走る。走る。走る。走る。幻想郷の大地を踏みしめ男は走る。
必死という言葉をそのまま貼り付けたような顔で、効率のいい走り方など忘れたようにただ我武者羅に、懸命に、男は走る。
男にはそうしなければならない理由がある。どうしてもそうしなければならない理由がある。
だから、男はただ走る。目的の場所まであと少し。その姿はもう見えている。
あと数十メートルほどだろうか。この時ほど男は自分が『ただの人間』であることを悔やんだ。
もし霧雨のとこの娘さんのように空が飛べたら、もし博麗の巫女のように空が飛べれば。
そんなことを考えているうちに、男は目的地まで辿り着く。
一時の安堵。しかし、これで終わるわけでは到底ない。
「失礼ですが、どちらさまでしょうか? 今日の予定ではお客様は来られないはずですけど」
門の前で佇む赤い髪の女性。言ってみれば、この女性もそうだ。
「お願いです……、お願いです……」
男には解決せねばならぬ問題がいくつもある。
「どうか、どうか、ここに住んでいらっしゃるという魔女さまに会わせて下さい!!」
更に制限時間までついている。だからこそ、男は危ない道中を必死にここまでやって来たのだ。
幻想郷の人里に一組の兄妹がいた。両親に先立たれた哀れな兄妹、というのが人里の間での認識であったが、その兄妹たちはそうは思っていなかった。両親の残してくれた畑や家、隣近所の親切な人々、またいくらかの妖怪の助けをかり生活をしていた兄妹は自分たちのことを哀れだとは決して思わなかった。
兄は毎日畑で、妹は家の中で。自分の出来ることを必死で、そしてどこか満足気に行うその姿からは悲壮感など感じられず、ただ必死に今を生きようという強い心までもが伺える。
悲しく辛い生い立ちであろうとも、微塵もそれを感じさせない健気な二人。
幸せを願わずにはいられない、多くの者がそう思う、真に良き兄妹がいた。
しかし、運命は容赦をしなかった。妹が、その兄妹の妹が病に伏せることになる。
ゆっくりと進行する病気に周りも、兄も、そして妹自身も気がつかず、倒れたときにはもう手遅れ。
兄は人里中の医者を訪ねては妹を診てもらい、そして絶望を味わう。どの医者も口を揃えていうのだ、『もう手遅れだ』と。
病が発覚してからは早かった。妹は毎夜毎夜痛みに魘されることとなり、更にはそれが昼夜を問わなくなるころには兄も妹も悲しさを知った。辛さを知った、悔しさを知った、そしてどうにもならない現状を、知った。
刻々と流れる時間、どんどん短くなる命という名の蝋燭。
兄は伏せる妹のために色々なことをした。どのような病か分からぬときには四方八方を駆けずり医者と名のつく者を探し、また手のうちようがないと分かれば妹のためにご馳走や楽しげな話を身振り手振りで伝える。
そのどれもが空回りになっていようと、兄はただただ妹のために身を削った。治療法が見つからずとも、妹がそんな兄の姿に悲しげな笑みしか浮かべずとも。
そして、ついにその時が一歩一歩と近づいてくる。
妹の、死。避けようもない、絶対が妹の傍までやってくる。
兄は泣いた。何も出来ぬ自分に、若く散る妹に、そしてこの運命に。
やつれて満足に食事も取れなくなった妹に、兄は問いかける。
「自分にできることはないか」
そんな問いに、いつもはただ首を振るだけだった妹が一言だけ言葉を発する。
「みかんが、食べたい、な」
かすれた声で、最後の願いともとれる言葉を。
病魔に冒されてから、いや両親を失ってから初めての願い。それまでたったの一度も何かを欲しがらなかった妹。その妹が欲しがるものは、一つのみかん。
まだ二人が楽しく笑いあえていたころに食べた思い出の味。それをもう一度味わいたいと妹はいった。
「分かった。すぐに買ってくるから、待ってろ。絶対に手に入れてくるからな」
布団の中で意識を失った妹に、兄は決意の言葉をもってして告げる。絶対にお前の願いを叶えてやると。お前が旅立ってしまう前に望みを叶えてやると。
ただ、ただ悲しいことに、妹はもう、季節を感じることが出来なくなっていた――――
「無理ね」
目の前の魔女は、男の一縷の望みを完全に打ち砕いた。
「私は魔女だけれど、だからといって何でも出来るわけではないの。貴方みたいな普通の人間がここまできたのは初めて、それに対して敬意を表してあげたいとは思うわ。だけど、無理なものは無理」
全く表情を変えぬまま、紅魔館に住む魔女はいった。
「そうね。半年くらい時間があるのならまだ何とかなったかもしれないけれど……」
「そう、ですか」
男の目の前が真っ暗になる。元々暗かった視界が更に。どうしようもないくらいの暗さ。黒。
「大体、今は夏でしょう? 何故今頃になってみかんが欲しいというのかしら」
魔女は冷静に聞いてくる。そういえば、みかんが欲しい、どうにかあなたの力で手に入れることは出来ないか、としかいっていない。彼女は自分の事情を知らない。知ったところでどうにもならないということは、先ほどの彼女の言葉で分かりきってはいるが。
「実は……」
家を出てから色々なところをまわった。人里の商店を全てまわり、果物を主に作っている家々を訪ね、そして人里の守護者に「もしかしたら」と教えられたここに。
しかし、それも駄目。どうにもならなかった。その事実が男に圧し掛かる。
妹の願いを、叶えられそうに、ない。
口と意識が別々になってしまっている。頭の中はぐちゃぐちゃと色々なことを考えているというのに、口だけはしっかりと働き、こちらを眺める魔女に今の自分の状況を的確に説明しているのだ。
笑ってしまう。笑えない。もう終わった。まだ何かあるはずだ。どうすればいい。どうにもならない。
「一つ」
いつの間にか、自分は喋り終えていた。目の前の魔女が指を一本立てながらこちらに視線を向けている。
「あの守護者が貴方に言わなかった道が、まだ一つだけあるわ」
魔女が何か言葉を続けているようだが、よく聞き取れない。
だが確かにいった。まだあると。
久々に、男は神に感謝した。
「本当にすみません。でも、お願いします」
「そんなに畏まらなくても大丈夫ですよ。私も午後は非番ですし、のっぴきならない状況らしいですから」
紅魔館にて門番をしていた女性におんぶしてもらい、男は空を飛んでいる。
次なる目的地は遠い。今までのように走っていては辿り着くまでに夜になり危険。それでもそこに向かおうとする男に魔女はいった。
『門番がいたでしょう? あのこは確か夕方から暇なはずだから彼女に連れて行ってもらいなさい。あぁ、ついでに護衛もしてもらえばいいんじゃないかしら』
そこまでしてもらうわけには、と断ろうとする男に魔女は更にこう続けた。
『敬意を表するといったでしょう? ただ情報を与えるだけだなんて、そんなケチ臭い魔女に私をしたいのかしら? いいから行きなさい』
本に目を落としながらこちらにシッシッと手を振る魔女に、男は深々と頭を下げ、館の外にいる門番に事情を話し、そして今に至る。
「その、太陽の畑とはどういうところなんでしょうか」
自分の出せる全速力の軽く三倍のスピードに耐えながら男は門番に尋ねる。今向かっている場所のことを。
「そうですねぇ。今の時期は一面に向日葵が咲き乱れていて、とても綺麗な場所ですよ。もっとも怖いところでもありますが」
太陽の畑。人里から離れたところにあるとされている場所。妖怪などが集まり祭りを行っている、などといわれている所為かほとんどの人間が立ち寄ることがない。男も名前は知っているが行くのは初めて。
「やはり恐ろしい妖怪がいるのでしょうか」
男の問いに門番は少し唸りつつ答える。
「それほど強い妖怪はあまりいませんよ。もう既にいますから。そして、貴方がお願い事をするのも彼女ですから……頑張ってくださいね」
願い事をする相手。その相手のことを男は考える。
一度だけ人里で見たことがある。傘を片手に優雅に歩いていた姿を。
風見幽香。かなり危険とされる妖怪。
「やはり、その、風見さんは恐ろしい方なんでしょうか」
一抹の不安が頭をよぎる。門番には既に伝えている。自分が風見幽香の機嫌を損ねて殺されそうになった場合はそのまま帰ってくれて構わないと。太陽の畑に着くまでの移動と護衛までしてくれている彼女にこれ以上負担をかけるわけにはいかない。これは自分の、自分と妹に関する問題。
覚悟はしているつもりだ。でも、恐ろしいものは恐ろしいし、失敗したときのことを考えると切なくなる。自分には帰らなければならない場所がある。傍にいなければならない人がいる。だから失敗できない。でも不安という靄は頭から離れてはくれない。
「うーん。そんな話が分からない戦闘狂ってわけではないのでお話自体はできると思いますよ? まぁ私は妖怪なので人と感覚が違っていたりしてあまり参考にならないかもしれませんけど」
門番は軽く首を傾げ、そして笑いながらそういう。
その様子を背中越し見て少し、ほんの少しだけ落ち着く。人里では恐ろしいと噂をされているような妖怪に会いに行くというのにこの感じ、噂ほど怖くないのかもしれない。そう思いたい。
一息ついて、普段飛べぬ男にとって始めてみる空からの景色を見る。素晴らしい。いや、素晴らしいと思えるだけの心の余裕ができた。そして次に思ったのはこの景色を妹にも見せてやりたいということ。
目の前に広がる一面の向日葵。目的の場所に着いた。門番が言うには風見幽香は近くにいるらしい。
魔女はいった。ここが一番の難所だろうと。
門番はいった。頑張ってくださいと。
男は虎穴に入る。そこにいるのは虎よりも恐ろしい妖怪。だが、そんなことは構わない。
男にとって恐れることは、妹との約束を守れないことなのだから。
とても面倒くさそうに人間を眺める妖怪。真剣にそして必死に願いを妖怪に告げる人間。
太陽の畑にて二人は向かい合う。そこから少し離れた場所で佇むのは門番。
「どうか、どうかお願いします。風見殿、私にみかんを授けては下さりませんか」
「みかん、ねぇ……」
本当にどうでもいいもの。それを雄弁に語る視線を受けながら男は風見幽香に願いをいう。
何故欲しているか、ここに来るまでの経緯、そして自分の決意。
「もしみかんを頂けるのならば何でも致します。だから、だからお願いします。妹のために、お願いします!!」
思いに体が引きずられたのか、男はいつの間に地に頭をつけていた。しかし、そんなことはどうでもいいこと。
「……なんか面倒なものをつれてきてくれたわね」
下げたままの視線ではよく分からないが、風見幽香は門番の方に話しかけている様子。
「一応紅魔館に来た勇気あるお客様のお願い事ですので……」
「勇気ある、ね。どちらかというと愚かなだけな気がするけれど」
ふぅ、とため息をつく音が聞こえる。駄目なのだろうか、無理なのだろうか、妹の願いは
叶えられないのだろうか。
「まぁまぁ。それで、実際のところ出来そうですか幽香さん」
「花が咲けば、それは実を結ぶもの。ただの魔女にはできなかったようだけど、四季のフラワーマスターの私なら余裕よ」
出来る、という言葉につい頭を上げてしまう。
そして目が合う。風見幽香と。
こちらを探るような目をした妖怪と。
「御代を頂くけど、それは当然よね?」
「も、勿論です。私に出来ることなら何だってします。だから、どうか……」
何故か、にやりと笑う風見幽香。そんなことはいい、彼女がやる気になってくれるのならば。
「分かったわ。一つだけ、みかんを生らせてあげましょう」
いうと同時に服のポケットから一粒の種を取り出す風見幽香。
そこからは早かった。土に埋められた種が、まるでそこだけ時間を早めているかのように芽を出し、成長していく。
「みかんは種の出来にくい種類だから、かなり貴重なのよ? 種から育てるよりも接木した方が早くて効率がいいっていうのもあるんだけど。あぁ、ほら、花が咲いたわ。小さくて可愛いでしょう?」
風見幽香がみかんについて色々と語っているうちに種は木になり花を咲かせ、そして一つの実を結んだ。その早さは異様としか言いようがなく、どこか恐ろしさを感じさせる。
だが確かなことが一つだけ。男の目の前に、一つのみかんがある。それだけで十分すぎる。
「ありがとう。そして、またね」
風見幽香が木に話しかけると同時に、みかんの木が朽ちて崩れた。あまりの成長速度に耐えられなかったのだろう。時期も時間も全てを無視した結実だったのだから。
「さて、この子のおかげで一つみかんができたわね」
手のひらに収まるくらいの小さなみかんを手に風見幽香はいう。
「ありがとうございます。ありがとうございます。これで、これで妹に――――」
「じゃ、御代として……そうね、千両頂こうかしら」
にやにやとした笑みを浮かべて、風見幽香はよく分からないことを、いった。
「千、両、ですか?」
「えぇ。貴重な種を、私の力を、そして咲き誇るはずだったあの子を犠牲にしてできたこのみかん。それ程の値がついてもおかしくはないと思うのだけれど?」
風見幽香が笑っている。よく、意味が分からない。
千両。それ程の大金を、自分が持っているように見えるのか。そんなわけがない。そんなわけがない。
たとえ千分の一の一両とて男は手に入れたことがない。風見幽香が何を言っているのか分からない。
「ほ、本当に千両、なのですか。千両を払えと……」
「えぇ、ビタ一文もまけてあげないわ。貴方は求む側、私は渡す側。私がつける値段が嫌だというのなら諦めなさい」
何を、いっているんだ、この、妖怪、は。
「必ず、必ず、一生をかけてお払いしますからどうかそのみかんを」
「あら、売り買いの基本はその場での交換よ? それくらい知ってるでしょ?」
ふふふ、と笑っている。笑っている。風見幽香が笑っている。
何だ。何なんだ。何なんだこの仕打ちは。理解が出来ない。
「さぁさぁ、千両きっちり持ってきなさいな。別に物でもいいわよ?」
笑っている。笑っていやがる。この人の皮を被った化け物が、本当に嬉しそうに、面白いものを見つけたという顔で、楽しそうにこちらを見て、笑っている。
自分はただ、妹の最後の願いを叶えてやりたいだけだというのに。何故、何故、何故。
「ほら、早くしないと時間がないんじゃない?」
風見幽香がこちらを見ながらいう。時間がない、と。
そうだ。男には。妹にはもう時間など残されていない。ここで諦めたら、もう次はない。
男は考える。千両を揃える方法を。
自分を人買いに売ればどうか。若い娘でもない男の自分だ、恐らく三十両もいかないだろう。
他人に借りるのはどうだ。一年で二両、三両が限界なのに千両など到底無理。
なら金貸しに借りるのは。千両など体も家も全て担保にしても貸してはくれまい。
『みかんが、食べたい、な』
諦めない。諦められない。どうにか、どうにか千両ものお金を、物を手に入れなければ。
千両の金を、千両の物を。
千両になる、金を。千両になる、『物』を。
「どうしたの? もう諦めたかしら? だったらさっさと帰ってくれないかし」
「分かりました。私を売りましょう。だから、そのみかんをどうかお願いします」
風見幽香が言い終わらぬうちに男は言葉を発する。
それに少し期限を悪くしたのか、それとも自分の言葉の意味を考えているのか、眉を顰める。
「何ですって? もう一度いってくれないかしら?」
「ですから、私を代価としてそのみかんを頂きたい、と」
ハッと、何を言っているんだという目で風見幽香は男を見る。
「貴方、自分が千両もすると思っているの? 年頃の娘が高くて五十両。仮に貴方が同じくらいの値段としても、二十分の一にしかなっていないじゃない」
「いえ、私には千両の価値があります。なぜなら私は希少ですから」
「何を言って――――」
「私の魂を、千両で買っていただきたい」
男の言葉に風見幽香は言葉を止める。
それを見ながら男はここぞとばかりに続ける。
「肉体だけではなく、魂まで、私は貴方にお譲りしましょう。どうなっても構いません。どのようにしていただいても構いません」
真剣に、ただ真剣に男は続ける。
「貴方が私を買っていただけるのならば、私はすぐさま人里の守護者殿、妖怪の賢者の方々、博麗の巫女殿の所に向かい、私は貴方の所有物になったと報告してきます」
風見幽香はそんな男をただ見続ける。
「物になります。私は貴方の『物』になります。意識もあり命もありますが、『物』となります。どのように使っても構いません。捻り潰そうが、臓物をぶちまけさせようが構いません。人里で大衆の目の前で私を引き裂いても構いません。それにより貴方に非難がいかないように私が皆を説得しましょう」
男は必死に、しかし丁寧に言葉を続ける。
「私を使って何をしてもいいように私がします。他のものが非難しようものならば私が望んでいるのだからと止めましょう。達磨にしようと、その辺に捨て去ろうと、貴方の好きにして構いません。いいですか、もう一度言います。一人の人間を誰にも非難されず、好き勝手に遊ぶことが出来ます」
風見幽香は何も言わない。
「そんな人間が今ならたったの千両です。お安いでしょう? 今までこのような人間に会いましたか? 貴方は私を五十両にしてもいいといいました。この権利をつけることで二十倍の価値をつけてはいただけませんか? こんな人間は二十年に一人、いやもっと少ないかもしれない。こんなもの珍しい人間が、今ならたったの千両です。さぁ、いかがでしょうか、『風見幽香様』」
男の口から言葉の暴風がやむ。そして一呼吸。
男は風見幽香の目を正面から見ながら最後に言う。
「私を千両として、そのみかんをどうか私にうってくれませんか」
男の言葉を全て聞き終えた風見幽香は思案をするように目を瞑る。
一秒、二秒、三秒、四秒。時の止まったような重苦しい中、時間は進む。タイムリミットは近づいている。
「では、ちょっと試させて貰うわ」
言葉と同時に激痛。いつの間にかすぐ傍に風見幽香の姿。そして太陽に透かすように眺めているのは、男の小指。
「あぎっ!?」
痛みの出所、左手を見る。小指がない。小指がない。
「あああああぁああ」
痛みに悶える男を見ながら、風見幽香はいう。
「貴方。今同じことが言える?」
「おねがい、じまず」
男の答えは早かった。涙を流し、左手を押さえながら、地に膝をついた状態でも、男は直ぐに言葉を返した。
妹の願いを叶えてやりたい、と。
「……いいでしょう。もっていきなさい」
風見幽香が男の前にそっとみかんを置く。
男は痛みと涙でぐしゃぐしゃの顔を上げる。目の前にあるのは向日葵。
「やることが終わったらまたここに来なさい。この畑の花を美しくするのを手伝って貰うわ」
震える声でありがとうございますという男に、向日葵はやさしく笑う。
「そこの門番。さっさと連れてってあげなさいな」
「いやー。お話がまとまって良かった良かった。でも、私が連れて行くんですか?」
「私と貴方じゃ貴方の方が速いでしょう?」
「まぁ乗りかかった船です。最後まで面倒見ましょう。代わりに、また今度アレをお願いしますね」
「はいはい。しかし、私が魔王尊や山本五郎左衛門みたいなことをするとはね」
「あはは。強い存在に惹かれるのが私たちですし、そこは仕方がないですよ」
すぐ傍で妖怪同士が何かを話しているようだったが、男にはどうでも良かった。
約束を守れる。妹の願いを叶えてやれる。
それだけで、男の胸は一杯だったのだから。
人里のある家に男は駆け込む。
玄関から入って直ぐ見える今には布団が敷かれ、年端もいかぬ少女が横になっている。
ドタバタと履物を脱ぎ、少女の直ぐ傍に寄る男。
その音に気がついたのか、少女は目を開き男を見る。
「あ……おにい、ちゃん」
「起こしてしまったか? すまない。だがな、みかんを、みかんを買ってきたぞ。ほら、お前が食べたがっていたみかんだぞ」
男の右手に大事そうに握られているのは橙黄色の丸い果物。
「わぁ……。凄く、おいしそう、だね」
「あぁ、凄く美味しいぞ。今剥いてやるからちょっと待ってろ」
男が右手と、何故か布を巻かれた左手を使って、丁寧にみかんの皮を剥いていく。
広げられた皮の中には十房に分けられたみかん。
「ほら、お前の食べたがっていたみかんだ。たんとお食べ」
少女の口まで持っていき、そっと食べさせる。
「どうだ。うまいか?」
「うん。おいしい……とっても甘くて、おいしい、よ」
とても幸せそうに笑う少女。それを見て男の顔も綻ぶ。
「おにいちゃん」
ゆっくりとした口調で、少女が男に言葉をかける。
「我侭、いって、ごめ……さい、ありが、と」
言い終わると、口から内皮の破れていないみかんが、一房転がり出た。
「ねぇ。万年お花畑」
「それ、私やめてっていったわよね?」
「そんなことはどうでもいいのよ。ちょっと不思議に思ったんだけど」
「何よ?」
「太陽の畑に一輪だけ凄く綺麗な向日葵があるじゃない? あれって何か特別なのかしら」
「……あぁ、あれね。別にあの花自体は他の子と変わらないわ」
「じゃあ何が違うの?」
「肥料が違うのよ」
必死という言葉をそのまま貼り付けたような顔で、効率のいい走り方など忘れたようにただ我武者羅に、懸命に、男は走る。
男にはそうしなければならない理由がある。どうしてもそうしなければならない理由がある。
だから、男はただ走る。目的の場所まであと少し。その姿はもう見えている。
あと数十メートルほどだろうか。この時ほど男は自分が『ただの人間』であることを悔やんだ。
もし霧雨のとこの娘さんのように空が飛べたら、もし博麗の巫女のように空が飛べれば。
そんなことを考えているうちに、男は目的地まで辿り着く。
一時の安堵。しかし、これで終わるわけでは到底ない。
「失礼ですが、どちらさまでしょうか? 今日の予定ではお客様は来られないはずですけど」
門の前で佇む赤い髪の女性。言ってみれば、この女性もそうだ。
「お願いです……、お願いです……」
男には解決せねばならぬ問題がいくつもある。
「どうか、どうか、ここに住んでいらっしゃるという魔女さまに会わせて下さい!!」
更に制限時間までついている。だからこそ、男は危ない道中を必死にここまでやって来たのだ。
幻想郷の人里に一組の兄妹がいた。両親に先立たれた哀れな兄妹、というのが人里の間での認識であったが、その兄妹たちはそうは思っていなかった。両親の残してくれた畑や家、隣近所の親切な人々、またいくらかの妖怪の助けをかり生活をしていた兄妹は自分たちのことを哀れだとは決して思わなかった。
兄は毎日畑で、妹は家の中で。自分の出来ることを必死で、そしてどこか満足気に行うその姿からは悲壮感など感じられず、ただ必死に今を生きようという強い心までもが伺える。
悲しく辛い生い立ちであろうとも、微塵もそれを感じさせない健気な二人。
幸せを願わずにはいられない、多くの者がそう思う、真に良き兄妹がいた。
しかし、運命は容赦をしなかった。妹が、その兄妹の妹が病に伏せることになる。
ゆっくりと進行する病気に周りも、兄も、そして妹自身も気がつかず、倒れたときにはもう手遅れ。
兄は人里中の医者を訪ねては妹を診てもらい、そして絶望を味わう。どの医者も口を揃えていうのだ、『もう手遅れだ』と。
病が発覚してからは早かった。妹は毎夜毎夜痛みに魘されることとなり、更にはそれが昼夜を問わなくなるころには兄も妹も悲しさを知った。辛さを知った、悔しさを知った、そしてどうにもならない現状を、知った。
刻々と流れる時間、どんどん短くなる命という名の蝋燭。
兄は伏せる妹のために色々なことをした。どのような病か分からぬときには四方八方を駆けずり医者と名のつく者を探し、また手のうちようがないと分かれば妹のためにご馳走や楽しげな話を身振り手振りで伝える。
そのどれもが空回りになっていようと、兄はただただ妹のために身を削った。治療法が見つからずとも、妹がそんな兄の姿に悲しげな笑みしか浮かべずとも。
そして、ついにその時が一歩一歩と近づいてくる。
妹の、死。避けようもない、絶対が妹の傍までやってくる。
兄は泣いた。何も出来ぬ自分に、若く散る妹に、そしてこの運命に。
やつれて満足に食事も取れなくなった妹に、兄は問いかける。
「自分にできることはないか」
そんな問いに、いつもはただ首を振るだけだった妹が一言だけ言葉を発する。
「みかんが、食べたい、な」
かすれた声で、最後の願いともとれる言葉を。
病魔に冒されてから、いや両親を失ってから初めての願い。それまでたったの一度も何かを欲しがらなかった妹。その妹が欲しがるものは、一つのみかん。
まだ二人が楽しく笑いあえていたころに食べた思い出の味。それをもう一度味わいたいと妹はいった。
「分かった。すぐに買ってくるから、待ってろ。絶対に手に入れてくるからな」
布団の中で意識を失った妹に、兄は決意の言葉をもってして告げる。絶対にお前の願いを叶えてやると。お前が旅立ってしまう前に望みを叶えてやると。
ただ、ただ悲しいことに、妹はもう、季節を感じることが出来なくなっていた――――
「無理ね」
目の前の魔女は、男の一縷の望みを完全に打ち砕いた。
「私は魔女だけれど、だからといって何でも出来るわけではないの。貴方みたいな普通の人間がここまできたのは初めて、それに対して敬意を表してあげたいとは思うわ。だけど、無理なものは無理」
全く表情を変えぬまま、紅魔館に住む魔女はいった。
「そうね。半年くらい時間があるのならまだ何とかなったかもしれないけれど……」
「そう、ですか」
男の目の前が真っ暗になる。元々暗かった視界が更に。どうしようもないくらいの暗さ。黒。
「大体、今は夏でしょう? 何故今頃になってみかんが欲しいというのかしら」
魔女は冷静に聞いてくる。そういえば、みかんが欲しい、どうにかあなたの力で手に入れることは出来ないか、としかいっていない。彼女は自分の事情を知らない。知ったところでどうにもならないということは、先ほどの彼女の言葉で分かりきってはいるが。
「実は……」
家を出てから色々なところをまわった。人里の商店を全てまわり、果物を主に作っている家々を訪ね、そして人里の守護者に「もしかしたら」と教えられたここに。
しかし、それも駄目。どうにもならなかった。その事実が男に圧し掛かる。
妹の願いを、叶えられそうに、ない。
口と意識が別々になってしまっている。頭の中はぐちゃぐちゃと色々なことを考えているというのに、口だけはしっかりと働き、こちらを眺める魔女に今の自分の状況を的確に説明しているのだ。
笑ってしまう。笑えない。もう終わった。まだ何かあるはずだ。どうすればいい。どうにもならない。
「一つ」
いつの間にか、自分は喋り終えていた。目の前の魔女が指を一本立てながらこちらに視線を向けている。
「あの守護者が貴方に言わなかった道が、まだ一つだけあるわ」
魔女が何か言葉を続けているようだが、よく聞き取れない。
だが確かにいった。まだあると。
久々に、男は神に感謝した。
「本当にすみません。でも、お願いします」
「そんなに畏まらなくても大丈夫ですよ。私も午後は非番ですし、のっぴきならない状況らしいですから」
紅魔館にて門番をしていた女性におんぶしてもらい、男は空を飛んでいる。
次なる目的地は遠い。今までのように走っていては辿り着くまでに夜になり危険。それでもそこに向かおうとする男に魔女はいった。
『門番がいたでしょう? あのこは確か夕方から暇なはずだから彼女に連れて行ってもらいなさい。あぁ、ついでに護衛もしてもらえばいいんじゃないかしら』
そこまでしてもらうわけには、と断ろうとする男に魔女は更にこう続けた。
『敬意を表するといったでしょう? ただ情報を与えるだけだなんて、そんなケチ臭い魔女に私をしたいのかしら? いいから行きなさい』
本に目を落としながらこちらにシッシッと手を振る魔女に、男は深々と頭を下げ、館の外にいる門番に事情を話し、そして今に至る。
「その、太陽の畑とはどういうところなんでしょうか」
自分の出せる全速力の軽く三倍のスピードに耐えながら男は門番に尋ねる。今向かっている場所のことを。
「そうですねぇ。今の時期は一面に向日葵が咲き乱れていて、とても綺麗な場所ですよ。もっとも怖いところでもありますが」
太陽の畑。人里から離れたところにあるとされている場所。妖怪などが集まり祭りを行っている、などといわれている所為かほとんどの人間が立ち寄ることがない。男も名前は知っているが行くのは初めて。
「やはり恐ろしい妖怪がいるのでしょうか」
男の問いに門番は少し唸りつつ答える。
「それほど強い妖怪はあまりいませんよ。もう既にいますから。そして、貴方がお願い事をするのも彼女ですから……頑張ってくださいね」
願い事をする相手。その相手のことを男は考える。
一度だけ人里で見たことがある。傘を片手に優雅に歩いていた姿を。
風見幽香。かなり危険とされる妖怪。
「やはり、その、風見さんは恐ろしい方なんでしょうか」
一抹の不安が頭をよぎる。門番には既に伝えている。自分が風見幽香の機嫌を損ねて殺されそうになった場合はそのまま帰ってくれて構わないと。太陽の畑に着くまでの移動と護衛までしてくれている彼女にこれ以上負担をかけるわけにはいかない。これは自分の、自分と妹に関する問題。
覚悟はしているつもりだ。でも、恐ろしいものは恐ろしいし、失敗したときのことを考えると切なくなる。自分には帰らなければならない場所がある。傍にいなければならない人がいる。だから失敗できない。でも不安という靄は頭から離れてはくれない。
「うーん。そんな話が分からない戦闘狂ってわけではないのでお話自体はできると思いますよ? まぁ私は妖怪なので人と感覚が違っていたりしてあまり参考にならないかもしれませんけど」
門番は軽く首を傾げ、そして笑いながらそういう。
その様子を背中越し見て少し、ほんの少しだけ落ち着く。人里では恐ろしいと噂をされているような妖怪に会いに行くというのにこの感じ、噂ほど怖くないのかもしれない。そう思いたい。
一息ついて、普段飛べぬ男にとって始めてみる空からの景色を見る。素晴らしい。いや、素晴らしいと思えるだけの心の余裕ができた。そして次に思ったのはこの景色を妹にも見せてやりたいということ。
目の前に広がる一面の向日葵。目的の場所に着いた。門番が言うには風見幽香は近くにいるらしい。
魔女はいった。ここが一番の難所だろうと。
門番はいった。頑張ってくださいと。
男は虎穴に入る。そこにいるのは虎よりも恐ろしい妖怪。だが、そんなことは構わない。
男にとって恐れることは、妹との約束を守れないことなのだから。
とても面倒くさそうに人間を眺める妖怪。真剣にそして必死に願いを妖怪に告げる人間。
太陽の畑にて二人は向かい合う。そこから少し離れた場所で佇むのは門番。
「どうか、どうかお願いします。風見殿、私にみかんを授けては下さりませんか」
「みかん、ねぇ……」
本当にどうでもいいもの。それを雄弁に語る視線を受けながら男は風見幽香に願いをいう。
何故欲しているか、ここに来るまでの経緯、そして自分の決意。
「もしみかんを頂けるのならば何でも致します。だから、だからお願いします。妹のために、お願いします!!」
思いに体が引きずられたのか、男はいつの間に地に頭をつけていた。しかし、そんなことはどうでもいいこと。
「……なんか面倒なものをつれてきてくれたわね」
下げたままの視線ではよく分からないが、風見幽香は門番の方に話しかけている様子。
「一応紅魔館に来た勇気あるお客様のお願い事ですので……」
「勇気ある、ね。どちらかというと愚かなだけな気がするけれど」
ふぅ、とため息をつく音が聞こえる。駄目なのだろうか、無理なのだろうか、妹の願いは
叶えられないのだろうか。
「まぁまぁ。それで、実際のところ出来そうですか幽香さん」
「花が咲けば、それは実を結ぶもの。ただの魔女にはできなかったようだけど、四季のフラワーマスターの私なら余裕よ」
出来る、という言葉につい頭を上げてしまう。
そして目が合う。風見幽香と。
こちらを探るような目をした妖怪と。
「御代を頂くけど、それは当然よね?」
「も、勿論です。私に出来ることなら何だってします。だから、どうか……」
何故か、にやりと笑う風見幽香。そんなことはいい、彼女がやる気になってくれるのならば。
「分かったわ。一つだけ、みかんを生らせてあげましょう」
いうと同時に服のポケットから一粒の種を取り出す風見幽香。
そこからは早かった。土に埋められた種が、まるでそこだけ時間を早めているかのように芽を出し、成長していく。
「みかんは種の出来にくい種類だから、かなり貴重なのよ? 種から育てるよりも接木した方が早くて効率がいいっていうのもあるんだけど。あぁ、ほら、花が咲いたわ。小さくて可愛いでしょう?」
風見幽香がみかんについて色々と語っているうちに種は木になり花を咲かせ、そして一つの実を結んだ。その早さは異様としか言いようがなく、どこか恐ろしさを感じさせる。
だが確かなことが一つだけ。男の目の前に、一つのみかんがある。それだけで十分すぎる。
「ありがとう。そして、またね」
風見幽香が木に話しかけると同時に、みかんの木が朽ちて崩れた。あまりの成長速度に耐えられなかったのだろう。時期も時間も全てを無視した結実だったのだから。
「さて、この子のおかげで一つみかんができたわね」
手のひらに収まるくらいの小さなみかんを手に風見幽香はいう。
「ありがとうございます。ありがとうございます。これで、これで妹に――――」
「じゃ、御代として……そうね、千両頂こうかしら」
にやにやとした笑みを浮かべて、風見幽香はよく分からないことを、いった。
「千、両、ですか?」
「えぇ。貴重な種を、私の力を、そして咲き誇るはずだったあの子を犠牲にしてできたこのみかん。それ程の値がついてもおかしくはないと思うのだけれど?」
風見幽香が笑っている。よく、意味が分からない。
千両。それ程の大金を、自分が持っているように見えるのか。そんなわけがない。そんなわけがない。
たとえ千分の一の一両とて男は手に入れたことがない。風見幽香が何を言っているのか分からない。
「ほ、本当に千両、なのですか。千両を払えと……」
「えぇ、ビタ一文もまけてあげないわ。貴方は求む側、私は渡す側。私がつける値段が嫌だというのなら諦めなさい」
何を、いっているんだ、この、妖怪、は。
「必ず、必ず、一生をかけてお払いしますからどうかそのみかんを」
「あら、売り買いの基本はその場での交換よ? それくらい知ってるでしょ?」
ふふふ、と笑っている。笑っている。風見幽香が笑っている。
何だ。何なんだ。何なんだこの仕打ちは。理解が出来ない。
「さぁさぁ、千両きっちり持ってきなさいな。別に物でもいいわよ?」
笑っている。笑っていやがる。この人の皮を被った化け物が、本当に嬉しそうに、面白いものを見つけたという顔で、楽しそうにこちらを見て、笑っている。
自分はただ、妹の最後の願いを叶えてやりたいだけだというのに。何故、何故、何故。
「ほら、早くしないと時間がないんじゃない?」
風見幽香がこちらを見ながらいう。時間がない、と。
そうだ。男には。妹にはもう時間など残されていない。ここで諦めたら、もう次はない。
男は考える。千両を揃える方法を。
自分を人買いに売ればどうか。若い娘でもない男の自分だ、恐らく三十両もいかないだろう。
他人に借りるのはどうだ。一年で二両、三両が限界なのに千両など到底無理。
なら金貸しに借りるのは。千両など体も家も全て担保にしても貸してはくれまい。
『みかんが、食べたい、な』
諦めない。諦められない。どうにか、どうにか千両ものお金を、物を手に入れなければ。
千両の金を、千両の物を。
千両になる、金を。千両になる、『物』を。
「どうしたの? もう諦めたかしら? だったらさっさと帰ってくれないかし」
「分かりました。私を売りましょう。だから、そのみかんをどうかお願いします」
風見幽香が言い終わらぬうちに男は言葉を発する。
それに少し期限を悪くしたのか、それとも自分の言葉の意味を考えているのか、眉を顰める。
「何ですって? もう一度いってくれないかしら?」
「ですから、私を代価としてそのみかんを頂きたい、と」
ハッと、何を言っているんだという目で風見幽香は男を見る。
「貴方、自分が千両もすると思っているの? 年頃の娘が高くて五十両。仮に貴方が同じくらいの値段としても、二十分の一にしかなっていないじゃない」
「いえ、私には千両の価値があります。なぜなら私は希少ですから」
「何を言って――――」
「私の魂を、千両で買っていただきたい」
男の言葉に風見幽香は言葉を止める。
それを見ながら男はここぞとばかりに続ける。
「肉体だけではなく、魂まで、私は貴方にお譲りしましょう。どうなっても構いません。どのようにしていただいても構いません」
真剣に、ただ真剣に男は続ける。
「貴方が私を買っていただけるのならば、私はすぐさま人里の守護者殿、妖怪の賢者の方々、博麗の巫女殿の所に向かい、私は貴方の所有物になったと報告してきます」
風見幽香はそんな男をただ見続ける。
「物になります。私は貴方の『物』になります。意識もあり命もありますが、『物』となります。どのように使っても構いません。捻り潰そうが、臓物をぶちまけさせようが構いません。人里で大衆の目の前で私を引き裂いても構いません。それにより貴方に非難がいかないように私が皆を説得しましょう」
男は必死に、しかし丁寧に言葉を続ける。
「私を使って何をしてもいいように私がします。他のものが非難しようものならば私が望んでいるのだからと止めましょう。達磨にしようと、その辺に捨て去ろうと、貴方の好きにして構いません。いいですか、もう一度言います。一人の人間を誰にも非難されず、好き勝手に遊ぶことが出来ます」
風見幽香は何も言わない。
「そんな人間が今ならたったの千両です。お安いでしょう? 今までこのような人間に会いましたか? 貴方は私を五十両にしてもいいといいました。この権利をつけることで二十倍の価値をつけてはいただけませんか? こんな人間は二十年に一人、いやもっと少ないかもしれない。こんなもの珍しい人間が、今ならたったの千両です。さぁ、いかがでしょうか、『風見幽香様』」
男の口から言葉の暴風がやむ。そして一呼吸。
男は風見幽香の目を正面から見ながら最後に言う。
「私を千両として、そのみかんをどうか私にうってくれませんか」
男の言葉を全て聞き終えた風見幽香は思案をするように目を瞑る。
一秒、二秒、三秒、四秒。時の止まったような重苦しい中、時間は進む。タイムリミットは近づいている。
「では、ちょっと試させて貰うわ」
言葉と同時に激痛。いつの間にかすぐ傍に風見幽香の姿。そして太陽に透かすように眺めているのは、男の小指。
「あぎっ!?」
痛みの出所、左手を見る。小指がない。小指がない。
「あああああぁああ」
痛みに悶える男を見ながら、風見幽香はいう。
「貴方。今同じことが言える?」
「おねがい、じまず」
男の答えは早かった。涙を流し、左手を押さえながら、地に膝をついた状態でも、男は直ぐに言葉を返した。
妹の願いを叶えてやりたい、と。
「……いいでしょう。もっていきなさい」
風見幽香が男の前にそっとみかんを置く。
男は痛みと涙でぐしゃぐしゃの顔を上げる。目の前にあるのは向日葵。
「やることが終わったらまたここに来なさい。この畑の花を美しくするのを手伝って貰うわ」
震える声でありがとうございますという男に、向日葵はやさしく笑う。
「そこの門番。さっさと連れてってあげなさいな」
「いやー。お話がまとまって良かった良かった。でも、私が連れて行くんですか?」
「私と貴方じゃ貴方の方が速いでしょう?」
「まぁ乗りかかった船です。最後まで面倒見ましょう。代わりに、また今度アレをお願いしますね」
「はいはい。しかし、私が魔王尊や山本五郎左衛門みたいなことをするとはね」
「あはは。強い存在に惹かれるのが私たちですし、そこは仕方がないですよ」
すぐ傍で妖怪同士が何かを話しているようだったが、男にはどうでも良かった。
約束を守れる。妹の願いを叶えてやれる。
それだけで、男の胸は一杯だったのだから。
人里のある家に男は駆け込む。
玄関から入って直ぐ見える今には布団が敷かれ、年端もいかぬ少女が横になっている。
ドタバタと履物を脱ぎ、少女の直ぐ傍に寄る男。
その音に気がついたのか、少女は目を開き男を見る。
「あ……おにい、ちゃん」
「起こしてしまったか? すまない。だがな、みかんを、みかんを買ってきたぞ。ほら、お前が食べたがっていたみかんだぞ」
男の右手に大事そうに握られているのは橙黄色の丸い果物。
「わぁ……。凄く、おいしそう、だね」
「あぁ、凄く美味しいぞ。今剥いてやるからちょっと待ってろ」
男が右手と、何故か布を巻かれた左手を使って、丁寧にみかんの皮を剥いていく。
広げられた皮の中には十房に分けられたみかん。
「ほら、お前の食べたがっていたみかんだ。たんとお食べ」
少女の口まで持っていき、そっと食べさせる。
「どうだ。うまいか?」
「うん。おいしい……とっても甘くて、おいしい、よ」
とても幸せそうに笑う少女。それを見て男の顔も綻ぶ。
「おにいちゃん」
ゆっくりとした口調で、少女が男に言葉をかける。
「我侭、いって、ごめ……さい、ありが、と」
言い終わると、口から内皮の破れていないみかんが、一房転がり出た。
「ねぇ。万年お花畑」
「それ、私やめてっていったわよね?」
「そんなことはどうでもいいのよ。ちょっと不思議に思ったんだけど」
「何よ?」
「太陽の畑に一輪だけ凄く綺麗な向日葵があるじゃない? あれって何か特別なのかしら」
「……あぁ、あれね。別にあの花自体は他の子と変わらないわ」
「じゃあ何が違うの?」
「肥料が違うのよ」
劣化にもほどがある
桜も死体が埋まってる所為で綺麗になるなんて言いますし
弱者に優しい幽香もいいけど、これくらいの怖さがあるのも好き
たまにはこんな話も悪くない。文章力が低いとは思いませんし、グロもこの程度なら平気。
暗いオチではありましたが、綺麗にまとまっているという印象を受けました。