前書き
これはnitori+シリーズのお話です。
出来れば一作目、子供を笑顔にする程度の能力(http://coolier.sytes.net:8080/sosowa/ssw_l/?mode=read&key=1242320756&log=76)を読んでいただけると嬉しいです。
それでは、本編をどうぞお楽しみください。
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――人間を殺せ。
頭の中で、誰かの声が響き渡る。
――人間を殺せ。
イヤだ、と私は答えたけれど、それでも、
――人間を殺せ。
私の中で、人間に対する憎悪が膨れ上がる。
――人間を殺せ。
いやだ、いやだ!私は、私は人間が……
――人間を殺せ。
……師匠。
――人間を殺せ。
『人間を……嫌いにならないでくれないだろうか』
――人間を殺せ。
彼の事を思い出す。あの玩具屋の節くれ立った手を。あの時差し出された手の暖かさを。
――人間を殺せ。
或る少女の事を思い出す。出会った時は昔の私のようだと思っていたけれど、私なんかとは全然違う、とても強い子。
――人間を……
――うるさい。
私はその声を、強く撥ね退けた。
呼吸は荒く、頭痛がガンガンと響く。精神感応から逃れる為の処理で無理をしすぎた代償だ。それでも私は、この声に負けなかった事を誇りとして、こう言ってやる。
――参ったかい、何処かの誰かさん。私は人間が大好きなのさ。
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――人間を殺せ。
……これは私なの?
これは、私の記憶なの?
真っ白い床。真っ白い天井。真っ白い壁。真っ白い部屋。
怯えた様子の人間が後ずさる。
監視カメラがその様子を映そうと、ジイイと音を立てて動く。
私は、「いやだ」と、そう言ったけれど。
――父親の命が惜しければ、目の前の人間を殺せ。
そう言われて、私の全身から力が抜ける。
父親。誰だろう。人形の私に、父親なんて……
『ほら、見てごらん。この木馬に、こう螺子を巻いてやると……』
――……っ!?
誰かの顔が頭をよぎった。
知っている。私はあの人を知っている。あの人の手の暖かさを知っている。
絶対に、あの人だけは、失いたくない。
記憶の中の私もそう思って……
泣きながら、震えながら、その哀れな人間に近づいて……
そして……
視界が、赤に、染まった。
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『さあ、始まりの時だ』
その女はくすくすと笑った。何処とも知れぬ空間、何処とも知れぬ時間の果てに、とても愉快な世界を見つけたから。
引き金となったのは、いつか行われた荒唐無稽な運命操作だった。彼女の天敵とよく似た気配を感じて探りを入れたら、隠されていた世界が見つかったのだ。
彼女は愉快で愉快で堪らない。ここには天敵は存在しなかった上に、都合よく操れそうな、とても強い憎悪を抱えた、とても可哀想な人形が居たから。
だから彼女は、その人形を見つけた時、そのようにした。
『僕は君達が大好きなんだよ。君達の最も最も最も最も醜い部分すら、愛しているほどに、ね』
哄笑。
『だからこうするのさ。さあ、踊っておくれ、僕のマリオネット、私の操り人形、我ァが、傀儡よォ』
彼女の貌が変わる。声が変わる。姿が変わる。
目まぐるしく姿を変える、その外なる神の名は……
#Φ∬Й*―∵¶§∠
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にとりは外へ飛び出した。
彼女は声に負けなかった。彼女は憎悪に飲み込まれなかった。何故なら、彼女には大切な人間達が居たから。
だけど、他の妖怪はどうだろうか。
「……ちょっとまずいかね、こりゃ」
実際にはちょっとどころではない焦りを抑え込もうとしながら、にとりは呟いた。
多数の妖気が蠢き、群れとなって、人間の里へと向かい始めているのを感じ取ったからだ。
本来ならば里には守りが……人を守る白沢が居る。けれど、その白沢までも憎悪に飲み込まれてしまっていたら……
(考えたくもないね。……いいや、あの白沢は人間から変化を遂げた筈だ。なら……)
里の気配が消えた。
白沢の能力によって歴史から隔離されたのだ。
良かった、とにとりは安堵する。白沢も、あの声には負けなかったと言う事だから。
(少なくとも、これでしばらくの間里の安全は保証された。そこそこ頼りになる白沢は里から動けなくなったけど……仕方ないか。さて、)
他にこの幻想郷で人間が住んでいる場所は……と、にとりは考える。それほど多くはないのですぐに思い浮かべる事が出来た。
紅魔館のメイド長、森の中の魔法使い、お山の巫女、竹やぶの不死人、それから勿論、博麗の巫女。
お山の巫女は絶対に安全だ。何せ神様二人が守ってくれる。神様がにとりですら抗える程度の精神感応に操られる筈はない。
不死人も不死だから大丈夫だろう。そもそも彼女はそこらの雑魚が束になってかかっても一度殺せるかすら怪しい程度の能力を持っている。
他の三人を助けに行こうと思った所で、すぐ近くに人間の気配がある事に、にとりは気付いた。
――まさか、こんな時に。里にさえ居れば安全だったのに。
にとりがよく知る少女の気配だった。友達になれそうな妖怪を見分け、友達になってしまう不思議な少女。
気配はこちらに向かっている。そして、その気配を嗅ぎつけた多数の妖怪も、近づいてきている。
少女と妖怪の間に立ちふさがるようにして、にとりは着地した。
「話は後!工房の中に入って、お嬢ちゃん!」
「……うん!」
彼女も周りの様子がおかしかった事には気付いていたようで、小走りでにとりの住処の中に入っていった。
程なくして、多数の妖怪がにとりを囲む。
一人ではこの数を捌き切れないかも知れない。そうにとりは思う。自分はそれほど強い妖怪ではない事も自覚している。
それでも、
にとりはしっかりと前を向いて、立ちふさがる。
師匠の教えが、胸の内にある。
だから、胸を張って戦える。
だから、誇りを持って戦える。
「……あの子を襲いたきゃ私を殺してからにしな。寄ってきただけ、屍の山を積んでやるよ」
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――人間が、憎いかい?
人間なんて嫌い。大嫌い!
あいつらは、私とお父様を引き離した。あいつらは、私からあのぬくもりを奪った!
だから、私は人間を憎むの。
――そうかい、ならばもっと憎むと良い。
ええ、そうするわ。
きっとお父様も喜んでくれるから。
――そう、そうだよ。きっと君のお父様も喜んでくれる。だから私は君にそのための力を与えよう。
誰だかわからないけれど、有難いわ。
――名前なんて意味の無いものさ。それよりも……さあ、言うんだ。君が望む事を。僕はその願いを叶えてあげよう。
……人間を殺せ。
――そうだ。人間を殺せ。
人間を殺せ。
――そうだとも!君はそうすれば良い。憎めば憎むほど、君のお父様は喜んでくれる。
人間を殺せ。
――はは、あはははははは!
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「か……はっ……!」
56匹目の妖怪を倒した所で、にとりは結界を突き破った攻撃を身に受け、悶絶する。
いつものような遊びではない。本当の、殺意が込められた攻撃。
強い刺激を受けた痛覚が暴れ狂い、にとりに諦めの言葉を囁く。
倒れれば、楽になれる。元より、一人で戦える数ではない。ならば……全ては無駄なのではないか、と。
「まだ……まだぁ……!」
だけど、にとりは倒れない。あの子を守らなければならないから。
いや。
あの子を、『守りたい』から、にとりは戦う。
それは最早《彼》との約束を超えた、にとりの心の内から生まれ出でる想いだった。
だからにとりは倒れない。だからにとりは戦えるのだ。
妖怪の数はようやく半分と言った所か。本来の彼女の力からすれば、ここまで倒せた事が奇跡だ。
倒した中には、にとりと同程度の力を持つ妖怪も何人か居たが、不思議とにとりは彼らには余り苦戦しなかった。
いや、それは当然だったのかも知れない。彼らにはまだかろうじて知性が残っていた。殺意に駆られていても、心の内で戦っていた。
その迷いが……或いは、にとりを傷つけたくないと言う優しさが、彼らの能力を抑え込んでいたのだろう。
――61匹目。
結界越しに背中に強い衝撃。呼吸が止まり、体の動きが覚束なくなる。意識に靄がかかる。
――もう、諦めてもいいんじゃないか。
(ああ、そうかも知れないね。ここで倒れれば、妖怪たちは私の事なんて目にもかけずにあの子を襲うだろうさ)
心の中に響いた声に、にとりは同意しそうになって……
――そうだとも。君は此処まで頑張ったのだから、もう倒れても良いのさ。
けれど、
にとりは《彼》の手の暖かさを思い出す。少女の小さな右手のぬくもりを思い出す。彼らの笑顔を、彼らを囲む妖怪たちの笑顔を思い出す。
64匹目の妖怪を倒しながら、にとりは強く念じた。
(うるさいな、どっかの誰かさん。あんたの言う事なんか絶対に聞いてやるもんか)
――そうかい、なら勝手にすると良い。僕は君が苦しむ様を楽しむとしよう。
自然に頭の中に入り込んできた声を、にとりは振り払った。
何者かは分からない。聞いた事が無い声だった。それでも、邪悪な気配は……強大な邪悪の気配だけは、感じ取れた。
息つく暇もなく、妖怪が襲い掛かってくる。
限界が近いのはにとりにも分かっていた。いくら気力を奮い立たせてもどうしようもない限界が。
だがにとりには為す術がない。この様子を見る限り、幻想郷中の妖怪が憎悪に駆られて人間を襲おうとしている。
69匹目。水を召喚して撃ち抜こうとした瞬間に、にとりは自身の霊力が枯渇した事に気付いた。
「くっ……!」
勢いそのままに殴りかかり、義手に仕込んだ機巧、<紫電掌>から、電磁パルスを最大出力で叩き込む。
焼け焦げて気を失ったその妖怪を乱暴に投げ捨て、彼女は次の妖怪に取り掛かる。
限界が、来る。
霊力は枯渇した。義手に詰め込んだ武器では、残る妖怪全てを倒し切る事は出来ない。
その後のにとりに残るのは、徒手空拳のみ。
(……私はそっちの方はからきしだけど)
「……やってやる……さ」
(あの子は、命をかけてでも、守りきる。絶対に)
決意と共に、両手からヒヒイロカネの刃、<カットスロート&ファンタズム>を飛び出させつつ、にとりは妖怪の群れへと突撃し……
「にとりちゃんっ!」
その時、
少女が、工房の扉から飛び出してきた。
「……もういいの。わたしね、たべられてもいいから」
(ああ、そうだ。この子は、そういう子だったんだ)
「だからね、にとりちゃんは逃げて」
そう言って、少女は、震えながら微笑んだ。
(駄目だ。そんなのは絶対に許せない。くそっ!動け、私の体!速く!もっと速く!)
にとりが叫ぶ。今すぐ工房の中に戻って、と。
同時ににとりが駆ける。少女を守る為に。
だが、それよりも早く。
妖怪たちが動き始める。
その目にはもうにとりの姿は映っていない。直前まで敵対していた相手の姿すら忘れ、憎悪に染まった目で少女をしかと見据えながら、数多の妖怪が駆ける。
(間に合わない……!)
その隙をついて、数匹の妖怪を斬りおとしながら、にとりは絶望する。
一人だけでは、力が足りなかった。一人だけでは、彼女を守り通す事が出来なかった。
絶望し、それでも足掻きながら、にとりが叫ぶ。
それは、無意識の叫びだった。
応えを期待した言葉ではなかった。
だが。
誰か、と。にとりが言ったその言葉に応じるように。
助けて、と。にとりが言いかけたその言葉に応じるように。
先頭の妖怪が、黒色の槍に貫かれて、消えた。
次を行く妖怪は、にとりの義手と同じ機巧、<紫電掌>によって、電磁パルスに焼かれ、放り投げられた。
無数の黒色の槍によって。
無数の<紫電掌>と<カットスロート&ファンタズム>によって。
妖怪たちが続々と悲鳴を上げて消えて行く。
そして、最後に、
突風が全てをなぎ払い、辺りに居た妖怪たちは全て吹き飛ばされた。
「……はは」
安堵で尻餅をつきながら、にとりは笑いと涙を同時に浮かべた。
そうだ、彼らが居たのだ。
にとりと同じように、あの老人を愛し、あの子の友達となった、彼らが。
影の人と、百足百手、そして、
「なんとか、間に合ったみたいですね」
最後に現れた射命丸文は、抱きついてきた子供の頭を撫でながら、そう言って笑った。
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――人間を殺せ。
――人間を殺せ。
――人間を殺せ。
憎悪が呪毒の霧となって人形の体から噴き出し、毒を操る程度の能力によって幻想郷に散っていく。
彼女は段々とこの体に生まれる以前の事を思い出し始めていた。
彼女は最初、機械人形として生を受けた事を。彼女には父親と呼べる存在が居た事を。
そしてその記憶によって、彼女は憎悪に駆られ、現在、幻想郷を憎悪で埋め尽くそうとしている。
――けれど彼女は知らない。もう一人、彼女とよく似た妖怪が居る事を。
もう一人、《彼》の娘と呼べる妖怪が居る事を。
******
――人間を殺せ。
その声は幻想郷に住まう全ての妖怪に強く響いた。
「……いや……!」
ある者は拒絶し、故に苦しみ、
「……気に入らないわね」
あるレベル以上の者は惑わされる事なく撥ね退け、
「……人……間を……殺す……」
……多くは、その声に負けた。
そして此処、紅魔館では……
「人間を殺せ……ったって」
と、赤髪を短く切った戦闘メイドがハルバードの素振りをしながら呟いた。
「私達の周りに人間なんて居ないしねぇ」
「そうですねぇ、居ませんねぇ」
と、緑の髪を長く伸ばしたメイドがおっとりと緑茶を飲みながらその呟きに応える。
「確かに。あら……何か忘れてないかしら?」
黒髪ストレートの隊長メイドがそう返した所で。
「私は人間ですわ」
「ああー!メイド長って人間……だったんですか?あ、あと買出しお疲れ様です」
「そう言われれば、そうだった気がしますねぇ」
「ああ……そうでした。私とした事が」
突然現れた紅魔館メイド長こと十六夜咲夜を前にしても、三人は普通の反応を返した。
「……それで、貴方達は私を見て突然襲いかかったりはしないのかしら?」
「いやー……なんていうかその」
「……少し言いにくいのですが」
「メイド長さんはぁ、私達の中では人間の範疇に全然収まってないから大丈夫なんですよ~」
緑髪のメイドが、まったりしつつメイド全員の心の声であろう言葉を言い放った。他の二人は苦笑いを浮かべていた。
「……はあ」
咲夜はとても気の抜けた声を出した。
「まあ、貴方達が正気なのは助かるわ。外では雑魚相手に時間を取られましたし」
「あらら、命知らずな雑魚も居たもので」
「とは言っても……私達もメイド長以外の人間を前にしたらどうなるか分かりませんね。今も声の干渉を完全に打ち消している訳ではありませんし」
「……私達が正気で居られるのは、メイド長さんの前だけです」
ぽつりと、雰囲気を変えて緑髪のメイドが呟く。
「メイド長さんはぁ、私達のメイド長さんですから~」
続けてよく分からない事を言って、茶を啜った。
だが、伝えたい事は咲夜の胸に伝わったようで、メイド長は優しく微笑む。
「……ありがとう、皆」
赤髪のメイドは親指を立て、黒髪ストレートのメイドは一礼し、緑髪のメイドは微笑み返した。
「ところで、三人とも。今は休憩の時間では無い筈ですが」
ぴたりと、三人の動きが止まる。
「……いやその」
「……なんと言いますか」
「……逃げちゃいましょ~」
「あっ!ずるっ!アタシもそうしよっと」
「な、待ちなさい!貴方達が逃げるとまた私が……!」
「そんな場合ではないのですが、少しだけお説教ですわ」
少しだけ機嫌が良さそうな咲夜が、隊長メイドの手をがっしりと掴んでいた。
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「つっ……いたた」
「……ダイジョウブ……カ……?」
百足百手がおぼつかない人語でにとりに話しかけた。
「……ああ、ええと歳を取ると二日前にやった夜は墓場で運動会の疲れが今になって筋肉痛にね」
けれどにとりは、人間の少女の方へちらりと目をむけ、誤魔化しの言葉を並べた。あの子を守る為に負った傷だから、あの子が責任を感じないように、と。
「ソウ……カ……オタガイ……トシダ……ナ」
そう言って百足百手は人間の少女の傍に行った。にとりは、彼が見た目に反してとても優しい妖怪なのをよく知っている。
今の言葉の真意を汲み取ってくれた事に、にとりは心の中で感謝した。
(有難いけど……ちょっとは否定くらいしてくれてもいいんじゃないだろうか。私はまだぴちぴちの若者なんだしさ)
感謝しつつも、老いを肯定された事には心の中でしっかりと毒づいていた。
「ねえ文、外はどうなってるの?」
「天狗はほぼ全員があの声に抗えました。鬼や月人も同様ですよ。天狗の中でも力の弱い何人か……椛なんかは完全に跳ね除ける事は出来なかったので山に篭ってます。ただ……」
それ以外は……あるレベル以上でもなく、人との深い関わりを持たない妖怪たちは、たとえ本来知性を持っていたとしても、憎悪に駆られて人間を追い回していると、文は言った。
「……そっか」
大体予想はしていた事だ。静かに、にとりはその事実を受け入れた。
先ほどの戦いの中でも、本来知性を持っていた何人かの顔見知りが居た。命までは取らないように加減したが……怪我をしたまま動けば危ういだろう。
この幻想郷には強い力を持つ人間も多数いる。怪我をした彼らがそう言う連中に出会わない事をにとりは祈った。
「……とりあえず、元から強い能力を持っている妖怪が正気を保っているのは不幸中の幸いですね」
八雲紫や、レミリア・スカーレットを敵に回した時の事を考えて、にとりは薄ら寒くなった。
いや、それよりも西行寺幽々子か。人間が標的の今回、彼女だけはその特性上、手が付けられない。
「いえ、冥界は何事もなかったかのように静かですよ。そもそも人間と人間の幽霊には声が聞こえなかったとか」
声。
人間を殺せ、と妖怪の頭の中に響く声。
憎悪に満ちた声。
「何なんだろうね、あの声は」
「……呪毒、と薬師は言ってました」
呪毒。その言葉をにとりは鸚鵡返しに呟く。
「原材料は憎悪、そして憎悪を毒へと変え、その毒を吸った者の中に憎悪を芽生えさせる」
基本的には呪いの一種ですね。と手帖をめくりながら文は言った。
「今は広く薄く幻想郷中に漂っているようです」
「……あれで広く薄く、ね」
なら、発生源はどれだけの憎悪を抱えていたのだろうか。
あれだけの憎悪が、もしも一箇所に集中したら……強い能力を持つ妖怪ですらも、憎悪に飲み込まれてしまうのではないだろうか。
その可能性に思い至り、
「それでは、私は外に……」
「待って」
にとりは天狗を引きとめた。
彼女……射命丸文も強大な力を持つ妖怪の一人だ。万が一、彼女が操られるような事があれば……
(……絶対に、戦いたくは無いね。戦力的な意味だけじゃなく、友達としても)
「私が外に出るから……あんた達には、ここでお嬢ちゃんを守ってもらいたいんだ」
「馬鹿言わないで。そんな体で外に行っても何も出来ませんよ。すぐに応援を呼ぶので大人しく……」
「イカセテ……ヤレ……アヤ……」
少し怒りが表情に出ている文に、百足百手が横から言った。
「黙っててください。この怪我で、しかもにとりが、今外に出たらどうなるかくらい分かるでしょう?そもそも昔っからムカデさんはにとりを甘やかしすぎですよ?自覚あります?」
怒り心頭と言った感じで文がまくしたてる。すると、
「……にとりにはあれが」
今まで言葉を発していなかった影の妖怪が、百足百手を助けるように割り込む。
「……く、クロくんが喋るなんて……なんて珍しい……!黙らなくてもいいけどこの件に関しては口を挟まな……」
「モウ……オソイ……」
「え?」
「ちょっと出かけてくるよ。お嬢ちゃん、いい子にしててね。あ、そこの三匹もいい子にしてなよ」
自身が開発した蒸気機関式奇械人形<スチーム・マトン>、ペインキラーに乗って、彼女は飛び上がる。
「イッテ……オクガ……オレタチ……ハ……ヨワイカラ……ナ……」
「……ええ、ええ。ムカデさんはもう歳だしクロくんは逆に若すぎるし。もし私が居ない間に妖怪たちが押し寄せてきたら大変な事になるでしょうね。それを見越してあの子は勝手な事を……!あーもう!」
「あーもー!みんなけんかはだめだよ!」
「ごめんなさい」
「スマナイ」
「……ごめん」
お怒りのお子様に、妖怪三匹は平伏した。
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――人間を殺せ。
「い……つつ」
頭に響く声を、鈴仙はなんとか抑えながら、永琳の部屋へと転がり込んだ。
毒である事はすぐに分かった。彼女の目は大気に漂う呪毒を確かに捉えていたのだ。
だが対処法までは分からない。鈴仙はすぐ身近に居た彼女の師匠に頼る事にした。
「……修行不足ね」
鈴仙の顔を見るなり、永琳はそう言った。彼女は全く影響を受けていないらしく、いつものように落ち着き払っている。
「だって……いた……こんな毒初めてで……あうっ!?」
頭を抱える鈴仙の額に、注射器が突き刺さった。
「とりあえず解毒薬よ。貴女でそれなら、地兎達はまるで抵抗出来てないでしょうね」
「……ありがとうございます、師匠。でも、抵抗出来てないって事は……」
あの声に身を任せたらどうなるか。実際に毒を体感した鈴仙にはすぐに予想がついた。
鈴仙は知り合いの人間の顔を思い浮かべる。此処から遠くない場所に一人、とても危険な人間が居る。
あの人間は、襲い掛かってくる人外に加減も容赦もしないだろう。
「幸いな事に、解毒薬はそれなりにあるわ」
「ええと……それなりですか」
「それなりよ。大体地兎達くらいは救えるわね」
そう言ってアンプルが大量に詰まった手提げ袋を鈴仙に向けて放り投げる。
「竹やぶの不死人なんかに突撃したら、全員返り討ちにあって死んでしまうでしょう。早く解毒して回りなさい」
同じ事を思っていたのだろう。永琳が鈴仙に解決策を提示する。
「でも、他の妖怪たちはどうしたら……?」
地兎が救えるのは良いとして……それだけでは足りない。彼女に竹やぶ中の妖怪が襲い掛かれば……恐らく竹やぶからは妖怪が消えるだろう。
彼女……藤原妹紅は、それだけの力を持っている。
「勿論、地兎たちに射ってもまだ余りがあれば全部使っていいわ。それからは……さて、幸運を祈るしかないわね。人間にも、妖怪にも、ね」
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――人間を殺せ。
「……うるさいわね、読書の邪魔よ」
「あいたたた……」
パチュリーは即座に対呪毒用の結界術を張り巡らせ、精神感応から逃れた。
小悪魔はそんな器用な真似は出来ずに、頭を抑えてうずくまっている。
「……修行不足ね。辛いなら、ある程度親しい人間に対して、殺意を抱かない程度に受け入れれば楽になるわよ」
妖精メイド達はほぼ皆がそうしているようだ。パチュリーが行った地獄のような訓練によって、種族としての力は弱いにも関わらず、正気を失う程度の者は一人も居ない。
「そ、そんな事言われましても……こんな物少しでも受け入れる訳には……」
「……悪魔なのに?」
「それでもです。うぅぅ……」
この子も根っからのお人好しだと、パチュリーは思う。『も』と言うのは、今頃門番もきっと小悪魔と同様に苦しんでいると、そう思うからだ。
「仕方ないわね……」
そう言ってパチュリーは小悪魔に手招きした。
「ほら、一緒に座りなさい。この結界の中なら……って何呆然としてるの?」
「ぱ、パチュリー様が優しいなんて……!いつも実験台扱いだったり捨て駒扱いだったり使いっぱしり扱いだったりするのに……!」
今までの苦労が走馬灯のように小悪魔の頭を駆け抜けた。
「私はとても優しいわよ」
「……はい、そうですね」
それでも、最後にはちゃんと助けてくれた事も、小悪魔は覚えている。
パチュリーの膝の上で、小悪魔は少しだけ幸せな気持ちになっていた。
******
――人間を殺せ。
「……ッ!?」
――人間を殺せ。
「……どうした、アリス?」
――人間を殺せ。
「……いや……!」
――人間を殺せ。
「……?」
――人間を殺せ。
(いやよ。魔理沙に手をかけるなんて絶対に許さない!)
そう強く思ったアリスから、憎悪の声は消え去った。
「……魔理沙、ちょっと外に出てくるから待ってて」
「……え?いやまあ、別に構わないけど」
頭痛がガンガンと響くのを抑え込みながら、アリスが立ち上がった。
普段から張り巡らせている探知結界に、多数の妖気が反応したのを、彼女は当然の事として受け入れた。
今自分の身に起こった事を考えれば当たり前だ。皆が皆、彼女のように人間と良好な関係を持っているとは、アリスは思っていない。
「……友達って言ってくれて、ありがとう」
「……?おい、急に何を……」
アリスが外へ出てドアを閉めると同時に、家が結界に覆われた。時限結界、ある程度の時間ならば外からも中からも破壊が限りなく難しい術式。
本来は危急の際に彼女が自身を守るシェルターとして作った物だが……
「……友達って、言ってくれたからね」
いつかの事を思い出す。魔理沙が自身の不利益など目にもくれずにアリスを助けた事を。
今度は自分の番だ、とアリスは思った。
すぐに無数の妖怪がアリスを囲む。その数に、その圧力に、だがアリスは一歩も退く事なく対峙する。
(魔理沙もそろそろ気付いたでしょうね。けど、魔理沙でもあの結界を破るのは難しいはず。それくらいの強度じゃないと、意味が無いし、ね)
自分も一緒に中に居ると言う選択肢もあった。だがアリスはその選択をしなかった。
敢えて危険を侵し、魔理沙を守る為の結界にすら、指一本触れさせないつもりで、彼女は外へ出たのだ。
「ご愁傷様ね、貴方達」
アリスが身の回りに無数の人形を召喚する。見えない魔力の糸がそれらに接続されていく。
無数の人形に、仮初の命が吹き込まれていく。
「今日の私は、強いわよ」
そして、アリスは妖怪の群れの中へと突撃した。
******
――人間を殺せ。
「ぐ……っ!」
――人間を殺せ。
突如襲い掛かってきたその思念に対して、美鈴は困惑していた。
――人間を殺せ。
受け入れる訳にはいかない思念。けれど、美鈴は精神感応に対して、あまり耐性を持っていない。
――人間を殺せ。
だから、我慢する。跳ね除ける事が出来ないから、ひたすら我慢する。頭痛は酷く響き、油断すると人間への憎悪に飲まれそうになる。
――人間を殺せ。
「あうっ」
ぷすりと、何かが額のど真ん中に突き刺さったのを、美鈴は感知した。声が止んだ事も、少し遅れて気づく。
「今ので射ち止め、と……大丈夫ですか?」
現れたのは鈴仙だった。突き刺さった注射器を引き抜き、美鈴はもう一度、すっかりあの声が聞こえなくなった事を確認して、安堵の息を吐いた。
「……せめてもう少しお手柔らかに治療していただけると」
「ごめんなさい、少しでも早く治した方がよさそうだったので」
実際その通りだったから美鈴は鈴仙に感謝した。あの声は、美鈴のような妖怪には耐え難い苦痛だった。
「ええと……メイド長さんはご無事ですか?」
「ええ、さっき買い物から戻って……」
戻って……妖精メイド――しかも『あの』パチュリーに戦闘訓練を受けている――が大量に居る館の中に帰っていった。
その事に思い至り、慌てて美鈴は館の中へ飛び込んだ。
「……うーん」
どうしよう、と鈴仙は思う。地兎と門番を治療しただけで治療薬は空っぽになり、新しく調合しようにも時間も材料も無い。
「とりあえず……中の吸血鬼に事態の説明だけ、していこうかな」
或いは、大図書館の引きこもりの協力が得られるかも知れない。
そう思った鈴仙は、イヤな思い出しかない紅魔館の中に、勇気を振り絞って入っていった。
******
天狗から話を聞いた妖夢は、戦支度を始めた。
勿論、人間を助けようと思っての事だ。今下界で起きている現象を捨て置く訳にはいかない。
「あら妖夢。出かけるの?」
「幽々子様……」
叱られるだろうか、と妖夢は思う。庭師の仕事よりも人間の救出を優先しているのだから。
「人間を助けに行くの?偉いわねぇ」
「……は?」
何かまた企んでいるのだろうか。余りにも素直で真っ直ぐで優等生的で模範解答な反応が返ってきたので、逆に妖夢は訝しんだ。
タダで彼女の主からそんな言葉が聞ける筈がないと思っていたのだ。オヤツタイムやご飯タイムならともかく。
「ええと……止めたりはしないのでしょうか?」
「何言ってるのよ妖夢。良い事をしにいくのでしょう?止めるわけがないわ」
……怪しい。怪しすぎる。そう妖夢は思ったが、
(待て、妖夢。落ち着け。もしかしたら幽々子様も人間を助けたいと本気で……)
……思っているのだろうか。とても疑問だった。
(いや、主を信じずに何を信じるのだ妖夢よ。きっと実は幽々子様も本気で人間を助けたいと思っているに違いない。ような気がする。たぶん。もしかしたら)
そんな事を妖夢が自分に言い聞かせている(内にどんどん自信を喪失している)と、更に幽々子は笑顔で続ける。
「それじゃあ、今日は私も手伝うわ」
「え?いやその、はあ」
目の前に居る幽々子様は偽者なのではないだろうか、と妖夢は思った。
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「気に入らないわね」
事態の説明を聞くまでもなく、レミリア・スカーレットはお怒りだった。
「とても気に入らないわ」
鈴仙から事態の説明を聞いた後はますます不機嫌そうになった。
「人間を殺せ?この私に指図するの?何様のつもり?」
鈴仙はやっぱり来なければよかったと思っていた。八つ当たりでもされたら酷い目に遭いそうだからだ。
何せこの姉にしてあの妹ありな程人格が破綻している。出来るのであれば近づきたくない。
と言うかそれなら何故私はこんな所に来てしまったんだろう、と鈴仙は後悔し始めた。
だがその時、にやりと、レミリアの表情が歪む。まるでとても良いアイディアを思いついたかのように。
いや、彼女の中ではまさにそんなアイディアが浮かんでいたのである。その滑稽さと痛快さに、自ら笑いを漏らしてしまうほどに。
「咲夜、美鈴、今すぐにパチュリーと使えそうなメイド達を集めなさい」
今度は不機嫌の表情は消えうせて、人が変わったかのように笑顔だった。やっぱり破綻してるなぁ、と鈴仙は思う。
「これより、人間救出大作戦を開始するわ。ああ、勿論そこの兎も手伝うように」
(八つ当たりはされなかったけど、やっぱり来なければ良かった……)
もう二度と来るものか、と鈴仙は今一度決意を新たにした。
******
――人間を殺せ。
「気に入らないわね」
八雲紫は、その声をすぐに撥ね退けた。同時に、今発生している精神感応の程度の強さを測定する。
(雑魚妖怪なら大半が操られるわね)
解決策を練らなければ、と紫は思った。
すぐ傍に居る二人の内、藍は同様に声を撥ね退けたようだが、橙は声に抵抗しようとして苦しんでいる。
それを見た紫は、対呪毒用の結界術式を即興で設計して、藍に転送する。藍はそれを式として橙の中に組み込んだ。
「ありがとうございます、紫様、藍様」
声から解き放たれた橙が、安堵の表情を浮かべながら礼を言った。
だが紫は、最早その言葉を聞いていなかった。術式を逆算して、本体が現在何処に居るかを特定する為の計算に入っていたのだ。
大丈夫だ、いつかのように神にすら抵抗出来ないような術式は使われていない。簡単に本体も割り出せた。その事に少しだけ紫は安心したが、しかし……
「……何か、変ね」
「紫様?」
果たして、あの人形風情にここまでの力はあっただろうか、と紫は思う。
確かに操っているのは呪毒……呪いであるが毒でもある、故にあの人形ならば操れる。
それでも、何かがおかしい。力の規模が大きすぎる。
これではまるで……
神の領域の規模だ、と紫は観測結果から分析した。
「……藍、橙。紅魔館のパチュリーの所に向かいなさい。貴方達はその後紅魔館で待機するのよ」
予感がある。あの人形を操っている者が何処かに居ると言う予感が。
幻想郷には、今のところその誰かは居ないだろう。
乱雑に走査をした後、念のため精査をする為の術式を起動しながら、紫は同時に本命と思しき境界の狭間の走査へと意識の割合を多く割いた。
「あの引きこもりには、こう伝えて頂戴」
走査の結果はすぐに分かった。神の如き……否、神その物の力が、たった今、幻想郷の外から内へと流れ込んできている。予想通り、鈴蘭畑の人形へと。
「貌の無い神が来たわ。そちらも準備を、とね」
******
にとりは鋼鉄の猛威<ペインキラー>に乗って飛行しながら、流れが変わりつつあるのを見て取った。
――人間を守る為に戦う妖怪が、相当数居る。
不思議な感覚だった。肉体は疲れ果てていると言うのに、何処からか活力が湧いてくる。
人間と妖怪の友好。それはあの老人の願いだった。彼が及ぼした影響は、妖怪全体に比べれば微々たる物だと、にとりはずっとそう思っていたのだが。
文の仲間が、
百足百手の無数の子供達が、
影の彼の分身たちが、
老人と親交があった多くの妖怪たちが、
幻想郷の各地で、大きな力となって、憎悪に駆られた妖怪を押しとどめようとしている。
それに加えて、何故か地兎達と紅魔館のメイド部隊も人間を守る側についた様だ。理由は分からないが……紅魔館の方はきっといつもの吸血鬼の気紛れだろう、とにとりは推測した。
そんな事を思っていると、パチュリーからの入電があった。最初に説明された理由がまさにその通りだったのでにとりは苦笑した。
『さて、貴女はどうせ何も考えずに外に飛び出してるだろうから教えてあげるわ』
『失礼だな、私にだって考えくらい……』
無かった。博麗の巫女のように当て所も無く彷徨っていればその内解決出来ると思って飛び出したのだった。
『元凶は鈴蘭畑に居るわ。人間への避難勧告が済んだら八雲紫もそこに向かうはずよ。それまで……待たないでしょうね。待たなくてもいいし』
『……いやまあ、待たないけどそこまで行動を見透かされるとちょっと待ってみようかなと思った』
『ああ、言い忘れてたわ。元凶はメディスン・メランコリー。人形よ』
それじゃあ、色々忙しいから切るわね。そう言って最初から最後までにとりの言葉を一切意に介さずにパチュリーは通信を終えた。
だがそんな事よりも……
にとりは、すぐにこの状況の意味に気付き、呆然とした。
「……鈴蘭畑に……人形……?」
(それは、まさか)
「……あの人の……娘……?」
******
「と言う訳でこれから人形退治に行こうと思うのだけれど、貴女達はどうする?」
「今大勢の妖怪どもと戦ってるのが見えないのかしら貴女には」
紫は霊夢と萃香が雑魚妖怪と戦っている最中に、集中を乱すかのように話しかけた。とても愉快そうな笑みを浮かべていた。
とりあえずこのレベルなら多少集中を乱しても全然平気な事を知っているのだ。
霊夢の隣には萃香が居る。彼女の力からすれば、霊夢が傷つく事などまずないと思っていいだろう。
「そういえば今晩の夕食は何にしたら良いと思う?やっぱりステーキが良いかしら?ああ、もちろん貴女達には食べさせないけれど」
「もっと酒が進みそうな物にしてくれたら勝手に上がりこむよ」
「うーん……じゃあ焼肉の方が良いかしら……って食べさせないわよ」
「あーもうあんた達五月蝿い!好い加減にしないとまとめて退治するわよ!こっちは忙しいの!」
「酷いわね。せっかく紅魔館が安全地帯だって事を教えに来たのに」
藍からの念話で、レミリアが珍しく人助けを始めた事を紫は聞いていた。
それを聞いた紫は、自分でも理由がよく分からないまま真っ先に此処に来たのだが、なんだか霊夢を見るといつも苛めたくなるのだった。
「だったらそれだけ言えばいいのよ。元凶退治はヒマそうなあんたに任せるわ」
猛烈な勢いで雑魚を蹴散らしながら、霊夢と萃香は紅魔館へと向かい始めた。彼女達の力ならば紅魔館までは余裕を持って辿り着けるだろう。
……その勢いなら元凶も一気に退治出来そうな物だけど、と紫は思った。
******
――342匹目。
アリスは無数の妖怪相手に、たった一人で、一歩も退かずに戦いを続けていた。
無傷とは言い難い。力はほとんど失われつつある。仕留め損ねた妖怪は短時間で復活するので、余り加減をする訳にもいかない。
口内に溜まった血を吐き出す。呼吸が覚束ない。ぐらぐらと視界が揺れる。
それでも、全力を超えても尚、アリスは戦いを続けている。
――友達って……言ってくれたから……
だから、戦い続ける。ただそれだけの為に、アリスは戦い続ける。
だが、いくら気力を奮い立たせても、どうしようもない限界は来る。もうすぐそこまで来ている。
――さあ、諦める時だ。
何の為に、戦っているのだろう、そうアリスは自問する。
魔理沙の為。魔理沙を守る為。大切な友達を守る為だ。
ならば、もう役目は終わったのではないだろうか。
この近辺の妖怪はほぼ殲滅しつつある。残った数ではあの結界が破られる事はないだろう。
結界が力を保っている時間にはまだ余裕がある。それまでには、きっと霊夢か紫辺りが異変を解決してくれる。
――そうさ、君はもう役目を終えた。
(……そう。もう、戦わなくてもいいのね)
今大きく爪を振りかぶった妖怪の一撃を受ければ、この苦しみから解放される。
そう思って、アリスは体から力を抜いた。
そして、加速したアリスの時間の中で、ゆっくりと爪が振り下ろされ……
轟音と共に、光が走った。
(……ああ、そうだったわね。貴女はいつもそう)
ミニ八卦炉を持つ手を放熱によって焼かれながら、数十回目のマスタースパークによって時限結界を破壊した魔理沙が、妖怪に一撃を加えたのだ。
(いつも、私がして欲しくない事をしてくれる。だから)
「アリス、この大馬鹿。お前はとても大きな勘違いをしている」
血を吐きながら、折れそうだった心を新たにして、アリスはしっかりと姿勢を立て直した。
(だから、私は何度でも立ち上がらなきゃならないのよ。何処かの誰かさん)
「友達ってのはな、助け合うものなんだぜ」
何しろ、これからは二人で一緒に戦わなければならないのだから。
******
「さて」
パチュリーは椅子に座りながら魔道書を三つ同時に起動させつつ、更に新たな魔道書を一つ、小悪魔に持ってくるよう指示をした。
「……貌の無い神、ね」
事前に紫と協議し、対策は考えてあった。出来れば顕現その物を阻止したいが……それは紫に一任してある。
分を超えるような真似は身を滅ぼすと、パチュリーは知っている。強大な力を、邪悪な目的の為に用いるような相手であれば、尚更だ。
「ああもう……レミィはこんな時に変な事を言い出すんだから」
遠隔結界に魔道書を一つ。それを複数の物とするのにもう一つ。更に紅魔館を対呪毒結界ですっぽり覆う為にもう一つ。オマケに邪神対策に最上位に位置する禁書を一つ。
「流石にこれ以上は限界なのだけれど」
思考領域を幾つかに分けてなんとかこなしているが、幾らなんでもオーバーワークだ。
小悪魔が今から持ってくる禁書を扱う為には、現在起動している三つの術式を切らなくてはならないだろう。パチュリーは冷静に、自分が何が出来るかを分析する。
「……全てが上手く行くといいわね」
自分が出来る事は、これが全てだ。ならば、後は……
パチュリーは、珍しく真面目に祈りの言葉を呟いた。
******
守矢神社は強大な広域結界に守られていて、古参の天狗が一人、全力を賭してなんとか入り込むまで、早苗は異変が起きていた事すら知らなかった。
ゴゴゴゴゴ。と、そんな文字が早苗の後ろで踊っているような気がして、神様二人は少し後じさった。
「神奈子様、諏訪子様」
「な、何かしら?今日のご飯は諏訪子の当番よ?」
「はい!神奈子がこの前早苗が大事に取っておいたロールケーキを食べてました!」
「アンタも半分食べた癖にそれバラすか!半分食べた事バラすわよ!」
大事な事なので二回ほどバレバレだった。
「……それは後でゆっくり話を聞くとして」
「あ、後で?」
「真面目モードだからきっと聞き流してくれると思ったのよね、神奈子」
「……諏訪子も半分食べてました!……あれ?この流れを始めたのは諏訪子じゃなかったかしら……?」
「いやもう良いですから……ってそうではなく」
今度こそ逃げられない、と覚悟を決めた神様二人が正座した。
「何故、異変が起こっている事を隠していたんですか?」
ゴゴゴゴゴ。
文字が見える。神様二人には確かにその文字が躍っているのが見える。
「そ、その……」
「はい!早苗を守る為にって神奈子が始めました!だから私には御慈悲をっ!」
「アンタも半分協力してたでしょうがっ!」
仲が良いのか悪いのかさっぱり分からない二人だった。
「勿論、守っていただけるのは有難いのですが」
早苗は怒っていた。何も知らされずにのうのうとこれまで過ごしていた事に対する怒りだった。守るべき者を守れなかったかも知れない事に対する怒りだった。
「……三日間オヤツ抜きの刑」
「そ、そんな……!それは幾らなんでも酷すぎるわ早苗。諏訪子が可哀想よ」
「え?神奈子に対する刑でしょ?」
「お二人ともです。さあ、結界を解いて下さい。人間を助けに行きますよ」
世界の終わりが来たような表情をした神様二人を引き連れて、東風谷早苗は守矢神社を飛び出した。
******
にとりは鈴蘭畑へとたどり着いた。
パチュリーからの通信を聞くまでは人間を守る戦いに加わるつもりだったが、もしも元凶がにとりの思っている通りの人形ならば、自分が止めなければならないと、そう思って。
探すまでもなく、鈴蘭畑の中央に人形が一体浮いていた。それを確認すると、にとりは胸部の入り口を開いて、自分の姿が見えるようにした後に彼女へ近づいていく。
「……何か用?」
人形はにとりを目にすると、そう口を開いた。
「……この霧を撒くのを止めて欲しいんだ」
「どうして?貴女、妖怪でしょ?どうしてそんな事を言うの?」
ああ、確かに自分は妖怪だ。けれど、と。
「私もね」
にとりは、胸の中に宿る暖かな思い出を振り返る。
「私も、あの人の娘なのさ」
「あの人……?」
人形は、呆然とその言葉を返した。うっすらと分かったのかも知れない。
この機体には彼の技術が注ぎ込まれている。彼女が彼の娘ならば、匂いを嗅ぎ取る事もあるだろう。
「そう、あの人。完全な人形<ローザ・アリス>を目指した偉大な碩学。貴女の本当の意味での父親」
「……お父様の……事……?」
人形の表情が、驚愕のそれへと変わっていく。ああ、やっぱりそうか、とにとりは自分の考えが正しかったことを確信した。
「……あの人は、こんな事絶対に望まない」
だから、こんな事はすぐにやめてほしいと、そうにとりは続けようとするが……
『どうしたんだい?人間が、憎くないのかい?』
声が響く。にとりが少し前に聞いた声だ。邪悪を匂わせるおぞましい声だ。
「……ッ!?」
その声の響きに、彼女は直感した。この声の主こそが、異変の黒幕だと。メディスンを憎悪に狂わせた犯人だと。
『憎いだろう?父親と君を引き離した人間達を、許して良いのかい?』
「やめろ……こいつの言う事なんか聞いちゃ駄目だ」
『彼らは「人間を殺せ」と言ったのだろう?だったらそうしてあげようじゃないか』
「黙れ!この子にもう何も言うな!」
「……んて……」
『あはははは!これは彼らが蒔いた種だ!彼女がそう望むのなら、誰にもそれを邪魔する権利なんてないのさ!』
「……人間なんて嫌い。大嫌い!だから私はこうするの!邪魔をしないで!」
『そうだ、そうするがいい!君にはその為の力を与えよう!』
憎悪が毒となり、メディスンの体から噴き出す。憎悪を猛毒とする邪神の能力と、毒を操る彼女の能力が融合し、新たな形態を獲得する。
猛毒の霧が密度を増し、大きな人型を作る。人形である彼女を中心として生成された猛毒の巨人。触れる者全てを溶かし、腐らせ、殺す、悪意の形。
人間への憎しみに満ちた、殺意の具現。
――駄目だ。
にとりは、そんな彼女を見て……
悲しみを覚えていた。怒りでもなく、戦意でもなく、ただ、悲しかった。
――そんな事しちゃ駄目だ。
にとりが知る《彼》は決してこんな事を望まない。人間を愛し、妖怪を愛し、種族の境界を軽々と超え、友好を育んだ彼が、こんな事を望む筈がない。
「……やめるんだ」
彼の想いは、届かないのだろうか。あんなにも幻想郷を愛してくれた老人の願いは、こんな形で、彼の娘によって打ち砕かれてしまうのだろうか。
(いいや、きっと。きっと届く。私は信じるよ、師匠。あんたを。あんたが愛した娘を)
毒の巨人の腕が鋼鉄の猛威を薙いだ。鋼鉄の猛威が勢いよく弾きとばされ、表面が毒によって溶かされる。
胸部を閉じるのが間に合ったお陰で、にとりにはさほどダメージはないが、もしも操作が間に合わなかったら、毒はにとりの体を溶かしていただろう。
今の彼女は危険だ。此処にいれば命も危うい。それでもにとりは戦おうとも逃げようともせず、立ち上がり、続ける。
「……私たちはさ」
毒の巨人の一撃を、鋼の右手が静かに阻む。霧で出来た手は二手に切り裂かれ、だがすぐに形を取り戻す。形を取り戻した猛毒が、鋼で出来た身を溶かす。
「あの人から、大切な物をいっぱい貰っただろ」
一歩、一歩と、鋼の表面を溶かされながら、にとりは毒の巨人へと、その中枢に居るメディスンへと歩み寄る。
「……来ないで……!」
自身でも理由が分からない怯えにメディスンは困惑する。彼女の意に従って、毒の手がにとりを阻もうとする。けれどそれでも、鋼の巨体は進み続ける。
「だから、だからさ、こんな事してちゃ駄目なんだ」
ぎこちなく、鋼の右手が差し出された。
体を溶かされながら、敵意もなく、害意もなく、ただ、優しく。
届く。手を伸ばせば、すぐ届く距離。彼女を救おうと、身を焼かれながら差し出された右手。
「あの人が残してくれた物はさ、子供を……誰かを笑顔にするための物だろ?」
その姿が、メディスンには、いつかの彼と重なって見えて……
「だから、お願いだから人間を憎まないでやってくれ。そうしてさ」
メディスンの心が、鋼が溶けるよりも早く溶け出していく。
にとりの、そして父親の心が、彼女の憎悪を溶かしていく。
「いつか、一緒に玩具を作ろう。あの人みたいにさ」
その言葉を聞いて、毒の巨人の姿が霧散する。
「……お父……様……」
滂沱の涙を流しながら、メディスンは気持ちの拠り所を失い、ゆっくりと地に座り込んだ。
******
『はは、はははは!』
静けさを取り戻した鈴蘭畑に、邪神の笑い声が響く。
「……うるさいな、どっかの誰かさん。あんたは邪魔だよ」
『これが笑わずに居られるかい?いくら君が彼女を救おうとしても、彼女は絶望の中で憎悪に身を焼かれる運命にあるのさ』
「……紫、居るんだろ?早くこいつをなんとかしてくれ」
その声に応じて、紫が姿を現す。
にとりは知っている。彼女はとても優しく、とても残酷である事を。
にとりが失敗した場合は、彼女は幻想郷を守る為に、虫を殺すようにメディスンを始末していたであろう事を。
(……一度チャンスをくれただけでも、紫には感謝しなきゃならないんだけどね)
分かってはいても、声に険が混じってしまった事に、にとりは少しだけ後悔した。紫は何も悪くない……少なくとも、今回に限っては。
「あら、よくご存知で。って言われても、私はちゃんと役目を果たしてますわ。神の癖にこっちには声くらいしか届かないのがその証拠よ」
「……声も届かなくしてくれるかい?」
「難しい注文ねぇ……」
二人が異変は全て解決したと、そう思って落ち着いて会話をしていると。
『ねえ、河童。君は彼女に一つだけ隠し事をしているね』
邪神が、哂う。まだ何の事を言ってるのか分からないと言うのに、悪寒がにとりの背筋を駆け抜ける。
「……隠し……事?」
分からない。メディスンに対して、隠す必要がある事など……
――『……本当に良いのかい?あんたの行き着く先は……』
「……ッ!」
彼の臨終の間際、死神と彼の会話を思い出す。
何故、邪神がその事を知っているのか、にとりには分からない。
だが、
『そう、偉大なる碩学、かのご老人がどうなったのか、その哀れな人形に教えてあげなきゃ駄目じゃあないか』
「止めろ……!紫、早くこいつを黙らせてくれ!」
「だから直接の浸入を防いでいるだけでも結構手一杯だって言ってるのに……これ以上はお山の神様にでもお願いするしかないわよ」
「駄目なんだ!それだけはこの子に知らせちゃ駄目だ!」
「……なに?ねえ、お父様がどうしたの?」
輝きを失った瞳で、ぼんやりと辺りを見回しながら、人形が反応した。
『彼はね、お人形さん』
「止めろ!言うな!」
邪神が哂う。愉快で愉快でたまらないと言った口調で、その言葉を告げる。
『君を作った所為で、地獄へ落ちたのさ』
「え……?」
彼は無数の人形を壊し続けた。ただ一人、メディスンを作り出す為に。
こちらに来て、多くの人間を、多くの妖怪を、笑顔に、幸せにしたと言っても、その罪が消える事はない。
だから、彼の行き着く先くらい、にとりにも分かっていた。
だが、それは決してこの人形に伝えるべき事ではない。彼は彼女を生み出した事を後悔していなかった。いや、満足すらしていた。
彼は、彼の娘を、愛していた。
だから、そんな事は伝えなくとも良い。
伝えなくとも、良かったのに。
「嘘……」
メディスンは父親との想い出を振り返る。
とても優しかった。いつも笑顔で、我侭を聞いてくれた。玩具を作ってくれた。花や、動物の図鑑を一緒に見た。勉強も教えてくれた。
――キミヲツクッタセイデ、ジゴクヘオチタノサ。
あの人が、あんな優しい人が、地獄になんて落ちて良い筈がない。
なのに、
――キミヲツクッタセイデ、ジゴクヘオチタノサ。
メディスンにはそれが事実である事が分かってしまった。河童の表情から読み取ってしまった。
「嘘……よ……」
――キミヲツクッタセイデ、ジゴクヘオチタノサ。
それが、自分を作り出した所為だと言う事実をも、知ってしまった。
「あああああああああああああああああああ!」
メディスンの感情が暴走する。小さな体に収まりきらない感情が、毒となって噴出し……
にとりには分からない。こんな時、どうすればいいのか。
彼女は苦しんでいる。手を差し伸べたいと思う。だが、差し伸べた手が届かない所まで、今の彼女は深く絶望している。
声を張り上げて、にとりは伝えようとする。彼が、メディスンを作り出した事を全く後悔していなかったと言う事を。自身の行く末を、自身の物として受け入れていたことを。
しかしそれよりも早く。
『あははははは!そう、この時を待っていたのさ!』
邪神が哂う。
人形から噴出したかつてない量の毒が、
そして幻想郷中に蔓延していた呪毒が、
瞬時に紫へと収束した。
「なっ!?」
「…………あ……」
にとりは、今頃になって文を止めた理由を思い出していた。
――あれだけの憎悪が一箇所に集まれば、強大な力を持つ妖怪ですら操られてしまうのではないか。
その懸念は今、実現しようとしている。
「はは、はははは」
紫が哂う。
いや、それはもう紫ではなかった。
姿が、ゆっくりと変わっていく。足の指先から順に、漆黒に塗りつぶされ、それが顔にまで到達すると……
「燃える……三眼……」
「そうだ、僕は最初から君になりたかったのさ、八雲紫」
顕現した邪神、ナイアルラトホテップはそう言って、亀裂のような笑みを浮かべた。
******
――気分はどうだい、境界の守手。
邪神は哂う。世界に存在する全てを。
今や彼女は、その本来の力の上に紫の能力をも手にしていた。全てを嘲笑出来る程度の能力を手に入れていた。
――僕はね、最高に良い気分だ。今やこの世界に、私以上の力を持つ者は誰も居ない。
――そう、そうね。お見事ですわ。邪神。ナイアルラトホテップ。
彼女の力は確かに幻想郷に存在する神々を超えていると、体を共有している紫は理解する。
――……決め手はあの方程式ね。種となって残っていたのかしら。
――そうだとも。この世界を見つけた時、すぐに我は種の存在を知覚していたのだよ。
ルーシュチャの方程式。解き明かすと邪神と同一の存在になってしまう悪夢の産物。
以前紫はその方程式を解き明かし、大結界を利用する事で邪神がそれを知るのを妨害していた。
その時は紫には何も起きなかった。だが、方程式は種となり、紫の存在の中で芽を出す時を待っていた。
そして、膨大な量の毒と共に、邪神が紫へと干渉した瞬間、それは発芽し、紫は邪神に存在を乗っ取られたのだ。
――さて、これから何をなさるつもり?……まあ、聞かなくとも大体分かるけれど。
――ははは!決まってる、決まっているじゃあないか!
「私の求める物語、それは……」
哄笑。
「悪徳!」
哄笑。
「悪徳!」
哄笑。
「悪徳の坩堝を!」
******
にとりは鋼の巨体を駆って走る。八雲紫が外なる神に身を乗っ取られた以上、此処にいるのは危険だ。
後は神様にでも委ねるのが良いだろう。彼女の力量からすれば当然の判断である。
呆然としているメディスンを抱えて逃げようと、にとりは人形へと向かって走る。
だが……
「駄目さ」
それよりも早く、膨大な量の力が邪神の掌へと収束してゆく。
「用済みの人形には、舞台を降りてもらわないと、ね」
「っ!」
「あはははははは!」
邪神から超々高エネルギーの熱波が放たれた。にとりは間に合わない。メディスンは避けようともしなかった。
そして……
『三大回路第一条ニ基ヅキ人間保護プログラム執行。虚空分散防御壁作動』
「……え?」
「……何だと?」
『避難勧告ヲ発令シマス。繰リ返シマス。避難勧告ヲ発令シマス。ココカラ退避シテ下サイ。防御壁有効時間ハオヨソ後十五秒デス』
「スー……さん?」
メディスンを守ったのは、いつも隣に浮いている小さな人形だった。
「三大回路……まさか……ロボット……!?」
『私ハ人間ヲ守リマス。退避シテクダサイ。此処ハ危険デス』
「スーさん……何を言ってるの……?」
『虚数展開カタパルト作動。強制的避難措置執行。サヨウナラ、メディスン』
「え……?」
隙間が開き、メディスンがその中へと吹き飛ばされていく。
「あの小ささで空間操作……!?まさか……あれは……!」
メディスンが消えると同時に、防御壁が消滅する。
「《タイラント》起動!間に合え……ッ!『法を超越する者、顕れよ』!」
横合いからにとりが攻撃を叩きつける。対象は邪神の攻撃。防御壁によって威力が随分と弱まっていたのか、なんとか相殺する事が出来た。
しかし……
にとりが駆けつけた時には、小さな人形は、体の六割がたが吹き飛んでいた。
無理もない。邪神の攻撃を真っ向から受け止めたのだ。本来、最上位の妖怪にも真似出来ない行為。しかし、にとりはそれを成し遂げる力を知っている。技術を知っている。
「あんたも……あの人の娘だったんだね」
そう、練達の絡繰技師であり、錬金術の大碩学。空間操作を成す実験台としての経験を持つ彼にならば、このようなロボットを作る事が出来る。
「私……ハ彼ガ残シ……タ思イノ欠片。八雲……紫ハ言イ……マシタ。イツニ……ナルカハ……定カデハナイケレド……必……ズ彼ノ娘ハ生マレ変ワル……ト。ソノ時……ノ為ニ、彼ガ残シタ最後ノロボ……ット。ソレ……ガ私デス」
「ずっと……あの子を守っていてくれたんだね」
「ソレダケガ……私……ノ役割……デス」
「役割なんて言うな。あんたは……生きたんだ。あんたはあんたの人生を生きたんだ。だから……役割なんかじゃない」
「人生……シカシ……私ハヒトデハ……」
「あんたも立派なヒトだよ。メディスンと同じようにね」
「私ハ……私ハ……」
「……ね、疲れたろ?もう、休んでいいんだ。だから……ゆっくりおやすみ」
「……アリ……ガトウ。優シイヒト」
人間が眠りに落ちる時のように、小さな人形は瞳を閉じて、眠りに就いた。
直後、弔う間もなく、にとりに衝撃波が襲い掛かる。為す術もなく彼女は吹き飛ばされる。
だがそれは、意図した攻撃ですらなかった。
ただ、邪神はにとりを見ようとしただけだ。にとりに興味を抱いただけだ。
その視線が、強大な風を生み出し、鋼の巨体を吹き飛ばした。
「可哀想に。今壊されていた方が幸せだったのにねぇ。その小さな人形のお陰で、あとでじっくりといたぶる楽しみが出来てしまったじゃないか」
(……勝てない。そして逃げることも出来ない、か)
にとりは理解した。絶望的なまでのレべルの違いを。
邪神は元来の神としての力に加えて、紫の能力を獲得している。紫にすら歯が立たない程度の力しか持たないにとりが、今の邪神に歯向かって生きていられる訳が無い。
(諦める時……か)
それは邪神の声ではなく。
にとりの、絶望から出た心の声だった。
『……える…………ら?』
装置が壊れたか、それとも邪神の存在の前に電波すらゆがんだか、ノイズ交じりの入電があった。
『……かりは…………られ…………ね。だけ…………準備…………てるわ』
何を言っているのか、ほとんど理解出来ない。けれど、
(準備?)
『…………頑張…………一人……っちに……』
――まだ、パチュリー達は、諦めていない。
ただそれだけの事が、にとりの心に希望をもたらした。
「……いいや、諦めてなんか、やるもんか」
自分に言い聞かせるように、言葉に出してそう言いながら、にとりは立ち上がる。
『それ…………ね。信じ…………わ』
それきり、最後までノイズ交じりのまま、通信は終わった。
ノイズ交じりのまま……だが、にとりには最後の言葉がはっきりと聞き取れた。
(――信じてるわ、ね)
ああ、あの魔法使いは、どうしてこうも他人を使うのが上手いのか。
にとりは絶望の具現を目の前にして、笑顔すら浮かべながら、最早絶望に屈する事はないと強く確信していた。
「きなよ、そこの神様風情。精精、雑魚は雑魚なりに足掻いてやるさ」
******
「『オール・ガンズ・ブレイジング』!」
にとりはペインキラーの肩から蒸気機関式追尾ミサイル<スチーム・テラー>を全弾射出した。目晦ましになる事を祈って。
レベルの差を考慮すると、チャンスは一度きり。
相手がまだにとりの火力を把握していない今の内に、
「対怪異撃滅用昇華プログラム《タイラント》起動!」
機体に組み込まれた唯一の魔術機関で、決着をつける。
これは《彼》が遺した唯一無二の武器だ。にとりにも未だにこの鋼の右手に組み込まれた機関を理解する事が出来ない。
にとりの全力を遥かに超える威力を誇る、邪悪を撃滅する為の三つの術式。その内の一つ。
或いは、この術式ならば、邪神にも傷を付けられるかもしれない。
スチーム・テラーが着弾する。邪神は避けようともしなかった。当然だ、あの程度の威力では神を害する事など出来よう筈も無い。
爆炎が立ち上る、邪神の視界が塞がれる、その隙を狙って、にとりは鋼の巨体を駆って飛んだ。吶喊術式【Faster than a bullet】を発動し、超高速で邪神に迫る。
「『星々の悉くを、打ち砕け』!」
太陽の如く燃える鋼の右手が、邪神に突き刺さり……
「……それで?」
だが、爆炎の中から聞こえてきたのは、嘲笑だった。
吹き飛ばされたにとりは、高速駆動用圧縮噴射機構<スチーム・ガスト>を噴出させ、空中で体勢を整える。
靄が晴れる。邪神には傷一つ付いていない。この機体に組み込まれた最大威力の攻撃でも、邪神の前には無力だった。
「あははははは!まさかそれで攻撃のつもりかい?」
邪神が腕を薙いだ。蝿を振り払うような無造作な仕草、攻撃の意図はまるで込められていない。そう、この行為には、戯れ程度の意図しか込められていない。
だと言うのに、にとりは更に吹き飛ばされる。
「なら、君は諦めるしかないようだ。さあ、絶望しておくれ。命乞いをしておくれ。私はその様を楽しむ為に此処に居るんだ」
自分では勝てない。何も、何一つとして、打つ手はない。そうにとりは理解する。
(ああ、だけど)
「……イヤだね」
「……何だって?」
「イヤだって言ったんだよ、どっかの誰かさん」
(諦めてなんか、やるもんか)
――だって、皆は諦めていないんだ。だったら、自分一人だけ諦める訳にはいかない。
それに……
あの子を、救いたい。にとりは心からそう願っている。ならばこんな所で絶望している場合ではない。
「ねえ邪神、あんたは全てを嘲笑出来るつもりで居るんだろうさ。だけどね」
まだ、まだ戦える。まだペインキラーは動いてくれる。たとえ全力を賭しても傷一つつけられなくとも。たとえ命を賭しても何ら効果がなくとも。
「あんたにも、嘲笑出来ない物がこの世に一つだけあるのさ」
「何を言っているんだい?僕はこの世界で今や最高の能力を手にしている。我に不可能は無い」
「それでも、あんたには唯一つだけ、穢せない物があるのさ。それはね」
――夢さ。にとりは強くそう宣言した。
「私たちは皆で希望<ユメ>を見てる。皆が笑える未来<ユメ>をね。だから、たった一人で悪夢を作り上げようとしてるあんたなんかに、負けてなんかやるもんか」
「……下らない。君達は私一人の悪夢に負けるのよ」
「気分を害したかい?神様風情さん」
相変わらず打つ手はない。だと言うのに、にとりは笑っている。
邪神には、その笑みが、不愉快で仕方ない。
「……それじゃあ、見せてもらおうか。君が無様に這い蹲り、君達が絶望の淵に沈む様を、ね」
******
「大気中の呪毒濃度、正常値に戻りました!」
「当然ね、毒は全て紫に集中したのだから」
三つ編みおさげで眼鏡をかけたメイドがパチュリーに報告を上げ、パチュリーは予測の範囲内だとでも言いたげにそう返した。
「悪いわね、紫。貴女の体には死んでもらうわ。……呑んだ暮れが役立たずな所為でね」
ジト目のパチュリーが、すぐ近くで呑んだ暮れている鬼を見やる。
「……え?私の所為なのか?」
鬼は如何にもその批判は心外であると言いたげに言葉を返した。
「萃める力は貴女の領分でしょう。紫に毒が萃まる前に貴女が散らせばよかったのよ」
「いや、そんな事一言も聞いてないんだけど……分かってたなら先に言いなよ」
「ふ……想定の範囲外だったわ」
紅魔館の中の空気は、いつも通り、アホの子の集いのそれだった。
「まあ過ぎた事を言っても仕方ないわね……小悪魔、アレの準備は出来てる?」
「ええ、出来てますが……ええと……本当に大丈夫ですか?本当の本当に大丈夫ですか?」
小悪魔はとても不安げに主に何度も確認した。
「何さ、そんなに怯えて」
と鬼が横から訊ねると。
「だって……下手したら半径十数キロが焼滅しtむきゅ」
小悪魔が後ろから薬品が染み込んだ布らしき物を口に押し当てられて即座に昏倒した。
「大丈夫よ。何も問題はないわ。さて萃香、皆を屋根の上に萃めてくれる?」
何だかとても不穏な言葉が聞こえた気がして、とても不安な気持ちを抱きながら、萃香は能力を行使した。
******
【神の摂理に挑む者達 ――魔を断つ剣は未だ折れず――】
「ぐ……あ……」
もう、立てなかった。
鋼鉄の猛威も、にとり自身の力も、とうに限界に達していた。邪神はその様子を嘲笑いながら、ギリギリで避けられる程度の攻撃をずっと仕掛けている。
「そら、もう終わりかい?」
最後のブーストを使い、転がるようにしてその一発を避ける。
続く一撃。避ける術は尽きた。神の攻撃に対して、機体の装甲は無力だ。……いや、にとりの全霊力を用いた結界だとしても、結果は変わらないだろう。
結局、奇跡は起きなかった。
にとりがどう足掻いても、邪神には歯が立たなかった。
「ごめん、みんな」
――……あとは、頼んだよ。
にとりは、最後まで諦めずに戦った事をせめてもの誇りとして、終わりを受け入れ……
光が、にとりの視界を覆い……
……けれど、にとりは生きている。今はまだ。
邪神は確かに、にとりを鋼鉄の猛威ごとこの世界から消滅させる未来を見ていた。
生半可な横槍ではどうやっても変わらない未来を計算によって予測していた。
だが、邪神の一撃を防いだのは、ただの人間だった。
その人間は、左手を前に突き出し、結界を張っただけで邪神の一撃からにとりを守ったのだ。
決死結界。奇跡の左手。旧き印<エルダー・サイン>。
未来に起こりうる危機を全てキャンセルし、都合よく塗り替える奇跡の御業。
東風谷早苗が、にとりを守っていた。
早苗に備わっている神造第六感機構《予言》は早苗に告げる。危険度・甲甲甲、此処から離脱する事を提言。
だが早苗はその予言を無視し、にとりの前で、左手を前に伸ばしている。
「……立って下さい」
そう、早苗は言った。
「立って、戦ってください」
あちこち壊れかけの機体に乗った、霊力が空っぽのにとりに、早苗はそう言ったのだ。
単純な戦力だけならば早苗の方が上だ。
けれど、にとりと、その機体ならばきっと勝てると、そう信じて。
「……ああ」
そうにとりは答える。早苗のその言葉に応える。
「ああ、立つとも。立つともさ」
ボロボロの鋼が軋みを上げる。機体に仕組まれたギミックが音を立てて崩れ落ちる。
けれどまた、鋼の彼の両目は、力を取り戻したかのように赤く輝く。
「はは、ははははは!そんなスクラップで何が出来る!君達は何も出来ずに死んでいくのさ!」
邪神の一撃が早苗に迫る。
早苗は左手に全てをかけて、その一撃の未来を消し飛ばす。
邪神は知っている。あの防御は人間には本来扱えない術式だ。近い内に限界が来ると。
******
――けれど、邪神は知らない。
その時、遥か彼方、紅魔館の屋根の上で何が起きていたかを、邪神は絶対に予測出来ないから。
「さて」
一同を見回すのは、パチュリー・ノーレッジだ。
魔理沙が居た。アリスが居た。霊夢が居た。萃香が居た。幽々子が居た。妖夢が居た。二人の神様が居た。兎達が居た。妹紅が居た。レミリアや咲夜や館の皆が居た。力持つ者の多くが居た。
そして、更に。
「皆、準備はいいかしら」
パチュリーの問いかけに、無数の応答が返る。
無数の人間が居た。
無数の妖怪が居た。
呪毒に操られていた妖怪も居た。その妖怪と戦ったり、逃げたりしていた人間も居た。
けれど彼らは、今や力を一つに合わせて、戦おうとしている。互いを信頼し、共に戦おうとしている。
そんな事態が起こり得る事を、邪神は絶対に想像出来ない。
「では始めるわ。私達を侮ったあの神に、乾坤一擲のド派手な一発を、ね」
超長距離狙撃用ライフル型ファイナル紅魔ストームクトゥグア式に、一同の力が注入され始めた。
******
早苗が、崩れ落ちようとしていた。
本来、人間に扱えるはずのない術式の連続行使。すぐに霊力は底を突き、処理能力が悲鳴を上げて頭痛がガンガンと響いている。
それでも、早苗は左手を前に、にとりを守り続ける。
奇跡を何度も何度も起こして、絶望的なまでの差を、埋め合わせようとし続ける。
自身の後ろに居る、にとりを信じて。
――ねえ、邪神。
――なんだ、無能な境界の守手。私は今楽しくて楽しくて仕方が無いんだ。
その様子を、邪神は哂う。哂う。哂う。
――貴方、何か見落としてはいないかしら?
――何を言ってるんだい?僕はこの世界の誰よりも強い力を持って此処に居る。誰にも我を倒す事なんて出来ぬ。
――そう、そうかも知れないわね。
――そうだとも。さあ、彼女達も次で終わりだ。
早苗が、邪神の計算どおりに、崩れ落ちる。最後まで立ったまま、にとりを守ろうと立ち塞がったまま意識を失い、邪神の発する神気に押されてゆっくりと後ろへと倒れこむ。
――それじゃあ、
その時、
早苗達を、邪神が消し去ろうと、一撃を加えようとしたその瞬間に、
光が走った。
――……こんな事されても、平気なのよね?
紅魔館から放たれた、フォマルハウトより召喚された超々高熱の光線が、邪神の中核を食い破ったのだ。
「……な……に……?」
――馬鹿な。
疑問を胸に、邪神はその方向に目をやる。彼女の目には、遥か彼方、紅魔館の屋根の上に集まった無数の人間・妖怪の姿が見えた。
「馬鹿……な……」
と、邪神は信じられない物を見る目で、その集まりを見つめた。
彼らは呪毒から発生した憎悪に駆られて、つい先ほどまで殺しあっていた筈だ。だと言うのに、何故。
――何故、奴らは力を合わせて戦える?
――それからもう一つ。
邪神は今、確かに恐怖していた。まるで全てを予見していたかのようなこの女が、次に何をしてくるか、それに恐怖を抱いていた。
――1と0の隙間を生きるこの私が、
「存在を乗っ取られた程度で、どうにかなるとでも思ったの?」
その声は背後から聞こえた。確かに空気を震わせて、その女は笑ったのだ。
突如顕現した紫は、先ほどの砲撃によって胸に開いた穴に手を突き刺し、空間自体を無茶苦茶に回転させる事で、その穴を更に広げた。
「八雲……紫ィィ!!」
振り向き一閃した邪神は、しかし既に紫は何処かへ転移していたことに気がつく。
――ふふ、残念でした。そして、最後にもう一つ。
鋼の機体が、脚部を崩壊させながら、それでも宙に飛び立った。
にとりには今自分が何をすべきか分かっていた。ペインキラーが教えてくれた。
まだ、この右手にはその先があった事を。
機体に唯一組み込まれた魔術機関が動き出す。鋼の両目が赤く輝く。
三つの術式の同時発動。真に荒唐無稽なる大昇華術式が動き始める。
――ほうら、やっぱり貴方は負けるのよ、邪神。
――嘘だ。こんな事は有り得ない!僕が、私が、我が負けるなどと……!
今ならばきっとあの邪神にもダメージを与えられる。だから、届いてくれと、にとりは祈る。
脚部はボロボロで、これ以上ガストを吹かす事は出来ない。今届かなければ何にもならないと言うのに、にとりには祈る事しか出来ない。
だが、その祈りは、通じた。
吶喊術式が、発動した。最早ブーストはなく、必要な機関も激しく傷ついていたと言うのに。
にとりは発動の為の操作などしていないと言うのに。
ならばそれは奇跡であった。
(……奇跡?)
にとりは気付く。先ほど一度は倒れた早苗が、立ち上がり、右手を前に伸ばしていた事に。
にとりの背を、早苗が押してくれた事に。
――いくら強くても、貴女は独りだもの。だったら、繋いで、受け継いでゆく者達に負けるのは当然でしょう。
そして邪神も気付く。あの鋼の巨体が、自身に迫って来ている事に。
無力だと思っていたそれが、今や荒唐無稽な力を宿している事に。
「どうだ邪神ッ!これが私たちだ!これが私たちの物語<ユメ>だ!」
機神と化したにとりが咆哮し、飛翔する。その身に多くの夢を背負って。
――この光景は、貴方も知っているわよね?邪神。
赫炎を纏った鋼の巨腕が、刃のように邪神の中核に突き刺さる。
勢いそのままに、上昇、上昇、上昇。高空で静止した鋼の右手が……
――ああ、ああ、僕はこの光景を知っている。この力を知っている!そうだ、これじゃあまるで、まるで……!
爆発、爆発、爆発。
「そしてこれが私の!私たちの!明日へと続く右手だ!誰かを救おうとする想いだ!その身に刻め!!」
右手に組み込まれた機関が、ガチリガチリガチリと音を立てて変形、黄金螺旋の形を取った。
黄金螺旋は回転する。回転する。回転する。限界へ、そして限界を超え、臨界へと。
臨界へと達した黄金螺旋は、王金の円柱と化して、無数の運命の中から、無限の可能的なる物の中から、祈りに応え、必然性の枠を遥かに超えて、《それ》を召喚する。
「撃滅三連複合式!」
邪神を、燃える三眼を、グレート・オールド・ワンを、運命の玩弄者を討ち滅ぼすまでの、荒唐無稽な術式が顕現する。
「『ペイン・キラー』!!」
――我が怨敵!我が死神!あのデウス・エクス・マキ……
無限熱量の爆滅が、邪神の全てを昇華した。
******
着地の為の制御すら出来ずに、鋼鉄の猛威が落下を始めた。慌てて早苗がその勢いを削ごうとするが、完全には受け止めきれず、轟音を立てて地面へと落下する。
その胸部が開き、にとりがよろよろと這い出す。
「だ、大丈夫ですか!?」
早苗が駆け寄るが、しかしにとりは助けの手を拒み、歩き出した。
「ごめん……でも……行かなきゃ……」
折れた肋骨をかばいながら、傷ついた足を引きずって、ボロボロの体で、それでも何処かへ行こうと。
「きっと……あの子は……独りで泣いて……る……から……」
「はいはい、無茶しないの」
そう言って前に現れたのは八雲紫だった。
崩れ落ちそうなにとりの体を抱きとめると、にとりはそのまま気を失い、
「うーん……うーん……」
「……うなされてますね」
「失礼ね」
紫の胸の中がとても居心地が悪いのか、うなされだした。
「でも……こんな体で何処に行こうとしてたんでしょう?」
「……さあて、私にはこんなお人よしの馬鹿が考える事なんて分かりませんわ」
だけど、と紫は続けた。
「……きっと、今この子が無茶をしなくても大丈夫よ」
だって、この子はもう次へとバトンを渡しているもの。
そう言って紫は、にとりの頭を優しく撫でた。
「うーん……うーん……」
「……やっぱりうなされてますね」
「……失礼ね」
******
エピローグ【IKOVE】
――そう、確かに受け継がれる夢がある。
メディスンは川のほとりと森の狭間の、ひんやりとした空気が流れる木の根っこで、蹲って泣いていた。
どうしようもなく哀しかった。あの人はもう居ない。自分の所為で、あの人は地獄へと落ちた。
何もかも、自分の所為だ。そう思って、泣いていた。
けれどその時。
「ね、どうして泣いてるの?」
声が聞こえた。
人間の子供の声だった。先ほどまで身を焼いていた憎悪が蘇りそうになったが、もう人間を憎む理由は無い事を、河童に教えられてしまった。
……本当に憎むべきは、自分の存在そのものだと、知ってしまった。
胸の内に虚ろが広がる。涙をこぼす毎に、ふつふつと自身が失われていくのを感じる。
全て失われれば、きっと楽になれる。この涙が流れきった時、きっとそこにはもう自分は居ないと、彼女は理解する。
メディスンは、絶望し、諦め、その最果てへと身を任せようとしていた。
「ね、ね?顔を上げてちょうだい?」
少女が再び彼女へと声をかける。
彼女は、この人間を追い払うつもりで、顔を上げる。
もう、何もかもがどうでも良い。ただ、失われていきたいのだ。
邪魔をしないで、と声が出かかって……
そして、
「あ……」
オルゴール内蔵の、絡繰木馬。
いつか《彼》が作ってくれた玩具が、そこにあった。少女は芝居がかった仕草で金ぴかの螺子を取り出すと、木馬の背に取り付けてきりきりと回した。
いつかと変わらない音色と共に、木馬が動き出す。
虚ろが、瞬時に埋まる。メディスンが、自身を取り戻す。
(胸が、熱い。涙が、抑えきれない。なんだろう、この感情は)
今度の涙は、自身から零れ落ちる欠片ではない。満たされた感情が溢れた物だ。
「お父……様……」
――人はいつか死ぬけれど、
――想いは、確かに受け継がれて、残る。
そして、ここには確かに、《彼》の残した想いがあった。
「凄いでしょ?河童の友達にもらった、私の宝物だけど」
その少女は、メディスンの雰囲気から何かを感じ取ったようで、優しい笑みを浮かべてそう言った。
「……あなたに上げる」
「……いい……の?」
「うん、だからね、その代わりに」
――お友達に、なりましょう?
そう少女は、メディスンに笑いかけた。
「とも……だち……?」
「そう、お友達。わたしね、妖怪のお友達がいっぱい居るのよ」
少女は胸を張ってそう言った。
「だから、だからね……もう独りで泣かないでいいの」
「あ……」
少女の右手が差し伸べられる。メディスンへ向かって。
いつかの父親の姿が、それに重なった。
「駄目……私、私ね、大切な人が居たの」
だが、メディスンは手を伸ばせない。
事情も知らない子供に向かって、何かに突き動かされるように、自らの気持ちを吐露する。
「……うん」
少女は、唐突なその言葉を正面から受け止める。
少女にとって、それは当然だった。何故なら、以前彼女がそうして救われたからだ。
あの河童の友人なら、きっと、こうする。
……いいや、本当の理由はそうではない。自分が救われたから、誰かを救わなければならない、等と言う義務感からそれは生じたのではない。
救いたい、と。
少女は心からただそう思っているのだ。
「でもね、いっぱいいっぱい、大事な物を貰った事を忘れてね……」
メディスンは、胸に空いた虚無を一瞬にして埋め立ててくれた思い出を振り返る。
覚えている。大事な物。沢山のぬくもりを。
(どうして忘れていたんだろう。お父様もまた、人間の一人だったと言うのに。あの暖かさは、人間が持っていた物だったと言うのに)
「さっきまで周りに凄く迷惑かけて……それに……私の所為でその人は……地獄に落ちちゃったの……」
(その気持ちを、私は裏切ったんだ。あんなに大事だと思っていたのに)
そうメディスンは自分を責めて……
「私……私なんか……生まれてこなければよかったのに……!」
「違うよ」
メディスンの独白を静かに聞いていた少女は、その言葉を強く遮った。
「……え?」
「大事なもの、いっぱい、いっぱい貰ったんでしょう?」
「……うん」
「きっと、その人はあなたの事が大好きだったから、そうしたんだと思うの」
「あ……」
無数の想い出が。メディスンと、《彼》が、笑顔で過ごした時間が。
彼が注いでくれた確かな愛情が。
メディスンの胸の内を暖かく満たす。
「だからね、そんな哀しい事言わないで。その人が居なくなっちゃったのなら、今度は貴女が、いっぱい、いっぱい大事な物を誰かに上げる番なの」
「……いい……の?」
――私は、
「私は……ここに……居て……いいの?」
――こんな私が……ここに居て……いいの?
「いいの。だから、ほら、ね?」
少女が微笑みながら、伸ばしていた右手を更に前に。
そして、メディスンは……
右手を伸ばした。
小さな右手が重なる。少女の右手が、人形の右手が。
「う……あ……」
(……暖かい。お父様の手と同じだ)
「……っく……うわあああああああああああああああ」
少女は、人形を抱きしめて、彼女が泣き止むまで優しく頭を撫でていた。
そうして、二人は出会い、友達となり……
想い<ユメ>は受け継がれていく。老人から、にとりへ。にとりから、少女へ。今は、メディスンの胸に。
――そして、いつかきっと、その次の誰かへと。
******
******
プロローグ【ちいさなみぎて】
ねえ、そこのあなた。
どうして、泣いているの?
……悲しい事があった?
そっか……ねえ、顔をあげてみて。
……玩具を欲しがる歳じゃない?
絶対あげないわよ、これは私の宝物なの。
……あ、いやそうじゃなくて……
うーん……意外と難しいのね……
まあ、とにかくほら、立って。
一緒に遊びに行きましょう?
……今日からあなたも、友達よ。
******
ただ、自分には固有名詞以外何一つ東方に関連してるとは思えませんでした。
後は、状況とそれに対応して考えた結論は分かるんですが、その過程が全くわからず、謎の固有名詞につまづいたのもあって話に入れませんでした。
あと、かなり緊迫した空気の作品だと思いますが、それならネタやギャグはない方がよいのでは?
急にジョジョネタがきたりすると逆に冷めます。
ありじゃないか?
読み手を選ぶ作品かもしれないけれど
おれは好きだ
これから他の作品も呼んでみます。