※ このお話は、同作品集内の「好きという言葉」の蛇足となっております。
読者様を限るようで非常に恐縮ではありますが、先にそちらに目を通されてからこちらを読むことをお勧めします。ただし、どちらも過度のご期待をなさらないことをお勧めいたしますが。
……ところで、嘘つきな女性はお好きですか?
どうやら寝てしまっていたらしく、気付けばメリーに起こされていた。
「もう、いい加減に起きなさい!」
「あたっ!」
それも、ちょっと手荒な感じに。
昨晩はどうやらあのまま座卓に頭をつけたまま、深呼吸をしているうちに意識が落ちてしまったようだった。そこに後頭部からコツリとやられたものだから、被害はおでこだけではなく鼻にまで及んだ。これ以上低くなったらどうしてくれるというのだろう?
「痛いなぁ……もうちょっと優しく起こしてくれたって罰は当たらないじゃない」
「黙らっしゃい。ノってるとか言っておきながら、そんなに白い原稿用紙を残している人が何を言うの。目も当てられないような単位数になったって知らないわよ」
ジンジンと痛む鼻を押さえながらの講義は、昨晩のコーヒーよりも冷たい視線に一蹴されてしまった。
理由は分からないが、どうにも今朝のメリーは不機嫌のようだった。
一瞬、何かマズイことでもしてしまっただろうかと思い、脳裏に昨晩の一件が浮かんだけれども、あれはそもそも言い出しっぺは彼女なのだから特に不快を買うようなことではないはず、と除外する。……そんなはずではないと思いたい。
というよりも、メリーが怒っていることも不思議ではあるけれど、彼女の台詞の中に無視できないことがあったので、ひとまずメリーの事は横に置いておく事にしよう。
それより、なんだって?
……白い原稿用紙?
いかにも『腹立たしい』と言った風に彼女が腕を組みながら指さす先に視線を向けると、なるほど、そこにはまだ半分ほど残っている元アイスコーヒーと一緒に、言葉の通り何も書かれていない放置された原稿用紙があった。
と、今まで昨日のことでいっぱいだった頭が、急速に現実で埋められていく。
ああ、そうだ。レポートを書きあげてしまおうと思って、それで途中で寝てしまっていたんだった。
現状を自覚すると、今まで何も言わなかったくせに、無理な姿勢で睡眠を強いられた体の節々が、急に文句を言うかのように痛みだしてきた。特にあぐらをかいていた足と、頭を下げていた首が痛い。寝違えたのかもしれない。
「それでぐっすり眠ってらっしゃった蓮子さんは、レポートの提出に間に合いそうなのかしら?」
鼻に次いで首もさすっていると、メリーになぜか敬語で尋ねられる。
窓の外から入る明かりの量からして余裕そうだと思いつつ、一応現在時刻を確認してみると時計の短針は七よりも微妙に前にあり、残り四枚なんてちょっと頑張れば二時間もかからない量、これなら今日中に提出できそうなのは明らかだった。
……けれども、問題なのはそんな事ではなく。
むしろそんな一目瞭然な事をメリーがわざわざ敬語で訪ねてきたことが一番の問題なのではないかと……。
「ねえメリー、もしかして何か怒ってる?」
「…………べつに、何も怒っちゃいないわよ」
いやいや、絶対嘘だって。
じゃあなんで今そんなに黙っちゃったのよ。
「あのさ、もしも私が何か怒らせちゃったんなら謝るからさ、もし知らずに不快にさせてしまったのなら、ちゃんと教えてほしいんだけど」
「何でもないってば……ただその、よく寝付けなかったから寝不足なだけよ……」
「それで八当り、ってこと?」
「…………ええ、まあ」
またちょっと黙るし。
というか、メリーはそんなことしないと思うんだけどなぁ……。
ただ彼女の様子をうかがってみると、けれども確かに彼女の言うとおり、目は赤いしクマもできているような気もするし、少なくとも寝不足と言うのは本当の事のように見えた。
まあ、彼女に関する知識欲は私のわがままのようなものだしね、……誰だって、隠し事や言えないことの一つや二つ、当たり前よね。
あー、痛い痛い。痛々しい。
「嘘つき」
じぃ、っと見つめていると、目があってしまった。
けれど、その拍子にそんな事を言ってやると、彼女は黙って視線をそらした。
「嫌われちゃった」
「ばか言わないの。それより、朝ご飯食べちゃうわよ」
「んー」
そう言って、体をひるがえす彼女を追おうと机に手を付き立ち上がる。
――いや、立ち上がろうとした瞬間、あぐらをかいていた足の関節が痛んだのだった。
痛っ、っと感じたのは果たしてパキリと鳴った関節か、その際座卓を蹴ってしまった向う脛か。
いづれにせよ、不意打ちを食らってしまった私はバランスを崩してしまい、
「あっ!」
「えっ?」
アイスコーヒーの入ったグラスが、カチャンと音を立てるのを止めることができなかったのだ。
「あ、あ、ああああーっ!」
「ちょっと蓮子!」
尻もちをつきそうになった私よりも早くメリーがグラスを手に取るが、時すでに遅し。原稿用紙は無差別に黒く染められてしまった後であった。
まあ、それでも全部が全部だめになったというわけではないのだけれども……、
「……あのぅ、もしもし、メリーさん?」
「……何かしら、今あなたの隣にいるけれど?」
「あの迷惑教授、今日は大学に二時までしかいないとかおほざきになられやがっていたのですけれども、……それに間に合うバスの中で一番ギリギリなのは何時何分でしょうか?」
「ええっと……十二時十分くらいに、確か。あまり本数が多くないから、これが限界ね」
「最寄りのバス停に着くまで何分くらいかかりますか?」
「歩いて十分ってところね」
「……ちなみにバスに乗れなかったとして、間に合うと思う?」
「タクシーに乗れるなんて豪勢ね。いくらになるかしら」
「……いっそこれこのまま提出しちゃうとか……」
「……あなたの後ろに立ちましょうか?」
「うわあああああっ!」
現在午前七時五分。
こうして五時間の地獄が幕を開けたのだった。
と言っても、一番の被害者はもしかしたら私ではなくメリーだったのかもしれないけれど。
彼女は自分のレポートでもないのに、「時間が無いから」とコーヒーに侵されずにすんでいた文字を別の原稿用紙に移すという作業の手伝いに名乗りを上げてくれたのだけれども、やはりというか何と言うか、寝不足の身で単純作業の連続はこたえたらしく、今バスを待つ私の隣でコクリコクリと立ったまま舟を漕いでいた。
……いや、眠たいのなら家で寝ていた方がいいと思うのだけれども、どうにも今回私がひぃひぃ言っていたのを見て、自分はさっさと終わらせてしまおうと考えたらしく、今日は大学図書館まで自分のレポートに必要な資料を借りることにしたのだとか。
図らずも反面教師だよ、私。情けない……。
というか今回はメリーに多大な迷惑をかけすぎなので、今晩はちょっとご飯でもおごってあげようかしら?
――などと考えていると、メリーの体が一瞬力を失って崩れ、すんでのところで体勢を立て直していた。
「……あのさぁ、メリー」
「大丈夫、起きてるわよ」
「起きている人は普通眼を開けているものよ」
「この世には心眼と言う言葉もあるのよ」
「この世にあってもメリーにはないじゃない……。お礼も兼ねて、資料なら私が借りてくるからさぁ、せっかく眠たくなったのなら部屋でゆっくり寝ていればいいじゃないの」
「……いいの、それじゃ意味ないんだから」
「信用ないなぁ」
「というか実際に目を通してみないと役に立つかどうかも分からないじゃない」
まあそれも正論だけどね。
私もメリーに貸してもらっていた資料は、一度図書館で確かめてから『これは使える』と思ったわけだし。
「でもなぁ、そうじゃなくても日にちずらしてまた後日でもいいじゃない。メリーも強情ね」
「もぅ、いいじゃないのよ」
「いいけどさ、でもこんなにフラフラされちゃ心配になるのよ」
それに、となおも言い募ろうと口を開くと、メリーは眼を開き、うんざりとした表情で私を見た。
「はぁ――じゃあ何かおしゃべりの話題をちょうだい?」
「話題?」
「とりあえず、何か喋っていたら眠ってしまわないと思うんだけれど」
根本的解決になってないけどね。
でもまあ、今日のメリーは朝からちょっと不機嫌めだし、これくらい乗ってあげてもいいか。無理に帰そうとしたらいよいよもって怒らせてしまうかもしれないし。
けどねぇ。
「話題、話題かぁ。そんな風に振られても困るわね……てか、メリーは何かないの?」
「無くもないけど、わざわざ考えるのが面倒ね」
思考の放棄は睡魔にかなりの劣勢を強いられているからではないかと。
「ほら、今日のホストに一問一答を」
「普通ゲストがやるものじゃないかしら? それ」
なんだか段々、メリーの思考回路が駄目になっているような気がする。
しかし、一問一答か。
メリーに聞きたいこと、かぁ。
……ここ最近で一番メリーに問いただしたいことと言えば、昨日の爆弾発言の真意なのだけれども……まあ聞くわけにはいかないわよね。
必要以上に気にしていると思われるのは怖いから。
必要以上に踏み込んでしまうのは怖いから。
彼女の心にも、自分の心にも。
その道は、一方通行のいばらの道に違いないのだから。
「じゃあ……」
だとしたら、どうしたらそこはいばらの道ではなかったというのだろうか。
どうして、血を流すほどの痛みが、その道にあるというのだろうか。
私が私でなければよかったのだろうか?
彼女が、彼女でなければよかったというのだろうか?
「――じゃあ、好きな人」
「……はい?」
「メリーの好きな人の話ね。メリー、ちっともそう言うこと聞かせてくれないじゃない」
どんな人なら、彼女にその隣を望まれるというのだろうか?
私が参加できない椅子取りゲームの勝者は、たとえばどんな人だというのだろうか?
「あー、いや……はい? 好きな人?」
「そう、好きな人。好きなタイプとかじゃなくて、好きな人」
とは言え、まあこういう時の話題と言えば提案は妥当なもの。ありがちと言えばありがち。
私ってマゾいなぁ、なんて思いながら絶句し続けるメリーの言葉を待つ。
けれど、誰か私の知ってる人の名前でも出るかと覚悟していたのにもかかわらず、メリーはただ静かに首を横に振る。
「いないわ」
と、わざわざそこに言葉を添えてまで。
呟いて、けれどももう一度、いないわ、と続けて断言して見せたのであった。
「へぇー……」
その答えの、なんて返しにくいことだろう。
私はまたてっきり、どこぞの誰かの名前を聞いて、そして彼女を応援するつもりだったのに。
その答えは、酷い。
「それはまた、メリーらしいわね」
「私らしい、ってどういう評価よ」
「そのままよ。そう言えば知ってた? メリーって実は高嶺の花扱いされているのよ?」
「……いや、初耳だけど。そうなの?」
「そうなの」
手が届かない、と言われている。
美人で、けれど人に冷たく接することのない彼女は、実は陰で噂されていたりもする。
届きそうで、届かない、と。
期待してしまうのに、決して想いが届くことはない、と。
「せめてお付き合いしている人でもいれば、みんな諦めもつくだろうに」
「……そんな事言われたって、しょうがないじゃない」
「まったくだけどね。皆さんご愁傷様でした」
ご愁傷様でした、私。
振られそこなって残念だったわね。
「美人で気立てもいいし家事もできる。素敵なお嫁さん確定の優良物件なのに」
「しつこいわね」
「だってねぇ」
「少なくとも、蓮子みたいな人だけは好きになんてならないわ」
「嫌われちゃった」
「ばか言わないの」
「そうね、昨日コクられたばかりだし?」
「――あ、バス来たみたいね」
「振られちゃった」
「ばか言ってなさい」
そう言ってメリーはバスに乗るためにか、私に背を向け一歩縁石に近づいた。
ほどなくして、バスが来る。
この話題を打ち切りに。
「そう言えば」
けれど、最後の悪あがきのように今度はメリーが私に問いかけてくる。
「蓮子は、好きな人なんていないの?」
私はその質問に対して、答えを一つしかもっていなかった。
「いるわよ。けど秘密」
自分はいろいろ聞いておきながらも秘密とは我ながらひどい話だとは思うけれども、
「――そんなの言えるわけがないじゃないのよ」
私たち以外には誰も乗っていないバスの中、メリーはわざわざ非常口近くの二人掛けの席に座り、私もまたそのとなりに腰をおろした。
やがてバスが動き出すと、彼女は舟を漕ぐどころかたちまち睡魔に負けてしまい、あっという間に静かな寝息を立てる。
私に寄り掛かるような形で、私の肩に顔をあてて。
私は、この素敵な状態に苦笑を浮かべるしかなかった。
――いつか、この特等席は私以外の誰かのものになってしまうのだろう。
いつの日にか、この彼女と手の触れ合う距離は、この彼女の髪の香る距離は、彼女の熱を感じるこの距離は、私以外の誰かのものになるのだろう。
それを想えば幸せも半減するというものだ。
私のいる道は、一方通行のいばら道。進みゆくだけのその道に、彼女の隣で休むための席なんて用意されているわけがないのだから。
だけどそれでも。
それでも私は、彼女を好きで居続けるだろう。
どれだけ胸が苦しくても、痛くても。
彼女を好きと思うその時に、心は確かに温かいのだから。
「はぁーあ」
ただまあ、欲を言えばなんて言ってもやっぱり痛みを伴わずに済むのが一番ではあるのだけれども。
いつか彼女に好きな人が出来たとしたならば、その人はそんな痛みを感じずに彼女を想うことができるのだと思うと、私はそれをうらやましく思う。
嫉妬してしまうわ。
全くもって、彼女に好かれる人が羨ましい。
いいぞ、もっとやれ。
すっきりしていて読みやすく、とてもきれいな終わり方です。
反面、少しこじんまりとし過ぎている印象もあります。
もっとやれ
もっと!もっとだ!
ぜひカカオの含有率を少しずつ減らす作業をしていただきたい!
話の前に、続き作品であることを書いた方が良かった気がしたりしたが気のせいではなかったかも。
ごちそうさまでした。
なにはともあれ秘封倶楽部毎度ご馳走様です。