ぶぶぼぅわわわわ。
擬態語だった。何の擬態語かと言えば、橙の尻尾が一瞬で膨れ上がる、擬態語だった。
怒らせたちいさな双肩も、強張った体躯も、針金を通したようにぴーんっと伸びた尻尾も。全身をわなわなと震わせながら、橙は立っていた。
その日、橙は久しぶりに博麗神社に遊びに行くことにした。紫様や藍様に連れられてではなく、ひとりで遊びに行くことにした。大丈夫、ちゃんと道は覚えているし、お腹が空いた時用のおやつ(生節)も、しっかり持った。もし、食べずに我慢して神社まで行けたら、れいむと一緒に食べればいいと思った。とっておきのおやつだけど、れいむとだったら、はんぶんこしてあげてもいい。
訪問に大した理由なんてなかったのだけれど、れいむ、どうしてるかなあ、そう思ったら、もう、行きたくて、会いたくて、どうしても、遊んで欲しくって、だから、橙は出かけることにしたのだ。
きっかけはあった。紫様と藍様の話の中に、霊夢のことが出てきたのだ。二人の話は橙には難しくて、あんまり判らなかったのだけれど、どうやら、霊夢は、先日神社側に噴き出したお湯(かんきつせん、と言うらしい。すっぱそうな名前だと橙は思った)の一件で、地底へ出かけていたようなのだ。いつもの弾幕ごっこがあったらしい。そして紫様は、地上から霊夢と連絡を取りながら、自分も支援で参加していたと言う。紫様だけ、霊夢と、遊んでいたと言う。紫様だけ。
(……そんなのずるい)
橙だって、遊びたいのに!
そう、遊ぶのだ。橙は思っていた。遊んでもらうのだ。何をしよう。いいや、遊んでくれるのじゃなくてもいい。一緒にお話してくれるのでもいいし、そうだ、橙が最近得意になったお手玉を見せてあげてもいい(なぜだか知らないけれどこの間まで地上には怨霊がいっぱいいたから、橙は色んな方法で沢山遊んだのだ)。後は、ちょっと欲張りを言えば、耳の後ろを掻いてくれたらいいなと思う。
橙は、霊夢のことが好きだ。紫様も、藍様も、好きだけれど、霊夢も、好きだ。けれど例えば、誰が一番好きかと言われても、橙には、そういうのはよく判らない。一緒にいると嬉しくなって、ぽわぽわになるのはみんな同じだけれど、好きなところはみんな違うものが沢山あって、比べられない。好きの優劣なんて、橙には判らない。強いて言えば、紫様はぎゅーっとすると、むにゅむにゅーっとして、藍様は、ぎゅーっとすると、もふもふーっとするのが、いいなあ、とは思う。霊夢には、そういうところはないのだけれど、でも、一等あったかい気持ちになって、嬉しくなるので、それでいい。
ともかく、そうして、橙は博麗神社にやってきた。
やってきた。
やってきたと言うのに!
階段を上りきったところで、仁王立ちで震える橙の目は境内の一角にしっかと釘づけられていた。そこは霊夢が生活に使っている主屋で、彼女は縁側に出てきて、お茶を飲んでるみたいだった。今日は雪も降っていなくて、おてんとさまがぽかぽかの良い日だから、ひなたぼっこも悪くない。霊夢の姿を視界に捉えた刹那、橙はそう思ったのだけれど、直ぐに霊夢がひとりではないことに気がついた。そして、それが誰か、いや、
それが 何か に気づいた瞬間、橙の尻尾は、限界まで膨れ上がっていたのだった。
ぐうっと一気に瞳孔が開いたのを感じる。勝手に震える体は、けれども、自分では自由が利かないくらい強張っていて、なんだか、息までうまくできない。
それは、橙の知らない、初めて見るひとだった。あれは、一体誰なんだろう。……違う、そうじゃない。橙は心の中で首を振った。そうじゃない。誰だかなんて、どうだっていい。そうじゃない。そうじゃなくて、どうして、なんで。
橙はじっと目を凝らした。
燃えるような赤い髪、リボンで結んだ二本の三つ編み、座っているからはっきりしないが、橙よりは背が高いだろう。そうして、何より。形良く天を向いた三角の耳と、しなやかに伸びた長い二本の尾が印象的だ。その何れもがビロードのような光沢を乗せて黒く輝いている。
黒猫。
橙はぐっと唇を噛んだ。なんでなんで。なんで、どうして!
(どうして、私じゃない、ねこがいるの!)
頭がぐるぐるしている。言葉にするなら、衝撃を受けている、と、それだけで済んでしまうだろう。けれど、橙にとっては、そんな簡単なことでは、断じてなかった。目の奥がチカチカするのは、昼の日中に瞳孔を思い切り開いているせいだろうか、それとも、鼻の奥がちりちりするのと関係あるのだろうか。息が苦しく感じるのは、耳を澄ませば音が響いてきそうなほどの心臓のせいだろうか、それとも、肺が鋼でぐるぐる巻きにされたように感じるせいだろうか。
霊夢の側にはいつも沢山のひとがいる。人間も、妖怪も、沢山だ。みんな霊夢のことが好きなのだろう。橙はそれは当然だと思う。なぜなら、橙が、こんなに好きなのだ。みんなだって、霊夢のこと、好きになるに決まってる。自分の好きなひとが人気者なことが(そして、そんなひとに構ってもらっている自分が)誇らしくさえあった。だから、霊夢の傍らに誰か他の人間や妖怪がいても、橙は、全然平気だったのだ。だって、橙は思っていた。
(れいむのことを好きなひとはたくさんいるけど、れいむの側には色んなひとがいるけど、でも、)
でも、彼女の側にいる猫は、自分だけだ。
そう、思っていた。無条件に、信じていた。それは当たり前のこと過ぎて、だから、橙は今初めて、自分がそんな風に思っていたことを知った。そんなことを、真実だと思っていたことに、思い込んでいたことに、気がついた。そんなはずもないのに。いつだって、その可能性はあったのに。
今更自分の馬鹿さ加減に気づいたところで、いきなり覚悟のない衝撃を受け止められるようになるわけではなかった。どうしようもなく橙が立ち尽くしていると、やがて、向こうの方が橙に気づいたようだった。霊夢がではない。あの、名も知らぬ黒猫がだ。赤髪の黒猫は、傍らの霊夢の肩をつついた後、橙を指差した。遅れて、霊夢が橙の方を見る。ちょっと驚いたように目を見開くのが、この距離でもちゃんと判った。見逃したりなんかしない。
「おーい」そう言って、霊夢が手を振る。一瞬、このまま、踵を返して帰ろうかと橙は思った。逃げてしまおうかと。でも、それは本当に一瞬で、結局、橙は単純だから、所詮、日溜まりに焦がれるが猫の性だから、帰ろうか逃げようかと考えたその一瞬よりなお早く、橙の足は前に出ている。
(……あ、なんだか)
とぼとぼ、二人の方へ近づいていくについて、むくむく、何やら、橙の中で大きくなるものがあった。
むくむく。
むかむか。
そうだ、むかむかだ。
だって、おかしいじゃないか。なんで、こんなことで、私はこんなにも悩んでるんだろう。そんなの、どう考えたっておかしい!だって、だって!私は、霊夢にいっぱいいっぱい遊んでもらったもの。ずっと前から、知り合いだもの。あんな、どこのねこのほねとも知れない奴なんかよりずっと前から。それなのに、それなのにっ!
(よぅし、問い詰めてやるんだ)
そいつは一体誰なのか。どこの猫なのか。なんで霊夢と一緒にいるのか。洗いざらい聞き出して、それから、橙の方が、ずっと前からいることを、ずっと偉いことを思い知らせてやろう。ここは橙の縄張りなんだということを理解させるのだ。
とぼとぼとした歩みが、ずんずんに変わる頃、橙は心を決めた。鼻息も荒く、二人の前に立つと、挨拶もそこそこに、への字に結んでいた唇を尖らせて、「だれ、それ」できるかぎりつっけんどんに尋ねる。
すると霊夢は、橙の様子にだろうか、驚いているような目をひとつ瞬かせた後、ぽり、と頬を掻き、二匹の黒猫を交互に見遣った後、ややして「飼い猫?」と言った。
「か、飼い猫!?」
「うーん、一応?」
「だ、だれの?」
「そりゃ、まあ、私かな」
「れいむの……」
「はーい、一応、お姉さんの飼い猫、お燐でーす。本当はもっと長いんだけどねぇ、まあ、お燐って呼んでおくれよ」
「れいむの、猫……」
「そっちは名前なんて言うん…………って、ちょ、ちょっとちょっと、ちょっと! お姉さん!」
赤髪の黒猫、お燐の、最後の一声は、橙ではなく霊夢を振り返ってのそれだった。くっと驚きに瞳孔が広がった眸を向けられた霊夢も、ぎょっとした顔で、反射的に縁側から腰を浮かせている。
「ちょ、ちょっと、橙。 どうしたのよ」
うーッと、橙は唸った。我慢する間もなく、橙は、泣いていた。ぎゅっと握って顔に押しつけた2つの拳があっと言う間にべたべたになって、気持ち悪い。でも、止まらない。しゃくり上げる代わりに、唸った。どうしてだろう。どうしてだろう。どうして泣いているのだろう。どうして、私は、泣いてるんだろう。どうして、霊夢は、猫を。私じゃない、猫を。
喉がひぃっと鳴った。息がうまく呑み込めない。嗚咽をうまく殺せない。もう一度唸ろうとしたら、やっぱりうまくいかずに咳き込んだ。霊夢が当惑した声で橙の名前を呼んでいる。けれども、橙には、答えるどころか、霊夢の顔を見ることすら、今はできなかった。
奮い立たせた心は、ひしゃげてしまっていた。おのれ黒猫、というお燐に対する対抗心すら、もう思い出せない。霊夢の側にいる猫が自分だけではないということに気づいてしまった橙は、それでもまだ信じていた。例え、そんな猫がいたとしても、それは、そいつが勝手に霊夢のことを好いて、勝手に霊夢の側にいるだけなのだ。霊夢は敵意を見せない限り、誰も拒んだりはしないから。だから、そこにつけこんで、勝手に側にいるだけなのだ。橙のように。橙が、そうしているように。
それさえ真実であれば、まだ橙には勝ち目があった。それさえ信じていられれば。それなのに、霊夢は言ったのだ。お燐が、自分の飼い猫だと。
そんなの、お終いだ。
それじゃあ、お終いだ。
それは、橙には、橙なんかとは違うのだ、と言われたのと殆ど同じ力を持っていた。だって、そうじゃないか。そういう意味じゃないか。勝手に側にひっついてくる野良猫と、選んで側に置いている飼い猫じゃあ、天地ほどの差があるじゃないか。霊夢はお燐を選んだのだ、橙ではなく。
(でも、私は、藍様の式だから……)
泡のように儚い声を、しかし強い声が一蹴した。そんなの誤魔化しだ。方法は幾らだってある。だから、他のどんな要素も関係なく、ただ、橙は選ばれなかった、それだけだ。
(でも、でも。どうして、)
どうして、今なのだろう。どうして、お燐だったのだろう。今であることと、お燐であること、どちらが霊夢にとって重要だったのだろう。お燐が、そんなにも特別だったのか。それとも、もっと別の、猫を飼いたいという積極的な事情が、霊夢にはあったのだろうか。もし後者だとしたら、橙に思い付く理由はひとつしかない。橙には、そうだとしか、思えない。
「ねえ! ちょっと、橙ってば!」
困惑に、少し苛立ちの混じった声が近くで聞こえたのと、ほぼ同時に左腕を掴まれた。
「なんで、いきなり号泣なのよ。わけを言いなさい。私達、なんかした?」
「れ……は、っ!」
ひっきりなしにしゃくり上げているせいで、声が喉に詰まって言葉にならない。うううッ、と橙が唸り声をあげると、ぽんぽんと頭を叩かれた。そろりと目を開けて、霊夢を窺うと、彼女は思いっきり眉間に皺を寄せている。怒っている、そう思って、橙は竦んだが、「ゆっくり喋りなさい」という声と共に、もう一度頭の上に手が乗って、橙は、思いの外、その響きが優しかったことに、逆にびっくりした。びっくりして、一瞬、しゃくっていた喉も大人しくなった。
よし、と霊夢が目を細める。
「で、どうしたの」
「……ぅっ、 あの、 あの、ねっ、れ、…ッ……むっ。 れ、れぃ、 れむ、」
「…………違う名前みたいね」
「ぅ、ごめ……っ、あの、 のっ、れ・いむ、 わ、 わたしの、こと、……ぅえっ、 きらい?」
「へ?」
「き、 きらい? もぅ、きらい? ……ぁ、それとも、ず、と、きら、 だった?」
はあ?と口を開けた霊夢は、心底何を言っているんだという顔をした。眉間の皺が、訝しげに一層深くなっている。
「意味わかんない。何の話よ?」
橙は俄にカッとした。 しらばっくれている!
他に理由なんて、あるわけがないのに!
「ねこ、かった!」
橙が叫ぶ。
霊夢の後ろで、お燐が「ぁー…」と声を漏らした。霊夢はちらりとお燐を振り返る。眉をハの字にして、少し開いた唇の口角は上がっている。困り顔の、微苦笑だった。お燐には、橙の言わんとすることが大体理解できたらしい。霊夢にはさっぱりだった。
「ね、本当に、意味がわからないんだって。私が猫を飼ったことが、何だって言うの」
橙は何かを言いかけたが、やはり言葉にならなかった。先の一言で、また感情が高ぶって、涙がぶり返してきたのだ。ひくひくと喉をしゃくり上げている。
「だからねぇ、お姉さん。 そのお嬢さんは、あたいが、自分を追っ払うために飼われた猫なんじゃないかって、心配してるのさ」
泣き止む様子も見せない小柄な黒猫と、珍しく弱り顔の立ちんぼう巫女。
見かねたのだろう、お燐が口を挟んだ。そうなのかと、霊夢が尋ねる必要はなかった。びくりと大きく橙の肩が揺れたからだ。
「そういう場合も、あるだろう。もちろん違う場合もあるさ。けど、そこのお嬢さんは、きっとそうなんだって、思っちゃったんだねぇ。 お姉さん、動物なんて飼わない人なんでしょ。 それが、ほら、知らない内に、いきなり動物を飼いだした、それも自分に形が似てると来たもんだ。 そりゃ、一度は変な想像だって廻らしちゃうってもんさ」
今回はそれが悪い方に転がっちまった例だよ。 そう言って、湯呑みに残っていたお茶をぐいっと飲み干すと、お燐は、酒でも飲んだかのように、ぷはーと息を吐いた。
悔しいけれど、それをお燐に、ある意味全く無関係の、しかし橙としては問題のど真ん中にいる件の動物に説明されてしまうのは、本当に情けないくらい悔しかったけれど、お燐の言う通りだった。橙の不安は正にそこにあった。霊夢は来るものを拒まない。だから、橙が神社に遊びに来ても邪険に追い払うことなんてなかった。だけど、本当は。心の中では。
橙のことをとても邪魔で迷惑に思っていたのではないか。
鬱陶しくてたまらない橙を、猫を飼うことで追い払おうとしたのではないか。
だから、これまでずっとどんな動物も飼っていなかったのに、いきなり猫を飼うことしたのではないか。
それは言い換えれば、今まで飼ったこともない動物の飼育を決意するくらい、橙が迷惑だった、ということでもある。それほどまでに、霊夢は、橙が嫌いだと、いうことである。
「橙……」
顔をあげて、と言われたけれど、橙はそれを無視した。霊夢の顔を見るのが怖い。今頃気づいたのかと呆れられていたらどうしよう。今、お燐が仄めかしたように、本当は違うのだろうかという、ちいさな期待の灯は確かに橙の胸にともっていたが、それならそれで、なんて馬鹿で考えの足りない奴だと嫌な顔をしているかもしれない。あるいは、実はそんなこと、ちっともないのかもしれなくて、橙の考えていることは全部被害妄想で、それは霊夢にとても失礼なことなのかもしれなかった。でも、そう思ってはみても、やっぱり、怖かったのだ。
いつまでも俯いたままの橙に、霊夢はそっと息を吐いた。
「あんた、そんなことで、びーびー泣いてたの? 私が、あんたを嫌って、追い払おうとしてるかもしれないと思って? そんなことで?」
「そんなことじゃない!」
弾かれるように橙は顔をあげた。霊夢の服の袖を掴み、ぐっと身を乗り出して「そんなことじゃない!」と繰り返す。そうして、霊夢の丸く開かれた目が何度も瞬くのを見つめている内に、少し冷静になった。
「……ぁ」
「今のは、お姉さんが悪いねぇ」
「五月蠅い、お燐」
お燐を睨め付ける霊夢の顔を窺いながら、橙はそろそろと袖から手を放した。今霊夢は、舌打ちでもしそうな顔をしている。でも、それはお燐に対してで、橙にではないようだということくらいは、自分にだって判る。さっき、私が顔をあげた時、れいむはどんな顔だったっけ。前後の自分の言動が反射的なものだったせいか、思い出せない。
現金なもので、見たくないと思っていた癖に、思い出せないとなると、それはそれで残念だった。
じっと霊夢の横顔を見ていると、不意に彼女が橙に向き直った。ばっちり目が合って、橙は意味もなくぴんと背を伸ばす。のだけれども、目が合うや、ふうううぅぅぅぅうううと霊夢が特大に長い溜息をついたので、しおしおと背中が勝手に丸まった。ぺたりと耳が寝たのが判る。
「あのね、橙」
「はい……」
「こいつ、このお燐を飼えって言ったのは、あんたんとこの紫なのよ?」
「えっ!? 紫様が!?」
「そう、その紫様が。 それに、飼ってるたって、うちは借宿みたいなもんなのよ。こいつの本当のご主人様は地底にいるの。 紫に聞いてないの?」
ブルブルと橙は首を振った。それから、お燐に目をやると、お燐は片手を振りながら肯定の頷きを返してくれた。どうやら橙は、霊夢だけではなくお燐に対しても、色々失礼なことを考えていたらしかった。
橙は、ごくりを息を呑む。
「じゃ、じゃあ、れいむは、私のこと、嫌いじゃないの? 鬱陶しいとか、迷惑とかじゃ、ない?」
「強いて猫飼ってまで、追っ払うとは思わないわね。 あんた追い出すなら、先にあのスキマ妖怪追っ払う方法考えるわ」
途端、
橙の顔が、ぱああと輝いた。
それから、ぶああと涙を噴き出した。
霊夢があからさまに顔を引きつらせたが、幸い橙は、自分の顔も霊夢の顔も見ることはなかった。霊夢が後退するより早く、両手を広げて、抱きついている。
「れいむうううううぅうっっ!!」
「それは、タックル…………ッ」
ぐううと、霊夢の喉から低い呻き声が漏れたが、橙はちっとも気にならなかった。ぐりぐりと頭を霊夢の服に押しつけた。嬉しい嬉しい、本当に良かった。ほっとしたのか、嬉しいのか、なんだか色んなものがないまぜになっていて、何が一番の理由なのだか判らなかったけれど、とにかく橙はまた泣いた。こんなに怖い思いをしたのは、初めてかもしれなかった。
「ちょっ、橙、離れてっ……離れろ!この化猫! ちょ、い、いや、服に、服を涙で汚す―――ッちょ、あんた、鼻水出てんじゃない!! 離れて! いや、マジで離れろって!! ああっ、濡れ、濡れてるのがッ、滲みてッ い、いやぁああ! ……お燐!お燐!今こそ、あんたのちか……お燐!!? どこ行ったッ、あンの馬鹿猫ぉおおおお!!!」
がっちり腰をホールドした橙の頭上で、霊夢が本気で嫌な顔をして藻掻いていたが、やっぱり橙はその顔を見ていなかったし、何やら酷く激しい言葉も辺りに響き渡っていたようなのだが、霊夢のぬくぬくとした香りと体温を感じていると、もうねむたくって、ねむたくって、彼女の言葉がよく聞こえない。ああ、いっぱいお話もしたいのに、でも、眠くって、我慢するなんて考えられなくて、だからそのまま橙は
――
目を覚ますとしこたま叱られた。それはもう叱られた。尻尾が揺れるだけで叱られた。あんまり怖かったので、食べないでおいたおやつ(生節)を差し出すと、霊夢はそれをじっくり検分した後「あら、いいものじゃない」と言って、丸ごと台所に持って行ってしまった。はんぶんこ……。
でも、霊夢の大事な巫女服を涙と鼻水でベタベタに汚して(と霊夢は言ったけれど、橙は多分あれだけわーわー泣きながら顔を押しつけていたんだから、涎だってべたべただったんじゃないかなあと、叱られながら思った。もちろん、言わなかったけれども)、あまつさえそのまま寝てしまった、橙が悪い。でもなんだか、やっぱりちょっと橙はしょんぼりする。
「橙ー、お茶飲むー?」
「飲むー!」
急に幸せになった。
冬なのに、出てきたお茶は熱いものではなかった。急須から発せられる熱はなく、今沸かしたものではないようだったけれども、橙にはそれが、単なる作り置きか、あるいは、わざと作り置いてものなのか、そこまでは判らなかった。
偶然だろうか。
それとも、猫舌の誰かのため、だったのだろうか。
「ねえ、れいむ」
「んん?」
「私も、お燐も、おんなじだよね」
「おんなじ?」と反芻しながら繰り返す霊夢の顔は、橙の言葉の意を計りかねているようだった。橙は、うん、と頷く。
「おんなじ、猫だよね」
霊夢は「ああ」と言った。どういう「ああ」なのかは、判らなかった。
「確かに、あんたら、似たような耳と尻尾してるわね。 そう、私なんか、別にそんなことどうだっていいんだけど、でも、どうなんだろうなあ……」
霊夢は湯呑みを持ったまま両肘を卓袱台について、指先で湯呑みの縁をなぞりながら、ううんとうまい言葉を探しかねたように首を捻った。
「猫科っちゃ猫科だろうけど。違うと言えば、猫止めてるっちゃ止めてるし」
お燐は、猫又じゃなくて火車だよ。と、霊夢はそう付け加えた。
「かしゃ……? お燐は、猫又じゃないの? 猫を、止めたの?」
疑問を飛ばす橙を前に、霊夢はちょっと困ったような顔をした。分野が違う。彼女の分野はあくまで妖怪退治であって、妖怪談義ではない。妖怪は所詮妖怪でしかない霊夢にとって、後者は然程重要なものではないのだ。言葉の歯切れが自然悪くなるのも、殊その方面においての自分の知識が、虚実入り交じる自己解釈込みの曖昧模糊としたものでしかないことを、霊夢自身が自覚しているからだ。
「そういうことは、帰って紫にでも聞いた方が、よっぽど良いと思うけど……」
「やだ。……ねえ、猫じゃないの?」
「いや、まあ、本人も猫だって言ってたから、元は普通の猫だっただろうし、猫又だったでしょうよ。でも、お燐は、火車に、成ったんだ。元の器が猫だったからと言って、その性質を引き継いだからと言って、それは、猫か?猫又か? ……化猫、と言うのは、正しいかもしれないけど、橙、あんたが、猫が化けたものなら、お燐は、猫に化けたものだよ」
霊夢は湯呑みに新しいお茶を注ぐ。
「滝を昇って鯉は龍に成るって言うけど。じゃあ、そんな龍が鯉に姿を変えたとして、それは本当に鯉かしら。それは本当の、鯉かしら。どんなに姿形を繕ったところで、所詮、龍は龍。鯉じゃない。龍が、鯉に化けただけのこと」
鯉は龍に成る。でも、龍は鯉に成れないのと同じように。
猫は猫又に成る。でも、猫又は猫に成れないのと同じように。
猫又は火車に成るけれど、でも、火車はもう、猫にも猫又にも成れはしない。
姿形などどうにでもなる。けれど、不可逆の理だけは、誰にもどうにもできない。そこには人間と妖怪の差さえない。人間だって魔法使いに成れるけれど、魔法使いは人間には成れないのだから。
「うぐ、ぐ」
しかし、橙にはやはりよく判らなかったらしい。喉の奥で潰れたような声をあげて、机上の一点を睨み付けていた。二本の尻尾が右へ左へ忙しなく動いて畳を叩いている。橙なりに理解しようと必死なのだ。
「ね、猫は、猫に化けません」
「あ、うん?」
橙に丁寧語を使われるのは初めてだった霊夢が目をぱちぱちさせていたけれど、一方で頭をぐるんぐるんさせていた橙はもちろん気づかない。
「猫に、化けるのは、猫じゃない」
橙の頭の中で、何かがぴかーッと光った。ばっと顔をあげる。
「だからお燐は、猫じゃない!」
霊夢は、ずずとお茶を啜った。啜る振りをして、一瞬視界から橙の顔を消した。罪悪感を覚えるほど、橙の顔が輝いていたからだ。色々大事なものを端折っていそうな三段論法だなとも思う。でも、橙の中では、それはすっかり真理になってしまったようであることが傍目に明らかだった。霊夢にしては珍しく、ややぼそぼそとした物言いで、
「いや、そこまではっきり言い切られると……。……、私の思い込み、勘違い、嘘知識かもよ?」
とは言ってみたが、返す橙の言葉はやたらはっきりとしていて、「それは問題じゃないんだ」と言う。いやあ、割と問題でしょうと霊夢は呟いたが、両目を輝かせ、頬を僅かに上気させた橙には届きそうになかった。しかし、まあ、こんな橙に新に話を聞かせようというのも、多大な労力を要しそうだったので、霊夢はもういいことにした。橙が、こんなにもテンションを上げる理由も、そうして嬉しそうな理由も、霊夢にはいまいち判らなかったが、それも全部引っくるめて、もういいことにした。
「れいむ! お燐は猫じゃないんだよ!」
「そうだねー」
「でも、橙は猫なんだよ!」
「そうだねー」
「ここには、橙しか猫がいないんだよ!」
「そうだねー」
そこで、霊夢は、少しだけああなるほどと考えた。大袈裟過ぎると思った、昼間の橙の行動も若干理解できる気がした。
つまり、要は、縄張り意識。
どんな動物にも縄張りがあると言う。橙にとって、猫の目で世界を見渡した時、この博麗神社は、橙の縄張りなのだろう。しかし、霊夢が猫を飼えば、どうしたって自動的に勢力図は書き換えられる。この神社は、橙の縄張りではなくなってしまう。博麗神社の正統な主である博麗の巫女が、ここはお前が足を踏み入れて良い場所ではないよと本気で断じてしまえば、もう橙にはどうにもできない。なるほど、そういうことだったのか。
(いやいや、勝手に猫の縄張りにされても困るんだけど……)
おかわり!と突き出された湯呑みに、次から自分で注げと言いながら急須を傾ける霊夢は、ちらりと橙に目をやった。お花畑みたいな顔をしていた。それほど笑顔が輝いていたという意味ではない。頭の中に咲き広がる花畑が見えるような顔だった。
霊夢に追い出されたのではないと判っても、やはり自分の縄張りに他の猫が住み着くということが、痼りになっていたのだろうと霊夢は分析する。
(私の神社なんですけど……。 猫の縄張り意識って、こんなに強いんだ。 しかし、まあ)
しかし、まあ。さっき、全部引っくるめて、もういい、ということにしたのだ。自分のあずかり知らぬところで、自分に迷惑の掛からない範囲で、勝手にされている分なら、害もあるまい。面倒臭いので、霊夢は放っておくことに決めて、ずずり、再びお茶を啜った。
橙はご機嫌だった。それはもうご機嫌だった。だって、とっても良いことが判ったのだ。霊夢は自分の知識は間違っているかもしれない、ただの思い込みかもしれないと言った。だけど、本当にそんなことは問題じゃないのだ。なぜなら、これは、百人が是と答える真実である必要はないからだ。ただ霊夢ひとりが是と答えれば、それで橙には十分な、橙のための真実だったからだ。百人がお燐のことを猫だと言っても構わない。ただ霊夢がお燐のことを猫じゃないと言えば、霊夢にとって、お燐が正真正銘の猫という生き物でないのなら。
橙こそが、霊夢にとって、猫であるならば。
いつの間にか、ぐるぐると橙の喉が猫の音をたてていた。すると霊夢が呆れたように「あんた、ほんとに猫なのねえ」と言うので、橙は何度も頷いた。そうだよ、そうなんだよ、猫なんだよ。ねこだから、しあわせが、がまんできないんだ。
橙だけが、霊夢にとって、猫であるならば。
(お燐は猫じゃないんだよ。
でも、橙は猫なんだよ。
ここには、橙しか猫はいない。
れいむの側には、私しか、猫はいない)
やっぱり、霊夢の猫は橙だけなのである。
橙はもうすっかり満足して、喉をごろごろ鳴らしながら、卓袱台の上に頭を擦り付けた。ちょっと寝ないでよ、という声が聞こえる。そんなのむり。ぜんぜんむり。猫はお腹が張ったら寝るものなのだ。だからむり。おなかいっぱい。しあわせで、いっぱい。
泣き顔で抱きつきグリグリしてるのを必死に離れさせようとする霊夢の
言葉や反応とか面白かったですよ。
あと、文頭の一字下げはやったほうがいいっすよー。
そして最後に一つ言いたい。
なにこの期待の新人。
最初の一行がブボボモワッに見えた
一瞬、擬音語かと思ってしまいました。
いえ、素晴らしいお話です。この橙は少し愛らしすぎます。
橙も可愛いし、良かったです。
おかわり希望~!
……ふぅ、いい話でした(何
橙視点と第三者視点が混在してるので
この長さの文章だと、どちらかに定まってるともっと良かった気がします。
まぁあくまで個人的な感覚ですが。
次回作もあるなら期待してます。
あと、盲信レベルの愛情にちょっと引いたw
いいねこれ
やっぱ猫って良いですな。
次回作はおりんりんれいむですね。期待してます。
このシーンがまじやばい。どんくらいやばかったかというと悶えてるうちに椅子から落っこちたくらいやばかった!
ちぇんと霊夢の相性がこんなによかったとは……
ネタもいいし、橙も可愛い!
ただ、惜しむらくは文法とか句点などなどなどが致命的すぎました。
さすがにこれに100点は他の作者さんに悪いのでこの点数を、今後に期待です。
一生懸命な橙がとってもかわいかったです。
お燐も良い子だし読んでて2828が止まらなかった!
「ねこのきもち」を教えてくれるお燐も、優しくていい感じ。
独特の丸みのある表現で、それぞれの視点をつないでいるところも、読みやすかったです。