死が近くなると、あの世へのきざはしが見えてくるらしい。
馴染みの公園でベンチに座って虚空を見つめていると、なにかこの世ならざる世界が、夕暮れの空に透けて見えた。空に映し出されたのは、どこか古い寺院と、そこに舞う季節はずれの桜の映像だった。夕陽の赤には干渉を受けず、夏の空に透けて、桃色のままで舞う桜。それを私は、昔のこと──妻や友人達と花見に興じた記憶──を思い出しながら見つめていた。
公園で遊んでいる子供達にもその親にも見えていないらしいその景色を、死の世界のものだと、私はなんとなしに感じていた。現世から零れ落ちそうになっている私にだけ見えているもの。家族に比べてこの手の才能は無いと思っていたのだが、死ぬ直前になって僅かながら発露したらしい。
よく酒を酌み交わしていた昔からの友人は、病気やらなにやらですべて死んだ。何の因果か、特に健康に気を遣った覚えも無いのに、私だけが生き残ってしまっている。私の子供の代にも死人が出始めているくらいだから、本来なら私の代の人間はとうに死に絶えていてもおかしくないのだが。
皆が死んでひとりきりになると、不思議なほどに、何かをしようという意欲がなくなった。他人の死を経験するたびに、私もだんだんと死に近づいていったのだろう。かつて趣味にしていた写真も、今はもうカメラに触ることすら無くなってしまった。
生きていたところで何かをすることもなく、かと言って自分から命を絶とうとも思わない。日がなこのベンチに座って、何を思うことも無しに子供達を眺めているだけ。そのように過ごしていた私にとって、死の世界の景色は、どこか安らぎを与えてくれるものですらあった。
意識をそこに委ねると、私のことも優しく迎え入れてくれそうな、妖しい魅力。それに惹かれて、私はベンチから腰を上げようとしていた。こちらに近づいてくる軽い足音を耳にしても、気に留めることはなかった。
「ねえ、おじいさん」
だから私がその女の子を認識したのは、彼女が私の枯れ細った右腕を掴んで、声をかけてきた時だった。
ワイシャツとスカートという制服や背丈から判断するに、中学生くらいか。知らない子供だとは、振り返る前からなんとなしに分かっていた。孫にこのくらいの子供がいないわけではないが、いずれも遠いところに住んでいる。ここで偶然に出会うなどということはありえないはずだった。
私の顎の高さにあるその子の顔を眺めると、果たして、初対面以外のなにものでもなかった。彼女は、どうしてかやけに嬉しそうに、まるで期待か何かで輝いているような目で私を見つめていた。
会ったことも無い女の子が、私のような者に何を期待することがあろうか──思っていると、答えが、女の子の口から発せられた。
「おじいさん、あそこに、何か見てたでしょう? 何も無い場所なのに、引き込まれそうなくらいにじっと見てたわ。私、そういうのに興味があるの」
言いながら女の子は、私の手を引っ張ってベンチに座らせた。そして自身も腰掛けて、「ねえ、何を見てたの?」と満面の笑みで問うた。
『彼方より此方を』
/1
「おじいさんが普通は見えないものを見られるみたいに、私の眼もちょっと変わってるのよ」
彼女が自分のことについて語り始めたのは、私が見たままを話してよいものかどうか躊躇しているのに業を煮やしたからかもしれないし、単純に自分のことを語りたかっただけだったからかもしれない。私はひとまず、彼女の話に耳を傾けることにした。
彼女は、星を見ることで今の時間が分かり、月を見ることで自分のいる場所が分かるのだという。一種の超能力か何かか。それを信じる根拠も無いが、頭から疑ってかかるほどの偏見も無い。私の家系も妻の家系も、普通の人には見えないものが見えてしまうという者が多かったためだ。得意げに話す彼女に、だから私はさほどの驚きも無く「ふむ」と頷いていた。
「不思議で……素敵な眼だね」
言うと彼女は、「でしょう?」と嬉しそうに笑んだ。彼女がその眼を大切にしているらしいと推し量れる。
「証拠も見せてあげたいんだけど……夜になるまで、あと一時間くらいここで待っててくれる?」
「構わないよ。……私が待ってるということは、君はどこかへ行くのか?」
「学校帰りですもの。夜に制服でうろついてたらおまわりさんに捕まっちゃうわ。それにお腹も空いたから、何か食べてきたくて」
言って彼女は、鞄を片手にベンチから立ち上がる。たとえ制服でなくても、特に大人びたわけでもない彼女の外見では夜に出歩くと警官に呼び止められるだろうが。
しかしその眼の能力とは、空腹では発動しないといったようなことがあるのだろうか。腹が減っていては見えるものも見えないなどと言っていた親戚がいた気がしたので訊いてみたが、「そういうわけじゃないわよ」と彼女は笑って、公園を出て行った。
左手首の腕時計に目をやる。十八時三十四分。一時間ほどを待つ間に、『向こう側』に誘い込まれはしないだろうか──思いながら視線を、彼女が来る前まで向けていた宙へと戻す。
赤い空を背景にした、半透明の、ここではない世界。先ほど私が捉われたどこか狂気じみた魅力を、今は不思議と感じない。彼女が戻ってくるまでは待とうという意識が私をここに繋ぎとめようとしているのだろうかと、そんなことを思った。
彼女が戻ってくるのに要した時間は一時間二十分ほど、時刻にすると八時になる直前だった。一時間という言葉を真に受けて、八時になっても来なかったら帰ってしまおうと思っていただけに、ちょうどよいぎりぎりのところに来たということになる。
白いTシャツと短く黒いスカートに着替えてはいるが、白いワイシャツと紺のスカートだった先程と、この暗闇の中ではほとんど違いが見つけられない。目立つ変化はただ一つ、帽子を被っているということだ。黒い帽子の山の部分に、白い帯をリボンのように巻いてある。白と黒で固めるのが好きなのだろうか。
「よかった、まだ待っててくれて」
「もう少しで帰るところだったがね」
「遅刻癖って、なかなか直らないものなのよねえ……」
遅れた負い目など欠片も無さそうに、彼女は私の隣に座る。こちらも特段責める気はないが、豪胆とは感じさせる。「さっそくだけど、あれ見て」と、彼女は指先を天に向けた。ここで待たされていた私としては、その先に何があるのかもちろん分かっているのだが、従って上を見てみる。
今日は雲が無く、空気も澄んでいるのだろう。彼女が差す先には、いくつもの恒星が輝いているのが見える。「二十時二分二十秒──」私が空に目を向けたのと同時、隣から彼女の声が聞こえた。
「ほら、時計くらい持ってるでしょ? 早く確認してみて」
彼女の意図に気づいて、私は左の手首に目をやった。二十時二分二十七秒、二十八秒──なるほど、彼女の能力というのは確かなものらしい。私の目を盗んで時計を見たのでもなければ、だが。
私が時計を見るのを確認するでもなく、彼女は星を見つめ続けていた。「二十時二分三十秒」とまるで時報か何かのように呟く。
奇妙な子だ、と私は心の中で口にした。するといきなり彼女がこちらを向いたので、実際に声に出していたかと慌てたが、そのようなことはなかったらしい。「どう、信じた?」と彼女はこころなしか胸を張った。
「あと、場所も言う? 月が出てるから分かるけど」
「場所なら私だって分かってるさ。君の眼については信じよう。……もともと、疑う気もあまり無かったがね」
「そう、じゃあおじいさんも話してくれる? さっきここで何を見ていたのか、あるいは……」
言葉を切ると、彼女は私から視線を離し、宙に向ける。今度は時間を呟くことは無い。なぜなら彼女が見ているのは、空ではない。空に向いてはいるが、空ではない──ついさっき、私が心奪われ、ぼうと眺めていた場所だ。
「あるいは、今も見ているのか」
まるで犯人を追い詰める探偵にでもなったかのように──帽子が、いやに似合っている──会心の笑みを、彼女は私へと向けた。逃げ場を失った犯人というわけでもないが、特に誤魔化そうという気も起きない。冥界が見えたなどと子供に言うのはどうかと最初は思ったが、彼女は見た目とは裏腹に精神的に成熟して、落ち着いているように思う。どちらにせよ、あの寺院が私の想像どおりの場所なら、彼女にとってはまだまだ遠い場所なのだ。
話してあげようと私は思い、ふう、と大きく息を吐いた。まるっきり、諦めて自白を決めた犯人の役柄だ。
「特に面白みも無い、古い寺院だよ。桜が咲いているのが奇妙といえば奇妙だが」
「桜って……夏なのに。季節はずれね。何かその場所に心当たりは無いのかしら? 以前行ったことがあるとか」
「まったく記憶に無い……まあ勘でしかないが、あれは冥界ではないかな」
「冥界? 死者の国?」
「そう。私みたいにもうすぐ死にそうな奴は、冥界の一つや二つ見えてもおかしくないと思わないかな?」
そこまで聞いて、彼女の表情に少し陰りが見えた。口が滑ったか、と私が思っていると、どうやらそうではなかったらしい、「うーん、ちょっぴり期待はずれかなあ……」と彼女は溜息をついた。
「期待はずれとは?」と私が訊くと、彼女は取り繕ったような笑顔を見せた。
「もう少し、私と似た感じの……純然たる超能力者みたいなのを期待してたのよ。おじいさんのは、死が近いから死の国が見えるっていうみたいだけど……ちょっと違うのよね、それは」
「ふむ、ご期待に添えなくて申し訳ない。……しかし、どうして、純然たる超能力者とやらを探していたのかな?」
「どうして? えっとね……うん、そう、話し相手みたいなのが、欲しかったのかな」
何も見えていないだろうに虚空に視線を移して、彼女は話し続ける。
他人事のように語るそれが本心なのかどうかは、私には分からない。ただ、もしも本音なのだとしたら、それは年相応の脆さと言えるのだろう。
私の娘には、一人の親友がいた。友人が他にいなかったわけではないようだが、とりわけその一人とは交流が深かった。娘がその一人を大切にした、その一人に娘が大切にされた理由は、傍目にも予想がついた。娘が母の血を継いである程度の霊感を備えていたのと同じように、その親友というのも、普通では見えないはずのものが見える素質があったのだ。
普通ではないという共通項が、二人を結び付けていた。そしておそらく、私の目の前にいる彼女には、そのような存在がいないのだ。
話し相手。もはややるべきことを失くした私にも、その程度のことができないはずも無い。だが、下手に長い付き合いになるのも躊躇われる。なにせ、私には死の国がすぐ近くに見えてしまっているのだから。
そんな私の逡巡を知ってか知らずか、彼女は何かを思いついたように「あ」と間の抜けた声を出し、私に向き直った。彼女のその行動を見て、ほとんど確信に近いある予感が走る。果たしてその通りに、彼女は口を開いた。
「おじいさん、暇そうにしてるけど、明日もここにいるのかしら?」
「……たいがい暇にしてるから、明日もここにいるだろうね。冥界が見えるくらいだから、いつ死ぬか分からないが」
「死んじゃったら、お葬式には行ってあげるわ」
「……そうか。それは、嬉しいな」
それは簡単な確認でしかなかったが──彼女が納得してそれでも望むのならば、付き合ってあげてもいいだろう。
彼女は口元を緩め、勢いよく立ち上がると、公園の出入り口へと向かって歩き出す。その途中、ベンチから動かずにいた私へと振り返った。
「それじゃあ、約束したから! 明日もここにいてね!」
言って、軽い足取りでまた歩き出す。
何か約束などしただろうかと惚けてみても良かったが、もとよりその勝手な約束を破る気も無いと思い直し、私はただ彼女を見送った。
妙なことになったと感じながら、しかし、少しくらいは相手になっていいかとも思う。それは、普通では見えないものが見えるという孤独と、私がそれなりに近い距離にあったからだろう。そのような者が多い家系、子や孫が同年代の友人との間に線を引いてしまったというような問題は聞き慣れていた。
かつて、そういうものが何一つ見えなかった私には、それらに対処することは難しかった。しかし今なら、さっきの彼女が望むような形ではないにしろ、一応は同じ場所に立てている。
その認識が、明日も、もしかしたらそれ以降も、私をこの場所に連れてくるのだろう。そんな予感が胸にあった。
どれくらいの時間になるかは分からないが、付き合ってやろうと、私はこの時、思っていた。
◆ ◆ ◆
/2
「思ったのだが、君の能力には、何か確固たる原理のようなものはあるのかな?」
しばらく前から胸の内にあったその問いを投げかけると、彼女は意味が分からないといったふうに、小さく首をかしげて私を見返した。
私の家族、親戚筋には、たとえば霊であったりそれ以外であったり、とにかく普通では見えない何かを見ることができる者が多かった。だからこのような能力、いわゆる霊感といったものについては、自分なりにある程度は解釈できている。要するに、霊やらなにやらはたしかに存在していて、しかし私には見えていない、触れることも感じることもできないというだけの話だ。彼らは私より少し目が良く、私は彼らより少し目が悪いだけなのだ。
しかし、彼女のそれは、少し違うように思える。月を見て場所が、星を見て時間が分かる──その能力を原理付ける説明が、少なくとも私には浮かばない。月を見て時間を、星を見て場所を知るというならば、彼女が呟く時間のその正確性を度外視すれば、分からない話でもないのだが。
ただそうあるだけの超能力であり、原理など無いというのならば、それで仕方ないともいえる。だから私の問いは、あまり答えを期待したものではなかった。
「原理かあ……あるような無いような……」
「ふむ? それはどんな……」
「簡単に教えるのは勿体ないなあ。『いちおう原理みたいなものはある』ってのがヒントってことで」
言って彼女は、くすくすと笑う。ヒントをくれるということは、答えを期待しているということだ。そのヒントも、答えが存在するといった程度のものでしかないが。
彼女の能力については、出会った頃よりもいくらか理解を深めたつもり──たとえば日本標準時でしか時間が分からないだとか、時間を読み取るのは秒単位であるとか──だが、だからと言って分かるような問題ではない。
「そうだな……」と私が口にし始めたのは、ほとんど勢いに任せてのようなものだった。ふとした思いつきである。
「君は月と星を見ることで、場所と時間を知る」
「ええ、そうね」
「考えたんだが……月や星を見るというのは、つまり君が月や星に見られるということじゃないか? 月や星は君のことを見ていて、光によって場所や時間を伝えてくれる。……こんな解釈ではどうだろう?」
言葉にするうちに、私自身、その解釈を飲み込んでいった。言ってみると、それなりに面白い考えではなかろうか。理も何もないかもしれない超能力というものにおいて、張りぼてではあるが理屈が見出せているように思う。
少しばかり自信を持ちつつ彼女の反応を見ると、驚きにであろう、丸くなった目に出会う。きょとんとしたその顔を見て、これはもしや正解かと思ったが、次の瞬間、彼女は楽しそうに腹を抱えて「なるほど、ね。そんな解釈もあるかー」と笑い始めた。どうやら不正解であったらしい。
「いや、おじいさん、意外とロマンチストね。面白いわ、それ」
「正解するつもりだったんだがね。……ところで、本当はどんな仕掛けなんだい?」
「正解、かあ……うん、その前に復習ね。私の能力は『星を見て時間が、月を見て場所が分かる能力』よ。これはいいでしょ?」
「ああ、分かっているよ」
当たり前の確認に私が頷くと、彼女は言った。「それが答え、らしいわ」
それだけではもちろん、彼女が何を言わんとしているのか分からない。私は続きを促した。彼女は小さく頷いて続ける。
「私が見られる時間はJSTだけだってのは言ったわよね?」
「いつだったか聞いたね」
「じゃあ、私は私の知っている地名でしか場所を見られないってことも言ったかしら?」
「……それは初耳かな」
その事実が示す意味に、私は頭を傾けた。
見られる時間はJSTのみ、場所は知っている地名のみ。おぼろげながら導き出される答えは、主観だ。彼女の能力は、彼女の意識や知識、彼女自身の主観に強く依存しているということである。なるほど、先ほど私が述べたような説とは趣が異なるかもしれない。月に場所を教えてもらうというのであれば、たとえ知らない地名でも頭の中に浮かぶといったイメージの方が似合っている。
「本当は場所も時間も、常に私の中にある。ただ、私には分からないだけ」
「分からない? よく意味が分からないな……たとえばだが、君には、君がこの公園にいるということも分からないと?」
「分からないわ。私は、この公園のどこにいるのかしら。こうやってベンチの前に足を着いているから、ベンチの前? ベンチの上に座っているから、ベンチの上? 片方の足が公園の外にあって、片方の足が公園の中にあったらどうなるのかしら。私の居場所を定義するのは、私のどの部分? 心臓? それとも脳?」
一、二ヶ月ほど彼女と付き合っているうちに、分かったことがある。
彼女は、自分の領域で話し始めると止まらない。話したいことができてしまうと、他の横槍を許さない。いや、横槍をもろともせず一人で話し続けるのだ。
こうなった彼女は、ただ喋らせておくほかない。私にできるのは、理解の及ぶ限り彼女の話を咀嚼し、話を振られた時に何か答えるくらいである。
彼女が話した中身を噛み砕いたならば──そもそも、人間とは体積を持った存在であるため、その居場所を絶対的に定義することはできないだろうということらしい。
たとえ話として彼女は、東京と京都に足を着いた巨人をイメージするように言った。彼あるいは彼女は東京と京都のどちらにいるだろうかと問われたので、日本にいるというのでは駄目かと答えると、そう、そうするしかないのよねと笑っていた。
時間についても、似たようなことが言えるらしい。自分は星を見て秒単位で時間を知る、彼女はそう前置いて、ではどうして秒単位なのかと私に問うた。ミリセコンドでもマイクロセコンドでもないのは何故かと。
そんな細かい時間を君は認識できるのかと問い返すと、これが正解だったようで、「そう、私には秒単位が他のどれより意味のある理解の仕方だからよ……それより小さな単位で理解しようとしても、認識が追いつかない」と呟いた。
まるで教師のように、時折質疑応答を交えながら、彼女は講義を進めていった。
「本来、人間という存在において絶対的な居場所の定義はできない。絶対的な時間の認識もできない……はずなんだけどね。
どうやらそうでもないみたいで、人間には……いえ人間に限らず、すべてのものは、それぞれ自身の時間と空間、つまり居場所と時間の把握をしているらしいわ。ただ、それを認識することができないだけで。
私の中にも、それはある。私の身体のどこを基準にしてるのか分からないけど、ともかく私の絶対的な座標定義があって、私には認識できないくらいに極小で精密な、絶対的な時間の刻みもある。本当なら人間に認識も理解もできないはずのそれを、月や星の光を見ることで『分かる』──いくらか丸めて脳内に出力するのが私の眼の能力ってことらしいわ……」
と、彼女はそこで唐突に話を止めた。はっとしたように口をつぐんでいた。
らしい、というその言葉の意味を私が問うより前に、彼女は苦笑を向けてきた。
「どうして月や星の光で『分かる』のかは知らないのよね。だから、原理はあるようで無いようなものなのよ」
私が何を訊こうとしているのか気づいているのだろうか。
彼女の話が漂わせる、伝聞の匂い。彼女は自身の能力について、関連する事柄も含めあれだけ詳細に、いったい誰に聞いたというのだろう。
だが私の追及を避けるかのように、彼女は空を見上げた。「十九時二十九分、五十秒、五十五秒……」いつものように、星を見て時を数える。話が長引いて星が出てきた時、彼女が頻繁に見せる習慣であった。
「十九時三十分ジャスト! そろそろ帰ろうかしら」
言って、止める間も無く立ち上がる。私が何かを言うよりも先に、「それじゃあ、また明日ね!」と走り去ってしまった。
また明日というからには、明日も何事もなくここに来るのだろう。後に残された私にできるのは、そう思いながら彼女に手を振り返すくらいだった。
◆ ◆ ◆
/3
雪が降ってからも、私はそこにいた。
さすがに夏や秋にそうしていたように星が見えるまで長々と話していることは無くなったが、それでも毎日のように彼女はここに来たし、私もここにいた。さすがに年末年始はいくらか休業と相成ったが、年明けから二週間が経った頃には、また公園に集まる習慣は復活していた。
その日は、互いが互いのことをほとんど知らないということについて、彼女と雑談していた。
お互いの素性をほぼまったくと言っていいほど明かさなかった理由について、はっきりと何か挙げることはできない。
少なくとも私は当初、冥界が見えるほどに自身の死は近いという事実を傍らに抱いていた。私が死ねば当然ながら、私がここに来ることは無くなる。ここに来ても私がいないため、彼女もこの場所を訪れることは無くなる。そうやって自然に消滅する程度の関係がいいだろうと、そんな考えが心の底にあったことは事実だ。
しかしどうにもそれ以来、自分が死ぬという気がしなくなった。彼女と出会って、何か自分のすべきことを見つけたためだろうか。人間、やはり最後には肉体よりも精神の方が重要ということなのかもしれない。
幸いと言うべきか、視界に浮かぶ冥界の風景が消えることは無かったので、彼女に死の国の様子を問われた時に、いつも通り桜が舞っていると返す程度のことはできた。死から多少遠ざかったとはいえ、冥界を見る眼力は私の身に定着していたらしい。
彼女の方は、これがまた、特に名など交わさなくとも会話が成立しているので良しとしているふしがあった。
「その方がなんだかミステリアスじゃない?」とも彼女は言うが、既に半年近くこうして顔を突き合わせている相手に神秘的な雰囲気も何もない。
実際、彼女は私を「あなた」「おじいさん」と呼ぶだけで事足りるし、私も今さら名前を教えてもらったところで、「君」という呼び方を変えられる気はしなかった。たとえば小さな頃の孫にそうしたように、「○○ちゃん」などとちゃん付けするような相手でもない。むしろ彼女の方が気味悪がるだろう。
そのようなことを話していて、彼女が「お孫さん? いるんだ」と反応するに至って、私は自身の失言を悟った。孫について何か聞かれたところで、ほとんど答えられることは無い。罪悪感の類だろうか、何かが胸を重くするのみだった。
しかし、彼女がそれ以上を切り込んでくることは無かった。お互いに素性は知らないままでいいといった話をしていたとはいえ、好奇心に溢れる彼女としてはやや意外さも感じさせた。
やはり、孫のことなど知らずとも話はできると考えたか。それともなんとなしに私の胸中を悟ったか──どうしてか後者の気がして、内心で礼を言っておいた。
その日の話の結論としては、特筆すべきことも無い。
一度定まってしまった関係は、おそらく簡単には変わることは無い。私達はこの先も、このベンチで、それほどに意味の無い雑談を繰り広げていくのだろう──どうやら彼女も、私と同じような考えにたどり着いたようだった。
その日、それくらいを話して彼女は帰っていった。常ならば私も彼女と同時にベンチから腰を上げるのだが、その日はなんとなしに、一人で考え事を続けていた。
孫の世代の女の子とこうやって普通に雑談をしている自分を思うと、心の中に浮かんでくる念がある。かつての自分もこんなふうにできていれば──そんな、後悔じみた感情だ。胸に絡みついた重さが、実体を持ち始める。
何人かいる孫の、そのうちの一人のことを、私は思い出していた。
会ったことは、片手の指で数えられるくらいしかない。最も疎遠になってしまった孫娘。両親が忙しく、こちらにやってくる僅かな時間も確保できないとのことで、もうおよそ十年近く会っていない。だが、十年前には会っていたのだ。顔を突き合わせていたのだ。
しかし当時の私は、小さな女の子にとっては怖い爺さんにしか見えなかったらしい。私もできるかぎり優しく接したつもりだが、いま思うと、いくらかぶっきらぼうになっていた部分もあったかもしれない。
そのため今も嫌われたままなのかというと、おそらくはそこまででもない。
その理由としては、彼女と疎遠になっている原因が、両親が時間を取れないという事実にあるのだと知っている、といったことがある。
あるいは両親含めた家族全員に距離を置かれているのではと考えることもできるが、しかし実際のところ、両親共に働き尽くめで時間が無いのだ。この国にいないこともしょっちゅうと聞いているし、私としても、こちらに来るような時間があれば、身体を壊すことが無いよう家で休んでいて欲しいと思うくらいだ。
私が死んだとしても、彼らが葬式に来れるかどうかは微妙であるかもしれない。特に会うことが無いというこの距離感は、まったくもって自然なものと言える。
孫娘達との関係が良好ではないが悪くもないとするのには、もう一つ理由がある。
孫娘に関わるこれまでのことを回想して、その最後にやってくるのは、今年の年賀状なのだ。家族の写真付きで送られてくるそれに、孫娘の姿もあった。軽い近況報告が、おそらくは孫の字で描かれていた。もうすぐ中学を卒業するとのことだった。先ほどまで隣にいた彼女もちょうど同い年くらいであろう。私はそれを、おそらく顔を緩ませて見ていたのだと思う。
しかし、その年賀状のことを思った時、私の胸には嬉しさだけでない、どこかざわつく部分があるのも確かだった。
ほとんど会うことも無い、記憶に残ってすらいないだろう祖父に、一年に一度とはいえ律儀に近況報告してくれる良い子……それだけの理解で年賀状を、その写真をめでたい近況報告と断じることは、私にはできなかった。
写真の中の、孫娘の笑顔。それが本当に心からのものなのか、私には判別がつかなかったのだ。
仕事に忙殺され、あまり会うことすらできない両親。家の中でおそらく孤独を感じていたであろう孫娘に、私は何一つ手を差し延べてやることができなかった。うまく接してやることができなかった。
そのうちに妻や知人が立て続けに死んでゆくようになって、私はいつしか孫娘のことを考えたりはしないようになっていた。何一つを、考えないようになっていた。その時期にも、彼女や両親との繋がりは、細いけれどもたしかにあったはずなのに。
いつだったか、友達がうまく作れないようだと両親に心配されていたことがあった。あれはどうなったのだろう。たしか原因は、普通の人間には見えないものが見えることだったはずだ。それはうまくおさまったのだろうか。ちゃんと今は友達もいて、楽しく過ごしていて、そうして笑っている写真を送ってきてくれているのだろうか──。
先ほどまで隣に座っていた、彼女の笑顔。それを思い出していると、孫娘がああやって笑えているのだろうかと、恐ろしいほどの不安が湧いてきた。
──どうして私は、今までこうやって孫娘について考えることが無かったのだろうか。心配も後悔も溢れてきて、止まりそうになかった。
電話をかけてみようと、今さらながらに思った。もちろん、特に用事があるわけではない。だが、まずはそうしなくてはならない気がした。私と孫娘の間の距離などは、既に遠ざかって固まってしまったのではないか? 疑念には、首を横に振った。
ベンチから腰を浮かせる。よく冷えた空気の中、暗い夜を背景にして、星が輝いているのが見えた。彼女はこれを見て、また時間を呟いているんだろうか。
ありがとう、と伝えたくなった。きっかけをくれたのは間違いなく彼女であり、あの時出会わなかったら、あのまま黄泉の国に魅入られていたかもしれない。そうしたら、何も無い、できないままで、私は死んでいたかもしれなかった。
明日、出会い頭に面と向かって言ってやろう──思いながら、私は家路についた。
◆ ◆ ◆
/4
「え、それってもしかして……アナログのカメラ、よね?」
「もしかしなくても、そうだよ」
「ちょっと見せてくれる?」
ああ、と答える私から奪い取るようにしてカメラを手中に収めると、彼女は興味深そうにその細部を観察し始めた。
私がしまいこんでいたカメラを引っ張り出してこの場に持ってきたのは、ほかでもない、彼女の姿を映すためだ。学校帰りであることが多いためか、彼女がここに来る時はそのほとんどが制服を着てというものだったが、今日でそれは最後だ。
明日は彼女の卒業式。式の後は友人と遊びに行くためここには来れないと言っていたから、私にとっては彼女の中学校の制服はこれで見収めになるだろう。せっかくだからその姿を写真に残しておこうというわけだ。
彼女と出会って、およそ半年ほど。いくらか連絡を交わすようになったとはいえ、遠くにいて会うことの無い孫よりも、よっぽど孫のように接しているかもしれない。
「よかったら、そのカメラを貰ってくれないかな?」
「……え? いいの? こんな高いもの」
「自慢じゃないが、まだ幾つか持っているのさ」
ついついそんなことを口にしてしまうあたりが、私の彼女への入れ込み具合を物語っている。彼女に言った通り、家にはまだ他に幾つかカメラがある。この先自分が撮る分には差し支えないし、昔ほどの興味を無くしてしまった私よりも、目を輝かせてカメラをいじっている彼女に持っていてもらったほうが、カメラのほうも幸せというものだろう。
ファインダーを覗き込んで辺りを眺め回しながら、彼女は興奮した様子で溜息をつく。
こんなに楽しそうにしている彼女を見るのは久しぶり……いや、初めてと言って良いかもしれない。「太陽を見てはいけないよ」「そのくらいわかってるわ」歌うように返しながら、彼女はファインダー越しに何かを見つめ続ける。
「おじいさん、すごいわね……こんな珍しいもの持ってるなんて」
「昔は写真を撮って回るのが趣味でね……」
「写真を撮るだけならデジタルでもいいんじゃない?」
「デジタルは性に合わないのさ」
彼女の言う通り、アナログのカメラなどというものは、パソコンでほとんど何でも為せるようになったこのご時世ではかなり珍しい部類に入る。写真を撮るにはわざわざこんなものを使うより、デジタルカメラを用いるのが一般的というものだ。
しかし私と同様、写真を趣味にしている者には、デジタルより昔ながらの銀塩写真を好む者も一定数いる。アナログのカメラを所持している者は捜せばそれなりにいるだろうし、そして当然ながら、数は少ないが、現像を請け負っている写真屋もいくらかは存在する。
しかし珍しい物事には往々にして金がかかるものであり、アナログ写真はもっぱら金持ちか、私のように他に金の使い道が無い老人の道楽だ。どうやらアナログ写真に興味があるらしい彼女も、子供であることに変わりは無い。今まで手出しすることはできなかっただろう。
「そんなに好きかい? アナログのカメラが」
「好き……と言うより、憧れが近いかしら。ずっと前から欲しかったの」
「ずっと前から?」
「そう、ずっと前から。もう十年くらい前かなあ……」
懐かしむように目を細める彼女は、しかし昔のことを話す気は無いようだった。
「アナログカメラってね、世界を切り取るのよ」彼女は言って、またファインダーを覗き込む。
「世界を切り取る?」
「そう。アナログカメラはね、世界をその光のままに写し取るから。デジタルだとそうはいかないのよ……あれは、世界の絵柄をデータとして記録するだけだからね」
「よくわからないが……世界を切り取ることができると、何か良いことがあるのかな?」
「うん、重要なことだけすごく簡単に言うとね……写真の中の月や星に、私の能力が効くのよ」
言いながら、カメラを空に向ける。まだ昼日中だ。星も月も見えてはいない。
写真に写された月や星に能力が効く……それを聞いて、私の中に疑問が立ち上がる。彼女は以前、自分の中には絶対的な場所と時間の刻みがあると言った。月と星を見ることでそれを認識するとも。
では、たとえば遠く離れたところの写真を今この公園で見たとしたら、彼女に分かるのは、その写真の中の場所と時間であるのだろうか。それとも、この公園という場所と今この時という時間なのだろうか。質問をぶつけてみると、「違う違う、そんなんじゃ何も面白くないじゃない」との返答だった。
「そのまま文字通りに世界を切り取るの。物理的ではなく、精神的な領域でね……まあ、切り取られたところで減るものでもないけど。写真に撮られると魂を抜かれるって言うのは、そのせいね。当たらずとも遠からず。
写真っていうのは、世界の記憶なのよ。そのありのままを、光の力で写し取る。映されて保存された世界に意識を集中することは、その中に意識を移すということ……つまり、精神的な位相において、そこに行くということなの。私の居る場所も時間も、その写真の中、そこに切り取られた世界ということになるわ」
興奮した面持ちの彼女の話を、私は私なりに咀嚼する。つまり元の質問の答えとしては、『アナログ写真であるなら、彼女は写真の中の時間と場所も分かる』ということになる。その真偽はともかく、彼女の話している内容については理解したつもりだ。
しかし、一つ気になることがあった。アナログの写真であるなら、彼女は写真の中の時間と場所も分かる。そして彼女は今、そのアナログカメラを手に入れたわけだが──それを彼女は、どうしてこんなにも喜んでいるのだろうか。言ってしまえば、たかだか写真に写った場所と時間が分かる程度だ。
「アナログで撮られた写真と言っても、本に載ってるようなコピー品じゃ駄目よ。実際にフィルムから現像された一次のものじゃないと」
得意げに話し続けていた彼女に、私は割って入る。写真の中の時間と場所を分かる彼女は──。
「君は、そのカメラを使って何をするのかな」
「何をって? 写真を撮るに決まってるじゃない」
「ああ、いや、違うんだ……君は、そうして写真を撮って、何を楽しむのかなと思ってね」
私が言い繕うと、彼女はそれだけで私の意図を理解したようだった。どうにも彼女は、頭の回転が速い。
「そうね……」と顎に手をあてて数秒考えると、私に向き直った。
「写真に意識を集中すると、精神的な位相においてそこに行くことができる──って言ったけどさ、実際、嘘くさいと思わない?」
そうして彼女から飛び出した言葉は、私を面食らわせるに十分なものだった。彼女は、くすと笑って続ける。
「たぶんね、それが普通の人の認識として正しいのよ。だって、写真に保存された世界に意識を移すなんて……おじいさんは今まで何度もアナログの写真を見てきたと思うけど、そんな感覚、無かったでしょう?
でもね、私は実感できるの。その世界に行っていることを。自分がその場所、その時間にいるという感覚で。私にとって何よりも確かなもので。だからなのかしら、写真の中の世界に対する感性とでも言うのかな、そういうものもおそらく人に比べて優れてるんでしょうね。
本当に、すごいのよ。写真で見るより実際に行ってみた方が良いに決まってるなんて思うかもしれないけれど、そんなことないわ。だって、実際に、その場所に行っている。そんなふうに、世界を感じられるんだもの」
うっとりとした表情で、カメラを、あるいはそれ以上に大切なものを抱き締めるようにしながら、彼女は言葉を紡ぐ。
私と彼女の間の、確かな断絶。彼女の能力を知った時には思わなかった──私に見えてないものが彼女には見えているという、どこか寂しく、しかし憧れのように眩い認識が胸の奥からやってくる。
しかし思えば、私が見る死の国も、彼女には見えないものなのだ。
この場所で、ベンチに座って何かを見ていた私に、声をかけてきた彼女。その出会いの意味が、いくらか分かったような気がした。
◆ ◆ ◆
/5
彼女はおそらく、高校の一年生というこの年頃の他の子に比べると、頭が良く、知識も豊富だ。
そして、これに関してはどうかと思う部分もあるが──殊に、オカルト関連の話題に強い。
「学校で習うことなんてどれも簡単すぎるわ……特に物理だけなら、私、飛び級してもいいんじゃないかしら」との言葉を信じると、どうやら他にも得意な方面があるようだが、しかし少なくとも私の前では、およそ普通に暮らすうえでは必要ないであろうオカルト関連の話の割合が多い。出会いのきっかけを考えると、仕方ない部分もあるのかもしれないが。
しかし彼女は、それにしても、一部について奇妙なほどに知りすぎているきらいがあった。彼女自身の能力──彼女の中に絶対的な座標定義があるやらなにやらの辺りは特にそうだと言えよう。いつしか持っていたそんな疑念が、いつか彼女がその話の中に漂わせた伝聞の匂いと繋がった。
彼女の知識は、誰かの受け売りという部分もあるのではないか。そんな問いに、「うーん、まあ、おじいさんなら話してあげてもいいか」と呟いた彼女は、すうと姿勢を正して、懐かしんでいるような穏やかな笑みで、そう語りだしたのだ。
「昔にね、不思議な女の人に会ったのよ」
彼女にとってそれがどんなに大切な思い出なのか、すぐに理解できた。彼女に会っておよそ一年、夏が終って秋が過ぎて、冬を越えて春の面影が消えゆき、そしてまた夏になろうとしている。この時間が彼女にとってどれだけの意味を持ってくれているのか──少なくとも、それほどに悪くはないと思ってくれているのだろう。その時間を以ってして、やっと聴くことのできる話なのだ。
「たぶん私が五歳になるかならないか、そのくらいだと思うけど。いつどこでなのか、正確には憶えてないの。
どんな場所だったかは憶えてるのよ。草原がひたすら広がってて、真っ青な空がその上にあって、雲の白が高く積み重なって……緑と青と白、それ以外には嘘みたいに何も無い、そんな場所。そんな場所なんだけど、心当たりが無いのよね。
いま、この国のどこにそんな風景があるのかしら……うん、たしかに親戚の葬式とかで田舎の方に行ったことはあったかもしれないわ。でもね、私はこう思うのよ。そこは、こことは違うどこか、夢の世界だったんじゃないかって」
「夢の世界?」と私はおうむ返しに言った。ふとすると、彼女は空に目を向けていた。出会ったあの時に私が見ていた、そして今も見えている、死の世界。それを目に映そうとするように、彼女はぼんやりと空を見上げていた。
「そう、夢の世界。とにかく、私はそこにいたの。過程をすっ飛ばして、いつのまにか。
……本当にいつのまにかなんだから仕方ないでしょ? 子供の頃だから記憶も曖昧だし。夢遊病ってあんな感じなのかしらね。どこかに行きたいなあと思って眠ると、いつのまにかどこかにいたりして。
子供の頃って、どこか遠くに行きたいと思ってとりあえず歩いてみたら、簡単に見知らぬ場所にたどりついたりしなかった? そのうち道に迷ってることに気づいたらすごく不安になって、必死に走って、それでなんとか帰り着くんだけど、その場所にもう一度行ってみようと思っても、不思議とたどり着けないのよね。慣れた道を少しずつ外れていくうちに、いつのまにか異界に踏み込んでしまうみたいな。たとえるなら、そんな感覚だわ。どうやってあの場所に行ったのか、どうやって帰ってきたのか、ぜんぜん思い出せないの」
たまに、彼女が私のことをまるで同年代の仲間のように扱っているように感じることがある。
しかし当然ながら私は子供の頃のことなど、その感覚などとうに忘れ去ってしまっている。その旨を伝えると、彼女は不満そうに頬を膨らませた。
「……まあいいや、続けるわね。
私がいつのまにかそこにいたなら、彼女もいつのまにかそこにいたわ。金髪で、紫色のひらひらしたドレスを着て、日傘なんて持っちゃって……たぶん身長は今の私より少し高いくらいかしら。顔立ちは私の年代より少し幼いかもしれないくらいなんだけど、でも女の子ってイメージは無かったなあ。雰囲気がね、貫禄がある、というのも少し違って……これもちょっと違和感ある言い方なんだけど、すごく大人びた感じだったわ。まるで、見た目よりも遥かに長生きしてるみたいな……。
人間じゃなかったっていう可能性は考えたわ。可能性というか、十中八九そうでしょうけど。少なくとも、ごく普通の人間じゃないってのは確かでしょうね。あれ以来会ってないから、確認のしようも無いけど。
そのうち向こうが『こんにちは』って言ってきて、私も『こんにちは』って返したの。そうしたら彼女は笑って──さっきは大人びた感じって言ったけど、でもね、すごく可愛く笑ってたわ。なんだか、嬉しくてたまらないってみたいに」
人間ではない、という発言に私は意識を留める。
たとえば幽霊だとか妖怪だとか、彼女はそういう、『人間以外』の存在を、ほとんど当たり前のように受け入れているふしがあった。
私の身内にも『そういうもの』の存在を訴える者はいたが、それは、自身の目でそれらを見ることができていたからだ。しかし彼女の眼は、そういうものを見るようにはできていない。それをいくらか訝しんだこともあったが、もしかしたら彼女のその考え方は、いま話しているこの出会いに起因しているのかもしれない。
「向こうがそのあと最初に言ったのは、『いい天気ね』って。実際すごくいい天気だったわね。澄み渡る青空、鮮やかな積雲……いや、もちろんそれだけじゃないのよ。その人……人? まあ話し易さの観点から人で通すけど、その人は『でも残念、月も星も出てないわ』って続けたわ。
ええ、そうね。向こうは私の眼のことを知っていた。
実際ね、月見星見で場所と時間がわかるようになり始めたのがいつごろだったかもはっきり憶えてないんだけど、その人と会った時にはもう分かるようになっていたのは確実よ。それくらいは憶えてる。
私は驚いたわ。どうして初対面なのに眼のことを知ってるのかって。お父さんとお母さんからね、隠すようなものじゃないけどあまりおおっぴらにするものでもないって言われて、他の人には教えないようにしてたから。でもその人は楽しそうに『知ってるわ。あなたのことなら何でも』って言ったわ」
もしもそのような不気味な存在が目の前に現れたら、私であれば身の危険を感じて、どうにか逃げおおせようとするだろう──笑いを含ませながら率直に感想を伝えると、彼女も苦笑する。
「うん、冷静になってみると怪しい人よね。でもほら、私も若かったってことで。眼のことを秘密にするのでちょっとフラストレーション溜まってたし、遠慮なく話せる人だと思うと、つい、ね。『月を見て場所が分かる、星を見て時間が分かる、素敵な眼ね』って──お父さんもお母さんも、オカルトに偏見があるわけじゃないから認めてはくれたけど、褒めてはくれなかったのよね。だからそんなふうに言われて、すごく嬉しかった……」
彼女の穏やかな微笑、それを見て私は、一年前のことを思い返そうとしていた。彼女が私に自身の目のことを語ったあの時、私は何を言っただろうか──おそらく、悪いことは言わなかったように思う。彼女に訊いてみようかとも考えたが、もしもお互いに憶えていないとなったらやや決まりが悪いだろうと、私は思考を心の中に押し込めた。
「その人はいろんなことを教えてくれたわ。私の眼のこと。私の中の、絶対的な時間と場所の定義のこと。それに、写真の話もしたわ」
「写真……なるほど、君がアナログの写真についていろいろ知っていたのも」
「ええ、その時に教えてもらったの。私の眼は、写真の中の月と星から時間と場所を読み取るということも。私自身が、普通の人よりも強く、写真の中の世界に意識を移せるということも。当時の私にはよく意味がわからなかったんだけど、でも不思議と、その話の中身は一語一句忘れず憶えてた。何かされたのかもしれないわね。
で、その後だけど……私、それまではデジタルか、アナログでもコピーされた写真にしか縁が無かったのね。その人が見せてくれた一枚の写真が、私の最初だったわ」
懐かしげに細めた目を彼女が向けているのは、今度は死の世界ではなかった。
その先にある空を。
日が長い夏、いまだ夕焼けの欠片も見せない青々とした空。あるいはそれよりもさらに先か。
彼女はじっと、見つめていた。
「ここじゃないどこかだった。ずっと昔の、日本のどこかってことしか分からない、空の上で映された写真よ。月が低かったからかな、地上の景色も映り込んでて、だけどもうびっくりするくらい小さくて。
でもね、気づいたら、私もそこにいたの。空の上に。その女の人も隣にいた。隣で私の手を握ってた。まるで空を飛んでるみたいで、信じられないけど、星もきらきら光ってて、月が物凄く近くて、風が吹いてて、雲が流れてて。それだけじゃないのよ、山も森も湖も……うまく言えないんだけど、暗い夜の中で、まるで生きてるみたいだった。私たちのいるこの世界ではもう見れない景色なんじゃないかって、なんとなく思ったの。
でも、ほんの少しだけだった。私もその人も少ししたら元の草原に戻ってきて。その人は『楽しかった?』って私に訊いたわ。私が頷いたら、その人はやっぱり嬉しそうに、可愛らしく笑ってた」
彼女は目線を、目の前の地面へと戻した。そのまま黙っているので、そこまでで話は終わりかと問うと、けれど首を振る。
「もう少しだけ続きがあるの」言いながら彼女は、しかし話すかどうか迷っているようにも思えた。
私がだから黙って待っていると、彼女はぽつりぽつりと言葉を繋ぎ始める。
「その人は『またあそこに行きたい?』とも訊いたわ。すぐに私は『連れてって!』って頼んだ。手に持ってた写真がいつのまにか無くなっちゃってて、でもこの人ならまた連れてってくれるんだろうと思った。
だけど、その人は……『残念だけど、それをするのは私じゃないのよ』って言った」
風がさあと吹いて、彼女の横顔を黒の髪が撫でる。
彼女はほとんど独り言であるかのように、じっと真正面を見据えて話を続けていた。それはあるいは、私の方を向くまいとしているのではないかと思えるほどに。
「『あなたをこの世界に導いてくれる誰か。あなたには見えないものを見る誰か。それが待ってる。あなたがこの世界のことを夢見てくれていたら、この場所を訪れたいと思っていてくれたら、いつかきっと逢える。だから、どうか、待っていて』」
言い切ると、彼女は自嘲げな笑みを私に向けた。
私も、彼女が何を言おうとしているのか予想していた。予想していながら、何も言えなかった。私に見えているのは死の国のみ。寿命が近い、ただの老人に過ぎない。彼女もそれを分かっているはずだった。
彼女は小さく溜息をつくと、少しのあいだ目を瞑っていた。そのまま数秒、そして目を開いてくすと笑うと、それまでのことをすべて振り払ったかのようだった。
「これで、私と変な女の人の話は終わり。どう? いろいろと謎は解けた?」
「……ああ、納得できた。そこに行くことが、君の目的なんだね」
「ん……まあ、ね。それが第一目標」
「第一目標?」
「そう。最終目標は、またそのうち教えてあげる」
時計を見ると、いつの間にか、話を始めてから一時間ほどが経っていた。「十七時二十四分、三十秒……三十五秒……」私が時計を見たように、彼女も星を見ている。少し長話しすぎたかな、とベンチを立つ彼女に、私はいつものように、「また明日」と声をかけることしかできなかった。
◆ ◆ ◆
/6
いつもいつもここに居て大丈夫なのかと、そんなふうに言ったのは、半ば呆れであり、半ば自虐であり、半ば心配でもあった。
ほとんど毎日のようにここに来る彼女への呆れであり、それを朝から夕方まで本を片手に待ち続けるほどにやることの無い私への自虐であり、そして、学生たる彼女が、友達付き合いなどを疎かにしているのではないかという心配である。彼女が関わるべき人間は、私などよりももっと他にたくさんいるはずなのだ。
しかし彼女の返答は、「見くびってもらっちゃ困るわ」とのこと。友人関係などなど良好すぎるほどに良好──とは言われたものの、私にそれを確認する術は無く、ただ聞くにまかせていたのだが。
ともあれ、いつものようにここにやって来ていつものようにこのベンチに座った彼女に私が投げかけたその一言が、今日の話題の方向性を決定付けたのか。「そうそう、今度、五日間くらいここに来れない日があるの」と彼女は続けた。
試験が近いらしい時などもここに来ていた、来なかったのはほとんど葬式の時くらいだった彼女だが、予定が立っているということは、葬式というわけではないらしい。
「ちょっと旅行ついでに大学の見学をね。オープンユニバーシティってやつよ。京都の方なんだけど」
「ああ、大学か……君も、あと数年で大学に行くんだな。少し前まで中学生だった気がするよ」
「実際、少し前まで中学生だったけどね……」
苦笑しながら、京都という地名に私は何か引っかかりを感じていた。その間にも彼女は、授業をサボって行く予定だとか、『ヒロシゲ』という新幹線に乗るのが楽しみだとか、旅の予定を話して聞かせていた。彼女の話がやっと大学のことに触れ始め──その大学の名前を聞いて、やっと引っかかりの正体が判明した。
「ああそうだ、京都のその大学、私の孫もそこに行く予定だと言っていた」
「……お孫さん?」
いつかのことを思い出してか、ほんの一瞬彼女は口を止めたが、やがて私に何の異常も無いことを見て取ったのだろう、「私と同い年?」と笑って訊いてきた。
私も、なんら口ごもることなく答えを返す。
「たしかそうだったかな。女の子だよ。マエリベリーと言うんだがね」
「メリベリー?」
「マエリベリー」
「マェリベリー?」
発音しにくいらしく、彼女は何度かその名を呼んでいたが、やがて面倒になったようでメリベリーに落ち着きつつある。
その様子を見ていて、私にはふと閃くところがあった。
今となっては、マエリベリーも普通に友達を作り、学生生活を楽しんでいるはずである。しかしそれとは別に、「メリベリー、メリーメリー……もうメリーでいいんじゃないかしら」とぶつぶつ言っている彼女と友達になれれば──それは、孫娘にとって素晴らしい出会いになるのではないかと、直感が囁いた。
それも、一方通行ではない。自分には見えないものを見る誰かを探している彼女は、マエリベリーのことを知ればむしろ自分から近づこうとするだろう。
「もしよければ、友達にでもなってあげてくれないかな」
「そのくらいお安い御用だけど……だったら連絡とってもらわないとね。写真とかもある?」
「ああ、今度持ってこよう」
私には、彼女をどこかに導いてやることはできない。ただこの場所で、精一杯に生きている彼女が少し羽を休めるのに、付き合うだけだった。それ以外にできることは無い。
だが。もしもの話だ。
もしもマエリベリーが、彼女が探す導き手なら。彼女が待ち、彼女を待っている相手であるならば。私は、二人の運命の橋渡しをしてやれたことになる。こんな老いぼれが、彼女に、そしてほとんど会うこともできなかった孫娘に、何かをしてやれたことになる。それが思いがけない、死に際に残された最後かもしれない幸福なのだと、私は理解していた。
もちろん、彼女の探し人がマエリベリーであるという保証などは無い。それでも、これはもうほとんど個人的な願いの領域だが──彼女と孫娘とが仲良く話している姿を、見たいと思ってしまったのだ。
「きっと、いいコンビになる」
「ん、何か言った?」
「いや……なんでもないよ」
満足げに笑みを作る私を見て、彼女は不思議そうにしていた。
その後、孫にも連絡を取った。私が伝言役となって二人は幾つかの言葉を交わし、どうやらどこかで待ち合わせの約束をしたらしい。
彼女がここを発つ前日、私は今年の年賀状を持ってきて彼女に渡した。印刷された写真、そこに写った孫の姿を指して、それがマエリベリーだと伝えてやった。
彼女はそれを「ん~? なんだか、この子……」と眉根を寄せて見つめていたが、「まあいいわ、実際会った方が早いでしょうし。ありがとう、この写真ちょっと借りるわね」と懐にしまった。
それから話したことはといえば、特に普段と変わりなかった。京都にはこの近辺よりも曰くつきの場所が多いだとか、大学に行ったらそういうところを回ってみたいだとか、どちらかというと彼女が一方的に話して、私は相槌を打つ役に回る。
この二年ほどで繰り返してきた時間。今日の分はすぐに過ぎた。これで彼女としばらく会うことは無い。
彼女は、私があげたカメラをこれ見よがしに抱えあげて、「それじゃあ、行ってくるわ! 一週間後にはまた来るからね!」と帰っていった。一週間後にもちゃんとここにいろということだ。私は苦笑して見送った。
同時に、ふとした理解が脳裏をかすめる。彼女は向こうの大学に行くと言う。すると、この付き合いもあと数年と続かない。
当然だと思う一方、名残惜しく思う気持ちが湧き上がってもくる。ただ、それよりも──彼女はこの場所を巣立ち、もっと遠くの場所に向かって飛び立っていくのだという認識は、私の胸を満たす心地よい感慨でもあった。
◆ ◆ ◆
/7
それから一週間が経った。学校を終えてきたのだろうか制服姿で、既に夕方であるが、彼女は言葉通り、またこの場所を訪れていた。
公園の敷地に入り、ベンチが目に入るところまでやって来て──私がいないと見たのだろう。少し意外そうな顔をして、首を傾げながらベンチに腰掛けた。
数分が経った。「ドッキリとかは好みじゃないわよー」と、公園で遊んでいる子供達にまでは聞こえない程度の声で、彼女は言った。
数十分が経った。彼女は苛立たしげに腰を上げ、公園の遊具の影などに私が隠れていないか確認し始めた。
一時間ほどが経った。彼女は少しの間、ブランコに乗って前後に揺れていたが、やがてベンチで横になった。
数時間が経った。彼女はついに怒りの形相で立ち上がると、公園を後にした。
隣に座っていた私に、彼女が気づくことはついに無かった。
まったくもって、呆気ないものだ。結局、私の命を持っていったのは、冥界の誘惑でもなく、そこから来る死神でもなく、一台の車だった。彼女が出立した五日後のことである。
近所の人間や僅かな親戚によって諸々の処理はつつがなく済まされ、何一つの問題なく、私の身体は燃やされたはずだ。私はいわゆる幽霊となったのだろう。自分の身体の後を追い、その様を見届けてみようかとも思ったが、集まった親戚連中の中には霊感を持つ者も多かった。もしも彼らに存在を気づかれたらと思うと、なんとなくきまりが悪かろう。そう考え、それではどこに行こうかと思った時に、この場所の他にあてが無かった。
そうしてここに来てみると、死者の世界がいつになく魅力的に見えた。相変わらず咲き誇る桜は、命を栄養にして撒き散らしているのだと感じ取れた。私もあの桜に吸われ、あの桜の一部となるのか。おぞましいはずの想像に、そうするべき、そうなるべきだと頭の隅で何かが囁いた。
私をその場に留めたのは、彼女の姿を一目見たい、できるならば孫とのことを聞きたいというその一念だった。
彼女はマエリベリーに会えたのだろうか。そういえば、マエリベリーとその家族は私の葬式にいなかったように思う。相変わらず両親は仕事でこの国にいないのだろうか。彼女が私の死を知らなかったことを考えると、ちょうど情報がすれ違う形になったのかもしれない。
翌日の夕方頃、彼女はまたやって来て、ベンチに座った。どこか無表情で、かつて私が何度も指した、『冥界が見える場所』へと目をやる。
「メリーから聞いたわ……あなた、死んだんだってね。あと一年半、暇になっちゃうじゃないの」
彼女の一言を聞いた時、私を満たしたのは、間違いなく安堵だった。本当にメリーとあだ名で呼ぶくらいに、孫と仲良くなれていると知ったからだろうか。その言葉が、悲しみを含んではいても、それに囚われているような声色ではなかったからだろうか。
「葬式には出てあげるって言ったのに、もう終っちゃったらしいし。あと三日くらい待てなかったのかしら?」
──ああ、それはすまなかった。だがね、正直なところ、これで良かったのではないかとも思うんだよ。
思った言葉は、もちろん彼女には届かない。だが、私は、言葉を紡ぎ続けた。いつもそうしていたように。
やはり私は、彼女に自身の死を見せつけたくなかったのだ。それは意地か、見栄のようなものかもしれない。彼女の話を聞いてあげるだけの、見知らぬお爺さんという立ち位置に私は満足していた。おそらくそれでこそ満足していた。それ以上でも以下でも無い、その関係が心地よかった。だから互いの名前も、いまだ知らないままだ。彼女を休ませる、それだけの場所でよかった。
多少遠ざかったとはいえ、依然として死を控えた身だ。マエリベリーと彼女が仲良くなって、あるいは私たちの距離までもが縮まってしまうより前に──そう思う自分がいたのも事実だった。
──だって、こんな別れ方のほうが、ミステリアスな感じがするだろう?
苦心の末に私が持ち出した言葉は、あんまりに気が利いてなくて、彼女に聞こえていなくて良かったと思えたくらいだ。
もしも聞こえていたら彼女は何を思ったのだろうかと、ほんの少しの興味もあった。
不確かだった、私たちの関係。いつか冗談めいて言ったミステリアスな関係を、彼女は後悔するのだろうか。思いながら、それを認めない自分がいた。
きっと彼女は、そうやって否定することはしない。私達は間違いなく、この距離を、この関係を楽しんでいた。だからそれでよかったのだと胸を張ってくれる、そんな確信があった。
続く言葉が無いままに、しばらくの時間がたった。
彼女はふうと溜息を吐いて「……まあ、いいわ。ところで、メリーのことだけど」と前置いた。場違いかもしれないが、京都での土産話でも始めるのかと私は思った。最後に、友達になってやってほしいと言われた孫との、土産話を。そんな配慮かと思ったのだ。
「気に食わないわ、あの子。まったくもって気に食わない」
だから彼女のその言葉に、私は、無くなったはずの心臓が脈打つかのような錯覚を覚えた。彼女とマエリベリーはきっと仲良くやっていける。そんな展望は私の勝手でしかなかったのかという不安と。しかし彼女は、孫のことを親しげに『メリー』と呼んでいる──ささやかな反論とが、せめぎ合う。
しかしそのうちに、彼女は──いつも私が座っていたその場所を、今も私が座っているその場所を、きっと睨んだ。かつてと何一つ変わらないその仕草に、私は自身が死んでいるということをほとんど忘れそうになっていた。
「今までに何があったのかは知らない。どんなふうに生きてきたのかも知らないわ。でも少なくともあの子は、この世界に絶望してた。結界の境目が、境目の先の別の世界が見えるからって、そっちばかりを夢見てた……まったく、自分の孫にもうちょっとしてやれることはなかったの?」
それを聞いた時の私の心中を、どのように表現したらよいのだろう。
かつてマエリベリーに降りかかっていた問題がどのように解決されたのか、たしかに私は知らなかった。どのような問題が降りかかっていたのかすら、すべてを知ってはいなかっただろう。
自分はやはり決定的に間違っていて、事態は何一つ好転していなかったのだろうか──暗い色を帯び始めた私の意識を、しかし彼女の声が引き上げる。
「代わりに私が、あの子に教えてあげるわ。この世界の楽しみ方を。大学に行ったらね、サークルを立ち上げて好き勝手やろうって約束したの。たくさん連れまわしてやるわ。夢ってのは現実から逃げるためのものじゃない。現実に変えるためのもの。それを教えてあげるくらいで、たぶんギブアンドテイクになるでしょうしね」
ギブアンドテイク? との私の疑念に反応するように、彼女は続けた。
「うん、ギブアンドテイク。きっとね、あの子は私を向こう側に連れてってくれる。あの子が私の導き手なんだと思う。写真を見た時から思ってたんだけどね……前に話したでしょう、変な女の人のこと。あの人にね、すごく似てるのよ。あの子に最初に会った時ね、感激して思わず抱きついちゃった。
でもね、それだけじゃないのよ」
くすと笑って、彼女は目をつむった。しばらくの間、彼女はそのままでいた。
ほうと大きな溜息をついて、ゆっくりと目を開く。いつの間にか、その顔に寂しげな笑みを貼り付けて。
「結局、あなたは違ったのよね。私の探す相手じゃなかった。私をどこにも連れて行かずに死んじゃった。今さらよね。でもほんの少し、心の底で、もしかしたらあなたなんじゃないかって思ってた。
せっかくだからね、意味を持たせたいと思うのよ。あなたは、私とあの子を出会わせてくれたんだって。私とあなたは、ちゃんと意味があったんだって。だから──私はね、あの子が探し人だったらいいなって思う」
まったく、欲が深い子だ──苦笑しながら、私は思う。
意味など、既にあったはずなのだ。少なくとも私にとっては。楽しい時間を過ごさせてもらった。孫の未来に対する不安すらも、溶かしてもらった。
彼女は、私の方を見て、満面の笑みを浮かべた。
「今までありがとう。すごく楽しかった。あなたがいてくれたから、私の話を聞き続けてくれたから、私は、私の目指すものを見失わずに追い続けていられたんだと思う」
その気持ちへの私の返答は、「どういたしまして」ではなく、「ありがとう」だ。
彼女がそう思ってくれていたことへの。彼女も、私たちという関係に意味を与えてくれていたことへの。
彼女は冥界の姿が浮かんでいる場所へと、視線をやった。彼女には見えていないはずのそれを、果たしてマエリベリーは見ることができるのだろうか。私の思考を遮るように、彼女は言う。「最後のお話」と悪戯っぽく笑って。
「ここから、向こう側は見えていたのよね。じゃあ、向こう側からは、ここはどんなふうに見えるのかしら。ここから見る向こう側はすごく綺麗だったみたいだけど。夢の世界から見る現実は、どんなふうに?
いつか言ってた私の最終目標ってね、それなのよ。あの時、高い高い空にいた時、思ったの。もっと高く、空の果てまで行ってみたら、何が見えるんだろうって。私の目は、星を見て時間、月を見て場所が分かるけど。地球の青い光を見たら、何か他に分かるものがあるんじゃないかなって──」
私は、ただただ頷きながら聞いていた。
地球の光。他の星には無い、青い輝き。彼女の目指すもの。
現実の世界に絶望していたというマエリベリーに苛立ちを見せた理由が、今ならわかる。マエリベリーが絶望していたというそれこそが、彼女の求めるものだというのだから。
「もしかしたら、特別なことは無いかもしれないわ。金星をみて時間が分かるみたいに、ただ時間が見えるだけかも。でも、それでもいいの。私たちのいるところを、この世界を、どこか別のところから見つめてみたい。私たちのいるこの場所に何かしらの価値があるなら、その価値ってものは、別のどこかからじゃないとちゃんと見ることができないと思うのよ。……私は、それを求めてみたい。探してみたいの。
ねえ、憶えてる? あなたが言ったのよ。月や星が私のことを見ていて、場所や時間を教えてくれてるんだろうって。それでもいいかなって少し思うのよ。いつかこの星の光を見た時に、私に何を教えてくれるんだろうって。そんなふうに思うのが、その時が来るのが、すごく楽しみなのよ。
メリーは、この現実から夢の世界を垣間見ようとしているみたいだから──なんだかんだで私たち、相性が良いんでしょうね。こっちから向こうを見て、そうやって向こう側に行けば、こっちを見ることもできるもの。とりあえずメリーのやりたがってる方向に付き合ってあげるつもりよ」
そこまで言い切ると、彼女はついにベンチから立ち上がった。彼女は最後まで、笑顔だった。
安らかで穏やかな、終わりの予感。もはや私をこの場に繋ぎとめるものは無かった。この場に留まる必要も無かった。
「いつかメリーをここにつれてきて、冥界参りをしてあげる。向こうからこっちを見た感想も聞いてあげるから、楽しみに待ってて。……それじゃあ、また今度ね」
「また明日」が「また今度」に変わっただけで、それ以外の何一つ、彼女の様子は普段と変わりなかった。
小さな声が聞こえた。「十八時十五分、二十五秒、三十秒……」いつの間にか、空には星が顔を覗かせていた。こころなしか、彼女の足取りが緩やかなものになった。
青い光をまとったこの星に、いつか彼女は彼方から何を見るのだろう。夢を現実に変えて──その果てに、また新たな夢を見るのだろうか。
私はベンチに腰掛けたままでいた。彼女が星を見て時間を数える声。それを子守唄にして、私の意識は、星と月の優しげな光に溶けていった。
馴染みの公園でベンチに座って虚空を見つめていると、なにかこの世ならざる世界が、夕暮れの空に透けて見えた。空に映し出されたのは、どこか古い寺院と、そこに舞う季節はずれの桜の映像だった。夕陽の赤には干渉を受けず、夏の空に透けて、桃色のままで舞う桜。それを私は、昔のこと──妻や友人達と花見に興じた記憶──を思い出しながら見つめていた。
公園で遊んでいる子供達にもその親にも見えていないらしいその景色を、死の世界のものだと、私はなんとなしに感じていた。現世から零れ落ちそうになっている私にだけ見えているもの。家族に比べてこの手の才能は無いと思っていたのだが、死ぬ直前になって僅かながら発露したらしい。
よく酒を酌み交わしていた昔からの友人は、病気やらなにやらですべて死んだ。何の因果か、特に健康に気を遣った覚えも無いのに、私だけが生き残ってしまっている。私の子供の代にも死人が出始めているくらいだから、本来なら私の代の人間はとうに死に絶えていてもおかしくないのだが。
皆が死んでひとりきりになると、不思議なほどに、何かをしようという意欲がなくなった。他人の死を経験するたびに、私もだんだんと死に近づいていったのだろう。かつて趣味にしていた写真も、今はもうカメラに触ることすら無くなってしまった。
生きていたところで何かをすることもなく、かと言って自分から命を絶とうとも思わない。日がなこのベンチに座って、何を思うことも無しに子供達を眺めているだけ。そのように過ごしていた私にとって、死の世界の景色は、どこか安らぎを与えてくれるものですらあった。
意識をそこに委ねると、私のことも優しく迎え入れてくれそうな、妖しい魅力。それに惹かれて、私はベンチから腰を上げようとしていた。こちらに近づいてくる軽い足音を耳にしても、気に留めることはなかった。
「ねえ、おじいさん」
だから私がその女の子を認識したのは、彼女が私の枯れ細った右腕を掴んで、声をかけてきた時だった。
ワイシャツとスカートという制服や背丈から判断するに、中学生くらいか。知らない子供だとは、振り返る前からなんとなしに分かっていた。孫にこのくらいの子供がいないわけではないが、いずれも遠いところに住んでいる。ここで偶然に出会うなどということはありえないはずだった。
私の顎の高さにあるその子の顔を眺めると、果たして、初対面以外のなにものでもなかった。彼女は、どうしてかやけに嬉しそうに、まるで期待か何かで輝いているような目で私を見つめていた。
会ったことも無い女の子が、私のような者に何を期待することがあろうか──思っていると、答えが、女の子の口から発せられた。
「おじいさん、あそこに、何か見てたでしょう? 何も無い場所なのに、引き込まれそうなくらいにじっと見てたわ。私、そういうのに興味があるの」
言いながら女の子は、私の手を引っ張ってベンチに座らせた。そして自身も腰掛けて、「ねえ、何を見てたの?」と満面の笑みで問うた。
『彼方より此方を』
/1
「おじいさんが普通は見えないものを見られるみたいに、私の眼もちょっと変わってるのよ」
彼女が自分のことについて語り始めたのは、私が見たままを話してよいものかどうか躊躇しているのに業を煮やしたからかもしれないし、単純に自分のことを語りたかっただけだったからかもしれない。私はひとまず、彼女の話に耳を傾けることにした。
彼女は、星を見ることで今の時間が分かり、月を見ることで自分のいる場所が分かるのだという。一種の超能力か何かか。それを信じる根拠も無いが、頭から疑ってかかるほどの偏見も無い。私の家系も妻の家系も、普通の人には見えないものが見えてしまうという者が多かったためだ。得意げに話す彼女に、だから私はさほどの驚きも無く「ふむ」と頷いていた。
「不思議で……素敵な眼だね」
言うと彼女は、「でしょう?」と嬉しそうに笑んだ。彼女がその眼を大切にしているらしいと推し量れる。
「証拠も見せてあげたいんだけど……夜になるまで、あと一時間くらいここで待っててくれる?」
「構わないよ。……私が待ってるということは、君はどこかへ行くのか?」
「学校帰りですもの。夜に制服でうろついてたらおまわりさんに捕まっちゃうわ。それにお腹も空いたから、何か食べてきたくて」
言って彼女は、鞄を片手にベンチから立ち上がる。たとえ制服でなくても、特に大人びたわけでもない彼女の外見では夜に出歩くと警官に呼び止められるだろうが。
しかしその眼の能力とは、空腹では発動しないといったようなことがあるのだろうか。腹が減っていては見えるものも見えないなどと言っていた親戚がいた気がしたので訊いてみたが、「そういうわけじゃないわよ」と彼女は笑って、公園を出て行った。
左手首の腕時計に目をやる。十八時三十四分。一時間ほどを待つ間に、『向こう側』に誘い込まれはしないだろうか──思いながら視線を、彼女が来る前まで向けていた宙へと戻す。
赤い空を背景にした、半透明の、ここではない世界。先ほど私が捉われたどこか狂気じみた魅力を、今は不思議と感じない。彼女が戻ってくるまでは待とうという意識が私をここに繋ぎとめようとしているのだろうかと、そんなことを思った。
彼女が戻ってくるのに要した時間は一時間二十分ほど、時刻にすると八時になる直前だった。一時間という言葉を真に受けて、八時になっても来なかったら帰ってしまおうと思っていただけに、ちょうどよいぎりぎりのところに来たということになる。
白いTシャツと短く黒いスカートに着替えてはいるが、白いワイシャツと紺のスカートだった先程と、この暗闇の中ではほとんど違いが見つけられない。目立つ変化はただ一つ、帽子を被っているということだ。黒い帽子の山の部分に、白い帯をリボンのように巻いてある。白と黒で固めるのが好きなのだろうか。
「よかった、まだ待っててくれて」
「もう少しで帰るところだったがね」
「遅刻癖って、なかなか直らないものなのよねえ……」
遅れた負い目など欠片も無さそうに、彼女は私の隣に座る。こちらも特段責める気はないが、豪胆とは感じさせる。「さっそくだけど、あれ見て」と、彼女は指先を天に向けた。ここで待たされていた私としては、その先に何があるのかもちろん分かっているのだが、従って上を見てみる。
今日は雲が無く、空気も澄んでいるのだろう。彼女が差す先には、いくつもの恒星が輝いているのが見える。「二十時二分二十秒──」私が空に目を向けたのと同時、隣から彼女の声が聞こえた。
「ほら、時計くらい持ってるでしょ? 早く確認してみて」
彼女の意図に気づいて、私は左の手首に目をやった。二十時二分二十七秒、二十八秒──なるほど、彼女の能力というのは確かなものらしい。私の目を盗んで時計を見たのでもなければ、だが。
私が時計を見るのを確認するでもなく、彼女は星を見つめ続けていた。「二十時二分三十秒」とまるで時報か何かのように呟く。
奇妙な子だ、と私は心の中で口にした。するといきなり彼女がこちらを向いたので、実際に声に出していたかと慌てたが、そのようなことはなかったらしい。「どう、信じた?」と彼女はこころなしか胸を張った。
「あと、場所も言う? 月が出てるから分かるけど」
「場所なら私だって分かってるさ。君の眼については信じよう。……もともと、疑う気もあまり無かったがね」
「そう、じゃあおじいさんも話してくれる? さっきここで何を見ていたのか、あるいは……」
言葉を切ると、彼女は私から視線を離し、宙に向ける。今度は時間を呟くことは無い。なぜなら彼女が見ているのは、空ではない。空に向いてはいるが、空ではない──ついさっき、私が心奪われ、ぼうと眺めていた場所だ。
「あるいは、今も見ているのか」
まるで犯人を追い詰める探偵にでもなったかのように──帽子が、いやに似合っている──会心の笑みを、彼女は私へと向けた。逃げ場を失った犯人というわけでもないが、特に誤魔化そうという気も起きない。冥界が見えたなどと子供に言うのはどうかと最初は思ったが、彼女は見た目とは裏腹に精神的に成熟して、落ち着いているように思う。どちらにせよ、あの寺院が私の想像どおりの場所なら、彼女にとってはまだまだ遠い場所なのだ。
話してあげようと私は思い、ふう、と大きく息を吐いた。まるっきり、諦めて自白を決めた犯人の役柄だ。
「特に面白みも無い、古い寺院だよ。桜が咲いているのが奇妙といえば奇妙だが」
「桜って……夏なのに。季節はずれね。何かその場所に心当たりは無いのかしら? 以前行ったことがあるとか」
「まったく記憶に無い……まあ勘でしかないが、あれは冥界ではないかな」
「冥界? 死者の国?」
「そう。私みたいにもうすぐ死にそうな奴は、冥界の一つや二つ見えてもおかしくないと思わないかな?」
そこまで聞いて、彼女の表情に少し陰りが見えた。口が滑ったか、と私が思っていると、どうやらそうではなかったらしい、「うーん、ちょっぴり期待はずれかなあ……」と彼女は溜息をついた。
「期待はずれとは?」と私が訊くと、彼女は取り繕ったような笑顔を見せた。
「もう少し、私と似た感じの……純然たる超能力者みたいなのを期待してたのよ。おじいさんのは、死が近いから死の国が見えるっていうみたいだけど……ちょっと違うのよね、それは」
「ふむ、ご期待に添えなくて申し訳ない。……しかし、どうして、純然たる超能力者とやらを探していたのかな?」
「どうして? えっとね……うん、そう、話し相手みたいなのが、欲しかったのかな」
何も見えていないだろうに虚空に視線を移して、彼女は話し続ける。
他人事のように語るそれが本心なのかどうかは、私には分からない。ただ、もしも本音なのだとしたら、それは年相応の脆さと言えるのだろう。
私の娘には、一人の親友がいた。友人が他にいなかったわけではないようだが、とりわけその一人とは交流が深かった。娘がその一人を大切にした、その一人に娘が大切にされた理由は、傍目にも予想がついた。娘が母の血を継いである程度の霊感を備えていたのと同じように、その親友というのも、普通では見えないはずのものが見える素質があったのだ。
普通ではないという共通項が、二人を結び付けていた。そしておそらく、私の目の前にいる彼女には、そのような存在がいないのだ。
話し相手。もはややるべきことを失くした私にも、その程度のことができないはずも無い。だが、下手に長い付き合いになるのも躊躇われる。なにせ、私には死の国がすぐ近くに見えてしまっているのだから。
そんな私の逡巡を知ってか知らずか、彼女は何かを思いついたように「あ」と間の抜けた声を出し、私に向き直った。彼女のその行動を見て、ほとんど確信に近いある予感が走る。果たしてその通りに、彼女は口を開いた。
「おじいさん、暇そうにしてるけど、明日もここにいるのかしら?」
「……たいがい暇にしてるから、明日もここにいるだろうね。冥界が見えるくらいだから、いつ死ぬか分からないが」
「死んじゃったら、お葬式には行ってあげるわ」
「……そうか。それは、嬉しいな」
それは簡単な確認でしかなかったが──彼女が納得してそれでも望むのならば、付き合ってあげてもいいだろう。
彼女は口元を緩め、勢いよく立ち上がると、公園の出入り口へと向かって歩き出す。その途中、ベンチから動かずにいた私へと振り返った。
「それじゃあ、約束したから! 明日もここにいてね!」
言って、軽い足取りでまた歩き出す。
何か約束などしただろうかと惚けてみても良かったが、もとよりその勝手な約束を破る気も無いと思い直し、私はただ彼女を見送った。
妙なことになったと感じながら、しかし、少しくらいは相手になっていいかとも思う。それは、普通では見えないものが見えるという孤独と、私がそれなりに近い距離にあったからだろう。そのような者が多い家系、子や孫が同年代の友人との間に線を引いてしまったというような問題は聞き慣れていた。
かつて、そういうものが何一つ見えなかった私には、それらに対処することは難しかった。しかし今なら、さっきの彼女が望むような形ではないにしろ、一応は同じ場所に立てている。
その認識が、明日も、もしかしたらそれ以降も、私をこの場所に連れてくるのだろう。そんな予感が胸にあった。
どれくらいの時間になるかは分からないが、付き合ってやろうと、私はこの時、思っていた。
◆ ◆ ◆
/2
「思ったのだが、君の能力には、何か確固たる原理のようなものはあるのかな?」
しばらく前から胸の内にあったその問いを投げかけると、彼女は意味が分からないといったふうに、小さく首をかしげて私を見返した。
私の家族、親戚筋には、たとえば霊であったりそれ以外であったり、とにかく普通では見えない何かを見ることができる者が多かった。だからこのような能力、いわゆる霊感といったものについては、自分なりにある程度は解釈できている。要するに、霊やらなにやらはたしかに存在していて、しかし私には見えていない、触れることも感じることもできないというだけの話だ。彼らは私より少し目が良く、私は彼らより少し目が悪いだけなのだ。
しかし、彼女のそれは、少し違うように思える。月を見て場所が、星を見て時間が分かる──その能力を原理付ける説明が、少なくとも私には浮かばない。月を見て時間を、星を見て場所を知るというならば、彼女が呟く時間のその正確性を度外視すれば、分からない話でもないのだが。
ただそうあるだけの超能力であり、原理など無いというのならば、それで仕方ないともいえる。だから私の問いは、あまり答えを期待したものではなかった。
「原理かあ……あるような無いような……」
「ふむ? それはどんな……」
「簡単に教えるのは勿体ないなあ。『いちおう原理みたいなものはある』ってのがヒントってことで」
言って彼女は、くすくすと笑う。ヒントをくれるということは、答えを期待しているということだ。そのヒントも、答えが存在するといった程度のものでしかないが。
彼女の能力については、出会った頃よりもいくらか理解を深めたつもり──たとえば日本標準時でしか時間が分からないだとか、時間を読み取るのは秒単位であるとか──だが、だからと言って分かるような問題ではない。
「そうだな……」と私が口にし始めたのは、ほとんど勢いに任せてのようなものだった。ふとした思いつきである。
「君は月と星を見ることで、場所と時間を知る」
「ええ、そうね」
「考えたんだが……月や星を見るというのは、つまり君が月や星に見られるということじゃないか? 月や星は君のことを見ていて、光によって場所や時間を伝えてくれる。……こんな解釈ではどうだろう?」
言葉にするうちに、私自身、その解釈を飲み込んでいった。言ってみると、それなりに面白い考えではなかろうか。理も何もないかもしれない超能力というものにおいて、張りぼてではあるが理屈が見出せているように思う。
少しばかり自信を持ちつつ彼女の反応を見ると、驚きにであろう、丸くなった目に出会う。きょとんとしたその顔を見て、これはもしや正解かと思ったが、次の瞬間、彼女は楽しそうに腹を抱えて「なるほど、ね。そんな解釈もあるかー」と笑い始めた。どうやら不正解であったらしい。
「いや、おじいさん、意外とロマンチストね。面白いわ、それ」
「正解するつもりだったんだがね。……ところで、本当はどんな仕掛けなんだい?」
「正解、かあ……うん、その前に復習ね。私の能力は『星を見て時間が、月を見て場所が分かる能力』よ。これはいいでしょ?」
「ああ、分かっているよ」
当たり前の確認に私が頷くと、彼女は言った。「それが答え、らしいわ」
それだけではもちろん、彼女が何を言わんとしているのか分からない。私は続きを促した。彼女は小さく頷いて続ける。
「私が見られる時間はJSTだけだってのは言ったわよね?」
「いつだったか聞いたね」
「じゃあ、私は私の知っている地名でしか場所を見られないってことも言ったかしら?」
「……それは初耳かな」
その事実が示す意味に、私は頭を傾けた。
見られる時間はJSTのみ、場所は知っている地名のみ。おぼろげながら導き出される答えは、主観だ。彼女の能力は、彼女の意識や知識、彼女自身の主観に強く依存しているということである。なるほど、先ほど私が述べたような説とは趣が異なるかもしれない。月に場所を教えてもらうというのであれば、たとえ知らない地名でも頭の中に浮かぶといったイメージの方が似合っている。
「本当は場所も時間も、常に私の中にある。ただ、私には分からないだけ」
「分からない? よく意味が分からないな……たとえばだが、君には、君がこの公園にいるということも分からないと?」
「分からないわ。私は、この公園のどこにいるのかしら。こうやってベンチの前に足を着いているから、ベンチの前? ベンチの上に座っているから、ベンチの上? 片方の足が公園の外にあって、片方の足が公園の中にあったらどうなるのかしら。私の居場所を定義するのは、私のどの部分? 心臓? それとも脳?」
一、二ヶ月ほど彼女と付き合っているうちに、分かったことがある。
彼女は、自分の領域で話し始めると止まらない。話したいことができてしまうと、他の横槍を許さない。いや、横槍をもろともせず一人で話し続けるのだ。
こうなった彼女は、ただ喋らせておくほかない。私にできるのは、理解の及ぶ限り彼女の話を咀嚼し、話を振られた時に何か答えるくらいである。
彼女が話した中身を噛み砕いたならば──そもそも、人間とは体積を持った存在であるため、その居場所を絶対的に定義することはできないだろうということらしい。
たとえ話として彼女は、東京と京都に足を着いた巨人をイメージするように言った。彼あるいは彼女は東京と京都のどちらにいるだろうかと問われたので、日本にいるというのでは駄目かと答えると、そう、そうするしかないのよねと笑っていた。
時間についても、似たようなことが言えるらしい。自分は星を見て秒単位で時間を知る、彼女はそう前置いて、ではどうして秒単位なのかと私に問うた。ミリセコンドでもマイクロセコンドでもないのは何故かと。
そんな細かい時間を君は認識できるのかと問い返すと、これが正解だったようで、「そう、私には秒単位が他のどれより意味のある理解の仕方だからよ……それより小さな単位で理解しようとしても、認識が追いつかない」と呟いた。
まるで教師のように、時折質疑応答を交えながら、彼女は講義を進めていった。
「本来、人間という存在において絶対的な居場所の定義はできない。絶対的な時間の認識もできない……はずなんだけどね。
どうやらそうでもないみたいで、人間には……いえ人間に限らず、すべてのものは、それぞれ自身の時間と空間、つまり居場所と時間の把握をしているらしいわ。ただ、それを認識することができないだけで。
私の中にも、それはある。私の身体のどこを基準にしてるのか分からないけど、ともかく私の絶対的な座標定義があって、私には認識できないくらいに極小で精密な、絶対的な時間の刻みもある。本当なら人間に認識も理解もできないはずのそれを、月や星の光を見ることで『分かる』──いくらか丸めて脳内に出力するのが私の眼の能力ってことらしいわ……」
と、彼女はそこで唐突に話を止めた。はっとしたように口をつぐんでいた。
らしい、というその言葉の意味を私が問うより前に、彼女は苦笑を向けてきた。
「どうして月や星の光で『分かる』のかは知らないのよね。だから、原理はあるようで無いようなものなのよ」
私が何を訊こうとしているのか気づいているのだろうか。
彼女の話が漂わせる、伝聞の匂い。彼女は自身の能力について、関連する事柄も含めあれだけ詳細に、いったい誰に聞いたというのだろう。
だが私の追及を避けるかのように、彼女は空を見上げた。「十九時二十九分、五十秒、五十五秒……」いつものように、星を見て時を数える。話が長引いて星が出てきた時、彼女が頻繁に見せる習慣であった。
「十九時三十分ジャスト! そろそろ帰ろうかしら」
言って、止める間も無く立ち上がる。私が何かを言うよりも先に、「それじゃあ、また明日ね!」と走り去ってしまった。
また明日というからには、明日も何事もなくここに来るのだろう。後に残された私にできるのは、そう思いながら彼女に手を振り返すくらいだった。
◆ ◆ ◆
/3
雪が降ってからも、私はそこにいた。
さすがに夏や秋にそうしていたように星が見えるまで長々と話していることは無くなったが、それでも毎日のように彼女はここに来たし、私もここにいた。さすがに年末年始はいくらか休業と相成ったが、年明けから二週間が経った頃には、また公園に集まる習慣は復活していた。
その日は、互いが互いのことをほとんど知らないということについて、彼女と雑談していた。
お互いの素性をほぼまったくと言っていいほど明かさなかった理由について、はっきりと何か挙げることはできない。
少なくとも私は当初、冥界が見えるほどに自身の死は近いという事実を傍らに抱いていた。私が死ねば当然ながら、私がここに来ることは無くなる。ここに来ても私がいないため、彼女もこの場所を訪れることは無くなる。そうやって自然に消滅する程度の関係がいいだろうと、そんな考えが心の底にあったことは事実だ。
しかしどうにもそれ以来、自分が死ぬという気がしなくなった。彼女と出会って、何か自分のすべきことを見つけたためだろうか。人間、やはり最後には肉体よりも精神の方が重要ということなのかもしれない。
幸いと言うべきか、視界に浮かぶ冥界の風景が消えることは無かったので、彼女に死の国の様子を問われた時に、いつも通り桜が舞っていると返す程度のことはできた。死から多少遠ざかったとはいえ、冥界を見る眼力は私の身に定着していたらしい。
彼女の方は、これがまた、特に名など交わさなくとも会話が成立しているので良しとしているふしがあった。
「その方がなんだかミステリアスじゃない?」とも彼女は言うが、既に半年近くこうして顔を突き合わせている相手に神秘的な雰囲気も何もない。
実際、彼女は私を「あなた」「おじいさん」と呼ぶだけで事足りるし、私も今さら名前を教えてもらったところで、「君」という呼び方を変えられる気はしなかった。たとえば小さな頃の孫にそうしたように、「○○ちゃん」などとちゃん付けするような相手でもない。むしろ彼女の方が気味悪がるだろう。
そのようなことを話していて、彼女が「お孫さん? いるんだ」と反応するに至って、私は自身の失言を悟った。孫について何か聞かれたところで、ほとんど答えられることは無い。罪悪感の類だろうか、何かが胸を重くするのみだった。
しかし、彼女がそれ以上を切り込んでくることは無かった。お互いに素性は知らないままでいいといった話をしていたとはいえ、好奇心に溢れる彼女としてはやや意外さも感じさせた。
やはり、孫のことなど知らずとも話はできると考えたか。それともなんとなしに私の胸中を悟ったか──どうしてか後者の気がして、内心で礼を言っておいた。
その日の話の結論としては、特筆すべきことも無い。
一度定まってしまった関係は、おそらく簡単には変わることは無い。私達はこの先も、このベンチで、それほどに意味の無い雑談を繰り広げていくのだろう──どうやら彼女も、私と同じような考えにたどり着いたようだった。
その日、それくらいを話して彼女は帰っていった。常ならば私も彼女と同時にベンチから腰を上げるのだが、その日はなんとなしに、一人で考え事を続けていた。
孫の世代の女の子とこうやって普通に雑談をしている自分を思うと、心の中に浮かんでくる念がある。かつての自分もこんなふうにできていれば──そんな、後悔じみた感情だ。胸に絡みついた重さが、実体を持ち始める。
何人かいる孫の、そのうちの一人のことを、私は思い出していた。
会ったことは、片手の指で数えられるくらいしかない。最も疎遠になってしまった孫娘。両親が忙しく、こちらにやってくる僅かな時間も確保できないとのことで、もうおよそ十年近く会っていない。だが、十年前には会っていたのだ。顔を突き合わせていたのだ。
しかし当時の私は、小さな女の子にとっては怖い爺さんにしか見えなかったらしい。私もできるかぎり優しく接したつもりだが、いま思うと、いくらかぶっきらぼうになっていた部分もあったかもしれない。
そのため今も嫌われたままなのかというと、おそらくはそこまででもない。
その理由としては、彼女と疎遠になっている原因が、両親が時間を取れないという事実にあるのだと知っている、といったことがある。
あるいは両親含めた家族全員に距離を置かれているのではと考えることもできるが、しかし実際のところ、両親共に働き尽くめで時間が無いのだ。この国にいないこともしょっちゅうと聞いているし、私としても、こちらに来るような時間があれば、身体を壊すことが無いよう家で休んでいて欲しいと思うくらいだ。
私が死んだとしても、彼らが葬式に来れるかどうかは微妙であるかもしれない。特に会うことが無いというこの距離感は、まったくもって自然なものと言える。
孫娘達との関係が良好ではないが悪くもないとするのには、もう一つ理由がある。
孫娘に関わるこれまでのことを回想して、その最後にやってくるのは、今年の年賀状なのだ。家族の写真付きで送られてくるそれに、孫娘の姿もあった。軽い近況報告が、おそらくは孫の字で描かれていた。もうすぐ中学を卒業するとのことだった。先ほどまで隣にいた彼女もちょうど同い年くらいであろう。私はそれを、おそらく顔を緩ませて見ていたのだと思う。
しかし、その年賀状のことを思った時、私の胸には嬉しさだけでない、どこかざわつく部分があるのも確かだった。
ほとんど会うことも無い、記憶に残ってすらいないだろう祖父に、一年に一度とはいえ律儀に近況報告してくれる良い子……それだけの理解で年賀状を、その写真をめでたい近況報告と断じることは、私にはできなかった。
写真の中の、孫娘の笑顔。それが本当に心からのものなのか、私には判別がつかなかったのだ。
仕事に忙殺され、あまり会うことすらできない両親。家の中でおそらく孤独を感じていたであろう孫娘に、私は何一つ手を差し延べてやることができなかった。うまく接してやることができなかった。
そのうちに妻や知人が立て続けに死んでゆくようになって、私はいつしか孫娘のことを考えたりはしないようになっていた。何一つを、考えないようになっていた。その時期にも、彼女や両親との繋がりは、細いけれどもたしかにあったはずなのに。
いつだったか、友達がうまく作れないようだと両親に心配されていたことがあった。あれはどうなったのだろう。たしか原因は、普通の人間には見えないものが見えることだったはずだ。それはうまくおさまったのだろうか。ちゃんと今は友達もいて、楽しく過ごしていて、そうして笑っている写真を送ってきてくれているのだろうか──。
先ほどまで隣に座っていた、彼女の笑顔。それを思い出していると、孫娘がああやって笑えているのだろうかと、恐ろしいほどの不安が湧いてきた。
──どうして私は、今までこうやって孫娘について考えることが無かったのだろうか。心配も後悔も溢れてきて、止まりそうになかった。
電話をかけてみようと、今さらながらに思った。もちろん、特に用事があるわけではない。だが、まずはそうしなくてはならない気がした。私と孫娘の間の距離などは、既に遠ざかって固まってしまったのではないか? 疑念には、首を横に振った。
ベンチから腰を浮かせる。よく冷えた空気の中、暗い夜を背景にして、星が輝いているのが見えた。彼女はこれを見て、また時間を呟いているんだろうか。
ありがとう、と伝えたくなった。きっかけをくれたのは間違いなく彼女であり、あの時出会わなかったら、あのまま黄泉の国に魅入られていたかもしれない。そうしたら、何も無い、できないままで、私は死んでいたかもしれなかった。
明日、出会い頭に面と向かって言ってやろう──思いながら、私は家路についた。
◆ ◆ ◆
/4
「え、それってもしかして……アナログのカメラ、よね?」
「もしかしなくても、そうだよ」
「ちょっと見せてくれる?」
ああ、と答える私から奪い取るようにしてカメラを手中に収めると、彼女は興味深そうにその細部を観察し始めた。
私がしまいこんでいたカメラを引っ張り出してこの場に持ってきたのは、ほかでもない、彼女の姿を映すためだ。学校帰りであることが多いためか、彼女がここに来る時はそのほとんどが制服を着てというものだったが、今日でそれは最後だ。
明日は彼女の卒業式。式の後は友人と遊びに行くためここには来れないと言っていたから、私にとっては彼女の中学校の制服はこれで見収めになるだろう。せっかくだからその姿を写真に残しておこうというわけだ。
彼女と出会って、およそ半年ほど。いくらか連絡を交わすようになったとはいえ、遠くにいて会うことの無い孫よりも、よっぽど孫のように接しているかもしれない。
「よかったら、そのカメラを貰ってくれないかな?」
「……え? いいの? こんな高いもの」
「自慢じゃないが、まだ幾つか持っているのさ」
ついついそんなことを口にしてしまうあたりが、私の彼女への入れ込み具合を物語っている。彼女に言った通り、家にはまだ他に幾つかカメラがある。この先自分が撮る分には差し支えないし、昔ほどの興味を無くしてしまった私よりも、目を輝かせてカメラをいじっている彼女に持っていてもらったほうが、カメラのほうも幸せというものだろう。
ファインダーを覗き込んで辺りを眺め回しながら、彼女は興奮した様子で溜息をつく。
こんなに楽しそうにしている彼女を見るのは久しぶり……いや、初めてと言って良いかもしれない。「太陽を見てはいけないよ」「そのくらいわかってるわ」歌うように返しながら、彼女はファインダー越しに何かを見つめ続ける。
「おじいさん、すごいわね……こんな珍しいもの持ってるなんて」
「昔は写真を撮って回るのが趣味でね……」
「写真を撮るだけならデジタルでもいいんじゃない?」
「デジタルは性に合わないのさ」
彼女の言う通り、アナログのカメラなどというものは、パソコンでほとんど何でも為せるようになったこのご時世ではかなり珍しい部類に入る。写真を撮るにはわざわざこんなものを使うより、デジタルカメラを用いるのが一般的というものだ。
しかし私と同様、写真を趣味にしている者には、デジタルより昔ながらの銀塩写真を好む者も一定数いる。アナログのカメラを所持している者は捜せばそれなりにいるだろうし、そして当然ながら、数は少ないが、現像を請け負っている写真屋もいくらかは存在する。
しかし珍しい物事には往々にして金がかかるものであり、アナログ写真はもっぱら金持ちか、私のように他に金の使い道が無い老人の道楽だ。どうやらアナログ写真に興味があるらしい彼女も、子供であることに変わりは無い。今まで手出しすることはできなかっただろう。
「そんなに好きかい? アナログのカメラが」
「好き……と言うより、憧れが近いかしら。ずっと前から欲しかったの」
「ずっと前から?」
「そう、ずっと前から。もう十年くらい前かなあ……」
懐かしむように目を細める彼女は、しかし昔のことを話す気は無いようだった。
「アナログカメラってね、世界を切り取るのよ」彼女は言って、またファインダーを覗き込む。
「世界を切り取る?」
「そう。アナログカメラはね、世界をその光のままに写し取るから。デジタルだとそうはいかないのよ……あれは、世界の絵柄をデータとして記録するだけだからね」
「よくわからないが……世界を切り取ることができると、何か良いことがあるのかな?」
「うん、重要なことだけすごく簡単に言うとね……写真の中の月や星に、私の能力が効くのよ」
言いながら、カメラを空に向ける。まだ昼日中だ。星も月も見えてはいない。
写真に写された月や星に能力が効く……それを聞いて、私の中に疑問が立ち上がる。彼女は以前、自分の中には絶対的な場所と時間の刻みがあると言った。月と星を見ることでそれを認識するとも。
では、たとえば遠く離れたところの写真を今この公園で見たとしたら、彼女に分かるのは、その写真の中の場所と時間であるのだろうか。それとも、この公園という場所と今この時という時間なのだろうか。質問をぶつけてみると、「違う違う、そんなんじゃ何も面白くないじゃない」との返答だった。
「そのまま文字通りに世界を切り取るの。物理的ではなく、精神的な領域でね……まあ、切り取られたところで減るものでもないけど。写真に撮られると魂を抜かれるって言うのは、そのせいね。当たらずとも遠からず。
写真っていうのは、世界の記憶なのよ。そのありのままを、光の力で写し取る。映されて保存された世界に意識を集中することは、その中に意識を移すということ……つまり、精神的な位相において、そこに行くということなの。私の居る場所も時間も、その写真の中、そこに切り取られた世界ということになるわ」
興奮した面持ちの彼女の話を、私は私なりに咀嚼する。つまり元の質問の答えとしては、『アナログ写真であるなら、彼女は写真の中の時間と場所も分かる』ということになる。その真偽はともかく、彼女の話している内容については理解したつもりだ。
しかし、一つ気になることがあった。アナログの写真であるなら、彼女は写真の中の時間と場所も分かる。そして彼女は今、そのアナログカメラを手に入れたわけだが──それを彼女は、どうしてこんなにも喜んでいるのだろうか。言ってしまえば、たかだか写真に写った場所と時間が分かる程度だ。
「アナログで撮られた写真と言っても、本に載ってるようなコピー品じゃ駄目よ。実際にフィルムから現像された一次のものじゃないと」
得意げに話し続けていた彼女に、私は割って入る。写真の中の時間と場所を分かる彼女は──。
「君は、そのカメラを使って何をするのかな」
「何をって? 写真を撮るに決まってるじゃない」
「ああ、いや、違うんだ……君は、そうして写真を撮って、何を楽しむのかなと思ってね」
私が言い繕うと、彼女はそれだけで私の意図を理解したようだった。どうにも彼女は、頭の回転が速い。
「そうね……」と顎に手をあてて数秒考えると、私に向き直った。
「写真に意識を集中すると、精神的な位相においてそこに行くことができる──って言ったけどさ、実際、嘘くさいと思わない?」
そうして彼女から飛び出した言葉は、私を面食らわせるに十分なものだった。彼女は、くすと笑って続ける。
「たぶんね、それが普通の人の認識として正しいのよ。だって、写真に保存された世界に意識を移すなんて……おじいさんは今まで何度もアナログの写真を見てきたと思うけど、そんな感覚、無かったでしょう?
でもね、私は実感できるの。その世界に行っていることを。自分がその場所、その時間にいるという感覚で。私にとって何よりも確かなもので。だからなのかしら、写真の中の世界に対する感性とでも言うのかな、そういうものもおそらく人に比べて優れてるんでしょうね。
本当に、すごいのよ。写真で見るより実際に行ってみた方が良いに決まってるなんて思うかもしれないけれど、そんなことないわ。だって、実際に、その場所に行っている。そんなふうに、世界を感じられるんだもの」
うっとりとした表情で、カメラを、あるいはそれ以上に大切なものを抱き締めるようにしながら、彼女は言葉を紡ぐ。
私と彼女の間の、確かな断絶。彼女の能力を知った時には思わなかった──私に見えてないものが彼女には見えているという、どこか寂しく、しかし憧れのように眩い認識が胸の奥からやってくる。
しかし思えば、私が見る死の国も、彼女には見えないものなのだ。
この場所で、ベンチに座って何かを見ていた私に、声をかけてきた彼女。その出会いの意味が、いくらか分かったような気がした。
◆ ◆ ◆
/5
彼女はおそらく、高校の一年生というこの年頃の他の子に比べると、頭が良く、知識も豊富だ。
そして、これに関してはどうかと思う部分もあるが──殊に、オカルト関連の話題に強い。
「学校で習うことなんてどれも簡単すぎるわ……特に物理だけなら、私、飛び級してもいいんじゃないかしら」との言葉を信じると、どうやら他にも得意な方面があるようだが、しかし少なくとも私の前では、およそ普通に暮らすうえでは必要ないであろうオカルト関連の話の割合が多い。出会いのきっかけを考えると、仕方ない部分もあるのかもしれないが。
しかし彼女は、それにしても、一部について奇妙なほどに知りすぎているきらいがあった。彼女自身の能力──彼女の中に絶対的な座標定義があるやらなにやらの辺りは特にそうだと言えよう。いつしか持っていたそんな疑念が、いつか彼女がその話の中に漂わせた伝聞の匂いと繋がった。
彼女の知識は、誰かの受け売りという部分もあるのではないか。そんな問いに、「うーん、まあ、おじいさんなら話してあげてもいいか」と呟いた彼女は、すうと姿勢を正して、懐かしんでいるような穏やかな笑みで、そう語りだしたのだ。
「昔にね、不思議な女の人に会ったのよ」
彼女にとってそれがどんなに大切な思い出なのか、すぐに理解できた。彼女に会っておよそ一年、夏が終って秋が過ぎて、冬を越えて春の面影が消えゆき、そしてまた夏になろうとしている。この時間が彼女にとってどれだけの意味を持ってくれているのか──少なくとも、それほどに悪くはないと思ってくれているのだろう。その時間を以ってして、やっと聴くことのできる話なのだ。
「たぶん私が五歳になるかならないか、そのくらいだと思うけど。いつどこでなのか、正確には憶えてないの。
どんな場所だったかは憶えてるのよ。草原がひたすら広がってて、真っ青な空がその上にあって、雲の白が高く積み重なって……緑と青と白、それ以外には嘘みたいに何も無い、そんな場所。そんな場所なんだけど、心当たりが無いのよね。
いま、この国のどこにそんな風景があるのかしら……うん、たしかに親戚の葬式とかで田舎の方に行ったことはあったかもしれないわ。でもね、私はこう思うのよ。そこは、こことは違うどこか、夢の世界だったんじゃないかって」
「夢の世界?」と私はおうむ返しに言った。ふとすると、彼女は空に目を向けていた。出会ったあの時に私が見ていた、そして今も見えている、死の世界。それを目に映そうとするように、彼女はぼんやりと空を見上げていた。
「そう、夢の世界。とにかく、私はそこにいたの。過程をすっ飛ばして、いつのまにか。
……本当にいつのまにかなんだから仕方ないでしょ? 子供の頃だから記憶も曖昧だし。夢遊病ってあんな感じなのかしらね。どこかに行きたいなあと思って眠ると、いつのまにかどこかにいたりして。
子供の頃って、どこか遠くに行きたいと思ってとりあえず歩いてみたら、簡単に見知らぬ場所にたどりついたりしなかった? そのうち道に迷ってることに気づいたらすごく不安になって、必死に走って、それでなんとか帰り着くんだけど、その場所にもう一度行ってみようと思っても、不思議とたどり着けないのよね。慣れた道を少しずつ外れていくうちに、いつのまにか異界に踏み込んでしまうみたいな。たとえるなら、そんな感覚だわ。どうやってあの場所に行ったのか、どうやって帰ってきたのか、ぜんぜん思い出せないの」
たまに、彼女が私のことをまるで同年代の仲間のように扱っているように感じることがある。
しかし当然ながら私は子供の頃のことなど、その感覚などとうに忘れ去ってしまっている。その旨を伝えると、彼女は不満そうに頬を膨らませた。
「……まあいいや、続けるわね。
私がいつのまにかそこにいたなら、彼女もいつのまにかそこにいたわ。金髪で、紫色のひらひらしたドレスを着て、日傘なんて持っちゃって……たぶん身長は今の私より少し高いくらいかしら。顔立ちは私の年代より少し幼いかもしれないくらいなんだけど、でも女の子ってイメージは無かったなあ。雰囲気がね、貫禄がある、というのも少し違って……これもちょっと違和感ある言い方なんだけど、すごく大人びた感じだったわ。まるで、見た目よりも遥かに長生きしてるみたいな……。
人間じゃなかったっていう可能性は考えたわ。可能性というか、十中八九そうでしょうけど。少なくとも、ごく普通の人間じゃないってのは確かでしょうね。あれ以来会ってないから、確認のしようも無いけど。
そのうち向こうが『こんにちは』って言ってきて、私も『こんにちは』って返したの。そうしたら彼女は笑って──さっきは大人びた感じって言ったけど、でもね、すごく可愛く笑ってたわ。なんだか、嬉しくてたまらないってみたいに」
人間ではない、という発言に私は意識を留める。
たとえば幽霊だとか妖怪だとか、彼女はそういう、『人間以外』の存在を、ほとんど当たり前のように受け入れているふしがあった。
私の身内にも『そういうもの』の存在を訴える者はいたが、それは、自身の目でそれらを見ることができていたからだ。しかし彼女の眼は、そういうものを見るようにはできていない。それをいくらか訝しんだこともあったが、もしかしたら彼女のその考え方は、いま話しているこの出会いに起因しているのかもしれない。
「向こうがそのあと最初に言ったのは、『いい天気ね』って。実際すごくいい天気だったわね。澄み渡る青空、鮮やかな積雲……いや、もちろんそれだけじゃないのよ。その人……人? まあ話し易さの観点から人で通すけど、その人は『でも残念、月も星も出てないわ』って続けたわ。
ええ、そうね。向こうは私の眼のことを知っていた。
実際ね、月見星見で場所と時間がわかるようになり始めたのがいつごろだったかもはっきり憶えてないんだけど、その人と会った時にはもう分かるようになっていたのは確実よ。それくらいは憶えてる。
私は驚いたわ。どうして初対面なのに眼のことを知ってるのかって。お父さんとお母さんからね、隠すようなものじゃないけどあまりおおっぴらにするものでもないって言われて、他の人には教えないようにしてたから。でもその人は楽しそうに『知ってるわ。あなたのことなら何でも』って言ったわ」
もしもそのような不気味な存在が目の前に現れたら、私であれば身の危険を感じて、どうにか逃げおおせようとするだろう──笑いを含ませながら率直に感想を伝えると、彼女も苦笑する。
「うん、冷静になってみると怪しい人よね。でもほら、私も若かったってことで。眼のことを秘密にするのでちょっとフラストレーション溜まってたし、遠慮なく話せる人だと思うと、つい、ね。『月を見て場所が分かる、星を見て時間が分かる、素敵な眼ね』って──お父さんもお母さんも、オカルトに偏見があるわけじゃないから認めてはくれたけど、褒めてはくれなかったのよね。だからそんなふうに言われて、すごく嬉しかった……」
彼女の穏やかな微笑、それを見て私は、一年前のことを思い返そうとしていた。彼女が私に自身の目のことを語ったあの時、私は何を言っただろうか──おそらく、悪いことは言わなかったように思う。彼女に訊いてみようかとも考えたが、もしもお互いに憶えていないとなったらやや決まりが悪いだろうと、私は思考を心の中に押し込めた。
「その人はいろんなことを教えてくれたわ。私の眼のこと。私の中の、絶対的な時間と場所の定義のこと。それに、写真の話もしたわ」
「写真……なるほど、君がアナログの写真についていろいろ知っていたのも」
「ええ、その時に教えてもらったの。私の眼は、写真の中の月と星から時間と場所を読み取るということも。私自身が、普通の人よりも強く、写真の中の世界に意識を移せるということも。当時の私にはよく意味がわからなかったんだけど、でも不思議と、その話の中身は一語一句忘れず憶えてた。何かされたのかもしれないわね。
で、その後だけど……私、それまではデジタルか、アナログでもコピーされた写真にしか縁が無かったのね。その人が見せてくれた一枚の写真が、私の最初だったわ」
懐かしげに細めた目を彼女が向けているのは、今度は死の世界ではなかった。
その先にある空を。
日が長い夏、いまだ夕焼けの欠片も見せない青々とした空。あるいはそれよりもさらに先か。
彼女はじっと、見つめていた。
「ここじゃないどこかだった。ずっと昔の、日本のどこかってことしか分からない、空の上で映された写真よ。月が低かったからかな、地上の景色も映り込んでて、だけどもうびっくりするくらい小さくて。
でもね、気づいたら、私もそこにいたの。空の上に。その女の人も隣にいた。隣で私の手を握ってた。まるで空を飛んでるみたいで、信じられないけど、星もきらきら光ってて、月が物凄く近くて、風が吹いてて、雲が流れてて。それだけじゃないのよ、山も森も湖も……うまく言えないんだけど、暗い夜の中で、まるで生きてるみたいだった。私たちのいるこの世界ではもう見れない景色なんじゃないかって、なんとなく思ったの。
でも、ほんの少しだけだった。私もその人も少ししたら元の草原に戻ってきて。その人は『楽しかった?』って私に訊いたわ。私が頷いたら、その人はやっぱり嬉しそうに、可愛らしく笑ってた」
彼女は目線を、目の前の地面へと戻した。そのまま黙っているので、そこまでで話は終わりかと問うと、けれど首を振る。
「もう少しだけ続きがあるの」言いながら彼女は、しかし話すかどうか迷っているようにも思えた。
私がだから黙って待っていると、彼女はぽつりぽつりと言葉を繋ぎ始める。
「その人は『またあそこに行きたい?』とも訊いたわ。すぐに私は『連れてって!』って頼んだ。手に持ってた写真がいつのまにか無くなっちゃってて、でもこの人ならまた連れてってくれるんだろうと思った。
だけど、その人は……『残念だけど、それをするのは私じゃないのよ』って言った」
風がさあと吹いて、彼女の横顔を黒の髪が撫でる。
彼女はほとんど独り言であるかのように、じっと真正面を見据えて話を続けていた。それはあるいは、私の方を向くまいとしているのではないかと思えるほどに。
「『あなたをこの世界に導いてくれる誰か。あなたには見えないものを見る誰か。それが待ってる。あなたがこの世界のことを夢見てくれていたら、この場所を訪れたいと思っていてくれたら、いつかきっと逢える。だから、どうか、待っていて』」
言い切ると、彼女は自嘲げな笑みを私に向けた。
私も、彼女が何を言おうとしているのか予想していた。予想していながら、何も言えなかった。私に見えているのは死の国のみ。寿命が近い、ただの老人に過ぎない。彼女もそれを分かっているはずだった。
彼女は小さく溜息をつくと、少しのあいだ目を瞑っていた。そのまま数秒、そして目を開いてくすと笑うと、それまでのことをすべて振り払ったかのようだった。
「これで、私と変な女の人の話は終わり。どう? いろいろと謎は解けた?」
「……ああ、納得できた。そこに行くことが、君の目的なんだね」
「ん……まあ、ね。それが第一目標」
「第一目標?」
「そう。最終目標は、またそのうち教えてあげる」
時計を見ると、いつの間にか、話を始めてから一時間ほどが経っていた。「十七時二十四分、三十秒……三十五秒……」私が時計を見たように、彼女も星を見ている。少し長話しすぎたかな、とベンチを立つ彼女に、私はいつものように、「また明日」と声をかけることしかできなかった。
◆ ◆ ◆
/6
いつもいつもここに居て大丈夫なのかと、そんなふうに言ったのは、半ば呆れであり、半ば自虐であり、半ば心配でもあった。
ほとんど毎日のようにここに来る彼女への呆れであり、それを朝から夕方まで本を片手に待ち続けるほどにやることの無い私への自虐であり、そして、学生たる彼女が、友達付き合いなどを疎かにしているのではないかという心配である。彼女が関わるべき人間は、私などよりももっと他にたくさんいるはずなのだ。
しかし彼女の返答は、「見くびってもらっちゃ困るわ」とのこと。友人関係などなど良好すぎるほどに良好──とは言われたものの、私にそれを確認する術は無く、ただ聞くにまかせていたのだが。
ともあれ、いつものようにここにやって来ていつものようにこのベンチに座った彼女に私が投げかけたその一言が、今日の話題の方向性を決定付けたのか。「そうそう、今度、五日間くらいここに来れない日があるの」と彼女は続けた。
試験が近いらしい時などもここに来ていた、来なかったのはほとんど葬式の時くらいだった彼女だが、予定が立っているということは、葬式というわけではないらしい。
「ちょっと旅行ついでに大学の見学をね。オープンユニバーシティってやつよ。京都の方なんだけど」
「ああ、大学か……君も、あと数年で大学に行くんだな。少し前まで中学生だった気がするよ」
「実際、少し前まで中学生だったけどね……」
苦笑しながら、京都という地名に私は何か引っかかりを感じていた。その間にも彼女は、授業をサボって行く予定だとか、『ヒロシゲ』という新幹線に乗るのが楽しみだとか、旅の予定を話して聞かせていた。彼女の話がやっと大学のことに触れ始め──その大学の名前を聞いて、やっと引っかかりの正体が判明した。
「ああそうだ、京都のその大学、私の孫もそこに行く予定だと言っていた」
「……お孫さん?」
いつかのことを思い出してか、ほんの一瞬彼女は口を止めたが、やがて私に何の異常も無いことを見て取ったのだろう、「私と同い年?」と笑って訊いてきた。
私も、なんら口ごもることなく答えを返す。
「たしかそうだったかな。女の子だよ。マエリベリーと言うんだがね」
「メリベリー?」
「マエリベリー」
「マェリベリー?」
発音しにくいらしく、彼女は何度かその名を呼んでいたが、やがて面倒になったようでメリベリーに落ち着きつつある。
その様子を見ていて、私にはふと閃くところがあった。
今となっては、マエリベリーも普通に友達を作り、学生生活を楽しんでいるはずである。しかしそれとは別に、「メリベリー、メリーメリー……もうメリーでいいんじゃないかしら」とぶつぶつ言っている彼女と友達になれれば──それは、孫娘にとって素晴らしい出会いになるのではないかと、直感が囁いた。
それも、一方通行ではない。自分には見えないものを見る誰かを探している彼女は、マエリベリーのことを知ればむしろ自分から近づこうとするだろう。
「もしよければ、友達にでもなってあげてくれないかな」
「そのくらいお安い御用だけど……だったら連絡とってもらわないとね。写真とかもある?」
「ああ、今度持ってこよう」
私には、彼女をどこかに導いてやることはできない。ただこの場所で、精一杯に生きている彼女が少し羽を休めるのに、付き合うだけだった。それ以外にできることは無い。
だが。もしもの話だ。
もしもマエリベリーが、彼女が探す導き手なら。彼女が待ち、彼女を待っている相手であるならば。私は、二人の運命の橋渡しをしてやれたことになる。こんな老いぼれが、彼女に、そしてほとんど会うこともできなかった孫娘に、何かをしてやれたことになる。それが思いがけない、死に際に残された最後かもしれない幸福なのだと、私は理解していた。
もちろん、彼女の探し人がマエリベリーであるという保証などは無い。それでも、これはもうほとんど個人的な願いの領域だが──彼女と孫娘とが仲良く話している姿を、見たいと思ってしまったのだ。
「きっと、いいコンビになる」
「ん、何か言った?」
「いや……なんでもないよ」
満足げに笑みを作る私を見て、彼女は不思議そうにしていた。
その後、孫にも連絡を取った。私が伝言役となって二人は幾つかの言葉を交わし、どうやらどこかで待ち合わせの約束をしたらしい。
彼女がここを発つ前日、私は今年の年賀状を持ってきて彼女に渡した。印刷された写真、そこに写った孫の姿を指して、それがマエリベリーだと伝えてやった。
彼女はそれを「ん~? なんだか、この子……」と眉根を寄せて見つめていたが、「まあいいわ、実際会った方が早いでしょうし。ありがとう、この写真ちょっと借りるわね」と懐にしまった。
それから話したことはといえば、特に普段と変わりなかった。京都にはこの近辺よりも曰くつきの場所が多いだとか、大学に行ったらそういうところを回ってみたいだとか、どちらかというと彼女が一方的に話して、私は相槌を打つ役に回る。
この二年ほどで繰り返してきた時間。今日の分はすぐに過ぎた。これで彼女としばらく会うことは無い。
彼女は、私があげたカメラをこれ見よがしに抱えあげて、「それじゃあ、行ってくるわ! 一週間後にはまた来るからね!」と帰っていった。一週間後にもちゃんとここにいろということだ。私は苦笑して見送った。
同時に、ふとした理解が脳裏をかすめる。彼女は向こうの大学に行くと言う。すると、この付き合いもあと数年と続かない。
当然だと思う一方、名残惜しく思う気持ちが湧き上がってもくる。ただ、それよりも──彼女はこの場所を巣立ち、もっと遠くの場所に向かって飛び立っていくのだという認識は、私の胸を満たす心地よい感慨でもあった。
◆ ◆ ◆
/7
それから一週間が経った。学校を終えてきたのだろうか制服姿で、既に夕方であるが、彼女は言葉通り、またこの場所を訪れていた。
公園の敷地に入り、ベンチが目に入るところまでやって来て──私がいないと見たのだろう。少し意外そうな顔をして、首を傾げながらベンチに腰掛けた。
数分が経った。「ドッキリとかは好みじゃないわよー」と、公園で遊んでいる子供達にまでは聞こえない程度の声で、彼女は言った。
数十分が経った。彼女は苛立たしげに腰を上げ、公園の遊具の影などに私が隠れていないか確認し始めた。
一時間ほどが経った。彼女は少しの間、ブランコに乗って前後に揺れていたが、やがてベンチで横になった。
数時間が経った。彼女はついに怒りの形相で立ち上がると、公園を後にした。
隣に座っていた私に、彼女が気づくことはついに無かった。
まったくもって、呆気ないものだ。結局、私の命を持っていったのは、冥界の誘惑でもなく、そこから来る死神でもなく、一台の車だった。彼女が出立した五日後のことである。
近所の人間や僅かな親戚によって諸々の処理はつつがなく済まされ、何一つの問題なく、私の身体は燃やされたはずだ。私はいわゆる幽霊となったのだろう。自分の身体の後を追い、その様を見届けてみようかとも思ったが、集まった親戚連中の中には霊感を持つ者も多かった。もしも彼らに存在を気づかれたらと思うと、なんとなくきまりが悪かろう。そう考え、それではどこに行こうかと思った時に、この場所の他にあてが無かった。
そうしてここに来てみると、死者の世界がいつになく魅力的に見えた。相変わらず咲き誇る桜は、命を栄養にして撒き散らしているのだと感じ取れた。私もあの桜に吸われ、あの桜の一部となるのか。おぞましいはずの想像に、そうするべき、そうなるべきだと頭の隅で何かが囁いた。
私をその場に留めたのは、彼女の姿を一目見たい、できるならば孫とのことを聞きたいというその一念だった。
彼女はマエリベリーに会えたのだろうか。そういえば、マエリベリーとその家族は私の葬式にいなかったように思う。相変わらず両親は仕事でこの国にいないのだろうか。彼女が私の死を知らなかったことを考えると、ちょうど情報がすれ違う形になったのかもしれない。
翌日の夕方頃、彼女はまたやって来て、ベンチに座った。どこか無表情で、かつて私が何度も指した、『冥界が見える場所』へと目をやる。
「メリーから聞いたわ……あなた、死んだんだってね。あと一年半、暇になっちゃうじゃないの」
彼女の一言を聞いた時、私を満たしたのは、間違いなく安堵だった。本当にメリーとあだ名で呼ぶくらいに、孫と仲良くなれていると知ったからだろうか。その言葉が、悲しみを含んではいても、それに囚われているような声色ではなかったからだろうか。
「葬式には出てあげるって言ったのに、もう終っちゃったらしいし。あと三日くらい待てなかったのかしら?」
──ああ、それはすまなかった。だがね、正直なところ、これで良かったのではないかとも思うんだよ。
思った言葉は、もちろん彼女には届かない。だが、私は、言葉を紡ぎ続けた。いつもそうしていたように。
やはり私は、彼女に自身の死を見せつけたくなかったのだ。それは意地か、見栄のようなものかもしれない。彼女の話を聞いてあげるだけの、見知らぬお爺さんという立ち位置に私は満足していた。おそらくそれでこそ満足していた。それ以上でも以下でも無い、その関係が心地よかった。だから互いの名前も、いまだ知らないままだ。彼女を休ませる、それだけの場所でよかった。
多少遠ざかったとはいえ、依然として死を控えた身だ。マエリベリーと彼女が仲良くなって、あるいは私たちの距離までもが縮まってしまうより前に──そう思う自分がいたのも事実だった。
──だって、こんな別れ方のほうが、ミステリアスな感じがするだろう?
苦心の末に私が持ち出した言葉は、あんまりに気が利いてなくて、彼女に聞こえていなくて良かったと思えたくらいだ。
もしも聞こえていたら彼女は何を思ったのだろうかと、ほんの少しの興味もあった。
不確かだった、私たちの関係。いつか冗談めいて言ったミステリアスな関係を、彼女は後悔するのだろうか。思いながら、それを認めない自分がいた。
きっと彼女は、そうやって否定することはしない。私達は間違いなく、この距離を、この関係を楽しんでいた。だからそれでよかったのだと胸を張ってくれる、そんな確信があった。
続く言葉が無いままに、しばらくの時間がたった。
彼女はふうと溜息を吐いて「……まあ、いいわ。ところで、メリーのことだけど」と前置いた。場違いかもしれないが、京都での土産話でも始めるのかと私は思った。最後に、友達になってやってほしいと言われた孫との、土産話を。そんな配慮かと思ったのだ。
「気に食わないわ、あの子。まったくもって気に食わない」
だから彼女のその言葉に、私は、無くなったはずの心臓が脈打つかのような錯覚を覚えた。彼女とマエリベリーはきっと仲良くやっていける。そんな展望は私の勝手でしかなかったのかという不安と。しかし彼女は、孫のことを親しげに『メリー』と呼んでいる──ささやかな反論とが、せめぎ合う。
しかしそのうちに、彼女は──いつも私が座っていたその場所を、今も私が座っているその場所を、きっと睨んだ。かつてと何一つ変わらないその仕草に、私は自身が死んでいるということをほとんど忘れそうになっていた。
「今までに何があったのかは知らない。どんなふうに生きてきたのかも知らないわ。でも少なくともあの子は、この世界に絶望してた。結界の境目が、境目の先の別の世界が見えるからって、そっちばかりを夢見てた……まったく、自分の孫にもうちょっとしてやれることはなかったの?」
それを聞いた時の私の心中を、どのように表現したらよいのだろう。
かつてマエリベリーに降りかかっていた問題がどのように解決されたのか、たしかに私は知らなかった。どのような問題が降りかかっていたのかすら、すべてを知ってはいなかっただろう。
自分はやはり決定的に間違っていて、事態は何一つ好転していなかったのだろうか──暗い色を帯び始めた私の意識を、しかし彼女の声が引き上げる。
「代わりに私が、あの子に教えてあげるわ。この世界の楽しみ方を。大学に行ったらね、サークルを立ち上げて好き勝手やろうって約束したの。たくさん連れまわしてやるわ。夢ってのは現実から逃げるためのものじゃない。現実に変えるためのもの。それを教えてあげるくらいで、たぶんギブアンドテイクになるでしょうしね」
ギブアンドテイク? との私の疑念に反応するように、彼女は続けた。
「うん、ギブアンドテイク。きっとね、あの子は私を向こう側に連れてってくれる。あの子が私の導き手なんだと思う。写真を見た時から思ってたんだけどね……前に話したでしょう、変な女の人のこと。あの人にね、すごく似てるのよ。あの子に最初に会った時ね、感激して思わず抱きついちゃった。
でもね、それだけじゃないのよ」
くすと笑って、彼女は目をつむった。しばらくの間、彼女はそのままでいた。
ほうと大きな溜息をついて、ゆっくりと目を開く。いつの間にか、その顔に寂しげな笑みを貼り付けて。
「結局、あなたは違ったのよね。私の探す相手じゃなかった。私をどこにも連れて行かずに死んじゃった。今さらよね。でもほんの少し、心の底で、もしかしたらあなたなんじゃないかって思ってた。
せっかくだからね、意味を持たせたいと思うのよ。あなたは、私とあの子を出会わせてくれたんだって。私とあなたは、ちゃんと意味があったんだって。だから──私はね、あの子が探し人だったらいいなって思う」
まったく、欲が深い子だ──苦笑しながら、私は思う。
意味など、既にあったはずなのだ。少なくとも私にとっては。楽しい時間を過ごさせてもらった。孫の未来に対する不安すらも、溶かしてもらった。
彼女は、私の方を見て、満面の笑みを浮かべた。
「今までありがとう。すごく楽しかった。あなたがいてくれたから、私の話を聞き続けてくれたから、私は、私の目指すものを見失わずに追い続けていられたんだと思う」
その気持ちへの私の返答は、「どういたしまして」ではなく、「ありがとう」だ。
彼女がそう思ってくれていたことへの。彼女も、私たちという関係に意味を与えてくれていたことへの。
彼女は冥界の姿が浮かんでいる場所へと、視線をやった。彼女には見えていないはずのそれを、果たしてマエリベリーは見ることができるのだろうか。私の思考を遮るように、彼女は言う。「最後のお話」と悪戯っぽく笑って。
「ここから、向こう側は見えていたのよね。じゃあ、向こう側からは、ここはどんなふうに見えるのかしら。ここから見る向こう側はすごく綺麗だったみたいだけど。夢の世界から見る現実は、どんなふうに?
いつか言ってた私の最終目標ってね、それなのよ。あの時、高い高い空にいた時、思ったの。もっと高く、空の果てまで行ってみたら、何が見えるんだろうって。私の目は、星を見て時間、月を見て場所が分かるけど。地球の青い光を見たら、何か他に分かるものがあるんじゃないかなって──」
私は、ただただ頷きながら聞いていた。
地球の光。他の星には無い、青い輝き。彼女の目指すもの。
現実の世界に絶望していたというマエリベリーに苛立ちを見せた理由が、今ならわかる。マエリベリーが絶望していたというそれこそが、彼女の求めるものだというのだから。
「もしかしたら、特別なことは無いかもしれないわ。金星をみて時間が分かるみたいに、ただ時間が見えるだけかも。でも、それでもいいの。私たちのいるところを、この世界を、どこか別のところから見つめてみたい。私たちのいるこの場所に何かしらの価値があるなら、その価値ってものは、別のどこかからじゃないとちゃんと見ることができないと思うのよ。……私は、それを求めてみたい。探してみたいの。
ねえ、憶えてる? あなたが言ったのよ。月や星が私のことを見ていて、場所や時間を教えてくれてるんだろうって。それでもいいかなって少し思うのよ。いつかこの星の光を見た時に、私に何を教えてくれるんだろうって。そんなふうに思うのが、その時が来るのが、すごく楽しみなのよ。
メリーは、この現実から夢の世界を垣間見ようとしているみたいだから──なんだかんだで私たち、相性が良いんでしょうね。こっちから向こうを見て、そうやって向こう側に行けば、こっちを見ることもできるもの。とりあえずメリーのやりたがってる方向に付き合ってあげるつもりよ」
そこまで言い切ると、彼女はついにベンチから立ち上がった。彼女は最後まで、笑顔だった。
安らかで穏やかな、終わりの予感。もはや私をこの場に繋ぎとめるものは無かった。この場に留まる必要も無かった。
「いつかメリーをここにつれてきて、冥界参りをしてあげる。向こうからこっちを見た感想も聞いてあげるから、楽しみに待ってて。……それじゃあ、また今度ね」
「また明日」が「また今度」に変わっただけで、それ以外の何一つ、彼女の様子は普段と変わりなかった。
小さな声が聞こえた。「十八時十五分、二十五秒、三十秒……」いつの間にか、空には星が顔を覗かせていた。こころなしか、彼女の足取りが緩やかなものになった。
青い光をまとったこの星に、いつか彼女は彼方から何を見るのだろう。夢を現実に変えて──その果てに、また新たな夢を見るのだろうか。
私はベンチに腰掛けたままでいた。彼女が星を見て時間を数える声。それを子守唄にして、私の意識は、星と月の優しげな光に溶けていった。
話に無理が無くそれでいて新鮮。ああ、やられたなあ。
読ませていただいて感謝です。
一人の老人がつないだ二人の少女の始まり。素晴らしいお話でした。
こう言う話が大好物だと言うのもあるんですけど、それよりなにより、全体がしっかりと纏まっていたのが良かったです。