冴え冴えと光る真円の月。
紅い妖霧を反射して、赤く濡れるように輝いている。
夜気を吸い込めば、微かに香る花の匂い。
妖霧に包まれた湖畔には、風に吹かれて夏の花が揺らめいている。
私は今宵も館に向かう。
この紅霧異変の原因たる吸血鬼を退治する為に。
紅魔郷ファンタズム
今夜は何だか調子が良い。
宵闇の妖怪と氷の妖精は勿論の事、館の門番にも然程苦労はしなかった。
しかし昨日は悪魔の狗に大分手こずり、その時の失点を取り返せないまま、結局、標的たる吸血鬼にやられてしまった。
だが、この異変の解決に乗り出した初めての夜はというと、門番に辿り着くのがやっとの有様だったのだし、それを思えば、私は格段に成長しているという事になる。
トライアンドエラーの繰り返し。
幸いにも時間はたんまりとある。
私のやる気が続きさえすれば、この後もずっとこの紅い満月の夜を過ごす事は出来るだろう。
けど、それももう飽きたのだ。
最初の夜から幾日経ったのか既に分からないが、毎夜毎夜、この紅い満月ばかり見ていては気がおかしくなってしまいそうだ。
そう。月はずっと満月のまま。
きっと、私が吸血鬼を倒して、異変を解決するまではずっとこのままなのだ。
時は進む事も無く、この世界は永劫に終わらない。
私は早くここから出たい――。
館の侵入者を排除する為に、妖精のメイドが多数飛び出してくる。
それを殆ど反射的に撃ち落としながら、私は只管、館の最深部を目指して飛び続ける。
七曜の魔女、撃破。
悪魔の狗、撃破。
私は彼女達の事をよく知っている。
彼女達の攻撃パターン。スペルの攻略法。
私はそれを何度も何度も繰り返し体験する事で知悉している。
館の主である吸血鬼だって――同じだ。
私は彼女を倒し、幻想郷の歴史に、紅霧異変を解決した存在として名を残すのだ。
名を――私の名前を。
館の最深部。
吸血鬼の聖域。仄暗い瘴気漂い、真っ赤な月が見える場所。
ここがこの館の、最後の砦だ。
私は最深部に辿り着き、吸血鬼と対峙する。
既に何度も繰り返してきたやり取り。
彼女達はその事を憶えていない。私だけがその全てを憶えている。
結局、彼女達にとって私とはその程度の存在なのだ。
夢のような存在――。
夜、夢見て、朝になれば忘れてしまう、その程度の存在。
しかし、誰かに夢見られた夢は、忘れ去られる事で消えてしまう訳では決して無いのだ。
夢は見られた以上存在する。忘れ去られても、夢として依然そこに残り続ける。
そんな夢の残滓。
それがきっと私なのだ。
だけど、私はそんな運命を、今夜こそ終わらせるのだ。
私が吸血鬼を倒し、私が紅霧異変を止める。
私は夢である事を止め、実体のある存在として生まれ変わる。
「ふぅん。紫の言った通り、待ち伏せしてたら出て来たじゃない」
ふいに闇に木霊する少女の声。
私の背に戦慄が走る。
変だ。ここには吸血鬼が居ないと駄目なのに――。
「貴方が真犯人なんでしょ?この二度目の紅霧異変を起こした」
紅と白の巫女装束。闇に溶け込むような黒髪と、対照的に白い横顔。
私は怯む。
私は叫び出しそうになる。
こんな結末を私は知らない。
宵闇の妖怪を倒し――。
湖の氷精を倒し――。
館の門番を倒し――。
七曜の魔女を倒し――。
悪魔の狗を倒し――。
そして、最後に館の主である永遠に幼い月を倒す――。
それがこの紅霧異変のシナリオだった筈だ。
――時間切れ。
ふと、私はこのイレギュラーの原因に思い当たる。
そうか。時間を掛け過ぎてしまったのだ。私はもっと早くにこのゲームを終えておくべきだったのだ。
だからこの少女が――私にとっては紛れも無い死神が出て来てしまった。
この狂った夜を正す為に。
「毎晩毎晩、紅魔館を紅い霧で包んで、その住人達に悪夢を見させ続けていた。動機は何?まぁ何だっていんだけど、私は――。紫に無理やり叩き起こされて、ここに連れて来られただけだし」
巫女はぶつぶつと呟きながら、戦闘態勢を取る。
私は逃げ出したくなる。
だが、逃げ帰る場所など私には無かった。
私は仕方なく、絶望的な戦いを始める。
風と花を使い、私は戦う。それは私に与えられた数少ないアイデンティティーだ。
しかし、戦いの結果は分かっていた。やるまでも無く。
本物の紅霧異変を解決した彼女に、私が敵う筈など無かったのだ。
彼女の繰り出すスペルを避ける。だが、避け切れない。
夢想封印――。
文字通り、私という夢と想いを、彼女は封印するかのように容赦無く打ち込んでくる。
体力と気力がごっそりと減っていく感覚。
多重に張られた結界に絡めとられ、その中で、少しずつ、私という存在が消えていく。
「私には貴方の姿がよく見えない。鳥眼の所為かと思ったけど、違うわね。貴方には元々姿なんて無いんだ。人間では無い。妖怪でも無い。幽霊でも無い――貴方は何者?」
そう。私には明確な姿形は与えられていない。
私が何者なのかは、私自身が一番知りたいくらいだった。
私とは本来何者だったのだろう?
しかし、今の私に限って言えば、私とは単なる夢だ。
私とは、幻想郷という大きなシステムが生み出した、小さな歪みだった。
かつて夢見られ、創造主にさえ忘れ去られた、そんな存在だった。
私とは――幻想になり損ねた空想だった。
「名前くらい聞いてあげるけど」
彼女は何の関心も無さそうにそう言った。
名前――。
それは私に与えられた数少ない要素。
私という存在を支える唯一と言っていい強固な証しだった。
「――冴月麟」
私の呟きは風に乗って消えた。
果たしてその名が彼女に届いたのか、私には分からない。
私の紅魔郷はこうして終わった。
だけど、どうかお願いだから忘れないで欲しい。
私の存在を――。
「で、結局、何なのよ。今度の異変は」
霊夢は紅魔館の上空で紫を見つけると、早速食って掛った。
「マッチポンプよ」
紫はいつもの様に真意の読めない笑みで答えた。
「自分で火をつけて、自分で消す奴っているじゃない。今度の異変の犯人もそう。自分で異変を起こして、自分で解決しようとした」
「意味分かんないわ。どうしてそんな面倒な真似を――」
「犯人は紅霧異変に執着があったのよ。だから毎夜、紅霧異変と同じように紅い霧を出し、紅魔館と、その住人を取り込んだ。夢の中で紅魔館の住人を襲い、紅霧異変を再現しようとしたの」
「よくあの場所で待ち伏せしてたら会えるって分かったわね」
「気付いてないの?紅霧異変の時、貴方が通ったルートを彼女はそのまま辿っていたのよ」
「彼女?ああ、犯人ね。何なのよあれは――突然消えちゃったけど」
「夢に還ったのよ。今の幻想郷には彼女の居場所は無いから」
意味分かんない、と霊夢は釈然としない顔をした。
夜叩き起こされた事には相変わらず腹を立てていたが、しかし今は妙にセンチメンタルな気分になっていた。
――だけど、どうかお願いだから忘れないで欲しい。
――私の存在を。
名前は結局、聞き損なった。
けど、彼女のそんな想いがふと去来したような気がしたのだ。
「ねぇ、紫。紅霧異変の時、私と魔理沙の他に誰か居たような気がする時があるんだけど、もしかしたら、さっきの――」
「気のせいよ。紅霧異変を解決したのは博麗霊夢と霧雨魔理沙の二人。幻想郷の歴史ではそうなっている」
「そう?ならいいんだけどさ。ただ――」
「ただ?」
「時々、色んな事を忘れてるような気がする。大切な存在とか。でも思い出せない。気の所為かと思うんだけど、やっぱり妙に気になる事があるの」
「空飛ぶ亀とか、神社の悪霊の事?」
「――何それ?」
紫が上品に笑った。上品だったが、やっぱり胡散臭いなと霊夢は思う。
「本当に大切な事なら、その内に思い出せるわよ。必ず」
「あっそう」
霊夢が空を見上げると、冴えた月がこちらを見下ろしていた。
深い夜気には、風に吹かれた花の香りが混じっていた。
紅い妖霧を反射して、赤く濡れるように輝いている。
夜気を吸い込めば、微かに香る花の匂い。
妖霧に包まれた湖畔には、風に吹かれて夏の花が揺らめいている。
私は今宵も館に向かう。
この紅霧異変の原因たる吸血鬼を退治する為に。
紅魔郷ファンタズム
今夜は何だか調子が良い。
宵闇の妖怪と氷の妖精は勿論の事、館の門番にも然程苦労はしなかった。
しかし昨日は悪魔の狗に大分手こずり、その時の失点を取り返せないまま、結局、標的たる吸血鬼にやられてしまった。
だが、この異変の解決に乗り出した初めての夜はというと、門番に辿り着くのがやっとの有様だったのだし、それを思えば、私は格段に成長しているという事になる。
トライアンドエラーの繰り返し。
幸いにも時間はたんまりとある。
私のやる気が続きさえすれば、この後もずっとこの紅い満月の夜を過ごす事は出来るだろう。
けど、それももう飽きたのだ。
最初の夜から幾日経ったのか既に分からないが、毎夜毎夜、この紅い満月ばかり見ていては気がおかしくなってしまいそうだ。
そう。月はずっと満月のまま。
きっと、私が吸血鬼を倒して、異変を解決するまではずっとこのままなのだ。
時は進む事も無く、この世界は永劫に終わらない。
私は早くここから出たい――。
館の侵入者を排除する為に、妖精のメイドが多数飛び出してくる。
それを殆ど反射的に撃ち落としながら、私は只管、館の最深部を目指して飛び続ける。
七曜の魔女、撃破。
悪魔の狗、撃破。
私は彼女達の事をよく知っている。
彼女達の攻撃パターン。スペルの攻略法。
私はそれを何度も何度も繰り返し体験する事で知悉している。
館の主である吸血鬼だって――同じだ。
私は彼女を倒し、幻想郷の歴史に、紅霧異変を解決した存在として名を残すのだ。
名を――私の名前を。
館の最深部。
吸血鬼の聖域。仄暗い瘴気漂い、真っ赤な月が見える場所。
ここがこの館の、最後の砦だ。
私は最深部に辿り着き、吸血鬼と対峙する。
既に何度も繰り返してきたやり取り。
彼女達はその事を憶えていない。私だけがその全てを憶えている。
結局、彼女達にとって私とはその程度の存在なのだ。
夢のような存在――。
夜、夢見て、朝になれば忘れてしまう、その程度の存在。
しかし、誰かに夢見られた夢は、忘れ去られる事で消えてしまう訳では決して無いのだ。
夢は見られた以上存在する。忘れ去られても、夢として依然そこに残り続ける。
そんな夢の残滓。
それがきっと私なのだ。
だけど、私はそんな運命を、今夜こそ終わらせるのだ。
私が吸血鬼を倒し、私が紅霧異変を止める。
私は夢である事を止め、実体のある存在として生まれ変わる。
「ふぅん。紫の言った通り、待ち伏せしてたら出て来たじゃない」
ふいに闇に木霊する少女の声。
私の背に戦慄が走る。
変だ。ここには吸血鬼が居ないと駄目なのに――。
「貴方が真犯人なんでしょ?この二度目の紅霧異変を起こした」
紅と白の巫女装束。闇に溶け込むような黒髪と、対照的に白い横顔。
私は怯む。
私は叫び出しそうになる。
こんな結末を私は知らない。
宵闇の妖怪を倒し――。
湖の氷精を倒し――。
館の門番を倒し――。
七曜の魔女を倒し――。
悪魔の狗を倒し――。
そして、最後に館の主である永遠に幼い月を倒す――。
それがこの紅霧異変のシナリオだった筈だ。
――時間切れ。
ふと、私はこのイレギュラーの原因に思い当たる。
そうか。時間を掛け過ぎてしまったのだ。私はもっと早くにこのゲームを終えておくべきだったのだ。
だからこの少女が――私にとっては紛れも無い死神が出て来てしまった。
この狂った夜を正す為に。
「毎晩毎晩、紅魔館を紅い霧で包んで、その住人達に悪夢を見させ続けていた。動機は何?まぁ何だっていんだけど、私は――。紫に無理やり叩き起こされて、ここに連れて来られただけだし」
巫女はぶつぶつと呟きながら、戦闘態勢を取る。
私は逃げ出したくなる。
だが、逃げ帰る場所など私には無かった。
私は仕方なく、絶望的な戦いを始める。
風と花を使い、私は戦う。それは私に与えられた数少ないアイデンティティーだ。
しかし、戦いの結果は分かっていた。やるまでも無く。
本物の紅霧異変を解決した彼女に、私が敵う筈など無かったのだ。
彼女の繰り出すスペルを避ける。だが、避け切れない。
夢想封印――。
文字通り、私という夢と想いを、彼女は封印するかのように容赦無く打ち込んでくる。
体力と気力がごっそりと減っていく感覚。
多重に張られた結界に絡めとられ、その中で、少しずつ、私という存在が消えていく。
「私には貴方の姿がよく見えない。鳥眼の所為かと思ったけど、違うわね。貴方には元々姿なんて無いんだ。人間では無い。妖怪でも無い。幽霊でも無い――貴方は何者?」
そう。私には明確な姿形は与えられていない。
私が何者なのかは、私自身が一番知りたいくらいだった。
私とは本来何者だったのだろう?
しかし、今の私に限って言えば、私とは単なる夢だ。
私とは、幻想郷という大きなシステムが生み出した、小さな歪みだった。
かつて夢見られ、創造主にさえ忘れ去られた、そんな存在だった。
私とは――幻想になり損ねた空想だった。
「名前くらい聞いてあげるけど」
彼女は何の関心も無さそうにそう言った。
名前――。
それは私に与えられた数少ない要素。
私という存在を支える唯一と言っていい強固な証しだった。
「――冴月麟」
私の呟きは風に乗って消えた。
果たしてその名が彼女に届いたのか、私には分からない。
私の紅魔郷はこうして終わった。
だけど、どうかお願いだから忘れないで欲しい。
私の存在を――。
「で、結局、何なのよ。今度の異変は」
霊夢は紅魔館の上空で紫を見つけると、早速食って掛った。
「マッチポンプよ」
紫はいつもの様に真意の読めない笑みで答えた。
「自分で火をつけて、自分で消す奴っているじゃない。今度の異変の犯人もそう。自分で異変を起こして、自分で解決しようとした」
「意味分かんないわ。どうしてそんな面倒な真似を――」
「犯人は紅霧異変に執着があったのよ。だから毎夜、紅霧異変と同じように紅い霧を出し、紅魔館と、その住人を取り込んだ。夢の中で紅魔館の住人を襲い、紅霧異変を再現しようとしたの」
「よくあの場所で待ち伏せしてたら会えるって分かったわね」
「気付いてないの?紅霧異変の時、貴方が通ったルートを彼女はそのまま辿っていたのよ」
「彼女?ああ、犯人ね。何なのよあれは――突然消えちゃったけど」
「夢に還ったのよ。今の幻想郷には彼女の居場所は無いから」
意味分かんない、と霊夢は釈然としない顔をした。
夜叩き起こされた事には相変わらず腹を立てていたが、しかし今は妙にセンチメンタルな気分になっていた。
――だけど、どうかお願いだから忘れないで欲しい。
――私の存在を。
名前は結局、聞き損なった。
けど、彼女のそんな想いがふと去来したような気がしたのだ。
「ねぇ、紫。紅霧異変の時、私と魔理沙の他に誰か居たような気がする時があるんだけど、もしかしたら、さっきの――」
「気のせいよ。紅霧異変を解決したのは博麗霊夢と霧雨魔理沙の二人。幻想郷の歴史ではそうなっている」
「そう?ならいいんだけどさ。ただ――」
「ただ?」
「時々、色んな事を忘れてるような気がする。大切な存在とか。でも思い出せない。気の所為かと思うんだけど、やっぱり妙に気になる事があるの」
「空飛ぶ亀とか、神社の悪霊の事?」
「――何それ?」
紫が上品に笑った。上品だったが、やっぱり胡散臭いなと霊夢は思う。
「本当に大切な事なら、その内に思い出せるわよ。必ず」
「あっそう」
霊夢が空を見上げると、冴えた月がこちらを見下ろしていた。
深い夜気には、風に吹かれた花の香りが混じっていた。
幻想郷で忘れられたらどこへ行くんだろうか。