だからあなたのあしもとに、わたしのゆめをひろげたのです。そうっとあるいてくださいね。
なにしろゆめの、うえなのですから。
空気の匂いが変わってきた。長年屋外に立ち続けているせいだろうか、昔から、そういったことに対しては妙に勘がはたらくのだ。すうとひとつ息を吸い込むと、胸の内にぬるいけれどどこか底冷えしたように感じられる空気と香ばしい匂いが広がる。じわり、と染み渡るそれに浸りながら耳をすませてみれば、あれほど賑やかに鳴き続けていた蝉達の種類がもう数えずとも聞き分けられるくらいに少なくなっていることに気が付いた。二、三種類の控え目に鳴く蝉達の声に混じって聞こえてくる、カナカナカナ、というひときわ甲高い蜩の鳴き声が夕暮れの湖畔を彩っている。
たゆたう水面に映る空はただひたすらに、赤い。瞼を閉じてもそれさえも透けて赤く見えることは長年の経験で知っていた。
あれほど暑く、それでも全てのものが陽光を受けてきらきらと光っていた季節はもう終わろうとしている。これから今鳴いている蝉の声がいつの間にか蟋蟀や鈴虫のものへと変わっていって、徐々に山の木々がその葉を赤く染めていって、風呂から上がった時の脱衣所の空気がいつもより冷たく感じられるようになって。気が付けば両手に息を吹きかけるくらいに寒くなっている頃には、あれほど賑やかだった紅葉はもう既に枝から落ちてしまっているに違いない。どちらにせよこの場所からは、妖怪の山の紅葉など見られるはずがないのだけれど。それでもいつしか、なにもかもが白に埋め尽くされる頃となっては、この場所からも妖怪の山からも見える景色に大した違いは無くなっているのだろう。
帽子を目深にかぶって逃れようのない赤色を一時遮断する。視界の色が一転、暗闇。
何も見えない世界の中、蝉の声と背後からの足音が一層耳に響いた。
「職務放棄は関心しないな」
「残念、寝てはいないわ」
怪しいもんだぜ、とのたまいながら白黒魔法使いがこちらへと歩いてくる。真夏の光をいっぱいに吸収したような金髪が、夕陽を受けて不可思議色に輝いていた。そのくせ真っ黒な瞳をこちらに向けて、よう、と今更ながらに手を挙げて挨拶をする。
昼頃に彼女がこの館を訪れた時には挨拶する暇もなく館へと突入していってしまったので、今日話すのは今が初めてだ。ちなみに、寝ていたから侵入に気付かなかったわけではない。決して。
「今日の収穫は?」
「あー、グリモワ三冊に薬草図鑑2冊、それに茶請けに出たファッジってとこだな……。いずれにしても今の質問は門番が侵入者に堂々と訊くものとしてはどうかと思うがな」
「まあ、ね。でも何だかんだでパチュリー様も楽しんでおられるみたいだから。私が躍起になって出張る必要もないし」
「だからサボるのか」
「だから違うから」
疲れたような美鈴の声にいひひと魔理沙は笑い、手に持っていた帽子をいつものようにかぶると大きく伸びをした。ううん、と腹の底から絞り出すように唸り、腕を下ろした後はぁ、と大きく息を吐く。
「それにしても、もうすっかり秋だな」
「そうねえ。飛んでて寒くないの?」
「まあ、地上よりはかなり寒いがそこは慣れってやつだよ。寒さが怖くて魔法使いなんてやってられるかってな。それに、朝から晩までこんなところにぶっ続けて立ち続けるよりは寒くないさ」
「私は妖怪だし、どうしても我慢出来ない時は気功でもなんとかなるしね。そろそろ魔理沙も厚着にした方が良いんじゃない?」
「優しいな」
「優しいのよ」
二人で顔を見合わせて笑った。
先程よりも地面に落ちる影が長く、濃くなってきたような気がした。多分そのうち陽が落ちてゆくにつれて、この影の辺りの暗さにまぎれて徐々に消え入ってしまうのだろう。昔、この時期になるとそうやって影が見えなくなるまで、遊びに来た人里の子供達と影踏みをして遊んでいたことを思い出す。途中から主にバレてお叱りを頂いたせいで、泣く泣くもう一緒に遊べないと子供達には告げたのだが、実は今でもたまにここへ迷い込んでくる人間の子供とじゃれ合うことはある。あの時影踏みをしていた子供達はもうすっかり大人になっているだろうから、今でも自分のことを覚えているかどうかなんて分からないのだが。
視界が悪くなる前に帰ろうと思ったのか、魔理沙が何かの呪文を呟いてぱちんと指を鳴らすと、その手のひらの上にいつもの箒が現れる。日頃の相棒を満足そうに見遣った後、魔理沙は何かに目を留めたらしく顔を上げた。
「お。アキアカネだ」
音も無く滑るように飛ぶそれに目を走らせながらそう言う。気が付けば辺りには数匹のアキアカネが飛び交っていて、魔理沙は物珍しそうな顔付きで箒の柄を突き出してみるけれど、彼等は一向に興味が無さそうな様子でその横を通り過ぎてゆく。
美鈴は少し考えてから、赤い空に向けて腕を伸ばして人差し指を立てた。十秒と時間を置かずにその指に一匹のアキアカネが止まる。
すげえ、と魔理沙は珍しく素直な声を上げた。
「上手いな」
「こういうのは得意みたい」
「やっぱり体質とかあるのかな、こういうの。……まあいいや。私はもう帰るぜ」
「うん。気を付けてね」
「何に気をつけるんだよ」
にか、と魔理沙は白い歯を見せて笑い、箒にまたがるといつものように軽やかな動作で飛び上がった。
門も塀も館自体も超えてぐんぐん上昇、上空約三十メートルへ。じゃあなという声が降ってきたような気がしたがそれは本当に気のせいだったかもしれない。それを確かめる間もなく、黒い影はあっという間に旋風さながらの勢いで飛んでいってしまった。
色が変わりつつある空を真横に引き裂くその姿をなんとはなしに見送っていると、ヨルノトバリという単語が唐突に浮かんできた。青と赤のグラデーション。そういえばそう遠くない昔、こんな色の空の下、この場所で先程のような遣り取りをしたことがあった気がする。勿論、相手は魔理沙ではなかったけれど。
あの頃はまだ、彼女も小さな子供だったのだ。ちょうど自分と影踏みをして遊んだ子供と同じくらいの。
────止まらないよ。美鈴の所にはすぐ来るのに、なんでかなぁ。
────こうして手を伸ばして、指を立てるんですよ。
────……あ、分かった。多分トンボは美鈴のことを仲間だと思って寄ってくるんだよ。
────え。
────ほら、こんなに綺麗な赤い色してる。
今はもう、昔の話だけれど。
▽
さすがに夜になると肌寒かった。そろそろ寝巻きを長袖にするべきか否かということに頭を巡らせていると、慣れ親しんだ気配が自分に向かって徐々に近付いてきていることに気付く。カチャリとドアが開く音にやわらかく全身で振り返り、「お疲れさまです」と声をかけると、咲夜は「何してるの、こんな所で」と小首を傾げて問うてきた。
「いや、夏も終わりだし夕涼みでもしようかなあと」
「夕涼みどころかもう夜じゃない。とびきり夜中」
「まあそうなんですけど。ていうか咲夜さん、どうしてここが分かったんですか」
「メイドの子たちに訊いたわ」
仕事を終えたばかりであるらしい咲夜はいつものメイド服姿でテラスに降り立つ。そんな薄着じゃ寒いかもしれませんよと言おうと思ったのだが、美鈴の寝巻きにしたって充分に薄着なのだからあまり人のことは言えない。少し前までは袖無しの服でも暑いくらいだったのに、気が付けばすぐこれだ。
「隣良い?」という質問に美鈴が頷いたのを見て、咲夜は美鈴の右隣に並ぶと同じように大理石素材の柵に肘をついた。けれどもまだ美鈴の髪が濡れていることに気付いたらしく、「湯冷めするわよ」と呆れたように首を振った。湯冷めしたところで風邪をひくことなどほぼ有り得ないのだが、素直にごめんなさいと謝っておく。
「咲夜さんはこれからお風呂ですか」
「そうね、貴女が暖かいベッドでぬくぬくしてる頃に私はやっと夕食にありつけそう」
「ありゃ。ご飯もまだだったんですか。先に食べにいかなくて良いんですか?」
美鈴の言葉に咲夜は少しばかり考え込んで、「うーん。もう少ししたら」と曖昧な返事を返した。そのままぼんやりと頬杖をついたまま景色を眺める咲夜を、なんとはなしに美鈴も見遣る。
全身を撫でる風が冷たい。見ているだけで半袖から伸びる細い腕が寒そうなので咲夜の為に上着を取ってこようかとも考えたけれど、何故か今ここを離れることは気が引けた。
だから、美鈴も黙り込んで空にぽっかりと浮かぶ半月を見つめることにした。空気が冷たくて澄んでいるせいか、月の色が綺麗に見える。耳をすませば名前も知らないようなたくさんの虫達が各々好き勝手に鳴き続けているが、夏場の蝉よりもだいぶ控えめな、そのころころ鈴を転がしたような音色は耳心地が良い。どこで鳴いているんだろうと僅かに柵から身を乗り出し、目下に黒々と広がる庭を見渡してみたがまるで見当もつかない。あるいは、湖を挟んだ森の辺りから聞こえてきているのかもしれない。まさかとは思うが本当にそんなこともありそうだから困る。
咲夜は相変わらず何も言わない。やや伏せられた瞳は、やや斜め下辺りのどこでもない空間に向けられている。一瞬の迷いの後、美鈴は思い切って、それでもなるべく自然な口調になるように問い掛ける。
「疲れた?」
美鈴の言葉に咲夜はきょとんとした顔でこちらを見た。
けれども一瞬の後にふっと表情を和らげ、どこか照れくさそうな笑いを浮かべる。
「あんまり疲れてはない。……つもりなんだけど、お腹が空いてるはずなのにそれよりも先に貴女を探して館中を歩き回るくらいには、疲れてるのかも」
「色々と忙しい時期ですしねえ。咲夜さんは特に。買い出しの荷物持ち辺りなら手伝えますけど」
「ありがと。荷車の引き手が必要な時には呼ぶわ」
なんだかそれ本当にありそうでやだなあと美鈴が笑うと、つられたように咲夜も笑った。いつもより若干覇気の無い笑顔だったけれど、きっと大丈夫だと思うことにする。彼女は本当に大丈夫じゃない時には、「疲れた」なんて間違っても口にしないのだから。
風に僅かにたなびく銀の髪を眺めながら、ふと、先程の白黒魔法使いとの会話を思い出した。アキアカネ。彼女は今でもあのことを覚えているのだろうか。美鈴だけが覚えていて彼女が忘れていたらと思うと少し怖い気もした。
なにせある時の彼女の言葉によれば「十年前は人間にとっては大昔」らしい。美鈴にだってとっくに忘れてしまったことや思い出せないことなどいくらでもあるけれど、それはあくまでも数十年単位の過去の話だ。咲夜がこの館に来てからの十年近くの月日のことなら、大方のことはちゃんと覚えている。今日指に止まったそれではなく、あの日彼女が綺麗だと言ったアキアカネの赤銅色を、はっきりと思い出せるような気がした。
「……寒い」
咲夜が顔をしかめて、若干身体を美鈴の方に寄せる。こつん、と肩と肩が触れ合った。
僅かばかり逡巡してから右手で咲夜の左手を掴むと、冷たい指をぎゅうと絡めてきた。
この時期の寒さは手足の先からやって来る。体内の気を少し意識して右手に集めると、指先の熱に反応して咲夜が顔を綻ばせた。
ひゅう、と風が吹く。呼応するように虫の声が一時、止んだ。どこからか聞こえてきていた木々の枝が揺れる音も、僅かばかりに漏れてきていた館内の喧騒もどこか遠くなり、秋夜が静寂に包まれる。
「……ね、咲夜さん、」
なに、と咲夜が返事をする。
昔、二人でアキアカネを捕まえたこと憶えてますか。そう訊ねようと口を開いて、けれども思い直してそれをやめた。少し考えた後、美鈴は言った。
「もう少し経ったらとびきり美味しいモンブランが食べたいです」
「ふうん。そういえば、栗もそろそろ旬だものね」
結局出てきたのはそんな言葉だった。我ながら度胸が無いなと自分自身に苦笑する。けれども本当に自然に咲夜が返事を返してきたものだから、美鈴もそのまま会話を続けることにした。
「この際三食栗にして下さい。食欲の秋なんだから思う存分食べないと」
「別に栗じゃなくても梨とか葡萄とか無花果とかあるじゃない」
「じゃ、それも全部。でもやっぱり手始めはモンブランがいいです」
「秋だものね」
「秋ですから」
隣で、咲夜が笑う気配がする。
思えばいつだって過去を持ち出しては、昔の話はやめてよと眉をしかめられるのだ。今まであまり考えたことはなかったけれど、いいかげんこの癖はどうにかした方が良いのかもしれない。子供扱いしているつもりは断じて無いのだが、いつもそんなふうに彼女を怒らせてしまうのだから。
人間の背の伸びる速さに自分の頭の中が上手く追いつかない。何かにつけ子供の頃と今とを重ね合わせようとしてしまうのは、多分、彼女にとってはただ忘れゆくだけのまだ幼かった頃の彼女の姿が、自分の中に鮮明に残りすぎているせいで。身長が伸びようと顔付きが大人びようとそんなことは関係が無く、そんなふうに彼女との僅かな噛み合なさを引き摺りながらこの先も自分たちは一緒に過ごしてゆくのだろう。遠いな、と改めて思った。握り合った指の感触がありがたかった。
ただ、それでも。美鈴が口元を緩めて笑うと、「どうかした?」と不思議そうに咲夜がこちらを見た。
「いえ。ていうか咲夜さん、やっぱりちょっと寒いですよ。戻ってお茶飲みません?咲夜さんがご飯食べてお風呂入ってから」
「良いけど、ちょっと時間経っちゃうじゃない。後は寝るだけじゃなかったの?」
「予定変更しますよ。夜は長いですから」
秋の夜は深く長い。少しくらい、夜更かしして彼女を待つのも良いかなと思った。
例えまったく同じように生きていくことが出来なくとも。今思うことは昔とほとんど変わらない。彼女が笑っていてくれればそれで良いのだから。それ以上に、なにがあるというのだろう。
だから絡めた手を解かないまま、美鈴はその手を引っ張った。咲夜は頬杖を止め、やや丸めていた背筋をいつものようにぴんと伸ばす。
「じゃあなるべく早く部屋に行くようにするから。それまでにちゃんと髪、乾かしておいてよ」
「はあ。良いですけど多分風邪ひいたりとかはないと思いますよ」
「そういうの関係無しに。せっかく綺麗な色した髪なんだから、もったいないじゃない」
ふいに発言に引っかかりを覚えて、振り返って咲夜に目を向ける。
やや下の位置にある青い瞳と視線が交錯して、なに、というふうに揺れた。
「……いえ」美鈴は首を振って、それでも堪えきれなくて少しばかりの笑みを口元に浮かべた。風は涼しいのに、自然と頬に赤みが差したのが自分でも分かった。辺りが暗かったのが唯一の幸いだ。今の自分の表情が彼女に気付かれないように、わざと少しそっぽを向いて声をかける。
「ごめんなさい。なんでもないです」
「えー嘘。貴女がそんなふうに見てくる時って大抵何かあるのよね」
「そんなことないですよ。どれだけ信用無いんですか私」
美鈴の言葉に咲夜は楽しそうに笑って、「信用っていうのは日頃の行いの積み重ねなのよ」とそう言った。ごもっともだけれど。
美鈴は首を横に振り、今一度くい、と彼女の腕を引く。
「行き、ましょうか」
そうね、と咲夜が頷く。いつの間にか止んでいた虫の声も梢が揺れる音も、また自然に秋夜に満ち始めていた。すぅ、と小さく息を吸い込んで、火照った肺を冷やそうとしたのにあまり上手くいってくれない。仕方が無いから美鈴は、なるべく咲夜と目を合わせないようにして前を見た。赤面なんてしているのを見られたら多分声を上げて笑われる。さすがにそれは恥ずかしかった。いや、なによりそれよりも。
どうかどうか今、笑っている私の表情を彼女に気付かれませんように。
そんなことを念じながら、美鈴は右手に集まる熱を離さないように握り締めたまま、ゆっくりとした歩調で歩き出した。
fin.
ただ一点言わせていただくなら、序盤のくだりがちょっと冗長だった気が。
この作品は、後半の咲夜と美鈴のやりとりが中核であると思うのですが、そこに至るまでの部分に全体の約半分の文章が充てられているのは少し多いような気がします。
後半につながるアキアカネの部分だけをコンパクトにまとめた方が、物語の中心にすっと入っていけたのかも、と思います(そう考えると、魔理沙はあえて出さなくてもよかったかもしれません)。
もっとも、序盤の部分も含めて、文章自体は非常に流麗かつ丁寧で、読み手のイメージを強く喚起できていると思います。
これからも頑張って下さい。
>過去の持ち出しては
過去を持ち出しては
とても読みやすい文章で、お話の内容を自然に飲み込むことができました。
秋の風情がよく味わえました。もう少し寒くなったらまた読み返そうと思います。
良い話でした。
堪能しました。ありがとうございます。
…すみません OTL
風情あるいいお話でした。
登場人物の穏やかな日常もさることながら、それを書ききる文章力に感心しました。
人間の咲夜と、妖怪の美鈴の遠さと仲のよさがこころに染みます。