この右手に託されているのは、大切な恋人の命。もしもこの手を離したならば、彼女は真っ逆さまに谷底へ転落していくだろう。
だから絶対に、この手を離すわけにはいかない。
彼女は恐怖のあまり失神している。下手に騒がれるよりマシだけど、意識を失った人間の重さというのは半端ではない。気が付けば自分の身体も、いつのまにか谷底へと引き寄せられていた。
ああ、もしも自分がハイキングなどに誘わなければ。こんな道を通ろうと言わなければ。
必死に踏ん張りながらも、頭を過ぎるのはイフの想像。しかし後悔が力になるわけもなく、ただただ己の惨めさを痛感させてくれるだけ。
食いしばりすぎて歯が痛い。構うものか。例え砕けたとしても、彼女を引き上げることが出来ればいいのだ。彼女さえ助かるのならば、この身体に一生消えない傷が残ることも厭わない。
男は必死の形相で堪え忍び、時には悲鳴のような雄叫びもあげながら、絶望の挾間に追いやられていた。
そして誰しもが発するであろう言葉が、とうとうその口から吐き出される。
「神様!」
あっさりと、何の前触れもなく、彼女の身体は崖の上へと引き上げられた。何か不思議な能力とかそういう類ではない。純粋な腕力で、いきなり現れた女が彼女を引き上げたのだ。
あずきバーを頬張りながら、女は彼女の身体にまとわりついた埃を払う。
「ん、これでいいだろ」
気怠そうに言い放ち、女はどこぞへと消えていった。
唖然とした男は気付かなかった。その女こそが、願ってやまなかった神様なのだと。
「おかしい」
「そりゃ、味噌汁にあずきバー入れるのはおかしいですよ」
せっかくの料理を台無しにされた早苗の視線は、冷凍庫のように冷たい。
「隠し味だよ」
「棒が見えてるじゃないか」
あずきバー味噌汁に関しては、相方の諏訪子も早苗側のようだ。実に居づらい。
眉間に皺を寄せながら、それでも味噌汁を吸う。見え隠れしていた棒も、いよいよ全貌を露わにしてきた。
「おっ、当たった」
「へえ、じゃあ私に頂戴よ」
「あん? あんた当たり棒なんか欲しいの?」
「そっちじゃないって。まぁ、別にそっちでもいいけど」
「いま当たり棒が出たら、もう一本当たり棒が貰えるんだよ」
「なんだ、そのシステム」
諏訪子は馬鹿にしているが、これはこれで需要があるのだ。なにせ一本当たれば当たり棒が無限に増えるのだから、その手のマニアにとっては垂涎モノの話だろう。
後で駄菓子屋に行くのは確実として、取り急ぎは醤油だ。
「早苗、醤油とって」
「スライダーでいいですか?」
「食卓で飛びだしていい単語じゃないだろ。普通に滑らせるか、手渡しで頼むよ」
「だって八坂様、お味噌汁に醤油入れるつもりでしょ?」
うえっ、と諏訪子も顔をしかめる。この話を聞く度に、毎回同じ反応をしていた。
「それが美味いんだから仕方ないだろ。ほら、醤油」
「はいはい。あちらのお客様からです」
バーのマスターを思わせる台詞と共に、甲子園球児並の滑り込みを見せる醤油さし。
ちなみに早苗の言うあちらの方向には、爽やかな笑顔の似合う醤油屋店長が立って真っ白な歯を覗かせていた。あらかじめスタンバイしていたのだろうか。そんな事をする暇があるのなら、もっと奥さんとの距離を詰めた方がいい。浮気してたぞ、あの女。
「そういや気になってたんだけど、それ何さ」
諏訪子の箸が、神奈子の背後を指し示す。振り返ってみても、そこにあるのは何の変哲もない御柱。違和感など、どこにも無いように思える。
早苗も同様に分からないという顔をしているのかと思いきや、こちら方面でも諏訪子側につくらしい。怪訝そうな顔だ。
「これが何だい? 私には普通の御柱に見えるけど」
「いや、そりゃ確かに普通の御柱だよ。でもさ、だったら何で五本もあるのさ」
言われてみれば、神奈子の御柱は五本あった。昨日まで四本あったものが急に増えれば、なるほど諏訪子の反応も頷ける。
「当たり棒と交換して貰ったんだよ」
「……最近の駄菓子屋は御柱も売ってるんだ」
「常識も売ってたよ」
「それ、私が売りました」
何喰わぬ顔でとんでもない事を言う早苗。
「じゃあ、どうだい。常識に囚われない食べ方をしてみようじゃないか」
「ちょっ、醤油さしを近づけないでください!」
賑やかな食卓も終わり、食後の一服をしているところで神奈子は思い出した。
ああ、大事な事を相談するの忘れた。
今更改まって相談するのも気恥ずかしいし、神奈子は誰か他の人へ話すことに決めた。それも、出来れば真面目に答えてくれる人が望ましい。
そういった意味では、妖怪の山に適任者はいなかった。天狗はすぐネタにするし、河童は作業の片手間にしか聞いてくれない。他の神に相談するなど以ての外だ。
「そういや、どっかのシスターが相談にのってくれて助かったって天狗が言ってたな」
酒宴の席での噂話。どこまで真実か疑わしいものだが、シスターらしき妖怪が現れたのは疑うまでもない真実だ。だとしたら、その妖怪が懺悔室のようなものをやっていても不思議ではない。シスターなのだし。
一部(主に当人)からは、どちらかと言うとシスターではなく尼だという意見もあったが、大雑把な幻想郷の住人はその境を曖昧にしたままだ。最近では本人もやけくそになり、日夜懺悔を聞く活動に明け暮れているという。
神がシスターに相談というのも馬鹿げた話だが、相手がいないのだから仕方ない。
噂を頼りに渡り歩き、ようやく『一輪の懺悔室』と看板の立てられた小屋を見つける。元々懺悔室がどういうものなのか知らないが、とても小さく思えた。ミッシングパワー状態の萃香が入れば、確実に壊れるだろう。
細心の注意を払いながら、神奈子は小屋の中へと入る。
トレードマークの御柱はそのままに。
入り口が壊れた。
「シスター、相談があるんだけど」
「その前に弁償しろ」
「なんだい、ここは有料なのかい。世知辛い世の中になったねえ」
「あんたが私の懺悔室を壊すからでしょ!」
小さな窓越しから怒鳴り声が聞こえてきた。随分と気の短いシスターである。
「雲山! 対抗して大きくならない!」
壁の向こう側が何やら騒がしい。だが間の窓は特殊なガラスで出来るらしく、向こうの様子は窺い知ることができなかった。
外と接している窓もなく、中はとても薄暗いはずなのだろう。御柱で壊していなければ、そう表現したに違いない。
「とにかく、私の話を聞いてくれよシスター」
「……まぁ、いいわ。請求は後で守矢神社に送りつけておくから」
何故か素性がばれていた。だが、どうせ話せば分かる。ばれるのが少し早くなっただけと思えば、何の問題もない。
「実は私、神様なんだ」
「はあ」
「それで人間の願いに応えて助けに行くこともあるんだけど、どういうわけか助けられた奴らの反応が薄いんだよ。あれじゃ、大した信仰も期待できない」
「信仰を目当てで助けに行ってるの?」
「まぁ、それだけが全てじゃないけど信仰が無ければ消えてしまうからね。出来れば信仰してくれる方が有り難い」
「ふむ」
信仰が欲しいから助けに入るといえば聞こえは悪いが、神様からしてみれば働いているようなものだ。この世知辛い世の中、幻想郷と言えども自らが動かなければ信仰されない。
ただ座して待つだけの時代は終わったのだ。これからはセールスマンのように足を武器にして戦う時代が始まるのだろう。
この話を諏訪子にしたら、紅魔館の門番の元へ通いつめるようになった。おそらく数ヶ月後には足を凶器にして帰ってくるだろう。
「それだけじゃ、何が原因なのか分からないね。ちょっと助けた時の状況を詳しく話して貰えない?」
「ああ、分かった」
誇張も脚色もなく、ありのままを話す。一輪は適度な相槌を打ちながら、最後にはなるほどと納得したように手を叩いた。
「それは信仰されないのも当然」
彼女には、何が問題なのか見えているらしい。さすがはシスターといったところか。
「まず、あなたは名乗っていない。だから相手は単なる人間が助けたのかと思うし、信仰しようにもどの神様なのかが分からない」
「……言われてみれば確かに」
半ば作業化した為か、考えてみれば自らの名前を名乗ることすらしなかった。それでは信仰してくれと言っている方に無理がある。
「じゃあ、これからはちゃんと名乗る事にするよ」
「いや、ただ名乗るだけでは駄目ね。もっと神様らしい名乗り方をしないと」
「神様らしい名乗り方?」
首を傾げる。
「そう。助けた後で変に名乗るよりかは、神様らしい登場の仕方をしながら名乗る方が効率的だもの」
「なるほど」
「荘厳な音楽と眩しい後光があれば、誰だって人間がやってきたとは思わないでしょ。そこですかさず名前を言えば、相手だって名前を覚えてくれるよ」
大事なのはインパクトか。ただ枕元に立っているだけでは信仰されないのだ。
目から鱗から落ちて地面に埋まり、竜の木が生えてきたようだ。お百姓達はこぞって喜び、今年の竜は豊作だと小躍りしている。妄想終了。
「だったら、一度やってみたかったことがあるんだけど」
「どんなこと?」
「あれだ、天人みたいな登場の仕方」
そう言うや否や、神奈子は懺悔室を後にした。突然の退室に不思議がる一輪だったが、すぐに神奈子は戻ってくる。
天から。
高速度で。
激しい爆音と共に、懺悔室の半分が吹き飛んだ。
「こんな感じ」
「実際にやらなくてもいいだろ!」
触発されたのか、大きくなった雲山がもう片方の懺悔室を破壊しながら巨大化する。
「対抗するなぁっ!」
説明しよう!
雲山はテンションが上がると居ても立ってもいられず、ついつい巨大化して一輪に叱られるのだ!
「ほお、なかなか面白そうな奴がいたものだ。ちょっと、私の相手をして貰うよ」
不敵な笑みを浮かべ、神奈子も雲山並に巨大化する。
「同じ大きさなら、あんたも心おきなくやれるだろ?」
説明書を読もう!
神奈子が大きくなった原理とかは、全てそこに書かれているのだ!
「えっ、なにこれ……」
説明書を持っていない一輪は、ただただ戸惑うだけだった。
ちなみに戦いは三日三晩に及び、最終的には夕日の河原で語り合うというベタな落ちで結末を迎えたという。神奈子は友情が芽生えたと思っていたが、その日から雲山に溜息が多くなった辺り、一方通行の友情だと言わざるをえない。
この右手に託されているのは、大切な恋人の命。もしもこの手を離したならば、彼女は真っ逆さまに谷底へ転落していくだろう。
だから絶対に、この手を離すわけにはいかない。二度目だけど。
またしても同じ道で、同じ目に遭ってしまった。呪われているのか、はたまた二人が馬鹿だったのか。どちらにせよ、現状は変わらない。
この手を離せば彼女は死ぬ。だけど人間というのは恐ろしい生き物で、どんな環境にも適応してしまうらしい。
一度目は気絶していた彼女はすっかり慣れてしまったらしく、ぶらぶらと揺れながらもメールに夢中だ。
そんな余裕を見せていても、男から必死さが消えることはない。踏ん張りながらも、賢明に彼女を引き上げようと藻掻いている。
だが、どれだけ頑張ってもその身体が上へとあがることはなかった。むしろ、少しずつだが下がりつつある。
やはり自分の力ではどうすることもできない。
ならば、頼るべきものはただ一つ。
藁でもない、母でもない。
男が叫ぶのは、会ったこともない架空の存在。
「神様!」
その呼び声に応えるように、天から無数の御柱が降ってきた。
数えるのも馬鹿らしく、推測するだけで百は超えているだろう。
雨のように降り注いだ御柱が、谷底に突き立っていく。やがて御柱は次第に山のようになり、最後には黒々とした名峰のように積み重なった。
「我は、神」
三角形の頂に、懐中電灯を身体中に巻き付けながら舞い降りてくる一人の女性。崖の向かい側には白い歯が似合う醤油屋の店長が、こぶしの効いた演歌を大熱唱していた。そんな事をするぐらいなら、早く奥さんとの距離を詰めた方がいい。預金通帳探してたぞ、あの女。
「我が名は八坂神奈子。守矢神社の神にして………………なんか凄い、アレだ」
舞い降りてきたのは、アドリブに弱い神様だった。思いつかないのなら、余計な事を言わなければいいのに。
「汝の願いを聞こう。お前の望みは何だ?」
男はハッとする。かなり胡散臭くはあったが、天から舞い降りてきたのは事実。
ならば今こそ、助けを乞うときだ。
「助けてくれ!」
「良かろう。だが、その前に助けた後は守矢神社の神様を信仰するという誓約書にサインをしてくれ」
「それどころじゃないだろ!」
「拇印でもいいぞ」
「両手が塞がってんだよ!」
「じゃあ言質だけとるから」
「分かった! 信仰する! 信仰するから助けてくれ!」
男の言葉に、神様はひどく満足気だった。
「ああ、やっぱりシスターの言うとおりにしてみるんだな。あっという間に信仰が得られた」
ガッツポーズを決めながら、神はシスターとやらに感謝の言葉を贈りつつ、そのまま天へと帰っていった。
「おい!」
崖中に、男の空しいツッコミが響き渡る。
女は自力でよじ登り、とっくに何処かへ行っている事にも気付かずに……
濛々と舞い上がるのは土煙。突き立てられたのは御柱。
挫けず再建に明け暮れた日々にさようならを告げ、見たくもない現実に向き直る。
突如として空から降り注いできた大量の御柱が、一輪の懺悔室を再び木屑に変えた。突然のことに唖然とする一輪をよそに、悠々と八坂神奈子が舞い降りてくる。
雲山はキャッと悲鳴をあげて顔を赤らめながら一輪の背中に隠れてしまった。
「助かったよ、シスター。おかげで新たな信者が増えた」
「それは良かった。だったら、これは何の嫌がらせなのよ?」
照れくさそうに鼻をこすり、神奈子は言った。
「心ばかりのお礼だ。受け取ってくれ」
ここまで攻撃的なお礼は、一輪の人生の中でも目にしたことがない。せいぜい誕生日にナズーリンが海胆を投げてきたぐらいだ。あれにどんな意味があったのか今だに分からないものの、少なくとも攻撃的な意志はあったのだろう。
純粋なお礼で悪意たっぷりの攻撃より被害を上回るとは、何とはた迷惑な神様だ。
「それじゃ、また何かあったら話を聞いとくれよ」
言うだけいって、やるだけやって。神奈子は満足そうに神社の方へと帰っていく。
その背中を熱い視線で見送る雲山。手に持ったスポーツドリンクとタオルは何だと問いただしてやりたい。
マネージャーか、お前は。
でも、それよりも。
一輪の目の前に広がるのは、瓦礫と貸した元懺悔室。そして無数の御柱。
どうしたものか。
涙で滲む光景に、一輪の溜息が混じった。
そして深く刻んだ、決意の言葉。
「もう二度と、懺悔室なんてやらない」
一輪は神でなく、自分にそう誓ったのだった。
「スライダーでいいですか?」
こんな言い回しされると、ぼくの腹筋が野茂のピッチングフォームばりにねじれてしまう……!
>「それ、私が売りました」
腹筋がちぎれるかと
一体 これは一体
もうなんだこれww
切れ味良すぎてもうね、もうね!
17歳は低すぎだろ
私は、私は神奈様が全力を出したら外見年齢15歳!
精神年齢8歳は余裕だと思っていたのにっ!!
あんまりだっ!
世の中無情にも程がある!
あと雲山さんは己(おれ)の伯父さん。
萌え萌えです。
作者ももっと読者との距離を詰めた方がいい。寄り切る勢いで。
もうカオス過ぎて何が何だかわかんねえよ!