重々しい扉を開けると、陰湿な黴の匂いが中から流れ出てくる。
レミリア・スカーレットはその嗅ぎ慣れない匂いに少し顔を歪めて、扉の先へと足を踏み入れた。
軋みを上げながら扉が閉じる。その音は広大無辺の大図書館に何重にもなって反響した。
紅の壁を覆う、茶色の本棚。天井まで行き届かんとするそれには、恐らく何万との本が収まるだろう。
その本棚に隙間無しに大小様々な本が入っている。それが数十個。暗がりの向こうにも本棚が並列しているのが目視できる。
圧巻の光景にレミリアは足を運ぶ度――指折る程度だが――ここの管理者であり自身の友人に、感心を覚えるのであった。
扉を入って一番に視界に飛び込む、壮大な本棚達とは対照的に小ぢんまりとした休息所。
白のテーブルクロスがかかった机には書籍の塔が建っており、窮屈そうにひしめき合っている。
普段ならばそこには、レミリアの友人にして大図書館の管理者、パチュリー・ノーレッジが椅子に腰掛け、読書に耽っている。
が、今日はいなかった。
給仕の小悪魔を呼ぼうとしたが、彼女すらも見当たらない。レミリアは暗がりに声を投げた。
「パチェー? どこにいるのー?」
広大であるから、捜す気になれなかった。極みの無い平野等であったら止むを得ず捜さなければならないが、ここは密室だ。
声が反響するので、どこにいてもその声を聞き届けることが出来る。
暫く返事を待っていると、暗闇から淡い光が見え始め、徐々に人影が、レミリアの前に姿を現した。
「……珍しいわね。レミィがここに来るなんて」
さして驚く様子も無く小さな声で、そう返事をしたパチュリーの体は魔力の加護を受けて宙に浮いていた。
彼女は魔力の出力を抑えて、高度を自らの足裏が絨毯に付くか否かの絶妙な所まで落とす。
緩慢として上下に体躯がたゆたう度に、胸元まで伸びたパチュリーの紫苑色の長髪が靡いた。
小脇に本が数冊抱えられているあたり、これから読む本を吟味していた最中だったのだろう。
レミリアは少しだけ、顔を上げてパチュリーのことを見ると、周りの本を見回しながら言った。
「異国のことについて書かれている本は有るかしら?」
「あるにはあるけど、異国、と大きく区別されると膨大にあるわ」
パチュリーは体全体を覆う衣服から顔を出す白い両の掌を叩く。すると、羽音を立てて暗がりの奥から小悪魔が顔を出した。
それを横目で流し見て、再びレミリアはパチュリーを見る。
「そうね、巫女について細かく書かれたものがベストね。ところで、それは何の類に分けられるのかしら」
「神道、ね。それなら確か子細に書かれたものがあるわ」
そこまで言ってパチュリーは小悪魔に目配せをした。
小悪魔は分かりました、と抑揚の無い声で二人に頭を下げる。
顔を上げると、彼女は背中に生やした、レミリアのコウモリ翼とは違ったそれをはためかせて、また暗澹へと姿を消した。
「何処に何の本があるかは、私より小悪魔の方が知っているから」
全て自分の所有物だというのに、自分が一番詳しいという訳ではない。そのことに、パチュリーは独りごちて苦笑してみせる。
少しだけ弛緩した彼女の表情は、すぐに伏し目がちの無機質へと戻った。
「――巫女のことを調べたい、だなんて。まさか前に来た紅白のことかしら? 名前は……ええと……」
今度はパチュリーが、思案に言葉を紡ぎあぐねる番だった。
「博麗霊夢」
彼女が答えを出すよりも先に、レミリアが矢継ぎ早に巫女の名前を出す。
それで思い出したのか、パチュリーは小さく声を漏らして頷いた。
後に『紅霧異変』と語り継がれることとなる、幻想郷が緋色の妖霧に覆われた夏のある日。
妖しくおぼろに宵闇を照らす赤色の満月の夜――それが、レミリアと霊夢の初顔合わせだった。
片やこの怪異現象の主犯、片やその異変を食い止めんとする者。勧善懲悪という実に単調な筋書きの下に、レミリアは土を付けられた。
それ以降、レミリアはその借りを返そうと、霊夢の住処である博麗神社に入り浸っている。
彼女は誇り高きツェペシュの末裔――自称だが――にして、紅魔館の主。
十数歳の少女にそんな自分が負けたままなのは、彼女のプライドが許さなかったからだ。
博麗霊夢。
その名を口走るだけで、レミリアは壮大な闘争心に駆られる。これ程血の滾る思いをしたのは久しぶりだった。
またいつものように、太陽が照る日に外へ出ることが出来なくなってしまったのは気残りだったが、彼女と出会えたことで毎日が退屈しない。
今回彼女が巫女について調べようと思ったのも、少しでも霊夢の対策を練ろうという思いからの行動だった。
「レミィにとっては大きな利益を得たかもしれないけれど、私にとっては大損よ」
レミリアの浮ついた表情を見て、パチュリーは溜息を吐いた。
「黒白がここの味を占めたせいで、私は一々アイツに気を配らなくちゃいけなくなった」
黒白――霧雨魔理沙のことか、そうレミリアは胸中で呟く。霊夢と違って、その名前は彼女に何の波紋も生まず、虚空へと消えた。
パチュリーに勝利した、とメイド長・十六夜咲夜から聞いたが、レミリアは所詮運だと信じて疑わない。
実力の有無は一見してから語る、それが彼女の主義だった。
この幻想郷に住まうもう一人の魔法使いのモノクロを頭に思い浮かべていると、パチュリーはもう一度溜息を吐き、本棚の一角を指差した。
「一昨日に盗まれたの。あの列全部よ……ほんと、嫌になっちゃう」
レミリアがパチュリーの指差す先を見ると、窮屈に収められた本棚の一段だけ、がらんと筒抜けになっているのが目に入った。
ここの全ての本に比べれば、そんなもの大したこと無いでしょう、と言おうとした口をレミリアは噤む。
彼女は生粋の本好きだから、本を蔑ろにするような発言は傷に塩を塗りかねない。
だったら取り返しに行けばいいじゃない、と代わりの言葉が紡がれたが、年中大図書館に篭っている彼女にそれは愚問だろうと押し留める。
結局、無理に言葉をかけるよりそっとしておこう、という考えに逢着し、二人の間に沈黙が降りた。
……沈黙が破れるのに、それ程時間はかからなかった。
静寂に満ちた大図書館に、突然雷鳴のような轟音と少女の叫び声が響き渡った。レミリアもパチュリーも、それが本の崩落音だとすぐに理解した。
息つく間もなく、硬質の表紙が赤絨毯を叩きつけ、それに混じって紙が手折る音が聞こえてくる。それが数秒ほど続いた。
やがて何事も無かったかのように訪れた静謐を確かめてから、レミリアは眉を顰めてパチュリーに囁く。
「……やってくれたみたいね」
「ええ。でも、方向からして小悪魔じゃないわね。多分――」
肩を竦めて何気なく言ったパチュリーに、レミリアは首を傾げた。
いつもはパチュリーと小悪魔の二人しかいない大図書館に、三人どころか四人いる。これは滅多に無い事だった。
誰だろうか、美鈴はこの時間帯はまだ門番の任に就いているし、咲夜は食事の後片付けに回っている。第一、聞こえた悲鳴はやけに幼かった。
「パチェ――――たすけて――」
レミリアがそう思案を張り巡らせていると、本の中に埋もれているせいだろう、くぐもった声でパチュリーを呼ぶ声がした。
彼女はそれで、自分の他に誰がここに来ているのかが分かった。パチュリーのことを愛称で呼ぶのはレミリアの他に一人しかいない。
そいつはレミリアのみに許された呼称を、姉の模倣という理由でいつの間にか堂々と使っている。
更に面白くないのは、それについてパチュリーが、全く気にしていないということだった。
「ねえ、パチェ」
「何、レミィ」
冷徹な舌鋒を含み、レミリアはパチュリーに訊いた。
「どうしてここに、フランがいるのかしら?」
レミリアの眼光は、幼きその容姿と違って圧倒的な鋭さを秘めていた。常人ならそれに気圧されるどころか、本当に押しつぶされてしまうほどの鋭さだった。
しかし、パチュリーは全く怖じる様子もなく、紅蓮のレミリアの瞳を自らの紫の眼でもって見返す。
「不服そうね」
「勿論。彼女を野放しにすると何をしでかすか分からないわよ? フランにかかればここにある本ぜーんぶ……」
皮肉たらしくレミリアは言い、両手を握り締めると、それを大きく広げて笑みを作った。
「『キュッとしてドカーン』、よ?」
「ああ、そうね。その心配はあるけど……何故かしら、今の妹様がただ事も無しに力を使うとは思えないの」
「それは先入よ、パチェ。今まであの子が何もしていないから、きっとこれからも何も無いだろうと思い込んでるだけ。直に――」
レミリアのその言葉は、再びパチェの助けを呼ぶフランドールの声によって遮られた。
少し間延びしたフランドールの声からは、自力で脱するよりパチュリーに助けてもらいたい、という甘えが垣間見える。
高尚たる吸血鬼の姉として、余計にレミリアは腹立たしくなった。
逆に、パチュリーはそんなフランドールに愛らしさを覚え口元を緩ませる。
もうすぐ小悪魔が来るだろうから、とレミリアに言い残し、彼女は浮遊の高度を高めながら姿を消した。
遠ざかる友人の背中がやがて暗闇に消え入るまで、レミリアはじっとパチュリーのことを不満そうに見詰めていた。
当然その足は前に出ることなく、暫くしてレミリアの耳にフランドールとパチュリーが仲睦まじく談笑しているのが聞こえてきた。
彼女は小さく舌打ちをする。
口腔と舌が粘着質に擦れるその音は、反響することなく、刹那に浮かんではふっと消えるのであった。
心に散りばめられたぐずつき模様にむしゃくしゃしながら、レミリアはそれまで広げていた本を置いた。
一つ大きく伸びをすると、彼女は薄幕のカーテンに囲われた自分のベッドに飛び込んだ。
空気を含んで一杯に膨張した布団が、彼女の重みにゆっくりと沈んでゆく。咲夜のベッドメイクは常に完璧だ。
心地よいフローラルの芳香がレミリアの鼻腔をつくが、それでも胸のわだかまりは取り除けないままだった。
先刻の一件のせいで取るもの手につかず、折角パチュリーから借りた、神道についての書物も全く頭に入らなかった。
尤も、レミリアにとって異国特有の文化である神道をすぐに理解すること自体、難題な話なのだが。
レミリア・スカーレットの現存する唯一の血縁、フランドール・スカーレットがその敬愛する姉の手によって幽閉させられたのは、およそ数百年前の事。
その引き金は、フランドールが先天的に得た『ありとあらゆるものを破壊する程度の能力』という理不尽な力と、彼女の情緒不安定な性格だった。
いつ、感情の均衡が破れ、その力を発動させるか分からない。
だからフランドールは閉じ込められた。破壊者の封印は長きに及び、いつしかそれは秩序になっていた。
もし、その秩序が打ち砕かれたようなことがあれば、何が起こるか。
その危惧はレミリアもパチュリーも、美鈴も咲夜も妖精メイド達も分かっている筈だ。
なのにどうだろうか、皆はその懸念をすっかり忘れたように、フランのいる日常を受け容れている。
今の妹様がただ事も無しに力を使うとは思えないの――レミリアはパチュリーの言葉を思い返して、確かに、と呟いた。
確かに、フランドールがこっちに顔を出してから二ヶ月が経つが、日々は平穏と何事も無く流れている。
たまに彼女が力を行使し、窓ガラスが割れただの、バケツが破裂して絨毯が水浸しになったという報告は聞く。
けれど、レミリアが雇っている妖精メイドは、メイドという立場にありながらも所詮は妖精だ。咲夜の下、躾けられてはいるも、覚えが悪い。
そのお陰で何度か、装飾品の壷や絵画を駄目にしたことがあった。
だから、そんなものは既に体験済みの些事にしか過ぎない。
こうも上手く行き続けると、パチュリーの言うように、何事も無いままに続くのではないかという思いは無いと一概には言えなかった。
しかし、あのフランドール・スカーレットが、ただ無機物を壊して満足している筈が無い、とレミリアは確信していた。
彼女はフランドールの狂気を知っている。
近いうちに彼女の心底に秘めた破壊衝動が暴走し、このまま野放しにしたら紅魔館は大損害を被るだろう。
当の主として、それだけは避けたかった。出来るならば今すぐにでも大図書館に引き返し、パチュリーと戯れているであろうフランドールを無理矢理にでも再び暗室の地下へ追いやりたくなった。
なのに、いざ行動するとなると逡巡してしまう。画龍の点睛が射抜けない。詰まるところ自分もパチュリー同様に、先入観の囚人でしかないのだ。
許されるならば、フランドールを常闇にもう一度閉じ込めてしまうのは、血の繋がった姉妹に免じて勘弁して欲しい。それがレミリアの本心だった。
昂ぶった思いが鎮静すると、大きな眠気がレミリアを襲う。日射の入り込まぬよう窓を掩蔽したカーテンから、茜色が漏れている。
彼女は欠伸をして力なく肩を落とすと、目を開けたり閉じたりして必死に睡魔と闘っていたが、やがてゆっくりと、その瞳を閉じた。
レミリアは時々微笑みを浮かべながら、健やかな寝息を立てる。くしゃり、と、彼女の髪が布団に擦れて優しい音を鳴らす。
次第に彼女の意識は、まどろみの中へと沈んでいった。
フランドールと最後に遊んだのは、いつの事だったか。
忘却のせいでノイズのかかった映像に、フランドールのあの、無垢な笑い声が聞こえてくる。
が、その声は、耳に飛び込んできたノック音に、風のように消え去ってしまった。
同時に流れ込んできた意識に、レミリアは呻き声を漏らすと、半身を起こしてドアを見た。
「れ、レミリア様? 眠っていらっしゃるのですか?」
遠慮しがちな声が向こうから聞こえてくる。咲夜ではなかった。
妖精メイドが自分を呼びに来るなんて珍しい、とレミリアは思った。
「……今起きたけど。咲夜はどうしたのかしら?」
「メイド長は手が放せない状態でして、代わりにレミリア様を呼んで来い、と私に言いました」
えっと、その、と何度も言葉を詰まらせながら答える妖精メイドのうろたえ様に、レミリアは何かを察知する。
自分の寝室を前にして腰が引けているというのもあるだろうが、それだけてはえ尽くせない狼狽ぶりだった。
主人を呼ぶほどの大事だ、何があったのか問うよりまず現場に行くのが先決だとレミリアは判断する。
彼女はベッドから飛び降りると、決して急ぐことなく、泰然としてそのドアを開いた。
ドアを開いた、その時だった。レミリアの嗅覚が、微細ながらも紅魔館を漂う血の匂いを捉えた。
空気に付着するほどの大量の鮮血が目に浮かぶと同時に、一抹の不安が彼女の脳裏を過ぎる。
そう気づいた時には、最早優雅に歩いてはいられなくなっていた。
「レミリア様!」
妖精メイドの叫び声が、一瞬にしてフェードアウトしてゆく。レミリアは翼を広げて、ただ長い紅魔館の廊下を一息に疾駆した。
現場まで連れて行こう、というのは妖精メイドの魂胆のようだが、血が絡んでいるのならば案内の必要は無い。
伊達に吸血鬼ではない、血の匂いは他の誰よりも知っている。
危惧していた最悪の事態が、頭について離れない。
嘘であってほしいと、そう願いながらも、レミリアに突きつけられたのは、案の定――惨憺たる事態であった。
レミリアはそっと真紅の絨毯に降り、その光景を見回した。
一番にレミリアに気づいた咲夜は、彼女の方を向くと一礼をした。
先程まで咲夜が見詰めていた先を見ると、二人の同胞の肩を借りて、気分悪そうにこの場を去る妖精メイドの小さな背中があった。
窓際にはフランドールが立ち尽くしており、寄り添うようにしてパチュリーが傍にいる。
いつ彼女が暴走してもすぐ結界を張れるよう、彼女の右手には魔道書が開かれていた。
嗅いだだけで小食なレミリアの空腹が満たされそうな、血の匂いが殊に強く漂っている。
彼女は更にその匂いの発信源、フランドールの眼前に構える壁の前に足を伸ばした。
そこには、嘘偽りの無い、本物の赤がぶちまけられていた。
紅魔館の緋色よりももっと赤い、鮮やかなそれが、壁に飛び散っている。
指の腹でそれをなぞり舌舐めずりすれば、鉄の味が口一杯に広がった。
「……フラン」
レミリアは振り返った。大きな目を見開いて何食わぬ顔をしているフランドールを見据える。
冷徹なレミリアの視線に全く臆することなく、彼女はくすくすと笑った。
「壊しちゃった」
夢のそれとは違う、狂気じみた笑い声だった。
「お姉様の玩具、綺麗だったよ。真っ赤な血の雫が星みたいに散って――」
罪の意識はないのか、フランドールは見たものを姉に教えようと一生懸命になっていた。
頭が破裂したのだろう。
臓物が辺りに四散したのだろう。
血が噴水のように吹き出て、見る目も当てられない胴体が血溜まりに横たわったのだろう。
哀れな妖精メイド、彼女から『目』を潰されてしまっては、自慢の無限コンティニューも意味をなさない。
ここに彼女は、真なるゲームオーバーを迎えてしまったのである。
突きつけられた従者の死に、レミリアは怒りを覚えた。
その死が歯牙にもかけないいち妖精メイドの死だとしても、紅魔館に住まう者として変わりは無い。
淡い橙色の明かりが照らす紅魔館の廊下、闇夜の景観を背景に笑うフランドール。
本当に、腹の底から笑い声を出して、急にはたとその声が止んだかと思うと、
「――でも、つまらなかった」
本当に、けだるそうに不満を吐いた。
フランドールが求めているのは、己の欲望を満たしてくれる壊れない玩具。
壊れた玩具に価値は無く、命を弄ぶそれは、まさに子供のようだった。節操を弁えない態度に、レミリアは遂に拳に力を込める。
「レミィ!」
パチュリーがレミリアの名前を呼んだときには、既にレミリアの右拳が、フランドールの左頬にめり込んでいた。
鈍い音が鳴り、フランドールは床に叩きつけられる。
最強の力を持っているのと対照的に、頑是無く倒れ込んだ彼女を見て、レミリアのほとぼりは急速に冷めていった。
「無闇に命を刈り取る程、吸血鬼は猟奇的では無いわ。……私の言いたいこと、分かる?」
怒気の残滓を押し殺した声でレミリアはフランドールに問いかける。
姉に殴られた頬を押さえて、呆然とレミリアを見るフランドールは、ふるふると首を横に振った。
「……貴女の行為は、吸血鬼としての誇りを捨てた愚行にしか過ぎない。そんな妹、私は知らないわ」
「え……?」
上擦ったフランドールの声は、絶望に打ちひしがれたように弱々しく、レミリアの胸を締め上げる。
「今まで大人しくしていたから……なんて、貴女に期待していた私が馬鹿だったわ。
貴女はどうせ、何時まで経っても紅魔館を脅かす破壊者に過ぎない」
「お姉様、どうしてそんなに怒ってるの?」
自分と同じ、フランドールの緋色をした瞳が、滲んだ涙に潤み一層に鮮やかさを増す。
今にも泣きそうな彼女を、これ以上は見るのに堪えなくて、レミリアは背中を向けた。
「わ、分かった! 玩具を壊されたことを怒っているのね!
それだったら、私の玩具、お姉様にあげるから……壊れちゃってる、けど」
フランドールが、レミリアの損ねた機嫌を直そうと一生懸命になっているのが、背中伝いにレミリアに届く。
レミリアは何も言うことが出来ず、きゅっと下唇を噛んで、胸の痛みに耐えた。
後ろで音がして、レミリアは背筋に体温を感じた。フランドールの声が、もっと間近に聞こえてくる。
「お姉様、だからお願い……私のこと、見捨てないでよ。
もう暗いところで独りぼっちは嫌なの、皆と、お姉様と一緒がいいの……!」
フランドールの切実な叫びは、鐘のように何回も何回も、レミリアの心に痛切に響いた。
彼女がこれ程まで、自分が紅魔館の主であることを呪ったことはなかった。
主であるが故に、こんな断腸の思いをしなければいけないのか――と、レミリアは神ではない誰かに言う。
彼女は一つ、深呼吸をすると、自分にすがりつくフランドールを一思いに突き放した。
「……パチェ、フランを閉じ込めておきなさい」
言葉を絞り出して、レミリアはその場を後にする。後ろでフランドールがぐずっていたが、その足は決して止まることは無かった。
徐々に開かれていく二人の距離、薄れゆく鉄の匂い。
そそくさと立ち去っては動揺を隠しているのがばれてしまう、と、わざとらしいほどにレミリアは堂々と歩く。
「すぐに廊下の後始末を致しますわ」
背後で聞こえた咲夜の声色だけが、この空間で唯一平静を保っていた。
金色の月が輝き、仄かに世界を照らしている。
窓越しに見える湖はその月を映し出し、降り注ぐ光に幾つもの星屑を浮かべた。
風は無く、草がはためく音も、窓がざわめく音もしない。ただ一つ、レミリアの足音だけが、真っ直ぐと一帯に響いた。
足を止めれば、虚無がレミリアを包み込む。
現場の付近には寄るなと咲夜に言われているのだろう、掃除に勤しむ妖精メイドは誰一人としていなかった。
レミリアは怒りの中に、葛藤を宿していた。
紅魔館の主として、住人の安全を一番に考え、フランドールを再び幽閉せんとするレミリア。
フランドールの姉として、遂に解き放たれた秩序を機に、再び彼女と手を取り合おうとするレミリア。
相反する二つの立場、感情の一切を撤廃して考えれば、前者を優先すべきだという事も、後者は血の繋がった者が故のエゴだということも分かっている。
なのに、その天秤を、手に持った分銅をどちらか一方に乗せる事が出来ずにいる。
レミリアが最後に見た、あのフランドールの泣きそうな顔が、頭に焼きついて離れない。
自分が彼女に求めたのは、その悲哀に満ちた顔だったろうか。
例えそれが、統率者として適切な判断だとしても、フランドールのあの表情は求めてはいない。
その逆、レミリアは、肩を並べて戯れたあの時の、無邪気で愛くるしい彼女を求めていた。
「……どうしたら、いいのよ」
巡り回る思案は収束せず、泣き言をレミリアは漏らした。
その言葉は返って来る筈も無い泡沫と、彼女はそう思っていた。
「レミィ。言われた通り、妹様を地下室まで送ったわ」
後ろから聞こえたパチュリーの声に、肩を震わせて全身でレミリアは驚く。
振り向いたらパチュリーの目には、恐らく困り果てた表情をした情け無い自分の姿が映るだろう。
それは避けたくて、レミリアはパチュリーに背を受けたままで口を開いた。
「お疲れ様。――今度は、うんと強い結界を張って頂戴。フランの能力でも壊せないほどの」
「その必要は無いわ」
即答するパチュリーに、レミリアはえ、と声を漏らした。
「レミィに怒られてすっかり落ち込んでいたわ。
多分、これに懲りてもうここの中で力を乱用することは無いんじゃないかしら――だから、扉には結界を張らないでおいたわ」
「また予想? ……あのね、パチェ。前に言ったわよね、フランが事も無しに力を使うとは思えないって。
なのにたった今、それが起こってしまったのよ? それでもそんな根拠の無い事を言うつもりなのかしら」
自分もそんな先入にすがっていた一人だということは、レミリアは言わなかった。弱みを見せまいと必死だった。
先導するものが部下に弱さを見せてしまっては、部下は不安を覚えてしまう。
そして常に頂点に立つものは己の感情に流されず、最大限の利益を、最小限の損害を導くような決断をしなくてはならない。
このままパチュリーに言い寄られたら、きっと襤褸が零れ出そうな気がして、何とかしてレミリアは自己解決しようとする。
主ゆえの選択に、意思の分銅を乗せようとする。
「私は妹様を信じるわ」
躊躇うレミリアに、パチュリーのか細く、それでも堅実に地を踏んだ言葉が突き刺さる。
「妹様は泣いていたわ。レミィが自分のことを嫌いになったんじゃなかったのかって。
ほら、レミィ、妹様のことを避けてたわよね? それで、どうにかして貴女の気を引こうと考えたのよ。
自分の所有物が勝手に使われてる……それなら、気を向けずにはいられなくなるでしょう?」
「その考えた先が、あの有様? ……それじゃあ私がフランから目を離す度にメイド一人の首が飛ぶって訳ね。
そんなの御免だわ。犠牲はもう、彼女だけで十分よ」
それで流石のパチュリーも少しはたじろぐかとレミリアは思ったが、裏腹に彼女の返答はすぐに返って来た。
「懲りた、って言ったでしょ。妹様は学習した、二度目は起こらない」
「どうだか。どうせその場凌ぎの反省よ、明日になればケロッと――」
「レミィ、こっちを見て」
不意にパチュリーから肩をぐいと掴まれて、成す術もなくレミリアは彼女に引き寄せられた。
紅の世界から一転して、レミリアの目と鼻の先にパチュリーが伏し目がちの瞳を彼女に向けている。
その眼に映ったレミリアの姿は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。潤んだ緋色の瞳、すがるような目つきに、主としての威厳はどこにも無い。
やっぱり姉妹ね、とパチュリーは言った。彼女の唇が動くたびに、甘い吐息がレミリアにかかる。
レミリアはパチュリーの衣服を力一杯に握り締めると、そこに顔を埋めてわななき声を出した。
「……突然、何よ」
「強がってるの、ばれないようにしているみたいだけど、ごまかせないわよ」
「別に、強がってなんか――」
「うんにゃ、絶対意地張ってる。一体何年友人やってると思ってるのよ」
「…………うー」
自らの胸に体を預けてくるレミリアを、そっとパチュリーは抱き寄せる。
幾千の妖精メイドや有能な配下を抱え、適時適切な判断を下す、格式高い紅魔館の主は、もうそこにはいなかった。
そこにいるのは、その重圧と妹への思慕との狭間で苦しむ、一人の少女にしか過ぎなかった。
「……パチェ?」
「何、レミィ」
「……私、どうしたらいいか、分からないよ」
凛としようと、堂々としようと懸命に張っていた糸が急に緩んだように、レミリアの声は独りでは立っていられないほどに弱々しかった。
一体どれだけ、彼女はフランドールの為に腐心したのか、その優しくも痛切な想いがパチュリーの心に流れ込み、針を刺す。
小さな体には余りにも大きすぎる重圧を背負った友人の頭に、パチュリーはそっと、自らの掌を乗せた。
「そういうところで変に気負いすぎなのよ。立派に主やろうって。
自分の気持ちに正直になってみれば、分かることじゃない?
どうすればいいのかは、レミィが一番良く知っていると思う」
そうレミリアに囁くパチュリーの声は、優しく、聖母のようにレミリアを包む。
それでとうとう涙腺が決壊したのか、堰を切ってレミリアが泣き始めた。
無音の空間に、彼女の嗚咽がむなしく響く。
頬を伝う涙は赤の絨毯を濡らし、パチュリーの衣服の紫を濃く染めた。
暗闇の光景を、パチュリーはレミリアを抱きしめながら窓越しに見た。
全てを溶かす暗澹、しかしそれは、やがて訪れる光明によって薄れ消え行く。
永劫の夜など存在しないように、レミリアとフランドール、二人の間に降りる影に、漸く数百年の光陰を経て、薄明が来る。
そして願わくば、そこに二度と黒が落ちないように――パチュリーは心の中で、幼き吸血鬼姉妹の幸福を祈るのであった。
「――やっぱり小賢しく頭脳戦というのは性に合わないわ」
「分からなかった、って素直に言えばいいじゃない」
――後日。レミリアは借りた本を返しに大図書館へと赴いた。
いつものように椅子に腰掛けていたパチュリーは、足元に隆々と積み上げられている本の山に、その神道の本を無造作に置く。
広げていた難解な本に栞を挟むと、眼鏡の鼻当て部分を上に押し上げて立ち上がった。
「実は、別にもう一冊神道について書かれていた本があったの。そっちの方が理解しやすかったわ。見る?」
もう暫く活字は見なくていいわ、とレミリアは力強く首を横に振る。
その時、霹靂のような崩落音が、大図書館内に木霊した。
一驚もせずにレミリアとパチュリーは顔を見合わせると、ふっと顔を綻ばせた。
「わざとやっているんじゃないかって思えるわね、こう何度もやられると」
「新たな気の引き寄せ方を覚えたみたいね」
ふふと笑うパチュリーに、レミリアは破天荒な妹の振る舞いに溜息を吐いた。
「んなことしなくても、私は逃げないっての……本片付けるの大変なんだからさぁ」
「お姉様ー!」
呆れ顔のレミリアなど意に介さずに、無邪気なフランドールの声が響き渡る。
その明るさにレミリアは少しだけ笑うと、パチュリーより先に声の方向へと歩き始める。
ついこの間までは妹から遠ざかっていたレミリアの背中を見て、パチュリーは小さく息を吐くと、詠唱も無しに容易く宙に浮かび、彼女の後を付いていった。
――パチュリーの言う通り、フランドールの手によって紅魔館が鮮血に染まったのは一回きりだった。
フランドールが抱く姉への慕情、それにレミリアは同様に彼女への思慕で以って応え、漸く意思の分銅を秤に落とした。
それが、最後に彼女が行き着いた、一切の束縛に囚われない、レミリア・スカーレットそのものとしての結論だった。
その彼女の決断を、咎める者は誰もいない。それは決してレミリアに対する畏怖からではなく、満場一致の事であるから。
仲睦まじく――時には喧嘩となって弾幕ごっこを始めるが――過ごす姉妹の姿に、どうして異を唱えようというのか。
そして、当のレミリア本人もまた、その決断を悔いていない。
床一杯に広がった本の山、待ちかねたようにその中から飛び出す、フランドールの無垢な笑顔。
レミリアは一番望んでいた至福の光輝を、数百年振りにその胸に抱えることが出来たのだから――
全体的に若干ボリューム不足と言うか、ちょっと物足りない気がするのが残念
とても良い姉妹愛だった