地下の鴉と地上の鴉と、そこにどんな違いがあるのか、おくうにはよくわからなかった。
黄昏の空を、何羽もの鴉が鳴き声を上げながら寝床に帰っていく。行き先は魔法の森、妖怪の山、無縁塚、それぞれの安らげる場所に、その黒い羽を広げて。
地上に何か用事があったわけではなかった。博麗の巫女に召喚されたわけでも、山の神に呼び出されたわけでもない。ただ、行動範囲が急激に広くなったものだから、地上に出ることが新鮮で仕方なかった。何もしなくてもいい。青い空を見ているだけで構わない。たったそれだけのことでも、地下にいたままなら感じることの出来ないものだから。
「広いねぇ」
おくうは、世界の広さに感心していた。
腰に手を当てて、大仰に空を仰ぐ。地上にはお燐と一緒に来たのだが、彼女は他にやることがあるらしく、早々におくうと別れて何処かに消えてしまった。里の守護者に怒られなきゃいいけど、とおくうは友人の悪癖に苦笑した。
地上に出ることが増えて、知り合いも少しずつ増えてきた。無論、必ずしも良好な関係を築けているわけではないが、出会い頭にブン殴られるほど険悪な間柄でもない。中にはそういう戦闘狂みたいなのもいるけれど、地獄の鬼に比べれば可愛いものだ。そういえば、あの神社には鬼もいたような気がする。下手を打てば焼き鳥にされた可能性もあったが、おくうはあまり心配していなかった。山の神から頂いた力はいまだ健在である。これをもってすれば鬼の力など――と、自信過剰なところはまだおくうの中にあった。流石に、地上を血の海にしてやろうなどと考えることはなくなったが。
だって。
「もったいないよね」
自分はまだ、この世界のことを知らない。
地下とあまりに違うこの世界を、地下と全く同じ風景に塗り替えてしまったら、それこそ退屈極まりないというものだ。違うということは、それだけで新鮮である。だからこそ刺激的で、それが良くもあり悪くもあり、軋轢や葛藤を生むことになろうとも。
おくうは、この世界を壊すのはもったいないと思った。
悔しいけれど、この空は、あんまりにも綺麗なのだ。
「……ん」
橙の空の片隅を、七羽の鴉が列をなして飛んでいた。
その端を飛んでいた鴉が、突然、急降下する。
「!」
羽ばたいていないところからすると、羽に何か異常があったのか。銃声は聞こえなかった。外敵に襲われた様子もない。他の鴉は、上空を旋回するばかりで、落ちていく鴉を追うことも出来ない。気付くのが遅かった。誰もが同じように同じ場所に向かって飛んでいると思っていた。
ただひとり、地上に立っている地獄鴉を除いて。
「く……ッ!」
おくうにしても、急発進だったことは否めない。脚に大きな負荷が掛かる。見晴らしの良い草原だから、落ちていく軌道は鮮明にわかる。その鴉は、片方の羽だけを懸命に羽ばたかせて、けれども体勢を保つことは出来ず、結局はぐるぐると回りながら墜落していく。
空の何処かで、鴉が鳴いた。
いや、あれは、泣いたのか。
「んなこと……!」
胸を掻き毟る。心の奥がざわざわとする。頬に感じる風は冷たく、長い黒髪が風を受けておくうを後ろに引っ張ろうとする。地獄鴉は地上の空を羽ばたけないのか。そんなことがあるものか。同じ鴉なら、どんな空でも飛べるはずだ。焼けた空でも、冷めた空でも、黒い太陽が、真っ赤な太陽が浮かんでいても。
「ぐぅ……!」
歯噛みする。距離はどんどん詰まっているのに、鴉の姿が明確に見える分だけ、どうしてもあと一歩届かないと解ってしまう。あと一歩、あともう少しだけ自分の腕が長ければ、絶対に助けられるはずなのに。
悔しい。同胞の危機に、指を咥えて見ていることしか出来ないなんて。
もう少し、腕が長ければ――。
「――ごめん、ちょっと痛いかもしれないけど……!」
聞こえないかもしれないが、先に謝っておく。
急制動、地面に深く踏み締め、体勢を整える。制御棒は、必要がある時以外は右腕から外している。重要な装置も簡単に取り外しが出来るのは、神の力の恩恵だろうか。今は感謝する時間も惜しい。
セット。充填は要らない。
ただし照準は、出来る限り正確に。狙いを絞って、最小の威力で最大の効果を狙う。
「い……ッけぇぇぇッ!」
発射。
着弾位置は、鴉の墜落予想地点の後方。爆風が鴉を巻き上げてくれることを期待した。若干軌道が変わってくれるだけでもいい。鴉も羽を動かしているのだ、少し風向きが変わるだけで、運命は容易く捻じ曲げられる。
すぐさま、おくうは低い空を翔る。
間に合え、間に合えと、落ちていく鴉を救えるように祈りながら。
何故、こんなにも必死になっているのか。その理由を考えようとして、発射された弾が地面をえぐる炸裂音が聞こえ、思考はあえなく遮られた。
風向きが変わる。
同時に、鴉の軌道も変じた。
落下速度が減じ、揚力が生み出される。
おくうは手を伸ばす。
「届け……ッ!」
手のひらに、決して小さくない重みが加わる。即座に、それを胸に抱え込み、何事かを呟く。何を口走ったのか、自分でも判然としないけれど。
巻き上げられた土煙の中に突っ込み、石ころか何かに躓いて、受け身も取らずにごろごろと地面を転がる。痛みと、疲れと、胸の中で小さく暴れている鴉の躍動が、おくうの意識を辛うじて繋ぎとめていた。
嗅ごうともしていないのに、草の香りが鼻の奥に侵入してくる。それでようやく、おくうは自分がうつ伏せになっていることを知る。あちこち身体が痛いのは、急発進急制動もあるだろうが、それより地面を転がり続けていたことが大きい。羽は折れてやしないだろうか。髪は汚れても構わないのだけど、服が汚れたら主は怒るかもしれない。その前に、お燐は何をやってるんだいと笑うだろう。想像すると、可笑しくて仕方なかった。
ほくそ笑むおくうに抱きかかえられて、腕の中の鴉がじたばたと足掻く。
「……あ、ごめん」
起き上がり、窮屈そうな鴉を解放する。鴉は、みずから飛び立とうと懸命に羽を動かしていたが、羽ばたくのは片翼ばかりで、一向に飛び上がる気配はない。瀕死というわけではないにしろ、このまま放置すれば近いうちに野垂れ死ぬだろう。
一難去ってまた一難。
救った命でも、完全には救い切れない。力を持っていても、あまりに無力だった。それを痛感する。
「困った……」
細い足でぴょんぴょんと跳ぶ鴉を見て、おくうは自分に何が出来るのか考えていた。どうするべきなのか、どうすることが正しいのかは考えなかった。ただ、助けたいと思ったから、助けるためにどうすればいいのか考えるだけだ。
何も、難しいことじゃない。
「……あ。そうだ」
思い出した。
幻想郷には、鴉を使役する天狗がいる。彼女に聞けば、何かわかるかもしれない。
そうと決まれば、早いうちに行動を起こした方が良い。空への憧憬を捨て切れず、じたばたと足掻く鴉をひょいと抱え上げ、おくうは痛む身体を労わることもせず、そのままの格好で黄昏の空に飛び上がった。
「あ」
空に漂っていた何匹かの鴉が、ひときわ高い声で鳴き、それから何処かに飛んで行った。
それに呼応するように、腕の中の鴉が鳴く。
「もうちょっとの辛抱だから、ね」
囁く。
それきり、鴉は無闇に暴れることもなく、大人しくおくうに抱かれていた。
鴉天狗、射命丸文の手を借りる以前に、おくうは彼女の家が何処にあるのか知らなかった。
それに気付いたのが妖怪の山に入ってからだったため、引き返すのも面倒臭くなったおくうは、そのまま探索を続行することにした。巫女に借りを作るのも嫌だし、というのは己の非を覆い隠すための詭弁だが。
結果、おくうが道に迷わないで文の家に辿り着けたのは、神のご加護があったわけでも鴉の導きがあったわけでもなく、山の哨戒担当に弾幕がてら鴉天狗の住処を尋ねたからである。
「ありがとう……名も無き警備員……」
「いやありますけどね名前」
遠い目をして闇夜を見上げるおくうに、哨戒天狗の犬走椛は呆れ気味に告げた。
「おぉ、狼だ」
「何を今更」
椛が嘆息すると、鞘に収められた太刀がかしゃりと鳴る。千里眼を持つ狼の道案内がなければ、おくうは文の家に辿り着けなかっただろう。椛からすれば管轄外の時間外労働だったが、仕事も暇をしていたので特に問題はなかった。
「ありがと、案内してくれて」
「まぁ、射命丸様のお知り合いであれば、案内するくらいはなんてことありませんよ」
名残惜しさなど微塵も感じさせない潔さで、椛は暗闇に踵を返す。
「では、私はこれで」
「うん」
おくうのことも、おくうが抱いている鴉のことも、名前さえ聞かずにその場を後にする。哨戒天狗ならばもう少し警戒の目を光らせるべきなのかもしれないが、山の上に存在するのはみな椛より強い妖怪ばかりだ。侵入者がいれば上に報告する義務が発生するが、侵入者でなければ無駄に動く必要もない。
椛は、おくうを侵入者でないと判断した。
単に、椛のやる気の問題かもしれないが。
「さて、と」
小さな家だった。漆喰の壁に、飾り気のない引き戸。部屋数こそ多いものの、そのひとつひとつも決して大きくはない。ひとり暮らしだろうから、あまり広くても使いようがないのかもしれない。
一旦、抱いていた鴉を肩の上に留まらせて、おくうは無遠慮に引き戸を叩く。そこそこうるさい音が辺りに響き、程無くして、やや苛立たしげな足音が家の中から聞こえてくる。
「お、来た来た」
そして細い影が引き戸の前に現れたかと思うと、すぐさま引き戸が開かれる。
射命丸文。
短くこざっぱりとした黒髪に、余計な装飾のない小奇麗な服装。今はおくうの身体が汚れているということもあり、同じ人の形をした鴉でありながら、ふたりは実に対照的だった。
「……誰かと思えば」
「おっす」
しゅたッと手を上げるおくうに、文は押し殺した嘆息を返す。やや隈の残る目を擦り、腰に手を当て、こめかみを掻こうとした指をすんでのところで止める。視線の先には、おくうの肩に大人しく留まっている鴉の姿があった。
「……それ」
「あ、実は、この子のことで頼みたいことがあって」
おくうが鴉の背中を撫でると、鴉は片翼を持ち上げて気持ちよさを表現する。もう片方の翼は、全く動く様子がない。
文の視線がおくうの身体に移り、その汚れ切った格好を見て文のまぶたがぴくりと動く。
「ひどい格好ですね……」
「ん、そうかな」
「自覚がないのもまたひどい」
「でも、命に別状はないし」
「そういう問題ではなく……あーもういいわよ、お風呂入って行きなさい。あるから」
思いも掛けない文の提案に、おくうは目を丸くする。
「え、いいの?」
「部屋を汚されたら困るのよ。今ちょうど原稿で切羽詰ってるし、邪魔なんかされたら堪ったもんじゃないし……」
正気でいられる自信がないし……、という呟きは、幸いにもおくうの耳には届かなかった。
おくうにすれば渡りに船である。感謝の言葉もそこそこに、文の傍らを駆け抜けようとして、外から回りなさいと額を掴み上げられていた。
ギリギリと音がする。
華奢な体躯に似合わぬ剛力に、おくうも声すら出せない。
数秒の折檻の後、文が手を離しただけで、おくうは額を押さえて蹲っていた。
「う、ぅぅ……」
「部屋が汚れる、と言ったはずですけど」
「ふぁい……」
柔和な笑みに静かな怒りを滲ませながら、文はおくうの一次侵略を見事に退けたのだった。
すごすごと退散していくおくうを慰めるように、片翼の鴉はその羽を高々と持ち上げた。
鴉の行水とはよくいったもので、あんなに喜んでいたおくうも十分としないうちにお風呂から上がってきた。それでも表情は満足げで、お風呂に入れたことを心から喜んでいるようだった。
ただし、それはあくまでおくうの基準であり、文の基準からは大きく外れていた。
お風呂から帰ってきたおくうを目の当たりにした文は、そのだらしがない格好に、叱責する気も失せて肩を落としていた。
「?」
「……あなた、髪、ちゃんと洗った?」
「え、洗ったよ?」
何故そんなことを問われるのか、全く解らないと言いたげにおくうは濡れた髪を撫でた。鴉の濡れ羽色とはよくいったもので、ただ水に濡らしただけでも、空気を墨汁で溶かしたような漆黒に満ち満ちている。
文は、羽ペンを走らせる手を止め、その指先を痛むこめかみに導いた。
「……なるほど。道理でいつもボサボサな髪してると思ったわ。髪を濡らすことと洗うことを取り違えてるんだから、全く」
確かに、おくうの身体に付着した汚れは落ちているが、このまま放置すればまたボサボサ髪のおくうが出来上がる。それが彼女の普通なのだから、文が余計な世話を焼く必要もないのだが。
どうしたものかと文が悩んでいる最中にも、おくうは純白のバスタオルに包まれたまま、恥じらいもなく鴉と戯れている。汚れた服は洗面所の籠に突っ込まれていて、文はおくうが、おくうは文が洗うだろうと勝手に考えていた。結局、おくうはバスタオルのままでも平気で外に飛び出そうだから、文があれこれ面倒を見る羽目になる。そういうものだ。
「まあ、それは後回しにしましょう」
回転椅子を回し、文はおくうに向き直る。
顔くらいは知っているが、こうも近い距離で視線を交わすことは今まで一度もなかった。闇を模した黒髪、漆黒の翼、鴉であることの共通点はあるけれど、その生の中で一度も交わることがなかったふたり。
「お願い、まだ聞いていませんでしたね」
「あ、そうだ」
温泉という名のお風呂に浸かったせいで、本来の目的がおくうの頭から軽く飛んで行ってしまっていた。ぽん、と気楽に手を合わせ、熱に緩んだ表情をいくぶんか引き締めさせて、おくうは文に懇願した。
「この子、飛べないみたいなの」
鴉が翼を持ち上げようとしても、動くのは片方ばかりで、もう片方はぴくりともしない。動かない翼を撫で、おくうは少し俯く。
「助けてあげられないかな」
ぼそりと呟き、祈るような瞳で文を見る。
文は机に置き去りにしていた羽根ペンを下唇に挟み、おくうの瞳を覗き込む。
「助けられないことも、ない」
もったいぶるような文の言い回しに、どこか釈然としないものを抱く。鴉が畳の上を跳ねる。黒い羽根がはらりと落ち、文の叱責が飛ぶかと思いきや、何のお咎めもなかった。
「ですが」
羽根ペンを外し、その頭を飛べない鴉に向ける。ちょうどよく、鴉が首を傾げた。
「先に言っておくと、その子はもう自力では飛べません」
宣告する。おくうの目が、わずかに見開かれる。
「……やっぱり、そうなんだ」
薄々、気が付いていた。おくうも鴉だから感覚で理解できる。文も似たようなものだろう。医者にかかれば、時間が経てば、なんて妥当な回答も信じられないほど、文の言葉は強く胸を打つ。
何も知らない、何も喋れない鴉のつぶらな瞳が、おくうの心をより強く締め付ける。
「じゃあ」
もうどうにもならないのか、と言いかけて、文が初めに言った言葉を思い出す。解決策は、確かにあるのだ。文はそれを知っている。知っているけれど、乗り気ではない。おくうにそれを教えることが、あまり得策ではないと思っている。
ならば、おくうは何としても答えを聞くだけだ。
「今、『自力では』って言ったよね」
手のひらを畳に付けて、四つんばいに近い体勢で、文に詰め寄ろうとする。
「……はあ。正直、気乗りはしないんだけどね」
おくうの気迫を悟ってか、文は机に羽根ペンを戻す。はぐらかすようなあやふやな態度をやめ、真剣に、射竦めるようにおくうを見る。じぃっと、熱視線に近いほどの真摯な眼差しを受け、流石のおくうも若干怯む。
「……な、なによ」
身体が目当てか、とよく解らないことを口走りそうになり、すんでのところで文が視線を逸らす。外した目線の先には、『森羅万象』の掛け軸がある。
「私の場合、目線を合わせるだけでも、その鴉を僕にすることができます」
「え、そうなんだ」
「でも、あなたを下僕にするのは無理だったみたい」
「か、からだが目当てか!」
言ってやった。
文は答えず、どこか勝ち誇ったような微笑を浮かべるに留めた。その得体の知れない表情を見るにつけ、おくうは天狗の不気味さを感じ取るのだった。
だが、その不埒な表情もすぐに解け、気楽な中にも真剣味を帯びた顔つきに戻る。
「吸血鬼然り、式神然り、人形然り。眷属に自分の力を分け与えることで、彼らが本来持っている能力以上のものを発揮させられる。勿論、飛べない鴉も再び飛べるようになる。そしてそれだけの力を、あなたは持っている。そうなったら、あとはやり方さえわかれば何とかなるはずなんです。本当はね」
「……本当は?」
魚の骨がつかえたような文の言葉に、おくうは眉を潜める。
含んだ言い方ばかりを好む文の態度に、少しずつ苛立ちが募っていく。懇願している手前、あまり強気に出れないのが辛いところだが、いざとなれば詰め寄ってでも答えを引きずり出す覚悟は出来ている。
文の視線が鴉に移り、またすぐに離す。
「灼熱地獄は熱いところだそうですね」
急に、話題が逸れる。
その意図を計りかね、おくうが返事に窮していると、文は説明を再開する。
「通常、使役という概念はその者に何か一定の行動をさせるという意味を持ちます。が、使役する者とされる者の間に、圧倒的な能力差がある場合、その類ではありません。使役された者が、使役する側に隷属するという強制的な関係が成立してしまう。あなたがもし、その子を使役するとした場合、待っているのは一方的な隷属関係でしょう。聞こえの良い言葉を使えば、雛が親鳥を初めて見る時のような刷り込み、血を越えた親子関係とも言えるでしょうが」
そこで、文は一旦言葉を切る。溜まった唾を飲み込み、おくうが頭の中を整理するまで待つ。
おくうは、長い時間を掛けて人の形に変化するようになった地獄の鴉である。一方、飛べなくなった鴉は、何も考えずに地上の空を飛んでいた普通の鴉だ。多少、おくうに懐いてはいるものの、それ以外に何か特筆すべき特徴はない。
でも、もしかして、それは懐いているわけではなく、使役に近いことをおくうが無意識に行っているからなのだろうか。
その真偽を確かめるように、おくうは文を窺う。
「仮に使役が成立したところで、あなたが地獄に帰れば、鴉も地獄に付いて行かざるを得ない。そういう呪縛が掛かっているのですからね。高温高圧の世界で、ただの鴉がどれだけ長く生きられるのか。あなたは一度でも考えたことがある?」
優しく、おくうを追い詰めるように文は問う。核心を貫いた言葉に、おくうは反論する術を持たない。
文が、わざと嫌な言い回しをしていることは知っていた。面白がっているのか、おくうと鴉の関係を憂えているのか、早く帰って欲しいと思っているのか、そこまで深く文の心中を察することは出来なかったが。
「……私は」
助けたい。でも。
「……」
「正直、私がその子を僕にすれば済む話なのだけど。流石にそこまでする義理はないし、そうすることが正しいとは思わないから」
そう言い残すと、文は椅子を回し、原稿に向き直った。後は、おくう自身で結論を出せということらしい。
取り残されて、ペンが紙を引っ掻くカリカリとした音だけがやけに煩く響く。耳を塞ごうとしても、傍らに佇んでいる鴉の姿が見えるたび、弱音を吐いている場合じゃないと己を戒める。
沈黙は続き、思索は巡る。考えれば考えるほど、何が正しいのかわからなくなった。拾った直後は正しさなんて考えもしなかったのに、文に頭を激しく揺さぶられて、今まで自分を支えてきた信念のようなものが崩れかけてしまっていた。
どうするべきか。
自分のために、鴉のために。
何が正しくて、何が間違っているのか。
そんなこと、わかるはずもないのに。
「あぁ、もう……!」
おくうは、まだ乾き切っていない髪を乱暴に掻き乱す。文の予想通り、おくうの髪はボサボサに仕上がってしまった。
「……また来る」
自分にしか聞こえないような声量で呟き、おくうはのっそり立ち上がる。懸命に舞い上がろうとする鴉を手の甲に乗せ、鴉も望まれるがままおくうの肩に移動する。
文は原稿に目を落とした状態で、おくうの背中に言葉を送った。
「それがいいでしょう。あなたの選択に期待していますよ」
「他人事みたいに……」
他人事ですもの、と囁く声が聞こえた気がする。
同じ鴉なのに、他人事も何もあったもんじゃないとおくうは思うのだが、文くらい長く生きていると、ただの鴉には興味がないのかもしれない。そう在ることは、どこか超然としているようで、やはり寂しくもある。
いつか、おくうも文のような立ち振る舞いをする時が来るのだろうか。
今は、そういうふうには考えられない。
だが、こうして、人の形に成ることを覚えたのなら。
「……うぅん」
首を振る。
余計なことを考えるべきじゃないとわかっていても、人の頭は余計なことを考えるように作られている。軽く握った拳を額に打ちつけ、肩に圧し掛かる鴉の重さを感じながら、使い古された引き戸を開けようと手を伸ばす。
「ちょっと待った」
その肩を、文の手のひらが掴む。今更何を、と剣呑な顔付きで振り返るおくうだったが、当の文が疲労感たっぷりの表情を晒していたため、途端に拍子抜けしてしまった。
「あなた……まさか、その格好で外に出るつもり?」
「あ」
それでようやく、おくうは自分がバスタオル一枚しか纏っていなかったことに気付く。
文より拳ひとつほど高い背丈に、背中を覆い尽くすほどには伸びた黒髪。ある程度、出るところは出て、引っ込むところは引っ込んでいる体型だから、絹一枚のみならばその体躯もよく映える。湯上がりたまご肌、というには若干成長しすぎている感があるが、それでも盛りのついた連中に引っ掛かればご無体なことになりかねない。
「道理でスースーすると思った」
「身嗜み以前の問題ね……。うーん、羞恥心が無いのかな?」
「よくわからないけど、何だかバカにされた気がする」
「よくわかってるじゃないですか」
「帰る」
「だからその格好でうろちょろするのはやめなさい」
踵を返すおくうの肩を、文は掴んだ手のひらで更に強く引っ張る。無理やり振り返らされたおくうは、怒り心頭と言わんばかりに頬を膨らませて、呆れ顔の文に面と向かって言い募る。
「うるさいなあ。私の身体なんだから、別にどんな格好してたっていいでしょ」
「えぇ。たとえあなたがすっぽんぽんで天下の往来を闊歩しようと、それは自由です。が、それはあくまで私と関わり合いのない場合に限ります。もし私と何らかの関係があると判明した場合、私の良識まで疑われることになる。それは、あんまりよろしくない。何故なら、恥ずかしいから。あなたが。とても」
「うー……。何がいけないのよー……」
流石に、恥ずかしい恥ずかしいと連呼されるのはおくうも辛いものがあるようで、口をもごもごさせて途方に暮れていた。文は、そんなおくうに助け舟を出すように人差し指を立てて、ゆっくりと助言をしてあげる。
「まず、服を着なさい」
「乾いてないもん」
「なら、私の服を貸しましょう」
「お金、持ってないし」
「タダで構いませんよ。ただし」
文は立てた指を翻し、バスタオルに包まれたおくうの胸の中心を指し示す。
含んだ笑みに厭らしいものを感じ取り、おくうの背中に寒気が走った。
「密着取材。よろしくお願いしますね」
謀れた気がする。
だが契約は既に交わされ、文から服を押し付けられ、おくうがそれに袖を通した時には、もはや取り下げの効かない段階に達していた。
似合う似合うと言っているのは文のみならず、羽を広げている鴉も同じだった。そのかわり、着せ替え人形と化したおくうの仏頂面は健在である。事のついでに髪の毛も整えられ、赤い頭襟も乗せられて、霊烏路空は天狗になりましたと言われても反論が出ない程度には様になっていた。
ちなみに、一本下駄はおくうが我慢できずに脱いだ。痛かったらしい。
「……サイズ、あんまり合ってないんだけど」
「まあまあ、細かいことはいいじゃないですか」
「胸きっつ……」
「ああ、鳩胸?」
「鴉よ」
「知ってます」
今度は、おくうが溜息を吐く番だった。
折角だから泊まっていきませんかという文の誘いも断り、おくうはお燐との合流場所に指定してある博麗神社に帰ってきた。お燐は放っておいても勝手に帰るだろうが、おくうには帰るに帰れない事情がいくつか出来てしまった。主から授けられた服はまだ文の家にあり、鴉のこともある。随分と余計なものを抱えてしまったなと思いながら、肩に掛かる重みは今までに感じたことのない新鮮さがある。触れられている実感。触れている実感。お燐と他愛のないじゃれあいを繰り広げたことは幾度もあるけれど、それとはまた異なる温もりがあった。
真っ暗闇に包まれた境内に降り立ち、闇夜の鴉がきょろきょろと黒猫を捜す。
「いない、ね」
また、説教を喰らっているのだろうか。懲りないものだ。
社務所の灯りも消え、夜風が木の葉を掠れさせる音しか聞こえない。巫女も深い眠りに就いているようで、ここ連日の宴会(おくうお燐含む)による疲れを癒しているのだろう。そんな彼女を邪魔するのも忍びないというように、妖怪の気配も感じられない。ここに佇んでいるのは、行き場所を無くした鴉が二匹だけ。帰れるけれど、今はまだ帰れないふたり。
「軒下だけ借りよ」
頷くように、鴉が首を縦に振る。
スカートが若干短くなったぶん、肌を裂く夜の空気が冷たく感じられる。羽毛と呼ぶには細く短すぎる髪の毛を、背中から胸の前に引き寄せる。それだけでも、少しは温かかった。
流石に、天狗でもないのに頭襟を着けるのもどうかと思ったので、小さな重箱みたいな赤い頭襟は返してある。ただ、種族が同じせいかパッと見は非常に文っぽい。
縁側に座り、鴉を下ろす。翼を畳み、ぺたぺたと廊下を歩く鴉の姿は、何の憂いもないように見える。微笑ましくて頬が緩むけれど、もし本当にそうであったなら、見慣れぬ場所で眠りに就くこともなかった。誰のせいだと呪うことも愚かしく、呪う言葉も、呪うことの意味さえ彼は知らない。
医者も、時間も、この病から逃れる術を持たない。
あるいは、魔法使いなら。優れた科学者なら、可能かもしれない。命あるもの全てに課せられた呪いを解く術を、彼らは使いこなせるのかもしれない。
それもまた幻想郷なのだと、おくうも朧気ながら理解していたけれど。
「あー……」
そうすることに、一体何の意味があるというのだろう。
「おじいちゃん、なんだねぇ……」
年老いた鴉が、円らな瞳でおくうを見上げる。
寿命。
形あるもの、いつかは壊れる。
脚を抱えて、膝の上に顎を置く。鴉はおくうの周りを飛び跳ね、夜だというのに元気に振る舞う。もし、おくうが無意識に鴉を使役しているのだとしたら、今も知らないうちにおくうの力が鴉に流れているのだろうか。だとすれば、片方の翼が使えないのにこれほど元気な理由もつく。その代償として、おくうの命令に背けないように身体を作り変えられているのだとしたら。
膝に顔を埋め、無理やりに視界を閉ざす。
「ねむい……」
考えすぎた。いいかげん、眠りに就いてもいい頃合だ。
鴉もまた翼を畳み、首を垂らして、静かな眠りに落ちようとしている。息を澄まし、まぶたを閉ざし、暗闇の中に己を沈める。明日の陽が昇る頃には、何かわかるだろうか。これから見るかもしれない夢の中に道標を探しても、結局は自分の手で決めるしかないのだろうけど。
呼吸が細くなり、意識が希薄になる。
落ちそうだな、という自覚が芽生え、おくう自身もその流れに沿おうと意識の手綱を手放したとき。
「……?」
突如、障子が開け放たれた。
視線を向ければ、そこには博麗神社の主である博麗霊夢の姿があった。眠たげに瞳を細めているわりに、まぶたを擦ろうともしない。ただ、その潰れかけた眼をおくうたちにぶつけるばかりである。無論、威圧的に。
普段ならおくうもたじろいでいるところだったが、眠気に半分意識が持って行かれていることもあり、わりと呑気に声を掛けてしまった。
「あ、軒下ちょっと借りるね」
家主に確認を取るのは大切なことだ。これでようやく気兼ねなく眠れると思い、再び膝に顔を埋めようとしたおくうの頭を。
――ぱしん、と。
軽く、霊夢が叩いた。
「うにゅ」
小さく髪の毛が乱れる程度の衝撃に、痛みより先に変な声が漏れる。
脆弱な一撃はおくうの眠気を完全に殺ぎ、彼女は疑問に満ちた面差しで霊夢を見上げた。当の霊夢は、襦袢一枚の薄い格好で腕組みをしており、おくうが不思議そうな顔をしていることに気付くと、その親指で乱暴に部屋の中を指し示した。
それでも未だきょとんとしているおくうに対し、今度は濁りながらもはっきりとした口調で告げる。
「……んなとこで寝てたら、私があんたを虐待してるように見られるじゃない……」
ふわわ、と漏れ出た欠伸を噛み殺して。
「だから、中に入る」
もう一度、ん、と強く部屋の中を指す。
はじめ、意味が解らないと目を丸くしていたおくうも、ようやく霊夢の意図を解した。
「え、でも、いいの?」
「そのかわり、布団は自分で敷くこと」
「う、うん、それはいいんだけど。でも、ここでも平気なのに」
野生の鴉だった頃は、いつもそうしてきた。その体験は人の形になっても変わらずおくうの中に根付き、多少の不便は苦もなく受け入れることが出来る。断る理由もないのに、おくうは何故か霊夢の提案を柔らかく拒もうとしていた。
霊夢は、及び腰に構えているおくうの態度を不審に思い、面倒臭そうに後ろの髪を撫でる。
「……鴉だろうが何だろうが、野ざらしよりは屋根があった方がいいでしょ」
「それは、うん、まあ」
「だったら、家主の言うことは聞く。ここにいる以上、あんたは私のペット。いいわね?」
無茶苦茶な理論だ。けれど、おくうは自然と頷いていた。圧迫感、威圧感ゆえではなく、霊夢の提案に邪な意図が込められていないと気付いたから、あまり難しく考えるのをやめただけだ。
「ついでに、そこの鴉も入んなさい」
霊夢が小さく手招きをすると、鴉もぎこちない足取りで部屋の中に入っていく。無論、ただの鴉ならば、霊夢もわざわざ部屋の中に入れたりはしないだろう。おくうが鴉のことを気に掛けているから、飛べないから、他にも理由はあるかもしれないが、ともあれ霊夢はこの鴉が普通でないと見抜いた。だから、なるべくおくうと近い場所にいるよう配慮した。
好意的に捉えようとすれば、いくらでも良く見えるものだけれど。
「あ、うん。わかった」
「よろしい。じゃ、私は寝るから」
ひとつ大きな欠伸をこぼして、霊夢は部屋に引っ込んだ。体育座りをしたまま、十秒くらいじっとしていたおくうも、霊夢の言葉に従って部屋の中に入って行った。鴉も、おくうの後ろを一歩一歩確かめるように付いて行く。
後ろ手に障子を閉めて、暗闇にも慣れた目で、襖の奥に詰め込まれた布団をよいしょと引っ張り出す。早くも寝息を立て始めている霊夢の隣に、なるべく大きな音を立てないようにして、気を遣いながら布団を敷く。
「できた」
薄っぺらな煎餅布団だけれど、寒さを凌げるだけでも十分にありがたい。一応、お礼を言った方がいいかなと思ったが、声を掛けるのもどこか躊躇われたから、今は静かに眠りに就こう。二度も眠りを邪魔してしまっては、却って機嫌を悪くしてしまうかもしれない。
羽を畳み、布団の中に滑り込む。仰向けになると羽を痛めてしまうから、横向きのまま瞳を閉じる。耳を澄ませば、鴉の羽音が聞こえる。その音もやがて消え、部屋に響くのは霊夢の呼吸だけになった。
静かだな、と思う。障子一枚隔てただけなのに、虫の音も、風の啼く声も聞こえない。
これなら、すぐに眠れそうである。
「……ぐー」
と、思ったのだけど。
「だめだぁ……」
眠れない。
身体は疲れているはずなのに、考えることが多すぎて、頭の中がすっきりしない。うつ伏せになり、硬い枕に顎を乗せる。歯の間からわざと舌を出し、意味もなく柔らかい舌を甘噛みしてみる。
「うーん……」
悩ましげな声を搾り出し、鴉の姿を視界に収める。鴉は微動だにせず頭を垂れていて、静かに眠りに就いているようだった。霊夢もまた同様――であるかに見えたが、おくうが彼女の方をちらりと窺えば、霊夢はちょうどむずがゆそうに寝返りを打ったところだった。
「ねー、霊夢ー」
「……ぐう」
「起きてるー?」
「……寝てる」
うそだー、と霊夢の布団をつっつく。彼女は寝返りを打つと見せかけて、布団から抜き出した腕を大きく振っておくうの脇腹に叩きつけた。
「ぐよォ!?」
「寝ろ」
「うぎゅぅ……だって、眠れないんだもん……」
「私は眠いの」
宴会が続いたし、と皮肉るように呟く。おくうが呻いても意に介さず、再び布団に潜って眠りに就こうとする。
仕方がないから、おくうは怒られない程度にひとりで呟き始めた。
「……よく、わからないんだよね。どうすればいいのか、どうすれば、この子にとっていちばんいいんだろうって……随分、考えた気がするんだけど」
「……」
霊夢は何も答えない。鴉からも何の反応もなく、人に似た鴉の正しい独り言が続く。
「考えるの、あんまり得意じゃないのよ……でも、考えないと、このまま放っておくわけにもいかないから。わかんないけど……わかんないけど、でも」
「……あー、もう」
煩いわねぇ、と舌を打ちながら霊夢が寝返りを打つ。
「聞いてるこっちがうんざりするわよ。全く要領を得ないし……何に悩んでるのよ、一体」
「あ、うん……ごめんね、うまく説明できそうにないや」
「だと思ったわ」
溜息が漏れる。申し訳ない気持ちもあるけれど、おくうは良い機会だと思って霊夢に尋ねてみた。
「ねえ」
「なに」
機嫌は悪いが、少なくとも答える意志はあるようだ。
ほっとする。
「霊夢は、生きるとか死ぬとか、考えたことある?」
「……なんでそんなこと聞くの、と言いたいところだけど……まあ、いいわ」
髪の毛が蒸れて痒いのか、霊夢は軽く後頭部を掻く。
「どうなの?」
「ない、こともないわね。こちとら人間様だから、いつか死ぬときは来るもの。あんたはどうだか知らないけど」
「私も、考えたことはあるよ。いちおう、昔はただの鴉だったから」
「地獄鴉、でしょ。普通じゃないわ」
「そうかな」
そうよ、と当たり前のように言う。そうかもしれない、と地上の鴉を横目に思う。
「死ぬのは、こわい?」
「どうかしら。直前になってみないとわからないわね。意外と平気かもしれないし、死にたくないって喚き散らすかもしれないし。でもまあ、寿命だったら仕方ないって諦められるかもしれないわね。笑って死ねるかって言われたら……それも、なんだか怪しいけど」
「そっか」
納得したような、解った振りをしているだけとも解釈できる口調だった。
「笑えるといいね」
「ありがとう」
霊夢は皮肉のつもりだったのだが、おくうに通じたかどうかは定かでなかった。ただ、それきりおくうの独り言は止まり、霊夢も目を瞑って息を潜めて、静かな眠りに就くことができた。
そして、翌朝。
霊夢の目が覚めると鴉たちの姿は既になく、紙に描かれたミミズののたくったような文字らしきものの羅列があった。どうやら書き置きであるらしい。
そこには、「こちらこそありがとう」と書かれていた。
早朝、鶏の鳴き声が疎らに聞こえる頃、おくうはその肩に鴉を乗せて天狗の家に訪れていた。
おくうが現れると前もって知っていたのか、文は既に格好を整えていた。目の下に隈ができているのは、睡眠だけは時間が無ければ確保できなかったということか。
「新聞、できあがったの」
「鴉天狗に不可能はない」
「そう」
本当は眠くて仕方ないだろうに、わざわざおくうが来るまで待っていた文に深く感謝する。声に出さないのは、言ったところで受け流すに決まっているから。それに、おくうが一晩で答えを出すと見透かされていたというのも、おくうからすればあまり面白くないことであるし。
「決めたよ。私」
「そうですか」
肩に乗った鴉が、片翼を動かす。
「この子を式にする方法、教えてください」
おくうはそう結論付け、文に懇願した。
しばらく、沈黙がふたりの間に横たわる。涼しい風が吹き、太陽が稜線から顔を出す。もう少しすれば、森の中にも光が舞い込んで、気温も高くなるだろう。
文は表情を変えず、ただ質問を返す。
「本当に、それでいいのですか」
おくうは、力強く頷く。昨夜、瞳を曇らせていた迷いは完全に晴れている。
「思い出したんだ。あなたが言っていたこと」
地上の鴉が灼熱地獄に導かれて、果たして生きていけるのかどうか。
不可能だと思う。地獄鴉は地下に生まれ、その灼熱に慣れた身体になっている。だが地上の鴉は地上の温もりに護られ、灼熱の恐怖をその身に刻んだことはないはず。
普通ならば。
「この子が式になれば、飛べるようになるかわりに、私に着いて離れなくなる。この子は灼熱地獄で生きられない……普通なら。でも、式になるっていうのは、普通じゃなくなるってこと。やり方次第で、灼熱地獄の熱さに耐えられる身体になれるかもしれない」
「……ふむ」
腕を組み、値踏みするような文の視線に、おくうは唇を尖らせた。
「ずるいよ。バカだと思って、わざと悩ませて」
「そうではないですよ。でも、紛らわしかったのは確かですね。すみません」
素直に謝る。
それだけのことで簡単に溜飲が下がるのも、単純だなあと自分でも思うけれど。これでようやく、スタートラインには立った。
「ご依頼、確かに承りました。ただし、一朝一夕に身につく技術でもありませんから、おのずと出来ることは限られるでしょう。あなたが言うように、その子の身体を作り変えることは出来ないかもしれない。それでも構いませんか」
「うん。わかってる」
覚悟は決めた。どうするべきか、どうすることが彼にとって最善なのか、おくうの判断でしかないけれど、いざというときに躊躇わない程度には腹を括った。
おくうの真剣な眼差しを見、文は踵を返す。
「そうと決まったら、急がないとね。三日も経つと、覚えたことも忘れちゃうから」
「そこまでバカじゃないよ」
心外とばかりに咆えるおくうの肩の上で、揶揄するように鴉が鳴いた。
文の後ろに続き、おくうは家に踏み入る。昨日と異なり、明確な意志を携えて臨む鴉天狗の本陣は、覆いかぶさるような威圧感を秘めていた。
逢魔ヶ刻。
あと半刻もすれば日も沈み、あたりは完全な闇に包まれる。橙色に染められた草原の中で、ひとりの鴉と一匹の鴉が地面に立っている。
お互いに飛ぶべき翼はあるものの、一匹が持つ片方の翼は正常に機能していない。おくうが視線を投げると、苦悩を肯定するように鴉はもう片方の翼を上げた。
「昨日とあんまり変わりないや」
腰に手を当てて、大仰に空を仰ぐ。昨日と同じような仕草を繰り返し、今日は空に向かって手を伸ばしてみる。一番星は見えないし、掴みたいとも思わない。月には一度行ってみたい気もするけれど、まず地上にあるものを見終わってからにしたい。それからでも遅くはない。
おくうは手を下ろす。それにつられて、鴉も翼を下げる。
「始めるよ」
鴉と目を合わせ、彼もまた頷くように首を傾けた。
文に教えられたのは、基本的な式の打ち方のみ。以前にも言われたように、下僕にするのと式にするのとでは意味が違う。前者は一方的な隷属関係だが、後者は対等でないにしても相互的な関係にある。つまり、式を打たれる側にも相応の能力が必要ということだ。でなければ、上位者の命令にも満足に従えず、無理に従おうとして身体を壊すことにもなりかねない。
飛べと言われて素直に飛べるのは、飛べるほどの妖力を持つ者か、初めから翼を持っている者だけだ。
「紙でもいいって言われたけど、そんなに字もうまくないし……すぐに剥がれちゃいそうだもんね」
鴉を中心に据え、彼を囲む四隅に小石を積む。特に何の加工も施していないただの石だが、こういうものはそこに在るだけでも効力を発揮するという。しかも高ければ高いほど良いらしい。が、賽の河原の石積みよろしく、膝の高さに届く前に崩れてしまうため、おくうには三個が精々だった。
四隅に積んだ石が、簡易な結界を形作る。簡単な式を打つ程度なら、この規模の結界でも構わない。あくまでも、おくうから彼に上手く力が流れるよう、補助するくらいの役割でしかないのだ。
「怖くないよ。すぐに終わるから」
恐れを拭うように、優しく笑いかける。
それから、結界の内側の雑草を切り払い、露になった地面に図形を描く。半ば叩き込まれるように覚えされられた図形だが、おくうには少々難しかったので紙に描いたものをなぞり書きして事無きを得た。
この図形もまた、力の流れをよりよく導くための補助線である。
見下ろすと、それはどこぞの巫女が用いている線にも似ていた。
「よし」
線を引っ張っていた枝を結界の外に放り投げ、手のひらを叩いて埃を弾く。
所在なげに佇んでいる彼の正面に立ち、ひとつ深呼吸を挟んで、ゆっくりと跪く。
共に瞳の色は黒、純粋、一点の曇りもなく澄み渡り、故に願いは聞き届けられる。
「私、霊烏路空の名において、あなたを式に命じます」
慈しむ動作。頭を撫で、背中を擦り、痛みすら感じられない翼を労わる。
手のひらは彼の顔を全て覆い、頬に触れるというよりは、頭を隠すといった方が適当な所作だけれど。
力は無形である。
ただ、いくつかの手順を踏むことで、他の誰かに己の力を分け与えることも出来る。
おくうは、その唇を彼の嘴に寄せた。
「――、――」
浅い接吻。
触れてすぐに離れてしまう優しい接触は、一瞬にも満たないけれど確かな繋がりをふたりの間に結んでいた。
おくうは微かな力の漸減を。
鴉は緩やかな力の高揚を。
「……初めに、あなたに命じるのは」
成功の確認も取らず、おくうは言葉を続ける。彼の瞳を見れば、成功の如何はおのずとわかる。それよりも大切なのは、これから発する言葉が、全て彼に対する命令と化してしまうことである。両者の能力差が開きすぎている場合、下手な言葉は相手の意志を奪い傀儡に堕す。
だからおくうは、最初の命令と、最後の命令を前もって決めていた。紙に書かなくても思い出せるよう、何度も、何度も言葉を紡いで。
間違えないよう、おくうは言う。
「飛んで」
小さな身体を支えて、花束を空に放り投げるように、彼を天高く打ち上げる。
鴉はその翼を大きく広げて、今までの鬱憤を晴らすように強く羽ばたき、両の翼を唸らせて空を飛ぶ。おくうを中心に、円を描くように飛び回り、けたたましく鳴き喚いて黒い羽をばらまいていく。
空の片隅を飛んでいた鴉たちの列も、激しく飛行する同族に驚き、その列を乱していた。彼も一瞬、その方角を見る。
「……」
すぐにまた列を整えて、それぞれの帰るべき場所に飛んでいく鴉たち。対照的に、おくうの傍から離れられない鴉。いまや片翼ではないけれど、残りわずかな彼の生は、おくうの式として消費しなければならない。たった今、そう定められたのだ。
けれど。
「……最後に、あなたに命じます」
ふたつだけ決めていた命令の、もうひとつ。
上空を旋回する鴉と、地上に立ち、空を仰ぎ黒い翼を広げる鴉と、視線を交し合う。
たった一日、短い付き合いではあったが、懐いてくれたことは間違いなかった。だからこそ、もっと違う形で出会えていたら、もうちょっと長い付き合いも出来たかと思うと、残念な気持ちにもなった。
けれど。
「もう、私の言うこと聞かなくていいよ」
終止符を打つ。
鴉は通常通り旋回を続け、少しずつ、名残惜しむかのようにおくうから距離を取る。そのうち、視界の端に消えかけていた鴉の群れを追い掛ける。喜び勇んで、鳴き喚いて、仲間のもとに帰ろうとする。
そうだ、あれは、昨日彼と共に飛んでいた鴉たちだ。彼にはわかる。おくうにもわかった。だから、彼の拘束を早急に解かねばならなかった。
寂しくないといえば嘘になるけれど。
お別れだ。
「からすがなくからー……」
寂しい歌を思い出す。地上に住んでいる人間が、いつか口ずさんでいた歌だ。鴉が鳴くから家に帰ろう。鴉にも帰る家はある。住むべき場所、共に過ごす家族、愛する世界を持って生きている。
徐々に、鴉たちの姿が遠くの空に消えていく。暮れなずむ空の片隅に浮かぶ、複数の黒点が夕日より先に沈んでいく。
「……これで」
よかったんだよね。
自分に言い聞かせる。彼を式に置いても、地獄で生きていくことは難しいだろう。たとえおくうがうまく式を作れるようになっても、その頃にはもう彼の寿命は過ぎている。寿命を越えて、彼が生き続けられるように仕向けることも、考えないではなかったけれど。
最善の選択肢など無いのだと思う。あるのは取捨選択だけ。結局、何を選んでもそれなりに後悔するのだ。だからせめて、彼が幸せに生きられる道を選んだ。短い間でも、仲間と一緒に、この住み慣れた地上の空で。
おくうは、誘われるように右腕を天にかざした。
「――セット」
俯き、囁く。
右腕を取り囲むように、無機質な色合いの柱が顕現する。制御棒に力を通わせ、弾丸を精製する過程においても、おくうは自分が何故こんなことをしているのかよくわからなかった。やろうとしていることはわかっているが、その意味がわからないのだ。制御棒を装着し、エネルギーを充填する必要もないはずだった。それなのに。
顔を上げる。空の端に、鴉かどうかもわからない黒い点が見える。
溜め込んだ弾はそれほど大きいわけでもない。
ただ、あの黒い翼にも見えるよう、めいっぱい大きな炸裂音を放つように。
「シュート!」
力強く、空に咲く花火を。
瞬きさえも忘れるくらい、一瞬のうちに輝く光を。
―― どがァん!!
一度だけ、羽を休めて、振り向いてくれるだけでよかった。
どこか森の木の枝に留まって、何か大きな音がしたみたいだと、首を傾げるだけで構わなかった。
上空に打ち上げられ、瞬く間に弾けた閃光は、誰も傷付けずに爆風だけを巻き起こして消滅した。眩く、激しい音を立て、遠くの森にいた動物たちを驚かせた。たったそれだけの、些細な一撃。明日といわず、五分も経てば何事も無かったかのように森は静寂を取り戻し、ありきたりのざわめきに帰る。
「……はぁ、あ」
上げた腕も、顔も下ろさず、おくうは身体から抜け出ていった体力を憂えて息をつく。役目を終えて、制御棒も虚空に消える。残されたのは、何かを掴むようにめいっぱい伸ばされた手のひらと、相も変わらず、憎らしいくらい赤く晴れた空。
視界の隅に、一番星が映る。
「行っちゃった……」
呟き、右腕を下ろす。視線を下げても、鴉の姿はない。鳴き声も聞こえない。
借り物の服を着たまま、呆然と、することもなく佇んでいたら、いつの間にか足元に一匹の黒猫が擦り寄って来ていた。なー、とわかりやすい猫撫で声を奏でる黒猫の尻尾は二股で、慰めているのか、からかっているのか、いずれにしても話し相手が現れたのは助かった。このままずっとひとりなら、昨日みたいに膝を抱えて眠りに就いてしまいそうだから。
「お燐」
にゃー、と猫の姿を解く様子もなく、おくうに抱き上げられるままお燐は鳴く。何か理由があるのか、それともただの気紛れか。今まで姿を見せなかったのは、どうせ墓地やら葬式やらに突撃して返り討ちに遭い、説教とお仕置きを喰らっていたためだろうから、いちいち聞かないでおくけれども。
風が雑草を揺らし、素足に草が触れてむずがゆい。
「……あ、そっか」
思い出した。
本当はこのまま帰りたかったけれど、文との約束を果たさなければならない。密着取材。面倒くさいけれど、おくうが元々着ていた服も彼女の家に置いてあるため、なかば人質を取られている状態である。反故にも出来ないのが辛いところだ。
「ごめんね。まだ帰れないや」
あんなにも、鴉はたくさん鳴いていたのに。
風が強くなった気がして空を見れば、ひとりの鴉天狗がにやにやとこちらを見下ろしている。不機嫌さを露にして頬を膨らませると、今度は団扇で口を隠してくすくすと笑う。面白そうに。
文はゆっくりと高度を下げ、可愛らしく睨みつけるおくうに向けて、一言「おつかれさま」と口にした。
少しばかり面食らっていたおくうだったが、それでも、返すべき言葉は知っていた。
「ありがとう」
素直に感謝を告げるのは、あまり面白いことではないけれど。
「どういたしまして」と含んだ笑みを浮かべる文にへの字を向けて、おくうは密着取材に対する返答をあらかじめ考えておくことにした。
腕の中で、お燐がにゃーんと鳴いている。
その黒い背中を撫でて、あたたかいな、と今更ながらに指を震わせて。
お空と鴉がメインだけど、霊夢や文だけでなく、ちょっと出てきた
椛とお燐も、この作品のいいアクセントになってました。
しかし、お燐が何をしていたかはお空が予想はしてますが、お燐も
お燐で何かあったのかと勘ぐらずにはいられなかったです。
なんとなく、この作品のお燐にはそういう雰囲気が感じられました。
とにかく、いい話でした。ごちそうさまです。
うん、いい。
良いものを、ありがとう。
放鳥シーンで斑鳩のエンディング思い出しました。
とても、いいお話でした。
美味ーー・・・・・・。
味がある。
とかどうでもいいことを気にしてたりもした。
地上の妖怪ともけっこう交流してるんですね。
雰囲気があって読みやすく面白かったです。
お空の鴉への労りがとても良かった。
感動をありがとう。
描かれる風景が綺麗で読み惚れてしまいます。
まあ一番気に入ったのはバスタオル一枚のおくうですが
余韻が残る読後感も最高でした。
おくうも文も良かった。
妖怪の山におくうが出向く、っていうシチュエーションは珍しくて、
文とおくう、椛とおくうなど、新鮮な組み合わせがとても良かったです。