妖怪の山の上にある守矢神社から見下ろす幻想郷の風景は、自分にとってはそれこそ幻想的なものだった。外の世界と同様に四季があるこちらも、今では秋を迎えている。おそらくは今日もどこかで、豊穣の女神たちが喜びの時間を満喫していることだろう。妖精たちと一緒になって、笑顔で踊っているに違いない。その光景を想像すると、自分の顔もほころんだ。
「やっぱり、神様と自然が一緒にいるというのはいいものです」
優しく柔らかい風に靡く髪を手で押さえつつ、東風谷早苗は呟いた。白と青で構成された巫女服を着た少女で、長い髪にはそれぞれ蛙と蛇の髪飾りがある。
「季節が変わるとどうしても、景色を眺めるのが楽しみになってしまいますね」
少々年寄りじみた趣味とは思うが、それでもしばらく飽きなさそうだな、と感じていた。外の世界にも四季はあった。自然も同様に。だが、それらに感謝し神を敬う信仰心は、外の世界には殆ど残されていなかった。
「だからこちらの世界に住むことになったわけですけど」
そうして幻想郷に引っ越しをしてきて、早くも二年が経過している。外でもこちらでも、様々な問題を山積みにしてしまった守矢神社の引っ越し騒動だったが、近頃はそれらもどうにか落ち着いてきている。こちらの世界の住人との間に起きたいざこざは概ね解決したし、山の河童たちとは特に良好な関係が築けていると言えるだろう。早苗自身や、早苗が仕える二柱の神様たちも、信仰心の得られるこの世界に満足している。
何も無い平和な日々。
だからこそ、事件が起きるまで誰もが、彼女の体に起きた異常に気付くことは出来なかったのだ。
境内の掃き掃除を終えた早苗は、竹箒を片手に長めの息を吐き出した。山の上にある神社の気温はそれ程高くないものの、広大な境内を掃除するとそれなりに体温も上がる。流石に汗ばむほどではないが。
「次は手水舎かなぁ」
実のところ、この神社の参拝客の中でわざわざ手を清める者は非常に少ない。参拝の作法すら、浸透しているとは言い難かった。訪れる者の九割以上が妖怪であるため、それも仕方ないことと言えるだろう。麓の分社には、里の人間も多く来てくれるのだが。
「まぁ、実力で妖怪の山を登ってこられる人間なんてそりゃ少ないでしょうけど」
天狗たちの築くセキュリティは非常に厳重なものである。あれを力尽くで突破できる人間など、早苗が知る中では博麗霊夢と霧雨魔理沙ぐらいのものだろう。あとは名前は忘れたが、吸血鬼に仕えているあの奇妙なメイドか。
(そういえばあの竹林に住んでる白髪のお姉さんも、一応人間なんでしたっけ? 永遠に年を取らなくて絶対に死なない、なんて聞きましたけど)
亡霊の姫君に仕えている庭師の少女も、半分は人間だという。意味がよく分からなかったが、自分と似たようなものだろうか?
(……それにしても誰もが人間離れし過ぎてて、もう何が何だか)
どこまでを人間としてカウントしていいのか判断に困る。やはり幻想郷は常識に囚われてはいけない場所だった。里などにはごく普通の人間も大勢いるのだが、一歩道を外れれば奇妙な存在だらけである。
どちらにせよ、そうして山を登ってこれそうな人間たちの中に、わざわざ参拝をしようなどと考えつく者はいそうにない。特に博麗霊夢などは商売敵と言うべき間柄である。神社は商売ではないが。
余計な考えは中断して、手水舎を掃除するための束子を取りに行こうとした時だった。本殿の中から、一人の女性が顔を出す。胸元に鏡の付いた赤い衣装を着たその女性を見て、早苗は声を出した。
「あら、神奈子様。おはようございます」
彼女――八坂神奈子が起きてくる時間としては、珍しく少々早い。少しばかり驚いたのだが、当の神奈子はそんなこちらの心情は全く興味が無い様子だった。忙しなく辺りを見回している。
怪訝に思い、早苗は訊ねた。
「何かお探しですか?」
「諏訪子が見当たらないんだけど……あなた見てないかしら?」
「諏訪子様ですか?」
神奈子が洩矢諏訪子のことを探すなど珍しいことである。用事があっても、呼びかければ大抵すぐに見つかりそうなものなのだが。
「私はお見掛けしませんでしたので……境内の方にはいらしてないと思いますよ。神楽殿の方ではないですか?」
「あっちの方は全部見たのよねぇ。押し入れとかも全部開けて徹底的に探したんだから間違いないはずよ」
いったい何をしてるんですかあなたは。
言葉は喉元まで上がってきていたが、早苗は意志の力で無理矢理それをねじ伏せた。押し入れを開けて中に顔を突っ込む神様というのは実にありがたみのない話だが、かといって不敬があってもいけない。
口からは、全く別の言葉を発した。
「では神社にはいないのではないでしょうか」
「あの子がここ以外の何処に行くって言うのよ」
「また間欠泉センターかもしれませんよ? 巨大ロボはともかく、核融合炉の調子は気になるみたいでしたから」
言うが、神奈子はどうにも納得できない表情を浮かべていた。そのことに若干の戸惑いを感じる。彼女の様子は迷子を捜す親のようであるが、実のところ諏訪子の方が彼女より年上だという話を聞いたことがある。早苗は諏訪子が何者なのかよく分かっていなかったが、数多くの土着神や大地そのものを統べるあの神様を心配する必要など、何処にも無いのではないかと思えてならなかった。諏訪子に害を与えられる者など、この幻想郷中を探してもそうは見つかるまい。
腕組みして何か考え事をしている神奈子に、取り敢えず声を掛けてみる。
「何かお急ぎの御用事ですか? 諏訪子様が戻られたらお伝えしますけど」
「そういうのじゃないのよ……」
神奈子は片手で顎を摘みながら、神妙そうな顔をしていた。彼女のこんな様子など、今まで殆ど目にしたことがない。彼女が勝手に造り出した核融合炉の件で博麗霊夢からこっぴどく叱られたときなども、神奈子は平然としていたのだ――それはそれでどうなんだと早苗は強く思っていたが。
ゆっくりと言葉を選ぶようにしながら、神奈子が口を開く。
「別に何が、ってわけじゃないんだけどね……。なんていうか、あの子に良くないことが起きるような気がして」
彼女は独り言のように小声で続けている。
「早朝に目が覚めて、それからずっと、妙な胸騒ぎがするのよ……。それで取り敢えずあの子を捜してみたら何処にもいない。これっておかしなことじゃない?」
そこでようやく、神奈子はこちらを見た。目線が合うことで初めて気付く。あまりにも現実離れし過ぎたことのため浮かばなかった発想だったが、彼女は狼狽しているらしかった。
有り得ないことだとは思いつつも、彼女を宥めるために早苗は声を掛けた。
「神奈子様、まずは落ち着きましょう。諏訪子様が黙って外出されることなんて、最近は珍しいことではありませんよ」
幻想郷に来た当初は本殿に引き篭もりがちだった諏訪子も、最近は気軽に神社の外へ出掛けるようになっている。気が付くと数日間いなくなり、その後でひょっこり帰ってくることもよくある話だった。
だが、神奈子の表情は一向に明るくならない。
「私の嫌な予感は当たるのよ……。早苗が、小学校六年生のときに初恋の男の子にすっごい気合いの入ったラブレター渡して完膚無きまでにフラれたときだって、同じような胸騒ぎがあったわ」
「私の痛々しい思い出を克明に記憶しておかないで下さいっ!」
ちなみに当時サッカー部のエースだった彼からは、蛇も蛙も嫌いだから、と言われ断られたのだ。徹夜で作ったラブレターには、早苗が好きな蛇や蛙の絵が沢山描いてあった。
苦い思い出を払拭するように、首を激しく横に振る。
「私のことはどうでもいいですからっ! それに神様の危険と、私の初恋を同列に扱うのはどうなんですかっ」
額に手を当てて、神奈子は溜め息をついた。
「でも実際そうなのよ。こんな時は大抵、悪いことが起こるの。今まで外れたことがないわ」
嘆息と共に吐き出された言葉には、僅かほども力がない。生気と力強さに満ち溢れたいつもの神奈子らしからぬ様子だった。
ここまで落ち込んだ彼女の様子を見ていると、流石にこちらにも不安が伝染してくる。これまでより少し真剣な面持ちで、早苗は言った。
「……では取り敢えず、神社の外を探してみますか? 私も手伝いますので、手分けして」
「丁度良かったわ、二人とも揃って居てくれて」
突然割り込んできた声に振り向く。と、空間の裂け目から金髪の女が顔を出していた。ゴシック調のワンピースを着たその女は上半身だけをその裂け目から出して、こちらに話し掛けてきたらしい。
非常識の塊みたいなその女性とは、早苗も面識があった。
「八雲紫……さん?」
突然の来客にも、神奈子の態度は素っ気ない。
「今あなたに構っている暇はないのよ。遊ぶなら後にしてくれるかしら、紫」
言うが、紫は機嫌を損ねることもなく冷静に返してきた。
「たぶんあなたが心配していることと同じ件よ」
他人の心を見透かすような言葉を、この女は悠然と発してきていた。からかうわけでも嬲るわけでもなく、ただ落ち着いた様子で。
続けてくる。
「私も遊びで来たわけではない。いいから急いで神社の外へ来なさい」
一方的に告げて、紫は空間の裂け目へと体を潜り込ませていった。彼女の全身が入り込むのに合わせて裂け目も閉じる。いつ見ても見慣れない不可思議な能力だった。
横に並んでいる神奈子を見やり、早苗は聞いた。
「神奈子様、どうされますか?」
「……行ってみましょう。少なくとも、諏訪子は神社の中にはいないはずだし」
早苗は頷いた。どちらにせよ、ここにいたところで事態は何も変わらなさそうである。神奈子の理屈は正しいと思えた。
小走りで進み、境内から降りるための石段に差し掛かる。それほどの高さがあるわけではないので、石段を下っていった先にあるものもよく見えた。一の鳥居のすぐ下。しゃがみ込んだ白い衣装の人影と、その傍らで倒れている紫色の服を着た少女――
「諏訪子っ!」
早苗が事態を認識するよりも早く、神奈子が叫んでいた。石段を駆け下りることすらもどかしいのだろう。文字通り飛び上がった彼女は一気に下まで降りていく。早苗もそれに続いた。
「諏訪子様……!?」
着地してみて、改めて状況を確認する。蛙の文様をあしらった紫色の服を着た少女。愛用の帽子は脱げて傍らに置いてある。そして繊維の細い金髪で若干隠されてしまっているが、顔色が悪いことは明白だった。熱病に浮かされたように悶えている。小さな肩を上下させて、細い呼吸を繰り返していた。これまで全く見たことがない為実感しにくいが、諏訪子は衰弱しているらしい。
いったい何があったのか。
その疑問を言葉にしようとしたとき、諏訪子の傍で屈み込んでいた女が口を開いた。
「我々が発見したときには既にこの状態でした」
二股に分かれた奇妙な帽子を被った金髪の女は、一目で妖怪だと知れた。そもそも見覚えのある相手である。白い服を身に纏った、九尾の狐。八雲紫の従える式神、八雲藍だった。
「紫様は、下手に動かしてはいけないのではないかと仰っていました」
「だって、何で倒れてるのか分からないんだもの」
台詞と共に、紫が空間の裂け目から現れた。今度は上半身だけでなく全身を出している。閉じた日傘をステッキの代わりにでもするようにして歩み寄りつつ、彼女は続けた。
「神様がこれだけ衰弱しきった状態になるなんて、ただ事ではないでしょう。迷いの竹林から医者を連れてこようかとも考えたんだけど――」
言いながら、視線を神奈子の方へと向ける。
「同じ神様なら、何か知っているんじゃないかと思って」
「神奈子様……?」
神奈子は屈み込んで、諏訪子の様子を見ている。全員の視線が集まっていることなど気にも留めず、その幼い姿をした神様の容態だけを確認しているらしかった。
「神奈子様、諏訪子様はどうしてこんな……」
わけが分からなくなり、早苗は訊ねた。声が上擦ってしまったが、そんなことも気にならない。
「黙ってなさい、早苗。……諏訪子、起きてる?」
こちらを短く窘めた神奈子が、諏訪子の上体を抱き起こした。真剣な顔つきで、ゆっくりと。こわれ物を扱うような手つきだった。
「あら、触っても平気なのね」
何処かから取り出した扇子を口元に当てて、紫がどうでもいいことを言っている。呼び掛けられた諏訪子は全く反応がなかったが、神奈子は小さな声で繰り返し名前を呼んだ。かすれるような息吹しか返ってこないが、それでも何度も呼び続ける。
「諏訪子……諏訪子……」
「あ……うー……」
注意していなければ聞き逃してしまっていたかもしれない。それまでの喘ぎとは微妙に異なる、微かな呻き声が返ってきた。
思わず歓声を上げる。
「諏訪子様ぁっ!」
「静かにしなさい。……意識はある?」
やはり小声で早苗を叱った神奈子は、視線を諏訪子から逸らさないままだった。言われたとおりに押し黙り、早苗は諏訪子の様子を注視することにした。苦しそうな表情を浮かべた少女。顔全体が少し紅潮しているということは、熱もあるのかもしれない。だが、病気にかかる神様など聞いたことがなかった。
諏訪子が吐息と共に、もう一度声を漏らす。
「あうー……」
「意識はあるのね?」
神奈子の言葉に、諏訪子はゆっくりとだが肯いて返した。今の彼女を見ていると、それすらも重労働なのではないかと思えてしまう。早苗は思わず拳を握っていた。手の中の汗が凝縮される感覚が伝わってくる。
(……諏訪子様がこんな状態になってしまわれるなんて)
外の世界にいた頃から、このような事態に遭遇したことなど一度もなかった。大昔と比べ信仰心が減少した為、以前と比べ体力が落ちた、といった話は聞いたことがあったが。だが所詮はその程度だ。神と崇められる彼女が、今では只の人間などよりも余程弱々しい。
そのことに早苗が唇を噛んでいると、神奈子が別の質問をしていた。
「いったい何があったのか、説明できる?」
「あーうー……。ミシャグジさまが……」
「ミシャグジさまが、どうかなされたんですか?」
早苗は思わず口を挟んだ。言った直後、また叱責されるかと思ったが、神奈子は話を進めることを優先したらしい。視線だけで、諏訪子が喋ることを促した。
「制……私の……外……あーうー……」
言葉は途切れ途切れにしか発音されず、呂律もろくに回っていない。先程は神奈子の言葉に応えていたが、どうやら意識も朦朧としているらしかった。こちらとしては戸惑うばかりだ。
「神奈子様……あの、どうしましょう……」
おずおずと訊ねるが、神奈子は答えてこなかった。表情までは窺えないが、沈黙している彼女がどんな顔をしているのか。想像するのは少し怖ろしいような気がする。
神奈子の沈黙はたっぷりと一分以上も続いた。早苗からしてみれば、それは拷問のようなものでしかない――早苗が幼い頃から、彼女は自分を叱る際にまず黙るのだ。
自分が説教されているような心地のまま、頭の隅で別のことを考える。
(……どうしてこんなことになってしまったんだろう。諏訪子様は、ミシャグジさまが……って仰ってたけど。ミシャグジさまって、諏訪子様が従えている土着神ですよね? 祟りを起こす、蛇のような蛙のようなうにょろうにょろ)
微妙に違ったかもしれないが。まぁおそらくそんなに間違ってはいないだろう。思考は推測を続けた。
(ミシャグジさまが誰かに襲われたの? ミシャグジさまを打ち負かすような敵に挑んだ諏訪子様が、返り討ちにあった……)
筋は通る。だが、理由が分からない。以前諏訪子は退屈しのぎで博麗霊夢に弾幕勝負を吹っ掛けた、ということがあったが、これもそういうことか? 確かにその際、スペルカードとして使用したミシャグジさまの力は、博麗霊夢によって打ち破られていると聞く。
(あれ、でもおかしいですよね? その時の諏訪子様は、こんな風に倒れたりはしなかったし)
だとすると別の理由があるということだ。
「紫」
思考は、突然振り向いた加奈子の声で中断させられた。諏訪子を抱き起こしたまま、顔だけを金髪の女妖怪に向けている。凄みのある声で、神奈子は紫に尋ねた。
「あなた、こうなることをある程度予想していたんじゃないの」
それは質問と言うより、詰問のように響いた。煙に巻くことを許さない迫力で、神奈子の視線が紫を射貫いている。
「どうしてそう思うのかしら」
「普段、あなた自らがここへ来る事なんてまず無いでしょう。例えば……何か幻想郷に関連する事件でも起きない限り」
「たまになら来ているじゃない、私だって」
「宴を開くときだけでしょう、あなたの場合。それに私が諏訪子を起こしたとき、触っても平気か、と言っていたわね。あれはこの子の身体に起きた異常が何なのか、ある程度の察しが付いていたからこその台詞じゃないかしら」
「ゆ、紫様……」
問い詰められている主人よりも、その飼い狐の方が余程狼狽えていた。九尾の狐をこれだけ震え上がらせる事が出来る人物というのも、そう多くはないだろうとは思うが。
(実のところ横にいる私もちょっと怖いですし)
胸中でだけ呻く。だが、当の本人であるところの紫は平然とした様子だった。畳んだ扇子を仕舞いつつ、
「ま、いいわ。別に隠す必要のあることでもないしね」
「何の話よ?」
「あなたたち二人に見せたいものがあったから来たのよ。本当は二人ではなく三人に……のつもりだったんだけど、一人はちょっと動けなさそうでしょうし」
言って、苦しそうに息を切らせている諏訪子を見やる。彼女の視線につられるように、早苗も目線を下げた。普段は陽気で無邪気な、少女そのものの神様。彼女は、早苗が幼い頃からその姿のままだった。おそらくは早苗が生まれるよりも前、遙かな昔からずっと。
見た目だけで言えば、今となっては姉妹とすら言い難いほどに年の離れた少女。だが、早苗は子供の頃からずっと、彼女と共にあったのだ。
(神奈子様も諏訪子様も。私は神として敬うと同時に、母親のように想い慕ってきた)
だからこそ、彼女を救いたいと思う。
早苗が結論に至るのと同時、神奈子が質問をしていた。
「あなたの言う見せたいものっていうのは、ここには無いものなのね?」
紫は小さく頷く。
「そうね」
「それを見たら、この子は治るの?」
「直接的な治療にはならないでしょうけど、治療法を見つける役には立つかもしれないわね」
「じゃあ、見たところで何の治療法も見つからない可能性もあるわけね」
「そうね」
賢者を気取るその女妖怪は、否定もせずあっさりと頷いた。その不遜な態度に神奈子が怒るのではないかと思ったが、その予想は裏切られた。代わりに彼女は、早苗が想像していなかったことを口にする。
「早苗。あなた紫と一緒に行ってきなさい」
「は、はいっ?」
唐突に指名され、早苗は裏返った声を上げた。自分で自分を指さして、
「私一人でですか?」
「今の諏訪子を一人にはしておけないでしょう。私はこの子と一緒にいるわ。だからあなたが行って、紫が見せたいものとやらを見てきなさい」
「はぁ……」
「あなたは本当に来なくて良いの?」
紫が言う。だが、神奈子の返答は迷いを感じさせない程はっきりとしたものだった。
「早苗は得た情報を私に伝えられない程、莫迦でも愚鈍でもない。必要な情報は私の元へ必ず持ち帰るわ。この子を治療する方法の手掛かりが本当に得られるのであれば、その報告の後で私が判断すればいい」
(ええと……努力します)
自分に向かって言われたわけではないのだろうが、それでも絶大なプレッシャーを感じて早苗は身を震わせた。面と向かって何か言われるのよりも、余程の重圧がある。
神奈子の言葉に、紫は唇を吊り上げた。
「良い使い魔なのね。それとも、使い人かしら」
「まだ未熟でも、早苗は神様よ」
「……あぁ、そうだったわね。それじゃあ」
そこで言葉を切って、紫がこちらに体を向けた。射竦められたように、紫紺の瞳に魅入られる。彼女は早苗にだけ告げてきた。
「行きましょうか」
その言葉に応えるようにして、紫のすぐ隣の空間にあの裂け目が出現した。上下の端に何故かリボンらしき物が見えるが、お世辞にも可愛らしいとは言えそうにない。むしろ不気味ですらあった。思わず訊ねる。
「これに入れってことですか……?」
紫が口角を上げたままで頷く。
(うぅ、何か嫌だなぁ。気持ち悪そう)
だが、そうも言っていられないだろう。この裂け目の中に、諏訪子を治す手掛かりがあるのだとすれば。
(それに、神奈子様は私を信頼してこの役目を任せて下さったのだから)
その事実で心を奮い立たせ、早苗は振り向いた。神奈子はもうこちらを見ていない。ただ黙って、意識のない諏訪子の方だけを見ている。
「神奈子様、諏訪子様。行ってきます」
「気を付けて行ってきなさい、早苗」
無言で頷いて、早苗は空間の裂け目の中に飛び込んだ。
陶酔にも似た、一瞬の浮遊感――その直後に体を襲ったのは、急激な落下感だった。
「き……きゃぁああああぁぁぁぁぁぁああっぁっ!?」
「落ちないように気を付けなさい」
妖怪の賢者が何か言っているような気がしたが、猛烈な風切り音と自分の悲鳴とでしっかりと聞き取ることは出来なかった。ただ重力に従って、垂直に落ちていく。
「……って入る前に警告しようとしたのに、いきなり飛び込むから」
また賢者の声。やはりよく聞こえないが。
(風祝であり現人神でもある私が空から落ちて死んでしまうなんて、笑い話にもなりませんよ……!)
そうは思ったが、慣れない土地の風を操ることは簡単ではない。決して不可能なわけではないが、心を通わせていない風は操りにくかった。
(まずは集中して……って、あれ?)
風を操るために全神経を研ぎ澄ませようとしたところで、ふと気が付く。今自分を取り巻くこの風には憶えがある。自分はこの風を知っている。
(この風……これは……)
今、自分が何処にいるのか。理解するよりも早く、早苗はその身を風に乗せていた。空気に抱き留められるようにして空中で停止し、そのままふわりと浮かび上がっていく。日傘を差した八雲紫が、こちらに対してからかうような瞳を向けているのが見えた。
「まだ未熟、っていう神奈子の言葉は本当らしいわね」
「確かに未熟ですけど、いいんです。これから立派な神になるんですから」
口を尖らせて抗議するが、心の中では全く別のことを考えていた。憶えのある風。即ち、自分が来たことのある場所。
「やっぱりここは……」
視線を巡らせて、呟く。想像していたとおりの、否、以前見たままの景色がそこには広がっていた。
広大な盆地の中に広がった街並みは古い箇所と新しい箇所とが混ざり、混沌とした様相を呈している。首都から伸びてきた高速道路などは、新しいものの筆頭だろう。街は観光地としての顔も持ち合わせている為、宿泊施設も多い。こちらも古びた旅館から、真新しいホテルまで様々だ。
「ここは……」
視界を邪魔する何かがある。それが自分の涙だと気が付くまで、早苗は数秒を要した。
上空から見下ろだけでは分かりづらいが、街中には至る所に神社があった。現代社会において無くなりつつある信仰心。それを、他と比べればまだ多少は色濃く残した街。そしてそれらを見下ろすようにして聳え立つ、標高千六百メートルを超える巨大な山。周囲の神社の御神体として祀られている山だ。
「ここは……」
二年前に見納めにしたはずの景色。もう二度と見るはずのなかった光景。
自然と涙が溢れてくる。嗚咽が混じることも抑えきれず、早苗は顔を覆って泣いた。
そこは、早苗の故郷だった。
「立派な神様になる決意はどうしたの?」
無粋な横槍を入れてきた八雲紫の方をきっと睨んだところで、自分が涙を浮かべたままだということを思い出す。手の甲でごしごしと顔を拭ってから、改めて彼女の方を見やった。泣いているところを見られた気恥ずかしさを隠すため語調を強めて、
「ちょ、ちょっと懐かしくなっちゃっただけですっ!」
「まぁあなたの場合半分は人間なわけだし、そんなに恥ずかしがらなくてもいいと思うわよ」
「……うぅ」
完全にお見通しだった。
「落ち着いたようならそろそろ行きましょうか。別にあなたを感激させるために、わざわざ外の世界に連れてきたわけじゃないのよ」
「わ、分かってますっ! 別に役目を忘れてたわけではありませんから!」
「それならいいんだけどね。いくわよ、半分が神様で半分がなよなよした人間の女の子」
「変な呼び方をしないでくださいっ!」
こちらを先導しつつ移動し始めた紫について行く。彼女は苦もなく飛行していた。おそらく、早苗とは全く原理の異なる力で飛んでいるのだろうが。
懐郷心を抱きながら暫く飛んでいくと、紫が途中で停止した。日傘の向きを直しつつ、こちらに言ってくる。
「着いたわよ、半分が未熟な神様で半分がホームシックでめそめそしてる人間の女の子でしかも未熟」
「だからそういうことを言わないでくださいって! ……って、ここは」
紫が案内してきたのは、早苗にとって見知った場所だった。そう何度も訪れたことがあるわけではないが、忘れたりするような所でもない。
山の斜面を無理矢理アスファルトで固めたような道の先、森に囲まれた中に一つの巨大な石がある。石と言うより、岩と表現した方が正しいようなそれは、直径がゆうに数メートルもあるようなサイズのものだった。
「……小袋石。でも――」
早苗はそこで言葉を失った。諏訪七石の一つと伝えられる、小袋石。その巨大な石の半分以上もの体積が、ごっそりと削られて無くなっていた。
無くなったその部分が何処へ行ったのかはすぐに推測できた。急な斜面の途中にある小袋石の場所から、麓の方に続く巨大な轍がある。石が転がっていった際に出来たものであることは間違いないだろう。その光景から考えるに、小袋石の破片は周囲の木などを薙ぎ倒しながら転がっていったということになる。余程の勢いが与えられたのか、それともこの石に宿る不思議な力によるものなのか。
(まぁ、諏訪子様が使役するぐらいの石ですからね。それぐらいの力は……って、そういえばこの斜面の下って)
唐突に思いつき、早苗は思わず呼吸を止めた。横から、紫の暢気そうな声が届いてくる。
「あら、気付いたみたいね。この先に何があるのか」
「この下って……私の家があったところじゃないですかあああぁぁっ!?」
絶叫と共に、早苗は飛び出した。目的地まで大した距離はない。地面を走ったとしても、一キロメートルも無いような距離である。空を飛んでいけばすぐだった。
この世界からいなくなったはずの自分がそうそう簡単に姿を現すわけにもいかず、上空から見下ろす。山の麓にある、かつての住まい。臙脂色の屋根をした古びた家屋は、二年前に見た姿のままだった。敷地内に併設された郷土資料館なども、特に変わりない様子である。早苗は胸をなで下ろした。
「よかった……。無事だったんですね」
「無事じゃないでしょ、よく見なさい」
のんびりと追いついてきた紫が言ってくる。彼女が扇子で示した方向を見やり、早苗は思わず絶句した。息を吐き出そうとして失敗し、代わりに咳が出る。
「……お社が」
早苗の暮らしていた家の庭にある小さな社が、無残にも破壊されていた。何者がその破壊を行ったのかについては、嫌でも想像が付く。すぐ傍らに、見覚えのある巨大な石があった。
「斜面を転がってきた小袋石の破片が、お社を壊してしまった……?」
「二日前」
推測を口にした早苗の横で、紫が淡々と告げてくる。
「二日前に、山の方で巨大な地震があったのよ。麓の街にもそれなりの被害は出たみたいね。古い家屋の中には、倒壊したものもあったはずよ。その際、あの石が砕けて――」
紫はそこで言葉を切った。あとは早苗の推測通りということなのだろう。早苗は紫の方を見やった。苦笑するように唇を歪めた賢者が、言葉を再開する。
「皮肉なことに、街では信仰心が再び高まりつつあるのよ。転がってきた大岩が人的被害を出さなかったのは、お社が身代わりになってくれたお陰なんだ、とね。大社の方では地元の人間が感謝を込めて大勢参拝しているわ。この『奇跡』が報道されれば、全国から参拝客が来るようになるかもしれない。全盛期の勢いとまではいかなくても、かなりの信仰心が戻ってくることになるでしょうね」
「……人は、自分たちのためになるような例を目にしなくては神の奇跡を信じられませんから」
それは早苗が自らの人生の中で学んできたことだった。ただ風を操る程度の奇跡ならば、それは手品と同列に扱われ一笑に付される。何の記憶にも残らないことだ。だがもしその風が自分たちに何か良いことをもたらすというのであれば、人はこぞって早苗を祭り上げようとしていただろう。
「利益(りやく)よりも利益(りえき)……そんなところでしょうね」
無感動に、紫が言う。沈んだ気持ちのままで早苗は頷いた。
「それに、このお社に祀られているミシャグジさまはそもそも――」
言いかけた自分の言葉で、早苗は重要なことを思い出していた。思いがけず言葉を途切れさせたことで舌を噛みそうになったが、そんなことには構わず声を上げる。
「そうだ、ミシャグジさま!」
「思い出したかしら? 私が一番見せたかったのはこれのことよ」
紫が、呆れたような嘆息と共に言ってくる。そのことは無視して、早苗は改めて破壊された社を見た。跡形もなく粉砕された社。修業時代、ここにはミシャグジさまと呼ばれる神様が祀られていると聞かされたことがあった。諏訪子は、そのミシャグジさまを使役しているという話も同様に聞かされていた。
(諏訪子様が呟いていたミシャグジさまという言葉……。壊れたお社……。もしかして……)
頭の中で、思考の欠片が徐々に形づくられていく。
「私はこれを見たから、あなたたちの神社に何かが起きるのではないかと思った」
隣に浮かぶ紫が言う。早苗は無意識の内に頷いていた。
「祀られた社を失ったミシャグジさまが暴走して、諏訪子様の体に影響を及ぼした……ということですか」
「ミシャグジさまっていうのは祟り神なんでしょう? だとすればあの小さな神様の体に起きた異常は、そのミシャグジさまの祟りということになるのかしらね」
紫が諏訪子の体に触れてはいけないのではないかと想像していたことも納得できた。触れてしまえば、祟りが伝染ると思ったのだろう。だが早苗が知る限りでも、ミシャグジさまの祟りはその程度のことでは済まないはずだった。あの絶大な神力を持つ神奈子ですら、ミシャグジさまを怖れていたというのだ――神奈子自身から聞いた話なので、間違いはないはずである。
(でもそれにしては、諏訪子様お一人にしか影響が出ていないというのは……)
下手をすれば、幻想郷中に恐るべき祟りを振りまこうと暴れていてもおかしくはない。それが諏訪子だけでとどまっているというのは、妙な話と言えば妙な話だった。
「もしかして……」
考え込んだ末の推論を口にする。
「ミシャグジさまが諏訪子様だけに影響を及ぼしているのではなくて、諏訪子様がミシャグジさまの暴走を止めようとしてらっしゃるのではないでしょうか?」
早苗は紫の方を見やった。普段はなかなか姿を見せようとしない、妖怪の賢者。但し、幻想郷に危機をもたらすような異変にだけは、積極的に関わりそれを排除しようとするという。
「暴走したミシャグジさまが幻想郷全体に祟りを振りまくことがないかを調べるため、あなたは守矢神社に来た。……違いますか?」
言いながら人差し指を突きつけようとしたが、紫は小さな笑みを浮かべた後で、あっさりと首肯してみせた。
「未熟ではあるけど、莫迦でも愚鈍でもない、か。神奈子の言ったとおりのようね」
「あの狐をあちら側に置いてきたのは監視のためですか?」
「そうよ。藍は信頼できるもの。何かあれば、すぐにでも私に知らせてくれる」
言いながら紫は扇子を開いた。ぱたぱたと首元を扇ぎつつ、
「それで、どうなのかしら。こうして原因は掴めたわけだけど、これでミシャグジさまの暴走は抑えられる?」
「それは……」
拳を握り、唇を噛んだ。無力さに思わず俯く。悔しいが、これに関しては自分は完全に専門外だった。ミシャグジさまに関する口伝の大部分は、自分よりも前の代で失伝してしまっている。一子相伝という制度の弊害だろうが、こればかりは今更嘆いたところでどうにかなるものでもない。
諏訪子ならば分かるのだろう。しかしあの状態では、会話すらままならない。
(いいえ、でも……)
自分には、諏訪子と同じぐらいに信頼できる者がもう一人いる。早苗は顔を上げた。
「神奈子様なら分かるかもしれません」
悔しさから握った拳に、異なる決意からの力を込める。諏訪子を必ず救ってみせるという、確固たる決意から。
故郷の街並みを背後に、早苗は告げた。
「帰りましょう。幻想郷に」
八雲紫が浮かべた笑みは、それまでのものとは違うように見えた。
紫と共に幻想郷へと帰還した早苗は、何処かへと消えた紫には興味を示さず、すぐさま神奈子と諏訪子の元へ向かった。病院へ移されているかもしれないとも思っていたが、神奈子はどうやらそれをしなかったらしい。本殿の中にある部屋に布団を敷き、諏訪子をそこに寝かせている。
「只今戻りました」
挨拶もそこそこに、早苗は報告をした。外の世界に戻り、故郷の地で目にした光景。天災により破壊された社。それにより暴走を始めたミシャグジさまのこと。
短い相槌以外は全く言葉を発さずに聞いていた神奈子だったが、こちらが話を終えたところで大きく溜め息をついた。息を全て吐き出した後で呟く。
「……どうしようもない」
「は、はい?」
思わず聞き返す。神奈子は力ない様子で首を横に振った。
「どうしようもないわ。私がどうにかできるようなことではない」
「そんな……。でも、神奈子様お一人でなくても、私だっていますし……」
「そうね。幻想郷中の力ある妖怪たちも総動員すれば、ミシャグジさま自体はどうにでもなるかもしれない。それでも、諏訪子の体に起きた祟りそのものはもうどうしうもないの」
彼女の言葉は、早苗にではなくむしろ自分自身に言い聞かせているようでもあった。彼女も、その事実を認めがたいのだろう。早苗は無力さに歯噛みした。
神奈子が続ける。
「祟り神の力というのはね。一度発生してしまえば、もう何の手立てもないからこそ怖れられているのよ。簡単に怒りが収まって、起きた祟りの全てがそれで無効化されてしまうようなら、祟り神はああも怖れられることはなかった」
「……それでは諏訪子様はどうなってしまわれるのですか」
早苗は横たわる諏訪子を見た。病床に臥せる少女のように、静かに呼吸をしている諏訪子。それを、何の手立てもなくこのまま見ているだけというのはあまりにも酷だった。
神奈子はこちらから顔を逸らすようにして、諏訪子の方へと目を向けた。そちらを見ても、そこにあるのは絶望だけだっただろう。だがそれでも、彼女はその絶望の中心から目を離そうとはしなかった。
「あなたの話を聞いて分かった。この子は今……懸命に戦っている。自分の中で、自分以外のもののために、懸命に」
「自分以外……」
「それは私でありあなたであり、そして……この子にとって第二の故郷となった、幻想郷のためでもある」
神奈子の言葉に、早苗は思わず頷いた。
彼女の言葉は理解できた。当初はこの幻想郷への移動に難色を示していた諏訪子も、最近ではすっかりこちらに馴染みつつある。天狗や河童と交流している彼女の姿は、以前よりも楽しそうに見えた。だがそれも当然である。外の世界にいた頃、神奈子や諏訪子が言葉を交わせる相手というのは、彼女自身らを除けばあとは早苗しかいなかったのだ。現在では眠りについている数多くの土着神たちや、或いは彼女らの信者たちと対話が出来た時代は、今はもう遙かな昔であると聞く。だからこそ、諏訪子はこの世界が楽しかったのだろう。
(そして今、諏訪子様はその第二の故郷を守るため、必死に戦っている)
目尻に涙が浮かんだ。僅かででも良いから、諏訪子の力になりたいと思う。だが、今の自分に出来ることなど何も無いのだ。それが悔しい。
「泣くのはおよしなさい、早苗」
こちらに目も向けないままで、神奈子が言ってくる。泣いていることがどうして分かったのか、早苗には見当も付かなかった。
「あなたの涙でこの子の体が救えるの?」
そう言ってこちらに顔を向けた神奈子の目には、涙の一滴も浮かんでいない。
(……強い御方です)
素直に、それを凄いと思う。無力さを嘆いているのは、早苗よりもむしろ彼女の方だろう。神奈子と諏訪子の関係は、おそらく自分などが考えているものよりもずっと深いはずである。だが、神奈子は泣いていない。
「諏訪子はまだ戦っているわ。だから、私たちが絶望に打ち拉がれていてはいけない」
「……はいっ」
涙を拭い、早苗は言った。
同時に、自覚する。自分はやはり、まだまだ未熟なのだ。彼女たちのように偉大な神には、まだ遠い。
(でもだからこそ、この方たちと一緒にいられることを、私は感謝したい)
諏訪子が早く良くなるよう、早苗は心から祈っていた。幸いなことに、祈るべき神はここにいる。だからこそ、早苗は祈っていた。
一日が経ち。二日が経ち。そうして五日が経つ頃になっても、諏訪子の体調は快方へ向かうことはなかった。むしろ、徐々に悪くなっていると言える。早苗は決して取り乱すことなどないよう努めていたが、それで事実が変わるわけではなかった。諏訪子はそれまでよりも徐々にだが、確実に衰弱している。何も食べず、起きている時間が短くなった。これまでも彼女は時折、蛙の冬眠などと称して長期間眠ることがあったが、そういったものとは違うことは考えるまでもなく分かる。
せめて少しでも彼女の力になれれば。それを願った早苗は自らの睡眠時間を削り、諏訪子のために献身的な介護を続けていた。
十日を過ぎたところで、ようやく事態に良い変化が起きた。諏訪子が起きている時間が、それまでよりも長くなったのだ。十日間まるで何も口にしなかった彼女だったが、目を覚ましたときに笑顔で言ってきた。
「あーうー……。ねえ早苗……お腹が空いたよ」
まだつらいのだろう。諏訪子の笑みは、多少ぎこちないものではあった。
それでも、諏訪子がそれまでより微かにでも元気を見せてくれたことが嬉しくて、早苗は腕に縒りをかけてお粥を作った。諏訪子は結局殆どを残してしまったが、それでも美味しいと言ってくれた。
さらに十日が経って。諏訪子の体調は回復の兆しを見せつつあった。急激に良くなったりはしないものの、かといっって悪化することもない。相変わらず体力などは極端に低下してはいるものの、それは良い兆候の筈である。
彼女は起きている間、早苗と話をしたがった。
「ごめんね早苗……なんだか迷惑掛けっぱなしで」
布団の上で上体だけを起き上がらせて、そう謝罪してきた諏訪子に、早苗は首を横に振って返した。
「何を仰いますか。諏訪子様が頑張っておられるのですから、それを支えるのは私の役目です。他の誰にも譲りませんよ。勿論、神奈子様にだって」
「あーうー……。良い子に育ったよねぇ、早苗は。子供の頃はあんなに泣き虫だったのに」
「昔のことは忘れて下さいっ! 神奈子様も諏訪子様も、私の過去を記憶しすぎですっ」
「私たちはあなたより長く生きているからね。時間の感覚がちょっと違うのさ。早苗も一人前の神様になれればきっと分かるよ」
そう言って、諏訪子がこちらへ手を伸ばしてくる。弱々しい手つきで、彼女は早苗の頭を撫でてくれた。その手に、自分が想像していた以上に力が込められていないことを感じつつ、早苗は微苦笑した。
「なれるでしょうか、私も立派な神様に」
「なれるよ。あなたは私の――」
そこで一度、諏訪子は言葉を切った。こわれ物のような笑みを浮かべたままで、唐突に話題を変えてくる。
「八雲紫に連れられて、故郷に戻ったんだって?」
「は、はい……」
彼女が何を言おうとしていたのかが分からなかったので戸惑ったが、早苗は無理に問い質さなかった。意識もなく寝たきりになってしまっていた諏訪子とこれだけ話すのは久々なのだ。彼女と会話が出来ることが、純粋に嬉しかった。
「戻ったと言っても、本当に短い時間だけでしたけどね」
「何か変わっていた?」
「んー……どうでしょう。殆どの場所は、上から見ただけでしたから。でも、たった二年では、人間の街というのは大きく変わらないような気がします」
「へえ。どうしてそう思うの?」
「上手くは言えないですけど……そういうのって、もっと永い時間を掛けて少しずつ変化していくものだと思うんです。良い意味でも、悪い意味でも。実際私たちのいたあの街だって、そうしてゆっくりと変化をしてきたわけですよね」
諏訪子は笑顔を崩さないままで、こちらの話を聞いている。早苗はそのまま続けた。
「何かの拍子で突然変化することだって、無いわけではないでしょうけど……どちらかというとそっちの方が本来は異質なことなんじゃないでしょうか。今回は地震で小袋石が崩れたことで、ミシャグジさまのお社が壊れてしまったわけですけど……街の人々がお社を復旧させて、小袋石を元の場所に戻したとすれば、それは大きな変化が起きていないことど同意になるのではないかと思って。同様に、地震で倒壊してしまった家屋なども、人は必ず建て直すことでしょう。そうすれば、やはり目に見える変化という意味ではまだまだ永い時間が掛かることになります……って、私何言ってるんでしょうね? なんだか自分でもよく分からなくなってきました」
気恥ずかしさに後ろ頭を掻く。笑顔のままで聞いていた諏訪子が、こちらに声を掛けてくれた。
「早苗はきっと、立派な神様になれるね」
「どうしたんですか、突然」
「……きっとなれる。私が保証する」
「ありがとうございます……。なんだか、そんなに褒めて貰ったことって今まで無かった気がしますけど」
諏訪子が再び手を伸ばした。こちらの頬に触れさせてきたその手が微かに震えていることを、早苗は気が付かないふりをした。笑顔のままで、彼女がゆっくりと口を開く。
「早苗にはもっと伝えたいことがいっぱいあったんだけど――ごめんね」
告げて、諏訪子の体が倒れた。
「諏訪子様!」
崩れ落ちた諏訪子の体に触れて、早苗は必死に声を張り上げた。あまりにも唐突のことに心臓が跳ね上がる。息が詰まり、呼吸することが苦しかったが、それでも早苗は諏訪子の名前を呼んだ。
「諏訪子様、諏訪子様っ!」
強くなりすぎてしまわないよう気を付けながら、彼女の細い肩を揺さぶる。だが反応はない。芒色の髪がさらさらと揺れた。
もう流さないと誓った涙が、意志に反して溢れてくる。早苗は泣きながら叫んでいた。
「諏訪子様……すわこさまぁっ!」
「早苗ッ!?」
勢いよく襖を開けた神奈子が駆け寄ってくる。滑り込むようにしてこちらの隣に屈み込んだ彼女が、早苗に代わり諏訪子の体を抱き上げる。
「諏訪子、諏訪子! ちょっと、目を開けなさい! コラ、諏訪子ってば!」
神奈子が体を揺さ振りつつ呼び掛けるが、諏訪子は彼女の腕の中で力なく揺れるだけだった。これまで聞いたこともない、神奈子の金切り声が響く。
「私はこんなの認めないわよ! あなた、私と何回喧嘩したっていつも元気だったじゃないの! それがこんな程度のことで……そんなの私は絶対に認めないわよっ! だから起きなさい、起きなさい諏訪子っ!」
為す術もなく、早苗はその光景を見ていることしかできなかった。心が、その受け容れがたい事実を認識しようとしない。理解することを拒絶しようとしていた。前が見えなくなるほどの涙が、一気に溢れてくる。
(だって……さっきまであんなに御元気で……私とずっとお話をしていてくれて……)
手の甲に涙が落ちた。その涙と一緒に、心から溢れ出てくる想いも止まらない。
(私のことを褒めて下さって……最近はずっと御元気で……諏訪子様、ご無理をなさっていたのですか……?)
諏訪子に対する問いかけの続きだけが口から出た。
「残された時間が少ないと分かっておられたから……だから私に笑顔を見せて下さっていたのですか……」
嗚咽が混じり、言葉は上手く発することが出来なかった。神奈子が諏訪子を呼ぶ声も、何処か遠くから聞こえてくるような気がしてしまう。
世界から遠ざかっていく自分の意識を呼び戻したのは、か細い声だった。
「あーうー……神奈子も、ごめんね……」
「ごめんじゃないわよっ! 詫びる気持ちがあるならもうちょっと根性見せてみなさい!」
「それは難しいかもねえ……。でも」
言いながら、諏訪子はこちらを一瞥した。早苗に笑顔を向けてくれたのだろうが、涙で歪む視界はそれを正確に映すことが出来なかった。
再び神奈子へと向き直った諏訪子の、弱々しい声が聞こえてくる。
「祟りが他へ振りまかれることはもう無いから、安心して良いよ……ミシャグジさまの祟りは、私一人でおしまいだ」
「だからって、あなたが助からないんじゃ意味がないじゃないのっ!」
「意味ならあるよ……。私は守ることが出来たんだから。外の世界も、この幻想郷も」
どれだけ拭っても涙は溢れて止まらない。早苗はせめて、諏訪子の言葉を聞き逃すことだけはないようにようと思っていた。彼女が遺す言葉の、たった一文字でも聞き漏らしてはいけない。そう感じた。
「……最初は嫌だったんだけど、来てみたら案外楽しいところだったね、ここも。だから神奈子には感謝してるんだ」
「そりゃ、あなたと早苗のためにやってきた場所だもの」
「ずっと感謝してたんだよ……。外の世界にいた頃から、千年以上も昔から、ずっと感謝してた。……あはは、ずっと言えなかったけどね」
苦笑した諏訪子が、その後で大きく咽せ込んだ。笑顔を作ることも、話すことも、彼女にはつらいことなのだろう。諏訪子の声が、それまでよりも少し小さくなった。
「神奈子……ありがとね」
「……こっ恥ずかしくなるようなこと言うんじゃないわよ」
「あーうー……でも、本当の気持ちだよ。ずっと……ずっと楽しかったからね。だから。だから……」
徐々にだが、諏訪子の言葉が繰り言のようになっていく。そのことがつらく、早苗は床につけた手に力を込めた。畳の目に爪の先が食い込み、爪が剥がれそうな痛みが伝わってくる。だが、それぐらいの痛みが無くては、平静を保っていられそうもなかった。
「私は神奈子のことも……早苗のことも……ずっと……ずっと……」
「諏訪子……」
「諏訪子様……」
乱暴に涙を拭い、早苗は諏訪子の方を見た。神奈子に支えられた、小柄な体格の神様。いつもと同じ、優しげな笑みを浮かべて、彼女は言った。
「私は二人のこと、ずっと大好きだったよ」
それが、諏訪子の最期の言葉だった。
諏訪子の亡骸は、妖怪の山に埋葬されることになった。彼女の葬儀には多くの妖怪たちが参列した。諏訪子の死を悼む妖怪は多い。河童や天狗などの中には彼女を慕う者も多かったため、特にである。
妖怪の山の麓に、諏訪子のための社が建てられた。神奈子の提案と河童の設計力、そして天狗の労働力で完成したその社は、魔法のような施工期間であるにも関わらず、故郷の大社に劣らない程に立派なものである。
「あの子は昔っから冬の寒さが苦手だったから……隠れた後も、それをしのげる場所を作ってあげないとね」
無人の社を眺めて、神奈子が呟いた。早苗がそちらを見やると、彼女は寂しげな笑みを浮かべていた。
思わず、声を掛ける。
「これだけ立派なお社なら……諏訪子様もきっと、喜んで下さると思います。それに」
「……それに?」
「ここならきっと、諏訪子様も寂しくないはずですから」
見渡せば周囲には多くの自然があり、また、人間の里から歩いてくることもそれほど難しくないような距離である。ここを訪れる者はおそらく多いだろう。賑やかな祭りが好きな諏訪子であれば、それはきっと嬉しいことに違いない。早苗はそう思った。
「喜んでくれてると良いけどね」
「きっと大丈夫です。だって、神奈子様が諏訪子様の為に作られたものですから」
「……そうだといいわね。本当に」
一番の親友であり、同時に家族でもあった神様のことを偲んでいるのだろう。神奈子の表情は明るくならなかった。鏡を見れば、自分もまた彼女と似たような表情を浮かべているはずだった。諏訪子がいなくなってしまったことは、こんなにも哀しく、こんなにもつらい。そしてそれを簡単に乗り越えられるほど、自分は強くなかった。
「……駄目ですね、私は本当に。諏訪子様のためにも、立派な神様にならなくてはいけないというのに」
呟きは、無意識の内に口から出たものだった。それは完全な独り言だったのだが、神奈子は聞いていたらしい。自嘲気味に言ってくる。
「私は立派な神様のつもりだったけど、その私ですらこんなに落ち込んでいるんだもの。これであなただけ立ち直っていたら、私が落ち込むわよ」
そう言った神奈子に対し、早苗は苦笑した。
「諏訪子様に叱られてしまうでしょうか」
「かもしれないわね。今回は私たち二人が、一緒に怒られなくちゃいけないわ」
ふと、社の外を見やる。秋の風を受けて、大量の芒が揺れていた。さらさらと、心地良い音が風に乗って運ばれてくる。
芒の海に目を奪われていると、神奈子がそちらへと歩み寄っていた。
「どうかなさいましたか、神奈子様?」
彼女は芒の手前で屈み込み、手を添えるようにして穂先に触れた。呟く。
「あの子の髪の色よ」
目頭が熱くなる。枯れ果てるまで流したはずの涙が、また視界を乱していた。思わずその場で膝をつき、早苗は泣いた。
「諏訪子様……」
「私は忘れないわよ、あの子のことを。私の大好きな、あの子のことを」
神奈子の言葉を聞いて、早苗は嗚咽と共に頷いた。何度も何度も頷いた。
そうだ。自分もまた彼女のことを忘れない。絶対に忘れない。
「諏訪子が寂しがらないよう、私たちはここで生きていきましょう。あの子が愛した幻想郷で」
「……はい。私も、諏訪子様のことが大好きですから……」
芒の穂先が顔をくすぐる。諏訪子が慰めてくれているようだと、早苗は思った。
暫くすれば、冬が来る。だが、今年の冬は寒くないだろう。諏訪子の傍には、早苗と神奈子の二人がいるのだ。暖かいに違いない。
(……いつでも一緒です。諏訪子様)
涙は止められそうになかったが、早苗は構わず泣いた。今日は泣いても良いだろう。隣で、一人前の神様であるはずの神奈子ですら泣いているのだから。
幻想郷の秋に、終わりが近付こうとしていた。
「……という、壮大なお芝居の脚本を考えたんだけどどうかしら」
「あーうー! これじゃ私死んじゃってるじゃないのさーっ! 作り直し作り直しーっ!」
「はいはい、神奈子様も諏訪子様も。そろそろ晩ご飯ですから、少し支度を手伝ってくださーい」
山の上の神様たちは、案外暇らしい。
やっべぇ
「ミシャグジさまの社倒壊」
のあたりから完全にタグが頭に無かった
これはイイ諏訪子詐欺
でもいろんな意味で心臓に悪い
諏訪子様は次回から松葉杖つきながら登場ですね。分かります。
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その目は何だ、その涙は何だ!?
早苗の涙でミシャグジが倒せるか?諏訪子が救えるのか!?
タイトルにつられました。
私は続きを望む。
いい芝居だこんちくしょう。
許せるっ!!