いきなさい いきなさい ひとのこよ
そのみにせおう けがれをはらい いのちつきゆくせいのはてまで
いきなさい いきなさい あんらくにみをゆだね くるしむこともなく
一.不幸な男
彼は生来不幸な男である。彼は生まれた時に母を亡くした。身体の弱い彼の母親は、それでも自身の腹の中に芽吹いた命を摘むという事を潔しとせず、半ば不可能と云われて周囲からも心配されていた出産を敢行したのである。けれども結果は先述の通り、出産に耐えられるだけの体力を持ち得なかった母は、彼を生んで間もなく儚き生を終えた。そうして母の苦労と苦痛、そして溢れるほどの愛情を受けた彼は、当然とばかりに全うな人間に育つ。
寺子屋に足繁く通い、男手一つで彼を育てて来た父の仕事の手伝いも欠かさず、色々な事に日夜勤しんでいた男は、誰彼からも尊敬され一目置かれる存在となる。誠実な振舞い、優しく公平な性格、両親から賜った端正な顔立ち。凡そ人が望むものを全て持ち、そうしてそれを鼻に掛ける事もしない彼は異性から好意を持たれる事も稀ではなかったし、同性にも友人を多く持っていた。けれども思春期に至る頃には、不幸という名の恐ろしき獣の牙は、容赦なく男の身体に喰い込み、その血肉引き裂くのだった。――彼は今、人間が立ち入るにはあまりにも危険な山の中を流れる川の岸辺に、虚ろな瞳を爛々と輝く星空に向けて、その一生を振り返っているところである。
「神よ、我が罪を許し給え。僕は今、この身に圧し掛かる悲しみの影に耐え兼ねて、自らこの命を絶とうとしている。最早これ以上生きる事は叶わぬのだ。自らの命を絶つ事が大罪と知っていて尚、死を望んでいる。せめて死後の世界では天国へと迎え入れて下され。若くして無残にも殺されて行った彼女達に会わせて下され。僕にはもう、それぐらいしか希望が無い。この現実に僕はきっと生を許されていないのだ。母を殺して生を受け、愛する女性を殺されて生き延びて、また愛する人を殺されて、きっとこれからも誰かを不幸にする。僕は死んでしまった方が好いに違いない」
冷たい流水に一歩踏み込むと、素足にそれはとても冷たく、彼に心地好い死の予感をもたらした。月明かりの降りる幻想的な風景の中に佇む男の懺悔を聞き遂げる者は無い。闇夜に溶ける悲痛な叫びは、何処までも高い星空に吸い込まれては消えて行く。颯々と吹く風に打たれてざわめく木々が、男を嘲笑うかのように音を立てる。止めどなく溢れる涙は頬を濡らし、月光を受けては静かに煌めいた。――男は更に一歩、川の中心へと歩を進める。
「ああ、僕を許しておくれ。君達を殺した者を探す事も無く、死の安らぎへ逃げる僕を、どうか許しておくれ。僕は身を裂くこの痛みに耐えられぬ。犯人を突き止め殺したとて何も変わらないという事も判っている。だからこそ、今や死ぬしか選択肢は残されていないのだ。叶うなら君達と同じ所へ行きたいが、それも叶うかどうか判らない。地獄に堕ちて、更なる辛苦に身を焼かれる事になろうとも、それが僕の罪証であるのだろう。ならば甘んじて受け入れて見せるから。どうか、臆病な僕を許しておくれ。どうか……」
更なる歩を進めれば、冷たい水が胸に打ち付ける。穏やかな流れは殊更死に急ぐ彼を苛むが如く、緩慢に死へと近付けて行く。が、男の瞳に恐怖は毫も映らなかった。光を失った漆黒の瞳に何をも映さず、絶望に拘泥されながら悲しみの渦に揉まれる男の姿は傍目にも憐れに映る事であろう。或いは死に行く彼を見ても止める事すら思い止まるかも知れぬ。それほどまでに、男の姿は痛々しかったのである。
「お待ちなさい、人の子よ」
ところへ、彼を引き留める声が闇の中より玲瓏なる響きを持って轟いた。優恤なる声音は、しかし厳かな雰囲気を纏い、死に行く男の背に届く。振り返れば月下に映える暗緑色の髪色を、艶やかに光らせた女の姿がそこに在った。透き通っているとさえ思われる白き肌は、蒼然たる月の光を浴びて青白く輝き、漆黒に溶け込む衣服の色は、男の人生の中で一度たりとも目にした事の無い形をしている。何処か超然としたその美しい出で立ちに、男は一瞬我を忘れて立ち尽くした。
「心を砕く貴方の懺悔を聞き遂げた私が、貴方の死を止めるのは甚だ間違っている事かも知れない。けれども悲哀に塗れ、寂寞に象られたその言葉を耳にした私は、貴方を放って置く事が出来ない。どうか、踏み止まって」
男には例え万が一誰かに出会う事になろうとも、それを意に介さず死んでやろうくらいの意気込みがあった。この女とて例外ではない。一時の困惑はあるにしろ、仕舞には死が幕を下ろすのだという意思に変わりは無かった。が、男はそれでも立ち止まる。女の言葉を受けて、死へと歩を進める足を、その半ばにて止めてしまった。女の言葉に影響された訳でも無ければ、自分の意思が曲がった訳でもなく、ただ女の青白い頬に確かに輝く涙の雫を認めたからである。
「僕は貴方の事を寸毫も知り得ない。貴方も同様であるはずだ。それなのに、貴方は僕の為に涙を流している。一体何故。死に行く僕を偽善的な想いで引き留める為の虚飾であるならば、止めてくれ」
「いいえ、この涙は虚飾じゃない。そうして貴方の為に流した涙でもない。私が貴方の懺悔を聞いて、堪えようもなく流した、私の涙。偽善的でもない、ともすれば利己的な涙」
震えた声に載せられた言の葉は、静かに揺蕩う風に乗って男に届く。これ以上にない正直な告白は、一寸ばかり男を踏み止まらせた。つと伝う涙の温もりを感じる内に、男は胸に詰まる思いに呻吟する。初めて全てを受け止められた心持ちがする。どうしようも無い孤独を癒す優しい雨が、その身に降り注がれた心持ちである。
「僕は貴方の事を知り得ない。しかし貴方自身の純然たる告白を、信じても好いのだろうか」
「私とて貴方の事を知り得ない。そんな私が流した涙を、貴方は信じてくれると云うの」
「信じよう。信じるからこそ死に急いだこの足を、一時ばかり止める。僕を信じてくれた貴方の言葉を無碍には出来ない」
男は胸まで川に浸かりながら、女の方へ身体を向ける。目元を拭うしなやかな指が、目に留まった。
「名は」
尋ねる男に、未だ震える声で女は答える。
「鍵山雛」
そう名乗った女は、男の瞳を見詰め、僅かに微笑んだ。見知らぬ男が死から一寸遠ざかっただけの事に対して、安堵の笑みを浮かべた。その柔らかな微笑に男は西洋に伝わる聖母の姿を思い描く。全てを抱擁し受け入れる神々しき光を、その背に感じさえする神秘的な人間を、男は目にした事が無い。それだから彼女との出会いは衝撃的で浪漫的に思われた。そうして今まで出会った女とは似付かぬ、異色と評すべき女のように思われた。
「貴方がそれを許すのなら、私は貴方の一生を聞かせてくれる事を願いましょう。きっとそれを受け止め、その先に貴方が進むべき道を示して差し上げる。貴方の死を止めた私が出来る事は、それくらいだから」
男は何故だか頷く事を止められなかった。今この場で自分の一生を語ったとて、過去の古傷が思い返されるばかりで、要領を得られるとは思えなかったにも関わらず、不思議と女の言葉には説得力があるように思われたのである。それだから、ぽつりぽつりと語り始めた。絶えず身を苛め続ける不幸な男の一生、恐らくこれが最後の分岐点になるのだろう。男はそう思わずには居られなかった。緩やかな川の流れの中で、岸辺に立つ女に語り掛ける。
二人を包み込むかの如く降りる月光は、周囲を青白く染め上げていた。一片の雲さえ見付からぬ夜空に星々が瞬いている。川の中に佇む男と、岸辺に佇む女は互いの位置関係を変えぬまま男の物語を話し、聞いた。
「僕は生まれる時に母を殺した男だ。生来の人殺しと揶揄されても仕方が無いかも知れない。尤もそれを知るに至ったのは物心が付いて暫く経った後の事だった。僕は当然の如く生きる事に後ろ髪を引かれる思いになった。
僕に母の死がどのようなものだったかを語った時の父の表情は未だに覚えている。今にも涙を流しそうな気色で、僕を直視しようとはしなかった。僕はそれだけで自分は生まれて来なかった方が好かったのかも知れないと考えたが、次ぐ父の言葉は案外にも僕を慰めるものでも無く、父の悲しみを語るものでもなかった。
父はこう云った。お前は母さんの命と引き換えに生まれて来た。逆に云えば母さんが自らお前に命を与えたとも云える。だからこそ、己れは妻の死を乗り越えて、お前を育てているのだ。母さんが誇れるほどの男に育て。己れは死んだ妻に申し訳が立つよう、お前を立派に育て上げるつもりだと。
本当に好い父だった。男手一つで大変な事もあったろうに、自分の苦労を少しも見せようとしない優しい父だった。そうして僕が間違った事をした時には厳しく叱咤する怖い父でもあった。が、そのお陰で僕は今日まで生きて来た。幾ら感謝しても足りぬ。父は僕に溢れんばかりの愛情を注いでくれたのだ」
男はそれで目を伏せた。鍵山は何も云わない。無言の内に男の心情を慮っている。月光を受けて頬が再び煌めき、伝う雫が岸辺の石にぽつりと落ちる。男は彼女の涙を目にする度に、自分の悲しみが言葉を伝い彼女に届き、それが涙となって流れる事によって幾らか心が楽になる心持ちがした。鍵山には不思議な魅力がある。他者の悲しみをまるで自らが体験したかのように、涙を流してくれる。だからこそ、男は自分の辛い過去をこうして語っているのかも知れない。
「それから、僕は勉学に励み父の仕事を手伝って、人として素晴らしく在れるよう出来る限りの努力をした。また周囲の評価を鑑みるに、そうなれたように思う。父の口癖であった母さんを安心させられるくらいに誠実な男性になれ、という言葉に背かぬよう努めたつもりだ。その努力に何ら苦痛は感じ得なかった。
時には父の手伝いをし過ぎるあまりに、早く嫁を貰ってしまいなさいと云われたほどだ。今のお前なら、母さんもきっと誇らしい想いでお前を送り出せるだろうと。その時は本当に嬉しかった。父ばかりでなく、亡き母からも認められたような心持ちさえした。が、それから訪れる僕の初恋は幸福に終始する事は無く、却って辛い思い出を残すばかりだった」
「それが、先刻の……」
鍵山は再び目に涙を溜める。男にはそれが大袈裟な所作には思われなかった。やはり自分の中で蟠るばかりであった悲しみが、彼女を媒介にして外界に流れて行く心地がする。それは安らぎを与えたが、ともすれば忘れてはならない思い出が去って行く恐怖も感じられる。亡くした人の事を思う気持ちは失くしてはならない。それは男が誠実である為に放擲する事の出来ぬ信条の一つであったからである。
「僕の初恋の相手は、人里でも評判の器量好しの方だった。常に冷静で、云い寄って来る男など一蹴してしまう気の強い人で、僕も最初に会った時には面食らったほどだ。彼女は開口一番に何の用と尋ね、答えに窮す僕を鋭い目付きで睥睨した。艶やかな黒髪の好く似合う人で、切れ長の瞳が殊更印象的だった。人を寄せ付けぬ態度に、何故僕が惹かれたのかは今思えば想像に難い。兎も角彼女は、誰彼も打ち遣ってしまうような凛とした女性だった。
それからは苦労の連続だった。彼女に会いに行き、門前で追い返されたのも何度か判りやしない。だが、僕の尽力の結果、漸く設ける事の出来た見合いの席などで、僕が彼女の容姿や仕草を一寸褒めてみると、意外にも頬を赤らめてそんな事云ったって、などと云う。その表情が普段の彼女からすれば有り得ないと思われるほど可愛らしくあったから、僕はすっかり惚れ込んでしまったのかも知れない。それからはひたすらに彼女に会いに行く毎日だった。
――全く以て僕には勿体無いほどの人だ。何故彼女が僕を選んでくれたのだか、理由を尋ねてみた事はあるが、遂に教えてくれる事は無かった。僕がそれについて尋ねると、決まって彼女は出逢った当初のような冷たい視線で僕を見詰め、そんな事どうだって好いわなどと云って頬を赤らめる。僕はそんな彼女の表情が好きだったから、幾度も同じ問い掛けをしたものだ。が、そんな幸福も長く続かなかった。彼女と結ばれて暫く経った頃、鶏鳴響く早朝に僕の家へ親友が血相を変えて駆け込んで来たのだ。
自白すると、その時の事は殆ど覚えていない。人は辛すぎて耐えられないほどの痛みを感じた時、生命に支障を来たさないよう、それを心の奥深くに閉じ込めてしまうと聞くが、正に僕はその例に当て嵌まったのだろう。覚えているのは断片的な単語だけで、殺されただの死ぬだのと云った類のものだ。そして、血の海に倒れながら、美しさを損なわぬ青白い顔の死体。それだけが、僕が覚えているその時の記憶の全てだ」
男は筆舌に尽くし難いほどの痛みをその身に受けながら、川の水に血が煙るくらいに水中で拳を握り締めた。その様子を、女は憐憫とも悲哀とも付かぬ表情で見守っている。相変わらず男の不幸を全て受け入れてしまうかのような神々しさを身から発して、頬からは涙が伝う。褪せぬ月明かりにその姿は、酷く幻想的であった。
「僕はそれから、魂の抜けた者みたように放心状態のまま生きる事になる。生きる希望を全て失った心地は、到底耐えられるものではなかった。心から愛する人を失った時の絶望感は斯くも辛いものなのかと、父の心境を思っては、それを乗り越えた父を人知を超えた者の如く思った。それほどまでに僕は憔悴し切っていて、生きる気力に欠けていたのだ。
何故その時に僕は死のうと思わなかったのか。そう云えば語弊が生じる。実際は何度も自殺を考えた。だが、その度に死んだ彼女の事を思い出し、その凄惨さに身を震わせ、結局恐怖に負けては止まっているばかりで、彼女を追って死ぬ事も出来ない臆病者として僕は生き続けた。無論父はそんな僕を心配しては、僕を回復させようと努めてくれたが、何等の効果も得られなかったのだろう。それから程なくして、幼少より付き合いのあった幼馴染が色々と世話を焼いてくれるようになった。
今思えばその時から、或いは幼少時の頃から彼女は僕の事を好いていてくれたのかも知れない。何時も茫然自失の状態である僕に、頻りに話し掛けては慰めてくれる優しい人だった。下心など微塵も感じさせぬ献身的な人だった。事あるごとに僕の手を握っては、どうか立ち直って下さいませ、貴方様がそんなお顔をしていられては、亡くなった方も安心して成仏出来ませんと云って、明るい話を絶やさず聞かせてくれる人だった。彼女が居なかったら、僕はそのまま孤独死していたに違いない。
彼女は友人や里の者の話を聞くに、以前僕が愛した女性のような美しさは持っていない人だったらしい。それこそ亡き人と比較すれば随分見劣りすると、親友に聞かされた覚えがある。が、未だ死人の事を引き摺る僕に一生懸命尽くしてくれた彼女の姿は誰よりも美しかった。少なくとも僕からすれば、彼女に劣る人間など居やしないとさえ思われたのだ。
――やがて、僕と彼女とは互いに愛し合うようになった。それが何時頃の時分だったのかは、今となってみれば判然としない。気付けば親しい間柄の友人になっていたように、恋仲となるにも同様の過程を経ていたのだと思う。しかし、僕が漸く生気を取り戻し始めた頃、再び幸福になろうという努力を誓った頃、残酷な事件は再び起こった」
何時しか頑なに涙を流すまいとしていた男の黒曜石の如き瞳からは、大粒の雫が溢れ出していた。彼は誠実過ぎる男である。相手を想う気持ちが強過ぎる為に、この世を去った恋人の事を思うと、何時だって涙が溢れ、その陰惨たる死に様を思い返す度に、犯人への憎悪と亡き人に対する悲しみが溢れ出す。実直過ぎるのは損だと云われて尚、男は自らの信条に生き、それを貫いて来た。純朴なる心の持ち主に刻まれた傷は、深く抉られるかの如く、猛烈な痛みをその身に走らせる。
「彼女が殺されたと伝えたのは、以前と同じ親友だった。額に汗を滲ませ、膝に手を着き息絶え絶えに話した時の事は忘れようもない。どうして愛した人を二度失う苦しみを感じなければならないのか、僕は神さえ憎んだ。憎む対象が居なければ、きっと発狂していただろう。姿なき犯人の事など、憎む対象にすら成り得なかった。ただ何故と繰り返す僕に、友人は何事か云っていたような気がするが、今となってはそれを思い出す事も叶わない。
それが先日の事だ。僕は決して癒える事のない傷を生々しくこの身に刻まれながら、死のうとした。せめて彼女らが受けた痛みを、僕が代って受けられたならと、安穏に生きる選択を捨て、自殺を決意したのだ。そうして君に出会った。不思議な女性だ、僕は君みたような人を見た事が無い。身に纏う雰囲気が異様なのは勿論、服装とて目にした事が無い。それでも僕が自分の一生を語ったのは、君が信に足る人間だと判じたからだ。どうか僕の死は父や友人に知らせないで欲しい。僕は誰も知らぬ間に死に至る。それが僕の人生の幕だ。全き悲劇を、これで漸く終わらせる事が出来る。
――有難う、これで、僕は、漸く……」
何処から現れたのか、流れる雲が月に懸かる。白き幕に隠されて月光の途切れた川岸が闇に呑み込まれて行く。流水の音が耳を打ち、風に揺られる木々の梢が一層ざわめき立つ。彼の女の姿は宵闇に隠されて、水面に映る星々が豪華絢爛な輝きをちらつかせている。男は川の中心へと振り返ると、一歩を踏み出した。胸の辺りに揺蕩っていた水は、首元まで上る。冷たき流れが身を冷やし、唇が顫動を巻き起こして、さようならという声が小さな火種を過去へと投じる。
瞬く走馬灯の映像は、一瞬にして過ぎ去り新たな景色を産み出した。切れ長の瞳が柔らかに細められる。優しい笑顔が花開く。最後の一歩をと男が覚悟を決めた時、不意に彼の身体は拘束されたかのように、動かなくなった。
「お待ちなさい、人の子よ」
耳元から聞こえる静かな声音は、誰あろう鍵山のものである。男は背中に触れる身体の温もりに、胸へ回された腕の温もりに、息を呑む。暗黒が世界を領する中で、唯一の他者が囁いている。己の意思に掣肘を加えるのか、その言葉は咽喉まで上って来ては、突如として勢いを失い肺腑の奥へと沈み行く。傍に感じる存在感は、自身を含む全てを包み込むかのように、暗黒の中で酷く暖かい。幕引きの証左と思われた月に懸かる雲も、何処かへ流れてしまった。
「貴方が逝くにはまだ早い。私を信じ、一生を語ってくれた貴方に出来る事はとても儚い事かも知れないけれど、それでも私は全身全霊を懸けて貴方の力となりましょう。貴方の心を穿つ楔を我が身に打ち付け、貴方の心が流した血涙を私が流しましょう。貴方はきっと不幸ではなくなる。私が示すは生の道、死した者を心に留めて、――生きなさい」
言葉を返す暇すら無く、男の身に訪れるは安らぎの声である。明瞭なる月の光は二人を照らし、流れる川の潺湲が耳を打つ。それなのにも関わらず二人の居る世界は静寂の内にある。何もかも静けさの響きを持っている。
男は空を仰ぎ、月の輝きを目の当たりにした。世界と渾然一体となり、目にした月は何よりも美しく、亡き人の面影を映す。それは刹那に瞬く幻燈の焔であったのかも知れぬ。それでも確かに、男は生きる事を願われる声を耳にした。愛しき人の華奢なる腕が、優しく胸へと回されている心持ちがした。心中に蟠りどろりと渦巻く負の情念が、全て身体の内より引き摺り出される心地である。それが眼前に昇る闇となり、白き月の光に溶け行き、やがて消失する。
途端、男は堰を切ったかの如く泣き出した。年甲斐など関係無しに、思い切り泣いた。赤子の如く純然たる思いに喘ぎ、心の底から染み出す悲しみの涙を川へと落とす。母のように優しき腕に抱かれながら。……
「……生きなさい」
それから男は如何にして自分の家へと戻ったのか、自宅の寝室で目を覚ました。燦と差す陽光に目を細めながら、辺りを見回すように首だけを動かすと、枕元の隣に父の姿がある。
「好く、好く目を覚ましてくれた。己れはもう、お前が目覚めないのかと……」
涙を流しながら、息子の手を握る父の拳の力強さに、男は痛いよと顔を顰めて見せた。しかし父は手を離さぬまま、涙に咽ぶ。最後の記憶に残る映像を思い出して、男は自分が生きているのだと初めて自覚した。が、妙な違和感がある。妖怪の山を流れる川に行き、身を川へと入れた時からの記憶が無い。思い出そうと思って頭を捻ってみれど、あの時何があったのかとんと見当が付かぬ。川を流れる水が、酷く温かかった事だけが焼き付くように思い出されるばかりである。
「僕は、一体……」
「妖怪の山から流れて来る川の下流に倒れているのを、偶然釣りをしていて居合わせた方が助けて下さったのだ」
「そこには他に誰かが居ませんでしたか。僕はどうも誰かと話していた心持ちがする」
「いや、お前だけだ。全身が冷え切っていて、危ない状態だったのだぞ」
素知らぬ風の父の姿に、男は首を傾げた。記憶に浮かぶ情景に、ぽかりと口を開けた空白がある。どうしてもその部分だけが思い出されない。一部が欠け落ちた絵画のようである。最初からそこには何もなかったかの如く、幾ら心の底に埋没した記憶を掬ってみても、その部分だけは浮かび上がっては来なかった。
「もしかしたら、厄神様に出逢ったのかも知れぬ。人の厄をその身に受け、流して下さる神様だ」
「厄神様……」
父の話を聞いている内に、男は尋常でない眠気が襲って来るのを感じ取った。今までにないほどに安らかな眠気である。悪夢へと誘うばかりであった恐ろしき睡魔の姿はそこに無い。彼はゆっくりと瞳を閉じた。
「ああ、そうだ。――彼女は、泣いていた」
陽射しを受けて白む瞼の奥に、長らく忘れていた安らぎの寝具がある。男はそこに寝そべって、眠りに就いた。あれほど悲しみに引き裂かれて出来た傷跡も嘘のように癒えている。ただ忘れる事のない愛した者達の面影を隣に感じた。彼が死を決意して妖怪の山へと踏み込む事は、これから先決して有りはしない事であろう。男の身に圧し掛かる不幸の重石は、あの時川の流れに乗って遠くまで流れて行ったのである。月下に佇む女の元へ。……
生きなさい 生きなさい 人の子よ
其の身に背負う 穢れを祓い 命尽き往く生の果てまで
生きなさい 生きなさい 安楽に身を委ね 苦しむ事もなく
汝の心に打ち付けられし楔は我が身に刺さる
汝の心が流した血涙は我が瞳より流れ出す
生きなさい 生きなさい 人の子よ
亡き人への想いは貴方の胸に 全ての痛みは私に託して
二.残された妹
いきなさい いきなさい ひとのこよ
そのみをながるる ひきゅうをぬぐい こいごころのもとめるままに
いきなさい いきなさい あんらくにみをゆだね つみのいしきにくるしむこともなく
彼女には一人、年の三つ離れた姉が居る。その姉と云うのが里でも評判の美人で、妹は近所の者から度々姉に対する讃辞の言葉を耳にしたものである。誰しもが嘆息を吐いて見惚れてしまう、凛々しく綺麗な姉であった。その姉の妹として生まれた彼女は、やはり美しくあったけれども、それは姉とはまた違ったもので、どちらかと云えば可愛らしいと頭を撫でられては幼児にするような扱いを受けるのが常であった。また気質も姉とは全然似ずに、快活で溌剌とした女性に育ったものだから、異性として男から意識されるような存在ではなく、屈託なく笑い合える仲に終始する事が多かった。
無論姉妹として生まれたからには、彼女らは定めて比べられるようになる。里の者は姉を美人で好く出来た人間だと頻りに評したが、妹は子供らしくて可愛らしいと云われるばかりである。時にはそれを憂う事も妹にはあったが、その度に柔らかに微笑んでは気にしなくて好いと静かに云う姉の姿に、たちまちどうでも好くなってしまうのだった。
傍目から見ても、二人はとても仲が好かった。他人からすれば姉の慳貪な態度は孤高を思わせる。それだから美人で評判だと云っても、すぐに男を突っ撥ねる姉に勇敢にも好意を伝える者は滅多にない。が、姉妹が共に居る時ばかりは、冷徹な仮面の表情が融解し、誰も見た事のないような優しく穏やかな表情が、その美しい顔に浮かんでいるのである。妹は他人に対して滅多に見せる事のないその表情を、自分と居る時ばかりは解放してくれる事に云い知れない随喜を常々感じていたし、だからこそ幾ら姉と見比べられようとも何ら気に留める事も無かった。
そんな姉妹の仲を引き裂く事件が起きたのは、全く突然の事である。
彼女は今、さめざめと泣きながら妖怪の山を流れる川の岸辺にて、嗚咽を漏らしていた。
「ああ、神様、もしも貴方様が本当に私達の事を見て下さっているのなら、どうか私の事をお許し下さい。私はこれより命を絶ちます。老獪なる私に出来る贖罪が、他には何も見付からないのです。例えそれが永遠の業火に身を投げる行為であろうとも、私は甘んじてその苦痛を受け入れましょう。私は醜く卑怯な女です。きっと、死ぬ事でしか罪を購えない」
長く伸びた黒髪に、優美な月明かりが差しては艶やかな光沢を放つ。悲痛な独白の響きは山を覆う木々の連なりに吸い込まれ、何処からか梟の鳴き声が木霊する。妖怪の潜むこの山に、人間が一人佇む事ほど危険な事は無い。ましてや年頃の子娘である。浅慮な妖怪に見付かれば、たちまちその身を喰らい尽くしてしまうに違いない。
「私はこの世から消え果てます。此処に居れば、この脆弱なる身体は妖怪の餌となりましょう。誰にも知られぬまま、妖怪の血肉の一部となる事で、漸く私の心は癒されます。それを贖罪と定めれば、やはり私は卑怯な人間として間違いありません。それでも生き続ける事で、私が罪を償っていけるとは到底思えないのです」
そうして女は膝を着く。硬い石は鈍い痛みを与えたが、それも大して気にならない。女は胸の前で手を組んで、目を瞑る。すると背後の茂みより物音がする。次いで聞こえて来るのは低い獣の唸り声。食物を求める貪欲な眼差しがぎらりと闇の中で光を放っている。女はそれを耳にして覚悟を決めた。最早命の刻限は数えられるほどに近付いている。喉を裂かれ吹き出す血飛沫、抉られ口中に転がされる両の目、引き摺り出され湯気の立つ内臓、そんな光景が瞼の裏の冥々たる闇の中に判然と浮かび上がるかのようである。心臓が恐怖に縮み上がるのを、女は明らかに感じ取った。
「去ね」
が、静謐の響きを湛えながら、荘厳なる重さを孕んだ声が、唐突に闇夜を切り裂いた。澄んだ女性の声である。恐怖に震え、組んだ手を白くなるまで強く握り締めている女は、何事かと薄眼を開けた。そこには猛々しい殺気を放つ獣の姿は無い。眼前に立ちながら月明かりを浴びて優雅に佇む美しき女性の姿がある。髪を編む布と手首に巻かれた布とが、風に揺られて靡いているのを見て、そのあまりに不思議な光景に女は恐怖さえ忘れて見惚れてしまった。
「人の子よ、貴方を喰らおうとした獣はもう去った。どうしてこんな所に一人で座っているのか、もしも妖しい女を信じてくれるのならば、私が貴方の痛みを受けましょう。きっと新たな道を示して差し上げるから」
優しく差し伸べられた手が、女の頬に添えられる。夜気に冷やされて、冷たくなった頬にもたらされた温もりがあまりに温か過ぎて、女の瞳からは堪らず涙が零れ出す。会った事もない女のその声や仕草は、警戒や猜疑を挟む前に安堵をもたらしたのである。それは生を受けて泣き出す赤子と同じ、必然の事象のようにも思われた。
ともすれば妖魔の類と判じてもおかしくはない妖しい女性に、胸を切り刻み続ける罪悪感を打ち明ける事は誰であれ躊躇するに違いない。それなのにも関わらず、女は不思議な雰囲気を醸し出す眼前の女性に、この苦しみの全てを打ち明けたくなった。極限まで追い詰められた彼女にとって、目の前の女は濁流に揉まれる彼女の元に流れ着いた藁に等しき存在だったのである。
「音もなく現れた貴方を信じる事は、常人ならば尋常の沙汰には見えないかも知れません。けれども私は、不思議と貴方を信じられる。その慈雨を思わす優しい音色の声も、私に安堵をもたらすその慈顔も、偽りのものとは思えません。きっと貴方は神の使徒なのでしょう。やはり神様は私を見て下さっていた」
涙ながらに話す女の言葉に、謎の女は何処か憂いを秘めた瞳を伏せて唇に緩やかな曲線を描き出したばかりである。やがて女は滔々と流れ出す涙を止める事もなく語り出す。今宵生まれた新たな語り手と聞き手は、月下に佇んでいる。
「私には一人の姉が居りました。切れ長の冷たき瞳を優美に流す、美しい姉でした。長く伸びた鴉の濡れ黒羽が如き髪の毛を揺蕩わせる様を見て振り向かぬ男性は居ないほど、美しい姉でした。世間から見れば人をあまり近付けず、近付く人には冷然たる言葉をぶつける厭世的な姉であったのかも知れませんが、私にとっては誰よりも美しく凛々しい、これ以上に無いほど素晴らしい姉です。そんな姉も、私だけには柔らかな表情を見せてくれました。
私達姉妹は、誰彼から見ても仲の好い姉妹に見えた事でしょう。共に出掛けては寄り添って歩き、ともすれば恋人のようにも見えたかも知れません。私はそんな姉の事を深く愛して止まなかったし、姉も私に溢れんばかりの愛情を注いでくれました。しかし、やはりそれは姉妹の間に於いて在って然るべき愛情で、私達個人の中には女としての感情が確かに根付いておりました。それを思い知らされたのは、忘れもしない事件として頭の中に焼き付いています。
或る日姉と二人、人里の賑わう市に出掛けた時の事、私達は歩き疲れた足を休める為に一軒の茶屋にて談笑を楽しんでいたのです。すると隣の席から姉の話をしている声が聞こえて来て、私達は多少の居心地の悪さを感じておりました。姉に関する噂話――と云ってもそのことごとくが美人だのと云った讃辞の言葉ではありますが、そういう事を聞くのは妹として慣れています。しかし、その時に聞こえたのは声をかけて来いという、当時の私からすれば下劣としか思われないものだったのです。
見ると、そこには数人の男性が、一人の男性を唆している光景がありました。頻りに声を掛けて来いと云っているのが、私達の所までよく聞こえて来たものですから、当然の如く私達には不快感が募りました。姉は超然として気高い女性であったので、密やかに自分の事を話しているのが気に入らなかったのでしょう、その数人の男性達に向かって何か用、と云い放ったのです。思えばその時から大きな運命の歯車が動き出しておりました。愚かな私は、その事には毛頭気付かず、姉の凛とした姿にただ見惚れているばかりで、その後の事などまるで考えていなかったのです。
姉に一喝され、男達は気まずそうに顔を伏せました。しかし、その中にただ一人だけ豆鉄砲を喰らった鳩みたように目を丸くしている男性が居たのです。彼は厳しい眼差しで男達を睨み付ける姉の目を、臆す事なく驚きの色を孕んだ瞳で見返しておりました。顔立ちの好い、少しだけ長く伸びた髪の毛が他の坊主頭の中で殊更目立つ、好青年です。彼はやがて塞がらなかった口を一寸閉じると、私達の席の方へ歩み寄って来ました。友人と思しき者の制止の声も聞かず、真摯な光を目に宿すその姿には一種の感心を感じましたが、姉の心境は元より私には図りかねる所でありました。
男は姉の座る一間ばかり先に立ってこう云います。
「貴方達の前での失礼を許して下さい。何も悪意があった訳ではないのです」
対して姉は変わらぬ厳しさを以てこう云い放ちました。
「悪意が無いにしろ迷惑に変わりは無いわ。失礼を自覚しているのなら、早く立ち去って」
姉に下心を持った男性は、大抵その有無を云わさぬ冷たい声に気圧されて立ち去ります。けれどもこの男性だけは、姉のその言葉にその時まで聞いた事のない言葉で返したのです。きっとこの時ばかりは私だけでなく姉も驚愕した事でしょう。外見に纏う誠実な振舞いは、彼を象る装飾の一部ではなかったのです。心から、その男性は誠実でした。
「失礼を自覚しているからこそ、立ち去れないのです。貴方達を視界に収めながら不快を与える話をした事について、僕はけじめを付けなければならない。貴方のお許しのお言葉が頂けたのなら、すぐに立ち去ります。許さないと云うのであれば、許して貰えるまで何をしてでも償いましょう。――済みませんでした」
そう云って彼は深く頭を下げ、姉の言葉を受けるまでその頭を決して上げませんでした。一時は困惑してしまって私達の方が言葉に窮してしまいましたし、後ろに未だ座ったままでいる彼の友人達は、その行いをただ見詰めているばかりで、頭を下げ続ける彼には衆目が次第に集まっておりました。やがて我に返ったように姉は目を大きく開くと、姉らしくもない慌てた調子で云いました。赤らんだ頬を隠すように、心持ち俯きながら。
「兎に角、こんな所で止して頂戴。これじゃ何だか私の方が悪者みたようだわ。許すだの許さないだのという事は、言葉一つで決まる事ではないでしょう。本当に貴方が私に許して欲しいと云うのなら、誠意をお見せになって」
その時の姉の言葉は、単に物珍しい男に対する一寸の興味も少なからず含まれていた事でしょう。平生の姉を考えると、どうにもそんな言葉を発するとは考え難いのです。普段は恰好ばかりの男を突き放すような姉でしたから、当時の私には姉の言動が殊更妙に思われました。その事について言及する私に、姉は今に見てなさい、すぐに化けの皮が剥がれるわとばかり云っておりましたけれども、切れ長の怜悧な瞳には確かに期待の光が窺えたのです。
それから男は一寸考える素振りを見せた後、微笑を湛えながら云いました。私達姉妹の想像を上回る言葉です。彼ほど誠意に満ちた男性を、私はそれまで一人として知らずに居ました。それ故に、私達が彼に対して興味を抱いたのも致し方の無い事でありましょう。尋常より離れた男性を、私は異人の如く紳士的な方だと常々心中で評しておりました。
「貴方がそう仰るのならその通りに致しましょう。兎も角僕が此処で頭を下げ続けるのは簡単な事だが、それも迷惑になるようだ。今日はこれにて引き下がります。貴方が許して下さるまで、尽力は惜しみません。それでは、次に相見える時まで」
彼は深くお辞儀をしながらそう云い残すと、友人を連れ立って茶屋を出て行きました。その後茶屋で時間を潰す私達の話頭に昇る話は、専ら彼の事ばかりになりました。彼が上辺ばかりの男でしかないのか、真に誠実な男性なのか。その時にも姉は今に化けの皮が剥がれるわと云って譲りませんでしたけれども、私はこの先彼の誠意がきっと見れるのだろうと、何処かで信じて止まない心が、心中の奥深くで燻っているのを確かに感じていたのです。
そうして、私の小さな信頼を裏切る事無く、彼は私達の前に再び姿を現す事になりました。茶屋の事件より数日と経たない頃、彼の人はわざわざ私達の家まで足を運んで来たのです。その時の応対に出たのが私でしたから、この時の事は好く覚えております。彼は私に先日の非礼を深く詫びました。私としてはあの時の謝罪だけで済む話で、今日までそれを引き摺る事は無いと考えておりましたから、その旨をお伝えすると、案外にも彼は姉を呼んで欲しいと申し出て来ました。
その言葉に従って姉に是非を問いに行くと、姉は追っ払って頂戴と何時もの調子で云ったので、多少は柔らかくその意思のほどをお伝えしましたが、やはり彼はまた来ますと云い、その言葉通りまた数日と経たない内に訪れて来ました。今思えばそういう打算が茶屋の事件で生まれたのかも知れません。元より姉は他人を近付かせない人間でしたから、姉に会いに行く口実としては充分でありましょう。尤も、姉もそれを感じていたからこそ、門前で彼を追っ払っていたのですけれども。
そんな或る日、例の如く彼が遣って来た時の事でした。その日姉は家を留守にしていて、彼に対して少なからず好奇を寄せていた私は一寸家に招き入れてみようと思い立ちました。無論恋情に突き動かされたという甘い類のものではなく、単なる好奇心の元に起こり得た行動で、元より後先を考えたがらない性質の所為で躊躇も有りませんでした。彼は私との会談の席で自らの過去の一片を語りました。私はその時に、彼が信に足る男性なのだと信じない訳には行かなくなったのです。
――どうしてそうまでなさるの、と尋ねる私に、真剣な表情をして彼は話しました。
「僕は生まれると同時に母を亡くしました。それ故に生来母の温かさを感じた事がありません。それだからそんな僕を育ててくれていた父が、何時も云い聞かせるように話していた事を、裏切りたくないのです。それは父だけでなく、死んだ母の言葉でもあったようですから、尚更僕は両親を裏切る訳には行きませんでした。二人は僕に、ただ全うな人間に育って欲しいと願い、僕は全うな人間として両親が僕を誇れるように努めているだけなのです。そうする為には例え如何なる些事であろうとも見過ごす訳には行きません。貴方のお姉様に許しの言葉を得られなければ、僕は全うな人間としての道筋を踏み外してしまう事になる。そうなれば今までの僕は甚だ滑稽な人間になってしまいますから」
思えばその時から、私の心は彼の誠実な心に打たれていたのかも知れません。私の問いに対する答えを語っている時の彼は、母性を知らぬ寂寞を思わすよりも、姉の許しの言葉を得る為に必死になる様が、私の目にはより明瞭に映るようだったのです。そうして彼の話した答えに甚だ感心してしまった私は、どうにかして姉を説得し、彼と話す場を設けてあげたいと思うようになりました。きっと一筋縄では行かないと思ってはいても、彼の為にそうしたくなったのです。
姉を説得するのは大変な労力を要しました。ともすれば全て徒労なのではないかと一時疑ったほどです。その内諦めるわと云って聞かない姉を説き伏せるのは実に骨の折れる事でした。それでも一度でも好いからだの何だのと云う私に、遂に姉の方でも何らかの変化があったのか、それなら話してみるわと云ってくれたので、私は喜んで彼にもその旨をお伝えしました。有難うと繰り返し云う彼の様子は本当に嬉しそうで、それを見た私も安心したものでした。
――しかし二人が話し合う席を設けた時から、一抹の焔でしかなかった嫉妬の情は、私の中で黒々とその勢力を増していたのかも知れません。彼と話を終えた姉は、何処か恍惚とした女らしい表情で、熱に浮かされたように自室へと戻って行きました。その時に何が起こったのか、私は知り得ません。けれども姉を揺るがす何かが起こったのは明白で、そんな姉の姿を見る度に私は胸にちくりと痛みを感じない訳には行かなかったのです。
やがて事が解決した後も姉と彼とは頻繁に会うようになりました。相変わらず彼が訪れて来ては憎まれ口を叩く姉ではありましたが、その顔には確かに喜色が混じり、恋する乙女が浮かべるような表情がありました。二人が恋仲になりつつあるのは傍目から見ても明らかな事で、誰もがその理想的な組み合わせに感歎の溜息を吐くほどでしたが、ただ一人私だけは安き心を取り戻す事が出来ぬまま、仲睦まじく話す姉達を見ては醜い心を押し隠すように部屋に籠っておりました。
それでも私は姉の幸せを願って止まなかった一人の妹で、この身を焦がす嫉妬の情もどうにか抑える事が出来ておりました。二人が近々結婚すると姉から聞かされた時も、笑顔でおめでとうと云う事が出来ました。それなのに……。
それなのに、姉はこの世を去りました。畳の上に広がる禍々しい血の海の中、白磁の如き肌を朱に染めて、艶やかな黒髪を広げながら、まるで糸の切れた人形のように静かな面持ちで倒れて伏しておりました。何かで心臓を貫かれた生々しい傷跡、小さく可憐な桜色の唇からは血を流し、眠っているようにさえ見える静かな瞼を閉じながら、物言わぬ骸と化して事切れておりました。その時の様相を想像する事が、私には今でも容易に出来ます。凄惨な事件の有様が、今でも私の中で、激しく痛む火傷のように思い出されるのです。
そうして、私の罪の一つ目はそこにあるのです。私は死人と化した姉を見て、悲しみに暮れる私と、芽生えた恋を摘まずに済むかも知れないという安堵を感じる私が居るのを、確かに感じておりました。どうしてこれを罪と云わずに居られましょう。あれほど愛した姉が、何者かの凶行によって命を落としたと云うのに、事もあろうに安堵とは!
私は罪悪感に押し潰されそうになりました。最早一時でさえ姉の姿を見ている事が出来なくなりました。自分の部屋へと泣きながら引き返す合間に見た、姉の死に駆け付けた彼の絶望の表情を見ると、いっそ死んでしまいたくなるくらいに悲しくなりました。己の愚直さと、姉を貶める思いに挟まれて、自分が何故生きているのかと疑いました。誰にも打ち明けられなかったこの罪を、一人抱えながら部屋に籠るのは筆舌に尽くし難い苦痛を伴いました。姉が死してからの私は、他人からすれば魂の抜けた空虚な人形の如く思われたかも知れません。実際それは間違いのない事でしょう。
それから随分と時間が経った頃、風の噂で姉の恋人であった彼が、幼馴染の女性と結ばれたと聞きました。その時でさえ私の恋情の焔は消える事を潔しとしていませんでしたが、彼の顔を見ればきっと思い出される自分の罪に耐えられず、私は姉の死後決して彼と会おうとは思い立ちませんでした。ただ彼を支えてくれる女性が現れたのだと、自分の気持ちを押し殺して思ったばかりです。そうしたからこそ、私は更なる罪に喘ぐ事になってしまったのです。
その幼馴染の女性は、姉と同じように殺されたと聞きます。重々しい鉈を胸に突き立てられ、見るも無残に殺されたと云うのです。例え見知らぬ女性であったとしても、心無い者の悪意に殺された彼女を悼むのが人として当然の事でありましょう。私の罪の二つ目はそこにあるのです。私は彼女を悼むより早く、安らぎを感じてしまったのです。
彼と結ばれる可能性が生まれてしまった事を、誰より喜んだのはきっと私なのだろうと自覚しています。それ故に、私の矮小な心は最早耐え切る事が出来ません。死んで然るべきはこの肉体です。姉を貶め、彼を愚弄した醜い心は、永久に地獄へ堕ちるべきなのです。私は、本当に醜穢なる人間です。本当に死すべきは私であるはずなのに、何故私が残されたのでしょう。そんな詮無き事を考えている事にさえ嫌気が差します。私は、私自身を決して許せない。
自身の罪を一つ残らず明かした事で、少なくとも心は安く逝く事が出来ましょう。
貴方の正体は私の理解が及ぶ範疇に無いのかも知れません。それでも、私にとって大きな存在なのです。これで漸く逝く事が出来ます。醜い嫉妬も全てこの胸に抱えて、誰も知らぬ間に死ぬ事が出来ます。本当に、有難う……」
月夜を彩る星々が瞬く空に、流星が一つ尾を引いて流れて行った。泣き崩れる女の肩には謎の女の手が添えられる。見上げれば優しく笑んだその頬に流れる涙が一滴。深緑の髪色を青白い光の中に茫洋と浮かび上がらせる美しき姿の内に、女は自らの悲しみを認めた心持ちがした。全ての痛みを受けて尚、優しく笑む事の出来る眼前の女に憧憬の念さえ感じ得た。とうとう堪え切れずに、大きな声で泣きながら、彼女は謎の女の胸の内へと飛び込む。
「泣きなさい、人の子よ。決して貴方に罪は無い。それを罪だと思うのは頑ななまでに姉を、そうして彼を愛しているが故。それでも尚それを罪と認めるのならば、私が貴方の痛みを受けましょう。罪悪の十字架は全て私の背に押し付けて、姉を想い、彼を愛し、――行きなさい」
すと背に回された腕が、力強く女の小さな体躯を抱き締める。全身に感じる温もりの中、女は心中より何かが引き摺り出される感覚を明らかに感じた。それは禍々しい闇の塊である。蛇尾の如くのたうち回り、醜くもがく塊は、やがて謎の女の身体に巻き付いて沈黙した。ふと離される身体を瞠目して見上げ、女は確かに彼女が微笑むのを目にした。目を背けたくなるような負の情念の塊を身に纏いながら、それでも彼女は優しく微笑んでいたのである。
やがて、不意に訪れた微睡に抗う術すら無いまま、女は眠りに堕ちる。薄らいで行く眼前の景色は朧になり、女の微笑みは月明かりに溶かされる。激しい罪悪の焔に身を焼かれた身体が冷やされて行く心地である。夢の中で響き続ける流水の音色が、彼女の傷付いた心を緩やかに癒して行った。……
「……行きなさい」
「私の事を、覚えているでしょうか」
懐かしき茶屋の店先に立ち、話しかけられた男は目を見開いた。亡き人の面影が、闇の中で燃ゆる焔の如く、その顔の中に認められたからである。男の前に立つ女は、心持ち俯かせた顔で上目使いに男を見遣りながら、恥ずかしそうに頬を赤らめている。まるであの人が生き返ったかのようだ、男はそう思わずには居られなかった。
「忘れるはずがありません。……昔よりも、一段と綺麗になったようだ」
男の予想外の言葉に、女は一層顔を紅くして照れた。羞恥に瞳を伏せて、僅かにはにかむその様子は、かつての冷たき瞳とは毫も似付かない。男はそれで、あの人の面影を拭い去った。此処に居るのはその妹であり、全く別人である。そうして男には個人としてその女を見る事が出来た。今や彼に対して、過去は如何なる束縛も与えはしなかった。
「今度は、穏やかに話しませんか。懐かしい、この茶屋の一席で」
女は頬に未だ戻らぬ平生の色を隠しもせずに、精一杯の勇気を振り絞ってそう云った。その様がさながら小動物みたように見えたので、男は軽く吹き出した後、笑顔で承諾の意を示す。やがて店の庇の下に用意された茶屋の席には、道行く人が目を思わず留めてしまうような美男美女が二人、楽しげに茶を共にしている光景があった。……
行きなさい 行きなさい 人の子よ
其の身に流るる 悲泣を拭い 恋心の求めるままに
行きなさい 行きなさい 安楽に身を委ね 罪の意識に苦しむ事も無く
汝の心を焦がした焔を我が身に移し
汝の心に囁く悪魔を我が身に封じ込め
行きなさい 行きなさい 人の子よ
恋心は貴方の胸に 痛みの全ては私に託して
三.人殺しの男
いきなさい いきなさい ひとのこよ
そのみにせおう つみをあがなうために もうじゃのうごめくじごくのふちへ
いきなさい いきなさい あんらくにみをゆだねることもなく ごうかにくべるたましいとなり
この男は人殺しである。私情に囚われ無二の命を奪う、裁かれるべき男ではあるが、しかし未だ彼が殺人の犯人だとは発覚していない。他人から見た男は、気立ての好い賑やかな青年である。調子に乗り過ぎる事もあるが、誰彼からも好かれる面白い人間として、友人も数多く持っていた。そんな彼が犯人だと断定されるには、あまりに証拠が少な過ぎたし、信憑性に欠ける。それだから彼の起こした事件も、迷宮の中へと迷い込むばかりであった。
というのも、彼は綿密な計画を練って犯行に及ぶ為、元より犯人を見付け出す事は容易ではない。今もまた、犯行に使用した手斧を妖怪の山の水底に沈めようと、月明かりを頼りに歩いて来た所である。月光を受けてぬらりと光る赤色が、手斧の刃の部分から雫を落としている。瞳のぎらぎらと光る様は飢えた獣を思わせて、男は荒々しく呼吸しながら、遂に川の岸辺へと辿り着く。男の息遣いと足音が、宵闇に鳴く虫達の歌声に入り混じっている。
「畜生、仕損じた。これでは己れが犯人だと露見しかねない。畜生、あんな時にまで邪魔するとは、前世より続く因縁でもあるに違いない。畜生、畜生」
男は頻りに恨めしげな言葉を吐き捨てながら、手に持っていた斧を乱暴に川の中へ放り込んだ。辺りに水音が響き渡り、水滴が四散する。凶器は闇の中に沈み込み、また男の狂気を隠してしまった。静寂に波紋を広げた手斧が沈み込むと、やがて辺りには再び静寂が舞い戻る。男の荒い息遣いは次第に収まり、今では大分落ち着いたようで、彼は流れる川を見遣りながら、何かに気付いたかのように呟いている。
「しかし、自分の手元さえ碌に見えぬ闇夜の中で、己れの顔が見えたとは思われぬ。それに唯一の証拠は今や妖怪の山を流れる川の底にある。誰もこんな所まで証拠を探しに来る事は無いだろう。全く好い場所を見付けたものだ。里で聞くほど危険な場所じゃ無し、全てを闇の中に捨て去るには絶好の場所だ。これなら安心だろう」
くつくつと喉を鳴らしながら、男は不敵に微笑んだ。
「お待ちなさい、人の子よ」
が、今まで危険に遭遇しなかったとは云え、不気味な場所に変わりは無いので、早々に立ち去ろうと踵を返して家路を辿ろうと思った折、唐突に男を引き留める声が闇夜の中に響いた。慌てて辺りを見回しても人影はおろか動物の気配さえ感じられない。いよいよ気味悪くなって来た男は、誰だと大声で叫び散らした。よもや真実を聞かれたのではあるまいか、そんな予感が男の背に冷たい汗を垂らす。自然、男の表情は強張っていた。
「何を急いで帰る必要があるの。全てを見聞きした私を残して」
背後から聞こえた声に、男は間髪入れずに振り向いた。先刻見た時は誰も居なかったはずの場所に、一人の女が立っている。漆黒の闇の中、同調するような色合いの服装が月明かりに照らされて浮かび上がっている。その奇妙な恰好に驚きはしたものの、外見は美しく華奢な女と何も変わらない。男は好都合とばかりに唇の端を吊り上げた。女の云う通り、男には急いで帰る必要が無かったのである。
「お前は一体何者だ。この時分、こんな場所で何をしている」
「何もしてないわ。ただ貴方の呟きを耳にして、貴方が手斧を川へ放るのを目にしたばかり」
「見た所里の者では無いようだが、何が目的で己れを強請る」
「先刻の呟きの意味を詳しく話して貰えれば、私はそれで満足だわ」
女はそう云った。無機質な表情は男の話に対して本当に興味を持っているのかも判らない。ただ男の口の端は更に吊り上がる。心中に沸々と湧き上がる悪意の感情に、男は陶酔感さえ覚え始めていた。人殺しとなった時から芽生え始めていた魔性の感情に、今では戸惑う素振りさえ見せぬ。ただ欲望に濁った瞳をぎらりと光らせるばかりである。
「好いだろう。女子供が聞くに耐えられる話では無いだろうが」
男はそう云うと、にやりと口元を歪めて見せた。そうして女の様子を窺うと、彼女は毫も変わらぬ体で立ったままである。男はつまらないと口にする代わりに、舌打ちを一つ鳴らして数歩女の元へ歩み寄ると、自らが起こして来た物語の顛末を、まるでお伽噺を語るかの如く、楽しげな調子で話し出す。女の表情は無機質なもののまま、一向に変わる気色を見せはしない。それでも男にとってそんな事は関係無かった。彼はこの話が終わった後にでも、この女の細い首を絞めて殺してしまえば好いと考えていたのである。
「己れは昔から欲望の強い男だった。それを自覚したのが物心の付いた時だから、己れの欲望の強さが如何に大きかったか想像するのは容易い。が、自覚しているからこそ、己れはその欲望を無暗に解放したりはしなかった。多くは胸の中に押し留め、決して暴発しないようにしていたのだ。己れは強い自制心を持っていると自負している。そうしてその自負があったからこそ、欲に溺れた卑劣な人間とならずに過ごせていた。しかしそれは幻想だった。人の持つ欲望とは、決して隠し通せるものでは無かったのだ。何も己れだけに限った話ではない。誰であれ、欲望の爆発する時があるはずなのだ。
己れには小さな頃から仲の好い親友が居る。お調子者だった己れとは対極に居るような、勤勉で真面目な奴だった。毎日寺子屋に通い、余った時間には父の仕事の手伝いをし、そういう事を全て終えた後に己れと遊んだりする、真面目を絵に表したかの如き男だ。奴は己れの持たぬ全てを持っていた。容姿も性格も仕草も、全て己れを上回っていた。思えばそれこそが、己れの欲望の爆発の近因だったのだろう。思春期を迎える頃には、己れの奴を見る目は嫉妬の情に埋め尽くされていた。
村で美人だと評判だった女が居る。長く伸びた黒髪の美しい、切れ長の瞳を持つ女だ。己れは密かにその女を好いた。しかし男を寄せ付けぬという噂を聞いてから、彼女の姿を里で見掛ける事はあっても声を掛ける勇気は出し得ず、ただ遠目に彼女を思う無為な日々が続いていた。お調子者と謳われる己れでも、好いた女に傷付けられるのは辛辣なものがあったのだろう、彼女の姿を目にする度に、己れは意外にも臆病だった自身の気性に苛立ちを感じて止まなかった。
そんな或る日、己れは親友と他に友人を連れて茶屋に行った。最初は取り留めのない雑談に花を咲かせていたが、暫くすると己れの好いている女が店に遣って来て、丁度近くの席に腰掛けた。彼女には妹が居て、妹と話している時の普段とは似付かぬ柔らかな物腰には胸が締め付けられるような思いにもなり、己れは自然友人達に彼女に関する話題を振った。というのも、自分で話し掛ける勇気も無く、色恋沙汰に疎い親友がどうにか彼女と知り合う糸口を見付けてくれやしないかと、打算的な考えがあったという事は、想像するまでも無い。実際容姿も性格も良い親友ならば、上手く行くのではないかと思っていたのだ。
その内友人達と共に、己れは親友に向かって一寸声を掛けて来いと頻りに云った。普段からお調子者として通る己れの言葉には親友も不審を募らせなかった事だろう。他の友人達も己れの話に乗って、親友を急かしていた。
が、その内己れ達の話が聞こえていたと見えて、それまでは静かに妹と談笑を交わしていた女が、突然己れ達の方へ振り向くと、厳しい声音で何か用と云い放った。己れは元より、友人達も臆したように黙り込んでしまったが、親友だけは本当に驚愕したかのように目を見開いて、彼女と向き合っていた。奴は誠実な男であったから、例え些事であろうとも失礼を詫びなければ気が済まなかったのだろう、親友はその女の元に歩み寄った。
その時の事は、今でも脳裏に焼き付いている。鋭い女の瞳を見詰めながら向かって行った親友は、何事かを云った後勢いよく頭を下げた。女は呆気に取られ、一時は言葉を発する事さえ忘れたと見えて、呆けていたが、やがて怒ったように親友に何か云うと、頬を赤らませて素気なく妹の方へ向き直ってしまった。二人の間に如何なる言葉が交わされたのかは判らない。けれども、後日頻りに女の家へと向かう親友の姿を見て、己れは確かに怒りに近い嫉妬の情を、この胸の内に感じたのだ。己れが遂に成し得なかった事を易々と行ってしまう親友の姿は、友情の枠組みを遥かに超える憎悪をもたらした。
それから日増しに己れの中で嫉妬の焔が激しく燃えだした。一滴ずつ油を差されるかの如く、盛んに燃えては胸を焦がす。親友から彼女の話を聞かされる度、平生を振る舞って言葉を返す自分の滑稽に歯噛みした。が、それでも己れは身を溢れ出しそうになる欲望を必死に抑え、爆発しそうになるのを堪える事が出来た。それは親友に対する友好の証でもある。己れは決して外見だけを取り繕った関係で居た訳ではないのだ。その時まで、己れは善良な人間であったに違いない。
が、それも長く続きはしなかった。どろりと渦巻く感情は抑え切れぬほどに膨張し、とうとう爆発を余儀なくされる所まで近付いた。その上己れは、折もあろうにそんな不安定な時に親友と共に居た。二人で里を歩きながら、親友から聞かされる惚気話を聞いていた己れは、そこで止めを刺される事になる。やはり己れの心中に燃え盛る欲望の火は、決して止められぬものであったという事を、思い知らされる事になるのだ。
「お前は僕と本当に仲好くしてくれた。母が居らず、他の者とは明らかに違った雰囲気を出す僕を、その明るさで影の内より引き摺り出してくれたのもお前だ。陰気な顔をするな、陽の下で遊んでみろと云われた時の事は今も判然と覚えている。今では一番の友人であると胸を張って云えるのを、僕は何よりも嬉しく思っているのだ。だからこそ、この話を一番に打ち明けるのはお前だと決めていた。どうだ、聞いてくれるか」
奴はこう云って、己れの顔を覗き込んだ。大抵の予測は付いているはずであるにも関わらず、己れは間抜けにも話の続きを促した。自白すれば決して耳にしたくない事柄であったのに、親友の語った言葉と、己れの中で未だ消える事の無かった親愛の情が、そうさせたのだ。親友はこう続ける。己れの我慢は最早限界に達していた。何を我慢していたのかでさえ判らぬ。ただ、何かが胸を内から激しく叩く音が、絶えず聞こえ続けていたのだ。
「有難う。――僕は近々、あの家の娘さんと婚約する事にした。まだ彼女と僕との間でしか形になっていない事ではあるが、これから次第に皆を巻き込む形になって行く事だろう。思えば困難な道のりが続いていたが、漸く幸福な形で一つの山場を乗り越える事が出来そうだ。そうしてそんな山場を越える時、何時でも力になってくれたのがお前なのだ。お前が祝福してくれるのなら、それに勝る幸福は無い。本当に、有難う」
笑ってそう云った親友に、己れは笑い返す事しか出来なかった。これ以上に無く曖昧な返事であった事だろう。上手く笑えたかどうかは自分でさえ判らぬ。ともすれば罅割れた笑顔の仮面を被っているだけであったかも知れぬ。それでも親友は気付かなかったに違いない。奴は幸せの極致に居た。そんな奴の中に不安の芽など吹くはずがなかったのだ。
それからの己れの心情は最早語るに及ばない。己れの間違った愛情、或いは劣情は歪んだ方向へと一人走り始めたのだ。元よりそうする事でしか思いを表せなかった己れは、親友と比較すれば畢竟脆弱な者であったに違いない。
己れは何も知らず安穏と日々を過ごす親友の恋人を殺そうと思い立った。そうする事で、胸中ではち切れんばかりに膨れ上がった欲望の焔を漸く鎮火する事が出来ると思ったからだ。その上で親友と親友である為に必要な事も考えた。飽くまで己れの中には奴の恋人を突き放す事しか無かった為に、奴が誰より想っている恋人を殺して尚、親友で在りたいと思ったのだ。答えは至極簡単で、要は事件の犯人が露見しなければ好い。その為の計画を、己れは密かに考え始めていた。
あの女がどんな時に無防備な状態となり、どんな時に一人になるのか、己れは完璧なまでに調べ尽くした。その際にも細心の注意を周囲へ払ったし、変に警戒される事も無ければ、己れの行動を怪しむ者も居ない。計画は順調だった。そうして、寝静まってからは一切女の家に如何なる音沙汰も無い事を確信すると、己れは計画を行動に移した。
月明かりの冴える、好い夜の事だった。手元が明らかに見え、手に持つ鎌の刃が物々しく光っていたのを、今でも覚えている。不思議と高揚している気分を宥めつつ、己れは女の部屋に隣接している庭園へと塀を乗り越えて侵入した。思えば己れは彼女を自分の物に出来るという征服感に満たされていたのかも知れぬ。これ以上に無い卑劣な方法で彼女を永遠の存在とする事が出来るのを想像して、興奮さえしていたのかも知れぬ。己れは生来人殺しに快楽を得る、最悪な畜生であったのだ。
やがて己れは障子を開く。この時間ともなれば、皆熟睡しているはずなのは間違いなかった。静かに開く障子の向こうに、床に就く女の姿が見えた時には笑みさえ漏らした。己れの前でこんなにも無防備な姿を晒している事に、現実が信じられなくなった。しかし、その頬に触れてみれば温かく、鬱陶しそうに眉を寄せる姿などは、やはり現実に存在する光景なのだと己れに訴える。しかしこの女が奴の者である事に変わりは無い。そう思うと、僅かに残った己れの良心は一気に消え失せた。視界の中が真赤に染まり、振り上げた鎌が月光を受けて煌めく。一思いに降り下ろした鋭い刃は、容易く彼女の胸を貫き、その柔らかな乳房の先から、紅い血を迸らせた。
ぴくりと柳眉が動いたのは初めだけで、彼女は目を開く事無く息絶えた。広がって行く血に触れぬよう、己れは一歩引いて、死体となった女の姿を茫然と見詰めた。己れが奪った命、己れが奪った魂、それを思うと満足感で身体が満たされて行くようで、己れは恍惚としたままその場に呆けていた。が、やがて現実に引き戻されると、鎌を彼女の胸から抜き、急いで外に飛び出すと傍らに着替えを抱えて里の外に走り出した。
その時も己れは此処に来た。凶器に使った鎌をこの川に投げ捨て、血の付いた着物で石を覆って沈め、持って来た代えの服に身を包んだ。そうして夜が明けぬ内に家へと戻り、さも初めから寝ていたと示すかの如く布団の中に入った。そうして朝早くに散歩に出かけ、彼女の家の前を通り掛かると、案の定家の中が騒々しい。何事かとそこらを歩いている人に尋ねてみれば、この家の娘さんが殺されたと云う。己れはそれを聞いてから血相を変えて、親友の元に急いで向かう。そうして息も絶え絶えに、その旨を伝えるのだ。奴は己れの事を疑いもしなかった。その代りに、魂を失ったものの如く変わり果ててしまった。
その時から己れはもう人ではなくなっていたのかも知れぬ。己れは親友の絶望した姿に喜びを覚えた。己れに無いものを全て持っているが故に感じていた劣等感の全てが、心地好く溶け出して行く心持ちがした。そして好いた女をこの手で殺めた時の感触、彼女を己れの物にしたという独り善がりな征服感、全てが心地よくて堪らなかった。殺人の味は人を虜にする。取り分け己れのような人間には甘美な味だ。己れはそれに、魅了されてしまっていたのだ。
やがて、廃人と化した男の元には新たな女が現れる。己れにとっては何処にでもいる娘と何ら変わりはない、親友の幼馴染だった。甲斐甲斐しく男の世話を焼く優しい女で、長い月日が経つ内に二人は徐々に距離を縮めて行った。その頃の己れには未だ親友を思う心が残されていた。このまま二人が寄り添う関係となれば、きっと己れは自分を抑えられなくなる。それはどうにならぬ事で、必ず起こり得る事象だった。だからこそ、あの女は平々凡々たる女だ、お前は本当にあの女と結ばれるのか、と親友に対して揺さぶりを掛けた。が、元より誠意に満ちた親友の心を揺るがすには及ばず、頑なに奴は彼女ほど優しい人間はそうは居まい、僕はあの娘と結ばれたいと思っていると云って聞かなかった。
その時には諦めていたのだろう、己れは再び狂気に取り憑かれ、気付けばその女を殺す手筈を整えていた。親友を絶望に陥らせるあの快感を味わいたいと、醜い心が望み始めていたのだ。手口は以前と何も変わらなかった。女の身辺を隈なく調べ、殺すのに最適な時分を割り出し、殺した後には此処へ証拠を沈めに行く。そうして事件の翌朝、親友の元へと駆け付ける。邪魔する者は居なかった。幸福に身を包まれ夢の中に堕ちた女を殺すのは造作もない事だ。その胸に重々しい鉈を突き立てるだけで、儚い命の灯火は静かに消える。親友は再び深い絶望の底に沈み込んだ。
しかし、これで心を砕かれたろうと云う己れの予測とは裏腹に、親友は意外にも早く立ち直った。死んだ恋人達の事を想い、毎日彼女らの為に祈っては以前と同じように明るく振る舞って見せた。何も知らぬ親友は己れにさえ同じ接し方をした。そうして、再び共に生きる相手を見付け、幸せへの道を歩み始めた。決して軽薄な男ではない。自身の在り方を決め、過去の不幸に囚われぬまま、亡き人達が笑顔で見守ってくれるように生きようと奴は決意していた。頭に来るような誠実な奴に、己れは再び黒き焔が心中に燃え広がるのを感じていた。
そうして先刻、己れは奴の好いた女を殺しに出向いた。己れがかつて好いた女の妹で、姉とは全く違った性質の人間ではあるが、可愛らしい愛嬌がある。しかしそんな事はもう関係なく、己れの殺意は劣等感に深く根付いていたのだ。が、遂に邪魔する者は現れた。月夜の晩、暗闇の中眠る女を殺そうと床に侵入した時、そこには親友の姿があったのだ。奴は暗黒の中で顔も判らぬ犯人を見て、静かにお前かと呟いた。そうして虎の如き勢いを以て、己れに掴みかかって来た。
己れの頭の中は顔を見られないようにする事で精一杯だった。呻き声すら漏らさず、飛び掛かって来た奴を腕っ節で薙ぎ払い、手に持った手斧を振り下ろした。後ろでは飛び起きた女が怯えた眼差しでこちらを見ている。止めてと叫ぶ声に危機感を覚えた己れは一太刀を男の腕に入れると、怯んだ隙に逃げ出した。あの時親友の腕に喰い込んだ手斧の感触は未だ残ったままだ。今までの感触とは違い、酷く気分が悪くなる。己れの歪んだ心にまだそんな事を厭う暇があったのだと、今でも驚く。きっと明日になれば変わらぬ表情で奴は己れと接するのだろう。親友だと思っていた男が、過去に奴の思い人を二人殺していた事にも気付かず、屈託なく話し掛けて来るのだろう。今の己れは、酷く滑稽だ。
話はこれで終わりだ。己れは今までと同じように凶器を此処に沈ませて里へと戻る。証拠の一つでさえ残さぬまま、何食わぬ顔で日常を過ごす。そうして何時の日か、奴の愛した女を殺す。聞くに耐えない話を最後まで聞いてくれた事に感謝する。初めて打ち明けた事で、己れは自身の理解を深めるに至った。が、それでもお前の事は殺さねばならぬ……」
男は静かに云って、女の元へと歩み出す。今や人殺しの瞳でしかないその翳った目玉を、月光が明らかに浮かび上がらせた。女は全く動じない。彼が接近しても、恐怖に怯える様子を決して見せる事無く、毅然とした態度で立っている。男は何だか自分の体躯を遥かに上回るような化け物が目の前に居る心持ちがした。決して上回る事の出来ぬ力が喉元に突き立てられていて、今にもこの命を摘んで行きそうな心持ちがした。どちらが優勢なのか、最早判らぬほどである。
次第に視界を闇が埋め尽くして行く。何故だか意識が朦朧とする。女の姿は雲煙縹渺として霞み、自分が何をしているのかさえ判らなくなる。まるで病魔に伏せった心地である。男は虚空に腕を投げ出し、女の細く白い首元を模索した。
「逝きなさい、人の子よ。貴方の内に巣食う禍々しき獣は、最早自制の鎖の元に大人しくしては居ない。自らの心を喰らわれている事にすら気付かない貴方は、真に憐れな、そうして誰より純粋な男だわ。それでも罪は決して消える事は無い。更に罪を重ねる前に、親友を想う心すら喰らわれてしまう前に、――逝きなさい」
一寸先さえ見えぬ闇の中、身体に圧し掛かる重量に喘ぎながら、男はその声を聞く。そうして水中に沈み行くような閉塞感と息苦しさに悶え、大蛇に身体を締め付けられるかのような圧迫感に意識が遠退いて行く心持ちがした。全ては闇によって形成されている。白む視界の中に、男は自らの身体に巻き付く蛇を、自らの周囲に広がる水を見る。全てが暗澹たる闇である。これはきっと自分が他人へ与えて来た苦しみなのだと、意識が途切れる間際、男は確信していた。
「……逝きなさい」
妖怪の山を流れる川の底に、二着の着物と一振りの鎌、一振りの鉈、一振りの手斧が沈んでいる。錆付き流れる石によって朽ち行くそれらの中心には、まだ新しい男の死体が不思議と何の重石も必要としないままに沈んでいた。その顔に苦痛は無い。何処までも安らかな表情が、陽光の差し込む水面へと向けられている。全ての束縛から解放されたかの如きその顔は、確かに笑みを象っていた。彼は人殺しの男である。そうして純粋なる心の持ち主である。誰よりも親友を想う優しき人である。それでも背に負う罪悪の塊は、彼を地獄へ誘った事であろう。
今や彼の所在を知る人は、川を流れる岸辺にて佇む女より他に、存在しない。……
逝きなさい 逝きなさい 人の子よ
其の身に背負う 罪を購う為に 亡者の蠢く地獄の淵へ
逝きなさい 逝きなさい 安楽に身を委ねる事も無く 業火に焼べる魂となり
汝の心に巣食いし獣を我が身に鎖で繋げ
汝の心を満たす愛憎を我が身に宿し
逝きなさい 逝きなさい 人の子よ
全ての罪は貴方の胸に 全ての痛みは私に託して
――了
純文学的で、ある意味で幻想郷らしい語り方だなと感じました。
心に対して、もう一度考え直させてくれる作品ですね。感心しましたし、深かったです。
厄神らしい雛ですね。こんな雛も大好きですw
文章は、相変わらずお見事。
妹が隠れヤンデレだと思ったが、親友か。
主人公は生きてるよな? じゃなかったら本当に救われねぇ。
理由はガチホモだったと確信してた自分の穢れっぷりをこの厄神様に救っていただきたいです。
それ故、一番幸福であったと言えますが。
人間の心理の複雑怪奇さがよくよく描かれていたのがお見事、
相変わらず圧倒されますねぇ。
雰囲気がまさにそれらしいというかなんというか・・・
言葉に表しにくいですが、強いて言うなら古めかしい?(良い意味で)
自分も色々抱えすぎる前に雛にえんがちょしたいですねぇ・・・
だがそれがいい。だからこそいい。
きれいな文章であり、里を感じさせる文字達なのですが、それゆえに「孤独死」という言葉だけが違和感を抱きました。その言葉は比較的新しく作られた言葉だと私が思うので、その違和感を感じたのでしょうが。