一
瞼を開けると、目の前に宇佐見蓮子の顔があった。
「おはよう、メリー」
ぼんやりとした視界を、その猫のような笑みが埋めて、私は目をしばたたかせる。
思考の稼働が遅い。状況の把握が追いつかない私に、蓮子はくるりと背を向けた。
「朝ご飯もうすぐ出来るけど、食べる?」
「……うん」
ぼんやりと頷いて、私は目を擦る。視線を巡らすと、見慣れない色のカーテンが窓に揺れていた。見える空はからりとした晴天で、その眩しさにようやく意識が覚醒する。
そこは見慣れた自室ではなかった。
もちろん、私が寝ていたのも自分のベッドではない。
蓮子の部屋の、蓮子のベッドの上で、私はぼんやりと座り込んでいた。
「……あれ?」
どうしてこんな状況になっているのか。自分の身体を見下ろすと、これまた見慣れないパジャマを身に纏っている。シンプルな無地だし、蓮子のものなのだろうが。
さらに視線を巡らす。部屋の隅に置かれたゴミ袋に、空き缶がいくつか詰められていた。
――ああ、そうだ。私はようやく昨晩のことを思い出した。
蓮子の仕入れた毎度怪しげな情報を元に廃墟探訪と洒落こんだ秘封倶楽部の会員二名。しかしこれといって面白いものも無ければ結界の裂け目も見当たらず、徒労のうさを晴らさんと、蓮子の部屋で酒盛りをしていたのだ。
というか、私はそんなに呑むつもりは無かったのに、いつの間にか酔いつぶれてしまったらしい。酒盛りの途中あたりからどうにも記憶がはっきりしなかった。
こめかみを押さえて首を振り、私はベッドから下りる。ダイニングの方からコーヒーの匂いがした。フライパンで何かが焼ける音。時計を見ると、午前九時過ぎだった。土曜日の起床時間としては早いが、朝食には少々遅いかもしれない。
「コーヒー、そこにあるから」
キッチンでフライパンに向かいながら、蓮子は私にそう声をかける。コーヒーサーバーに溜まっていたコーヒーをカップに注いで啜ると、ようやく人心地ついた気がした。
「はい、お待たせ」
蓮子が運んできたのは、トーストに載せたベーコンエッグだった。形は崩れていないし、黄身の部分が割れてもいない。ましてや派手に焦げてもいない。私は思わず、ウーパールーパーでも見たような気分で蓮子を見やる。
「なに?」
「……蓮子って料理できたのね」
私が心の底からの感心を込めて言うと、蓮子は半眼で私を睨み、
その両手が頬に伸ばされて、むに、と引っぱられた。
「へんほ、はひふるほ~」
「人を何だと思ってるのよメリー。こう見えても私は家事全般は得意なのよ?」
確かに、部屋の中は几帳面に整頓されているが。どうにも私の中の蓮子のイメージと、家事とはうまく結びつかない。総菜を買ってきて済ませるタイプだとばかり思っていた。
「意外だわ」
引っぱられた頬をさすりつつ、私はもう一度ベーコンエッグトーストを見やる。
これで、見た目だけで味がとんでもないという展開は……さすがに無いか。蓮子は味オンチというわけではないし、大丈夫だろう。
「何ならメリー、お金がないときはうちに来れば晩ご飯ぐらい作ってあげるわよ?」
「……考えておくわ」
いただきます、とベーコンエッグトーストを囓る。拍子抜けするほどごく普通の味だった。
「美味しい?」
「普通」
「そこはお世辞でも、美味しいって答えてほしいなあ」
自分もトーストを囓りながら、蓮子はぼやく。
「目玉焼きとトーストに、美味しいも何も無いと思うけど」
「メリー、今の発言は国際目玉焼き会議を敵に回したわよ」
「……何それ?」
「全世界から集まった目玉焼き愛好者が、目玉焼きの美味しい食べ方を議論する会議よ。世界目玉焼き愛好会の会員数は七百五十万人、その中から選りすぐりの目玉焼きフリークが口角泡を飛ばしてつかみ合いの大激論を朝から晩まで――」
「世界には蓮子みたいな暇人が多いのねえ」
「嘘だけどね」
「知ってるわよ」
全く、蓮子はいつも通りだった。コーヒーを飲みながら私はため息ひとつ。
「まあ、目玉焼きは塩少々に胡椒をぱらり、がベストよね」
「目玉焼きには醤油でしょう?」
「えー? 醤油なんか掛けたら醤油の味しかしないじゃない」
「それは掛けすぎ。卵と醤油が黄金の組み合わせなのは卵かけご飯が証明しているわ」
「メリーって根っから日本人ねえ」
「日本人ですわ」
ご飯とパンならご飯の方が好きだ。ひとり暮らしを始めてから朝食を抜くことも多くなったが、卵かけ、納豆、海苔、あるいは《ごはんですよ》。前日のご飯が残っていればお茶漬けでもいい。朝の眩しい陽射しを横目に、白いご飯を頬張る瞬間の幸福はやはり格別だと思う。
「んー、そんな話してたらご飯食べたくなっちゃったじゃない。炊けてないから無いけど」
「お昼にカレーでも食べればいいんじゃない?」
「いいわね、カレー。メリーも一緒にどう?」
「……その前に帰るわ」
別にこの部屋に住んでいるわけではないのだ。シャワーも浴びたいし、これを食べ終えたら着替えて家に帰ろう。今日は土曜日、特に予定もないし、どうするかはその後だ。
「別に、うちでごろごろしてたっていいのに」
「そういうわけにもいかないでしょう」
「私は気にしないけどね。……ふぁ」
トーストを食べ終えて、蓮子はひとつ欠伸をした。
私は目をしばたたかせて、ベッドの方を振り返る。
そういえば、私はあのベッドに寝ていた。この部屋にベッドはもちろんひとつだ。だとしたら、蓮子はどこで眠っていたのだろう?
「ねえ蓮子、ゆうべ寝たの?」
「ん? 寝たわよ。まあ、いつもより睡眠時間は短めだけど」
欠伸を噛み殺すようにして、蓮子はひとつ伸びをする。
「どこで?」
「そりゃあ――」
蓮子はベッドの方を振り返ると、含み笑いをひとつした。
その笑みに目を細めつつ、私はコーヒーに口をつけ、
「メリーの隣で」
盛大に噴き出した。
二
蓮子の住むマンションを出る頃にはもう、すっかり陽は天高くまで上っていた。
瞼を貫く陽射しに大きく伸びをひとつして、私は快晴の空に目を細める。
帰ったらシャワーを浴びて、それから読みかけの『夕荻心中』でも読もうか。天気もいいし、本屋まで出掛けるのもいいかもしれない。
そんなことを考えていた私の視界の端に、ふっと鮮やかな色がよぎる。
マンションの玄関前の花壇だった。植えられているのは色とりどりのパンジー、それから白いマーガレット。春を謳歌する花々に、私は目を細める。
「あら――こんにちは」
と、建物の陰から不意に人影が現れ、私に声を掛けた。振り返ると、花壇の世話をしているのか如雨露を片手にした女性がこちらに微笑んでいる。年の頃は二十代半ばだろうか。軽くウェーブのかかったセミロングの髪。チェック柄の長いスカートが、花壇の花と一緒に風に軽く揺れている。もう片方の手には白い日傘が花のように開かれていた。
「あ、どうも……」
私がぺこりと会釈すると、その女性は笑顔のまま、花壇に水をやり始める。
なんとなく私はその様子を見やる。花そのものに笑いかけるような彼女の笑みは明るく、太陽のような笑顔というのはこういうものを言うんだろうか、と私は思う。
「この花壇は……」
「私が世話をしているの。季節によって色々な花が咲くのよ」
彼女が視線を向けた方を見やると、日当たりのいい東・南側に花壇が並んでいるようだった。今は花の咲いていない花壇もいくつかある。夏や秋の花が植えられているのだろう。
「どんな花がお好きかしら?」
「……春の花なら、桜ですね」
「桜はさすがに、花壇には植えられないわね」
彼女は苦笑して、水をやったパンジーの花弁を愛でるように撫でる。
「桜の花言葉をご存じ?」
「……優美、とかでしたっけ」
「ソメイヨシノの花言葉は《優れた美人》。――貴女にはなかなかお似合いだわ」
そう言って、彼女は優雅にこちらを振り向き、微笑んだ。
異性に言われたら歯の浮くような言葉すぎて耐えられないだろうが、彼女に言われると何か、自分もまんざらでもないような気分になる。そんな気がした。
「ああ、風見さんね」
結局、お昼は蓮子に呼び出されて、一緒に駅前の地下のカレー屋に入っていた。
辣韮と福神漬けを山盛りにする蓮子を見やりながら、私がマンションの前で出会った女性の話をすると、蓮子はすぐ思い当たった様子で頷く。
「花壇の世話はあの人が全部やってるのよ。本業も花屋さんだったかしら」
「よっぽど花が好きなのねえ」
「今どきびっくりするぐらいの《いい人》よ。子供好きで、うちのマンションに住んでる小さい子の遊び相手とかもしてるし。それで美人な上に変な噂も無いとくるんだから完璧ね」
チキンカレーを頬張りながら、蓮子は言う。特に皮肉めいた響きも無いので、彼女のことは言葉通りに評しているようだ。ひねくれ者の蓮子にしては珍しい。
「蓮子がそんなに素直に評するなんて、かえって何かありそうな気がするわ」
「単にそこまで親しいわけじゃないってだけだってば。よくあそこで花の世話してるから、マンションに出入りするときに挨拶することは多いけどね」
「ふうん」
カレーは思ったより辛かった。ひりひりする口内に目をしばたたかせていると、デザートのアイスが出てきて人心地つく。冷たい甘さが心地よかった。
「今はパンジーとかチューリップとか咲いてるし、夏はヒマワリ、秋はコスモス。綺麗よ」
「まあ、蓮子の家にまた行くことがあれば、少し楽しみにしておくわ」
ヒマワリ、か。これからもっと暑くなれば、あの花壇に太陽のような黄色い花が背も高く咲き誇るのだろう。想像してみると、それは確かになかなか壮観かもしれない。
「ところでメリー」
「なに?」
「今度、私もメリーの家に行ってもいい?」
蓮子の言葉に、私は思わず目をしばたたかせる。
「……いいけど。というか来たこと無かったかしら?」
「無いわよ。じゃあまあ、そのうちに遊びに行くわ」
「アポは取ってからにしてよね」
もちろん、と蓮子は笑うが、どこまで信用していいものやら。
アイスの冷たさを口の中で溶かしながら、少し部屋を片付けないと、と思った。
三
アスファルトの剥がされた道の端には、よくタンポポが咲いている。
風に揺れる小さな黄色い花に、わざわざ目を留める人はいない。どこにでも咲くタンポポは、その他の雑草とひとくくりの、ありふれた風景の一部分。
殊更にそれに目を留め、摘み取って遊ぶのは、子供たちぐらいのものだ。
通りがかった公園で、砂場の近くに咲いているタンポポを小さな女の子が摘んでいた。傍らで砂遊びをしているもうひとりの女の子の頭に、黄色と緑の花冠が乗せられる。
そんな微笑ましい光景に目を細めていると、「メリー、どしたの?」と先を歩いていた蓮子が振り向いた。私は足元にかがみこんで、咲いていたタンポポを一輪摘み取る。
「小さい頃、綿毛を飛ばして遊んだりしなかった?」
私が差し出すと、蓮子はなんだか奇妙な表情でそれを受け取った。
「小さい頃の私って、あの綿毛って絶対タンポポじゃない別の何かだと信じてたのよね」
「別の?」
「だって、この黄色い花がいつの間にかあんな白い綿毛に変わるなんてどうしても信じられなかったのよ。庭に咲いてたタンポポがいつの間にか綿毛になってたときは、騙されたような気分だったわね。このタンポポをすり替えたのは誰だ――なんて」
言われてみれば確かに不思議だ。この黄色い花のどこから、あの白いふわふわした綿毛が姿を現すのだろう。
「そうそうメリー、タンポポの花言葉って知ってる?」
「真心、だったかしら」
「私が知ってるのは、真心の愛、思わせぶり、それから――別離ね」
「別離?」
蓮子はひらひらと指の間のタンポポを揺らした。
「ある日、南風は野原に佇む黄色い髪の少女に恋をしました。彼はその少女をいつも眺めていましたが、いつの間にか彼女は白髪の老婆に変わってしまっていました。南風はため息をつき、白髪の老婆は飛ばされていなくなってしまいました。――それで別離なんだって」
「ひどい話ねえ」
私は肩を竦める。と、蓮子が不意に私の肩に手を置いて、そこにタンポポを載せた。
「むしろ、私としてはこういうお話にしたいわね。――いつの間にか白い綿毛になってしまった少女のことが、南風にはあの黄色い髪の少女だとは解りませんでした。南風は少女のことを呼びましたが、その声は風になって、綿毛になった彼女は飛ばされてしまい、南風はもう少女に会うことは出来ませんでした――」
「どっちにしたってバッドエンドじゃない」
「でも、こっちの方が《別離》って感じじゃない?」
まあ確かに。私は返されたタンポポの花を見下ろす。小さな花弁が寄り集まるようにして形作られた黄色い花は、小さな太陽のようにも見えた。――太陽と競ったのは北風か。
「黄色い髪といえば、メリーもいずれは綿毛みたいな白髪のおばあちゃんになるのかしら」
「五十年後の話? もう二十一世紀も遠くなってるわね」
七十歳になった自分のことなど想像もつかなかった。まだ二十年しか生きていない自分には、五十年など気が遠くなりそうな時間だ。果たして自分はどんな人生を歩んで、どんな風に年老いていくのだろう。
「でも、メリーがおばあちゃんになっても、私はため息をついたりはしないわよ?」
「……そもそも、その頃には蓮子だっておばあちゃんじゃない」
私と同い年のくせに何を言ってるのか。私が呆れて肩を竦めると、蓮子はからからと笑った。
「さあね、案外そうとも限らないかもしれないわ」
――宇宙にでも行くつもりなのだろうか。蓮子ならあり得そうだ。不思議なものを探しに、ウラシマ効果の出るような宇宙の彼方まで飛び出していってしまいかねない。
「まあ、メリーの場合おばあちゃんにならなくても、縁側でお茶でも飲みながら日向ぼっこしてるのが似合いそうだけどね」
「猫でも撫でながら? まあ、悪くはないけど」
例えばこんなぽかぽかとした陽気の昼下がり。お日さまの眩しさに目を細めながら、膝の上の猫を撫でつつお茶を飲んで。そこに声をかけてくるのは――蓮子。
「…………」
「ん、どしたの?」
「何でもないわ」
それではまるで、私と蓮子が老夫婦ではないか。
変な想像を振り払うように、私は何度か首を振る。
蓮子は首を傾げながらそんな私を見つめていた。
四
次に蓮子の住むマンションを訪れたのは、一週間後の土曜日だった。
近くの地下鉄駅で待ち合わせていたのだが、いつもは五分以内の遅刻で姿を現す蓮子が、その日は十五分経っても現れない。たまにはそういうこともあるだろう、と本を読んで待っていたが、さすがに三十分を過ぎても現れないので電話をしたところ『ごめん、今起きた』との返事だった。そんなわけで、蓮子のマンションまで出迎えに来た次第である。
五階建てのそのマンションを見上げて、私はそれから玄関先の花壇を見やる。変わらずパンジーやマーガレットが色とりどりの花を咲かせる花壇。反対側にはチューリップが咲き乱れていた。風見さんは今日も世話をしているのだろうか。
と、花壇を見やっていた私の横を、小さな影が通り過ぎていく。振り返ると、半ズボンの背中が見えた。小さな男の子だろうか。このマンションの住人かもしれない。
「あら、貴女はこの前の」
今度は玄関の方から声。オートロックを内側から開けて、先週見かけた顔が姿を現した。風見さんだ。傍らには人形を抱いた小さな女の子を連れている。娘さんだろうか?
ぺこりと会釈をした私に、風見さんは優雅に微笑むと、女の子の手を引いて花壇に歩み寄る。浮かない顔で人形を握りしめていた少女は、風見さんが見せる花にもあまり興味なさそうにしていたが、その一角に生えた小さな花に目を留めて、僅かに顔をほころばせた。
「それは鈴蘭よ、ういちゃん」
「すずらん?」
「そう、鈴みたいで綺麗でしょう? でも食べちゃだめよ、お腹を壊すわ」
ういちゃんと呼ばれた少女は、鈴蘭の花を、鈴を鳴らして遊ぶようにつつく。その様子を、母親のような眼差しで風見さんは見つめていた。やはり娘さんなのかもしれない。
私はふたりを邪魔しないようにそっと別の花壇に歩み寄った。蓮子はどうせそのうち出てくるだろう。花でも見ながら待つのも悪くない。
「あら?」
――と、不意に私は妙なものに気が付いて足を止めた。
私があげた声に気付いたか、風見さんがこちらを振り返る。「どうかしました?」と声をあげた風見さんに、私は自分の見つけたそれを指さした。
そこは、まだ草の姿もない土だけの花壇。だから何が植えられているのかは解らない。
そして、そこに敷き詰められた土に、タンポポが生えていた。
いや――その表現は不正確だろう。
そのタンポポが、花壇に根を張っていないことは明らかだった。茎の半ばで手折られたタンポポが、柔らかい花壇に、ちょうどお線香でも供えるような形で差してあるのだ。もちろんお線香のようにその茎は固くはないから、花はへなりと土の上に倒れているのだが。
「あらまあ……またなのね」
困ったように首を傾げて、風見さんは花壇からそのタンポポを取り除く。四輪ほどが同じように花壇に差されていた。
「また?」
「ここのところ、いつもなのよ。誰がやってるのか解らないんだけど――」
ため息をついて、風見さんは手折られたタンポポを見下ろす。
ういちゃんと呼ばれた少女が、風見さんの手にあるタンポポを不思議そうに見上げた。
「子供のイタズラじゃ?」
「そうだとは思うけど……何のためにこんなことをするのかしら」
たんぽぽ? とういちゃんが声をあげる。そう、たんぽぽ。風見さんが微笑んだ。
「ういちゃんのお部屋に飾りましょうか」
「……うんっ」
手渡されたタンポポを握って、ういちゃんは笑った。
子供があまり得意でない私だけれど、その笑顔はなるほど愛らしかった。
その微笑ましい様を見つめていた私は、ふと視界の端に入った影に目を留める。
さっと物陰に隠れたその姿は、先ほどの小さな男の子だった。
軽い足音とともに男の子の姿は私の視界から消える。私は小さく首を傾げた。
五
「花壇にタンポポ?」
「そう。茎のところで手折られて、差すみたいにして」
結局約束の時間より四十五分遅れでマンションを出てきた蓮子は、まだ寝癖の残る髪をトレードマークの帽子で無理矢理押さえつけて苦笑した。「蓮子が寝坊なんて珍しいわね」と私が言うと、「昨日夜更かししすぎたかなぁ」と蓮子はひとつだらしない欠伸をする。
「茎から差したって、そこから根が生えるわけもないのに」
「タンポポを花壇に植えたかったんだとしたら、また随分と子供的な発想だけど」
地下鉄の駅へ向かう道すがら、蓮子を待っている間にあった出来事の話をすると、蓮子はひとつ鼻を鳴らして、帽子のつばを指で弾いた。考え事をするときに帽子を弄るのは蓮子の癖だ。
「子供といえば、風見さんが小さい女の子連れてたけど、娘さん?」
「ん、ういちゃんのこと? あの子は違うわよ、私の部屋の下に住んでる薬屋さんとこの子」
「……マンションに薬局?」
「薬屋、っていう苗字なのよ」
ああ、なるほど。マンション内にドラッグストアでもあるのかと思った。
「ご両親が忙しい人らしくて、土日はよく風見さんが世話してあげてるみたいね」
「マンション内の事情にも詳しいのね、蓮子」
私なんて、隣の部屋の住人が何をしている人なのかも知らないというのに。
「たまに中庭で親睦パーティとかやってるのよね。ただでバーベキューが食べられるっていうから参加してるんだけど、まあそのときに色々聞こえてくるわけよ」
耳聡いことである。
「じゃあ……他に、小さい男の子とかも住んでたりする?」
ふと、物陰からこちらを見つめていた男の子の姿を思いだして、私は尋ねた。
「小さい男の子?」
「五歳ぐらいの」
「半ズボンの?」
「そうそう」
「ああ、螢川さんとこの陸くんね。――あの子も風見さんに懐いてたはずだけど」
そういえば、と蓮子はぽんと手を打った。
「去年の夏に、花壇に咲いてたヒマワリが何本かまとめて折られるってことがあったのよ。まあ犯人は、遊んでて花壇に突っ込んだ陸くんだったんだけど」
「あらあら」
「風見さんが怒ったのを見たのはあの時ぐらいね。ものすごく静かに怒ってる感じで、怒鳴られるより効くわね、あれは」
ふうん、と私は首を傾げる。――なんとなく、花壇にタンポポのいたずらをしたのはあの男の子なのではないかと思っていたのだが、そういうことならいたずらなどしないだろう。風見さんに懐いているというならば尚更だ。
「あの花壇、風見さんが作ったものらしいから。あそこに咲いている花は、彼女にとっては子供みたいなものなんでしょうね」
愛でるように、咲き誇る花に笑顔を向ける風見さんの横顔を思い出す。
連れていた女の子の姿に娘さんかと思ったのも、その笑みが母の慈愛に満ちていたからなのかもしれない、と何となく思った。
――と、ふと見覚えのある角に行き当たって私は足を止めた。地下鉄の駅は右の方だが、左の方に曲がると、確か、
「メリー?」
左の角を覗きこむと、案の定そこには、見覚えのある建物があった。
以前に訪れたことがある、神沢景子さんの勤めている幼稚園だ。そういえばこの近所だったのか、と思い出して私はひとりで頷いた。あのういちゃんや、陸くんというらしい男の子も、普段はこの幼稚園で神沢さんに世話を焼かれているのかもしれない。
「何か見えたの? 結界の裂け目とか?」
「ううん、別に」
首を振った私に、蓮子は私の視線の先を辿って怪訝そうに首を傾げた。
「幼稚園がどうかした? あ、ひょっとしてメリーが昔通ってたとか?」
「私は幼稚園は行ってないわ」
土曜日ということもあって、ここから見える幼稚園のグラウンドにも子供の影は無かった。子供の歓声の聞こえない幼稚園の建物というのは、どことなく物寂しいものがある。
「そういえばメリーにも、ういちゃんぐらいの可愛い頃があったのよね。その頃の写真とか無いの? 是非見てみたいわ」
「実家に帰ればあるかもしれないけど……というか、今は可愛くないみたいな言い方ね」
私が半眼で睨んでみせると、「いやいやメリー」と蓮子は肩を竦めた。
そして不意に私の手を握ると、身体を引き寄せるようにして顔を近づける。
蓮子の顔がぐっと近付いて、何故だか意味もなく顔が熱くなった。
「同性の私から見ても、メリーは結構いいセンいってるわよ?」
「金髪補正かかってない? 日本人はブロンド好きでしょう」
「私は特にそういう好みは無いけどね。メリーも本ばっかり読んでないで、もう少し自分の見た目に気を配ってもいいと思うけど」
「蓮子には言われたくないわね、それ」
いつも同じような服を着ている蓮子にだけは、ファッションをどうこう言われたくはない。
「あら、似合ってない?」
「そういうわけじゃないけど」
「とりあえずメリーは、そのドアノブカバーみたいな帽子は被らなくてもいいんじゃない?」
「いいのよこれは、お気に入りなんだから」
というか、ドアノブカバーとはひどい言いぐさである。私は帽子を押さえてため息をひとつ。
道端でこんな会話をしていても仕方ない。私は蓮子の手を離すと、地下鉄の方へ踵を返す。早足で歩き出すと、待ってよ、と小走りに蓮子が追いかけてきた。
「でも蓮子の方こそ、小さい頃があんまり想像できないんだけど」
「ん、私?」
「きっと小さい頃から頭でっかちで生意気な子供だったんじゃない?」
「失礼ねえ。聡明と言ってほしいわ」
自分で言っていれば世話無いという話である。私は呆れて首を振った。
「でも懐かしいわね、幼稚園の頃とか――」
そこでふと、蓮子が不自然に言葉を止めた。私が振り返ると、蓮子は帽子を一度脱いで、指に引っかけてくるりと回し――再び被り直すと、不意に笑い出した。
「あはは――なんだ、そういうことね」
手を叩いて笑う蓮子に、私は首を傾げる。何がそんなに可笑しいのか。
「なーるほど、これはまた微笑ましい話だわ」
「……何か解ったの?」
「ん、想像だけどね。幼稚園に行ってないメリーには解りづらいわね、これは」
またか。相変わらずひとりで勝手に納得してしまうのは蓮子の悪い癖だ。こっちは蓮子ほど世界の仕組みが見えてはいないというのに。
「子供っていうのは、ときに思いがけない発想をするもの――そういう話よ」
「さっぱり解らないわ」
「じゃあ、ちょっとメリーのために予定を変更して、花壇にいたずらした犯人を捜しに行きましょうか。――きっと、このすぐ近くにいるはずよ」
蓮子はそう笑うと、くるりと来た道を引き返し始める。私は慌ててその後を追った。
六
蓮子のマンションから歩いて五分ほどのところに、小さな公園があった。
その砂場の傍らには、タンポポが群生している。黄色い花が、灰色の砂場の周りを彩るようにして咲いている様は、どこか明るく楽しげだった。
そして、そのタンポポを摘み取る小さな影が、公園の中にある。
蓮子はその姿を見つけると、静かにその背後に歩み寄った。
「そこな少年、お姉さんがひとついいことを教えてあげよう」
びくりと半ズボンの少年は肩を震わせ、自分を覗きこむ蓮子を睨むように見上げる。
蓮子はあの猫のような笑みを浮かべると、帽子のつばを持ち上げて、指を一本立てた。
少年の手には、摘み取られたタンポポが大切そうに握られている。
「花壇にタンポポを植えても、ね――」
蓮子はその摘まれた黄色い花に目を細めて、苦笑するように肩を竦めた。
「それは、ヒマワリにはならないのよ」
少年は目をまん丸にして、蓮子を見上げた。
蓮子はどこか申し訳なさそうな顔をして、少年の頭を撫でた。
少年――陸くんを連れてマンションの前に戻ると、花壇のところにいた風見さんが意外そうな顔で私たちを出迎えた。
「陸くんに宇佐見さん? どうかしたのかしら?」
「いえいえ、ちょっと花壇のタンポポの件で」
蓮子がそう言って陸くんの背中を押すと、陸くんはもじもじと俯いたまま風見さんの方に歩み寄り、手にしていた摘んだタンポポを差し出した。
「……ヒマワリ、ごめんなさい」
陸くんの言葉に、風見さんは目をしばたたかせる。
「だから、かわりに、ぼくがヒマワリ、うえようとおもって――」
その言葉で、風見さんは蓮子同様に全てを了解したようだった。その顔にふっとまた、柔らかな春の陽射しのような笑みを浮かべると、軍手を外して陸くんの頭を数度撫でる。
「そうだったのね。……ありがとう、陸くん」
恥ずかしそうに俯いた少年に、風見さんは微笑んで、まだ土が敷かれただけの花壇を見やる。
「でも大丈夫よ。今年も、夏になればヒマワリはお日さまを浴びて元気に咲くわ」
陸くんみたいに元気いっぱいにね、と少し悪戯っぽく笑い、風見さんは目を細めた。
「ゆうかさんみたいに、あかるくてきれいに?」
「あら」
風見さんは思いがけない言葉に顔をほころばせ、陸くんは照れくさそうに頬を掻いた。
最近の子供はおませさんねえ、と蓮子が肩を竦め、私は微笑ましい光景に笑みを漏らす。
風見さんの名前は、ゆうか、というのか。――きっと漢字は、《優花》と書くのだろう。
何となく、私はそんなことを思った。
七
「つまり、あの子はタンポポがヒマワリの子供だと思っていた、ということなの?」
「ま、そういうことね」
私の言葉に、蓮子は頷く。なるほど、子供というのは思いがけない発想をするものだ。
確かに、同じ黄色で花の形も似ているけれど、少なくとも私には出てこない発想である。
「花壇に摘んできたタンポポを植えれば、大きくなってヒマワリになると思ってたんでしょうね。微笑ましい話よね」
マンションから再び地下鉄の駅に向かいつつ、蓮子は帽子を回しながら笑った。
「でも、どうしてそんな誤解をしていたのかしら」
私が首を傾げると、蓮子は小さく肩を竦めて答える。
「それも、きっと幼稚園児らしい勘違いなのよ」
「幼稚園児らしい?」
そういえば蓮子は、『幼稚園に行ってないメリーには解りづらいわね』と言っていたが。
「幼稚園のクラス名はね、よく花の名前がつけられるのよ。もも組とか、さくら組とか、すみれ組とかね。私の通ってたところもそうだったわ」
やっぱり蓮子の幼稚園時代というのは想像もつかなかったが、私は頷く。
「それで、クラスの別は花の色で区別するのよ。もも組やさくら組ならピンク、すみれ組は紫。そして、学年ごとに同じ色の花の組み合わせでクラス名がつけられるの」
そこまで聞いて、ようやく私にもなんとなく理解が及んだ。
今の季節は春。あの子はついこの間、学年がひとつ上がったばかりなのだ。
「そう、たとえば幼稚園の年中組に、《たんぽぽ組》があったとしたら」
「――年長組に上がったとき、同じ黄色の組の名前が《ひまわり組》だった」
「正解。ま、確かめてはいないけど、きっとそんなところよ」
蓮子は目深に帽子を被り直すと、ふと足を止めてその場にかがみ込んだ。
道端に、タンポポの黄色い花が揺れている。蓮子はそれを摘み取って、私に差し出した。
「はい、メリー」
「……ありがとう」
思わず受け取って、私はその小さなお日さまのような花を見やる。
「――《別離》のタンポポを渡されるって、私はどう受け取ればいいのかしら」
「そこはもっとメジャーな方の意味に受け取って欲しいんだけど」
「《思わせぶり》? 蓮子はいつも思わせぶりだけど」
「メリーってば、本当につれないわねえ」
肩を竦める蓮子に、私はふっと笑った。
「風見さんにお願いして、あの花壇からマーガレットを一輪貰おうかしら」
「ん? 誰かに贈るの?」
「さあ、ね」
蓮子の渡したタンポポを胸ポケットに差して、私は蓮子の隣に並ぶと、その右手を掴んだ。
少し照れくさそうに帽子を被り直して、蓮子は私の手をきゅっと握り返してくれた。
最後の掛け合いがどっちからどっちへの台詞なのかわかりませんでしたが、それもまた味ですね。
実に和やかで気持ちがよかったです。
オリキャラ苦手な自分にも面白く読めました
小さな異変解決。だがその小ささがいい。微笑ましい。
素晴らしい
「優花さん」かあ。
これから前作読んでくる。
読後感がスッキリでした!
蛇足ですが、「そこな」という言い方は合ってます。もう殆ど使われませんが。
ゆうかりんと慧音とリグルはわかったけど…ういちゃんは誰だーorz
>36
多分メディスンの事だと思います。メディスン→メディシン(薬の英訳のはず)→薬屋だと。
花つながりでゆうかりんとメディが仲いいってのは結構ありますし。
で、やっぱりりぐるんは男の子扱いなのねw
とてもいい話でした。
なるなる
ところとごろあれって感じるけど、それより読み安さが勝った感じ
マジだね。あるね。
作者ゴメン。それ意味通ってます。
ちょっとした推理ものみたいで、蓮子の推理が素敵でした
蓮子カッケー
本当は後10点くらいは追加したいところですが枠が無いので100点。
しかし、100点満点なんて誰が考えたのだろうか……
いいお話だ。
なんだか読み終わった後にほっこりした気持ちと共に気が抜けてしまった。
前回にもあったような軽い謎解きが何ともたまらない。
そしてオリキャラが出るたび元キャラを脳内で探し当てて「あのキャラかー」と思わず2828してしまう。
他の方のコメントみて気づきました…orz
さてこのまま全部見させていただきます!
読後感が半端なくよかったです。
何か幸せな気持ち。