魔理沙の明るい返本計画
今日も紅魔館に黒白魔法使いがやって来た。
サンタのごとく大きな白い袋を背負い、サンタとは逆に物を盗っては煙突やら窓やら門やらから逃げ出していく。
正門から侵入するならば美鈴相手に多少もたつくのだけど、あいにく魔理沙は大抵裏口からやってくる。かといって美鈴を裏口に配置したら今度は正門から入ってくるのだからどうにもならない。
そしてこそこそするでもなく、堂々と館内を歩き回っていけしゃあしゃあと使用人などと挨拶を交わし、目的地であるこの大図書館に辿り着くのだ。
「じゃ、借りてくぜ」
紅霧異変以降、この大図書館の存在を知って盗み出してからは味を占めたのか、一ヶ月に十回以上やって来てはこうして本を盗んでいく。
「盗むとは人聞きが悪いな。借りてくだけだぜ。どうせお前らに比べれば私達人間の寿命なんて一瞬みたいなもんだ。私が死んでから回収すればいいだろう」
魔理沙は決まってそう言うのだった。
確かに私のような魔法使いからしたら人間の彼女の寿命は一瞬みたいなものかもしれない。
しかし例えばレミィは五百年ほど生きているけど、私はまだ百年かそこらしか生きたことは無いのだから、八十年程の人間の寿命が一瞬かと言われればどうも微妙な話である。
それに、死んだら回収すればいい、というのは結局はあいつの生きている間は好き勝手にするということではないか。
本当に勝手な奴。それももう慣れっことなってしまったけれど。
「このクッキー美味いな」
大図書館に入ってすぐにある白く大きな円卓。普段は私が本を読みふけ、おそらく人生で最も長く過ごしたこの場所で、魔理沙はよくここの本を読みながら私と一緒にお茶を飲む。
盗られると分かっていてお茶を出す方も出す方だけど、来たのなら客にお茶は出すべきだろう。それとこれとはまた別の話だ。
見ると、魔理沙の前には大抵三つの本の山ができており、向かって右から、今から読む本、借りていく本、借りていかない本、と分けられている。
ちゃんと試し読みしてから選別し持っていくのだ。律儀なのかちゃっかりしてるのか狡いのか。
それに最近分かったことだけど、魔理沙の盗っていく本にはある法則があることが分かる。
私が本気で持っていかれたら嫌だという物は借りていかないのだ。
既に私が読んだことのある、しかもそれほど危険でもない魔法書を借りていく。
だから私も本気で止めないで今まで魔理沙の窃盗がまかり通る結果となっている。
ぎりぎり絶妙の距離のとり方、世渡りの仕方、と言えばいいのだろうか、おそらく他の場所でも同じようにやっているのだろう。本当に性質の悪い魔法使いね。
今日も魔理沙が盗っていこうとする本を私は眺めて、その全てが別に借りていかれても問題はないことを確認した。いや本を持っていかれて良いわけではないのだけど。
そして隣の持っていかない本の山を見ると、興味が無いのか魔理沙の選考落ちとなった魔法書と、そしてある程度危険な魔法書が積まれている。
強力な魔法に魔理沙が興味の無いわけがないだろうけど、おそらく私に本気で止められることを分かっているのだろう、持っていこうとはしない。
ちょっとは私にも威厳があるということかしら。いや、この魔理沙がそんなもの気にするかは分からないけど。
そして私達は何もただ本を読んでいるだけではない。
そうして本を開きながらも、魔理沙は魔法についてや、神社の宴会の途中で賽銭箱が壊れて霊夢が怒ったとかどうでもいい日常に関して雑談を続け、私は適当に相槌を打って応じてやる。
日常については私が何か言うことは特にないけど、魔法に関しては時として論を戦わせることもある。というより、魔理沙もそれを楽しみにここに来ている節がある。
魔理沙は魔法に関しては私に比べて全然知識も少ないので論戦でもほとんど私の勝ち続きだけど、妙に勘が鋭く、時としてはっとする指摘をされることがある。そしてそれ以来、私も気を抜かずに論に応じるようになっていた。
こんな風に論を戦わせるのは久しぶりかもしれない。少なくとも幻想郷に来てからは無かったと記憶している。
そして魔理沙が来るようになってから私の読む本の種類が少々変わった。今まであまり興味の無かったジャンルにも手を伸ばし、どんな論を挑まれても切り返せるように準備をしておく。
懐かしい、私がまだ未熟で勉強に明け暮れていた頃のような感覚。それを少し楽しみにしている自分がいる。
私も丸くなったものね。
そしていつもと変わらぬある日のこと、魔理沙が図書館に入り浸っていくらか時間が過ぎると、やがて取り留めの無い会話も終わり、物色も終了したのか、魔理沙は白い麻袋に本をせっせと詰め始めた。
「あんたね、住人の目の前で堂々と盗みやってんじゃないわよ」
「借りてくだけだぜ」
「死んだときに返すんでしょ?」
「そういうことだ」
「精々早死にするといいわ」
「へへ、そうはいかないぜ」
「まったく……」
魔理沙は意気揚々と図書館を後にした。
時々弾幕勝負をしたりもするけど、今日は気分ではない。そのまま行かせることにした。
静かになってほっとため息をつき、クッキーに手を伸ばそうとしてとっくに全て平らげられていることに気づく。本当に図々しい奴。
「えへへ、パチュリー様」
本の整理をしてくると言ってどこかへ行っていた小悪魔がやけにしたり顔でやって来た。
こいつは魔理沙が来るとよく用事を思い出す。
「どこに行ってたのよ。おかげで魔理沙に本を盗られたわ」
「またまたあ。別に盗られてもいいって思ってらっしゃるじゃないですか」
「そんなことは一度も思ったことが無いわ」
「いやいや」と小悪魔はにやけた顔を横に振る。
「隠したって分かりますよ? 何年の付き合いだと思ってるんですか。パチュリー様は本当に魔理沙さんのことがお気に入りなんですから。この図書館の本をパチュリー様がどれだけ大切にしてるのか私には分かってますよ。誰かに貸すなんて普通そんなありえな……」
「小悪魔、今度魔理沙が来たら弾幕勝負で応戦しなさいね」
途端、小悪魔はぎょっと目を見開いて後ずさった。
「む、無茶言わないでくださいよ! 私クナイ弾と大玉しか吐けないんですよ!? スペカもないんですよ!?」
「大丈夫出来る出来るやれば出来る」
「滅茶苦茶投げやりじゃないですか! 本読みながらこっち向いてすらないし!」
小悪魔の抗議を無視し、私は黙々と本を読み続ける。本を開いた時の私の集中力は並外れており、外部の声を全て遮断することも容易だ。
小悪魔もそれが分かっているのか、やがて諦めた様子で嘆息し去っていく。
「素直じゃないんだから……」
何故か、去り際の声だけが私の耳に届いた。
私は人知れず嘆息する。
何を言っているのか。本当に、馬鹿馬鹿しい。
お気に入り? 魔理沙が?
馬鹿を言ってはいけない。
あいつは勝手にここに来て勝手に話して勝手に本を盗っていく迷惑な泥棒だ。それほど邪魔にならないから放っておいているだけであって、他の誰でも変わらない。
本を借りていくにしても盗っていくにしても、消息を絶つわけでもなくずっとここに通っていて、取り返すアテがあるからそのままにしているだけのことだ。
他の誰かが魔理沙と同じようなことをするとしても私の対応は変わらない。小悪魔の言うことは的外れに他ならない。
私は本を読む。
そうして捲ってみたはいいのだけど、その日はどうにも集中できずに一度読んだ部分をもう一度読み直すことが多かった。普段であれば一度読めば一字一句つぶさに記憶することが出来るというのに。
小悪魔が余計なことを言う所為か。司書としての能力を買って置いているのだけど、魔界に返品してやろうか。
私は本を閉じ、呆れたように嘆息し、背もたれに体重をかけて高い天井を眺めた。
「ごほっ」
ああ、そういえば喘息が。
魔理沙がいるとやかましくて騒々しくて、私は咳をするのも忘れてしまうのだ。
あの人間といて良いことなどそれくらいだ。他は本当に厄介な存在なのだ。霧雨魔理沙という人物は。
「ごほっ」
広大な図書館に、私の咳が時折微かに響いていた。
「あなた、本物の魔法使いになる気はないの?」
ある日のこと、私は魔理沙に問いかけたことがある。魔理沙の普段の魔法のセンスの良さを鑑みればそれも十分可能であると思ったのだ。
そしてその事を切り出したとき、私は傍に小悪魔がいないのになんだかほっとした。何故ほっとするのかは分からないけど、あの子がいたらきっと意地の悪い笑みを浮かべるような、そんな気がした。
そして私の問いに対し、魔理沙は割りと時間をおかずに首を横に振ったのだ。
「いいや。私は人間が性に合ってる。その方が私らしいしな」
なんだそれは。
魔理沙の言わんとすることは完全に理解は出来なかったけど、なんとなく分かる気もした。
人間だから霧雨魔理沙という存在があるのだろう。咲夜がレミィの誘いを頑なに断って人間でいるのと同じことなのだろう。
だからそれ以上追求はしなかった。というより、それ以上の追求は私の中の何かが猛烈に反対していた。
そんなまるで魔法使いになることを、寿命を延ばしてくれることを望むようなのは、そう、私らしくない。そんなことを、自分の中の厳格な何かに諭された気がした。
だからそれ以来、私がその話題を出すことは無かった。魔理沙も何も言わなかった。
時は、流れた。
幻想郷では数々の異変が次から次へと起きては解決されていき、魔理沙はそれからも何度も何度も私の所にやって来ては本を物色してお茶を飲んで他愛ない話をして帰って行って。
何年も何年もそれが続いてそれが普通になって日常に溶け込んで。
でも魔理沙の顔立ちは思ったより早くに変わっていって、大人びてきたと思ったら目尻に僅かな皺を見つけて、その時は私も少なからず衝撃を受けたものだ。魔理沙自身に言われたとおり、本当に、人間の成長はあっという間だ。
昔の人形のように綺麗な魔理沙を思い出すたび、私は意味も無く平静を冷静で押し潰して眉一つ動かさないことを装っていた。やはり美しいものが失われていくのは誰でも心痛めるものなのだろう。
しかしそれからも私達の関係に変わりは無かった。
魔理沙は図書館にやって来て私と本を読んで本を借りていって。
本も生物も全てが動かない図書館に吹き荒れる数少ない変化。
霧雨魔理沙。または、一日一回は顔を見せる十六夜咲夜。
彼女達そのものが、時を刻む依り代だった。
時計そのものと言ってもいい。
ふと見かけるたびに時間の流れを思い知らされる。
一方の博麗霊夢。
彼女はほとんどここには来ないので、たまに参加する宴会くらいでしか会う機会はないけど、彼女も同じく歳を重ねていたようだ。
これも時の流れの必然か、やがて博麗の巫女に後継者が出来たのだ。
その時の大騒ぎようと言ったら筆舌に尽くせない有様だった。
博麗神社が妖怪神社と噂されるようになってから初めての後継者。
妖怪共が飲めや歌えやの大宴会を繰り広げ、いーからいーからいてくれるだけでいいからとレミィと魔理沙に無理やり私も駆り出されて隅っこで本を読んでいたけど、流石の私でもとても集中して読める喧騒ではなかった。やかまし過ぎる。
ふと見ると、後継者の女の子は、どこから連れてきたのか知らないけどどことなく霊夢に似ていた。
妖怪たちに囲まれて眼を丸くしていたけど、やがて笑顔が見え、雰囲気に乗ってころころと笑っていた。
霊夢に似てなかなか図太い娘だ。あれなら上手くやっていけるかもしれない。
そして宴もたけなわとなり、何か妙な空気を感じ取ってふと顔を上げると、目を疑う事態が起きていた。
妖怪たちの何人かが泣いていた。
私もぎょっとして目を見開いたものだ。いつも豪胆な妖怪が泣くなどと普通ではありえない。
会場がしんと静まり返り、泣きじゃくる彼女らに注目する。
「霊夢う……後継者なんてまだ早いよ……」
萃香は涙を拭いながらそう言った。彼女の感情が伝播したようにその場の妖怪たちもしんと静まり返る。
一番戸惑っていたのは霊夢だった。突然の湿っぽい雰囲気に、居並ぶ妖怪たちを焦った様子できょろきょろと見やっている。
訳が分からない、という様子だ。
「ちょ、ちょっと? 一体どうしたのよ」
「だって、だってえ……」
彼女らの気持ちくらい私にも分かった。
後継者を作るということは、終わりが見えるということ。
博麗霊夢はやがていなくなるということ。
死んでしまうのだ。彼女は人間だから。
後継者を作ったことによってやがて訪れる事実を思い知らされ、まるでもうすぐに霊夢がいなくなってしまう、そんな気がして、彼女達は泣いているのだろう。
私はどうせそんな感情を持つことは無いだろうけれど、彼女らの気持ちを理解することは出来る。そこまで私は鈍感ではない。
もっと一緒にいて欲しい。
だってこんなに楽しいから。
博麗霊夢。
幻想郷の中心に彼女はいるというのに、彼女は自分の人生の終わりを見据えている。
やめてほしい、終わろうとなどしないでほしい、終わりを考えることすらやめてほしい。
そういうことなのだろう。
「あ、あのねえ……」
霊夢は珍しく頬を朱に染めてたじろいでいた。助けを求めるように魔理沙を見ても、にやけた笑みを浮かべて肩をすくめられるだけだ。他の者も同様だった。
「ああもう……」
霊夢はがしがし乱暴に髪を引っ掻いた。赤いリボンがいくらか崩れる。
「精々長生きしてやるから。だからそんな泣かないでよ、もう」
「ほんど?」
「ほんとのほんと。まったく場が白けちゃったじゃないの。こんな辛気臭いのは葬式だけにしてほしいわね。あははーはは……」
誰も笑わず、盛大に滑っていた。
霊夢というのは本当に自分がどれだけ他人から好かれているのか自覚が無いらしい。私が見てもそれは明らかだというのに。
毎日のように神社に集う連中は、単に飲みたいだけじゃなく、皆あんたが好きだから来てるのよ。
寄っていけば霊夢に等しく邪険に扱われるのが分かっていて、それが嬉しく嬉しくてたまらない変態共なのよ。
それにも気づかず、本当に霊夢は鈍感な奴ね。
「パチュリー様も人のこと言えないと思いますけど……」
小悪魔が何かぽそっと言ったけどよく聞き取れなかった。
きっと例によって何かろくでもない事を口にしたのだろう。
こういう時の小悪魔の言葉は不愉快になることが多く、無視するに限る。
「はは……」
やがて誰かが笑い声をあげた。
それがあっという間に周囲に伝染していって、大きな笑い声が一つのうねりとなってのた打ち回り始めた。
ある者は腹を抱え、ある者は目尻から涙を滲ませ、大口を開けて笑い続ける。
「え……ええ?」
その中心にいる霊夢はわけが分からない様子で疑問符を浮かべていた。
とりあえずギャグが滑って恥ずかしいことをしたのは分かるらしい、一層顔を紅潮させている。
場が和んだことは和んだんだからいいとは思うけど。
霊夢はふと振り返り、幼い後継者まで口元を押さえ笑っているのに愕然としていた。
それを見て私は思う。
いい根性をしている。次の博麗の巫女もうまくやれるわね。だって魑魅魍魎の中でこんなに笑っていられるんだもの。
というかなんで私が安心してるのかしら、関係ないのに。
笑い声は長く続き、そのままいつの間にか宴会が再開していた。
幼い博麗の巫女に酒を飲ませようとする阿呆を霊夢が叩き出すのを見て笑ったり、例のごとく妹紅と輝夜を煽り弾幕勝負をけしかけて上空で繰り広げられるそれを眺めていたり、各所で飲み比べが行われては倒れて永琳が呼ばれていたり、そんないつもと変わらない騒ぎの中に私は身を置き、あまりに騒々しいのでどこか心地よさまで感じていた。
激しい流れの中でぼんやりたゆとうような感覚。
ただ風に身を任せて飛んでいくような高揚感。
帰ったら魔法書を書こう。
こんな時は次から次へとアイデアが沸いて来るのだ。
今なら魔法の真理の裏と頂点を容易く結び合わせることも出来る気がする。
余り飲まない酒を口に運びながら、私はどんな顔をしていたのだろう、魔理沙と目が合い、にかっと満足そうに笑いかけられた。小悪魔もにやにや嬉しそうな笑みを浮かべている。
私は途端、むっと眉を寄せた。
何かしら。
私はどんな顔をしていたのかしら。
馬鹿馬鹿しい。
酒を煽るように飲むと、ちょっとむせた。
それから一月も経たない内のことだった。
似たような事件が起きたのだ。
また人間に関することである。
うちのメイド長、十六夜咲夜のこと。
おそらく霊夢が後継者を作ったことに影響されたのだろう、咲夜も次のメイド長候補を出来れば人間の中から紅魔館へ招きたいと言い出した。
後継者はともかく、何故人間でなければならないのか。
聞いてみたら、咲夜はこう言った。
「パチュリー様、自分で言うのもなんですが、紅魔館のメイド長というのは大変重要な仕事です。お嬢様のお世話から掃除から、一切の手抜きは認められません。そして妖怪というのは寿命が長い分、何かとおろそかにしがちです。だらだら怠惰に生きていると言ってもいいでしょう。そんな輩にメイド長という重大かつ肝要な仕事を任せるわけにはいきません。きっとボロが出るに決まってます。しかし人間であれば短期決戦短期集中、ロウソクが一時だけ一気に燃え上がるように猛烈に働くことでしょう。ですからメイド長は人間のほうがいいのです。そのまた次の後継者にも人間を選ぶよう教えますわ」
紛れも無い妖怪に向かってよくもまあいけしゃあしゃあとボロクソ言ったものだ。
咲夜というのはそういう人物なので気を悪くすることも無かったけど(咲夜もそれが分かっていたのだろう)。
いいんじゃない? 後継者。好きにやって頂戴。
しかしそうした後継者を選びたいという咲夜の訴えに対し、レミィは猛烈に憤慨したのだった。
「馬鹿な! 何を馬鹿なことを言ってるのかしらこの子は! 本当に、馬鹿。メイド長はねえ、あなたがやって来てから作られたポジションなのよ? あなたのために! 私が! 作ったものなのよ。私が与えたものなのよ。それを何? 他の誰かに譲りたい? そんな勝手が通るわけが無いでしょう! あなた今何歳? 三十八? 五十年も生きてない小娘が分かったような口を利くんじゃないわよ! メイド長はあなた! 後にも先にもあなた一人よ! 分かったら馬鹿なことを言わずに仕事に戻りなさい!」
あまりの剣幕に、咲夜はもう何も言い返せずに引き下がるしかなかったという。
あんなレミィを見るのは初めてですと、すっかり意気消沈した様子で事の顛末を私に説明しつつ、彼女は実に不思議そうに首をかしげていたものだ。
「どうしてお嬢様はあそこまで怒ったのでしょうか……」
それを聞き、私は大いにため息を付いた。
おおいお前もか。
霊夢と同じか。
人間というのは皆等しく鈍い奴ばかりなのか。
自分がどれだけレミィから好かれているのか分からないのか。
というかそういった自分の立場を理解した上で後継者などと言っているのかと思いきや、何も分からずただ「後継者作りたいです」とレミィに言ったらしい。アホかと。
「咲夜。一つ聞きたいことがあるわ」
「なんでしょう」
「いつぞやの博麗の後継者を祝う宴会でのこと、覚えてる?」
「はい勿論です」
「なんであの妖怪共が泣いていたか分かる? 分かってた?」
「霊夢が後継者に博麗の巫女の立場を譲ってそのままいなくなりそうだったからでは?」
そこまで分かっていて何故自分のことが分からない。
いや、自分のことだから分からないのか。
鈍感だ、人間という生き物は。
「あのね咲夜」
と私は人差し指をぴんと立てて言った。
「どうせレミィはあの小さい口が裂けても言わないだろうからこの際教えるけど、レミィはあなたのことが好きなのよ。大好きなの。だからそんなあなたにはずっと一緒にいてほしいし、まあ、あなたは人間でいたいって言うからそれは叶わないけど、それでもそうあることを望んでいるのよ。疑いたくないの。あなたがじきにいなくなるって未来から、運命から出来る限り目を逸らしていたいの。レミィは長く生きてるし普段は見栄張ってるけど、本当は子供で未熟だからそう思ってるのよ。なのにあなたが後継者なんて連れてきたら、その子を見るたびに、ああこの子が次のメイド長か、咲夜はいずれいなくなっちゃうんだ、ってことを思い知らされちゃうでしょ? レミィはそれが嫌なのよ。偽りでもこの日常が永遠だって信じていたいのよ。そんな弱っちい小娘がレミリア・スカーレットという悪魔なのよ」
そこまで早口で一気に言い切り、私はごほんごほんと咳をついた。喘息で早口というのは何かと大変なのだ。
一方の咲夜はというと、
「…………」
ぽかんと馬鹿みたいに口を開いて突っ立っていた。
青天の霹靂、寝耳に水といった具合か、どうやらまったく予想していなかったことを私は述べたらしい。
仕事人というのはこれだから。
確かに人間というのは短い人生を一瞬で強く燃え上がるけど、余りに勢いが強すぎて他に頭が回らないのかもしれない。こんなに近くに、いつも傍にいる主の気持ちにも気づかないでいただなんて。
「というかあなた、以前レミィから眷属になるようラヴコールを受けてたんでしょ? その時気づかなかったのかしら、レミィがあなたを激烈に好いてるってこと」
「ラヴコールだなんてそんな……」
咲夜はおぼつかない口ぶりで言った。
「お嬢様は、あの時、私の能力を買ってくれて、それでずっと働いてほしいということなのかと……」
「…………」
どうやらレミィは照れて本心を言わなかったらしい。
本当に、世話の焼ける。
「言ったでしょう? レミィはあなたのことが好きで好きでしょうがないの。あなた以外にメイド長なんていらないっていうくらい溺愛しているのよ。あなたが来てからレミィがどう変わったかを一から十から教えてあげましょうか?」
金曜の夜という週に一度の決められた日、咲夜の血をご馳走になる夜のこと、レミィがその日一日どれだけ上機嫌でいるかをあなたは知らないっていうの? 一番近くにいるのに気づかなかったの?
「レミィがあなたに眷属になってと言って、それを即座に断られた日のことだけど、レミィが私の元に来てどれだけ泣き腫らしたか教えてあげましょうか? どれだけ荒れて図書館の本が、本棚がどれだけぶち壊されたか、何冊お釈迦になったか私は今でも数えられるわよ。その時レミィが何度あなたの名前をうわ言のように呼んでいたか、こっちの方は数えることも出来なかったわ多すぎて。ねえ、分かる? 咲夜。あなたがどれだけレミィに愛されているのか理解できたかしら」
レミィがどれだけあなたのことで頭がいっぱいになって、どれだけ頭を悩ませて日々を過ごしていたか分かるかしら。
それはきっとこれからも続く。
あなたが死んでも続いていく。
あなたが付けたのは傷痕などと生易しいものではない。
レミリア・スカーレットに打ち込まれた鋭く光る銀の杭。それがあなたよ十六夜咲夜。
痛烈な痛みを感じていても、自分の心の臓に深くめり込み突き刺さり体を突き抜けたその杭を、妊婦のように愛おしそうに微笑み撫で続けるのが今のレミィよ。
そんな風にあなたがしてしまった。変えてしまった。
あの子はもう、その杭を抜こうとしないでしょう。
一生抱えて生きていくでしょう。
ほんの二十年かそこら一緒にいただけでその有様よ。
「ちゃんと責任取りなさいよ。勿論強制はしないわ。その気があるのなら、だけど」
図書館は、しんと静まり返った。
咲夜はしばしの間、黙って俯き、拳を握り締めて打ち震えていた。
見ると、瞳を限界まで見開いたり、泣きそうにほとんど閉じかけたりを繰り返している。呼吸が乱れて彼女の心臓の鼓動がここまで聞こえてきそうだった。
今まで鈍感でいた咲夜には急なことだったのかもしれない。
四十近くになっても咲夜はまだ少女でいた。決定的に、未熟。
でも必要なことだったのよこれは。
咲夜。
十六夜咲夜。
あなたはレミィよりも勝手だった。
悪魔よりも我侭で自分勝手だった。
ずっとレミィの傍に仕えて、それが自分の幸せであって至上であり至高だった。
そうして自分に望ましい生き方をしたままそれを変えようなどと毛ほども考えず、実に安らかに死んでいこうとしていた。
なんて幸せな人生。
なんて身勝手な生き様。
レミィが血の涙を流しながら、全身が泥にまみれ堕ちながら最も望んでいたものを頑なに拒否し続けていたのだ。
その全容を知らずに、知ろうともせずに。
馬鹿な人間。
愚かで愚鈍で鈍い存在。
完全で瀟洒なメイド長? 馬鹿馬鹿しい。
たかが人間が思い上がるな。
ほんの四十年近くを生きただけで何を言う。何を知っている。
あなたは完全を望んで瀟洒を装っていただけよ。レミィをこんなに苦しめているのがその証拠。
だから十六夜咲夜、完全でも瀟洒でもなく、何も目指さず主のことだけを考えてみるといいわ。
あなたの主と同じように、少しは恥を晒してみるといい。
咲夜はやがて、身を翻し歩き出した。
その足取りは力強く、カツン、カツンといつもと違う不規則な足音が今は何やら心地よい。
メイド長はやがて、図書館から消えていった。
それを見送り、私はふうっと嘆息する。
きっと何かが解決するだろう。
全部とは言わない。
全ては無理だろう。
しかし確実に前進するはずだ。
咲夜も、レミィも絶対に。前へ向かって歩くだろう。
「はあ……」
私はやれやれといった具合でどっと椅子に座り込み、背もたれに体重を預けた。
まったく、柄にもない事をやってしまった。本当に、私らしくない。
それもこれもレミィも咲夜も世話がかかるからいけないのだ。二人とも子供じゃないというのに。
「…………」
いや、子供か。
レミィは外見に似合って子供だし、咲夜は私達妖怪からしたらほんの四十歳くらいでまだ子供。
中間の百何歳かの私がもしかして一番大人なのかしら。
ああそうだ、美鈴。美鈴は、いいや。
「パチュリー様っ」
今まで隠れていたのだろう、小悪魔が上機嫌でやって来た。
「そういえばこいつがいたか……」
「なんです?」
「別に」
「はあ。…………いやーそれにしてもお見事でした。あの咲夜さんの背をこう、どーん、と押してやる手腕。私も今度同じように素直じゃない人にやってみますね」
「なに胡麻すってるのよ、白々しい」
「いやいや本当に感動したんですって。もう最高ですパチュリー様っ」
「まったく……」
この子のことは本気で考えないほうがいい。私としては当然のことを言ってやったまでだというのに。
そうしてため息をつき本を開きかけた時であった。
「ういーっすパチュリー。茶。菓子。本」
魔理沙が現れた。
こいつ今何歳だっけ? 咲夜と同じく四十近くにもなって元気なものだ。
「次から次へと……」
「どうした?」
「なんでもないわよ。小悪魔、お茶を淹れて頂戴」
「はいはいさー」
「ふうどっこいしょっと。借りてくのにお薦めの本あるか?」
「帰れ」
悩みの無いというのも考え物ね。
次の日、私がいつものように図書館で本を読んでいると、咲夜が扉を叩きしずしずとやって来た。
本から顔を上げて視線を差し向けると、彼女の顔は実に晴れ晴れとしたものだった。
まあ、何か解決したのだろう。
「あれからお嬢様と話し合いました」
「そう」
図書館に来た時、咲夜には私の向かいに座らせる。
最初の頃はお茶を淹れようとしていたのだけど、それは小悪魔にやらせるということにしていた。
別に咲夜をゲスト扱いしているわけではないし咲夜のお茶は美味しい。
しかし図書館でお茶を淹れるのは小悪魔の仕事なのだ。サボらせると調子に乗るだろうし。
そんなわけで小悪魔が淹れた紅茶に口をつけ、咲夜は幸せそうに微笑んだ。
咲夜はもう四十近いけど、皺はないし表情にも深みが出てきた。日々容姿の手入れを欠かさないのだろう。完全で瀟洒を自称するだけのことはある。
魔理沙の方は日頃からアリスが世話を焼いているということだけど、割と皺が目立つ。
今度咲夜から若作りのコツを教えてもらうように魔理沙をからかってみようかしら。
でもまあ、魔理沙はそこの所に頓着なさそうよね。
「それで、今度から人間のメイドもいくらか探してみることにしました。その中からメイド副長を選ぶということになります」
「メイド副長?」
どうにも聞き慣れない単語に私が眉をひそめて言うと、咲夜は「はい」と静かに頷いた。
「お嬢様が『咲夜は絶対にメイド長。副長なら認める』と仰られたので、そういうことに」
「はあ……」
そういう所で折り合いを付けたのか。
なんかずれてる気もするけど、まあレミィらしいのかもしれない。
「私は……人の身のまま天寿を全うしたいと思います」
「そう」
結局は元通り、か。
人間の中に変わらない者などいないのだ。
私達妖怪は湖だとしたら人間は激流か。
かたや制止し留まり、かたや波打ち荒れ狂う。
二つが一緒になって複雑に絡み合い、その中で私達はどうにかこうにか時には騙し騙し折り合いを付けて生きていくのかもしれない。
「でもまあ、あなたは永遠にうちのメイド長ね」
「そうですね。ご期待に沿えるように頑張ります」
そう言って、微笑むことが出来るくらいに咲夜は大人になった。
紅魔館に人間の幼い女の子のメイドが一人増えたのは、それから間もなくのことだった。
「なあ、パチュリー」
ある日のこと、私は魔理沙にこんなことを問いかけられた。
「お前ら妖怪ってさ、人間よりもずっと寿命が長いけど、その長い時の中、一体何を思って生きてるんだ?」
魔理沙がこんなことを聞いてくるのは珍しいので、私は若干怪訝な顔つきで彼女を見やった。
「なんでそんなこと聞くのよ」
「いや……」
と魔理沙はがしがし頭を引っ掻く。
「単なる好奇心って奴だ」
「ふうん……」
何か理由があるのかもしれないし、何もないのかもしれない。
答えてやる動機はないけど、まあ答えてやらない理由もない。
「別に」
私は本をぱたんと閉じ、嘆息する。ちょうど読み終わったところだ。
「あんたと同じよ。好きに生きてるだけ。他の妖怪達もそうでしょう」
そう言うと、魔理沙はどこかぽかんと目を見開いていた。
何かしら。何をそんなに驚くことがあるのかしら。
見ればわかることでしょう? 妖怪達は普段からあんなに好き勝手やってる。要するに、何も考えずに己の欲望に生きてるだけだと、まさか気づいていなかったわけじゃないでしょう?
「そっか……」
魔理沙はどこか深い面差しで頷き、それきり何も言うことなく図書館では静寂が広がっていった。
本当に何かしら。何を考えていたのか。
いや、どうでもいいわ。魔理沙の気まぐれに付き合ってなんていられない。
私はまた別の本を開き、その世界へと没頭していった。
時は流れる。
紅魔館において時間というのは頻繁に止まったりまき戻ったりするものだけど、時間全体の流れというものには誰であっても決して逆らうことは出来ない。
それから十年もしない内のことだっただろうか。
霊夢が息を引き取った。
まだ五十前だというのに早すぎる。
彼女はそう少なくない妖怪達から“人間をやめる”よう請われていたらしいけど、とうとう一度も首を縦に振ることはなかった。
彼女には彼女なりの考えやら信念があったのだろう。
聞くと何か避けようのない病だったようだけど、気の毒なのは掛かりつけとなっていた永琳だった。
「なんで助けなかったんだよ役立たず!」
霊夢の葬式で泣きじゃくる妖怪たちの罵詈雑言を浴びせられ、しかし永琳は眉一つ動かさなかった。
「どうしようもなかったのよ」
そんなことは、みんなが本当は分かっている。
葬式に集まった誰もが一度は永琳にお世話になっている。
彼女がどれだけ真剣に医者をやっているのか知っている。
病に伏せる霊夢にどれだけ手を尽くしていたのか、妖怪達は神社を訪れ何度も目撃している。
しかし自身の感情を抑えられなかった。それほど霊夢という存在は大きかった。
葬式では、始終泣き声がやむことがなかった。
博麗霊夢。
スペルカードルールの創始者。
人を容易に襲えず閉塞感の漂っていた幻想郷をにわかに貫いた劇的な法則。
それを創ったが故に、霊夢はほぼ全ての妖怪達から好かれることとなった。
泣き声しか聞こえないこの葬式がその証拠。
博麗霊夢。
あなたは紛れもなく幻想郷の恋人だった。
ねえ、あなたのおかげで、幻想郷は以前より格段に暮らしやすくなったわ。あなたが生きている内に言えなかったけど、ありがとう。
そんなことを、霊夢の墓の前で呟いた。
生きている内に言ってやれば良かったかしら。
いや、そんな事を言っても照れて面倒くさがるに違いない。
自分が感謝されていたことくらい分かってたわよね?
彼女もまた素直じゃないから知らん顔してただけよ。
なんにせよ、霊夢の死に顔はひどく穏やかだった。それでいいのだろう。
永琳に罵倒を浴びせた妖怪達は後日各々謝りに来たらしい。
いつもの喘息の薬を私に渡しながら、永琳は少し嬉しそうにそう話した。
事件が起きたのはそれからだった。
霊夢の葬式が終わったまだ次の日かそこらのこと、霊夢への手向けとばかりに幻想郷各地で異変が勃発した。
紅い霧が立ち込め、冬と夜が終わらなくて死霊があちこちを闊歩して空が七色に輝いたりもう何が何だか訳の分からない事態が幻想郷を騒然と包み込んだ。
それは紛れもなく祭りだった。
霊夢の死を悼むのは性に合わない。大手を振って馬鹿騒ぎをするのが妖怪達の選択なのだろう。
だったら宴会でも開けよと思ったけどまあやりたいようにするのがいいだろう。
外は未曾有の大異変となっているけど、私は相変わらず図書館に引きこもって本を読んでいるだけだ。
が、気の毒なのは今の博麗の巫女だった。
まだ十台半ばだろうか、異変解決にてんてこ舞いになり、紅い霧を止めさせようと必死になってやっとのことでうちに辿り着いても、紅霧の主犯であるレミィはまた別の異変を解決しに咲夜と出かけていて留守だったりと、もう混沌とした混乱が絶えることがなかった。
「よーっすパチュリー、弾幕勝負だ!」
祭りを心底楽しんでいる様子の能天気な魔理沙が年甲斐もなく乗り込んできた。
が、魔理沙は私の隣の席に座り込みうな垂れた博麗の巫女を見て首をかしげる。
「? どうしたんだよ、こんなとこで」
「魔理沙……」
今まで抑えていたのだろう、博麗の巫女はわっと泣き出し、魔理沙に抱きついていった。そのまま泣き喚き、何度もしゃくりあげる。
魔理沙はきょとんとしていたけど、そんな少女の頭を優しく、どこかがさつにぼんぼん叩いていた。
身長はあまり違いはないのに、魔理沙と比べて博麗の巫女はひどく小さく見えた。
「よしよし、どうした? 話してみろ」
「っぐ。っぐ。だって、私、霊夢みたいに、なれない、から。無理、だよ。私に、異変解決なんて、無理、だよお。うえええ……」
「ほらほら泣くなって。こんな阿呆みたいな異変祭り、霊夢でも一片に解決なんてできっこないって。一つずつやっていこう」
が、少女はしきりに首を横に振る。
「でも、でもお……私じゃ、駄目なんだよお」
「お前じゃ駄目なんてことないだろう」
「……駄目なんだよ!」
大声が、図書館の隅々まで響いた。
盆を持ってきた小悪魔が硬直し、恐る恐る静かにテーブルの上に紅茶を並べる。
魔理沙は驚いた様子で博麗の巫女をそっと引き離し、その涙で濡れた顔をまじまじと眺めた。床にぽたぽたと水滴が落ちる。
「……どうした?」
「う……うう……」
「話してみろ」
「あの……うえ……う……」
「うーん……参ったな……」
「霊夢よ」
博麗の巫女がうまいこと説明できなさそうなので私が声をかけると、魔理沙はこちらを向いてきた。
「霊夢? 霊夢がどうした?」
私は嘆息し、読んでいた本をぱたんと閉じた。
「レミィも、幽々子も、輝夜も異変を起こした誰も彼もが霊夢を思い出し想って、本当は霊夢が来るのを夢見て望んでる。その子はね、自分は霊夢じゃないから、異変を起こした連中に望まれてないから、自分が行ったところでどこか阻害されてるって感じてるんだって」
「…………」
博麗の巫女は未だに泣き続けていた。
確かにそうだった。
これは、この異変のオンパレードは霊夢のために起こされたことなのだ。
博麗霊夢の魂を呼び込むための儀式、とまでは行かないけど、霊夢のいるあの世に届くようにと彼女らは力いっぱい暴れているのだ。
この博麗の巫女は、お呼びでない。
「馬鹿だなあ」
そんな時、魔理沙はため息とともに笑みを零し、博麗の巫女の頭をぐしゃぐしゃと撫で付けた。霊夢から譲り受けた赤い大きなリボンがわさわさ左右に揺れる。
「だからなんだ?」
「……え?」
博麗の巫女は、道に迷った子供のように弱々しく魔理沙を見つめる。
「もしも霊夢だったらこう言うだろうな。『お前らの都合なんて知ったことか。異変を起こしてるから叩きのめすのよ!』ってな、そんな感じでいいんだぜ。少なくとも、霊夢はそうしてやってきたんだ。死んだ奴のことをいつまでも女々しく想ってる馬鹿共の気持ちなんて考える必要ないんだよ」
「でも…………」
とそこで魔理沙はどこか困ったような笑みを浮かべて小さく肩をすくめた。
「お前は霊夢と違って、神社で暮らし始めた時から周りに妖怪達がいたからなあ。だから基本を、原点を忘れてるんだぜ」
「げん、てん?」
「そうだ」
魔理沙はそこで唇の端を吊り上げ、にかっと痛快な笑みを見せた。
「私達にとって妖怪ってのは何だ? 友達か? 恋人か? まあそれもいいだろう」
図書館に魔理沙の声が高々と響く。
「でもどんな関係であったとしてもだ、人間にとって妖怪っていうのはな、両者の存在っていうのはなあ、どうあっても“退治”するされるのものなんだぜ」
ハンカチで博麗の巫女の涙を拭い、魔理沙はじっと笑みを絶やさなかった。
しばしの沈黙。呆然としていた少女はやがて、世の中の重大な真理に気づいた時のように、微笑んだ、気がした。こちらからは見えないけど。
そして打って変わって明るい声を弾ませる。
「そう……だね。うん! そうだよ! 妖怪は退治する! そうする!」
妖怪の前でよくもまあ言ったものだ。
「よおし、じゃあ異変解決といこうぜ!」
「うん! あ、でも……」
しかし、博麗の巫女はしゅんと縮こまった。
「今、レミリアがいないって」
しかし魔理沙はけらけらと笑い飛ばす。
「なあんだそんなことか。霊夢だって異変が起きたときは犯人目掛けて飛んでいった、ってわけじゃないぜ? 目に付いた妖怪達を手当たりしだいぶちのめしていって、その内犯人に辿り着いてたんだ」
「え……い、いいの?」
「いいっていいって。それじゃあ早速……」
魔理沙が獰猛な笑みを浮かべてこちらを見やる。
やれやれ、私は関係ないって分かってるくせに。
「はあ……」
私は心底呆れてため息をついた。
ここで冷静に論を並べ立てて戦いを避けようとしても微妙だし、空気を読んで付き合ってやるとするか。大サービス、博麗の巫女への私からのプレゼントよ。
私は本を片手に立ち上がる。
「小悪魔、魔理沙の相手をしなさい」
「ふええ!?」
小悪魔は猛然と抗議の声をあげた。
「わ、私ですか!?」
「そうよ」
「せ、せめて魔理沙さんはパチュリー様がやってくださいよ! 魔理沙さんの相手は無理ですよ私には!」
魔理沙は歳を取るごとに腕を上げていった。今の幻想郷では最強クラス。
小悪魔が相手をするとなると、まあ、三分、もつかなあ。
「聞いたか? お前舐められてるぜ」
魔理沙は悪戯っぽく博麗の巫女に笑いかける。
すると少女は口元を引き締め、ぐっと私を睨み付けてきた。
もう迷いはないようだ。やっぱり私の思ったとおり、彼女ならうまくやっていけるだろう。
「私はこの図書館の主。博麗の巫女の相手をするのは当然でしょ? ちゃっちゃと倒して加勢してあげるから、それまでもたせなさい」
「は、早くしてくださいよお?」
「やっぱり舐められてるな。負けんなよ」
「うん!」
それからの博麗の巫女の活躍は勇壮の一言に尽きた。
霊夢のようにそこらを歩いている妖怪達を手当たり次第に弾幕勝負で打ち負かし、幾度となく負けて、それでも何度も何度も立ち上がっては異変解決に血まなこになる。
いつしか妖怪達は彼女に注目し、自分から異変解決に乗り出すことをやめ、積極的に少女の前に立ちはだかっていった。
格段に増える弾幕勝負。
少女は一人ではない。
隣には普通の魔法使い霧雨魔理沙。かつてのように博麗の巫女と突き進む。
すっかり皺も増えた魔理沙だけど、体力と違い魔法は歳をとっても衰えない。流石に飛ぶ速度などは多少落ちているけど、弾幕の切れは突出していた。
とはいえ彼女は後方支援。主役は博麗の巫女だ。
立ちはだかる妖怪達の相手をしていくうち、見る見る腕を上げていくのが見て取れる。それが面白いのだろう、妖怪達は休む暇なく勝負を挑んでいった。
そしてそんな大量の妖怪の相手などそう簡単にできるものではない。
思ったより長く何日も何日も異変は続き、それでもとうとう最初に紅い霧が晴れ、次に雪が止み、朝を迎えてみると妖怪達の力は格段に落ちた。やはり夜によって力を得ていた節が強かったのだ。
それから残りの異変が解決されるのはあっという間だった。人間達もほっと胸を撫で下ろしたとか。もう慣れっこのようだけど。
そして全てを終えた後、博麗の巫女は神社に戻り実に満足げに泥のように眠りこけたという。
そんなことを、後で魔理沙から聞いた。
そしてこの大混雑異変の後、博麗の巫女はその名を幻想郷中に轟かせることになる。
かつてのように妖怪達が博麗神社に集い宴を繰り広げるのは、それから少しもしない内のことだった。
「パチュリー様は神社の宴会行かないんですか?」
その大異変終結から数日が経ち、小悪魔が若干促すように渋い顔で言ってきた。
現在博麗神社では大混雑異変終結祝いと称して夜通し耐久大宴会が繰り広げられている。レミィも咲夜も二日前から留守にしていた。
「わざわざ魔理沙さんが誘ってきたのに断っちゃって……」
「騒がしいのは嫌いなのよ。分かってるでしょ?」
「それはまあ……」
「何かと忙しかったし、のんびりしたいのよ。妹様が異変に参加したおかげで館も半壊したし」
私が敗れた後、レミィ不在の紅魔館の仮の主として嬉々として君臨した妹様。彼女のおかげで異変解決が一日遅れる羽目になったのだ。
その戦いの最中、幸いにも図書館に被害はなかったから良かったものの(私が全力で守り抜いたんだけど)、迷惑な異変なんてさっさと終わってほしかったのに。
紅魔館周辺には普段から私の魔法で雨が降らないようにしているけど、壊れかけた館の劣化を防ぐために現在は風もあまり吹かないようにしている。動かない大図書館は見えないところで働いているのだ。
それなのにレミィときたら私と美鈴とメイド副長のあの子に館を任せっきりで遊びに出るんだからもう……。
そうして一方では馬鹿騒ぎが繰り広げられ、一方では状況の修理保全にあくせくして、そんな裏方の仕事も軌道に乗り一息ついた時のことだったろうか。
ようやく落ち着いてきたわねやれやれだわ、などと久しぶりにのんびりしていた私の所に、一人の来訪者が現れた。
森の人形遣い、アリス。
私がのんびりと言っても例のごとく本を読んでいただけなんだけど。
「何の用かしら?」
とはいえ別にアリスがここに来るのはそれほど珍しいこともなく、頻度でいうと魔理沙の次くらいだろうか? まあ魔理沙はダントツでここに来すぎなのだけど。
それにしても、現在神社で行われてる大宴会にアリスは出てないのかしら? いや、いい加減抜け出てきたのかもしれないけど。
見ると、アリスはどこか思いつめたような、真剣な表情をしていた。
嫌な予感がした。
辛気臭い話はもう懲り懲りだっていうのに。
小悪魔にお茶を淹れさせると、しかしアリスは出された紅茶にも菓子にも手を付けずに膝の上に手を載せ、じっとうな垂れたまま押し黙っていた。肩に乗った上海がどこか不安そうにしている。
「あの……私、本の整理してきますね」
どこか重苦しい空気を察したのか、小悪魔がそそくさと立ち去っていく。
あの子、一応悪魔なのに気を使いすぎじゃないかしら。ここに来る連中を相手にするときは適当にしてればいいのよ。
「最近顔見せなかったけど、何の用かしら?」
面倒くさそうに(とはいえ私の口調はいつもそんな風に聞こえるらしい)声をかけると、しかしアリスは膝の上に置いた両手をぎゅっと握り締めただけだった。
本当に面倒くさい。
「黙ってたら分かんないわよ。私は本を読むので忙しいの。用が無いなら帰って頂戴」
そうして私が本を開こうとすると、アリスは急いた様子で口を開いてきた。
私が本を読み始めるとそう簡単には顔を上げないことを分かっているのだろう。私が本を開くのは別の世界に旅立つのに等しい。
「あの、魔理沙の!……ことなんだけど」
「魔理沙? あいつがどうかしたの?」
今も宴会で騒いでいるようけど、どこか悪くしたわけではあるまい。
「魔理沙、もう四十六歳になったのよ」
「ふうん」
年齢がどうしたというのだ。
それにしても、あいつはもうそんなに歳を取ってたの。まあ正確な年齢なんてどうでもいいけど。
そうして私は普通に返事をしたつもりだったんだけど、何故かアリスは苛立った様子で声を荒げた。
「あんたは平気なの!? 魔理沙、あんなに綺麗だったのに、なのに、もう、あんなに歳を取って皺も増えて、手も荒れて、何度言っても自分で髪の手入れもろくにしなくて……」
「…………」
アリス・マーガトロイド。
七色の人形遣い。
人形師である彼女は、その分綺麗なものへの執着が激しいのだろう。
確かに若き日の魔理沙は人形のように綺麗だった。
黄金に光る髪の毛、つんと高い鼻、目元、抜けるように白い肌。
アリスが随分と熱を入れるくらいに輝いていた。
しかし人間霧雨魔理沙は歳を取った。
日焼けもなかったきめ細やかな肌はくすんで、声も少ししゃがれてきた。
魔理沙の話によると、アリスは最近毎日のように髪やら肌やらの手入れをしにやって来るらしい。
それに困ってんだよあははー、などと笑い話として言っていたか。暢気なものだけど、アリスは必死だ。
彼女は眉目秀麗な魔理沙を望み、老いていく魔理沙が我慢ならないのだろう。必死に若作りを、いや、若返らせようとして手入れをするのだろう。
人形遣いは人形のような少女に恋をしていた。
時間の経過で過ぎ去るべき恋を、崩れていく幻想を、いつまでもいつまでも未練がましく追いかけていた。
転機はおそらく霊夢の死から。
人間はあんなに弱く、脆く早くに死んでいく。
魔理沙もそうだと思い知ったのだろう。不安になったのだろう。
だから脇目も振らずに、何を目的とするのかここにやって来たのだ。
「ねえパチュリー、あなたからも魔理沙に言ってよ。『本物の魔法使いになって』って言ってよ。私が何度言っても駄目なのよお。あなたと一緒になって言えば魔理沙もきっと折れるから、だからお願いよパチュリー」
ああそういうこと。
成程ね。
分かった分かった。
あなたの言いたいことは十二分に理解できた。
本当にあなたは、苛立たしい。
無性に腹が立つよ。
アリス。アリス。
愚かな魔法使い。
私になんと言われるかも考えられずに、必死になってすがり付いてきた。あなたに優しく手を差し伸べるような性格を、私がしているとでも思ったか。
「くだらないわね」
吐き捨てるように言うと、アリスは何を驚くのか愕然とした様子でこちらを睨んできた。
私がじっと見つめていると、アリスは迷子の子供のように瞳が揺れ、不安げに眉を寄せそうになりながら必死に表情を固めようとする。
私はふう、と意地悪く大仰に嘆息した。
脆い、な。
魔法使いは他の妖怪のように肉体が強くない。その分精神が強いはずなのに、そうして他の妖怪達に対抗するはずなのに、アリス、あなたは目に見えて未熟よ。
中途半端で半人前の魔法使い。
「くだらない。馬鹿らしい。アリス。あなたは何を見ている。顔を落として目を逸らして何を夢見ている。幻想郷の中で幻想を見ていてどうする」
「な、何、を」
震える声を出すアリスに、私は容赦なく言葉を浴びせかける。
「魔理沙はそこにいる。歳を取って皺も増えて声もしゃがれて、それでもちゃんと存在している。幻想ではない。いなくなった霊夢と違ってそこにいる」
何が嫌なの?
どんなに姿が変わっても魔理沙は魔理沙。
本を盗んでいくのは止めないし、歳を取って垢抜けてきては憎たらしさにも拍車がかかってきた。ずっと私と論を交わしてきた所為か、今ではほとんど対等に私と魔術談義ができるまでになっている。
霧雨魔理沙はそこにいる。
大きな変化と共に確かに存在している。
外見の変化がなんだというのだ。そんな下らないことにかまけているのかお前は。
「そういうことじゃない! 魔理沙にもっと長生きして、もっと綺麗でいてほしいって、ただそれだけなのよ! もっと一緒にいたいのよ!」
ああそうか。
アリス。
簡単なことだった。
あなたは人形遣いで、人形師だった。
そういうことだったのだ。
「魔理沙の意志も何も知ったことではないのねあなたは。誰だってそうだけど、妖怪って本当に身勝手よね」
途端、アリスは言葉を詰まらせる。が、沈黙はしない。
「だって、いいじゃないの! 少しくらい、他に何もなくていいから、魔法使いになってほしいって、たった一つの私の我侭を聞いてくれてもいいじゃない! それすら叶わないっていうの!?」
「叶わないわね」
「な――!」
アリスは鬼のような形相で私を睨む。
そうそう、そんな感じでいい。
迷い戸惑うのではなく、怒り、不満、慢心、一つの感情で自信を貫くことが魔法使いには肝要だ。
自分自身をぶれさせないで、例えそれがどんな間違った屑のような理論でも疑うことなく主張し続け立ちはだかる他人を蹴落としていく。
それが正しい妖怪魔法使いのあり方。そうでないと叩き潰す気にもならない。
そしてそんなアリスに、私は言った。
かつてレミィに言った言葉を、後で私が少し後悔するくらいに幼い悪魔を打ちのめした台詞を、人の名前だけを変えてほとんどそのまま口にした。
「魔理沙はあなたの人形ではない」
「――!」
願いは叶えてもらうのではなく叶えるもの。
しかしあなたのそれは願いではなく要求だ。
自分勝手な自分だけに都合のいい一方的で理不尽な欲求だ。
そんなものになんの正当性もありはしない。従う必要などありはしない。
いかれた理論でも説得力がないと何の意味も無い。
筋道がどこにも通っていない行き止まりしかない迷路。
薄っぺらい感情論に他ならない。
本物の魔法使い?
長い寿命?
あなたは魔理沙に何かを与えようとしていたのではない。奪おうとしていたのだ。
「……っ!」
アリスは乱暴に椅子を揺らして立ち上がり、そのまま無言で図書館を出て行った。
後を不安そうにおろおろとした人形が追っていく。
見ると、紅茶にもお菓子にも手は付けられていなかった。
再び静まり返った図書館。
私のため息だけが、大きく響いた。
柄にもなく強い口調で言ってしまったかしら。
まあ懇切丁寧に教え導いてやるような性格を私はしていない、というのは誰もが分かっていることだとは思うけど。
そしてそんな沈黙も長くは続かなかったのだけど。
「パチュリー様、お疲れ様です」
何が嬉しいのか、小悪魔が軽くスキップしながら勇みやって来た。
「いやー、お見事です」
私は気だるく顔を逸らしてため息をつき肩を落とす。
この小悪魔の笑みは、見てると疲れる笑みだ。
私に構わず小悪魔は実にご機嫌な様子で擦り寄ってくる。
引っ付くな、暑苦しい。
「ですよね、そうですよね。アリスさんは何も分かっちゃいませんよ。パチュリー様の言わんとしたことを要約するとこういうことですよね。『魔理沙が四十六歳? だから何よ。外見だけを見て私の魔理沙に何ケチつけてんのよど腐れ人形遣い。魔理沙の良さを全然分かってないのね。まったく、年取って皺くちゃになった魔理沙も超カワイィー! むきゅむきゅー!』」
「どこか悪くなっちゃったのかしら。ええと、小悪魔の返品方法は……」
魔界のコアクマの酒場にアクセスする。他にいいのはいるかしら。ああまずは窓口で返品について聞こうかしら。
「ぎゃー! やめて。魔方陣でどこに通信しようとしてるんですか私は正常です! いえいえ帰りませんよ私はここがいいんです最高なんですお願いします言い過ぎましたパチュリー様あ!」
「まったく……」
私に威厳が足らないのかしら、小悪魔は最近好き放題言うようになった。
次はロイヤルフレアか何かで折檻してもいいかもしれない。
「とっとと本の整理でもしてなさい」
「はあーい」
とぼとぼ背を向け歩いていく小悪魔。去り際にぽそりと呟くのを私は聞き漏らさなかった。
「素直じゃないんだからもう……」
図書館の一角から火柱とか細い悲鳴が上がった。
この通り、小悪魔は何かと魔理沙のことで私をからかってくる。
別に魔理沙は図書館にやって来る迷惑な泥棒であって、仲間でもなければ友人でもなく、単なる知り合いというだけに過ぎない。
それなのに小悪魔ときたらやれ「最近パチュリー様は明るくなった」だの「宴会に行く機会が増えた」だのと喜ばしげに口にするのだ。
あの子は何か勘違いしている。
私がそんなやたらと他人を好くようなことは滅多にない。
レミィに関しては昔色々あって特別だし、その繋がりで紅魔館の皆は家族のように思っている。
だけどそこまでだ。
他はいらない。
不必要だ。
本を読む上での利点になるわけでもない。
パチュリー・ノーレッジとはそういった冷たくて他人に無関心な魔法使いなのだ。
それで私は満足している。
小悪魔の焼け焦げてぴくぴく変な痙攣を起こしている姿をぼんやりと眺めながら、私は小さくため息をつくのだった。
その魔理沙がやって来たのは翌日のことだった。
「迷惑かけたみたいだな」
バツの悪そうに頭を引っ掻き苦笑いを浮かべている。
昔と比べて若干色を失った金髪が乱雑にかき乱されるのを、私はいささか憮然とした面持ちで眺めていた。
すっかり全快した小悪魔の淹れてくれた紅茶を、嘆息してから一口飲む。
あの後アリスと何かあったらしい。
まあどうでもいいわよ。別に無理に聞き出そうとも思わないけど。
とはいえ魔理沙は聞いてもいないのに勝手に話し出す。
「アリスの奴には昔から迷惑かけっぱなしでさ、本当に感謝してるんだ。異変の時は何度も力を借りたし。ああ、お前にも大分助けてもらったな」
「やけにしおらしい事を言うのね」
「はは……折角珍しく私が真面目なこと言ってるのに、見も蓋もないなお前は……」
引きつった笑みを浮かべていた魔理沙は、一息ついてから椅子を引き、居住まいを正す。
慣れたもので、これから本題を話すのが分かってしまった。
「今度、身寄りの無い子供を引き取ろうと思うんだ」
その時私はどんな顔をしていたのだろうか、魔理沙が「そんなに驚くことか?」とぼやいたので自分の顔の筋肉の張り具合を確かめてみたけど、別に普段と変わらないのだけれど。
魔理沙は私の表情が大きく変化したと感じ取ったのかしら。
まあ確かに多少驚きはしたけど。魔理沙が親になるなどと、
「似合わないわね」
「まあ、な」
自分でもそう思うよ、と魔理沙は照れくさそうに頭をしきりに引っ掻いた。
「昨日アリスと一晩話し合ってさ、そう、沢山話したんだ。あいつは分かってくれたよ。私はやっぱり、本物の魔法使いにはならない」
「そう」
別にあなたの好きにすればいいでしょう。
などと言う必要もないと思って何も言わなかった。
「それでまあ、私も何かを残さないとって、残したいなって思ったんだ。私のことを大切に思ってくれてる奴がいる。でも私は人間だから、そいつに比べればあっという間に死んでしまう。でもほら、人間はその人が死んでも続いていくんだ。それは普通、子供という形で子孫の連続がある。寿命の長い妖怪達はそんな人間の子孫達とずっと触れ合っていてくれる。その、アリスもそうしてくれるって、そうしてほしいって、そう、言ったんだ。私の子供と、そのまた子供とずっと傍にいてくれるって。でも私はあいにく自分で子供を生むのは性に合わない。結婚する気もないしな」
「だから、養子?」
「ああ。私の血とかそんなんじゃなくて、少しだけでも私から続くものが欲しいんだ。私の魂を受け継ぐ、って言うのかな。なんて、我侭なこと言ったかな」
「別に」
私は本をぱたんと閉じた。
読んでいたわけではない。
本を開いているのは私の癖とも習慣とも習性ともなっており、一日のほとんど全ては本を片手に携えている。体の一部みたいなものだ。
「いいんじゃないかしら」
どうでも。
という後付はサービスで言わないでおいてやった。
それにしてもアリス。魔理沙の子供を求めたのね。
魔理沙がいなくなったらその子で寂しさを紛らわせる気かしら。
まあ潔癖主義のアリスにしては譲歩したほうかもしれない。
「そっか」
魔理沙はにかっと実に嬉しそうにはにかみ笑いを浮かべた。何がそんなに上機嫌なのか。
「それでさ、もしも私に子供が出来たらさ」
「はあ」
「お前もその、知り合ってやってほしいんだ」
「私が?」
「ああ。きっと楽しくなるぜ」
誰が?
とは聞かなかった。どうせ詳しいことを考えてはいないだろう。
「なんだっていいわ」
「そっか、お前ならそう言ってくれると思ってたぜ」
「あっそ……」
私が何かありがたいことを言ったかしら?
魔理沙は私が“どうでもいい”と答えると必ず肯定意見としてとらえる傾向がある。
そんなことも、どうでもいい。
「さあてどんな子を育てようかな」
「魔法を教える気?」
「その子が興味を持ったらな」
「ふうん……」
周囲を魔法に取り囲まれて興味を持たないはずが無いとは思うけど。
私が人知れずため息を付く、そんな時だった。
こんこんと慎ましやかに扉を叩き、「入りますよ」と図書館の扉を開けて十台半ばくらいの人間の少女がやって来た。
うちのメイド副長だ。
ちょっと前まで私の胸くらいの背丈しかなかったというのに、今やすっかりメイド副長が板についている。
妖精メイド達に館の修理の指示を出し終え、まだ続く大宴会にレミィと咲夜が行ってしまっていて少々暇なのだろう、彼女はキッチンワゴンにお菓子と紅茶を乗せてきた。
「…………」
一見美味しそうなそれらを見て私はうっと眉を寄せる。
あのお菓子と紅茶はまともなのだろうか?
彼女は隙あらば妙な創作お菓子や紅茶を持ってくる。そういう所は咲夜から受け継がなくていいのに。
メイド副長は魔理沙を見つけて呆れたように肩をすくめた。
「あら魔理沙来てたの」
「よ、メイド副長。美味しそうな匂いだな。お、これはマドレーヌ」
「はいはいあげるから座ってて。小悪魔もお茶にしましょう」
「こぁー」
メイド副長は髪も黒色だし顔立ちも日本人ぽい。
しかし咲夜に色々な所がそっくりだった。
流石に咲夜のように特異な能力はないけど、馬鹿真面目でどこか抜けてる性格とかがそっくりだ。
しかしまだまだ未熟。メイドの嗜みとして空飛んで弾幕撃てるように仕込まれてはいるけど、私相手に五回中一回くらいしか勝てないのでなお修練の余地があるだろう。
そのことをこの前小悪魔に話すと、「いや大概おかしいですけどね」などとよく分からないことをぼやいていたか。小悪魔ももう少し修行をすればいいのに。
「魔理沙、あなた博麗神社にいたんでしょう? 宴会は終わったの? お嬢様と妹様と咲夜先輩はどうしてたかしら」
円卓を囲んで席に着いたメイド副長が紅茶を飲みつつ魔理沙に聞く。
この面子でのお茶会もなかなか珍しい。館の主要人物が三人もいなくなっていて暇なおかげか。
「ああ、宴会の催しとして第七十二回弾幕タッグバトルが開催されてな。私が神社を離れた時点でレミリアと咲夜のペアは結構勝ち進んでたぜ。フランは美鈴と組んでて早くに負けてぶうたれてた」
それを聞いて私は眉をひそめた。
「ちょっと待って、美鈴も館を離れて宴会に行ってるの?」
「ああ、フランと組む奴いなかったんで美鈴に泣きついたんだ」
「あっそ、呆れた……」
まあ妹様の頼みじゃ職務放棄も仕方ないか。
メイド副長も同じく肩を落とす。
「まったく、館の補修もまだ終わってないのにお嬢様ったら。……それにしても、これで五日連続の宴会ね」
「最高記録は十一日連続だからな。このくらい序の口だぜ」
「それは初めて聞いたわ。出来れば更新してほしくない記録ね」
「なんだメイド副長さんは酒が苦手か? いけないなあそれじゃメイドが務まらないだろう」
「お酒が飲めるかどうかはメイドにとってそんな重要じゃないでしょうに……日本酒五合はいけるようにはなったんだけど」
「おいどういう仕込みされてんだお前」
「こぁこぁ。このマドレーヌは美味しいですねえ。なんだかモリモリ食べられるというかムラムラというか」
「ああ、まあ、ほんとだな。なんかこう、体の底から血が沸き立つっていうかそんな感じだよな」
「あらそう、良かった。咲夜先輩の教えに従って作ったスッポンマドレーヌよ」
「「ぶー!」」
口に運びかけたマドレーヌを皿に置き、私は大きく嘆息した。
やれやれ。
新たな博麗の巫女。
メイド副長に魔理沙の子供。
人間はすぐに死んでいくのに、こうして見ると死んだ側から増えていき、賑やかさは衰えずにむしろ拍車が掛かるみたいね。
昔と比べて数的にも増えてるし。忙しい生き物だわ。
こうして出会いと別れとを一瞬の星の瞬きのように繰り返し、誰かは死別を惜しみ、新たな出会いに感謝したりするのかしら。
霊夢の葬式のような魑魅魍魎が涙する光景があったと思ったら、新たな博麗の巫女を歓迎する今神社で行われている大宴会のような情景がこれから何度も繰り広げられるのかしら。
泣いて、
笑って、
怒り、
哀しみ、
慈しみ。
私にはよく分からない感覚。感情。
紅茶を静かに飲み干しながら、私はそんなとりとめもない事に思いを馳せるのだった。
「あ、スッポンティーのお味はどうですか?」
「ぶー!」
それから間もなく、魔理沙はどこから拾ってきたのか一人の女の子と暮らし始める。私のこの大図書館にもよく一緒に来るようになった。
歳は十歳と少しといったくらいか、アリス辺りが仕立てたのだろう、魔理沙と同じような黒白のエプロンドレスみたいな服に身を包み、髪の色は黒だけど早くもどこか魔理沙に似ていた。
そして案の定魔法を習い始めているらしい。箒を肌身離さず持ち歩いている。
歳が近いので博麗の巫女とも仲が良いのだとか。
まるで昔の霊夢と魔理沙みたいで、二人を見た妖怪達は揃って懐かしそうな嬉しそうな笑みを浮かべるのだとか。うちのメイド副長とも気が合うらしい。
初めてその子を魔理沙が連れてきた時の事を私は覚えている。
「は、初めまして、パチュリーさん」
私相手に敬語など使い、なかなか初々しい娘だった。魔理沙とは大違いだ。
「遠慮して敬語なんて使わなくていいんだぜ。あとさん付けで呼ばなくてもいい」
「……あんたが言う台詞じゃないでしょう」
「あいつは小悪魔。名前はまだない。多分これからもない」
「こ、こあぁ!? うう……」
「いいか、ここが紅魔館の大図書館だ。本が欲しい時はここから取っていくんだぜ」
「おい」
この日以降、大図書館でのお茶会は参加者が一人増え、より騒がしいものになった。
そして日に日に魔理沙に似てがさつになっていく少女を見て、私はなんとなく物悲しくなり呆れたため息を何度も吐くのだった。
まあ本を盗っていかない分まだましかもしれない。今のところは、だけれど。
人間というのは妖怪と違い連続の生き物だ。
跡継ぎを残しながら生きていく。
跡継ぎを残してから死んでいく。
思えば、この時は一番騒々しくて賑やかな期間だったのかもしれない。
霊夢はいないけれど現在の博麗の巫女、魔理沙と魔理沙の子に咲夜とメイド副長。
人間が跡継ぎを作って、そして死んでいくまでの重複の時。
二つの人生の重なっていた日々。
余りにも短い刹那の灯火。
そんなようなことを、滝のようにうるさく音を響かせるこの時この瞬間の生活の中、私は薄ぼんやりと感じていた。
短い、振り返ってみれば、本当に短い間だった。
驚くほど早く過ぎ去った日々だった。
本当に早かったのよ。この時は。
いや、魔理沙と知り合ったその時から、ずっと私の中の時間は加速していた。まるで時を盗まれたかのように。
誰が盗んだのか?
そんな事は決まっている。私から何かを盗んでいくのは一人しかいないのだから。
本当に、迷惑で困った奴。
霧雨魔理沙。普通の魔法使い。
あいつは昔から私の良く知る人間達、霊夢、咲夜の三人の中で、真に残念ながら、一番長生きをした人間だった。
――――――――
時計が鳴る。
時計が響く。
針を進める。
針が進む。
針は
針が
紅魔館が誇る、優美で整然としていて、重要かつ代えようのない時計が動きを止めたのは、それから五年もしない冬の日のことだった。
カツ、カツ、淀みなく歩くリズムも、隅から隅までくまなく掃除を行き届かせる精緻さも、明快にして朗々とした喋り方も、石のように静穏を守る視線の配り方も、指先の動き一つ一つまでもが、静寂の中に刻まれた針の規則的な痕跡そのものだった。
時計のように法則性に満ち、彼女の奇行も、気まぐれも偶然も外れた行動も全てが計画されていたかのように安定で塗り潰され、誰もが彼女の扱い方に安心し、それ故に逆にいいように扱われていた。
側にいると安心でき、声を聴くと普段はぼんやりとしか感じない時間の流れを、細かい秒単位で明快かつ明瞭にそらんじることが出来るようになる。
彼女は様々な意味で紅魔館の時計であった。
基準であった。
理想でもあった。
「随分と、早かったのね」
紅魔館の一室。
ベッドに横たわる咲夜は、この期に及んでも皺が少なく肌にもいくらか張りが見える。
こうして寝たきりになる直前までばりばり働いていたのだから少々信じられなかった。
寿命などと。
ベッドの周りにはレミィがいる。妹様がいる。美鈴がいる。小悪魔がいる。メイド副長がいる。
扉の外の廊下には館内ほぼ全てのメイド妖精達が集結し、大量のすすり泣きが館を震わせ、当然部屋の中にも泣き声が入り込んではぐるぐる渦巻いている。
霊夢の時と同じく掛かりつけとなっている永琳は、部屋の隅でじっとしているだけだ。
もう、することはないのだろう。
ぽつりと零した私の呟きのような問いかけに、咲夜は皺の増えた唇をそれでもはきはきと動かした。
「随分と、霊力等を使ってきましたから。色々とガタが、来ていたのです」
「そう……」
本当は分かっていたのではないか。
今日この日にこの時が訪れると、時間を操る咲夜が気づかないはずがない。
レミィもそうだ。
死の運命を、彼女が感じ取っていなかったはずがない。気づいていたのだ。
しかし、黙っていた。
理由は、聞くまでもない。
知ったところで意味などない。ただ悪戯にこの館中に響く泣き声を長引かせるだけだ。だから黙っていたのだろう。
でも、ねえ、レミィ。なんで私にも黙っていたの? 私がそんな、悲しむと思ったから?
咲夜が死ぬ時が、その運命が分かる。
ねえ、どうしてその苦しみを私に打ち明けてくれなかったの?
いつだって私はあなたの話を聞いてあげたでしょ?
あなたの悲しみをいくらか易しくできると、そうなるように努力してあげたのに。
それなのに、レミィ。あなたは誰にも話さなかった。
咲夜を失う悲しみを、その胸の内に押し込め隠して傷ついて。
その所為であなた、今、泣いてるじゃないの。あなたの涙なんていつ以来かしら。
「咲夜。咲夜」
妹様はさっきからベッドの端に噛り付いて、ああ、もう酷い顔になってる。
波一つない湖のような穏やかな笑みを浮かべる咲夜にすがりつき、そんな顔をする咲夜が理解できない様子で妹様は怒ったように、苛立ったように泣き喚いている。
「なんで笑うのよ! 死んじゃうんだよ。死んで、いなくなっちゃうんだよ、ここから。どうして? どうしてよ! 咲夜! 悲しくないの? 分かんないよ、ねえ……」
咲夜は表情一つ変えず、夜空で煌々と光る月明かりのようにひどく温和に呼びかける。
「妹様」
「嫌だ。死なないでよ。咲夜。さくやあ。わ、私なんでもするから。いい子でいるし、館ももう壊さないから、約束するから、だから、ねえ、今からでもほら、“契約”しようよ。私と同じ吸血鬼になってずっとずっと一緒にいてよ。え、へへ、私、契約の仕方、姉様に内緒でこっそり勉強してたんだ。咲夜とずっとずっと一緒にいられるように、私、こっそり勉強してたんだ。お、驚いた?」
「妹様……」
「だから、ほら、契約、しようよ。ねえ、そうでしょ? みんなも、咲夜とずっと一緒にいたいよね!? そうだよね!?」
答える者はいなかった。
部屋の誰もが沈んだ表情を変えず、ある者は更に暗く黒く顔に影を落としていく。
妹様はそんな一同を見て、何か訴えるような抗議をするような目で睨んだ後、諦めたのか苛立った様子で咲夜に振り返った。
「し、死ぬのなんて、嫌でしょ? 本当は、もっと生きたいでしょ? 私達と一緒にいたい、よね? 死にたいなんて、そんなことあるわけないよね? だから、私と、一緒に。お願いだから、さくやあ。お願いだから!」
「妹様……」
妹様の涙を拭おうとしたのだろう、咲夜の伸ばした骨ばった手は、気の急いた妹様によってがっちりと掴まれた。
妹様の流す涙が、ベッドを濡らし滲んでいく。
その様子を苦笑いを浮かべて見やっていた咲夜は、終わりの間際になってもよく通る声で口を開いた。
「妹様、私は皆さんと一緒にいて、妖怪の時の長さを実感して、自分の時の短さを体感して、それで初めて私の生きる時間が、どれだけ貴重なものかを思い知りました。人間の生きる時は短い。だからこそ貴重なのだと」
短いからこそ、貴重? 優れている?
私はそこで、何かに大きく引っかかった気がした。
「だから何事にも気を抜かず、誠心誠意全力で生きていこうと思えたのです。私は人生の貴重さ、尊さを気づかせてもらえたことを、非常に感謝しながら今まで働いてきました。私がここに来る前はそんな事を、人生が貴重なものだとは、露ほども感じておりませんでした。人生に価値などない、ただ自堕落に周囲に流されるまま唯々諾々と過ごしていけばいいのだと、やさぐれた、愚かでつまらない人間でした。でもそれは間違っていたのです」
咲夜は最後の力を振り絞るように朗々と言葉を続ける。
「自分の中の内なる歓喜を呼び起こし、確固たる希望に従い続けることこそ生きる意味なのです。私の場合はお嬢様に仕え、皆と共に、ここで、紅魔館で働くことがそうなのです。自分の中に眠る真の歓喜に従うことこそが生きる意味なのです。死など、ただ単に部屋の広さを決めるだけのことに過ぎません。広い広い無色の野原を、私は生命を鍬と変え縦横無尽に耕して、経験を様々な種と変え蒔いていく。そしていずれ花が咲きましょう。思い思いの、人によって違う、千差万別の花々です。ですが、以前の私はくすんだ不恰好な花しか咲かせられませんでした。私自身がつまらない生き方をしていた所為です。しかしここで働き始めてからというもの、それは素晴らしい優美な花が咲きました。それは私にとってとても喜ばしいことです。以来、私はずっと綺麗な花を咲かせようと幸せに、ひどく幸せに満足した生き方をしてきました。やがて私には寿命が訪れ、終わりのときです、死は壁となり、世界は閉じて、野原は囲まれその広さが決まります。結果、とても綺麗な花畑ができました。上出来です。私は今非常に満足しているのです」
「さく、や……?」
「妹様、私の花畑をご覧になりますか? 簡単ですよ。ほら、後ろを振り向けば、素晴らしいその光景を見ることが出来ます」
促され、妹様が振り向いたそこにはレミィがいた。
一言も発さずにただ涙を止めることの出来ない館の主。昨日の晩、無駄と分かっていながら改めて眷属に加わるよう咲夜に言ったことを私は知っている。
美鈴がいた。
さっきから涙と、泣き声を止められずにいる紅魔館の門番。咲夜はメイド長として働く最期の頃、頻繁に門の前を訪れていた。二人が何を話していたのか、私は知らない。おそらく二人にとってとても大切な時間だったのだろう。
小悪魔がいた。
笑いながら涙を流すという妙な表情をしている。小悪魔という生物の特性として、弱みを見せないためにも素の悲しみの表情は決して表に出さないのだとか。頬がひくつき、それがどれだけ無理をしているかが分かる。どれだけ悲しんでいるのかなど一目瞭然だというのに。
メイド達がいた。
ここからだとうまいこと確認できないけど、廊下の端から端まで彼女らは続いている。咲夜を何よりも尊敬していたメイド達。妖精というのは無能で単純で子供っぽくて、故に感情がストレートに流れ出て、わんわん泣き喚いてはとどまる事はない。
メイド副長がいた。
この世の終わりのような顔で涙を流している。彼女にとって咲夜とは先輩であり、上司であり、恩師であり、父であり、母であった。彼女がこの世で唯一甘えることの出来た存在が、間もなくいなくなる。
私がいた。
パチュリー・ノーレッジ。
いつも淡々としていて、無表情な私。
妹様、私はどんな顔をしているの?
どうしてそんな、私を見て驚いたように目を見開いて、それから向日葵のように嬉しそうに微笑むの?
私は泣いては、いない。
それは確かだ。それなのになんでそんな満足げな表情を浮かべるの?
分からない。
私が今どんな表情をしているのか、どうにも確認が取れない。変な顔をしているかもしれない。恥ずかしい表情かもしれない。私はいつも冷静でいるはずの存在なのに。
そこで妹様が、はっとした様子で振り向く。
彼女の握った咲夜の手に、何か異変を感じたのだろう。
力が、感じられなくなったのだろう。そのことくらい、誰にも分かる。
私達に妹様を加えた皆の姿を、本当に楽しそうに眺めながら、十六夜咲夜はやがて、永遠に動かなくなった。
その時レミィの泣き声を、聞いた気がした。
他の泣き声でかき消されて、もう何も聞こえない。
私が何か声を発しているのかも分からない。
誰が、何を、どんなことを、でも、咲夜、紅魔館の永遠のメイド長の名前だけは、何を置いても聞き取ることができた。
十六夜咲夜は死んだ。
幸せだったかどうかなど、聞くまでもなく分かりきったことだ。
おつかれさまと、誰かが言った気がした。
ふと見ると、部屋の片隅、永琳の隣に魔理沙が立っていた。
人間霧雨魔理沙。
以前と比べれば断然老け込んでいるけど、まだ元気そうだ。
いつからいたのだろう。そんなことは、今はどうでもいい。
魔理沙は私と目が合い、どこか困ったような、バツの悪い笑みを浮かべる。
彼女が何を言いたいのか、何故かこの時伝わってきた気がした。
――なあ、私が死んだ時、お前は泣いてくれるか?
そんなわけないでしょ馬鹿。
咲夜が死んでからというもの、紅魔館はめっきりその身を縮めてしまった。彼女の能力によって空間が広げられていた所が多かったからだ。
もちろん事前に紅魔館縮小への対応は済ませていたので混乱は起きなかったけど、実際に小さくなってみるとまあ、今までがどれだけ恵まれていたかを実感した。
随分と狭くなった図書館を眺めながら、私は気をげんなりさせてため息をつくのだった。
咲夜がいなくなっても大図書館は大図書館なのだけど、大図書館にもピンからキリがある。そしてこの状況はピンからキリになったと言って差し支えない。
広さは十分の一ほどになったかしら、まあ咲夜が来る前に戻っただけの話なんだけど、広いからといって浮かれて本を増やしすぎたのが災いした。どの本棚の上にも天井に届かんばかりに本が山のように積まれている。全て本棚からあぶれたものだ。
いつ崩れてくるか分からなくて危険であり、現在小悪魔をこき使って整理を急がせている最中なのだけれど、いかんせん数が多すぎる。
咲夜がいた五十年ほどは本当に助かっていたのだと、いなくなってからその存在の大きさ、頼もしさに気づく。各所が小さくなった館を見て、おそらく誰もがひしひしとそう感じていることだろう。
十六夜咲夜はもういない。
彼女の時間はもう終わった。
紅魔館の要たる時計は何度も修理しながら大切に使用されていき、とうとう最後まで部品を取り替えられることも改造されることもなく、遂には寿命を迎えて止まってしまった。もう、動くこともない。
十六夜咲夜。私の知る限り最強にして至高の人間。
能力においても人柄においても、彼女の代わりなど存在しないのだ。だからうちのメイド長の椅子は永遠に空いたまま咲夜のものであり続けるのだ。
「本当に……貴重な人材だったわね」
いつものように本を開きながら呟き、いかにも爺くさい台詞を言ったことに気づいてため息をつく。
人間と共にいると、一緒になってこっちまで歳を取っていくような気がする。
それも仕方ないか、と再び嘆息する。
人間は、変わる。
ほんの数十年で、いや、たった数年でまるで別人のように成長し、達観し聡いことを言うようになる。
彼女らからしてみれば、私達妖怪というのはいつまで経っても成長しない鈍くさい生き物なのかもしれない。
そう思えるほどに私達は変わらない。
外見も、中身も、きっと時間が止まったように見えるのだろう。
対して人間は時間を進める。
私が余所見をしていて、ふと人間に視線をやれば思いのほか時が経っていることに気づかされる。
ひょっとして、私達妖怪は時計を持っていないのかもしれない。
或いは、時計が壊れてしまったのかもしれない。
魔法使いなど特にそうだ。
捨虫の魔法により永遠の寿命を得た者達。
私も、アリスも元々持っていたはずの自分の時計を自ら壊してしまったのだ。
だからもう手遅れなのかもしれない。
今更変わろうなどと、成長しようなどと都合の良いことなのだろう。
思えば当たり前のことか。何かを得ようとすれば必ず代償を払わなければならない。それが魔法使いのルール。
長い寿命の代わりに私は大切なものを失ってしまったのだ。
時を刻む義務を放棄した代償は、時を刻む権利だった。
私は、きっとずっとこのまま、何が変わることもなく静的に生き続けるのかもしれない。
それはもしかして、非常につまらないことなのではないか。
異常に悲観すべきことではないのか。
最近、そんなことを頻繁に考える。
私はこの先きっと変わらない。
どれだけ知識を得ても、どれだけ誰かと知り合っても、外見をいじくってみても何をしても、私という原初の存在は人間と違って不動のものなのだ。
それはもしかしたらとても陳腐で薄っぺらいことかもしれない。
私はどこまで行っても変わらない。
なんて退屈なのだ、私という存在は。妖怪は。魔法使いという生き物は。
もしかしたら霊夢も魔理沙も咲夜もそれが分かっていたのかもしれない。
いつまでも変化がなく退屈で愚鈍な妖怪という生き物。そんなものになってやるなど絶対にお断りだ。堕ちてやるなど馬鹿馬鹿しい。
そうして彼女らは私達に見切りを付けたのかもしれない。何度誘われても妖に身を堕とすのを良しとしなかったのはそういう理由なのかもしれない。
単純に人間のほうが妖怪よりも価値が高かったから、だから人間であり続けて実に誇らしく死んでいったのかもしれない。
だとしたらとんだお笑い種だ。
寿命なんて長いほうがいいに決まってる、などと口々に叫んでいる妖怪達のなんと愚かなことか。
寿命が短いことを決定的な欠点のように見ていて、その大きな利点に気づかなかった。
霊夢も魔理沙も咲夜も気づいていたのだろう。
私や、アリスのように愚かにも寿命が短い故の素晴らしさに気づかず安易に妖怪へと身を堕としたパターンと違い、彼女らは賢明な判断を下したのだ。だから咲夜は死に際あんなに幸せそうだったのだろう。
長寿というのは短い寿命を無理やり引き伸ばしたようなもので、スカスカで薄っぺらい人生がそこにあるのかもしれない。
そんなようなことを今日魔理沙に話してみると、彼女は豪快に笑い飛ばしたのだった。
「ははははっ! なんだそれ、そんな訳ないじゃないか」
魔理沙はもう五十くらいかしら、随分と歳を喰ったが未だに元気そうだ。
このままだと百くらいまで生きるんじゃないのか、と私は内心気を落とす。
なかなか本を返してもらえない。
場所は例のごとく大図書館。私がここを動くことは滅多にないのだから当然か。
魔理沙の子は博麗神社に遊びに行っているとのことで、最近にしては珍しく今日は魔理沙一人でやって来た。
彼女は今の私の話を聞き、紅茶を飲みつつにやにやした笑みを絶やさないので、私はなんとなく気に喰わない。
「私が人間であるのは、そっちの方が性に合わないからとか、そんな適当な理由からなんだぜ? お前が今言ったような小難しいことなんてこれっぽっちも考えちゃいないよ」
「でもそんな適当な理由にあなたは固執する。本物の魔法使いになってほしいとアリスが泣いてすがり付いても首を横に振るくらいに」
途端、魔理沙は笑みを苦笑いに変えて言葉を濁した。
「あ、アリスはほら、泣いてすがり付いてきた、けどさあ……」
あの様子だとそんな事もしていそうだったけど、どうやら本当に泣きながら魔理沙に迫ったらしい。
どうでもいいけど。
「あなたは人間であり続ける。それは要するに、あなたはぼんやりとした感覚でも寿命の短い素晴らしさに気づいていると、そういうことじゃないの?」
「うーん……」
いつもの悩む時に見せる、髪を乱暴にがしがし引っ掻く仕草で魔理沙は唸った。そんなことしてるとまたアリスに叱られるだろうに。
「どうだろうなあ。そう言われるとみだりに否定できないような、そんな気もするなあ」
「はっきりしないわね。五年前アリスに何て言って説得したのよ」
「五年前って…………ああ。いや、その、あの時はありのままの私の気持ちを言ったまでだぜ」
「そうなの? そんな曖昧なことでいたらさぞ揉めたでしょうに」
五年前、アリスが魔理沙に本物の魔法使いになってほしいと訴え、魔理沙が頑なに拒否した時のこと。
私はアリスをたしなめ、話し合うよう仕向けることに成功したのだ。
とはいえ私としては単に打ちのめしただけで、後は勝手にすればいいと思ってたんだけど。
そして数日後のどこか吹っ切れたようなアリスの様子を見るに、魔理沙はさぞびしりと決意を述べたのかと思っていたのだけど。
「いや」
しかし魔理沙は首を振った。
「なんていうかな、話し合う時には既に結構分かってくれてた感じだったぜ?」
「そうなの?」
私と話した後、あんなに憤慨して出て行ったアリスが?
それは少々意外だった。
「アリスがお前と話した後だったし……お前が何かアリスにくどくど理屈っぽく説得してくれたんだろ? 私はてっきりそういうことだと思ってたんだけど……」
迷惑かけたな、というのはそういうことか。しかし、
「別に大したことを言った覚えはないわ」
私は本当に冷静にアリスを論でもって叩きのめしただけなんだけど。
「じゃあ何て言ったんだよ」
「アリスは何か言ってなかったの?」
魔理沙はひょいと肩をすくめた。
「パチュリーとも話した、としか言ってなかったぜ。無理に聞くことじゃないと思って内容までは聞かなかったんだけど」
「ふうん……」
「なんて言ったんだよ。今更アリスに聞けないしさ、話してくれよ」
多少興味深そうに魔理沙はこちらを覗き込んでくる。
「……はあ」
どうしたものか。
別にわざわざ話すようなことでもないとは思ったけど、隣の小悪魔が目を爛々と輝かせ、一刻も早く喋りたくてしょうがないといった様子なので仕方ない、私が言わなくてもこいつは絶対に後でぺらぺら話すに違いない、あの時私がアリスに言ったことを話してやることにした。
「仕方ないわね。あの時私がアリスに言ったのはね」
「うんうん」
魔理沙は年甲斐もなく子供のような笑みを浮かべて頷く。
「他人を勝手に人形扱いするもんじゃない、って、そんなことよ」
それを聞いた魔理沙はきょとんとした表情をし、その後小さく含み笑いを浮かべた。
「ははは、そうか、お前そんなこと言ったのか。それはまあ、ひどいな」
「そうかしら?」
私はまともなことを言ったと思ったのだけれど、何がひどいのかよく分からない。
私は嘆息してから紅茶を一口含む。
だがその時、それまで黙っていた小悪魔が何を思ったのか猛然と口を挟んできたのだ。
「違います! そんなもんじゃありません、パチュリー様はもっと格好良く『魔理沙はあなたの人形ではない』って言い放っ」
小悪魔を吹き飛ばして壁に激突させると、何かが折れる爽快な音の後、彼女は何やら体のあちこちが妙な方向に捻れ曲がった状態で床に倒れ伏した。
まったく、勝手に余計な事を言うんじゃないわよ。不出来な使い魔だわ。
小悪魔は何やらぴくぴく痙攣して判別のつかない何事かを呟いている。
見た感じ割と深刻なダメージっぽいけど、まあ適当に回復するでしょう。
一方の魔理沙は苦笑いを大きくしてとうとう豪快に笑い始めていた。
「あはははは! そうか。アリスが泣きながら謝ってきたのはその所為か」
「へえ、泣きながら、ね」
途端、魔理沙は、しまった、とバツの悪い様子で顔を強張らせる。
「あ、いや。内緒、な」
「いいわよ、どうでも」
「はは」
と魔理沙は仕切りなおすように軽く咳をついた。
「それにしてもそんな事言ったのか。相変わらず容赦ないなあお前は」
「遠慮がないと言って頂戴」
「どっちも同じだぜ」
「大体同じね」
「そういうことだな」
ひとしきり勝手に笑っていた後、魔理沙は不意に困ったような顔に戻った。
「でもさ、話は戻るけど、人間が妖怪より優れてるとか、そういうことは無いと思うぜ」
「あらどうして?」
寿命が短いからこそ充実した人生を人間は送っているという私の考えに、魔理沙は何か異なる意見を述べるという。
私が興味深そうに見つめると、魔理沙は途端、どこか照れたように頭の後ろを掻き毟った。
「どうして、って……」
何故照れる?
しばらくそうして言葉を待っていたけど、遂に魔理沙がそれらしき答えを述べることはなかった。
「なんていうか、うん、よく分かんないけどそう思うんだぜ」
なんだそれは。結局感覚の域を脱していない。
「それじゃあ何か気づいたら教えて頂戴」
「ああ、いつか言うよ」
いつか、か。
「そう、あまり期待せずに待ってるわ」
すると魔理沙はきょとんと目をしばたたかせた後、どこか嬉しそうににやにや微笑を浮かべた。
「そうか、お前がそこまで期待してるなんて、こりゃ私も責任重大だな」
「…………」
どこをどう取ったらそういう事になるのだろうか。
追及する気にもならず呆れてため息をつき、私は読みかけの本を開いて字を追い始めた。
「それじゃ、私はこの辺で帰るぜ。そろそろ晩飯の時間だしな」
「そう」
私はいつものように素っ気無く相槌を打つ。
「今日借りてく本はこれだけでいいや」
「たまには返しに来なさい」
すると魔理沙はにやりと不敵な笑みを浮かべる。
何を言うかは、もう分かる。
「言ったろ? 死んだら返すよ」
袋を担ぎ、魔理沙は図書館を悠々と後にした。
本当に元気な奴。
「はあ……」
嘆息して視線を落とす。
あの様子だと本当に百まで生きそうね。タフな奴。
ようやく平和になった図書館でそうしてつらつら本を読んでいると、次はお前か、小悪魔がよたよたと起き上がり近づいてきた。
間接が所々曲がってるけどまあいいや。でも少し不気味だから近寄らないでほしい。しかもにたにたした笑みまで浮かべていて気持ち悪い。
今度は何かしら。それとも遂におかしくなった?
無視もしにくいので本を閉じて迎えてやると、小悪魔は横に曲がったままのゾンビのような顔に実に嬉しそうな笑みを張り付かせたまま喋りだした。
「へへへ、パチュリー様あ、聞きましたよ聞こえましたよ」
「関節の捻じ曲がる音なら十分聞こえたわよ」
「そっちじゃありませんよ。あれですあれ。さっき魔理沙さんに言ったこと。あまり期待せずに待ってるわ、って奴です。『あまり期待してない』ということは、裏を返せば『ちょっとは期待してる』ってことですからねえ。普段滅多に何かに期待なんてしないパチュリー様からしたらそりゃもう気分はウキウキ目は爛々、駄菓子屋に走る童子のように大いに期待しまくりってことでし」
あら、今度は流石に死んだかしら。
壁に頭だけをめり込ませてぷらんぷらんと揺れている小悪魔を眺め、私は顎に手を当てうーんと首を捻る。
ああ、よく見るとぴくぴく動いてるわね。なら大丈夫、いける。
「はあ……」
それにしても、と私は大きく嘆息する。
小悪魔は本当に減らず口を叩くようになったものだわ。
魔理沙が来るようになってからかしら。本当に何が嬉しいのかしらね。小悪魔はそんなに魔理沙のことが好きなのかしら。
私は再び本に視線を落とし、小悪魔のことはどうでもいい、あの泥棒魔法使いのことをふと思う。
今日魔理沙は紅茶を一杯しか飲まなかった。
昔であれば無料なのを堪能するように厚かましく四杯は飲んでいくのが当たり前だったというのに、最近はめっきりお代わりをしなくなったのだ。
何も突然そうなったわけではない。
年を追うごとに次第に段々と紅茶を飲むのが三杯になり、二杯になり、一杯になった。
まるで何かをカウントダウンしているみたいだ。
それとも歳を取るにつれて遠慮が出てきた? いや魔理沙に限ってそんな事はあるまい。
彼女は飲まなくなったのではなく、おそらくそう多くは飲めなくなったのだろう。
咲夜と同じく、魔理沙は人の身で力を使い過ぎた。
そのツケが回ってきたのかもしれない。百まで生きると、そんな気概を発しているのは表面上だけの話だろう。
なにしろ魔理沙は最近、私相手の弾幕勝負で負け続けだ。魔力に衰えはないけど、それ以上に大切な体の動きがまるでなっていない。
だから、限界なのかもしれない、色々と。ガタが来ているのだ。
近頃も歩くのではなく何をするにしても飛んで移動している光景をよく見かける。
空を飛ぶ力を持つ人間にとって、あまり飛翔に頼りすぎるのは良くない、と以前咲夜が言っていた。足の力が衰えるのだそうだ。
おそらく魔理沙はその事について気づいてはいるが、気を配ることもできないほどに……
「はあ……」
私は息を吐きつつかぶりを振る。
だから、なんだというのだ。
本を返してもらう日程が早まったと、そういうことだ。
霊夢が死んで、咲夜が死んで。
私が昔から知っている人間達の中で、残るは魔理沙、あなただけ。
私は再び嘆息し、本に目を落とす。しかしどうにも集中して読み進められなかった。
そしてその日、最近弾幕勝負で私に負けた時に魔理沙の浮かべるとても悔しそうな顔が、やけに頭に残って離れなかったのだ。
それから一年ほどが経った。
相変わらず幻想郷では異変が頻発し、博麗の巫女やら他の誰かやらが解決に奔走し、新たに台頭してきた妖怪達も一層数を増してきた。
昔と変わらない刺激的で平和な幻想郷。
そんな中、私は相変わらず図書館で本を読むだけだ。
最近魔理沙は顔を見せない。
聞くところによると、あまり体調が芳しくないらしく、自宅で療養中とのこと。
すぐに良くなるのか、それともそうでないのか。
分からないけれど、だから何だというのだ。
私の行動は変わらない。魔理沙のことは私に関係は無い。
「ごほっ、ごほっ」
近頃咳がひどくなってきた。
閑静な大図書館に私の咳き込む声が何度も響く。
何故喘息がひどくなっているのか。分からないけど、永琳に出してもらっている薬を増やしてもらおうか。
そんなある日のことだった。
レミィが図書館にやって来たのだ。
普段は私がレミィの部屋やらテラスやらに招かれることが多いのを考えれば、レミィ自らやって来るのはまあ珍しいと言えば珍しいのかもしれない。
メイド副長を斜め後ろに控えさせ、小悪魔の出した紅茶に口をつけずに顔を落としてじっと見つめ、何やらぼうっと押し黙っている。
かつては咲夜がいた場所に、今はメイド副長がいる。
そこにすんなり立っていられるほどに彼女の紅魔館での存在は大きいものとなっていた。まるで咲夜の生き写し、とまではいかないけど、確実に受け継いでいるものはある。
目に見える形で言えば、あの銀時計。咲夜自身の手によって彼女に手渡された物だ。
咲夜が何を思ってメイド副長に渡したのか、詳しいことは分からないけど、遺品、というよりは証のようになっている。
紅魔館を取り仕切る者としての証明。
紅魔館に住まう者はあの銀時計を見る度に咲夜の醸し出していた威厳やら安心やらを感じ取る。
なんだかそういった物々しい物になってるけど、咲夜、あなたはそれを望んでいたのかしら?
メイド副長が早くに皆に受け入れられ、紅魔館の実務トップとして働けるように、との計らいだろうか。
いや、そんな後輩の心情に配慮するような人じゃなかったわねあなたは。少しでも早く業務が滞りなく進むようにとの、咲夜最後の仕事なのだろう。
ひょっとして、咲夜は死しても私達の胸の中で生き続けてる、とかそういうことなのかしら。
だとしたら随分とロマンチックで恥ずかしいわね。
「それでレミィ、話って何かしら?」
さっきから何やら深刻な表情で口をつぐんでいるので、私はレミィを促してみた。
付き合いも長く、こういう時の彼女はきっと良くないことを言うと分かっていた。分かっているのでさっさと言ってほしい。
するとレミィは顔を上げ、躊躇いがちに口を開く。
「パチェ……あなたに言わないといけないことがあるわ」
「良くないニュースみたいね。焦らさないで言って頂戴」
「…………」
レミィは表情を硬く引き締め、唇を結んで重苦しい空気を吐き出している。
本当になんだというのか。
誰か具合が悪くなった?
レミィは運命の力を持っている。何か都合の悪い運命を感じ取ったのかもしれない。
もしや近いうちに私が死ぬとかそういうことだろうか。別に体調にそこまで異常はないけれど、今のレミィの深刻な顔つきを見ればそんなことを言い出してもおかしくはない気もする。
「…………」
レミィはなかなか話し出さない。
本来こういう手合いは無視してさっさと本を読み始めてしまう私なのだけど、レミィが相手となってはそういうわけにもいかない。じっと見つめて待ってみることにする。
ちらりとメイド副長へと視線を差し向けると、彼女は困った様子で肩をすくめてきた。彼女もどういうことなのか分かっていないらしい。
まったく、私の気が早いことはレミィも知っているだろうに。
「あの、ね」
とうとう話し出す気になったらしい。
僅かに首肯して促すと、レミィは目を横や縦に動かしながら言った。
レミリア・スカーレットの能力によって分かる未来。
余りにもあっさりと分かってしまう冷徹な事実。
異端の吸血鬼が告げる絶対不動の起こるべき事態。
「明日、魔理沙が死ぬわ」
続く
後編を読むのが楽しみです
凄く見所が多く面白いです。
これから読む後編も楽しみですね。
けれでも悲しい中にも希望を残しながら進む
お話が非常に魅力的です。
後編も拝見させていただきます。
まだ前編なのに目から汁が出そうだぜ。
人間も妖怪も、それぞれに儚い存在なんだなぁ…
既に目から液体が駄々漏れな件。
この淡々とした進みぐあいはパチェだから映えるんですね。
後編に行ってきます。
長いのにスラスラ読めました
俺 泣いてる?
東方SSでは書き古されたテーマだけど、それを最高のクオリティにして書き上げる作者様の力量に感服です。
咲夜の死後、魔理沙が帰った直後
誤)間接が所々曲がってるけどまあいいや。
正)関節が所々曲がってるけどまあいいや。
良い作品です。この感動のまま後編へ行きます。
それとは裏腹にシリアスな内容
しかも読みやすく、続きが気になる
これで前編……そんなばかな。
後編へ急がないと。
ところで……
>血なまこ
とあるのですが、「血まなこ」ではないでしょうか。
水を差すようなまねをしてしまい、申し訳ないです。
この作品に出会えてよかった……後編いくぞう!
実に読みやすいし、すごい。後編に行きます。
後編も読ませていただきます
後編、行ってきます
とても面白かったです。後半行ってきます。
寿命ネタがバンバン出てきて嫌な感じがしてきたんだけど、けどやっぱりうるうると来るのは止まらない。
というわけで今はこの程度で。
後編行ってきます。
後編読んだら噎び泣きそう