「妖夢、みかんがなくなっちゃったわ」
この言葉の主人である西行寺幽々子に仕える、半人半霊の庭師、魂魄妖夢は軽く溜息を吐いた。なぜなら、彼女の脳内では「みかんを持ってきなさい」と自動翻訳されたからだ。解ってしまう自分を恨みながら、手軽な竹籠にみかんをいくつか載せて床の間に向かった。
庭に面した廊下を歩いていると、冷たい風が頬を撫でる。みかんを入れた籠を持つ手の感覚が鈍い。常緑樹以外の木は葉を落とし、枯山水に一層の静寂を与えている。そんな寒さから逸早く脱しようと急いだのが仇となった。床の間へ入る際に段差に足を取られ、油断していたのもあって受け身をとることができなかった。そのまま前へ倒れ込み、みかんが炬燵の周りに転がった。幽々子は近くまで転がってきた一つを手に取る。
「す、すみません。すぐに――」
「あら、一つのかわいいみかんね」
「え?」
幽々子の妙な言い回しに違和感を覚えた妖夢は、みかんを拾おうとする手を止める。
「あら、そこにも一つのみかんがあるわね」
「一つの……ですか?」
「ふふ、少し思い出しちゃっただけよ」
「妖夢はこの部屋の中にいくつのみかんを見ることができるかしら」
「いくつ……ですか」
妖夢は指を折って数え始めた。
「七つです」
「それじゃ、わたしの手の上にはいくつあるかしら」
「……一つです」
「そうね。でもわたしが言っているみかんと、あなたが言っているみかんは違うのよ」
そう言って幽々子は縁側へ出た。みかんを拾い終わった妖夢も後に続く。
「妖夢は昔、幽霊が跡を絶たずに冥界に留まるので、冥界が飽和状態になったことを知っているかしら?」
「よくは存じておりませんが、少しだけ聞いたことがあります」
「わたしが一部の幽霊を顕界へ放っているのは知っているわね?」
「はい」
「最初はわたしも、冥界に押し込めておくことに賛成だったわ。所詮幽霊なんて、次の生を与えてもらうまでの仮初の姿だってね。でもね、あることを切っ掛けに、それを止めたの」
「あることですか?」
幽々子は遠くを眺めた。そして妖夢に外出の身支度を調えるように促した。妖夢はわけもわからぬまま急いで支度をしに屋内へ入っていった。
どれだけ歩いただろうか。どこまで歩いてゆくのだろうか。さくっさくっという落ち葉を踏んで歩く軽快な足音と共に、変わり映えのしない風景が続く。落ち葉で埋め尽くされた獣道は動物たちの生活感を感じさせない。そんな道をしばらく歩いた。すると少しだけ拓けたところへ出た。質素な造りの木造建築に生活感のある庭がそこにあった。その生活感とは人間のものに違いなかった。閼伽棚(あかだな)には紅葉や菊が供えられており、縁側に面した部屋には硯と筆が置いてある。水溜から水を引くために架け渡してある樋(とい)には枯れ葉が積もっていて、その先からは雫を細い糸のように滴らせていた。今にも奥から人の足音が聞こえてきてもおかしくはない。しかし、違和感を覚える生活感ではあった。
「ここは……」
「思い出の場所よ」
そう言って幽々子は裏に回った。そこにはみかんの木が一本立っていた。その周りは柵で囲われている。そして、その柵の周りには何かもやもやした空気の濁ったようなものが浮遊していた。妖夢は職業柄、それが嫉妬や羨望の思念の――どこか幽霊に似た――塊であると悟った。条件反射的に白楼剣を構える。間もなく、幽々子が妖夢の顔の前に手を出し、制止する。
「わたしの話を聞いてからでも遅くはないわ」
「はい……。失礼致しました」
妖夢は構えを解いた。
「この木を見つけたのは……そうね、もう何百年も前の話よ」
わたしが山へ散策に出掛けたときのことよ。丁度この次期でね、神様が皆出雲へ出掛けていて居ないからってあちこちを歩き回っていたわ。木の実を見付ける度に味見をしていたものよ。かなり奥深くまで来てしまって、そろそろ引き返そうかと思ったときに、この庵を見付けたの。それで、家の裏からみかんのいい香りがしたから、家を回り込んでみたら案の定。大きいとは言いがたいけど、小さいとも言えないほどの大きさのみかんの木があってね。みかんがたわわに実っていたから一つ頂戴しようと手を伸ばしたら後ろから――
「何者だ」
「通りすがりのしがない亡霊よ」
間髪入れずに答えたわ。それから振り返って見てみると、初老後半くらいの男だったわ。手拭を首からぶら提げて、藍染の作務衣姿でそこに立っていたわ。
「んん……。まぁ何者でもよい。それよりな、そのみかんの木は大事なものなんだ。手を出さないではくれないか」
「でもお腹空いちゃったのよ」
「全く、厚顔とはお前のようなやつを言うのだ。まぁしかし、腹が減ったのではしかたあるまい。今から飯にしようと思っていたところだ。同道せい」
「あら、優しい殿方ね」
そう言っておんぼろの庵に入っていったわ。でもね、手入れは行き届いていたのよ。丁寧に磨かれた廊下、塵一つ見当たらない障子の桟、居間に活けられた菊の花。とても一人暮らしの男の家とは思えなかったわ。まぁそれは冗談としても、丁寧な人間に違いはなかったわね。
「さぁ、支度が整ったぞ。食え」
「いつもこれぽちしか食べないの?」
「これぽちとは……ふふ、そうか。亡霊と言っても大層な身分の生まれ……いや、生まれてはいないのか……」
「ご飯はお茶碗に半分、山菜汁はしっかりあるけど、漬物はたったの二切れ……。これじゃお腹は納得しないわ」
「はっはっは。まったく、口の多い亡霊のお嬢さんだ。分かった、今裏から何か身になるものを採ってくるから待っておれ」
そう言ってその人間は席を立ったわ。帰ってきた頃には、木通(あけび)の実をいっぱい抱えて持ってきてくれたの。とても甘かったことを今でもよく憶えているわ。その人間はわたしの食べ終えた外の皮の部分を火にかけて、それから苦そうに食べていたのが印象的だったわ。
「一人で住んでいるの?」
「ん、まぁな」
「いつから?」
「むう、あまり昔のことは憶えていない。ただ……なぜここへ住むようになったのかということはよく憶えている。退屈だが聞くか?」
「退屈しのぎに是非聞くわ」
「どこから話せばよいだろうか……。何せ人と言葉を交わすなど何年ぶりだからな。そうだな、先ほどお前が口にした果実、あれは全て同じ果実だったか?」
「同じ……というのは?」
「つまり、あれは全て木通という果実だったか?」
「そうね、確かにあれは全部木通だったわ」
「そうか……」
そのとき、その人間は非常に複雑そうな顔色を浮かべたわ。
「ふふ、もしかしてあなた、あれが全部異なるように見えるのね」
「正しく言い直せば、木通かどうかすら判らないのだ。人は俺のことを奇なる人と呼んだ。俺は意味が解らなかった。だから人に合わせようと努めた。人が米と言ったものの特徴を紙に書き連ねた。人が犬と言ったものの特徴も紙に書き連ねた。だがやはり判らざりしものは判らざるよ。結局俺は職である植木屋をやめて、奇人の烙印と共に隠棲することにした」
「賢明だわ。正常への異常者の闖入は憚られるものね」
「まぁ決心したところまではよかったのだが、それから俺は山に遊ばれる羽目になった。山に入ったのはいいが、同じところを経巡り歩き、山を下りることもできなくなった。そして三日目の夜、遂に俺は倒れた。しかしな、何の因果か分からないが俺は目を覚ますこととなった。すると目の前に、あの庭先のみかんの木があったんだ。当然、何も考えずに貪り付いた。そこで俺は気が付いたんだ。この果実は、俺を生かす実で、この一つ一つが俺を助ける可能性を持つものだと。その日から俺は、庭先のみかんの木に生(な)っている一つ一つの果実を『みかん』と初めて見ることができたんだ。まぁ、人が言うみかんは恐らく、橙色で、丸くて、食べると甘いような酸いような味がするというようなものだろう。これは俺だけのみかんの了解の仕方で、多分他の誰にも当てはまることはないだろうよ。その意味であのみかんの木は大事なのだ。先ほどは藪から棒に留め立てして悪かった。」
「あら、そういうことだったの……。ふふ、わたしとは正反対ね……。さて、今日はもう帰るわ」
「もう行くのか? まだゆっくりしていくといい」
「あなたと喋っていると退屈しないわ。でもね、あなたはまるで紫と喋っている気分にさせてくれる。明日も来るからご飯の用意、お願いね」
それだけ言い残してその日は帰ったわ。いや、わたしは居た堪れなくなって、直ぐにでもその場を去りたかった。
そう、だってわたしは人間の言葉ごときに心を揺り動かされていたのだから。いや、もっと卑近な言葉を使うなら、悔しかった。どうしようもなく……。だからあの人間は憎かった。見返したくてたまらなかった。だから次の日も、その次の日もあの人間のところへ赴いたわ。
「シキガミ?」
「そう、式神」
二人は縁側に座ってお茶をしていた。静かな午後の昼下がり、太陽はまだ高いところにあり、冬にしては暖かな陽気だった。
「なんだか尻に敷く紙みたいな名だな……」
「…………。間違ってないわ」
「で、そのシキガミがどうした?」
「紫が口癖のように言っていたのよ。式神は、あなたみたいな人間が足し算をすることだって」
「何を言ってるのかさっぱりだ。俺みたいな人間とは何を指しているのだ?」
「そうねぇ……。みかんをみかんとして見ることのできない人……かしら」
「余計によく解らん。して、足し算とは?」
「足し算は式よ」
「そんなことは解っている。足し算は何を意味しているのか訊いているのだ」
「ちょっと誤解があるわ。足し算に意味はないの。足し算することに意味があるのよ。そしてそれによって式神が動いてくれるの。明快だわ」
「ふむ、亡霊は難しいことを知っているな」
「いえ、この世の理性よ」
「まぁいい、俺は少しばかりみかんの木の手入れをしてくるから、ここで待っているがいい」
そう言って植木屋は腰をあげ、目前のみかんの木へ近づいていった。すると、突然手を合わせて念仏を唱え始めた。幽々子がはてなと思って見ていると、念仏を唱え終えたのか、道具箱から鋏を取り出して剪定を始めた。手馴れた手つきで、パチパチと軽快な音を辺りに響かせる。幽々子はそこから一歩も動かず、植木屋がみかんの木の手入れをするのをただお茶を啜りながら見ていた。植木屋の様々な動きは見ていて飽きないものだった。しかし、そのうち、内へ入っていった。
冬の暮れは早いもので、日は今にも沈もうとしている。手や顔に生傷を幾つも作った植木屋がみかんの木の手入れを終え、一息ついてふっと縁側を見た。すると、そこには誰も居ない。辺りを見渡してみるが、果たしてその姿を見ることはできなかった。
「おい亡霊、いずこへ参られた?」
大声で呼んでみたが返事が得られなかった。
「帰られたのか……」
植木屋は広げた道具を片付け、内へ入ることにした。すると、仄かにいい香りが内の中から漂ってきた。まさかと思い勝手に行くと、そこには人の後ろ姿。釜戸では火が煙をもくもくと吐き、その上のお櫃(ひつ)からは白い湯気が立っていた。
「あら、終わったの?」
「これは……」
「今ご飯が炊き上がるわ。それと、釜の中は黒豆よ。もう直ぐ出来上がるから待っているといいわ」
そう言って手早くお櫃を釜から上げた。釜の中では黒豆が煮られている。それを穴の開いたおたまで掬い出して皿に盛っていく。
「亡霊、その方はいい身分の出ではないのか? 料理など――」
「あら、そんなこと誰が言ったのかしら?」
「誠申し訳ない……大変失礼な――」
「ほら、早くお膳の支度をなさい」
「お、おぅ……」
二人で配膳を済ませ、飯に箸をつけると、先の式神の話になった。
「ところで亡霊、先ほどのシキガミというやつは、一体何者なのだ?」
「そうねぇ。式神自体は漠としたものよ。よく鬼神なんかに準えられているのを聞くわ。鬼神がするから自然なのであって、それ自体が自ずから起こるのは不自然なの。だから、突然目の前で黒豆が宙に浮いたら驚くでしょ? でも鬼神に持ち上げさせたら別段妙な点はないのよ。当たり前のことなんだけどね。最初と最後しか見ないから解らなくなっちゃうのよ」
幽々子は黒豆を箸で抓んで、それから口に放り込んだ。
「んん……。奇術と同じということか?」
「まぁそんなところね。この豆を見て」
示された黒豆に植木屋は目をやった。
「あなたはこの豆の集まりを見たときに『豆がある』と見るでしょうね。でもね、普通の人間がこれを見たら、きっと『豆がたくさんある』と見るのよ。この世に同じ豆なんてありはしないのに、人間は括ることを覚えたの。実際に豆を並べてみましょう」
幽々子はご飯の上に黒豆を二粒載せた。
「豆を並べたわ。さて、ここにある豆は『二つの豆』かしら? それとも『《ある豆》と《ある豆》』かしら?」
「後者に近い感覚を覚えるな」
「今度は視点を少し変えてみましょ。『山の《頂》と《麓》』はどうかしら? 『《争い》と《大名》』では? これらは一つであり、ひとつずつなのよ」
「そうなるとさっぱりだ。何を言っているのか解らん」
「ふふ、全部一つの理(ことわり)よ。いや、世の常に因るのかもしれないわ……」
「それがシキガミであるのか?」
「ええ」
植木屋は腑に落ちないという顔をして、無言で黒豆を口へ運んだ。
その日も幽々子は夕食を終え、帰っていった。
幽々子はしばらくの間、山に入ることができなかった。
何故なら、山の神に撮(つま)み食いの件が露見し、のみならず度を越しているというので、嵐のような凩(こがらし)が吹き荒れていたからである。つまり、厳重に出入りが禁止されていたのだ。
一週間くらいが過ぎたところで風が止んだ。幽々子は早速、山へ出かけていった。
庵に着いたので、いつものように裏へ回った。みかんの木が目に入ってきて鳥肌が立つ思いがした。木には夥しい数の油虫が付着していたのだ。幹に、枝に、そして実に、黒い粒々が蠢いていた。それからは脇目も振れず庵の中へ上がった。様々なことが頭を巡ったが、居間へ着くやいなや、頭は一瞬にして真っ白になった。薄暗い部屋に朱を引き摺った痕が残っている。それは変色して限りなく黒色に近くなっていた。いや、もしかしたら部屋が暗かったからかもしれない。しかし、そんな冷静な状況判断などできよう筈もなかった。また、部屋の真ん中では、見知った顔の男が息を荒くして布団を被って横たわっている。布団の脇腹辺りが黒に染まっていた。顔は窶れ、頬骨がくっきりと浮かび上がっている。視線は焦点もあっておらず、中空に投げられていた。そして幽々子に気が付くと、ゆっくりと顔を彼女へ向けた。
「待っていたぞ」
掠れた声で聞き取りづらかったが、今の幽々子にとって最早話す内容など瑣末な問題となっていた。この男はもう長くないと悟り、特別に焦りもせず哀れみも持たず、やおら傍へ腰を下ろした。
「凩だよ、はぁはぁ、みかんの木が心配になってな。表へ出たのが、はぁはぁ、仇となった……。太い木の枝がな……この脇っ腹を貫いた……」
幽々子は「そう」とだけ言って、植木屋を見下ろした。一瞬辺りを黙(しじま)が包んだ。
「未練は?」
そう植木屋に問うた。苦しそうに言葉を紡いでいく。
「俺のみかんを……面倒見てくれ……」
再び愕然とした。幽々子は今植木屋が何と言ったか聞きなおそうと思ったくらいだった。しかし聞き間違いではないと確信できた。もうあのみかんには呪いが付されていた。まごうことなき >>このみかん<< は、この人間がいなくなってもみかんたり得るほどの存在感を持ってしまった。この人間のみかんに対する思いの並々ならぬことと言ったらなかった。
「承知したわ。あなたに報いましょう」
「安心した」
どうやら心底安心したようで、笑顔を幽々子に向けてそのままゆっくり目を閉じた。
外に出た幽々子は、みかんの木を正面に立った。そして、それに「死」を与えた。
「これでお話は終わりよ」
「終わりって……。幽々子様、みかんの木はこうして今も立っているのですよ。本当にそのとき『死』をお与えになったのですか?」
「ええ。だってほら御覧なさい、妖夢。このみかんの木は今もこうして死んでいるじゃない」
妖夢はみかんの木をじっと見たが、幽々子の言っている意味は理解できなかった。当の幽々子はにこにこと微笑んでいる。
「妖夢、この木は人間で言うところの、樹齢は五百年を下らないのよ。正確には憶えていないけどね」
「五百年ですか!? とてもそんな古木には見えませんが……」
「見えなくて当然よ、そんなにこの木は生きてないんだから」
「……。幽々子様、いじわるしないでそろそろ答えを教えてくれてもいいじゃないですか」
「それじゃただのおバカさんよ。ふふ、それじゃあヒントを出すわ。妖夢は死語って言葉を知っているかしら?」
「シゴって死んだ言葉と書いて死語ですか?」
「そうよ」
「それなら聞いたことがあります。今では使われなくなった言葉のことですよね?」
「ふふ、はずれね」
あっさり否定されて、妖夢は少しむっとした。
「死語というのはね、文字通り言葉が死んでいるのよ。つまり、それ以上変わらないの。意味も、言葉の形も、そこでおしまい。ほら、人間もそうでしょ。死んだらそれ以上歳は取らなくてすむのよ。周りの人間だって、例えば若くして死んだ人間の年老いた顔なんて判らないじゃない。死んだ人間は、周りの人間の中では永遠に、若いままの顔容なのよ。わたしもほら、この通り」
「なるほど。『死』は変わることがなくなるっていう性質を持っているんですね」
そこまで言って妖夢ははてなと首を傾げた。
「でも変ですよ。例えば死んだら人間は腐敗します。確かに、人の心の中ではいつまでも若々しい顔のままかもしれませんけど、肉体の方は朽ちてしまう筈です。この木は朽ちていないのは変ですよ」
「あら、段々とおませさんになってきたわね」
妖夢は久々に褒められて、少し嬉しくなった。
「そうね、体を考えなければならないわね。では次のヒントよ。生も死もない、そんなものがこの世にあるわ。それは何かしら?」
「突然難しくなりましたね……」
「ふふ、難しく考えるから難しいのよ」
「うーん……。不老不死ですか?」
「あら残念ね、それは生きているわ」
「幽々子様、分かり兼ねます」
「これは少し難しいかもしれないわね。正解は >>存在しているもの<< よ」
妖夢はだんまりを決め込んだ。
「難しかったかしら?」
「ずるいです……。体はどこへいっちゃったんですか?」
「だからほら、目の前にあるじゃない。いい、妖夢? 存在しているものは >>存在<< とは違うのよ」
「もう頭が破裂しそうです……」
「難しく考えるからよ。じゃ妖夢は自分で自分が存在していることを認めないの?」
「いえ……認めざるを得ませんが……」
「ほら、そうしたら体がもれなく付いてくるじゃない。抽選じゃないところに注意だわ」
妖夢は納得がいかない様子だった。
「だからこのみかんの木は変わらぬ姿で、ここにこうして立っているのよ」
「話が見えませんよ。だって変わらぬ姿でこうして立っているって仰られても、最初の『死』をお与えになった話と繋がりません」
今まで朗らかだった幽々子の顔に急に影が差した。そして妖夢を見つめ、しばらく次の言葉を発しなかった。妖夢は何か粗相をしたのではないかと懸命に頭を働かせてみたが、心当たりがなかった。すると、幽々子がゆっくりと口を開いた。
「『死』を…………死に至らしめたのよ」
妖夢は心臓が飛び出しそうになった。幽々子から投げられている視線には戦慄をも覚え、背筋が凍りつく思いだった。
「死を……ですか?」
それを言うだけで精一杯だった。
「そうよ。死を以て容(かたち)が留まり、形が毀(こぼ)つならば、その死を死に至らしめるだけのこと。そしてそれは、この世の理性に於いては『永遠』となり、それを欲する悪鬼を誘う。それが今あなたが目の前にしているものよ」
妖夢はみかんの木にまとわる思念の塊をじっと見つめた。そして、それらから若さを感じることができた。心のどこかで憐れだなと思っている自分がいるということに気付いた。
「斬りますか?」
「でもね、悪鬼とは言っても、この子たちも一つ一つを見れば善も悪もないの。唯そこに在るだけで」
「しかし、放っておけばいずれ悪行を果たすでしょう」
「確かに、果たしたら悪鬼だわ。果たしたら……ね。じゃ、後は妖夢に任せるわ。わたしは先に帰っているから」
そう言って、幽々子は元来た道を戻っていった。
「一つ一つを見る……か……」
妖夢はふと我に返った。みかんの木の周りに取り付けられた柵に気がついた。これは、いつ、誰が、どういう理由で設けたのか、何の意味があるのか、いろいろ考えていたが結局判らなかった。
終
安芸(あき)の国にこういう話がある。昔二つの村が喧嘩をしていた。力比べで決着をつけようとしたまではよかったのだが、その内容が現実的ではなかった。相手の村にまで石を投げた方が勝利するというものだった。両村の力自慢が投げ合ったが、両方とも届く筈もなく、真ん中の田んぼに落ちることとなる。それからというもの、その石は村と村の境界点となった。
あるものが境界の役目をする事例は多いようだ。これもまた >>存在<< と >>無(永遠)<< の境界を気にするものが立てたのではないかと思われるのである。
了
この言葉の主人である西行寺幽々子に仕える、半人半霊の庭師、魂魄妖夢は軽く溜息を吐いた。なぜなら、彼女の脳内では「みかんを持ってきなさい」と自動翻訳されたからだ。解ってしまう自分を恨みながら、手軽な竹籠にみかんをいくつか載せて床の間に向かった。
庭に面した廊下を歩いていると、冷たい風が頬を撫でる。みかんを入れた籠を持つ手の感覚が鈍い。常緑樹以外の木は葉を落とし、枯山水に一層の静寂を与えている。そんな寒さから逸早く脱しようと急いだのが仇となった。床の間へ入る際に段差に足を取られ、油断していたのもあって受け身をとることができなかった。そのまま前へ倒れ込み、みかんが炬燵の周りに転がった。幽々子は近くまで転がってきた一つを手に取る。
「す、すみません。すぐに――」
「あら、一つのかわいいみかんね」
「え?」
幽々子の妙な言い回しに違和感を覚えた妖夢は、みかんを拾おうとする手を止める。
「あら、そこにも一つのみかんがあるわね」
「一つの……ですか?」
「ふふ、少し思い出しちゃっただけよ」
「妖夢はこの部屋の中にいくつのみかんを見ることができるかしら」
「いくつ……ですか」
妖夢は指を折って数え始めた。
「七つです」
「それじゃ、わたしの手の上にはいくつあるかしら」
「……一つです」
「そうね。でもわたしが言っているみかんと、あなたが言っているみかんは違うのよ」
そう言って幽々子は縁側へ出た。みかんを拾い終わった妖夢も後に続く。
「妖夢は昔、幽霊が跡を絶たずに冥界に留まるので、冥界が飽和状態になったことを知っているかしら?」
「よくは存じておりませんが、少しだけ聞いたことがあります」
「わたしが一部の幽霊を顕界へ放っているのは知っているわね?」
「はい」
「最初はわたしも、冥界に押し込めておくことに賛成だったわ。所詮幽霊なんて、次の生を与えてもらうまでの仮初の姿だってね。でもね、あることを切っ掛けに、それを止めたの」
「あることですか?」
幽々子は遠くを眺めた。そして妖夢に外出の身支度を調えるように促した。妖夢はわけもわからぬまま急いで支度をしに屋内へ入っていった。
どれだけ歩いただろうか。どこまで歩いてゆくのだろうか。さくっさくっという落ち葉を踏んで歩く軽快な足音と共に、変わり映えのしない風景が続く。落ち葉で埋め尽くされた獣道は動物たちの生活感を感じさせない。そんな道をしばらく歩いた。すると少しだけ拓けたところへ出た。質素な造りの木造建築に生活感のある庭がそこにあった。その生活感とは人間のものに違いなかった。閼伽棚(あかだな)には紅葉や菊が供えられており、縁側に面した部屋には硯と筆が置いてある。水溜から水を引くために架け渡してある樋(とい)には枯れ葉が積もっていて、その先からは雫を細い糸のように滴らせていた。今にも奥から人の足音が聞こえてきてもおかしくはない。しかし、違和感を覚える生活感ではあった。
「ここは……」
「思い出の場所よ」
そう言って幽々子は裏に回った。そこにはみかんの木が一本立っていた。その周りは柵で囲われている。そして、その柵の周りには何かもやもやした空気の濁ったようなものが浮遊していた。妖夢は職業柄、それが嫉妬や羨望の思念の――どこか幽霊に似た――塊であると悟った。条件反射的に白楼剣を構える。間もなく、幽々子が妖夢の顔の前に手を出し、制止する。
「わたしの話を聞いてからでも遅くはないわ」
「はい……。失礼致しました」
妖夢は構えを解いた。
「この木を見つけたのは……そうね、もう何百年も前の話よ」
わたしが山へ散策に出掛けたときのことよ。丁度この次期でね、神様が皆出雲へ出掛けていて居ないからってあちこちを歩き回っていたわ。木の実を見付ける度に味見をしていたものよ。かなり奥深くまで来てしまって、そろそろ引き返そうかと思ったときに、この庵を見付けたの。それで、家の裏からみかんのいい香りがしたから、家を回り込んでみたら案の定。大きいとは言いがたいけど、小さいとも言えないほどの大きさのみかんの木があってね。みかんがたわわに実っていたから一つ頂戴しようと手を伸ばしたら後ろから――
「何者だ」
「通りすがりのしがない亡霊よ」
間髪入れずに答えたわ。それから振り返って見てみると、初老後半くらいの男だったわ。手拭を首からぶら提げて、藍染の作務衣姿でそこに立っていたわ。
「んん……。まぁ何者でもよい。それよりな、そのみかんの木は大事なものなんだ。手を出さないではくれないか」
「でもお腹空いちゃったのよ」
「全く、厚顔とはお前のようなやつを言うのだ。まぁしかし、腹が減ったのではしかたあるまい。今から飯にしようと思っていたところだ。同道せい」
「あら、優しい殿方ね」
そう言っておんぼろの庵に入っていったわ。でもね、手入れは行き届いていたのよ。丁寧に磨かれた廊下、塵一つ見当たらない障子の桟、居間に活けられた菊の花。とても一人暮らしの男の家とは思えなかったわ。まぁそれは冗談としても、丁寧な人間に違いはなかったわね。
「さぁ、支度が整ったぞ。食え」
「いつもこれぽちしか食べないの?」
「これぽちとは……ふふ、そうか。亡霊と言っても大層な身分の生まれ……いや、生まれてはいないのか……」
「ご飯はお茶碗に半分、山菜汁はしっかりあるけど、漬物はたったの二切れ……。これじゃお腹は納得しないわ」
「はっはっは。まったく、口の多い亡霊のお嬢さんだ。分かった、今裏から何か身になるものを採ってくるから待っておれ」
そう言ってその人間は席を立ったわ。帰ってきた頃には、木通(あけび)の実をいっぱい抱えて持ってきてくれたの。とても甘かったことを今でもよく憶えているわ。その人間はわたしの食べ終えた外の皮の部分を火にかけて、それから苦そうに食べていたのが印象的だったわ。
「一人で住んでいるの?」
「ん、まぁな」
「いつから?」
「むう、あまり昔のことは憶えていない。ただ……なぜここへ住むようになったのかということはよく憶えている。退屈だが聞くか?」
「退屈しのぎに是非聞くわ」
「どこから話せばよいだろうか……。何せ人と言葉を交わすなど何年ぶりだからな。そうだな、先ほどお前が口にした果実、あれは全て同じ果実だったか?」
「同じ……というのは?」
「つまり、あれは全て木通という果実だったか?」
「そうね、確かにあれは全部木通だったわ」
「そうか……」
そのとき、その人間は非常に複雑そうな顔色を浮かべたわ。
「ふふ、もしかしてあなた、あれが全部異なるように見えるのね」
「正しく言い直せば、木通かどうかすら判らないのだ。人は俺のことを奇なる人と呼んだ。俺は意味が解らなかった。だから人に合わせようと努めた。人が米と言ったものの特徴を紙に書き連ねた。人が犬と言ったものの特徴も紙に書き連ねた。だがやはり判らざりしものは判らざるよ。結局俺は職である植木屋をやめて、奇人の烙印と共に隠棲することにした」
「賢明だわ。正常への異常者の闖入は憚られるものね」
「まぁ決心したところまではよかったのだが、それから俺は山に遊ばれる羽目になった。山に入ったのはいいが、同じところを経巡り歩き、山を下りることもできなくなった。そして三日目の夜、遂に俺は倒れた。しかしな、何の因果か分からないが俺は目を覚ますこととなった。すると目の前に、あの庭先のみかんの木があったんだ。当然、何も考えずに貪り付いた。そこで俺は気が付いたんだ。この果実は、俺を生かす実で、この一つ一つが俺を助ける可能性を持つものだと。その日から俺は、庭先のみかんの木に生(な)っている一つ一つの果実を『みかん』と初めて見ることができたんだ。まぁ、人が言うみかんは恐らく、橙色で、丸くて、食べると甘いような酸いような味がするというようなものだろう。これは俺だけのみかんの了解の仕方で、多分他の誰にも当てはまることはないだろうよ。その意味であのみかんの木は大事なのだ。先ほどは藪から棒に留め立てして悪かった。」
「あら、そういうことだったの……。ふふ、わたしとは正反対ね……。さて、今日はもう帰るわ」
「もう行くのか? まだゆっくりしていくといい」
「あなたと喋っていると退屈しないわ。でもね、あなたはまるで紫と喋っている気分にさせてくれる。明日も来るからご飯の用意、お願いね」
それだけ言い残してその日は帰ったわ。いや、わたしは居た堪れなくなって、直ぐにでもその場を去りたかった。
そう、だってわたしは人間の言葉ごときに心を揺り動かされていたのだから。いや、もっと卑近な言葉を使うなら、悔しかった。どうしようもなく……。だからあの人間は憎かった。見返したくてたまらなかった。だから次の日も、その次の日もあの人間のところへ赴いたわ。
「シキガミ?」
「そう、式神」
二人は縁側に座ってお茶をしていた。静かな午後の昼下がり、太陽はまだ高いところにあり、冬にしては暖かな陽気だった。
「なんだか尻に敷く紙みたいな名だな……」
「…………。間違ってないわ」
「で、そのシキガミがどうした?」
「紫が口癖のように言っていたのよ。式神は、あなたみたいな人間が足し算をすることだって」
「何を言ってるのかさっぱりだ。俺みたいな人間とは何を指しているのだ?」
「そうねぇ……。みかんをみかんとして見ることのできない人……かしら」
「余計によく解らん。して、足し算とは?」
「足し算は式よ」
「そんなことは解っている。足し算は何を意味しているのか訊いているのだ」
「ちょっと誤解があるわ。足し算に意味はないの。足し算することに意味があるのよ。そしてそれによって式神が動いてくれるの。明快だわ」
「ふむ、亡霊は難しいことを知っているな」
「いえ、この世の理性よ」
「まぁいい、俺は少しばかりみかんの木の手入れをしてくるから、ここで待っているがいい」
そう言って植木屋は腰をあげ、目前のみかんの木へ近づいていった。すると、突然手を合わせて念仏を唱え始めた。幽々子がはてなと思って見ていると、念仏を唱え終えたのか、道具箱から鋏を取り出して剪定を始めた。手馴れた手つきで、パチパチと軽快な音を辺りに響かせる。幽々子はそこから一歩も動かず、植木屋がみかんの木の手入れをするのをただお茶を啜りながら見ていた。植木屋の様々な動きは見ていて飽きないものだった。しかし、そのうち、内へ入っていった。
冬の暮れは早いもので、日は今にも沈もうとしている。手や顔に生傷を幾つも作った植木屋がみかんの木の手入れを終え、一息ついてふっと縁側を見た。すると、そこには誰も居ない。辺りを見渡してみるが、果たしてその姿を見ることはできなかった。
「おい亡霊、いずこへ参られた?」
大声で呼んでみたが返事が得られなかった。
「帰られたのか……」
植木屋は広げた道具を片付け、内へ入ることにした。すると、仄かにいい香りが内の中から漂ってきた。まさかと思い勝手に行くと、そこには人の後ろ姿。釜戸では火が煙をもくもくと吐き、その上のお櫃(ひつ)からは白い湯気が立っていた。
「あら、終わったの?」
「これは……」
「今ご飯が炊き上がるわ。それと、釜の中は黒豆よ。もう直ぐ出来上がるから待っているといいわ」
そう言って手早くお櫃を釜から上げた。釜の中では黒豆が煮られている。それを穴の開いたおたまで掬い出して皿に盛っていく。
「亡霊、その方はいい身分の出ではないのか? 料理など――」
「あら、そんなこと誰が言ったのかしら?」
「誠申し訳ない……大変失礼な――」
「ほら、早くお膳の支度をなさい」
「お、おぅ……」
二人で配膳を済ませ、飯に箸をつけると、先の式神の話になった。
「ところで亡霊、先ほどのシキガミというやつは、一体何者なのだ?」
「そうねぇ。式神自体は漠としたものよ。よく鬼神なんかに準えられているのを聞くわ。鬼神がするから自然なのであって、それ自体が自ずから起こるのは不自然なの。だから、突然目の前で黒豆が宙に浮いたら驚くでしょ? でも鬼神に持ち上げさせたら別段妙な点はないのよ。当たり前のことなんだけどね。最初と最後しか見ないから解らなくなっちゃうのよ」
幽々子は黒豆を箸で抓んで、それから口に放り込んだ。
「んん……。奇術と同じということか?」
「まぁそんなところね。この豆を見て」
示された黒豆に植木屋は目をやった。
「あなたはこの豆の集まりを見たときに『豆がある』と見るでしょうね。でもね、普通の人間がこれを見たら、きっと『豆がたくさんある』と見るのよ。この世に同じ豆なんてありはしないのに、人間は括ることを覚えたの。実際に豆を並べてみましょう」
幽々子はご飯の上に黒豆を二粒載せた。
「豆を並べたわ。さて、ここにある豆は『二つの豆』かしら? それとも『《ある豆》と《ある豆》』かしら?」
「後者に近い感覚を覚えるな」
「今度は視点を少し変えてみましょ。『山の《頂》と《麓》』はどうかしら? 『《争い》と《大名》』では? これらは一つであり、ひとつずつなのよ」
「そうなるとさっぱりだ。何を言っているのか解らん」
「ふふ、全部一つの理(ことわり)よ。いや、世の常に因るのかもしれないわ……」
「それがシキガミであるのか?」
「ええ」
植木屋は腑に落ちないという顔をして、無言で黒豆を口へ運んだ。
その日も幽々子は夕食を終え、帰っていった。
幽々子はしばらくの間、山に入ることができなかった。
何故なら、山の神に撮(つま)み食いの件が露見し、のみならず度を越しているというので、嵐のような凩(こがらし)が吹き荒れていたからである。つまり、厳重に出入りが禁止されていたのだ。
一週間くらいが過ぎたところで風が止んだ。幽々子は早速、山へ出かけていった。
庵に着いたので、いつものように裏へ回った。みかんの木が目に入ってきて鳥肌が立つ思いがした。木には夥しい数の油虫が付着していたのだ。幹に、枝に、そして実に、黒い粒々が蠢いていた。それからは脇目も振れず庵の中へ上がった。様々なことが頭を巡ったが、居間へ着くやいなや、頭は一瞬にして真っ白になった。薄暗い部屋に朱を引き摺った痕が残っている。それは変色して限りなく黒色に近くなっていた。いや、もしかしたら部屋が暗かったからかもしれない。しかし、そんな冷静な状況判断などできよう筈もなかった。また、部屋の真ん中では、見知った顔の男が息を荒くして布団を被って横たわっている。布団の脇腹辺りが黒に染まっていた。顔は窶れ、頬骨がくっきりと浮かび上がっている。視線は焦点もあっておらず、中空に投げられていた。そして幽々子に気が付くと、ゆっくりと顔を彼女へ向けた。
「待っていたぞ」
掠れた声で聞き取りづらかったが、今の幽々子にとって最早話す内容など瑣末な問題となっていた。この男はもう長くないと悟り、特別に焦りもせず哀れみも持たず、やおら傍へ腰を下ろした。
「凩だよ、はぁはぁ、みかんの木が心配になってな。表へ出たのが、はぁはぁ、仇となった……。太い木の枝がな……この脇っ腹を貫いた……」
幽々子は「そう」とだけ言って、植木屋を見下ろした。一瞬辺りを黙(しじま)が包んだ。
「未練は?」
そう植木屋に問うた。苦しそうに言葉を紡いでいく。
「俺のみかんを……面倒見てくれ……」
再び愕然とした。幽々子は今植木屋が何と言ったか聞きなおそうと思ったくらいだった。しかし聞き間違いではないと確信できた。もうあのみかんには呪いが付されていた。まごうことなき >>このみかん<< は、この人間がいなくなってもみかんたり得るほどの存在感を持ってしまった。この人間のみかんに対する思いの並々ならぬことと言ったらなかった。
「承知したわ。あなたに報いましょう」
「安心した」
どうやら心底安心したようで、笑顔を幽々子に向けてそのままゆっくり目を閉じた。
外に出た幽々子は、みかんの木を正面に立った。そして、それに「死」を与えた。
「これでお話は終わりよ」
「終わりって……。幽々子様、みかんの木はこうして今も立っているのですよ。本当にそのとき『死』をお与えになったのですか?」
「ええ。だってほら御覧なさい、妖夢。このみかんの木は今もこうして死んでいるじゃない」
妖夢はみかんの木をじっと見たが、幽々子の言っている意味は理解できなかった。当の幽々子はにこにこと微笑んでいる。
「妖夢、この木は人間で言うところの、樹齢は五百年を下らないのよ。正確には憶えていないけどね」
「五百年ですか!? とてもそんな古木には見えませんが……」
「見えなくて当然よ、そんなにこの木は生きてないんだから」
「……。幽々子様、いじわるしないでそろそろ答えを教えてくれてもいいじゃないですか」
「それじゃただのおバカさんよ。ふふ、それじゃあヒントを出すわ。妖夢は死語って言葉を知っているかしら?」
「シゴって死んだ言葉と書いて死語ですか?」
「そうよ」
「それなら聞いたことがあります。今では使われなくなった言葉のことですよね?」
「ふふ、はずれね」
あっさり否定されて、妖夢は少しむっとした。
「死語というのはね、文字通り言葉が死んでいるのよ。つまり、それ以上変わらないの。意味も、言葉の形も、そこでおしまい。ほら、人間もそうでしょ。死んだらそれ以上歳は取らなくてすむのよ。周りの人間だって、例えば若くして死んだ人間の年老いた顔なんて判らないじゃない。死んだ人間は、周りの人間の中では永遠に、若いままの顔容なのよ。わたしもほら、この通り」
「なるほど。『死』は変わることがなくなるっていう性質を持っているんですね」
そこまで言って妖夢ははてなと首を傾げた。
「でも変ですよ。例えば死んだら人間は腐敗します。確かに、人の心の中ではいつまでも若々しい顔のままかもしれませんけど、肉体の方は朽ちてしまう筈です。この木は朽ちていないのは変ですよ」
「あら、段々とおませさんになってきたわね」
妖夢は久々に褒められて、少し嬉しくなった。
「そうね、体を考えなければならないわね。では次のヒントよ。生も死もない、そんなものがこの世にあるわ。それは何かしら?」
「突然難しくなりましたね……」
「ふふ、難しく考えるから難しいのよ」
「うーん……。不老不死ですか?」
「あら残念ね、それは生きているわ」
「幽々子様、分かり兼ねます」
「これは少し難しいかもしれないわね。正解は >>存在しているもの<< よ」
妖夢はだんまりを決め込んだ。
「難しかったかしら?」
「ずるいです……。体はどこへいっちゃったんですか?」
「だからほら、目の前にあるじゃない。いい、妖夢? 存在しているものは >>存在<< とは違うのよ」
「もう頭が破裂しそうです……」
「難しく考えるからよ。じゃ妖夢は自分で自分が存在していることを認めないの?」
「いえ……認めざるを得ませんが……」
「ほら、そうしたら体がもれなく付いてくるじゃない。抽選じゃないところに注意だわ」
妖夢は納得がいかない様子だった。
「だからこのみかんの木は変わらぬ姿で、ここにこうして立っているのよ」
「話が見えませんよ。だって変わらぬ姿でこうして立っているって仰られても、最初の『死』をお与えになった話と繋がりません」
今まで朗らかだった幽々子の顔に急に影が差した。そして妖夢を見つめ、しばらく次の言葉を発しなかった。妖夢は何か粗相をしたのではないかと懸命に頭を働かせてみたが、心当たりがなかった。すると、幽々子がゆっくりと口を開いた。
「『死』を…………死に至らしめたのよ」
妖夢は心臓が飛び出しそうになった。幽々子から投げられている視線には戦慄をも覚え、背筋が凍りつく思いだった。
「死を……ですか?」
それを言うだけで精一杯だった。
「そうよ。死を以て容(かたち)が留まり、形が毀(こぼ)つならば、その死を死に至らしめるだけのこと。そしてそれは、この世の理性に於いては『永遠』となり、それを欲する悪鬼を誘う。それが今あなたが目の前にしているものよ」
妖夢はみかんの木にまとわる思念の塊をじっと見つめた。そして、それらから若さを感じることができた。心のどこかで憐れだなと思っている自分がいるということに気付いた。
「斬りますか?」
「でもね、悪鬼とは言っても、この子たちも一つ一つを見れば善も悪もないの。唯そこに在るだけで」
「しかし、放っておけばいずれ悪行を果たすでしょう」
「確かに、果たしたら悪鬼だわ。果たしたら……ね。じゃ、後は妖夢に任せるわ。わたしは先に帰っているから」
そう言って、幽々子は元来た道を戻っていった。
「一つ一つを見る……か……」
妖夢はふと我に返った。みかんの木の周りに取り付けられた柵に気がついた。これは、いつ、誰が、どういう理由で設けたのか、何の意味があるのか、いろいろ考えていたが結局判らなかった。
終
安芸(あき)の国にこういう話がある。昔二つの村が喧嘩をしていた。力比べで決着をつけようとしたまではよかったのだが、その内容が現実的ではなかった。相手の村にまで石を投げた方が勝利するというものだった。両村の力自慢が投げ合ったが、両方とも届く筈もなく、真ん中の田んぼに落ちることとなる。それからというもの、その石は村と村の境界点となった。
あるものが境界の役目をする事例は多いようだ。これもまた >>存在<< と >>無(永遠)<< の境界を気にするものが立てたのではないかと思われるのである。
了
柵を乗り越える日はないのでしょうね。
大名と争いが一括り、これが特に解らない。
もっと頭の足りない私のような読者を察して、解説してもらえるととても助かります・・・・
死を死なせる事によって、終わりを無くしたという事か?
なら何故そこから成長しないのだろう?
式神のくだりはもっと分からん…
出来れば、解説をお願いしたいです。
理解力が足りないとは言え、本文だけでは理解出来ないという事でこの点数です。
偏に自分に実力がないのが顕著に出た結果です
ご指摘下さった方々、本当にありがとうございました
本当は本文を通して解説をした方がよいと思うのですが
差し当たりここで、させていただきます
先ず式神の件はこう解釈します
・式神=あなたみたいな人間が足し算をすること
・あなたみたいな人間=みかんをみかんとして見ることのできない人
・みかんをみかんとして見ることのできない人=みかんを個物としてしか見られない人(前の段落より)
要は
足し算をすること = 式神
足し算をする →(因って) 式神が動く
と言えます
逆に言えば、
式神を動かすには、個物として対象を見なければならない
この植木屋みたいな人間がどのようなところで活躍しているのか、
また必要とされているのかこれはその一例を示しただけで、それ以上の意味はありませんでした……
『紫が口癖のように言っていた』という言葉で、世間話の感覚でこういうこともあったよ程度に
幽々子が言ったという感じを出したつもりでした……
また、この説明の流れは本文中の言葉で成り立たせたつもりでした……
これを受けて、二つの豆、山の頂と麓、大名と争いの件があります
ご指摘のあった大名と争いですが、これも山の頂と麓と類比の関係にあります
山に頂があれば、麓があるのは当たり前で、この場合は頂と麓の概念を統一する『山の』という
言葉を補いましたので、すんなり頭に入ると思うんです
しかし、大名と争いには統一された概念がありません
強いて言うなら『戦国』でしょうか……
何となくピンときませんでしたので、言葉を補うことはしませんでした
結局、大名が存在する世界では争いが必ずあるということです
なぜなら、争いに因らず成り上がった偉い人を大名とは呼ばないからです。
大名が存在するためには争いが、また争いが起これば大名も発生するという背中合わせの
性質をここで言いたかったのです
ここで自分は戦国大名や江戸時代の大名を思い浮かべたのですが、別に大名でなくともよかったのです
王と争いや将軍と争いの方がよかったでしょうか……
そして最後に、死についての件です
>>死を死なせる事によって、終わりを無くしたという事か?
>>なら何故そこから成長しないのだろう?
このご指摘に端的に答えるならば、
先ず一行目の質問に、終わりを無くしたとありますが、生死という問題からすればそうなります
しかし、ここでは何行か上に >>存在しているもの<< について幽々子が言っている件があります
ここから派生して考えて、存在について筋立てて書いているつもりでした……
つまり、生が死に因って絶えるなら、その死を絶やしたら >>存在しているもの<< しか残らないと
言いたかったのです
ここで既に生も死も問題ではなくなってしまっています
「そこにある」ということしかないということです
自動的に二行目の質問に答えた形になりましたが、 >>存在しているもの<< しか残っていない以上、
生も死もあるわけはありません
生も死もないということは、そもそも生き物ではないのですから成長だってあり得ません
以上でご指摘のあった解説はしたつもりですが、自分も説明下手の話下手なので、
自分の腹の中にあることが言い切れているのか判りません
ですので、不明な点はお手数ですが、再びご指摘戴けると幸いです
よろしくお願いします
死語の例や木の状態、式神のくだりについては漠然としていましたが、本文と解説を何回か読み直してみて理解出来ました。
理解した後に読み返してみると、雰囲気だけでなく内容も興味深い作品と思います。
少し大げさな言い方になりますが、
読者にこのレベルまで能動的な読み取りを求めるSSはなかなか貴重だと思います。
今後の作品にも期待しています。