拳には、洗練された鉄が握り締められている。
これこそ自身の生涯を賭けた、生涯最も長く時間を同じく過ごした、武器と言うには身体に馴染み過ぎた日本刀、即ち剣士にとって身体の一部であった。
軽く力を入れると、わずかに鞘から刃がすべる感触。尺、重量、重心、そのどれもを正確に、隅々まで知り得えた。
腕の延長、もはやそうとしか言い様が無い。
妖夢は生つばを飲み込んだ。
どのように引き抜けば、どれくらいの速度で対手に到達するか。また、力のかけ方による切断力の如何。
そしてどれくらい抜刀が遅ければ、自分の身体が相手に引き裂かれるか。
数間の先には、射抜くように鋭く、しかし冷徹さを宿した赤い双眸がこちらを伺っている。
挙動の全てを見逃すまいとする十六夜咲夜の視線は、妖夢を確かに心胆寒からしめる。
赤い瞳こそ彼女の真に迫る激情の証だった。
だが、それでも妖夢は彼我の実力差はないと自覚する。
なにしろ両の手に握りこんだ十のナイフ。見事相手に突き刺さろうそれを握るのは、所詮家政婦の腕だ。
戦いを生涯の旨と決めた妖夢が、慢心でもなく、彼女に負けるはずがない。なにしろ咲夜が主人に対する自身の完璧さを求めるように、妖夢はそれを戦闘に求めたのだ。
そも、どう投擲しようとも、切りつけようとも、妖夢には避けることも弾くことも容易である。
ギチリと、刃が鳴った。妖夢は手首の返しに込める力を確かめる。
最も厄介なのは咲夜の『時間を止める』程度の能力だ。
程度、の能力とは言ってくれる。ささやかな形容が付くその正体は一度発動すれば防ぎようの無い反則的な力だ。
西洋の狂った執念は時として世界の法則を捻じ曲げる。さすがは悪魔の館の住人と言ったところか。
機会は一度。能力が発動する気配を見せた刹那、実際の効果を現すまでの、そのわずかな時間の余白を狙って斬りかかる。
一度で十分だ。武士に初めから二度目などない。
妖夢は薄い唇を歪ませた。妖夢は笑った。
相手の相貌を見ると、鏡のごとく自分も同じ目をしていることに気が付いたからだ。
首を狙う。打ち洩らしはない。
逃げても斬る。距離を取ろうとしても、斬る。動いても斬る。
どれを見逃しても、一瞬先に待っている自身の死に繋がり得るからだ。
「…あらかじめ聞いておくわよ。やはり譲る気はないのね」
「笑止。アナタが私であったらと考えるなら、答えは一つだけでしょう」
意外にも先に口を聞いたのは咲夜の方だった。
「でしょうね」
「そも、同じ立場です」
予想された答えだったのか、咲夜は素っ気無く同意する。
妖夢は丁寧に、柄を握る感触を確かめた。酷薄で意味の無い会話だ。
「アナタとはいつか、こうなる気がしていました」
「それを今更言っても仕方ありませんわ。全てを知り得ているのはお嬢様くらいなものよ」
「因果ですね。私達は春の異変のときもこうして対峙していた」
「お嬢様が仰る運命というやつかしら…」
「もしその話が眉唾でなければ、アナタは主人に嫌われているらしい。お可哀想に、今日で厄介払いされましたね」
「……へぇ? そう」
「ここで生き残るのは、私の方なのですから」
面の薄皮一枚下で咲夜は激した。平静を装っているが、妖夢にはよくその様子が分かる。
妖夢は思う。彼女とはこうなることは、予想できることだったのだ。
唯一無二の主人を抱えた者が二人。咲夜は彼女の主の希望を裏切れぬ。そして妖夢も主人の要求に首を横に振ることなどできはしない。
ならば、いつか彼女たちの主人の求める物が同じだった場合、不幸にも求める物がまた唯一無二である場合、どうしようもない争いが生まれる。
来るべく日が、ついに今日来たのだ。
「半人前で生まれてきて、半人前で死んでいく。残念だけど不完全なまま消えていって頂戴」
「最も、私はアナタと違って、死んだ後も幽々子様にお仕えできますけれど」
「黙れ。お前はお嬢様を使って私を蔑んだ。亡霊らしく、いつまでも浅ましく、死んだ後も世迷いごとを言ってなさい」
咲夜はナイフを堅く指で握りこむ。
こうなればもはや戻れぬ。一度武器を持ってしっかり構えを取れば、筋肉が疲労を起こす前に攻撃をしなければならないのだ。
相手は時間を止めれば勝ちだ。勇んでいようとも、あのナイフは十中八九、時間稼ぎに使われる。数本が身体に刺さろうが、無視して突進すればいよいよ咲夜の首は近い。
妖夢は半身をずらし、速度に優れた居合い抜きの構えを取る。
商品棚の上には黄土色の椀が鎮座されていた。全体は黄色で、下方には濃厚な茶が沈殿している。
これこそ彼女たちの主人が求めるものであり、此度の争いの発端であった。
「あの、お客様…ほかのお客様のご迷惑になりますので…」
男はおずおずと口を挟んだ。
「黙ってなさい!そもそもなんでもう在庫がないのよ!」
「そうです、誠実な決闘に口を挟まないでください!」
即座に妖夢と咲夜は同時に吼えた。
「アンタんところのお姫様なんて、これ以上太ってどうすんのよ!!お嬢様が食べたいって仰ってるんだから、レミリアお嬢様にプリンを譲りなさいよ!」
「ひどい、横暴です!うちのお嬢様の方が、もっとプリン食べたいって思ってます!!」
二人はプリンの購入を争っていた。
お互いに睨み合い、一歩として譲らない。
人里の商店街の一角、夕飯時の東方マートに怒号が飛び交った。
ひねりの無い名前のこの店で、商品を巡って妖夢と咲夜が出会ったのは、小半時ほど時間を遡る。
「最後に残った希少な一個こそ、お嬢様にふさわしい至高の一品よ!」
「売れ残りってことじゃないですか…」
咲夜は大げさに声を張り上げる。
その様子をしっかと見届けていると、咲夜は尚も目を細めて、息を吐いたと思うと、小ばかにした態度で妖夢を見やる。
「予備を切らすなんて従者として失格ね。今回は諦めて、反省を痛みとともに胸に留めておきなさい」
「それはお互いさまです。大体、食べたいかで言えば、幽々子様は週に十はプリンを召し上がりになるくらい、お好きなんですよ」
「主人の不摂生の自慢かしら」
「健啖といってください」
「お嬢様がお菓子を召し上がる、その甘美なる笑顔に比べれば何事も細事だわ。そのために喜んで差し出すべきだと思わない」
「アナタの性癖なんて聞いてません。このロリコン」
「うっかり口を滑らせないことですわ。私もうっかりナイフを滑らせてしまいそう」
「それ以上プリンに近寄れば。斬る」
あまりの剣幕に店員はたじろいだ。なにやらドス黒い空気が二人より噴出されている。
威圧的なオーラが場に緊張感をもたらし、周囲の人間の肌にピリピリと痛みが発する。不幸にして残り一個となったプリンは明日まで入荷が無いのだ。
「あの…お客様…」
「私もできれば穏便に済ませたかった。けれど、どうしようもない頑固者には体で教えてあげるしかないようね」
「それなら言わせてもらいますが…アナタの、自分の主人が世界の中心だと思っているような態度は鼻につきます」
かたやメイド服、かたや日本刀を抱えて入店するような輩だ。他人の迷惑など考えるはずもない。
二人が二人とも、主人の落胆した顔を見るわけには絶対にいかない。
ありませんでした、と言ってみよ。そして期待に応えられなかった自分を責められるならばともかく、『じゃあ、しょうがないっか…』などと少し悲しそうな瞳で、物憂げに呟かれてみよ。遠い目で、至極残念そうに、目元を薄っすら滲ませる様、想像してみよ。
主人思いの二人はもう耐え切れるわけがない。強情な相手に、自然と苛立ちが募った。
咲夜はナイフに、妖夢は日本刀に一層の力を込めた。ここで引くわけにはいかない。
剣呑な雰囲気は周囲の買い物客にまで波及した。
たとえ店員がこの客たちを止めることができずとも、誰も彼を責めはしないだろう。
異様な空間を察知して、ある者は立ち止まって彼女らを見守り、またある者は身の危険を感じて足早に店を去っていく。
そして衆目が黙して固唾を飲み込む中、ついに場の緊張が頂点に達する。
「リグルはなにか欲しい~?」
「ん、いや、ボクは自分で買うからいいよ」
「なんでもいいの。まかせてね」
「ははっ、今日はいつになくご機嫌だね」
「最近お店の売り上げがいいのよ~」
満面の笑みでミスティアは、リグルの手を引いて歩いていく。
同性とはいえこんなに人のいる場所で手を繋ぐのは、仲の良さをアピールしているようで、すごく恥ずかしい。リグルは顔を少し赤くする。
ふたつの小さな影が店内を飛ぶように移動する。リグルはポツリと呟いた。
「ずるいよ、みすちー。そんな顔されたら、とても手を離してなんて言えないじゃないか…」
鼻歌を歌いながらミスティアは羽をリズムに合わせて揺り動かした。
ようやく軌道に乗った彼女の屋台はリグルの知るところだし、たまにはこうして無駄遣いのため、人里のお店を巡るのも良いだろう。
二人して食料品売り場の角を曲がると人ごみを見つけた。
「あ、プリンだ。ラッキー!ちんち~ん♪」
両者の瞳が爛と光る。
無邪気に商品棚に伸ばされたミスティアの手が商品を掴むことは永遠になかった。
妖夢の恐るべき速度を秘めた剣が縦横無尽に振るわれ、同時に咲夜が一瞬、まさに瞬き一つの間さえ経過させずその素晴らしき精密な手腕を振るう。
ミスティアがいたその場所には、そっくりそのまま出来立ての焼き鳥が置かれているだけであった。
串から香ばしい湯気が立ち昇る。その傍らには紙が添えてある。『おいしくたべてねっ』とミスティアの直筆、デフォルメされた彼女の笑顔が描かれたイラストだけが、ここで起きた全てを物語っているのであった。
何があった。
「みすちーーー!みすちぃぃーーーー!うあああああぁぁーー!」
リグルが泣き崩れた。
「フン………邪魔が入ったようね」
「全くですね」
何事もなかったように、両者は再び対峙する。
なるほどお互い、恐るべき腕を間近で今一度確認し、戦慄を隠せない。
妖夢は自分の武者震いを感じた。
つと、思い立って、妖夢は一言洩らす。
「大体、アナタは洋館に住んでいるんでしょう。プリンくらいご自分で作ったらどうですか」
「……ダメ…なのよ」
「……は?」
聞いた途端、咲夜は苦虫を噛み潰したような顔になった。
「お嬢様は……プッチンが、できないと…ダメなのよ…」
「……」
妖夢は黙して咲夜に斬りかかった。
「ちっ…。はずしたか」
咲夜の服に一線が走った。
「危ないわね…」
「咄嗟の身のかわし。見事です。胸が軽いからですか」
「そっちこそ人間の方に半分しか栄養がいかないから、頭の中身軽いんじゃないかしら。この辻斬り女」
「残念ですね。しっかり入ってますよ」
「じゃあ腐ってるのよ」
「水増しするよりましかと思います」
「切り取って見て差し上げますわ。頭の中身」
切断されたメイド服の裾が袖から離れていく。一瞬の攻防に、客の間からどよめきが起こる。
「アハハ…」
「…おほほほ」
妖夢は鞘に刀を差しなおす。笑顔だった。すごい笑顔だった。
対する咲夜はナイフ付きの右手を大きく振り上げる。彼女も妖夢にも勝る、メイドならではの来客用の素晴らしい笑みを浮かべていた。
決して下品になりすぎぬよう、顔に皺を作らず、かといって過剰に取り繕ってわざとらしくならない、至上の笑顔だ。
今日はお互いの踏み込んじゃいけないところに、ズンズン土足であがっていくのが流行りの日らしい。
咲夜の肩より落ちた布が、ついに地面に達した。それを合図に妖夢は地を蹴った。
肩口から下着の白い紐が見える。咲夜にとって、汚名を晴らす一つのチャンスだ。観客の声がさらに大きくなった。
「南無三、斬れば分かる!」
「殺らぁぁぁッ!」
その時、両者の間に駆け込む勇猛果敢なる影。巨大な翼をもって瞬時の攻防を遮った。
「あ、さとりさま! プリンかっていいですかー? わぁっ、やったぁ、さいごの一個だ!」
「フフッ…。こらこら、走っちゃいけませんよお空。そんなに急がなくても……」
再び二人の目が爛と光る。刹那にウン、と頷き合う。またも一瞬の出来事であった。
そこにはお空の姿はない。
彼女は、見るも無残な見事なタマゴスープに変わっていた。
「……お、おく…おっ……」
さとりは目の前で起こったことが理解できず、口を何度もパクパクさせた。
「お空ぅぅぅ!!いやぁぁああああぁぁああ!!」
さとりは絶叫し、泣き崩れた。
「…ちっ、また邪魔が入ったわ」
「鳥尽くしですか……そのようですね」
一心同体で、完全に同じタイミングで舌打ちをする。
あまりの気の毒さに客の間で同情の空気が起こった。しかし二人は蛙の面に小便、主人のプリン。
「埒が明かないわ。場所を変えない? 余波でお菓子が台無しになったら元も子もないわ」
「その間に誰かが買ってしまいます」
妖夢は視線だけ一瞬、プリンを見やる。
反対側では散々な光景が広がっていた。延々床を殴って泣き続けるリグル。口元を押さえて嗚咽を洩らすさとり。
「頭の堅い…。この状況を見て、私達の横取りする輩がいるかしら。不安だったら、そのわらびもちに見張らせればいいでしょう」
「これは半霊です!」
「あーらごめんなさい。キクラゲとセットだと思ったわ」
「幽々子様に頂いたリボンを馬鹿にしたな……」
妖夢は必死に嘲笑う咲夜を睨み付ける。
数少ない妖夢の飾り気の中で、これは一番に大事なものだ。幼少から変わらぬこのアクセントには種々の思い出が詰っている。
三度斬りあえば結果も出る。もはや一秒たりとも我慢ならない。
咲夜にしても同じだった。無駄を嫌う彼女がこれほどわずらわしい思いをすることは、そうはない。
それより、二人ともお互いに悪口を言いすぎだった。
実に二週間ぶりの休日。気の置けない友人に引っ張り出され、カビの生えた体を天日干しするべく射命丸文は夕飯の買い物に商店を歩く。
「こんどの記事は自信あるわ。二週間このために這いずり回ったもの」
「そうだねぇ…。ずいぶん文に迷惑を被ったって、河童の間でも評判だからね。これで売れなかったら詐欺ってもんだ」
「目指せ発行部数百万部!」
「幻想郷にそんなに人口いないって…」
緑のリュックが特徴的な、河城にとりは苦笑いを浮かべる。
二人は数百年来、将棋を指したり、ときたま互いの家で酒を飲んで泊り込んだりする。そういう関係だ。
棚の一角を曲がると、なにやら大きな人だかりが見えた。
「おや、なにやら面白そうな事件の香りですよ。あやや…!これは、咲夜さんに妖夢さん」
商売上の癖なのか、文はぱっと口調を切り替える。にとりは自然に身に付いたその感心した。
「絡むのやめておきなよ。なんだか穏やかじゃない。危なそうだ」
「おっと、たとえプライベートと言えどこの場を見逃せば記者の名折れです。お二人の争点はこれにあると見ました!このただのプリンに見えるものにどんな秘密が。どれ拝借」
咲夜は時間を止めた。次は何にしようかしらっと。
取り合えず、三品目は趣向を変えて活け造りにしてみた。
時間を解いた。
周囲の人間が皆、真っ青な顔をした。
吐いている人もいる。
再び時間を止めた。
チンジャオロースに作り直した。
「待たせたわね」
「かまいません」
「うわぁぁ!?文ぁぁぁ!!何が、あやあああぁぁ!」
にとりは尻餅をついた。唖然として、呼吸も荒く、絶叫を繰り返す。
「この、何をした!あんたら…答えろ!文をどこにやった、言わないとただじゃあおかないぞ!」
「早く決着をつけないとこのプリン、賞味期限が来てしまうわ」
「ご安心を。少々期限切れでもうちのお嬢様はお腹を下すことなどありませんので」
「悪食ね」
「諦めるならお先にどうぞ」
「減らず口を…」
咲夜はギリと歯を噛み締めた。
その傍らでは、にとりが二人に飛びかかろうとして、周囲の客に押さえ付けられる。
何人かの男達に止められても、にとりは尚も暴れている。
「離せ…!離せよ!あいつらは友達を…ちきしょう!文を!」
「落ち着け、駄目だ。悔しいのは分かる。だが、今行ったところで返り討ちだ」
「おおい皆。にとりちゃんを押さえるんだ!」
「くそう…くそったれ!離せったらぁぁ!」
叫び声に鬱陶しそうに、咲夜は目を向けた。路傍の石でも見るように興味なさげな瞳で。
「四品目は河童のサラダ和えにしようかしら」
「にとりさん。すこしうるさいです」
「お前ら地獄に落ちろぉぉぉ!!!」
喚くにとりを尻目に、咲夜は手持ちのナイフ、全て十字に腕を構え、投擲の姿勢を見せる。
ひどく冷め切った目をしている。
妖夢は刀を大上段に構えた。すっくと立ち上がり、天をつく剣先。
「この茶番、そろそろ終わらせましょう? 今度こそ邪魔の入らない内に」
「同意します。もうお喋りはいりません」
客は全員思った。こいつら最悪だ。
周囲の光景が速度を落とす。極限まで集中を保つと、相手の心臓の鼓動すら確認できるようだった。
咲夜はまず右手の短刀を振り下ろした。放射状に広がっていく銀の刃。第一射は命中を目的としない。その軌道で敵の動きを制限するのだ。
妖夢は静かに右手を柄から抜き取る。左手一本で、腕と一体化した高速の鉈が加速しながら振り下ろされる。
視線の端に、『被害者の会』というプラカードをもって騒ぐ三人が見えたが、妖夢は無視した。
妖夢は腰を捻り、最小限の動きでナイフを避ける。
ここからが本当の勝負だ。不確実な姿勢になった妖夢を見て、刹那、咲夜の口元が歪んだ。残った左手で三点射撃を打ち出せば、嫌でも剣で弾かねばなるまい。
その間に咲夜の時間停止は発動する。
だが妖夢も笑った。
圧縮された時間の中、ふとあった赤い瞳に語りかける。『お前の計算は、私が避けた場合のものだろう?』
内臓の二、三を捨てる覚悟を決めて、妖夢は左腕に満身の力を込める。
「やめなさい!!」
その声が余人のものであったなら、耳を貸さずに済んだだろう。
だが妖夢も咲夜も、限界まで突っ張った腕の筋を止めなければならなかった。
「これはどういうことか説明しなさい」
「さくや…どこをほっつき歩いているのかと思ったわ」
衆人は場を制した人物に道を開ける。
「幽々子様…どうしてここに!」
「お嬢様…こ、これはですね」
全身を硬直させて、二人は刃先を無理やり抑える。
空色の衣装に身を包んだ和の麗人は、地の重力を細事だと言わんばかりに、宙にたゆたう白玉楼の亡霊令嬢、西行寺幽々子だった。
その隣には、体躯幼いながらも威風堂々たる足取りで床を鳴らす吸血鬼、レミリアの姿があった。物腰は穏やかに、しかし有無を言わさぬ迫力で、扇子を口元にあてやると、幽々子は妖夢に語りかける。
咲夜の殺気に当たり続けていた妖夢だが、危険などまるで感じぬはずの主人の声の方がよほど恐ろしい。
「どうもこうもないわ。あんまり帰りが遅いから心配して来てみれば、誰が人里で大立ち回りをしてこい、なんて命じたのかしら。スカーレットさんとはそこで会ってご一緒したのよ。同じように心配していらしたわ」
「これはその、ですね…」
「こんなことになっていたとは思わなかったけれど…。いま様子を見て、何があったのかは大体分かったわ。あなた達、加減というものを知らないのねぇ…」
「いえプリンを…私…」
「…妖夢」
「は、はい!」
幽々子は、シャンと扇子を閉めた。自分の名前を呼ばれるだけで、こうも肝を冷やすものか。全身から嫌な汗が出る。
隣を見ると、桃色のドレスに身を包んだ幼子を前にして、ひたすら咲夜が俯いている。必死に弁明を探す顔だった。
「さくや。確かに菓子は欲しいと言った。だが、食事の時刻を遅らせて、わたしを煩わせてまで用意しろとまで言ったか?」
「お嬢様……申し訳、ございません…」
「フン、馬鹿め。わたしに能力を一々使わせるなよ。こうしてわたしが来なければ怪我では済まないところだった」
「返す言葉もございません…」
瀟洒なメイドが、しおらしく窮する。
そのあまりに意外な姿に、観客の輪から控えめに感嘆の声があがった。
「さくやは紅魔館の外の顔だ。まさか人里の商店で無様を振る舞い、わたしの面子に泥を塗るようなことは望むまい?」
「も、勿論そのようなことは決して!」
「ならいい。それよりお腹が減った」
「すぐにでもお作りします。手間をお掛けいただいて、本当に申し訳ありません」
「ああ。だがその前に、白玉楼の姫君と従者に、言うべきことがあろうよ」
その言葉に、一つ余裕をもって、幽々子は応じる。
「ねぇ妖夢。私は確かにプリンが食べたいし、あなたがなんとしても私のために用意しよう、って言う気遣いはとても嬉しいけれどね? きっと同じ立場の彼女だって、同じように誰かを想っているのよ」
「私はその……幽々子様を、一番に思って…」
「真面目なところは良いところよ。とても好き。でもね、そのせいであなたを失う大きな危険があるんなら、私はすごく悲しいわ」
そう言って、幽々子は床に置いてあった焼き鳥を頬張りながら、優しくさとす。
「みすちー!ああぁぁみすちがぁああーー!あああぁ!!許さないからな…このおおお!!」
同じくして、レミリアも頷いた。
「うむ、全くだ。死ねば元も子もないわ」
両腕を組んで、けぷっと可愛らしいゲップを吐く。
「さくや。このタマゴスープおかわり」
「ありません」
「お空ぅぅ!!いやぁああああぁぁ…!!……ッ!」
さとりは悲鳴を上げて、卒倒した。
「私、チンジャオロースってあまり好きじゃないのよね。ごめんなさいね」
「さくや、これピーマン入ってる」
「貴様らぁぁぁ!!」
にとりは観衆に押さえつけられながらも、この世の全てを呪い殺すような呪詛を吐き出す。
なんとも至極やり切れない激高の表情で、河童の妖怪はお嬢様方に怒りをあらわにした。
「んんー。それじゃあ決まったわねぇ」
「そうだな」
青い亡霊と、ピンクの吸血鬼は同時に自分を指差した。
「プリンは私がもらっちゃいましょ」
「プリンはわたしのものだな」
自信満々の顔で言い放つ二つの顔。
「あ……。あらぁ~?」
「うん?」
「譲り合う大切さについてがんばって説いたはずだけどねぇ」
「ふむ、確かにな。従者の不覚を謝罪して、購入権を贈呈すべきか。だが私がいれば、そもそも咲夜は怪我などしない」
「おんなじこと考えていたなんて、スカーレットさんとは気が合うわぁ~」
唖然として自身を見つめる従者の視線に、幽々子はにっこり笑ってポーズをとった。
相手への思いやりとか、私が大事とか…不覚にも涙しそうになった、そういったことは…。
「だってどうしてもプリン食べたいんだもんっ」
妖夢は可愛くおねだりする幽々子を前に、全て吹き飛んだ。
「御意ぃぃぃ!」
蝙蝠の翼を一度羽ばたかせると、レミリアは尊大に言い放つ。
「お嬢様…」
「まあそれはそれとして、このレミリア・スカーレットが人に物を譲るなどありえん」
「畏まりました」
広大な屋敷を頭さっぱりのまま纏める当主たちは二人とも思っていた。
私と、従者。二人なら絶対に負けないわ。
荒野に風が、否、店内に無音の風が舞う。
迫撃なら第一。切り込みと至近戦闘での膂力で妖夢に勝るものなし。
先手の一手は勝利への架け橋。有無を言わさぬ速攻で斬りつけるのが剣士の主務。
抜いた刀の切っ先を、対手に向けて、後ろに主人を守り置けば、眼前の敵など恐るに足らん。
新緑の衣装に身を包む、されど乙女はただ一言、妖夢を勇猛果敢な戦士に変える、主人の一声を待ちわびる。
「妖夢、斬りなさい!」
「将を射んと欲すればまず馬を射よ、咲夜さん、斬り捨て御免!」
妖夢は左足を軸に一足飛び、剣を地面と水平にして突進した。
想像以上の速度をもって、咲夜に刀が襲い掛かる。ほぼ目視できないその様は、まるで一陣のカマイタチのようだった。
ナイフで弾幕を張るのも、時を止めるのも、間に合わない。ましてや細く短い短刀では、長大な日本刀を防げるわけが無かった。
「ククッ…。良い、少々体がなまっていたところだ。暇つぶしだ、相手をしてやろ…」
咲夜はとっさに、ピンクでふわふわしたものを盾にした。
「食らうかっ!お嬢様ガード!」
「グハッ」
レミリアに剣が突き立った。
「お、お嬢様ぁぁぁ!!」
ピンクのドレスのお嬢様が、床と接吻した。
わき腹から、ほのかにそのピンクが赤に変わっていく。
「よくもお嬢様を!」
「フッ、アナタが盾にしたのが悪いんです」
ほんとにな。
咲夜は怒りもそのまま、ナイフを一本握り締め、妖夢に打ちかかる。
右足のステップから、体を捻って溜めを作った。地面に届きそうなほど拳を下降させると、咲夜は的へと拳を引き絞る。
重力に逆らい、瀟洒に跳ね上がる銀髪。足のバネと左回りの腰の回転で、一気にナイフを引き上げた。
「肝臓打ち(ボディーブロー)!!」
「遅いです!レミリアガード!」
「う”ー☆」
無理やり抱えられたレミリアは、笑顔のまま血を吐いた。
「おぉ……おぉ…お嬢様ぁぁー!」
咲夜は叫んだ。また地面に投げ出され、吸血鬼は過呼吸で白目を向く。
「ざぐや…これ、ぢょう痛い…」
すぐさま咲夜が駆け寄って胸元に引き寄せると、レミリアの顔が苦痛に歪んだ。
咲夜は銀のナイフを手に握っているのを忘れているようで、抱き寄せた傍から煙が上がっていた。全部咲夜によるダメージだ。
しかし妖夢もこの悲哀を前にして手を緩めるほど、お人よしではない。この場の至上目的は主人の好物の奪取なのだ。
「くっ…せめてプリンだけでも」
咲夜は商品棚へと手を伸ばす。待ちわびたプリンに丁度手をかける。
「やっ…!」
「甘いわぁ~、んふふ」
陳列棚の、冷気が出る送風口から幽々子が飛び出した。
ひんやりした手で、ぷっちんするプリンを掻っ攫う。
銀のナイフを咲夜は投げつけたが、キンッという音とともに、妖夢が投擲を打ち払っていた。
「やったわぁ。ゲットしちゃった」
「さすがに二対一では、どうしようもないようですね」
「さっすが私の妖夢よ」
「お褒めに預かり光栄です。幽々子様」
「よっうむ、よっうむ♪」
「ゆゆこさまっ!ゆゆこさまっ!」
幽霊たちは二人で手を組んでやたらハイにキャッキャとはしゃぎ出す。
その光景を倒れ付した主人の元、咲夜は歯噛みしながら睨み付けた。いかに邪魔する者には死の制裁を与え続けた悪魔の犬といえど、死して尚現世に留まり続ける厚顔どもには分が悪い。
今ここで、主人の好物がただ蹂躙されるのを見ているしかないのか。
「それじゃ頂きまーす」
「きゃっ。幽々子様、ちゃんと頂きます言うんですね。偉いです」
たおやかな指先が、プリンの蓋をピリピリと破いていた。
引っかかった最後をプチッと剥ぎ取り、黄金色の甘味が顔を出す。
あれこそは、求めて止まぬ争いの果てにたどり着くべき黄金の都。
その柔らかな触感は想像するだに喉が鳴り止まない。なにぶん苦労も相まって、この世のどんな洋菓子より魅惑的に輝いて見えた。
一にも二もなく、碌に中身も見ず、幽々子はプリンを口に放り込んだ。
口に広がる至上の苦味。現世の言葉では言い表すに語録が足らない、猛烈な味。
咲夜はそ知らぬ顔で言った。
「プリンの時間を加速させておきました。百年ほど」
「ゲフォァ!?」
亡霊は倒れた。
「幽々子様あああぁぁ!!」
「ほほほっ…食い意地を張っているからですわ!……良いザマね!」
「…もはや許せん。外道。刀の錆にしてくれる!」
「あら、悪魔には褒め言葉よ。さあやってごらんなさい!」
妖夢は一歩を踏み出した。
同様にして、もはや護身考えることなく咲夜も妖夢に駆けていく。
「…ブス」
「チビ」
お互いの距離が縮まっていく。
「ロリコン」
「うるさい。お漏らし」
「この…何故それっ…」
「追いはぎ女」
「…年増」
「キクラゲ!」
「殺人狂!」
悪鬼羅刹の表情で、切りかかった。
「この……ペチャパ…!!」
「言ったなぁぁ!!」
憤怒をもって叫ぶ。
瀟洒をかなぐり捨てた本気の声が、店内に怒号する。
その時、横合いから濁流が流れてきた。
様々な人と商品を押し流し、茶色の水が流れ込む。その流れの頂点には真っ赤な顔で泣きはらした河童がいた。
背中のリュックの中には、同じように気合を入れた、さとりとリグルがすっぽり入っている。
「うおおおぉぉぉぉ魂符!!涙の友情ポロロッカぁぁぁぁああ!」
三人の心優しい鳥たちが、夜空に星の煌きとなって輝いた。
それからこの店では、二度とプリンを扱わなくなった。
こ れ は ひ ど い