な気分ではなかった。それは男の表情が嫌らしいものでは無く、純粋な喜びに満ちているからで……けれど私はこういう時にどんな事を言えば良いのかを知らなかったから、黙って食事を続けるしかなかった。

 夕飯を食べ終え、その後片付けを始めながら、男はこの山での生活について教えてくれた。
 それは苦しい事がありながらも、暖かな幸せに満ち溢れた日々。どうしてそんな事を話してくれるのかと不思議だったのだけれど、不意に男が呟いた一言でその合点がいった。
「俺の話が切っ掛けで、何か思い出してくれると良いんだが……」
「……すみません」
「いや、謝らないでくれ。それに、俺はこうして話をしているのが好きなんだ」
 朗らかに笑い、そして話の続きをしていく男に対して、私は曖昧な笑みを向ける事しか出来ない。警戒から、男の優しさを素直に受け取る事が出来なくて、上手く微笑む事が出来なかったのだった。
 
 そうして、夜。
 私は布団に横になりながら、目の前の襖を眺めていた。既に囲炉裏の火は落とされていて、家の中は暗く、そして少し冷える。
 朝から仕事があるのだという男は既に寝入っているのか、襖の向こうからは規則的な寝息しか聞こえない。けれど何が起こるか解らないという恐怖から、私はまるで眠る事が出来なかった。……断じて、日中眠っていたからでは無い。
 ともあれ、眠れないのは確かだ。
 正直、すぐ隣で眠っている男に対する恐怖は薄れてきているし、その優しさを甘んじてしまいたい自分もいる。けれど私は妖怪で、人間にとってみれば妖怪は忌むべきものなのだ。だから、本当はもうこちらの正体が知られていて、こうして優しく接してくれているのは実は演技である可能性を、私は完全に否定する事が出来なかった。
 でも、もしそうならば、私はとっくに殺されていてもおかしくない。だから大丈夫なのだと思いたいのだけれど、そこまで思い切るほどの切っ掛けも無かった。
 どうする事も出来ないまま、ただただ襖を眺めていると、不意にその向こうから身動ぎするような音が聞こえて来た。それに何事かと体を硬くするも、どうやらただ寝返りを打っただけのようだった。それに安堵しながら、私は男の様子を見てみる事にした。
 ほんの少しだけ襖を開き、寝ている男の姿を探すと、その大きな体は思ったよりも近くにあった。
 彼は上着を布団に体を丸めて眠っている。その姿に『今ならば襲える』と思うものの、今の私は万全ではないし、迂闊な事は出来ないとすぐに考え直す。仕留めるならば一撃でやるしかないだろう。
 でも、今の私は武器としていた桶を失ってしまっている。いや、あの桶でなくても、手頃な井戸桶があればそれを武器に出来るけれど……本調子ではない今、桶を巨大化させる妖術を失敗してしまう可能性が高い。何より、こうして怪我をした経験が少ないから、今の自分がどれだけの事が出来るのか全く解らなかった。
 難儀だと、そう思う。けれど妖怪というのは存外そんなものなのかもしれない。闇を操るという強大な力を持つルーミアが、しかしその中では視界を失ってしまうように、私達は何らかの弱点を抱えているのだ。
 ……嗚呼、だから私達は人間を食べるのかもしれない。か弱い存在とはいえ、人間には弱点らしい弱点が無い。そんな相手を食べる事によって、私達妖怪は完璧になろうとしているのだ。
 対する人間は妖怪を殺しても、その体を食べようとはしない。それは自分達が完璧だと知っているからで、不完全である私達を取り込もうとはしていないのだろう……っと、考えが逸れてしまった。今はこれからどうするのかを考えないと。
 そうして、ああでもないこうでもないと色々な事を考える。その間にも男は何度か身動ぎして、寝返りを打った。
「……」
 でも、何か変だ。その体は妙に丸まっていて、何かに耐えているかのように見える。一体なんだろう……。
 と、そう思ったところで、冷たい風が入り込んできた。
 今夜はかなり冷え込むようだ。私は肩が冷えないように夜着の中へと潜り込み、
「……あ」
 不意にある事に気付いて、再び襖の向こうへと視線を向ける。丁度こちらを向いている男の顔は、予想通り決して安らかなものではなかった。彼は冷え込む夜の空気に必死に耐え、起きている時には一切見せなかった厳しい表情を浮かべて眠っていたのだ。
 その姿に、心に小さな痛みが走るのを感じながら、私は暖かく体を包んでくれる夜着に視線を戻し……そして、腹を決めた。
 鬼火を生み出す余裕はあるのだ。もし襲われるような事があっても一応は抵抗出来る。空も飛べるのだし、逃げようと思えばいつでも逃げられる。
 だから私は、こんなにも優しく世話をしてくれる彼をこれ以上疑う事が出来ない。愚かな考えなのかもしれないけれど、暫くはこの人を信じてみようと、そう思ったのだった。 



 男の――緋一の親友がやって来たのは、翌日の夜の事だ。
 その日私は、一日中緋一の事を観察していた。
 人間の生活水準は良く解らないけれど、それでもこの家があまり裕福そうではないのは解る。それでも、彼は日々を幸せと共に生きているように感じられた。何と言うか、彼はとても生き生きとしているのだ。
 そうして緋一がどんな人間なのかを探ろうとする私に対し、彼は『良い事を思い付いた』という顔をすると、
「こうしているのも退屈だろうし、少し話をしよう」
 と、朝から始めていた縄をこさえる作業の合間に、色々な話をしてくれた。
 起用に手を動かしながら語られるそれは、まるで寝物語のように短く、それでいて様々な結末を迎える話ばかり。
 そもそも寝物語なんて殆ど知らない私にしてみると、その全てが新鮮で、そして面白かった。彼の語りはとても上手で、どんどんとその話の中に引き込まれていったのだ。
 そうして一日が終わり、夕食を食べ終えた頃。
 楽しげな笑み共にやって来たのは、緋一よりも少し背の高い、細身の男だった。とはいえ痩せているという訳ではなく、必要な筋肉が必要なだけ付いている感じだろうか。ぱっと見ただけでそれが解るのは、今までに何人もの人間を見て、そして襲ってきたからだ。そう思う私と目が合うと、緋一の親友は乱雑に履物を脱ぎ、大またでこちらの正面にやって来た。
 まさかこちらへ向かってくるとは思ってもおらず、咄嗟の事に動けなくなってしまった私の前に、彼はドン、と何かを置き、
「初めましてお嬢ちゃん。――さぁ、宴会を始めようじゃないか!」
 呵呵と笑うと、彼は驚きに固まる私を残し、「怖がらせるなと言っただろう!」と怒っている緋一のところへ戻っていく。その様子を呆然と見つめ、取り合えず布団のところまで逃げよう、と思ったところで、膝に何かが当たった。見ればそれは大きな酒瓶で……宴会という単語とその酒瓶が頭の中で結びついた瞬間、ひょい、とその酒瓶が取り上げられ、
「俺は蒼太(そうた)という。宜しくな、お嬢ちゃん」
 そう言って歯を見せて笑う彼の姿は、困ったように溜め息を吐いている緋一とは対照的で、混乱に陥った頭ではどう反応して良いのか解らない。
 それでも、笑みの絶えない蒼太からも、その手から酒瓶を取り上げた緋一からも、私をどうこうしようという敵意だけは感じられなかった。

 そうして、宴会が始まった。……とはいえ、実質酒を飲んでいるのは蒼太だけなのだけれど。
 そもそも私はお酒を飲んだ事が無く、勧められるまま一口呑んでみたものの、その美味しさが解らない。肴だという干物ばかりを食べている緋一は「一応呑めるが、俺は酒をやらないんだ」と言っていた。となれば、普段もこんな風に蒼太ばかりが酒を呑んでいるのだろうか? と、その疑問が顔に出てしまったのか、蒼太はお猪口に酒を注ぎながら、
「気にする事はねぇさ。いつも俺が呑んで、コイツが喰うって決まってんだ。持ちつ持たれつって奴だな」
 そう言って楽しげに笑う蒼太へ、「それは意味が違う気がします」なんて言い出せる訳も無く、私も肴をちまちまと食べていく。
 その間にも蒼太は酒を呑みながら、あれやこれやと私には解らない山の事や里の事、人間の事から果てには妖怪、幽霊の話まで様々な事を赤ら顔で語り、緋一がそれに受け答えていく。そこには私の立ち入れない独特の空気があって、それでも緋一はそんな私が孤立しないよう話の内容を解り易く解説してくれたり、意見を聞いたりしてくれた。
 中には思わず噴き出してしまうような話もあって、いつの間にやら私も宴会の空気に馴染んでいた。
 それは不思議な感覚だった。今この瞬間だけは、人間も妖怪も無いような空気を感じる事が出来たのだから。
「そういやぁ、まだ笑える話があったな」
 言いながら可笑しくなって来たのか、蒼太が緋一を見ながら笑い出す。そして私へと視線を向けると、
「俺達はこんな山暮らしだからよ、里に下りる事もそうそうねぇんだ。でもよ、ある時コイツが『友達が――」
「馬鹿、その話は止めろ!」
「良いじゃねぇか。もう笑い話以外の何物でもねぇよ」蒼太は笑みで言い、そしてニヤリと口元を歪ませると、「それともあれか? お嬢ちゃんにはガキみてぇに泣いた話は聞かせられねぇか?」
「そ、そういう問題じゃない!」
 泣き真似のような事を始めた蒼太を止める緋一は真っ赤になっていて、温厚そうな普段の様子とは打って変わった必死さだ。それほどまでに恥ずかしい話なのだろう。けれど、見ているこちらからすると、必死に蒼太を止めようとするその姿はどこか可愛らしい。思わず笑みが零れるのを感じながら、私はお酒をもう一口だけ呑んでみた。
 まだその味は良く解らないけれど、でも、とても楽しい気分にさせてくれるのは確かだった。




 春。
 すっかり怪我が良くなった私は、けれど今も緋一の家に厄介になり、ゆったりとした生活を続けていた。
 今ではもう完全に緋一達の事を信頼している。というか、彼等の事を知れば知るほど、『何かされるかもしれない』と考えるのが馬鹿らしくなっていって、今ではごく普通に二人と接し、簡単な仕事ならば手伝うようになっていた。
 とはいえ、記憶が無いという嘘は吐き続けているから、時折緋一が心配そうな素振りを見せる事があった。それに対しては申し訳ない気持ちがあるのだけれど、でも、こればかりは正直に全てを話す訳にはいかない。だからそのお詫びと、そして居候を許してくれる彼の為に、私は自分に出来る事をやっていく。因みに今日は、昼休みに戻ってくる二人へとおむすびを握っているところだった。
 一番最初に見よう見まねでやってみた時には、丸い形に押し固める事しか出来なかったそれも、今では綺麗な三角に握れるようになってきて、緋一にもその出来栄えを褒められるようになった。自分でもかなり進歩したと思う。 
「よし、……と」
 指先に付いた米粒を食べつつ小さく一息。出来上がったおむすびを眺めながら、最近はこうしているのが当たり前になってきたと、そう思う。
 緋一達との生活は何もかもが初めてで、だからこそ毎日が楽しく、どんどんと離れ難くなってしまっているのだ。それは非日常だった緋一達との生活が、私の中で段々と、そして着実に日常へと変化している、という事だった。
 でも、本当はそれこそが忌避しなければならない事なのだと、私は気付いていた。そう、いつかはこの暖かな生活から離れなければならないのだ。
 何故ならば、私は――
「どうしたんだ、お嬢ちゃん。そんな深刻な面して」
「え? あ、その……」
 開けっ放しにしていた玄関の戸に寄り掛るようにして、蒼太が笑みを浮かべていた。彼は楽しげな表情のまま部屋の中へと入ってくると、出来たばかりのおむすびを無造作に掴み、それを止める間も無くあっという間に平らげ、
「ん、美味く握れてるじゃねぇか。俺にはちと塩気が足りねぇが、アイツにゃ文句無しってとこだな」
「そ、そうですか?」
「ああそうさ。お嬢ちゃんは良い嫁さんになれるぜ」
 そう言って、からかうように笑う。
 私はこういう時、どう返事を返して良いのかが解らないから、黙って俯くしかない。でも、少し顔が熱くなるのは何故だろうと思いながらも、褒められた事は純粋に嬉しかった。
 対する蒼太は土間から上には上がらず、私に背を向けるように座敷へ腰掛けると、
「ま、お嬢ちゃんが何を考えてんのか、なんて野暮な事は聞かねぇけどよ。……俺もアイツも、お嬢ちゃんとの生活が気に入ってんだ。それを忘れないでくれな」
「……」
 それはまるで、私がここを離れなければいけないと、そう考えているのを見越しているかのような言葉で。突然のそれに何も言い返せないでいると、蒼太は笑みを持って振り返り、
「っと、俺とした事が的外れな事を言っちまったか?」と、珍しく恥ずかしげに顔を赤くし、それを誤魔化すように頭を掻きつつ、「でもまぁ、それが俺達の本心ってヤツさ。……って、あー、駄目だ駄目だ。こんな事、素面で言うもんじゃねぇな。なぁ?」
 そう言って蒼太が玄関へと視線を戻し、それに釣られるように玄関を見ると、そこには少々呆れ顔の緋一が立っていた。彼は蒼太の隣に腰掛け、履物を脱ぎながら、
「……何の話かは解らんが、キスメが困っているじゃないか」
「いやなに、ちょいとこれからの事を話してただけさ」
 対する蒼太は楽しげに笑いながらそう言うと、「んじゃ、貰ってくぜ」という言葉と共におむすびを無造作に二つ掴み取り、そのまま外へと出て行ってしまった。ここで休んでいかないという事は、午後の仕事に入る前に少し眠っておくつもりなのかもしれない。
 その姿を見送った後、私は囲炉裏の前に腰掛けた緋一へとおむすびを勧めながら、蒼太の言動について考えてみた。
 緋一の親友である彼は、時折ああして相手の心を見透かしたかのような事を言う。それは相手の事を良く見ていて、何を考えているのかをすぐに判断する事の出来る聡い頭を持っているからなのだろう。そして、その言葉の中には私への思い遣りも含まれているという事に、最近になって気付いてきた。
 だからそう、先ほどの蒼太の言葉には嘘は無く、私は本当に彼等に必要とされているのだろう。とはいえ、私が――
 ――と、視線の先にあるおむすびが思っていたよりも早く平らげられていくのを見て、私は思わず緋一を見上げた。
 黙々とおむすびを食べている彼は、しかし普段よりもその食べ方が乱雑であるように思える。それにその表情は少し険しく、なにやら怒っているようで。
 もしかして、蒼太の美味しいという言葉はただのお世辞で、実は食べながら表情が険しくなるほどに不味いものを作ってしまったのだろうか。でも、作っている最中に妙なものを混ぜたりはしていないし……
「ど、どうしたんだ? どこか痛むのか?」
 響いてきた声に視線を上げると、緋一が不安げな顔をしていた。どうやら無意識に私も表情を曇らせてしまっていたようだ。ともあれ、私は「違います」と小さく答えた後、
「あの、ごめんなさい。折角のご飯を、私……」
 私が居候をし始めた事で、緋一の食生活を確実に圧迫してしまっている。だからこうして一食を無駄にしてしまうような事は、何よりもやってはいけない事だったのだ。
 怒られる事を覚悟で頭を下げると、しかし頭上から酷く狼狽した声が聞こえて来た。
「な、何を言ってるんだ。こんなに美味いおむすびを食うのは初めてで、文句の付けどころがないくらいだ」
「ほ、本当ですか? ……でも、その、ずっと眉を寄せていらっしゃいましたから……」
「そ、そうだったか?」
 顔を上げると、緋一は自分の額の辺りを撫で回し、そして少し困惑した様子で、
「すまない、そんなつもりはなかったんだ。こんな美味いものを作って貰ったのに、これじゃあ罰が当たるな」
 そういって微笑む彼にはまだ少し困惑の色がある。それは緋一自身もその原因が解っていない事を意味しているように思えた。
  
 そしてその日から、私と蒼太が二人きりで居ると、緋一の機嫌が少し悪くなる事が多くなった。
 とはいえ緋一自身はその理由が解らず、一緒に暮らしている私も当然のように解らない。けれど、どうやら蒼太にはその理由が解っているようで、敢えて緋一を怒らせるような事をする時があった。
 具体的には、仕事を早く切り上げてうちに来てみたり、宴会の時に私の肩を抱いてみたり、緋一の前で私とひそひそ話をしてみたり。それが私へのちょっかいではなく、緋一へと向けられて行われているのだという事は、弄られる側である私にはなんとなく理解出来た。
 そんな生活が暫く続いたある日、私は昼寝を始めた緋一を起こさぬようにそっと家を出ると、蒼太に詳しい話を聞いてみる事にした。
 本格的な春の訪れと共に一段と暖かさを増してきた陽射しを感じながら、小さく蒼太の家の戸を叩く。眠ってしまっていると思いきや、玄関の戸はすぐに開かれ、
「お、お嬢ちゃんか。どうしたんだ?」
「少し、聞きたい事がありまして」
 そう告げると、蒼太はほんの少しだけ淋しげに笑い、
「そうかそうか。取り合えず上がってくれ」
 促されるように中へと入ると、その間取りは緋一の家と殆ど差異がないように思えた。土間続きの座敷には囲炉裏があり、その奥に寝室だろう部屋が見える。
 私は座敷に上がり、そこで慣れない正座をすると、いつになく真面目な表情をしている蒼太を見つめ、
「最近、緋一さんの機嫌が悪くなる事が多いのですが……蒼太さんは、その理由をご存知なのではないですか?」
「ああ、ご存知だ」
 そして蒼太から告げられた一言は、私が全く予想していないものだった。
「アイツはな、俺に嫉妬してんのさ」
「しっと、ですか?」
「ああ。つっても、こういうのは俺が教えちまうのは野暮ってもんなんだろうが……当のお嬢ちゃんも解ってねぇみてぇだし、まぁ、良いか」
 次第に普段の楽しげな調子に戻りながら、蒼太は私へと笑みを向ける。けれど、私には何がなんだか良く解らない。頭に疑問が浮かぶのを感じていると、彼はいともあっさりとその事実を告げた。
「アイツはよ、お嬢ちゃんに惚れてんのさ」
「――ほ、れ?」
「解らねぇか? お嬢ちゃんを嫁さんにしたいって事だ」
 そうして笑みを強める蒼太を前に、私は何も考えられなくなった。
 惚れている。
 嫁さんにしたい。
 嫁さん。
 嫁。
 その言葉の意味は知っている。そして、その言葉がどういった時に使われているのかも知っていた。同時に緋一の優しい微笑みが浮かび、その隣でおむすびを握っている自分を想像し……蒼太にそういう目で見られていたのだと気付いたら、何故だか急に恥ずかしくなってきた。……でも、不思議と嫌な気分ではなかった。
 それでも、次第に顔も熱くなってきて、思わず俯いてしまう。対する蒼太は嬉しげに「お、満更じゃあなさそうだな」と笑うと、
「俺の予想じゃあ、アイツはお嬢ちゃんを助けた時からぞっこんだったんだろう。そうじゃなきゃ――」そう何か言い掛けて、蒼太は軽く頭を振り、「――いや、なんでもねぇ」
 小さく呟き、そして仕切り直すように笑みを浮かべると、
「兎も角、だ。アイツは俺とお嬢ちゃんが楽しそうにしてるのが気に喰わないのさ。とは言っても、嫉妬なんてのは無意識のもんで、だから本人は首を傾げてるんだろうけどな」
「……無意識」
「お嬢ちゃんはどうだ? アイツは少し気弱なところがあるが、芯のしっかりした真面目な男だ。悪くねぇとは、思うんだが」
 突然そんな事を言われても、色恋なんて私には無縁の事だ。確かに緋一の事は好意的に思っているけれど、それが恋慕に繋がるのかどうかが全く解らないのだ。
 というよりも、蒼太からこの話を聞かされるまで、私は自分が恋慕の対象になるなんて考えた事がなかった。
 なのでその場で思わず考え込んでしまう。すると、蒼太は笑みの無い、けれど優しい顔で、
「なに、そう難しい顔をするなって。アイツとお嬢ちゃんを無理にくっ付けようってんじゃねぇんだ。俺はただ、アイツに幸せになって欲しいだけなんだよ。……それが叶うなら、俺ぁ死んだって構わねぇ」
「幸せに……?」
 思わず問い掛ける。私には今の緋一は十分幸せそうに見えるのに、蒼太にはそう感じられていないらしい。しかも、死んでも良い、とはどういう事なのか。そう思う私に、彼は静かに頷き、
「ああ、そうだ。今でもアイツは俺の事を親友だと言ってくれる。当然俺もそう思っているんだが……けどな、俺はアイツに取り返しの付かねぇ酷い事をしちまったんだ」
 そう言って、蒼太は普段の陽気な様子が一切感じられない暗い表情を浮かべ、まるで懺悔するようにうな垂れると、
「アイツはよ、いつも袖の長い着物ばかりを着てるだろ? そのくせ、暑くても決して脱ぎたがらねぇ。……あれはな、腕や体にある傷を隠す為なんだ」
「傷?」
 意外な単語だった。同時に、優しい緋一には似合わない言葉だとも思った。そんな私へ、蒼太は話を続けていく。
「そうさ。一生消えない傷だ。俺のせいで、アイツは負わなくて良い怪我を負っちまったのさ。……ああ、俺が莫迦だった。俺があんな事をしなけりゃ、アイツは裏切られずに済んだんだ……。あんな、辛い思いを……」
 苦しみと共にそう呟き、そのまま蒼太は黙り込んでしまった。辛くて苦しくて、そして何よりも緋一に申し訳なくて、それ以上話し続ける事が出来なくなってしまったのだろう。その表情からは、蒼太の強い後悔と、緋一に対する深い友情が伝わってきた。
 だがそれは、私にとって衝撃的な告白でもあった。無言で俯く蒼太を前に、ただ『負わなくて良い怪我』『裏切り』『辛い思い』といった単語が頭の中で繰り返されていく。
 ともあれ、裏切られたという言葉から想像するに、過去に二人はどこかの里や村で暮らしていたのだろう。いや、恐らくそうに違いない。いくら樵として働いているといっても、こんな山の中で二人きりというのは少し奇妙なのだ。買い出しは元より、切り出した木材の卸しも彼等が自分達で行っていて、この場所に誰かが訪ねてきた事は一度も無い。私が緋一の家に厄介になり始めてもう二ヶ月以上経つにも拘らず、だ。そしてそれ以上に、こんな山の中で暮らし続けるには危険が多い。熊や猪など、山には人間を軽く凌駕する動物が沢山生息しているのだから。
 そんな危険な場所に、こうして二人きりで住んでいる理由。
 私の貧相な想像力で考えられるのは、彼等が迫害されている、という可能性だった。
 蒼太が何かを行った事で、緋一が傷を負う事になり、結果的に二人とも住処を追われたのだろう。そうしてこの山の中に移り住み、二人きりで暮らし始めた……。
 それが正解かどうかは解らない。けれど、いつも明るく楽しそうに暮らしている二人には深く暗い影があるのだと気付かされて、のうのうとその優しさに甘え続けてきた自分がとても酷い存在であるように感じられた。
「……でも、どうして私にその話をしてくださったんですか?」
 小さく問い掛けると、顔を上げた蒼太は真剣な表情で私を見つめ、
「お嬢ちゃんになら、アイツを任せられると思ってな」
 それが、ここ暫く続いていたちょっかいの答え。『お嬢ちゃんは良い嫁さんになれるぜ』という蒼太の言葉は、その考えに基づくものだったのだ。
 そんな思っていもいなかった言葉に、一瞬前まで考えていた事が全て吹き飛んで、顔が熱くなるのを感じた。同時に、彼等の強さを思い知る。
 過去に何があったのだとしても、彼等は今、笑顔で日々を送っていて……そして彼等にとっては、終わってしまった過去よりも、これからも続いていく毎日の方がずっと大事なのだ。そうでなければ、緋一を不機嫌にさせるような事を蒼太がする訳が無い。
 そう思う私の頭を軽く撫でると、「この話はアイツには黙っといてくれな」とそう言って、蒼太がようやく笑みを取り戻した。その姿を見上げながら、不意に、心の中の冷静な私が『それでも過去は変わらない』と呟き――けれど私は、それを聞かなかった事にした。

 ――そして私は、その日から免罪符を探し始めた。
 
 それが何の為なのか、誰の為なのか、自分自身の事なのに詳しい理由が解らない。
 その上、蒼太の話を聞いてから、私は緋一の事を意識する事が多くなった。
 朝食を食べている時。
 仕事を手伝っている時。
 昼寝をする時。
 夕食を食べている時
 夜、眠る時。
 緋一と顔を合わせている時もそうでない時も、ただ彼の事を考える。
 改めて意識してみれば、私は一日の大半を緋一と一緒に過ごしている。彼の作るご飯を食べて、彼から色んな事を学んで、そして彼の隣で眠って。
 今までは当たり前のように感じていたその日常の合間に、私は緊張する事が多くなった。それは『襲われるのではないか』と警戒していた時とは違う、奇妙な気恥ずかしさから来るもの。その度に熱くなる顔を隠す為に、私は俯く事が多くなってしまっていた。
 一体この気持ちはなんなのだろう。緋一ともっと話をして、出来るなら触れ合いたいと思うのに、強い恥ずかしさがそれを阻害してしまう感覚。
 むねが、くるしい。
 けれど心の中の冷静な私は、『それでも』『だけど』という言葉を繰り返す。それから先にどんな言葉が続くのかは、考えたくない。
 だから私は免罪符を探す。その理由も解らないまま。
 変な状況だと、今更ながらに思う。この家で目覚めた時、私には緋一が敵のように思えた。けれど今では彼と食べる食事がとても美味しく、彼と語らう時間が楽しく、彼と共に眠る夜が心地良い。
『それでも、私は』
 ――それから先は考えない。考えたらこの生活は終わってしまう。だって私は、
『私は――』
「――ッ、駄目ッ!」
「き、キスメ?」
 血相を変えた緋一がすぐ目の前にやってきて、私はすぐに我に返る。響き続ける心の声を掻き消すように、思わず叫んでしまったらしい。
「一体どうしたんだ?」
 心配そうに問い掛けてくる緋一に、「大丈夫、です」と、暗くなってしまいそうになる声を無理矢理明るくして笑ってみせ――られなかった。不安が心を支配している今は、ただ微笑む事すら出来なくなってしまっていたのだ。そんな私を前に、緋一の表情は更に心配そうに歪んでしまった。
 嗚呼、駄目だ。これじゃ駄目だ。私は、緋一に笑顔で居て欲しいのに。
「……」
 どうして、笑顔を浮かべるなんて簡単な事が出来ないのだろう。いつものように笑う事が出来れば、彼から心配を取り除く事が出来るだろうに……。
 そう思う私の肩に、緋一の大きな手がそっと乗せられた。それに緊張が走り、体を硬くしてしまう私に対し、彼は心配そうな、こちらの体を気遣うような様子で、
「一体どうしたんだ。最近はずっと何かを悩んでいるように見える。……もしかして、何か思い出したのか?」
「べ、別に悩んでは……」
「キスメ」
 優しく、諭すように響くその言葉に、返そうと思った言葉が上手く紡げず、私はただ俯く事しか出来なくなった。
 でも、これでは図星だと自白してしまっているようなものだ。すぐに何か弁解しないと、嘘で塗り固めたキスメという『人間』が消え失せて、私はようか――
「――ッ!」
 強く頭を振って、心に浮かんだ単語を必死に忘れようとする。
 でも、駄目だった。これ以上目を背け続ける事は出来なかった。
 ああそうだ。どんなに免罪符を探そうと、そんなものは見付からない。見付かる訳が無い。
 嗚呼。
「キスメ?」
「私、は……」
 私は――
「……ごめん、なさい」
 ――私は、妖怪だ。
 月光を浴びて妖魔と夜行し、人間を喰らう事を喜びとしていた存在だ。
「ごめんなさい……!」
 人間では無い。
 妖怪、だったのだ。 
 ……でも、私は何も知らなかった。いや、知ろうとすらしてこなかった。私にとって人間とは、ただの食料以外の何物でもなかったのだから。
 けれど、それが違うのだと知った。知ってしまった。私はこんなにも人間が優しく、そして暖かい生き物だなんて考えた事もなかったのだ。
 だから私は過去に行ってきた全てが怖ろしくなってしまって――妖怪である自分の存在自体が恐ろしくなった。その結果が、今の生活だ。私は緋一達の優しさに甘え、自分が妖怪である事を忘れようとしていたのだ。
 きっとここが潮時に違いない。この幸せな生活は、私が『人間である』という嘘を吐き続ける事で続いていた。けれど私は、自分が妖怪であると自覚し直してしまって……だからもう、駄目なのだ。
「……」
 でも、それでも、私はこの生活を手放したくないと――緋一との暮らしを続けていきたいと、そう願っている。
 例えそれが、妖怪としてあるまじき姿だとしても。
「……ッ」
 だから私は、困惑した表情を浮かべる緋一の背後にあるものを、半ば彼に抱き付くようにして手に取った。それは昨日の宴会で蒼太が置いていった酒瓶で、中には少しだけ酒が残っていた。
 私はそれを確認すると、緋一から離れ、お猪口に注ぐ事もせずそのまま一口口にする。
 冷たく甘い液体が喉を焼く感覚。でも、少しぐらいは味が解ってきたそれも、今は全く美味しいとは思えない。けれどそれは、気弱になりそうになる私の背を押す気付けにはなってくれた。
 私は酒瓶を置くと、緋一を真っ直ぐに見つめ、
「……酔っ払いました」
「酔っ払った? 一体何を言って……」
 困惑を深める彼を前に、私は構わず言葉を続けた。
「酔っ払ったんです。……以前言っていましたよね。酔っ払いの言葉なんて、まともに聞くものじゃないって」
 それは何度目の宴会の時だっただろう。楽しげに過去の話を始めた蒼太を前に、緋一が私へとそう教えてくれたのだ。だから、
「今から話す事は、全て酔っ払いの戯言です」
 同じように畳の上に座っているのに、緋一の眼は私の上にある。それを見上げながら、私は胸の中にある想いを語り始めた。
「……私、自分が怖いんです。こんな暮らしが――こんな生き方が存在するなんて知らなかった。だから、過去の私にも、もっと別の生き方があったのかもしれないと解って、とても怖くなってしまったんです」
 古い記憶を思い出す。井戸と、そこから見える空だけが世界の全てだった頃の事を思い出す。
「私はずっと一人でした。ずっと暗い場所に居て、誰も私には話し掛けてなんてくれませんでした。だから私は相手の興味を引こうとして、色々な事を試して……そうしたら、私は好かれるどころか、気味悪がられてしまったんです」
 そしてその時から、私の中で人間が敵になった。
 嗚呼、今なら解る。あの頃は、遠い空から響いてくる楽しげな話し声を毎日のように聞いていた。私は、止む事の無いその中にただ混ぜて貰いたかっただけだったのだ。
 でも、私は人間を敵として見るようになって……いや、違う。私は人間を敵と思う以外にどうしたら良いのかを知らなかった。その無知が、釣瓶落としの怪を生んだのだ。
「私には親がいません。何かを教えてくれる人なんて誰も居ませんでした。世の中に間違っている事や、悪い事があるなんて知らなかったんです」
 今の私は釣瓶落としではない。ただのキスメだ。そしてこの短くも暖かな生活の中で、人間の価値観や考えを知り、だからこそ人間を当たり前のように喰らっていた妖怪の自分が間違っているように思え始めた。
「誰かにとっての常識が、誰かの非常識である事も、私は始めて知ったんです」
 妖怪である私は人間を喰らって生きてきた。それが当たり前なのだと、妖怪の本能が告げていたから。
 けれど緋一達と暮らし始めて、私は『人間を喰べなくても生きて行ける』という事を知った。いや、実際にはそれを知っていた。前から果物は好きだったし、野菜や茸も好きだった。でも、それだけで生きて行けるとは思わなかったのだ。
 人間と同じように暮らす。それは、妖怪の生き方としては間違いなのだろう。けれど、今の私にとっては、それこそが正解になってしまっている。
「……もう、何を信じたら良いのか解りません。過去の生活も間違っていなかったと解っているのに、それが酷く嫌になっているんです」
 嗚呼、そうだ。

 私は緋一を、そして蒼太を食べたくない。

「失いたくない、なんて始めてで……私、どうしたら良いのか、解らなくて……」
 いつの間にか俯いてしまっていた顔を上げる事も出来ないまま、次から次へと溢れてくる涙を拭う。同時に、私は自分というものが良く解らなくなっていた。
 ルーミアとの生活は楽しかった。それは事実で、そこで生まれた友情を否定したい訳じゃない。でも、こうして人間を襲わなくても私は生きていく事が出来ると知った。その事実が、どうしても重しとなって圧し掛かるのだ。
 自分の常識が、当然だと信じ込んでいたものが崩れていく感覚。私にとって何が正解なのか、もう解らない。
 唯一確かなのは、緋一との生活を失いたくないという事と、もう人間を食べる気にはなれないという事。それが妖怪の、自然の摂理に反しているのだとしても、私はその想いを曲げる事が出来そうに無い。
 そんな私を前に、緋一は何も言わずに黙り込み……そして、畳の上に置かれたままの酒瓶を手に取ると、それを一気に呷り、
「……これで俺も酔っ払いだ」
 そう呟く緋一の表情は真剣なもの。彼は酒瓶を掴んだまま、静かに話し始めた。
「……昔、大勢の敵と戦っていた男が居た。男には、襲い来る敵を簡単に殺せる力があった。でも、男には余計なものもあったんだ。
 それは、想像力。
 男は想像してしまった。自分が殺してきた相手に愛する家族が、愛しい恋人が、大切な友人が居る事を。それは男の心を深く傷付けた。どんな刃物よりも鋭く、どんな妖術よりも強い、決して消えない傷を作ったんだ」
 まるでその痛みから耐えるかのように、彼は酒をもう一口呷り、
「だから男は、敵を憎まないと決めた。武器を捨てて、自分に敵意は無いのだとそう告げて、敵と仲良くなろうとしたんだ。そうして、少しでも過去の罪滅ぼしをしようとした。男は様々な方法を試し……そうしてどうにか、敵に受け入れて貰えるようになった。だが――」
 苦しげに、彼は言う。
「だが男は、その代償に大切な親友に傷を負わせてしまったんだ。自分が受け入れられたとはいえ、親友が敵として見なされて続けていた事に、愚かな男は気付かなかったんだよ。
 結果、親友はその高い霊力を全て失い、瀕死の重傷を負った。男は深く嘆き悲しみ……けれどそれを、仲間になった筈の敵に見られてしまった。途端、仲間だと言って受け入れてくれた彼等が男に牙を剥いた。『俺達の仲間になるのは嘘だったのか』と、そう強く責め立てながら。
 ……そして男は、心と、そして体にも消えない傷を負ってしまった。それでも、男は敵を憎む事は無かった。そこで沸いた怒りは、全て自分自身に対するものだったからだ」
 そうして、緋一が俯いてしまった。
 ……こんな時、私はどうしたら良いのだろう。胸の奥が苦しく、彼の為に何かしてあげたいと思うのに、その方法が解らない。そんな風に思う私の脳裏に、桶に入った過去の自分の――仲良くなれるかもしれなかった相手を敵にして、好き勝手に生きてきた釣瓶落としの姿が浮かび……自然と、想いを口にしていた。
「……似ているんですね、その人と私は」
 相手を恨んだのか、恨まなかったのかの違いだ。たったそれだけの違いが、私を妖怪にしてしまったのかもしれない。そしてその違いが、今の緋一の幸せに繋がっているのだろう。
 そう思う私に、緋一は少しだけ微笑み、
「今では、『あの時は大変だった』と、そう笑って話せるようになった。慰めにはならないかもしれないが、今はこうして苦しくても、自分の信じた道を進めば良い。そうすれば、今日の苦しみを、いつか笑って思い返せるようになる筈だ」
「……はい」
 私は妖怪で、けれど人間と一緒に居る事を楽しいと思えるようになってしまった。だからもう人間は襲えないし、食べる事も出来ない。
 それが妖怪の生き方に反しているとしても、私はこのまま生きて行こう。それが正解かどうかは解らないけれど、考えたところでそれ以外の答えは出ない。
 それが、今の私が一番望む生き方なのだから。
「……有り難う御座います。少し、楽になりました」
「なら良かった」そう言って緋一が微笑み、けれどすぐに真剣な表情になると、「でも、一つ聞かせてくれ。……過去の記憶が無いというのは、嘘なのか?」
「……ごめんなさい」
 失望されるのを覚悟で、頭を下げる。すると、緋一は私の頭を上げさせ、優しく微笑むと
「いや、責めている訳じゃない。むしろ俺は、キスメが記憶を失ってしまう病気では無いと解って安心しているんだ。だから、そう暗い顔をしないでくれ」
「緋一さん……」
 彼の優しさに自然と微笑む事が出来るのを感じながら、受け入れて貰えた事が嬉しくて、思わず泣き出しそうになってしまう。……というか、さっき少し泣いてしまった時、鼻水が出てしまったのか、鼻の辺りに少し違和感がある。何だかそれが凄く恥ずかしくて、私は鼻を拭おうと立ち上がり――その瞬間、ふらり、ときた。
「あッ、」
 酒を呑み、酔いが回っていたのを完全に忘れていた。そう気付いた時にはもう遅く、私はそのまま前のめりに倒れそうになって、
「おっと」
 咄嗟に反応してくれた緋一に抱き止められ――そのまま、抱き締められた。
「……」
「……」
 思っていた以上に筋肉質な体から、熱い緋一の体温を感じる。
 でも、触れ合う場所から火傷していきそうなくらい、私の体も熱くなってきていた。
「……」
「……」
 彼の胸板に押し付けた耳から、早鐘を打つ心臓の鼓動が聞こえる。
 同じように、私の心臓も、壊れそうなほど激しく脈を打っていた。
 何だか良く解らないけど、もの凄く恥ずかしくて、でもどうしてか離れ難い。
 少しだけ視線を上げると、お互いの呼吸を感じられるほど近くに緋一の顔があった。その顔は赤く、私と同じようにとても恥ずかしそうで……でも、彼の瞳は真っ直ぐに私を見つめていて、私はその視線から逃れる事が出来なくなった。
 見詰め合う。
 そして、そのまま――
「――ッ」
 ――でも、駄目! やっぱり恥ずかしい!
 そう心の中で叫んで、私は逃げるように俯いた。それでも緋一と一緒に居たいという気持ちが強くて、彼に抱き締められたまま動けない。
 そんな私の胸に浮かぶのは、一つの想い。
「……嗚呼」
 これが恋慕の気持ちなのかもしれないと、そんな風に思った。



 そして私は、今まで以上に緋一の事を想うようになった。恐らくこの日から、私達の関係は今までとは少し別の、けれど互いに望んでいた方向へと進んでいったのだ。
 とはいえ、妖怪である私が人間である緋一を受け止められるかどうかは解らない。けれど、日々積もる想いはどうしようもなく強く――だから大丈夫だと、私はそう信じる事にしたのだった。
 それに私は、この平穏な毎日が壊れるとは思ってもいなかった。
 緋一を想い、それを蒼太にからかわれ、三人で一緒に笑い合う事の出来るこの暖かな生活が、これからもずっとずっと続いていくのだと思っていた。そう無意識に思い込んでいたのだ。 
 
 
 あの日、蒼太が突然倒れるまでは。   











   
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コメント



0.880簡易評価
2.無評価名前が無い程度の能力削除
相変わらずいいものを書くな
続きがどうなるか期待
4.80名前が無い程度の能力削除
妖と人の邂逅、どうなるのか楽しみです
残りの点数は続編への期待を込めて
6.100名前が無い程度の能力削除
やばい。すんげえ面白い!
14.100名前が無い程度の能力削除
やっぱりむつきさんは凄いや
19.100名前が無い程度の能力削除
すごく感情移入できます!読んで良かったって思える小説です!
21.100名前が無い程度の能力削除
なんだか優しくて切ない雰囲気のある文章。
山村に伝わる伝承話のような趣が好み。続きが気になります