ある春の日のこと。
うぶ毛をくすぐるような日射しだった。
誰かがすぐそばで何か囁いているのだけれど、何と言っているのか声は少しも聞こえなくて、ただ幽かな息吹の気配だけを肌に感じる。それはとてもあたたかく、そしてやさしく、少しだけくすぐったい。お日様の光を借りて、春が囁いているような。
朝晩の冷え込みにはまだ外套を手放せなかったが、日中の暖かさはもう十分に春を思わせた。固く身を縮めていた桜の蕾も、ここ数日でぐっと色づき膨らんでいる。毎朝掃除がてら、境内の桜を観察するのもすっかり最近の日課だ。朝の掃き掃除なんて、眠いは面倒臭いはやってられないと思っているのに、一番古い桜木にふたつみっつと可愛らしい蕾がついているのを発見した日から、毎朝欠かさず箒を握り締めているのだから我ながらしょうもない。まあ、それなら相応に境内は隅々まで綺麗なのかと言われれば、掃除なんて所詮おまけなわけで。改めて確認するのも何やら妙に気恥ずかしいが、やっぱり私も春が待ち遠しい類のひとりなのである。あおあおとした緑の芽や、さらさらと唄う雪解け水、冬眠から目覚める獣やスキマ妖怪に春を感じることもできるけれど、この神社には桜が咲いたら春がやってくるように思っている。桜が咲いたら人やら人外やらも集ってくるのだけれど。お酒と食べ物を持って。
裏を返せば嵐の前の静けさのように、冬と春の狭間のごく短いこの時期、神社にやってくる人やら人外やらはぐっと数を減らす。衣替えに忙しいのかもしれないし、ひょっとすると花見の宴会でどんちゃん押し掛けることを織り込み済みで、直前の今だけ敢えてなりをひそめているのかもしれない。訊いたことはないし、訊こうとも思わないから知らないけれども。そう言えば、萃香も出かけているようだ。あの鬼は私よりもずっとずっと判りやすく浮かれていたから、今日もどこかで春の気配に誘われているのかもしれない。でもあの鬼は年中浮かれているし、年中春なんじゃないかと実は思っている。主に頭が。
日射しはかわらず、肌をくすぐっていた。年寄りじみていると言われようとも、こうして縁側でぼんやりと過ごす時間は、何ものにもとは言わないが大抵のものとは代え難い。燦々と注ぐしろい光がとろりとした膜になって私を包んでいるように感じる。春眠暁を覚えずと言うそうだが、春眠は落日さえ覚えないのではないか。誘惑に逆らわず、とりとめのない思考を切り上げて私は目蓋を落とした。躰を預けた傍らの柱から、じんわりと木の吸っていた熱が伝わってきたのを覚えている。
―――― くすくす、くすくす、春が笑いささめいている。
はたと目を開けると、雪が降っていた。ぎょっとしたが、寝惚け眼を擦ってからもう一度見てみるとそれは雪ではないようだった。なにせ太陽が出ているのに降っているし、おまけに解ける様子もない。かつ、極めて局所的だった。私の前にだけ降っている。外に投げ出した足の上にも降っていて、袴の紅が半ば隠れていた。ひとひら摘み上げてみる。もう流石に何かは判っていた。花だ。目に入った瞬間は白にばかり気をとられたが、こうして見ると短いものの茎も葉も付いている。小さな白い切り花が降ってきているのだった。現在進行形で。
立ち上がると、ぱさぱさと軽やかな音と共に袴から花々が滑り落ちていく。その時庇から顔を出した私の頭にまた新しい花がひとつふたつとぶつかって、ぱさぱさんと地面に落ちた。目にあたっては堪らないからと額に片手で庇を作って見上げた先には知った顔。屋根から顔と手を覗かせて、にこにこしている。目が合うと、彼女は握っていた小さな拳を開いた。また花が降ってくる。ぱさぱささん。
「リリー」
呼ぶ声が少しだけ咎める響きを帯びたのも致し方ないと思う。本人に多分悪気がないとは言え、顔面に花をぶつけられていい気はしない。別に痛くはないけれど。
けれども呼ばれた本人はそんな私の語調には少しも気づかなかったようだ。名を呼ばれるや、ぱっと表情を華やがせて屋根から降りてきた。ぱたぱたと小さな羽根がはためいている。こっくり首を傾げられて、少し困った。
「あー……、こんにち、は?」
リリーホワイトは両手を前に揃えてぺこりとお辞儀をした。提げている花籠が揺れて中身がさわさわと音をたてている。花の出所はそこだろう。
視線を花籠から足許に移すと、小さな白い絨毯が目に入った。ひとひとり立てるだけの幅しかなかったが、その限りにおいて白い花は殆ど地面を覆ってしまっている。一体いつから、どれだけ。そもそもなぜ。矢継ぎ早に疑問が浮かんだが、私には判っていた。この疑問はどうせたった一言で説明されてしまうに違いない。
「あそんでたの?」
小さな妖精は嬉しそうに2度頷いた。
ほらごらん。妖精の仕業なんていうものは大抵この質問ひとつで理由が判ってしまうのだ。そんなの理由にならない、なんていう理屈は妖精以外専用なのだから怒ることもできない。怒ることでもない。花を頭から降らされたくらいのこと。
「それ、どうしたの?」
妖精の謎の行動の理由はもう解明されてしまったので、別のことを尋ねた。去年も一昨年もそんな籠は持っていなかったように思う。
するとリリーホワイトは花籠をこちらにぐいっと掲げてみせた。小柄な妖精相手のこと、少し身を屈め花籠をしげしげと眺めると、籠の縁に札がぶらさがっているのに気がついた。見ると里にある花屋の名前が書かれてある。加えて籠の中には切り花の他に小さな紙袋が幾つも入っていて、その何れにも可愛い花の絵と共に同じ花屋の名前が記されていた。花の種だ。
ははあ、そういう商売かと納得する。妖精に金銭取り引きを任せるなんて自殺行為だから、花の売買を任せているわけじゃあないだろう。これは多分、客寄せ無料サービスの一種だ。春一番の花屋の戦略。詳しくないから名は忘れたが、この白い花も丁度今頃に咲く花だ。リリーホワイトが、かの有名な春告精が春の花を配り歩くサービスなんて、心憎いにも程がある。リリーホワイトが毎年春になるとあちこちの花屋に現れているらしいことは聞き知っていたが、今年に至ってついにその花屋のひとつが天啓を得たのだろう。成る程、これは見習うべき点があるかもしれない。来年はひとつ私がこの子を手懐けて、花と種の代わりに花と札を持たせて配り歩かせれば、お賽銭アップが見込めるかもしれない。寄り道し放題遊び放題(現にさっきだって遊んでいたわけだし)の可能性もあるが、要検討だ。
「……?」
「あっ、いえ、なんでもないのよ。……ええと、そう、その花の種は私もひとつ貰えるのかしら」
すぐにひとつ種の袋が差し出された。お礼を言って受け取る。袋に描かれている花は見たことはあったが、やっぱり名前がわからなかった。後で誰かに聞くとしよう。
不意にリリーホワイトが羽根をぱたぱたさせながら浮かびあがった。お互いの顔の高さが揃うぐらいまで浮かんだ後、花籠に突っ込んでいた片手を真上に振り上げる。ぱっと白い花が散った。今度は私の頭や肩だけじゃなく、リリーホワイト自身の躰にもぱさぱさと花が降り注ぐ。
それはそうやってばらまくんじゃなくて、一本一本手渡すものなんだろうなあと思いながら、私は何も言わなかった。言わなかったが、来年お札を配り歩かせる場合はその辺きっちり教えておかなければと心のメモには書き留める。
その間もリリーホワイトは花の雨を降らしていて、くすくす、きゃらきゃら至極楽しそうにしていた。
それから少しして、種の袋の残り数に比べて圧倒的に花の数を減らした花籠を抱えたリリーホワイトは、先と同じようにぺっこりと頭を下げた。もう行くということらしい。
お辞儀した頭の天辺に花がひとつひっかかっていて思わず笑ってしまう。けれど不思議そうな顔をしたリリーホワイトには教えずにおいた。だって可愛いんだもん。
「あ」
さようなら、そう言って手を振った後だったが、背をむけかけていたリリーホワイトを私は呼び止めた。
「どうもありがとうね、リリー。 わざわざこんなところまで来てくれて」
妖精の気紛れだろうが、里の方からと考えれば随分な距離を来てくれたことになる。少しびっくりはしたけれど、思わぬ楽しい時間と、可愛い花のお礼も含めて。
するとリリーホワイトは癖なのだろうか、またこくんと小さな首を傾げてから、その場でくるりと踊るように一回転した。それから嬉しそうに楽しそうに顔を綻ばせて宙の一点を指差し、
「だって、春が来たんだもの!」
高らかに澄んだ声を響かせた後、もう一度お辞儀をして今度こそ飛び去っていった。
小さな背中が完全に見えなくなってから、今日初めて彼女の声を聞いたことに思い至った。妖精らしい元気いっぱいの声。知らず自分の胸を撫でていた。春が来たよ春が来たよ、躰の裡で声がする。春が来たねと声を出して呟いて、すうっと大きく息を吸い込んだ。名も知らぬ春の花の甘い香りが胸一杯に広がる。春が来たよ。春が来たね。自分の声さえあたたかい。
と、ここまでがある春の日のこと、昼。ここからは、何だか語るのが恥ずかしい。だからあまり語らない。だって誰にだって判ることだ。だけど多分寝起きだったのがいけなかった。その時の私はとんでもなく察しが悪くなっていて、割とご機嫌にリリーホワイトの置き土産を片づけ押し花用の一輪を選び定めた後、傾いた太陽を見上げて、落日を覚えずなんて思ってたけど落日覚えちゃったなあとか呑気千万なことを考えていた。
で、その晩だ。いつでも酔っ払ってる萃香がいつも通り酔っ払って帰ってきて、その上まだ飲んでいた。今年初の花見酒ぇ~とか何とか浮かれて音痴な歌を唄っていたので脇から覗いたら徳利に1本桜の枝がささっていて、3つ付いた蕾の内ひとつが綺麗に開いて薄紅色を添えていた。どこから持ってきたのと問えば神社だと言う。もう嫌な予感しかしない。神社のどこだと詳しく問えばあれだ、あの古桜だ。私が毎日毎日明日か明後日かともうはっきり言ってしまうがうきうきわくわくしていたあの桜の木だ。
その後の詳細は語るまい。私は駆けて、崩れて、駆け戻って、取り上げて、ぶん殴った。八つ当たり万歳。
あの日、あの時、あの昼下がり。リリーホワイトの小さな人差し指が指し示したその先の先に、嗚呼、私の大切な桜があったことは言うまでもないのである。
そしてリリー可愛い!
書きたい時に書く、素晴らしいですね。
うん、やっぱり、リリーが可愛かったです。
その心を説明する野暮はしませんが、いやはや、それにしてもこの綺麗な文章は簡単には真似できませんね。
あたたかくて静かな春先の雰囲気を纏っているところよね。
里の花屋とリリーの設定の掘り下げとかもよかったです。