「ちょっと痩せたんじゃない」
帰り際、七色の人形遣いはそんなことを言った。そろそろ帰るわと逐一挨拶に来るこの律儀さはアリスらしいが、彼女にこんなことを言われたのは初めてだったので、咲夜は思わずプラムの皮を剥く手を止めてそちらを振り返る。
厨房に立つ咲夜から三、四歩下がった位置で、アリスはいつものような色素の薄い瞳をこちらへと向けていた。
「そう頻繁に会ってるわけじゃないのによく気付いたわね」
「だからこそよ。時々顔を合わせるからこそ気付ける事柄もあるし、毎日会ってる相手じゃないと分からないこともあるわ」
「実にその通りね。体重が落ちたのは本当だけれど、今の所それを指摘したのは貴女一人だけよ」
咲夜の返答に、アリスはいつものようにうっすらとした微笑みをその整った顔に浮かべる。彼女がこの館を訪れる用件はほぼ大図書館を訪れるためだけだが、その度にきちんと茶と茶菓子を提供する咲夜とはある程度面識があった。互いに菓子作りや手芸が趣味であるという共通点もあるので、たまにレシピを交換し合ったりもする仲でもある。
「この季節ちゃんと食べてなさそうね、咲夜は」
「貴女にそのことは言われたくないけれど」
「私は種族的に言えば食べなくても問題ないもの。食事はただの趣味よ、趣味」
食事と言ってもこの人形遣いはほぼ紅茶にパンと野菜、それから自作の菓子しか口にしないということは知っていたが、そのことを指摘することは止めにした。アリスの言う通り彼女はろくに食事をしなくても何ら問題はないが、人間である咲夜は違う。少しばかりの野菜のサラダではろくに身体がうごいてくれないということを、ここ数日で改めて思い知らされた気分だ。こんな時、人外である者達のことが羨ましくなる。人間として生まれたことに不満も異存もないけれど、人間と妖怪との間にあるこの圧倒的な体力の差はいったいどこから来るものなのだろうか。もっとも、目の前の人形遣いは妖怪としては数少ない例外の一人のようだが。
いつものように傍らに人形を浮遊させて、じゃあねと彼女は言う。普段通り携えているものは小脇に抱えているグリモワールと傍らの二体の人形だけだが、それらをなによりもいっとう大切にしていることを彼女と面識のある者なら誰でも知っていた。
速すぎず遅くもない足取りで、人形遣いは去って行く。その背中をしばしの間見送ってから、咲夜は剥きかけのプラムと包丁をまな板の上に置いた。溜め息とも取れないくらいに小さく息を吐き出した音は、厨房に漂う静寂の中に溶けてゆく。屋外に蔓延している夏特有の色彩に溢れた空気も、窓のないこの空間までは届かない。ただ館全体にじんわりと染み入るような蒸し暑さと湿気だけが、紛れもなく今日が夏日だということを証明していた。外へと足を踏み出せばそれはそれは眩いばかりの陽光とうだるような暑さが迎え入れてくれることだろう。
正直な話、あの人形遣いもあまり熱気を好みそうには見えないのだが、日傘も無しに外を歩いて大丈夫なのだろうか。それとも彼女にとって暑さなど取るに足らない事柄でしかないのか。人間である咲夜には分からない。
(……)
少しばかりの間考え込んだ後に、咲夜は再び包丁とプラムを手に取った。ぬめりとした果汁が生乾きの指に纏わりつく。
今日は久方ぶりにちゃんとした食事を摂ろう、とよく研いである刃を真っ赤な皮の下に滑り込ませながら自分に言い聞かせた。
▽
肩に微かな重さを感じて目を開く。
黴と古い紙と埃の匂い、それから数えきれないほど量の蔵書が醸し出している重々しい知識の香りを漂わせた独特の空気がふっと鼻を突いた。
咲夜が振り返ると、そこには赤い髪をした図書館の司書がこちらを覗き込んでいた。髪の色を見ただけならどこぞの門番と思ったかもしれないが、彼女とは違いくりんとした少女らしい深紅の瞳と、人間ならば耳があるであろう位置から突き出ている漆黒の羽を見て間違えるはずもない。
「小悪魔……」
彼女の真名を咲夜は知らない。それを知っているのは彼女の契約の主であるパチュリー・ノーレッジだけであり、そしてパチュリーは彼女の真名を決して呼ぶことがないからだ。小悪魔は一瞬しまった、という表情をしたが、すぐにいつものどこか悪戯めいた顔に戻った。
「あー、メイド長起きちゃいましたか。すみません」
「……いいのよ、むしろ起こしてくれて助かったわ。ありがとう」
自分の肩に掛けられている薄いカーディガンに視線を遣りながら咲夜は礼を言う。この真夏に着る機会などほとんど訪れることはないこの上着も、よく冷えているこの図書館では随分とありがたい物に感じられる。そう長い時間寝入っていたわけではないのだろうが、半袖から伸びる腕にそっと指を這わせてみるとそこそこに冷たくなっていた。首の辺りもうすら涼しい。そうは言ってもそんなのはこの図書館にいる間だけで、一歩外へと出ればまたあの暑さにうんざりさせられることになるのだろうが。
「……寝ちゃってたみたいね……」突っ伏し気味だった顔を上げて、咲夜は溜め息を吐きながらそう呟いた。読んでいた途中だった本は、ページが開かれたままに机の上に大人しく居座っている。いつの間に寝入ってしまっていたのだろう。我ながら己の迂闊さを呪いたい。
咲夜はポケットから取り出した懐中時計をこっそりと机の下で確認する。九時二十分。この図書館に入ったのが丁度九時頃だったから、眠っていた時間は十数分程度のはずだ。本格的に眠り込む前に起こしてもらえて良かった。この図書館の持ち主の魔女や、涼しさを目当てでたまにここを訪れる己の主に見付かっていたら持って回ったからかいの言葉のひとつやふたつ、聞かせられていたことになる。
「メイド長顔色あんまり良くないですねー。寝てないんですか?」
「寝てはいるけど、あんまり食べてないからだと思う。今日はお昼もろくに摂らなかったから」
「ああ、そりゃ駄目ですよお。人間は身体が資本ですから」
ひゅん、と尻尾で空を切りながら小悪魔はそう言った。そう言えば小悪魔が何かを口にしている場面を見たことがないのだが、彼女はものを食べることはあるのだろうか。仮にも悪魔なのだし、別に食べなくても大丈夫なようにも見えるが、そうなら若干羨ましい。
咲夜は再び読み途中だった本に手を伸ばしたが、ページに綴られた文字にどうにも入り込めないような気がして諦めて本を閉じた。どうにも集中出来ない。今日は朝からあまり調子が良くなかったのだが、風邪を患っていたりだとか、そういったことが原因ではないということは自分でもよく分かっている。
これが夏負けというやつか、と頬杖をつきながら内心で呟いた。夏場だろうが何だろうが仕事の量が減るわけではないのだから、普段と同じように食事を摂らなければ体力が持たないことなんて分かりきってはいるのだが、いざ食事を前にするとどうにも匂いに負けてしまって口に運ぶ気力が失せてしまうのだ。元々夏には弱い体質ではあったけれど、ここまで酷い年はいままでにそう無かったはずだ。
「紅茶お出ししましょうか」
「いえ、ありがたいけど大丈夫よ。そのうち部屋に戻るから」
本を読むという目的を取りやめにした以上、これ以上ここに留まることはないだろう。自室に引きこもるよりもこの図書館に居座っていた方がずっと涼しいし快適なのだが、どうせ外へ出れば暑いことには変わりないのだから、いつ出て行っても同じだ。
今日の仕事はもう一通り終えてしまったから、温めのシャワーを浴びて少し早いがさっさと寝てしまおうか。今日も礼に漏れずにまともに夕飯を口にしていないのだが、今から厨房へ行って何かを食べる気には到底なれそうにない。
ちゃんとした食事を摂る気にはなれずとも、昼頃コンポートにしたプラムをつまむくらいなら出来そうだから、それを少しばかり口にしてからベッドに潜っても良いかもしれない。今日は早く寝て、明日はまだ早朝の涼しい時間帯のうちにちゃんと朝食を食べて、それから仕事をすることにしよう。いつまでもこんな生活を続けているのはいいかげんに悪循環だ。
そんなふうに頭の中で予定を組み立てていると、少し離れた所にある入り口の扉の方から、がらんがらんという低めの鈴の音が聞こえてきた。咲夜の記憶に間違いがなければ、これはこの図書館の扉に備え付けられている呼び鈴だ。もっとも、なにせ魔力で拡張されているこの図書館の広さにに比べ、呼び鈴の方は少し大きいだけのただのベルでしかないために、そう遠くまでこの音が聞こえてくるわけではない。要は入り口付近に誰かしらいなければ役割を果たせないという不便な呼び鈴だ。魔法でなんとかすれば良いのにと咲夜はいつも思っているのだが、パチュリーにしてみれば客人がここを訪れたところで自ら迎え入れるなんてことをする気は毛頭ないので、特にこの現状をなんとかしようとは考えていないらしい。
はいはいーと威勢の良い返事を返して、小悪魔は床すれすれのところをすいと滑るようにして飛んで行く。小悪魔が扉の前に立つのとほぼ同時くらいに、年季の入った軋みと共にゆっくりと扉が開いた。ルーンやら何やらの文字や暗号、それから様々な装飾が施されているそれなりに重い扉を苦もなく片手で押し開いて、背の高い人影が図書館に足を踏み入れてくる。
遠目から顔を見て、咲夜は「……あ」と思わず声を上げた。相手の視線も同じく咲夜を捕らえ、驚いたように瞳を丸くする。
「……あれ。咲夜さん?」
「こんばんは、美鈴さん。珍しいですねー」
「ん、この前借りた本返しにきたの。パチュリー様、何か言ってなかった?」
「あ、はい。えっと……Cの135ですね。園芸の本ですか」
「うん。おかげさまで助かりました、ありがとうございますってパチュリー様に伝えてもらえると助かるわ」
「分かりました。確かに」
美鈴が差し出した分厚い本を小悪魔は笑顔で受け取った。ありがとう、と小悪魔に礼を言うと、美鈴は改めてこちらを見る。いつものゆっくりとした足取りで咲夜の方に近付いてきて、「こんばんは咲夜さん」と笑った。
「図書館で咲夜さんに会うのって初めてですねぇ」
「そうね。私はたまにここに来てるけど、貴女の姿をここで見たのって初めて」
「あんまりここに来ないですからね、私。今日は本を返却しに来たんですけど、咲夜さんは読書中ですか?」
咲夜の目の前にある本に視線を遣って美鈴はそう訊ねる。咲夜は苦笑して、首を横に振った。
「そのつもりだったけど、止めにしたわ。なんだか集中出来なくてね」
「咲夜さんにしては珍しいですね」
「メイド長、あんまし体調良くないみたいですよー」
後ろから小悪魔が暢気な声を飛ばしてきた。咲夜は少し咎めるような視線を小悪魔に送ってみたが、当の本人はどこか楽しそうな顔をしてそっぽを向いてしまう。くるんくるんと跳ねる尻尾の動きから彼女が内心で面白がっていることが知れて、咲夜は気付かれないようにこっそりと息を吐いた。案の定、美鈴は心配そうな表情で咲夜の顔を覗き込む。
「咲夜さん、最近顔色良くないですしね……。大丈夫ですか?」
「どうして二人して同じこと言うのよ。平気よ、暑さでちょっとだるいだけ」
「メイド長はちゃんとご飯食べないからよけいに酷くなってるんだと思いますよー」
「あのね、小悪魔」
「んん……それはあんまり良くないと思いますよ、咲夜さん。軽いものでもいいから食べておかないと」
こんなふうにやたらと心配ばかりするから美鈴には知られたくなかったのに。
内心の呟きを込めて恨みがましい目で小悪魔を横目で睨んだが、彼女がそんな視線に臆するわけもない。昔からこの図書館に咲夜はよく足を運んでいたから、この司書のこともそれなりによく知ってはいるつもりだが、彼女のこんな性格は年月が経っても変わる気配が全くなかった。そうは言っても、咲夜にとっての数年間などは彼女にしてみれば本当に僅かな時間でしかないのだろうから、変わらないのが自然なのかもしれないが。そもそも何十年何百年過ぎようと小悪魔の戯れ好きな性格が直ることはないだろう。
美鈴は少しの間眉を寄せて難しい表情をしていたが、ふと思い出したようにぱっと表情を明るくした。
「そう言えば、私夕食今からなんですけど。咲夜さん、その様子じゃ夕飯もまだ食べてませんよね。良ければ一緒にどうですか?」
「……ん。ありがたいけれど、多分、残しちゃいそうな気がするし。作ってくれた子にも申し訳ないから遠慮しておくわ」
「大丈夫ですよ、その分私が多く食べれば良いんですから。一人だとちょっと多めの量作っちゃったんで、付き合って頂けると助かるんですが」
発言に引っかかりを覚えて、咲夜は顔を上げた。美鈴は相変わらずにこにこと緊張感の無い笑顔を浮かべている。
「作っちゃったって、美鈴が作ったの?今日の夕飯」
「久しぶりに何か作りたくなって、で、今日はたまたまシフトが変わって仕事が終わるのが早かったので。食堂じゃなくて部屋で食べるつもりだったんですけど、一人で食べるよりも二人の方が良いかなって。そう味が良いわけでもないですけど、ご迷惑じゃなかったら」
「……そう」
咲夜は頷くと少しばかり考え込む。思えば時々咲夜が美鈴の分の昼食や夕飯を作ることはあっても、その逆はここ数年ではほとんどない。別に美鈴が料理が苦手とかそういった理由ではないのだが、なんとなく、紅茶を淹れるのと同じで何かと咲夜が自ら動くことの方が習慣になっていたのだ。
「……分かったわ。私で良ければ付き合わせてもらえる?」
「はい、喜んで。なんだか久しぶりですね、こういうの」
咲夜の返答を聞いた美鈴は嬉しそうに笑った。そうね、と短く返事をして、咲夜はちらりと小悪魔に視線を走らせた。小悪魔は先程美鈴に手渡された本を少し離れたところにある書架に戻している途中だったが、楽しそうに口角を緩めた表情をしていることを咲夜が見のがすはずもない。
あの小悪魔、と心の中で呟いてから、咲夜は再び美鈴に視線を戻す。勿論美鈴が小悪魔の様子に気付いているはずもなく、いつもと同じ邪気のない表情で咲夜に話し掛けた。
「私、先に部屋に戻って準備してますねー。後で私の部屋に来てくれると助かります」
「ん。分かった、すぐに行くから」
咲夜の返事に頷いてから、「こあちゃん、ありがとう。じゃあね」と小悪魔にも手を振って、美鈴は来たときと同じように扉を片手で押し開けて図書館を出て行った。
ぎいぃ、と重々しい音を立てて扉が閉まった後、咲夜ははあっと大きく息を吐き出してから立ち上がる。本を戻し終わった小悪魔がこちらに向かってふらふらと飛んで来るのが見えた。それを半眼で眺めながら、これくらいの距離なら普通に歩けば良いのにと咲夜は考える。
咲夜の傍らにすたりと着地して、小悪魔は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「良かったじゃないですか、ちゃんとした夕飯食べる機会が出来て、しかも美鈴さんと一緒に」
「相変わらずのお節介ね、まったく」
「それは私のことですか?それとも美鈴さん?」
「どっちも、よ」
咲夜は肩に羽織っていたカーディガンを脱ぐと、慣れた手付きでそれを畳んだ。小さく四角にまとまったカーディガンを小悪魔に差し出して、「小悪魔」と彼女を呼ぶ。咲夜よりも背が低い小悪魔は、大きな赤い瞳で見上げるようにして咲夜を見た。
咲夜はほんの少しだけ、柔和な笑みをその顔に浮かべた。
「……ありがとう。一応感謝しておくわ、色々と」
「いえいえ。ほらぁ、私ってキューピットみたいなものじゃないですか。恋を運ぶ」
「実際は小悪魔だけどね」
咲夜の言葉に小悪魔は実に悪魔らしいにぃっとした笑顔になって、ぱたぱたと尻尾を上下させた。
▽
レミリアやフランドールの食事を作るのはメイド長である咲夜の役目だが、紅魔館で働く使用人の分の食事を作るのは厨房に割り振られたメイド達の仕事となっていた。しかし名目上そうなっているというだけであって、勝手に厨房を使用して自分で食事を作ることも禁止はされていない。妖精メイド達はあまり料理が得意ではないために、自ら率先して厨房に立とうとする者はほとんどないが、咲夜はたまに時間が空いたり気が向いたりした時に自分の分の食事を作ることはある。
美鈴が厨房に立つ姿はここ数年の間見たことがないが、まだ自分が随分と幼かった頃、美鈴は咲夜の分まで朝食を作ってくれたことが何度かあった。まだ早朝に起きる生活に慣れてなかった頃、朝食の良い匂いで目覚めていたあの感覚はまだしっかりと覚えている。今ではそんなことはなくなってしまったけれど、偶然にもまたこうして彼女の料理を口にする機会がやって来たわけだ。
美鈴の部屋のソファーに向かい合って座って、テーブルの上の食卓を囲んで。
随分と懐かしい光景だ、と咲夜は少し笑った。
「ちょっと食欲湧いてきたかも」
「なら良かった。でも量、少なめで良かったですよね?」
「ええ。これで充分」
自分の皿の料理を眺めながら返事をする。正直なところ、今の咲夜にはまだ少し多いような気もしたが、美鈴にわざわざそんなことを言うのは気が引ける。美鈴の方の皿に目を遣れば、咲夜の三倍近くもの量だった。相変わらずよく食べるものだと呆れ半分に咲夜が笑うと、その微笑みをどう受け取ったのかは分からないが美鈴もふにゃっと笑って「いただきます」と手を合わせた。
「いただきます」
咲夜もそれに倣う。そう言えば、この習慣を教えてくれたのも美鈴だった気がする。朝起きたときの挨拶と食事の前後の挨拶は欠かさないこと。それが紅魔館で暮らす上での唯一のルールだと、そう言われた。今考えてみれば随分と適当なことを言われていたものだが。
そんなことを考えながら箸を手に取った。
美鈴の料理は美味しかった。
蒸した鶏肉の薄切りに刻んだ野菜のソースをかけて、輪切りにした赤唐辛子をまぶしたもの。カブとトマトをドレッシングで和えたサラダに、小さめの小龍包がいくつか。食欲がないとは言え空腹感は覚えていたのだし、久方ぶりに食べるまともな食事だということもあったけれど、驚くほどすんなりと食事は喉を通っていく。いつものように匂いで手を止めてしまうということもない。
少しずつ、噛み締めるようにゆっくりと咀嚼する。鶏肉を口に運んでみると調理方法が良かったのか元々の食材が良かったのか、柔らかくて美味しい。香り付けに使われているのか、癖のない香草の香りがすっと鼻を通り抜けていった。
「……美味しい」
素直に感想を述べると、ろくに箸を付けないままに何度かそわそわと咲夜を上目で見遣っていた美鈴はほっとしたように表情を崩した。
どうやら反応が気になっていたらしい。
「良かったぁ。駄目出しされたらどうしようかと思ってました」
「何それ。しないわよ、そんなこと」
「だって咲夜さん、料理の味には厳しいじゃないですか」
「自分で作る分にはね」
他人が作ってくれたものにあれこれ口を出す気など毛頭無いし、何より美鈴の料理の味は特に不満も文句も浮かんでこない。普段食事を作ってくれる妖精メイド達の料理が美味くないわけでは決してないけれど、美鈴の作ってくれた食事はいつも食しているものよりもずっと美味しく感じられた。多分それは単純な味の問題ではなくて、彼女と二人で向かい合って食事をすることの懐かしさだとか、そんな精神的なものも関係しているように思う。
食事をする時には得てして会話の量が減るものだが、それでも時折会話を挟みながら二人ですいすいと箸を運ぶ。
「咲夜さんはこの後どうするんですか?」
「そうねえ、まだお風呂入ってないからシャワー浴びて……あ、新しくお酒作ったんだけど飲む?この前たくさん頂いたプラムのやつ」
「あ、頂きます。咲夜さんの作ってくれるお酒美味しいんですよねー」
もくもく口を動かしながらちらりと美鈴を見ると、もうすっかり安心したような顔付きで食事を再開していた。美鈴はいつも、何かを食べる時には実に美味しそうな顔をするが、誰が作った食事だろうがそれは変わらないらしい。
単純に食べるという行為が好きなんだろうなと考えていると、ふと美鈴が視線を上げてこちらを見た。温く浅い水面のような色の瞳と目が合う。咲夜がじっと見上げてきていることを怪訝に思ったのかは分からないが、どこか不安そうな顔付きになった。
「口に合いませんでした?」
ああそういうことか、と納得しながら首を横に振る。
「ううん、そうじゃなくて。……何だか懐かしいじゃない、こういうの」
「え?」
「昔はよく朝ご飯作ってくれたじゃない」
咲夜の言葉に美鈴は一瞬考え込んで、それからやっと思い出したように笑った。
「ああ、そう言えば」
「今更言うのも何だけど、すごく美味しかったわよ、いつも。大人になればこんなふうに美味しいものが作れるようになるんだって、子供心に感心してた」
「大人になった今じゃすっかり咲夜さんの方が上手になっちゃいましたけどね。料理でも何でも」
そうでもないわよとその言葉を否定しようかとも思ったけれど、考え直してやめた。昔から咲夜が何かひとつのことが出来るようになる度に、美鈴はまるで自分のことのように喜んでくれた。紅茶を淹れることであったり、一人で洗濯をすることであったり、スペルカードを使えるようになった時であったり。初めて料理を作って食べて貰った時だって、大袈裟なくらいに喜んで残さずに食してくれたものだ。今考えれば、あの時の料理は間違っても美味しいとは言えない代物だったはずなのだけれど。
色々なことに頭を巡らせながら、それでも淀みなく箸を動かす。あまりにぱくぱくと食べられるせいでここのところの食欲不振を疑ってしまいたくなるほどだ。
開けっ放しの部屋の窓から温めの空気が入り込んでくる。美鈴の部屋は咲夜の部屋と比べると何故だかやたら風通しが良くて涼しいので、それが羨ましくて仕方がない。この部屋に来る度にあまりの居心地の良さにこのまま自分が入り浸りになってしまいそうで少し怖い。もう充分入り浸っている域に入っているのかもしれないが。
そんなふうに思考しつつ会話を交わしていると、皿の上の料理はいつの間にかほとんど胃袋の中に収まってしまっていた。食べきれるかどうか最初は不安だったくらいなのに、と自分でも少し驚いてしまう。しかし何より驚くべきことはもう美鈴の方もすっかり食べ終わりそうだということだと、視線をそちらに向けながら咲夜は呆れた。別段咀嚼するスピードが早いわけでもないというのに、あの山盛りの料理はどこへ行ってしまったのやら。
最終的に、食べ終えたのは二人ともほぼ同時だった。最後の一口のトマトをを今まで以上にじっくりと噛み締めてから飲み込むと、咲夜は箸を置き、最初と同じように手を合わせる。少し遅れて、美鈴も同じように手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
「……ごちそうさまでした」
はー、と大きく息を吐く。
ここのところ随分と満腹感というものを味わっていなかったから、久方ぶりのその感覚にどこかほっとしていた。さほど眠くはないけれど頭がややぼうっとして、無性に身体を横たえたくなる。これが幸福感ってやつなのかな、とぼんやりと考えながら、咲夜はソファにぱたんと倒れるようにして横になった。
「咲夜さん、お行儀悪い」
美鈴が咎めたが所詮口調が子供を叱る時のような、宥めすかすような言い方だ。「良いじゃない」と笑って咲夜はそのままの格好で美鈴を見上げる。
「ありがと。すごく美味しかった」
「咲夜さんにそう言われると照れますよ」
「うん。あー、これから三食美鈴が作ってくれたらいいのに。ねぇ、この際転職してメイドになってよ、私専属の」
「ヤですよ、今の職が気に入ってるんですから。……でも明日からもちゃんと食べて下さいよ。咲夜さん最近また痩せたでしょ」
美鈴の言葉に、咲夜はぱちくりと瞬きをした。昼間に、アリスに言われた言葉をここでまた聞くことになるなんて予想していなかったから、思わず素っ頓狂な調子で聞き返してしまう。
「あれ、気付いてたの?」
「毎日会ってればそりゃあ分かりますよ。マッサージの時だって身体触るわけですから……。腰骨とかもうくっきりじゃないですか」
「うわ、いやらしい」
「あのですね」
美鈴が目を細めて睨んでくるが、やや顔が赤くなっているせいであまり迫力がない。怒っているというよりも恥ずかしがっている時の表情だ。どうにもいけないな、と咲夜は少しだけ反省して顔を上げた。毎回毎回、一々生真面目に心配してくるせいでついからかってはぐらかしたくなってしまう。ずっと昔からそうであるはずなのに、未だに彼女の優しいところに慣れていないふしがあってこっちが照れそうになってしまうのだ。
「……分かったわよ。ちゃんと食べるようにする」と呟くように言うと、美鈴は途端ににこりと笑って「はい」と返事をした。美鈴は先程、咲夜は大人になったと言っていたけれども咲夜としてはあまりそういう気がしていないのは、こんなふうに自分達の間に流れる空気が根本的には昔と変わっていないからだろう。そのことを素直に受け入れられるようになった程度には、成長したつもりだけれど。
美鈴は食べ終わった食器をまとめて重ねてしまうことにしたようだ。かちゃかちゃという陶磁器がぶつかる音を聞きながら、咲夜は目を閉じて瞼の裏辺りに微かにゆたっている痺れのような眠気に浸る。このまま眠り込めたら最高なのだが、生憎とまだシャワーを浴びていない。本格的に眠くなる前にこの部屋を出た方が良いのかもしれないと考えていると、ふいに美鈴が口を開いた。
「ねえ、どうして満腹になると幸せになれるんでしょうね」
咲夜は目を開ける。そして美鈴の方に視線を向けると、彼女はひとまとめにした食器を持ってきたトレイの上に載せていた。元々、厨房から借りてきたものだから後で返しに行く必要があるからだ。
なるほど言われた通りに美鈴は実に幸福そうな顔をしていて、ついでにやや眠そうだ。こんなふうに昼時になるとこいつは勤務中に居眠りを始めるんだなとどこか納得しつつ、そうね、と答える。
「まあ、三大欲求の一つだしね。でも、実際には誰もいない部屋で一人でご飯食べたり、美味しくないものお腹いっぱい食べたりしてもそうは幸せだなって感じられないでしょ。食事をすること自体もそうだけど、他人と一緒に美味しいもの食べるからこそ幸せだって感じられるんじゃない?」
「はあ、なるほど。確かに一人で食べるよりも二人の方が美味しく感じられますもんねー」
「だから今貴女は幸せそうな顔してるんじゃない」
「あ、バレてました?」
幸せですよーとお気楽な顔で笑って、美鈴はソファから立ち上がると食器が山盛りのトレイを抱えた。今にも崩れそうなそれを難なく片手で持てる辺り、この妖怪はやたらとバランス感覚が良いことが知れる。
「これ、先に厨房に戻してきちゃいますね」
「手伝う?」
「いえ、大丈夫ですよー。咲夜さんはまだゆっくりしてて下さい」
確かに二人で持って行く程の量でもないので、咲夜は美鈴の言葉に甘えてこのままでいることにした。そこそこに広さのあるソファの上でうーんと大きく伸びをする。ずっと昔から馴染みのあるソファなので、少しごろついているスプリングの感触ですら心地良く思えるという代物だ。美鈴がひたひたと足音を立ててドアに向かうのをなんとなしに眺めながら、ふと、急に言っておきたい言葉を思い付いた。美鈴が帰ってきてからじゃなくて、今じゃないと駄目だとほぼ反射的に脳が告げる。咲夜は弾みを付けて勢い良く上半身を起こす。
めいりん、と呼び掛けると不思議そうな瞳がこちらを見た。振り返った拍子に長い髪がさらりと揺れたことすらいとおしく感じられて、咲夜はそんな自分が可笑しくて笑った。ソファの背もたれに手をかけて、半ば身を乗り出すようにして美鈴に告げる。
「私もね、今幸せよ。それもものすごく」
美鈴の瞳は一瞬驚き、ドアノブに手をかけた状態でしばし立ち止まった。やがて本当に嬉しそうに、いつものふにゃりとした笑いを浮かべて、はい、と返事をする。
ぱたん、とドアが閉まる時の音が、いつもより幾分か優しく聞こえた気がした。
本当は、好きな相手と一緒に食べたからこそこんなにも幸せな気分なのだとそう伝えたかったけれど。さすがに少し恥ずかしかった。
ソファの手摺の部分にことんと頭を乗せながら咲夜はそんなことを考える。
fin.
好きな雰囲気のSSでしたw
…ところで、デザートはあるよね?
小悪魔も実にそれらしい性格でよい。
姐御肌美鈴は良いものだw
雰囲気良くて。極上のめーさくゴチです。
幸せな食事をとりたいものだ
この絆は相当なものだな
柚季氏は責任を取って朝ごはんの話を書くべき
よいめーさくでした
ふにゃりとさせられました
小悪魔がいい仕事してますな
ほんわか
これはいいめーさく
この後、美鈴が厨房から帰ってきたとき、咲夜さんはソファの上で寝ているんですね、わかります。
咲夜さんの寝顔を見てふにゃりと笑う美鈴まで見えました。
お腹すいてきた
二人で一緒にご飯を食べる、それだけの話なのに、咲夜さんの感情のこまやかさとか、美鈴の表情の変化とか、
色々なものが伝わってきてよかったです。
お腹すいたぞぅ。。。
それなのに描写がとても綺麗で心に染み入るようで、
そのおかげで楽しく読む事が出来ました
素敵でした。