やりにくいな、と霊夢は思った。
目の前にいるのは、妖怪の親子。
その母親は、子供を背後に隠すようにして立ち、毅然とした視線を霊夢にぶつけている。
まるで、“この子には指一本触れさせない”と言わんばかりに。
……元より、退治の対象となっているのは母親だけで、子供まで退治するつもりはないのだが。
霊夢ははあ、と嘆息した。
――妖怪に人が喰われた。
その知らせを受けたのは、つい先ほどのこと。
最近では、めっきり人を喰う妖怪は減ったものだが、それでも年に数回は、こういう事件が起きる。
そしてその後始末を付けるのは、言わずもがな、博麗の巫女の仕事である。
――人を喰った妖怪は、巫女が退治する。
それは、この幻想郷における一種の不文律であり、絶対的な掟であった。
絶対であるということは、即ち、例外は無いということ。
如何なる理由であれ、人を喰った妖怪は、退治されなければならない、ということだ。
だからたとえ、目の前の妖怪が人を襲った理由が、
「病気を患ってから、満足に獲物を狩ることができなくなった。でも、この子だけは食わせてやらなければならない。だからやむをえず、人間を襲った」
というものであったとしても、だ。
本来、人間を主食とする妖怪には、定期的に、食糧用の人間が供給されている。
しかし、この妖怪はそのような種ではなく、本来は、より低級の妖怪を主食としている種族だった。
ただ、難病に冒されてからは、その低級の妖怪すらも襲うことが適わなくなった。
その結果、最早襲うことができるのは、人間くらいしかいなかった。
だから、人間を襲った。
ただそれだけの、理由だった。
「……同情はするわ。でも、これは掟だから」
霊夢は極力感情を殺した声でそう言うと、ゆっくりと退魔用の針を掲げた。
見るからに弱った妖怪である。
急所に一刺しすれば、それで終わるだろう。
――大丈夫。私は今までも、ずっとこうやってきたんだから。
霊夢は目を閉じ、心の中で自分に言い聞かせる。
そうだ。
自分は何も、間違ったことはしていない。
むしろ、正しいことをしているのだ。
どんな理由であろうと、この妖怪は人を喰った。
人を喰った以上、この妖怪は退治されなければならない。
もし今この妖怪を見逃せば、また第二、第三の犠牲者が出ないとも限らない。
――そしてこの妖怪を退治するのは、巫女である私の仕事――。
霊夢はゆっくりと、目を開いた。
そして霊夢が針を構え、その先端部を、目標箇所に重ねたときだった。
不意に、目の前の妖怪が口を開いた。
「……あと、一ヶ月でいいんだ」
「…………」
霊夢の持つ針が僅かに揺れた。
「あと一ヶ月もすれば、この子も自分で獲物を狩れるようになる。そうすれば、もう私が居なくても生きていける」
「…………」
「だから頼む。あと一ヶ月だけ……私を退治するのを待ってはくれないか」
「…………」
霊夢は下唇を噛む。
「今、私が居なくなったら、この子は……」
「……どんな理由があろうと、人を喰った妖怪は退治されなければならない。そしてそれをするのが、私の仕事」
前髪に隠されたその横顔からは、霊夢の表情を窺い知ることはできない。
「……どうしても、か」
「……どうしても、よ」
「…………そうか」
すると、妖怪は、すべてを観念したかのように、だらりと両手を下げた。
そして、その背後に隠れる子に、優しく微笑みかける。
どうやら、何かを囁いているようだ。
やがて再び、妖怪は霊夢の方に向き直った。
どこか、清々しい面持ちだった。
「…………」
霊夢は無言のまま、再び針を構えた。
そして一瞬だけ息を止め、
「――――」
迷わず、針を放った。
それは吸い込まれるように、妖怪の額に突き立った。
間もなく、妖怪はゆっくりと倒れた。
もう、動くことはない。
子供の妖怪は、何が起きたのか理解ができず、倒れ伏した母親の身体を押したりつついたりしている。
暫くの間そうやっていたが、何の反応もないため、困ったように空を見上げた。
そして、その幼い視線は、宙に浮く、一人の人間の姿を捉えた。
しかしその幼さゆえに、その人間こそが、母親の命を奪った存在であると、気付くことはなく。
ただ純粋で無垢な瞳だけが、いつまでも霊夢を視ていた。
「…………!」
その視線に耐え切れず、霊夢は逃げるようにして、その場を離れた。
――あの子は、これからどうやって生きていくのだろう。
そんな思いが、胸の中でわだかまりとなっては霧散していく。
その繰り返し。
馬鹿な話だ。
あの子の未来を奪ったのは、この私なのに。
霊夢は思う。
――ただ、生かすために。
その純粋な気持ちが、果たして罪となりうるのだろうか。
それに対し罰を与えることが、本当に正しいことなのか。
「…………ッ」
神社へと戻る空の上で、霊夢は頭をかきむしった。
分かっている。
そう、分かっているのだ。
どんなに優れた正義でも、対立する正義の前では、それは悪でしかない。
それでも自分が正義だと信じているから、人も妖も生きていけるのだ。
ただ、それだけのこと。
「……これでいい。そう、これでいいのよ……」
霊夢の呟きは、虚空へと吸い込まれて消えていった。
了
目の前にいるのは、妖怪の親子。
その母親は、子供を背後に隠すようにして立ち、毅然とした視線を霊夢にぶつけている。
まるで、“この子には指一本触れさせない”と言わんばかりに。
……元より、退治の対象となっているのは母親だけで、子供まで退治するつもりはないのだが。
霊夢ははあ、と嘆息した。
――妖怪に人が喰われた。
その知らせを受けたのは、つい先ほどのこと。
最近では、めっきり人を喰う妖怪は減ったものだが、それでも年に数回は、こういう事件が起きる。
そしてその後始末を付けるのは、言わずもがな、博麗の巫女の仕事である。
――人を喰った妖怪は、巫女が退治する。
それは、この幻想郷における一種の不文律であり、絶対的な掟であった。
絶対であるということは、即ち、例外は無いということ。
如何なる理由であれ、人を喰った妖怪は、退治されなければならない、ということだ。
だからたとえ、目の前の妖怪が人を襲った理由が、
「病気を患ってから、満足に獲物を狩ることができなくなった。でも、この子だけは食わせてやらなければならない。だからやむをえず、人間を襲った」
というものであったとしても、だ。
本来、人間を主食とする妖怪には、定期的に、食糧用の人間が供給されている。
しかし、この妖怪はそのような種ではなく、本来は、より低級の妖怪を主食としている種族だった。
ただ、難病に冒されてからは、その低級の妖怪すらも襲うことが適わなくなった。
その結果、最早襲うことができるのは、人間くらいしかいなかった。
だから、人間を襲った。
ただそれだけの、理由だった。
「……同情はするわ。でも、これは掟だから」
霊夢は極力感情を殺した声でそう言うと、ゆっくりと退魔用の針を掲げた。
見るからに弱った妖怪である。
急所に一刺しすれば、それで終わるだろう。
――大丈夫。私は今までも、ずっとこうやってきたんだから。
霊夢は目を閉じ、心の中で自分に言い聞かせる。
そうだ。
自分は何も、間違ったことはしていない。
むしろ、正しいことをしているのだ。
どんな理由であろうと、この妖怪は人を喰った。
人を喰った以上、この妖怪は退治されなければならない。
もし今この妖怪を見逃せば、また第二、第三の犠牲者が出ないとも限らない。
――そしてこの妖怪を退治するのは、巫女である私の仕事――。
霊夢はゆっくりと、目を開いた。
そして霊夢が針を構え、その先端部を、目標箇所に重ねたときだった。
不意に、目の前の妖怪が口を開いた。
「……あと、一ヶ月でいいんだ」
「…………」
霊夢の持つ針が僅かに揺れた。
「あと一ヶ月もすれば、この子も自分で獲物を狩れるようになる。そうすれば、もう私が居なくても生きていける」
「…………」
「だから頼む。あと一ヶ月だけ……私を退治するのを待ってはくれないか」
「…………」
霊夢は下唇を噛む。
「今、私が居なくなったら、この子は……」
「……どんな理由があろうと、人を喰った妖怪は退治されなければならない。そしてそれをするのが、私の仕事」
前髪に隠されたその横顔からは、霊夢の表情を窺い知ることはできない。
「……どうしても、か」
「……どうしても、よ」
「…………そうか」
すると、妖怪は、すべてを観念したかのように、だらりと両手を下げた。
そして、その背後に隠れる子に、優しく微笑みかける。
どうやら、何かを囁いているようだ。
やがて再び、妖怪は霊夢の方に向き直った。
どこか、清々しい面持ちだった。
「…………」
霊夢は無言のまま、再び針を構えた。
そして一瞬だけ息を止め、
「――――」
迷わず、針を放った。
それは吸い込まれるように、妖怪の額に突き立った。
間もなく、妖怪はゆっくりと倒れた。
もう、動くことはない。
子供の妖怪は、何が起きたのか理解ができず、倒れ伏した母親の身体を押したりつついたりしている。
暫くの間そうやっていたが、何の反応もないため、困ったように空を見上げた。
そして、その幼い視線は、宙に浮く、一人の人間の姿を捉えた。
しかしその幼さゆえに、その人間こそが、母親の命を奪った存在であると、気付くことはなく。
ただ純粋で無垢な瞳だけが、いつまでも霊夢を視ていた。
「…………!」
その視線に耐え切れず、霊夢は逃げるようにして、その場を離れた。
――あの子は、これからどうやって生きていくのだろう。
そんな思いが、胸の中でわだかまりとなっては霧散していく。
その繰り返し。
馬鹿な話だ。
あの子の未来を奪ったのは、この私なのに。
霊夢は思う。
――ただ、生かすために。
その純粋な気持ちが、果たして罪となりうるのだろうか。
それに対し罰を与えることが、本当に正しいことなのか。
「…………ッ」
神社へと戻る空の上で、霊夢は頭をかきむしった。
分かっている。
そう、分かっているのだ。
どんなに優れた正義でも、対立する正義の前では、それは悪でしかない。
それでも自分が正義だと信じているから、人も妖も生きていけるのだ。
ただ、それだけのこと。
「……これでいい。そう、これでいいのよ……」
霊夢の呟きは、虚空へと吸い込まれて消えていった。
了
・・・でも、やっぱりやりきれない部分はありますね。
読み手にも、その苦悩がはっきりと伝わってきました。
どちらも紛れもない正義だけど、どうしても大衆が正義で少数が悪、になる。
そう言う世界とそれに苦悩する霊夢を巧く描いた作品で、非常に良い物だと思います。
無駄に長いのではなく短い事で、伝えたい部分をよりハッキリと伝えられていると思いました。
ですがちょっと短いですね。もうちょい色々なエピソードを加えても良かったかもしれません。