この物語は作品集69の『彼女の目指したぽかぽかおひさま 前編』の続きとなっています。
幽香との騒ぎから一週間。萃香と藍は一日とて欠かすことなく幽香の居る湖へと遊びに来ていた。
萃香が藍を連れてきては、藍は湖の周りで遊び、そんな藍の遊びに付き合わされる萃香とエリー。
風見幽香はその光景をただじっと見つめていた。口を挟む訳でも邪魔する訳でもなく、ただその光景を。
時折何度か話しかけてくる藍に、幽香は一言二言だけ言葉を交わすだけで相手にしようとはしなかった。
見向きもされない藍だが、彼女がそんなことを気にする訳がなく。無視されても、何度も何度も話しかけてくる藍に、
いい加減心が折れ始めたのか、面倒そうな表情を浮かべながらも、幽香は少しずつ相手をするようになる。
藍の訳の分からない言葉に、呆れて突き刺さるような言葉を淡々と言い放つ幽香。しかし、藍は全然堪えない。
最早第三者からみれば、藍は幽香の精神的サンドバックなのではなかろうかと思うくらい、辛辣な言葉をぶつけられていたのだが、
当人の藍が微塵も気にしないのだから仕方がない。それどころか、幽香から言葉が返ってくる度に目をキラキラさせて喜んでいた。
それは今日も今日とて変わらない。湖に遊びにきた藍や萃香を、
幽香が鬱陶しそうな瞳で、エリーが歓迎の表情で迎え入れてくれる。ただ今日はいつもと少しだけ違うところが一つ。
普段は藍とエリーが二人遊んでいたところに、今日は別の顔が入ってきたということだ。
「あの娘もアンタの部下かい?」
「そうよ。エリーだけだと物足りないみたいで、私まで遊びに巻き込もうとするからね。本当、鬱陶しいったらありゃしない。
だから連れてきたのよ。あれは体力だけが取り柄だからね、しばらくは持つでしょうよ」
藍達から少し離れた木陰。そこで萃香と幽香は藍達の方を見つめながら言葉を交わしていた。
彼女達の視線の先にあるのは、藍やエリーと一緒に遊んでいる少女。紅というよりも橙に近い色の髪を携え、
その容貌はなかなかに可愛らしい。まだ数分と経っていないのに、見事なまでに藍と仲良くなっていた。
彼女の名はオレンジ。幽香の部下の一人であり、妖怪の一種だ。
「本当はくるみを連れてきたかったのだけれど、あの娘は日光の下に出られないからね。不便な身体だわ」
「吸血鬼か。しかしまあ、実力のある物騒な部下を沢山持ってるんだねえ」
「便利な道具は有るに越したことはないわ。まあ、私の部下はその三人だけよ」
「そうかいそうかい。しかし、私に話してくれる程度に藍と話してあげればいいものを」
「…鬱陶しいのは嫌いなのよ」
不機嫌そうに言い放つ幽香に、萃香は喉を鳴らして含み笑いを浮かべていた。
そんな萃香の対応に苛立ちつつも、幽香は黙したままじっと視線を藍達の方に向けている。
彼女の視線の先では、藍がオレンジの背中に乗り、湖の上を悠然と飛行していた。
きゃっきゃと笑い合っている二人を見るに、どうやら本当にすぐに打ち解けてしまったらしい。
そんな光景を呆れるように見つめていた幽香に、萃香もまた藍達の方を眺めながらある疑問を口にする。
「どうしてこの場所から移動しないんだい?」
「…それはどういう意味かしら?」
突然の萃香の質問に、幽香はやや眉を顰めて言葉を返す。
幽香の対応が予想通りだったのか、萃香はニヤニヤと笑みを浮かべたまま再び言葉を紡いでゆく。
「そのままの意味さ。どうしてアンタは毎日のようにこの場所に来ているのかって訊いてるんだ。
ここに来てしまえば、私と藍が現れる。鬱陶しいと感じるならば、この場所に来なければ良い。違うかい?」
「何を言い出すかと思えば下らない事を。この場所に先に居たのは私の方でしょう。
それがどうして後から来た貴女達に譲らなければいけないのかしら」
「いや、別に場所の所有権を話したい訳じゃ…まあ、いいや。それじゃもう一つ質問だけどさ」
軽く息を吐き、萃香は視線を幽香の方へと向ける。
その顔は先ほどまでの緩んだ表情ではなく、戦場で見せる鬼の顔。
空気の変化に気づき、幽香もまた萃香の方へと視線を向けた。
「――どうして藍を生かす?あの時のアンタは、確かに藍を殺そうとした筈だ」
その問いに、幽香は即答することはなかった。ただじっと萃香を見つめたまま、口を動かそうとはしない。
幽香の前で藍が泣くのを我慢したあの日、幽香は藍を殺すのではなく生かすことを選択した。
理由を説明するならば簡単だ。あのとき、エリーの手で殺してしまえば…否、幼い藍をあの場で殺せば、自分の負けだと思ったから。
ちっぽけな存在のくせに、真正面から幽香に言葉を訴えかけた藍の息の根を止めること。
それは何よりも自分の弱さを証明してしまうことのように思えたから。風見幽香が弱い、そのような事を認める訳にはいかなかった。
だから生かした。風見幽香の存在意義を一瞬でも崩しかけた幼子。風見幽香の心に一瞬でも入り込もうとした不埒な輩を許してなどおけぬ。
殺してやる。この小娘が大きくなり、自分と対峙してもおかしくない程に成長したときに、必ずこの手で殺してやる。
そうすれば、きっとあの時の不快な感情は消え去る筈だ。そうすれば、自分は勝者だ。だからこそ、生かした。
けれど、それを幽香は萃香に対して口にしない。何故なら、自分の紡いだ答えに少なからず疑問を抱いているのも事実だからだ。
本当にそんな理由なのか。あの小娘を生かしているのは、本当にそれだけか。
風見幽香は困惑していた。藍と呼ばれる小娘を知り、一週間の時が過ぎた。一日、また一日と藍に接するたびに、彼女の疑問は大きくなっていった。
殺戮と狂気だけが支配する彼女の心に紛れ込んだ一握りの不純物。それこそが藍であった。
藍の自分に向ける瞳、それは純粋なまでの好意。あのような真っ直ぐな瞳を、幽香はこれまで向けられたことがなかった。
そして、気付けば瞳が藍の背中を追うようになった。それこそ不可解。
以前まではあのようなちっぽけな存在など視界に入れることすら拒んでいたというのに。
幽香は自分の中で生じている変化を把握出来ずにいた。自分の中で一体何が起きている。一体何が変わろうとしている。
理解出来ぬからこそ、幽香は見て見ぬ振りをする。それはきっと気のせいだと。
この身は殺戮と勝利で構成された身。それ以外の不純物など必要ない。その戒めに生まれた揺らぎが、彼女の返答を困窮に追いやっていたのだ。
「…ただの気まぐれよ。深い意味はないわ。
殺してほしいのなら、今すぐあの小娘を殺してあげるけれど?」
「ちょ、ちょっと!?冗談でもそれだけは勘弁してよ!?
もし藍の身に何かあったら、私は間違いなくあの娘の母親に殺されちゃうじゃないか!!」
自分の言葉に慌てて反応した萃香に、幽香は不思議そうに首を傾げる。
それだけ萃香の様子が尋常ではなかったのだが、幽香にはそれが不思議でたまらなかった。
「何を無様な。あの娘の母親は妖狐でしょう?最強の鬼が怯える相手ではないわ」
「あ~…ち、違うんだよ。藍の母親は特別なんだよ。私の為にも、それだけは勘弁してくれないかね」
「ふん、大袈裟ね」
必死に訴えかける萃香を一笑に付し、幽香は呆れるように瞳を閉じる。
どうやら彼女は萃香の言葉を下らない冗談だと判断したようだが、実際問題萃香の話は全部本当だったりする。
そんなことは露も知らない幽香だからこその反応だったのだが、そこで一度この世界から目を切ったのがいけなかった。
「あ」
それは一体誰の言葉だったのだろうか。萃香だったかエリーだったか、はたまたオレンジだったのか。
彼女達のうち、誰かは分からぬ人物の声が耳に届いた刹那、瞳を閉じていた幽香の顔面に強烈な衝撃が強襲した。
どれくらいの衝撃かと言うと、幽香の頭が後ろに数十センチはズれてしまう程の衝撃だ。
正体不明の反動に付きあげられた首を、幽香はギギギと油の切れてしまったカラクリのようにゆっくりと戻し、
笑顔を浮かべたままで周囲を一瞥する。それは獲物を探す狩人の目。彼女の顔面を襲ったもの――魔力の塊をぶつけた犯人探し。
周囲を見回すと、さきほどまで隣にいた萃香は既にいない。どうやら霧化してさっさと退散したらしい。
同じくエリーの姿も見当たらない。普段持ち歩いている大鎌がぽんと投げ捨ててある辺り、よほど急いで逃げたようだ。
となると残るは一人しかいない。幽香が笑みを向けたその先には、完全に血の気が引いてしまっている、
恐怖にガタガタと震えるオレンジがいた。ちなみに彼女の腕の中には、一緒に遊んでいた藍がいる。
「オレンジ…?今のは一体何のつもりかしら?」
「あ、あわわわわわわわ…ちちちち、違うんです違うんです今のは大きな誤解なんです。
あの、その、ら、藍ちゃんと遊んでいたんですが、藍ちゃんが魔術とか見たこと無いっていうから、
その、えっと、若輩者ながら私が魔術を、その…」
「へえ…それで、丁度良い所に私の頭があったから、日頃の鬱憤を晴らす為にターゲットにしていた、と」
「うえええええ!?違います違います違います違います!!!
さっきのは本当に誤解なんです間違いなんです勘違いなんです!!!
あの、その、あまりに藍ちゃんが喜んでくれるから、周りをよく確認せずに放ってしまって、そうしたら幽香様の顔に…」
「そう、あくまで誤解なのね?」
「そそそそそうなんです!!決してワザと幽香様を狙った訳では…」
ニコニコと笑顔を崩さず、一歩また一歩と近づいてくる幽香に必死に事情を説明するオレンジ。
仕方ないわね、と軽く息をつき、幽香は優しい笑顔を浮かべたまま、オレンジの腕の中にいた藍をそっと抱きあげる。
突然幽香に抱きかかえられ、きょとんと不思議そうな顔をしている藍に、幽香は優しく話しかける。
「藍、貴女は魔術が見たいのね?」
「はいっ!らんはあんなきらきらをはじめてみましたっ!すっごくすっごくきれいでしたっ!
らんはきらきらだいすきです!あんなふうにらんもいつかはきらきらしたいです!」
幽香の問いかけに対し、興奮気味に目を輝かせて語る藍に、幽香は笑みを浮かべたままウンウンと頷いた。
その刹那、幽香の纏う空気が緩まった為、オレンジは大きく安堵の息をつく。良かった、誤解は解けたようだと。
だが、彼女のその考えは空振りに終わったらしい。右腕で藍を抱いたまま、幽香は笑顔のままでゆっくりと左手をオレンジの方にかざした。
幽香のやろうとしている事に気付いてしまったらしく、表情がぴきりと固まるオレンジ。
そんな彼女の事など知らんとばかりに、優しく藍に幽香は言葉を紡いでゆく。
「それじゃ、私も貴女に素敵な魔術を見せてあげる。
この風見幽香の『キラキラ』とやらを、その目にしかと焼き付けておきなさいな」
「ひ、ひぃぃぃぃぃぃ!?ま、まだ死にたくないいいい!!!!!!
許して下さい幽香様ああああああああああ!!!!!!」
聞く耳持たんと言わんばかりに、幽香は笑顔を浮かべたまま容赦なく涙目のオレンジに弾幕を展開する。
必死に気合避け続けるオレンジだが、当然ながら回避が続く訳もなく、一発の被弾の後、幽香に生かさず殺さず程度にじっくり甚振られることになる。
そんなサディスティックな幽香の弾幕を、藍は目をこれ以上ない程に輝かせて、たった一人の観客となっていた。
怒りによって頭に血が上っていた為、その時は結局幽香はあることを気付くことはなかった。
彼女が藍のことを小娘ではなく名前で呼んだことと、彼女が藍を初めて自身の手で抱きあげたことを。
幽香がオレンジをぎったんぎったんに躾したその日の夜。
時刻にして八時を回った程度だろうか。紫と一緒にお風呂を終えた藍は、眠そうな目を擦りながら、
居間でお茶と酒を飲みながら、ゆっくりしている紫と萃香におやすみの挨拶をする。
「それでは、おかあしゃま、すいかさま、おやすみなさい」
「お休み藍。子供らしくしっかりゆっくり寝るんだよ」
「お休みなさい、藍。後でおかあしゃまもお布団にいくからね」
萃香と紫の言葉にこくりと頷き、藍は少しばかり覚束ない足取りで隣の寝室へと入っていった。
藍が寝室に入るのを見届け、萃香は一度口に酒を運んだ後に口を開く。
「あれだけ遊び回ったんだ。そりゃ疲れも出るだろうねえ。
…って、紫、どうしてそんな部屋の隅っこに移動していじけてるのさ」
「…分って言ってるでしょう、この鬼」
部屋の隅で一人、体育座りでいじける紫に、萃香はただただ苦笑を浮かべるしかなかった。
紫がこんな風に悲しみに暮れている理由は唯一つ。愛しの愛娘が最近どんな風に遊んでいるのか、
それを決して紫に話そうとしなくなってしまったからだ。
その理由は勿論、紫には内緒で幽香のところに遊びに行っているからであり、
紫に対する口止めを頼んだのは他の誰でもない萃香なのだから、彼女が何かを言える訳がない。
悲しみに暮れる紫に、萃香は引きつった笑みを浮かべながらも、何とか話題を変える為に、口を開く。
「そ、そうだ紫!そう言えばアンタに頼みたい事があったんだよ!」
「頼みたい事?」
伏せていた顔をひょこりと上げた紫を見て、話題が逸れたことを内心で安堵しながら、萃香は言葉を続ける。
「あのさ、結構前に紫が外を歩いてる時にさ、直射日光を防ぐ為とか言ってヘンテコな物を持ってたじゃない。
こう、棒状の先に変な布切れみたいなのが付いてるヤツ」
「ああ、日傘の事?あれがどうかしたの?」
「へえ、あれって日傘って言うんだ」
紫の教えてくれた正式名称に、萃香は成程とばかりに頷く。
萃香が日傘の名前を知らないのも当然で、彼女達の生きるこの時代に紫の持っている日傘など本来ならば存在しないのだ。
原形となるモノならば存在するだろうが、紫が所持しているのは今より数千年ほど先の未来に一般化するような
折り畳み可能な傘。どうして彼女がそのようなモノを持っているのか、それは調理器具と同じで、理由を知るのは紫本人だけだ。
「その日傘ってヤツさ、一本私に分けてくれない?確かあれ、この家の玄関に沢山あったでしょ」
「別にそのくらい構わないけれど…急にどうしたの?貴女は別に日光や雨なんて気にしないでしょう?
晴れの日は喜んで外に出て酒を飲んでるし、雨の日はずぶ濡れになろうが構わず酒を飲んでるし」
「ちょっと、それじゃまるで私が年がら年中所構わず酒を飲んでるだけみたいじゃないか。まあ、違わないけどさ。
それに使うのは私じゃなくて別の奴。最近知り合った奴に吸血鬼が居てね。あれなら外に出られるだろう?」
「吸血鬼?大陸ならまだしも、この東方の島国なんかに珍しい。
そういう理由なら私に断りなんて入れずに遠慮なく持っていきなさいな。普段はずぼらなくせして、変なところで律義なんだから」
「後半は敢えて聞かなかったことにしておくよ。ありがと、紫」
萃香の礼に気にするなとばかりに首を振り、紫は空になった湯呑を手に台所の流し場の方へと向かう。
貯めておいた水を用いて湯呑を洗っている紫の後姿を眺めながら、萃香は瓢箪に口をつけ、酒を喉に流し込む。
二人が口を閉ざしたことで、室内には闇夜に相応しい静寂の時が訪れる。聞こえるのは、紫が湯呑を洗う音だけ。
静けさにただ身を委ねて、少しばかりまどろみそうになってしまった萃香だが、彼女の意識はすぐに覚醒へと向かうことになる。
それはまるで秋風のように慎ましく、静かに紡がれた言の葉。
「大陸において幾千、幾万もの妖達の屍を築き上げた狂気と殺戮の代名詞。
それが風見幽香だそうよ。向こうの連中に話を聞いても震えるばかりでロクな話は聞けなかったけれど」
「…へえ、最近昼間にいないと思ってたら、風見幽香の情報を集めてくれてたのか。ありがと」
「片手暇よ。それに、結局得られた情報なんて無いものと変わらない程度。
種族、戦闘スタイル、生まれ、その全てが何処を調べても出てこないんだもの。
知ることが出来たのは、風見幽香が向こうで数えるのも億劫になるくらいの妖怪達を殺しているってことね」
「それでも十分さ。しかし、大陸の方の妖怪だったとはね。道理でこっちじゃ聞かない訳だ。
しかしまあ、何でまたそんな奴がこんな東方の僻地に居るのかねえ」
「さあ?私は風見幽香じゃないもの。それこそ本人に訊かないと分からないことではないの?」
「本人にねえ…それもそうか」
湯呑を洗い終え、濡れた手を拭きながら答える紫に、萃香は同意を示しながら瓢箪を口に運ぶ。
洗い物を終えた紫はそのまま足を藍の眠る隣室へと向け、ゆっくりと戸を開く。
だが、彼女はそこで動きを止めた。てっきりそのまま室内に入り、藍と眠るものとばかり考えていた萃香は
どうしたのかと首を小さく捻る。そんな萃香の方を振り向くことなく、紫はポツリと誰にでもなく言葉を漏らした。
「築き上げた屍の道しか歩けない…哀れな妖怪ね、風見幽香は」
「紫…?」
「なんでもないわ。おやすみなさい、萃香」
「え、あ、うん。おやすみ、紫」
言葉を交わし終え、紫はそのまま藍の眠る隣室へと消えていった。
残された萃香は、先ほどの紫の言葉を気に掛けながらも、ふたたび酒を一人楽しむことにした。
翌日から、藍の遊び相手に風見幽香の部下の一人、吸血鬼くるみが加わることになる。
幽香に抱きついて大喜びする藍と、やや困惑気味の表情を浮かべている幽香。
木陰で昼寝を貪っていた萃香が、ふと目を覚ました先に映し出されていた光景は、そんなある種非日常的な光景であった。
藍が幽香に纏わりついているのは、最近では別段驚くことはないのだが、
流石に抱きつくとなると話は変わる。そして何より驚いたのが、抱きついてる藍を幽香が振りほどこうとしていないことだ。
そんな二人の光景に驚いているのはどうやら萃香だけではないらしく、
幽香の部下であるエリー、オレンジ、くるみの三人も表情を驚愕の色を浮かべたまま、彼女達の方をぽかんと眺めているではないか。
「さてさて、紫の秘蔵っ娘は風見幽香相手に今度は何をやらかしてくれたのかねえ」
傍観者を決め込んだまま、萃香はニヤニヤと楽しげに口元を緩ませながら二人の方を眺めることにしたらしい。
やがて藍が幽香から離れ、手に何かを大事そうに握ったままエリー達の方へと駆けていく。
そして、エリー達の前でその手を開き、何かを見せびらかしているようだ。それを見て、さらに驚きの表情を見せている三人娘。
「ん~、何か幽香に面白いモノでも貰ったのかな?」
「花の種よ。別段面白いものでも何でもないわ」
「へえ、花の種ねえ…って、おおう?何時の間に」
己の頭上から声がして、寝ころんだままの萃香は顔と視線を上へと向ける。
そこには、大木に背中を預けて疲れたような表情を浮かべている幽香が佇んでいた。
どうやら藍の方ばかりに意識を奪われ、幽香の挙動を視界に入れていなかったらしい。
「しかし、花の種とはまた似合わないモノを持ってるじゃない。
まさかアンタが花を愛でるのが趣味って訳でもないだろ?まあ、もしアンタがそんな趣味を持ってたら
私は腹を抱えて大爆笑してあげるけどね…って、痛たたたたたたた!!!!?」
萃香が言葉を終える前に、幽香は少しも躊躇うことなく寝ころんでいた萃香の頭を右足で踏みつけた。
彼女の額あたりをピンポイントに容赦なく踏みつけ、幽香は軽く息をついて口を開く。
「エリー達が藍に私の話をしたみたいね。自分も花を育ててみたいと言ってきかないから、仕方無くあげたのよ。
…ああ、そう言えば言い忘れていたけれど、私は花を愛でることが趣味なのよ。何か可笑しいかしら?」
「分かった!!!分かったから!!!!これ以上やられると出ちゃマズイものが耳の穴とかから出ちゃう!!!」
必死で助けを求める萃香を一笑し、幽香は彼女への攻撃を止める。
そして視線を藍達の方へと向ける。どうやら彼女達は、幽香から貰った花の種を早速埋めるつもりらしい。
程良い土壌を見つけ、オレンジとエリーが拳と鎌で土を耕している。戦力になれない藍とくるみは、二人を応援しているようだ。
楽しそうに笑いあっている四人を眺めている幽香に、萃香は彼女の表情を観察しながら訊ねかける。
「風見幽香、アンタは大陸の方からこっちに来たらしいじゃないか。
しかも向こうじゃ妖怪達の間で、ちょっとした有名人のようだし」
「有名ねえ…私から逃げ回っていた屑達が勝手な言葉を並べ立てているだけでしょう?」
「そうとも言えるかもね。聞くところによれば、大陸中の妖怪達、その幾千幾万の屍を並べたとか何とか。
大陸で名を残している大妖怪、風見幽香。そんな化け物がこんな東方の僻地に一体何の用があったんだい?」
「出会った時に言ったでしょう?私は素敵な玩具を求めている、と。
とびっきり鋭くとびっきり切れるような、そんなタフな玩具達をね」
「腕試しかい?それにしてはアンタは血の匂いを振りまき過ぎている気がするがね」
「腕試しなんて生温い空気は求めていない。私が望むのは血沸き肉躍る強者との殺戮劇。
この世で強者と恐れ謳われる化物共を、この私が蹂躙する。歯応えのある獲物を狩りねじ伏せることこそが私の本懐。
弱者に生きる価値など無い。弱者に生きる意味など無い。この世界は狩る者と狩られる者しか存在しない。
なればこそ私は誰よりも他者を蹂躙してあげる。世界中の弱者達から強者と謳われる妖怪達…伊吹萃香、貴女を含めて、ね」
空気の変わった幽香に、萃香は一つの事象を確信せずにはいられなかった。
――風見幽香は空っぽだ。この妖怪は、他者を蹂躙し、殺していくことで自分自身の存在意義を示しているのだ、と。
あまりに強過ぎるが故に、周囲の妖怪達とは一線を引いた。それとも引かれてしまったのか。
幽香の過去を知る訳でもない萃香には、当然分からないが、それでも萃香には彼女の生きてきた道を想像することは出来る。
彼女は同等の存在を今まで得た事がない。友も、仲間も、恐らくは家族でさえも彼女は手にした事がないのだろう。
だからこそ、この世界を強者と弱者、敵と味方で分けている。狩る者と狩られる者。敵は獲物、味方は部下。
しかし、そんな異端な生き方など、この世界が許す筈もない。この世界に生きる者ならば、その間違いは必ず何処かで正されるハズだった。
それは親であったり、友であったり、強敵であったり、誰もかれもが必ず身に経験する挫折、敗北の味。
その積み重ねにより、人も妖怪も熱された鉄鋼を打ちつけるように在り方を形成されてゆくのだ。
けれど、目の前の妖怪は違うと萃香は理解した。自分達とは違い過ぎる誤った道を歩み続けたからこそ、
彼女の心は、在り方はこんなにも異端なのだろう。彼女の瞳はあんなにも伽藍堂なのだろう。
そう、萃香の予測通り、風見幽香はきっと――
「――風見幽香。アンタは今まで一度も誰かに『負けたこと』がないのか」
敗北を知らない。だからこそ、風見幽香の在り方はここまでねじ曲がった歪なモノとなってしまったのか。
誰にも負けたことがないから、彼女の生き方を、在り方を否定することが出来ない。
強過ぎるが故に、彼女は他の道を失った。その強さが、彼女を修羅道へと歩ませる理由となった。
他者と生きる意味も、他者を認める意味も、何一つ知らぬ彼女に残された唯一つの存在意義は本能に殉ずること。
強者として生きる。他者を蹂躙する者として在る。弱肉強食などではない。自身こそが狩人、他の者は全て獲物で在れ。
誰よりも強きことを証明し続けること、それだけが風見幽香の生きる意味。たったそれだけの為に、彼女は生きているのだ。
萃香の声に、幽香は肯定も否定もすることなく、ただ声を籠らせて笑うだけ。
そんな幽香に、萃香は苦笑いを浮かべながら言葉を紡いでゆく。
「…まいったね。ヤバい奴だとは思っていたけれど、まさかここまで壊れてる奴だったなんてね」
「酷い言われようね。けれど、それは貴女も同じでしょう、伊吹童子。
貴女も私と同様、殺し合いにおいては一度たりとも敗北の味を知ることはない。
だからこそ、最強の鬼として謳われているのではなくて?」
「そりゃまた壮絶な勘違いだよ。私はアンタほど化け物じゃない」
「へえ、なら伊吹萃香は敗北を喫したことがあるとでも?」
挑発染みた幽香の言葉に、萃香は思わず笑みを零してしまう。
そのような予想外の反応をされて訝しむ幽香に、萃香は淡々と事実を口にする。
「あるよ。それもとびっきり強烈なヤツをね」
「…趣味の悪い冗談と言う訳ではなさそうね」
「冗談なもんかい。正真正銘、混じりっ気無しの確固たる事実さ。
もう二百年以上も昔になるかねえ…私がまだ自身を最強と信じて疑わなかった、言わば調子に乗ってた頃の話だよ」
酒を口に運びながら語る萃香に、幽香は口を挟もうとはしない。
どうやら彼女の話、というよりも伊吹童子が誰かに負けたという事実が気になったらしい。
そんな幽香の様子にクスリと笑みを零しながら、萃香は言葉を続けて行く。
「その頃の私は今のアンタ…までとはいかないが、負け知らずの喧嘩者でね。誰彼構わず拳を合わせたもんさ。
強い奴を倒す度に、勘違いを深めていって。自分が偉いんだって、自分以上の奴なんていないんだって。
喧嘩に勝つことだけが毎日の楽しみでね。こんな風にのんびり酒を飲むことなんか、正直面白くもなんとも感じていなかった」
最強の鬼、それは即ち生物最強を意味する。そんな驕り昂ぶった台詞をも当時の萃香は簡単に言ってのけた。
事実、彼女は誰よりも強かったし、誰にも負けなかった。一度の敗北も無く、彼女の身に与えられるは幾度の勝利のみ。
自分の腕に自信を持ち、喧嘩に勝つことだけを楽しみに生きてきた少女。それが彼女、伊吹萃香だった。
「だけどさ、世の中ってヤツは面白いもんでね。
調子に乗り過ぎた奴には必ずしっぺ返しが来るようになってるらしい。本当、嫌なくらい巧く出来てるもんだよ」
瓢箪を傾け、酒を喉に押し込んで、萃香は再び言葉を紡ぐ。
「最強の妖怪って恐れられる奴がいた。誰よりも強く、誰よりも非情で、誰よりも恐ろしい生き物がいるって聞いた。
誰に聞いても聞こえてくるのは怯える声だけ。天狗達だけじゃない。酔っぱらってる鬼の連中だってその名を聞けば
素面に戻る程にそいつは誰からも恐れられていた。名実ともに、そいつは最強の妖怪だった。
…若気の至りって奴かね。そいつの話を聞いてさ、私は思ってしまった訳さ。そいつを倒せば、私が最強になるってね。
本当に酷く単純な考えさ。そんな浅はかな考えで、私はそいつに喧嘩を売ったんだ」
「…それで、結果は」
「言っただろう?私はとびっきり強烈な負けを味わってるって。
ボロ負けもボロ負け。ううん、勝負なんてもんじゃなかった。私は同じ土俵に立つことすら許されなかった。
そこにあったのは一方的な狩りさ。あんたのいうところの狩られる者、それがあの時の私だった」
萃香の語る言葉、その全てが幽香に動揺を生じさせる。
馬鹿な。この伊吹萃香を相手に、そこまで一方的になれる程の化物がいるというのか、と。
萃香の様子から、彼女が嘘を言っているとは思わないが、それでも幽香にとって、彼女の話は到底信じ難いものであった。
何故なら目の前の鬼の実力は、彼女が身をもって知っているから。だからこそ彼女は驚かずにはいられなかった。
いくら数百年も昔のこととはいえ、鬼の中でも実力者たる彼女をそんな風にあしらう奴がいたことに。
「私が今、こうして生きているのは本当に僥倖だったとしか言いようがないね。
これ以上嬲るのは無意味だと判断したんだろう。死にかけてる私を放置して、そいつはさっさと何処かへ消えたんだ。
もうね、何もかもがボロボロだったよ。喧嘩を売ったのに返り討ちにあい、相手にもしてもらえなかった上、
命を見逃して貰ったんだ。鬼としての生き様や誇りなんてズタズタさ。
悔しくて情けなくて本当に涙が止まらなかった。何が最強の鬼だって、何が最強になるだって」
初めての敗北が萃香にもたらしたのは惨めなまでの敗北感と細切れにされた強者のプライド。
自分の拳だけを信じ、その強さを簡単にへし折られた絶望は一体どれほどだったのだろう。
最強の鬼と謳われ、無双の強者と讃えられた彼女が文字通り手も足も出なかった。たったの一発も拳を当てることが出来なかった。
そして何よりも彼女を傷つけたのは、その妖怪が自分の事など微塵も見ていなかったという事実。
それはまるで路傍の小石を踏むように、この世界に充ち溢れる空気を肺に吸い込むように。
ただ至極当然且つ単純な作業とでもいうように、その妖怪は萃香を打倒してみせたのだ。
否、最早打倒などと言う言葉すら生温い。彼女にとって、恐らくは萃香と『戦った』という認識すらないだろう。
目の前の道を、邪魔な物が塞いでいた。だから、取り除いた。恐らくは、ただそれだけ。
「無様ね。これ以上ない程に無様。本当、唯の負け犬、腑抜けの弁でしかないわね」
「相変わらずきっついねえ…まあ、実際その通りなんだけど。
まあ、自分で言うのもなんだけど、それから私は変わったよ。一度すっ転んじゃうとさ、心が楽になったんだよ。
転ぶことで、初めて空を見上げることが出来た。初めて空の広さを知ることが出来た。
それまでの私は前だけしか見ていなかったからね。本当に視野の狭い奴だったよ」
「…伊吹萃香、一体何が言いたいのかしら」
「別に?ただまあ、負けるってことは存外悪い事じゃないってことさ。負けることが良い切っ掛けになることだってある。
特に勝つことだけが全てだと思っている、周囲を見渡す余裕も自身を省みる余裕も失っているような、
私達みたいな大馬鹿野郎にとってはね」
笑みを浮かべて言いきる萃香に『下らない』と一蹴し、幽香は不機嫌そうに表情を顰める。
どうやら彼女にとっては、伊吹萃香という最高の玩具がキズ物であった事実があまり気に食わないらしい。
これだけ最強と謳われる鬼ですら、簡単に退ける奴が居るというのか。そんなことを考えていた幽香だが、
ふと面白い事を思いついたらしく、先ほどまでの不機嫌は何処に行ったのか、笑みを浮かべて萃香に言葉を紡ぐ。
「そうね、決めた。
伊吹萃香、貴女を殺した後は私がその妖怪を直々に殺してあげるわ」
「…だろうねえ。アンタならそう言うと思ってたよ」
ククッと笑みを零しながら、萃香は瓢箪を傾けて酒を喉に通してゆく。
今まで以上の多量の酒を飲み、大きく一息ついて、萃香はゆっくりと口を開く。
「でもさ、無駄だから止めときなよ」
「…負け犬風情が言ってくれる。貴女が勝てない相手に私が勝てる訳がないとでも思ってるのかしら?」
「そうじゃない。相手がいないのに戦える訳がないと言ってるんだよ。
…私をボロボロにしてくれた妖怪は、もうこの世には何処にも存在しないんだから」
もうこの世には存在しない。それは言葉通り、生きてこの大地に足をつけていないということか。
萃香の告白に、幽香は面白くないとばかりに再び不機嫌そうな表情になる。
最強の妖怪と謳われる存在。それこそが幽香の追い求めていた玩具。そいつさえ殺せば、自分は最強ということになる。
誰よりも強く、誰よりも蹂躙する者の証。それこそが、自分の生の意味をこの世界へと打ちつける楔となるのだから。
表情を歪める幽香に、萃香は少しばかり苦笑を浮かべながら、機嫌を直す方向へと持っていく。
「ま、最強の妖怪とまではいかないが、こっちも一応他称・最強の鬼なんだ。
今回ばかりは私で我慢してくれないかねえ」
「負け犬が偉そうに…まあ、いいわ。どうせ今回の獲物は最初から貴女だったもの。
勝敗はどうあれ、貴女は生き、その妖怪は死んでいる。ならば私の狙う首は貴女」
彼女らしい物言いに、萃香ははいはいと適当な相槌を打っておく。
短い付き合いではあるが、萃香にも段々と風見幽香という人物の扱い方や性格が掴めてきたらしい。
その上で萃香は思うのだ。殺し合い以外の場面においては、なかなかどうして面白い奴ではないか、と。
最初は絶対に友人になれないと思ったものだが、今となっては同じ考えとは言えないだろう。
そう、少しずつではあるが、彼女、伊吹萃香もまた八雲藍に感化されつつあった。同時に発見しつつあるのだ。
一人の妖怪として、何一つ色眼鏡をかけずに直視した際の、風見幽香その人の魅力を。
「最後に一つ訊きたいのだけれど、その妖怪の名前を教えて貰えるかしら。
伊吹童子を倒してのけたにも関わらず、今は亡き無様な敗者の名前を」
突然の幽香の質問に、萃香は酒を飲む手を休め、頬を小さく掻きながら言葉を紡ぐ。
自分を倒した最強の妖怪。今はこの地上の何処にも存在しない、誰よりも強く、誰よりも残酷で、誰よりも妖怪らしい妖怪の名を。
「ら~ん、今日はちゃんと時間が取れたから、久しぶりにおかあしゃまと沢山遊びましょうね~」
朝を告げる小鳥の鳴き声が庭に響き渡る時刻。
朝食を取り終え、食器を洗い終えた紫は、娘の藍を抱きしめながらこれ以上ない程に表情を緩めて頬ずりをしている。
その光景を目にしても、萃香は別段反応することもない。紫が藍にデレデレなのは本当にいつものことだからだ。
紫の誘いに藍も喜んで乗るだろうとばかり思っていた萃香だが、彼女の予想はするりと外れ抜け落ちることになる。
「めーです。らんはおかあしゃまとはあそべません」
「………え」
藍の言葉に紫はピシッと全身を硬直させる。愛娘から放たれた言葉が信じられなかったのか、脳が受け入れを拒否したらしい。
藍を抱きあげたまま固まる紫。そして、いつもと変わらぬ愛くるしい瞳で紫の方をきょとんと見つめる藍。
動くのは藍の小さな尻尾だけという現状。やがて意識を取り戻したのか、紫はこほんと小さく咳をして再び藍に笑顔を向ける。
「ねえ、藍。藍はおかあしゃまのことが好き?」
「はいっ!らんはおかあしゃまのことがだいすきですっ!」
元気よく帰ってきた返答に、紫はこれ以上ない程に表情を緩ませる。もう本当、見てられないくらいに。
藍をぎゅーっと強く抱きしめながら、紫は今にも喜びの舞でも踊りだしそうな程に有頂天になりながら、再び藍に訊ねかける。
「おかあしゃまも藍のことが大好きよ。だからね、今日はおかあしゃまと沢山一緒に遊びましょうね?」
「めーです。らんはおかあしゃまとはあそべません」
藍から返ってきたのは、先ほどと全く同じ拒否の言葉。
数十秒前と同じように硬直した紫だが、やがてプルプルと全身を震えさせ始め、そして――
「すいかしゃまっ、すいかしゃまっ、おかあしゃまがおへやのすみっこでないちゃってますっ」
「あー、うん、なんていうか、駄目な大人の縮図っていうか見本っていうか。藍は見なくて良いからね」
部屋の隅に寝転がり、これ以上ないくらい涙を流して床を濡らしている紫を、萃香は笑顔で一蹴する。
嗚咽を漏らす紫に、萃香は大きな溜息を一つつきながら、情けない親友に言葉を投げつける。
「ちょっと紫、別に藍に遊ぶのを断られたからってそんなに泣かなくても」
「藍に嫌われてしまった以上、この世に未練なんて何もないわ…私なんて生きてる価値すらないゴミ虫なのよ…
いえ、私と一緒にするなんてゴミ虫に失礼だわ…私はゴミ虫以下のウジ虫なのよ…」
「うわ…めんどくさ…違うって紫。藍も言ってたじゃないか、紫のことは大好きだって。
藍がアンタと遊べないのは単に…」
そこまで言葉をつなげて、萃香はハッとあることに気がつく。
藍が紫に駄目だと頑なに拒む理由、その原因が自分にあることに。
恐らく藍は今日も自分の植えた花の種の様子を見に行きたいのだろう。しかし、その先にはあの風見幽香が居る。
幽香の事を紫に秘密にすると約束させたのは、他ならぬ萃香自身だ。ならば、結論から言ってしまえば、
紫の事を藍が拒む理由は、萃香にあるのだ。拙い。これは非常に拙い。それを悟った萃香は、引きつった笑みを浮かべながら、紫に声をかける。
「じ、実はさ、最近知り合った吸血鬼が居るって言ったじゃん?そいつが藍の面倒をよく見てくれる奴でね。
藍は今、そいつと遊ぶのが楽しくて仕方ないんだ。藍は紫や私以外の奴と接した経験がないだろう?
これは実に良い機会だと私は思うんだよ。他の奴と接することで、藍は沢山の事を学んでる最中なんだ。
紫と接する時間が減るのは仕方ないけど、ほら!紫とは家で沢山遊べるじゃないか!」
必死に早口で言い訳を並び立てる萃香。
嘘は言っていない、ただ吸血鬼以外の方、特にその主の事をひた隠しにしているだけで。
泣き伏したままで萃香の話を聞いていた紫だが、彼女の話を聞き終え、何時の間にやら泣くのを止めていた。
そしていつものように美しくも凛々しい表情に戻り、萃香に口を開く。
「そう、そういうことだったのね。
最近何処に遊びに行ってるのか不思議に思ってたけど、まさか他の人と接していたなんて。
こうしてはいられないわ。萃香、その吸血鬼の方のところに私を案内して頂戴」
「え…ええええええ!?な、なんでさ!?」
「何でって、そんなの当たり前でしょう?私の大切な娘がお世話になっているのよ?
藍の母親として、お礼の言葉を言う為に、一度挨拶に向かうのが当然でしょう」
「い、いいよそんなの!ちゃんと代わりに私が挨拶してるから!」
舵取りを失敗し、拙い方向に向かいつつある状況を何とか必死に萃香は変更しようとしている。
藍が遊びに行くことを納得させようとさせたのに、何時の間にやら紫が直接出向くような流れになってしまったのだ。
このままでは紫が幽香と鉢合わせになってしまい、萃香が幽香の下に藍を連れて行っていたことが紫にバレテしまう。
どうしたものかと慌てる萃香だが、意外なところから彼女に助け船が送られることになる。
「おかあしゃま、すいかさまをいじめちゃ、めーです」
「ら、藍?別におかあしゃまは萃香を虐めてる訳では…」
「らん、いじわるなおかあしゃまはやーです。めーなことするおかあしゃまはやーですっ」
可愛らしくぷいっと顔を紫から背ける藍を見て、ガガーンと今にも効果音が聞こえてきそうな程に凹む紫。
折角立ち直ったというのに、藍の一言のおかげで最早立ち上がれない程にボロボロになってしまっていた。
床に膝をつき、口元からは魂みたいなものがフワフワと抜き出てしまっている。正直誰が見ても危険な状態だ。
これを好機とみたのか、萃香は藍を小脇に抱えあげ、彼女の復活を待たずして、そそくさと紫の家から飛び立っていった。
この場所に来て早々、いきなり人に藍を押し付けて自分は何処かへ行くというのは如何なものか。
藍を抱き抱えたまま、木陰に腰をおろして幽香は一人呆れるように大きな溜息をつく。
事の起こりは数分前のこと。今日はお供を誰一人連れることなく、幽香はいつものように湖にやってきていた。
いつもは藍の為にエリーやオレンジ、くるみといった遊び相手を連れて行ってあげていたのだが、
今日の幽香は誰もこの場所に連れてくることはなかった。それは単なる彼女の気まぐれ故のこと。
人の周りできゃいきゃいと小五月蠅い藍だが、今日は何故か気分が良い。たまには直々に遊んであげるのもいいだろう。
そのような考えからくる行動だが、幽香自身は己の思考の不自然さに気づくことはなかった。
――少なくとも、以前の風見幽香ならば絶対にこのような考えをしたりなどはしなかった筈だ。
彼女は自身の変化に気づかない。否、気づけない。何故なら気付く事を放棄してしまっているから。
自身があんな力もない小娘との接触を少なからず期待している事実を、
そして自分の心があんな小娘に変えられていることを認めることなど出来ないからだ。
故に彼女は今日も気づかぬ振りをする。そして自身に何度も言い聞かせるのだ。
これは唯の気まぐれだと。自分があんな小娘に少なからず興味を抱いてるなどある筈がないと。
そんな風に考えていた幽香のもとに、いつもと同じように現れた萃香であったが、
木陰に座っていた幽香に藍を渡し、一言だけ言い残して早々にこの場を去ってしまったのだ。
『悪い、ちょっと野暮用があるから藍のこと任せた。小一時間もしないで戻ってくるからよろしくっ』
そんな戯けたことを笑顔で言ってのけ、萃香は来た道を戻るように飛翔していった。
この場に残されたのは幽香と藍の二人だけ。そういう事情で今に至るという訳だ。
「…数週間前に殺し合いをしていた相手に、ほいほいと任せるのもどうなのかしらね」
「ゆうかさまっ、ゆうかさまっ。おはなはいつごろさきますかっ。らんのおはなはいつごろさきますかっ」
「またその質問?何度も言っているけれど、種を埋めてまだ三日も経っていないというのに、花が咲く訳ないでしょう?
人の話を記憶に留めることすら出来ないくらい貴女は馬鹿なのかしら?この駄狐」
幽香の膝の上で目をキラキラと輝かせて見上げてくる藍に対し、
幽香は今日何度目とも分からないデコピンを藍に向かって放つ。無論、手加減こそしてあるのだが。
ぺちんとでこを跳ねられ、きゃうんと可愛らしい声を上げる藍に、幽香は呆れ顔を浮かべたままだ。
その理由は唯一つ。藍の表情から、少女が全然これっぽっちも懲りていない事が読み取れたから。
「おはなはさきませんかっ。ゆうかさまがいっしょでもおはなはさきませんかっ」
「しつこいわね…他ならぬ私が咲かないと言ったのだから、一度目で聞き分けなさい馬鹿狐。
大体どうして私が一緒なら花が咲くだなんて思ったのよ」
執拗に訊ねかけてくる藍に、少々苛立ちが貯まり始めたのか、若干乱暴に幽香は言葉を放つが、気にすることもない。
何故なら、この程度で目の前の少女が怯えない事を幽香は身を持って理解しているから。
トントンと人差し指を少女の額に押し当て、答えを催促する幽香に、藍は至極当たり前のように言葉を紡いでゆく。
少女の口から放たれる言葉。その内容に、風見幽香は言葉を失うことになる。
「ゆうかさまはぽかぽかおひさまだから、おはながさくっておもいましたっ。
おひさまのおかげでおはなはさくって、えりーさまがいってましたっ。だかららんはそうおもいましたっ」
「――え」
狐耳をぴょこぴょことさせながら語る少女の言、それは幽香にとって微塵も予想していなかったモノだった。
藍が拙い言葉で必死に伝えようとしている言葉。その内容は風見幽香という化け物を形容するには余りに相応しくない言葉で。
「おひさまがいっしょでも、おはなはさきませんかっ。
ゆうかさまがいっしょでもおはなはさいてくれませんかっ」
「…ねえ、藍。貴女、何を理由に私を太陽だと表現するのかしら」
だからなのかもしれない。気づけば彼女は、藍に向かって訊ね返していた。
それを表現するならば、きっと無意識。ただ純粋に知りたかった。目の前の脆弱な小娘が自分に一体何を見ているのか。
血の匂いが染みついた妖怪に、小娘は一体何をして自分を太陽と表現するのかを。
「だって、ゆうかさまはぽっかぽかのおひさまのにおいがしますよ?
ゆうかさまのぽっかぽかのにおいは、らんはとってもだいすきですっ。おひさまはらんはすごくすごくだいすきですっ。
おかあしゃまやすいかさまとおなじくらいだいすきですっ。だからゆうかさまはおひさまですよ?」
それは本当に拙く、要領を得ない幼子独特の表現で。
趣旨の伝達よりも、伝えよう伝えようという気持ちが空回りしてしまっている。けれど、少女の言葉はちゃんと幽香には届いていて。
だからこそ、失った。言葉を、発すべき台詞を。自身の膝の上でぽわぽわと微笑んでいる少女に、幽香は何も言葉を返せなかった。
おひさま。
だいすき。
風見幽香は殺戮の妖怪。数多の妖怪達の屍を築き上げ、血煙を纏った時にだけ悦楽を見出せる狂気の化物。
そんな幽香に、目の前の少女が口にした言葉のなんと不似合いなことか。むしろ真逆と言っても過言ではない。
陰に生きる狂い人を誰が太陽などと例えるだろうか。血の匂いを撒き散らすその身の何処に陽光の香りがすると言うのだろうか。
そして、そんな化け物を目の前の少女は大好きだという。それこそ冗談。風見幽香という怪物の何処に好意を寄せる箇所など存在するだろう。
理解出来ない。分からない。それは少女と二度目の邂逅の時に感じた異質な感覚。風見幽香が困惑し、心を掻き乱れさせたモノ。
けれど、今の彼女には前回のような精神の揺れは生じなかった。
不快感、苛立ち、動揺、困惑。そのような精神の紛れは、今の彼女には見られなかった。今の彼女の心には真逆の感情が生じているから。
生じたモノは温かさ。藍の放った言葉、それが幽香の胸を何故か酷く温かくさせた。
けれど、幽香はその感情を理解出来ない。何故なら彼女は知らないから。今まで生きてきた中で、そのような感情を知る機会などなかったから。
だから彼女は理性や思考で行動出来ない。彼女が出来るのは、自身の身体が求める行動を無意識のうちで取ることだけ。
その温もりを与えてくれた藍に、彼女が思考することなく移した行動。それはただ、膝の上に座る少女を優しく抱きしめること。
「?ゆうかさま、ぎゅっぎゅですか?おねむのじかんですか?」
「…本当、何をやってるのかしらね、私は」
「ぎゅっぎゅしてますよ?おかあしゃまもおねむのときにらんをぎゅっぎゅしてくれますよ?
らんはおねむしてもいいですか?ゆうかさまとおねむしてもいいですか?」
「…勝手になさい」
見当違いの発言をする藍に、幽香は視線を合わせぬままぶっきらぼうな返答をする。
その言葉を了承と捉え、藍は幽香の服を握り、ゆっくりと瞳を閉じてゆく。
そして、数分もしないうちに幽香の腕の中から幼子特有の可愛らしい寝息が聞こえ始めた。
その寝付きの早さに、幽香は驚くという間を飛び越えて、ただただ呆れるしかなかった。
殺戮の妖怪という恐怖の象徴である自分の腕の中でよくもまあ眠れるものだと。
もしかしたら、本当に狂ってるのは自分ではなく、この娘なのかもしれない。いや、きっとそうに違いない。
そんな風に考えていたら、何故か今まであれこれと思考していた自分が酷く滑稽に思えて。
非日常における自身の姿とあまりに不釣り合いな少女の寝顔。それがあまりに可笑しくて。だからなのかもしれない。
「――本当に変な娘ね、貴女は」
狂気の妖怪が見せた初めての笑顔。それは誰よりも美しく、誰よりも優しくて。
幼子を抱きしめながら微笑む彼女の姿は、慈愛に溢れる実母のような温かさに包まれていて。
彼女を知る妖怪達が、こんな風見幽香の姿を誰が信じるだろう。間違いなく誰一人想像だに出来はしないだろう。
その腕の中で眠る幼子が引き出した、風見幽香という大妖の持つ本当の素顔。それを知ることが出来るのは、
今この場を覗いた者にしか理解出来ないだろう。
「…本当に驚いた。アンタ、そういう顔も出来るんじゃないか」
「っ!?い、伊吹萃香!?」
そう、彼女達を遠くから隠れて眺めていた、たった一人の目撃者――伊吹萃香を置いて他に。
突然の萃香の出現に驚き、体を強張らせた幽香だが、そんな彼女の珍しい動揺を見逃す萃香ではない。
ニヤニヤと笑みを浮かべながら幽香の方へと歩みより、そっと耳元に口を近づけ、一言。
「『本当に変な娘ね、貴女は』。にゃ~んちゃって!あははははっ!!!…って、おおおおぅ!?」
幽香をからかって大笑いする萃香だが、その笑い声は途中で遮られることになる。
爆笑する萃香に向かって、幽香が何ら躊躇することなく魔力弾を解き放ったからだ。それも並の妖怪ならば一発で致命傷に至る程の威力を込めて。
ちなみに萃香が避けた先の平原に魔弾は着弾し、軽く十数メートルはあろうかというクレーターが出来てしまっていたりする。
「ちょ、ちょっと待ちなって!!ただの可愛い冗談じゃないかっ!!」
「…ふん、次はないわ」
つんけんと不機嫌そうに言い放つ幽香に、萃香は苦笑を浮かべながらも、彼女の隣に腰を下ろす。
そして視線を幽香の腕の中に向ける。そこにあるのは、先ほどまで盛大な爆音が響いていたにも関わらず熟睡している藍。
気持ち良さそうに眠る藍に、萃香は笑みを零しながら言葉を紡ぐ。
「本当、良い眠りっぷりだ。藍の奴、アンタの事がよっぽど好きなんだろうねえ」
「…別に子狐に懐かれたところで嬉しくもなんともないわ。下らない」
幽香の言葉に、萃香はふ~んと相槌を打ちながらも内心では笑ってしまっていた。
冷徹に切って捨てたつもりなのだろうが、先ほどの彼女の浮かべた優しい笑顔を見た後では説得力など皆無だ。
眠る藍を抱いている幽香を見ながら、萃香は再び瓢箪に口づける。実に面白いモノが見れた為か、
その酒の味は普段のよりも美味に感じられた。そんなことは、萃香の横でムッとしている不器用妖怪にはきっと理解出来ないだろうが。
「すいかさまとのやくそくなので、おかあしゃまにはめーなんです」
藍の言葉に、紫はその場に膝をついて号泣したくなる感情を必死で抑える。本当に必死に、だ。
萃香が『山に用が出来たから今日一日は留守にする』と言い残し、紫の家を出たのが数分前。
今がチャンスと目を光らせた紫が藍に『一緒に遊ぼう』と誘いの言葉をかけた返事がこれである。
どうやら今の藍の頭の中では『遊ぶ=幽香のところに行く=萃香との約束=紫には内緒』という方程式が
組み上がってしまっているらしい。いつもなら藍の言葉にすごすごと引いては部屋の隅でさめざめと一人
鬱陶しく泣き濡らす紫だが、今日はどうやら違うらしい。こほんと一つ咳払いし、笑顔を浮かべて再び藍に話しかける。
「ねえ、藍。今日は萃香がいないの。萃香がいないということは、藍はいつものように外に遊びに行けないの」
紫の言葉に、藍は途端にしょんぼりと表情を暗くする。感情に呼応するように、彼女の尻尾と耳もへにょんと
垂れ下がるのを見て、思わず鼻血を噴出してしまいそうになった自身を自制しつつ、紫は言葉を続ける。
「でもね、今日はおかあしゃまがいるわ。
おかあしゃまが藍をいつも萃香と吸血鬼さんと一緒に遊んでるところに連れて行ってあげるわ」
「ほんとうですかっ!?」
目をキラキラと一瞬輝かせた藍だが、その表情はすぐにまた暗いモノへと変わってしまう。
どうやら紫に連れて行って貰う=萃香との約束を破るという関係にあることに気づいたらしい。なかなか聡い子である。
そんな藍の思考を読み透かしたように、紫は次なる一手を打つ。それこそが彼女の秘密兵器。
ここ数日睡眠時間を削って藍を如何に説得するかを考え続けた彼女の結論。それこそが――
「大丈夫よ、藍。おかあしゃま、今日一日のことは全部忘れちゃうから。
私が忘れちゃえば、藍は萃香との約束を破った事にならないし、私も覚えてないから萃香に何も言わないわ」
――嘘をついて藍を騙す、である。まだ幼い藍にもっともらしい事を言って藍自身を納得させること。
それこそが、ここ数日紫が考えに考え抜いた、藍を傷つけずに萃香との約束を掻い潜って一緒に遊ぶ方法である。
実に大人らしくない方法ではあるが、効果は実に絶大。藍が誰よりも大好きな紫が、笑顔で説明したのだ。
その言葉を藍がどうして疑う筈があろうか。否、断じて否。紫の言葉にどんどん表情が本来の無垢な笑顔に
変わりつつある様子こそがその何よりの証拠。そして、ここに紫の計略は成る。
「おかあしゃまー!!」
遊びに行けるようになったことが本当に嬉しかったらしく、藍は満面の笑みを浮かべて紫に抱きついた。
『――計画通り』。今の紫の心のうちは、恐らくこんな感じだろう。はしゃぐ藍を優しく抱きしめながら
紫は口元を歪めてしてやったりの表情を浮かべている。
「萃香、貴女は良い友人だったけれどね。藍を独占しようとする心算がいけないのよ。
ふふふ、萃香…聞こえていたら、自身の短慮さを呪うといいわ」
「?おかーしゃま?」
「ふふ、なんでもないわ、藍。それじゃ貴女がいつもお世話になってるという人のところに行きましょうか」
首を小さく傾げる藍をそっと抱きあげ、紫はそのまま外へ足を運び、大空に身体を委ねる。
本来ならば彼女の持つ能力で一気に移動する方が断然早いのだが、
このように空をのんびりと飛行する方が藍が喜ぶことを紫は理解していた。
きゃっきゃと喜ぶ藍を優しく撫でながら、紫は藍の指示する場所の方角へと飛行する。
藍の求める場所に待つ人物を、藍の面倒を見てくれる変わり者の吸血鬼だと勘違いしたままで。
「ふざけるなっ!!!!!!」
咆哮一声。その声は鬼の怒り、猛り狂う肉食獣の叫び。
最強の鬼、伊吹萃香の怒声は室外で警備を受け持っていた鴉天狗達すらも恐怖に震わせる程の覇気に満ちていた。
けれど、その室内にいるのは誰もが強者と謳われる鬼や天狗達。萃香の声にも簡単には怯んだりしない。
眉一つ動かさない面々に、萃香の苛立ちが更に加速する。萃香はその場に立ち上がり、拳を強く握って言葉を続ける。
「風見幽香の一件は私に任せろと言った筈だ!!
急に山に戻れと言われ、何の話かと呼び出されてみれば、風見幽香をこの山の実力者全員で殺しに行くだと!?
身の程を弁えよ愚昧共が!!貴様ら如きに風見幽香が屠れるかっ!!」
「そう、我らだけでは敵わんでしょうな。だからこそ、鬼の皆様の力をお借りしようと言うのですよ」
「な…勇儀、貴様!!!!」
大天狗の言葉に、萃香は壁に背を預けて酒を呑んでいた星熊勇儀をキッと睨みつける。
けれど、勇儀は堪えない。萃香の視線を受けたまま、杯を一度傾けたのちに、軽く息をつく。
その態度が更に萃香の癇に障る。ずかずかと勇儀へと歩み寄り、彼女の胸倉を掴んで言葉をぶつける。
「鬼が!!誇り高き鬼がたった一匹の妖怪相手に徒党を組んで襲うというのか!?
我らが誇りを忘れたか星熊!!お前だけじゃない、ここにいる鬼達全てだ!!」
「…手を離しなよ、伊吹の。唯でさえ不味い酒が更に不味くなる。
言っておくが、この結論は私だけの考えじゃない。お前を除く他の四天王の総意だ」
「ッ!!勇儀っ、お前…」
勇儀の表情に、萃香は言葉を続けることが出来なかった。それは彼女に浮かぶ怒りの表情。
彼女の言、彼女の様子、まるで何かを押し殺すかのように紡ぐ感情。その様子から萃香は悟ってしまった。
勇儀が本当に心からこの結論を望んでいた訳ではない、と。彼女とて不本意である、と。
ならば何故…その答えに気づき、萃香は目を見開いて大天狗の方を睨む。大天狗は表情を変えないまま、淡々と言葉を紡いでゆく。
「我らとて本当ならば萃香様に一任する所存でした。貴女は言った、風見幽香は私が殺す、と。
それがどうですか。あれから一月は経とうというのに、風見幽香は未だ健在。それもこの妖怪の山の近くにある
湖付近から奴の妖気が離れない。つまり奴は、未だ我らの山の近く、この山をいつでも襲来出来る場所で
虎視淡々とその機会を探っているという訳ですよ。これでは我ら妖怪の山の者は恐怖で夜も眠れませぬ」
「くっ…」
痛いところを突かれ、萃香は反論することが出来ない。
鬼とは山を守護する者、その中でも最強と謳われる伊吹萃香ですらも未だに風見幽香を屠るに至っていないのだ。
その理由は萃香と幽香との再戦が藍という中和剤によって、引き延ばしに引き延ばされた産物によるものだが、
そんな事情を当然、山の天狗達は知る筈もなく、彼らはただ目の前にある事実だけを萃香に付きつけていく。
彼らの目に映る事実は『萃香が未だに幽香を殺していないこと』と『幽香が妖怪の山付近に未だ存在する』ということだけだ。
同胞を何人も殺し、鬼と渡り合うことすら可能にする実力を持つ大妖が自分達の領域に潜んでいる。
彼らが風見幽香を討つ理由としては十二分なモノが全て揃ってしまっているのだ。それが例え、
四天王の一人である伊吹萃香の意思を無視する結果になろうとも、だ。
「そもそも萃香様、貴女は何故風見幽香と戦われないのです。身体の傷は充分に癒えている筈でしょうに。
あの日貴女が我らに言った言葉は全て空言だったのですかな?」
天狗の言葉に、萃香は何も言えなかった。
彼の言う通り、萃香の身体の傷はとうの昔に癒えていた。コンディションだけを問うならば、今の萃香は完璧に近い。
しかし、彼女は風見幽香に殺し合いを誘おうとはしなかった。否、誘う事が出来なかった。
何故そうしなかったのか。その問いに対する答えなど、とうに出てしまっている。
萃香が幽香との殺し合いをしない理由、それは勿論幽香に懐く一匹の小狐の存在に他ならない。
藍が幽香と接するようになり、風見幽香は確かに変わっていった。それは自身では気付いてはいないかもしれないが、
常に第三者視点で見ていた萃香だからこそ気付けたこと。二人を傍で眺めていた萃香だからこそ気付けたこと。
幽香から狂気の気配が消えた訳ではない。幽香から血の匂いが消えた訳でもない。けれど、確かに幽香は変わった。
否、変わったというよりも、今現在で変わっている最中と言った方が正しいかもしれない。
少なくとも、藍と出会う前の風見幽香なら、先日のように藍を抱きしめて微笑みを浮かべるなどしなかった筈だ。
藍の一体何が風見幽香を変えたのかは分からない。けれど、一日、また一日と過ぎるごとに
風見幽香は変わっている。その変化する方向が、伊吹萃香には何よりも素晴らしいことに感じられた。
このままいけば、もしかしたら風見幽香は生まれ変わるかもしれない。化けるかもしれない。
萃香自身、何故にここまで風見幽香の変化を望んでいるのかは分からない。けれど、彼女は強く切望しているのだ。
もう少し藍と幽香を触れ合わせてあげたい。少なくとも、あの子が埋めた花の種が新たな命を息吹くその時までは。
けれど、そんな萃香の事情は当然山々の者達にはなんら関係はない。むしろ、その萃香の心を聞けば
誰しもが口を揃えて裏切り者と罵るだろう。同胞を殺した者に情を抱いたのか、と。
幽香がこの山の天狗を数人殺したのは紛れもない事実で、変えようのない過去。だからこそ、萃香は何も言えない。
例え本人にその気がなくとも、風見幽香の力がこの山の妖怪達の命を脅かす程に強大なモノであることは事実なのだ。
だからこそ萃香は耐える。言葉を耐える。どんな言葉をも、その身に刻まれても。
「もしや萃香様は風見幽香に恐れをなして戦いに挑めないのですか?
鬼の四天王最強が聞いて呆れますな。戦えぬならばその大層な肩書きを捨て…ひっ!?」
嫌みの一つを告げようとした天狗が、突如として言葉を遮られる。
その言葉を遮ったのは、彼の顔面を掴む鬼の剛腕。その手は萃香のモノではない。
現に萃香は驚きに目を丸くさせてその光景を見つめているのだから。ならばその手は誰のものか。
そんなものは決まっている。この場でずっと沈黙を貫いていた彼女が萃香への暴言を許すだろうか。否、断じて否。
「…おい、天狗。私は確かに風見幽香討伐への同意はした。
萃香が実力を認める程の相手、それも殺戮を楽しむような狂人だ。萃香には悪いが、山に対する危険は極力排除するのが
我ら鬼の仕事であり役割だ。忌々しいが、その点に関しては協力を約束してやろう」
「あがっ!!!がああっ!!」
「だが、我ら鬼の中でも比類なき勇ある者、伊吹萃香を下衆な言葉で貶めるとは一体どういう料簡だ?
萃香は我らが誇り、我らが勇の証、我らが最愛の盟友だ。萃香の痛みは我らが痛み、萃香への侮辱は鬼への侮辱。
その萃香に対して貴様如きがその勇に泥をつけるか。それは即ちここで命を絶っても構わないということか?」
自身の体格をゆうに超えるであろう巨体を持つ天狗をその人物、星熊勇儀はまるで綿布を持ち上げるように
右手一本で掴み上げる。そして彼女の掌から聞こえるはミシリという骨の軋む音。
先ほどまで萃香を貶していた天狗の声は最早聞こえない。それも当然のこと、彼は最早意識を保っていないからだ。
泡を吹いている天狗の面を確認し、勇儀はまるで塵屑を投げ捨てるかのように、その天狗を床へと放り捨てる。
そして先ほどの光景に身を竦ませる天狗達を一睨みし、苛立たしさを隠そうともせずに言葉を紡ぐ。
「…臆病者どもが。最初から怯えるくらいならきゃんきゃんと喚くな、鬱陶しくて敵わん。
いいか、勘違いするなよ鴉共。盟約に従い、お前達の命を脅かすモノは我らが排除してやろう。
しかし我らが同胞の誇りを汚すのならば話は別だ。例え萃香が許しても、私達はお前達を決して許しはしない。
お前達は狡賢く計算高い種族だろう?ならばその鶏頭でしっかりと考えることだ。どうすればこの顕界で長生き出来るかをな」
勇儀の言葉に同調するように、その会議に参加していた鬼達が一人、また一人と立ち上がり、
天狗達の方を威圧するように睨みつける。そうなっては天狗達は何も言葉を返す事など出来はしない。
会議はこれにて閉幕とばかりに、鬼達は早々に室外へと出て行く。鬼が出ていっては話し合いも何もない。
彼らの後を追うように、天狗達も室内から退出していく。そして、その部屋に残ったのは萃香と勇儀の二人のみ。
「勇儀…ごめん」
「悪いがその言葉は無しだ。私にゃ、お前さんからの謝罪を受け取る理由がないからな。
ただでさえ気分が悪いのに、私の胸糞を更に悪くさせるような馬鹿鴉にちょいと躾をしただけさ」
萃香の言葉に、空いている右手をひらひらとさせて勇儀は何でもないように答える。残る左手は勿論杯だ。
酒を一度喉元を通し、軽く間をおいて勇儀は再び萃香に対して言葉を紡ぐ。それは彼女には珍しい、少し力の無い表情で。
「むしろ謝る必要があるのは私達だ。本当に済まない、萃香。
私達も風見幽香の件はお前さんに全てを任せておく考えだったんだが…」
「どうせ天狗達が怖がって責付いてきたんだろ?妖怪の山の安全を守るという鬼との盟約を逆手に取ってさ。
仕方ないよ、大口を叩いておきながらさっさと風見幽香を倒さなかった私が悪い」
萃香の言葉を勇儀は否定しない。それはすなわち、肯定の意を表しているということ。
彼女の読み通り、風見幽香討伐に勇儀をはじめとした鬼達が渋々同意した理由は天狗達との盟約にあった。
彼女達鬼と天狗の間には一つの約束事がある。それは天狗が鬼達に尽くす代わりに、鬼達は天狗を守る力となるというものだ。
だからこそ、今回の件で天狗達に命の危険を訴えられては、勇儀達も風見幽香討伐に動かざるを得ないのだ。
それが例え、本人の意志とは乖離が生じていても。
「…二日後だ。二日後の闇夜に月が満ちるとき、私達は風見幽香討伐に乗り出す手筈になっている。
どうしてお前さんが風見幽香との再戦に乗り出さないのかは聞かない。恐らく聞いても無駄だろうからね。
残り少ない時間でどうするのかを決めると良い。妖怪の山に住まう者達の命を第一とし、我らに力を貸すも良し。
自分自身で風見幽香相手にけじめを付けるも良し。何もせずに傍観者に徹するも良し」
「そうかい…どちらにしろ、風見幽香の命は無いってことか」
「否定はしないよ。天狗達にとって、風見幽香には同胞を殺したという罪過がある。
まあ、大天狗どもはそれが嬉しくて仕方がないだろうが。敵討だの無念を晴らすだの、耳触りの良い理由をもって
大妖怪の討伐に乗り出すことが出来るのだから。風見幽香を討ったという名声は我ら鬼同様に天狗のモノとなり、
この東方一帯の妖怪達に対して大きく名を挙げることが出来る…誰が考えたかは知らんが実によく出来た筋書きじゃないか」
「ああ、実によく出来てる。完璧過ぎて反吐が出そうだ」
憎々しげに声を発する萃香を一瞥し、話は終わったとばかりに勇儀もまた室外へと足を進めようとする。
そして、部屋から出ようと扉に手を掛けた刹那、勇儀は軽く息をついて、背後で悔しそうな表情を浮かべている
萃香に言葉を紡ぐ。
「…萃香、私はお前さんがどんな道を選ぼうと責めるつもりも怒るつもりも更々ないよ。
私がお前さんに対して怒るときは唯一つ。お前さんが自分の心に偽りを持って生きようとするときだけだ。
自身の心に対して不自由に生きるなど、伊吹萃香が辿るべき道じゃない。我らが英雄、伊吹萃香のね」
「勇儀…私は…」
萃香の返答を待たずして、勇儀は今度こそ室内を後にした。
残された萃香は、ただじっと勇儀の消えた扉の方を見つめ続けていた。
彼女の言葉を、何度も何度も反芻させて自身の心にゆっくりと浸透させていくように。
萃香が天狗達に怒鳴っている同時刻。
藍を背に乗せて飛行を続けていた紫が、ようやく藍の目的地へと到着していた。
ゆっくりと着陸し、その足を大地へと下ろした紫だが、背中の藍を地面へと下ろそうとはしない。
否、下ろせないと言った方が正しいだろう。紫は大きく溜息をつき、面倒くさげに淡々と語りかける。
「さてはて、このような手厚い歓迎をして頂くような理由が私にはとんと皆目見当もつきませんが」
どうしたものかと考える紫の視線の先、彼女の喉元に掲げられるは大鎌の刃。
空からの着地と同時に紫の傍に現れたのは、大鎌を携えた少女、エリー。彼女は紫の首筋に
鎌を当て、紫に対する警戒心を隠そうともしない。恐らく紫が少しでも動けば躊躇することなくその鎌で断罪を行うだろう。
そして、紫を囲む者はエリーだけではない。紫から少し距離を置いた地点から、オレンジとくるみが
彼女の方に手をかざしていつでも魔弾を放てるように布陣されている。その様子を眺めながら、
紫は再び溜息をつきつつも、次の一手をどうするべきかを考える。
「どういう理由かは分かりませんが、この首筋に当てられている物騒な物を離して下さらない?
私はただ、いつも娘がお世話になっている方へお礼を言いにこの場に訪れただけなのですけれど」
「…娘?」
紫の言葉に反応したエリー。その様子に話の進展を感じたのか、紫は背中に隠すように負ぶっていた藍を
エリーの目にも見えるように、体の前に抱き直す。そして藍の姿を見て、エリーを始めとしてくるみや
オレンジも目をぱちくりとさせて驚きの表情を浮かべる。
「こんにちはっ!えりーさま、くるみさま、おれんじさまっ!」
「へ?え、ええと、こんにちは。…って、え、えええええ?」
エリーは二度三度と藍と紫の顔に忙しなく視線を上下させる。
どうやら藍の存在に気付いていなかったようで、紫を見知らぬ妖怪の襲来か何かと勘違いしていたらしい。
そんなエリーの様子を眺めながら、紫は仕方ないわねと助け船を差し出すように笑顔を浮かべて言葉をかける。
「初めまして。藍の母親の八雲紫と申します。
いつも藍の面倒を見て頂いて本当にありがとうございます」
「えっと、い、いえいえ!そんなことないです!こちらこそ藍ちゃんとご一緒にいつも楽しませて頂いて…
あ、あの、不躾な質問で申し訳ないのですが、本当に藍ちゃんのお母様ですか?
藍ちゃんのお母様だから、てっきりお母様も妖狐とばかり…」
「…ああ、成程。そういう理由でしたか。確かに藍は私の実の娘ではありませんが、私の娘に相違ありませんわ。
藍は私の全てであり、私の生は藍の為にあると言っても過言ではありません。
もしも実の母親同様の産みの痛みに耐えろと言われれば、その百倍の痛みすらも喜んで引き受けましょう」
紫の冗談とも本気とも取れない言葉に、エリーは何と答えて良いのか分からないという困ったような表情を
浮かべていた。無論、くるみやオレンジも同様だ。敵襲かと思っていたら、藍の母親、それこそ突然の来訪なのだ。驚かない訳がない。
そんな四者を余所に、紫達の方へと歩み寄ってくる存在にいち早く気づいたのは、紫に抱かれている藍。
『あっ!』と嬉しそうな声を上げて、紫の腕の中で手をぱたぱたと喜びを表現するように上下させている。
藍の視線の先を追うように紫もそちらへ目を送る。そこに現れた女性に、紫は表情に少しばかり警戒の色を現した。
紫を幾許か警戒させた理由、それは登場した女性の体中から溢れる禍々しいまでの妖気の高さだろう。
かつて幾度となく修羅場を乗り越えてきた紫だが、これほどまでに妖気を表に出している妖怪は過去において
数えるほどしかいなかった。そして、紫の経験論からしてみれば、そういう奴は身の程を知らぬ愚かな妖怪か、
もしくは己の力に絶対の自信とそれを裏付ける実力を兼ね備えた強者か、だ。そして今、彼女の目の前に現れたのは恐らく後者だろう。
「中々面白い事を言うわね。それならば、貴女はその万倍の痛みには耐えられるかしら?
生きながらにして臓物を抉り奪い去られる苦痛を前にしても、果たして同じ台詞が吐けるかしら」
「あら、それこそ愚問ですわ。痛みなどで私の心を折ろうという考えそのものが間違いというもの。
私が他者に許しを請う時など、藍の機嫌を損ねた場合をおいて他にありませんもの」
悠々と登場した緑髪の女性に、紫は笑みを崩すことなく返答してみせる。
しかし、表情に笑みこそ貼り付けてはいるが、その裏側で紫はその女性を分析するように様々な角度から観察を行っていた。
(登場と同時に変化した空気、周囲の三人の表情から見て、この女性が間違いなく
三人のリーダー…いいえ、主に違いはないでしょうね。しかし、日光を直接浴びても平然としている様子から見て
彼女が吸血鬼には見えない。吸血鬼は間違いなくこっちのぽけぽけした子よね。萃香にあげた傘も持っているもの)
ちらりと横目でくるみの方を見ながらも、紫は目の前の相手から意識だけは逸らさない。
少しでも意識を彼女から外してしまえば、肉食獣のように彼女は自分に襲いかかってくる。そう紫に思わせるだけの
迫力と血の匂いが緑髪の女性からは感じられたのだ。しかも、どうも向こうは紫に喧嘩を売っているらしい。
先ほどから妖気を滾らせて紫に威圧をぶつけてきているところなどが良い証拠だ。
しかし、当の紫はわざわざ喧嘩の相手をしてやるつもりなど毛頭ない。紫はただ藍と一緒に遊びたいだけなのだ。
そのついでに、普段藍がお世話になっている相手にお礼の一つでも言えば良いと考えていただけなので、
この展開は紫にとって少しばかり予定外の状況であった。
(しかしこの妖気にこの在り方…まさかこの妖怪は)
緑髪の妖怪の正体に見当が付き始めたのか、紫はその身を一層警戒させてゆく。
そんな紫の僅かな空気の変化に気付いたのか、幽香は口元を愉悦に歪めて一歩、また一歩と彼女の方へと近づいてゆく。
さて、どうしたものか。空に逃げるか隙間で一気に消えるか。逃亡の為の選択肢を紫が考え始めたその時だった。
「ゆうかさまー!こんにちはですっ」
紫の腕の中できゃいきゃいと笑顔を浮かべて挨拶する小狐が一匹。
その様子に、先ほどまでに張り詰めていた空気が一気に弛緩していく。緑髪の女性――風見幽香は呆れるように、
対する八雲紫は一瞬表情を忘れたように呆然としたのに、藍の笑顔につられるようにクスクスと微笑み。
藍の様子から色々と悟ったらしく、紫は優しく藍を撫でながら訊ねかける。
「藍、貴女といつも一緒に遊んでくれているのはこの方で間違いない?」
「はいっ!らんはいつもここでゆうかさまといっしょですっ。
ゆうかさまはらんにおはなのたねをくれましたっ。だかららんはさいきんみんなとおはなをそだててますっ」
「そういうこと。幽香さん、で良いのかしら?
いつも藍の面倒を見て下さり、本当にありがとうございます。娘も貴女に遊んで頂けることに大変喜んでいますわ」
藍を地に優しく下ろし、紫は笑顔で幽香に一礼する。
その様に幽香は一瞬眉を顰めたものの、藍のいつものぽけぽけ具合に完全に毒気を抜かれたのか、
軽く息をついて紫から視線を逸らす。そんな幽香に、藍は気にすることもなくきゃっきゃと纏わりつきながら言葉を紡ぐ。
「ゆうかさまっ、ゆうかさまっ、おはなはさきましたかっ。
らんのおはなはおはなばたけになりましたかっ。きれいなおはなになりましたかっ」
「…こうも毎回同じ事を尋ねられる身にもなりなさい、馬鹿狐。
芽すら出ていないというのに、一体どうやって花を咲かせることが出来るというのかしらね」
「だめですかっ。らんのおはなはまだだめですかっ」
「…エリー、くるみ、オレンジ。この喧しいのを種を植えた場所に連れて行ってあげなさい。
いい加減本当に鬱陶しくて仕方がないわ。それに…」
言葉を止め、幽香は視線を再び紫の方へと向け直す。
幽香の意図を察したのか、紫は軽く息をついて、エリー達の方へ向き直し、小さく頭を下げる。
「藍の事、どうかよろしくお願いしますわ。
いい、藍。このお姉さん達に無理な我儘を言ったりしては駄目よ?」
「はいっ!らんはぜったいにわがままをいったりしませんっ」
「そう、良い子ね」
優しく藍の頭を撫で、娘の浮かべる天真爛漫な表情に紫は笑みを零す。
そして、藍はエリーやオレンジ、くるみと共に花の種を植えた場所へと向かって行った。
この場所に残るのは、紫と幽香の二人だけ。幾許の静寂を打ち破ったのは、紫の方だった。
「…風見幽香。風の噂とは本当に頼りにならないものね。今日この時を迎えてつくづくそう感じましたわ。
やはり情報とは自身の目で確認しなければ、意味を持ち得ません」
「唐突ね。何を持ってその判断を行ったのかしら」
「無論私自身の目、ですわ。私は今後、風説と鬼の話だけは一切信じない事に致しましょう」
「あら、気が合うわね。私も鬼の話だけは全て戯言だと聞き流すことにしたのよ」
冗談を交わし合っている二人ではあるが、内心では互いのことを探り合っているのが現状だった。
紫は幽香に対して『この妖怪が本当にあの風見幽香なのか』というもの。
彼女の知っている風見幽香は、決して藍のような稚児の面倒を見たりするような輩ではない。
冷血だの狂人だの殺戮だの虐殺だの、そんな物騒な形容句が必ず頭につくような妖怪だった筈だ。
しかし、先ほどの幽香の藍に見せる表情、対応はそんなモノとはかけ離れた、確かに温かみがあるモノだった。
対する幽香もまた、紫に対して『この妖怪が本当にあの八雲紫なのか』と疑惑の念を抱いていた。
八雲紫。それは萃香から名を訊かされた東方の地における化物の名。最強と謳われる妖怪の存在。
先日、萃香は言った。八雲紫に唯一の敗北を味あわされたと。それもあの伊吹萃香が一方的に、だ。
しかし、目の前の妖怪を見て幽香は悩む。彼女には八雲紫がそれほどの化物には到底思えなかったからだ。
エリー達三人に囲まれ、幽香を前にして少しも動じないところを見るに、確かに腕に自信はあるのだろう。
だが、所詮はそれだけだ。紫の身体からは幽香や萃香に感じられるほどの妖力の滾りなど一切感じられないのだ。
実力を隠しているのか?それともあれは伊吹萃香の空言だったのか?考え悩む幽香だが、ここで彼女は紫と決定的な差を示す。
紫は疑問を前に立ち止まることを選んだ。そして幽香は迷わず前に進んでみせた。
すなわち、幽香がとった手段とは、確認を行うこと。この女が本当にあの八雲紫であるのかどうか。
紫の実力を測る為、幽香がそれを行動に移そうとした刹那。
「止めておきなさい。貴女が踏み込むよりも私が貴女の臓物を『抉る』方が早くてよ?」
「っ!!」
紫の言葉に、幽香は驚きに目を見開いた。それは何の行動も伴わない言葉だけの威圧。
しかし、紫の言葉は的確に幽香の行動を見抜いていた。そして行動に移す前に警告を持って抑制した。
それはつまり、彼女が幽香の攻撃を先読み、知覚出来るだけの経験と力を兼ね備えていることを意味する。
その事実に、幽香はククッと楽しそうに一人嗤う。面白い。この東方の地は実に面白い。
あの伊吹萃香だけではなく、こんな獲物まで隠れていたというのか。そんな幽香の愉悦に、紫は一人息をついて言葉を紡ぐ。
「…前言を撤回させて頂くわ。やはり貴女は風説通りの妖怪みたいね。
本当、戦闘中毒者というのはこれだから性質が悪いわ。そんな餓えた獣のようにがっつくのは品性を疑われるわよ」
「フフッ、それは仕方がないというものよ。目の前にこんな上等の獲物を差し出されては
誰だって身体の疼きが止まらなくというもの。ましてや貴女は最強の妖怪などとこの地で恐れられてるそうじゃない」
「はあ…何処の馬鹿鬼に聞いたのかは知らないけれど、昔の話よ。
今の私はか弱い一児の母親ですわ。暴力行為なんて恐ろしい真似、とてもとても出来ませんわ」
「その馬鹿鬼は最強の妖怪は死んだなどとほざいていたけれど」
「ええ、死にましたわ。可愛い藍の愛情が一匹の愚かな妖怪の心を救って下さいましたの。
最強の妖怪は最愛の娘に救われる…実に感動的なお話とは思いませんこと?」
「何を繕ったところで無意味よ。私は貴女に興味を抱いた。
フフ…小狐の母親なんて霞ほど期待していなかったけれど、本当、世の中とは面白いものね」
幽香の話に紫は大袈裟に肩を竦める。どうやらこちらの話はとんと聞いてもらえないらしい。
ならば話題を自分のモノから別の方へ逸らすだけだ。幸いな事に、この妖怪のターゲットになっているのは他ならぬ紫の親友だ。
「そうねえ…貴女、まだ萃香との決着がついていないんでしょう?
貴女が萃香と戦って負けたら私と戦う事を諦めて下さらない?貴女には萃香との先約があるのでしょう」
「それはつまり、私が伊吹萃香を葬れば貴女が殺し合いに応じてくれると」
「まさか。その時は土下座をしてでも見逃して頂きますわ。
戦闘馬鹿の萃香に勝てるような相手に私が勝てる筈もなく。それはもう必死に命乞いをさせて頂きましょう。
もしそれで許して貰えないのならば、残念ですがこの地より夜逃げするといたしましょう」
「…本当に呆れた奴ね。貴女、本当に八雲紫なのかしら。妖怪としての誇りはない訳?」
「ええ、微塵も。私は妖怪で在る前に藍の母親ですから。
この命は一度尽きた身、私の命の全ては藍の為に使われるモノ。私が命を差し出す相手は藍唯一人ですわ」
芝居がかった胡散臭い紫の言葉に、幽香は面白くもないとばかりにスルーする。
会話が途切れ、幽香が自分をこの場でどうこうするつもりはないことを悟った紫は、視線を藍達の方へと向ける。
どうやら藍は自身の植えた花の種の場所を観察中のようで、地べたに腰を下ろしてじっと土を観察している。
そんな藍につられるように、エリー達他の三人もまた藍同様に腰を屈めて地面を注視していた。
「あそこに藍の埋めた花の種が眠っているのね。花が開花するのは何時頃?」
「親子揃って同じ事を口にするしか能がないのかしら。まだまだ時間が掛ると何度言えば分かるのやら」
「あら、そうなの。それは残念。折角藍があんなにも開花を楽しみにしているというのに。
それでは『貴女が死を迎えたその先』の花の面倒は私がみることにしましょう」
「…それはどういう意味かしら、八雲紫」
紫の言葉に、幽香は意図が分からない様子で訝しげな表情を浮かべる。
幽香の言葉に、紫は表情を一つ変えることなく、当然のことのように淡々と言葉を紡ぐ。
「貴女はこれから先、萃香と殺し合いを再び行うつもりなのでしょう?」
「それはつまり、私が伊吹童子に負けて命を落とすと」
「それが一つの結末ね。仮に勝てたとしても、萃香の命を奪った輩をあの山の連中が放置するとは思えない。
次にやってくるのは星熊か、はたまた他の鬼か、場合によっては天魔が降臨する可能性だってある。
それらを退けたところで、次の大妖怪が襲ってくるだけだわ。結局のところ、貴女に待っている運命は死しかないのよ」
「下らない。獲物が向こうからやってきてくれるのよ?むしろ願ったり叶ったりだわ。
私が求めるのは強者との命の遣り取りだけ。強きと謳われる者は全て私が殺し尽くしてあげる。
そして私自身が最強であることをここに証明する。無論、その時はお前も殺してあげるわ」
「息苦しい生き方ね。本当、余裕の欠片もない。
まあ、貴女が好きでそんな生き方をしているのだもの。他人である私が口を挟むこともないか。
せいぜい頑張って死に急ぎなさいな、風見幽香。はぁ…どうして萃香も藍もこんな子供に構っているんだか」
「言ってくれる…死に急いでいるのは果たしてどちらかしら、ねっ!!!」
呆れ混じりに棘のある言葉をぶつけられて、大人しくしてあげるほど風見幽香は温厚ではない。
本性を現し始めたのか、自分相手に大層な口をきく妖怪に対し、幽香は有らん限りの力を込めた蹴りを解き放とうとした。
しかし、彼女の蹴りは虚空を一閃することになる。何故なら、先ほどまでは確かに『そこに居た』筈の紫の姿が消えてしまっていたからだ。
視線を周囲に巡らせ、とある一点を視界に入れて、風見幽香は目を見開いた。彼女の視線の先に、確かに八雲紫はいた。
しかし、その場所は幽香達の場所からゆうに数百メートルは離れていようかという地点。その場所、藍達が
集まっている花の種を埋めたところで、藍達の後ろに佇んでいるではないか。
――馬鹿な。この距離を私の眼を掻い潜って移動出来る訳がない。それも刹那の時間で、だ。
まるで、先ほどまで幽香の隣にいた八雲紫が幻か何かであったかのようにすら錯覚してしまいそうな光景。
八雲紫は一体どんな手品を使用したのか。眉を顰めて苛立たしげに思考する幽香に、
遠く離れた場所から紫は視線を彼女の方へと向けて唇の端を歪める。それが幽香には殊更に苛立たしく感じさせた。
「…殺す。絶対に殺してやる、八雲紫」
「…なんてことを言ってるんでしょうねえ。少しばかりおふざけが過ぎたかしら。
まあ、後の事は萃香がなんとかするでしょうし…それにしても風見幽香、本当に救えない妖怪ね。
見ていて苛立たしくて仕方がないわ」
軽く息を吐き、紫は小さく何事かを呟いて藍達の輪の中へと混ざっていった。
この場にいた誰も拾えなかった紫の呟き。それはきっと、萃香が聞いていたなら力強く頷いて同意をくれただろう。
紫のその表情に浮かべる自虐的な笑みに対して大笑いをしながら、解かってるじゃないかと大きな肯定の意を。
『ええ、実に腹立たしいわ。まるで昔の自分自身の姿を映し鏡で見ているようで…ね』
自身のそんな呟きに、紫は先ほどの問いの答えを見つけた気がした。
藍と萃香がこんなにも風見幽香に構っている理由、それはきっと間違いなく『これ』が理由なんだろうな、と。
んでもって藍が可愛すぎてヤバいw
萃香たちとの会話や鬼と天狗の会議など見所が満載で面白かったです。
藍が可愛いですよねぇ……いじけたり、子煩悩な紫様も微笑ましいですね。
次回がラストのようですが、どんな展開があるのか楽しみにしています。
無理せず、作品を完成させてください。
続き楽しみに待ってます!
続きが気になりますねぇ
誤字報告
>彼女の疑問を大きくなっていった
彼女の疑問は
でしょうか。
これだけの長文ですからね。
正座してまたせていただきます
幽香がどういう風に変わっていくのか楽しみにしています。
次が何ヵ月後だろうと待ち続けます!!!
そしてこの続きが読めるのであれば、ゆっくり待ちますよ。
幽香の自業自得とは言え鬼族の望まない形で動き出す不穏な流れの中で、まさかの勇儀vs萃香なんて切ない展開もありえるかも…
続きをとても楽しみにお待ちしております。
待ったかいがあった(´;∀;`)
次もいつまででも待ってます!
でも出来ることなら早く読みたいです!!w
急かすわけではないですが、早く続きが読みたくて仕方ないです。無理はせずにがんばってください。
そして続きが気になるー!
ただ本当に、最後まで書いてほしいです!!
楽しみにしています!!!
いやもう藍が可愛くて可愛くて……にゃおさん、この藍を娘にくださいww
ええ、たとえ次が半年後でも一年後でも待ちますとも。
気長に待ちますので最後まで頑張ってください。
いや、もう本当に嬉しいです…正直、六か月も間が空いたので、憶えて下さっている方が誰もいないんじゃないかと
変な恐怖におびえながら投稿したりしてました…もう本当に言葉に出来ないくらい感謝ですよおおお!
皆様のご感想を励みに、しっかりと後編を書きあげたいと思います。本当、絶対完成させます!頑張りますっ!
そして誤字の指摘本当にありがとうございました!もうこれだけは本当に何回投稿しても直らない…(ダメダメ過ぎ
待ってました!!
後編も期待してます
あといくつ寝ると6ヶ月・・・!
まあ、それはともかく。今回のお話も楽しかったです。
幽香に立っている巨大な死亡フラグをどうぶち折るのか、楽しみにまっています。
師よ…いずこに…
にゃお氏の話が一番読み易く、かつ最も興味を惹かれました。
後編楽しみにしています!
死んでもあきらめない!
ま、まぁにゃおさんの作品の最終更新日時を見れば1ヵ月ちょい前程度みたいですし、
失踪したとかでないならまだまだ希望は持てるw!
…持てますよね?(チラッ
も書いてくれるはず!待ってます。
まことに勝手ながらいつまでもお待ちしています。
また、にゃおさんの世界観が見たいな
お待ち・・・!お待ち申し上げるっ・・・!!
面白いだけに残念です(´;ω;`)