「あのさ、霊夢……、あたいって、死んだらどうなるのかな……」
「は?」
蝉の鳴き声が、絶えることなく境内に響き渡っていた。
立秋が過ぎてから既にひと月にもなるが、秋らしさがどこにもみられない。まだ昼にもならない時間帯だと言うのに、屋外は焼け付くような暑さである。日課である境内の掃除のために表に出て数分、私は既にうんざりとしていた。
境内を掃く手を一旦止め、手拭いで額の汗を拭う。空を見上げれば、今日も憎たらしいまでの晴れ模様。遠くでは、入道雲が青空を支える柱のようにそびえ立っていた。
この空といい、暑さといい、誰がどう見ても真夏の陽気だった。
風でもあれば少し涼しくなるかも知れないが、生憎と今日はそよとも吹かず。熱気はいつまでもまとわりついて離れてくれない。風通しの良い服装をしているからって、風がなければ何の意味もないのだった。
ある時ふと、地面に1匹の蝉が横たわっているのに気が付いた。私が近寄ると、それはジジジと鳴きながら逃げるようにどこかへ飛び去っていってしまう。夏によく見られる光景だった。蝉も、この暑さには参ってしまうのかな、などと思う。
夏に生きる蝉でさえこうなのだから、人間がこの暑さの中無理をすればそれこそ身体に障る。こんな日くらい、境内の掃除をサボったって罰は当たらないだろう。
そんな風に言い訳を作って、部屋に戻ろうとした時に。
チルノが、現れたのだった。
おかしな言葉を携えて。
空から降りて来るチルノに気付いた時は、いいやつが来たと思った。実際、彼女が目の前に降り立った瞬間、辺りの熱気が一瞬で取り払われ、私は心地良い涼しさに包まれて生き返るような思いだった。
何の用で来たのかは分からなかったが、適当に言いくるめて家に連れ込んで涼もう。そう思って声を掛けたら、その言葉が返って来たのだった。
正直最初は、あまりの暑さに意識が朦朧としていたが為に、そんな風に聞こえただけかと思った。もしくはチルノの頭の方が、暑さで茹だってしまったのかと。
けれど、問い返してみても同じような言葉が返って来たので、少なくとも幻聴ではない。
ならば、チルノの方がおかしくなったのか。
彼女の顔を見つめてみて、その可能性を考慮してみる。
……それも無いな、と思わざるを得なかった。
その表情が、私の知っているいつもの偉そうなものではなくて。
酷く苦しそうに、思い詰めた面持ちだったから。
「まず、いくつか聞きたいんだけど……」
とりあえず私は、チルノを部屋に上げて話を聞くことにした。
いつもみたいに小生意気な態度でやって来たのなら、馬鹿にしつつ適当にあしらってやる所だけれども、こんな風にしおらしくされては、邪険に扱う訳にはいかなくなってしまう。
ちゃぶ台の向こう側にちょこんと座るチルノに、お茶を差し出す。もともと子供のようなものだから背丈は大きくないのだけれども、今日のチルノはなおさら小さく見えた。
チルノは湯飲みに手を伸ばすと、「熱っ」と顔をしかめて手を引っ込める。
「ああ、まだ熱いから気を付けなさい」
「うん……」
子供に諭すように言うと、返って来るのは素直な返事。普段ならこうやって子供扱いするとむきになるのだが、今日はそれもない。
本当に熱かったのだろう、涙目になりながら指をふーふーとするチルノ。仕草が何から何まで子供そのままだった。
私は頭を掻いた。いつもと全く様子が違うだけに、どうにもやり辛い。
「どうして、死んじゃうとどうなるとか、そういうことを考えるようになったの?」
まず疑問に思ったのが、それだった。
普通に日常生活を送っている分には、死なんて言葉はいちいち口にする必要のないものだろう。ましてやチルノは、陽気さや騒がしさを好む、妖精だ。死などと言う概念からは程遠いように思える。
「この前、あちこちで色んな花が咲いてた時に、あたいははしゃいで色んな所に行ったの」
「それって、この間の春のこと?」
「うん。それで、何か墓場みたいな所まで来ちゃって、そこで何か変な偉そうなのに、自然も死ぬものだとか、貴方が死んだら私が裁くとか、変なこと言われて……」
そこまで言うと、チルノは今まさに脅されているみたいに声を落としてしまう。初めのうちは私の方を向いていた視線も、湯飲みを通り過ぎて、今は彼女自身の膝元まで落ちてしまっている。
意外なことに、チルノは今、座布団の上にきちんと正座をして座っている。俯いた様子と相まって、叱られている子供、という言葉がぴったりな姿だった。
あの春に現れた偉そうなの、と言えば、四季映姫しかいない。
私以外にも映姫から説教を受けたのが何人もいるとは知っていたけれど、まさかチルノもその1人だったとは。
受け入れるかはさておいて、あの説教が閻魔という立場から来る映姫なりの善意というのは分かる。けれど、説教をしたのならしたなりに、放置せずに後々きちんとフォローをして欲しいものだと思う。
怯えてるじゃないの。こんなにも。
「それともう一つ。どうして私の所に来たの? あんたは妖精なんだから妖精同士で話せばいいのに」
普段の私達は、鉢合わせれば大抵は弾幕ごっこに突入してしまうような間柄である。会話さえ成り立たないような険悪な関係ではないけれど、こうして相談を受ける仲でもない。
「ちょっとは聞いてみたけど、あいつらは、自分であんまりものを考えたりしないバカばっかだもん。話にならなかった」
子供が何か文句を言うみたいにして、憤慨する。やっぱり子供だなぁ、と思ってしまう。
チルノの相談した相手がバカかどうかはともかく、確かに妖精相手では話になりそうにない。死がどうのとか考えるチルノの方が、妖精としては変わっているのだろう。
「それと、あんたはいつも一緒にいる子がいたわよね」
「大ちゃん?」
「そうそう、髪が緑色のあの子。あの子には聞かなかったの?」
「うん……」
ちょっとだけ、普段のチルノらしさを取り戻したと思ったけれど、私が問うと、またしても俯いてしまう。
「……何だか、大ちゃんには聞き辛かった」
「…………」
内容が内容だから、近しい相手には却って聞けなかったということか。分からなくもない。妙に人間臭い所もあるものだと思う。
だからと言って、私の所に来るのもやはり意外に思う。それだけ、思い詰めていたということだろうか。
「……それで、他の誰かに聞こうと思ったら、居場所がすぐに分かるのが霊夢だけだった」
割と、拍子抜けしてしまうような理由だった。確かに私は、幻想郷内では非常に分かり易い場所に住んでいると思う。魔理沙など、魔法の森のどこに住んでいるのか分かったものではないし。
「ねえ、死ぬって、どういうことなの……?」
どこか、すがるようにしてこちらを見詰める。その瞳には、戸惑いや恐れといった負の感情が色濃く映し出されていた。
さて、どうしたものかと思う。
これだけ話を聞いてしまった以上、チルノの相談を受けない訳にはいかなくなってしまった。相談の内容が内容だけに、迷惑、とは言いたくはないが、面倒なことであるのは確かだった。
一体、何を話せばいいのか。
少なくとも私は当分死ぬつもりなんてないし、周囲を見渡しても、近い内に三途の川を渡ってしまいそうな知人もいない。最後に誰かの野辺送りを見届けたのは一体いつだったか、もはや覚えてなどいなかった。
要するに、私とて死に対して何かしら思考を巡らせる機会など、普段はほとんどないのだ。
まだ見えもしない未来の死に思いを馳せる暇があれば、そろそろお茶っ葉を買い足しに行こうかとか、夕餉の献立をどうしようかとか、そういう方向に思考が進む。
遠くの死より、近くの食事。人間、そんなもんなのだ。
そう、そろそろお昼の用意をする時間。
と、正面のチルノを見ていて、ひとつ思いついた。
「ねえチルノ、お昼の用意をするから、ちょっと手伝ってくれない?」
「え? あたいの話は?」
「後でちゃんとしてあげるわよ。それより、あんたじゃないと出来ないことがあるの」
「別にいいけど……」
頷いてはくれたが、やや不満げな表情。自身にとって大事な話よりも昼食を優先されてしまったのだから、不満に思うのは当然か。
けれど、
「それにね、チルノ」
「?」
「少なくともね、人間は、食べないと死んじゃうのよ」
「はい、じゃあお願い」
「んーー……、えいっ!」
チルノが声を上げて手をかざすと、容器の中の水がパキパキと音を立てて凍り始める。ほどなくして、石ころ大の氷が容器いっぱいに出来上がっていった。
「おー、さすがねぇ」
「このくらい、あさめしまえよ!」
私が拍手をしながらほめたたえると、チルノは得意げな顔をして胸を張っていた。単純なものである。このままさっきまでのことを忘れて、適当な所で帰ってくれれば楽になれるのだけれども。まあ、それは期待しない方がいいだろう。
私は茹で終えた麺にその氷を入れ、冷やす。その間に、既に作ってあるめんつゆや付け合わせをちゃぶ台に並べる。そして、適度に冷えた麺を中央に置いた。これで完成である。
今日のお昼はそうめんだった。やはり夏の暑いさなかには、よく冷えたそうめんが似合う。
「じゃあ、いただきましょ」
「あれ、あたいもこれ食べていいの?」
「私は客人を放置して1人で食べるほどけちじゃないわよ。と言うかそのために、そっちにもお箸とめんつゆ置いたんだけど」
「めんつゆ?」
「その麦茶っぽい色したやつよ。……ひょっとしてあんた、そうめん食べたことないの?」
「ない」
ないらしい。
よく知らないけれど、そもそも妖精は別に食物を摂る必要はなかったんだっけ。それならば、これを食べたことがなくても不思議ではなかった。
「これはこうやって、めんをつゆにつけて食べるのよ」
付け合わせのきゅうりと一緒に麺を取り、それをつゆにつけてつるつると啜る。うん、程良く冷えていて美味しい。夏になると自然、お昼をそうめんにしてしまう回数が増えるのだけれども、意外と飽きが来ない。
「ふぅん、美味しいの?」
「美味しいわよ。食べてみなさい」
そう勧めてみてから、私はふと思う所があった。
「そう言えばあんたってさぁ」
「なに?」
「お箸使えるの?」
私がそう訊くと、チルノはその問い自体が不服と言わんばかりに唇を尖らせる。
「使えるわよ箸くらい! バカにすんな!」
「あー、私が悪かったわ」
一応、馬鹿にするつもりはなかったけれど、そういう意識が全くなかったと言えば嘘になる。チルノに怒られても仕方のない問いだった。
「ま、食べましょうよ」
我ながら都合良く水に流そうとしているなとは思ったが、食事を前にして言い合いをするのはそれこそ馬鹿らしい。箸をちゃんと持てるのなら、これ以上私がどうこう言う必要はないだろう。
そうして私はそうめんを啜りつつ、チルノの方を伺ってみる。
「…………」
思わず、口の中のそうめんをそのまま飲み下してしまった。
チルノは確かに、箸を持っている。しかしその持ち方が……グーだったのだ。幼児の持ち方と同じである。
当たり前だけれども、その使い方では物を挟むことはままならず、せいぜい刺すくらいしか出来ないだろう。だが今日の相手はそうめんである。
チルノは箸をグーで持ったまま、それをそうめんに突っ込み、掬おうとする。しかし当然ながら、そうめんはつるりと箸から滑り落ちてしまい、1本も取ることが出来なかった。彼女は何度も挑戦するが、麺が容器の中でかき混ぜられるだけで、一向に食べることが出来ない。やがて、「うー……」といううめき声まで出る始末である。
と、そんなチルノと不意に目が合う。
「何よ、何か文句あるの?」
あると言えば、ある。が、どう返事をしようかと思案している内に、私のことは無視してまたそうめんを掬う作業に戻ってしまった。
そんなチルノに、私はため息をつく。
「私が、食べさせてあげるわよ」
「いい!」
すっかりむきになっている。これ以上チルノの好きにさせていたら、そうめんがこぼれてしまいそうだった。
けれど何より、間違った箸の持ち方で無駄な努力をする彼女を見ているのはいたたまれなかった。
「仕方ないわねぇ……」
私は立ち上がり、チルノの後ろに回る。そして、出来るだけ穏やかに言った。
「正しいお箸の持ち方、教えてあげるわよ」
「いい!」
「いいから、いったんその手を止めなさい」
仕方なく、声から優しさを取り除く。するとチルノはびくりと肩を震わせて大人しくなった。そして、恐る恐るといった様子でこちらを向く。怒られるとでも思ったのか、どこか怯えているみたいに頬が引きつっていた。
そんな表情をしなくてもいいのに、と思う。やはり今日のチルノは、どこか不安定なのだった。
「正しいお箸の持ち方、教えてあげるわよ」
「うん……」
もう一度、諭すように穏やかに言うと、今度は素直に頷いてくれた。
「別に、知らなかったからって恥じることはないわよ。それを学ぶ機会も必要もなかっただけなんだから。
私はあんたみたいに氷を作ったり出来ないけど、それを笑ったりはしないでしょ」
「うん」
例えとしてはちょっとずれているけれど、チルノはそれで納得してくれたみたいだった。
私はチルノを後ろから抱くかたちになり、その右手に箸を持たせる。1本は親指の付け根で挟みつつ薬指で支え、もう1本は親指から中指の3本指で持つ。この形が基本になることを教えた。これで3本指の方を動かせば、上手く物を摘めるはずである。
私は箸を持つチルノの手に自身の手を添えたまま、そうめんを掬わせる。先程までとは違い、今度は少量ながら摘み上げることが出来た。それをそのままつゆにつけさせ、チルノの口元へと運ぶ。ちゅるりという音と共に、それは口の中に吸い込まれていった。
「どう、美味しい?」
「……美味しい」
チルノの口にも合ったようで、私は安心した。ここまでさせておいて肝心の食べ物が美味しくなかったら、彼女が報われないというものだ。
「じゃあ、今度は1人で食べてみなさい」
「うん」
私は元の席に戻り、正面からチルノの様子を見守ることにした。
彼女は私が教えたように箸を持ち、そうめんをつまみ上げる。しかしそれはつるつると滑り、そのまま全てが落ちてしまう。
「そんなにいっぺんに取っちゃだめよ。少しずつ取らないと。こんな感じで」
私は手本を見せるように、箸で少量のそうめんを取る。チルノはそんな私をまじまじと見つめていた。
私のやり方を何度か目にして、チルノが再挑戦する。言われた通りそうめんをちょっとだけ挟んで、持ち上げる。今度は上手く取ることが出来たみたいだった。
「1人で食べられたじゃない」
「うん」
そうめんを無事飲み下すまでを見届けた私は、チルノのことを褒めてやった。すると彼女ははにかむようにして、小さな笑顔を浮かべる。それは、今日ここに来てから初めて私に見せてくれた、子供らしい可愛い笑顔なのだった。
そうして私はしばらくの間、四苦八苦しながらそうめんを啜るチルノの様子を、自分の食事も忘れて見守り続けていた。
時折、そうめんをちゃぶ台に落としてしまうが、私はそれを咎めることはしなかった。がむしゃらに掬おうとしてこぼすよりは、よっぽど意味のある失敗なのだから。
こうしていると、歳の離れた妹の世話をしているみたいに感じられて、どこかこそばゆかった。
「霊夢ってさ……」
やがて食事を終える頃になって、チルノがぽつりと口を開いた。
「なぁに?」
「意外と、優しかったんだね」
それこそ、意外な言葉だった。まさかチルノに、優しいなどと言われるとは。
「もっと、嫌なやつだと思ってた」
しかしその後には、幼いが故の率直な言葉が続く。思わず苦笑いがこぼれてしまった。
まあ、今までの私たちの関係を鑑みれば、そう思われていても仕方のないことだろう。
「そりゃあ、相手次第よ」
「?」
「例えば、相手がケンカを売って来たら買うし、参拝客が来たら神社の巫女として相応のおもてなしをする。
今日のあんたは大人しいから、こうやって普通に相手をしてる。それだけのことよ」
「ふぅん……。じゃあ、あたいが今から弾幕ごっこ始めたら?」
「いつものように叩きのめすまでね」
笑顔でそう即答してやった。
しかしチルノは、私の言葉を受けて表情を引きつらせてしまう。叩きのめすという言葉に、少なからず恐怖を覚えたみたいだった。
私としては冗談めかして言ったつもりだったけれど、残念ながらそれは通じなかったようだった。
やはり今日のチルノは、かなり神経質になっている。
いささか軽はずみな物言いだったかなと、私は少し後悔した。
お昼の片付けを終えた後、私は中断していた境内の掃除に戻ることにした。
お天道様は相変わらず、高い所で偉そうに輝いている。本来なら最も暑苦しくなる時間帯だけれども、今日はチルノがいてくれるおかげで快適な気持ちで掃除に勤しむことが出来るのだった。
チルノは帰ることなく、まだここにいる。よく私がそうしているように、賽銭箱の前の階段に腰掛けていた。ちらちらとその様子を観察してみると、時折泣きそうな表情を浮かべて俯いたりしている。
やはり、まだ考えているみたいだった。――死んだらどうなるのか、と。
その問いは、お昼前に私に発せられたまま、未だに宙ぶらりんになっている。私が、答えるのを伸ばし伸ばしにしているからだった。
それでもチルノは、最初の問い掛け以降、あらためて私に答えを急かしたりはして来ない。さっきのそうめんの一件以降、私のことを信頼するようになったみたいだった。待っていれば、いずれは答えてくれると考えているのだろう。
――もしくは、あらためてその問いを口にするのが怖いのかも知れなかった。
「ねぇ、チルノ」
私が声を掛けると、チルノは驚かされたみたいに身体を弾ませながら顔を上げる。あんまりな反応に思わず苦笑してしまうが、今の彼女の内面を察してやれば、それもやむをえないことと思い直す。
「チルノってさぁ、普段は何して過ごしてるの?」
出来るだけ安心させてあげようと、私は日常会話を振ってみる。正直こんな様子では、いざその話を始めようにも彼女が聞くのを拒絶してしまいそうに思えたからだった。
「いつもは、みんなと鬼ごっことかかくれんぼとかしたり、後は湖で寝たり泳いだりしてるよ」
「へぇ、楽しそうじゃない」
「うん」
「それで今日は、みんなを置いて来ちゃったわけ?」
「……うん」
「そう……」
つまり今日は、楽しい遊びを放棄してまでここに来たことになる。それならば、ちゃんと話してやらないとチルノが浮かばれないだろう。
事が事だけに、正直話す側としても神経を遣う作業になる。けれど今回はチルノのために、という思いで、彼女の問いに答えようと思う。
チルノのため――まさか私がそんなことを思う時が来るなんて想像すらしたことがなくて、何だか可笑しかった。
私は先ほどから、あえて箒で掃くのを避けていたそれを、摘み取った。
「チルノ」
「…………」
こちらを振り向くが、返事はない。ただ、抑えられた私の声色から何かを察したようで、その表情には緊張の色がありありと浮かべられていた。
「チルノ、これ、何だと思う?」
私は今しがた手に取ったそれを、チルノがよく見えるように差し出す。
「……蝉、でしょ」
「そう、蝉」
チルノは小さく顔をしかめるも、それが何だかは分かったようだった。けれどその表情から察するに、あまり虫は好きな方ではないらしい。
蛙は何でもないくせに、虫は苦手なのか。これはつまりは、足が6本以上ある生き物がダメとかそういう類だろうか。まあ確かに、蝉の腹側は肢やら節やらがうねうねしているから見ていて気持ちの良いものではない。
けれど、今私が持っているこの蝉は、
「でもね、チルノ」
「?」
「この蝉はもう……死んでるのよ」
「っ!」
死んでる――私がそう告げると、チルノは恐れおののくように後ずさる。
この時期はよく、こうして蝉の死骸が落ちている。ある意味で、典型的な夏の光景だった。
「もう、そんなのどっかにやっちゃってよ!」
そう叫ぶように声を上げ、顔を横に背けてしまう。
そんなの、と言われた蝉の死骸。それを見るチルノの目はどこか、汚いものでも見ているかのような色を帯びていた。
「あんたはさっき、死んだらどうなるか、って聞いたわよね。生き物は死んだら、こうなるのよ」
「うぅ……」
人が死んだらどうなるか。閻魔様の裁判を受け、地獄に行くか天界に行くか、はたまたもっと変な場所に飛ばされるか、などと言われている。
けれどそれ以前のこととして、人が死んだらそこに1つの死体が出来る。それが何より確かなことだと私は思うのだ。
私は今までに、妖怪に襲われたり、流行り病を患ったりして死んでいった人間を幾度も見て来ている。物言わぬ骸と化した彼らこそが、死というものを最も雄弁に語ってくれていたと、今では思う。
ただ、人ならぬ彼女ら妖精が死んだらどうなるかなど、私は知らない。だから結局は、人間や動物という文脈でしかそれを語ることが出来ないのだった。
私はその蝉をまた地面に置き、言った。
「チルノ、ちゃんと見なさい」
「…………」
「自ら動くことはないし、触れても反応しない。ものによっては他の生き物に食べられることもあるわ」
私は、あくまで感情を削ぎ落として淡々と語る。チルノは泣きそうな表情をしながらも、どうにかそれを我慢して、私の話に耳を傾けようとしている。
「私だって、いつかは必ずこうなるのよ」
「え……」
「死ぬって言うのはそういうことだから」
「やめてよ、そんなの……」
「もしかしたら、あんただって、あんたの友達だって――」
「やめてよっ!」
「っ!」
悲鳴のような声が上がる。それと同時に、周囲の気温が一気に下がった。チルノが無数のつららを作り出し、私に向けて飛ばして来たのだ。
至近距離から飛来する氷の刃。私はとっさに後方に跳ね、御札を取り出して防御する。右肩に鋭い痛み。全ては防げなかったようだ。生温かい感触。傷を目で確認する。出血はあるが、大した量ではなさそうだった。
しかし今のは、当たり所が悪ければ致命傷にもなり得る。それほどの殺傷力のありそうな、鋭い氷なのだった。
私は手拭いで肩を簡単に止血する。そして顔を上げ、私に怪我を負わせた張本人を見ると、
「あ、あ……」
彼女は、ただ呆然と立ち尽くしていた。自分のしたことに驚きさえも抱いているようだった。きっと、反射的にやってしまったのだろう。私の、心ない言葉を受けて。
自身の手を見つめていたチルノはやがて、顔を上げた私に目線を向ける。しかし焦点が合っていない。目は見開き、口は閉じることも忘れ、その唇は細かく震えてさえいた。自分のやってしまったことを心から後悔している様子がありありと伝わってくる。
そしてその表情は、恐怖というただ1つの色に塗り込められてゆく。――恐らくは私に対する恐怖で。
なぜ私をそこまで恐れるのだろうと思ったが、不意に、先刻の自分の言葉が脳裏に蘇る。ケンカを売られたら叩きのめす、と。私は確かそんなことを言った。
けれど、今のはどう考えても、
「チルノ」
私が名を呼ぶと、彼女は小さな身体をびくりと震わせる。その顔色は、病的なまでに青ざめていた。ちょっと押してしまえば、そのまま倒れてしまいそうなほどに。
彼女はもはや、その場から動くことさえ出来ないでいた。そうさせてしまったのは、他でもない、この私だった。
だから私は――そんな彼女を、そっと抱きしめてやった。
「あ……」
「今のは、私が悪かったわ。ごめんね」
もう少しましなやり方はなかったのかと自問する。何も死骸を見せながら、チルノやその友達もこうなるんだぞと脅すように言う必要などなかったはずだ。悪気はなかったが、それは言わば思慮が足りなかったことに他ならない。
言わばこの肩の傷は、罰みたいなものだった。チルノは何も悪くはない。
「霊夢……」
「うん?」
腕の中のチルノが弱々しくつぶやく。私は少し肩を離してやり、その顔を見つめる。それは今にも崩れてしまいそうなほどに、歪んでいた。
いつもの元気で偉そうなチルノの表情が、たまらなく懐かしく感じられた。
「肩、だいじょうぶ?」
「平気よ、これくらい」
「死んだり……しないよね」
その、すがるようなまなざしに、私ははっとした。
チルノは、私の仕返しに怯えていたのではない。自分自身のせいで私を死なせてしまったかも知れないことを、何より恐れていたのだ。
今のチルノは恐らく、極端に死を恐れている。それも、自身の死ではなく、誰かの死を目の当たりにしてしまうことを。蝉の亡骸に、私や友達を重ねてしまうのだろう。それは、私のものの教え方に問題があったからだった。
教えるのは箸の持ち方までにしておけば良かったと、今更ながら後悔した。
「大丈夫よ。私は、これくらいで死んだりはしないから」
チルノを安心させようと、私は精一杯の笑顔を作ろうとする。けれど傷の痛みから、どうしても頬が引きつってしまう。
そんな表情は見せたくはない。結局私は、あらためてチルノのことを胸に抱いてやることしか出来なかった。
「う……っ、」
喉奥から搾り出すような、苦しげな声。チルノから、次第に力が失われてゆくのが分かった。そのまま崩れ落ちないように、私は痛む肩をおして彼女を支える。
胸の内のチルノから嗚咽がこぼれ出したのは、それから間もなくのことだった。
それは泣き声として耳に聞こえると同時に、切なる震えとなって私の胸に直接響いてゆく。私はそれを、無言で受け止めていた。気の済むまでそうさせてやろうと思った。
こうして抱いてやると、チルノの身体は本当に小さい。その心もそれ相応の幼さだとすると、死をめぐる問題は今のチルノにとっては重た過ぎる代物だろう。そんなことで心を悩ませるよりは、子供らしく元気いっぱいに生を謳歌して欲しいと思う。
そう、伝えるべきは死ではなく生のことだったと、今更ながら気付いた。
もし、彼女が人間の子供であれば。
私は、この胸の温かみをめいっぱい伝えてあげられるというのに。このぬくもりこそが、ありのままの生なのだと。
けれど、氷の妖精たる彼女には、それを伝えることは決して出来ない。私の体温が、無常にも奪われてゆくのみだった。
――それでも。
たとえ、ほんのひとかけらのぬくもりであっても、それをチルノの胸に届けてやりたい。それだけを祈って、私はいつまでもチルノのことを抱きしめ続けていた。
「チルノちゃーん」
西の空が茜に染まりつつある頃、どこからかそんな呼び声が聞こえた。チルノの友達が探しに来たのだろう。
チルノは、ひとしきり泣き続けた後は少し落ち着きを取り戻したようで、それから私たちはずっと、2人並んで賽銭箱の前の階段に腰掛けていた。
時折二言三言の言葉を交わすくらいで、会話という会話はほとんどなかった。ただ、こうしてそばにいてやればよいと思っていた。
ある時ふと気付くと、チルノは私の肩にもたれかかりながら寝入っていた。やはり、あれだけ泣き喚けば疲れるのだろう。私はそのまま寝かせておいてやることにしたのだった。
「チルノ、お友達がお迎えに来たわよ」
「う……ん」
軽くゆすってやるが、チルノは私の肩にすがりつくようにして眠ったまま、目覚める様子がない。可愛いものである。可愛いが、おかげで起こし辛いなと思った。
先ほどの声の主が、私たちの前に降り立つ。思った通り、よくチルノと一緒にいる緑髪の女の子だった。大妖精の「大ちゃん」だろう。
彼女は、眼前の私たちの様子を目の当たりにすると目を見張った。それはそうだろう。決して仲の良い訳でもない私たちがこうして身を寄せ合っているうえに、チルノの顔は泣き腫らしたものとすぐ分かるくらいに赤い。おまけに、私の右肩には血のにじんだ手拭いが巻かれているのだ。
何があったかは分からなくとも、何かがあったことはすぐに察せられるだろう。
「あの……」
彼女は、どう話し掛けたら良いものかと困っているようだった。私とて、この状況をどう説明したものかと思う。
ただ、チルノが彼女には相談出来なかったことを考えると、今日チルノが何しにここに来たかは教えない方が良さそうだった。
「迎えに来てくれて、ありがとね」
「あ、はい……」
そう声を掛けたことで、彼女の緊張はいくらか和らいだようだった。
「ほら、チルノ起きて」
「チルノちゃん」
「う……ん?」
私ではなく、友達の声には反応を見せた。こいつめ。
少し強めにゆすってやると、それでようやく気が付いたようで、腫れぼったい目をゆっくりと見開いていった。
「んにゃ?」
まだ寝ぼけているらしい。私を見るその目もとろんと溶けている。
それでも一応は覚醒したらしく、チルノは私にもたれていた身体をゆっくりと起こしていった。
私の袖にべっとりとよだれを残していったことは……大目に見てやろう。
「とりあえず、顔を洗ってらっしゃい」
「うん……」
チルノは両目をこしこしとこすりながら立ち上がると、ふわふわとした夢見心地のまま、裏へと歩いてゆく。
そのままチルノについて行こうとする大妖精を、私はちょいちょいと手招きした。
「……何でしょうか」
「今日は、なるべくチルノのそばにいてやってくれないかしら?」
「それは構いませんけど……」
語尾を濁しながら、彼女は上目遣い気味に私を見る。やはり、チルノに何があったのか気になっているようだった。
「今日のチルノは、ちょっと寂しがりになってるから」
「……分かりました」
どう考えても説明不足だけれども、彼女はそれ以上を訊いては来なかった。察しが良いのかも知れない。こんなにも心配してくれる友達がいるのなら、チルノも幸せ者だろう。
チルノには、まだ見えもしない遠くの死に思いを寄せるよりは、大妖精や他の友達と一緒に、今日を、そして明日を楽しく生きることに心を向けて欲しいと思った。
「チルノを、よろしくね」
気が付けば、私はそんなことを口走っていた。別に私は、チルノの保護者でも何でもないというのに。
ただ、チルノにはいつも元気でいて欲しいと願うこの気持ちは、言わば親心のようなものなのかも知れなかった。
やっぱりチルノには、泣き顔よりも元気いっぱいの笑顔の方がずっと似合うと思うのだ。
「チルノちゃん……」
大妖精が、とぼとぼとこちらへ歩いて来るチルノを見る。
顔を洗って戻って来たチルノは、やはりと言うべきか、表情に元気がない。すっかり目が覚めて、寝てしまう前のことを思い出しているからだろう。
「日が暮れて来たから、今日はもう帰りなさい」
「うん……」
けれど、頭を撫でてやりながらそう言うと、チルノはかすかにはにかみながら頷いてくれた。
「ねえ、霊夢」
「何かしら?」
「また、お昼食べに来ても、いい?」
「お昼?」
コックリと頷く。
「あのそうめんをまた食べたいの?」
「うん。あれ、美味しかったから……」
大したご馳走をした訳ではないけれど、美味しいと言ってくれるのは嬉しかった。
そして、チルノの楽しみが1つでも増えることが何より喜ばしいと思った。
「いいわよ。今度は友達と一緒に来なさい。ご馳走してあげるから」
「……ありがとう」
泣き腫らした両目は未だに赤いけれど、今度ははっきりと分かるくらいに笑ってくれた。思わず私は照れ笑いを返してしまう。
もう、大丈夫だろう。彼女は明日を見て歩いてくれる。
時に、その心に暗い影が忍び寄ることがあっても。
そばには、彼女のことを想ってくれる友達もいる。いつまでも2人で一緒に、前を向いて生きていって欲しい。
私は、手を取り合って飛んでゆく2人を、その姿が黄昏の中に紛れ消えるまで見つめ続けていた。
日没が早ければ、気温が下がるのも早い。
チルノたちが帰っていった後も、境内はひんやりとした空気に包まれていた。日中はあれだけ暑くても、日が沈めば相応に涼しくなる。少しずつ秋が近付きつつあることを、肌で感じることが出来た。
気が付けば、あれだけやかましかった蝉の鳴き声もなりを潜めている。今はそこここで、虫たちが静やかな調べを奏でていた。
境内に1人残された私はしばらくの間、何をするでもなく、ただ石畳の上に立ち尽くしていた。
今日は一体いくつ「柄でもないこと」をしたことだろうか。チルノにものを教える日が来るだなんて、想像したこともなかった。そもそも彼女と普通に会話を交わすこと自体、まれなことだと言うのに。
けれど、チルノに慕われるのは、決して悪い気はしなかった。それどころか、不思議なくらいに温かな感情が、胸の奥から湧き起こって来る。
次に来る時は、また前のように元気で勝ち気な表情を見せてくれればなと思う。そんなチルノを、私は思いっきりからかって――可愛がってやるのだ。
そんな、下らないやり取りを思い描くだけで、自然と笑みがこぼれてしまう。
そうやって、チルノのことに思いをめぐらせること自体が、既に柄でもないことだけれども。
それでも私は、眩しいくらいに生き生きと生きるチルノを、いつまでも見守り続けていたいと思うのだった。
かわいいチルノをありがとう!
それにしても霊夢さんに後ろから抱きしめられて箸の使い方教わるなんて、チルノ羨ましいなぁ
「その辺で復活するんじゃない?」
でも、チルノもそろそろ妖精を「卒業」しそうなので、知っておいたほうがいいかも・・・
いい話でした
しかし、萃香に劣情を萌やしてしまう私なのに、チルノには父性しか出ないのは何ででしょうね?w
チルノって、馬鹿というよりも、永遠の子供なんでしょうねぇ…