※この作品は、作品集84内の「好きという言葉」の蛇足である、同じく作品集84内の「あなたの好きな人」のさらに蛇足の物語となっております。
読者様を限るようで非常に恐縮ではありますが、まずそちらをご覧になったううえで、過度の期待を捨ててから読み進められることをお勧めします。
蓮子が突拍子もない事を言ったせいで、一瞬耳鼻科に通うことを本気で検討してしまった。
「と言ってもあんまり高いお店は無理なんだけど……」
「――いや、待って蓮子。あなた今なんて?」
「え? ああ、だから今番おごってあげるから、どこか食べに行こうよ、と」
しかし言質を取ることで頭の中から計算した通院費を削除する。
今月は、ここ数日間食費が一人分ではなかったからちょっとだけお財布の中が寂しくなっているのだから、あまり焦るような事を言わないでほしい。
……それにしても、
「どうしたの? 蓮子」
「え、何が?」
「だってたまのタクシー代だって惜しむくらいなのに。今日はご飯を御馳走してくれるだなんて、いったいどんな風の吹きまわしなのかしら」
「ん、まあそうなんだけどさ。でもここ最近ずっとお世話になってたし、今朝なんて要らない迷惑までかけちゃったし。そりゃまあ、ね」
「それはまた殊勝な心がけね」
言いつつけれど、でも、と心の中で思う。
でも、今日はできればもう蓮子と一緒にいたくないな、と。
昨晩は自分の想いの先のなさ加減を久しぶりに再認識してしまったし、その後のやり取りのせいで一晩眠ることができなかった。そして、とどめをさすかのようにバス停でのやり取り。
蓮子の事を嫌いになりなんてできなかったけれど、それでも今日はもう、一緒にいて嬉しい気持ちにはなれないだろう。蓮子の一挙一動に心身を摩耗させながら、自分の言動にボロが出てしまわないかに気をつけることで頭が一杯になってしまいそうだ。
その提案だって一週間前なら二つ返事で頷いていたのに、今は一週間後だって渋りそうな心境だ。
善悪はひとまず置いておくにしても、今の私の中で蓮子が占める割合はちょっと大きすぎるから、少し落ち着く時間がほしかった。
断りたい。
断るべきだろうか。
……けれども昨日一晩中眠れなかった鬱憤は、レポート書くとか言ってのうのうと力尽きていた人に既にぶつけてはいる。そうそう、ついでに言うなれば、あれは八当たりではない。蓮子のせいで眠れなかった恨みを蓮子に晴らしていたのだから、私は無罪であると言える。正義は我にあり。
しかしとは言え、あれが蓮子にとって完全に理不尽な行いであったことは否めないのだから、やはりそのことをいつまでの引っ張っていてはいけないと思う。
それからバス停での件もそう。私は嘘をついたけれども、あれは嘘なんかじゃない。嘘だけど、ほんとうのことを私は口にしたのだ。……だから、あのことまで例に挙げて蓮子を避けるのも理屈としておかしいと思う。
それに、そもそもだ。
……もし、ここで蓮子のお誘いを断ることで、彼女に悪く思われたりなどは、しないだろうか?
そりゃ、いつもならそんな事をあまり深く気にしたりなんかしない。
けれども、今日は蓮子が珍しく「奢る」とまで言ってご飯に誘ってくれているのだ、裏がある……とまでは思わなくても、その行為を無下にするのは少なからず躊躇われる。
私は、だって……蓮子が嫌いなわけでは、ないのだから。
「それとも、今日は無理?」
思いがけず、ずいぶんと黙りこくってしまっていたらしい。
蓮子は不安そうなまなざしで私の顔色をうかがった。
「え、ううんっ、なんにもないわ。大丈夫、行きましょう?」
だもんだから、ついつい蓮子の提案を、こんなにも悩んでおきながら結局二つ返事で承諾してしまった。
私の蓮子に対するガードは甘いのだが硬いのだか分からない。
「それで、どのお店にお邪魔する?」
頭を抱えたい気持ちをごまかすためにも、話を進める事にする。
いま私たちは大学の敷地から出ようとしているところだ。
私たちの大学はどちらかというとやや郊外に位置しているため、飲食店に限らず、全体的にお店の数は中心街と比べてやや少ない傾向にある。ただ、そのぶん学生を対象としたサービスが豊富で、割引やメニューの追加なんかで安さや回転率で勝負する中心街に対抗している。
かくいう私たちも、大学周辺の飲食店には喫茶店から飲み屋さんまで、そこそこの行きつけのお店がありはするのだけれども、もしも蓮子のお財布事情が割と悲惨なものであるのなら中心街まで足を伸ばすこともあるかもしれない。それでも、交通費を考えたらあまり大きな差はないのだけれども。
思いがけず図書館に長居してしまったため、空はもう橙色に染まっている。それが季節の補正で早まっているとしても、夏至はもう二か月も前に終わっているし、飲食店に入るのならやはり混雑する前の方がいいと思う。
それらのことを考慮しての先の問いだったけれども、彼女は「そうねぇ」と前置きして結局ここから程なくして歩いてゆけるお店の名前を口にしたのだった。
「――というかそこ、居酒屋じゃない。下手なファミリーレストランに行くよりお会計高くなるわよ?」
「まあたまにはね。民宿まえりべりーに泊まったのだと思えば安いものだわ」
「ええ、こちらとしても特に利益目的じゃなかったのだから流してもいいんだけどね、蓮子? その民宿まえりべりーは三百六十五日、いつ何時もお客様のご来訪をお待ちしているわけではないのよ?」
宿泊を当然のように思われては困るわ。主に精神的な理由で。
「まあそんなことはともかく」
「ともかくとしないでよ」
「早く行こうか」
「……はぁ。ええ、行きましょう」
たとえ理由が蓮子の私に対するお礼なのであったとしても、奢ってもらうのは私の方。
こう言い進められたのなら、黙って従うほかない。
二人並んで目的のお店にむかって歩を進める。
それはいつも通りの私たちの構図……のはずなのに、なぜだか今日はぎこちない。
いや、なぜもなにもないだろう。思い当たる節はいくらでもあった。
昨晩のこと、今朝のこと。別に一つ一つ事細かに脳裏によぎるわけではないけれども、眠れぬ夜は確かにあったし、胸の痛みは今もなお続いている。それだけじゃない、そのほかに隣を歩く蓮子の細かな仕草が気になるし、そんな自分の仕草が不自然なものになってしまっていないかだってやはり当然のように気になった。
一歩歩くのだって、腕の振り方が気になってしまう。
目線一つ取ったって、いつもはまっすぐ前を向いていたのか、それとも俯きがちに足元に卸していたのかすらも分からない。そんな、普段は意識していなかったことすら気になりだして、結果として余計におかしな挙動に変わってしまっていそうで、さらにがちがちになってしまう。悪循環だ。
気がつけば、私たちの間には沈黙があった。
この心が気付かれませんように、悟られてしまいませんように、と願う私にとってその露骨な居心地の悪さはもはや拷問のようで、どれだけ歩いても変わらない沈黙を、せめて蓮子が親しさゆえの心地よいものだと誤解してくれることを祈るばかりであった。
……居酒屋じゃない、と一度は渋って見せたものの、こうなって来ると早くお酒を飲みたいという気持ちが強まってくる。
お酒さえ飲めば、アルコールさえ入ってしまえば、またいつものような表向き遠慮のない関係に戻れるに違いない……そんな根拠のない期待をしてしまう。
私たちは、いつもこんなにも遠かったのだろうか。
ふと、そんな考えをしてしまう。
私たちの関係は、はたして間に何かが挟まっていないと互いに楽ではいられないような、そんな浅い関係だったのだろうか。
そう思ってしまうのは、間違いなく私が余計な感情を彼女との間に挟めているからではあるのだろうけれども、でもそうだったとしても、じゃあ蓮子の方から会話が無いのはなぜだろう? 彼女が私を気にしていないのなら、少なくとも彼女だけはいつも通りでいてもいいのではないのだろうか?
無茶苦茶な理論だと言うことは、頭では分かっている。逆にいえば、蓮子は私を気にしてくれているからこそ、不自然でしかいられないのだと思うから。いや、もしかしたら私のことではないのかもしれないけれども、けれどもたとえ自惚れでも、他にここ最近彼女の注意をひくような事はなかったはずだから。
ああ。
やっぱり八当たりだった。
思い切って彼女の様子を伺うと、蓮子は器用な事に夕焼け空を見上げながら歩いていた。
彼女はあの場所に何を見ているのだろう。空はまだ、その瞳に特異なものを映す色ではないと言うのに。
……彼女の瞳に、物は、私はどのように映っているのだろう?
お互いに奇異な瞳を持つ私たちではあるけれど、私と蓮子の見ている世界は別口だ。
蓮子は私の瞳を時に気持ち悪いとすら言ってもてはやす。だけど、私にとっては蓮子の瞳が映す世界の方がずっとおかしくて凄い、気持の悪い物のように思える。
私の瞳が境界を映すと言っても、それは三次元的な視覚情報の中に異常を見ているだけのことである。家を見ていたら窓からその内側を覗けてしまえるように、町中の一部に森が見えてしまうようなものである。
けれど、蓮子の瞳は違う。
月と星に位置と時刻を見るのだと彼女は言うけれども、それは一体どういうことなのだろう?
太古の船乗りがもっていたような星見の技術とは一線を画すものである事は、すでに何度か目の当たりにして知っている。もしかしたら彼女が私に優しい嘘をついているのではないかと疑って、時に黙って、時に頼んで確かめさせてもらったから。あれは単に星や月から辺りをとっているなんて正確さではなった。位置に関してなど、彼女はたびたび自身も知らないような土地の名前を口にするのだから。
では、彼女の瞳に映っている世界とは、一体どんなものだと言うのだろうか?
私のような視覚情報の受信幅の差が広い、なんてレベルの話ではない。人は脳でモノを見ていると言うけれども、彼女はその脳に無いものすらもその目で見ているという。
彼女に見える特異な情報が三次元のそれでないと言うのなら、じゃあ彼女が普段見ている世界もまた、三次元的な物の見え方ではないと言うのか。
彼女の瞳には、何が見えているのだろう?
彼女の瞳に映る私は、はたして私なのだろうか?
彼女に私は、いったいどこまで、どんなふうに見えているのだろう?
分からない恐怖、知らない恐怖、知られる恐怖、分かるからこその恐怖。
追い詰められ気味の思考が、突拍子もないことを考えてさらに自分を追い詰めてしまっているのだろうと言うことは、なんとなくわかる。
分かるけれども、そんな寄り道遠回りをしてまでも自分の彼女に対する見え方が気になる私がいた。
「メリー?」
蓮子の声だ。
後ろめたさに肩が跳ねる。
「……もうお店ついたけど、どこまで行くの?」
言われて、いつの間にかうつむけてしまっていた視線を上げると、確かに蓮子が口にしたお店のある通りで、振り返れば呆れを隠さない蓮子の顔とお店の入り口が確かに見えた。
「ああ、ごめんなさい。ちょっと考え事してて……」
「あー……それでずっと黙ってたの?」
確かめるようでいて、それでいてどこか申し訳なさそうな声。
それが理由を探しているからだろうと思うのは、考えすぎだろうか。彼女も私と同じようにあの沈黙を耐えがたく思い、だからその沈黙に私のせいという理由を付けたがっているのだと感じるのは、願いすぎだろうか?
私は蓮子にイエスを返して、その隣へと戻る。
これでいつも通りになれますように、と。
「あ、店員さん注文お願いしまーす。えっと、このホウレン草のサラダとこっちの鶏肉のと……メリーは何を飲むか決めた?」
「そうねえ、とりあえずウーロン茶でも」
「じゃあそれ一つと、モスコミュール一つ。お願いします」
そう言って蓮子は手にしたメニューをパタンと閉じた。
蓮子とは言ってきたこのお店は、普段からお酒を飲むときには割と頻繁に利用させてもらっているお店だった。ただ、居酒屋と言ってもお酒よりもメニューの方に力を入れていて、私の中ではどちらかと言えば食べるためのお店という位置づけにある場所だった。
ではだからと言ってお酒の種類が少ないのかと言えばそんな事もなく、味も量も種類も値段も、少なくとも蓮子が満足するだけはある。それでいて内装が大人しめ、料理がおいしいと揃っているのだから人気が出ないはずがなく、特に狙い目であろう大学生とその内装と味から女性客からの評判は高いと聞く。
ただ、今日は未だ大学は夏休みということもあってか客数はいつもと比べれば少ない。
「今日はあんまり待たなくてもよさそうね」
同じように店内を見回していた蓮子が呟く。
「いつもは他のお客さんのご飯を羨ましく見てたけど、今日はあんなひもじい思いをしなくてもすみそうだわ」
「ええ、そうね。でもできれば今日だけじゃなくて明日以降もそんな目で他のお客さんのお皿を見ないでね」
切なくなってしまうわ。
心の中で一言付け足して、そんな事を思える自分の余裕に気付いて驚く。
来る途中まではあんなにも悶々と悩んでいたのに、いざ口を開けば普段と同じ自分がいて、そのことに安心を覚える。
少し深く考えすぎていたのかもしれない。
考えてみれば今までだってずっと同じ気持ちを抱いて一緒にいたのだ。たとえ何か色々あったとしても、そう簡単に変わってしまうほど自分や、自分たちの関係は軽いものではないはず……そう思うと今までずっと怖がっていた自分が恥ずかしく思えてさえ来る。
そう。
私たちの関係は、好きと言い合ってなおも何ら変わりなかったじゃないの。
思わず笑みさえこぼれてくる。
「メリー? どうしたの?」
胸の内で溜息をついていると、蓮子に笑っているところを見られてしまった。彼女は店員さんが持ってきてくれたドリンクを受け取り、手渡してくれながら怪訝そうな顔をするけれど、私はそれを「何でもないの、ただの思い出し笑い」と言って流した。
さっきまでの自分を笑っていたのだから、少なくともウソにはなりはしない。
「何、なんかあったっけ?」
「ううん。なんにもないんだけど、つい思い出しちゃって」
「ああ、あるある。泡みたいでたまに困るのよね」
「あわ?」
「そう。突然浮かんできて、パチンとはじける。中には何も入っていないのだけれども、気付いてしまった人にとっては泡がはじけたことだけは確かに残る……絶対笑っちゃいけないようなところで来ると本当にどうしようもないのよね」
「斬新なたとえね」
でも、何もない、か。
それはとても言いえて妙だ。
「さて、それじゃあ乾杯」
蓮子はそう言って自分のグラスを持ち上げて、私もそれに応じる。
何に対して? なんて事は藪蛇になりかねないのでいちいち疑問に思ったりなんかしない。
「乾杯」
カチン、と小さくグラスが鳴った。
と思ったらついでに蓮子の喉も鳴っていた。
毎度毎度食べる前からよく飲むものね、といっそ感心してしまう。
モスコミュール、ってあれよね。たしかウィスキーをベースにしたカクテル。
アルコール度数だって低くはないはずなのだけれどもねぇ……。
そう思いながら、自分のグラスはテーブルに置き直す。ソフトドリンクの人がグラスを置いて、カクテルの人がみるみるうちにグラスを空にしているだなんて、相変わらずちぐはぐな光景だろうとも思うけれど。
ちなみに、ともすれば一気飲みにも見える蓮子の飲み方だけれども、私に合わせているのかあれでおかわりのペースは遅く無茶な飲み方はしないし、何度も来ていてその辺含めて顔を覚えられてしまっているのか、特に店員さんに注意を受けると言うこともない。
一歩間違えれば危ない飲み方なのでしょうけれどもね。
この店と蓮子の危機意識に若干の不安を覚えてしまう。
やがて料理が運ばれてくる頃には当然の如く蓮子のグラスは空になってしまっていた。
最初に思った通り、今日はやはり料理が運ばれてくる時間が早い気がしたけれども、その早い時間でモスコミュールを一杯空けてしまうのはどうかと思う。
ただ、運ばれてきた料理を前にして嬉々として両手を合わせてお箸を構える辺り、どうかしているのは自分ではないという錯覚さえ覚えてしまう。
あれって、実はあんまりアルコール重くないのかしら?
お酒はあまり飲まないから分からないけれども。
「いっただっきまーす」
なんて、そうこう考えているうちに蓮子がサラダに箸を伸ばすから、私もあわててウーロン茶で口を湿らせて、いただきます、とサラダをつまむ。
と言っても蓮子のグラスが空っぽなのが気になってしまうから、どちらかといえば箸よりもグラスに口をつける方が多く、サラダの大半は結局蓮子の胃袋の中におさまる結果となった。
「それにしても」
私が思わず言葉をこぼすと、蓮子がサラダを頬張ったまま首をかしげた。
「ここ、ウーロン茶の仕入れを変えたのね。なんだか変わった味がするわ」
最後に来たのはいつだろう? と、ふと疑問に思う。私の記憶が確かなら、一度夏休みに入った後に蓮子と一緒に着た覚えがあるのだけれども、その時はなにも不思議に思わなかったはず。
「最近変えたのかしらね」
「へぇ、それはちょっと飲んでみたいわね」
最後の一口を喉に流して呟くと、ようやく飲み込んだらしい蓮子はそう言って、すみません、ともう一度店員さんを呼び寄せた。
「カシスオレンジと……」
「ウーロン茶をもう一杯」
「を、お願いします」
かしこまりました、と最後に注文を復唱してグラスと一緒に店員さんは去っていく。
「お茶来たら、私にも一口頂戴ね」
すれ違いで運ばれてきた料理を受け取りながら、蓮子が言う。
「ウーロン茶なんてどれも変わらないと思ってたけど、メリー言うなら相当なのね」
「どういう意味よ」
「だってメリー、どこにいってもウーロン茶ばっかり飲んでるわよね? それが今日はわざわざ味が違うなんて言い出すんだもん」
「……お酒は苦手なのよ」
「責めてるわけじゃないってば」
お酒は飲むとすぐに頭が重くなってしまう。
量を飲めないわけではないのだけれども、早々に酔っぱらってしまうのであまり進んで飲みたくはないのだ。一度お酒で大失敗をして以来、どうにもトラウマになっている。
吐くほど飲めば強くなる、なんてよく聞くけれど、そもそも吐きたいわけじゃないのよね。
本末転倒というか、頭の痛くなる話だわ。
「ところでさ、メリー」
名前を呼ばれて彼女を見る。
と、タイミングの悪い事に、そこで頼んでいたドリンクが来てしまった。
蓮子はその両方を受け取って、自分の分はテーブルに置き、私の分はそのまま手に持ったまま「一口貰っていい?」と聞く。
「それは構わないけれど……今何か言いかけなかった?」
「うん、あのね……あ、やっぱり」
私のウーロン茶を一口飲んで、蓮子は何か言いかけて止める。何がやっぱりだと言うのだろうか。
「うん、まあとりあえず飲んでみてよ」
疑問に感じていると、そういって私のグラスを渡される。
何かと思って私もまたウーロン茶を口に含んで、
「……間接ちゅーでした」
「げほっ!」
盛大にむせてしまった。
器官に入ってしまったらしく、なおもゴホゴホとせき込んでしまう。
そんな私を見て蓮子も最初はあははと笑っていたのだけれども、だんだんと罪悪感がわいてきたのか、大丈夫? と背中をさする気か手を伸ばす。
けれども、流石に今のは軽く腹が立ったので、その伸びてきた手を思いっきりつかんでやる。
「れんこ……」
「あ、いや、冗談というか、だってあんな盛大に噴き出すとは思わなくって――」
「れんこ」
「……はい、ごめんなさい」
蓮子は素直に謝るが、それでも私の気は収まらない。
なぜなら被告人は、自分の犯した罪の重さに自覚がないから。
だから私は精一杯、刑罰執行のつもりで彼女のその柔らかい腕をぎゅうっと握りしめる。
せめて自分のしでかしたことがどれだけ重いのか伝わるように。
けれど、いつまでもそうはしていられない。
本当に伝わってしまっては困るから。
「あのね、蓮子」
適当に茶化さなければならない。
「――そう言うことは、あなたの好きな人に言ってあげなさい」
「なっ!」
ジト目を作って睨みつけてやると、蓮子の顔が面白いように赤く染まる。
昼間はさんざん人の事を好き勝手言ってくれたけれど、案外自分の事を言われると弱いらしい。
反面、私は何を言っているのだろうと思わないでもない。
そんな事を口にしたって、私には何も良いことなんてないのにと。
そう思わないでもないけれど、口にしてしまった事は変えられない。
せめて冗談に形にして、意味のないものにするくらいしかできない。
「蓮子に言われて惚れてしまわない人なんていないから」
根も葉もあって花だけ咲かない言葉を口にすると、蓮子は「それはどうかなぁ」と視線をそらした。
「少なくともメリーには効かなかったみたいよ?」
どんな顔をして言っているのかは分からないけれども、その声は微かに力ないように聞こえた。
あの蓮子が、どこか弱々しく見える。
その事に、ズクリと胸に痛みが走る。
なんとなく。
なんとなくだけれども、彼女が本当にその相手の事を好いているのだと言うことが感じ取れてしまったから。
それもそうね、と頷いて流すのが私にとって一番の正解だと思っていた。
そう答えれば、それは蓮子の想いが届かないことを意味するのだから。
私にとってそれは、一番都合の良いことだろう。
けれども……。
「あー、もう。おしまい! この話はやめ!」
言葉に詰まっているうちに、蓮子が大きめの声で空気を変えるようにそう言った。
「あとね、メリーさっきの話なんだけれど」
「……さっきの話、ってなに?」
話題を変える気だ、と気がついたのは相槌を打ってしまった後の事だった。
言うべき言葉を言えなかった、と悔いているうちに蓮子はそのまま話を進める。
「ウーロン茶の話よ。今受け取ったウーロン茶とさっきのウーロン茶、味が違ったりしなかった?」
「味どころではなかったのだけれども……」
「いや、まあついふざけちゃった私も悪いんだけど……あのさメリー、もしかしてメリーがさっき飲んでたのってウーロン茶じゃなくてウーロンハイだったんじゃない?」
「はい?」
話をそらされた事にいささかの焦りを感じはしたけれども、つい促されるままにもう一口、もらったウーロン茶を口に含んでみると、確かにさっきのものとは違う普通のウーロン茶の味がした。
「オーダーミスね」
まだ何も言っていないのに、蓮子は私の顔を見てそう言い切った。
表情だけではなく、彼女から見たら顔色さえも違っていたのかもしれない。
言われてみれば、どことなく頭が上手く回っていないような気もするし、わずかに痛む。
「だから変な事を言っちゃうのよ」
だけど続けられたその言葉は、ちょっと聞き捨てならなかった。
「ちょっと待って蓮子、私は――」
「いいえ、待ちませーん。ほら、冷めないうちに食べちゃおうよ」
酔ってしまっていることを口実に、私の言った言葉を実のないものにしたがっているのだということは分かる。
でも、なおも言い募ろうと思えども、彼女は運ばれてきた料理をわざとらしく眼を閉じて味合うようにして咀嚼して、その行動は言外に「もうこの話はしません」という意思表示をするに足りるものだった。
そんな事をされてしまうと、私は何も言えなくなってしまう。
私の心は定まらず、なおかつ蓮子が間違えている訳でもない。大きな声を出せば聞くだけ聞いてくれるかも知れなかったけれども、蓮子が悪い訳でもないのに飲食店で、しかも食事中に大声を出すわけにもいかない。
私だって、できれば楽しくご飯を食べたいのだから。
そう言い聞かせて私も渋々と料理に手を伸ばすことにした。
……口に入れた鶏肉は、何の味もしなかった。
お勘定を払う蓮子に促されて先に店外に出ると、外はもうすっかりと深い藍色に染まっていた。
心なしか熱を帯びた頬に、夜風がとても心地よい。
お酒を口にしてしまったのはあの一杯だけなのだけれども、あれだけでこうも後を引くのだから私は本当にお酒に向いていないに違いなかった。人種的に向いていなさそうな蓮子はガブガブ飲めるのを目の当たりにすると、世の中何かを間違えているような気がしてならない。
ここからだと家が近いこともあって、いくらのでも飲んでもすぐに帰れるという安心感もあるのかもしれないけれども、たとえ私の家がここから歩いてすぐだとしてもちょっとあれは真似していなかったと思う。
ただ、今日は飲むだけではなく、お互い沈黙を恐れるように箸を動かしていたから、恐らく蓮子のお財布は致命傷を受けることになっているような気がする。
誤解が解けることはついになかった。
おかげでたくさん食べはしたけれど、どれもこれも味気なかった。
私はいったい、あの時なんて言えばよかったのだろう?
どうして私は、蓮子を傷つけずに済む言葉を言えなかったのだろう?
そんな疑問が頭を巡る。
答えは簡単に出そうなのに、なぜだかそれが分からない。
酔っているせいだろうか。
……酔っているせいにできれば、楽なのに。
そうしたら一発で元の二人に戻れるのに、なまじ蓮子が私の酔いを口実に使ったものだから、なんとなく意地で私も自分の酔いを言い訳に使うのに抵抗を覚えてしまう。
それに、私の中の正直な部分が、それが酔いのせいでないことを知っている。
目をそらすなと叫んでいる。
単純に、認めたくないだけなのだから。
「はぁ」
陰鬱な気分を振り払おうと夜空を見上げて見はするものの、夜空を見て私が真っ先に連想するのは他でもない、今の私の悩みの種その人でしかなかった。
気分転換になるどころか、ますます逃げられなさそうなことを思い知る羽目になる。
「現在、午後七時四十八分」
不意に聞きなれた声が時刻を告げる。
振り返ると蓮子が空を見上げて時計よりも正確な時報を読みあげているところだった。
何が映っているのか分からないその瞳で、今の時間を見ていたのだろう。
「結構時間かかっちゃったね」
お店を背に背負う彼女の表情は、逆光で読み取れない。
ただ、らしくない口調だけに彼女の心がにじみ出ているようだった。
言葉使いは普段どおりなのに、元気なく聞こえるのは、それとも私の気のせいだろうか。
「帰りましょうか」
「帰ろっか」
どちらともなく提案して、承諾を待たずして歩き出す。
来た時と同じように、私たちは無言だった。
心当たりがあるとすれば、今度の無言はきっと私が蓮子を傷つけてしまったからこそ生まれてしまったものなのだろうと言うこと。
罪悪感で胸が潰れてしまいそうだった。
蓮子と私は帰り道が違う。私はこのあとバスに乗って帰るし、蓮子はその途中の十字路を右に曲がる。
何か言わなければならないのに、それまでに与えられた時間はとても短いものだった。
だけれども、それまでに確かに何かを言葉にしないと、私は完全に機を失ってしまう。
そもそもだ。
どうして蓮子は傷ついてしまったのだろう。
どうして私は蓮子の望む言葉を言えなかったのだろう。
「れんこ?」
その答えは分からないけれども、傷つけずに済んだはずの言葉なら今でも分かる。
ただ、どうしようもなく恥ずかしく、この上なく悔しいからあまり口にしたくなかった。
それでも、私が蓮子が傷つかないことを望むのならば、絶対に言う必要がある言葉だった。
――考えてみれば……いや、開き直ってしまえば、それはひどく簡単なことなのだ。
私は蓮子が好きで、幸せになってほしいと思う。
だけれども蓮子が幸せになるその時に、隣にいるのが私である必要はない。
私が蓮子の隣にいたいと思うのは、ただの私のわがままなのだから。
だったら、蓮子が誰かの隣に行きたいと思う時に私がするべきことはそれを邪魔することではなく、むしろ――。
「さっきの、間接ちゅーのお話なんだけれどもね?」
背中を押してあげることではないのだろうか?
「――本当はとてもドキッとしたので、是非とも意中の方に言ってあげて下さいなっ」
止められたら、この先二度と一生言えやしないだろうと思って、勢いのまかせて口にした言葉は、予想通りとてつもなく恥ずかしかった。
今さらながら顔が熱くなるのを感じる。ああもう、酔いのせいならいいのに。というか酔いのせいですっ、そう思ってくださいっ。それよりもこれカミングアウトになってしまわないだろうか、だとしたら来年の今日は私の一周忌になってしまうのだけれども。死因は自殺ね、手ひどく断られたら生きていける気がしないわ。って、問題はそこではなく、蓮子の反応よ。いや、蓮子の私を見る目も十分に蓮子の反応なんだけれども、それよりも!
私が伝えたかった事は、はたして蓮子に伝わっただろうか?
彼女の間接キスが私に通じないことが彼女の想い人へ同じ方法が通用しないと言う論法だと言うのなら、私に通じるのであるならば同じことが彼女の想い人に有効だと言う話にだってなるはずだ。
通じないわね、と返すことが彼女の恋が叶わないと言い捨てることになるのなら、
通じたわ、と返すことは私が彼女の恋を応援するという姿勢を見せることにはならないだろうか?
我ながら無茶苦茶な理屈だとは思うけれども、私は他に蓮子にかけられる言葉に心当たりがなかった。
一秒が経ち、二秒が経った。
それでも彼女は無言のままだった。
不安に思って名前を呼んで初めて、ちょっと待って、と言わせることに成功したけれども、それにしたってあまりに無言が過ぎる。
「それってさ、つまり応援してくれる、ってこと?」
やがてたっぷり五分くらいかけて正解を口にしてくれて、間違えて受け取られなかった事に複雑な安堵をおぼえながら、私はそれに頷いた。
「わ、分かりにくかった?」
「そりゃ、ね。ちょっとびっくりしたし。――愛の告白かと思ったわよ」
「え、やっ」
「うん、分かってるって。冗談冗談……だけど、もうちょっと言い方ってものがあるじゃないのよ」
蓮子の声はまるで何かを隠しているのかと勘ぐってしまえそうなくらい穏やかで、ひとまず私は息をつく。
「あったかも知れないけれどもね? ほら、さっきの食事中に空気を変にしてしまったから」
「だからって引用しなくても良かったのに」
「謝るなら今しかないと思ったのよ」
「……それで謝らなきゃいけないのなら、過剰に反応した私だって同罪よね」
ごめんなさい、が被ってしまった。
それで、どちらともなくクスクスと笑う。
正直な感想としては、いまだにギクシャクとした雰囲気は薄れていないのだけれども、それでもさっきまでと比べれば段違いである。
なにせ一緒に笑えるのだから。
それだけで、私にとって彼女と一緒にいられることは大きな意味を持つのだから。
「あー、でも、応援してくれるのはありがたいけれども、できればメリーには何もしてほしくないかなぁ」
「え? どうして?」
「どうしても」
いつか、彼女と一緒にいる人は私以外の誰かになるのだろうか。
蓮子と一緒にいるのは一喜一憂の差が激しすぎて、たまに身がもたないと思う時もあるけれど、それでもそんな日を想像するのは寂しい。
けれども、私がいつまでも彼女の隣を占領し続ける事は難しいし、それは無理といっても過言ではないと思う。
ハンプティダンプティは塀の上にいなくてはならないのだ。どちらの側に落ちたとしても割れて取り返しのつかないことになってしまうのは目に見えているのだから、生まれおちたその時からずっと塀の上で殻の中に居続けなければならない。
陽の目は夢見る程度で良い。
そこにずっと私が映り続けると言うことはないのだから。
……まあそれは、殻をかぶり続けている方にも問題があるような気もするけれども。
だから、少なくとも今はこうして肩を並べて歩けるうちはその幸せをキチンと味わっていたいと思う。
それに、きっと彼女が誰かとお付き合いする日が来たとしても、その誰かが私以上に彼女と親しくなって、彼女とその人が親しげにするのを見てとても悔しくて寂しいことだと感じてしまうことはあるだろうけれども、それを理由に私と彼女が疎遠になる日は来ないだろうとも思う。
根拠なんてない、こんなのはただのこじつけだ。
でも、
「あ、そうだメリー、お願いがあるんだけれど」
「どうしたの?」
「……申し訳ありませんが、明日の朝ご飯を食べられそうにないので、今晩また泊めてはいただけないでしょうか?」
「え、なに? たかりのお願い?」
「できれば、もう数日民宿まえりべりーに宿泊させていただければ、もう言葉もありません」
「……ちょっと」
「本末転倒は重々承知です」
「――もう、しょうがないわねぇ……」
でも、私と蓮子が並んで立つその間に、境界が見えたことなどただの一度もないのだから。
私たちは、私たちが望む限り、ずっと隣りに居続けられる気がするのだ。
読者様を限るようで非常に恐縮ではありますが、まずそちらをご覧になったううえで、過度の期待を捨ててから読み進められることをお勧めします。
蓮子が突拍子もない事を言ったせいで、一瞬耳鼻科に通うことを本気で検討してしまった。
「と言ってもあんまり高いお店は無理なんだけど……」
「――いや、待って蓮子。あなた今なんて?」
「え? ああ、だから今番おごってあげるから、どこか食べに行こうよ、と」
しかし言質を取ることで頭の中から計算した通院費を削除する。
今月は、ここ数日間食費が一人分ではなかったからちょっとだけお財布の中が寂しくなっているのだから、あまり焦るような事を言わないでほしい。
……それにしても、
「どうしたの? 蓮子」
「え、何が?」
「だってたまのタクシー代だって惜しむくらいなのに。今日はご飯を御馳走してくれるだなんて、いったいどんな風の吹きまわしなのかしら」
「ん、まあそうなんだけどさ。でもここ最近ずっとお世話になってたし、今朝なんて要らない迷惑までかけちゃったし。そりゃまあ、ね」
「それはまた殊勝な心がけね」
言いつつけれど、でも、と心の中で思う。
でも、今日はできればもう蓮子と一緒にいたくないな、と。
昨晩は自分の想いの先のなさ加減を久しぶりに再認識してしまったし、その後のやり取りのせいで一晩眠ることができなかった。そして、とどめをさすかのようにバス停でのやり取り。
蓮子の事を嫌いになりなんてできなかったけれど、それでも今日はもう、一緒にいて嬉しい気持ちにはなれないだろう。蓮子の一挙一動に心身を摩耗させながら、自分の言動にボロが出てしまわないかに気をつけることで頭が一杯になってしまいそうだ。
その提案だって一週間前なら二つ返事で頷いていたのに、今は一週間後だって渋りそうな心境だ。
善悪はひとまず置いておくにしても、今の私の中で蓮子が占める割合はちょっと大きすぎるから、少し落ち着く時間がほしかった。
断りたい。
断るべきだろうか。
……けれども昨日一晩中眠れなかった鬱憤は、レポート書くとか言ってのうのうと力尽きていた人に既にぶつけてはいる。そうそう、ついでに言うなれば、あれは八当たりではない。蓮子のせいで眠れなかった恨みを蓮子に晴らしていたのだから、私は無罪であると言える。正義は我にあり。
しかしとは言え、あれが蓮子にとって完全に理不尽な行いであったことは否めないのだから、やはりそのことをいつまでの引っ張っていてはいけないと思う。
それからバス停での件もそう。私は嘘をついたけれども、あれは嘘なんかじゃない。嘘だけど、ほんとうのことを私は口にしたのだ。……だから、あのことまで例に挙げて蓮子を避けるのも理屈としておかしいと思う。
それに、そもそもだ。
……もし、ここで蓮子のお誘いを断ることで、彼女に悪く思われたりなどは、しないだろうか?
そりゃ、いつもならそんな事をあまり深く気にしたりなんかしない。
けれども、今日は蓮子が珍しく「奢る」とまで言ってご飯に誘ってくれているのだ、裏がある……とまでは思わなくても、その行為を無下にするのは少なからず躊躇われる。
私は、だって……蓮子が嫌いなわけでは、ないのだから。
「それとも、今日は無理?」
思いがけず、ずいぶんと黙りこくってしまっていたらしい。
蓮子は不安そうなまなざしで私の顔色をうかがった。
「え、ううんっ、なんにもないわ。大丈夫、行きましょう?」
だもんだから、ついつい蓮子の提案を、こんなにも悩んでおきながら結局二つ返事で承諾してしまった。
私の蓮子に対するガードは甘いのだが硬いのだか分からない。
「それで、どのお店にお邪魔する?」
頭を抱えたい気持ちをごまかすためにも、話を進める事にする。
いま私たちは大学の敷地から出ようとしているところだ。
私たちの大学はどちらかというとやや郊外に位置しているため、飲食店に限らず、全体的にお店の数は中心街と比べてやや少ない傾向にある。ただ、そのぶん学生を対象としたサービスが豊富で、割引やメニューの追加なんかで安さや回転率で勝負する中心街に対抗している。
かくいう私たちも、大学周辺の飲食店には喫茶店から飲み屋さんまで、そこそこの行きつけのお店がありはするのだけれども、もしも蓮子のお財布事情が割と悲惨なものであるのなら中心街まで足を伸ばすこともあるかもしれない。それでも、交通費を考えたらあまり大きな差はないのだけれども。
思いがけず図書館に長居してしまったため、空はもう橙色に染まっている。それが季節の補正で早まっているとしても、夏至はもう二か月も前に終わっているし、飲食店に入るのならやはり混雑する前の方がいいと思う。
それらのことを考慮しての先の問いだったけれども、彼女は「そうねぇ」と前置きして結局ここから程なくして歩いてゆけるお店の名前を口にしたのだった。
「――というかそこ、居酒屋じゃない。下手なファミリーレストランに行くよりお会計高くなるわよ?」
「まあたまにはね。民宿まえりべりーに泊まったのだと思えば安いものだわ」
「ええ、こちらとしても特に利益目的じゃなかったのだから流してもいいんだけどね、蓮子? その民宿まえりべりーは三百六十五日、いつ何時もお客様のご来訪をお待ちしているわけではないのよ?」
宿泊を当然のように思われては困るわ。主に精神的な理由で。
「まあそんなことはともかく」
「ともかくとしないでよ」
「早く行こうか」
「……はぁ。ええ、行きましょう」
たとえ理由が蓮子の私に対するお礼なのであったとしても、奢ってもらうのは私の方。
こう言い進められたのなら、黙って従うほかない。
二人並んで目的のお店にむかって歩を進める。
それはいつも通りの私たちの構図……のはずなのに、なぜだか今日はぎこちない。
いや、なぜもなにもないだろう。思い当たる節はいくらでもあった。
昨晩のこと、今朝のこと。別に一つ一つ事細かに脳裏によぎるわけではないけれども、眠れぬ夜は確かにあったし、胸の痛みは今もなお続いている。それだけじゃない、そのほかに隣を歩く蓮子の細かな仕草が気になるし、そんな自分の仕草が不自然なものになってしまっていないかだってやはり当然のように気になった。
一歩歩くのだって、腕の振り方が気になってしまう。
目線一つ取ったって、いつもはまっすぐ前を向いていたのか、それとも俯きがちに足元に卸していたのかすらも分からない。そんな、普段は意識していなかったことすら気になりだして、結果として余計におかしな挙動に変わってしまっていそうで、さらにがちがちになってしまう。悪循環だ。
気がつけば、私たちの間には沈黙があった。
この心が気付かれませんように、悟られてしまいませんように、と願う私にとってその露骨な居心地の悪さはもはや拷問のようで、どれだけ歩いても変わらない沈黙を、せめて蓮子が親しさゆえの心地よいものだと誤解してくれることを祈るばかりであった。
……居酒屋じゃない、と一度は渋って見せたものの、こうなって来ると早くお酒を飲みたいという気持ちが強まってくる。
お酒さえ飲めば、アルコールさえ入ってしまえば、またいつものような表向き遠慮のない関係に戻れるに違いない……そんな根拠のない期待をしてしまう。
私たちは、いつもこんなにも遠かったのだろうか。
ふと、そんな考えをしてしまう。
私たちの関係は、はたして間に何かが挟まっていないと互いに楽ではいられないような、そんな浅い関係だったのだろうか。
そう思ってしまうのは、間違いなく私が余計な感情を彼女との間に挟めているからではあるのだろうけれども、でもそうだったとしても、じゃあ蓮子の方から会話が無いのはなぜだろう? 彼女が私を気にしていないのなら、少なくとも彼女だけはいつも通りでいてもいいのではないのだろうか?
無茶苦茶な理論だと言うことは、頭では分かっている。逆にいえば、蓮子は私を気にしてくれているからこそ、不自然でしかいられないのだと思うから。いや、もしかしたら私のことではないのかもしれないけれども、けれどもたとえ自惚れでも、他にここ最近彼女の注意をひくような事はなかったはずだから。
ああ。
やっぱり八当たりだった。
思い切って彼女の様子を伺うと、蓮子は器用な事に夕焼け空を見上げながら歩いていた。
彼女はあの場所に何を見ているのだろう。空はまだ、その瞳に特異なものを映す色ではないと言うのに。
……彼女の瞳に、物は、私はどのように映っているのだろう?
お互いに奇異な瞳を持つ私たちではあるけれど、私と蓮子の見ている世界は別口だ。
蓮子は私の瞳を時に気持ち悪いとすら言ってもてはやす。だけど、私にとっては蓮子の瞳が映す世界の方がずっとおかしくて凄い、気持の悪い物のように思える。
私の瞳が境界を映すと言っても、それは三次元的な視覚情報の中に異常を見ているだけのことである。家を見ていたら窓からその内側を覗けてしまえるように、町中の一部に森が見えてしまうようなものである。
けれど、蓮子の瞳は違う。
月と星に位置と時刻を見るのだと彼女は言うけれども、それは一体どういうことなのだろう?
太古の船乗りがもっていたような星見の技術とは一線を画すものである事は、すでに何度か目の当たりにして知っている。もしかしたら彼女が私に優しい嘘をついているのではないかと疑って、時に黙って、時に頼んで確かめさせてもらったから。あれは単に星や月から辺りをとっているなんて正確さではなった。位置に関してなど、彼女はたびたび自身も知らないような土地の名前を口にするのだから。
では、彼女の瞳に映っている世界とは、一体どんなものだと言うのだろうか?
私のような視覚情報の受信幅の差が広い、なんてレベルの話ではない。人は脳でモノを見ていると言うけれども、彼女はその脳に無いものすらもその目で見ているという。
彼女に見える特異な情報が三次元のそれでないと言うのなら、じゃあ彼女が普段見ている世界もまた、三次元的な物の見え方ではないと言うのか。
彼女の瞳には、何が見えているのだろう?
彼女の瞳に映る私は、はたして私なのだろうか?
彼女に私は、いったいどこまで、どんなふうに見えているのだろう?
分からない恐怖、知らない恐怖、知られる恐怖、分かるからこその恐怖。
追い詰められ気味の思考が、突拍子もないことを考えてさらに自分を追い詰めてしまっているのだろうと言うことは、なんとなくわかる。
分かるけれども、そんな寄り道遠回りをしてまでも自分の彼女に対する見え方が気になる私がいた。
「メリー?」
蓮子の声だ。
後ろめたさに肩が跳ねる。
「……もうお店ついたけど、どこまで行くの?」
言われて、いつの間にかうつむけてしまっていた視線を上げると、確かに蓮子が口にしたお店のある通りで、振り返れば呆れを隠さない蓮子の顔とお店の入り口が確かに見えた。
「ああ、ごめんなさい。ちょっと考え事してて……」
「あー……それでずっと黙ってたの?」
確かめるようでいて、それでいてどこか申し訳なさそうな声。
それが理由を探しているからだろうと思うのは、考えすぎだろうか。彼女も私と同じようにあの沈黙を耐えがたく思い、だからその沈黙に私のせいという理由を付けたがっているのだと感じるのは、願いすぎだろうか?
私は蓮子にイエスを返して、その隣へと戻る。
これでいつも通りになれますように、と。
「あ、店員さん注文お願いしまーす。えっと、このホウレン草のサラダとこっちの鶏肉のと……メリーは何を飲むか決めた?」
「そうねえ、とりあえずウーロン茶でも」
「じゃあそれ一つと、モスコミュール一つ。お願いします」
そう言って蓮子は手にしたメニューをパタンと閉じた。
蓮子とは言ってきたこのお店は、普段からお酒を飲むときには割と頻繁に利用させてもらっているお店だった。ただ、居酒屋と言ってもお酒よりもメニューの方に力を入れていて、私の中ではどちらかと言えば食べるためのお店という位置づけにある場所だった。
ではだからと言ってお酒の種類が少ないのかと言えばそんな事もなく、味も量も種類も値段も、少なくとも蓮子が満足するだけはある。それでいて内装が大人しめ、料理がおいしいと揃っているのだから人気が出ないはずがなく、特に狙い目であろう大学生とその内装と味から女性客からの評判は高いと聞く。
ただ、今日は未だ大学は夏休みということもあってか客数はいつもと比べれば少ない。
「今日はあんまり待たなくてもよさそうね」
同じように店内を見回していた蓮子が呟く。
「いつもは他のお客さんのご飯を羨ましく見てたけど、今日はあんなひもじい思いをしなくてもすみそうだわ」
「ええ、そうね。でもできれば今日だけじゃなくて明日以降もそんな目で他のお客さんのお皿を見ないでね」
切なくなってしまうわ。
心の中で一言付け足して、そんな事を思える自分の余裕に気付いて驚く。
来る途中まではあんなにも悶々と悩んでいたのに、いざ口を開けば普段と同じ自分がいて、そのことに安心を覚える。
少し深く考えすぎていたのかもしれない。
考えてみれば今までだってずっと同じ気持ちを抱いて一緒にいたのだ。たとえ何か色々あったとしても、そう簡単に変わってしまうほど自分や、自分たちの関係は軽いものではないはず……そう思うと今までずっと怖がっていた自分が恥ずかしく思えてさえ来る。
そう。
私たちの関係は、好きと言い合ってなおも何ら変わりなかったじゃないの。
思わず笑みさえこぼれてくる。
「メリー? どうしたの?」
胸の内で溜息をついていると、蓮子に笑っているところを見られてしまった。彼女は店員さんが持ってきてくれたドリンクを受け取り、手渡してくれながら怪訝そうな顔をするけれど、私はそれを「何でもないの、ただの思い出し笑い」と言って流した。
さっきまでの自分を笑っていたのだから、少なくともウソにはなりはしない。
「何、なんかあったっけ?」
「ううん。なんにもないんだけど、つい思い出しちゃって」
「ああ、あるある。泡みたいでたまに困るのよね」
「あわ?」
「そう。突然浮かんできて、パチンとはじける。中には何も入っていないのだけれども、気付いてしまった人にとっては泡がはじけたことだけは確かに残る……絶対笑っちゃいけないようなところで来ると本当にどうしようもないのよね」
「斬新なたとえね」
でも、何もない、か。
それはとても言いえて妙だ。
「さて、それじゃあ乾杯」
蓮子はそう言って自分のグラスを持ち上げて、私もそれに応じる。
何に対して? なんて事は藪蛇になりかねないのでいちいち疑問に思ったりなんかしない。
「乾杯」
カチン、と小さくグラスが鳴った。
と思ったらついでに蓮子の喉も鳴っていた。
毎度毎度食べる前からよく飲むものね、といっそ感心してしまう。
モスコミュール、ってあれよね。たしかウィスキーをベースにしたカクテル。
アルコール度数だって低くはないはずなのだけれどもねぇ……。
そう思いながら、自分のグラスはテーブルに置き直す。ソフトドリンクの人がグラスを置いて、カクテルの人がみるみるうちにグラスを空にしているだなんて、相変わらずちぐはぐな光景だろうとも思うけれど。
ちなみに、ともすれば一気飲みにも見える蓮子の飲み方だけれども、私に合わせているのかあれでおかわりのペースは遅く無茶な飲み方はしないし、何度も来ていてその辺含めて顔を覚えられてしまっているのか、特に店員さんに注意を受けると言うこともない。
一歩間違えれば危ない飲み方なのでしょうけれどもね。
この店と蓮子の危機意識に若干の不安を覚えてしまう。
やがて料理が運ばれてくる頃には当然の如く蓮子のグラスは空になってしまっていた。
最初に思った通り、今日はやはり料理が運ばれてくる時間が早い気がしたけれども、その早い時間でモスコミュールを一杯空けてしまうのはどうかと思う。
ただ、運ばれてきた料理を前にして嬉々として両手を合わせてお箸を構える辺り、どうかしているのは自分ではないという錯覚さえ覚えてしまう。
あれって、実はあんまりアルコール重くないのかしら?
お酒はあまり飲まないから分からないけれども。
「いっただっきまーす」
なんて、そうこう考えているうちに蓮子がサラダに箸を伸ばすから、私もあわててウーロン茶で口を湿らせて、いただきます、とサラダをつまむ。
と言っても蓮子のグラスが空っぽなのが気になってしまうから、どちらかといえば箸よりもグラスに口をつける方が多く、サラダの大半は結局蓮子の胃袋の中におさまる結果となった。
「それにしても」
私が思わず言葉をこぼすと、蓮子がサラダを頬張ったまま首をかしげた。
「ここ、ウーロン茶の仕入れを変えたのね。なんだか変わった味がするわ」
最後に来たのはいつだろう? と、ふと疑問に思う。私の記憶が確かなら、一度夏休みに入った後に蓮子と一緒に着た覚えがあるのだけれども、その時はなにも不思議に思わなかったはず。
「最近変えたのかしらね」
「へぇ、それはちょっと飲んでみたいわね」
最後の一口を喉に流して呟くと、ようやく飲み込んだらしい蓮子はそう言って、すみません、ともう一度店員さんを呼び寄せた。
「カシスオレンジと……」
「ウーロン茶をもう一杯」
「を、お願いします」
かしこまりました、と最後に注文を復唱してグラスと一緒に店員さんは去っていく。
「お茶来たら、私にも一口頂戴ね」
すれ違いで運ばれてきた料理を受け取りながら、蓮子が言う。
「ウーロン茶なんてどれも変わらないと思ってたけど、メリー言うなら相当なのね」
「どういう意味よ」
「だってメリー、どこにいってもウーロン茶ばっかり飲んでるわよね? それが今日はわざわざ味が違うなんて言い出すんだもん」
「……お酒は苦手なのよ」
「責めてるわけじゃないってば」
お酒は飲むとすぐに頭が重くなってしまう。
量を飲めないわけではないのだけれども、早々に酔っぱらってしまうのであまり進んで飲みたくはないのだ。一度お酒で大失敗をして以来、どうにもトラウマになっている。
吐くほど飲めば強くなる、なんてよく聞くけれど、そもそも吐きたいわけじゃないのよね。
本末転倒というか、頭の痛くなる話だわ。
「ところでさ、メリー」
名前を呼ばれて彼女を見る。
と、タイミングの悪い事に、そこで頼んでいたドリンクが来てしまった。
蓮子はその両方を受け取って、自分の分はテーブルに置き、私の分はそのまま手に持ったまま「一口貰っていい?」と聞く。
「それは構わないけれど……今何か言いかけなかった?」
「うん、あのね……あ、やっぱり」
私のウーロン茶を一口飲んで、蓮子は何か言いかけて止める。何がやっぱりだと言うのだろうか。
「うん、まあとりあえず飲んでみてよ」
疑問に感じていると、そういって私のグラスを渡される。
何かと思って私もまたウーロン茶を口に含んで、
「……間接ちゅーでした」
「げほっ!」
盛大にむせてしまった。
器官に入ってしまったらしく、なおもゴホゴホとせき込んでしまう。
そんな私を見て蓮子も最初はあははと笑っていたのだけれども、だんだんと罪悪感がわいてきたのか、大丈夫? と背中をさする気か手を伸ばす。
けれども、流石に今のは軽く腹が立ったので、その伸びてきた手を思いっきりつかんでやる。
「れんこ……」
「あ、いや、冗談というか、だってあんな盛大に噴き出すとは思わなくって――」
「れんこ」
「……はい、ごめんなさい」
蓮子は素直に謝るが、それでも私の気は収まらない。
なぜなら被告人は、自分の犯した罪の重さに自覚がないから。
だから私は精一杯、刑罰執行のつもりで彼女のその柔らかい腕をぎゅうっと握りしめる。
せめて自分のしでかしたことがどれだけ重いのか伝わるように。
けれど、いつまでもそうはしていられない。
本当に伝わってしまっては困るから。
「あのね、蓮子」
適当に茶化さなければならない。
「――そう言うことは、あなたの好きな人に言ってあげなさい」
「なっ!」
ジト目を作って睨みつけてやると、蓮子の顔が面白いように赤く染まる。
昼間はさんざん人の事を好き勝手言ってくれたけれど、案外自分の事を言われると弱いらしい。
反面、私は何を言っているのだろうと思わないでもない。
そんな事を口にしたって、私には何も良いことなんてないのにと。
そう思わないでもないけれど、口にしてしまった事は変えられない。
せめて冗談に形にして、意味のないものにするくらいしかできない。
「蓮子に言われて惚れてしまわない人なんていないから」
根も葉もあって花だけ咲かない言葉を口にすると、蓮子は「それはどうかなぁ」と視線をそらした。
「少なくともメリーには効かなかったみたいよ?」
どんな顔をして言っているのかは分からないけれども、その声は微かに力ないように聞こえた。
あの蓮子が、どこか弱々しく見える。
その事に、ズクリと胸に痛みが走る。
なんとなく。
なんとなくだけれども、彼女が本当にその相手の事を好いているのだと言うことが感じ取れてしまったから。
それもそうね、と頷いて流すのが私にとって一番の正解だと思っていた。
そう答えれば、それは蓮子の想いが届かないことを意味するのだから。
私にとってそれは、一番都合の良いことだろう。
けれども……。
「あー、もう。おしまい! この話はやめ!」
言葉に詰まっているうちに、蓮子が大きめの声で空気を変えるようにそう言った。
「あとね、メリーさっきの話なんだけれど」
「……さっきの話、ってなに?」
話題を変える気だ、と気がついたのは相槌を打ってしまった後の事だった。
言うべき言葉を言えなかった、と悔いているうちに蓮子はそのまま話を進める。
「ウーロン茶の話よ。今受け取ったウーロン茶とさっきのウーロン茶、味が違ったりしなかった?」
「味どころではなかったのだけれども……」
「いや、まあついふざけちゃった私も悪いんだけど……あのさメリー、もしかしてメリーがさっき飲んでたのってウーロン茶じゃなくてウーロンハイだったんじゃない?」
「はい?」
話をそらされた事にいささかの焦りを感じはしたけれども、つい促されるままにもう一口、もらったウーロン茶を口に含んでみると、確かにさっきのものとは違う普通のウーロン茶の味がした。
「オーダーミスね」
まだ何も言っていないのに、蓮子は私の顔を見てそう言い切った。
表情だけではなく、彼女から見たら顔色さえも違っていたのかもしれない。
言われてみれば、どことなく頭が上手く回っていないような気もするし、わずかに痛む。
「だから変な事を言っちゃうのよ」
だけど続けられたその言葉は、ちょっと聞き捨てならなかった。
「ちょっと待って蓮子、私は――」
「いいえ、待ちませーん。ほら、冷めないうちに食べちゃおうよ」
酔ってしまっていることを口実に、私の言った言葉を実のないものにしたがっているのだということは分かる。
でも、なおも言い募ろうと思えども、彼女は運ばれてきた料理をわざとらしく眼を閉じて味合うようにして咀嚼して、その行動は言外に「もうこの話はしません」という意思表示をするに足りるものだった。
そんな事をされてしまうと、私は何も言えなくなってしまう。
私の心は定まらず、なおかつ蓮子が間違えている訳でもない。大きな声を出せば聞くだけ聞いてくれるかも知れなかったけれども、蓮子が悪い訳でもないのに飲食店で、しかも食事中に大声を出すわけにもいかない。
私だって、できれば楽しくご飯を食べたいのだから。
そう言い聞かせて私も渋々と料理に手を伸ばすことにした。
……口に入れた鶏肉は、何の味もしなかった。
お勘定を払う蓮子に促されて先に店外に出ると、外はもうすっかりと深い藍色に染まっていた。
心なしか熱を帯びた頬に、夜風がとても心地よい。
お酒を口にしてしまったのはあの一杯だけなのだけれども、あれだけでこうも後を引くのだから私は本当にお酒に向いていないに違いなかった。人種的に向いていなさそうな蓮子はガブガブ飲めるのを目の当たりにすると、世の中何かを間違えているような気がしてならない。
ここからだと家が近いこともあって、いくらのでも飲んでもすぐに帰れるという安心感もあるのかもしれないけれども、たとえ私の家がここから歩いてすぐだとしてもちょっとあれは真似していなかったと思う。
ただ、今日は飲むだけではなく、お互い沈黙を恐れるように箸を動かしていたから、恐らく蓮子のお財布は致命傷を受けることになっているような気がする。
誤解が解けることはついになかった。
おかげでたくさん食べはしたけれど、どれもこれも味気なかった。
私はいったい、あの時なんて言えばよかったのだろう?
どうして私は、蓮子を傷つけずに済む言葉を言えなかったのだろう?
そんな疑問が頭を巡る。
答えは簡単に出そうなのに、なぜだかそれが分からない。
酔っているせいだろうか。
……酔っているせいにできれば、楽なのに。
そうしたら一発で元の二人に戻れるのに、なまじ蓮子が私の酔いを口実に使ったものだから、なんとなく意地で私も自分の酔いを言い訳に使うのに抵抗を覚えてしまう。
それに、私の中の正直な部分が、それが酔いのせいでないことを知っている。
目をそらすなと叫んでいる。
単純に、認めたくないだけなのだから。
「はぁ」
陰鬱な気分を振り払おうと夜空を見上げて見はするものの、夜空を見て私が真っ先に連想するのは他でもない、今の私の悩みの種その人でしかなかった。
気分転換になるどころか、ますます逃げられなさそうなことを思い知る羽目になる。
「現在、午後七時四十八分」
不意に聞きなれた声が時刻を告げる。
振り返ると蓮子が空を見上げて時計よりも正確な時報を読みあげているところだった。
何が映っているのか分からないその瞳で、今の時間を見ていたのだろう。
「結構時間かかっちゃったね」
お店を背に背負う彼女の表情は、逆光で読み取れない。
ただ、らしくない口調だけに彼女の心がにじみ出ているようだった。
言葉使いは普段どおりなのに、元気なく聞こえるのは、それとも私の気のせいだろうか。
「帰りましょうか」
「帰ろっか」
どちらともなく提案して、承諾を待たずして歩き出す。
来た時と同じように、私たちは無言だった。
心当たりがあるとすれば、今度の無言はきっと私が蓮子を傷つけてしまったからこそ生まれてしまったものなのだろうと言うこと。
罪悪感で胸が潰れてしまいそうだった。
蓮子と私は帰り道が違う。私はこのあとバスに乗って帰るし、蓮子はその途中の十字路を右に曲がる。
何か言わなければならないのに、それまでに与えられた時間はとても短いものだった。
だけれども、それまでに確かに何かを言葉にしないと、私は完全に機を失ってしまう。
そもそもだ。
どうして蓮子は傷ついてしまったのだろう。
どうして私は蓮子の望む言葉を言えなかったのだろう。
「れんこ?」
その答えは分からないけれども、傷つけずに済んだはずの言葉なら今でも分かる。
ただ、どうしようもなく恥ずかしく、この上なく悔しいからあまり口にしたくなかった。
それでも、私が蓮子が傷つかないことを望むのならば、絶対に言う必要がある言葉だった。
――考えてみれば……いや、開き直ってしまえば、それはひどく簡単なことなのだ。
私は蓮子が好きで、幸せになってほしいと思う。
だけれども蓮子が幸せになるその時に、隣にいるのが私である必要はない。
私が蓮子の隣にいたいと思うのは、ただの私のわがままなのだから。
だったら、蓮子が誰かの隣に行きたいと思う時に私がするべきことはそれを邪魔することではなく、むしろ――。
「さっきの、間接ちゅーのお話なんだけれどもね?」
背中を押してあげることではないのだろうか?
「――本当はとてもドキッとしたので、是非とも意中の方に言ってあげて下さいなっ」
止められたら、この先二度と一生言えやしないだろうと思って、勢いのまかせて口にした言葉は、予想通りとてつもなく恥ずかしかった。
今さらながら顔が熱くなるのを感じる。ああもう、酔いのせいならいいのに。というか酔いのせいですっ、そう思ってくださいっ。それよりもこれカミングアウトになってしまわないだろうか、だとしたら来年の今日は私の一周忌になってしまうのだけれども。死因は自殺ね、手ひどく断られたら生きていける気がしないわ。って、問題はそこではなく、蓮子の反応よ。いや、蓮子の私を見る目も十分に蓮子の反応なんだけれども、それよりも!
私が伝えたかった事は、はたして蓮子に伝わっただろうか?
彼女の間接キスが私に通じないことが彼女の想い人へ同じ方法が通用しないと言う論法だと言うのなら、私に通じるのであるならば同じことが彼女の想い人に有効だと言う話にだってなるはずだ。
通じないわね、と返すことが彼女の恋が叶わないと言い捨てることになるのなら、
通じたわ、と返すことは私が彼女の恋を応援するという姿勢を見せることにはならないだろうか?
我ながら無茶苦茶な理屈だとは思うけれども、私は他に蓮子にかけられる言葉に心当たりがなかった。
一秒が経ち、二秒が経った。
それでも彼女は無言のままだった。
不安に思って名前を呼んで初めて、ちょっと待って、と言わせることに成功したけれども、それにしたってあまりに無言が過ぎる。
「それってさ、つまり応援してくれる、ってこと?」
やがてたっぷり五分くらいかけて正解を口にしてくれて、間違えて受け取られなかった事に複雑な安堵をおぼえながら、私はそれに頷いた。
「わ、分かりにくかった?」
「そりゃ、ね。ちょっとびっくりしたし。――愛の告白かと思ったわよ」
「え、やっ」
「うん、分かってるって。冗談冗談……だけど、もうちょっと言い方ってものがあるじゃないのよ」
蓮子の声はまるで何かを隠しているのかと勘ぐってしまえそうなくらい穏やかで、ひとまず私は息をつく。
「あったかも知れないけれどもね? ほら、さっきの食事中に空気を変にしてしまったから」
「だからって引用しなくても良かったのに」
「謝るなら今しかないと思ったのよ」
「……それで謝らなきゃいけないのなら、過剰に反応した私だって同罪よね」
ごめんなさい、が被ってしまった。
それで、どちらともなくクスクスと笑う。
正直な感想としては、いまだにギクシャクとした雰囲気は薄れていないのだけれども、それでもさっきまでと比べれば段違いである。
なにせ一緒に笑えるのだから。
それだけで、私にとって彼女と一緒にいられることは大きな意味を持つのだから。
「あー、でも、応援してくれるのはありがたいけれども、できればメリーには何もしてほしくないかなぁ」
「え? どうして?」
「どうしても」
いつか、彼女と一緒にいる人は私以外の誰かになるのだろうか。
蓮子と一緒にいるのは一喜一憂の差が激しすぎて、たまに身がもたないと思う時もあるけれど、それでもそんな日を想像するのは寂しい。
けれども、私がいつまでも彼女の隣を占領し続ける事は難しいし、それは無理といっても過言ではないと思う。
ハンプティダンプティは塀の上にいなくてはならないのだ。どちらの側に落ちたとしても割れて取り返しのつかないことになってしまうのは目に見えているのだから、生まれおちたその時からずっと塀の上で殻の中に居続けなければならない。
陽の目は夢見る程度で良い。
そこにずっと私が映り続けると言うことはないのだから。
……まあそれは、殻をかぶり続けている方にも問題があるような気もするけれども。
だから、少なくとも今はこうして肩を並べて歩けるうちはその幸せをキチンと味わっていたいと思う。
それに、きっと彼女が誰かとお付き合いする日が来たとしても、その誰かが私以上に彼女と親しくなって、彼女とその人が親しげにするのを見てとても悔しくて寂しいことだと感じてしまうことはあるだろうけれども、それを理由に私と彼女が疎遠になる日は来ないだろうとも思う。
根拠なんてない、こんなのはただのこじつけだ。
でも、
「あ、そうだメリー、お願いがあるんだけれど」
「どうしたの?」
「……申し訳ありませんが、明日の朝ご飯を食べられそうにないので、今晩また泊めてはいただけないでしょうか?」
「え、なに? たかりのお願い?」
「できれば、もう数日民宿まえりべりーに宿泊させていただければ、もう言葉もありません」
「……ちょっと」
「本末転倒は重々承知です」
「――もう、しょうがないわねぇ……」
でも、私と蓮子が並んで立つその間に、境界が見えたことなどただの一度もないのだから。
私たちは、私たちが望む限り、ずっと隣りに居続けられる気がするのだ。
今番→今晩
なんかもう一ヶ所くらい誤字があったような…
終わってしまうのですか……残念です
切なくて少し甘い秘封、ごちそうさまでした!
で続きは?www
>は言ってきた
入ってきた
など。
続かないんですか、この作品……。
楽しみにしてたんですが。
またいつか続き(というか秘封)を書いてくれることを期待していますw
ここがかわいいw
…
……
………
…………
えええええええええええええええ?!
…まぁ仕方ないか。
で、続きはいつ?
続きはいつだコルァ!
あえて言おう!ぎぶうぃーぷりーず つ・づ・き!
続きじゃなくて新章突入とかはどうでしょ
うーん、そしたらこの時間。寝る前に軽く読もうと思ったら止まらなかったよ。ご馳走さまでした。
あえて。続編じゃなくて良いから次も秘封で、と言ってみる。
三作全て楽しませて頂きました。
気持ちのすれ違いスキーとして、一文一文興奮に悶えながら読みました。
さらにカカオの減った二人の関係も気になりますが、深く追求するのも野暮ってもんですね。
次の作品も楽しみにしています。
そして続きはいつですか?
何よ……結構イケるじゃない……。
故におかわりをしょもーう。
俺はあめえのが好きなんだ
だがしかし、こういうのもいいね…
ムカデになるまで蛇足付けて下さって構いませんよっ!?ww
続きを所望しますが,無理はなさらず。
貴方が書く他のキャラも読んでみたいです。
それを直すついでに続編なんか書いてくれるとありがt(ry
うん新作でも続き物でもとりあえず読みたいんだw
文句なしの100点を……