「……良い月だな」
テラスから夜空の月を見上げ、レミリアは一人呟いた。
今宵は、満月。
妖の血が、最も騒ぐ夜。
「……どれ、ちょいと夜の散歩でも」
彼女が翼をばさっと広げ、いざ宙に飛び立たんとした、そのとき。
「……おじょうさまぁ」
すすり泣くような声が、背後から聞えた。
「!?」
反射的に、ばっと振り返るレミリア。
するとそこには、いつの間にやってきたのか、パジャマ姿の小さな女の子が立っていた。
「……咲夜」
少女の姿を認めたレミリアは、はあ、と小さく溜め息を吐く。
「……また、寝付けなかったのか?」
少しばかりの呆れを含んだ声色で、レミリアは尋ねた。
すると咲夜と呼ばれた少女は、こくんと頷いた。
「あのね、さくやね。すごくこわいゆめみたの……」
少女はたどたどしい口調でそう言うと、うるうると瞳を潤ませ始めた。
そんな少女の様子を見るや、レミリアはあたふたと慌て出した。
「あ、あああ。な、泣くな。泣くんじゃない。もう大丈夫だから。ね?」
そう言いながら、レミリアは素早く少女のほうへと駆け寄り、いいこいいこと頭を撫でてやる。
しかし。
「……ぐすっ」
少女は相変わらず、半べそ状態のまま。
普段の調子を取り戻すには、まだ時間が掛かりそうだ。
「……やれやれ」
仕方がない。
と言わんばかりに、溜め息を一つ吐いて。
レミリアは、少女に背を向ける形でしゃがみ込んだ。
「ほら」
「……?」
少女はレミリアの意図が分からず、キョトンとしている。
「乗りな」
「…………」
ぶっきらぼうに言うレミリア。
対する少女は、少し不安そうな面持ちだったが。
……やがて、覚悟を決めたように、レミリアの背中に自分の身体を預けた。
「……よし。しっかりつかまってろよ」
レミリアがそう言うと、少女はこくりと頷き、レミリアの首元に両手を回す。
そしてレミリアは両手を後ろに回し、少女の両足をしっかりと固定する。
「――いくよ」
次の瞬間、レミリアは地面を力強く蹴り――。
一気に、飛翔した。
「わ、わわ」
突然、重力を全身に受けた少女は、目を丸くするばかり。
「一気にいくよ」
レミリアはにやりと笑って、更に加速する。
瞬く間に、二人は紅魔館をはるか見下ろす位置にまで上昇した。
ある程度の高度に達すると、レミリアは羽根をぱたぱたと動かしつつ、浮遊する。
「す、すごい! おじょうさますごい!」
先ほどまでの泣きべそはどこへやら、今や少女の瞳は爛々と輝いている。
「はは、そうか。すごいか」
少女の上々な反応に、レミリアも機嫌が良い。
「うん! すごい! すごい!」
「こ、こら。あんまり暴れるな。落ちちゃうだろ」
自分の背中で、きゃっきゃきゃっきゃとはしゃぐ少女を諫めるレミリア。
……まったく、さっきまで瞳をうるうるさせていたくせに。
子供という生き物は実に現金だな、と嘆息する。
「まあ、でも」
仕方のないことか、とレミリアは思う。
何せこの咲夜という少女は、正真正銘、子供なのだ。
正確な年齢は分からないけど、おそらく現時点で五、六歳。
美鈴がどこからか拾ってきたこの少女を紅魔館で引き取ることにしたのは、今からもう一年ほども前の話だ。
最初の頃こそ、誰にも懐く素振りを見せなかった少女だが、今ではこの通り。
館の主であるレミリアに対してすら、タメ口で接するほどの馴染みぶりだ。
もっとも、この点に関しては、流石に五歳やそこらの子供に礼儀も何も無いだろう、ということで、レミリアも特に気にしていない。
ただ、パチュリーによって吹き込まれた『レミィちゃん』という呼称だけは、どうしようもない程に羞恥心を催すため、そこだけはなんとか、『おじょうさま』という呼称に変えさせた。
(まったくパチェのやつ、余計なことばっかりするのだから……)
そんな親友の悪戯をふと思い出し、心の中で愚痴るレミリアだった。
「……ねーねー。おじょうさま」
「ん?」
懐かしい回想に耽っていたレミリアの思考を、咲夜の声が現実に引き戻す。
「おじょうさまは、おつきさままでとんでいける?」
「……へ?」
ぽかんとするレミリア。
咲夜は、レミリアの肩越しにみじかい腕を伸ばし、懸命に夜空の月を指差していた。
そして、同じ問いを繰り返す。
「おじょうさまは、おつきさままでとんでいける?」
「あー……」
苦笑を浮かべ、咲夜の指す月を眺めるレミリア。
「……咲夜。それは無理だよ」
「えー!? どおして?」
咲夜は頬を膨らませ、不満気な表情を浮かべる。
それに対しレミリアは、諭すような口調で言う。
「あのね、咲夜。月っていうのは、すぐそこにあるように見えても、本当はずっと遠くにあるんだ。だからいくら私でも、そこまでは飛んでいけないのさ」
「ふぅん……」
レミリアの説明を聞いた咲夜は、納得半分、不満半分といった面持ちだ。
そんな咲夜の機微を感じ取ったレミリアは、尋ねる。
「……咲夜。お前、月に行きたいのか?」
レミリアの問いに、咲夜は大きく頷く。
「さくや、おつきさまにいきたい。だって、さくやのおなまえ、おじょうさまが、おつきさまからとってつけてくれたって、めいりんにきいたもの」
「……名前? ああ、『十六夜』の方」
「うん」
そういえばそうだったな、と、レミリアは再び回想する。
「この子の名前を付けてください」と美鈴から頼まれ、何で私が、とか思いながらも、パチュリーに占星術やら姓名判断やら色々尋ね、三週間も費やして、最終的に決めたのが『十六夜 咲夜』という名だった。
そのうちの姓の方、『十六夜』とは、言わずもがな、『十六夜の月』から取ったものである。
もっとも、レミリアは、少しでも良い運命を引き寄せられるようにと、画数等を重視して名付けたので、言葉の意味自体はさほど重視していなかったのだが。
……そうは言っても、咲夜の名前が、月に由来しているということは事実だ。
レミリアは顎に手をやり、しばし考え込む素振りを見せる。
「そうか、月に行きたいか……」
「うん。いきたい」
「…………」
少しの間沈黙し、やがてレミリアは口を開いた。
「よし。分かった」
「え?」
「今すぐに、というわけにはいかないが……そうだな、咲夜が大きくなったら、必ず月に連れて行ってやる」
「ほ、ほんと!?」
ぱあっと、瞳を輝かせる咲夜。
レミリアはにっこりと笑って、頷く。
「ああ。約束するよ」
「で、でも、どうやっていくの?」
「それはパチェに聞く。あいつは大概のことは知ってるから、きっと何とかしてくれるさ。それに他ならぬ咲夜の頼みとなれば、尚更だ」
「…………!」
レミリアの言葉に、咲夜の表情が満面の笑顔へと変わる。
まるで、夜に咲く花のように。
「……おじょうさま、だいすき!」
咲夜は弾むような声でそう言うと、背後から、思いっきりレミリアを抱きしめた。
いや、しがみついた、と表現した方が適切かもしれない。
「わっ、こ、こら」
急に力を加えられ、ふらつくレミリア。
「……ったく。現金なやつめ」
「えへへへ」
呆れ顔を浮かべるレミリアに、心底嬉しそうに笑う咲夜。
「さ、そろそろ戻るぞ。子供はとっくに寝る時間だ」
「うん」
レミリアはもう一度咲夜を背負い直すと、そのままゆっくりと下降していく。
夜のデートもお開きだ。
「ねえ、おじょうさま」
「うん?」
「さっきの、やくそくだよ?」
「ああ、分かってる」
「じゃあ、ゆびきり」
「……はいはい」
溜め息をつきながら、レミリアは右手の小指を立て、後ろに向けた。
その小指に、咲夜も自分の小指を絡める。
「ゆびきりげんまん」
「嘘ついたら」
「はりせんぼんのーますっ」
「指、切った」
レミリアの言葉で、二人の指は離れる。
同時に、咲夜の笑い声が夜に響く。
「えへへ。やくそく。おじょうさまと、やくそく」
「……はいはい」
レミリアは、苦笑混じりに呟きつつも。
――こうなったら、是が非でも、月に行かないといけないねぇ。
今なお燦然と輝く夜空の月を見上げながら、固い決意を瞳に燃やした。
――それから、十数年の月日が流れた。
「……一体何用かしら。お嬢様ったら、急に部屋に来いだなんて」
ぱたぱたと廊下を急ぐのは、十六夜咲夜。
あの幼かった少女も、今では紅魔館を取り仕切る立派なメイド長となっていた。
彼女は、今日の務めを終え、さあ眠ろうかというときに――主からの急な呼び出しを受け、こうして廊下を早足で駆けているという次第である。
「また美鈴が何かやらかしたのかな」
部下の不手際は上司の責任。
咲夜の懸念は尽きない。
眉間に皺を寄せ、はあと溜め息をつく。
そうこうしているうちに、咲夜はレミリアの部屋の前へと到着した。
襟を正し、呼吸を整えてから、ドアを二回ノックする。
あくまでも、瀟洒に。
「入りなさい」
ドアの向こう側から聞える、威厳を伴った声。
妙な緊張感を覚えつつ、咲夜はドアを開く。
「……失礼します」
いつにもまして、粗相のないようにと注意を払いながら、慎重に入室する咲夜。
ふと視線を前に向けると、部屋の中央で仁王立ちをしているレミリアと目が合った。
レミリアは腕組みをして、ずっしりとこっちを見据えている。
(ど、どうしたのかしら)
何やら普段とは違う雰囲気を纏っている主を、怪訝に思う咲夜。
一方、レミリアは、咲夜の姿を認めると、にぃっと不敵に微笑んだ。
そして、静かな声で言う。
「……喜べ、咲夜」
続けて、すうっと大きく息を吸い、
「――本日より、我々は―――『月面着陸計画』に、着手する!」
と、声高らかに宣言した。
……それに対し、咲夜は。
「…………」
ぽかあんと口を開け、目をぱちくりとさせるばかりだった。
(……あ、あれ?)
なんとなく、軽く肩透かしを喰らった気分になるレミリア。
だがすぐに、気を取り直す。
(……そうか。咲夜のやつ、あまりにも急な展開に驚いて、呆然としてるのか)
まったく仕方のないやつめ。
そう思い、レミリアはオホンと咳払いをする。
「いいか、咲夜」
「は、はあ」
「月面、なんだ」
「はあ」
「つまり、月に行くんだ」
「はあ」
「……心配せずとも、手段はもうパチェによって検討済みだ。ロケットっていう乗り物を作って、それに乗って行く」
「はあ。ろけっと、ですか」
「…………」
「…………」
「……月に、行くんだ」
「は、はあ」
……なんか、おかしい。
どうにも反応に乏しい咲夜を前に、レミリアの眉が少し吊り上がる。
「……おい、咲夜」
「は、はい」
「……もっとこう、うわぁーい! みたいに、喜べないのか?」
「え? ええっと」
「…………」
「う、うわぁ~い」
「…………」
取ってつけたような歓声を棒読みする咲夜を前に、またもレミリアの眉が吊り上る。
「……あのね、咲夜」
「はい」
「いつも冷静で、落ち着いているのが、お前が『完全で瀟洒な従者』と形容されるゆえんではあるけれど」
「はあ」
「こういうときくらいは、素直に喜びを表していいんだよ」
「喜び……ですか」
「そう、喜び」
うんうんと頷くレミリア。
対する咲夜はしばし俯き、考え込む素振りを見せてから、顔を上げる。
「確かに……お嬢様の喜びは、私の喜びも同然。失礼致しました」
「そうそう……ん?」
「それでは改めて、お嬢様の崇高なる計画の実現を願って――」
「ちょ、ちょい待ち。咲夜」
「……はい?」
「いやだからね。そうじゃなくてね」
「はあ」
「…………」
こいつこんなに鈍かったっけ?
もしかしてわざとやってるのか?
と、内心呆れながらも、レミリアは言う。
「私の喜びじゃなくて、お前自身の喜びを表せばいいんだ」
「私自身の……ですか」
「そう。だってこの計画は―――お前のためのものなんだから」
「……えっ?」
「……ん?」
実に意外そうな顔を浮かべる咲夜。
片や、何がそんなに意外なんだと、首を傾げるレミリア。
「すみません、お嬢様。今……何と」
「いやだから、この計画はお前のためのものなんだって」
「…………」
「お前をロケットに乗せて、月に」
「…………」
押し黙る咲夜。
あれ? なんで?
意味が分からないレミリア。
「……申し訳ありません、お嬢様。仰っている意味が、いまいちよく分からないのですが……」
「……え?」
「いえ、ですから、私のための計画、というのが、どういう意味なのかと」
「…………」
流石にこれは、おかしいぞ。
もしかしたら、もしかしたら。
……咲夜は。
レミリアの表情が、みるみるうちに曇り始める。
「……咲夜」
「はい」
「……覚えて、ないの?」
「……え?」
レミリアは、絞り出すような声で言った。
「――今から、十五年前の満月の晩に……私と二人で交わした、約束」
「じゅ、十五年前……でございますか」
「うん」
……いや、うんって言われても。
それ、私が五歳くらいの頃の話じゃないっすか。
微妙な笑みを浮かべ、ピクピクと頬を引きつらせる咲夜。
「……すみません、お嬢様。流石にその頃の記憶は……ちょっと」
「…………」
その途端、レミリアの表情が深い悲しみに彩られた。
慌てる咲夜。
「お、お嬢様?」
「……覚えて、ないんだ」
俯いて、ぼそりと呟くレミリア。
「え、えっと」
「……指切りげんまん、したのに」
今にも消え入りそうな声で、呟くレミリア。
「あ、あの」
「……嘘ついたら針千本飲ますって、言ったのに」
さらに非難の色も加えた声で、呟くレミリア。
「…………」
「……覚えて、ないんだ」
い……いたたまれない。
咲夜は、とてつもない罪悪感に包まれ始めていた。
でも、じゃあ一体どうしろというのか。
咲夜のその問い掛けに、答えてくれる者はいない。
「あ、あの、お嬢様……」
それでも咲夜は、なんとか声を振り絞ってみるが。
「…………」
レミリアは俯いたまま、ぴくりとも動かない。
……さあ、一体どうしたものかしら。
冷や汗をだらだらと流し始める咲夜。
しかし、次の瞬間。
「――――」
レミリアは、急にがばっと顔を上げた。
その瞳に浮かぶは――大粒の涙。
「!」
思わず、息を呑む咲夜。
そして。
「――さくやのばかぁ! もうしらない!」
言うが早いか、天狗の如きスピードで、レミリアは咲夜の横を駆け抜けた。
「お……おぜうさまァ!」
咲夜が慌てて振り返ったときには、既にその姿は無く。
「……おぜうさま……」
一人残された咲夜の呟きが、主を失った部屋に虚しく響いていた。
……こうして、レミリアの『月面着陸計画』は、あっけなく頓挫した。
……かにみえたが、この計画は、その後まもなくして、思いもがけない形で再浮上し、実現に移されることになる。
そして結果的に、レミリアは、咲夜を月に連れて行くことができたのであるが……それはまた、別のお話。
了
おいたわしやお嬢様…
さすがおぜうさま、そこにしびれるあこg(ry
公式口調のレミリアが急に幼児退行したのも、ギャグとはいえ違和感が
レミリアがちょっと可哀相でしたけど面白かったです。
月へ連れて行くことを約束したときの咲夜さんの笑顔が良いですねぇ。
中年の咲夜さんだけは見たくないかもw
心から一筋の汗が。ごちでした!