古明地さとりはその実、家族の心を一度として読んだことはない。
百数十年間の時間を共にした中で、一度たりとて自らの能力を身内に向けて使ったことはなかった。
正確には彼女たちが家族になる前、数えるほど彼女らの心を読んだだけだった。
しとしとと雨が降っている。
さとりは薄暗い奥御殿からうつろに外を眺めた。
窓の冊子をなぞると、暗澹な空から零れ落ちた憎悪のひとしずくが指先に付着した。
地霊殿の空に雲はない。
地熱により熱せられた水脈は洞窟内を高くのぼる。広大な霧は集まってやがて雨になり、霧はまた天井に貼りついては落下する。
曇天より尚暗い地獄の空は、水気に混じった悪霊を地中にまんべんなく撒き散らす憂鬱の雨だ。長くあたれば、災厄を被ることになる。
もちろん、さとりが家族の心を読まないのには理由がある。
人妖を問わず数多の心情を読み込んできた覚(さとり)だ。いまさら恥ずかしいわけでも、後ろめたいわけでもない。人間を決して理解し得ない妖怪で唯一、人心と一番近い位置にいられるさとりだからこそ、情を知り、家族を人一倍信頼している。恥ずかしげも無く言ってしまえば、変わり者のさとりは彼女たちを信じている、だから読まなくていい。そういう理由だ。
トン、トン。
襖の向こうから廊下を駆ける音が聞こえてくる。
あの遠慮の無い足音、さては地獄鴉のお空と見て違いないだろう。
「どこですか、さとりさまー! どこにいるんですかー!」
案の定、とさとりは窓から部屋側へ振り返る。
この愛鳥はどうにも道に迷いやすい性質のようで、仕方なく家内で大声を発して探す権利を与えている。
「ここ、ここですよ」
「わっ、すごい。さとり様を呼んだら声がした」
あっけらかんとした声がした。どうやら丁度よく、襖を一枚隔てた廊下にお空はいるらしい。
「それは私が答えたせいですよ」
「え、どこ、どこですか」
「ここです。あなたの後ろ」
座敷に腰を落ち着けたまま、少し多きめの声を出してやる。
「開いてるから、入ってきていいわよ」
「あれ、ほんとにあいてるんですか?」
「ええ。鍵も突っかえ棒もしてないわ」
「さとりさまがそう言うんなら…」
何を迷っているのか。いぶかしむ間もなく目の前の襖がガタついた。
「あいたっ」
さとりはゆっくりとうなづいた。
鳥頭といえば少しおつむが弱いので通説だが、そのことをお空に指摘する輩がいれば私は決して許さないだろう。
知性はペットに対する愛情とはまるで関係がないし、もしそうだとしても、いや、そうだからこそ、私はきっと同じ親愛をもってお空に接するのだろう。
さて、ところでお空はおつむが少々弱い。
私の「開いている」という言葉をそのまま信じたお空は、ふすまに頭をぶつけた。
目前の壁がガタガタ揺れ動く。
「あれ、おかしいな。力が足んないのかな…開いてるはずなのに…」
「待ちなさいお空、あなたは一つ勘違いをしています」
「しょっと…それ!」
襖が外れて、天からお空が降ってきた。
天から空か、初めて見る天気かもしれない。天は大げさにしても、落ちてくる襖とお空を避けることは、少なくとも私には不可能だ。
「ふぎゃっ」
「うみぁ!」
──
「雨ですねー」
「雨ねー」
暗い空洞に、どこまでも小雨が降り続いている。
旧地獄街を越えて、川の裾野のまでがさとりには見えた。
木の葉に乗って水浴びするカエル。枝にとまって周りを見渡す、夢うつつの梟。濡れた地に潜るミミズ。
浮遊霊に、道端で立ち往生の妖怪たち。そういった者たちの思念が伝わってきて、混じり合い、色のついた光景が頭の中にできあがる。
どこもかしこも、しとしと、しとしと。
穏やかな音が長々つづく、静かな日だった。
目がいいお空にもきっと見えているだろう。
錠がかかっていないのを「開いている」と表現することをたっぷりお空に教えた私は、緑にくすんだ地霊殿の景色を、二人して一緒に眺める。
高い湿気が世界にかかって、遠方は水の中にあるように、わずかに歪んで感じた。
「…ん」
お空のほっぺに、雨粒がひとつ落っこちた。
「大丈夫?」
服の裾で、お空の頬をふいてやる。私は可愛いペットをひざに置き……ではなく、長身の彼女が組んだあぐらの中にもぐりこみ、何をするでもなく外に目を向けた。彼女のふとももの内側、開いた隙間の空間に私の小さなお尻を置き、ちょうど私は背中をお空の胸に預ける格好になった。彼女の柔らかな体と、ゴムのような感触をした胸元の瞳に支えられて、さとりは少々ぼんやりとした気持ちになる。
「雨ね…」
「雨ですねー…」
「そういえば、何か用だったの?」
「あっ、そうでした」
スカートのポケットをガサガサやって、お空は小さな白い欠片を取り出した。その動きに合わせて、さとりの体も揺れ動く。
さとりはまた、宝物かな、と思った。お空はきらきら光る物を拾ってくる癖があるのだ。
自分のガラクタ箱にそれらを突っ込んで、大切にしまっている。
「ああ…これは卵の殻ですか」
「はい!」
「ということは…そうね。あなたを拾ったのもこんな雨の日でしたね、懐かしい」
「はい。たぶん」
よく考えれば、ほんの小鳥だったお空がはっきり憶えているわけはない。元気な返事の後、不可解そうに語尾をつけたしたお空の顔を、さとりは振り返って見つめた。今やすっかり私より大きい。
こんな雨の日は、ぼんやりと瞼が自然に下がってきてしまう。霧の向こうに色彩を失った景色を見据え、空ろに、何も注意せずただ外を見るのだ。別に眠いわけではない。半開きの瞳から現実から入ってくる情報が少なくて、次第に内在する思考の世界に沈んでいく。雨の日はそうして、過去の思い出がじんわり頭に染み込んでいく。
「お空、昔話聞きたいですか?」
なにげなく、ぽつりとさとりは呟いた。
「なんですか、それ」
「お空を拾ってきた時の話よ」
「わっ…聞きたいです!」
さとりは微笑んで、返事を受け取る。
長い時間をこの子と共にしてきて、詳しくするのは初めての話だということに、さとり自身少し驚いた。これほど喜び勇んで聞いてくれるなら、言葉にするのもいくらか楽しみというものだ。
ただ、あまり愉快なお話ではないけど、と前置きをしてから、雨音に心安らぎながら、さとりは静かに当時に思いをはせてみることにした。
────
鬱陶しい雨を払ってさとりは歩を進めた。一足ごとに泥水が撥ねて靴を汚す。
ひたすらに不快だ。
昔日のさとりは荒んでいた。
路傍と言わずそこかしこ、浅い氾濫を街路中に撒き散らす雨が足のぬかるみを一層深くし、ここ数日降り続く小雨の影響はちょうど今が最も人の苛立ちを高めていた。
この不機嫌も、すぐ前に一匹の妖怪を処理したことに由来する。
さとりは歩きながら、うんざりして悪態をついた。
妖怪は地霊殿のさとりを物珍しがる。最初はさとりもここまでの妖怪嫌いではなかった。自己の擁護をするつもりはないが、長い間、興味本位で自分を見つけ、「ほう、あれが覚妖怪か」と勝手に評価をつけられていれば誰だって疎ましく思おう。本当に心を読んでいるのかと疑い、最後は大抵自分の小さな体を侮るか、こちらを恐れて去っていく。さとりはそれがたまらなく嫌いだった。そしていつの間にやら、地下に閉じ込められる始末。
そんなひねた環境に居るものだから、用あれば裏路地をうつむきがちに歩き、自分のことを少しでも考えるやつがいれば睨み付ける。そんな生活を何十年と続けている内にさとりはすっかり嫌悪の対象となっていた。
誰から、と言うわけではない。同じ地中の全てからだ。
そしてそれは、覚妖怪の典型的な生き方でもある。
だが生憎さとりは強かった。人間と違い精神的にもろい妖怪の心をくじき倒すなど容易であった。
「…バカなやつ」
顔に恐怖が張り付いたままの狼の頭をける。首がだらんと横を向いて、牙の隙間から赤い舌が投げ出された。
「いいえ、意外とかわいいやつだったわね」
猫に襲われたのがトラウマだったなんて。
この妖獣、さとりが肉体で対抗しようとすれば、たとえ何人いようとも食い荒らされてしまう。自分よりはるかに屈強な身体を持つ生物を、いとも簡単に処分した事実にさとりは暗い悦びを感じた。
その上、さとりは死体が好きだ。腐肉食らいではない。単純に、死体は余計なことを考えない。そこを気に入っている。
だからさとりは、死体には好意的だった。
さとりは貧弱だ。当時の地霊殿は、地獄としての盛況の熱を未だ少なからず帯びており、数多くの妖怪が集まっていた。その中では妖怪はほんのわずかな理由で妖怪を殺した。辻での斬った張ったなど日常である。「悪評が立っているから、ためしに殺し見るか」。集まってくだを巻いていた中で、こいつは実行に移すほど頭が悪かった。それだけのことだ。
あんなヤツ、不意打ちしてしまえば簡単だと、身を潜めて待ち構える。そして私を捕らえ、三の目を潰したら、体をどうしてやろうかと舌をなめずる。その声を、大きく洩らしているとも知らずに。
恐怖に逃げ惑う狼を見ても、あまりどうという感情は沸いて来なかった。その恐怖は心の奥底から生まれてくる。逃げ場などない。立ち向かうしかないのだ。
さもなくば恐怖の袋小路で、神経を焼ききって死ぬしかない。その点さとりはトラウマを越えてくる人間を買っている。肉体が弱い種族しか持ち得ない心だろう。
さとりは、こいつの頭の中で展開された、さとりの数分後の未来の姿を思い出して、もう一度動かない体に蹴りをくれた。そしてまた、雨の中を歩き出す。ああ行くか。何を考えているか分からない妹のいる我が家へと。
足が進まないのも自然だろう。心が読めるのも不快だったが、読めないのも不快だった。
全身が濡れきったころに、やっとさとりは地霊殿への道半ばまで達したところだった。
ふと、声が聞こえてくる。耳孔を叩く音の振動ではなく、頭の中に直接響く声だった。あまりに強い思念だったので、さては誰かが死ぬのかと思ったが、どうやらそれとは少し感じが違う。この距離では聞こえづらいが、音の洩れ出ずるは、骸に根を張る枯れ木の森である。
さとりは少し迷ったが、結局心を読むべく行くことにした。どうせ家には帰りたくない。
しけた光景だ。どこまで行っても変わらない。踏み砕いてならせる軽快な枝の音はまるで心を慰めない。生えてくるのが枯れ木なので、森とはいえ雨など防いでくれるわけが無い。地面が見えない程度に積もった枝の下にあるのは、やはり骸で、さとりが一歩進むと、時々異質な音がした。
声を発する何かに近づいていくと、ようやく正体が掴めてきた。いまだ判然としない思考だが、もうずっと一つのことを繰り返し考えている。
さとりは立ち並ぶ木々を縫って歩き、どうにか視界を広くする。ようやくそれが見える位置で様子を伺った。
「あっ……いない。そうか」
最も思考の色を強く感じる場所、木の又に駆け寄ると、さとりはしゃがみこんで枝を掴み、後ろに投げる。地面を掘る要領で、3,4個取り除くと、小さな鳥が姿を現す。
色は黒くて艶があり、まだ生え揃ってない毛の隙間から真っ黒な瞳が覗いている。
『おなかすいた』
読んだ思考が頭に反響する。しばらく見つめたあと、さとりは小鳥を手にとって見た。いかにも弱っていて危険はなさそうだったのだが、実際驚くほど抵抗は無かった。そしてひどく軽く、まるで手の平にいるのにさとりの事にすら気付いていない風だった。
なんてことはない、どこにでもいる地獄鴉の子であった。
地獄鴉とはその名の表す通り、この地獄の都に住む漁り屋の鳥である。それは三つ目だとか三本羽だといわれているが、個体によって少々違いが見られる。だが不要物を一通り荒らしてから、必要なものだけを片付けていくという迷惑な性分をもったこの魑魅魍魎に、暦とした分類を与える殊勝な妖怪なぞいなかった。私たちの中では地獄鴉も鼠も変わらないのである。火の中に住まうらしい体に熱の名残はないようだ。
地獄鴉の親が子を捨てる習慣があるとは聞いたことがない。あるいは単に巣から風に飛ばされて、樹上から吹き飛んだのだろう。
「この子、もう駄目ね」
さとりは告げた。
「運が悪かったのね」
やせ細っているし、この幼さでは自分で餌を取ることなどできない。この辺りに捕食者が居ないのは幸いだったが、それもいたずらに死を遠ざけ、苦しみを引き伸ばすだけだ。なにより、助けてくれるような心優しい妖怪は、この辺りにはいなかった。
『おなかすいた』
「当たり前よ。あなたはこれからそれが理由で死ぬんだもの」
すっと拳大に収まった小鳥に語りかけてみる。相変わらず小さな羽毛は微動だにしない。短いくちばしを指の先端で叩いてみると、コツコツ軽い音が鳴った。だがさっきからやはり考えているのは一つのことで、腹が立つくらい私には構ってくれない。
『おなかすいた』
いい加減すこし鬱陶しい。覚は性格には、相手の、心を感じているのではなくて、文章を追うようにただ読んでいるだけだ。いくら悲痛な叫びだって痛くも痒くも無いが、こうも繰り返されたんじゃうんざりする。常に同じ感情が頭を素通りしていく。ここまで純粋な思念に会うのは初めてかもしれない。
それならいっそ。
さとりは細すぎる首に手をかけた。風に体温を奪われて、より一層冷たくなった小鳥の体。
どうせここにいたって苦痛が積もるだけ。今夜だって越えられない。指先に力を込めるだけで、私は全てを終わらせてあげられる。この子にはきっとそれが良い。
頭をよぎる尊大な慈悲とは裏腹に、口元はわずかに嗜虐の笑みを浮かべている。関心は早くも小鳥の思考ではなく、小鳥が首から出すはずの小気味良い音に移っていた。
そして、少し時間が経った。
「やめた。そこまでしてやる理由ないし、勝手に死ぬわ」
さとりは首に絡めた指を解く。小鳥の大きな瞳は遠くを見続けている。手のひらにそれを収めなおすと、地面のくぼみにゆっくりと下ろしてやる。雨風避けに枯れ木を何本か、体に当たらないように重ねたところで気付く。
何を馬鹿なことを。時間を引き延ばすだけだ。
さとりは立ち上がった。無駄な時間を過ごした。体が冷えてしまった。後ろを向いて、パキパキ音を鳴らしながら、骸の枯れ木の森林を再び歩き出す。
弱いのが、特に運が悪いのがいけない。明日にはあれはこの森の一部になっているだろうし、ここには、飛ぶ前に地に落ちた不幸な小鳥が一匹いただけだ。さとりは足早に立ち去ると、木々に埋もれて見えなくなる前に、小鳥の短な羽毛の感触を思い出し、最後に一度だけ先の場所を振り返った。
地底の妖怪は例外なく目がよい。もしくは視界を得るために何らかの能力を応用させている。
暗い地霊殿が見えてきた。今日は思った以上に歩いた。帰路への足をせかしながら、さとりはなんとなく来た道を見る。いまだ雨は降り続いており、遠方は霧に姿をかすませながら、地獄街の明かりを反射させている。
地霊殿の近くまで来ると、野次馬の妖怪の数は逆に減る。なぜなら、この辺りはさとりの能力が及ぶ範囲だからだ。どんな心の越えも聞くことができる上に、自室から直接"脅す"行為を試す内に、寄り付く者は消えうせた。
怖がるなら最初から近寄らなければ良い。誰も彼も余計なことを考えすぎだ。
侮って、怯えて、忌み嫌って。どれもこれも、私に構おうとしなければ、なかったはず。
さとりは小石につまずいた。
慌てて体勢を立て直すものの、決して胸を打って転ばぬようについた手の皮が擦りむける。手のひらに何本か、赤い筋が走った。冷たくなった手足は言うことを利き辛い。
砂を払ってさとりは立ち上がった。
「いつつ……」
ひざに砂利が噛み付いている。痛い。
足の痺れに顔をゆがめると、なんだか言い様の無い、情けない気持ちになってきた。
本当に、このざまだ。自分は、他人の視界が、思念がないと道すらよく見えない。
長くあたりすぎた雨で、体は寒さに震え、歯の根がかみ合わない。冷えすぎた体が、心まで冷やしたか。
とかくいきなり、この頃はひどい物寂しさがさとりを襲うようになった。若いころは簡単逆らうことができたその感情は、今は身に染みて来るようになった。
十年に一度だった自責は、一年、半年、近頃では月に一度と頻度を高めている。
自分から追い払っておいて、彼らが居ないと何もできないんだ。
覚妖怪は心の間の潜む者。一人で生きられるようにはできていないんだ。
「くそ…」
それがなんとも嫌でたまらず、また周りを延々と排斥し続ける。自分は孤独に強いと。
その結果がこれだ。結局は自分を自分を傷つける。
だってそうじゃないか。本当は分かってるんだ、こんなこと。自分を好きになれないやつが、どうやって人を好きになれるんだ。でも、どうすればいいのか、全然理解できない。
「早く帰ろう…」
さとりは一人、つぶやく。
悔しさだけが心を占めて、口元をきつく引き結ぶ。
我が家に近づけば近づくほど視界は悪くなり、玄関の門にたどり着いたとき残されたのは頼りないさとりの眼球の力だけだった。地霊殿では、自室で常に発していた害なす思念に、小動物の姿すらない。
さとりは地に俯いた。私の奥に行けば行くほど…。
この状況が、今の自分の全てを現しているようでやりきれない。ぐっと拳を握り、卑屈者が作る半円の、ジト目の目つきで前を見た。外灯がかすかに足元を照らす。
それでも我が家だ。入ろう。
門をくぐろうと、取っ手に手をかける。
仰々しく造り置かれた、重厚な扉。妹とただ二人が住むには、この屋敷は随分広い。
『おなかすいた』
洞窟の遠い空の下。まだあそこに残っていたとしたら、すでに命はないであろう鳥を思う。
私には関係ない。どうでもいい。
その言い訳がさとりの心を満たしてくれることはなかった。あんな小さな生き物の心すら、深くかかわるのが怖かった。
さとりはつらくなって、またも視線を落とす。
表面上の、弱いものは死ぬなんて現実を盾に、私はずっと逃げ続けてきた。もし助けても、それでも覚妖怪を気味が悪いと思われたら、どうすればいいんだ。善意で接した相手に、自分を否定されたら、もうどうすることもできない。
「なによ…いいわよ、もう。いつものこと」
何十度目かになる、幼稚な自問自答に逃げ口上。さとりは一人悲しくなった。瞼が震えて、それでも涙は出なかった。泣けばもっと情けない気分になる。
他人の心が分かるのに、なぜこうも他人と関わるのが苦手なのか。あるいはやつらの心の汚さのせいと思ったが、さとりは、もう他人を責め続けるには長い年月を生き過ぎた。きっと原因は相手ではなく、自分にある。さもなければ私以外の全ての妖怪は欠陥を抱えていて、各々全て憎みあうことになる。そんな光景はついぞさとりが目にしたことはなかった。
靴を乱暴に脱ぎ捨てて、さとりは玄関にあがる。泥で靴箱が汚れた。
いっそ非道になってやろうか。仲睦まじき妖怪も、なんの関わりもないものたちにも、嫌われ者は嫌われ者らしく、悪意をばら撒いてやる。さとりは今まで積極的に他人をどうこうしたことはない。だが、やろうとすれば容易いだろう。やつらが忌み嫌ってきた覚妖怪が、どんなものか見せ付けてやれば、心は晴れるだろうか。
さとりは自分を嘲笑った。。
なにを馬鹿な。そんな勇気があれば、今までにそうしていたはずだ。自分は目の前で消えていこうとする命すら、救いを持てめる小さな手すら、払いのけんと考えるような臆病者だ。それも、自分が傷つけれたら怖いという理由で。
誰かが守らなければ、骸のたちに降る雨は、あの子の命を確実に地面に染み出して行く。さとりの足では、今さら戻ったところで間に合うまい。
だが考えてみればあの小鳥は拾わないのが正解かもしれない。もし持ち帰ってもあの弱り具合では、すぐに死んでしまうだろう。そうなったら私を恨むはず。どちらにしろ、これまでと同じくすぐ忘れてしまうのが賢明に思えた。
いくつかの考えが、さとりの中で行き交った。
さとりはびしょ濡れのまま板張りの廊下を歩いている。
ひどい汚れすら気にならないくらい、いや、それ以上のひどい気分だった。
さとりは行水もかくやという湿った髪から水滴を荒っぽく飛ばす。そして手をかけて、荒々しく襖を開け開いた。
居間では、自分の妹であるこいしがくつろいでいた。
こちらを見て驚き、こいしはやがて、さとりの散々な有様に嫌悪を示す。
それでもこいしは濡れ鼠となった姉を非難することなく、めざとくさとりの胸元に目をやると、奇妙な顔をしていぶかしんだ。汚れている理由も、それにあったと感づいたのだろう。
「さとり姉さん、それなに?」
「鳥を拾ってきたのよ」
さとりは胸のポケットに手を突っ込んで、真っ黒な物体を取り出した。
「結局、拾ってきたわ」
「鳥……って、その泥の塊みたいなやつ?」
「ええ。弱ってたから」
直接肌に触れさせていたとはいえ、さとり自身体温が高い方ではないので、早く暖めなければならない。
机の上でか細い呼吸を繰り返すそれは、今にも力尽きそうだった。
「もしかして飼うの? いいけど、私の部屋に入れないでよね」
「…分からない。飼うのかしら」
「はぁ、なにそれ?」
結局、助けてしまった。
さとりは最後に小鳥に振り返ったあと、木の又に戻って胸に突っ込んだ。
実に、同情でもなんでもない。さとり自身、なぜこの子を持ち帰ったのかあまり定かではない。ただこの陰鬱な生活が少しでも変わるかもしれない、という淡い期待と、ある種の興味だった。
先ほどから頭に響き続けている空腹の訴え。あまりにも余計なことを考えずに繰り返しているので、もしお腹がいっぱいになったら、次に何を考えるのか気になった。私への感謝だろうか、それとも地底一の嫌われ者に、やっぱり怯えるだろうか。それが知りたくなってしまった。
『おなかすいたおなかすいたおなかすいた』
「ああもう分かったわよ。こいし、ちょっとお湯を沸かしてきて」
「なんでよ。自分でやればいいでしょ」
「分かったわ」
全く目を合わせずこいしの横を通り過ぎて、さとりは足早に台所へ向かう。
思いの他にある素直な反応に、こいしはしばし唖然とした。
「な、なんなのよ!お湯くらいわかせばいいんでしょ!」
「ありがと」
初めから期待されてないと思われていたのが癇に障ったのか、こいしは地に足音を響かせて襖の奥に消えていった。
さとりはその間にタオルを取りに走った。さしあたって小鳥の体を温めてやらねばならない。やることはあり、時間は無駄にできない。
あ、そうだ。
さとりは見えなくなったこいしに大声で呼びかける。
「ねえこいしー!地獄鴉って何食べるか知ってるー?」
「知らないよそんなのー!」
さとりはほっと一息つくと、空ろに虚空を見る机の上の小鳥を見つめる。
そして本格的に過去の記憶を遡り、心を読むべく意識を集中させた。
虫、霊、腐肉? 読んでみるしかないか。
────
「あれから…随分と色々なことがありました。勿論、一本道ではなかった。でも、大切なものもたくさん増えたわ」
当時の感情も含めてざっと、しかしちゃんと伝わるように丁寧に、躓いたところは何度か説明を重ねて、ぬくい太ももの内側でさとりは昔話を締めくくった。
そう、本当に大変なのはそれからの生活だった。
お空の足は妙に収まり心地がよく、つとつとと話をする間、始終さとりは体を預けて安らぐことができた。
未だ小雨は降り止まない。一定のリズムが耳に幸いして、気分は穏やかなものだ。
指先すら満足にぬらせないこの一粒一粒が地にぶつかって流れを作り、地霊を巻き込みながら、やがて広大な地中を底へ底へと潜っていくのだ。
雨音は屋根に落ちて、柱を伝い、静かに畳に染みていく。部屋を包む閑静な空気にうつらと頭が船を漕ぎそうになる。
「ほんと、色々ね…」
こいしとは一番喧嘩した。お互いを無視しあうようなものから、取っ組み合い、果ては疎ましさから心中相手の死を願ったのも一度ではない。そのどれもが今では良い思い出……というわけではないけれど、少なくとも、今はうまくいっている。
お空だって、私は何度殺しかけてしまったことか。身体の小ささから起こる事故だけじゃなく、意思を抱いた上での故意だったこともあった。
夜中に手ひどく泣き叫ばれれば鬱陶しく、腹が減れば際限なく要求する。
わがままで、こっちの事情なんかお構いなしに意思をぶつけてくる。さとりが飼い主ではなく、ふと地底一の嫌われ者に戻る、そんなときは、小鳥を窓から放るくらいはすぐに頭をよぎった。私はなにを、くだらないことをしているのかと。
だが、どんなに手間がかかろうとも、地底一の嫌われ者であるがゆえに、自分を唯一嫌ってないでくれるかもしれないお空を捨てられなかった。
さとりは妖怪を信じた数も、裏切られた数もそれなりになった。やっと前進したと思えば、裏切られて失望し、一歩後退。泣いたり、諦めたり、そんなことを繰り返す。無論のこと、後者の方がずっと多かった。
うしろか。その結果、さとりの背中で、後ろから身体を包んでくれてるお空が、今の自分の全てに繋がっているようで、どうにも愛おしさがこみ上がってきた。
くるっと振り向くと、まさに表情を変貌させつつあるお空の顔があった。
目がおっきくなって、口が「わぁ」なんて具合に徐々に開いていく。
「……お空?」
とはいえ、聞き手にとってあまり気分の良い話ではなかったかもしれない。
生まれの話を詳細まで教えたことは今まで無かった。彼女にはできるだけ、自分の残酷の部分を見せてこなかったこともあるし。
「さとりさまぁー!」
さとりは大声に両耳をふさいだ。
「さとりさま!」
「み、みみもとで叫ばないで」
すぐ隣に、お空の顔がひょっこり飛び出す。耳の痛みに顔をしかめる間もなく、さとりの体が、がったがたゆれた。
「な…なんですか、お空!」
「だいすきです!さとりさま!」
お空は興奮して、あぐらを組んだまま跳ねたり飛んだり、巨大な翼が風を起こして、部屋に羽が舞った。
「落ち着きなさいっ」
当然、その中にいるさとりはたまったものではない。
「わぁー、さとりさま!」
「いきなりなんですか。ど…どうしたのよ」
「だって、だって、さとりさま。わたし拾われたけど」
「だって…なに!」
「さとりさまはわたしのこと助けてくれました!きっとわたし死んでた!」
「これはそんな単純な話じゃ…!」
さとりはお空にしがみ付いた。
ほんとに、そうではない。命の恩人だとか、そんなものではなかった。もし気に食わなければ、さとりはお空をあっさり捨てるつもりだった。今、冷静に当時を振り返ってみても、あれは決して善意から来る行動ではなかったと断言できる。
両腕で、お空の体をぎゅっと抑え付けて、どうにか興奮を落ち着かせてやる。
さすがに調度品は飛ばなかったものの、雨の湿気が篭った部屋の空気が一通り掻き混ざったようだった。
一つ呼吸を落ち着けて、感情を抑えつけ、さとりはお空の好意を否定した。
彼女のこの好きは、さとりには受け取れない。
「お空…そうじゃないのよ。私がしたのは実験だったの。お腹がいっぱいなったら、今度はあなたが何を考えるかって、それだけです。つまらない、感傷じみた疑問にあなたの命を賭けてしまった。あなたがまだ幼いころ…憶えてる? きっと私はあなたを、反応を見て楽しむ玩具のように、好奇の目で見ていたはずなの…」
さとりは伏し目がちになる。
「ごめんなさい……」
なんだか、お空の顔がまともに見れなかった。弁明はたくさん頭に浮かんだが、そのどれを言っても、つまらない言い訳の域を満足に出られない気がした。
こういうとき、心を読まずにいるのは気疲れする。お空はいま、何を。
「私ね…。ひどいやつだったのよ」
過去の粗暴な振る舞いと、痛々しい記憶が薄く蘇る。心に黒いもやが立ち上がって、さとりは無意識にお空の服の裾をクシャッと掴んだ。
「誰でも恨んで。誰でも嫌って。誰でも憎んで…誰でも…」
「さとりさま」
お空はなんだか事情はよく分かってない顔だったが、だけど、さとりが悲しんでいるのだけはすっかり理解して、おだやかな口調で応えた。
「わたしは、おっきい手があったかくて、やさしかったなぁ…だけが、おぼえているだけですよ」
そういって、やさしい笑顔を向けてくれる。
口調はさっぱりこんがらがって、きっと考えるのが苦手な彼女は、自分の言いたいことを素直に言おうとした結果、こうなったのだろう。
その不器用さが、さとりの心をどうしようもなく掴んだ。
おぐう、と濁った声が口の中でこだまする。さとりは不覚にも、少し目元をにじませてしまいそうだった。
普段は抜けているくせに、こういう雰囲気だけはちゃんと感じてくれるんだから、彼女は本当に困る。
「さとりさま…なかないで?」
「泣いて…ないです」
柔和な笑みに、すぐ心配そうな色を混ぜんこんで、お空はさとりを慰めようとした。
今なら、言ってしまってもいいかも。さとりはお空をじっと、間近で見つめる。
子供みたいに輝き続ける瞳から、種々の記憶が思い出された。
楽しかったこと。うれしかったこと。大変だったこと。この子とたくさん体験してきた。
さとりが心を読まないのはお空を信頼しているからだ。日常の、なんでもないときにでも、喧嘩して、どうしようもないときにでも、これだけは我慢してきた。読むことは、相手の心を疑うこと。猜疑はいずれ身内に、良くない結果をもたらすだろう。心を読んで起こる些細ないさかいは、さとりの大嫌いなことだ。読まれる側がどう思うかなんて、もう読み飽きた。くだらない幼稚な理屈だし、誰がわかってくれるわけでもない。だが何百年もの嫌われ者の、小さな意地だった。
その執念のお陰で、さとりはこの小さな喧嘩に、何十年と勝ち続けてきた。自分の能力を抑圧することに、もう苦痛は感じない。家族の思念の色を感じると、自然と受け流すことができるようになっていた。
柔らかなお空の視線を受けて、さとりはその事をたまらなく伝えたくなった。
微笑んでくれる彼女の信頼にさとりは応えたくなった。自分も、こんなにあなたのことを思って、ずっとずっと長い間、我慢し続けてきたことがある。それを言いたい。あなたの優しさに報いるため、覚らない覚の妖怪がいる、そんなことを知って欲しい。
今まで言わなかったのは、口に出すとそれが嘘になってしまうような気がしたからだ。だからどんな時だって頑張ってきた。むしろ、わざと皆の心を読んでいる風に振舞うときだって多くあった。
「あ、あのね…お空。私、ずっと…知って欲しかったことがあって……」
「…はい」
家族相手だろうと、秘密を打ち明けるのはひどく緊張する。
鼓動が高鳴った。初めてのペットに、初めての告白。
真正面からお空を見据えるのを避けるため、下から顔をねめつけた。走ったわけでもないのに、動悸が激しく、息が荒くなる。
「い…言いますよ。いま言いますからね」
「さとりさま?」
「ほんと、言うわよ……」
どんな風に思われるだろうか。喜んでくれるだろうか。それとも褒めてくれるだろうか。なんでそんなことを、と奇妙に思うだろうか。なにより本当に、これは言ってしまってもいいことなんだろうか。そんなことが頭をぐるぐると回って、ぴたりくっついたお空に体を預けたまま、硬直してしまった。
「……っ」
行け。行け私。
「私は…お空、ずっとあなたの心を…」
読んで。
「……」
沈黙の先は、小雨がつむいだ。
外からの風が入ったが、上気した頬を冷ますには至らない。
雨がぽつぽつ屋根を叩く。天井から聞こえる音に、ああ、地霊殿は雨漏りして大変な目にあったことがあったなと、関係の無い回想にさとりは逃げ込んだ。あと一歩が踏み込めず、喉がただ乾く。
しばしの沈黙を経ても、出てくるのは奇妙な私のうめき声だけ。
「よっ……読んで…。よ…よん…」
「さとりさま」
「は、はい?」
ふとお空が、不審そうにこちらを見つめていた瞳が、妙にわんぱくで、それでいて心得たような色を帯びる。お空は自分の胸をぽんと拳で打った。
疑問をすっきり解決した、腑に落ちる、と言うべきか。まかせなさいという顔。とにかく自信に満ちていることは、長年の連れ添いなので分かる。
もしかして以心伝心。すでに私の言いたいことが。
何が彼女にそうさせてるのか分からないが、うんうんっと頷き、さとりに語りかけた。
「大丈夫ですよ。わたしぜったい怒りませんよ」
「…え?」
腕を差し出して、安心させるように、お空のおっきな手が私の小さな手を包んだ。
「さとりさま大好きだから怖くないです。だいじょうぶですよ」
「あ…」
自分を安心させようとしてくれてるらしい、おどけた態度に、さとりは得心した。
どうやらさとりがさっきから泣きそうになったり、震えて小さくなったりしていたお陰で、また何かいけないことを告白すると思われていたらしい。悪事を自白する子供をあやすように、お空は柔和な態度でさとりに促していた。
「手を握ってると安心するから…だから、ゆっくりがいいし、んとっ……嫌だったら言わなくていんですよ」
「うっ…違くて」
「むりしないで。さとりさま」
なんとも的外れな心遣いにさとりは言葉を詰まらせた。関係ない案件だ。別にやましいことを言おうとした訳じゃない。
怒られるのを、私が怯えているのかと心配してくれて。嬉しい。嬉しいんだけど、ずれていた。
さとり妖怪は話が早い。なにしろ相手が言いたいことを思ったときにはそれをもう知っているのだ。
このもどかしさは表現し難い。
「全然…違います。お空ったら…私、言いづらかったのはね。怒るとかそういうのではなくて…」
「はい、ぜったい怒りません」
「そうじゃなくって…ああもうっ」
「さとりさま、なんだかかわいらしい…」
大丈夫を連呼するお空に、さとりは頭を抱えた。
そして生来から得意のジト目でお空を見上げて言う。この子は悪くないんだが、ちょっぴり切り返した。
「じっ…実は、私があなたの楽しみにしていた地獄ミミズ食べちゃいました」
「それはさすがに嘘だってわかりますよ、さとりさま」
子供のような扱いをされたことも多少不満で、さとりは器用に、拗ねながらお空を攻撃した。
ペットのくせになまいきな子だ。軽く小突く。
秘密を口にする機を失ったせいで、緊張が解けていた。
「でもありがとう。…嬉しいわ」
「…うゅ?」
やはりというべきか、お空はよく分からない顔をした。
いけないな。私はどうも独りよがりで会話をする傾向がある。
誤解した会話の縁を、さとりはあえて拾わないことを選択した。
この、すこしずれているけど、それでも確かな優しさに私は何度心を慰められたことか。たとえば辛いとき、なんだか心配そうなお空を見ていると、こっちがしっかりしなくては、という気になってくるのだ。大丈夫だって笑ってあげないと、いつまでもこの子は不安な顔をするのだ。この歳になっても、私が泣けば、なんだか悲しくなって、つられて泣いてしまう、そんな子なんだ。その心を大事にしたい。
さとりはすぐ前にある、黒くて艶々の頭を撫でてやった。
「……? さとりさま、なんだか今日はとっても変です」
「あ……ひどい。でもそうね」
ごめんなさい。お空からしたら本当にそうかも。
さとりはちっちゃく自分を笑った。
「さっきから、とても落ち着きなんてなかったし。思い出してしんみりして、拗ねて、縮こまって。訳が分からないはずですね…」
何も思惑が無いお空の前でこそ、地霊殿の主は感情豊かに振舞うことができた。それは良いのだが、肝心の本人を困惑させたのでは仕様が無い。
さとり妖怪は人の心を読めるから、無意識にすこし、自分の心も相手に伝わると思っている節があるのかもしれない。
さとりは軽く息をつく。
やはり、打ち明けずによかったと思った。
余計な心労は負わせるべきではない。さとりがお空と一緒にいるのに、能力を封じていることを知ればきっと気を使わせてしまう。なにより、これはさとりの誇りの問題でもあった。短くない忌み嫌われた生涯で、猜疑心に彩られた道程でさとりは確かに今の家族を得た。心の真芯から信じられる者を得た。この事はさとりの多くを支え続けている。その信実を濁らせたくは無い。
「心が読めるのは…自分で言うのも難ですね。でも、大変なことなんですよ…。それで私どうしたらいいかって悩んで、すこし心が不安定になった…それだけです」
「わたしが昔のお話…お願いしたからですか?」
「いいえ、そんなことない。逆に、お空のおかげで元気が出ちゃった」
その言葉で、お空の顔から不安が落ちた。
「わっ、ほんとですか?」
「もちろん。んしょっ…と」
さとりは上半身を起こして、固まってしまった収まりの悪い足を整え直した。
多少の痺れをほぐすと、間接に甘い痺れの余韻が残る。
あとは四方山話にふけつつも、時が過ぎるに身を任せるのが良いように思えた。
────
心地よい無言の篭った室内を、湿った風を舞う。
ようやく止んだ水気の怨霊たちのおかげで、明日は植物の成長がたいそう速くなる。
ふむ、とさとりは誰か遠くの思考を覗き見た。どうやら此度の長雨は、川の氾濫にまで至らなかったようだ。幸いである。
近頃、様変わりも極めた地上と交流があったせいで、今さらになって自分たちの在り方を見つめ直そうという感情がさとりに起こったのかもしれない。
さとりは、お空のあぐらの内側で小難しく考えていた。これまでのこと、これからのこと。
思案顔でうなるピンク色の髪を、お空が軽くいじりだした。柔らかいそれを、壊れ物でも扱うかのように、なぜたりつまんだり。時間にしてそうもなかったが、何も喋らずに退屈なのだろうか。口がぽかんと開いていて、かなり集中しているようだ。ただなにやら不思議と、お空から感じられる思考の色が冷めている。読まないが、雰囲気で簡単な気分の抑揚くらいは分かる、これは誰だってそうだろう。
さとりはすっかり、余裕ある地霊殿の主としての調子を取り戻していた。
さとりがぽふっと背中を預ければ、大きく健やかになったお空がより強く感じられる。
いつの間にか、可愛らしい小鳥と昔の立場は逆になってしまった。こうすると、お空は後ろから抱いてくれるのだ。
こんな雨の日は、昔を思い出していけない。
地熱の消え行く夕凪の空、相変わらず薄ぼんやりと二人で見つめ、浮かんでくる過去の情景を横切って、呟いたのはどちらからだったろうか。それが分からないほど、自然に出た小さな声は、この奥御殿にちょこんと遠慮がちに佇んだ。
この時間、何も考えていなかったわけではないらしい。お空はほんのわずかに声を出した。
「なんで、さとりさま…さっきは悲しくなっちゃったんですか」
居辛そうに、お空に似合わず、自信のない声だ。
放っておけば勝手に消えていくような、小さな言葉にさとりは応えた。
「なんでもないことですよ。長く生きてると時々…」
「なんでもなくないです」
珍しく、さとりの意思を遮るようにして、お空が自分の言葉を表した。さとりは不思議に思った。基本的にこの子は、自分の意思を尊重する。
次第に、身体を抱いてくれる両腕が震えを帯びた。続けて出たのは弱弱しい声色だった。
「やっぱり気になって…。わたし頭が悪いから…バカだから、お燐だってみんなだってバカバカ言うし…。だから、さとりさまがなんで悲しいのか…全然分かんないし…」
愚痴めいた内容だが、その実、決して誰も責めてはいない。ただ自分がいけなくて、でも何がいけないのか分からない。
お空はただ悲しくなっていた。
「さとりさま…元気出たって言ったけど…。そんなの、わたしだけ分かんないの…いやですよ…ぅ…」
それは普段から悩んでいたことなのか、はっとなってさとりは振り返る。見れば、悔しそうに目元を滲ませて、下に俯いたお空があった。
まずかった。泣かせてしまった。
多くは語るまいとしたことが、不安を煽ってしまったようだ。だが、説明できるわけはない。あの荒んだ時期のさとりも、先の悲しさも、誰が悪いわけではないのだ。過去の話自体、お空を悲しませようとしてしたはずもない。
「頭いいのがさとりさまで、わたし……こと、みんな分かってくれて。でっ…でもわたし…さとりさまの考えてること、一回もちゃんとわかったことなくて…。わたしのせいで、さとりさま悲しくなったら…やです…。いやですよ…」
つまりながらもお空は、言葉を紡いだ。
そも、今、お空が唇を噛み締めている理由も、私が焦って彼女に言えなかった秘密にしても、二人の間で微妙に食い違っている気がする。家族の心を読んでいないと告白しなかったのは、さとりの誇りを守るためだ。しかしお空は、私がなんらかの罪悪感で大事なことを言えなかったと思っており、一連の出来事と結びつけている。辛い記憶を私が一人で抱えていると思っているだろう。恐らく、さとりがどれほどお空に感謝しているかも伝わっていない。
はがゆい。さとりは思った。
もし心が読めれば、一度に理解できるものを。
だが、思い直す。本当はそうじゃない。心なんて読まなくていい。
「あなたのせいなんかじゃないわ」
秘密を守ったままに、お空を泣き止ませるため、この子の悩みを取り去るため、伝えるべきことはなんだろう。
だから、さとりはできるだけ穏やかな声で語りかける。
「雨の日は、傷が染みるものです。…たとえそれが心に負ったものでも、同じように。それに悲しくったって、それを心配してくれるあなたがいるから、私はとっても幸せなのよ」
こんなもの、なんでもないとさとりは少し無理してわらった。
「ねっ、お空。聞いて。この様な誤解はあるものです。私が特別賢いのでも、あなたが特別悪いのでもないの。よくあることなの。だから、そんな自分を傷つけること言わないで。あんまり、泣かないで? ただ少しの勘違いなの」
「……っぐ、…うい…?」
「意識の差で起こったりする、日常的なすれ違い、思い込み。でもそれは、なんでもないことだって最近分かったわ。心が読み取れると細かいところが逆に気になってしまうの。そのせいで、伝わらない気持ちに、苛立ったこともたくさんありました。でも別に、気にすることないのよ…そんなこと」
「ほら…また、分かんないです。わたしバカだから」
お空は鼻をすすって、また自分を悪く言う。そして湿った顔をそのままに、自分の洋服の襟に、ゴシゴシ左右にこすりつけた。
さとりはポケットを確認した。ハンカチはない。崩れていくお空の表情を無作為に見送った。
覚をやっているとよく分かる。自分は、他人は、実に簡単に他の者を嫌う。
原因なんて無数にあり、それこそなんでもない嫌味や罵倒でひどく傷つき、人を憎む。機嫌が悪い日であるだけで、他人を疎ましく思う理由になるだろう。起こる種々の感情、その中で誰かに怒ったり、悲しんだり、そんなのはひどく普通のことなのだ。口に出さないだけで、とりとめなんかありはしない。
死を望んでいた人物が、明日にはこの世の誰より大切になっていることだってあるだろうし、またその逆もしかりだ。
その逐一が拾えてしまうさとりは、他人の反応に、過敏になったりあえて跳ね除けたり、随分と人の心に振り回されたものだった。
そんなさとりだからこそ思う。
一時的な感情で好きや嫌いになったり、そんなことは重要じゃない。
最後の最後、ほんとにもう最後の一線で、誰の味方になってくれるか。誰を選んでくれるか、誰を大事に思ってくれるか。
結局誰かが、自分にとって必要か、別れられないのか、そんなことだけをさとりは信頼している。
これは信念といっていい。この誰にもまして重要な心の位置に、さとりを座らせてくれる者だけを、さとりはペットとして拾っている。この素養があるか、さとりは心を深く読み、その判断に適ったものをさとりは信じぬく。家族として扱う前に、一度だけ最初で最後に心を読むのだ。
さとりはお空に向き直って、今度こそ説明すべく、気を入れる。
ただ格好良くは飾ってはみたものの、それでも何匹かには裏切られている。そんな悲しいときもあった。
その度に泣きを見たが、心の専門家の妖怪である自分が、一番と思った生き方をやめる気は起きなかった。
さて子供を説得するなら、理屈ではなく感情だ。お空はそんな歳ではないが、程度は似ているし。
これは彼女に失礼かもしれないが、それでも、未だにさとりにはお空はちいさな、自分の子供の様なものだった。
もっと簡潔に、もっと理解しやすくさとりは切り出した。
「ね…お空、私のこと…好き?」
お空は愕然とした顔をした。
「わたしが、さとりさま…こと、嫌いだと…思ってらしたんです…か?」
「お空は私のこと、いつでも、どんなときでも好きですか」
「…………はい」
顔が苦痛に歪み、滲んだ涙が、ついにこぼれそうなほど膨らんだ。
それをさとりは無視する。
「じゃあお空。ときどき、たとえば失敗して私に怒られたりしたとき、私を嫌いになっちゃったりしません?」
「ぜったいにしません!」
息巻いてお空は真っ向から否定する。
「ほんとに時々よ?」
「ないです!」
「ほんとう?」
「ほんとです」
「ほんとに、ちょっとでも…ないの?」
「ほんとの、ほんとです」
お空が、私のことを嫌ってほしいとか、そういう風に誘導しているわけじゃない。
私は背中をちっちゃく丸めて、じっとお空の瞳を覗き込む。顔を見合わせれば、私がそんなことを言いたいんじゃないってことは、彼女には分かるはずだ。
「ほんとのほんとの………ほんと?」
「…ほんの、ちょっとだけ…」
罰が悪そうに、またもお空は顔を下に向ける。
大好きなご主人様に嘘をつける?
そうやって私は、少しだけ卑怯に詰め寄った。
「ほら見なさい」
「……ごめんなさい」
覚り妖怪には、隠し事など通用しないのだ。
居住まいを正し、お空の正面にちょこんと正座でさとりは座り込んだ。
この愛鳥に教えてやらねばなるまい。私とあなたの何たるかを。
さとりは至近でお空に語りかける。お空はひるんだ。
「時には知らずに人を傷つけることもあります。この前の異変憶えてる…? あれだけ色んな人に迷惑をかけて、怒られた。忘れるわけないですね」
「…はい」
「私を困らせてやろうとしてやったことじゃなかった。だけど私は巫女にひどい目に合わせられました」
口調は強め、身の丈ではかなり上回るお空が、小さなさとりの一言一言に怯えていた。
お説教のときみたいにお空は、緊張で震えながら、真剣に言葉を聞く。
「その前だって、もう二度と私を悲しくしないって大泣きしたのに」
「はい、私がバカだから…」
「そう、あなたが馬鹿だから」
「……」
「お空はいっつも失敗ばかりよ」
「わたっ…わだし…ぃ」
「……でもだからって、私はあなたを捨てましたか?」
馬鹿と言った瞬間、お空の顔がひどく歪んだ。
くちはむずむずと這ったミミズのようで、今にも泣きそう、というより、もうぽたぽた涙が畳に落ちている。
「気遣いも勘違いは多いし、いつだって一生懸命。私のためにだって言って、失敗ばかりよ」
意地悪しようとは思わない。さとりの言葉でお空が一層悲しむと、内心では結構焦っている自分を感じる。
さとりは泣きっ面で困惑するお空の頭にそっと手を近づける。
しかしはたかれるのものと思い、お空は、堅く目を閉じてしまう。
「たとえちょっと嫌いになったり、怒っちゃうときだって、お空は家から本気で出ていきたいって思ったことある?」
その涙を、指先で優しくぬぐい、さとりはお空の頭をなでてやった。
やわらかな感触に目を開ける。言葉の意味を少しずつ理解すると、お空はゆっくり首を横に振った。
「結局ずっと一緒にいたいって思ってるのは同じよ。ね、そうよね」
「……んっ」
さとりは調子をやわらげて、続けた。
「頭が悪いとか、そうじゃないとか、どうだっていいのよ。私だって、すっごい捻くれ者だったんだから。たくさん失敗して、意識せずに私を傷つけて、もっとひどく、間違った生き方をしてしまう時だって誰でもある。でも大事なものが変わらないなら、全部全部、なんでもないのよ」
お空は鼻をすする。
「あなたがどんなに頭が弱いって馬鹿にされたって、あなたが私のこと大好きなら、私があなたのこと好きに決まってるでしょう」
「……うぇ…っ」
「これだけ大事なあなたを、家族から見捨ててたまるものですか」
もっと崩れた表情のお空の、その頭をまた数回、優しくさとりはなでてあげる。
「あなたはあなたのままでいいのよ」
お空の頬を落ちる雫は同じはずだが、涙の熱さはまったく違った。悲しみの縁から、一気に引き上げられ、見る間にお空の表情が変わっていく。
変わる前も変わったあとも、泣き顔ではあったのだが。
今度こそお空は感情を抑えきれず、声をあげながらさとりに突進した。思い切りさとりに抱きついて大泣きを始める。
衝撃に揺さぶられながらも、正直くさすぎることを言ったかもしれないと、さとりは少し気恥ずかしくなった。
「うわぁぁあ…ん!さとりさまぁー!」
「はいはい…泣かないの、泣かないの…いい子だからね」
「さとりさ…ひっぐ……。う…ぐ…うぁぁああー!」
体の大きさから、母と子のようにはならない。さとりは押し倒された。
「みんなに馬鹿って言われたのね。大変だったわね」
「うっ…ぐっ、うぇぇ…ん。さどりさまぁー! だってとり頭って……わたし!」
「そんなことないからね。お空はとっても性根の優しい子だって、私は分かってますからね」
「そえに…バカだから…さとりさま…に、嫌われちゃうよって…み、みんなが…!」
うつむけになりながらも、さとりは愛しい鳥を胸に抱きとめて、背中をさすってやる。
こんなに素直に自分を愛してくれる子をどうして嫌いになれるだろうか。そもそも家族の心を読まなくなったのも、この子があんまりにも口に出すことと、心で思うことが同じで、自分一人で神経をすり減らし続けるのが馬鹿らしくなったからだ。
「…うぇぇ……大好きですー!」
「えぇ、私もよ。お空」
こんなときは、お空があの幼い日に戻ったようで、さとりは少女のままの彼女をただ泣き止むまで慰めてあげなければならない。
面倒だと思ってたこの時間、気がつけば減ってしまったこの時間を、さとりはとても愛していた。
おなかがすいたと、泣き叫ぶ昔の姿が去来する。
またペットの内の誰かにからかわれたのだろう。
理由を聞いて、その子にも問い詰める必要がある。
だがそれまでは、必死にすがりつくお空を、やさしく抱きしめてあげる。
この愛しい子を包み込む時間に、もうすこしだけ身を浸していたかった。
──
結局、結局だ。
さとりは家族を作り、読むべき心と読まない心を隔てることで自分の安寧の地を手に入れた。多くのペットを拾っては、家族と称して家に迎え入れる。たとえ赤の他人に嫌われ続けられるとしても、自分を受け入れてくれるものは自分で作り出すことにした。他を恐れるささやかな逃避とともに、さとりは幸せを手に入れた。これはきっと間違いではないだろう。
こうして穏やかな生き方を見つけることが、覚妖怪としての成人を迎えることなのではないだろうか。
さとりは時々そう思う。
世に覚妖怪がどれくらいいるのかは分からないが、あるいは妹のように心を閉ざしたり、未だ他人を拒否し続ける者も多くいるかもしれない。私よりも強い心で、近しい人の心読むことに耐えるも、また心を凍らせて、永久に一人でさまよい続けるも。
その内どれほどが生き残り、どれくらいの同族が死に絶えたか。願わくば、たとえ自分とは違った道を選んだ彼ら彼女らにも幸いがあれば良い。
さとりは覚妖怪だ。心を読めるくせに、誰より人のことを信じてしまう、恥ずかしげのない、しょうもないヤツだ。その上、嫌われたらどうしようとか、年甲斐もなく悩み、自分の能力を封じてみたりとか、的外れなことも沢山やってしまう。変わりもの以外の何者でもない。こんな俗っぽい妖怪があるか。
そして、その家族もやはり似たり寄ったりだった。
それが確認できた。今日のそのことをさとりはずっと忘れず、これからも地霊殿で日常を過ごしていくだろう。
「あ…そうだっ。忘れてました、さとりさま」
「あら、ほんとうですね」
お空が声をかける。
ポケットから再び白い欠片が取り出される。
元来の用件はこれであった。お空が来てからなんだかんだで数時間。すっかり失念していた。
さとりはそれを受け取ると、額の前までもってきて、じっと集中した。
すると即座に様々な情景が全身を駆け抜けた。
「うー……ん。これじゃないみたいですね。はずれ」
「うゅ…まただ」
何も覚が心を読むのは、生き物だけからではない。
無機物にだって蓄積された記憶はあるのだ。大雑把になら、この卵の殻からだって記憶は読める。
たとえばそれがお空が生まれた殻ならば、私には分かる。
二人して、いつの頃からか、冗談みたいに始めたことだ。彼女の両親を私たちは探していた。
お空がめぼしい地獄鴉の殻を拾って、それを私が見る。もう百何十年も前のものを何十年と探し続ける。この広い旧地獄で、だ。雲を掴むような話だ。
地獄鴉の卵は灼熱地獄で温められる故に、ときに滅し難い強度をもつという。発見は不可能とも言い切れない。しかし確率としては絶望的。
それにもし万が一見つかったからとて、会いに行くわけでもない。その人にもその人の生活があるだろうし、お空も今更顔合わせたとて、どうなるわけでもなし。すでにこの世にいないかもしれない。ただもし健在で、それでいつか巣から落ちた子供が元気にそだって、それで嬉しいと思うような妖怪たちなら、教えてみるのも面白い。
なんとなくやっている、二人の間の、秘密の暇つぶしみたいなものだ。
「もういいですよ。わたしのお母さんは、さとりさまですし」
何気ない言葉に、さとりは胸があたたかくなった。
さとりはお空を流し見る。
「でもお空のご両親て気になるわね。どんな人たちなんでしょう…」
下世話だろうか。ただ定期的に卵の殻を拾ってくるあたり、やはりお空も気になるところがあるらしいし、なによりこの暇つぶしを楽しんでいるようだった。
妖怪の、長く生きるものの遊びだ。
「さて、そろそろ居間に行きましょうか。もうすっかり日も暮れたわ」
熱弁が閉まる時刻となって、西の空から明かりが消えていく。地底の溶鉱炉は明日までしばし姿を隠す。
これからは温度が下がり、朝まで多くの妖怪が眠りにつくだろう。長雨はすっかりやんで、明日の朝は久しく出かけに良い天気になるはずだ。
捻くれ者たちの棲家だから、逆に起きるものも多いかもしれない。
まあ、天の神様ではなく、お空頼みの天候といったところだ。
「さあお夕飯ですよ。遅れるとみんなに怒られちゃいます」
「わっ…大変です!」
さとりは立ち上がって、んーっと大きく伸びをした。
隣で床にお尻を乗せたお空に手を貸す。すっと引いて、手をつないだまま廊下へ歩き出す。
「お空。今日はとくにお腹がすいたでしょう。食後に甘味が用意してありますからね」
「おなかすっごい減ってます!わぁ…お菓子だ…。やったぁ。さすがさとりさま、わたしが食べたいの、分かってたんだ」
地霊殿の食卓は広い。そしてさとりが来なければ、始まらないのだ。
さて今日の晩御飯は、どのペットの担当だったか。
二人の足取りはちょっと早歩き。どかどか廊下を駆けていく。
お行儀悪い。なんて今は気ならない。なぜだか気分がすごく良い。あと角を二つで食卓のある部屋。
いい匂いが漂ってくる。段々誰かの気配がする。お皿を出すのを手伝わなきゃ。
地霊殿はこんなに狭かっただろうか。
隣を小走りのお空に、さとりはにっこり笑いかける。
「なんと、川で冷やしてきた夏みかんと桃です。それに宇治金時もっ」
「すっごい!おいしそう!食べたいです!さとりさま、すっごいです!なんでそんなに…分かるんですか?」
手をつないだまま走り続け、さとりは言った。
「当然よ。なんていったって私は、さとり妖怪なんですからね」
今日の暮れていくこの頃において、様々な妖怪がそれぞれの日を生きていく。
古明地さとりは、願わくば今しばらく、この幸せな日々が続けばいいと思う。
百数十年間の時間を共にした中で、一度たりとて自らの能力を身内に向けて使ったことはなかった。
正確には彼女たちが家族になる前、数えるほど彼女らの心を読んだだけだった。
しとしとと雨が降っている。
さとりは薄暗い奥御殿からうつろに外を眺めた。
窓の冊子をなぞると、暗澹な空から零れ落ちた憎悪のひとしずくが指先に付着した。
地霊殿の空に雲はない。
地熱により熱せられた水脈は洞窟内を高くのぼる。広大な霧は集まってやがて雨になり、霧はまた天井に貼りついては落下する。
曇天より尚暗い地獄の空は、水気に混じった悪霊を地中にまんべんなく撒き散らす憂鬱の雨だ。長くあたれば、災厄を被ることになる。
もちろん、さとりが家族の心を読まないのには理由がある。
人妖を問わず数多の心情を読み込んできた覚(さとり)だ。いまさら恥ずかしいわけでも、後ろめたいわけでもない。人間を決して理解し得ない妖怪で唯一、人心と一番近い位置にいられるさとりだからこそ、情を知り、家族を人一倍信頼している。恥ずかしげも無く言ってしまえば、変わり者のさとりは彼女たちを信じている、だから読まなくていい。そういう理由だ。
トン、トン。
襖の向こうから廊下を駆ける音が聞こえてくる。
あの遠慮の無い足音、さては地獄鴉のお空と見て違いないだろう。
「どこですか、さとりさまー! どこにいるんですかー!」
案の定、とさとりは窓から部屋側へ振り返る。
この愛鳥はどうにも道に迷いやすい性質のようで、仕方なく家内で大声を発して探す権利を与えている。
「ここ、ここですよ」
「わっ、すごい。さとり様を呼んだら声がした」
あっけらかんとした声がした。どうやら丁度よく、襖を一枚隔てた廊下にお空はいるらしい。
「それは私が答えたせいですよ」
「え、どこ、どこですか」
「ここです。あなたの後ろ」
座敷に腰を落ち着けたまま、少し多きめの声を出してやる。
「開いてるから、入ってきていいわよ」
「あれ、ほんとにあいてるんですか?」
「ええ。鍵も突っかえ棒もしてないわ」
「さとりさまがそう言うんなら…」
何を迷っているのか。いぶかしむ間もなく目の前の襖がガタついた。
「あいたっ」
さとりはゆっくりとうなづいた。
鳥頭といえば少しおつむが弱いので通説だが、そのことをお空に指摘する輩がいれば私は決して許さないだろう。
知性はペットに対する愛情とはまるで関係がないし、もしそうだとしても、いや、そうだからこそ、私はきっと同じ親愛をもってお空に接するのだろう。
さて、ところでお空はおつむが少々弱い。
私の「開いている」という言葉をそのまま信じたお空は、ふすまに頭をぶつけた。
目前の壁がガタガタ揺れ動く。
「あれ、おかしいな。力が足んないのかな…開いてるはずなのに…」
「待ちなさいお空、あなたは一つ勘違いをしています」
「しょっと…それ!」
襖が外れて、天からお空が降ってきた。
天から空か、初めて見る天気かもしれない。天は大げさにしても、落ちてくる襖とお空を避けることは、少なくとも私には不可能だ。
「ふぎゃっ」
「うみぁ!」
──
「雨ですねー」
「雨ねー」
暗い空洞に、どこまでも小雨が降り続いている。
旧地獄街を越えて、川の裾野のまでがさとりには見えた。
木の葉に乗って水浴びするカエル。枝にとまって周りを見渡す、夢うつつの梟。濡れた地に潜るミミズ。
浮遊霊に、道端で立ち往生の妖怪たち。そういった者たちの思念が伝わってきて、混じり合い、色のついた光景が頭の中にできあがる。
どこもかしこも、しとしと、しとしと。
穏やかな音が長々つづく、静かな日だった。
目がいいお空にもきっと見えているだろう。
錠がかかっていないのを「開いている」と表現することをたっぷりお空に教えた私は、緑にくすんだ地霊殿の景色を、二人して一緒に眺める。
高い湿気が世界にかかって、遠方は水の中にあるように、わずかに歪んで感じた。
「…ん」
お空のほっぺに、雨粒がひとつ落っこちた。
「大丈夫?」
服の裾で、お空の頬をふいてやる。私は可愛いペットをひざに置き……ではなく、長身の彼女が組んだあぐらの中にもぐりこみ、何をするでもなく外に目を向けた。彼女のふとももの内側、開いた隙間の空間に私の小さなお尻を置き、ちょうど私は背中をお空の胸に預ける格好になった。彼女の柔らかな体と、ゴムのような感触をした胸元の瞳に支えられて、さとりは少々ぼんやりとした気持ちになる。
「雨ね…」
「雨ですねー…」
「そういえば、何か用だったの?」
「あっ、そうでした」
スカートのポケットをガサガサやって、お空は小さな白い欠片を取り出した。その動きに合わせて、さとりの体も揺れ動く。
さとりはまた、宝物かな、と思った。お空はきらきら光る物を拾ってくる癖があるのだ。
自分のガラクタ箱にそれらを突っ込んで、大切にしまっている。
「ああ…これは卵の殻ですか」
「はい!」
「ということは…そうね。あなたを拾ったのもこんな雨の日でしたね、懐かしい」
「はい。たぶん」
よく考えれば、ほんの小鳥だったお空がはっきり憶えているわけはない。元気な返事の後、不可解そうに語尾をつけたしたお空の顔を、さとりは振り返って見つめた。今やすっかり私より大きい。
こんな雨の日は、ぼんやりと瞼が自然に下がってきてしまう。霧の向こうに色彩を失った景色を見据え、空ろに、何も注意せずただ外を見るのだ。別に眠いわけではない。半開きの瞳から現実から入ってくる情報が少なくて、次第に内在する思考の世界に沈んでいく。雨の日はそうして、過去の思い出がじんわり頭に染み込んでいく。
「お空、昔話聞きたいですか?」
なにげなく、ぽつりとさとりは呟いた。
「なんですか、それ」
「お空を拾ってきた時の話よ」
「わっ…聞きたいです!」
さとりは微笑んで、返事を受け取る。
長い時間をこの子と共にしてきて、詳しくするのは初めての話だということに、さとり自身少し驚いた。これほど喜び勇んで聞いてくれるなら、言葉にするのもいくらか楽しみというものだ。
ただ、あまり愉快なお話ではないけど、と前置きをしてから、雨音に心安らぎながら、さとりは静かに当時に思いをはせてみることにした。
────
鬱陶しい雨を払ってさとりは歩を進めた。一足ごとに泥水が撥ねて靴を汚す。
ひたすらに不快だ。
昔日のさとりは荒んでいた。
路傍と言わずそこかしこ、浅い氾濫を街路中に撒き散らす雨が足のぬかるみを一層深くし、ここ数日降り続く小雨の影響はちょうど今が最も人の苛立ちを高めていた。
この不機嫌も、すぐ前に一匹の妖怪を処理したことに由来する。
さとりは歩きながら、うんざりして悪態をついた。
妖怪は地霊殿のさとりを物珍しがる。最初はさとりもここまでの妖怪嫌いではなかった。自己の擁護をするつもりはないが、長い間、興味本位で自分を見つけ、「ほう、あれが覚妖怪か」と勝手に評価をつけられていれば誰だって疎ましく思おう。本当に心を読んでいるのかと疑い、最後は大抵自分の小さな体を侮るか、こちらを恐れて去っていく。さとりはそれがたまらなく嫌いだった。そしていつの間にやら、地下に閉じ込められる始末。
そんなひねた環境に居るものだから、用あれば裏路地をうつむきがちに歩き、自分のことを少しでも考えるやつがいれば睨み付ける。そんな生活を何十年と続けている内にさとりはすっかり嫌悪の対象となっていた。
誰から、と言うわけではない。同じ地中の全てからだ。
そしてそれは、覚妖怪の典型的な生き方でもある。
だが生憎さとりは強かった。人間と違い精神的にもろい妖怪の心をくじき倒すなど容易であった。
「…バカなやつ」
顔に恐怖が張り付いたままの狼の頭をける。首がだらんと横を向いて、牙の隙間から赤い舌が投げ出された。
「いいえ、意外とかわいいやつだったわね」
猫に襲われたのがトラウマだったなんて。
この妖獣、さとりが肉体で対抗しようとすれば、たとえ何人いようとも食い荒らされてしまう。自分よりはるかに屈強な身体を持つ生物を、いとも簡単に処分した事実にさとりは暗い悦びを感じた。
その上、さとりは死体が好きだ。腐肉食らいではない。単純に、死体は余計なことを考えない。そこを気に入っている。
だからさとりは、死体には好意的だった。
さとりは貧弱だ。当時の地霊殿は、地獄としての盛況の熱を未だ少なからず帯びており、数多くの妖怪が集まっていた。その中では妖怪はほんのわずかな理由で妖怪を殺した。辻での斬った張ったなど日常である。「悪評が立っているから、ためしに殺し見るか」。集まってくだを巻いていた中で、こいつは実行に移すほど頭が悪かった。それだけのことだ。
あんなヤツ、不意打ちしてしまえば簡単だと、身を潜めて待ち構える。そして私を捕らえ、三の目を潰したら、体をどうしてやろうかと舌をなめずる。その声を、大きく洩らしているとも知らずに。
恐怖に逃げ惑う狼を見ても、あまりどうという感情は沸いて来なかった。その恐怖は心の奥底から生まれてくる。逃げ場などない。立ち向かうしかないのだ。
さもなくば恐怖の袋小路で、神経を焼ききって死ぬしかない。その点さとりはトラウマを越えてくる人間を買っている。肉体が弱い種族しか持ち得ない心だろう。
さとりは、こいつの頭の中で展開された、さとりの数分後の未来の姿を思い出して、もう一度動かない体に蹴りをくれた。そしてまた、雨の中を歩き出す。ああ行くか。何を考えているか分からない妹のいる我が家へと。
足が進まないのも自然だろう。心が読めるのも不快だったが、読めないのも不快だった。
全身が濡れきったころに、やっとさとりは地霊殿への道半ばまで達したところだった。
ふと、声が聞こえてくる。耳孔を叩く音の振動ではなく、頭の中に直接響く声だった。あまりに強い思念だったので、さては誰かが死ぬのかと思ったが、どうやらそれとは少し感じが違う。この距離では聞こえづらいが、音の洩れ出ずるは、骸に根を張る枯れ木の森である。
さとりは少し迷ったが、結局心を読むべく行くことにした。どうせ家には帰りたくない。
しけた光景だ。どこまで行っても変わらない。踏み砕いてならせる軽快な枝の音はまるで心を慰めない。生えてくるのが枯れ木なので、森とはいえ雨など防いでくれるわけが無い。地面が見えない程度に積もった枝の下にあるのは、やはり骸で、さとりが一歩進むと、時々異質な音がした。
声を発する何かに近づいていくと、ようやく正体が掴めてきた。いまだ判然としない思考だが、もうずっと一つのことを繰り返し考えている。
さとりは立ち並ぶ木々を縫って歩き、どうにか視界を広くする。ようやくそれが見える位置で様子を伺った。
「あっ……いない。そうか」
最も思考の色を強く感じる場所、木の又に駆け寄ると、さとりはしゃがみこんで枝を掴み、後ろに投げる。地面を掘る要領で、3,4個取り除くと、小さな鳥が姿を現す。
色は黒くて艶があり、まだ生え揃ってない毛の隙間から真っ黒な瞳が覗いている。
『おなかすいた』
読んだ思考が頭に反響する。しばらく見つめたあと、さとりは小鳥を手にとって見た。いかにも弱っていて危険はなさそうだったのだが、実際驚くほど抵抗は無かった。そしてひどく軽く、まるで手の平にいるのにさとりの事にすら気付いていない風だった。
なんてことはない、どこにでもいる地獄鴉の子であった。
地獄鴉とはその名の表す通り、この地獄の都に住む漁り屋の鳥である。それは三つ目だとか三本羽だといわれているが、個体によって少々違いが見られる。だが不要物を一通り荒らしてから、必要なものだけを片付けていくという迷惑な性分をもったこの魑魅魍魎に、暦とした分類を与える殊勝な妖怪なぞいなかった。私たちの中では地獄鴉も鼠も変わらないのである。火の中に住まうらしい体に熱の名残はないようだ。
地獄鴉の親が子を捨てる習慣があるとは聞いたことがない。あるいは単に巣から風に飛ばされて、樹上から吹き飛んだのだろう。
「この子、もう駄目ね」
さとりは告げた。
「運が悪かったのね」
やせ細っているし、この幼さでは自分で餌を取ることなどできない。この辺りに捕食者が居ないのは幸いだったが、それもいたずらに死を遠ざけ、苦しみを引き伸ばすだけだ。なにより、助けてくれるような心優しい妖怪は、この辺りにはいなかった。
『おなかすいた』
「当たり前よ。あなたはこれからそれが理由で死ぬんだもの」
すっと拳大に収まった小鳥に語りかけてみる。相変わらず小さな羽毛は微動だにしない。短いくちばしを指の先端で叩いてみると、コツコツ軽い音が鳴った。だがさっきからやはり考えているのは一つのことで、腹が立つくらい私には構ってくれない。
『おなかすいた』
いい加減すこし鬱陶しい。覚は性格には、相手の、心を感じているのではなくて、文章を追うようにただ読んでいるだけだ。いくら悲痛な叫びだって痛くも痒くも無いが、こうも繰り返されたんじゃうんざりする。常に同じ感情が頭を素通りしていく。ここまで純粋な思念に会うのは初めてかもしれない。
それならいっそ。
さとりは細すぎる首に手をかけた。風に体温を奪われて、より一層冷たくなった小鳥の体。
どうせここにいたって苦痛が積もるだけ。今夜だって越えられない。指先に力を込めるだけで、私は全てを終わらせてあげられる。この子にはきっとそれが良い。
頭をよぎる尊大な慈悲とは裏腹に、口元はわずかに嗜虐の笑みを浮かべている。関心は早くも小鳥の思考ではなく、小鳥が首から出すはずの小気味良い音に移っていた。
そして、少し時間が経った。
「やめた。そこまでしてやる理由ないし、勝手に死ぬわ」
さとりは首に絡めた指を解く。小鳥の大きな瞳は遠くを見続けている。手のひらにそれを収めなおすと、地面のくぼみにゆっくりと下ろしてやる。雨風避けに枯れ木を何本か、体に当たらないように重ねたところで気付く。
何を馬鹿なことを。時間を引き延ばすだけだ。
さとりは立ち上がった。無駄な時間を過ごした。体が冷えてしまった。後ろを向いて、パキパキ音を鳴らしながら、骸の枯れ木の森林を再び歩き出す。
弱いのが、特に運が悪いのがいけない。明日にはあれはこの森の一部になっているだろうし、ここには、飛ぶ前に地に落ちた不幸な小鳥が一匹いただけだ。さとりは足早に立ち去ると、木々に埋もれて見えなくなる前に、小鳥の短な羽毛の感触を思い出し、最後に一度だけ先の場所を振り返った。
地底の妖怪は例外なく目がよい。もしくは視界を得るために何らかの能力を応用させている。
暗い地霊殿が見えてきた。今日は思った以上に歩いた。帰路への足をせかしながら、さとりはなんとなく来た道を見る。いまだ雨は降り続いており、遠方は霧に姿をかすませながら、地獄街の明かりを反射させている。
地霊殿の近くまで来ると、野次馬の妖怪の数は逆に減る。なぜなら、この辺りはさとりの能力が及ぶ範囲だからだ。どんな心の越えも聞くことができる上に、自室から直接"脅す"行為を試す内に、寄り付く者は消えうせた。
怖がるなら最初から近寄らなければ良い。誰も彼も余計なことを考えすぎだ。
侮って、怯えて、忌み嫌って。どれもこれも、私に構おうとしなければ、なかったはず。
さとりは小石につまずいた。
慌てて体勢を立て直すものの、決して胸を打って転ばぬようについた手の皮が擦りむける。手のひらに何本か、赤い筋が走った。冷たくなった手足は言うことを利き辛い。
砂を払ってさとりは立ち上がった。
「いつつ……」
ひざに砂利が噛み付いている。痛い。
足の痺れに顔をゆがめると、なんだか言い様の無い、情けない気持ちになってきた。
本当に、このざまだ。自分は、他人の視界が、思念がないと道すらよく見えない。
長くあたりすぎた雨で、体は寒さに震え、歯の根がかみ合わない。冷えすぎた体が、心まで冷やしたか。
とかくいきなり、この頃はひどい物寂しさがさとりを襲うようになった。若いころは簡単逆らうことができたその感情は、今は身に染みて来るようになった。
十年に一度だった自責は、一年、半年、近頃では月に一度と頻度を高めている。
自分から追い払っておいて、彼らが居ないと何もできないんだ。
覚妖怪は心の間の潜む者。一人で生きられるようにはできていないんだ。
「くそ…」
それがなんとも嫌でたまらず、また周りを延々と排斥し続ける。自分は孤独に強いと。
その結果がこれだ。結局は自分を自分を傷つける。
だってそうじゃないか。本当は分かってるんだ、こんなこと。自分を好きになれないやつが、どうやって人を好きになれるんだ。でも、どうすればいいのか、全然理解できない。
「早く帰ろう…」
さとりは一人、つぶやく。
悔しさだけが心を占めて、口元をきつく引き結ぶ。
我が家に近づけば近づくほど視界は悪くなり、玄関の門にたどり着いたとき残されたのは頼りないさとりの眼球の力だけだった。地霊殿では、自室で常に発していた害なす思念に、小動物の姿すらない。
さとりは地に俯いた。私の奥に行けば行くほど…。
この状況が、今の自分の全てを現しているようでやりきれない。ぐっと拳を握り、卑屈者が作る半円の、ジト目の目つきで前を見た。外灯がかすかに足元を照らす。
それでも我が家だ。入ろう。
門をくぐろうと、取っ手に手をかける。
仰々しく造り置かれた、重厚な扉。妹とただ二人が住むには、この屋敷は随分広い。
『おなかすいた』
洞窟の遠い空の下。まだあそこに残っていたとしたら、すでに命はないであろう鳥を思う。
私には関係ない。どうでもいい。
その言い訳がさとりの心を満たしてくれることはなかった。あんな小さな生き物の心すら、深くかかわるのが怖かった。
さとりはつらくなって、またも視線を落とす。
表面上の、弱いものは死ぬなんて現実を盾に、私はずっと逃げ続けてきた。もし助けても、それでも覚妖怪を気味が悪いと思われたら、どうすればいいんだ。善意で接した相手に、自分を否定されたら、もうどうすることもできない。
「なによ…いいわよ、もう。いつものこと」
何十度目かになる、幼稚な自問自答に逃げ口上。さとりは一人悲しくなった。瞼が震えて、それでも涙は出なかった。泣けばもっと情けない気分になる。
他人の心が分かるのに、なぜこうも他人と関わるのが苦手なのか。あるいはやつらの心の汚さのせいと思ったが、さとりは、もう他人を責め続けるには長い年月を生き過ぎた。きっと原因は相手ではなく、自分にある。さもなければ私以外の全ての妖怪は欠陥を抱えていて、各々全て憎みあうことになる。そんな光景はついぞさとりが目にしたことはなかった。
靴を乱暴に脱ぎ捨てて、さとりは玄関にあがる。泥で靴箱が汚れた。
いっそ非道になってやろうか。仲睦まじき妖怪も、なんの関わりもないものたちにも、嫌われ者は嫌われ者らしく、悪意をばら撒いてやる。さとりは今まで積極的に他人をどうこうしたことはない。だが、やろうとすれば容易いだろう。やつらが忌み嫌ってきた覚妖怪が、どんなものか見せ付けてやれば、心は晴れるだろうか。
さとりは自分を嘲笑った。。
なにを馬鹿な。そんな勇気があれば、今までにそうしていたはずだ。自分は目の前で消えていこうとする命すら、救いを持てめる小さな手すら、払いのけんと考えるような臆病者だ。それも、自分が傷つけれたら怖いという理由で。
誰かが守らなければ、骸のたちに降る雨は、あの子の命を確実に地面に染み出して行く。さとりの足では、今さら戻ったところで間に合うまい。
だが考えてみればあの小鳥は拾わないのが正解かもしれない。もし持ち帰ってもあの弱り具合では、すぐに死んでしまうだろう。そうなったら私を恨むはず。どちらにしろ、これまでと同じくすぐ忘れてしまうのが賢明に思えた。
いくつかの考えが、さとりの中で行き交った。
さとりはびしょ濡れのまま板張りの廊下を歩いている。
ひどい汚れすら気にならないくらい、いや、それ以上のひどい気分だった。
さとりは行水もかくやという湿った髪から水滴を荒っぽく飛ばす。そして手をかけて、荒々しく襖を開け開いた。
居間では、自分の妹であるこいしがくつろいでいた。
こちらを見て驚き、こいしはやがて、さとりの散々な有様に嫌悪を示す。
それでもこいしは濡れ鼠となった姉を非難することなく、めざとくさとりの胸元に目をやると、奇妙な顔をしていぶかしんだ。汚れている理由も、それにあったと感づいたのだろう。
「さとり姉さん、それなに?」
「鳥を拾ってきたのよ」
さとりは胸のポケットに手を突っ込んで、真っ黒な物体を取り出した。
「結局、拾ってきたわ」
「鳥……って、その泥の塊みたいなやつ?」
「ええ。弱ってたから」
直接肌に触れさせていたとはいえ、さとり自身体温が高い方ではないので、早く暖めなければならない。
机の上でか細い呼吸を繰り返すそれは、今にも力尽きそうだった。
「もしかして飼うの? いいけど、私の部屋に入れないでよね」
「…分からない。飼うのかしら」
「はぁ、なにそれ?」
結局、助けてしまった。
さとりは最後に小鳥に振り返ったあと、木の又に戻って胸に突っ込んだ。
実に、同情でもなんでもない。さとり自身、なぜこの子を持ち帰ったのかあまり定かではない。ただこの陰鬱な生活が少しでも変わるかもしれない、という淡い期待と、ある種の興味だった。
先ほどから頭に響き続けている空腹の訴え。あまりにも余計なことを考えずに繰り返しているので、もしお腹がいっぱいになったら、次に何を考えるのか気になった。私への感謝だろうか、それとも地底一の嫌われ者に、やっぱり怯えるだろうか。それが知りたくなってしまった。
『おなかすいたおなかすいたおなかすいた』
「ああもう分かったわよ。こいし、ちょっとお湯を沸かしてきて」
「なんでよ。自分でやればいいでしょ」
「分かったわ」
全く目を合わせずこいしの横を通り過ぎて、さとりは足早に台所へ向かう。
思いの他にある素直な反応に、こいしはしばし唖然とした。
「な、なんなのよ!お湯くらいわかせばいいんでしょ!」
「ありがと」
初めから期待されてないと思われていたのが癇に障ったのか、こいしは地に足音を響かせて襖の奥に消えていった。
さとりはその間にタオルを取りに走った。さしあたって小鳥の体を温めてやらねばならない。やることはあり、時間は無駄にできない。
あ、そうだ。
さとりは見えなくなったこいしに大声で呼びかける。
「ねえこいしー!地獄鴉って何食べるか知ってるー?」
「知らないよそんなのー!」
さとりはほっと一息つくと、空ろに虚空を見る机の上の小鳥を見つめる。
そして本格的に過去の記憶を遡り、心を読むべく意識を集中させた。
虫、霊、腐肉? 読んでみるしかないか。
────
「あれから…随分と色々なことがありました。勿論、一本道ではなかった。でも、大切なものもたくさん増えたわ」
当時の感情も含めてざっと、しかしちゃんと伝わるように丁寧に、躓いたところは何度か説明を重ねて、ぬくい太ももの内側でさとりは昔話を締めくくった。
そう、本当に大変なのはそれからの生活だった。
お空の足は妙に収まり心地がよく、つとつとと話をする間、始終さとりは体を預けて安らぐことができた。
未だ小雨は降り止まない。一定のリズムが耳に幸いして、気分は穏やかなものだ。
指先すら満足にぬらせないこの一粒一粒が地にぶつかって流れを作り、地霊を巻き込みながら、やがて広大な地中を底へ底へと潜っていくのだ。
雨音は屋根に落ちて、柱を伝い、静かに畳に染みていく。部屋を包む閑静な空気にうつらと頭が船を漕ぎそうになる。
「ほんと、色々ね…」
こいしとは一番喧嘩した。お互いを無視しあうようなものから、取っ組み合い、果ては疎ましさから心中相手の死を願ったのも一度ではない。そのどれもが今では良い思い出……というわけではないけれど、少なくとも、今はうまくいっている。
お空だって、私は何度殺しかけてしまったことか。身体の小ささから起こる事故だけじゃなく、意思を抱いた上での故意だったこともあった。
夜中に手ひどく泣き叫ばれれば鬱陶しく、腹が減れば際限なく要求する。
わがままで、こっちの事情なんかお構いなしに意思をぶつけてくる。さとりが飼い主ではなく、ふと地底一の嫌われ者に戻る、そんなときは、小鳥を窓から放るくらいはすぐに頭をよぎった。私はなにを、くだらないことをしているのかと。
だが、どんなに手間がかかろうとも、地底一の嫌われ者であるがゆえに、自分を唯一嫌ってないでくれるかもしれないお空を捨てられなかった。
さとりは妖怪を信じた数も、裏切られた数もそれなりになった。やっと前進したと思えば、裏切られて失望し、一歩後退。泣いたり、諦めたり、そんなことを繰り返す。無論のこと、後者の方がずっと多かった。
うしろか。その結果、さとりの背中で、後ろから身体を包んでくれてるお空が、今の自分の全てに繋がっているようで、どうにも愛おしさがこみ上がってきた。
くるっと振り向くと、まさに表情を変貌させつつあるお空の顔があった。
目がおっきくなって、口が「わぁ」なんて具合に徐々に開いていく。
「……お空?」
とはいえ、聞き手にとってあまり気分の良い話ではなかったかもしれない。
生まれの話を詳細まで教えたことは今まで無かった。彼女にはできるだけ、自分の残酷の部分を見せてこなかったこともあるし。
「さとりさまぁー!」
さとりは大声に両耳をふさいだ。
「さとりさま!」
「み、みみもとで叫ばないで」
すぐ隣に、お空の顔がひょっこり飛び出す。耳の痛みに顔をしかめる間もなく、さとりの体が、がったがたゆれた。
「な…なんですか、お空!」
「だいすきです!さとりさま!」
お空は興奮して、あぐらを組んだまま跳ねたり飛んだり、巨大な翼が風を起こして、部屋に羽が舞った。
「落ち着きなさいっ」
当然、その中にいるさとりはたまったものではない。
「わぁー、さとりさま!」
「いきなりなんですか。ど…どうしたのよ」
「だって、だって、さとりさま。わたし拾われたけど」
「だって…なに!」
「さとりさまはわたしのこと助けてくれました!きっとわたし死んでた!」
「これはそんな単純な話じゃ…!」
さとりはお空にしがみ付いた。
ほんとに、そうではない。命の恩人だとか、そんなものではなかった。もし気に食わなければ、さとりはお空をあっさり捨てるつもりだった。今、冷静に当時を振り返ってみても、あれは決して善意から来る行動ではなかったと断言できる。
両腕で、お空の体をぎゅっと抑え付けて、どうにか興奮を落ち着かせてやる。
さすがに調度品は飛ばなかったものの、雨の湿気が篭った部屋の空気が一通り掻き混ざったようだった。
一つ呼吸を落ち着けて、感情を抑えつけ、さとりはお空の好意を否定した。
彼女のこの好きは、さとりには受け取れない。
「お空…そうじゃないのよ。私がしたのは実験だったの。お腹がいっぱいなったら、今度はあなたが何を考えるかって、それだけです。つまらない、感傷じみた疑問にあなたの命を賭けてしまった。あなたがまだ幼いころ…憶えてる? きっと私はあなたを、反応を見て楽しむ玩具のように、好奇の目で見ていたはずなの…」
さとりは伏し目がちになる。
「ごめんなさい……」
なんだか、お空の顔がまともに見れなかった。弁明はたくさん頭に浮かんだが、そのどれを言っても、つまらない言い訳の域を満足に出られない気がした。
こういうとき、心を読まずにいるのは気疲れする。お空はいま、何を。
「私ね…。ひどいやつだったのよ」
過去の粗暴な振る舞いと、痛々しい記憶が薄く蘇る。心に黒いもやが立ち上がって、さとりは無意識にお空の服の裾をクシャッと掴んだ。
「誰でも恨んで。誰でも嫌って。誰でも憎んで…誰でも…」
「さとりさま」
お空はなんだか事情はよく分かってない顔だったが、だけど、さとりが悲しんでいるのだけはすっかり理解して、おだやかな口調で応えた。
「わたしは、おっきい手があったかくて、やさしかったなぁ…だけが、おぼえているだけですよ」
そういって、やさしい笑顔を向けてくれる。
口調はさっぱりこんがらがって、きっと考えるのが苦手な彼女は、自分の言いたいことを素直に言おうとした結果、こうなったのだろう。
その不器用さが、さとりの心をどうしようもなく掴んだ。
おぐう、と濁った声が口の中でこだまする。さとりは不覚にも、少し目元をにじませてしまいそうだった。
普段は抜けているくせに、こういう雰囲気だけはちゃんと感じてくれるんだから、彼女は本当に困る。
「さとりさま…なかないで?」
「泣いて…ないです」
柔和な笑みに、すぐ心配そうな色を混ぜんこんで、お空はさとりを慰めようとした。
今なら、言ってしまってもいいかも。さとりはお空をじっと、間近で見つめる。
子供みたいに輝き続ける瞳から、種々の記憶が思い出された。
楽しかったこと。うれしかったこと。大変だったこと。この子とたくさん体験してきた。
さとりが心を読まないのはお空を信頼しているからだ。日常の、なんでもないときにでも、喧嘩して、どうしようもないときにでも、これだけは我慢してきた。読むことは、相手の心を疑うこと。猜疑はいずれ身内に、良くない結果をもたらすだろう。心を読んで起こる些細ないさかいは、さとりの大嫌いなことだ。読まれる側がどう思うかなんて、もう読み飽きた。くだらない幼稚な理屈だし、誰がわかってくれるわけでもない。だが何百年もの嫌われ者の、小さな意地だった。
その執念のお陰で、さとりはこの小さな喧嘩に、何十年と勝ち続けてきた。自分の能力を抑圧することに、もう苦痛は感じない。家族の思念の色を感じると、自然と受け流すことができるようになっていた。
柔らかなお空の視線を受けて、さとりはその事をたまらなく伝えたくなった。
微笑んでくれる彼女の信頼にさとりは応えたくなった。自分も、こんなにあなたのことを思って、ずっとずっと長い間、我慢し続けてきたことがある。それを言いたい。あなたの優しさに報いるため、覚らない覚の妖怪がいる、そんなことを知って欲しい。
今まで言わなかったのは、口に出すとそれが嘘になってしまうような気がしたからだ。だからどんな時だって頑張ってきた。むしろ、わざと皆の心を読んでいる風に振舞うときだって多くあった。
「あ、あのね…お空。私、ずっと…知って欲しかったことがあって……」
「…はい」
家族相手だろうと、秘密を打ち明けるのはひどく緊張する。
鼓動が高鳴った。初めてのペットに、初めての告白。
真正面からお空を見据えるのを避けるため、下から顔をねめつけた。走ったわけでもないのに、動悸が激しく、息が荒くなる。
「い…言いますよ。いま言いますからね」
「さとりさま?」
「ほんと、言うわよ……」
どんな風に思われるだろうか。喜んでくれるだろうか。それとも褒めてくれるだろうか。なんでそんなことを、と奇妙に思うだろうか。なにより本当に、これは言ってしまってもいいことなんだろうか。そんなことが頭をぐるぐると回って、ぴたりくっついたお空に体を預けたまま、硬直してしまった。
「……っ」
行け。行け私。
「私は…お空、ずっとあなたの心を…」
読んで。
「……」
沈黙の先は、小雨がつむいだ。
外からの風が入ったが、上気した頬を冷ますには至らない。
雨がぽつぽつ屋根を叩く。天井から聞こえる音に、ああ、地霊殿は雨漏りして大変な目にあったことがあったなと、関係の無い回想にさとりは逃げ込んだ。あと一歩が踏み込めず、喉がただ乾く。
しばしの沈黙を経ても、出てくるのは奇妙な私のうめき声だけ。
「よっ……読んで…。よ…よん…」
「さとりさま」
「は、はい?」
ふとお空が、不審そうにこちらを見つめていた瞳が、妙にわんぱくで、それでいて心得たような色を帯びる。お空は自分の胸をぽんと拳で打った。
疑問をすっきり解決した、腑に落ちる、と言うべきか。まかせなさいという顔。とにかく自信に満ちていることは、長年の連れ添いなので分かる。
もしかして以心伝心。すでに私の言いたいことが。
何が彼女にそうさせてるのか分からないが、うんうんっと頷き、さとりに語りかけた。
「大丈夫ですよ。わたしぜったい怒りませんよ」
「…え?」
腕を差し出して、安心させるように、お空のおっきな手が私の小さな手を包んだ。
「さとりさま大好きだから怖くないです。だいじょうぶですよ」
「あ…」
自分を安心させようとしてくれてるらしい、おどけた態度に、さとりは得心した。
どうやらさとりがさっきから泣きそうになったり、震えて小さくなったりしていたお陰で、また何かいけないことを告白すると思われていたらしい。悪事を自白する子供をあやすように、お空は柔和な態度でさとりに促していた。
「手を握ってると安心するから…だから、ゆっくりがいいし、んとっ……嫌だったら言わなくていんですよ」
「うっ…違くて」
「むりしないで。さとりさま」
なんとも的外れな心遣いにさとりは言葉を詰まらせた。関係ない案件だ。別にやましいことを言おうとした訳じゃない。
怒られるのを、私が怯えているのかと心配してくれて。嬉しい。嬉しいんだけど、ずれていた。
さとり妖怪は話が早い。なにしろ相手が言いたいことを思ったときにはそれをもう知っているのだ。
このもどかしさは表現し難い。
「全然…違います。お空ったら…私、言いづらかったのはね。怒るとかそういうのではなくて…」
「はい、ぜったい怒りません」
「そうじゃなくって…ああもうっ」
「さとりさま、なんだかかわいらしい…」
大丈夫を連呼するお空に、さとりは頭を抱えた。
そして生来から得意のジト目でお空を見上げて言う。この子は悪くないんだが、ちょっぴり切り返した。
「じっ…実は、私があなたの楽しみにしていた地獄ミミズ食べちゃいました」
「それはさすがに嘘だってわかりますよ、さとりさま」
子供のような扱いをされたことも多少不満で、さとりは器用に、拗ねながらお空を攻撃した。
ペットのくせになまいきな子だ。軽く小突く。
秘密を口にする機を失ったせいで、緊張が解けていた。
「でもありがとう。…嬉しいわ」
「…うゅ?」
やはりというべきか、お空はよく分からない顔をした。
いけないな。私はどうも独りよがりで会話をする傾向がある。
誤解した会話の縁を、さとりはあえて拾わないことを選択した。
この、すこしずれているけど、それでも確かな優しさに私は何度心を慰められたことか。たとえば辛いとき、なんだか心配そうなお空を見ていると、こっちがしっかりしなくては、という気になってくるのだ。大丈夫だって笑ってあげないと、いつまでもこの子は不安な顔をするのだ。この歳になっても、私が泣けば、なんだか悲しくなって、つられて泣いてしまう、そんな子なんだ。その心を大事にしたい。
さとりはすぐ前にある、黒くて艶々の頭を撫でてやった。
「……? さとりさま、なんだか今日はとっても変です」
「あ……ひどい。でもそうね」
ごめんなさい。お空からしたら本当にそうかも。
さとりはちっちゃく自分を笑った。
「さっきから、とても落ち着きなんてなかったし。思い出してしんみりして、拗ねて、縮こまって。訳が分からないはずですね…」
何も思惑が無いお空の前でこそ、地霊殿の主は感情豊かに振舞うことができた。それは良いのだが、肝心の本人を困惑させたのでは仕様が無い。
さとり妖怪は人の心を読めるから、無意識にすこし、自分の心も相手に伝わると思っている節があるのかもしれない。
さとりは軽く息をつく。
やはり、打ち明けずによかったと思った。
余計な心労は負わせるべきではない。さとりがお空と一緒にいるのに、能力を封じていることを知ればきっと気を使わせてしまう。なにより、これはさとりの誇りの問題でもあった。短くない忌み嫌われた生涯で、猜疑心に彩られた道程でさとりは確かに今の家族を得た。心の真芯から信じられる者を得た。この事はさとりの多くを支え続けている。その信実を濁らせたくは無い。
「心が読めるのは…自分で言うのも難ですね。でも、大変なことなんですよ…。それで私どうしたらいいかって悩んで、すこし心が不安定になった…それだけです」
「わたしが昔のお話…お願いしたからですか?」
「いいえ、そんなことない。逆に、お空のおかげで元気が出ちゃった」
その言葉で、お空の顔から不安が落ちた。
「わっ、ほんとですか?」
「もちろん。んしょっ…と」
さとりは上半身を起こして、固まってしまった収まりの悪い足を整え直した。
多少の痺れをほぐすと、間接に甘い痺れの余韻が残る。
あとは四方山話にふけつつも、時が過ぎるに身を任せるのが良いように思えた。
────
心地よい無言の篭った室内を、湿った風を舞う。
ようやく止んだ水気の怨霊たちのおかげで、明日は植物の成長がたいそう速くなる。
ふむ、とさとりは誰か遠くの思考を覗き見た。どうやら此度の長雨は、川の氾濫にまで至らなかったようだ。幸いである。
近頃、様変わりも極めた地上と交流があったせいで、今さらになって自分たちの在り方を見つめ直そうという感情がさとりに起こったのかもしれない。
さとりは、お空のあぐらの内側で小難しく考えていた。これまでのこと、これからのこと。
思案顔でうなるピンク色の髪を、お空が軽くいじりだした。柔らかいそれを、壊れ物でも扱うかのように、なぜたりつまんだり。時間にしてそうもなかったが、何も喋らずに退屈なのだろうか。口がぽかんと開いていて、かなり集中しているようだ。ただなにやら不思議と、お空から感じられる思考の色が冷めている。読まないが、雰囲気で簡単な気分の抑揚くらいは分かる、これは誰だってそうだろう。
さとりはすっかり、余裕ある地霊殿の主としての調子を取り戻していた。
さとりがぽふっと背中を預ければ、大きく健やかになったお空がより強く感じられる。
いつの間にか、可愛らしい小鳥と昔の立場は逆になってしまった。こうすると、お空は後ろから抱いてくれるのだ。
こんな雨の日は、昔を思い出していけない。
地熱の消え行く夕凪の空、相変わらず薄ぼんやりと二人で見つめ、浮かんでくる過去の情景を横切って、呟いたのはどちらからだったろうか。それが分からないほど、自然に出た小さな声は、この奥御殿にちょこんと遠慮がちに佇んだ。
この時間、何も考えていなかったわけではないらしい。お空はほんのわずかに声を出した。
「なんで、さとりさま…さっきは悲しくなっちゃったんですか」
居辛そうに、お空に似合わず、自信のない声だ。
放っておけば勝手に消えていくような、小さな言葉にさとりは応えた。
「なんでもないことですよ。長く生きてると時々…」
「なんでもなくないです」
珍しく、さとりの意思を遮るようにして、お空が自分の言葉を表した。さとりは不思議に思った。基本的にこの子は、自分の意思を尊重する。
次第に、身体を抱いてくれる両腕が震えを帯びた。続けて出たのは弱弱しい声色だった。
「やっぱり気になって…。わたし頭が悪いから…バカだから、お燐だってみんなだってバカバカ言うし…。だから、さとりさまがなんで悲しいのか…全然分かんないし…」
愚痴めいた内容だが、その実、決して誰も責めてはいない。ただ自分がいけなくて、でも何がいけないのか分からない。
お空はただ悲しくなっていた。
「さとりさま…元気出たって言ったけど…。そんなの、わたしだけ分かんないの…いやですよ…ぅ…」
それは普段から悩んでいたことなのか、はっとなってさとりは振り返る。見れば、悔しそうに目元を滲ませて、下に俯いたお空があった。
まずかった。泣かせてしまった。
多くは語るまいとしたことが、不安を煽ってしまったようだ。だが、説明できるわけはない。あの荒んだ時期のさとりも、先の悲しさも、誰が悪いわけではないのだ。過去の話自体、お空を悲しませようとしてしたはずもない。
「頭いいのがさとりさまで、わたし……こと、みんな分かってくれて。でっ…でもわたし…さとりさまの考えてること、一回もちゃんとわかったことなくて…。わたしのせいで、さとりさま悲しくなったら…やです…。いやですよ…」
つまりながらもお空は、言葉を紡いだ。
そも、今、お空が唇を噛み締めている理由も、私が焦って彼女に言えなかった秘密にしても、二人の間で微妙に食い違っている気がする。家族の心を読んでいないと告白しなかったのは、さとりの誇りを守るためだ。しかしお空は、私がなんらかの罪悪感で大事なことを言えなかったと思っており、一連の出来事と結びつけている。辛い記憶を私が一人で抱えていると思っているだろう。恐らく、さとりがどれほどお空に感謝しているかも伝わっていない。
はがゆい。さとりは思った。
もし心が読めれば、一度に理解できるものを。
だが、思い直す。本当はそうじゃない。心なんて読まなくていい。
「あなたのせいなんかじゃないわ」
秘密を守ったままに、お空を泣き止ませるため、この子の悩みを取り去るため、伝えるべきことはなんだろう。
だから、さとりはできるだけ穏やかな声で語りかける。
「雨の日は、傷が染みるものです。…たとえそれが心に負ったものでも、同じように。それに悲しくったって、それを心配してくれるあなたがいるから、私はとっても幸せなのよ」
こんなもの、なんでもないとさとりは少し無理してわらった。
「ねっ、お空。聞いて。この様な誤解はあるものです。私が特別賢いのでも、あなたが特別悪いのでもないの。よくあることなの。だから、そんな自分を傷つけること言わないで。あんまり、泣かないで? ただ少しの勘違いなの」
「……っぐ、…うい…?」
「意識の差で起こったりする、日常的なすれ違い、思い込み。でもそれは、なんでもないことだって最近分かったわ。心が読み取れると細かいところが逆に気になってしまうの。そのせいで、伝わらない気持ちに、苛立ったこともたくさんありました。でも別に、気にすることないのよ…そんなこと」
「ほら…また、分かんないです。わたしバカだから」
お空は鼻をすすって、また自分を悪く言う。そして湿った顔をそのままに、自分の洋服の襟に、ゴシゴシ左右にこすりつけた。
さとりはポケットを確認した。ハンカチはない。崩れていくお空の表情を無作為に見送った。
覚をやっているとよく分かる。自分は、他人は、実に簡単に他の者を嫌う。
原因なんて無数にあり、それこそなんでもない嫌味や罵倒でひどく傷つき、人を憎む。機嫌が悪い日であるだけで、他人を疎ましく思う理由になるだろう。起こる種々の感情、その中で誰かに怒ったり、悲しんだり、そんなのはひどく普通のことなのだ。口に出さないだけで、とりとめなんかありはしない。
死を望んでいた人物が、明日にはこの世の誰より大切になっていることだってあるだろうし、またその逆もしかりだ。
その逐一が拾えてしまうさとりは、他人の反応に、過敏になったりあえて跳ね除けたり、随分と人の心に振り回されたものだった。
そんなさとりだからこそ思う。
一時的な感情で好きや嫌いになったり、そんなことは重要じゃない。
最後の最後、ほんとにもう最後の一線で、誰の味方になってくれるか。誰を選んでくれるか、誰を大事に思ってくれるか。
結局誰かが、自分にとって必要か、別れられないのか、そんなことだけをさとりは信頼している。
これは信念といっていい。この誰にもまして重要な心の位置に、さとりを座らせてくれる者だけを、さとりはペットとして拾っている。この素養があるか、さとりは心を深く読み、その判断に適ったものをさとりは信じぬく。家族として扱う前に、一度だけ最初で最後に心を読むのだ。
さとりはお空に向き直って、今度こそ説明すべく、気を入れる。
ただ格好良くは飾ってはみたものの、それでも何匹かには裏切られている。そんな悲しいときもあった。
その度に泣きを見たが、心の専門家の妖怪である自分が、一番と思った生き方をやめる気は起きなかった。
さて子供を説得するなら、理屈ではなく感情だ。お空はそんな歳ではないが、程度は似ているし。
これは彼女に失礼かもしれないが、それでも、未だにさとりにはお空はちいさな、自分の子供の様なものだった。
もっと簡潔に、もっと理解しやすくさとりは切り出した。
「ね…お空、私のこと…好き?」
お空は愕然とした顔をした。
「わたしが、さとりさま…こと、嫌いだと…思ってらしたんです…か?」
「お空は私のこと、いつでも、どんなときでも好きですか」
「…………はい」
顔が苦痛に歪み、滲んだ涙が、ついにこぼれそうなほど膨らんだ。
それをさとりは無視する。
「じゃあお空。ときどき、たとえば失敗して私に怒られたりしたとき、私を嫌いになっちゃったりしません?」
「ぜったいにしません!」
息巻いてお空は真っ向から否定する。
「ほんとに時々よ?」
「ないです!」
「ほんとう?」
「ほんとです」
「ほんとに、ちょっとでも…ないの?」
「ほんとの、ほんとです」
お空が、私のことを嫌ってほしいとか、そういう風に誘導しているわけじゃない。
私は背中をちっちゃく丸めて、じっとお空の瞳を覗き込む。顔を見合わせれば、私がそんなことを言いたいんじゃないってことは、彼女には分かるはずだ。
「ほんとのほんとの………ほんと?」
「…ほんの、ちょっとだけ…」
罰が悪そうに、またもお空は顔を下に向ける。
大好きなご主人様に嘘をつける?
そうやって私は、少しだけ卑怯に詰め寄った。
「ほら見なさい」
「……ごめんなさい」
覚り妖怪には、隠し事など通用しないのだ。
居住まいを正し、お空の正面にちょこんと正座でさとりは座り込んだ。
この愛鳥に教えてやらねばなるまい。私とあなたの何たるかを。
さとりは至近でお空に語りかける。お空はひるんだ。
「時には知らずに人を傷つけることもあります。この前の異変憶えてる…? あれだけ色んな人に迷惑をかけて、怒られた。忘れるわけないですね」
「…はい」
「私を困らせてやろうとしてやったことじゃなかった。だけど私は巫女にひどい目に合わせられました」
口調は強め、身の丈ではかなり上回るお空が、小さなさとりの一言一言に怯えていた。
お説教のときみたいにお空は、緊張で震えながら、真剣に言葉を聞く。
「その前だって、もう二度と私を悲しくしないって大泣きしたのに」
「はい、私がバカだから…」
「そう、あなたが馬鹿だから」
「……」
「お空はいっつも失敗ばかりよ」
「わたっ…わだし…ぃ」
「……でもだからって、私はあなたを捨てましたか?」
馬鹿と言った瞬間、お空の顔がひどく歪んだ。
くちはむずむずと這ったミミズのようで、今にも泣きそう、というより、もうぽたぽた涙が畳に落ちている。
「気遣いも勘違いは多いし、いつだって一生懸命。私のためにだって言って、失敗ばかりよ」
意地悪しようとは思わない。さとりの言葉でお空が一層悲しむと、内心では結構焦っている自分を感じる。
さとりは泣きっ面で困惑するお空の頭にそっと手を近づける。
しかしはたかれるのものと思い、お空は、堅く目を閉じてしまう。
「たとえちょっと嫌いになったり、怒っちゃうときだって、お空は家から本気で出ていきたいって思ったことある?」
その涙を、指先で優しくぬぐい、さとりはお空の頭をなでてやった。
やわらかな感触に目を開ける。言葉の意味を少しずつ理解すると、お空はゆっくり首を横に振った。
「結局ずっと一緒にいたいって思ってるのは同じよ。ね、そうよね」
「……んっ」
さとりは調子をやわらげて、続けた。
「頭が悪いとか、そうじゃないとか、どうだっていいのよ。私だって、すっごい捻くれ者だったんだから。たくさん失敗して、意識せずに私を傷つけて、もっとひどく、間違った生き方をしてしまう時だって誰でもある。でも大事なものが変わらないなら、全部全部、なんでもないのよ」
お空は鼻をすする。
「あなたがどんなに頭が弱いって馬鹿にされたって、あなたが私のこと大好きなら、私があなたのこと好きに決まってるでしょう」
「……うぇ…っ」
「これだけ大事なあなたを、家族から見捨ててたまるものですか」
もっと崩れた表情のお空の、その頭をまた数回、優しくさとりはなでてあげる。
「あなたはあなたのままでいいのよ」
お空の頬を落ちる雫は同じはずだが、涙の熱さはまったく違った。悲しみの縁から、一気に引き上げられ、見る間にお空の表情が変わっていく。
変わる前も変わったあとも、泣き顔ではあったのだが。
今度こそお空は感情を抑えきれず、声をあげながらさとりに突進した。思い切りさとりに抱きついて大泣きを始める。
衝撃に揺さぶられながらも、正直くさすぎることを言ったかもしれないと、さとりは少し気恥ずかしくなった。
「うわぁぁあ…ん!さとりさまぁー!」
「はいはい…泣かないの、泣かないの…いい子だからね」
「さとりさ…ひっぐ……。う…ぐ…うぁぁああー!」
体の大きさから、母と子のようにはならない。さとりは押し倒された。
「みんなに馬鹿って言われたのね。大変だったわね」
「うっ…ぐっ、うぇぇ…ん。さどりさまぁー! だってとり頭って……わたし!」
「そんなことないからね。お空はとっても性根の優しい子だって、私は分かってますからね」
「そえに…バカだから…さとりさま…に、嫌われちゃうよって…み、みんなが…!」
うつむけになりながらも、さとりは愛しい鳥を胸に抱きとめて、背中をさすってやる。
こんなに素直に自分を愛してくれる子をどうして嫌いになれるだろうか。そもそも家族の心を読まなくなったのも、この子があんまりにも口に出すことと、心で思うことが同じで、自分一人で神経をすり減らし続けるのが馬鹿らしくなったからだ。
「…うぇぇ……大好きですー!」
「えぇ、私もよ。お空」
こんなときは、お空があの幼い日に戻ったようで、さとりは少女のままの彼女をただ泣き止むまで慰めてあげなければならない。
面倒だと思ってたこの時間、気がつけば減ってしまったこの時間を、さとりはとても愛していた。
おなかがすいたと、泣き叫ぶ昔の姿が去来する。
またペットの内の誰かにからかわれたのだろう。
理由を聞いて、その子にも問い詰める必要がある。
だがそれまでは、必死にすがりつくお空を、やさしく抱きしめてあげる。
この愛しい子を包み込む時間に、もうすこしだけ身を浸していたかった。
──
結局、結局だ。
さとりは家族を作り、読むべき心と読まない心を隔てることで自分の安寧の地を手に入れた。多くのペットを拾っては、家族と称して家に迎え入れる。たとえ赤の他人に嫌われ続けられるとしても、自分を受け入れてくれるものは自分で作り出すことにした。他を恐れるささやかな逃避とともに、さとりは幸せを手に入れた。これはきっと間違いではないだろう。
こうして穏やかな生き方を見つけることが、覚妖怪としての成人を迎えることなのではないだろうか。
さとりは時々そう思う。
世に覚妖怪がどれくらいいるのかは分からないが、あるいは妹のように心を閉ざしたり、未だ他人を拒否し続ける者も多くいるかもしれない。私よりも強い心で、近しい人の心読むことに耐えるも、また心を凍らせて、永久に一人でさまよい続けるも。
その内どれほどが生き残り、どれくらいの同族が死に絶えたか。願わくば、たとえ自分とは違った道を選んだ彼ら彼女らにも幸いがあれば良い。
さとりは覚妖怪だ。心を読めるくせに、誰より人のことを信じてしまう、恥ずかしげのない、しょうもないヤツだ。その上、嫌われたらどうしようとか、年甲斐もなく悩み、自分の能力を封じてみたりとか、的外れなことも沢山やってしまう。変わりもの以外の何者でもない。こんな俗っぽい妖怪があるか。
そして、その家族もやはり似たり寄ったりだった。
それが確認できた。今日のそのことをさとりはずっと忘れず、これからも地霊殿で日常を過ごしていくだろう。
「あ…そうだっ。忘れてました、さとりさま」
「あら、ほんとうですね」
お空が声をかける。
ポケットから再び白い欠片が取り出される。
元来の用件はこれであった。お空が来てからなんだかんだで数時間。すっかり失念していた。
さとりはそれを受け取ると、額の前までもってきて、じっと集中した。
すると即座に様々な情景が全身を駆け抜けた。
「うー……ん。これじゃないみたいですね。はずれ」
「うゅ…まただ」
何も覚が心を読むのは、生き物だけからではない。
無機物にだって蓄積された記憶はあるのだ。大雑把になら、この卵の殻からだって記憶は読める。
たとえばそれがお空が生まれた殻ならば、私には分かる。
二人して、いつの頃からか、冗談みたいに始めたことだ。彼女の両親を私たちは探していた。
お空がめぼしい地獄鴉の殻を拾って、それを私が見る。もう百何十年も前のものを何十年と探し続ける。この広い旧地獄で、だ。雲を掴むような話だ。
地獄鴉の卵は灼熱地獄で温められる故に、ときに滅し難い強度をもつという。発見は不可能とも言い切れない。しかし確率としては絶望的。
それにもし万が一見つかったからとて、会いに行くわけでもない。その人にもその人の生活があるだろうし、お空も今更顔合わせたとて、どうなるわけでもなし。すでにこの世にいないかもしれない。ただもし健在で、それでいつか巣から落ちた子供が元気にそだって、それで嬉しいと思うような妖怪たちなら、教えてみるのも面白い。
なんとなくやっている、二人の間の、秘密の暇つぶしみたいなものだ。
「もういいですよ。わたしのお母さんは、さとりさまですし」
何気ない言葉に、さとりは胸があたたかくなった。
さとりはお空を流し見る。
「でもお空のご両親て気になるわね。どんな人たちなんでしょう…」
下世話だろうか。ただ定期的に卵の殻を拾ってくるあたり、やはりお空も気になるところがあるらしいし、なによりこの暇つぶしを楽しんでいるようだった。
妖怪の、長く生きるものの遊びだ。
「さて、そろそろ居間に行きましょうか。もうすっかり日も暮れたわ」
熱弁が閉まる時刻となって、西の空から明かりが消えていく。地底の溶鉱炉は明日までしばし姿を隠す。
これからは温度が下がり、朝まで多くの妖怪が眠りにつくだろう。長雨はすっかりやんで、明日の朝は久しく出かけに良い天気になるはずだ。
捻くれ者たちの棲家だから、逆に起きるものも多いかもしれない。
まあ、天の神様ではなく、お空頼みの天候といったところだ。
「さあお夕飯ですよ。遅れるとみんなに怒られちゃいます」
「わっ…大変です!」
さとりは立ち上がって、んーっと大きく伸びをした。
隣で床にお尻を乗せたお空に手を貸す。すっと引いて、手をつないだまま廊下へ歩き出す。
「お空。今日はとくにお腹がすいたでしょう。食後に甘味が用意してありますからね」
「おなかすっごい減ってます!わぁ…お菓子だ…。やったぁ。さすがさとりさま、わたしが食べたいの、分かってたんだ」
地霊殿の食卓は広い。そしてさとりが来なければ、始まらないのだ。
さて今日の晩御飯は、どのペットの担当だったか。
二人の足取りはちょっと早歩き。どかどか廊下を駆けていく。
お行儀悪い。なんて今は気ならない。なぜだか気分がすごく良い。あと角を二つで食卓のある部屋。
いい匂いが漂ってくる。段々誰かの気配がする。お皿を出すのを手伝わなきゃ。
地霊殿はこんなに狭かっただろうか。
隣を小走りのお空に、さとりはにっこり笑いかける。
「なんと、川で冷やしてきた夏みかんと桃です。それに宇治金時もっ」
「すっごい!おいしそう!食べたいです!さとりさま、すっごいです!なんでそんなに…分かるんですか?」
手をつないだまま走り続け、さとりは言った。
「当然よ。なんていったって私は、さとり妖怪なんですからね」
今日の暮れていくこの頃において、様々な妖怪がそれぞれの日を生きていく。
古明地さとりは、願わくば今しばらく、この幸せな日々が続けばいいと思う。
少しのもの悲しさとそれ以上の安らぎのようなものを感じました。