霊夢とアリス
霊夢は鳥居のすぐ内側で落ち葉を掃いていた。集めた落ち葉は敷地の外側へおざなりに掃き出してしまう。本来ならば掃き出した落ち葉やゴミも掃除すべきなのだろうが、最近はとんとそうする気がおきない。
最近というのは嘘になるな。
霊夢は作業を中断してそう思う。もしもこの場合の「最近」という単語が「ここ何年か」も当てはまるのならば嘘とは限らないんだろうけれど。あるいは妖怪たちにとってならば「最近」という単語はこの場合でも「ここ何年か」と言えるかもしれない。きっとそうだろう。しかし少なくとも霊夢にとってはそう言うことはできない。
さわやかな春の朝だった。
まだ冬の冷たさを残す空気はつんと澄んでいて、やわらかな朝の陽ざしが、これから始まる一日があたたかくなるものだと教えてくれる。そろそろ桜のつぼみが開く頃かもしれない。
昨日はあたたかかった。しかし一昨日までは雨が続き、冬が舞い戻ってきたのではないかと思えるような寒さが続いた。
魔理沙がよく言ってたっけ。春になったばかりは冬の最後っ屁があるから気をつけるんだぜ――だとかなんとか。
どちらかといえば霊夢は、春の不調――あるいは冬の逆襲――を憂うより、幽々子の起こした異変を思い返してしまうことのほうが多い。
しばらくのあいだ、霊夢は箒を手に、立ったままぼんやりしていたがやがて作業を再開した。
久しぶりに階段を掃くかどうかと考えていると、その階段をのぼってくる者がいた。アリスだった。
「お邪魔するわよ」
「ええ、どうぞ」
霊夢はアリスを縁側へ案内した。幾度もここに来ているのだから、ご自由にと言って放っておいてもいいのだが、この真面目な旧友はきっと困ってしまうことだろう。
「お茶いれてくるわ」
霊夢はアリスを縁側に座らせると、敷居をまたいで居間にあがった。
「おかまいなく」
霊夢はそんな言葉を背中で受け、まだ居間で眠っている萃香をまたいで台所へ向かった。
火にかけた薬缶をまえに沸騰するのを待っていると、
「寝てばかりね」
とアリスの声が聞こえた。
「え?」
良く聞こえなかったため、霊夢が大声で聞き返す。
「そのこ、寝てるところばっかり見るわ」
「ああ、萃香ね」霊夢は呟くように、そうひとりごちた。続いてアリスにも聞こえるように大きな声で言う。「昨晩は宴会だったの。幽々子と紫が来たわ」
お湯がわいた。アリスがなにか返答したようだったが、薬缶のわいた「ぴぃーっ」という音で聞きとることができなかった。茶の葉を入れた急須にお湯をそそぎ、湯のみを二つ用意し、茶を淹れる。茶のはいった湯のみをそれぞれ盆のうえに乗せる。茶菓子を出すかどうか悩んだが、辞めることにした。
縁側に戻るときも萃香をまたぐ。
「時間がもったいないとか思わないのかしら」湯のみを受け取ったアリスがそう言う。「こんなに寝てばっかりで」
「さあどうかしらね」
霊夢はあいまいに応え、アリスの隣に腰をおろしてから萃香を見た。まだ幼いように見えるその身体は、いつか成長することがあるのだろうか。
妖怪たちを見ていると、時間とは無限にあるものなのだと信じてしまいそうになる。己自身の時間は有限だということを忘れてしまいそうになる。いや、違う。忘れたいだけだ。忘れてしまったことなど一度たりともない。ここ最近では特に。
霊夢とアリスは長いあいだ縁側に座ったままで黙っていた。もう何年もの付き合いだ、無言でいることに苦痛はなくなっていた。ときたま喧しい音楽が聞こえてきたり、争っているような騒音が遠くから聞こえてきたりはしたが、ふたりは静寂を楽しんだ。気が向けば一言ふたこと会話をし、ほほえみ、あきれ、風のない日の夏の雲のように、ゆったりと時は過ぎていった。
やがて陽の高さも頂上に達するかという頃、アリスは立ち上がった。
「そろそろ帰るわ」
「そう」
霊夢は昼食を一緒にどうかと進めたがアリスは丁寧にことわった。
霊夢は鳥居までアリスを見送った。別れの挨拶を済ませた後、階段を降りようとしたアリスに、霊夢は訪ねた。
「まだ魔理沙をさがしているの?」
アリスが振り返った。
朝、掃除をしているときには気がつかなかったが、空には雲ひとつなかった。アリスの背後には幻想郷の広大な青い空が広がっている。今日は快晴のようだった。アリスはなかなか応えない。応え方を探しあぐねているようにも見えた。が、やがて口をひらいた。
「そうね。暇なときにね」
そう言って踵を返し、階段を降りていく。
霊夢は縁側に戻ると座り込んだ。すぐにお茶を淹れるために立ち上がりかけたが、思いなおしてふたたび座り込んだ。肩越しにまだ居間で眠っている萃香を見る。歳をとることを忘れているかのような彼女の身体を、陽光がつつんでいる。毛布がずれ落ちているが、きっと寒くはないのだろう。随分気持ち良さそうにしている。見ているあいだ一度だけ鼻をひくひくとさせ、くしゃみを我慢しているように顔を歪めた。霊夢は立ち上がり、ずれていた毛布をなおしてやった。
魔理沙は唐突にいなくなった。何者かに殺されたという者もいれば、刺激を求めて幻想郷の外に旅立ったという者もいる。霊夢は後者だと思っている。
アリスは魔理沙をさがしている。いいや、きっとアリスだけじゃない。霊夢自身もさがしたい気持ちはあった。だが自分自身にとっても見つけなければならないものがある。特にそれはここ何年かよく考えることだった。考えては、鬱屈としてしまう。
後継者。
霊夢は自分の年齢を考える。歳だけ無駄にとってしまったように感じられる。大人になった気はしない。まだ慌てる歳ではないかもしれないが、後継者のことは考えなくてはならない。
霊夢は萃香を見た。口を大きく開き、間抜けな面をしている。
幻想郷のほとんどの者とは異なる、己の時間の経ち方が怨めしかった。
アリスと美鈴
「おや、アリスさんじゃないですか」
「こんにちは」
「こんにちは。いい天気ですね」
「ええ。こんなに陽気だと雇い主が不満に思うのでは?」
「お嬢様は陽の光なんて目じゃありません」
「それは頼もしいわね。そこの氷精にとってはどうかしら?」
「あたい、べつにへーきだよ」
「それは良かったわ。二人で遊んでたの?」
「うん。めーりんはわるものなんだよ。イヘンをおこすの。だからあたいがやっつけるの。イヘンをカイケツするの」
「そう。頑張ってね」
「門の前からは動いていませんからね」
「そんな心配はしてないわ」
「ところで今日はどういったご用件で?」
「パチュリーに会いに来たのだけれど」
「ややっ、また例の密談ですね」
「密談だなんて大袈裟よ。ただの魔法についての談議にすぎないわ」
「いやはや、貴方がたには『ただの』だとしても、それが魔法とくるならば、私のような者にとっては言葉が自動で『とんでもない』に変化するんですよ」
「『とんでもない魔法の密談』?」
「そうなりますね」
「『ただの魔法の密談』よりは、魔理沙だったら喜びそうね」
「『とんでもない』より凄そうですもんね。文字通り飛んで帰ってきますよ」
「そうなるといいわね」
「きっと、そうなります」
「そうね。ところで、さきほどこちらの館主と従者にあったのだけれど」
「お嬢様と咲夜さんですね。おふたりとも、博麗の神社へ向かわれました」
「ええ。神社の階段の麓で会ったわ。よく行くの?」
「うーん。今日は久し振りだと言っていましたけれど……。それがなにか?」
「あまり行かせないほうがいいかもしれないわよ。特にあのメイドのほうね」
「咲夜さんですか。それはどうしてでしょう?」
「近頃、霊夢の調子が悪いのよね」
「体調でも崩されたんですか?」
「体調というより、気持ちの問題ね。元気がないというかなんというか……」
「悩んでいるんでしょうか」
「どうしようもないことで悩んでいるのよ。わたしや貴方にはわかってやれないことで」
「はあ、なるほど」
「わかったのかしら」
「こういうときはいつでも『なるほど』と言おうと決めているんです」
「貴女もつかみどころのない人ね」
「おっしゃる意味がわかりませんな」
「まあいいわ。それより、さっきの氷精はどこにいったのかしら」
「あら?」
チルノ
あたいはバビューン! ととんだ。どこまでもとべそうな気がした。コーマカンにいたニンギョーツカイがレーム元気ない、っていってた。元気がないのはよくないことだ。すっごくよくないことなのだ。だからあたいはバビューン! とコーマカンからジンジャまでひとっとびするのだ。まっはだ。ちょーまっはだ。あたいは今、ちょーまっはでみずうみのうえをとんでいる。さいきんはあったかくなったから、みずうみのはじっこでカエルを見つけられるかもしれない。でも今はそんなときとはちがう。ジンジャに行くのだ。レームに会うのだ。レームはすきじゃない。でも、レームはあたいとあそんでくれるからきらいじゃない。すきじゃないけどきらいじゃない。でも、レームといっしょにいると楽しいときがおおい。それに、レームといっしょにいるとなんというか、ほんわかする。だからきらいじゃない。すきじゃないよりもきらいじゃないほうがおおい。ちょっとだけ。だからたぶん、すきなのかもしれない。でも、そんなにすきじゃない。どういうことなんだろう? わかんないや。あたいはとぶ。バビューン! ビューン! みずうみはまだおわらない。みずうみはでっかい。あったかいとカエルがでてくるし、いろんなのがでてくるからすきだ。でも、あったかくなるといなくなっちゃうのもいる。レティもまえにいなくなった。たしか10かいくらいねるまえにいなくなった。たぶん10かい。もしかしたらもっとかもしれない。いなくなるのはさみしい。だからあったかいのはきらいだ。あれ? レームとおんなじかもしれない。あったかいのは、すきなんだけどきらい。あ、でも、レームはすきのほうがつよい。あったかいのはどっちかというときらいのほうがつよい。おもいだした! レームはまえに春がなんとか、て言ってた。ずっとずっとまえ。春をどこやったとか言ってたような気がする。よくわかんなかったけど、あそんでくれた。春はあったかい。レームは春がきらい? 「わかったぞ!」あたいはみずうみのちょっとうえでキキッと止まった。ひらめいためーあんに思わず声をだした。「レームはあったかいのがヤなんだ! 春がきらいなんだ!」春はあったかい。だから、やなんだ。元気ないのはそのせいなんだ。あたいはうれしくなった。うれしい。たのしいぞ。カエルをこおらせたときみたいだ。すっごいぞ。これは、すっごい。まってろレーム。あたいが春をやっつけてやる。もしかしたらマリサもかえってくるかもしれない。マリサはずっとまえにいなくなった。そうだ、マリサも春がきらいなんだ。春がきらいだからどっか行っちゃったんだ。あたいはまたバビューン! ととびだした。ちょーまっはで、さっきよりもっとはやく。もっともっとはやく。もっと、もーっとはやく。バビュビューン! ビューン! あとちょっとでみずうみがおわる。
咲夜とレミリアと霊夢
階段のふもとで人形遣いに忠告されたが、咲夜にはなんの問題もないように見うけられた。
咲夜は、霊夢と話すレミリアの片側で立ち、ただじっとしていた。霊夢とレミリアは縁側で腰掛けている。三人は縁側にいた。いや、四人、というべきかもしれない。縁側から敷居をまたげば居間があるのだが、誰かが寝ているようだった。おそらく鬼だろうと咲夜は思う。縁側と居間をさえぎる襖のかげから素足が見えている。たまに思い出したように片足の親指がひくひくと動く。その動きは、生まれたての赤ん坊が両の手を握ったり開いたりするあの動きを連想させる。
霊夢が茶を用意してしまったので、咲夜にはやることがない。ふたりの会話に耳をかたむけ、言葉をかけられれば会話に混じらない程度の控えめな発言をかえした。咲夜は人形遣いの忠告をもう一度よく考えてみることにした。考え、さらに階段をのぼっているときのことを思い返した。
「下手をすれば噛みつかれるかもしれないわ」
神社の階段のふもとで出会った人形遣いはそう言っていた。
いくばくか前。ちょうど、あと少しで鳥居までたどり着くというところだった。
咲夜は階段をのぼりながらその忠告について考えていた。それでも隣をゆく小さな紅い館主の一挙手一投足に気を配ることは欠かさなかった。むろん、咲夜の手には日傘が備わっている。
「やはりわたしは引き返したほうがいいのではないでしょうか」
咲夜はレミリアに、二度目となるその言葉をかけた。
あの人形遣いは、レミリアにではなく咲夜に忠告をしていた。いったいどういうわけかはわからなかった。理解はできないが、一考の価値はありそうだった。
レミリアには咲夜の言っている意味をすぐに理解できたようだった。
「あら、あんな言葉を信じるの? 貴女らしくもない」
「いえ、そういうわけではないのですが」
「確かに噛みつくのは吸血鬼だけではないわ。いろんな噛みつき方がある。噛みつく方法だっていろいろある。使うのは牙だけではない。そうでしょう?」
咲夜にはレミリアの言っていることがすぐに理解できた。
「そのとおりです」
「ただし血を吸うのは吸血鬼だけの特権よ。他は噛みつくだけでなにもできやしない。それとも食いちぎる? いいえ、そんなことはなんの意味もないわ。血を吸うことに比べればね。……つまり、もしも心配しているようなことが起きても平気な顔をしていればいいのよ」
「はい。確かにそのとおりです」
「それに、いま貴女が帰ったら誰がわたしの日傘をさすというの?」
レミリアのあの言葉に救われた、咲夜にはそんな気がした。お嬢様の言葉はいつでもわたしのことを救ってくださる――咲夜はそう思う。それが本意なのか不本意なのかは判断しかねるが、すくなくとも咲夜にとっては救いの言葉に違いなかった。
人形遣いのあの言葉の意図は未だにわからない。目の前で話している巫女は確かに元気がないように見える。だがそれは若い頃に比べて――傍若無人なあの博麗の巫女!――大人しくなっただけではないだろうか。いくらかでも歳をとれば誰だって落ち着く。
だが、咲夜には気になることがあった。霊夢の目だった。咲夜と目を合わせたときのあの目。まず目を合わせようとはしてくれないのだが、たまに合ったときのあの目。重たい水を湛える暗い深海を思わせるようなあの目。深海には光がささない。今のこの霊夢の目には光がささないのだろうか? そこまでは咲夜にはわからない。
ただ。
と咲夜は思う。
ただ、あの目はひどく気に入らない。
いつの間にかに霊夢とレミリアの会話が途絶えていた。咲夜は新しい茶を用意するため、敷居をまたいでいいかどうかを霊夢に問おうとした。が、霊夢が先に口を開いた。その口調は重々しかった。
「ところで」その言葉は咲夜に向けられていたようだったが、霊夢は咲夜と目を合わせない。まるで……そう、卑屈な態度をわざととっているかのようにも見える。咲夜には今、霊夢の多くのことが気に障った。身振りも、口調も。おそらくあの目のせいだ。「どうして歳をとるの?」
つかのま、なにを言っているのか咲夜には見当もつかずぽかんとしてしまっていた。
「それはわたしも聞いてみたいわね」
レミリアが興味津々といった顔で咲夜を見る。
お嬢様もいったいぜんたいなにを言っているのだろう……。
が、はたと気が付く。
時を操る程度の能力。
己の能力のことが念頭になかったのだ。
同時に霊夢が元気のない理由、それから人形遣いが言っていた言葉。すべてに合点がいった。
ああなるほど。そういうこと。
ひとと妖怪、そして時間。
なんと答えたものやら。
「咲夜。正直に答えなさい」
レミリアの言葉。その言葉は、今度は咲夜を救うものではなかった。霊夢を救う――いやどちらかといえば、霊夢を救ってやりなさいということだろうか? 霊夢はそのことに気がつかないだろう。
「理由は言えません。それがお嬢様の命令であろうと」
咲夜は答えた。レミリアからの叱責に心持ち構えた。
「あら、そう。残念ね」
だがレミリアの対応は素っ気なかった。
「だって、その能力があれば」霊夢は縁側にすわったまま、うな垂れた。
その能力があれば。もう一度、霊夢はうな垂れたまま蚊の鳴くような声で呟く。
余程まいってしまっていたのだろうか。あの巫女がここまで……。しかし、それにしてもだ。咲夜は思った。やはりこの態度は好きになれない。巫女もやはり人間だったということだ。
「霊夢」
だが咲夜の小さな主人は心配そうに、霊夢の前にまわり屈みこんだ。咲夜はいたたまれなくなって目を閉じた。
「かえって」と霊夢は言った。ちいさな、しゃくりあげるような声だった。そして今度は大きな声で言う。「かえって!」
「霊夢」
レミリアは引き下がらない。
「かえってってば!」
霊夢は未だうな垂れたままだったが、確固とした拒絶の意思が言葉だけでなくその身体からも感じられた。
「貴女は……!」
咲夜が霊夢とレミリアのあいだに割って入ろうとする。頬がやや赤い。熱を帯びているようだった。
「咲夜」レミリアが咲夜を手で遮った。「帰りましょう」
「ですが、お嬢様」
「咲夜」屈んだままだったレミリアが、凛とした声で従者の名前を口にした。咲夜の目を見る。紅い瞳に射抜かれたかのように、激昂しそうになっていた咲夜は大人しくなった。「帰るわよ」
「……はい」
レミリアは立ち上がり、帰るために霊夢に背を向けた。
「今日のところは帰るわ。冷えてきたしね」
咲夜はつかのまきょとんとした。すぐに気がつくことができなかった。確かに気温がさがっている。咲夜は空を仰いだ。突き抜けるような晴天。そんな馬鹿な。まだ昼を回ったばかりだと言うのに。また新たな異変だろうか。あの亡霊がまた春を集め始めたというのだろうか?
「咲夜。行くわよ」
レミリアはすでに歩き出していた。
「ですが、これは異変なのでは」
「貴女の出る幕じゃないわ」
咲夜は慌てて主人の後を追う。役不足と言われたのかと勘違いをし、少々傷ついた。
「こんな幼稚な……、いいえ、馬鹿みたいな異変は貴女が出るまでもない」
レミリアまで追いついた咲夜はそこで異変の元凶に気がついた。思わず苦虫をかみつぶしたような顔をしてしまう。
それで、簡単に己を取り戻すことができた。
「そうね、白黒あたりが帰ってきて、解決してくれるのが一番お似合いじゃないかしら?」
「ええ、そうですね。お嬢様」
魔理沙
「霊夢」振り返ったレミリアが名前を呼んだ。「出番よ」
霊夢は縁側に座り込んだまま、大儀そうに顔をあげた。そして今寒さに気づいたかのように、両の肩をあげて腕を手でさすった。
朝と変わらぬ、雲ひとつない青い空。あのときは今日一日があたたかくなると予想したのに。いいや、今は朝よりも寒い。
あたりを見渡すと、紅い館の主とその従者の向こうに、その元凶が見えた。ふっと吹き出しそうになる。その一生懸命な姿を見ていると、後継者だの年齢だのと考えていた自分が馬鹿らしく思えてきた。なにが目的かわからないが――もしかしたら何も考えていないのかもしれない――あんなに頑張っていても与えられる影響はほんのささいなもの。その姿はいささか滑稽だった。わたしはなにやってるんだろう。それから従者の姿を見、謝罪するように目を閉じた。そうだ、答えは自分で見つけるべきなのだ。
まったく。はやく帰って来なさいよね、魔理沙。
やはりあの騒がしい真面目な友人がいないというのは寂しいものだった。魔理沙がいないせいで暗くなる……そこまでは言わないし、おそらくそんなことはない。が、少々の原因の一つになっているかもしれないということは認めざるを得なかった。なにより、小さなころからの付き合いなのだ。まわりにいる妖怪同士の付き合いがいったいどれ程の長さのものなのかはわからないが、それに負けないくらいの――
霊夢の背後、居間のほうからくしゃみが聞こえた。霊夢は振り返って小さな鬼を見とめた。寒いのか、顔を歪めている。くしゅんっ、もう一度くしゃみをした。
「博麗の巫女! 博麗霊夢!」レミリアが大声で名前を呼んだ。「異変よ。解決なさい」
「そこのメイドにやらせればいいじゃないの」
霊夢は未だ座ったままで、小さくぼやく。だがレミリアと咲夜はすでに帰るために歩き始めていた。
ふたりの姿が見えなくなると、霊夢は空に浮かぶ異変の元凶をぼんやりと見上げた。その小さな元凶は、顔を真っ赤にして――きっと精一杯なのだろう――冷気を周囲に振りまいていた。
いっぱいいっぱいなんだろ? 魔理沙ならそう言ってやるかもしれない。
「まったく、仕方ないわね」
霊夢はため息をついた。しかしその口元には笑みがあった。
あんなに顔を真っ赤にしたんじゃ、すぐに溶けちゃうじゃないの。
立ち上がる。
背後から三度目のくしゃみが聞こえた。
了
霊夢は鳥居のすぐ内側で落ち葉を掃いていた。集めた落ち葉は敷地の外側へおざなりに掃き出してしまう。本来ならば掃き出した落ち葉やゴミも掃除すべきなのだろうが、最近はとんとそうする気がおきない。
最近というのは嘘になるな。
霊夢は作業を中断してそう思う。もしもこの場合の「最近」という単語が「ここ何年か」も当てはまるのならば嘘とは限らないんだろうけれど。あるいは妖怪たちにとってならば「最近」という単語はこの場合でも「ここ何年か」と言えるかもしれない。きっとそうだろう。しかし少なくとも霊夢にとってはそう言うことはできない。
さわやかな春の朝だった。
まだ冬の冷たさを残す空気はつんと澄んでいて、やわらかな朝の陽ざしが、これから始まる一日があたたかくなるものだと教えてくれる。そろそろ桜のつぼみが開く頃かもしれない。
昨日はあたたかかった。しかし一昨日までは雨が続き、冬が舞い戻ってきたのではないかと思えるような寒さが続いた。
魔理沙がよく言ってたっけ。春になったばかりは冬の最後っ屁があるから気をつけるんだぜ――だとかなんとか。
どちらかといえば霊夢は、春の不調――あるいは冬の逆襲――を憂うより、幽々子の起こした異変を思い返してしまうことのほうが多い。
しばらくのあいだ、霊夢は箒を手に、立ったままぼんやりしていたがやがて作業を再開した。
久しぶりに階段を掃くかどうかと考えていると、その階段をのぼってくる者がいた。アリスだった。
「お邪魔するわよ」
「ええ、どうぞ」
霊夢はアリスを縁側へ案内した。幾度もここに来ているのだから、ご自由にと言って放っておいてもいいのだが、この真面目な旧友はきっと困ってしまうことだろう。
「お茶いれてくるわ」
霊夢はアリスを縁側に座らせると、敷居をまたいで居間にあがった。
「おかまいなく」
霊夢はそんな言葉を背中で受け、まだ居間で眠っている萃香をまたいで台所へ向かった。
火にかけた薬缶をまえに沸騰するのを待っていると、
「寝てばかりね」
とアリスの声が聞こえた。
「え?」
良く聞こえなかったため、霊夢が大声で聞き返す。
「そのこ、寝てるところばっかり見るわ」
「ああ、萃香ね」霊夢は呟くように、そうひとりごちた。続いてアリスにも聞こえるように大きな声で言う。「昨晩は宴会だったの。幽々子と紫が来たわ」
お湯がわいた。アリスがなにか返答したようだったが、薬缶のわいた「ぴぃーっ」という音で聞きとることができなかった。茶の葉を入れた急須にお湯をそそぎ、湯のみを二つ用意し、茶を淹れる。茶のはいった湯のみをそれぞれ盆のうえに乗せる。茶菓子を出すかどうか悩んだが、辞めることにした。
縁側に戻るときも萃香をまたぐ。
「時間がもったいないとか思わないのかしら」湯のみを受け取ったアリスがそう言う。「こんなに寝てばっかりで」
「さあどうかしらね」
霊夢はあいまいに応え、アリスの隣に腰をおろしてから萃香を見た。まだ幼いように見えるその身体は、いつか成長することがあるのだろうか。
妖怪たちを見ていると、時間とは無限にあるものなのだと信じてしまいそうになる。己自身の時間は有限だということを忘れてしまいそうになる。いや、違う。忘れたいだけだ。忘れてしまったことなど一度たりともない。ここ最近では特に。
霊夢とアリスは長いあいだ縁側に座ったままで黙っていた。もう何年もの付き合いだ、無言でいることに苦痛はなくなっていた。ときたま喧しい音楽が聞こえてきたり、争っているような騒音が遠くから聞こえてきたりはしたが、ふたりは静寂を楽しんだ。気が向けば一言ふたこと会話をし、ほほえみ、あきれ、風のない日の夏の雲のように、ゆったりと時は過ぎていった。
やがて陽の高さも頂上に達するかという頃、アリスは立ち上がった。
「そろそろ帰るわ」
「そう」
霊夢は昼食を一緒にどうかと進めたがアリスは丁寧にことわった。
霊夢は鳥居までアリスを見送った。別れの挨拶を済ませた後、階段を降りようとしたアリスに、霊夢は訪ねた。
「まだ魔理沙をさがしているの?」
アリスが振り返った。
朝、掃除をしているときには気がつかなかったが、空には雲ひとつなかった。アリスの背後には幻想郷の広大な青い空が広がっている。今日は快晴のようだった。アリスはなかなか応えない。応え方を探しあぐねているようにも見えた。が、やがて口をひらいた。
「そうね。暇なときにね」
そう言って踵を返し、階段を降りていく。
霊夢は縁側に戻ると座り込んだ。すぐにお茶を淹れるために立ち上がりかけたが、思いなおしてふたたび座り込んだ。肩越しにまだ居間で眠っている萃香を見る。歳をとることを忘れているかのような彼女の身体を、陽光がつつんでいる。毛布がずれ落ちているが、きっと寒くはないのだろう。随分気持ち良さそうにしている。見ているあいだ一度だけ鼻をひくひくとさせ、くしゃみを我慢しているように顔を歪めた。霊夢は立ち上がり、ずれていた毛布をなおしてやった。
魔理沙は唐突にいなくなった。何者かに殺されたという者もいれば、刺激を求めて幻想郷の外に旅立ったという者もいる。霊夢は後者だと思っている。
アリスは魔理沙をさがしている。いいや、きっとアリスだけじゃない。霊夢自身もさがしたい気持ちはあった。だが自分自身にとっても見つけなければならないものがある。特にそれはここ何年かよく考えることだった。考えては、鬱屈としてしまう。
後継者。
霊夢は自分の年齢を考える。歳だけ無駄にとってしまったように感じられる。大人になった気はしない。まだ慌てる歳ではないかもしれないが、後継者のことは考えなくてはならない。
霊夢は萃香を見た。口を大きく開き、間抜けな面をしている。
幻想郷のほとんどの者とは異なる、己の時間の経ち方が怨めしかった。
アリスと美鈴
「おや、アリスさんじゃないですか」
「こんにちは」
「こんにちは。いい天気ですね」
「ええ。こんなに陽気だと雇い主が不満に思うのでは?」
「お嬢様は陽の光なんて目じゃありません」
「それは頼もしいわね。そこの氷精にとってはどうかしら?」
「あたい、べつにへーきだよ」
「それは良かったわ。二人で遊んでたの?」
「うん。めーりんはわるものなんだよ。イヘンをおこすの。だからあたいがやっつけるの。イヘンをカイケツするの」
「そう。頑張ってね」
「門の前からは動いていませんからね」
「そんな心配はしてないわ」
「ところで今日はどういったご用件で?」
「パチュリーに会いに来たのだけれど」
「ややっ、また例の密談ですね」
「密談だなんて大袈裟よ。ただの魔法についての談議にすぎないわ」
「いやはや、貴方がたには『ただの』だとしても、それが魔法とくるならば、私のような者にとっては言葉が自動で『とんでもない』に変化するんですよ」
「『とんでもない魔法の密談』?」
「そうなりますね」
「『ただの魔法の密談』よりは、魔理沙だったら喜びそうね」
「『とんでもない』より凄そうですもんね。文字通り飛んで帰ってきますよ」
「そうなるといいわね」
「きっと、そうなります」
「そうね。ところで、さきほどこちらの館主と従者にあったのだけれど」
「お嬢様と咲夜さんですね。おふたりとも、博麗の神社へ向かわれました」
「ええ。神社の階段の麓で会ったわ。よく行くの?」
「うーん。今日は久し振りだと言っていましたけれど……。それがなにか?」
「あまり行かせないほうがいいかもしれないわよ。特にあのメイドのほうね」
「咲夜さんですか。それはどうしてでしょう?」
「近頃、霊夢の調子が悪いのよね」
「体調でも崩されたんですか?」
「体調というより、気持ちの問題ね。元気がないというかなんというか……」
「悩んでいるんでしょうか」
「どうしようもないことで悩んでいるのよ。わたしや貴方にはわかってやれないことで」
「はあ、なるほど」
「わかったのかしら」
「こういうときはいつでも『なるほど』と言おうと決めているんです」
「貴女もつかみどころのない人ね」
「おっしゃる意味がわかりませんな」
「まあいいわ。それより、さっきの氷精はどこにいったのかしら」
「あら?」
チルノ
あたいはバビューン! ととんだ。どこまでもとべそうな気がした。コーマカンにいたニンギョーツカイがレーム元気ない、っていってた。元気がないのはよくないことだ。すっごくよくないことなのだ。だからあたいはバビューン! とコーマカンからジンジャまでひとっとびするのだ。まっはだ。ちょーまっはだ。あたいは今、ちょーまっはでみずうみのうえをとんでいる。さいきんはあったかくなったから、みずうみのはじっこでカエルを見つけられるかもしれない。でも今はそんなときとはちがう。ジンジャに行くのだ。レームに会うのだ。レームはすきじゃない。でも、レームはあたいとあそんでくれるからきらいじゃない。すきじゃないけどきらいじゃない。でも、レームといっしょにいると楽しいときがおおい。それに、レームといっしょにいるとなんというか、ほんわかする。だからきらいじゃない。すきじゃないよりもきらいじゃないほうがおおい。ちょっとだけ。だからたぶん、すきなのかもしれない。でも、そんなにすきじゃない。どういうことなんだろう? わかんないや。あたいはとぶ。バビューン! ビューン! みずうみはまだおわらない。みずうみはでっかい。あったかいとカエルがでてくるし、いろんなのがでてくるからすきだ。でも、あったかくなるといなくなっちゃうのもいる。レティもまえにいなくなった。たしか10かいくらいねるまえにいなくなった。たぶん10かい。もしかしたらもっとかもしれない。いなくなるのはさみしい。だからあったかいのはきらいだ。あれ? レームとおんなじかもしれない。あったかいのは、すきなんだけどきらい。あ、でも、レームはすきのほうがつよい。あったかいのはどっちかというときらいのほうがつよい。おもいだした! レームはまえに春がなんとか、て言ってた。ずっとずっとまえ。春をどこやったとか言ってたような気がする。よくわかんなかったけど、あそんでくれた。春はあったかい。レームは春がきらい? 「わかったぞ!」あたいはみずうみのちょっとうえでキキッと止まった。ひらめいためーあんに思わず声をだした。「レームはあったかいのがヤなんだ! 春がきらいなんだ!」春はあったかい。だから、やなんだ。元気ないのはそのせいなんだ。あたいはうれしくなった。うれしい。たのしいぞ。カエルをこおらせたときみたいだ。すっごいぞ。これは、すっごい。まってろレーム。あたいが春をやっつけてやる。もしかしたらマリサもかえってくるかもしれない。マリサはずっとまえにいなくなった。そうだ、マリサも春がきらいなんだ。春がきらいだからどっか行っちゃったんだ。あたいはまたバビューン! ととびだした。ちょーまっはで、さっきよりもっとはやく。もっともっとはやく。もっと、もーっとはやく。バビュビューン! ビューン! あとちょっとでみずうみがおわる。
咲夜とレミリアと霊夢
階段のふもとで人形遣いに忠告されたが、咲夜にはなんの問題もないように見うけられた。
咲夜は、霊夢と話すレミリアの片側で立ち、ただじっとしていた。霊夢とレミリアは縁側で腰掛けている。三人は縁側にいた。いや、四人、というべきかもしれない。縁側から敷居をまたげば居間があるのだが、誰かが寝ているようだった。おそらく鬼だろうと咲夜は思う。縁側と居間をさえぎる襖のかげから素足が見えている。たまに思い出したように片足の親指がひくひくと動く。その動きは、生まれたての赤ん坊が両の手を握ったり開いたりするあの動きを連想させる。
霊夢が茶を用意してしまったので、咲夜にはやることがない。ふたりの会話に耳をかたむけ、言葉をかけられれば会話に混じらない程度の控えめな発言をかえした。咲夜は人形遣いの忠告をもう一度よく考えてみることにした。考え、さらに階段をのぼっているときのことを思い返した。
「下手をすれば噛みつかれるかもしれないわ」
神社の階段のふもとで出会った人形遣いはそう言っていた。
いくばくか前。ちょうど、あと少しで鳥居までたどり着くというところだった。
咲夜は階段をのぼりながらその忠告について考えていた。それでも隣をゆく小さな紅い館主の一挙手一投足に気を配ることは欠かさなかった。むろん、咲夜の手には日傘が備わっている。
「やはりわたしは引き返したほうがいいのではないでしょうか」
咲夜はレミリアに、二度目となるその言葉をかけた。
あの人形遣いは、レミリアにではなく咲夜に忠告をしていた。いったいどういうわけかはわからなかった。理解はできないが、一考の価値はありそうだった。
レミリアには咲夜の言っている意味をすぐに理解できたようだった。
「あら、あんな言葉を信じるの? 貴女らしくもない」
「いえ、そういうわけではないのですが」
「確かに噛みつくのは吸血鬼だけではないわ。いろんな噛みつき方がある。噛みつく方法だっていろいろある。使うのは牙だけではない。そうでしょう?」
咲夜にはレミリアの言っていることがすぐに理解できた。
「そのとおりです」
「ただし血を吸うのは吸血鬼だけの特権よ。他は噛みつくだけでなにもできやしない。それとも食いちぎる? いいえ、そんなことはなんの意味もないわ。血を吸うことに比べればね。……つまり、もしも心配しているようなことが起きても平気な顔をしていればいいのよ」
「はい。確かにそのとおりです」
「それに、いま貴女が帰ったら誰がわたしの日傘をさすというの?」
レミリアのあの言葉に救われた、咲夜にはそんな気がした。お嬢様の言葉はいつでもわたしのことを救ってくださる――咲夜はそう思う。それが本意なのか不本意なのかは判断しかねるが、すくなくとも咲夜にとっては救いの言葉に違いなかった。
人形遣いのあの言葉の意図は未だにわからない。目の前で話している巫女は確かに元気がないように見える。だがそれは若い頃に比べて――傍若無人なあの博麗の巫女!――大人しくなっただけではないだろうか。いくらかでも歳をとれば誰だって落ち着く。
だが、咲夜には気になることがあった。霊夢の目だった。咲夜と目を合わせたときのあの目。まず目を合わせようとはしてくれないのだが、たまに合ったときのあの目。重たい水を湛える暗い深海を思わせるようなあの目。深海には光がささない。今のこの霊夢の目には光がささないのだろうか? そこまでは咲夜にはわからない。
ただ。
と咲夜は思う。
ただ、
いつの間にかに霊夢とレミリアの会話が途絶えていた。咲夜は新しい茶を用意するため、敷居をまたいでいいかどうかを霊夢に問おうとした。が、霊夢が先に口を開いた。その口調は重々しかった。
「ところで」その言葉は咲夜に向けられていたようだったが、霊夢は咲夜と目を合わせない。まるで……そう、卑屈な態度をわざととっているかのようにも見える。咲夜には今、霊夢の多くのことが気に障った。身振りも、口調も。おそらくあの目のせいだ。「どうして歳をとるの?」
つかのま、なにを言っているのか咲夜には見当もつかずぽかんとしてしまっていた。
「それはわたしも聞いてみたいわね」
レミリアが興味津々といった顔で咲夜を見る。
お嬢様もいったいぜんたいなにを言っているのだろう……。
が、はたと気が付く。
時を操る程度の能力。
己の能力のことが念頭になかったのだ。
同時に霊夢が元気のない理由、それから人形遣いが言っていた言葉。すべてに合点がいった。
ああなるほど。そういうこと。
ひとと妖怪、そして時間。
なんと答えたものやら。
「咲夜。正直に答えなさい」
レミリアの言葉。その言葉は、今度は咲夜を救うものではなかった。霊夢を救う――いやどちらかといえば、霊夢を救ってやりなさいということだろうか? 霊夢はそのことに気がつかないだろう。
「理由は言えません。それがお嬢様の命令であろうと」
咲夜は答えた。レミリアからの叱責に心持ち構えた。
「あら、そう。残念ね」
だがレミリアの対応は素っ気なかった。
「だって、その能力があれば」霊夢は縁側にすわったまま、うな垂れた。
その能力があれば。もう一度、霊夢はうな垂れたまま蚊の鳴くような声で呟く。
余程まいってしまっていたのだろうか。あの巫女がここまで……。しかし、それにしてもだ。咲夜は思った。やはりこの態度は好きになれない。巫女もやはり人間だったということだ。
「霊夢」
だが咲夜の小さな主人は心配そうに、霊夢の前にまわり屈みこんだ。咲夜はいたたまれなくなって目を閉じた。
「かえって」と霊夢は言った。ちいさな、しゃくりあげるような声だった。そして今度は大きな声で言う。「かえって!」
「霊夢」
レミリアは引き下がらない。
「かえってってば!」
霊夢は未だうな垂れたままだったが、確固とした拒絶の意思が言葉だけでなくその身体からも感じられた。
「貴女は……!」
咲夜が霊夢とレミリアのあいだに割って入ろうとする。頬がやや赤い。熱を帯びているようだった。
「咲夜」レミリアが咲夜を手で遮った。「帰りましょう」
「ですが、お嬢様」
「咲夜」屈んだままだったレミリアが、凛とした声で従者の名前を口にした。咲夜の目を見る。紅い瞳に射抜かれたかのように、激昂しそうになっていた咲夜は大人しくなった。「帰るわよ」
「……はい」
レミリアは立ち上がり、帰るために霊夢に背を向けた。
「今日のところは帰るわ。冷えてきたしね」
咲夜はつかのまきょとんとした。すぐに気がつくことができなかった。確かに気温がさがっている。咲夜は空を仰いだ。突き抜けるような晴天。そんな馬鹿な。まだ昼を回ったばかりだと言うのに。また新たな異変だろうか。あの亡霊がまた春を集め始めたというのだろうか?
「咲夜。行くわよ」
レミリアはすでに歩き出していた。
「ですが、これは異変なのでは」
「貴女の出る幕じゃないわ」
咲夜は慌てて主人の後を追う。役不足と言われたのかと勘違いをし、少々傷ついた。
「こんな幼稚な……、いいえ、馬鹿みたいな異変は貴女が出るまでもない」
レミリアまで追いついた咲夜はそこで異変の元凶に気がついた。思わず苦虫をかみつぶしたような顔をしてしまう。
それで、簡単に己を取り戻すことができた。
「そうね、白黒あたりが帰ってきて、解決してくれるのが一番お似合いじゃないかしら?」
「ええ、そうですね。お嬢様」
魔理沙
「霊夢」振り返ったレミリアが名前を呼んだ。「出番よ」
霊夢は縁側に座り込んだまま、大儀そうに顔をあげた。そして今寒さに気づいたかのように、両の肩をあげて腕を手でさすった。
朝と変わらぬ、雲ひとつない青い空。あのときは今日一日があたたかくなると予想したのに。いいや、今は朝よりも寒い。
あたりを見渡すと、紅い館の主とその従者の向こうに、その元凶が見えた。ふっと吹き出しそうになる。その一生懸命な姿を見ていると、後継者だの年齢だのと考えていた自分が馬鹿らしく思えてきた。なにが目的かわからないが――もしかしたら何も考えていないのかもしれない――あんなに頑張っていても与えられる影響はほんのささいなもの。その姿はいささか滑稽だった。わたしはなにやってるんだろう。それから従者の姿を見、謝罪するように目を閉じた。そうだ、答えは自分で見つけるべきなのだ。
まったく。はやく帰って来なさいよね、魔理沙。
やはりあの騒がしい真面目な友人がいないというのは寂しいものだった。魔理沙がいないせいで暗くなる……そこまでは言わないし、おそらくそんなことはない。が、少々の原因の一つになっているかもしれないということは認めざるを得なかった。なにより、小さなころからの付き合いなのだ。まわりにいる妖怪同士の付き合いがいったいどれ程の長さのものなのかはわからないが、それに負けないくらいの――
霊夢の背後、居間のほうからくしゃみが聞こえた。霊夢は振り返って小さな鬼を見とめた。寒いのか、顔を歪めている。くしゅんっ、もう一度くしゃみをした。
「博麗の巫女! 博麗霊夢!」レミリアが大声で名前を呼んだ。「異変よ。解決なさい」
「そこのメイドにやらせればいいじゃないの」
霊夢は未だ座ったままで、小さくぼやく。だがレミリアと咲夜はすでに帰るために歩き始めていた。
ふたりの姿が見えなくなると、霊夢は空に浮かぶ異変の元凶をぼんやりと見上げた。その小さな元凶は、顔を真っ赤にして――きっと精一杯なのだろう――冷気を周囲に振りまいていた。
いっぱいいっぱいなんだろ? 魔理沙ならそう言ってやるかもしれない。
「まったく、仕方ないわね」
霊夢はため息をついた。しかしその口元には笑みがあった。
あんなに顔を真っ赤にしたんじゃ、すぐに溶けちゃうじゃないの。
立ち上がる。
背後から三度目のくしゃみが聞こえた。
了
IEだとそうでは無いようですが。
それ以外、特にチルノの独白はとても可愛らしく、上手いと思いました。
もっと話を膨らませれば更にいい作品になりそうなので、次作を待ってます。
界隈の四重結界が悉く崩壊してしまってはどうしようもないねぇとやっぱり諦めざるを得ないやるせなさ。
まで読みました